十一話

  ああ、これは夢だ――。

  ウォルカは見えている景色と、自分の身体との感覚の違和感にそう直感した。

  鼻腔に広がるのは、ホムラサキの潮騒ではなく、大陸の乾いた風が巻き上げる砂埃の匂いだ。

  まだ、背も低く、腕も細かった頃の自分。

  ヴェルガルド東部の小さな名も無き村。山から下りてくる好戦的な蛮族の影に怯えつつも、孤児である自分を育ててくれた村人たちの慈愛に包まれていた日々。

  「俺、傭兵になるよ。強くなって、この村を守るんだ」

  そんな幼い決意を胸に、ウォルカは村を後にする。恩を返したいという一念だけで、彼は街の傭兵団の門を叩いた。

  最年少で入団を許された彼を待っていたのは、英雄譚とは程遠い、汗と泥にまみれた苦難の日常だった。

  「よぉ、お前が噂の『ガキの新入り』か?」

  訓練場の隅で、自分と同じように泥を被りながら、鋭い眼光を放つジャッカルの獣人がいた。それがリヒャルクだった。同じ孤児という境遇、年頃、種族の近さ。そして死線を隣り合わせる日々に、二人がつるむようになるのに時間はかからなかった。

  「ウォルカ、お前は真面目すぎなんだよ。たまには息抜きしねぇと、戦場に出る前に死んじまうぜ」

  「……俺は、村を守るためにここに来たんだ。お前と一緒にすんな」

  憎まれ口を叩き合いながらも、リヒャルクの存在は、孤独なウォルカにとって唯一の対等な「友」となっていった。

  そして、その出会いは、もう一人。

  「……弱っちい蹴りだなぁ。ちゃんと飯食ってんのか?そんなんじゃ、自分の身だって守れねえぞ」

  頭上から降ってきた、地を這うような野太い声。

  ウォルカが振り返ると、そこには見上げるような虎の獣人が立っていた。

  若き日のティーガ。

  今よりも幾分か鋭利で、野性味を剥き出しにしていた彼は、呆れたように鼻を鳴らしてウォルカの前にしゃがみ込んだ。

  「坊主、名は?」

  「……ウォルカ」

  「ウォルカ、お前、目はいいな。だが、肩に力が入りすぎだ、まずはちゃんと飯食ってよく寝てでかくなれ」

  そう言って、ティーガの大きな、そして硬いタコが幾つもできた掌が、ウォルカの頭を乱暴に撫で回す。

  子供扱いされているという猛烈な反発心。けれど、その掌から伝わってくる確かな体温と、強者の余裕に、ウォルカの心臓はこれまでにない高鳴りを見せた。

  「余計なお世話だ……俺はすぐ、あんたを追い越すくらい強くなる」

  「ははは、言いやがったな、このチビ助。いいぜ、その時が来るのを楽しみにしててやるよ」

  豪快に笑うティーガの金の瞳。

  その眩しさに、若き日のウォルカは目眩のような思慕を覚えた。

  ―――

  幸せな記憶は、瞬く間に黒く染まっていく。

  ある日、傭兵団に緊急の出動要請が下った。行き先は、ウォルカの故郷がある東部の村々。あの蛮族達がついに大規模な侵攻を開始したというのだ。

  「ウォルカ、飛ばすぞ! 遅れるなよ!」

  「ああ……!」

  リヒャルクと共に馬を、そして自らの脚を極限まで酷使して駆けつけた。心臓が口から飛び出しそうなほどの焦燥感。だが、たどり着いた先にあったのは、守りたかった平穏な光景ではなかった。

  鼻を突く焼けた肉の臭い、赤黒く染まった地面。優しかった村人たちは、言葉にするのも憚られる姿で無造作に転がっていた。

  「……ぁ、あ……」

  膝から崩れ落ちるウォルカの視界から、色が抜け落ちた。村を守るために傭兵団の門を叩いたはずなのに、その爪を一度も振るうことさえ許されなかった。

  目的を失った少年の心に、冷たい闇が音を立てて流れ込んでいった。

  それからの日々は、何をするのにも身が入らず自堕落なものだった。

  「おいウォルカ、次こそ当てるぜ。この金で今夜は酒盛りだ」

  リヒャルクもまた、同じように何かが壊れていた。二人は尾で汚れた床を掃きながら、街の裏路地、澱んだ賭博場へと入り浸るようになる。

  安い酒を喉に流し込み、見知らぬ男と肌を重ね、虚無を誤魔化すように金と時間を溶かしていく。

  「……坊主、いや、ウォルカ。お前、いつまでこんなところで腐ってやがる」

  心配して迎えに来るティーガの声を、当時のウォルカは素直に聞くことができなかった。

  ティーガに構われるたび、彼への思慕が熱く胸を焦がす。けれど、今の自分は薄汚れた傭兵の成れの果てだ。憧れた背中に手が届かない苦しさが、さらに彼を荒廃させた。

  そんなある時、街は新しい領主の就任を祝う祭りに沸いていた。

  人混みを避けるように歩いていたウォルカの目に、露店の隅で輝く小さな細工物が留まる。

  「……」

  それは、宝石細工の腰飾りだった。

  精巧に磨かれた金色の石が、夕陽を浴びて柔らかく光る。その色は、いつも自分に向けられるティーガの瞳の色に似ていた。

  心配ばかりかけているティーガに、たまには礼の一つでも……。

  そう思ったウォルカだったが、懐を探っても硬貨の一枚すら出てこない。賭博と遊びで、手持ちの金は底を突いていた。

  「金がいるのか?」

  背後から、リヒャルクが耳をぴくりと動かして声をかけてくる。

  「……まあな」

  「なら、いい仕事があるぜ。すげえ簡単で金払いも良い。こんな飾り、いくつでも買えるぜ」

  リヒャルクの瞳に宿る、底知れない濁り。

  それが、取り返しのつかない悲劇への入り口だとも知らず、ウォルカは小さく頷いたのだった。

  ―――

  リヒャルクの案内で足を踏み入れたのは、街の華やかな表通りよりも嗅ぎ慣れた、腐臭と湿り気の漂う地下の一室だった。

  ​「……いいか、中身は絶対に見るな。ただ運ぶだけで良い。それだけで金は十分にくれてやる」

  ​外国の商人らしき黒ずくめの男の言葉に、ウォルカとリヒャルクは無言で頷いた。

  手渡されたのは、重厚な革張りの小箱。田舎育ちの彼には、それが何だかは見当がつかなかった。ただ、この箱を運べばティーガにあの腰飾りを贈れる、子供扱いされる自分を卒業できる――そんな浅はかな希望だけが、彼の胸を叩いていた。

  ​だが、目的地へ向かう暗い路地裏で、異変は起きた。

  ​「……なぁ、ウォルカ。これ、やっぱり中身、気になるよな?」

  ​ジャッカルの黒茶の尾を不規則に揺らし、リヒャルクが誘惑に負けたように小箱の鍵に手をかけた。賭博のツケに追われていた彼は、依頼主を裏切り、中身をくすねてさらに金を稼ごうという凶行に出たのだ。

  ​「おい、リヒャルク!」

  ​制止の声は遅かった。カチリと蓋が開いた瞬間、中から出てきたのは袋詰めされた変な匂いのする白い粉だった。

  「なんでぇ、小麦粉か?こんなもんが大事なのかよ。うわ、くっせえ」

  悪態をつきながらも元通りに施錠するリヒャルク。ウォルカも首を傾げながらもほっとした。

  しかし、呑気に箱を運んできた二人を待っていたのは制裁だった。

  ​「――この箱はな、一度でも開けたら分かる仕組みになってんだ。約束を守れねえ悪ガキには仕置きをしねぇとな」

  ​受取人のチンピラじみた男達が下卑た笑みを浮かべた。二人はその場で取り押さえられ、薄暗い廃倉庫へと引きずり込まれる。

  ​それは、死よりも深い屈辱の始まりだった。

  冷え切った石床に組み伏せられ、ウォルカの四肢は簡単に拘束された。​隣でリヒャルクが怯えきった悲鳴を上げる。

  二人に与えられたのは、欲望を隠そうともしない男たちの濁った視線と、粗暴な愛撫だった。

  村を守るために鍛えたはずの肉体は、ただ、蹂躙されるための肉塊へと成り下がる。己の誇りが、そしてティーガへの無垢な思慕までもが、汚泥の中に引きずり込まれていく感覚。

  ​(……ああ、俺は、何をやっているんだ……)

  ​自身の無力さを、これほどまでに残酷な形で突きつけられるとは思わなかった。抗うことを諦め、虚空を見つめるウォルカの視界が絶望に染まりきろうとした、その時だ。

  ​倉庫の重い扉が、大気を震わせる轟音と共に粉砕された。

  ​「――てめぇら!何してやがるッ!!」

  ​それは、倉庫ごと揺るがすような、虎の咆哮。

  ティーガだった。逆立った毛並み、怒りに燃える金色の瞳。彼は文字通り「嵐」となって乱入し、ウォルカを弄んでいた男たちを、人形のように壁へ叩きつけた。

  ​だが、逃げ惑う敵の一人が、狂乱の中でウォルカの喉元へ刃を向けた。

  「来るな! 来たらこいつを殺すぞ!」

  ​「ウォルカ!!」

  ​ティーガの巨躯が、迷わずその間へと割り込んだ。

  肉を貫く、嫌な鈍い音が廃倉庫に響き渡る。

  ウォルカを庇うように抱きすくめたティーガの、強靭な横腹に、深く、鋭く刃が突き立てられた。

  ​「……ぐ……っ」

  ​黄金の瞳が苦痛に歪み、頬を焼くような熱い飛沫がウォルカに飛んだ。

  ​「ティーガ……! ティーガ!!」

  ​自分を抱き締めるティーガから流れ出る鮮血の赤が、夢の中の視界を支配していく。

  ​(……やめてくれ。俺のせいで、これ以上……!)

  ​必死に名前を呼ぶウォルカの叫びが、暗い廃倉庫に虚しく反響した。

  ――

  ​事件から数日後。

  夢の舞台は、傭兵団の寄宿舎にある薄暗い一室へと移っていた。

  ​部屋を支配するのは、安っぽい消毒液の匂いと、重苦しい沈黙だ。ベッドの上では、腹部に幾重にも包帯を巻いたティーガが、穏やかな顔で眠っている。

  ​「……っ」

  ​ウォルカは、震える手でティーガの布団を掛け直した。

  あの時、ティーガは一命を取り留めた。けれど、医者からは「これほど深い傷では、しばらく戦うのは無理だろう」と告げられたのだ。

  ​自分の愚かさが、この人の誇り高い肉体を傷つけ、戦士としての時間を奪った。

  謝罪の言葉すら、今の自分には吐く資格がない。惨めな自分を、鏡で確かめる勇気もない。

  ウォルカは時間を見つけてはその傍らに跪き、罪滅ぼしのように世話を焼き続けた。

  ​「……いつまで、そんなツラしてんだよ。そんなに切羽詰まって見に来なくても死にゃしねえよ」

  顔を上げると、ティーガがいつものように、少しだけ意地悪く、けれど慈愛に満ちた笑みを浮かべてこちらを見ていた。

  ​「ティーガ……、俺のせいだ。本当に……」

  「やめろよ、俺がドジっちまったんだ。……それより、ほらよ」

  ​ティーガは傷など感じさせないようにおおらかに笑い、枕元から小さな包みを取り出した。

  その中から現れたのは、あの日、ウォルカが手に入れようとして道を踏み外した――宝石細工の腰飾りだった。

  ​「……お前、これが欲しかったんだろ。リヒャルクが言ってたぜ」

  「……っ!!」

  ――それは、自分が感謝のしるしに、この男に渡したかったもの。

  ​情けなくて、恥ずかしくて、悔しくて。

  ウォルカはティーガの血の匂いが残る胸板に顔を埋め、しがみついて泣いた。

  嗚咽を漏らし、震える子供のように、ティーガの包帯を涙で濡らし続けた。

  腰飾りの金色の石が、ウォルカの涙を映して、冷たく、けれど永遠の絆のように輝いていた。

  ―――

  意識が、ゆっくりと泥の中から浮上する。

  廃倉庫の錆びた鉄の匂いも、若き日の己の情けない嗚咽も、朝靄が晴れるように遠ざかっていく。

  ​……ウォルカは、静かに目を開けた。

  ​視界に入ったのは、ホムラサキの宿の、柔らかな月光に照らされた天井だ。

  隣からは、規則正しく、安らかな寝息が聞こえてくる。

  ​ウォルカは音を立てぬよう、ゆっくりと首を巡らせた。

  そこには、あの時と同じ表情で、穏やかに眠るティーガの姿があった。夢の中の彼よりも少しだけ目尻に刻まれた皺。逞しさを増した肩。そして、今も毛並みの下に刻まれているであろう、あの日、自分のために受けた「傷跡」。

  ​(……ああ。そうだ。俺は、ティーガを手放すことなんてできない)

  ​夢は、自分に教えたのだ。

  自分が守らなければならないものは何か。そのためにどうするべきなのか。

  ​ウォルカは静かに身を起こすと、月光に照らされた窓の外、教会のいる大陸の方角を、射抜くような眼光で見つめた。

  (あの時の恩に……、この命を、情愛を、全てを捧げる。今度こそ、俺がこの人を守る盾となるんだ)

  その指先が、今も腰に下げられた、あの日の金色の腰飾りに触れる。

  ​宝石は、暗闇の中で、静かに、けれど誰にも消せぬ決意の火を灯していた。