第9章:閑話休題。あるいは、エルフの尊厳が音を立てて崩れ去る時

  嘆きの地下遺跡――その名の通り、探索者の精神を徹底的に破壊しにかかる悪辣なトラップの数々。

  先陣を切って進んでいたエルフの魔法使い・フィーナは、特大の「壁尻拘束」という絶望的な罠に捕らわれ、壁の向こう側にいた若いオスのミノタウロスによって、まさに文字通り『徹底的』に蹂躙されてしまった……と、フィーナが勝手に勘違いして盛り上がってるだけなんだが……。

  「……ひっく、あっ、あえはぇぇっ、だめぇ……! なんで私が……こんな、こんなひどい……」

  「よしよし、フィーナさん。もう終わりましたから。もう大丈夫ですよ」

  「セリアぁぁっ……! もう私、お嫁にいけない体になっちゃったわぁぁっ!」

  床に崩れ落ちて泣きじゃくるフィーナを、セリアが優しく抱きしめている。

  「野良犬ならぬ野良牛に噛まれた思って忘れましょう。それに、まだお嫁に行く気でいたなんて、そちらの方が驚きですから、いい機会です。あきらめましょうね」

  「タイチさんがいるのに……あんな声を出すなんて……さすが淫乱スケベエルフの肩書は伊達じゃありませんでしたね」

  聖母のように優しく微笑むセリアの言葉は、慰めているのか、それともどん底まで突き落としているのか全くわからない。

  フィーナの両足は生まれたての子鹿のようにガクガクと震え、自力で立ち上がることすらままならない状態だった。

  ミノタウロスに太い指で尻をツンツン、そして手でパンパンと叩かれて遊ばれていただけなのだが、極限の羞恥と恐怖でパニックになっていた彼女の脳内では完全に『あんな太いものを後ろからズブズブにされた』ことになって変換されている。そのため、物理的なダメージはゼロ(無傷)のはずなのだが、精神的なダメージは計り知れない。

  「おい、フィーナ。落ち着けって。お前、勘違いしてるぞ」

  あまりにも可哀想になって、俺は事実を告げることにした。

  「俺の【バックエンド・アイ】で見てたけど、あの若いオス牛、お前の尻を指先でポンポン叩いて遊んでただけだぞ? 服が溶けてたから変なふうに感じただけで、それ以上のことは一切されてないから安心しろ」

  「……」

  フィーナはピタリと泣き止み、俺の顔を下から見上げた。

  その瞳に安堵の色が浮かぶ……かと思いきや。

  「うぅぅっ……タイチぃ! うぇええぇぇんっ!」

  「は!?」

  いきなり、先ほどよりも大声で泣き出しやがった。

  「ありがとうタイチ……! 私が汚されたからって、そんな優しい嘘をついて慰めてくれようとして……! でもいいの、私、わかってるから! あんなに奥まで熱くされた感覚、絶対に気のせいじゃないものぉぉっ! タイチの優しさが逆に辛いわぁぁっ!」

  「いや、マジで何もされてないって……」

  「もう放っておいてよぉっ! 私はエルフの森の恥よぉっ!」

  俺が真実を告げれば告げるほど、下手に知識と経験があるフィーナの脳内では「気遣いからの優しい嘘」に変換され、彼女の悲劇のヒロイン度合い(と勘違い)は加速していく一方だった。

  もう駄目だ、こいつの被害妄想は止まらない。

  「にゃっはー! タイチのおにい! 牛のお母ちゃんが置いていったお詫びの箱、お宝がいっぱいだにゃ!」

  果てしなく面倒くさい空気を切り裂くように、クロエの明るい声が響いた。

  見れば、先ほど母親ミノタウロスが置いていった宝箱から、溢れんばかりの金貨や宝石が薄暗い遺跡の中でキラキラと怪しい光を放っている。どうやら、スラムの子供たちを養うための資金問題は、これで一気に解決しそうだった。

  「あ、ありがとうタイチ。少しマシになったわ」

  俺からの魔力供給(マナ・テザリング)を受け、フィーナが壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。

  「無理するなよ。まだ足が震えてるじゃないか」

  「平気よ。私を誰だと思ってるのよ、高貴なるエルフの魔法使いよ? あれしきの野蛮な牛に(貞操を奪われたくらいで)、へこたれるわけ……」

  謎の括弧書きを心の中で補いながら、強がりを言うフィーナが一歩足を踏み出し。

  少し前かがみに――腰を曲げ、お尻を突き出すような姿勢になった。

  その瞬間だった。

  『……ブボボボボッ!』

  静寂に包まれた遺跡の空間に。

  ひどく湿り気を帯びた、なんとも言えない間抜けな排気音が、重低音で響き渡った。

  「「「…………」」」

  一瞬、時が止まった。

  俺、セリア、宝箱を漁っていたクロエ。

  全員が完全に動きを止め、信じられないものを見るような目で、フィーナのお尻のあたりを見つめていた。

  「っ!?」

  フィーナの顔が、全身の血が一気に集まったかのように真っ赤に沸騰する。

  「ち、ちがっ! 違うのっ!! 今のは私じゃないわよ!?」

  すかさず、空気を読まない(あるいは読みすぎる)クロエが、鼻をヒクヒクさせながら宝箱の陰から顔を出した。

  「にゃー! フィーナねーちゃん、おならしたにゃ! レディなのにクサクサにゃー! ダメにゃー!」

  「ちーがーうーわーよーっ!!」

  フィーナが半狂乱になって叫ぶ。

  それに追い打ちをかけるように、今度はセリアがズンズンと歩み寄り、ビシッとフィーナを指差した。

  「フ、フィーナさん! なんという破廉恥な! 男性であるタイチさんの目の前でおならをするなんて、淑女の風上にも置けません!」

  「だから私じゃないって言ってるでしょぉぉっ!?」

  「言い訳は見苦しいですよ! いくら過激な触れ合いでお腹の血行が良くなったからといって、せめて物陰に隠れて『失礼』と断ってからするべきです! 堂々とあんなに品のない大きな音を出すなんて……軽蔑します!」

  「ひどいぃぃっ……!」

  純度100%の正義感からのセリアのお説教は、ある意味でどんな魔法攻撃よりも鋭くフィーナの心をえぐった。

  俺は慌てて【バックエンド・アイ】で今の音の環境ログを再取得した。

  【解析結果:非生体ガス排出音】

  ・音源:対象(フィーナ)の臀部および大腿部

  ・原因:先ほどのトラップで浴びた『衣服溶解ガス』の残留成分が、対象の汗と反応して『ゼリー状のスライム』へと変質・圧着。

  その結果内部に閉じ込められていた空気が、姿勢変化(前かがみ)による摩擦と吸盤効果によって強制排出された際の物理的な破裂音。

  ……ああ、あの時フィーナが浴びてたガス、汗と混ざるとドロドロのスライム状になって肌にへばりつく仕様だったのか。

  「おいお前ら、誤解だ。今のはおならじゃない。さっき服を溶かしたピンクのガスあったろ? あれ、汗と混ざるとスライムみたいな粘液に変質する成分だったみたいだ。それがフィーナの肌にこびりついてて、動いた拍子に空気を押し出して鳴っただけの摩擦音だ」

  「な、なによタイチ! その『全部わかってますよ』みたいな言葉なき優しさは!」

  「いや言葉に出して説明してるだろ」

  「嘘つかないでよぉっ! また優しい嘘ついて、私をかばおうとしてるんでしょっ! わかってるわよ、私が『牛に陵辱されたショックで粗相をしてしまった』って哀れんでるんでしょっ! おならじゃない、別のところから漏れた空気だって思ってるんでしょっ! 違うの、今のはほんとに私じゃないのぉぉっ!」

  俺が論理的な真実を告げても、既に「タイチは私を気遣って嘘をつく」というフィルターがかかっているフィーナには、一切の正論が届かなかった。

  「おならじゃないのよ……おならじゃないの……空気が入っただけ……」

  (だからぁ! そういう事欠片もされちゃいないってのに! めんどくさいなこの妄想暴走エルフ!)

  だが、無情な現実はさらに彼女の尊厳を致命的に削り取っていく。

  力みすぎて腰が抜けたようにへたり込むフィーナ。

  その、汗で張り付いた破けたローブから露わになった白い太ももを伝って――ツツーーッ、と。

  先ほどの「ブボボッ」という音の元凶。彼女の素肌の隙間にこびりついていた『ガスと汗が混ざって生まれたドロドロの粘液』が、限界を迎えてゆっくりとフィーナの太ももを伝い垂れ落ちてきたのだ。

  「あっ……」

  フィーナ自身も、生温かいものが足を伝う感覚に気づいたらしい。

  彼女は自分の太ももを流れ落ちるドロドロの白い液体を、信じられないものを見るような目で見つめ……そして、限界を迎えた。

  「あああああっ……! もうだめ……っ! こんなっ、こんなにたっぷり種付けされてたなんてぇぇっ!」

  「……は?」

  「私、もうエルフの森に帰りたいぃぃっ……!! そして牛の子を身ごもって、一生日陰で暮らすのねぇぇっ!!」

  スライムの残骸をミノタウロスのアレだと完全に勘違いし、フィーナはその場にへたり込み、ボロボロと大粒の涙をこぼして絶望の底へと泣き崩れた。

  だが、ここで一番厄介な純真天然剣士が、とどめの一撃を放った。

  「……フィーナさん、何を言っているんですか? 牛の子供なんて授かるわけないじゃないですか」

  「えっ……? セリア、あなたもしかして、異種族間の繁殖の知識が……」

  「だって、あの牛、フィーナさんと『キス』もしてないじゃないですか」

  「…………え?」

  「キスもせずにコウノトリさんが赤ちゃんを運んでくるなんて、絶対にありえませんわ!」

  ピンと張り詰めていた空気が、別の意味で凍りついた。

  フィーナは涙を引っ込め、ポカンと口を開けてセリアを見上げている。

  「い、いやセリア……赤ちゃんっていうのは、キスじゃなくて、その……もっとその、別の行為で……」

  「やだ、フィーナさんったら! そんな保健の基礎知識もないなんて可哀想に……。いいですか? 愛し合う二人が、神聖な口付けを交わすことで初めて、純白のコウノトリさんが舞い降りるんです! なのに、牛にちょっと指でつつかれただけで赤ちゃんが出来るだなんて……本当にふしだらで、常識がないんですね」

  誇り高きビキニアーマー(どう見ても露出狂)の胸を張り、純度100%の無知蒙昧なドヤ顔で言い放つセリア。

  「……」

  (この子……天然記念物クラスにガチの無知だ……!!)

  フィーナの顔から、すべての感情が抜け落ちた。

  性知識ゼロの小娘に「常識がない」と上から目線で哀れまれ、かといって「いや、赤ちゃんはアソコにアレをどうしてこうして……」と自分からエロい説明をするわけにもいかない。

  「……もう、いいわ。私が、油断していた私が全部悪いのよ……」

  エルフとしてのプライドも、一人の女性としての尊厳も、すべてが粉々に砕け散り、フィーナは完全に燃え尽きた灰のようになって壁の隅で丸くなった。

  「にゃーん? フィーナねーちゃん、お腹痛いならクロエがお腹撫でてあげるにゃ?」

  慌てる純真な二人をよそに、俺はそっと天井を仰いだ。

  (……フィーナは完全に心が折れちゃってるな。まあ、半分以上は本人の勝手な暴走だけど)

  俺が夢見た甘いイチャイチャハーレム生活への道は、想像以上に険しく、そして無駄にハプニングに満ち溢れているのだった。

  「……とりあえず、クロエ」

  「にゃっ?」

  「そこにあるお宝、全部回収したら今日は引き返すぞ。フィーナの精神(メンタル)が終わってる」

  「わかったにゃ! クロエに任せるにゃ!」

  俺は、床でうずくまる『物理的には無傷だが精神的にスライムのようにドロドロになったエルフ』を一瞥し、深く、深く溜息をつくのだった。