エヴォリュート移動要塞・「聖母の回廊(マドンナ・アーカイブ)」
静謐なピンク色の光に包まれていた回廊が、突如として不穏な警告音(アラート)に支配された。
ドクターキマイラが、No.108の眠るガラスシリンダーの操作盤に、新たな「因子」の入ったカートリッジを乱暴にねじ込んだからだ。
「さあ、目覚めの時だ。イノシシの妻として安穏と暮らす夢は終わりだ。
これからは夜の支配者として、男たちから『命』を搾り取るのだ!」
ドクターがレバーを引く。
シリンダーを満たしていた透明な羊水が、カートリッジから注入された漆黒の液体によって、一瞬にして墨汁のような闇色に染まった。
ボコッ……ボココッ……!
液中で眠る女性の体が、痙攣したように跳ねた。
彼女の美しい白磁の肌に、黒い液体が生き物のようにまとわりつき、毛穴という毛穴から侵入していく。
(……熱い、……苦しい……!)
声にならない叫び。
彼女のDNA鎖がズタズタに引き裂かれ、そこに『ハシブトガラス』の凶暴な遺伝子と、ドクター特製の『吸精機構(ヴィタ・ドレイン)』が強制的に縫い付けられていく。
バリバリバリッ!!
皮膚が裂ける音と共に、彼女の背中から骨と筋肉の塊が突き出した。それは瞬く間に広がり、濡れたような光沢を放つ巨大な「黒い翼」へと形成された。
肩、太腿、そして頬。滑らかな肌が硬質な黒い羽毛に覆われ、指先は鋭利な鉤爪へと変貌する。
もはや、人間の面影も、清楚だった女性の面影もない。
パリィィィィィン!!
強化ガラスが内側からの衝撃で砕け散った。
飛び散る破片と黒い液体を浴びながら、その怪人は床に降り立った。
「……ふぅ……あぁ……」
吐息と共に、怪人が顔を上げる。
目元はカラスの嘴(くちばし)を模した鋭いバイザーで覆われているが、その下の唇は、濡れたような深紅に彩られ、妖しく歪んでいた。
**闇夜の搾精姫、レイヴン・サキュバス。**ここに誕生せり。
「気分はどうだ? 私の黒い天使よ」
ドクターの問いかけに、レイヴン・サキュバスは背中の翼をマントのように優雅に翻し、恭しく一礼した。
「最高ですわ、ドクター……。
体の奥が熱い……。渇いています。男たちの命が、今すぐ欲しくてたまらない……」
彼女の声は、聞く者の理性を溶かすような、甘く危険な響きを帯びていた。
「ハハハ! その『飢え』こそが動力源だ。行け! 夜の街はすべてお前の餌場だ!」
バサァッ!
レイヴン・サキュバスは翼を広げると、音もなく天井のハッチへと飛び去った。黒い羽が数枚、不吉な予兆のように舞い落ちた。
午前2時。
残業と上司との付き合い酒で疲れ果てたサラリーマン、佐藤(32歳)は、終電を逃し、人気のない裏路地をふらふらと歩いていた。
「くそっ……俺の人生、こんなんばっかかよ……」
愚痴をこぼし、壁に手をついたその時だった。
頭上の街灯がチカチカと点滅し、ふっと消えた。
「ん?」
闇に包まれた路地の奥から、ヒールの音が響く。
コツ、コツ、コツ……。
現れたのは、夜闇に溶け込むような黒いドレス(に見える羽毛)を纏った、長身の美女だった。
「あら、迷子? お兄さん」
「え、あ……いや、その……」
佐藤は息を呑んだ。バイザーで目は見えないが、彼女から放たれる圧倒的な色気と甘い香りに、一瞬で目を奪われたのだ。
本能的な警鐘が「逃げろ」と叫んでいるのに、足が動かない。
「可哀想に……疲れているのね。私が癒やしてあげましょうか?」
美女――レイヴン・サキュバスは、佐藤の胸に滑り込むように抱きついた。
ひやりとした冷たい感触。だが、それが逆に火照った体に心地よい。
「え、ちょっ……こんな所で……」
「いいのよ。……ただ、あなたの全てを私に委ねればいいの」
彼女の唇が、佐藤の耳元に触れる。
プシュッ。
唇の隙間から、無臭の神経毒と催淫ガスが吹き込まれた。
「――っ!?」
佐藤の瞳孔が一気に開き、体の力がガクンと抜けた。
思考が真っ白になり、ただ「気持ちいい」という感覚だけが脳を支配する。抵抗する意志は、泥沼に沈むように消え失せた。
「ふふっ、いい子ね。さあ、いただきましょうか……」
ザワッ……。
レイヴン・サキュバスが背中の翼を大きく広げ、二人を闇のドームの中に閉じ込めた。
その翼の内側から、無数の黒くぬめる触手が、蛇のように這い出してきた。
「ひ、あ……なんだ、これ……」
触手は佐藤のワイシャツの下、ズボンの隙間へと潜り込み、彼の素肌に吸盤のように吸い付いた。
そして、先端にある微細な針を、全身の血管へと突き刺した。
チュルルルル……ッ!
「あ゛ッ!? ぎ、あぁぁぁぁぁぁぁっ!!??」
快楽と激痛が同時に走る。
触手が脈打つたびに、佐藤の体から「何か」が強引に引き抜かれていく。
それは血液であり、体力であり、そして精気(ライフフォース)そのものだった。
「んんっ……♡ おいしい……なんて濃い命の味……」
レイヴン・サキュバスは、佐藤の首筋に噛みつきながら、恍惚の声を上げた。
彼女の黒い肌が、吸収したエネルギーで艶やかに輝きを増していく。
対照的に、佐藤の体は急速にしぼんでいく。
筋肉の張りが失われ、肌は老婆のようにシワだらけになり、眼窩が窪んでいく。
「や、やめ……吸わ……れる……俺の……全部……」
「そうよ、全部よ。最後の一滴まで、私のものになりなさい」
ジュルリ、ジュルルルッ!!
最後の吸引音が響く。
佐藤の口から、魂が抜けたような白い息が漏れた。
彼の体は完全に干からび、ミイラのような茶色の皮と骨だけの状態になって崩れ落ちた。
路地裏に、カラン……と乾いた音が響く。
「ごちそうさま。……でも、まだ足りないわね」
レイヴン・サキュバスは、足元に転がる「元・佐藤だったゴミ」をヒールで無造作に跨ぐと、唇についた命の雫を長い舌で舐め取った。
「次の獲物はどこかしら……?」
彼女は再び翼を広げ、次の哀れな贄(いけにえ)を求めて、ビルの谷間へと飛翔していった。
翌朝、謎の変死体が発見されるまで、この路地は死の沈黙に包まれたままだった。