肚の中

  [chapter:担任の教師による証言の記録]

  

  終業式が終わったあと、子どもたちが遊びの予定について話し合っていたのを聞きました。

  会話の全てを聞いていたわけではありません。それぞれ夏休みにしてみたいことを募って多数決で決めるというよりも、彼らはかねてから夏休みの間にどこに遊びにいくのかを決めており、その最終調整のための会議をしているようでした。

  彼らはこの夏休みを本当にたのしみにしている様子でした。授業が終わるなりクラス全員でひとつの机に集まったり、図書室で借りてきた様々な本やノートを突き合わせたり、そういったさまを、一学期の終わりが近づくにつれ頻繁に見かけるようになっていきました。みんなしっぽをソワソワと揺らしていましたよ。

  わたしのクラスには転入生がおりまして、彼が来て間もなくのころは、彼自身もクラスメイトもどきまぎした雰囲気でした。彼は発言のために積極的に[[rb:前脚 > て]]を挙げるような子ではなかったし、授業中に大きなあくびをしていたのを注意してもただそっぽを向くだけだったりと、ちょっと反抗的な子でした。さらに、学級の活動に来ない日があったり、クラスの掃除をサボったり、級友の呼びかけを無視したりと、初めはクラスとのいざこざやすれ違いが多かったんです。でも、梅雨が明けるころにはクラスメイトと積極的にコミュニケーションをとるようになっていました。授業態度が悪い割にはきちんとカリキュラムにもついて来ていて、試験のスコアにも目を見張るものがあります。わたしのクラスの子どもたちは優秀な子ばかりですから、賢い彼は徐々に馴染んでいくだろうと特に心配はしていませんでしたが、彼が子どもたちの「夏休み会議」に加わって笑っているのを見て、担任としてホッとしたのを覚えています。

  ちらりと見えた本の表紙や、彼らから聞こえてきたキーワードから推察するに、どうやら彼らはこの街のどこかへ探検に出掛けるようです。最終学年の夏休みですから、彼らにとって、このメンバーで過ごす夏はこれで最後になるでしょう。ケガや熱中症などにはじゅうぶん注意をしながら、さいごの夏の大冒険を思う存分楽しんでほしいですね。あと、探検もいいですが、課題への取り組みについてもその計画性を発揮してもらいたいものです。

  二学期が始まったらまた、この愛すべき教室が、この五人の子どもたちの笑顔で満たされることを楽しみにしています。

  

  

  [chapter:食堂の従業員による証言の記録]

  

  この学校は長いですよ。私も古くから働いていますが、私の両親が生まれるより以前からこの地に建っていたと聞きました。

  歴史だけは立派ですが、生徒の数は年々減り続けています。それも今に始まった話じゃなく、毎年数十人単位で生徒が抜けていったんですよ。

  ただ、実はそんなに暗い話でもなくってですね、私が学生の頃はそんな制度は無かったんですが、どうやら「飛び級」というものが制定されたらしくてですね、最終学年に満たなくても次の学校に進学できるらしいのですよ。うちの学校の生徒はみんな聡明でいい子ばかりなんですけど、なにせ街にひとつの初等学校ですから、賢い子はどんどんとなり町のエリート校に取られていってしまうんですよ。

  うちは寮制なもんだから、朝昼晩と一日三回、生徒たちと話すのが好きだったんだけどね、いまじゃこのだだっ広い食堂も一つのテーブル以外は誰も使っていないね。たまに先生も来てくれるんだけど、それでも二十人掛けは大きすぎる。というか先生はたいてい生徒たちと時間をずらして来るし、先生の数もね、生徒が減るにつれどんどん減っていってしまったんだよ。

  ……あの子たちもじきに卒業してしまうだろうし、寂しくなりますよ。それでも私は、生徒がいる限りは、子どもたちの健康と笑顔のために、ここで美味い飯を作り続けないといけないんですよ。

  

  

  [chapter:行方不明生徒の保護者による証言]

  

  はい。ああ、機関の方ですか。どうされましたか。

  まあ、行方不明になった生徒さんが。ええ。それはお気の毒に……。

  ええ、ええ。うちにはふたりの子どもがおりますが。

  えっと、長男と次男は双子です。はい……そうです。

  子どもたちの兄ですか? いえ、おりません。子どもふたりと、私と、夫の四人で暮らしていますので。

  いいえ。違う名前ですね。……ここらに住んでるお子さんなんですか?

  ……気持ちの悪いことをおっしゃらないで下さい。

  [newpage]

  [chapter:食い意地張った犬、クウの物語]

  まず僕が怪しいと思ったのは、この洞窟の植生だ。

  [[rb:櫛 > くし]]のような葉のシダ植物が妖しげに光るこのほら穴は、異常と言わざるを得ない。

  植物のもつ「葉」とは、本来、陽の光をエネルギーに変換する「光合成」をおこなうために備わっているはずだが、太陽のあたたかさと無縁のこの地において「葉っぱ」は無用の長物と化すことは明らかである。さらに僕の友人の言うところの「ヒカリゴケ」は、みずから光を発することはない。観光地化されたような洞窟に繁茂するコケ類は、観光客の安全のために焚かれた照明なしでは生き[[rb:存 > ながら]]えることができない。レンズ的な特徴をもつ特別な葉が、わずかな光を反射することで、それ自体が発光するように見えているだけに過ぎない。

  僕は湿っぽい地面に一瞥をくれる。さながら自然公園のライトアップのように、ビビッドな桃色や蛍光グリーンに輝くコケをみて、友人たちが「ゲーミングヒカリゴケだ」などとたわごとを弄している。僕ら五人が、小さなランタンひとつでこの洞窟をずんずん進むことができたのは、常識からはずれた「みずから光る謎の植物」たちが、僕らの足もとを照らしていたためである。

  

  ◆

  

  僕は、隣を歩く狐の女の子が開いている「本」を、横目に覗き込んだ。さすがに足元からの光だけでは文字が読みにくいのか、片手で開いた本の上にランタンを掲げている。

  その本は、この洞窟についての情報を網羅すると謳う書籍であり、この洞窟に巣食う植物たちの特徴が、図鑑のように事細かに記されている。この本は、今年の夏にクラスメイトのひとりが校内の図書室から借りてきたものであるが、手記のような体裁で、万年筆を走らせたような独特の文字がびっしりと並んでいる。

  活字が使われていない本は読みにくいものだな、と初めて読んだときに感じたのを覚えている。

  古めかしい見た目の個人手記が学校の図書室に所蔵されている、という事実だけでも、僕らの好奇心のアンテナに強く訴えかけてくるものがあるが、その内容が「自分たちの住んでいる街には未踏の洞窟がある」というものであったので、その不思議図書の存在は、またたく間にクラス中に知れ渡った。いったい誰がこの本を書いたのか、いつごろ書かれた本なのか、著者はこの学校に関係のある人物なのか、この本はもしや郷土資料的価値があるものなのではないか、ひょっとすると骨董商に売りつけたらおとしだま程度の金額になるのではないか、など、この本に関する有意義な考察や[[rb:侃々諤々 > かんかんがくがく]]の議論が交わされたのち、「実際にこの洞窟の中を探検してみよう」という魅力的な提案が、誰からともなく投げかけられた。

  

  わけのわからない書物に書いてある、実在するかもわからない場所に探検に出掛けること、そしてその計画を練ることは、ただの想像力を使った遊びの延長に過ぎなかった。しかし、夏の気配を感じさせる暑い空気を孕んだある夕方、クラスの数人で出かけた探検の下見でもって、その洞窟の存在が確かめられた。

  その下見には僕も参加していた。錆びたフェンスを破って潜り抜けると、大口を開けた化け物のような、巨大な横穴が鎮座していた。入り口から奥へ数メートル、西日の照らすわずかな範囲は、レンガかコンクリートのような何かで整備された跡があり、傍らには、見たことのない記号の道路標識が立っていた。

  その洞窟と対峙したとき、僕は内心こわいと感じていた。おそらくその場に居合わせた友人たちも、大なり小なり、この自然と人工物の入り混じった大きな暗闇に気圧されていたように見えた。誰かがひとりでも、その場で「探検は危ないからやめておこう」と言っていたら、僕もそれに続いていたと思う。しかし、同級生の前でビビりな姿を見せるのは嫌だったのか、誰ひとりとして、計画の中止を進言するものはいなかった。

  

  ◆

  

  友人たちと洞窟の最奥をめざして歩いている最中、僕はふと、このじめじめとした空間に漂う、甘い香りに気が付いた。

  洞窟の壁面を見ると、ツタで覆われた部分があった。もさもさと生い茂る壁面緑化のなかに、街かどに灯るランプのような形の、丸い果実が[[rb:生 > な]]っている。どうやら甘い香りは、この「水色に光る謎の木の実」から漂ってきているらしい。

  僕はこの未知の果実に強い興味を持った。手にとって、感触を確かめてみたい。前を歩く友人たちも、おのおの光る植物を手にもって、右に左に振りかざしてあそんでいる。もしかしたら懐中電灯の代わりになるかもしれないと思い、ツタからひとつ果実をもぎとって、携えることにした。

  収穫してしまったら光は消えてしまうのだろうか、と細い茎を引きちぎりながら考えたが、ツタから完全に切り離したにもかかわらず、その実が放つ水色の光が衰退していく様子はなかった。両の手で包み込もうとすると、覆いきれなかった指の隙間から澄んだ光が漏れだしてくる。内側に多くの水分を湛えているのか、見た目よりもずっしりとした重みがあり、表皮をつつくと、ハリのある感触とともにやわらかく押し返された。

  鼻を近づけて匂いを嗅いでみる。その香りは、アンズのようでもあるし、ブドウのようでもあった。鼻孔にまとわりつくような甘ったるさがあると思ったら、即座にきゅんとするような酸っぱさも感じられ、あとには風が抜けていくようなさわやかさが残った。知っているようで知らない果物の香りがする。

  味のほうはどうだろうか、という言葉が頭に浮かんだところで、僕は思わず足を止める。

  ……僕はいったいなにを考えているんだ? こんなわけの分からない植物の味が気になるなんて。

  

  数年前を思い出す。学校からの帰り道、ひとつ上の学年の生徒たちが、通学路に生えている小さな赤い木の実を、ぷちぷちとちぎっては口に運んでいた。僕は彼らを羨ましく思いつつも、先輩にまじって自分も食べてみようなどという度胸はなく、負け惜しみのように「毒があるかも知れないのに、ばかだなぁ」と、遠巻きに見ていた。幸いなことに体調を崩すような者はおらず、その先輩たちは毎日、下校のついでに、その謎の木の実をおやつ代わりに食べ続けていた。辺りの木の実をすっかり食べつくしてしまった頃、その生垣が植わっている敷地の家主が、学校に怒鳴り込んできた。彼らは教師の面々に囲まれながら、こっぴどく叱られたそうだ。

  あとから調べてぞっとしたのだが、子どもには到底見分けることが困難なほど、例の赤い木の実によく似た、有毒な植物が図鑑に載っていた。

  

  暗がりの中で、手元の青い木の実を見つめる。

  僕は、触れるだけで皮膚がただれてしまうような植物を知っている。体内に取り込めば即座に意識を失ってしまうような毒の名前も知っている。にもかかわらず、その安全性を検討する前に、素手で触れたり、植物の発する物質をじかに吸い込んだりしていた。

  それでも不思議と、嫌悪感やきもちわるさを感じないのはなぜだろうか。

  僕はひとくち、その果実を齧ってみた。

  ぷちっ、と音を立てて皮が裂ける。

  「……おいしい」

  皮の隙間から溢れてきた明るい液体が、僕の口腔をまぶしい甘さで染め上げる。これまでに食べたどんなお菓子よりも強烈な甘さで、その暴力的な糖度によって脳みそをグラグラと揺さぶられるように感じられた。じゃくじゃくと[[rb:咀嚼 > そしゃく]]すると、豊かな香りが鼻へと抜けていく。鼻腔いっぱいに、シアン色の[[rb:蕊 > しべ]]を持った鮮やかな花々が狂い咲くさまを思い浮かべた。こんなに美味な食べ物は、生まれて初めてだ。

  ひとくち目を飲み込むや否や、次の甘さを求めて果実にかぶりつく。口の端から果汁がこぼれて胸元にしたたっていく。果実の中心部分に、種子のように硬い部分があったが、それもお構いなしと言わんばかりに、音高く噛みくだいた。

  気付くと僕は、果実をすっかり食べ終わっていて、淡く光る水色の液体に染められた両の手を見つめていた。

  食べてはいけないものを身体に取り込んでしまった事実を、脳がじわじわと理解していく。そして、危険への認識と甘美な味の記憶が、頭の中でバチバチと音を立ててぶつかり合って、ある種の心地よさへと昇華していく。

  ふと目線を上げると、友人たちとの距離がはなれていた。ひらひらと旗のように振られるシダ植物と、暖かなランタンの光のその奥に、水色の丸い光がいくつも灯っているのが見えた。僕は、友人たちに追いつくというよりも、むしろ甘い果実を求めるように、足を速めた。

  

  ◆

  

  「ねえ、クウ」

  六つ目の果実を食べ終えて、次の獲物を収穫しようと手を伸ばしたところで、狐の女の子の声が聞こえた。彼女の名前はキョウという。

  「なにをしているの」とキョウが息を呑む。「まさか、それ、食べるの」

  パタン、と本が閉じられる。彼女が毛をわずかに逆立てている理由も理解できる。あまりに吃驚しているようすなので、どのように返答したらよいか、言いよどんでしまう。

  煌びやかに汚れている僕のてのひらと、口もとを見たのちに、僕の目を静かに見つめる彼女。

  「大丈夫だよ。その本に書いてあったんだ。この木の実に毒がないということが、説明されているはずだよ」

  ランタンの持ち手を顎にくわえて、本をバラバラと慌ただしくめくる音。あるページに行き当たったところで、右手に明かりを持ち替える。

  夏休み前の探検会議のとき、その本の植物に関するページを一から十まで読んでいたのは、クラスの中で僕だけだ。ほかのみんなはもっぱら、洞窟の地図や、最奥に眠るとされる財宝の在処など、いかにも「探検ごっこ」に没頭できるような項に夢中であった。

  だから、ほんとうは「水色の木の実」に関する記述など一切存在しないという事実には、僕だけしか気づきようがない。

  「たしかに、毒はないみたいだけど……」

  どうやら彼女は、その本に書いてあるはずのない、水色の果実について言及されているページを見つけたらしい。

  そのときはじめて、僕の思い描いていた仮説の正しさを確信した。両手に持った果実の片方にかぶりつきながら、本の情報を前に狼狽する彼女を眺めた。

  「でも、君は食べない方がいいよ」

  「いや……勧められても、わたしは遠慮するけど」

  「そうか。取り分が減らなくてよかった」

  右手の指と肉球を控えめに舐めてから、もうひとつの木の実に犬歯を突き立てる。僕らは行進を再開することにした。

  「ねえ、失礼なことかもしれないけど」

  彼女の声が反響する。ほかの友人たちは、道の先のほうで、小さな光の点になっている。

  「クウ、そんなに太ってたっけ」

  僕の耳が揺れる。たしかに僕はクラスの中ではデブな方だけど、いまさら何を。そう不平を垂れようとして、そこでようやく僕は、自分の身体に纏わりついた違和感を直視することにした。ラージサイズのTシャツの裾から、こんもりと盛り上がったおなかの頂点がはみだしているのが見えた。

  「デブを指摘されたときって、怒ったほうがいいのかな」

  僕らは再び立ち止まる。

  「ごめん、でも、そういうつもりじゃなくて」

  彼女の声はわずかに震えていた。

  確かに、僕がこの果物を咀嚼して、のみこんで、おなかにおさまったとき、口にもともと入っていたものの体積と、嚥下したあとのおなかの膨らみ具合は、明らかに釣り合っていない。

  でも、だからなんだというのだ。こんなに甘くて美味しいのだから、ひと口あたりの熱量も相当高いはずだ。身体に莫大なエネルギーが蓄えられることもあり得るだろう。多少腹が突き出ようと、僕自身が気にしていないのだから、他の誰かに心配される謂れはない。

  「大丈夫だっていったでしょ。ほら、急がなきゃ」

  ぼんっ、ぼんっ、と太い腕でおなかを叩きながら、きわめて優しい声で彼女に語りかけると、ようやく僕のおなかから目を離して、前へと進んでくれた。

  

  ◆

  

  好物を目の前にして、食べたいという気持ちが抑えられないさまを表すのに「よだれを垂らす」という言葉が使われることがあるが、その場所に着いたときの僕の様子は、文字通りのそれであった。

  狭い洞窟の道を歩いていると、僕らは、異様に明るい空間が遠くにあるのを目にとらえた。その明るい一角が近づくにつれ、辺りに充満する甘い香りが強くなっていく。

  「おーい」虎の男の子が手を振っている。「おそいぞ」

  先を行く友人たちは、この明るい空間で、辺りを眺めながら休憩していたらしい。

  「すごい、匂いだ」僕はキツい香水を我慢するように、顔をしかめる。

  「匂い?」彼女はピンとこない様子だ。「何の匂い?」

  そうか。やっぱり、この果実の香りは僕にしか感じることができないのか。いくら僕の嗅覚が友人たちより優れているとはいっても、こんなに強い匂いに気づかないはずがない。友人たちが集まっている空洞部分を見ると、果実がびっしりと壁面を覆いつくして、昼間の明るさに匹敵するほど、あかあかと空間を照らしあげている。あんなに多くの果実に囲まれながら談笑しているのが信じられない。その光が僕の目に突き刺さるたび、その匂いに包み込まれるたび、僕の正常な意識は、ぐわんぐわん、と輪郭を失っていくようであった。

  そして僕はついに、桃源もかくやと思われる、光に包まれた果樹園に辿り着いた。

  

  そこからの記憶は正直曖昧なのだが、その空間に辿り着いてしばらくのうちは、ギリギリ理性を保てていたと思う。なるべく果実が視界に入ってこないように俯きながら、最低限、自分がこの場から動くことができなくなるであろうことを、キョウに伝えたつもりだ。その言葉がどこまで伝わったかは定かではないが、気づくとキョウと僕以外のメンバーは、本とランタンを持って、先に進んだらしかった。

  「きみも、ここから離れるべきだ」食いしばった歯の隙間から、どくどくと涎が溢れてくる。「本がなくても君なら大丈夫だろう」

  「うん」彼女も俯いているらしかった。「地図はぜんぶ覚えたよ」

  キョウは深く息を吸う。

  「だから、一緒に、ここから離れよう。この洞窟の奥へ進むのでも、もと来た道を引き返すのでも、あなたの好きなほうでいい。とにかくここは、クウにとって良くない場所なんでしょう?」

  彼女が僕のためを想ってそのように言ってくれたのは嬉しい。でも、すこしでも身じろぎした途端に、自分の身体の主導権が未知の何かに侵されてしまうことを、僕は分かっていた。そして、その時点で僕はもう、この洞窟から生きて脱出することを諦めてもよい、と思えるほどに、あらゆる意思決定のモチベーションがシアン色に染められてしまっていた。

  この場所がよくないところだなんて、とんでもない。僕はここ以外の場所にはもうどこにも行きたくないんだ。

  「ありがとう、でも」

  きみとはここで、おわかれだ。

  「ごめんね」

  キョウの瞳をまっすぐ見つめてそう言葉を吐いた瞬間、彼女の背後から、僕の眼球にまばゆい光が飛び込んできた。

  そのあと、キョウが何度も僕に向かって叫んでいるように聞こえたが、その内容は覚えていない。

  

  ◆

  

  僕はツタに飛びついて、水色の果実を乱暴にかき集めた。

  果実を口にするたび、全身があたたかなエネルギーで満たされていく。目の前にある果実がすべて、僕に食べられるのを待ってくれているのだと思うと、とても愛おしく感じられた。

  果実を口に突っ込んで、噛み砕いて、飲み込む。胃袋に到達した果汁が即座に吸収されて、僕の身体の一部となる。甘い、甘い、甘い果汁。それが血管にしみわたって、身体じゅうの細胞がはちみつ漬けになる、悦び。

  ありえない速度で、おなかがまん丸に膨れていく。僕の身体は、どんどん重くなる。そのうち咀嚼をするのも面倒になってしまい、鷲掴みにした果実を直接喉の奥まで押し込んで、丸呑みにする。喉元がいびつにふくらんで、脈を打つように食道を掻い潜って、胃袋へと叩き込まれる。

  僕の胃袋が、すべて甘いジュースで満たされているのを感じる。腕を動かすたびに、巨大な水風船と化した僕のおなかが、じゃぶじゃぶ、と大げさな音を立てて揺れた。僕のおなかの中で、ゴロゴロゴロ、と何かが渦巻く。

  「げふっ、ふぅ、げぇええええええええっぷ」

  大きなげっぷに共鳴して、ぶるんぶるん、とおなかが震える感覚に、意識が飛びそうになる。一瞬おなかが軽くなったような心地よさを感じたが、限界などとうに越している胃袋にわずかな余裕が生まれるのも赦すまいと、むしろ手を緩めずに、ぎゅうぎゅうに果実を詰め込んでいく。

  自分の周りの果実を食べつくすと、即座にツタがざわざわ、と動き始めて、僕の口元においしい木の実をあてがってくれる。僕の腕はすでにふかふかの抱き枕のように膨れてしまっていて、いちいち手でちぎって収穫するのも億劫だと感じていたところだったので、ありがたく、目の前にぶら下がったそれに直接かぶりつくことにした。

  ごくん、ごくん、と丸いかたまりを、水のように飲み込んでいく。果実が口に中へと消えたそばから、ツタが的確に動いて、この給餌を永遠に終わらないものにしようとする。疲れた腕を休めるために下におろそうとすると、ぶよん、とやわらかい自分のおなかに受け止められた。もはや、どこからが「おなか」で、どこまでがそうでないのか分からないほどに、僕の身体は、まるく、おおきくなっていた。ぶんぶん、と振られては止まらない僕のしっぽも、どれほど身体の中心から離れているか見当もつかない。きっとおしりもとてつもない大きさになってしまっているのだろう。

  僕の身体がどれほどデカくなったのか確かめようと思っても、食べることに忙しくて、首を回している暇がない。自由になった両手で、[[rb:手遊 > てすさ]]びにおなかを揉んだり撫でたりしてみる。

  おおきなおなかをぎゅっと押してやると、どこまでも深く沈み込んでいく。力を抜いてやると、手にぴったりとついてくるようにして、強く押し戻される。厚い脂肪の層を乱暴に揉んだり[[rb:拉 > しだ]]いたりしていると、身体の中心で、はち切れそうなほどににふくらんだ消化器官が悲鳴を上げる。莫大な圧力で押し広げられた胃袋が、外部からの力学的仕事に耐え切れないというように、おびただしい量のげっぷを出そうと作用する。それさえも、自分の身体がふうせんになってしまった証拠のように思えて、ぶくぶくとふくらむのを感じながら、おなかを激しく愛撫するのを止めることができなかった。

  

  こんなにも満たされた、幸福な時間が永遠に続いたらいいな、と思った。

  食べては膨らんで、膨らんでは肥えて、肥えては自分を愛して、という行為を、僕は気を失うまで、延々と繰り返したのだった。

  [newpage]

  [chapter:自分を過信する狐、キョウの物語]

  

  あの本を馬鹿正直に信じてしまったことが、そもそもの大きな間違いでした。

  クウくんがおかしな行動をとり始めたとき、そして彼が洞窟に生えている怪しい木の実に夢中になっているとき、わたしは本に書いてある情報をもとに、クウくんの行動が、危険には到底及ばないものであると決めつけていました。その安直な判断が、最終的には彼の身をほろぼすことに繋がってしまったと思うと、悲しさと申し訳なさで押しつぶされそうになります。

  ひと口でも食べてしまえば、神経がてきめんに侵されてしまうのでしょう。その木の実を口にした後のクウくんの様子は、明らかに異常でした。ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、千鳥足のような歩き方で壁の方に向かっていき、とても上品とは言えないような食べ方で、その木の実をくちゃくちゃと貪っていました。

  また、その木の実の見た目というのも、とてもおぞましく、お世辞にも食欲を掻き立てられるようなものには見えませんでした。あんなに植物にくわしいクウくんであれば、ひと目見ただけで、毒物であると気づきそうなものなのですが……。

  なによりも、彼自身が「これは食べても大丈夫なものだから」とかたくなに言い張るものですから、わたしも言いくるめられてしまいました。彼と会話している間も、普段教室で話しているときの穏やかな様子と違って、そのときは特に怒気を含んでいるように感じられました。本当に、クウくんが怒っているところなんて、これまでに一度も見たことがありません。

  でも、これは、わたしが本当によくなかったんです。もっとわたしが積極的に彼と会話していれば、彼を救うことができたのかもしれないのですから。

  

  ◆

  

  わたしたち五人が集合したときの話をしましょう。

  挙動不審なクウくんと、それを見守りながら歩いていたわたしの二人は、すっかり他の三人との距離をあけることになってしまいました。幸いなことに、たくさんのヒカリゴケが足もとで光っていたので、安全に歩くことができたのでしょう。本を読むには少し暗かったので、洞窟に入った時点で先頭集団がランタンを勝手に持って行くようなことがなければ、と何度も思いました。

  「おーい」とコガくんが手を振って呼んでくれていました。「おそいぞ」

  見覚えのある虎模様が目に入って、心底安心したのを覚えています。広間についたとき、わたしは真っ先にコガくんに相談することにしました。

  「ねえコガくん、クウがそこらに生えている木の実を手当たり次第に食べていて、それで遅くなっちゃった。ごめんね」

  「おう、それはご苦労さま。こっちはシロとノイがやかましくて手を焼いてたんだ」

  シロくんとノイくんは、双子のようにそっくりな、白猫と黒猫のクラスメイトです。すこし離れたところで、仲良く遊んでいます。

  その時点でクウくんについて真剣に考えていたのは、どうやらわたしだけだったようです。

  「ところで、この先さ、道が分かれてるみたいなんだ」コガくんがわたしの持つ本を指さします。「その本見せてくれない?」

  「いいよ。わたしはもう、全部見たから」

  わたしは持っていた本とランタンを、いえ、そのときランタンは彼らが持っていたので、わたしは本を渡してあげました。

  コガくんがシロくんとノイくんを呼んで、三人で本の内容を確認し始めました。

  

  コガくんはクラスで一番成績が良くて、リーダーシップのあるかっこいい子です。懐っこくて甘え癖のあるシロくんとノイくんにとっては、彼のそばにいるのが心地よいのでしょう。彼ら三人がセットでいることは珍しくないので、先生やわたしたちはよく、彼らをまとめて「猫三匹」と呼ぶことがあります。でも、虎であるコガくんは自分が猫だと思われるのが気に入らないらしく、昔は白猫と黒猫のふたりを遠ざけているような様子でした。

  猫三匹が本を読むのを待つ間にわたしは、クウくんを気にかけてあげることにしました。

  「ねえクウ……大丈夫そう?」

  クウくんはこたえません。もう一度話しかけようとしたところで、なにやら唸り声のようなものが聞こえてきました。

  「……ろ」

  「え?」何かしゃべっている?

  「はやく、にげろ」

  わたしにしか聞こえないような声量で、そうクウくんがつぶやいたとき、地面が音を立てて揺れ始めました。

  砂埃が上のほうからパラパラと落ちてくる中、わたしと猫たちは身体を小さくする体勢になりながら、洞窟の崩落という最悪の状況を想像して、戦慄していました。でも、クウくんだけが、この地震を予期していたかのように、黙ってその場に二本足で立っていました。

  クウくんがゴクリと唾を飲み込む音が聞こえました。

  「この空間の近くにはね」

  わたしたち全員に聞こえるように、滔々と語り始めるクウくん。わたしとコガくんたちは目を合わせます。

  「地下水源があって、水が激しく移動したときに、地面が揺れることがあるみたいだ。この一帯が広くなっているのも、昔ここに水が流れていた名残なのかもしれないね。幸い、僕らが来た道と」

  唾を飲む音。

  「……僕らが来た道と、これから行く道の近くには、その水源は通ってないみたいだから、今みたいに揺れる可能性はひくいと思う」

  もういちど唾を飲む音。

  「それに……」

  「ねえ、待って」

  わたしは彼がなんのためにそのような話をしているのか、また彼が話している内容そのものが疑問であったので、追及しようと話を遮りました。しかし彼はまた、それも予期していたかのように、コガくんの持っている本を、俯いたまま指さしました。

  「その本に書いてある。確認してみるといい」

  シロくんが本の上にランタンを掲げて、コガくんが本を乱雑にめくる様子を、そのうしろからノイくんが眠たげに眺めています。その間にもクウくんは語り続けます。

  「いま来た道を戻れば当然、外には出られる。その本に書かれている『正解』の道をたどっても、その近くに隣町へ出られる抜け穴がある。要するに、君らはここから速やかに出ていく必要があるんだ。この空間は唯一、落盤の可能性が捨てきれないからね」

  「ほんとうだ」ノイくんが他人事のようにつぶやきます。「確かに、そう書いてあるね」

  コガくんと目が合います。もしかしたらクウくんのことを見ていたのかもしれないけど。彼は持っていた本をバタンと閉じました。

  「じゃあさ」コガくんは傍らに置いてある荷物を肩に背負って立ち上がります。「すぐに行こうぜ、クウ」

  そこでまた、クウくんの様子が不気味なものに変わります。

  「僕は、正直もう歩けない」

  わたしは、クウくんの口のはじっこのほうから、一筋の液体が流れ出たのを見逃しませんでした。

  「あんまり、歩くのが得意じゃなくて、僕はここでギブアップしたい。ちょっと気持ち悪くなってしまったんだ。本当は危険だしよくないけど、ここで少し休んで、体力を取り戻したらすぐに入り口の方向へ戻りたいと思う」

  沈黙。ほかのみんなに関しては分かりませんが、少なくともわたしは「せっかくみんなで探検しようと約束していたのに」という念が拭いきれませんでした。同時に、これまでクウくんの奇行を間近で見てきたこともあり、本当に彼の体調が良くないのであれば、全員が安全に帰ることを第一に考えて、彼の言うとおりにするべきだとも思いました。

  このときのわたしは、どうにかみんなの役に立ちたい、という想いばかりが先行していました。そして、次のような無責任な言葉を吐きます。

  「わたしがクウくんと一緒にいるよ」

  たった数秒考えて、わたしはそれが最善の選択だと結論付けました。

  「わたしたちが遅れて歩いている間、なにかがあってふたつのチームに分かれざるをえなくなった場合に備えて、その本をよく読んでいたの」

  「キョウ、まさか」シロくんが目を丸くします。

  「うん。その本、ぜんぶ覚えたよ」

  決して自慢ではないですが、客観的な事実として、わたしの記憶力は学校で一番であったのです。

  

  ◆

  

  一般的に、のちの選択肢が多くとれるような判断はよい判断である、とも言われるようですが、極端に苦しい状況があったときには、大胆かつ鋭く尖った判断でしかそれを打破できないこともあるのだと痛感しました。結論からいうと、二手に分かれるのは最悪の判断だったようです。

  まず、クウくんが全員の前で述べた言葉が、すべてデタラメであったことに気づくべきでした。わたしは自分のミスを直視するのが苦手なタイプです。クウくんが本に書いてあるとして喋った、わたしの記憶にない「水源についての記述」について、コガくんたちが「実際に書いてある」と認めたとき、わたしは「そんなわけない」と思いました。本当ならそこで、わたしの記憶違いの可能性を考慮して、本に書いてあることを確かめにいくべきでした。ですが、猫三匹が「実際に書いてある」と言ったのですから、本当に書いてあったのでしょう。むざむざ「わたしの記憶違いだったらいいんだけど」と、自分の非を認めにいくような勇気は、わたしにはありませんでした。

  加えてわたしは、その直後にみんなの前で「本の内容をすべて暗記した」と見得を切ってしまったので、なおさら訂正する気になれなかったのです。

  二手に分かれて、二人きりになって、わたしはむしろ安堵に包まれていました。自分一人で自らの恥に薪をくべていたので、人数がすくないほうが一時の安らぎになりました。

  

  「きみも、ここから離れるべきだ」

  クウくんは苦しそうに喋ります。

  「本がなくても君なら大丈夫だろう」

  わたしはわたしの記憶に自信が持てなくなっていました。それでもクウくんは、わたしを騙そうとした一方で、わたしを最後まで信じていてくれたようです。

  「うん」わたしは虚勢を張りました。「地図はぜんぶ覚えたよ」

  息を吸って、言葉を紡がなければ。彼を救いたいという気持ちだけは、わたしの中で確固たるものとしてありました。

  「だから、一緒に、ここから離れよう」

  クウくんの目的は、恐らく、わたしを含めた全員をこの空間から排除することだったのだと思います。この空間に出る前に彼が言っていた「すごい、匂いだ」という言葉から推察するに、この暗闇の奥にはおびただしい数の、毒の木の実が眠っていて、彼だけがそれに気づいていたのでしょう。わたしの鼻が利かないのか、彼の鼻が特別なのか、それとも木の実自体に原因があるのかは分かりませんが、どれにしても、わたしにはその「匂い」というものが感じられませんでした。とにかく、クウくんはあの果実を食べることを、止められたくなかったのでしょう。

  「この洞窟の奥へ進むのでも、もと来た道を引き返すのでも、あなたの好きなほうでいい」

  そうわたしが言った後、クウくんはわたしのほうに顔を向けようとしました。しかし眩しそうに目を細めて、周りを見るのがつらい、といった風の動きでした。あるいは、わたしたちに見えないなにかが見えていたのでしょうか。

  「ありがとう、でも」

  彼の声から怒っているような空気が完全に消えていると気づいたとき、もう、手遅れであることを悟りました。彼が本当に彼でなくなる直前の表情は、泣いているようでも、笑っているようでもありました。

  「ごめんね」

  ……結局わたしは、クウくんのことを救えませんでした。

  

  ◆

  

  「知性」とは、どれだけたくさんの単語を暗記できるか、どれほどながい数学の公式を[[rb:諳 > そら]]んじられるかなどとは、まったく質の異なる知のちからです。ただデータを集めるだけであれば、紙とペンさえあればじゅうぶんでしょう。肝心なのは、個々の知識を正しく結び付け、背後に隠れている体系を理解して、零か百かではない柔軟な判断を下すことなのです。

  わたしは、頭の中の地図に最後の望みを託しましたが、ついには洞窟の中で迷ってしまいました。

  クウくんが木の実を食い散らかしているとき、わたしはただただ唖然として、一歩も動けずにいました。そして運悪く、クウくんが食事の場として陣取った位置が、入り口に続く通路の近くであったので、わたしがグズグズしている間に、おおきくふくらんだクウくんの身体によって、退路が塞がれてしまいました。

  いよいよ空間全体がクウくんのおなかに呑み込まれてしまいそうというとき、わたしは、彼の醜い姿を見ていられなくなり、彼から目を背けるようにして、分かれ道の分岐点の方へと歩き始めました。

  その直後、ものすごい轟音とともに地面が揺れて、さきほどまでいた空間から大量の砂埃と石の破片がなだれこんできました。土石流と見紛うほどのエネルギーを持った、鋭く、重く、濁った風を一身に受けたわたしは、転がるようにして吹き飛ばされていきました。

  しばらくすると揺れが収まり、砂嵐が徐々に晴れていきました。身体のいたるところにできた擦り傷と打撲痕がズキズキと痛みましたが、何が起きたのか、状況を受け止めきれないまま、クウくんのいた空間の方に歩いていきました。

  「うそだ……」

  目の前にはただ、暗澹たる「無」がありました。あんなに大きかったクウくんの姿が忽然と消えて、さっきまで地面があったところに、黒くて大きな穴が開いているのが見えました。パラパラと小石が奈落の底へと落ちていく音と、わたしの乱れた呼吸音だけが、うつろな空間に反響していました。

  わたしは、立っていられなくなりました。壁に肩をこすり付けるように力なくもたれて、冷たい涙を流すことしかできませんでした。そしてわたしは、内臓がきつく絞られるような感覚に襲われて、胃の中身をすべて、穴の底へと吐き出しました。

  

  その後、わたしはパニックに陥ったように、ぼろぼろになった身体を何度も壁や地面にぶつけながら、洞窟を駆け抜けていきました。

  わたしが風を受けて通路に飛ばされたとき、運悪く、予定していたルートとは違う道のほうへと吹き飛ばされていきました。そして、本来の「正しい道」は、大穴の出現によって、崖を挟んで離れた位置になってしまいました。つまり、あの空間が崩落した瞬間に、わたしの知っている安全な帰り道はすべて失われてしまったのです。それでもわたしは、なんとかピンとくるような地形を探して、自分の道が出口へとつながっていることを信じて走り続けました。

  

  どれほどの時間がたったのでしょう。わたしは完全に自分の現在地を見失いました。もうじきこの脚も、動かなくなるのでしょう。汗も涙もすっかり涸れて、私の身体は水分を求めてあえぎました。

  息を整えるために手を膝につくと、足もとで光る植物たちが目に入りました。

  クウくんがこの植物について語っていたのを思い出して、気分が悪くなってきました。

  はじめは、ただの思い出作りだと思っていた。こんなつもりではなかった。スリルを求めた子どもの、よくある遊びにすぎなかった。それだけなのに。

  「うぶっ……!」

  何も入っていないはずの胃袋をひねりつぶすように、痛みにも似た吐き気が込み上げてきました。

  わたしは汚れた口を拭って、その場から移動することにしました。

  

  ◆

  

  何時間か、何日か、それともそれ以上か、永遠とも思われる苦しい時間を乗り越えて、わたしはついに辿り着きました。

  水です。そこには水が流れていたのです。

  その明るい空間は、黄緑色の幻想的な光で満たされていました。おそらく、足もとを流れる川の水が蛍光グリーンに光っているせいでしょう。

  ずっと暗い道を独りで歩き続けていたので、わたしは精神的に参っていました。なので、その緑色に光る水には、心底救われました。やはり、あたたかな光というものは、わたしたちの心を癒してくれる作用があるみたいです。

  綺麗に澄んだ、おいしそうな水です。ちょうど喉も渇いて死にそうだったので、ありがたく頂戴いたしました。

  ごく、ごく、と飲み込むたび、身体の隅々までじわーっ、とほどけていくような心地よさが染み渡ります。わたしは息が苦しいことも忘れて、ありったけの水を体内に取り込みました。

  水につけていた顔を上げると、勢いよくはねた液体が飛び散って、世界が煌めいて見えました。

  「ふぅ、ふぅ、げふぅーっ……」

  下を見ると、ボールのようにふくれたおなかがありました。幸せに包まれて、身体が暖かくなります。

  わたしはずっしりと重たくなったおなかを揺らしながら立ち上がります。身体は重たいですが、それを上回るほど、わたしは気力に満ち溢れていました。

  おなかがぽんぽんになって満足した私は、空間をぼーっと眺めます。すると、黄緑色の水たまりが、ぼこぼこと泡立っているのに気づきました。わたしは不思議に思い、その現象を観察します。

  ある水たまりが波立つと、すぐ近くにある水たまりも、共鳴するように泡立ちます。そして、乾いた地面を乗り越えるようにして、ふたつの水たまりがあつまって、ひとつの大きな水たまりになる様子がうかがえました。そして、この空間にある、あらゆる水たまりがぶくぶくと揺れて、仲間をみつけて、ひとつのかたまりになろうとします。まるで、生き物のようだと思いました。

  そうして大きくなった水のかたまりたちを眺めていると、わたしのそばに、両腕で抱えられそうな大きさのかたまりが転がってきました。

  そのかたまりは、身体を、もにもに、とふるわせて、わたしのほうを見つめているように感じられました。わたしの目にはそれが余りにも可愛らしく映ったので、ふくらんだおなかの上に抱きかかえてやることにしました。

  「ん、重たい」

  透明感のある見た目に反してずっしりと重たいかたまりをおなかに乗せると、愛おしそうに、わたしのおなかをもちもちし始めました。

  確かに、いまのわたしの体重の何十パーセントかは黄緑色の水が占めているはずだから、この愛くるしいもにもにが、わたしのおなかを仲間だと勘違いするのも仕方がないのかな、と思いました。

  仲間をみつけて嬉しくなった私たちは、しばらくもちもちし合っていました。

  ふと周りを見ると、くっつきあって大きくなった沢山の水のかたまりたちが、洞窟の奥のほう、ちょうど川の水が流れていく方向へと、ごろごろ移動し始めました。だんだん、空間から光が失われていきます。それを見た胸元のもにもにも、わたしの腕からすり抜けるように地面へと落ちて、ころころと彼らに続きます。

  「まって!」

  仲間にいれてよ。わたしは、だぶんだぶん、と波打つおおきなおなかを抱えながら、暗い方へと駆け出していきます。

  おねがい。ひとりになりたくない。置いてかないで。もう寂しいおもいをするのには耐えられないんだ。川の流れる音を追い越すように、狭い道を走っていきました。やがてわたしは、通路の奥に、まぶしく光る黄緑色を視界にとらえます。あの先に、きっと、わたしの行くべき場所が。

  水ふうせんのようなおなかを抱えて夢中で走っていた私は、足もとの確認がおろそかになっていました。ですので、崖の端で水たまりのように体を伸ばしていた黄緑色のおともだちと、その先にある奈落のようなたて穴に気づかないままでした。

  ずるっ、と足を滑らせると、視界が明るい緑色に染まりました。浮遊感と、おなかの中身に慣性の法則がはたらいているのを全身で感じます。ぐるぐると回転しながら、一瞬、これからわたしが重力にいざなわれる先が見えました。

  奈落の底は、おおきな、おおきな、翡翠色のインキ壺でした。

  

  ◆

  

  どぶんっ、と、巨大な湖に身体を包まれた時、自分の身の危険と、とてつもなく大きな安心感を同時に味わっていました。

  わたしは試しに、水面に出ようと手足を動かしてみましたが、粘度の高い液体の中では、うまく動くことができません。たくさんもがいているうちに、どんどん肺の中の酸素が失われていきます。

  そして、もう溺れてしまうんだ、とあきらめるように二酸化炭素をすべて吐き出すと、口の中に黄緑色の液体が流れ込んできました。肺の奥まで液体で満たされる感覚に、気を失いそうになりました。

  

  しかし、驚くべきことに、わたしの心臓が止まることはありませんでした。むしろ、ドクン、ドクン、と、新鮮な酸素を全身に送り出すべく、全力で脈を打つのを感じました。

  そのとき、この液体が、わたしの仲間が、わたしを生かそうとしてくれているのに気づいて、わたしは嬉しさの涙を漂わせたのでした。あれだけズキズキと痛んでやまなかった、身体の傷も、しゅわしゅわ、と液体の出す泡に当てられて、たちどころに修復されていきました。

  わたしは、この液体に生かされている。そう思うと、心の底から安らぐようでした。クラスのみんなは誰も信じてくれませんでしたが、わたしは、胎児のころの記憶を忘れずに保持し続けています。ごぽ、と泡を吐き出しながら、ここちよくおかあさんのおなかのなかで揺蕩っていたころを、思い出しました。

  ごく、ごく、と、液体を飲み込むと、おなかが丸く、ふくれていきます。おなかのなかの液体と、おおきなかたまりになった液体が出会うと、なんともくすぐったいような、そんな嬉しさに包まれました。

  ごくん、ごくん、ごくん、ごくん。

  液体の侵入を拒む理由など、もはやありませんでした。水の流れに身を任せるように体の力を抜くと、それに従うように、際限なくわたしの身体をふくらませました。

  どれだけ飲んでも、どれだけ飲んでも、液体が喉を通るたびに幸福感が増大していきました。やがておなかがはちきれそうになって、おなかの先がピリピリと痛みましたが、それすらも心地よく、限界をこえてどこまでも、どこまでも、ふくらんでいけるように思えました。

  目をつぶると、液体が、私の姿を映し出してくれました。おなかを、おおきく、おおきく、おおきくふくらませた、まん丸な狐の少女の姿が、そこにはありました。もとの身体のおおきさから、何倍くらい大きくなったのか計算してみようとも思いましたが、あまりにもふくらむ速度がはやかったので、十より先からは、数えるのを途中で諦めました。ただ、記憶の片隅にある、おおきく肥え膨らんだクウくんに匹敵するのではないか、もしかしたらそれよりも大きいのではないかというほどに、わたしの身体は巨大化してしまったのでした。

  こんなにまん丸でおおきな水ふうせんになってしまった狐の女の子が、自分自身のいまの姿であると深く想像してみると、ああ、たしかにわたしはでっかくてまん丸な水ふうせんなんだな、と、こそばゆいような、恥ずかしいような、そんな気分になって、しっぽがゆらりと揺れました。

  

  ああ、もっと、おおきく、まるく、ふくらんでいきたい。

  それに応えるように、インキ壺が震えるのを全身で感じて、わたしはとても幸せに思いました。

  [newpage]

  [chapter:尊大な自尊心を持った虎、コガの物語]

  

  まったく、他人というものは信じられない。目の前にいるこの黒猫のことはとくに信じられない。なあ、俺は初めから分かっていたよ。お前がこの物語の黒幕なんだろう?

  

  「うーん、確かに、この『探検ごっこ』を手引きしたのはボクかもしれない。けどさ、コガっち。黒幕ってのは言い過ぎなんじゃないかな。万人には万人の、それぞれ違った正義があるんだ。立場が変われば、誰がいいやつで、誰がわるいやつかなんて、簡単に変わってしまうものじゃない?」

  なあ、ノイ。お前はお前なりの「正義」でこんなことをしていると?

  「そうだね。でも、最終的にはみんなが幸せになれる選択肢だと思うよ」

  俺の身に何かしたのもそうか? お前が得体のしれない力で俺を拘束しているのも「みんなの幸せ」のためか?

  「うん。そうだよ。あ、でも勘違いするなよ。これは確かに、ボクの家族を救うためにはじめたことだけど、なにも君たちを一方的にいじめてやろうって訳じゃないよ。君たちもまた一緒に幸せになれるってことさ。大丈夫。『みんな幸せ』の『みんな』には、きみたちも含まれている」

  くそ、腹が……。おい。クウやキョウは無事なんだろうな?

  「無事だよ。みんなピンピンしてる。もしかしたら無事以上かもね」

  ……シロが見当たらないな。シロは?

  「うるさいな、質問ばかりでうんざりだ。シロっちはこの先でおとなしく待っててくれてるから、ボクに任せてよ。ちょっと黙ってて」

  やめろ、そのキノコは、むぐっ……!

  「はあ、君は我慢強いみたいだね。もう二つも食べさせたのに……他のやつらとは違うみたいだ。でも、もうそろそろ、耐えられなくなってくると思うんだけど。ほら、ふくらんできた。聞こえるだろ? 君の体の中で、キノコの胞子がものすごいスピードで殖えてる」

  はぁ、はぁ、苦しい。お前、覚えてろよ。畜生が。

  「なんとでも言えよ。じきに君は喋れることすらできなくなるから」

  おい、やめ、俺の腹に、乗るな……! あっ。

  

  ぼふぅーーーーーっ……。

  

  「…………あー、はははっ! 出ちゃったね。知ってたよ。おならが出ないように、すっごく我慢してたんだろう? こんなに腹がふくれてるんだ。溜まってるガスの量もすごいんじゃない? きわめて愉快だ。どう? クラスメイトの前で無様な姿を晒した感想は?」

  …………。

  「へへっ。喋れなくなってら。耳まで赤くしちゃって」

  ……黙れ。

  「ん、そんな口利いていいのか? こっちは、ほかのクラスメイトに見られないようにしてやってんだけど」

  くっ……、腹が、腹が、いた……!

  

  ぶぅううううううううっ!

  

  「ぷくくっ……! こんなにでっかいおなら、聞いたことないよ。たいそうスッキリしたんじゃないか? なあ、みんなに『コガっちがぶーぶーおならしてました』って言いふらしてやろうか。みんな、笑うだろうな」

  …………。

  「おい、なあ、泣くなよコガっち。プルプル震えちゃってさあ」

  …………。

  「おーい、なんとか言えよ。さっきの威勢はどうした? それとも、おならを我慢するのに必死になってた? へへ、そんなにしたいならしたらいいのに。ほら」

  …………。

  「……コガっちー?」

  …………。

  「だんまりか。はあ、じゃあ、もういいか。終わりだ。ボク[[rb:は > ・]]たのしかったよ。さよなら、コガっち」

  

  そう言うと、ノイの顔から一切の表情が消えた。彼の黒い毛並みが暗闇にとけていき、ギラギラと光る目だけが、こちらを鋭く睨んでいるように見えた。

  彼が両手の肉球をぽん、と合わせると、俺は黄金色に輝く空間に飛ばされた。

  

  ◆

  

  俺は、本当はひとりでいるのが好きだ。クラスメイトが休み時間のたびに俺の机に寄ってくるのが邪魔で仕方がなかった。

  はじめは、誰かに課題を見せてやったのがきっかけだったように思う。学期の始まりのほうは、あるひとりにしか見せていなかったのが、授業の内容が進むにつれ、二人、三人と増えていき、いつしか自分で課題をやっているやつらも、俺の机に集まってくるようになった。少人数のクラスにありがちなのかは分からんが、全員仲いいし、まあ、そんなもんだろうと半分は諦めていた。

  夏休みが近づいてきたころ、シロが図書室から本を借りてきた。内容は正直デタラメだろ、と俺は思っていたが、どうやら実際に行ってみた馬鹿がいたらしい。その洞窟が実在するものだと分かってからは、ますます俺の居眠りが妨げられた。

  いっそ飛び級でもして、さっさと進学してしまいたいな、そしたらきっとバカ騒ぎするようなやつも周りからいなくなるんじゃないかな、とも考えたが、常にすべての教科で満点を取り続けているにもかかわらず、進学の申請はいっこうに通る気配がなかった。

  基本的に、同じ代で入った生徒たちは、同じタイミングで進級して、同じタイミングで卒業していく。しかし、俺らの学校に、いつからか「飛び級」というシステムができたらしく、同じ学年のメンバーは、年次の変わり目でもないタイミングですいすい進級して、あっという間に学校からいなくなってしまった。

  そういえば、俺らが入学したころから、クラスのメンバーは減りこそすれ、増えることなど決してなかった。俺の記憶だと、直近で最後に「飛び級」を使ったのは、俺らの代に繰り上がってきたノイのはずだ。それ以降、学校に唯一である俺らのクラスから、飛び級でいなくなる者はいなかった。

  こんな変なシステムのせいで、歴史のある学校の「最後の生徒」であるからとかなんとかで、なにやら教師たちが俺らをちやほやしているようだが、ぶっちゃけそんなのはどうでもいいから、さっさと進学の許可をくれ、と思っていた。

  

  俺はただ、ひとりになりたかった。

  

  ◆

  

  得体のしれない場所にひとり飛ばされたのは、正直まったく不安でないと言えば嘘になるが、それでも、ようやくひとりになれた、と安堵していた。これで心置きなくガス抜きができる。

  そう思っていたのに。

  「ようやくひとりになれた、とでも思った?」

  辺りに黒猫の声が響く。ビクッ、と身構えて周囲を確認するが、俺とキノコ以外には、誰の姿も見えなかった。

  「ノイ! どこにいる! 姿を見せろ!」

  俺の声だけがこだまする。もしかしたら、先ほど受けた屈辱のせいで、他人に見られることをひどく恐れた結果、聞こえてきた幻聴だったのかもしれない。そう考えて、呼吸を落ち着けていたところで、また、俺の頭の中に声が響く。

  「え? ボクが姿を見せちゃったら君、こまるんじゃないの?」

  今度の声は、反響しているようには聞こえない。ひょっとすると、先ほどの声も、俺にだけ聞こえるように語り掛けていたのかもしれない。そして少なくとも、ノイは、こちらの声を聞いているようだ。

  「まあいいや。ボクはいつでも見守っているからね。それじゃ、お好きにどうぞ」

  そう笑う声を最後に、ノイは二度と俺の前に姿を現すことはなかった。

  

  俺の腹の中で、ガスがぼこぼこと音を立てている。畜生、あんなことを言われてしまったら、緊張してうまくガスが出ないじゃないか。

  俺の腹は、どんどんふくらんでいく。服がキツい。クウよりもデブに見えるほどに、大きくなってしまった腹を見て、俺は羞恥の炎に焼かれそうだった。

  「はぁ……はぁ……げふぅーっ」

  口から出たガスは、キラキラと金色に輝いているように見えた。それがキノコの胞子だと分かっていても、自分の身体から放出された気体が可視化されているように思えて、ことさらに腹の奥がキュッ、と縮み上がった。

  どうしたものか、と天井を仰ぐ。どうせ見られているにしても、観測者はノイしかいないのだから、いっそ出してしまおうか。うかうかしていたら腹が爆発してしまうかもしれない。そう思って腹筋に力を込めようとするが、なんにせよガスが出ない。パンパンに膨れ上がった器官をいたずらに締め付けるのみで、苦しさから解放される気配がない。こうなることが分かっていて、ノイは俺の自尊心に訴えるような言葉を語り掛けてきたんだろう。クソが。

  荒い呼吸を繰り返しながら、なんとか精神を落ち着けようとする。周りを見ると、黄色く輝くキノコたちが俺を取り囲んでいた、他人の目を気にすることに過敏になりすぎて、ただのキノコでさえも、こちらの様子をうかがっているようにみえた。

  「お前らのせいだ!」

  拳を握って、近くの壁を殴る。すると、風が吹いていないにもかかわらず、キノコたちがゆらゆらと揺れているように見えた。

  揺れ……風? 俺じゃないよな……俺が自覚していないだけで、もしかしたら今……。

  嫌というほど、耳が熱くなる。自分の丸い腹を抱えて、俺は身悶えした。情けない。クソ、クソ!

  うめき声を上げたり、歯を食いしばったり、そのような自然に出る行動ですらも、自らの恥を受け止めきれていないようで、余計に恥ずかしく感じてしまう。

  どうにもやり場のない感情に耐えかねて紅い顔を上げると、奇妙な光景が目の前に広がっていた。

  丸くて発光する物体が、キノコが、空間にぷかぷかと浮かんでいる。ぽかんとした表情のまま、それを見つめる俺。

  「は?」

  暖かな光を発するキノコが、いくつも、ふうせんのように浮かんでいるさまは、これまで乱高下していた感情を一瞬忘れてしまうほどに、幻想的な光景だと思われた。

  

  つまり、俺は油断していたのである。そのキノコが諸悪の根源であることを失念していた。

  浮かんでいるキノコのひとつが、あんぐりと開きっぱなしになっている俺の口をめがけて、猛スピードで飛び込んできた。

  「むぐっ」

  喉に潜り込むようにして飛来してきたそれを、反射で飲み込んでしまう。俺は、俺の身にこれから起こることが容易に想像できてしまい、頭が真っ白になってしまった。

  

  ◆

  

  気付いた時には、恐らく、口に入ったキノコが、十や二十を下らない数になっていたのだと思う。

  俺は、洞窟の空間を埋め尽くしてしまうほどの、おおきなガスタンクになり果てていた。

  あれからいっこうに、ガスはでない。どれだけ息んでも、おなかが楽になることはなかった。

  それならばいっそ、爆発するまで、ガスをため込んでしまおう、と思ったのだが、我慢のモチベーションが他人から自分に移った瞬間、俺の身体に変化が訪れた。

  ぶすっ、ぼふっ、ぶぅうっ!

  思わず、ひっ、と素っ頓狂な声をあげてしまう。そしてまた、きゅっとおなかに緊張が走って、ガスの動きが止まる。あれ、もしかして、このままいけば……。そう思って、深くいきを吸ってリラックスする。おなかの奥のほうがゆっくりほぐれていくさまを想像しながら、ゆっくりと息を吐こうとしたその刹那。

  ぼふぅううううううううううっ!

  とてつもない勢いの、おならが出た。

  ぶぅうううううううっ! ぼふぅっ! ぶぅうううううううっ!

  あんなに苦しくて、出したいと願っていたのに、一度出てしまうと、制御がきかなかった。俺は羞恥心と解放感の渦の中にとらわれながら、止まってくれとも、もっと続けばいいとも感じていた。

  もはや、誰に聞かれているとか、誰に監視されているとかも、どうでもよくなっていた。それよりも、自分がみっともなくガスをぶちまけている事実に目を向けて、恥ずかしさの炎に焼かれつつも、その火に薪をくべ続けているのは、ほかならぬ自分自身なのだと思った。

  ガスを放出している間にも、絶えずキノコが口の中に飛び込んでくる。萎みつつあったおなかも、生み出される気体の量が、その放出量を上回っているのか、徐々にふくらんでいく。

  ぐぎゅるるるるるっ! ゴロゴロゴロ!

  ぼっふうううううううううううっ!

  まるで、永久機関のようだ、と思った。ガスをすべて出し切ってしまえば、得も言われぬ解放感もそこで打ち止めになってしまうが、無限に体内でガスが生み出され続けるのであれば、いつまでも、気持ちいいままでいられるのかもな、と思った。

  

  こんなに気持ちいいのであれば、むしろこのままで、と薄れゆく意識の中で考えていた。

  [newpage]

  [chapter:鏡写しの白猫と黒猫、シロとノイの物語]

  

  ○

  

  ねえ、ノイ。どういうことか説明してよ。

  クウとキョウの二人と別れた後、ぼくは聞き逃さなかったよ。遠くで岩が崩れるような音がしたんだ。そして、ノイは笑っていたね。見逃さなかったよ。ねえ、二人は無事なの?

  そして君がコガと話したいことがあるからって、ぼくに聞こえないところまで離れていって、内緒話をしていたね。途中で唸り声のような奇妙な音も聞こえてきたけど……。話は済んだって言っていたけど、どうしてコガだけが戻ってこないの?

  結局君は、ぼくと二人っきりになりたかったんでしょ。なら、どうしてクラスのみんなを誘ったの? みんなを無理やりぼくらから遠ざけるくらいなら、最初から誘わなければ良かったんじゃないか。

  ……みんなを誘ったのはぼくの責任だって? それは確かに、あの本をみんなに紹介したのはぼくだけど、そもそも、図書室にある無数の本の中からあの本を見つけ出してきたのは、ほかならない君じゃないか。

  それに、おかしいよ、この本。次から次へと書いてある内容が変化するんだ。さっきまで読んでいたページが見当たらないと思ったら、まったく違う情報に書き換わっていたり、出発前にみんなで見ていたこの地図のページだって、今見るとただの一本道になってしまっている。

  ねえ、ぼくは君のことがだいすきなんだ。だから、君がなにか不気味な存在に見えてしまっているぼくのおかしな考えを、否定して欲しい。

  君は、いったいなんなんだ?

  

  ●

  

  まあ、落ち着いて聞いてよ、シロっち。ボクも君がだいすきだからさ。

  ほら、ここにボクらが目指していた洞窟のゴールがあるよ。とりあえず、この扉の向こう側で話がしたいな。こここそが、この洞窟にとって最も大切なものが眠る、「宝物」というべきボクの家族たちがいる広間だ。この扉はボクしか開けられないから、開けてあげるね。さあ、ボクの家族を紹介するよ。

  みんな、ただいま!

  ……どう? キレイでしょ。まるで遊園地に来たみたいな気分にならない? ここが僕のおうちなんだ。広いでしょう? そこらでおおきなふうせんみたいに浮かんでいる、まん丸で大きなものが見えるかい? あれ、みんな僕の家族なんだ。

  もしかしたら、球体がふたつずつ重なっているから、雪だるまのように見えるかもしれないね。遠くで双子星のように光っているのも、とてつもなく遠くにいるボクの家族なんだよ。あんなに遠くにいるのにくっきり見えるなんて、そうとうエネルギーを蓄えて、まん丸になってしまっているんだね。

  ……おっと、驚いているね。彼はたしか、去年の秋ごろに連れてきた子かな。ボクも一瞬だけど、クラスメイトだったから覚えているよ。えーと、名前は忘れちゃったけどね。初めてきたときよりも、ずいぶんおおきくふくらめるようになったんだね。彼のパートナーであるボクの兄さんも、喜んでいるよ。

  まあ待ってよシロっち。とりあえず立ち上がって。腰を抜かしてしまうほどびっくりしてくれたんだね。うれしいよ。彼らの顔をよく見てごらん。ちゃんと幸せそうな顔をしているだろう? だから決して怖がらなくていいんだよ。

  さて、ボクがいったい何者なのかという質問に答えてなかったね。

  君たち「けもの」がボクらを「ばけもの」と呼ぶのであれば、それでもいいと思ってる。

  ボクらについて正確に語るためには、いくつか話しておくべきことがある。この物語にきちんと終止符を打つためにも、ボクらの人生の「まえがき」について話そうか。

  

  むかしむかし。

  かつて、けものと、ばけものは、表裏一体の存在だったんだ。

  君たちけものは、自分の「影」について想像したことがあるかい? 影というのは、木々や建物に太陽の光が当たったときに、その背後に伸びる、光の当たらない部分のことだ。君たちの住む世界の常識では、けものたちに太陽の光が当たっても、影ができることはないよね。でも、けものも他の物体と同じように、影をひきつれて大地を闊歩していた時代があったんだよ。

  つまり、けものと影は一心同体。君らけものと、ボクらばけものは、お天道様のもと、お互いに足りないものを補い合って生活していたんだ。

  昔のけものには、知恵がなかった。だから、賢いボクらが君らに「科学」をもたらした。

  また、ばけものには、心がなかった。だから、君らはボクらに「感情」を教えてくれた。

  そうして、科学を手に入れたけものたちは、文明を興して、よりたくさんの子孫をのこせるように進化した。

  いっぽう感情を知ったボクらは、よりたくさんの心の動きを求めた。感情を制御する方法を理解しようとしたが、それは難しく、けものたちから溢れ出てくる感情をおすそ分けしてもらうしかできなかった。

  けものも、ばけものも、よりたくさんの科学的知識や複雑な感情をお互いに求めた。君たちがより高水準な知識を得るには、ボクらばけものに質問するしかなかったし、感情の中でも、もっとも複雑な「愛」というものをボクらが得るためには、けもの同士の生活の営みからでしかそれを得ることができなかったからだ。

  

  さて、ボクらが生まれる前の話だけど、ある日突然、じゅうぶん賢くなったけものたちは、ボクらばけものを、つまり自分らの「影」を切り離して生きていくことに決めたらしい。

  どうしてそんなひどいことをしたのか、理由は君らのご先祖しか知らないけど、どうやらボクらばけものから聞き出した「影を科学的に正しい手続きで本体から切り離す方法」を実践して、当時生きていたけものと、その年に生まれた赤子の影を切り取って、すべて一か所に集めたみたいだ。

  その影が集められた先がどこだかわかるかい。賢い君なら分かるよね。

  掃き溜めみたいな洞窟に集められたボクたち影は、それでもけものたちとの因果を完全に断ち切ることはできなかった。君らの世界で新しく赤子が生まれたら、辻褄を合わせるために、こっちの世界でも新しく影が生まれなければいけなかった。

  暗闇の中で無理やり生まれた影たちは、もともと真似るべきだった「形」が分からなくなってしまった。だから、世代を経るにつれ、ボクらは不気味な存在である「ばけもの」となってしまったんだ。

  さらに、暗闇の中だと、どこからが自分で、どこからが自分でないのか、そういった彼我の境界がどんどんぼやけていってしまったんだ。それでも、ボクらの世代までなんとかやっていけたのは、ほとんど風化してしまった、お互いが持っているわずかな「感情」のちがいで、お互いの境界を見分けて、混ざり合わずに生きてきたからだった。

  

  ボクが生まれたとき、つまり君が生まれたときでもあるんだけど、ボクたちばけものの社会は、崩壊寸前だった。ボクらには、影が影でいられるだけの感情が、ほとんどからっぽになっていたんだ。

  感情を完全に忘れてしまった影は、まるで初めから形がなかったかのように、闇に溶け込んでしまう。そうすると、その影と紐づいたそっちの世界のけものも、もとから存在していなかったように、いなくなってしまう。

  「学校」にほとんど生徒がいない理由のひとつはそれだ。生まれて間もない影たちが、おとなになる前に消えてしまう。そうすると、ある日突然、教室に空席が生まれることになってしまうんだ。

  

  ボクは、珍しく、まともな「形」を持って生まれてきた影だった。君とそっくりな、かわいい黒猫の姿だよ。こんなチャンス、二度とないかもしれない。そう考えたボクは、家族のみんなを救うために、暗闇から飛び出して、けもののふりをすることにしたんだ。

  

  やることは決まっていた。ボクの家族たちは洞窟から出られない。でも、けものたちの感情を摂取しないと、消滅してしまう。だから、ボクは頑張って、けものたちを洞窟に呼び込むことにした。

  呼び込んだあとは、ボクらの力をつかって、感情のタンクにする。よりよいタンクにするには、馬鹿な大人たちより、感情豊かな子どもたちが適していた。これが、「学校」の生徒が年々減っていた理由その二だよ。

  大人たちは馬鹿だから、ボクが言葉で説得してやれば、理屈で納得してくれたよ。だから、物事をうまく運ぶために「飛び級」という制度をわざわざ作るのにも苦労しなかった。子どもたちを騙すのは大変だったけど、よく言いつけを守るような子たちを中心に、大人を使って、間接的にコントロールすることにしたよ。なかなか賢いでしょう?

  

  さて、ボクが一番苦労したのは、君たち四人だ。君らの名誉のために言っておくと、君らは、なかなか飛び級できずに最後まで残ってしまった「落ちこぼれ」なんかじゃなくて、むしろ、その賢さゆえにボクが手を焼いていた「最後の砦」だったんだ。

  だからボクは綿密な計画を練った。もともとボクは言葉は知っていても、文字は知らなかった。だから、必死に読み書きを覚えて、君たちが卒業してしまう前に、なんとか「本」を作り終えることができた。ボクは正直、まだペンで文字を書くのは得意じゃないけど、「口から発した言葉を本に反映させる方法」は、だいぶ自由に扱えるようになったと思うよ。まあ、君らの言葉にも反応して本が書き換わってしまうのには焦ったけどね。

  

  ほら、見て。ボクらのクラスメイトたちも、この部屋にやってきたみたい。彼らをふくらませた「植物」も、「スライム」も、「キノコ」も、もともとは彼らの影として生まれた存在だったんだ。やっぱり、影は、もともとの形でいるのがもっとも幸せなんだよ。まあ、真似するべき本体が、まん丸にふくらんでしまっているから、影もおおきなふうせんになってしまっているんだけれども、それも双子星みたいで美しいでしょう?

  

  さあ、これで無事に文脈が繋がったね。ボクたちも、一緒になろう。この物語を最高に幸せな形で終わらせよう。

  

  ○

  

  ぼくがノイの話を聞いている間、ノイはぼくの両手をぎゅっと握って、キスをしてくれた。ノイの口が塞がっていても、彼の考えが知識として直接ぼくに流れ込んできていた。

  結局、クラスのみんながここに連れてこられたのは、すべてぼくが悪いのだと思った。ここにいるのは子どもばかりで、大人たちがふうせんになっている様子は確認できなかった。学校の先生や、近所の大人たちが、消滅せずに長生きしていることを考えると、ひとつでも「タンク」があれば、相当な数の命が救えるからなのだと思った。

  それならばいっそ、ぼくだけがタンクになって……。

  ううん、そうだよね、ノイ。君たち影は、ぼくらの形といっしょになるのが一番幸せなんだよね。離れ離れの世界でお互いの姿を思い出せないまま生きるよりも、きっと、すぐそばで、多少いびつなかたちに変化してしまったとしても、鏡写しのような存在としていっしょにいるのが一番いいんだもんね。

  ごめんね、ノイ。ごめんね、みんな。ごめんなさい。ごめんなさい……。

  涙が溢れて止まらなかった。

  ぼくが涙を流すたび、大きな悲しさが、ノイのおなかに流れ込んでいく。ぶくん、ぶくん、と、ノイがふくらんでいくにつれて、鏡写しのぼくのおなかも、ぶくん、ぶくん、とふくらんでいく。目をそっと開くと、ノイもまた、綺麗な涙を流していた。

  ぼくは、自分がどうして泣いているのか分からなかった。悲しくて泣いているのに、心の奥底から幸せな気分が湧いてくる。複雑なぼくの感情はおおきな波となる。莫大なエネルギーを持ったおおきな波は、絶え間なくノイに注ぎ込まれていく。たとえこれまでに味わったことのない感情であっても、容赦なく僕の分身をふくらませていく。あまりにも急激にふくらんだので、さすがのノイも、苦しそうだ。それでもなんとか目を開けて笑顔を見せようとしてくれるので、ぼくはまたそれを見て、嬉しくて、泣く。

  ぼくらは、ぎゅっと繋いだ手を離さないように、さらに激しく引き寄せ合う。おたがいの身体が密着して、沸騰しそうなお互いの体温を確かめ合う。ぼくらの身体はいつの間にか、ほかのふうせんたちよりもはるかにおおきな、巨大なふたつの球体になっていた。

  

  ぼくらは川ができるほどたくさん泣いて、とてつもなく長い時間ふくらませあっていた。

  ありがとう、シロっち。もう、いいんじゃないかな。

  ノイはそう言うけれど、それでももっと、もっと大きくふくらませあいたくて、ぼくは、ノイのことが大好きだという感情に集中する。すると、ボン、ポン、ボンッ! と、爆発するような勢いで、ノイの身体がふくらんでいく。ノイは驚いたようで、ぼくと口を合わせているのも忘れて、声にならない声を、ぼくのおなかのなかに吐き出した。その喘ぎ声に合わせて、僕の身体も暴力的な速度で、ふくらんでいく。

  そうか。ぼくは合点がいった。

  ノイがビクッ、と身体を振るわせる。虚ろな目は、もはや焦点が合っていない。

  ノイをもっとふくらませてやろうと、彼の好きなところをできるだけたくさん想像する。すると、ノイの身体が何倍にもおおきくなったのが、密着した彼の身体の振動で伝わってくる。心底苦しそうな声で喘ぐ、僕の影。

  自分のおなかがはちきれそうな苦しさも、彼が嬉しそうな声をあげてくれるのも、ぼくとノイが同じ色の涙を流しているのも、ぜんぶ、ノイのことを大好きだと思う気持ちを加速させるには、じゅうぶんすぎる事象だった。

  爆発しそうなぼくの心臓が、ドクン、ドクン、高速で脈打つ。その波が、大きく彼の身体を揺らす。

  あまりにも大きすぎるその感情は、ゆっくり、ゆっくりとノイに流れ込んでいるにもかかわらず、ひとのみひとのみが、空間を揺るがすほどの大膨張へと変換された。ノイは目を見開いて、大粒の涙をこぼしながら、もう耐えられないというように、おなかの底から絞り出すようにして声を出している。それでも、とまらない。

  ふくらんでも、ふくらんでも、まだまだおおきくなる。もう限界だと想像したところから、その何十倍も大きくなっていく。その苦しさの捌け口として、ぼくのおなかに向かって叫んだって、それすらもぼくとノイのおなかを膨らませるトリガーにしかなりえない。

  

  やめてくれ、もうじゅうぶんだって? かわいいなぁ。

  

  ばけものの君は、どんなに死にそうな気持ちにあえいでも、ぼくの「大好きだ」という気持ちを制御することはできないんでしょう? ぼくは、たとえ宇宙より大きくなろうとも、どれだけふくらんだとしても、君を大好きだと想う気持ちを絶やさない自信があるよ。

  ほら、もっと苦しそうに、嬉しそうに、ぼくのおなかに向かって、絶え間なく喘ぎ続けてよ。

  

  君が自分勝手に紡ぎ始めた物語なんだからさ、これくらいはしてもいいだろう? これだけの数の人生を弄んで、自分だけ幸せになろうなんて、烏滸がましいんだよ。

  ぼくは、身体の底から込み上げてくる、喜、怒、哀、楽、すべての感情を、ノイを大好きだと強く想う感情へと変換する。

  ねえ、ノイ。ぼくたち、どこまでふくらんでいけるかな。

  

  たとえ世界が滅んだとしても、君のすべてを、死ぬほど愛してるよ。ノイ。