お狐様の許婚 壱

  [chapter:目次]

  [jump:2] 一話

  [jump:3] 二話

  [jump:4] 三話

  [jump:5] 四話

  [jump:6] 五話

  [jump:7] 六話

  [jump:8] 七話

  [jump:9] 八話

  [jump:10] 九話

  [jump:11] 十話

  [jump:12] 十一話

  [jump:13] 十二話

  [jump:14] 十三話

  [jump:15] 十四話

  [jump:16] 十五話

  [jump:17] 十六話

  [newpage]

  [chapter:一話 契約]

  小さい頃の記憶なんてあやふやになって然るべきであり。色褪せ、朧げになっていく。時の流れに押し流されるようにして。忘れたいと思うもの程、こびりつくというのに。

  鈴の音が聞こえる。一つではなく、複数を束ねたそれらは。微妙に差異があるというのに、収束し。俺の鼓膜に良く届いた。

  暗がりに浮かび上がるのはいつも、そう。いつも俺一人。広い寺の中、窓も襖も全て閉じ、照明を全て消し。頼りなさげな蝋燭が俺を囲むようにして配置されていた。鈴の音。神楽鈴が振られ、音を鳴らせば。それに共鳴するようにして、ぼやけた意識が覚醒していく。一人、と思っていたのに。切り取られた視野が広がれば俺だけではなかったと知る。囲う蝋燭。その境界の外に複数の気配を感じる。父も、母も。きっとそこに居る。皆が皆、身を隠すように。灯りから、俺から遠ざかるようにして。規則的に周囲を廻る。狐を模した面を被り、背格好を曖昧にする服装。人か、獣か、わからない。お尻から生えた毛の束だけが、唯一そこに立っている者を識別するだけに足る情報であり。人であるなら、尾すらなく。

  上は白、下は赤。靴下はまた白く、差し色のようであった。大きく足を上げくるりと身軽に空中で横に半回転し、床に足先から足音を立てずに着地すると。赤い袴がばさりと、そこだけ衣擦れをさせる。また手に持った神楽鈴がシャンシャンと鳴らされた。俺の周囲で激しく動き続ける面々はとても存在が希薄であり。本当は蝋燭の灯りが見せる、幻覚のように感じられる。本当は俺以外はこの寺の中にいないかのように思わせる。ただ、また聞こえた鈴の音がそうではないと教えてくれていて。同じような和装に身を包み、自分だけがその集団と違い中央で座し。前を見つめているから、誰かがまた視界を横切る。ぴょんと軽やかに跳ねるその人は、目測でだけで言えば自分よりも大きな身体をしていて。面を着けている為に顔はわからないが、大きな鈍い灰色めいた尾が追従するようにして。横薙ぎに振るわれた。廻る、廻る。幾度も、幾度も。繰り返し、決められた作法でもあるのか。同じテンポで、同じ手順で。俺の周囲を人が跳ね、獣が跳ね、時折鈴と。そして唸り声が混じりだす。

  とても大きな存在が、[[rb:降り > ・・]]て来た。真っすぐだった視線を、やや斜め上に。薄暗い空間は天井の模様や木材の組み方すら窺えない。目には見えないが。そこに[[rb:居 > ・]]る。ただ漠然とそれだけ理解した。この儀式は、神楽は。これを呼ぶ為にやっているのだと。ソレを見て、目が合うような気がした。そしてうっそりと、見つめ返す存在は笑ったようにも。

  いつの間にか鈴の音が、止んでいた。

  あれだけ激しくも、静かにいっそ狂ったかのように踊り続けていた人々が。俺が見ている方向に対し平伏していた。俺が視ている者を。皆わかっているとでも言いたげに。密室であるのに、もう誰も動いてないのに。肌を撫でつける風は存在しなくとも。蝋燭の炎が不思議とゆらりと揺れる。その者の、呼吸に合わせるようにしてだ。見上げたままであるから。無防備に晒された自身の喉仏に、誰かが触れるような感触があった。撫でられている。命に指が掛かっている。

  ――名は、何という?

  声、それ自体は聞こえなかった。でも目の前の者が、得体の知れぬ。圧倒的な存在感だけ放つそれが。ニタニタと嗤いながら、俺にそう質問を投げかけた気がした。気がしただけで、俺の勘違いであったのかもしれない。このまま黙ったままでも、たとえ答えたとしても。周囲で平伏した者達が、何をしているのだと急に怒り狂うとは思えない。

  だから、状況についていけぬ俺は。口を噤み、自然と掻いた汗ごと手を握りしめ。赤い袴の上でぶるぶると小さく震えた。じっとりと、纏わりつくようにして。首筋を撫でる、何か。クツクツと、反応を楽しむかのようにして。平伏する者達は目に入らぬとばかりに、ただ俺だけを注視する。捧げられた供物を。怪物。化物。お化け。どれでもあって、どれもその表現は適さないように思え。当たらずも遠からず。輪郭が浮き彫りになりつつあった。あちらとこちらが交わり、灯された蝋燭の一つが。ふっと消える。

  ――名は何という?

  また蝋燭が一つ。消える。元々頼りない光源が、失われつつあった。光量が、明るさが消えていく程に。どうしてか眼前の存在が、浮き彫りになっていく。艶やかな獣の毛が視界いっぱいに。このままでは、夜目の利かない人間である俺で程度では。一歩移動しようとするだけでも困難であろうに。燭台を倒しかねない。そも金縛りのように指一つ動かせない自身の身にそれができたかは定かではないが。恐怖で震えているのか。逃げたくて動こうにも、動けなくて震えているのか。

  また蝋燭が消えた。これで三本目。残りは何本であろうか。何故だか、それがこの問いを投げかけられ。答えぬまま無事でいられる猶予のような感じがして。だんだんと焦りのようなものがやっと生まれる。タイムリミットが刻一刻と。でもそれをしたら。

  黙ったまま。目の前の存在があわよくば立ち去るのを期待した。名を告げたら駄目だと、本能が危険だとそう告げていて、心はそれに従おうとしているのに。口は勝手に動きだす。カラカラに乾いた咥内は声を出すにはとても苦労する。上顎に張り付いた舌はとても動きが鈍く。もう何年も誰とも会話などしてないかのようだ。

  俺の名は。名は。

  「お待ちください!」

  背後から鬼気迫るようにして、男の声が上がる。ガタリと何かを蹴とばしたのか、ドタドタと床を踏み鳴らし。肩を抱かれる。俺を庇うようにして、触れたからこそわかる。ゆったりとした和装なのに、その内に内包する肉体はとても。体格の良い男のそれで。肩を掴む毛むくじゃらの手は、爪が食い込み、自身の肉球が握力によって潰れてもいた。

  「血迷うたか! 何をしておる、早うその手を離さぬか!」

  「いいえ、いいえ。私めの命程度。代われるのならいくらでもくれてやりましょう。ですがまだ、この子は幼く。このような」

  びしゃり。頬に温かい液体が勢いよく付着する。なんであろうかと、手を感触が生じた頬に這わし。べっとりと付着するぬるついた何か。自らの頬から離し、見えやすいように掌を広げて。赤があった。肌色の筈の、自分の地肌に似つかわしく無い。濃い金属のような臭いが漂う。どさりと、俺よりも大きな生き物が。大人の男性らしき人が、隣に力なく倒れた。あんなに強く、胸に押し付けるようにして肩を抱いてくれていたのにだ。今は床に横たわったままだ。急に眠くなったのだろうか。すると後ろの方から女性の悲鳴がする。この声は、誰だろうか。母でないのは確かだ。耳障りなそれも、切り裂かれるような音がして途絶えてしまったが。

  転がるお面。狐の面がころころと。白かった上着が、袴と同じになろうと赤く。じわじわと内側から塗料で染まっていく。倒れた男。狐の面で今まで覆い隠していた、その尊顔。動物は、そうなのだが。狐ではなく、狼の表情は生気が抜けたように。呼吸、しているのだろうか。わからない。わからないけれど、早く何か処置をしなければ。手遅れになるとだけ理解していて。後数分、いや数秒で。この人は、亡くなるのだろう。亡くなってしまうのだろう。それだけは、わかった。だというのに大勢居る周囲の大人達は助けるでもなく、ただただ平伏した姿勢を崩さぬようにしていた。早くしないと、この人も。死んじゃうよ。

  ――邪魔が入ったな。して、名は?

  それをしただろう、存在は。今、この世を去ろうとする尊いであろう命よりも。幼子でしかない、自分を凝視していて。まるで虫でも払ったかのように、既に意識の外に追いやっていた。失敗だ。儀式は失敗した。そんなひそひそ声がして。俺達の会話を遮る、虫の囀りが煩わしいとばかりに。大きな存在は腕を振るい。また肉を断つ音と、液体がびしゃびしゃと雨のように降り注ぐ。生暖かい。

  「いぶき」

  しんと静まり返った場に、俺の声はよく通った。

  「いぶきと、申します。ですからどうか、どうか。この者達の無礼を許し。怒りをお沈めください。これ以上、誰も、殺さないで。お願い、します。お願いだから。えっと、かしこみかしこみ申す」

  ゆっくりと、三つ指ついて。頭を下げていく。これで良かったのだろうか。言い方を間違えてやしないか。この場に居る人達が何もしないというのだから。俺がそう言って、どうなるというのか。大人が大勢居て、子供一人が何をしたからと。冷や汗が今となって、背筋をじっとりと濡らす。四足の獣が、燭台を辿るように。俺を値踏みすようにして、周囲を歩く。突き刺さる視線が隅々まで、魂まで覗かれているかのような不快感。

  「そうか。伊吹と、そう申すか」

  肉声で、こんどこそ。大いなる存在だけだった、化け物が。この場の誰しもの鼓膜だけでなく、腹すらも震わせるようにして。もう、血飛沫で綺麗に磨かれた床が汚れる事はなかった。俯いた俺の顔を反射し映す、赤い液体は。恐ろしく、でも。どこか美しかった。人の命そのものであるのだから。零れてはいけないからこそ、今水溜まりのように、広範囲を濡らす。池のようになっている周囲の光景は。流れた汗か。俺の頬を伝い、顎先から滴った雫は。ぴちゃんと、波紋を作る。最後の蝋燭が消えた。

  それが、一番古い記憶。

  大人達に囲まれ、暗い寺の中で。俺が遭遇したであろう。恐ろしい体験。こんなにも簡単に、理不尽に誰かが死ぬのだと。思い知らされた故に。薄れるままであっても、強烈にこびりついた。べったりと付着して落ちない血糊。

  助けなきゃ。誰も、何もしないというのなら。この人を。顔つきは若そうな狼の男の人を。俺が助けなきゃってそう思った。内側から何かが吸われる感覚と共に。俺もまた力尽きるようにして横に転がる。頬を濡らす液体。その発生源を辿り、指先に柔らかい毛が当たる。獣の顔に手を這わしても、反応はなく。その灰色の毛を赤く染めるだけだった。狼の人。自分よりもとても強そうで、だというのに死にかけている人。まだ身体は温かかった筈なのに、心臓が止まったのかその熱も徐々に無くなりつつあった。

  願った。助けたいと。でもこの場から運ぶ術も、そしてそれをしたとして。この人が病院まで持たないとも理解していた。死体を運ぶつもりなのか、ゆっくりと今更寄り集まってくる大人達。慌てず、でも口々に恐ろしい恐ろしいと。何かを畏れ。俺を見下ろしていた。俺を怖れていた。

  「こっちこっち! いぶき!」

  幼い、男の子が俺を呼んでいた。あどけない顔いっぱいに無邪気な笑顔で。

  「待ってよ、マーくん!」

  俺よりも先を駆ける男の子。陽光を反射し、それその物がまるで[[rb:黄金色 > こがねいろ]]に光を輝いているようでいて。男の子はそんなとても目立つ被毛を纏い、獣の顔をしているのに服を着て。二足で、俺よりもずっと早く。先を進み、振り返った狐の顔で笑うのだった。美術品のような美しさがある毛並みであったが。けして作り物ではない。にっこりと笑みを湛え。俺に向けて遅いって言うのだから。顎下から、お腹にかけては白い毛をしているのか。襟首から見える胸元は、ふわふわの綿毛のようだった。

  手首から先や足先だけが手袋や靴下のように黒い毛になっていて。光の加減でそこは焦げ茶色に見えたりするから、一色ではないらしい。そしてそういう部分は、明るい印象を与える彼の毛並みをより一層引き立てていた。からころと、砂利の上を弾む下駄が楽器のように打ち鳴らされ。そこに子供特有の、キャハキャハと甲高い笑い声が相槌をうつようにして。聞こえてくるせせらぎの音が男の子ばかり目で追っていた自分に、川沿いにやって来て、足元の感触が土から砂利にと変化して。川辺のそれであると理解した。ぱしゃり。前を走る狐の子が、勢いを殺さず不用意に水辺に侵入し。足首を濡らす。動きやすいように、半袖、半ズボン。ころころと愛らしく笑う姿は、何が可笑しいのか。でもとても楽しそうで。笑う理由は自身の毛が濡れた事か。彼が水辺に躊躇なく入った事で驚く俺の表情を見てか。

  危ないよ。ぜえぜえと息を荒げ、追いつくのでやっとであったから。それだけを口にし俺は水に入らず。ただ自身の膝に手をついて、呼吸を落ち着けていた。じりじりと焼け付くような日光と、木々のどこかで声高々に叫ぶ。蝉のジジジジという求愛の音がどこか哀愁を誘う。田舎にはありふれた、山に程近い川辺であって。住んでいる俺からすると物珍しさはなく。小さな隠れ里のようなこの田舎町で育ったからか。ただただ、あまり奥に立ち入ると熊や猪とかに襲われないか。水底が突如として深くなり、狐の子が溺れてしまわないか。そういった見慣れたといより飽いた景色を楽しむよりも、心配する不安ばかりが先走る。

  狐の子は俺とは逆に何を見ても珍しがり、空気が美味しいと言う。男の子は別の家の子であり。親が言うには本家の子。分家と呼ばれる、自分の所に少しの間だけではあるが事情故にやっかいになっている。そんな関係性。幼い心には全てをちゃんと理解できないまでも。でも、同じ歳というのもあって、人間と、狐の子。種族は違えど、等身大以上の好奇心と。遊びたがりな心は、そんな壁などあってないようなものだった。大人の事情など知ったことかと自己紹介したその日に、一緒に外へと駆けだしたのだから。

  だから、俺の家にやってきた日から。数えなくても、こんな場所に二人で遊びに来る事が多くなり。いつも、彼の後を追って。伊吹は体力がないなって、その都度笑われるのだった。マーくんと一緒にしないでよと言いたかったけれど、同じ人間の友達も。俺よりも足が速く、体力がある子が多くて。人間の枠組みにおいても、あまり運動が得意な部類ではないのだと。比べてみて、なんとなくわかっていた。

  からころと、また下駄の音がして。視界に濡れた狐の子の足先が映る。手と同じで、そこだけ黒くて。今日は特に日差しが強く、熱を溜め込みやすい箇所でもあるから。暑苦しそうに感じた。持ち主は暑さなど感じていないかのようにけろりとしていて、俺に遠慮なく抱き着いてくるのだが。毛玉がまとわりついて、毛皮持ちの高い体温もあり先に俺の方が暑い暑いと。更に汗が吹き出しそうだったが。

  「くっつくと暑いよ、マーくん」

  「そう言うならいぶきも川に入ろうよ、気持ちいいよ!」

  獣特有の、突き出た口先。その頂点にある黒い湿った鼻が、興奮にかふんすふんすと鼻息荒く。俺の顔に生温かい風を送って来る。わかったから、とりあえずその手を離してよと。スキンシップが激しめな、狐の子を嗜める。同性だから。でもそんな部分を差し引いても、距離が近いのは獣人と呼ばれる獣の要素を持つ人特有なのだろうかと思わなくもないが。別に獣人だからと、必ずしもそうではない。

  見た目は違えど同じ社会性の中で暮らしており。さらに血は遠くながらも、俺と繋がっているらしいから。親戚であるからして。そう考えると、人間の見た目なのに。俺の中にも、狐の遺伝子が少なからず存在しているのだなと気づいた。この田舎町にも獣人は居て、でも彼のように不思議と狐の姿に似た人は居なかった。犬や猫、雀や狸の子なら友達に居たとしても。だから獣人は物珍しい種族ではないとしても。狐の子は見かけない。世間では混血がどうの、人間と獣人の境目はどこから。姿か、血か。そう騒がれているらしいが。習ってもない専門的な事、年齢が一桁の俺に聞かれたってわかるわけもない。

  狐の血が流れていると言っても。この子のように、頭頂部によく動く耳も。ゆらゆら揺れる尻尾もお尻には生えていないが。成長して大人になるにつれ。胸や脇といったいろいろな部分に、毛が生えてくるというけれど。中途半端に毛むくじゃらになったら嫌だと思った。そうなるなら、最初から獣の要素をより濃く産まれたかった。未来を案じても、今の俺にはわからないし。個人差があり、薄い人は胸毛とか生えないらしいが。

  気分屋な狐君に振り回されて、今日も母に何も言わず家から飛び出して来たのだから。どちらかというと、そちらを心配した方が良い気もした。また父に叱られそうだ。いつも言いつけを守らないのはマーくんなのに、俺がちゃんと見てないといけないでしょと。なぜか一方的に悪者にされるのだから。本家の子だから、偉いのだろうか。

  自分の父と母の元から離れ、わざわざ会った事もなかった俺の家に。いくら分家と呼ばれていても、彼に会うまで本家があるなんて俺は知りもしなかったのに。単身、居候のようにして。独りぼっちでやってきて。お世話になりますと、頭を下げ。常に明るく振る舞う狐の子。寂しくないのかなって、気になって聞いた時だけ。少しだけ表情を強張らせたから。幼いながらも、同じ年齢であるからか。彼が本当は寂しいんだと勝手に思って、その寂しさを少しでも紛らわせようと。そんな彼の我儘に文句は言いつつも付き合い、いつも傍に居ようとはしていた。

  父や母の言葉がなくても、きっと。そうしていただろう。せいせいする。親を想いながら、遠くを見て言うその狐の子の心情など。推し量れなくても。独りぼっちはきっと誰しもが、寂しいものだと。俺なりに思ったものだった。

  俺を置いて、また水の中に足を付け。涼む狐の子、手招きしているが。あまり泥等で服を汚すとこんどは母に叱られると思い、二の足を踏んだ。気分的には俺も入りたかった。冷たい水はさぞ、火照り汗を滲ませる身体に追従する不快感を払いのけてくれるだろう。いっそ着ている服をたたみ、お風呂に入るようにして。肩まで浸かり、泳いでしまおうか。ただそれをするには、いくら同性と言えど裸を見せた事のない狐の子に。自ら全てを曝け出すという事で。そのような真似はたとえ同性であれど恥ずかしく、そしてはしたない事だと思った。人間の身体ってどうなっているのかと、会って数日としない内に上着をたくし上げられ。その突き出たマズルで冒険家の如く。狐の顔がずいずい服の中に突撃してきたりしたのだが。ひんやりとした、湿った鼻とくぐもった声。生温かい呼吸がお腹や胸元を這い回り、素頓狂な声を上げ、動物の顔を押し退けたものだ。パチパチと不思議そうにする理性的な瞳が、俺を見返して。次には何するのって探検を邪魔され不満げにしていたが。

  伊吹は分家の子だから俺の言う事を聞くの!

  そう幼さない声で、本家の権威とやらを正しく理解していないまま振りかざすのだから。こちらとしてはたまったものではなかった。大人達のする噂話や、自分の置かれた状況とを加味すれば身分的には狐の子が言う通り。自分は立場的に下であるのだなってのはなんとなくわかる。わかっても、同じく子供の俺が納得できるかは別で。突如偉そうに同い歳の子にそう言われたとして、はいはいと従えるかどうかは否と答える。まだ大人の人であったなら敬ったりしたであろうが。残念ながら言ってしまえば優等生気質でもなく。人を困らせてばかりの困った子でもなかったが。自分はただの普通の餓鬼であるのだから。

  そも、父も母もろくに俺に本家があっただと教えてくれていなかったし。付き人のような教育もされておらず、ただの田舎に住む平々凡々な子供に何を期待しているのか。だから彼が言うような対応はできず、また言ってるよこいつといった内心冷めたものであり。表面上は、はあそうですかと。あまり角がたちすぎないように、されど全く響いていませんよという体であった。

  ふふんと、偉そうにした後で。そんな人間の態度に出鼻を挫かれたのか。こちらを指差していた手を下ろし、えっとって。逆に困った顔して、自分の振る舞いは間違えただろうかって。それとなく怒ってるか気にしてくれる狐の子は、どうやらその権威がまるで効果がないお[[rb:友達 > ・・]]は初めてのようで、距離感や接し方がわからず。本家でしていたであろう普段の態度を俺に対してやった後で、後悔しているのか。でも謝ったりはしなかった。

  黙ったままで居ると、だんだんと勇んでいた両耳が倒れていく姿は。人間の俺にはない感情の表現方法だ。ご近所さんの老夫婦が飼っている柴犬の太郎、お菓子を取り上げられた飼い犬を思い起こさせるその仕草。残念ながら太郎は狐の顔をした獣人であるマーくんが気に入らないのか、誰にでも人懐っこいという評判は。マーくん以外という注釈が入るようになった。わんわん吠えられ、俺の後ろに隠れた姿は記憶に新しい。

  勝手に手を取り、別に怒ってないよ。今日はどこに冒険しに行く? そう聞けば、彼の毛並みは黄金のように。金塊や、ともすれば秋の紅葉のように美しく。光の加減で綺麗と言ってしまえる種類を、色彩を変えながら。この時ばかりは、恥ずかしそうに繋いだ手を見た後。少しばかり毛を逆立てて、まるでそう。向日葵が咲くようにして。でも若干照れたように笑うのだから。別に手を握ったのはすぐ俺を置いて行くから、手綱を握るといった意味合い的には正しいのだが。狐の子はそうではなかったのか、嬉しそうに。でも、ぎこちなく黒い手が握り返してくれた。あまり、手を繋いだりした事がないのだろうか。俺がそうしてから、しきりに狐の子。マーくんは手と手を繋ぎたがったように思う。

  ああ、そうだ。このマーくんと呼ぶのも。狐の子は驚きと、新鮮さを持って。伊吹だけ特別と許してくれた呼び方であったか。普段、彼の周辺を囲む仲の良いお友達とやらは。マーくんという愛称ではなく、様付けで呼ぶらしい。彼の名前、は正しくは何と言ったか。

  「いぶき!」

  俺を呼ぶ、狐の子。少し目を離すともう膝まで川に浸かっていた。危ないよって、言おうとして。でもマーくんは俺を見て、というより俺の足元を見て。逆に慌てているように思えた。何かを伝えたいのかわたわたと両手を振り、こっちに来ようとしてくれている。

  ぞわり。背筋を這う形容できない嫌な感じ。何かが左脛を登って来る感触 。驚きに足を振るよりも先ず、それが何か確認しようとして。足元を覗き込むように、すると。這う生き物と目が合った。黒い、といういよりどす黒いと思わせる艶のない鱗。ぺたりぺたり、吸盤があるのかその手に鉤爪はなく。それ故に肌を傷つける事はないのだが、人の肌をクライミングするようにして。器用に登るのは頭の先から細長い尻尾の先まで含めると、体長十センチ程大きめな黒いヤモリだった。それだけなら、ただ大きいヤモリだってそう思えたのだが。見下げた俺を見返すように、脛に抱きついて見上げるヤモリの目が問題であった。普通ならつぶらな瞳が愛らしくそこに二つあると思っていたのに。ギョロギョロと動き、額、頬。顔に不規則にイボか何か病気でもかかっているかのようにして。大小様々な目が、俺を見ていた。ちゃんと数えたら十個以上あるのだろうが、それを律儀に数える暇は。そんなヤモリの顔を認識した俺の焦燥感が許さず、この時にやっと。気持ち悪い。そんな感想を抱き、目が大量にあるヤモリが抱きついている足を振った。幸い、吸着力はそれ程でもなかったのか。俺の無鉄砲に振るうだけの力であっても、明後日の方角へふるい落す事に成功する。

  遠くの方、といっても数メートル先にぺちゃりと不時着した不気味なヤモリ。そこで隣から慌てて俺に抱きつき、庇うようにして飛んでいった方角に向け掌を翳し。険しい顔をする狐の子。この時ばかりは、抱きつかれて暑いなんて感想は抱かなかった。彼のズボンが少し濡れていたのか、接触した部分がじんわりと俺までも濡れてしまう。

  「大丈夫?」

  「あ、うん、大丈夫」

  暫くして、不気味なヤモリがもうこちらに寄ってこないのを確認した後で。マーくんは力が抜け座り込もうとする俺を支え、顔色をよく見ようと覗き込んでくる。あんな物を見た後で、もう既に落ち着いていた。正直な話、俺にはああいう不気味な存在がよく視えた。あいつらは、ちょっとした木陰や。家の軒先、本当にどこにでも居て。でも人が近づくと慌てて身を隠す臆病な存在だった。でもそれが視えるのは、一部の人だけであって。少なくとも村に住んでる住民の多くは、そして友達にも。視えていないのだとは、誰でも視える存在ではないのだと早々理解していた。視えているのを、そのまま伝えると可笑しい子だとそんな反応をされるのだから。妄想の類いだと疑った。

  父と母にも、視えておらず。でも存在自体は知っているのか、否定せず、戯言だとせずに。自分から関わっちゃ駄目だと。きつく、きつく言われていた。あいつらは小さい内はこちらに干渉する術を持たぬが、増えたり、大きくなれば。人に害をもたらす存在になりかねないと。

  そして厄介な事に、あいつらは親に言われた通りに無視をしていても。俺に惹き付けられるようにして寄ってくる傾向にあった。好かれている、と言えば聞こえは良いが。見た目が普通から外れたものが多く、色や形に統一性はなく。身体の一部が欠損したままであったり、逆に腕や足が通常よりも多く生えていたり。言ってしまえばお化けとかそういった類いなのかなって、そういう枠組みに嵌めてしまえばしっくりと納得してしまえた。俺があいつらを視えているからこそ、あいつらもまた。自分達が視えている存在に対して興味を惹かれるのかもしれなかったが。

  ポルターガイストを起こしたり、人に憑りついて気力を失くす。悪い存在なんだって。そして、幸いな事に狐の子にも。俺が視えている光景、その体毛とは別種の金の虹彩は。妖と呼ばれる存在を映しているようであり。こうして突如見えない何かに襲われたりして、慌てふためく姿を見られても。他の友達のように変な奴だとも言わなかった。

  いや、虫がね。急に顔につっこんで来てねって無駄に誤魔化す必要もなかった。

  マーくんが側に居ると、あいつらは俺の側に寄ってくる事はなかった。まるで、その美しい毛皮が眩しいと目が眩み避けるように。遠ざかるのだ。だというのに彼が離れた途端。じめじめしてて居心地が良いとばかりに、俺の側に寄ってくるのは正直鬱陶しい。今の所、明確に危害を加えられた事はなかったが。親が言うのもあったし。見た目が気持ち悪い者も多いとあって。俺も好き好んで寄って来るからと触れたいとは思わなかった。頭のない狸がどす黒い血を切断面である首から流しながら、後ろを暫くとてとてと可愛らしい足取りで帰り道を着いてきた事もあるし。見たくもないのに、視えるのだから。どうやっても視界のどこかには、いつもやつらは居た。ご近所さんである、お婆ちゃんが使っている家具から人の手足が生えていたり。マーくんが言うには、ああいうのは付喪神と言うらしいが。

  いっそ精神を病みそうな光景ばかりであっても、家の中や他に人が居れば遠巻きにこちらを見ているだけの存在でしかないので。慣れてしまっていた。もう少し、可愛らしい姿であれば親の忠告も聞かず自分から触れたり、話しかけたりしていたかもしれないが。だいたいはこちらの嫌悪感を誘う姿ばかりであったのでそうはならなかった。それに、良くないものだと。本能的に避けたいと身体が動くのもあって。共存と言えないまでも、生活の一部に良くも悪くも不可抗力的には溶け込んでいた。

  マーくんと一緒に暮らすようになり、彼が居ると好きな時に側に寄れないからか。こうして、ほんの少し離れた隙を。まるで恋人が触れあえなかった時間を埋めたいかのように、明確な意思を持って急いで近づいてくるのが。最近の新たな悩みであった。さっきの不気味なヤモリも、いつもなら遠くから木の上や石の陰からこっそり見つめてくるだけで。こうではなかった。

  恐ろしいかと聞かれたらそうだと思えるのだが。もっと、一番恐ろしい経験をしてしまえば。自然と無意識の内にそれと比べてしまうというのもあって。物心ついた時から視えるからこそ警戒心も薄れつつある、危険な傾向だと感じた。

  「視えるのに。いぶきは本当に術が使えないの?」

  相手の問いに、素直に頷く。視えるだけでも、どこか普通と違うのに。この狐の子は更に不可思議な能力を有していて、トカゲが居た方に翳していた掌。そこには青白い炎がぽつりと、空中に浮かび。揺蕩っていた。紙や乾燥した枝といった燃えやすい素材もないのに。肉球から数センチ離れた位置で固定され、火元にそんなに近くて手が火傷したりしないのかなって思うも。その現象を起こしているのは狐の子自身であるからして、どうやら熱を感じてはいないようだった。未熟な者は火傷したりするらしいけれど。俺はユウシュウだからな! と、息巻いていた。軽く翳していた手を振ると、それを境に不可思議な炎も掻き消えてしまうから。言うように出したり消したりは自由自在らしい。出力に関して言えば、まだこれぐらいしか出せないと。俺がもっと大きな炎を生み出せないのか聞けば、途端に自信たっぷりな顔が変わるのだが。

  本家の方では、視えるだけではなく。こういった不思議な力を使える人が多く存在していて。だからこそ、マーくんは視える俺にも。そういった力が当然あると思っていたようだ。だが、そんな教育も。そして父も、ましてや母も。俺と違って視えず、力も使えないとなれば。教える事もできないからか、そんな素振りすらなかった。だから初めてマーくんが俺の目の前でその力を行使した際に、必要以上に驚いてしまったのを。かなり訝しまれてしまって。

  身を守る術があるなら、正直言えば欲しいとは思う。あいつらを追い払えるのなら。狐の子のように、俺も。そう考えるのは自然な流れであって、だからと。それでマーくんが使えるからと自ら教えてはくれなかったが。そういうのはしっかりと大人の先生に習うものだって、いくら自分がユウシュウ! と言っても。自分なりの線引きはあるのか、断られてしまった。

  「いぶきは俺が守るから、べつにいいの!」

  父と母には、マーくんをよくよく目を離さぬようにと言われているのに。その当人に、こう言われてしまっているのだから。何となく、己が情けないような気持ちに駆られる。自分が追い払う自信があるからこそ、こうして静止する俺を連れ出して。言いつけも守らず、どこにでも出掛けようとするのだろうけれど。線引きはあれど、驕りというか。蛮勇な心はあるのか。どこまでその力が優れているのか、比例対象がいないのでわからないが。自信満々に言ってのけてしまうのだから。自分からあいつらが多く生息する場所にはあまり行きたくないのが本音。森の奥や川。事故が多い場所。そういった所は特に、容姿が気持ち悪く、形が崩れた奴が多かった。だからと家の中では遊べる物が限られていて。俺の家はド田舎と言えどネット回線は存在するが、パソコンは父の所有物であり迂闊には触れられず。そしてテレビゲームも買い与えられていない。となると遊ぶ選択肢は、友達と広場に行ってボール遊びといったものが普通だった。マーくんは着替え等が入った大きめの肩掛け鞄の中に、最先端の携帯ゲーム機を所持しており。それで遊ぶのかなって思ったが飽きた、の一言と共に電源を一度として入れられず。放置されたままだ。俺は触ってみたいのに、人の物だからと遠慮して。何も言えず。そういえば、友達は元気かな。マーくんが来てから、他の子と遊んでいない事に気づいた。彼にかまけてばかりで。

  「俺が、いぶきを守るから」

  掬い取るようにして、黒い手袋のような狐の両手が。俺の両手を取り、包み込んでしまう。ぷにぷにの肉球に包まれて、ぽかぽかとする。座り込んだ人に対して、同じように屈み。視線の高さを合わせるようにして、狐の子は。緊張したように。どこか、焦がれるようにして。

  「だからさ、だから。いぶきはさ、俺を――」

  ぱくぱくと、狐の口が動くのに。途中から不自然に声が途切れてしまった。聞き返そうとするのに、景色がどんどん遠ざかるようにして。目の前の狐の子も、ぼやけてしまう。浮遊感のようなものが襲い、手を覆う感触すら消え失せ。どこからか、低い男性の声が突如聞こえてくる。それは、どうやら俺の名を呼んでいるようで。繰り返されると、それはより鮮明に。

  ――さま。いぶき。いぶきさま。

  どうやら、懐かしくも。過ぎ去ってしまった過去を追体験するのはここまでのようだった。呼ばれてるのだから起きなきゃ、と思った。

  「伊吹様」

  落ち着いた、低い声がしっとりと鼓膜を震わせる。閉じていた瞼を持ち上げると。視界には助手席の裏と、後部座席に深く座っていた自分の足。車のドアに寄りかかるようにしてあった、支えにしてある片腕。微振動により、身体が心地いい揺れで眠気を誘うが。相手が呼んでるのだから、もう眠るわけにもいかない。

  「ああ、ごめん。いつの間にか寝てたみたい」

  「構いませんよ。昨日はあまり、突然の事で寝られなかったでしょうし」

  セダン系の車を運転する男性。その後頭部を見て、そこにはふさふさとした獣毛があり。獣の耳が片方、器用に後部座席側にくるりと向き。俺の声をしっかりと拾おうとしていた。続いて視線を動かし、ルームミラー越しにその人の顔を見ようとすると。運転中のその人もまた、俺をミラー越しに見ようとしていたのか。鋭い獣の、されどとても優しそうな印象を与える瞳が。一瞬交わる。前を向いている、突き出たマズル部分。そして斜め後ろに座っているから見える、灰色の横顔。犬科の中でも厚い毛皮をしていて、凛々しい顔立ち。狼のそれであった。

  「今、どこら辺を走ってるの」

  寝起きだからか。運転してもらっているのに、一人寝てしまっていた申し訳なさと。彼の言う通り、昨日はあまり準備に忙しく寝られなかったなって同意と。車のシートだからか、無意識の内に寝てしまったからというのもあって。取れない疲れと。休憩もせず数時間運転しているだろう、相手の疲労は自分よりもあるのではないかって心配する気持ち。それらが複雑に絡み合い、それ以上謝罪をする気も、かといって感謝もせず。とてもぶっきらぼうになりながらそう問うていた。それで相手は顔を顰めたりせず。口元をふんわりと緩めたまま。ハンドルのすぐ隣にある、カーナビを一瞬見ては。その狼さん。[[rb:大上月路 > おおがみつきじ]]と名乗った人が、穏やかな声音で。もうすぐ着きますよって言うのだった。

  最初の方は、ただ山道だから森と片側一車線の道路がずっと続いていて。とても少ない頻度で対向車が通り過ぎる程度であったのに。確かに、彼の言う通り。外から中が見え辛いように、スモークが施されたちょっと世界を薄暗く映す窓を見やれば。建物が多く、片側三車線の道を車は静かなエンジン音と共に走行しているようであった。一緒に走っている車の量も多い。というか、こんなにも車って走るものなんだ。田舎では田んぼばかりで、収穫物を運ぶ用途を想定してか軽トラが主流であり、彼が所有しているセダンタイプですら珍しいのに。両親のは小さい軽四だった。今見えているだけでも、多種多様な。俺でも知らないタイプの車が、自由に持ち主の意のままにこちらを追い越していく。ちょっとあの車、角ばっててゴツイな、なんて。

  「まだ約束の時間まで、余裕がありますし。どこかファミレスにでも寄りましょうか。伊吹様は、食べたい物とかありますか」

  「食欲ない」

  気遣いの言葉に、反射的にそう返してしまうも。そういえば、大上月路さんも。俺が移動中飲まず食わずであったのだから、彼だけ寝ている内に一人で食べたりする人柄ではないのではと思い返し。後悔する。あまりに、自己中心的な考えであったかと。ミラー越しに、こちらを心配そうにする。狼の目線を感じ。遮光効果もある、窓のお陰で。日光が眩しいわけでもないが、額を手で覆いながら。

  「ごめん、やっぱり何か入れときたい。特にないから、目についたお店でいいよ」

  運転席側からほっと、安心したような気配をさせた後。自分の気怠い声音と違い、しっかりとした声が一つ。はい、と車内に響く。数メートル走った後。カッチ、カッチ。方向指示器を出したのか、そんな音が僅かに聞こえ。減速した後で、車がゆっくりと曲がる。あまり揺れないし、加速や減速する時に身体に圧を感じないから。この人はとても運転が上手い部類なんだなと、ぼんやりと思った。自分の町にはなかった、チェーン店なのか。名前だけ聞いた事があるお店の看板がちらりと見える。歩道を越え、駐車場を徐行する車内から。客の入り具合が気になるも、まばらな事から。そこまで混んではいないんだなと、少しだけ浮かせた背を。またシートに深く沈めた。エンジンを止め、運転席から出た狼が。急いで俺のドアの方へ向かうのが見えて。開けられるよりも先に、自らエアコンが利いていた名残かまだ涼しい車内から出ると、じりじりと強い日差しと。纏わりつく暑さが。田舎も、都会も。そこは変わらないんだなと思ったが。人の多さと、排気ガスの量が違うからか。若干こちらの方が嫌に感じた。

  こんな暑い中。毛皮があるのに、見るからに暑苦しそうなスーツに身を包んだ狼の頭を乗っけた人の形をした他人。中途半端にドアを掴もうとした手が、どこか滑稽だった。

  「そこまでしなくていいよ」

  「しかし、伊吹様。私は……」

  困惑する自分よりも背の高い人を通り過ぎ、先にお店の入口に向かうと。慌てた気配と、ピッ。車から遠隔操作で施錠される音が背後からした。続いて、革靴を履いた人が小走りで追いついて来る。付き人みたいな事をする、自分よりも背の高い男性。ハイイロオオカミの血が流れているらしく。犬科、狼の中でも体躯に恵まれやすいのか。彼もまたその例に漏れず羨むぐらい上背があり。隣に並ばれると、肩の位置も、横を向いたとて目線も合わない。またお店のドアを勝手に自分で開けようとすると。追いついたスーツの男にこんどは先手を取られ、自分なんかに畏まった狼がさささと。どこかの令嬢のようにエスコートされる。とても安っぽい、ファミレスのドアでだ。恥ずかしいから、止めて欲しいのに。そんな意味でも溜息を自然と吐いてしまって。少し腰を折っているが為に、触りやすい位置にある狼の耳が溜息を聞いてかぴくりと一度動いたのが良く見えた。

  これから、この人と生活していくと思うと。とても気が重い。今からでも、やっぱり帰りたいとお願いしたいものだが。この何でも貴方の言う事なら聞きますみたいな態度の人は、きっとそれだけは断固として聞き入れてくれないのだろうなって。だって、遥々訪ねて来て。突如俺を攫うようにして、住み慣れた田舎からこんな場所に連れだしたのは。他の誰でもなく、この大上月路さんその人であり。これから両親ではなく、諸々のお世話をするのも大上月路さんだ。あまり面識もないのに、両親は信頼した顔をして。というより、俺が知らないだけで。事前に話は通っていたのか、訪ねて来た次の日に慌てて準備をした俺を日も登らぬ内に送り出したのだから。その前提があるから、気を許していない相手というのもあって。どこか、この人に対するそれが。失礼とわかっていながらも、ぶっきらぼうな態度ばかりになってしまっていた。

  さぞ嫌な奴であろう。いっそ嫌われて、追い返して欲しいのに。なかなか耐えてくれるものだった。

  逆に、自分の良心が責められてしまう。年上であるのだから敬語を使うべきだとも思ったが、なんだか癪だと思ってしまうのは。自分がまだまだ感情のまま振る舞う子供という事だった。露骨なまでに態度に出して。あの時から、随分成長したのに。見ず知らずの人にこれからお世話になり。そして、生活を共にするともなれば。

  学校も、暮らす家も違う。ありとあらゆるものが突如変わってしまって、変わらないのは自分の着慣れた服と。四人掛けのテーブル席に座った後で、画面が傷だらけでいい加減機種変が視野に入る取り出した携帯ぐらいか。小さい頃は友達が持っている携帯ゲームを羨んだものだが、携帯でもそこそこのゲームアプリができてしまうのは技術の進歩が目覚ましい。が、数年使っていると性能が追いつかないのも明白であった。変えなきゃなとも思うが、愛着と惰性で液晶画面が割れたまま使い続けてしまっている。時刻と、メールの通知がないかだけ確認して。そっとしまうタイミングで。こちらに見えやすいように、メニューを渡してくれた対面に座る大上月路さん。脳内でずっとフルネームなのも、初対面の相手の名前を覚えようというよりは。ただやっかんでいるだけであった。

  他人事なら、とても人当たりの良さそうな。厳つい狼の顔を柔らかくさせて、年下である俺相手でも敬語で接してくれるのだから。遠目から見ているだけならその人に好感を持ちそうなものだったが。俺はそうではなかった。

  美味しそうに、光の加減を調整され。綺麗に撮られた料理のメニューを見ていると、そこで初めて空腹を自覚する。食欲がないと言った少し前の自分はどこにいったのやら。目移りするが、でも。あまり重たい物も食べたくない。けれど、こういった店はだいたい。ハンバーグ。ステーキ。スパゲッティ。ピザ。ごった煮の胃に負担をかけそうな洋食ばかりで。丼ものもそうで。和食が辛うじてある程度だった。だから無難に、野菜炒め定食的な物が目に付いて。名前もよく見ず、ただ写真を指差してこれにするとだけ告げ。窓際のテーブル席だったから。どれにしましょうかと、自分のを選ぶ狼の顔を見ていたくなくて、そっと外の景色に関心を移した。押しボタンに狼の指が触れたら、やって来た店員さん。注文を告げる大上月路さんの声を聞き流しながら。寝落ちして見た、夢の事を考えていた。

  少しの間、俺の家で暮らしていたマーくんと呼んでいた狐の男の子は。数か月もしない内に、お迎えが来て。それきり、来た時と同様突然会えなくなった。自信家で、偉そうな子供という癖がある性格をしていながらも仲良くなれたと、自分の中では思っていた矢先にだ。本家でのごたごたが解決したかららしいけれど、やっぱり詳しくは知らないし。聞いたとて、両親は俺に教えてはくれない。子供心に、本家を忌避しているのかなって思った。

  「やはり、人が多いね。友達、こっちでもできるといいね。イブキ」

  「うるさい」

  耳元で内緒話でもするようにして、幼い声が突如として聞こえたけれど。それで驚くでもなく、反射的にそう返し。えって、男性の低い声に釣られ。外に向いていた顔を対面に座っているだろう狼の方に向けた。メニューを片付けていた人が、急に発した俺の声に驚いたのか。動作を途中で止めて、こちらを見ていた。

  しまった。と思ったが、声量はとても小さく。内容は聞こえていなかったらしい。どう言い訳をしようか考え。でも自然と、田舎で一緒に遊んでいた数少ない友達にしていたように。口は勝手に動いていた。

  「店内のBGMが、ちょっと気になって」

  「ああ。そうですね、今人気の歌ですね。私のにも入ってますよ伊吹様」

  自身の携帯を取り出し、指差しながら。そう情報を足してくれるけれど、まるで興味がなかったので。また意味もなく、外の景色の方に顔を向けた。やっと会話が弾みそうだと期待していたのか、狼が落胆したように耳を倒して。テーブルを見つめているのが視界の端に映った。でも。この人でもそういった流行物というか。流行りの音楽とかチェックしていたりするんだなって、意外に感じたが。それと同時に、この人の事を何も知らないのだから当然だとも。そう思った。趣味も、好物も知らないし。だからと知りたいとも思わないのだが。

  「かわいそうじゃない?」

  また耳元で声がして、ちらりと。肩を見た。すると白い子狐の顔。俺の肩に前足を掛け、背中から背負うようにバランス良く乗っており、顔を片手を舐めて濡らしては猫の様にくしくし額を撫でつけていた。首輪の代わりかしめ縄が首に巻かれており、金色だったであろう今は錆びて鳴らない鈴が一個ぶら下がっていた。雨、降るのかな。幼い声の正体はこいつであり。そして、こちらを見る。大上月路さん。いや、大上さんの視線は俺にだけ向いていた。肩に乗っている、ともすればかなり目立つ子狐は視えて、いなかった。

  ぴょんと、重力を感じさせない軽々としたジャンプを子狐がすると。そのまま物理法則に従って落ちず、ふんわりと浮遊する。そうすると隠れていた後ろの部分。いや正しくは長く伸びた胴体が見えた。四足の獣なら、本来は後ろ足があるだろうそこは。まるで蛇のようになにもなく毛皮だけであり。つるりとした胴体がそのまま尻尾に続いていた。管狐と呼ばれる妖に酷似した姿。細い胴体はそのまま、名前の由来か配管や竹筒に収まってしまいそうだった。そんな管狐が狼の顔の前にわざわざ飛び、視界を遮っても。無論、それで大上さんが嫌がったり。可愛いですねと、声を発したりもしなかった。クスクスと、視認できない相手を嘲る管狐はするりと空中を泳ぐようにしてこちらに戻って来ると。頭の上にこんどは着地して。だが、そうされた俺は重さを全く感じない。いつからだろうか、初めから。ともすれば最近。こいつは、俺に憑いていた。あいつらと同じ存在だろうと思うが、唯一。人語を理解し、喋る。知能の高さが、どこか別の存在であるとも。

  「そうだな、ちょっとやりすぎた」

  大上さんにとってはこれは窓の外を見て放った俺の独り言。だから反応を返すでもなく。タイミングよく、店員さんが運んできた料理を受け取るのに。意識が削がれたとも言える。美味しそうな香り。自分の分を見て、そして対面に並ぶ量が。俺が普段食べる量の倍、下手したら三倍はありそうな数に圧倒されて。面食らう。管狐が、やって来た料理に興味津々とばかりに。皿と皿の隙間をするする潜り。楽しそうだった。

  俺がどこを見ているか気づいたのか。多さに自覚があるのか。ちょっと照れた仕草をさせながら、お箸を手渡してくれる毛むくじゃらの大きな手。

  「……美味しそうだね」

  「はい! そうですね」

  受け取りながら素直な感想を言えば、一瞬戸惑いつつも。俺が話しかけたからか大上さんが笑顔を振りまく。この人も、きっと上からの命令で動いているのだろうし。いい加減、八つ当たりはやめようと思った。短い時間だが、今の所。ただの良い人に過ぎない人相手に、いつまでもいじけていても良くはないであろう。これ以上、付き合いきれないと怒って見捨てられるのを期待するのもだ。

  今は意識して嫌な奴を演じているつもりなのだが、元の性格がそこまで良いかと言われるとあまり自信がない。後、今更だけど様付け。止めて欲しいなとも思った。

  俺はこれから。結婚を前提に、よく知りもしない相手の所に行く。今日は顔合わせ。学校を卒業したらいずれその人と、結婚するのだと言われた。今のご時世、笑っちゃうが田舎でも廃れてそうな許婚というやつらしい。それも、相手は男性ときた。一人称を俺と呼称している通り、俺もれっきとした男性。ちゃんとチンポも玉も付いている。だからこそ言われた内容に耳を疑いたくなるが、こうして大上さんが迎えに来て。連れて行こうとしているのだから、手の込んだドッキリとか。テレビ番組に俺が巻き込まれたわけでもなかった。様付けされているが。そういった立場でもない筈で。それを知っていて見送る親、だから公認。なのだろうな。

  その人と結婚して、子を産めと説明された。本当に、自分の頭がどうにかなって。これから病院に連れていかれると言われた方が、まだ理解できるのに。今から向かう、本家である[[rb:狐野柳 > このやなぎ]]家。そして分家である、[[rb:憑守 > つきもり]]家。俺の家。歴史は古く陰陽師というか祓い屋、そういった生業をしてきた家系らしく。だからか、俺もまた力を発現して。料理を食べようとして、突き抜けて何が楽しいのか遊んでいる霊体の管狐が視えるのだった。

  陰の力が、お前の中には強く流れており。そして、今から会いに行く。俺の婚約相手様は、陽の力がとても強く。普通の人では釣り合わず、子を望めないので。だから、俺に白羽の矢が立ったのだ。そも、男同士でと思うが。そこにも、摩訶不思議な力が作用してるのか。その男と交われば。ようはヤれば、俺の腹には女性と同じ様に。子供ができるらしい。どうなってるのか仕組みが知りたいが、普通の病院で診てもらうのは禁止されており。狐野柳家の息が掛かった病院でしか、診察できないとなっていた。

  いっそ、取り乱して。そんな馬鹿なと。嫌だと泣きわめいてもいいのかもしれないのだが。生憎俺は、視える立場であり。だから普通とはどこかかけ離れていると自覚していたから。

  そして自分自身。異性愛者ではなかった。ゲイであるから、男と身体を繋げるといった部分の嫌悪は普通の人よりは少なかったと思う。普通から外れたら、ついでとばかりに性的趣向すら外れなくても。と思わなくもないが、いつの間にか。こうなっていたのだから、もう変えられないし。今から女性を好きにはなれそうにもなかった。

  だからと、好きでもない男と身体を繋げたいかというと。それもまた違うのだった。

  本当に子供が。そんな疑問も当然あって、本当なら。自分のお腹で赤ちゃんを育てる覚悟すらない。相手方、その結婚する相手もちゃんと納得しているのだろうか。元々ゲイでなければ、さぞ地獄であろうなと他人事のように思う。それだけ、こうして大上さんに都会に連れて来られても実感が未だに湧かないのだが。

  カチリと、スイッチが入るように。ぱくぱくと、俺よりも大きく裂けた動物の口で。タレが滴る安いステーキを咀嚼する狼の美醜含めて改め観察する。人間だけでなく、獣人も守備範囲なゲイである自分の視点でだ。大上さんの容姿を一言で表すとタイプだなって。自分よりも小さな相手に威圧しないようにしてくれているし、気配りができて。ともすれば外国人のように、獣独特の金の虹彩はそれだけで目を引き。細くなる瞳孔。鋭いようでいてちょっと垂れた目元。覗く綺麗に磨かれた尖った犬歯がちらりと見えて、そこから発せられる落ち着く低い男性の声。年齢はまだ聞いていないが、三十代ぐらいであろうか。壮年の男性。老け顔と、言ってしまえばそうで。実は二十代だったら、失礼になるか。綺麗に手入れされた光沢のある毛並みは、ダマになった部分も、白髪もない。身綺麗に、普段から気をつけているのだろう。ほのかに香る、獣臭を消す為か。主張し過ぎない香水がそう思わせた。獣人は、鼻が利くから香水を嫌う人だって居るのに。きっと女性にも、そして男性にもモテるんだろうなって。スーツを着ているけれど、それなりにがっしりした体躯なのは。広い肩幅と、きっちり留められたボタン。スーツをネクタイと一緒に内側から押し上げている胸と。ぱつぱつのスラックスから見て取れる。鍛えているのだろうな。だから付き人というより、護衛に近いのかもしれなかった。それか、俺を途中で逃がさない為か。そっちの方が表現は適していそうだった。力を行使されたら、太い二の腕は簡単に俺の骨を折られそうに感じる。

  「やはり、不安ですか?」

  難しい顔して、獲物を食い漁る狼を見ていたからか。大上さんが口元を紙ナプキンで拭いてからそう聞いて来る。食べるスピードは速いと感じるけれど、上品な仕草のせいか。テーブルも、口元も汚れていない。主語がないから、返答に困っていると周りを気にしてか。一度他の客を見回して。そして、ちょっとだけ声量を落とし。

  「同じ男性相手と、婚姻を結ぶ事です」

  「ああ。その事、ですか」

  さっきまで考えていた内容に即した事を言われ、露骨に動揺する。今更敬語になってしまった。だが、そこには突っ込まれず。はいと頷かれ。当然ですよねって、勝手に話しを進められる。ぶっちゃけた話、ゲイなので。別にと、言ってしまったら楽なのだが。世間一般的に、まだまだ風当たりが強い部分もあり。あまり人前でカミングアウトして良い話題でもなかった。この大上さん自身が、俺を連れていくからと。同性愛にどこまで寛容かも、知らない。だから、きっと異性愛者と思われているのか。俺が、嫌々連れて来られて。そしてどこに、嫌悪感を剥き出しにして。拗ねているのか。当たらずも遠からず。ただたんに、田舎から来たくもない場所に連れて来られて。知らない人とそういう仲になれと、勝手に決められた。その部分に、俺の感情は向いているのだが。そうか大上さんからすると。そこも、心配する要素なんだと。一般的な目線を持つであろう、狼から。それとなく、ゲイであるからこそ自分のズレた考えを修正される。それをした本人は気づいてもないであろうが。

  「そう、ですね」

  一応肯定しておいた。修正するのも面倒くさいというのもあって。じっと何か言いたげに見上げてくる、俺の性的趣向を知る管狐は無視した。

  「大丈夫ですよ。私の立場では。あの方との婚姻を取り止めさせる、のは無理ですが。それ以外に関しては、私が。命を賭して、伊吹様を守りますから」

  ――俺が、いぶきを守るから。

  大上さんが、しっかりと。揺るぎない決意をした、男の目をしてそう言うものだから。どこから向けられるのか、それがどういったものか。含む好意や敬意に。ただ意味が分からないと。薄気味悪いものを感じ、居心地が悪く小さく身じろぎする。同じように同等の好意を向けた相手に、好きな人に言われたのなら。きっと殺し文句のように聞こえるだろうなって思ったが。会ったのは夜分に尋ねて来た昨日。そして今日、数時間共にした――途中俺は寝てしまっていたが――だけである。

  守るという単語を聞いて、一瞬。あの狐の子を思い浮かべた。温和な表情を引っ込め、真剣な顔をした狼は凛々しく。不覚にも格好いいと思ってもしまったが。自分が、惚れやすい気質な頭お花畑でなくて良かった。例えば出世する為とか、払われるお金の為に。そう言って、守ってくれると言ってくれた方がまだ。信用できるのにな。そういう打算的な部分を見せてくれた方が、まだ。

  やっていけるだろうか。この人と、同じ屋根の下で。勉学もあるから、昼間は転校する学校でもそうだが。朝と夜は少なくとも同じ時間を共有する事になる。家に。住むであろうマンションに帰らないといけない。この人が、家にずっと居るのかは。まだ定かではないが。普段の仕事、は。何をしているのだろうか。窮屈に感じそうだ。料理できるのだろうか。実はカップ麺生活とかだったりして。

  「期待してないです」

  挑発するように。わざとそう言ってみたが、ぴくりとも顔を不快に歪めるどころか。強い眼差しがずっと逸らされないものだから。やっぱり、この人の目は苦手だなと思った。その純粋な、綺麗な瞳がだ。金の虹彩は、あの子を思い起こさせるのもあって。苦手だった。先に視線を逸らしたのは。俺の方。勝負ではないが、隣にレフリーが居たら判定は恐らく完敗である。

  [newpage]

  [chapter:二話 狐につままれる]

  腹ごしらえをし、満腹になったせいでまた襲う睡魔と格闘しつつ。こんどは寝落ちしなかったけれど、かといって観光を目的ではないので車内を満喫するだけの時間。最近流行の曲を、大上さんの携帯が控えめな音量で鳴らしていた。俺が好きな曲だと勘違いしたのだろうか。自動再生される曲達。何曲か、数えてもないそれらが。減速し、緩やかに停車した車。演奏は終わりだと、迫っ苦しい土地を利用したコインパーキングの看板が告げているようだった。こちらですと。大上さんが先導するまま、少しだけ歩き。そして。

  「おー……」

  大きな木製の門を見上げ。口を開けたまま、意味もなくそんな音が喉から出ていた。隣でそんな俺を見ていた大上さんが口元を押さえ、肩を揺らしていたから。客観的に見て、自分がとてもお上りさんですとプラカードでも掲げていそうな風体だったのだと。羞恥心を感じ、わざとらしく咳払いをする。田舎にはないビルの群衆。階数が存在する建物と言えばアパートとか、市役所。学校ぐらいなもので、だいたいは平屋が多い。若い夫婦がわざわざ引っ越して来て、安い土地と建築を担う職人の少なさから他県から呼び込んで結果的に多めの建築ローンを抱え。住む物好きは居たとしても。五階以上の建物となると、それだけで新鮮で。一つの坪に対して、働いたり住んでいる人の比率は当然のようにしてまるで違うのだなと感じた。そんなビル群の中において、逆に俺にとっては見慣れたとも言える。和風な平屋が突如そんな都会の街並みに出現すれば、親しみでも感じそうなものだったが。規模が圧倒的に違った。

  右を見ても、左を見ても。長く続く塀、塀、塀。その上に一定間隔でちまっと存在する、景観を壊しかねないアンバランスに居座っている監視カメラ。古き良きと、最先端の融合。田舎のだだ余った土地を使うように、都会という環境で。広い土地なのであろう。塀のせいで全体は見渡せないが。ピカピカに磨かれた、これまた木製の表札には狐野柳の文字。分家と呼ばれている自分の家が、ごく普通の。夫婦と子供一人が住んで不自由しない程度の小さな家だったから、勝手な想像で。いくら本家と呼ばれる場所といえど、そこまでの規模ではないと思い込んでいたのだ。

  だって、裕福な暮らしなんてしていない。食に困った事もないが、これといって贅沢もした事がない。コンビニまで自転車を漕いで行くにはとても億劫な、利便性なんて皆無な土地で育ったのだから。贅沢、と言っても。想像できる範囲はとても狭く、都会の人からすると。それで? なんて笑われてしまうかもしれないが。そういえば、両親が働いているようなイメージがあまりなかった。父も、母も。基本家に居た気がするし。たまに黒服の人が数人訪ねて来ては、何か話して。それだけで。金銭的な物はどうしているのか。俺が産まれる以前に、もう働かくていいぐらいの莫大な貯金があるのか。それとも、投資とか、株でもやっていたのだろうか。謎だった。

  高校生になった今も。携帯代も全部出して貰っているし、自分で働いたりした事も当然なく。ただそのまま、漠然と田舎で骨を埋めるのだろうなって。叶えたい夢等もなかった。だというのに蓋を開けてみれば。こうして、本家と呼ばれる。豪邸、で良いのだろうか。日本家屋というより。実はただの旅館で今日はここに泊まるんですよと、説明してくれた方がしっくりくるのに。大上さんは人当たりの良さそうな表情を、インターホンに向け。マイクにこんにちはと語り掛けている。都会はボタンを押して、ブーとかいつ壊れるのかも怪しい音をさせたりしないらしい。ニコニコインターホンに話しているというより、小さいカメラにそうしているから。こちらの様子は中から見えているのか。家にも欲しい、と思うが。だいたいは近所のお爺ちゃんお婆ちゃんが、鍵の掛かっていない玄関を勝手に開け、こんにちはーと声を出し。畑で収穫した野菜等をおすそ分けしてくれるパターンばかりで。誰だ、なんて。カメラが必要になるとも思えなかった。この前会ったのに、大きくなったねぇ。なんて固定文を使うお隣さん。まだボケてはない、と思う。こりゃっポチ! そう通りがかりに聞こえた声に、自分の飼い犬を叱っていると思ったら。覗いた光景は野生の狸を叱っている場面をだったりもしたが。ボケてはないと思う。困惑しつつも、ちゃんと最後までじっとして叱られていた狸は賢く、そして哀れだ。

  大きな両開きの扉がてっきり開くものと思っていたが。カチャリと鍵が外れる音と共に、意識の外にあった。壁に溶け込んでいるような小さい扉が開く。あっ、そっちなんだ。ひょっこりと、そこから顔を出した狐の顔。高齢なのか、少し腰が曲がっているが。それでも着ている花柄がアクセントの紫色の和服をちゃんと着こなし。年齢を重ね、どうしても悪くなるのだろう黄色がくすんだ毛先と混じる白髪が先ず目に付いたが。それでも俺には随分と小奇麗な人だなって、第一印象を与えた。しわがれた声は、でも人に安心感を与える女性のもので。きっと若い頃はさぞ美狐だったのだろうと想像させるぐらいには、綺麗な年の取り方をしている人だった。

  「これはこれは、遥々遠い所から。ようこそお越しくださいました。私、代々狐野柳家にお仕えさせて頂いております。[[rb:香織 > かおり]]と申します。ささ、暑いでしょう。中へどうぞ」

  丁寧にお辞儀して、俺と大上さんを。というより、俺だけに向かって頭を下げてくれる。香織さん。招いてくれるのならと、特に警戒もせず。彼女の後を追う。さらに後ろを大上さんがぴったり着いて来てはいたが。どこか対応に違和感を抱いた。若干予想通り、感じた気持ちは予想以上。丸く平べったい石が不規則に並んだ道の上――敷石と言うらしい――を三人で歩きながら、右に、左に。首を動かし。広がる光景に目を奪われていた。日本式の庭園、大小様々な木々が歩行の邪魔にならないように植えられ。あのトゲトゲとした、ウニのような葉の生え方をしているのは赤松であろうか。毎日手入れされているのか。丸くなるよう剪定され整えられた木の隙間から、アジサイらしき花が顔を覗かせている。緑一色ではなく、飽きさせない赤色や橙色といった配色が散りばめられ。森の中ではちょっと濃いとすら感じる、腐葉土の臭いも少ない。小さな人工の池には、丸い葉に一つ切れ込みが入ったような。植物が水辺に浮かんで。その陰から色鮮やかな鯉がゆったりと泳いでいた。都会と言えば、コンクリートジャングルと呼ばれるぐらいには。植物が少なく、人、人、人。そして、鉄筋、コンクリート、金網。そんな景色ばかりであろうに。住み慣れた田舎でも見慣れた、でも全く違う。全て人が作った見て楽しむ為の景色が突如出現し、ただただ。目を奪われ、それでも綺麗だと素直な感想を抱いていた。真っ白な砂が、まるで海を表現するように波を形成し。模様を描いてもいて。きっとあそこを歩いて踏み荒らしたら叱られるのだろうなって。漠然と思った。

  「また、口が開いていますよ。伊吹様」

  後ろから小声で、きっと前を先導する香織さんに聞こえないようにとの配慮にか。大上さんがそう耳打ちしてくる。緩んでいた顎に力を入れ、思わず眉間に皴が寄ったまま。後ろを無言で振り返るが。ただ穏やかに、お可愛らしいですねみたいな声が聞こえてきそうな。そんな表情で見下ろして来る狼の顔があるだけで。友達にするように、うるせーって。お腹とか肩を叩きたい衝動に駆られるが。残念ながらこの人とそこまで親しくもないので。睨むだけにとどめる。気づいても、わざわざ言わないでよ。恥ずかしい。早くいろいろな事に慣れないといけなかった、こんな反応ばかりさせていては。いつまでも田舎者扱いされそうだった。実際にそうなのだが。

  石の道を辿り、見えて来た。俺の家とよく似た、いや一緒にしたら怒られそうな。光沢のあるフレームとよくわからない模様が入ったすりガラスが使用された引き戸。俺の家のは、古く。ちょっと引くのにコツがいるのだが。香織さんが開ける際の、全く力みのない滑らかな開け方と、でも僅かに聞こえたカラカラという独特の音が、そこだけ一緒だな、なんて。知れず親近感が湧く。俺の家の扉は途中から自転車のブレーキ音みたいな異音をさせたりするが。

  先に家に上がり、自分が脱いだ草履を丁寧に家の中ではなく外向きに直した香織さんは。そのまま、スリッパ置き場から人数分の。一応大きさの違う茶色いスリッパを並べてくれる。自分も靴を脱ぎ、そのスリッパに足先からずぼっと突っ込んでみるが。あまり使っていないのか、まだぺったんこになっていない足触りが伝わって来る。俺が自分のも香織さんに倣い、靴を直そうとしたのだが。振り返った時には、既に香織さんの手により。向きが整えられていた。いつの間に。

  ちょっと試しに二歩程歩いてみたが。丁寧にワックスがけされているのか、鏡のように反射する木目がある床。スリッパの裏地が滑り止めになっているのだろうけれど、靴下のままならきっとスケートができると確信するぐらいにはツルツルだった。海も映像媒体だけで遊びに行った事がないので、当然スキー場やそういうレジャー施設も行った事がないけれど。

  和服に身を包んだ香織さん。そして、一応礼装の扱いになるスーツを着込んだ大上さん。そんな中、この空間において。とてもラフな格好をした普段着の俺という存在は、場違いに思えて。急に居心地が悪く感じ始めた。普段ならそうだな。何かしら言いそうないつもくっついている管狐は姿を消しており、どこかに行ってしまっていた。俺にだけ視える霊体なのに、あいつは。任意で、俺からすらその身を隠してしまう。襖で遮られた部屋を何個か通り過ぎ。たまに、廊下の角や。不意に開いた襖から狐の顔をした人がちらほら見かける。こちらを見て、静々と。頭を下げ会釈だけしてくれるので。こちらも無礼にならないよう、ぎこちなく会釈を返す。香織さんと同じように、複数の人がこの家に仕えているのだろうか。だが小さい、子供も居て。でもそういう子は。柱の陰から遠巻きにこちらを見て、目が合うとぴゃっと。慌てて隠れてしまう。見かける人。会う人。狐の獣人ばかりで。人間はいない。だというのに、歩く廊下には黄色や白、黒といった細い毛は一本も落ちてない。俺の中のイメージは、獣人が住む家屋というのは。いくら掃除していても、数本はどうしても見かけたりするものだが。狐野柳という名前の通り、家系的に。狐獣人しかいないのだろうか。そんな家に上がり込んだ。人間の男と、狼獣人。そっと、この狐ばかりの空間に大上さんも緊張していたりするのかなって思ったが。流石というか。全くそんな気配を感じさせない顔をしていて、俺が見ていると気づいた男は。どうしましたって、声には出さず。目がそう尋ねるように気にかけてくれる。

  もしかしたら俺と違い、もうなんどもこの家に訪れた経験があるのかもしれないと。遅れて思い当たる。最初に見えた庭園が、外に繋がる長い廊下を歩いていると見えて来て。別の角度で見ても、やっぱり綺麗さは変わらない。そう思いながら首を横に向けていると、ずっと黙って先導してくれていた香織さんが。こちらですと、襖を開けてくれる。応接間なのか。中央に膝の高さぐらいしかない机と、座布団だけが存在していた。そんな部屋に通されて、俺達以外いないから。ここで待て、という事なのだろうか。いそいそと、ふかふかの座布団に正座して座るが。慣れていないから、早くしてくれないと足が痺れそうだ。

  隣ではすまし顔で、大上さんが同じように座っていた。気配を一瞬消した香織さんは、入って来た襖とは別の襖から再び姿を現すと。その手には氷が入ったお茶と、お茶菓子が入った器が載せられており。音を立てないように、そっと分厚い机に置かれる。ただ、それが一人分だけなのがちょっと引っ掛かった。俺の前に置かれたから、俺の分、なのだろうけれど。では大上さんの分は?

  少しお待ちくださいと言って、香織さんはそのまま。立ち去ってしまって、来客は二人なのに。もう一つのお茶を用意する素振りすらなかった。手を付けず、透き通るガラス製のコップが。気温差に汗を掻いていく。

  「私の事はお気になさらず、伊吹様。お菓子、美味しそうですよ」

  ちょっとだけ、前屈みに。覗き込むようにして、広いお椀の中に隙間がないように綺麗に敷き詰められた種類の違うお茶菓子。確かに、普段の俺が見たら。美味しそうだと、ぱくぱく遠慮なく食べたりしただろうが。狐野柳家での、大上月路という。今の所狐獣人ばかりの屋敷において、狼獣人。そんな男を俺の迎えに起用し。そして、労いの言葉もなく。このような扱いに感じるものはあるが。かといって同情をする程、この男の背景も知らず。対応が丁寧だった香織さんが、当たり前のように。もてなす対象を俺にだけ絞る理由。考えるのが、億劫になるぐらいには。本家と呼ばれる場所が。なかなかにして、気持ちの良い場所ではないのだと早々気づかされた。庭園の風景は、そんな。いっそ泥のような人間関係を覆い隠す。偽りの美であるのかとも、今になっては思う。

  「俺、この家。もう嫌いかもです」

  どこまでも餓鬼な思考しかできない自分は。餓鬼らしく、隅に飾られた花瓶の花だとか。襖の上にある、木を彫って作られた龍だとか。視界に入れつつも、もう興味が湧く事もなかった。

  俺のあんまりな言い草をしっかりと聞いていた大上さんは。それで窘めるでもなく、褒め称えるでもなく。曖昧な態度ともとれる、どこか影のある笑い方をさせる狼が何も言わず、俺を見つめているだけで。カラン。そんな音がお茶の入ったコップの中で、融けつつある氷同士がぶつかり。肯定にと返事してくれたようでいて、夏の風物詩といえばと想起させる音だろうか。何も言わないからこそ。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ。大上さんがどのような人か知れた気がした。今までさせていた笑い方とはどこか違う。その表情を見て、意味をざっくりとない頭で考えた後で。正座している足先を擦り合わせる。足が痺れて来た。でもどうせ、この人もこの人で。何かしら事情というか裏がありそうだから、信用するかはまた別問題であるのだろうな。

  「なりません坊っちゃん、先に旦那様に会ってからというお申し付けです」

  「なんで。僕に命令しないで」

  突如聞こえた言い争うような男女の声。片方は香織さん。ドタドタと廊下を小走りし、立ち止まり、また小走りする不規則な足音。自然と大上さんと顔を見合わせる。温和な表情を張り付け、崩さないようにしていた狼の顔が。この時ばかりは俺と同じように目を見開いていた。眉の部分がいつもの位置より上にと、持ち上がり目から離れてしまっている。

  言い合う声と足音が共に近づいてきて、俺と大上さんが正座して待っている部屋の前で止まる。

  「なりません、坊っちゃん!」

  「うるさいな。香織さん、邪魔だからどいて」

  パンッ。拍手のような、でもちょっと固い音が一つ。襖が勢いよく限界一杯に開き、行き止まりに接触した拍子に立てた音だった。背の高い人が両腕を水平に、襖を押しやった体勢のまま。目線だけを部屋の中にさ迷わせ、十二畳の部屋に二人しか居ないのだから。一秒もかからず、その鋭い視線が狼と人間を認識し。そして俺の方でぴたりと止まる。隣で大上さんが素早く立ち上がっていた。

  香織さんに坊っちゃんと呼ばれた、薄っすらとさせていた予想通りの狐顔。だが隣であたふたして、止めたいけど掴みかかるのは無礼になるとばかりに。困り果てた香織さんと見比べると。しゅっと細いマズル。狼である大上さんより、そして同じ狐である香織さんよりも全体的に細い印象を与える。こうして見ると、香織さんの頬の方が肉が付いているんだなってちょっと口には出せない失礼な事を思う。

  腰が曲がっていないからか、それか着痩せしているのか肉付きが細く。足先から胴体まですらりとした身体のライン。全体的に黄色いが内側の毛は白い被毛。手足や耳の先だけ黒い、三色の古典的なキツネカラー。身に纏ったグレーのスーツはどちらかというとカジュアル寄りであり。足首の部分が絞られていた。Yシャツも首元のボタンを行儀良く留めておらず、ネクタイも存在していない。目測で大上さんと同じぐらいの背丈だと思うのだが、肩幅が広い狼と細身の狐を見比べてしまうと。目の錯覚か、若干狐の方が背が高く見えてしまう。どちらにせよ、二人共俺よりも随分と背が高い事実に変わりはないのだが。大型の獣を祖先に持つ獣人は、だいたい人よりも縦も横も大きくなりやすい。低くはない自分の背に、別に引け目に感じたりはしないが。だって、公共の施設は獣人が利用する事も想定されていて。ゆとりのある作りが多くても。室内だと縁に頭をぶつけそうだし。不便だ。

  ちょうど立ち上がり、軽くお辞儀をする大上さんを無視する形で。迂回し、こちらから目線を外さぬまま。坊っちゃん、そう呼ばれた狐さんがずかずか歩いてくる。その歩みと、伴った雰囲気というか表情が余裕たっぷりと。どこか嘲るようなそれに。距離を詰めてくる速度もあってか、自然と身体は逃げるように身を引いていた。

  座ったままの状態で俺が取ろうとした間合いなど微々たるもので、そんなものあってないように。眼の前まで接近を許してしまう。

  というよりも、本当なら俺も大上さんがしたように倣い立ち上がるべきかと逡巡はしたのだ。したのだが。足が痺れて全く動けず。机に手をついてでも、そうしようとして。する前に狐が来たというのが俺の身に起こっていた事の真相。固まって動けなくなってしまっている俺の腕を掴むと、遠慮もなく。吊られるように引き上げられてしまう。軽々と、身体が浮く。細身の印象があるその見た目の、どこからそんな膂力が出るのか。見た目だけで、そのスーツの下はしっかりと鍛えているのだろうか。元来の種族的な差か。掴まれた片腕に自身の体重が全てかかり、一瞬顔を顰める。目と鼻の先。鼻息がかかるぐらいの、そこに。しゅっとした頬のラインをさせた、まるで刃物のような、狐顔が迫っていた。目を細くした金の虹彩に見つめられる。辛うじて足先が畳に触れているというのに、見下され。その細めた瞳の中に、困惑を隠せていない俺の顔が反射してもいた。

  「ふーん」

  聞きようによっては、興味のなさそうな男性の声。でも表情を加味すれば、どこか面白がっているとも。目尻の曲線が。目の前の好物をどこから食べ進めるか考えている、獣の目線とも取れるような。見知らぬ男に。初対面であろうに、許可も取らず触れ。片腕が掴まれたまま天井に無理やり向けられ、肩が若干痛みだしたからか。不快感に、睨み返していた。何をするんだよって、言ってしまっても良かったが。相手のあんまりなおこないに、出鼻をくじかれたと言う方が正しかった。

  「久しぶり、伊吹。覚えてるかな?」

  品定めするようなものから、途端に。にこりと笑顔を作る狐。相手のやけに親しげな言葉。はて。俺の知り合い。それも獣人となるとかなり限られており。それは小さい頃よく遊んだ、友達。田舎での話で。今日初めて、都会に出て来た俺に。このような気安い態度を取る獣人の友達は存在するわけもなく。どころか、今となっては田舎に置いて来た友達も。元が、残念ながら付属する。成長するにつれて、誤魔化しきれなかった自分の異質さに。皆、離れていった。離れて行ってしまった。その方が、きっと良かった。寂しさを感じても。

  だからなんど記憶を掘り返しても。このスタイルの良い、テレビで見るような。煌びやかな流行の服を着て、写真撮影でもしている方が似合っていそうな。そんなモデル体型の狐獣人に、久しぶりと言われても。誰だお前という感情の方が強く。後、いい加減手を離してくれって。痺れた足を震わせながら、なおも睨む。

  自分勝手な振る舞いに既視感を覚えながらも。だが。居たのだ。狐の男の子。ほんのひと時、一緒の屋根の下で暮らし。散々俺を振り回すようにして、田舎を一緒に走り歩いたそんな子が。毛並みの色も、そして種族もある程度は一致する。だがあの時は、ここまで身長差はなく。黄色い毛の部分が、キラキラとしていて。金色のようだ。そういえば、あの時も。彼の毛並みを見て、同じような感想を抱いた気がする。

  該当するのはただ一人。だが目の前の彼と、幼い日のあの子と結びつけるには。

  「マー、くん?」

  正解。そう言いたげに、ぺこりと狐の耳が片方お辞儀する。口角が上がり、細めた目をさせる動物の表情は。狐なのもあってか、同性であってなお。妖艶で。怪しさも内包していた。

  「坊ちゃん。いいえ、真由理様。いい加減そのお手を離しなさい! 無礼ですよ」

  「おっと」

  香織さんが、ちょっとキツイ声音で。幼子を叱るようにして、ぴしゃりと言い放つと。忘れてたとばかりに、俺の腕を掴み。引き上げていた手が離される。そうされると、本来は自重を支える両足は不意の事で対処ができず。膝が崩れ、浮遊感を感じる前に、落下していく自分の身体。踏ん張りが利かなかった。転ぶ。そう思った時。

  咄嗟にか腰と、背に男の両腕がまわり。少しだけ下がった視点。前屈みで俺を抱きしめた狐の人は、くつくつと。喉奥で笑う。Yシャツのボタンが第一ボタンだけ留められていない部分、胸毛だろうか。押し込められ、窮屈そうなもこもこふわふわなそこはそれでも溢れてしまっていて。鼻先がそこに埋もれる。すると、遠かった地肌から薄っすらと汗の臭いと。獣人だからか、独特の獣臭。そして、使用しているコロンの香りがそれを上書きするようにして、毛先と着ている服両方から香る。シトラス系の香りがふんわりと包んでいた。

  「そう、僕。[[rb:狐野柳真由理 > このやなぎまゆり]]、この家の長男にして。お父様の跡を継ぐ者。会えて嬉しいよ。伊吹も背、伸びたね。いや、今は僕の許婚さんと言った方が正しいのかな?」

  驚き過ぎて。言葉が出なかった。いや、この男が部屋に押し掛けて来てから厳密には一度も声を発していないのだが。小さい頃、本家の子と遊び。ずっと会えないまま成長し、殆ど忘れかけてた頃。その子が俺と同じように成長し、大人の仲間入りをさせつつも。こうして、目の前に。無遠慮に身体を抱きしめ。そして、俺を何と言った。そうだ、許婚と。そう呼んだのだから。

  情報が、情報が氾濫のように押し寄せて。一つずつ順番に処理して、それでもやっぱり、驚愕にか。瞼をぱちぱちと、瞬きばかり。その俺の反応すら、面白がられていた。正しいのかなって部分で、俺ではなく後方に控えている大上さんと香織さんに尋ねたくて。視線だけ送ると。二人共疲れを滲ませるような溜息を同時に吐いていたから。この男の、どこかマイペースな。言い方を変えると傍若無人な態度が常であるのだなと。それだけはとてもしっかりと、理解した。

  「あの」

  久しぶり。元気そうだなとか。背が伸びたと言うけれど、マーくんの方がずっと伸びたよねとか。そんな旧友と会えた懐かしさに、浮いた心のまま喜びに。声を発するというよりは、小動物が。肉食動物に対して、おずおずと。命乞いするようにして。か細く。

  「近い、です」

  同い年である筈なのに、敬語で。そう言うのが精一杯であった。この頃には漸く足の痺れも取れ。自分で立つ事が叶う。まわされていた腕が離れ、一歩後ろに。自分が座っていた座布団から降りるようにして。彼と距離を作る。いくらゲイであるといっても、見知らぬ男性に抱きしめられてドキドキしたりとかはしなかった。顔は格好いいとは思えど。一応幼い頃に遊んだ仲といえど。一ヵ月かそこらの期間だけで。何年も会っていなかった人にそうされて、嬉しいとは感じなかった。警戒心の方が先行するのだから。

  「えっと。真由理、さん」

  「二人っきりなら、昔みたいにマーくんでもいいけど。真由理って呼んでよ、伊吹」

  つい、さん付けしてしまったが。その理由は、ずっと気圧された勢いと。この人がさせるオーラが、庶民地味ていないというのもあってなのだが。すかさず、呼び捨てにしてと。言われてしまう。だから、おずおずと真由理と言い直すと。狐の顔は満足そうにして、頷くのだった。手首の裾をめくり、隠れていた腕時計を露出させると。あ、いけないと。そんな独り言のように呟き。また、こちらの許可もなく。こんどは手を握られる。何するんだって文句は、ニッコリとしたお狐様の笑顔一つで黙らされてしまった。

  「もうこんな時間。伊吹と一緒に、お父様に会わないとね。嫌な事はさっさと済ませようよ」

  横にと、身体が傾く。それは、手を繋いだ男が。そのまま廊下に出ようと、歩き出したからだった。また香織さんが何か声を発していたが、早足で。どこか逃げるように、俺を連れ出す。見えるその背中は、姿形は変わろうとも。あの日、俺を連れ出した狐の子の後ろ姿にそっくりだった。ドタドタと慌ただしく。廊下を走り、角を曲がり、直進し。また曲がる。大上さんも置いて来てしまって。そして、戻ろうにも。道順を覚える前に、見えた景色はどんどん通り過ぎ。目的の場所だろうか。また荒々しく襖を開けると。部屋の中、甚平を着た一人の狐獣人の男性が新聞を広げ。座椅子に腰かけていた。がさり、軽く新聞を折り。そこから覗いた顔には、騒がしさにか。眉間に皴を刻んでいた。毛並みから香織さんと同じく老いを感じさせるけれど。その人はだからと衰えに力を弱めるどころか。より目つきの鋭さと威圧感を強め。じっとりとこちらを足先から、髪先に至るまでねめつけていた。嫌悪感もあったが、圧迫感と。なにより、恐怖が。身を震えさせた。さっと、狐の太い尾が俺を隠すようにして、お腹のあたりに宛てられる。隣に立っている手を繋いだままであった、真由理の尻から生えたものだった。

  「貴様が、憑守の倅か。そうか……、恨むのなら。自らの血を恨むのだな」

  感慨深いとも取れる、表情を一瞬させると。無表情に戻り。よくわからない事だけを言い。それで初老の狐は人間から興味が消えたのか、俺をここまで無理やり連れて来た真由理に。キッと鋭い目を向けた。

  「騒がしい。廊下を走るなと、なんど言えばわかる」

  「お父様がかってに決めた許婚さんを、お望み通り、連れて来ましたよ。満足ですか? もう帰っていいですか?」

  話の内容から推察するに。真由理がお父様と呼ぶこの人が。狐野柳家、現当主なのであろう。横で聞いている俺は、その言い方はどうなんだと。キラキラした毛をさせる、狐の後頭部を眺め。対する御当主様は。軽く、長く伸びた顎髭を撫でつけ。あからさまな挑発とも取れる息子の言い方に。特に激昂するでもなく、つまらなそうに見ていた。読み終えたのか、はたまた読む気も失せたのか。手元を見もせず新聞をたたむ。

  「ああ。そうだ。時期が来たら、抱いて。その腹に子を宿せ。お前の役目だ」

  「あっそ」

  実の親に向けるようなものではない。蔑みの籠ったようにして、隣の男が鼻を鳴らし。力がさらに籠められたのか、俺の手を握る真由理の肉球がより密着する。この場に居る俺を置いてけぼりのまま進む会話だったが。一応は、俺の行く末を左右されるものであって。でもそれはとても短い時間で交わされ。行って良いぞ。そんな素振りをさせる父親に素直に従い、こちらに向き直った真由理。いこっか、とそう言い。来た時とは嘘のように、こんどはゆっくりと手を引いてくれる。

  表面上はどこか楽しそうに。ここが、何々の部屋で。トイレはこっち。それでね。とあっちこっちを指差しながら、狐の男が部屋の用途を説明しながら歩いてくれる。だがずっと、再会してからというもの。この男の尾が楽しげに揺られるような事はなかった。大人の獣人等は礼儀作法としてもそうだが、感情の制御も巧で。自分の尾の揺れ具合もある程度は自制できると、知ってはいても。

  「ここが、僕の部屋」

  尻尾ばかり見ていた俺は、そんな声で。視線を真っすぐ戻し、こちらを振り向いていた真由理と目が合う。作り笑いを止めた。つんと、無表情なそれ。襖を静かに開け、和室の中。衣装箪笥と、小物入れ程度で。特に物が多く広がってもおらず、小さいゴミ箱も袋が入れられているだけで。もぬけの殻だ。自室と言われても、どこか。空き部屋であるようにも思える。寝に来ているだけなのか、まるで生活感がないのだ。部屋の中に一緒に入り、廊下との隔たりを越えるのを確認すると。後ろ手に真由理が襖を閉めていた。襖同士が当たったのか。トンッ。そんな軽い音が背後でする。一応洋室も一部だけどあるんだよとか、そんな声。俺はうわの空だった。

  「それで、伊吹はどこまで聞いてる?」

  思わぬ問いに。一瞬、どういう事か。思い至らず。許婚の事って、継ぎ足され。ああ、それかって。薄い反応を返していた。自分の事なのに、伊吹は反応が薄いねって。そのまま指摘され、揶揄われる。一応、自分が男性なのに。陽の力を持つ人と交われば妊娠する事。そして、君と。結婚すると、言われ。それ以外は説明もなく、大上さんに連れて来られて。今に至るとも。

  「そっか。本当に、最低限だけなんだね」

  俺を見つめる男の目線が気になった。未だ、他人事なのは。それだけ実感がないからだ。男の身体で妊娠ができるなどと。最先端の現代医学の敗北であり。同性婚の許された国であれど、そこまでには至らず。代理出産や養子を迎えるにとどまっていた。妖が視えるといっても。特別なのはそれだけ、摩訶不思議な超能力やパワーが使えるわけもなく。アニメの主人公のように、炎や氷を操り。悪に立ち向かったりもしない。普通の学生だった。真由理がこちらを見るそれは。同い年のそれ、というよりも。自分よりも幼い子を見るようなもので。哀れんでいるとも取れる。

  「君、自分の家に。ご両親に、売られたんだよ」

  ぽかんと、身に覚えのない言葉に。現代日本において、奴隷制度もないのに。何を馬鹿なと、耳を疑う。俺の両親は、厳しすぎず、そして甘すぎず。普通に、愛してくれて。ここまで育ててくれて。突然現れた大上さんに、預けて。それで。

  「本家である、僕の家からの援助を条件に。陰の力を持つ者が生まれやすい憑守家で、それでも衰退を続けるあの家で。久しぶりに力を持つ者。君が、産まれて」

  聞きたくない。聞いていたくない。そんなよくない直感に従い。この部屋から出ようとして、自分よりも背の高い男に遮られる。退いて、手で押そうとすると。両腕の上から、抱きしめられて。囲われる。真由理の胸の中に、捕らわれてしまう。離して。そう身じろぎするが。どうやら、やはりと言うべきか。この男は俺より力が強いらしい。その拘束はびくともしやしない。

  大上さん。助けてよ。命を賭して守ってくれると言ったじゃないか。ならなんで、今居ないのだ。守ってよ。やはり、嘘吐きだ。

  「ああ、可哀想な伊吹。何も知らずに育って、自分を守る術すら身に付けず。こんな事になって。まだ状況が理解できていないんだね。本当に、可哀想な子だ」

  背筋を男の手が這い、後頭部まで辿り着くと。よしよしと、撫でてくる。耳元で、同情するようにして。真由理が言う言葉が、とても気持ち悪いように感じ。意味のわからない同情なんてされたくないと、睨んだ。いや、何となくわかっていた。でも認めたくなかった。愛されていると思っていた両親。その愛を疑った事など今まで、一度もなかったのだから。そしてこう言われた今も、疑う心などなかった。きっと事情があるんだと。一緒に暮らしていた父と母を、悪く言うなと。それで家族を侮辱された怒りの感情のままに、狐を睨んでいた。

  一つだけ。君がこれから生きる上で、一番楽な道を教えてあげる。そうもったいぶった言い方に、余計。こちらの気持ちを逆撫でられながら。でも怒りのまま、何か言うには。真由理の表情は、後悔と、懺悔と。そして、やっぱり。こうならない方が良かったと。同じ歳であるなら、学生であろうに。歳不相応な憐れみに満ちたもののせいで。俺の怒りを踏みとどまらせていた。どうして、そんな顔をするんだ。やはり、俺の中にあったのは。許婚になる男に対して。自分の置かれた状況に対して、困惑ばかりであって。肉体の方は既にわかったとばかりに。自分の言葉で、行動で。覆らない状況に理解を示し。愕然と、手足から力が失わた。抱きしめられた相手にもたれかかってしまう。失われた分だけ、夏なのに寒くも感じてしまって。後頭部を優しく撫でる獣の手が。真由理の手が、まだあって。

  抱きしめられると、相手の胸は細い身体のラインと違い。思ったよりは厚かったから。やはり逞しい男性のそれであった。

  「僕を、愛してよ」

  何もない質素な部屋に。彼の何の心も籠っていない。何も俺の気持ちに響かない言葉が、虚しく鼓膜だけを震わせた。

  [newpage]

  [chapter:三話 独り]

  真由理の部屋で暫く過ごしたら。遅まきながらに迎えに来た大上さんにあっさりと、俺の身体は渡され。こちらをひらひらと手を振りながら、また学校でねって。真由理はそんな言葉を吐くのだった。

  遠ざかっていく、そして綺麗だと感じた庭園が視界に入っても色彩を失ったかのように。灰色の世界の中。同じような毛皮の人に連れられ。顔色が悪いと言い、心配そうにする香織さんと何か話したような気もするが。無視をするように何も話さなかった気もする。

  大上さんの車、その後部座席に。丁寧に乗せられ。車はまた走り出した。

  狐野柳家に直接暮らすわけではなく、俺は。俺がこの街で暮らすべき場所に行かなくてはいけない。だが、学校を卒業したら。狐野柳家で、あの男。真由理に抱かれ。子を成すのだろうか。そうなれと言われた。なるのだろう。俺の意思は一切、確認されず、関与せず。あの狐が言った。俺が取るべき道。心の在り方を示されて。確かに、そうしたら。そうしてしまったら楽であるのだと、冷静に分析して。納得し、反吐が出そうだった。

  「伊吹様」

  起きた出来事を反芻していると、牛がそうするように。本当に食べた物が胃から出そうで、うっと。呻いた所に、低い男性の声が掛かる。大上さんだった。片手でハンドルを握り、こちらに振り返った姿。パーキングブレーキとギアがPの文字に入っているから。外を見なくても停車しているのはわかっていた。こちらに注がれていた目線がどこかに行き、また俺の顔に戻って来る。視線の動きだけで読み取ると、迷っている素振り。引き結んだような狼の口。でも最後にはただ、着きましたよと。そんなお決まりな言葉だった。

  マンションの駐車場に降り立ち、狼の手が後部ハッチを開け荷物を取り出す。俺の荷物だったが。既に持たれてしまって、こちらですと。先導する姿を目で追い、気分の悪さに。甘える事にした。都内のどこかに存在する、見上げる程はあるマンション。集合住宅。これから俺の家と呼ばれる事になる。大上さんと二人で暮らすそこを見上げ。セキュリティがしっかりしているのか、勝手に入れないように。風除室までは手ぶらの俺でも入れたが。主を待っている郵便物と一緒で、それ以上奥には立ち入りができなかった。エントランスにぽつんと、透明な自動ドアの隣に控えめにしてある。電子端末にポケットから取り出したカードを大上さんが翳すと、ピッと音が鳴る。土地の物価とか、このマンションの平均的な家賃とか。まるでわからないが。俺の知らない所で、かなりの額のお金が動いているのだろうなって。このマンションもそうだが、転校予定の学校も。これから消費される家賃も光熱費も、学費も全部。狐野柳家が支払ってくれるらしい。学力の違いとかもろもろの試験も受けずに転校手続きだけ終えてしまって、裏口入学という奴だろうか。怖いな。俺は特に何もしていないのに法律に触れていそうだった。

  実際俺は男だが本家に嫁ぐようなもので、勉学は最低限身に着けておけという建前だけで。あの屋敷にいずれは暮らすのかもしれない。真由理と。だから働いて、お金を入れるのを期待されているというよりは。ただ世継ぎを産むのだけを期待されているという事だろう。もしかしたら、このマンションも狐野柳家の所有物の恐れがあった。本業はいわくつきの建物や憑りつかれた人の除霊や、呪いの解呪。科学が発展した現代において。誰しもが霊や妖怪等を信じる人はあまり多くはない。だからこそ表向きは不動産や、医療関係と手広くやっているらしい。病院に行くなら狐野柳家が指定した場所でしか。駄目と事前に言われているのもそうで。妊娠が発覚したら、その産婦人科に。事情を知る医師だけに、秘密裏に入院したりするのだろう。男の身体で、子供を産むとか。スキャンダルものだ。新しい、技術だの。人体実験をしていたのだの。ありもしないまことしやかを、さぞ大々的に脚色して発表されかねない。どこまで、本家の力が及ぶのか。従わなければ、俺自身の命すら。人間の戸籍一つ、いつでももみ消せそうだった。

  監禁。の文字が脳裏を過る。大上さんという、雇われの監視がついている時点で。そう変わらない気もしたが。従っていれば、ある程度の自由は保障されるという裏返しでもあった。高校を卒業するまでという名の、タイムリミット。俺の手放さなければいけない。日常達。父と、母の顔が浮かび。そういえば、落ち着いたら電話した方が良いのだろうか。電話、取ってくれるだろうか。

  エレベーターを上がり、十三階建ての建物を。労力を要せず、滑らかに登っていく。五階、七階。移り行く、今居る階を示すパネル表示。文字が一瞬崩れて、次の階に辿り着く頃には。無駄にスタイリッシュな数字が形成される。それも、減速し。十一階で止まる。大上さんは、既に部屋に一度訪れた事があるのか。表札をいちいち確認する手順も踏まず。とある扉の前で歩みを止め、振り返る。俺の多くない荷物を肩代わりして。また、あのカードを取り出すと。扉が開き。中を覗けばマンションにしては広々とした空間が広がっていた。

  2LDK。リビング、ダイニング、キッチン。そして個室が二つ。トイレは一つ。お風呂はトイレと別だった。一緒のタイプもあると聞いて、そんな物件もあるだと。泊まりにホテルも経験した事のない俺は、そんな事にすら驚いて。玄関を開けてすぐ、奥に続く廊下を隔てて両隣に扉があり。そこが個室になっており、片方が俺のになるのだろう。片方、入って右の扉は閉じられており。左の方は換気にか、開いたまま。覗いてみれば、大上さんの私物が広がっていたりはせず。ベッドと机があるだけで、無人であったから。やはりこの部屋が、俺の。という事なのだろう。無言で大上さんが俺の荷物を部屋の中に運ぶ。

  「一通りは揃えてありますが。足りない物、いろいろ買わないといけませんね。伊吹様」

  部屋を見渡し、そう言葉を零す狼の横顔。ちらりとこちらを一瞥し、今日から住む場所だからと。案内してくれる、男の後を義務的に追う。システムキッチンと呼ばれる、機能美と使っていない時の見栄えも考慮されたそこ。実家の掃除していても老朽化したコンロとか、しつこい油汚れとかが全くない。真新しいそこ。オーブンレンジなんて初めて見た。それも大きい。実家のは、オーブンとレンジが別々にあったというのに。冷蔵庫も、二人で暮らすとしても。巨大だった。大上さんの背丈よりデカい。というか、身長幾つなのだろうか。二メートルぐらいと、見ているが。実は百九十ぐらいだったりして。メジャーとかないかな。ついでに鍛えているだろう、胸囲も測ってみたい。俺も、なれるならあれぐらいと言わずとも。むやみに誰かに触れられて抵抗できぬままよりは、跳ねのけられる力ぐらいは欲しいと思った。

  見知らぬ男との同棲生活に、胸が高鳴ったりせず。どうせ全て生活費も工面してくれるのなら、一人の方が良かった。家事が全くできないわけではない、得意かと言われると。違うのだが。それでも、お金があるのならどうとでもなるとも思っていた。

  「何か、要望はありますか?」

  そう言う男性の声に、疲れ切った俺は。思った事をそのまま口にしていた。一人に、なりたいと。息を呑むようにして、大上さんが黙りこくる。相手を気遣うとか、今の俺に、状態に、そんな余裕すらなかった。この人に罪はないとしてもだ。

  「わかりました。明日、またお伺いしますね。伊吹様。お疲れのご様子ですし、今日はもうお休みになったらいかがですか?」

  そうか、それもそうだな。何だか疲れた。どっと、身体が重く感じる。自分の部屋だと言われる場所に促されるまま、そうされて。大上さんの声が、どこか遠く感じる。目の前にあるベッド。正面から飛び込んで、質の良い布団が俺を出迎える。感情を挟まない無機物だかこそ、今だけは安心感に。身を預けるに足りるものだった。背に、部屋の戸を閉める。大上さんの気配。家の中を徘徊するように。何かをしているのか、それが済むと。玄関が一度。開いて、閉じる音。どこかに出掛けたらしい。どうでも良かった、どうでも。あの人がどこに出掛けて、いつ帰ってくるとか。本当にどうでも良かった。微睡んでいくままに。

  ハッと起き上がる。掛け布団もかけず寝ていたから、クーラーすら付けていないのに。寝汗は掻いていなかった。暗い部屋の状況から、夜であるというのはわかるが。今何時であろうか。ポケットに押し込んだままの携帯を取り出し、ぼんやりと点灯した液晶が。きっと寝惚けた不機嫌そうな俺の顔を照らしている事だろう。時刻は、もう八時を過ぎていた。お腹、空いたな。そんな原始的な欲求に従い。ベッドから這い出す。怠い。けど、動かないとご飯は向こうからやってはこない。

  部屋の中を携帯の灯りで照らし、探して見つけたボタンを押しずっと明るくする。窓は少しだけ開いており、縦にいくつも棒状に並んだ格子。それらよりも向こう側。外の騒がしさがそれとなく聞こえてくる。車のクラクション。男女の楽しげな声。ペットの吠え声。

  鉄格子。窓から誰も入ってこれないようにだが。まるで俺は囚人であり、ここから出さないぞという意思表示のように思えて。すぐに視線を逸らす。扉から顔だけ出してみれば、廊下も薄暗く。そして、誰の気配も感じない。大上さん、まだ帰ってないのかな。玄関の方を見ても、靴は俺が今日履いていた一足だけだった。だからすぐ目の前にある、もう一つの扉は。ノックして確認もしない。

  のっそりと歩き、廊下の電気も点灯させ。続いてリビングも。節電という文字が浮かんだが、俺の金じゃないしと。意識の外に追いやる。暗いと、寂しいというのもあって。

  すると、リビングにあった広々とした机の上。走り書きだが、何かメモがあった。その隣は、見覚えのあるカード。先にカードを手に取り、それがこのマンションの鍵なのだと。裏返したりしながら、少しの間手の中で弄び。最終的には財布のカード入れにしまう。

  続いて、メモを見てみるのだが。きっと大上さんが書いたであろうそれ。電話番号と、もしもお腹が空いたら戸棚か冷蔵庫の中にあるもので適当に。それか、出前を頼むなら置いてあるお金を使ってくれと。歩いて行ける距離にコンビニも、スーパーもあるからという文字。メモの下に、一万円札が一枚あったのに今気づいた。実際に、お金が目の前にあるとしても。他人のお金だと、強く意識してしまい。それに手を付けようだとか、カードと同じように自分の財布に入れようかという気持ちにもならなかった。見えない部分でなら。電気代とか、好き放題してやろうとさっき思ったばかりだというのに。現物があると、小心者な自分が手を出すなと訴えかける。ならどうするか、冷蔵庫を物色する他ないかと。携帯に番号を登録もせず、メモ書きを放るようにして。元あった位置の近くに置く。俺と違って綺麗な字が何だかムカついたというのもあった。

  冷蔵庫の上の段。両開きの扉をがぱっと開け、冷気が俺の顔を撫でる。ちょっとそれが心地よく感じる程度には、室温は涼しいとは言い切れないという事だろう。お風呂にも入ってないのだからべたついた肌が、気持ち悪い。だが、先ずは腹を満たしたい。真空パックされた、日持ちしそうなハムとかベーコンを押しのけて。調理済みのを探すが、あの短い時間で大上さんが用意できるわけもなく。それは、続けて開いた野菜室もそうだった。切られていない、野菜がゴロゴロしており。このまま齧るか、ちゃんと調理しないといけない。だが、今の自分が料理をしようにも。いくら自分の家になると言っても、まだまだ他人の家感が拭えない。それにとにかく怠い、そんな体力もない。動き回ったわけでもないのに、疲れ切っていた。きっと精神的な疲労が大部分だろうか。

  思いつく理由はそれしかない。冷凍庫を開け、冷凍食品を取り出す。良かった。高級思考なばかりであったなら、大上さんが手作り以外認めない人だったら。もしかしたらないかもと思ったが。一応、少ないながらも何個か。大半は冷凍された魚や肉といった、これもまた。解凍したうえで調理しないといけないただの具材だったが。チンするだけで食べられる物が全くないわけではない。それを幾つか。戸棚を開けると、カップラーメンと。インスタントのご飯。これもチンすればすぐ食べられる。お米を炊くのも待っていられない。一時間より、数分待つだけで食べられる物の方が今の俺の胃に対しては価値が高い。

  都会に来て、昼間にファミレスで食べた食事と比べると。とてもあんまりなものであっただろうか。適当オブ適当。家事ができない人のインスタント飯の典型的な、身体に悪そうな光景が机の上に広がっており。でも今の俺にとってはそんなものでもご馳走だった。空腹はモラルとか、秩序やプライドも。健康を気にする気持ちすら全部放り出すに足りる。親の手料理ばかりだったから。逆にここまで全てが冷凍食品といったレンジでチンした食べ物ばかりだと新鮮にすら感じる。頂きます。一人ぼっちの食卓に、俺の声が物寂しく響く。行儀よく、手を合わせて。そうして、誰も見てないのにと。自嘲気味に、ははっと乾いた笑い声を発した。

  大上さん。夜ご飯の心配にメモを残すぐらいだから、帰りは遅くなるのかな。不味くもないけれど、特別美味しくもない。温めたご飯を口に運びながら、壁掛け時計を見る。そういえば、明日とか。そんな言葉を言っていたような気がする。もう、いっぱいいっぱいで。しんどくて。狼の心配する顔すら視界に入れたくなくて。目すら合わしていなかったから。何を言っていたか、ちゃんと覚えていなかった。なら、今日は帰ってこないんだなと。薄れていく感情の中で、それでも。寂しさに、お箸を咥えたまま。俯く。一人で食事なんて、初めてだった。いつもは、両親が居た。家には、いつも。父も、母も。

  じゅる。垂れて来そうな鼻水に、思わず乱暴に鼻を啜る。手の甲で、鼻の下を擦る。何でこうなったんだろう。どうして、こうなってしまったんだろう。男と突然結婚しろだなんて。ましてや、子供を産むなんて。ゲイでも、俺にだって選ぶ権利はある。前向きに考えたら、マッチングアプリとか介さずに。男と関係を持てるとも取れるが。でも俺は、誰彼構わずに身体の関係など持ちたくはなかったし。ゲイといえども、そういう顔も知りもしない。SNS上で流れてくる裸体を晒し。誰それとヤっただのとわざわざ報告する人達を見て。俺自身が何かされたわけでもないのに、モラルを欠いた目に入る光景にうんざりしていた。綺麗ごとを並べるようで、実際にそうでもあるのであろう。できれば普通の男女がするように、恋愛。恋して、愛して、その上で。やがては肉体的に繋がりを得るというのも想像した。それが、同じゲイの人と出会うよりもずっと難しく。即物的な肉欲を満たしてしまった方が、簡単なのも。わかってはいた。セックスをいっそ神聖な行動、心を繋げる、愛を確かめるものであると。美化し、でも結局は。年相応にヤる事はヤる、そういうスケベな事をしたいだけでしょと。他人からすると同じに見えてしまうのだった。

  嫌悪し、でも自分もカテゴライズすれば。ゲイという枠組みにおいて一緒であり。悪目立ちしている相手とそう変わらないのだなと。美化したものは、綺麗なまま。何もできず。行動に移す人を悪く言う権利がどこにあるのだろうか。もう少し慎みは持てよとも、やっぱり思ったりもするが。男性。特にあそこの大きさを誇示し、性的なアプローチとして一番わかりやすく。顔や、服装。筋肉や、チンポ。精力。同じ男として。ゲイとして魅力に感じる部分。比べたがる部分。多かれ少なかれ、自分にもあるのだなと客観視して。いかに自分は彼らと違う、そうやって。枠組みの中で抜け出せないまま。ジタバタしているだけなのだ。なんと、愚かで。自己嫌悪に足るおこないであろうか。

  正直に言えば出会いが欲しい。恋人が、欲しい。人として誰かに、ただ一人に、愛されたい。そんな欲望のまま、マッチングアプリをインストールしたはいいものの、ずっと起動すらせず。足踏みしている。セックスだけの、俗な言い方でヤり目的な相手が来たらどうしよう。俺なんて、簡単に騙されて。使い捨てられるのがオチだろうかと。挑戦もしていないのに、悪い方向にばかり考えて。俺がゲイだって相手は知る機会もないのに、それ程まで自分は魅力溢れる人でもない。来るわけもない恋人をいつまでも夢想する。夢見がちな、世間知らずの田舎者。それが俺で、どうしようもないぐらい。俺という考え方だった。だから、発展場なんて行った事もないし。高校生にもなって、恋すらした事がない。田舎の高校では、友達もおらず。いや、作らないようにしていた。小さい頃は居た、友達と呼べる子達も。俺から離れていったから。ゲイであるという以前に、俺は視えたから。この世ならざる者達を視えてしまったから。隠し通すにも、不審な点は多くあり。そして決定的な事件が起きてしまって。

  中学に上がる前の頃。俺を虐める奴が現れた。上履きを隠されたり、ちょっと鬱陶しい絡み方をされる程度の。虐めといっても、悲惨なものではなく。今の俺からするととても可愛らしいものであっただろうか。別に殴られたり、金銭を要求されたりはしなかった。言いなりにさせ、パシリのように扱いたかったのかもしれない。それか、鬱憤を晴らせるなら誰でも良くて。きっかけは、虐めて来た奴じゃないからわからないが。あまり取り合う気もなかった。従わなかったし、もし殴られたら殴り返してやろうかな程度には。反逆の意思はあったのだから。それでも相手が暴力に訴えない限りは、無視していた。それ故に、余計相手が助長し。内容がエスカレートしつつあるとしても。だから、もうそろそろかなって。その均衡が崩れるのを待っていると。予期せぬ方向に事態は動く。

  その虐めっ子が、事故に遭った。それも骨折するぐらいの。入院に学校を暫く休んで。罰が当たったのだと、その時の俺は。別にその子が怪我するのは不本意だが、それで心配するまで情もなかった。その程度だった。でも、完治して戻って来た子が。露骨に俺を避けるようになったから。妙な噂が広まりだした。俺が、何かしたと。全く身に覚えのないそれに。やっぱり、対応は無視の一択だった。友達は信じていなかったし、いい気味だとも。味方でいてくれた。それで終わったら良かった。それで。でも怖いもの見たさか、第二の虐めっ子が現れて。そして、その子も。事故に遭って、学校を休んだ時から。俺を取り巻く空気が変わった。

  友達でもない学友から、避けられだして。噂にどんどん尾鰭がつき。俺と関わると、良からぬ事が起こると。そんなわけない、そんなわけ。そこで周りを見回すと、友達からも薄っすらと怯えが見えて。その背後に、良くない物が視えた。あいつらが、形の崩れた生き物ですらないモノが遠巻きからニタニタと。笑っていて。もしかして、何かしたのだろうか。ただ俺の周辺を、遠くから見て。たまに近寄っては、何もしてこなかった。明確な害がなかった、日常に溶け込んでいた。気持ちの悪い容姿をした、妖達が。そこで改めて存在を認識して。俺は、あいつらから好かれている自覚があった。引き寄せ、魅了する何かがあるのか。いつも、向こうから寄って来る。でも、家の中とか。屋内には入ってこない。学校は、グラウンドとかには来るが。教室の中までは。虐めっ子達が事故にあったのは、どちらも屋外だった。事故だから、そりゃ家の中で起きる可能性は少ないとしても。そんな良くない事が、だんだん起き出して。俺を露骨に避け、噂を鵜呑みにした子が。何をしたんだと問いただして来て。そして、そんな子まで。事故に。大きな事件としては三回。でもそれで十分だった。その三回目で、仲の良かった友達まで離れて。関わらないようになった。関わらなければ、事故に遭わないと。そんなものが浸透して、先生は気にするなと言ってくれたが。俺自身が、そうだと。思ってしまったから。だからこそ、これで良かったと。友達がいなくなっても。受け入れていた。いつかこうなると、視える立場の俺は予感がしていたのもあって。

  一人だった。独りなのだと。両親にゲイであると打ち明ける事もせず。誰にも。でもいざ、男の人と。あの狐の男と結婚しろと言われて、どう反応すればいいのだろうか。異性愛者の仮面を被り、気持ち悪いとそんな顔をすれば正しいのか。振る舞い方がわからなかった。

  ゲイとして、正直に。でも、やっぱり。好きでもない男の人なんて。わがまま、なのであろうか。せっかくのチャンスなのだろうか。人から強要されるこれが、チャンスと言っていいものなのか。わからない。

  世界で、独りぼっちのような。取り残されたみたいに感じる。閉じ籠って独りになろうと、自分の殻に籠り続けているのは俺自身だとしても。

  両親の気持ちを確かめたい。でも確かめて、本家に俺の身が売られたというものが事実だったりしたら。心が。受け止める事が、できない、できよう筈もないと。電話を掛ける事ができなかった。

  親を疑うのが、怖い。

  「泣いてるの、イブキ」

  子供の声が、俺の傍でする。机の上にいつの間にか白い毛の管狐が前足だけでトコトコと歩き、後ろ足がない為に宙に浮いたままの下半身をゆらゆら揺らしていた。すんすんと、食べ物のにおいを嗅ぐ仕草。

  「今までどこに行っていたんだよ」

  目を細め、管狐を睨む。友達が居なくなって、代わりに俺の傍に居るようになった。どこまでも、家の中だろうとお構いなしに。勝手に肩に乗って来るそいつをだ。

  「あの家、僕達みたいな存在を阻む細工がされててね。弾かれちゃった。大人しく外で待っていたんだけど。待ちくたびれて、ついウトウトしてたら。そしたらいつの間にかイブキどこかにいっちゃうし」

  探すの苦労したんだよーって。大変だったと、尾を揺らす。そういえば、あの屋敷の中で。あいつらを。妖を見なかったなと、思い出した。いつから、居たんだろうか。この喋る管狐は。たまに着いて来る、よからぬ存在も。家の中に逃げ込めば、玄関を叩くだけで。入ってこれないのに。喋り、どこにでも着いて来る管狐は異質であった。小学校の頃から、居たような気もするし。もっと前からな気もする。出会った日がどうしても思い出せない。

  肩に飛び乗って来て、目尻を舐めようとするから。咄嗟に手で払いのけようとする。のだが、風で草花がなびくようにして。管狐はするりと躱すと、机にまた着地していた。物理現象にあまり干渉できる奴は少ない、肉体にもだ。実際に管狐が何か食べようとしてもすり抜けるし、壁も同様だった。でも俺の肉体には触れられるのか、重さは感じないが。乗って来るし、髪を持ち上げたりもできる。

  「慰めようとしたのに」

  「泣いてない」

  うっそだー。三日月状に、目を歪め。ケラケラ笑う管狐が目障りで、食事の続きをしようと。止まっていた箸を動かす。

  「大丈夫だよ、イブキ。僕が君を守ってあげる」

  口ではどうとでも言える。今日はその言葉にうんざりしていた。信用できない奴しか、それを口にしないというのもあって。そして、そう言っておいて。肝心な時に。居ないのだから。悪巧みするように、口元に前足を当て。ふざけた態度というのもって。管狐を無視するように、食べ進める。守ってあげるからね。ずっと、ずっとね。そう言う、管狐の。子供の声だというのに、どこかうすら寒い感じがして。直視できなかった。黙っていれば、動物らしくペットのようで可愛いのに。獣人のように表情が巧で、喋るから。遊び相手にも、お喋りをする相手にも。俺は今まで選ばなかった。気を許したその日に、何かしてきそうで。眠る時も一緒だから、やろうと思えばいつでもできたとも言えるが。実際に、小さいあいつらが近づこうとすると。この管狐は追い払ってくれていた。この子が威嚇すると、怯えて逃げていく。

  「イブキの嫌いなやつ、皆から。守ってあげる。僕がずっと一緒だから、寂しくないよ」

  でも、話しかけてくれる存在が居て。どうしても一人の時間というものは、良くない事ばかり考えてしまう。少しだけ気が紛れたのも認めたくないが事実だった。手に擦り寄って来る。まるで母狐に甘える子のように。思わず撫でたくなるが、ぐっと我慢した。何か言う度に、黙れよって言っても、ひっどーいって。まるで聞いていない。怒って離れたりしない。理由もわからず懐かれている、憑かれている。

  きっと、傍から見たら。俺が独りぼっちで食事をしながら。独り言をひたすら喋っている光景なのだろうな。だから、外でも話しかけられたからとあまり返事をしなかった。つい、そうしてしまう事もあったが。大上さんも今は居ないというのもあって。人の目から解放された今だけは。珍しく積極的に応対する俺に、気を良くしたお喋りな管狐は。会話を弾ませる。家は、ずっと両親が居たから。会話相手に困らなかったのにな。そっか、もう居ないんだ。

  俺には。こいつしか。笑う管狐の瞳を覗き込んで、どんよりとした。暗い顔をする自分の表情に気づいた。話題が弾んでも、俺の気分が完全に晴れるわけではない。結局は問題の先送りで、これからどうするのか。どうした方がいいのか。考えないといけないのに。考えた所で、何もできない。力が及ばないのだと。無力感がやっぱり、現実逃避を選択する。狐野柳家のそれとなく示される財力や権力に、学生で。特別な存在でもない俺が。どうしろと言うのだ。卒業するまでの猶予。就活とか。脳裏を過った、何気ないそれに。そうだ、仕事だ。自分で仕事をして、独り立ち。独りで暮らせるように。逃げてしまえばいいんだ。

  何もかも。狐野柳家も、そして。憑守家。俺の実家とも。売られたのなら、売られてしまったのなら。俺が好き勝手して、約束を守る義理などないのではないのか。だが、それをしたら。親が、迷惑をこうむる。育てて貰った恩。何よりも、愛されて育てられたと今まで思っていたのだ。そして今でも。疑うよりも、信じたい。信じたいのに、一度湧いた疑念は。ずっと残ったままだ。

  逃げたとして。追手がかかるのではないのか。意外にそこまで重要視されておらず、逃げたら逃げたで。放置され。露頭に迷って勝手に死ねと、そう見捨てられるのではないのか。頼る伝手も、手に職もない。二十歳も来てない子供に。現実はそこまで甘くはないのであろう。でも。そこに希望を。逃げ出すんだ。ここから。大上さんからも。真由理からも。狐野柳家から。両親を裏切るという、部分から目を背けて。

  [newpage]

  [chapter:四話 友達]

  大上さんが最低限揃えてあるという言葉通り。昨日は食べた物を適当に片付け。お風呂に入り、またそのまま就寝した。あまり深く寝つけなかったのか、それとも一度寝てしまったからこれ以上の睡眠は不要と身体が判断したのか。携帯のアラームが鳴る前に目が開いてしまう。新しい土地だと、無意識に落ち着かないらしい。朝日が昇ったばかり、人の気配はしない。すやすやと、俺が寝ていたベッドに長い胴体をとぐろを巻くようにして丸まっている管狐。見ようによっては、そうしていると蛇のようだ。顔は狐だし、鱗ではなく毛皮があるが。

  暫くぼーっとしていたが。いい加減動くかと思い立ち。歯ブラシも未使用の物があったから、確認は取ってないが俺のだろうと勝手に使用していた。シャカシャカと歯を磨きながら、見つけた食パンをオーブンレンジに入れ。軽いタッチでスイッチを押す。ダイヤル式のタイマーじゃないのが面白い。磨きながら歩きまわる行儀の悪い俺の足元で、管狐がうろちょろして踏んずけてしまいそうだった。まあすばしっこいし、自分で避けるだろ。そんな時、足裏にもふもふした感触が突如出現し。何だと思い、見下ろすと。困ったような顔をしてこちらを見上げる管狐。つんのめるようにして、前足が不自然に浮いており。首から背中にかけてがぴんとタオル生地を伸ばしたかのように張っている。なぜなら俺の足が、管狐の愛らしい尻尾の先をフローリングに縫い付けるように。思いっきり踏んずけているからだった。そのような光景に。足をそっと持ち上げ歯ブラシを咥えたまま、悪いと謝罪するが。人の足元でうろちょろしているこいつが一番悪い気もした。

  新居。初めてのマンション。新しい家での清々しい朝。新生活一日目。そんな言葉を並べてみるが、やっぱり抱くものは憂鬱でしかなく。今日は特に何も言われていない。学校の転校は後日にと、狐野柳家での顔合わせと日付をズラしており。まだゆったりできる。逆に言うと、この間に必要な物を揃えろというわけなのだが。慌てるでもなく。それは全て大上さんがやってくれるだろうなんて、全力で人任せにしていた。世話係みたいなものなので。実際は監視だろうけれど。任せていいなら任せる主義だった。文房具とか、前の学校で使っていたものはあるが。着慣れた学生服は、変わるだろうし。教科書も、違うだろう。授業内容についていけるだろうか。田舎の在校生も少ない、馬鹿にしているわけではないが受けたら簡単に受かる母校と違い。これから通う学校はそれなりに偏差値も高いって話だ。授業を真面目に聞いていなかったわけではないが。飛びぬけて学力が高いわけでもないので、不安だった。

  もしも本当に逃げ出すのなら。これまでよりも真面目に、授業を受けて。この際だ。ちゃんと卒業させてもらい、その上で。逃げ出そうと思っていた。高校を中退して、最終学歴が中卒なのと。高校を出ているとでは就職先の選択幅がかなり変わって来るだろうし。本音は、大学とかも行ってみたい気もするが。高校を卒業したら、男と結婚の二文字なので。やはりそこが分岐点だった。

  これからの行動目標として。ちゃんと表向きは勉学に励み、大上さんの信用を獲得し。狐野柳家に従い。無事学校を卒業したら、真由理に抱かれる前に。去る。俺の浅知恵がどこまで通用するかはわからない。逃げた先で、それか逃げる前に確保されて。監禁され、逃げたから人権などないと。惨たらしい末路を辿る恐れだってある。でもこうでも考えていないと、自分を保てないぐらいには。俺は頼る人がおらず、反骨心を支えにしていくしか。でなければ折れてしまいそうだ。大丈夫。俺は弱くない。立ち向かってやるんだ。何もかも。

  大上さん、遅いな。もう時間は八時を過ぎている。彼の昨日見ただけでの性格から推測すると、朝早くに来ていてもおかしくないのに。そこでメモに書かている、彼の携帯に繋がるのであろう番号を思い出す。

  まだ、登録すらしていないそれをだ。一応、何かあった時にと。自分の携帯を操作し、一日遅れで登録する。

  おおがみ、つきじ。苗字とか名前の由来って、その人を表す。それか成した偉業とかで付けられる場合が多く。ご先祖様はそうやって苗字も決めたりしていたらしい。だから獣人の人の苗字にはその人の種族に関係する場合が多いけれど。狼だから、おおがみ。安直だが、確かに覚えやすいとも思った。そんなふりがなが振られたどこか可愛らしい名前がリストに加わる。

  さてと、そう意気込んでみても。何もする事がなかった。家に居ても。荷解きする程持って来ていない。ちょっとだけ周辺を散歩してみようか。遠くには行かない程度に。ペンを持ち、大上さんの書置きに。散歩に出ますと、一方的に知っている気もしたが一応俺の番号を付け足す。入れ違いになってしまったらいけない。念のためにだ。三十分とかそこらで、帰って来るつもりではあるのだが。財布の中に入れた、家の鍵であるカードがちゃんと入っているか確認し。少ない荷物の中から、自分の替えの私服に裾を通す。頭に抱きつくようにして管狐が勝手に引っ付いて。靴を履いて、一歩。扉から飛び出せば。広がっているのは田んぼでも、林でもない。向かいには別のビルや、マンションが建っている。緑が本当に少ない。道路や歩道に申し訳程度にあるだけだった。お隣さんとか、鉢合わせたらなんか気まずいな。別に怪しい者ではないが、引っ越しの挨拶とかどうすればいいんだろうか。そんな心配を余所に、簡単に一階のエントランスまで辿り着く。この時間だから、俺と同じぐらいの子が。通学にか歩いていたり、自転車を漕いでいたりする。俺も、もうすぐあの中に加わるのだろう。通り過ぎる学生と目が合うが、何も言われずそのまま通り過ぎていく。平日の、この時間。普段着を着ている俺はかなり目立つのだなと。今更気づいた。中卒なら、おかしくもないが。それはそれで、働きに出ているだろうか。歩道を歩きながら、何となく。マンションの駐車場を見ると、沢山ある種類の違う車達の中から。見覚えのある車が一台目に留まる。集合住宅であるから、駐車する場所も決められており。昨日と全く同じ位置に止まっているから、気づけたというのもあった。てっきりもぬけの殻だと思っていたから。近づきながら、やはり知っているナンバープレートを一応確認し。大上さんの車だと確信する。

  数メートルまで近づき、耳に聞こえてくる静かなエンジン音。だが、運転席には人影がない。そして、座席も一つ足りないように見える。入れ違いになるには、エレベーターは一つ。わざわざ大上さんが階段を使ったりして十一階も駆け上がるとは思えない。俺だったら二階ぐらいなら、エレベーターが使用中だったら階段を使用するが。寝泊まりした階はそこまで低い位置ではない。運転席側の窓から、どうして座席が足りない。そういうふうに見えたのか。近づいた事で、見える角度が変わり。そう見えた理由、限界まで倒されて平べったくされているからであり。そして居ないと思っていた大上さんは、その状態で仰向けに。車内で寝ていたからだ。何をしているのだろうか。こんな所で、わざわざ。車中泊などと考えるが、もしかしなくても自分が昨日言った言葉が原因であろうかと思い至る。

  後ろめたい気持ちが、このまま立ち去ろうかと一瞬思うが。それよりも、心配する気持ちが勝り窓を軽くノックしていた。腕を組み。寝苦しそうに眉間に皴を寄せて眠っていた狼の顔。音に反応してか、瞼が薄っすら開き。険しい表情は、そのまま自身の腕時計を確認していた。俺の前ではずっと温和な表情をしていたから、初めて見るその。いっそ不機嫌そうな顔が少し新鮮だった。朝、弱いタイプだろうか。寝起きの顔なんて、誰でもこんなものか。ぱちぱちと瞬きし、そして窓を覗き込んでいる俺と大上さんの鋭い視線とが。ばっちりと絡む。まだ、状況を呑み込めていないのだろうか。狼の唇が何かを口ずさみ。目を限界まで開くと、大慌てでシートに預けていた上半身を起こし。ゴンッ。頭を車の天井にぶつけて、声は聞こえないが呻いていた。それでもドアを操作する動きが窺えたので、そっと邪魔にならないように車から少しだけ離れると。ドアが開き大柄な男性がよろよろと出てくる。ちゃんと自分の足で立ち上がった後で、ふらつくのか。ルーフに腕を置いていた。ネクタイも緩み、昨日はちゃんと留められていたボタンもいくつか外されており。かなりスーツが着崩れている。ドラマとかで出てくる残業帰りの疲れ切ったサラリーマンをどこか彷彿させる。寝癖だろうか。灰色の毛先がくねり、幾つかぴんぴんと棘みたいになってしまっていた。

  「あー、その。おはようございます伊吹様。昨夜はよく眠れましたか?」

  言った後で、出そうになった欠伸を噛み殺そうとしたのか。歯を剥き出しにして変な顔で、それでも大欠伸する大上さん。そのまま彼の言葉を返したいぐらいには、男の様子はあまり寝られなかったのだろう。セダン系の車は運転し易そうだが、寝泊まりには不向きだとは思う。首を痛そうにぐりぐりと狼が回していた。

  「大上さん、なんで。もしかして、ずっとここに?」

  「ええ。ホテルに泊まろうかとも思いましたが。伊吹様に何かあったらいけないので、呼ばれたらすぐ行けるように待機してました」

  やっぱり。俺のあの一言で。彼が車中泊する結果になってしまったのだと知る。俺のせいで。なんで、ホテルに泊まれば良かったのではないのか。その方がずっと。ここまでする必要、きっとない。やはり、監視という事なのだろうか。ここなら、マンションから出て来た俺を見張りやすい。思いっきり寝てたけど。そういう意図もあったのだろうか。

  でも監視するだけなら、家から出る必要はなく。大上さんの部屋だろう、俺の部屋の真向いの部屋に居ればいいだけで。俺がいくら一人になりたいと言ったからと、そうする必要なんてどこにもない気がした。

  「俺がこうやって見つけるまで、呼ぶまで。ずっとここに待機するつもりだったんですか」

  俯き、足元を見ながら。どういう意図でそうしたのか、推し量りながら。相手の真意を探っていて。

  「そうですね。そのつもりでした」

  予想通りの返答に、顔を顰める。自分よりも年上の。おじさん、って呼んだら怒るだろうか。そんな人が、どうしてこうまでするのか。仕事だからと言ってしまえばそれだけだが。俺を見つめる優しい瞳が。それだけじゃないんじゃないかと、思わせる。思ってしまう。いくらクーラーがあるとはいえ、真夏の。車内で。熱中症にでもなったらどうするのだろうか。どうしていたのだろうか。そうなる前に飲み食いはするだろうが。そういう話で終わらせていいものではない。俺の無責任な言葉で、こうなったのなら。こんな所で、この人が寝る必要なんて。どこにもなかった。

  「俺が許可しなければ、家に帰らないつもりだったんですか」

  「別に、一緒に暮らさなくても。業務に支障はないので。伊吹様が、安心できるならと」

  正面を向くと、大上さんは違う方向を見ていて。後頭部を搔きながら、もう片方の手は腰に当てて。そうするとスーツが着崩れてるから、かなり柄が悪く映った。品の良い大人の男性像が、こうも崩れてしまうのか。寝起きだから、しかたないのだろうが。業務。その一言に、これでもまだ親身に。気遣う言葉ばかりだったこの人から、明確な壁を感じた。あれだけ自分は壁を作り、大上さんに接していておいて。

  振りかけていただろう、ウッディ系の香水だろうにおいの中に。わずかだが、大上さんの体臭が昨日よりも強くなってるように感じる。いや、実際に人間の俺にでも嗅ぎ取れてしまうぐらいには。強くなってるのだろう。汗を掻いて、お風呂も入れず。犬臭い、というとちょっと違うけれど。獣臭と男性の汗が混ざった、そこに大上さんという個が付属された。漂うそれを俺が嗅ぎ撮ったと気づいたのか、大上さんは自身の腕を顔まで持っていき。スンスンと鼻を動かしていた。

  「その、においますか?」

  恥ずかしそうに、狼の耳がぺったりと倒れ。大上さんの目線が少し下がる。上目遣いに、こちらの様子を窺う男に。少し、と正直に返せば。より一層、肩を縮こまらせた。身嗜みはきっちりしているタイプだから、きっと余計に恥ずかしいのだろう。はぁ。そう溜息が零れた。申し訳なさそうな顔をする狼。自分よりも体格の良い男性が、必要以上にへりくだるのにいい加減うんざりして来たというのもあったし。こうなった原因は、俺だというのもあって。自責の念もひっくるめての、それだった。銭湯にでも、行って来ましょうか。そう小さい声で言いながら、一歩俺から距離を取る大上さん。俺に臭い、そう肯定されたからか。気にして取った行動なのだろう。改めて、考えた。この人と今後どうしたらいいのか。もっと、遠ざけられるのならそうした方が。都合がいい。監視の目は少しでも離れていた方が、いろいろと暗躍ではないがやりやすい。逃げ出す算段をする時に、とても都合がいい。いいのだが。

  「家のお風呂、使ってください」

  自然と出ていたそんな言葉。これ以上、この人を痛めつけるのを俺が嫌った。散々わがままに、当たり散らした上で。大上さんという人間を嫌いになれなかった。利用だけする存在に、置けなかった。寝癖と同じように、再び真っすぐに立った獣の耳。いいんですかって、そんな顔。この人もまた、俺が気を許しておらず。どちらかというと鬱陶しがっていたと気づいていたのだろう。気づかない方がどうかしてるぐらいには、俺のこれまでの態度はあんまりなものであったが。

  「その、俺と。大上さんが暮らす、家なんですから……」

  尻すぼみになりながらも、伝えた言葉。許可なんて俺に取らなくても良いのに。使う権利は平等にあるだろう。望まぬ、よく知りもしない相手との同棲であったが。これから突然独り暮らしでほっぽりだされる不安と天秤にかけて。家族でもない他人が突如、自分のパーソナルスペースに侵入する拒否反応も当然あって。それでも、拒絶しきれなかった。相手の顔が見れなくても。控えめに揺れる、獣の尾が垣間見えて。

  この俺の行動はきっと人として間違っていなかったと思う。そう思いたかった。

  そして始まってみると、大上さんとの共同生活があまりにも快適過ぎて。逆に駄目なのではと思い始めた。

  まず、この男。家事ができる。いや、俺のお世話係なので当然なのかもしれなかったが。出来過ぎやしないだろうか。そう思わせられる程度には、隙がない。ピカピカに磨かれた家。埃、というか大上さんの抜け毛一つもなさそうな床。家具の隅っこ。そして一品だけでも手が込んでそうな料理の品々。俺の好みが実家で食べていた物のせいでもあるが。和食なのもあって。朝と夜、二度炊かれるお陰で。俺の口に入るのは必ず炊きたての白ご飯。味の濃すぎないお味噌汁。下地に出汁でも染み込ませたのか、口に含んだ瞬間旨味が広がる鮭の塩焼き。茹で過ぎていない丁度いいしんなり具合のほうれん草のお浸し。そっと添えられる、毎日違う自家製の漬物。彩りと栄養バランスを気にした上で、どれを食べても美味しいという感想しかでなかった。スーツに窮屈そうに押し込めていた肉体は、家の中だとゆったりとした服を着ているが。汚れないように、デフォルメされたキリリと眉毛を斜めにした狼君がプリントされたエプロンを着て。胸の膨らみのせいか、帯でしっかりと固定されていても。胸の下とお腹との間に少し空間ができていたのが横から見ると窺えて。温和な表情をしながら、おたま片手に。美味しいですか? そう聞いてくる男。

  ちょっと老け顔なのを除けば、完全に雰囲気が保母さんだった。さしずめ俺は、保護された園児か。仕事は俺の世話なので、食材の買い出しに行く以外家を開ける事もなく。本当に家事だけをしている。無骨な狼の手が。俺の昨日着ていた服を洗い、ベランダに干し。お日様のいい匂いを纏ったそれらを。正座し、膝の上でテキパキとたたむ。俺よりも早く起きて、朝ごはんを作り。時間ぎりぎりまで寝ている俺を、美味しそうな香りを纏いながら。優しい声音とノックで起こしに来るのだった。伊吹様。伊吹様。そう低い男性の、よく通る落ち着いた声が。逆に二度寝に誘うようであっても。学業があるので、線引はしっかりしているのか。勝手に自室に入ってくると、遅刻しますよって強引に布団を剥がしにかかるのだが。

  それ以外は本当に、あまり過干渉でもなく。放置するでもなく、元からそうであったかのように。大上さんは俺の保護者をしてくれていた。家の中では常に着ているエプロンも、最初は狼の顔だからその絵柄が狼なのは受けを狙っているのか。本人の趣味なのか推し測りかねたが。見慣れてしまえば、彼に似合ってるなって思うようになってしまった。近くのスーパーには、車だと都会では逆に混む時間帯もあって。そういう時はママチャリを漕いでまで、特売の卵を買いに行く大上さん。田舎だと車がないとお話にならないし、混むといっても数分と変わらない。気にならない程度。だが場所によっては、車の多さに一時間も変化する程度には。渋滞するらしい。帰宅ラッシュってやつだろうか。値切り品はどうしても夕方から夜にかけてになるので、重なる場合が必ずある。資金源は全部狐野柳家持ちだというのに、贅沢はし始めると際限がないのでと。己を律し、無理のない範囲で自ずと節約する大上さん。料理ができるだけでも凄いのに。彼はちょっと照れくさそうに、作ってみたのでいかがですかって。手作りのマフィンとかもたまに披露してくれて。オーブンも元々暮らしていた家のより性能が良いし、簡単ですよと本人は謙遜するが。お菓子作りって難しいイメージがあったから。この筋肉質な狼のゴツゴツした手から、数々の和風洋風中華。頼めば何でもキッチンから出てくるのだから驚きだった。高校生の胃袋なんて簡単に籠絡され鷲掴みされる程度にはちょろい。それは俺も例外じゃなかった。だって、大上さんの作るもの。全部美味しいんだから。数日、彼の手料理を振る舞われていたら。よく知りもしない男との同棲。そんな嫌悪感が綺麗さっぱり解かされていた。恐るべし、大上さん。

  ただ慣れてくると、別の悩みが発生するのもあって。

  「美味しいですか。伊吹様」

  ホットケーキを焼いてくれて、数段重ねた上に熱で溶けたバターと。添えられた角がぴんと立つ生クリーム。鉄製のボウルの中で、大上さんの腕力と持久力により。電動のを使いもせずあっという間に泡立てられたそれ。フォークとナイフでつつきながら、自分は食べずに。お腹を隠すようにお盆を両手で持って、立ったまま座った俺を見下ろす笑みを崩さない狼の顔があった。いくら無尽蔵に入りそうな育ち盛りの胃袋であっても。この生活を続けていたらぶくぶく太りそうだ。お代わりと言ったら、幾らでもご飯をよそってくれるし。狐色に焼かれた表面と違い、ふんわりとした生地が中に詰まっており。俺が普通に焼いたらもう少しぺったんこになってしまいそうなのに。もごもごと咀嚼して、呑み込み。甘すぎない紅茶で奪われた水分を潤せば。はい、美味しいですと。素直な感想が出てくる。そうすればやっぱり控えめに揺れる、狼の尾。三食おやつ昼寝つき。学校の転校手続きの準備期間から始まり。友達も知り合いもいない俺は、大上さんと同じで。新居であるマンション。というか自室でだらだらとするしかなく。これであるから。正直、体重計に乗るのが怖かった。対して大上さんは、家事を済ました暇な時間はどうやら自室で筋トレをしているようで。扉の隙間からちらりと覗いた部屋の中には。ダンベルとか持ち運べる程度の道具まであった。だから常に動いている。比喩でも何でもなく、本当に何かしら常に動いている。それが大上月路さんの一日の過ごし方だった。自分の時間すら、筋トレに当てていて。趣味とか、やりたい事が他にないのだろうか。それとなく聞いてみたら。伊吹様のお世話ができて、それこそ私の役目で。喜びですなんて。そんな。また意味も心当たりもない、よく分からない好意を向けられるのだから。

  「その。様っていうの。いい加減やめてくれませんか」

  尽くされる。一応それが仕事であり賃金も発生しているのだから、止めようとも思わないが。それでも、その様。という自分の呼ばれ方にだけは。どうしても慣れなかった。俺の突然の申し出に、ぽちぱちと両目を瞬かせ。ちょっとだけ口を開けたままにする狼。口、空いてますよなんて。この前俺が言われた事を言ってやろうかなんて、少しだけ邪念が過ぎった。

  様呼びされて、心地よく感じたりもせず。ただ壁を感じ、そして。自分程度に、偉くもない何も成していない。遥かに歳上の男性にそう呼ばれて、居心地が悪かった。少しの間一緒に暮らす中で、大上さんが人として尊敬できる部分が俺の視点でどんどん見つかるにつれ。そんな気持ちは膨らんでいく。逆に俺なんて、だらしのない自分の事も満足にできない。子供でしかないんだなって。人生経験も違いすぎる相手と比べて思った。俺が嫌がる事はあまりしない人であっても、これだけはなかなか止めてくれない。折れて、くれない。自室に籠もり。管狐とこっそり遊ぶか、携帯でソシャゲや漫画等を読んで時間を潰すかしかなかった。自分を高めようという行動自体には関心があっても。どう行動に移したらいいか。先送りにしたまま。これでは一人で生きていくなんて、夢のまた夢だ。

  俺が様付けで呼ばれるのを、あまり良い気がしていない。それは重々承知で、でも立場的にその呼び方に固執していただろう大上さん。困ったふうに。実際に困っているのだろう。狼の耳が倒れ、そのまま頭も傾いてしまう。どうしましょうか、そう言いたげな顔して。俺を見つめていた。

  大上さん自身は、俺に大上とでも、下の名前である月路とでも。呼び捨てで呼んでくれて構わないと。そんな態度であった。本当に使用人みたいに良いように使って貰って、お世話をしたい。ただそれだけの存在になろうとして。でも俺は、金持ちでも、人を物みたいに扱える人間でもなく。店員さんとか、接客業をする人達に接するのとも違う。常に家に居て、共に暮す相手だ。同じお風呂に時間をズラして入るし。トイレだって、一つしかないから。長く俺が利用してしまうと、俺が出たら。いそいそと大上さんが使ったばかりのトイレに入っていく程度には。設備を共有している。

  困らせたいわけではない。だがこれは俺のわがままでもあるのだろう。立場的に、大上さんがかなり複雑な立ち位置に置かれているのは。薄っすらとは察していた。狐野柳家からあまり良く思われていないのは、顔合わせの日でわかったし。別にそれを特に語るでもなく。身の上話をしようとしない大上さん。本人が語らないのなら、無理やり聞き出すのも憚られて。聞けずじまい。でもこの様呼びは、どうにかしたかった。初日の時点で違和感しかなかったそれ。ずるずると今まで我慢していたが。やっぱり嫌だった。それは、俺自身がもう少しこの人と仲良くなりたいと思い始めた兆候でもあると。何となく気づいてはいても。

  「なら。月路と。そう呼んでくださいますか」

  俯いた狼は。後ろめたい気持ちがあるのか、お盆で口元を隠すように。その鋭い牙を隠蔽するかのようにして。俺に交換条件を申し出てきた。大の男が、それもおじさんと呼んでも差し支えのない雰囲気の。大人がさせる仕草ではないような気がしたが。大上さんのその言葉に、一瞬思考を止め。だって断られると思っていたから。この人は、どこか俺に好意を向けているけれど。線引はしている節がそれとなくあったから。また困らせただけで終わると、思っていたから。予想外の反応に、どうしたら良いのか。自分で言っておきながら黙ってしまった。言うんじゃなかったと、お盆がもう少し持ち上がり。目元まで隠そうかという時。

  「えっと。月路、さん」

  実際の所。呼び捨てが、彼の望んだ呼び方であったのだろう。だが、やっぱり歳上の人を。軽々しく呼び捨てするのは嫌だと一瞬感じ、避けていた。だからさんと、付け足して。横に狼の目が逸らされ、またこちらに戻ってくる頃には。掲げられていたお盆がお腹の方に移動する。エプロンに印刷されていたデフォルメされた狼くんが、代わりと言ってはなんだがすっぽり見えなくされた。

  「では私は。これからは伊吹くん、そう呼びますね」

  大上さん。いや、月路さんが先に照れるように。俺の名を様付けではなく、君付けで呼ぶものだから。なんだか、このやり取りはとても恥ずかしい事のような気がしてきて。思わず頬が熱くなってくる。誤魔化すように、急いでホットケーキの切れ端をクリームに潜らせ。頬張れば、とても甘ったるいが優しい味が広がる。なんだこの雰囲気。それもこれも、いちいち変な反応をする老け顔狼のせいだ。おっさんと心の中で呼ぶが。実年齢はやっぱり聞けずじまい。二十代だったら、そっと謝らないといけない。口には出していないのでセーフだと思う。

  何となく、呼び方を変えた程度で。俺と彼の心の距離が縮まるとも思えないが。感じていた壁が薄らいだような錯覚は与えてもらえた。それで俺を世話する狼の行動と畏まった態度自体は変わりはしないとしてもだ。

  そして新しい学校での、新学期が始まろうとしていた。転入手続きが済み。月路さんの手で滞りなく用意された学生服を身に着けて。担任になる先生と会う。親、ではなく。保護者である月路さんと共にだ。名字もまるで違うのに、不信に思わないのだろうか。そんな所も狐野柳家の力が作用しているのか。裏口入学できちゃったぐらいだしな。本当に、雰囲気だけじゃなく真っ黒なお家な気がする。逃げ出すより、どうにかして証拠を集めて警察にタレコミした方が確実ではないのだろうか。医療関係や、不動産関係と手広くやっているらしいから。もしかしたら警察とかそういう国家権力にも、関与していたら。綺麗にもみ消される気がした。

  全身真っ黒な狐の先生。担当科目はなんであろうか。月路さんと談笑する中で、その顔を見ると。やっぱり狐の顔。俺よりも細く不健康そうな肉付き。黒い毛皮があるのに、目立つ隈。少なくとも体育の教師ではなさそうだ。それよりも俺の中を満たす感想は。ああ、関係者かと。その特徴で悟った。俺自身には特に興味がないのか、これからの学業に関するものとか。通うにあたり、問題はないかとか。最終的な打ち合わせが大半で。転校に際し俺を心配するような素振りすらなかった。根回しは本当にしっかりされているんだなと。どう月路さんとの関係を誤魔化したらいいのか、そんな不安もいらぬものだったのだ。肩に乗る管狐はこれからの前とは違う学校の雰囲気に、一匹うきうきしている。狼と狐が話す内容が、急にどうでもよくなって。窓を見た。学校の運動場。今は授業中ではなく休み時間だからか、在校生の声で賑やかであり。通う生徒数の違いに。人の多さに。びっくりする。そして妖。妖怪もまた、都会だからと隠れていたりせず。運動場を普通に歩いていた。人の形をした、影のようなそれが。ゆらゆらと揺れながら。隅の方ではあるが存在していて。視えない学生は気づかず、他の友達と楽しそうに笑い合っていたりする。俺ははっきりとその存在を知覚していたのと、元居た場所では動物の形を崩した奴らが多かったのに。ここではどこか、人形の方が多いんだなとか。そんな感想を抱きながら、ずっと見つめていると。かなり距離があるのに、その影みたいな奴と目が合った気がした。目、と言っても。全部が黒塗りであり、唇も、勿論眼球も存在していないのだが。

  「イブキ。あまり見ていると寄ってくるよ。ただでさえ、君は皆から好かれてるんだから」

  肩に乗っている白い管狐が尾を揺らし、俺の頬に頭を擦り付けながら忠告する。ちらりと、月路さんと担任が俺を見ていないのをいい事に。肩に乗った管狐の顎をバレないように擦る。わかってる。声には出さず、唇だけ動かして。でもどうせ、寄ってきたらこいつが追い払ってくれるのだろうなって。そんな信頼があった。日常生活では月路さんが。他の人には視えない、あいつらに関してはこの子が守ってくれている。そう思えば、俺の生活は安定しつつあった。後は、学校生活に関してだが。それはこれから始まるので、始まってみないとわからない。わからないまでも、不安だけがいつだって先走る。

  ちょっとだけ、本当に微々たる距離ではあるが。仲良くなった月路さんは、学校には居ないのだから。もし来るとしたら、俺が何か問題を起こし。先生に呼ばれた時だろう。そうならないようにしないといけない。煙草を吸ったり、悪戯をするような不良ではないが。心構えは大事だった。

  また日付が変わり転校当日。朝、なんかドラマとかで見たような光景を自分で体験する事になるなんてなって。そんな気持ちと。元いた地元では在校生自体少なく、教室にここまで学生はいなかったのになと。俺に興味津々だろう人と獣、男も女も入り混じった。種別の違う不快な視線に晒され。緊張にじっとりと手汗がにじむ。担任の名前も覚える気のない、声が勝手にある程度。事情が特殊な俺の身の上。嘘も混じった紹介をしてくれる。何処に行っても、人ばかりだ。もしかしたら俺は人混みが苦手なのだろうか。多くの気配に、酔いそうなのもあった。その分、妖はあまり目につく場所にそれ程居ないからか。見たくない物は視なくて済んだが。運動場で視た人の形をした影みたいな奴も、今日は視ていない。自分の名前。憑守伊吹です。そう言った後よろしくお願いしますと頭を下げ、当たり障りのない普通の挨拶だけをして。用意されていた席に座る。

  夏休み明けの突如として現れた俺という存在。担任の仲良くしてやってくれという声に。あまり気のない返事が返ってくる程度だった。新顔に興味はないのか、もう黒板だけを見つめている奴とか。ちらちらこちらを見てくる奴。私立高校。運営しているの別の人でも、狐野柳家が関わっている。だからか、この担任も血が繋がってるのかなって狐獣人だから勝手に思った。人間も、獣人も。男も、女も。別け隔てなく通う事ができるのは表向き。一部、俺みたいな視える奴を優先的に受け入れ、通っているらしい。この教室には居ないが、真由理も通ってる。あの時、また学校でねって言っていたのはこの事なのだろう。だとしたら同じ階の別の教室か。まだ折り目のついていない、真新しい教科書を開く。隣の人に見せてもらうイベントなんて起きる筈もない。準備はばっちりだ。俺の頭以外は。授業内容はやっぱり、元々通っていた学校よりレベルが高いのだろう。予習どうこうではなく、内容が理解できず。ページを捲り、担任の声を聞きながら。急いで頭に詰め込む。カリカリと、ノートに素早く移していく生徒。つまらなそうな顔達。

  そして授業が終わり、短い休み時間の間は数人に囲まれ。質問攻めに合う。だが答えられる範囲はかなり限られており、そして。唯一話せる部分は俺が田舎者というのもあって、話題が広がるでもなく。勝手によこされる期待に対して、裏切り続ける俺という構図は。驚く程に彼らの中から関心を薄れさしたのか。授業と授業の合間に取られる十分間という、短い休み時間を繰り返す内に。とびきり歓迎されないまでも、邪険にもされない。中途半端な位置に落ち着いた。そんな中でもしつこく興味を示す輩というのは存在していて。俺を構おうとする巨体が座り、正面から人の机を抱き込むようにして。その頭を置いていた。広げていた真新しい教科書は、そいつのせいでくしゃりと端の方に折り目ができる。

  「なー、なんでこの時期に転校してきたんだ? ワケアリってやつか?」

  ちょっと馴れ馴れしい態度で、前の席の奴を押しのけてそこに居座る大男。黄色と黒の縞模様の毛玉。虎の厳つい顔が、猫のように人懐っこく緩み。顎を乗せた机にだるんだるんの首の皮膚まで乗せられていた。名を[[rb:虎寺 亮太郎 > このでら りょうたろう]]と言い、聞いてもないのに。俺は近所の寺の息子だなんだと勝手に喋り倒す程度にはあまりこちらの話を聞いていなかった。近くの人が転校生怯えてんぞってからかうような野次に対し、怯えてねぇってと。くねくね好奇心のままうねらせる尻尾と共に。こちらの気持ちを決めつけ、同意を得ようとする。高校生にしては発育が良く、大柄で威圧感のある奴だが。真ん丸な目元といい、先程思ったように飼い猫を彷彿とさせる表情のせいか。その肉体に伴う威圧感を和らげてはいた。しゃがみ、机に頭を預けているのも。こちらよりも視線の高さを下げて怖がらせないようにしているのだと。でっかい尻を後方の机にぶつけ。床と擦る嫌な音をさせている姿を見ながら思った。後、周りの野次を飛ばす子達。友達なのだろう、虎をよく知る関係なのか。皮肉った笑顔というよりは、信頼からくるそれであったというのも関係しているかもしれない。虎の顎の下から教科書を救出し、机の中にしまう。そして今は昼休みという限られた時間であり。一時間もないのだ。うかうかしていたら食べそこねてしまう。だから汚れ一つない鞄の中から、これまた小さな傷が見当たらないお弁当箱を取り出す。目線だけがずっと俺の手元を追う、虎の鼻先。そのピンク色のTの字みたいな部分の前に、静かに起き。二弾重ねになっている箱を横に広げていく。一つはミチミチに詰められた白ご飯とその上に乗せられた梅干し。もう一つの箱には、揚げ物と、野菜といった。カロリーとビタミンを同時に摂れるだろうおかず達。月路さんが朝ご飯と一緒に、作ってくれたお弁当だった。

  「うお、うまそ! なに、伊吹が作ったのかこれ?」

  至近距離に展開された食べ物の匂いを嗅ぎ、虎の顔が羨ましそうにしながら。というか涎が少し口の端から垂れかけていた。そのまま落下すれば、汚されるのは俺の机なんだけど。管狐がぺしぺしと邪魔そうに、虎の頬を叩いていたが。感触は感じていないらしい。それもそうか、朝からずっと俺の肩に乗っていたのに。担任も。そして教室の生徒にも、視えていないようであったから。寺の息子といえど、視えてはいないのだろう。となると、この教室には俺以外視える者はいないのだろうか。

  俺が唐揚げをお箸で掴み、口に運ぼうとして。んがっ。そんな声が聞こえた。ばかりと大口を開ける、虎の捕食者としての顔。そこに不釣り合いな、子供地味た期待に目を輝かせるくりくりの瞳。激しさを増す、管狐のぺしぺし攻撃。こいつ。もしかしなくても、会って初対面。しかも転校生である俺のお弁当を、食わせろと。そう言外に言っているのであろうか。助け舟を期待しようにも、半数はもう教室に居らず。残り半数も、既に自分のお弁当や菓子パンを食べ始めており。こちらを見てもいない。助けはない。周囲を見回した後で、図々しい机と一体化した虎を再度見下ろし。人差し指を自身の喉奥に向け、こっちこっちと。唐揚げの行き先を示す手。管狐は疲れたのか、俺の肩に乗り。ぐったりしていた。

  自分の貴重な食事。でも梃子でも動きそうにない大型肉食獣が居座っていて、お昼休みが終わるまでは。恐らくこのままだろう。一応常識はある程度わきまえているのか、俺のお弁当から勝手に手で掴んで取ったりはしないが。それでもだ。友達でもない人のおかずを寄越せと訴える神経を疑った。そして周囲のあまりの無関心さが、これが日常的に行われているのだとも窺い知れて。最終的には観念して、俺も好きな肉を。その鋭い牙が生えた、肉食獣の口の中へと。お箸が舌に触れて唾液等がつかないように慎重に投げ入れる。ばくりと、俺の細腕など簡単に食い千切れそうな顎が閉じ。もごもごと動く虎の口吻。横に伸びた白く硬そうな髭がびびびと動いていて、味蕾からまるで口に入れた味がそのまま伝わっていそうな動きをさせる。

  「うっめぇ! なんだこれ、近所のラーメン屋より中まで味がしみててうめぇ!」

  どうやら、月路さんの料理の腕は。眼の前の虎すら虜にしたのか。残りの唐揚げまで厚かましく欲しがるのは流石に無視して、俺は俺の食事を再開する。残念そうにする虎は、それ以上何も言う事はなく。梃子でも動きそうにないと感じた巨体をのっそりと動かし。自分の机の方に戻っていった。餌を貰い満足して寝床に帰っていく家猫の後ろ姿が脳裏を過ぎったが。恐らく担任よりも背の高い相手であるから、いい加減猫のイメージからは離れるべきだった。虎だし。

  もう半分も休み時間が浪費されており、ちょっと急ぎ気味で白米をかきこむ。落ち着いて食べたかったが、あの亮太郎とか言う虎のせいでそんな余裕もなくなっていた。完全に無視してしまっても良かったが、それはそれで周りの視線から。そういう奴だと決めつけられるのも困る。これから学友との距離感を掴む段階なのに、先に梯子を外されてしまっては。卒業までボッチだ。関わり過ぎるのもあれだが、これだけあやかしも居ないのなら。もしかしたら昔みたいに友達と呼べる人ができるかもしれないと。新しい環境。俺という人間を全く知らないからこそできる可能性に、期待していたというのもある。一番最初に連れたのが馴れ馴れしすぎる虎であったのは誤算だが。

  月路さんの冷めても美味しい手作り弁当を食べていると、お弁当箱の蓋の上に卵焼きが勝手に置かれる。目に入ったお箸。そして黄色と黒の縞模様がある太い指。腕、肩と。顔を上げつつ視線で追うと。ニカっと笑う虎が俺を見下ろしていた。

  「唐揚げのおかえし。 俺のお袋の卵焼き、めっちゃうめぇぞ」

  お返し。と虎は言う。ならば、この蓋の上に置かれた焦げ目のない厚焼きの玉子巻きは食べて良いと言うことなのだろう。自分の弁当を食べず、俺がその卵焼きを食べるまで待つつもりなのか。立ったまま、ずっとそこに居て。卵焼きを見て、また虎の顔を見上げても。うんうんと頷かれるだけだった。こういう触れ合いがずっとなくて、戸惑い。本当に食べていいのか。食べた瞬間、更に何か要求されないか。先程の厚かましくも図々しい相手に警戒心が湧いた。突然の優しさに怯えたというのもあったかもしれない。月路さんともそうだが。ずっと友達が居なかった俺は、人との触れ合いに飢えながらも。自分から避けていたから。実際にいざ目の前にこられると嬉しさよりも戸惑いの方が大きく。でも、嬉しいんだと。自分の感情を俯瞰し。遠慮がちに、置かれた卵焼きを。お箸で慎重に掴む。しつこいぐらい、また虎の顔を本当に良いのかと不安に窺うが。食べると信じて疑わないそれに。次に要求されるものが何であるかという、金銭か。また虐められるのかという。過去の記憶がフラッシュバックしながら。口に含んだ卵は、かなり甘めの味付けだった。月路さんは出汁巻き卵を好んで作るし、俺もそれが美味しいと食べていたから。この味は初めてで、ちょっと広がる洋菓子のような甘ったるいそれに。でも嫌いじゃない。

  「確かにうまい」

  「だろ」

  にこやかに虎が俺の感想に相槌を打ち。自分の椅子を引っ張ってきたのか、その椅子に座りながら俺の机に向かい合う。巨体に合わせてか。これまた巨大な弁当箱を置き。がつがつと、中身を流し込むようにして食事をしだした時には。俺の中には確かに。何勝手に人の机で食べ始めてるんだとか。もう何も要求されたりしないのだとか。口元の短い毛先にご飯粒ついてるぞお前とか。そんな言葉は全部思い浮かんでも、言えず。お箸を口に入れたまま。そのちょっとお行儀の悪い食べ方をする。良い言い方をすれば見ていて気持ちがいい食べっぷりをする。そんな虎の顔を眺めていた。でもやっぱり、なんだこいつ。って思い、邪険にする気持ちは押し付けがましい馴れ馴れしさに遠退いていた。身構える前に、いろいろと段階をふっ飛ばし。壁をぶち壊して。月路さんと俺の隔たりをあざ笑うようにしてこの虎は、遠慮という二文字が抜け落ちていた。

  時刻が三時を過ぎて暫く、六限目の終わりを伝えるチャイムが鳴ったのを機に。各自が急いで帰り支度を整えたり、隣の席の人と談笑を始めたり。そして少し離れた席、一番後ろの席である虎は、眠そうに欠伸をしながら両手を天井に向けて伸びをしていた。虎から聞いた話なのだが。席順は最初、くじ引きで決めていたそうだが。あまりに虎の発育が良すぎて、横にも縦にも大きい身体は。後ろの席の人にとっては黒板が見えない障害物でしかなく。大ブーイングの嵐、強制的に一番後ろになっただとか。大型動物の血を引く獣人は、差はあれど大きいが。確かにこの呑気な虎こと、亮太郎はデカい。月路さんよりも。あまりに豪快な欠伸は、なんだか見ているこちらまで欠伸が移りそうだ。何処に行っても目立ちそうな体躯。外に出たら出たで、巨体を持て余した。[[rb:象 > ゾウ]]獣人や[[rb:犀 > サイ]]獣人。[[rb:箆鹿 > ヘラジカ]]獣人も、草食動物をルーツに持つといっても。大型肉食動物の奴らよりもデカいなんてザラなのが街中にはうようよしている。角持ちはおしゃれとエチケットとして、誰かにぶつかったりしないように多少削って整えたりなんてケアもしているらしいが。田舎という閉鎖空間では見なかった種族ばかり。虎だって、生まれを辿れば祖先は外国だ。俺が振り返っているのに気づいたのか。適当に鞄に詰め込むと、ずかずかと巨体を怠そうに揺らし。近寄ってくる亮太郎。なんだよって、着崩した制服は不良感を醸し出しているが。月路さんとは違った笑顔を常に貼り付けていて、俺を脅すでもなく。帰らないのかってそんな声を掛けてくる。少しの間、午前中からお昼にかけて構われ倒されたせいか。ついつい気になりこの虎を観察していたのだ。どうやらクラスにおいてムードメーカ的存在なのか。友達と馬鹿話をしていたり、女子生徒にも臆する事なく話しかけて。笑いを取っていた。誰とでも仲良くなれるフレンドリーさ。それが初対面の俺にも発揮されたのだろう。悪い奴ではない、とは思う。俺を見下ろしていた亮太郎に声を掛ける生徒が別に居た事で、虎の注意が逸れる。

  その隙に俺も、亮太郎に促されたのもあるが。さっさと帰り支度を整え、他の皆のように帰路につこうと思ったが。廊下に出た途端担任に呼び止められてしまった。手招きされてそのまま近寄り。そして少し共に歩き人気がない場所までやってきて。問題はないか。クラスには馴染めそうかと。聞いてくれていた。面談の時はただの一度も俺に関心を示さなかったのに、一度自分の教え子になるとなると。態度が変わるタイプなのかなって思うも。

  「くれぐれも、騒ぎは起こさないでくれよ。君が、狐野柳家絡みなのは知っているが。私はあの家とあまり関わりたくはない、真由理様もそうだが。これ以上問題児が増えて学校の評判が落ちたり、ましてや私が失業するなんて事態は御免被るよ、まったく」

  やれやれと、持っていた書類をひらひらさせながら。隈の酷い顔をさらに疲れているとばかりに歪め。俺を見下ろす担任。心配してくれていると思った。思ったが、それは俺ではなく。対象は自分自身であったようで。月路さんが学校に呼ばれるような、迷惑を掛けないように。そう心では思っていても、それを他人から言われるのとでは感じ方が違う。いいね。そう言い含めると、学校は友達にでも案内して貰いなさいと。私は忙しいんだとばかりに、狐なのに猫背な担任は俺の元から去っていく。途中、他の生徒に話しかけられていたが。会話内容はあまりよく聞こえなかったが、疲れた顔ながらもほんのりと口元を緩め。ああ君かって、そんなふうに応対していて。何かを教えている後ろ姿。俺との対応の差に。心底、担任が狐野柳家にうんざりしていると察した。察した所で、俺にはどうする事もできないし。そして事実、狐野柳家の関係者であり。裏口入学までしてしまったのだから、ずぶずぶな関係であるとも言える。

  楽しそうに誰かと下校する人達が横を通り過ぎる中。ぽつんと佇む俺。ちょっとだけ期待していた。新しい環境に置かれたら俺も変わって、青春って奴を謳歌できるのかもって。諦めていたそれが。もう一度掴めるかもしれないって、淡い希望。此処にはあいつら、妖があまり居ないから。前みたいな悲劇が繰り返されない気がして。なんだか気張っていたものが抜け落ち、肩を落としながら俯くと。足元では白い管狐が俺の足首にすり寄っていた。僕がいるよ。そんなふうに見上げてくる。

  「なに暗い顔してんだ、伊吹?」

  突如、そんな声変わりを終えた。低さから男性だとわかるが、ながらもまだあどけなさが残るそんな声と共に。俺の肩に大きな手がぽんっと乗せられる。びっくりして振り返ると、不思議そうに学生鞄を肩に担いだ虎の大男が立っていて。

  「まだ帰ってなかったのかよ、亮太郎」

  「お、名前覚えてくれたのか! そう、他の奴らとくっちゃべってて。今帰ろうとしてたんだけどよぉ、悲壮感漂わせた後ろ姿が目についちゃって。こっそり近づいたら転校生だったからさー」

  腰を折り、俺と目線を合わせ。ニヤニヤと楽しむような、猫科だからか。どこかその加虐心が滲んだ笑みは、虎の顔によく似合っていた。このままおちょくるネタができたと、いろいろ弄られるのかなって距離を取ろうとするが。しっかりと肩を掴まれているせいで、びくともしない。大男に捕らえられた、獲物みたいに。今にも掴まれた肩。その手から出し入れ可能な爪が飛び出て、爪を立てられそうで。身動きできず硬直する俺に対し。虎のマズルが迫る。鋭い牙が覗き、舌がぺろりと出てきて。

  「帰ろうぜ」

  仲良くもない俺相手にも、遠慮なく。デリカシーもなく。他の男子と駄弁っていたように、からかい。小突くものと思っていたのに。あっさりと、掴まれていた手が離れ自身の腰に当てていた。疑った結果にならず。そして何も、されなかった。その事実に。

  「悲壮感なんて出してない」

  気にかけられた、気遣われた。その可能性を信じたくなくて。吐き捨てるように言い返す。これ以上構わないでくれと。今日見る限り、お前には友達がたくさん居るのだろうと。わざわざ俺なんかに構うな。可哀想だとでも思ったのなら、余計なお世話だと。そんな僻みも混ざっていた。担任と話した直後で、心が荒れていたというのもあった。

  「そうか? 朝からお前、捨てられた子犬みたいな顔してたぜ。だから俺が側に居て、他の質問攻めしようとする奴らから遠ざけてやったのに。俺をどかそうなんて度胸のある奴、あのクラスにいねーし」

  ぽりぽりと、鞄を持っていない方の手で。自身の頬を掻きながら、俺の野生の勘は外れたかと。首を揺らしている虎の顔をまじまじと見上げる。そういえば、俺に構い倒す体でいて。ずっと虎が一人で勝手に喋っていたように思う。俺に質問は交えつつも、答えようが、答えまいが。そういや俺はさーって、一見馬鹿みたいに振る舞いながら。しっかりと自分自身の身体の大きさを、その威圧感を与える肉体を。理解して、それをどう有効に使うかを考えた上での。

  いや、上辺しか見えてなかった俺が馬鹿だったのだろうか。妖は視えるのに。人の心は全く視えない。特別でも全く嬉しくない、この目。妙に馴れ馴れしく感じたのも、わざと。

  「心配、してくれたのか」

  「おー? んー、まぁ。だって、弁当のおかず交換した仲だしぃ?」

  自分でも良くわからないと言いたげに、疑問符のまま。虎の顔は。亮太郎はそうなんて事のないように言ってのけた。おかずを交換って、それはお昼で。構い倒してきたのは朝からじゃないかと。何だそれと、たまらず苦笑いしてしまう。テンションが低い時に、大勢から話しかけられたら鬱陶しいだろ。そんなこちらの感情を見透かしたような、虎の澄んだ瞳。お前が一番、わりと鬱陶しかったなんて酷い言葉が思い浮かんだ。

  でも伝えたいと思ったのは逆に、卑屈な感謝の言葉だった。

  「友達でもないのに、ありがとう」

  「お、おお?」

  こいつは、誰とでも仲良くなれる気のいい奴で。それだけ、誰にでも優しんだろうなって。そう思った。その気まぐれな気持ちが、俺を少しだけ掬い上げてくれて。たまたま救ってくれただけ。それだけだが、やっぱりそうされて嬉しいのは確かだ。純粋な虎の心を勝手に決めつけ、疑った先程の自分を恥じた。

  「俺達、もう友達だろ」

  ぷいって、この時ばかりは俺から顔を何故か逸した亮太郎。すぐ近くに、蚊でも飛んでいて。本能から反射的に動いてしまったかのような速度。垂れ下がった尻尾の先が落ち着かないのか、廊下を掃除するように毛先で掃いて埃を付着させていた。日光が夕暮れになるにはまだまだ早い時間。これが秋から冬にかけてなら違ったのだろうが。夏場は日照時間が長い。ピンクの鼻がやけに色付いて。どこか丸い耳の中までも。言い訳をするには、時間帯が悪く。それは本人もわかっているのか、何も言わず。むむむって、終いには目を瞑って。俺からの視線に耐えているようで。髭が、ばたばた震える。

  「なんで自分で言って恥ずかしがってんだよ」

  「うっせ!」

  学校の敷地外まで、巨体の虎と一緒に歩く道中。こうやって誰かと帰り道を歩くなんて、小さい頃以来で。まさか高校生にもなって、それも初日の内にできるなんて思いもしなかった。ただそれで家の近くまでとはならず、俺こっちだからと。すぐ別れる事にはなってしまうが。近くに停車していた車に近づこうとした時点で、急に早足で戻って来た亮太郎の手によって再び掴まるはめになった。

  「まて、なになになに。お前送り迎えつきってやつ?」

  「え、そう。だけど……」

  車内から、月路さんがハンドルを両手で握りしめ。じーってこちらを凝視している。助けが要りますかみたいな意味なのか、口をぱくぱく動かしていたけれど。残念ながら俺に読唇術なんて技術は身に着けていないので、わからないまま。取り合えずややこしい事になっては駄目なので、手だけで必要ないと示す。

  肯定した後、信じられないとばかりに動揺し。そして睨むように眉根を寄せた虎の顔。和らいでいた威圧感が遺憾なく発揮されるせいで、あまりに近い距離にあるのも手伝って。無理に背を反らし、身体が悲鳴を上げる。密着するのを強要させるように、掴まれた手のせいもあって。ずいずい上半身が接触し、自分とは違う別の体温が感じられた。それと、この距離だからこそ制汗剤の香りもしたが。それでも若干汗臭い。都会人は皆身嗜みを気にして、良い匂いがするのかなという先入観を崩してくれる程度には。下校しようとした虎の体臭はそれなりに強かった。運動部所属らしいので、その日の帰り道はもっと凄そうだ。

  自分のゲイとしての感性が呼び起こされ。普通を装っていた仮面が剥がれ、男としての。雄としての魅力が、この虎にも既に。大人の仲間入りをする身体という存在を感じてしまい。ただ同性が無遠慮に接触するのとは違う意味で、赤面していしまいそうだった。

  「やっぱワケアリかよ」

  はー、って盛大に溜息を吐かれた。直ぐ近くにある俺の顔ではなく、別の場所。虎の目線が一瞬動き、どこかを一瞥する。恐らく、車の方。車に乗っている月路さんだろうか。狼の顔は、俺と似てるとはお世辞にも言えない。混血が横行する現代で、人間の親が。逆に獣人の親が必ずしも同じ種族とはならないにしても。何の問題もなく、暮らしているかというとそれもまた違うのだった。混血が増える傾向にあるからか、純血こそが正しい在り方であると主張を強める人が。特に獣人の方が、そういった声が多かった。月路さんみたいな人を例に出すと、狼の獣人である彼もまた。狼獣人だけではなく、犬科の。犬獣人と子供が作れてしまう。今、何を考えているのかわからない。警戒心を露わにいしている虎の顔もまた。猫科である獅子獣人と、子を成せるのだった。そして人間という存在がまた、さらに混血問題を複雑にしていた。俺の血に、狐の。両親共に人間の姿だったから、かなり薄れているのだろうが。流れているように。人間は、獣人と。出生率はかなり落ちるが、子供を。血を混ぜ分け与えられた。ただしその場合、尻尾だけ生えていたり。耳だけ獣人のだったりといった。そういう混じりものではなく、どちらか片方の姿。統計で行くと、獣人の姿になる場合が多かった。男女を分ける要素。性決定様式。専攻しているわけでもないので、ざっくりとした知識なのだが。性染色体。人間は雄ヘテロ型。XY型と言われる、XX染色体とXY染色体が男女を決める性染色体であるのだが。動物となると一部を除いてその限りではなく。XO型、変形型。そして雌ヘテロ型である、ZW型といった――鳥はこれに当てはまる――そういった多様な性染色体が存在する。大部分の哺乳類は人間含む、XY型とされるが。そこに獣人という異例が交わった事で、性決定様式に更に。人の姿と、獣の姿になるかの。種族決定様式が加わったのである。本来鰐等の一部の爬虫類は性染色体ではなく、環境の温度で性別が決定されるらしいが。鰐獣人は違うらしい。まだまだ性染色体も解明されていない部分が存在し。動物と人間では染色体の違いから当然、子供ができないのだから。そしてチンパンジーと人間では持つ遺伝子の九十九パーセント同じでありながら、子供が作れない。だが人間と獣人でどのようにして。獣の要素を持った、彼らと。本来成立する筈のない交配、複雑化した性染色体が成り立つのだろうか。

  とある実験。十組の男女。獣人の男、人間の女。人間の男、獣人の女。均等に五組ずつ同時期、同じような環境。ストレスの掛かり方等も調査した結果の上で。産まれる子は、男性の種族を優先するというよりは。獣人の方側を優先し、容姿を受け継がれる事が確立として高いという事例。それも、血が濃くなり過ぎるのか。人と交わった場合の獣人との子は、流産といった可能性も普通の同種族カップルよりも高かった。

  無事産まれた場合でも問題は起き。先祖返りしたかのようにどこかしらの五感が鋭いといった傾向があった。普通は犬の獣人と言えど、嗅覚が人間の数千倍、一億倍優れているというわけではなく。人間より、ちょっと鼻が良い程度である。物の見え方、色覚に関しても三色型であり。内臓に至っても、玉葱だって食べられる。人間とも確率が引くなろうとも血を残せたから。獣人とは厳密には獣ではなく、限りなく人に近い種族である。そう提唱した科学者と、宗教的な理由からそういった者を排除しにかかった時代背景。生殖が可能なのだから、ヒト属に含めるべきという意見もあったのだが。揉めに揉めた結果、獣ヒト属に分類されたのはわりと近年になってらしい。ホモ・サピエンスから進化したとは見た目からしても言えないのだし。一部の団体が、獣ヒト属の獣の部分が差別だ何だといちゃもんめいたものをニュースで言っていた気がする。人間である俺からするとどうでもいいのだが。獣人からすると、聞こえは悪いのかなとも思わなくもない。この獣人という言葉自体。差別発言だと言う人もいるし。そこら辺に気を遣った場合だと[[rb:獣人 > ひと]]と読んだりもする。

  先祖返りとは必ずしも、良い結果。優れた五感だけをもたらすとはならなかった。色覚に関しても、二色型。そして玉葱といった、人間では大丈夫でも。動物だと毒になるものが生まれながらにして。アレルギーのように食べられない場合も生じる。四足の獣であった頃のように。指の数や、関節にだって。外見的な特徴に至っては奇形児として。悲しい事だが、そういう扱いを受けた。そんな負の要素がなければ、混血が進んだ現代において。マイノリティ、セクシャリティの見方の見直しと並行して。混血問題も表沙汰に、大々的にメディアに取り上げられたりはしなかっただろう。とてもデリケートな問題であるのだから。実際、獣人と人間のペアが身内だった場合。流産や奇形児のリスクが高くなる事を考えると、親族が良い顔をしないのも当然とも言える。

  動物等では、父親がライオンで母親が虎の場合。ライガーと呼ばれる混血種が産まれるのだが。この場合雄は生殖能力を持たないらしい。そういった側面でも、異種交配に当たるのではと。獣人と人間の子が、正しく生殖能力を持ち。五体満足で産まれるかどうかを憂いたりするよりは。結局、同種と結婚して子供をもうけた方がずっと安全だとなるのだった。なくなるわけではないが。

  俺自身、世代を遡れば人と狐獣人の混血なのだが。だから、世間の目というのは。依然と厳しいものであり。LGBT問題とも言われるそれらに加え。最近ではQ――[[rb:Questioning > クエスチョニング]]――と、時代と共に言葉の意味合いが変わりつつあるハーフ。人間での肌の色の違い、土地の違う両親から生まれた子を示すそれであったのが。近年獣人と人間とのハーフを示す意味合いの方がもっぱらになりつつある。S、種を意味する[[rb:Species > スピーシーズ]]が加わり。LGBTQSなんて長ったらしい名称になるなんて話もある。その内もっと増えそうだ。

  種族自認。獣人の姿をしているが、俺は人間だと。逆に人間の姿で、私は犬の獣人なのと主張する人達。姿の現れ、血の濃さだけではない別の要因を見て欲しがる人達。俺に関してだけを言えば、性自認は男で。種族自認も普通に人間。ただ性的対象は男という事になる。なんともややこしいが。区分するならそうなるってだけで。

  人間が猿から人に進化した過程と同じで。獣人もまた、獣から人に進化したのか。生殖が可能だから、人間から突如分岐したのか。いつの時代から、人間社会に混ざりだしたのか。江戸や明治あたりとも、戦国時代には既に居ただの。確たる証拠は未だに発見されてはいないし科学的に証明もできていない、噂止まりであった。陰謀論とか、未来の科学者が人体実験をして獣人という成果物を過去に解き放ったなんて憶測なんてのもある。刀やピストルで人同士ですら戦争をしていた時代、獣人と人間もまた。殺し合う関係であった。だが今となってはこうも、日常に溶け込み。そして混血問題という、どうしても異種族間での人間が産まれ辛い関係性が。拍車をかけ。仲良くしつつも、隔たりは往々にして存在していた。とあるどっかの大学の教授が、このまま混血が進んだ場合。いずれ人間は淘汰され、保護される存在になるとも訴えており。性欲、子孫を残そうとする意志の強さにも関係していて。獣人は子作りや結婚にまだ意欲的であるのに対し、現代社会に疲れ切った人間側は。未婚の男女が増え、年々子供が少なくなっていた。若い世代の減少。実際に今まさにそういった背景の影響か。それともたまたまなのか。今見える下校する学生の半数以上は獣人である。今の俺達は良くても、未来の人類がまだ。生き残っているのかは定かではなかった。その頃には遺伝子の仕組みといった解明が進み、DNAが完全に解き明かされ。犬獣人と猫獣人とでも子供ができたり。人間と獣人のペアだとしても、どちらの容姿になるか平均的な出生率が。もしくは、狙った方側の子を見込める可能性だってある。

  差別とか、そういった偏見という目線が亮太郎の中にもあったのだろうか。月路さんを見た後の、彼の雰囲気は。どこか、近寄りがたいものだったが。離れたいのに、その手は放してくれない。それどころか、力加減は俺の握られた箇所を元々健康的な肌を白く変じていた。このままいけば、青紫になってしまうだろうか。

  「亮太郎、イテェ……」

  すぐ目の前の顔に、というより。身長差からか、胸に語り掛けるようになってしまったが。俺が今感じている事を伝えると。びくりと尻尾が反応し、慌てて握っていた箇所を解放してくれた。薄っすらと肉球の跡が残ってしまっていて。どこか可愛らしい形だが、された俺はただやっと血の巡りが戻ったと安堵していた。

  「わ、わるい。伊吹」

  腕を擦りながら、見上げつつ。軽く睨んでしまう。ワケアリと彼が言う部分。狼の顔をしたおじさん、たぶん親だとでも思われているのかな。親子と勘違いされた場合、月路さんは傷つくだろうか。喜ぶだろうか。獣人だからこそ、混血に良い顔はしないのかもしれなかった。流産や先祖返りの危険性があるから。近い種だろうと避ける傾向にあるというのに。そういう一般的な部分もまた、亮太郎は持っているんだなと。考えていた。別にそれで、俺と友達と言ってくれた少し前の言葉を撤回されても。ハーフを嫌う理由に、そうされた所で。仕方ないなって諦めもついた。まだ会って一日である。この虎に愛着はない。声がうるさかったから、寂しく感じるかもしれなかったが。引き留めるさしたる理由も、そんな勇気も友達の作り方をとうに忘れた俺には持ち合わせていなかった。

  「親、か?」

  「月路さんは、えっと。説明は難しいんだけど。家政婦さんみたいなもの、かな。親は別に居る」

  本当に、説明が難しい。監視だって、言うのも。さらに深堀されるだろうし、ぱっと思いついた家政婦という呼び名も。ある程度合っている気がしたが、それもまた。どうして俺なんかみたいな奴につけられているのか、理由が気になるだろう。逆の立場なら、そう絶対に思うし気になる。月路さんは親戚でもない、赤の他人であるのだし。

  「あー、びっくりした。てっきり白昼堂々とパパ活でもしてんのかと思ったぜ」

  大袈裟な態度で、胸に手を当てて。なんだよ、早とちりしたぜって。そんな仕草を取る亮太郎。俺と、月路さんが。パパ活。ないないない。あるわけない。友達と言ってくれたが、まだそこまで仲良くもない筈の虎の大きな頭を思わずぶっ叩きかけた。それぐらいには、あんまりな勘違いに。こいつやっぱりただの馬鹿なんじゃないのかと、思考を疑う。

  「ないない、月路さんは本当に。田舎に住んでる両親のかわりに、当面世話してくれている。こっちでの保護者だよ」

  それに月路さんも、俺も、どう見ても男である。いくら獣人と人間は、遠目からだと服装以外ではお互い性別が判断し辛いとしてもだ。こうまで同じ社会に溶け込んだ異種族相手を、相手の性別を。そしてこの距離で見間違えたりする筈がない。だから、パパ活というのはかなり不適切であり。そもそもこの虎に俺がゲイだとカミングアウトした覚えもないのだから。どこかで、バレた。まさか先程、ひっつかれた時。思わず赤面しそうになったあの時を。あんなとても小さな変化を、見逃さなかったというのかこの男は。

  「いやな。俺達って性別とは別に同種と巡り会うところからスタートだろ? だから恋人とか結婚にお前らより積極的にならないと、子孫残せないんだよ。この学校ですら虎の女の子、片手で数えるぐらいしかいないし。自然界で言うあぶれた雄って奴かな。だから異種族とはいえ、疑似的な恋人や親子の関係に憧れて。人間相手にまで性別問わず援助交際する獣人、最近増えてるんだよ」

  人間側の、最近の社会問題を考えていたところ。虎という、獣人側の視点で。亮太郎の口からとんでもない事実を聞かされる。田舎では存在しなかったものではあるが。都会って、いろいろと進み過ぎてやしないだろうか。パパ活をしている、知らぬ内に不名誉な汚名を着せられた月路さんが可哀想だった。幸い、俺と亮太郎の会話は聞こえていないだろうが。流石に温和な月路さんでも、内容を知れば怒りそうだ。ただ、私と伊吹くんは清い関係ですと。ちょっとズレた返答をしそうではあったが。最近知ったが、何でも完璧にこなすようでいて。あの狼は少し天然な部分が存在していた。車のナビを使っていても、そのカーナビと会話をするように話しかけながら道をよく間違うし。あの人もあの人で、それなりに初対面の俺に対して気張っていた部分があったのだろうか。だんだんとそういうのが浮き彫りになってきていた。夜は同じ男として、ノックもせず突然扉を開けたりしませんから大丈夫ですよとか。いらぬ言葉を掛けられたりしたし。わかってるのなら、言わないで欲しい。そっとしておくべきであろう話題なのに。わざわざ改まって真剣な顔して言うから、やっぱり天然だと思う。あの人。

  子孫が残せない。彼の口から、それも自分と同じ年齢である。亮太郎からそのような言葉が出た事にも驚きだが。種族の安穏、行く末を見据え。この歳から既に行動しているというのか。

  「誰かとヤりたい気持ちはわからないでもないけどな」

  なはは、そう苦笑いしながら。おっさん臭い事を言う亮太郎からこっそり距離を取る。もう腕は掴まれていないのだから、簡単だった。たまたま通りかかった女生徒が間の悪い事に、虎が周りを気にせず下ネタを発したように取られ顔を顰めていた。話しの流れ的にそこまでではなくとも。伊吹もそう思うだろって、同意を求めないで欲しかった。俺に周囲の目がある所で、恥じらいもなくそういう話題をする気はなかったというのもある。モラルやコンプライアンスとか小難しい事を言うつもりもなかったが。時と場所を考えろと虎の顔を見つめるだけで。肯定も、否定もしなかった。性欲は普通にあるが、女性とセックスしたいとかはこれっぽっちも湧かない。種族全体の事を考えて、というわけではなかった。

  「あー。俺も彼女欲しー」

  そんなぼやきを吐くと、今頃きょろきょろと周りを気にしだす虎の頭。俺達が月路さんの車の近くで会話している間に、かなり下校する生徒の姿も減り。まばらになっていた。その探すような目、求める何かはきっと女性だろうか。ただ残念ながら、虎獣人は亮太郎以外居らず。それに会話の一部分だけを切り取ってしまうと、ただヤる相手を求めているだけとも取れるので。今この瞬間、志願する子がいるとも思えない。男の俺相手との会話だからこそ、なのであろうが。

  子孫が遺せない、か。子孫を残すという思想は、ゲイと自覚した時点でかなり遠のいた感覚だった。備わっている性欲も、女性ではなく、男性に向けられるので。勿論子供は望めない。今の所彼氏なんて歩んできたまだ短い人生において、存在しないので。仮想の、携帯から提供される娯楽。二次元の男性キャラや、動画。いわゆるエロ動画で虚しく処理するだけだ。望めない筈で、だというのに。子を産めと、そう言われて。連れて来られたのだから。もしも俺の身体を好きに調べて下さいと、然るべき研究機関に預ければ。世の同性愛者を救えたりできるのだろうか。未だ、日本という国において。同性愛者は法律的に結婚ができない。だから。俺の立場としては。真由理の許婚ではあるが、それは口約束であり。したとして書類上はただの男同士が同棲しているだけになるのだろうな。親公認の。こんな嬉しくない親公認があるんだ、とちょっと黄昏てしまう。

  一応、誤解は解けたのか。亮太郎はまた明日なって、そう言って。こんどこそ自分の家の方だろう、俺と別の道へ歩いて行く。寺の息子と言っていたから、携帯の地図を使えば簡単に調べられそうだな。月路さんの車、後部座席に乗り込むと。どっと疲れが押し寄せた。夏休みからの休み明け。新学期での初めての登校、だけではないものが自分の身体を包む。怠い。高そうな車故か、シートも座り心地を重視されてるお陰で。この時は身を沈めるようにしてもたれかかって、安心感を抱く。前は月路さんがすぐ扉を開けたりしようとしたけれど、今は俺が勝手に開け閉めして乗り込んでいる。ちょっとずつ彼のやり過ぎとも取れる仕え方を控えさせた。俺がそれで余計気疲れするからだ。お疲れ様です、伊吹君。そんな声が聞こえると、ゆっくりと走り出す月路さんの車。送迎も本当は断りたかったが、護衛という名の監視でもある月路さんが頑なにそこだけは譲れないと言い切られてしまったので。どうしようもなかった。無駄に目立ちたくないのに。皆徒歩か、自転車とか使って登下校している中。俺だけ使用人に運転してもらう車で登校とか。そのせいで初日にして、亮太郎に対して誤解を招いてしまったが。

  「初日なのに、もうお友達ができたみたいですね。安心しました」

  前を向きながらの発言だった為に、月路さんの後頭部を眺めながら。違うって言おうとして、躊躇った。あの無駄にデカい虎の男を。友達と呼んでいいものか。勝手に俺が寂しそうだからと勘違いして一方的に絡んで来た、身体だけじゃなく声もデカい。お節介な奴。そんな事しなくても、あの虎には既に他に友達が居て。これ以上増やす必要も、面倒臭い奴に関わる必要もないのに。された側である俺は、そう一人脳内で今日あった事を振り返りながら。

  ――俺達、もう友達だろ。

  覚えてしまった声質と、それを言った時の妙に恥ずかしがってこちらを見ないようにしていた虎の表情まで。鮮明に思い出していた。俺のちょっと口角が上がったタイミングで、ちゃっかりルームミラーでこちらの様子を窺っていた月路さんに知られてしまう。

  「そう、ですね。良い奴でした。亮太郎って言うんです、あいつ」

  迷惑だ。お節介だ。鬱陶しい奴。俺なんかに構うな。人の心に土足で踏み込もうとするな。俺は寂しくなんてない。そんな心の内で叫んでいる、小さな見栄っ張りな俺を押しつぶしたら。現れたのは蹲り、一人泣いている。もう一人の俺で。泣きながら、嬉しそうに。それでも笑っていた。本当に、ただの良い奴だった。初めて会った俺を心配して、声掛けて。下校の時も、悪い大人に引っ掛かってるんじゃないかと。わざわざ踵を返し、戻って来て。止めようと腕を掴んでくれるぐらいには、良い奴だった。

  都会人は、他人に無関心な奴ばかりなんて。携帯で調べた事前情報がまるで役に立たない。良い意味で、裏切られた。大きな子でしたね。私より背が高そうだ。月路さんが、自分の事のように俺に友達第一号ができたと喜んでくれていた。あのクラスに馴染めるか不安であったが。亮太郎のお陰で何とかなりそうだ。

  「そこ、右ですよ」

  「あっ!」

  俺との会話に夢中になっていたからか。曲がるべき道を通り過ぎていく月路さんの車は、次の交差点で右折する。ほんの少し遠回りになってしまったが。気にする程でもない。冷房が利いた車内は快適である。四時頃になっても暑いのだから。この道のりを自転車や徒歩で通うのは、かなりいい汗を掻けそうだったが。こちらの事情で強制的に車通学なのだ、ズルいとか文句を言われても俺はどうしようもない。学校側も黙認するようであるし。そんな所にまで、狐野柳家の影響力をひしひしと感じた。

  [newpage]

  [chapter:五話 蛹から蝶へ 心と身体]

  特に面白味もない転校の挨拶というイベント事をこなし。クラスの興味も俺から順調に薄れ、元の俺が来る前と変わらぬ空気感になろうとしているのだろう。そんな中でも忘れまいとする輩が一人。

  「でさー、センコウの奴。絶対あれわざと俺に答えさせたよな、授業内容聞いてないと思ったのか。意地わるいよなー」

  休み時間になると、巨体が俺の机に寄って来るのがだんだん恒例化しだしていた。誰でもない、亮太郎である。

  「オレさ、眠かったからぜんぜん聞いてなかった! 助かったぜ亮太郎!」

  前の席の奴から椅子を不法占拠して、背もたれの間違った使い方。支えに両腕を組んでいる亮太郎に対して返事したのは真正面に居る俺ではなく、他の生徒であり。犬獣人だった。まだ顔と名前が一致しておらず。残念ながら自己紹介されてもよく覚えられていない。対して、快活に。犠牲になってくれた礼を言う犬獣人。ルーツはシベリアンハスキーらしい。耳の辺りから背にかけてが黒く、目元もアイラインを施したように黒が走っている。後は眉間からマズル、お腹という大部分が真っ白の毛並みらしい。流石に制服を着てるのを脱がすわけにもいかないので。お腹あたりは本人の自己申告となり聞いた限りではだ。青い水晶のような目が、愉快そうに開かれていて。亮太郎をからかいながら、舌をべろんと出していた。

  授業態度は人それぞれだが、今日の虎の姿を盗み見た場合。確かに机に頬杖ついて、つまらなそうにして窓から見える景色の方に視線をやっていた。カツカツと黒板にチョークでいろいろ書き込んでいる担任なんて眼中になくだ。ハスキーは、頭が船を漕ぎかけていて。確かに今にも寝そうだった印象がある。俺は真面目に聞いていないと、ただでさえ内容についていくのでやっとの思いなので。かなり不味い事になる、というだけなのだが。

  担任にこの問題を答えてみろと、指名された亮太郎。教科書のページも閉じられたままであり、今どの辺をやっているのか、把握してるのかも怪しいそんな授業中の態度と違い。担任に呼ばれた後、重そうな腰を持ち上げ立ち上がると。ほんの少し、あーって。そう言葉を濁し、でもすらすらと答えを言って。怠そうに椅子に座り直していた。この怠そうな気の抜けた顔の虎は、意外に勉強ができる部類のようで。テストでも赤点を取った事がないらしい。というか、順位は上から数えた方が早いぐらい。なんだか悔しい気持ちもあるが、元々の呑み込みの速さもそれぞれで。そして亮太郎自身の努力の結果だろうし、素直に尊敬できる部分だった。ハスキーは、残念ながら補修常連。留年だけは嫌だと頭を抱えていた。

  俺の机を集合場所とばかりに虎と犬。だいたいは二人で勝手に話しが進むので、別にこの席に集まる必要はないと思うのだが、亮太郎が寄って来るので。自然と友達のハスキーも寄って来る。二人の話を聞いてると。不意に亮太郎に話を振られるので、それなりには。強制的に、とも言えたが。この三人の会話に俺という転校生は存在だけはしていた。亮太郎に気を遣われている。友達と言ってしまった手前、次の日から仲の良い奴らと駄弁るだけじゃ気まずいと思ったのか。自分の築いたグループに組み込もうとしているのか。そんな虎の行動に、戸惑うでもなく。普通にしているハスキー。嫌、じゃないのだろうか。俺はというと、亮太郎とはちょっとずつ話せるのだが。何か会話を振られない限りは、自分からハスキーに対して会話をするって場面に発展はしなかった。人見知り、と言ってしまったらそうで。提供された場に馴染めず口下手になってしまっている。授業や生徒に真っ先に飽きた管狐は、俺の肩から降り。散歩してくるねーって、自由気ままに学校探検に勤しんでいた。たぶん、探せば日当たりのいい場所で昼寝をしているのだろう。動物は、勉強なんてしなくて良いから羨ましいと少しだけ思った。妖だから、食事もいらないみたいだし。

  もし居たら、俺にだけ聞こえる声で何か助言してくれたり。それか、イブキ人見知りしてるって。揶揄ってきていただろうか。ほら、がんばれー友達作るチャンスだぞー、がんばれーって。俺に憑りついている妖は、別の妖を追い払う以外では全く役に立たず。イラつかせるのは上手なので。後者か。提供できる話題なんて、田舎の風景と。最近では月路さん絡み程度で、俺の学校以外での行動範囲の狭さが物語っていた。遊びに行く相手も、行く場所も特にないのだから。学校が始まろうと、基本。マンション。一応俺の家、その自室でごろごろしたり。ちょっと勉強したりする程度だ。月路さんが車を出すので、どこかに行きますかって時折気にはかけてくれるのだが。生憎と、だからとこれといって行きたい場所がないのだから。俺が断るとすごすごと退散していく仕事だが世話焼き狼さんの後ろ姿は、断った側に罪悪感を生じさせる。申し訳ないのでショッピングに行こうかなと思うも、流行の服装とか知らないし。学校に行くだけなら学生服で事足りてしまうという結論に至ってしまうのだから。行動範囲が広がるわけもなかった。

  喋りたい。できれば仲良くなりたい。でも自分の話題のなさにそれができないでいた。気にし過ぎなのだろうか。亮太郎には受け答えができるのに、ハスキー相手になると。途端に一瞬言葉に詰まる。きっと、俺に気遣ってわざと喋りかけてくる虎の友達であって。俺の友達ではないって意識が邪魔をしているのだろう。

  だからこの空間に居心地の悪さを感じ。つい、トイレ行ってくると言い。別に行きたくもないのに教室から出て、休憩時間をフルに使い。次の授業が始まるギリギリに戻って来るなんて手を使う手段に出てしまっていた。なんどか繰り返す内に、だんだん亮太郎が不審がるとわかってはいてもだ。お昼休みは一番休み時間が長く、さすがにその時間ずっと逃げるようにして。便所飯ってやつだろうか。それをするわけにもいかなかったが。だから今回も、十分ぐらいの短い休憩。トイレだと言い、教室から抜け出して。本当にトイレに行くでもなく、廊下を歩いていた。俯き、足取りも重く。何をやってるんだろうか自分は。せっかく、亮太郎が機会を作ってくれているのに。

  とぼとぼと歩いていると、視界に誰かの足が映り。ぶつからないように咄嗟に横に避けようとした。したのに、相手側も避けようとしたのか。横に一歩、同じ方向に動く。

  「ちゃんと前を向いて歩かないと危ないよ、伊吹」

  ハッと、顔を上げた。聞き覚えのある声に。真っすぐになった視線は、それで相手の目とは合わず。もう少しだけ、上にと。身長の高い細身の男性が。頭は狐のそれがこちらを見下ろしていた。今日は前見たお洒落なスーツではなく、ちゃんと学生服を着ている。この学校の生徒であり、今は授業と授業の合間の短い休み時間なのだからそれは彼も例外なく当然であるのだろうが。陽光に照らされてなのか。それとも元来、彼が持つ雰囲気のせいか。黄色というよりは、黄金のような毛色がキラキラしていて。後光でも射しているように感じる。照明器具、いらなそう。そんな被毛を纏った相手。精悍な顔が柔らかく微笑んでいた。俺の表情を見て、目を糸のように細め。金の虹彩を隠してしまう。ゆらりと背後で揺れる、魔女の箒のような尻尾。

  「ま、真由理」

  転校してから、なかなか会わないなって思っていた。俺の許婚。心構えもない、このタイミングでとも思わないでもないが。会ってしまったのならしかたがない。だが俺の立場的に、様付けで呼ぶべきなのか。それとも君付けか。呼び捨てに思わずしてしまった後で、そんな思考を繰り広げながら。俺の視線は伸びて来る狐の手にいっていた。輝く金と違い、真っ黒と感じる。照らされ方が変われば、うっすら茶色が混じっているようであったが。そんな男性の手が、俺の頬に添わされる。顎をなぞるように。漂って来た狐の、この男の体臭。そしてシトラス系の香り。それを鼻腔に感じた途端。心臓が不自然に跳ねた。どくん。どくん。心拍数が上昇する。距離が近いからか。男同士で、変に意識してしまう。人の顎を持ち上げるようにして、狐の人差し指が当てられているのも関係しているのだろうか。

  「大丈夫、伊吹? 前見た時より、やつれてない?」

  薄っすら開いた瞼。心配そうに、真由理が俺の顔を覗き込む。今の突然跳ねた心臓の音が聞こえたわけではないのだろうが。自分自身の反応が不自然であり、至近距離に迫る整った狐の顔に赤面しているのがわかった。まつ毛、長いな。顔を固定する意味合いもあったのだろうか、添わされた手は。狐が覗き込んで来るせいで、マズルが近く。つまり、口が近いという意味で。なんだか映画とかで、男優と女優がキスする直前みたいだなと感じ。思わず黒い手を弾いてしまう。他の生徒も当然居ると考えたら。羞恥心の現れでもあった。

  痛くはないであろうが、わざとらしく弾かれた部分をもう片方の手で擦る金狐。謝るべきかなって思った。仮にも相手は心配してくれたのだから。それで謝ろうとした、のだが。相手の表情を見て、身体が強張る。こちらを気遣わしげにしていたのに、今はなんの感情も宿さぬように真由理の顔は無表情に変わっており。一見怠そうな目つきは、こちらをつまらない物でも見たみたいなそんなふうで。声を出そうとした俺の喉を詰まらせた。それと、漂う雰囲気もひんやりとし。嫌な感じがしたからだ。揺れていた狐の尾もぴたりと静止している。

  「ふーん。ま、いいや。体調崩さないようにね」

  あくまでも、俺を心配する体を崩さないつもりなのか。不穏な雰囲気を引っ込めると。真由理は歩き出す。元々どこかに行こうとしていたのだろう。俺を通りこそうとして、そして隣に立った時。ちょっとだけ、耳にその突き出た口先を寄せると。

  ――伊吹は、狐野柳家にとって大事な身体なんだから。

  誰にも聞かれないようにか。内緒話するようにして、そう囁いて来た。そんなものが耳に入った瞬間、相手の顔を振り向きながら再び見やれば。楽しげに、ニンマリとした狐は。こちらの反応を楽しみ、弄ぶようでいて。人差し指を垂直に立て、自身の口元に当てていた。静かに。そう示すジェスチャー。スタスタと軽い足取りで俺の後方へと進み、遠ざかる後ろ姿。狐野柳家にとって、大事な身体。自然と自分のお腹に手を這わしていた。別に腹痛を感じたわけではない。言われた内容に、そうしていただけだ。大事なのは俺の身体というより。あの男の子供を孕めるらしい俺の腹、なのであろうな。だからこそ、この学校に通わせてもらえているのだから。仮初の青春を精々今の内に味わっておけと。お前の価値は、そこだけにしかないと。言われているようであった。あの男が去ると、急に上がった俺の心拍数は途端に落ち着いて。きっと、予期せぬ再開に。必要以上に驚いただけであろうと、自分を納得させていた。大丈夫だ。あの男のにおいを嗅いだ瞬間、良い匂いだなって。そんなふうに思ってしまった自分の感覚と感情の乖離を押しやりながら。

  ああ、でも。早く教室に帰らないと。次の授業に間に合わなくなる、そう考え足を動かそうとし。ずぐり。突然腹の奥が痛んだ。こんどは、本当に腹痛を感じた為に。俺は片手ではなく両手で自分のお腹を押さえる。一度だけではなく、断続的に襲い来る痛み。膨張するような、裂けるような。ズキズキとした奥深くから響くそれ。途端に立っていられなくなり、そのまましゃがみこんでしまう。どうしたというのか、こんな。あまりにも急な体調の変化に、戸惑い。血圧の急激な上昇のせいであろうかと、原因を考えながら。立ち眩みもしていて、一度しゃがんでしまったら。もう立てなくなっていた。

  こんな時、いやこんな時だからこそなのだろうか。弱った獲物の姿に。すぐそばに、変な気配を感じ。突如視界に黒い影があった。影そのものが立っているようで、実体のない存在。俺にだけ視える奴が、目も口もない頭を傾け。ぼそぼそとなにがしかを喋り続けている。ヴォ、ブルォ。聞き取れても、まるで意味がわからない。男のダミ声みたいなものが。逃げなきゃ。今は管狐も居ないのだから、そう思うのにぐわんぐわんと、だんだんと視界も揺れ出す。まるで床ごと揺らされているようだ。地震だろうか。授業がもう始まるからか、ちょっと前までは生徒が他にもいたのに。助けを呼ぼうにも声が出せなかった。お腹、痛い。霞みだした視界に硬い無機質な廊下が、そして黄色と黒の壁が一瞬映り。瞼を開けようと踏ん張るも、意志に反し閉じていく。それで意識すら手放してしまおうとしている己の身体。真由理から感じた良い匂いとは違う、どこか男らしい。汗臭さと。でも、安心感を抱く。そんなにおいを微かに感じ取りながら。

  逃げる気持ちだけ残留したままであった俺は、瞼を開けた途端に起き上がる。だが視界を埋める白い清潔そうなカーテンと、膝まで掛かっている薄いこれまた白い布。起き上がった拍子に少し捲れている。天井を見上げても代わり映えしない景色に病院かと思うが、にしては外が騒がしい。となると保健室か。自分がどうして此処に居るか状況を振り返り、意識を失い倒れたからだと結論付けた。起き上がった身体をそのまま後ろに倒し。また寝かされていたベッドにぼふんと身を沈める。スプリングがない薄い簡易なものだからか、ちょっと背中の感触は硬く感じた。

  今は突然襲った耐えられないお腹の痛みもなくなっており。擦ってみても違和感がない。まるで嘘のように元通りだった。誰が運んでくれたのだろうか。意識が朦朧としていた為に、記憶が曖昧だった。お礼、言わないと。

  「大丈夫、イブキ」

  気づいたら仰向けになっている俺の腹の上に、管狐がちょこんとお座りしていた。可愛らしく首を傾げている姿は、見た目の小ささもあってか庇護欲をそそられたりするものだろうか。

  「そう言うなら乗るなよ」

  気を失う程にお腹が痛くて運ばれたのに、能天気に乗らないで欲しかった。動物なら飼い主の傷口とか知ったことかと甘えてきたりするのだろうが。この管狐は人語を理解する、知能は子供以上にありそうな。わざと幼く振る舞っているような、そんな違和感がある不気味な妖怪だった。

  俺に言われて、そのまま降りてくれるのかなと思ったが。座っていた腰を上げ、その場でくるくる自分の尻尾を追いかけるように回りながら。前足に付いた小さな肉球が臍の上でふにふにと押してくる。

  「違和感はない? イブキ。気が乱れているよ」

  「お前、そんな事までわかるのかよ」

  「ボクとイブキは深い部分で繋がってるからね、異変があれば飛んでこれるよ」

  全然間に合ってないじゃないかと、ツッコミを入れるが。フリフリと揺られる尻尾が代わりに返事してくれるだけで、全く響いていなかった。

  「子宮が活性化してる。好みの陽の力を持つ雄でも居た?」

  またお腹の上に座り直すと、こてんと首を傾け。愛らしさの欠片もない質問を投げ掛けてくる獣。台詞が台詞なので思わず揺すり落としそうだった。何かのアトラクションみたいに、揺れたお腹の上で楽しそうにしがみつく管狐。

  子宮。男の俺に対して出てくる単語ではなかった、ただしそれは普通の人ならの話だったが。俺は残念ながら、普通という枠組みから逸脱しており。でなければこうして俺以外誰も姿を視れない、白毛の獣とこうしてお喋りなんて興じれないだろう。実はイマジナリーフレンドとか、幻覚をずっと見ているだけという可能性もあったが。脳外科、受診しようかな。

  「何、言ってるんだよ。お前」

  「あれー、自覚ないの? そっか、イブキ自分の力にすら気づかない程に鈍チンだもんね。人間だと、性成熟って言うんだっけ。ずっと寝惚けていたイブキの子宮が、強い陽の気に反応して目覚めたんだよ」

  おめでとー。前足の部分は四足の獣らしい骨格をしているくせして、器用にぽふぽふと両手を叩き祝ってくれる管狐の姿に苛立ちが募る。

  「環境の変化もあったし、ストレスかな。いろいろ要因が重なったんだろうね。そのせいでイブキの陰の力が乱れて体調に出ちゃったみたい。きっと先生も原因がわからず困っただろうね」

  俺の身体を触ったり嗅いだりしながら診断してくれるこいつの話を聞きながら、必死で頭の中で整理していた。本来であれば俺の身体は、普通に生活していればこのような反応を起こす事などなく。子宮、と言っても全く同じ臓器があるわけでもなく。似たような形の物が形成されており、もしも一般の医者に見せた場合。腫瘍か何かと思われ最悪手術で摘出されかねない代物らしい。霊力とかそんな不可思議な力があるわけもない、そう断じれたら良いのに。説明する管狐と、味わった事のない腹の痛みが実感として徐々に俺の中で形になっていた。

  陽の力を持つ者。そんな人、真由理以外に心当たりがない。彼こそが俺の許婚であり、お家元もそれを望んでいるのだから。どのような仕組みで子供ができるのか、詳細を知らないが。全て聞いてみたい気もするのに、自分の事だとしても聞くのも恐ろしいように感じてしまう。どこぞのパニックホラー系映画のように。狐の赤子が俺の腹を食い破って産まれたりしないだろうか。

  「人間は常に発情期なんだから、交尾できるなら時期とか待たずさっさと番っちゃえばいいのに。成人する年齢とか、結婚の手続きとか、福利厚生だっけ? 面倒臭いね」

  何処で覚えてきたんだそんな言葉。一応社会人じゃないから福利厚生は適用外であり、正しくは母子家庭。シングルマザーとかに適応される生活保護制度ではないだろうか。といっても俺もそれ程詳しいとは言えないのでよくわからないのだが。男の身で出産した場合、手続きは受理されなさそうだ。それと、俺自体はどうでもよく。産まれたら子だけを取り上げられて、はいサヨナラの可能性だってあるし。その可能性の方が高いと来た。身の安全については現状良くても、それより先は不透明だ。結婚すると言っても、子供が産まれた後俺を捨てても経歴に傷は付かない。書類上は未婚になるからだ。何食わぬ顔して、本当に好きな女性と真由理は本当の結婚だってできる。血が重要なのだろう。狐野柳家の血筋が。

  だからもしも俺が結婚を受け入れたからと、その先に穏やかな暮らしが保証されているわけでもない。手切れ金を渡される可能性もあるが、楽観視なんてできる要素がどこにもなかった。頭がそこまで良いとは思ってないが、それくらは俺でもわかる。

  血が重要なら、代理出産。精子だけを提供するだけでは駄目なのだろうか。駄目、なのであろうな。俺が思い付く程度の浅知恵、大人がより集まって考え付かない方がどうかしている。そしてどうかしている色々に巻き込まれた形の俺。憑守家に生まれて後悔した事は一度もなかったのに。

  己の血を恨め、か。

  「いぶきぃ、おはようしたー?」

  声と共にカーテンレールから吊るされた遮蔽用の布が勢いよく滑っていく。それをしたのは保健室の先生ではなく、ハスキーの顔をした男だった。へらへらと笑い、癖なのか舌が猫のようにしまい忘れている。

  上半身を起き上がらせ管狐を落としながら、普通にベッドに座ろうとすると。慌てたようにしてハスキーにあんまり動くなと注意されるが。意識を失っておいて、今の俺はかなり体調は元に戻っているというのもあって。大丈夫だと背中を支えようとする男の手を遮った。先生伊吹起きたよって知らせてくれて。ちょっとだけ顔色を保健室の先生に見られて。大丈夫そうですねって。それだけで終わる。

  「しんどいならねんねしとけよ? 先生は軽い貧血だって言ってたけどよぉ」

  わかった。そう返事しつつ、彼にはそういうふうに伝わっているのだなと。自分に起きた原因を知りつつも、その取って付けた病名に乗っかる形で話を合わせていた。心配させたな。もしかしたら運んでくれたのはこのハスキーなのだろうか。

  「ありがとう、ここまで。えっと。お前が、運んでくれたんだろ?」

  「いんやー、運んだのは亮太郎。オレはあいつが用事あるからって帰らせて、かわりに暇だから様子見てただけ」

  丸椅子を引っ張ってきて、ハスキーが腰かけると。俺が意識を失った後のあらましを教えてくれる。それでもだ。俺の基準で言えばあまり仲良くもない、それに失礼ながら名前も覚えれてない大変失礼な奴である。そんな俺なんかの為に、居残ってくれていた事実には変わりない。だからありがとうと、再度礼を言えば。伊吹は律儀だなと。股ぐらの部分、丸椅子を両手で掴むようにして支えにし。ハスキーは上半身をゆらゆら揺らしてみせた。

  「本当に居るだけだったし。これぐらい気にすんなって、礼なら。そうだなー、今月お小遣いピンチだからこんどお菓子奢って」

  わふふ。能天気な、なにも考えてなそうな笑顔と。ぶらぶら揺れる舌。舌、乾かないのだろうかと心配になるが。定期的に口の中に戻ってはいるから、大丈夫なのだろう。後、お菓子を要求されてちゃっかりしてるなと思った。でも代価を要求されたからこそ、それでスッキリするという場合もあるわけで。俺が申し訳なさそうに、そういう顔をしていたからか、青い水晶の目は。ポテチかな、やっぱりチョコも捨てがたいな。と既に瞳を輝かして、俺の財布から購入されるだろう品はどれがいいかと悩み始めていた。気が早い。

  「伊吹、腹も弱いんだから気をつけろよぉ。いつもトイレばっか行ってるし、胃腸が弱い奴は辛いよなぁ」

  自身のお腹を擦りながら、立ち上がっていた耳を倒し。先程のお菓子を思い浮かべて楽しそうに悩んでいたハスキーの顔が意気消沈。くぅーんって鳴いてまるで自分が痛みを覚えたかのように、俯いた。とても、ころころと表情を変え。身体の動きが言葉に追従するように。ボディーランゲージが激しい。

  だが、俺が休み時間のたびにトイレに行くと言い。教室から抜け出していたのは、本当に行っていたわけではなく。二人の輪に馴染めなくて、そうしていたからで。嘘をついていた、というのに。このハスキーは全く疑うどころか、心配までしてくれていたようであった。騙していたのに。

  あからさま過ぎて、きっと察せられていると思っていたのに。まさか。嘘を吐いた。遅れてやってきた自分のおこないに対する、された方側の反応に。チクりと、胸が傷んだ。この感覚は久しぶりだった。ゲイであるのを隠して、必要だからとよく嘘を吐いてしまうから。

  小さく謝罪を述べると、何の事だって。まるでわかってなさそうな顔をするハスキー。それはそうだ。そうされて、ここまでされて、心配をかけて。それで俺は正直に、君の名前をまだ覚えれてないとも謝罪する。一つ前の謝罪もその事かと取られてしまったが。亮太郎と犬。この二人の会話ではお前とかおいとか、名前で呼ぶ頻度が極端に少ない。それだけ昔からの付き合いのせいなのか。俺の中でよけいに人の名前と顔を一致させるのに手間取っていた。亮太郎の友達。そういう意識が邪魔をしていたのもあるが。どうせ、すぐ俺から離れていくって思ってたから。そう言う意味では亮太郎は辛抱強いなって思う。

  「別に犬でも、ハスキーでも、適当に呼ばれてもオレは気にしないのに。馬鹿って呼ばれたら、さすがにムカッとくるけどさ。伊吹って細かい事を気にするんだなぁ」

  わふわふ、渾身のギャグでも聞いたかのように。何かのツボに入ったのか笑い転げるシベリアンハスキーの獣人。自分の名前なのだから、全く細かくはないであろうに。そういえば、亮太郎にお前馬鹿だよなって言われた際には。なにおーって言いはしても、本気で怒ったりはしなかったように記憶している。このハスキーは性格がとてもおおらかでいて、人懐っこく。多少の事では動じない、器が広い人なのであろう。俺とは真逆だと思った。

  裏表が無さすぎて大丈夫かなって逆に不安になるも、その性根のおかげか。気不味い空気や申し訳なさが吹き飛んでしまって。身体はもう大丈夫と思っていても、起きた事態にそれなりに気落ちしていたのでありがたかった。

  「晴喜。[[rb:戌井 晴喜 > いぬい はるき]]だぞ、伊吹」

  舌を出したまま明るく笑うそのハスキーの姿は、名前の通り。晴れやかに笑う、喜怒哀楽の表現がとても素直であり。とりわけ喜びという部分は、こちらまで見ていて嬉しくなるような。そんな雰囲気があった。じめじめした、陰湿な俺の気分を変えてくれる。亮太郎とはまた違う明るい気分にさせてくれる。そんな人。だから改めて俺も自己紹介しながら、手を差し出してくれる相手に。こちらも握り返しながら。人の掌とは違う、肉球の感触。伊吹の手って小さいなって。握ったままぐにぐに揉み込まれてしまう。お前ら獣人が基本発育が良すぎるんだって言いながら、手を引っ込める。

  そうしていると、お腹というかお尻の方に違和感。むずむずする、というか。便意を催したような。とも言い切れない不快感。俺が内股をすり合わせ困り顔をすれば。

  「どうしたー、伊吹。またトイレか?」

  デリカシーもなく、聞いてくる晴喜。身を寄せて、俺のお腹を覗き込むようにしくる犬の顔。というよりその鼻先が少し上に。首筋の方に寄ってくる。まるで美味しそうな匂いに釣られるようにして。スンスンと黒い鼻が動いていて。目を瞑って真剣に人の体臭を嗅ぐ。んーって、悩ましげに唸り。次に開かれた青い瞳は驚愕に感情の色を染めていた。

  失礼にも人の体臭を嗅いでくる奴の顔を掌で押しやりながら、反応に訝しむも。それより優先したい事。保健室の先生に許可を貰いベッドから抜け出して。仰け反ったまま、椅子から危うく倒れかけたハスキーは。身を正し、俺の動きを目で追っていた。だが何処に行こうとしてるいるのか思考が遅れて理解したのか。素早く立ち上がり。当然のように晴喜は俺の隣に引っ付いてきた。あまり変わらない背丈だと思っていたが。並んで立つと、身長の違いがはっきりとする。亮太郎程ではないが、彼も俺よりは背が高いのだなと思うも。肩が触れそうな距離感に眉を寄せ。廊下を出るために掴んだ取ってをそのままにしながら、なんで着いてくるんだよって気持ちを表情に隠しもせず、彼を睨んだ。そうすると、晴喜はわたわたと視線を彷徨わせながら。

  「えーと。そう、連れション! また伊吹を一人にして、廊下で倒れたらいけないし」

  心配してくれる気持ち、というより。どこか挙動不審な相手の様子。耳が震え、白に少しだけ黒が交じる尻尾も強張っている。着いてこなくていい。そう言っても強情にも、晴喜は俺の側を離れなかった。しきりに、周囲を気にして。誰か見てやしないか、来やしないか。警戒するようにして、普段は能天気そうな表情が。いつになく真剣に、警戒するようにして。それは長い校内の廊下を歩き。男子トイレの入り口まで続いた。俺が普通に入るのを見届けて、隣。女子トイレの方を気にするように。ハスキーはオロオロと。本当に入るのかって、連れションと言ったのはお前の方だというのに。俺の後からトイレに入る時、意を決するように。目を瞑り、ええいって。そんな感じで、一歩。タイル張りの床を踏む。そんな相手の行動に何してるんだって、呆れが混じった視線を投げてよこしてしまうのはしかたがなかった。

  俺と晴喜以外、ひとけのない男子トイレ。時間帯のせいか、普段利用している場所ではないからか。あまり使用された形跡はない。此処は教員がもっぱら使うからかもしれない。お腹の調子を気にして、また腹痛でも来るのかと焦りはあったが。未だ、痛みとして明確に変化は訪れず。自分の鼓動に合わせて、腹の奥がやんわりと疼く程度だった。トイレに到着してからずっと。晴喜は黙り込んだままで気味が悪い。心配している、のはそうかもしれないが。洋式便器の方に続く。個室の扉を開いた段階で、ずっと挙動不審だったハスキー。そいつの手が、俺の腕を掴んだ。

  「伊吹ってさ、その。もしかして、さ」

  歯切れの悪い相手の問い。要領を得ない。実際晴喜自身、何を問いたいのかまだ明確ではなかったのか。俺の腕を掴んだまま。膠着状態を作り出していた。迷う素振り、俯いていたハスキーの顔がだんだん真っすぐと。俺の顔を見て。毛皮がなければ、真っ赤に染まっていそうなぐらい。毛の薄い箇所を薄っすらと染めていた。

  「女だったのか!?」

  何をどこからどう見て、そう判断したのか疑わしい。気でも狂ったのか、晴喜は俺に対して。男の姿をした人間相手に。そう問うていた。

  「もしかして、最近トイレにしょっちゅう行くのも。貧血で倒れたのも、その。えっと、生理で……体調崩してたとか?」

  じっとりと、握られている腕。晴喜の手が汗ばんでいるのか。握られた感触が不快だった。彼の中でいったいどういった仮説が立てられているのだろうか。違う、直ぐにそう否定しても。でもって、恥ずかしそうに。親に叱られた子供のような顔をしながらも。ハスキーは俺が個室の中に入るのを許してくれない。トイレに行くって言って、実際に入ろうとしているのだから。離せよ。便意ではなかったが、本当にそうであって漏らしたらどうしてくれるんだ。

  「オレ、昔から鼻が皆より良いんだけどさ。だって。伊吹、さっきから、そのなんていうか。甘ったるいような。女みたいなにおいするんだもん!」

  相手の口から出てくる単語に、気持ち悪いと瞬間的に思い。身を引く。そうすると当然少しだけ繋がれた腕がV字から伸びる。何がもん! だ、何が。可愛らしく、頬を膨らましているが。全く可愛くはないし。その顔を叩きたい衝動が湧くぐらいには、人に対して言って不快感を与えない台詞ではなかった。

  「気をつけてイブキ。この子、僅かだけど陽の力を持ってる。目覚めたイブキの雌の部分に何となくだけど気づいてるみたい」

  保健室に置いて来たと思っていた管狐がいつの間にか肩に乗っていた。そっと囁くようにして、俺にだけ聞こえる声でそう忠告する。恥ずかしがっていると思っていた晴喜の顔。最初はそうだったのだろう、だが今は。上気したその表情は、どこか。焦がれたものを前にした、雄のそれだった。ハッ、ハッ。浅く早くなる息遣い。どんどん手汗が酷くなる、俺の腕を掴んだ彼の掌。そして、だんだんと主張を始めた。学生服の一部分。股間が盛り上がりだしていた。

  「イブキ、逃げた方がいいよ」

  それってどういう意味だよ。肩に乗っている管狐に一瞬気を取られた俺の僅かな隙。それのせいで、真正面から突進するようにして。抱き着いて来る男の勢いを止められず、そのまま押し込まれるように。元々望んでいた個室に一人ではなく、二人一緒になだれ込むようにして。入ってしまう。

  抱きしめられていた。晴喜に。酷く高い体温が俺を包んで、しっとりした吐息が。俺の首元に吐きかけられていた。

  「伊吹、オレ。なんかおかしい。伊吹が、なんか、した?」

  明らかに様子がおかしい相手。どこか、まるで発情した獣を彷彿とさせるその姿に戸惑い。固まる。身じろぎするもしっかりと彼の腕が絡んでいるせいで、あまり意味はなく。そして押し付けられた硬い感触がゴリゴリと太腿にあり。それが何か、存在を意識してしまう。獣人といえど、発情期といった期間はなく。その生殖に関しても人に準じている。一定の季節に発情期が来る事はなく、獣人の女もまた。人間と同じで一定の周期で生理を繰り返す。だから、獣人の男もまた。フェロモンに釣られ、発情したりはせず。獣人の男女両者共に、オールシーズン子作りが可能である。生態については、本当に姿以外。人間と一緒で、だからこそ。混じりっけのない人間とも、子を成せたのだった。だというのに、今晴喜の姿は。先祖と同じのように。湧いて来る唾液を必死で飲み干し。俺を見つめる視線はギラついていて。どこか幼さと青臭さがある態度が身を潜め。途端に一匹の雄のように。俺を捕まえ、離さない。失礼だとは思うが、まるで盛りのついた獣だ。

  「あーあ。イブキの陰の力に当てられちゃってるね。その子、もう止まらないよ」

  ふよふよと、空中で身をくねらせながら。管狐が楽しそうに俺達二人を眺めていた。助けてと、目で訴えかけるも。

  「ボクじゃ、彼を救えないよ。イブキが許してくれるなら手がない事はないけど、その代わり。その子の、命の保証はないよ?」

  空中で、何かを引っ掻くように。管狐が爪を振るう。ボールを転がすように、両手を交互に。面白がるその声と、三日月のようにニタニタ笑う姿に。管狐の姿とは不釣り合いな怖気に。こいつに頼ってはいけないと、思い出させた。思わず首を振ると、残念そうに。ちぇーって、近づいていたハスキーの首筋から離れていく。

  「どうするー? その子、イブキと交尾したいみたいだよ。難儀だね。本能が薄れて自分でも今起きてる衝動を正しく理解できていないみたい」

  くすくすと人を小馬鹿にして、嗤う管狐。俺にだけ聞こえているが。それでも、俺を心配して付き添っていてくれた晴喜を。そんな彼を馬鹿にされて、怒りが湧いた。でもこうなった原因が、管狐の言う通りだとしたら。俺の、俺のせいだとしたら。

  「伊吹。オレ、どうしたら。友達相手に。ちんちん、おかしい。なんだこれ……」

  屹立した部分を人に押し付け。腰を擦り付けて来る晴喜は、自分は今何をどうしているかも。正常に判断できていないようだった。酒でも飲んだかのように。酩酊した眼差し。上昇する体温。毛皮持ちは元々人間より体温が高いらしいけれど。それでけではない要因が彼の中で渦巻いていると窺わせた。この状況にどうすれば良いか必死で、ない頭を巡らせる中。友達。そう晴喜の口から出て来た言葉に。こんな状況でもちょっとだけ嬉しかった。亮太郎に付き合わされて、そうしているだけだと。無理して俺と喋ってるだけだと。勝手に思っていたのだから。だらんと垂れていた俺の手。そこに晴喜の熱い滾りが不意に触れる。びくりと、他人の性器の存在に。硬直するように、俺の指が強張り。結果として、軽く。本当に軽くだが、彼のを握ってしまう。そうすると、小さく。んっ、そんな声と。身体全体を使い、マウンティングでもするかのように擦りつけていたハスキーの動きが停止する。

  下に視線を動かしても、密着しているせいで。感触だけで、晴喜の身体が邪魔で。その存在を感じるだけであり、見えはしない。上にと、視線を動かせば。とろんとまるで眠そうな青い瞳が俺の顔を食い入るように見ていた。至近距離でフッ、ハッ、そうやって吹きかけられる他者の息遣い。何かを必死で我慢するように。閉じた口は、牙を噛み合わせ。鼻筋に皴が多く刻まれていた。背にある晴喜の手が爪を立てているのか。学生服から嫌な音をさせる。

  「駄目、だ。伊吹体調悪いのに。オレ、何しようとしてるんだ」

  頭を振り、雑念を飛ばそうとして失敗したのか。抱擁がきつくなる。手に触れている棒状のそれは、布越しであっても硬く。小さく脈を打っている。友達と言ってくれたからか。彼は知らないが、俺のせいでこうなっているのに。それでもなお、こちらを気遣おうとしてくれる姿勢からか。そして、俺がゲイだからか。全てか。触れている他人の生殖器の感触に、嫌悪感は少なかった。ちょっとだけ、握る力を強め。自分の意思で明確に、棒状の。彼の性器を握るとびくりと腰を震わせる。見えていないせいか、想像を駆り立てる。感触だけで、自分のを普段握っていて覚えているよりは。大きいのだと、そんな予感がした。学生生活において、思いもしなかった場面。いずれ、いつか。真由理とこうするのかなって心の片隅で思いはしても。クラスメイトの、それも友達とこんな。こんなのって。

  「楽にしてあげなよ。大丈夫、イブキが望まない限り中に出されても孕まないよ。そもそも陽の力が弱すぎる。だからこそ、強すぎるイブキの陰の力に抵抗できずこうなってるんだけどね」

  俺ならそれができる。免罪符と、最悪の結末には至らないと。悪魔のような、天使のような、言葉を囁きかけてくる管狐を無視しながら。俺はどうしよう、どうするべきか考え。望む事をしてあげなよって、甘く囁いて来るそれに心を揺り動かされながらも。懸命に、考えていた。

  セックスをしたらこの場は収まる。だとしても、もしも。彼が同性愛者であるなら、まだいいが。異性愛者である彼を、俺はそうだと思っているが。正気に戻った後で、心に傷を作りかねない。普通は同性との性行動に嫌悪を抱くものだった。だから俺の一存で、一時の気の迷いで。いくら助ける為でも、性行動をして良いと。踏み切ってはいけないと思っていた。俺自身も、適当な相手と初めてを。処女を散らすと表現するのだろうか。性行為を軽んじるつもりもなく。思いつくいくつもの手段の中から、一番傷つかない。傷つけない。ものがないか。熱い塊を、そっと擦りあげながら。相手の様子をしっかりと見る。正気なのはきっと俺だけだ。なら、俺がこのおかしくなりつつある雰囲気に吞み込まれてはいけなかった。いけないのに。誘惑が確かにあった。

  「晴喜、俺にこうされて。嫌じゃ、ないか?」

  相手の性器を手で刺激しながら、僅かでも嫌悪を示そうものなら。中断し。殴ってでも止める思いで。肉体的に傷付ける手段を頭の片隅に残しながら。そう聞いていた。ハスキーが耳を震わせ。ごくり、唾を呑みこむ音がいやに大きく響く。

  「あ、だい、じょうぶ。オレ、友達とちんちん抜き合いとか。したことある、から」

  晴喜の思わぬ性体験を聞きながら。思ったよりは、同じ性別の男に自身の生殖器を触れられて気味悪がられたりしない相手の様子に納得する。殴ったりせず、俺と身体を繋げたりもせず。彼と後で納得できる、言い訳ができる。そんな丁度いいところ。落としどころの手掛かりを得られた俺は。握っていた部分から手を離し。手探りで、相手の股間をまさぐりながら。目的の物を探す。金属質な嚙み合わせを辿り、小さな掴める場所を発見すると。親指と人差し指で挟み、下へと引き下げていく。トイレの中なのだから、当たり前に聞こえてくる。ジジジジ、とファスナーを開閉する音。そうすると晴喜があからさまに動揺して、首を振りながらも。だがその瞳の奥に、期待が見え隠れしていた。

  開いた隙間に指先を潜り込ませると。蒸れた場所は小さなサウナのようだった。じっとりと、指先に纏わりつく。湿気。パンツが当然そこには存在していて。最終防衛ラインとばかりに、俺からハスキーの弱点を薄い布ながら死守していた。だが軽く横に動かすと、湿った毛と人間の肌とそう変わらぬ感触が不意に接触し。痛くないように、慎重に掴みだす。その途中、一部がぬるりと滑ったのは。彼の先走りだろうか。

  掴みだした物が外気に触れたせいか。男の臭気が一気に下から漂い。晴喜が解放感にか、息を吐いていた。その時点で、俺の背に回されていた彼の両腕の力が緩む。僅かに離れたお互いの身体。ハスキーが自分のそこを見下ろし。その動きに俺も釣られ、相手の股間を。今まで見えなかったそれを。視界に入れる。物心ついてから、初めて見る他人の生殖器。自分自身のと幼い頃見た、父以外のそれ。この場において、遅れてやって来た。その事実に。俺の心臓が早く脈を刻む。ゲイとして、携帯でオカズとして見ていた画面越しのそれらとは違う。チンポが、目の前に。それも友達の秘匿するべきものが曝け出されていて。いつからだろうか、俺のも。押し込められた箇所が痛いぐらい主張して、窮屈だと訴えていた。

  本当に、俺の中にやましい気持ちがなかったと言えただろうか。降って湧いたこの状況に。言い訳を並べながら、一番言い訳している対象は。俺自身ではなかっただろうかと。自問自答する。晴喜の、ハスキーのチンポは。手で触れ先んじて形を何となく感じ取っていた通り。俺のよりは大きく、そして長かった。勃起しているのだろうが、水平に。というより重そうに少し下向きにカーブし垂れた先。繁殖しようと、勃起しているのに。その姿はどこかふてぶてしく、しかたないなって。怠そうだ。エロ動画とかで見た、外人の物に似ていた。膨張率とか硬さは日本人とは違うらしい。ハスキーのルーツを辿ると日本犬ではないので。そうなるのかなって心の片隅で余計な事を思いはしても、確かめる術はなかった。繋がっている持ち主は息を荒げ、まだかまだかと。俺を見ては。所在なさげに手を胸のところで待機させていた。邪魔にならないように、服を少したくし上げ。いやに協力的なのは、相手の性に対する価値観が覗ける。

  そしてもう一度晴喜のチンポを見やれば、一層目を引いたのは彼の先端。亀頭が露出しておらず、綺麗に皮が被っており。鈴口が辛うじて見える程度だった。その鈴口より下の部分。包皮が厚く余り気味なのか、びろんと不自然に伸びており。形状から、もしかして皮オナのし過ぎなのか。そんな見た目から彼のチンポに対して感じる感想は、どこかだらしなさもあった。玉は出て来ておらず、学生服のズボンから尿をする時と同じように。チンポだけ露出した状態。違うのは勃起しているか、いないかだけ。俺がじっと見つめて少し時間が経過しても、彼の勃起は治まるどころか。びくびくと震え、先走りが玉となって。鈴口から垂れた皮の先まで伝う。

  「い、伊吹。オレのちんちん。抜いて、くれるのか?」

  相手のチンポをその手で露出させておいて、固まっていた俺は。そんな晴喜の声で我に返る。これから起こる事に対する期待にか、尻尾を振りながら。彼はマテをしていて。目は獲物を見る獣のそれであっても、先程の衝動に突き動かされたような姿はなく。手を出してこなかった。改めてそんな彼の性的に興奮した瞳を見れば。青い水晶みたいだなって感想があったが。少しだけ紫が混ざり、その鮮やかさは宝石のようでいて。瑠璃色と表現できるそれだった。だがその綺麗な瞳は、今涙を溜め込むように潤み。内包するその衝動は、性欲というもので綺麗さからはかけ離れたものだった。好きな人と、気持ちを確かめる意味で性行動するものだと。夢見がちな俺に対して訪れた機会は。とても違っていて。でも、漂う男の。以前嗅いだ月路さんのよりも随分と若々しい濃過ぎる体臭に頭がクラクラする。胸毛と同じようにして、ファスナーの隙間から人間で言う陰毛がもさもさとはみ出してもいた。相手の顔色を窺いながら、そっと熱い晴喜のチンポを握る。日常から一変。狭い個室でおこなわれる、勉学をする為の公共の施設で。誰がいつ来るかもしれないというのに。興奮にスパイスとでもいうように、一人でする時とは俺自身も興奮の毛色は違っていた。凄くドキドキする、とてもいけない事をしいると頭でわかっているのに。止められない。

  手を相手の方に押しやると、親指と人差し指に晴喜の皮と一緒に陰毛が当たる。そしてこちらに引けば、引き下げられた皮が戻り。包皮越しではあるが、小指に雁首という明確な段差が触れた。自分でする時と似ていたが、お互い立って向き合ったままなのと。握った手の方向が違うというのもあって。勝手が違う。それと、棒を擦るように動かすと。連動して亀頭を覆う彼の包皮も引っ張られ、亀頭を露出するのだから。痛くはないのであろう。ずっと晴喜の顔は、与えられる快感を素直に受け取っていたし。剥かれる事に痛がったり嫌がる素振りはなかった。だから、だんだんと湧いて来た好奇心のまま。もう少し彼の包皮を明確に剥くように、根元の方に指を使って押し下げていくと。薄いピンク色。経験のなさが色合いに出た。つるりとした亀頭が露出し。その全貌を露わにする。包茎は包茎でも、どうやら彼の逸物は仮性包茎だったようで。思ったよりは隠されていた部分は綺麗であり、日常的に清潔に保たれているのが恥垢等が付着していない事から察せられる。

  俺が彼の露出された亀頭や雁首でできた溝の部分をしげしげと観察しているせいか。晴喜は恥ずかしそうにしていたが、それでも。腰を突き出し。おざなりになった刺激にもっとと、して欲しそうに意思表示していた。

  「綺麗だな」

  つい、出た言葉。人のチンポを見て言うような台詞ではなかったが。ちゃんとしてるんだなって、そんなふうに思ったから。考えもせず呟いていた。ふるりと、揺れていた尾が彼の感情を表すように震える。

  「小六の時、兄貴に。彼女できた時の為にちんちんは、ちゃんと綺麗にしとけって。怒られて……」

  日々皮被りのチンポは雑菌が繁殖したりしないように。性器に対する勤勉さにか。お兄さんの言いつけを守っていた部分にか。はたしてどの部分にか、晴喜は俺の綺麗だなって言葉に対して。どこか嬉しそうにしていた。褒める意図はそこまでなかったのだが、気を悪くしていないのなら。別にいいかと。露出させた包皮を戻し、また剥くと。鈴口から湧いて来るべとべとした液体がどんどん亀頭といわず、俺の握っている手まで汚して来る。一つ気になったのは、いくら同性の兄弟が居るとしても。そういった下の衛生面に関して気にかけたり注意したりする仲なんてあるのだなと、驚きが俺の中で過ぎ去り。一人っ子な俺は、そういった兄弟がどこまでプライベートな部分に踏み入るのか想像すらできず。そういうものなのかと、無理やり納得していた。晴喜の環境が特別という可能性もあったが。なら晴喜は次男なのだろうか。更に下の子も居たりするのだろうか。彼のそういった一面を相手のチンポを握りながら知っていくこの状況に、そうならないように努めていても呑まれかけていた。お腹の奥が、また疼く。それが男の俺に存在している、子宮に酷似した内臓だとわかっていても。必死で目を背けるように。自分の身体よりも、握っている晴喜のチンポに意識を集中しようとしていた。でなければ、本当に勢いだけで。彼をその身で受け入れるのをよしとしようと、身を任せてしまいそうだったから。動物的な衝動が、渦巻く。種を求めている。陽の力を、俺を孕ませる事ができる雄を求める。そんな自分の中にある欲を、認める事が、受け入れる事がとうていできなかった。

  「なんか、伊吹。色っぽい」

  局部を握られ、俺を見つめる晴喜はけしてこちらの思考を覗いたわけではなかっただろう。女性だと勘違いしているからそう思ったのか。はたして。人間の男の顔を見てどうしてそういう感想を抱いたのか。今、俺のちんちん握って何考えているの。そう目で訴えかけてくる、ハスキーの青い瞳から視線を逸らした。これが、中に欲しいなんて、思ってないと。否定していた。

  「伊吹、しゃぶって」

  早く終わらそう、このままじゃ駄目だ。俺までおかしくなりそうだと、手を素早く動かしてしまおう。そうやって俺が行動を早く終わらそうと動く前に晴喜は思いもよらぬ事を言うのだった。これで満足してくれる。そんな俺の淡い期待を上回って来る相手の助長する欲望。握られたチンポを震わせながら。俺の顔を。というより、唇を見ていた。

  「オレ、今、なんか変だ。伊吹が、可愛く見える。だから。だからさ、しゃぶって。お願い」

  ハァハァと、我慢できないとばかりに。舌を出して、乞う晴喜。まだ、この期に及んで俺の事を女だと勘違いしているのだろうか。男相手に可愛いなどと。低身長で、童顔であれば。そういう感想も、同性相手であっても。たとえ同性愛者でなくても、性的な意味合いではなく。抱いたりするのだろうが。俺の身長は百七十ぐらいはあるし、童顔というわけでもない。老け顔、ではないと思う。歳相応。そばかすが少しあるのが若干コンプレックスな。だからどこをどう見ても、女性と勘違いするのには無理があると思うのだが。そんなんだから補修常連なんだぞと、言いたくなる察しの悪さだったが。男の俺相手に、こうも最低限の理性を失いながらも無体を働かないそんな瀬戸際。今、彼の頭は正常な判断ができないでいるというのもあって。だからこそ誤認したままなのだと、思い直す。ならば、こうして男の俺にチンポを握られても抵抗感がなさそうなのは。男装した女だとでも勘違いしてるからこそ、なのだろうか。もしも身体を繋げた場合、理性が戻った後で激しく後悔したりするのだろうか。

  「ね、お願い。じゃないと、オレ。ちんちんおかしくなりそう。なってる。おかしくなってるから」

  彼は知らない。俺のお腹の中には子宮があって、晴喜のチンポを見て疼きを強くしているのを。だからと中出しを遠慮なく許したりはしなかったが。それでも子宮に酷似した部位のせいで。晴喜の鼻はその存在を嗅ぎ取ったのだろう。発情した雌の部分を。

  彼は知らない。今晴喜の頭をおかしくしているのは、俺の自分でも制御できない陰の力であり。力の差があり過ぎて、彼を誘惑しているのだとしても。そういう意図がなかったとしても原因は俺であり。そしてそんな俺に、自分の突如湧き出た性衝動をぶつけたら駄目だと我慢しつつも。求めてしまっているのも。種付けできる相手が目の前に居る。子孫を残せる機会が目の前にあると、ハスキーのチンポは本人の意思とは関係なくやる気満々になってしまっているのだった。

  彼は知らない。俺が同性愛者であるのを。そして、晴喜は異性愛者だ。間違った道に誘うような真似。友達でこんな事、俺はやっぱり。止めさせるべきだった。彼の心を守る為に。俺の顔は何処をどう見ても。そして骨格にしても、人間の男であるのだから。誤認しようがない。その上でしゃぶってると求めて来る相手が、本当に異性愛者なのか少し疑う気持ちもあったが。状況が、相手の反応が。好都合であると俺までもおかしくしていく。止めなきゃ。断らなきゃ。けど。俺の身体が、どうしようもなく雄を求めてしまっていた。

  普段なら躊躇するべき、トイレの床に膝をつく。狭い個室の中、洋式便器の存在が邪魔であったが。自分の心音がうるさい。これからしようとする行動に。ハスキーもまた、尻尾のふり幅を大きくさせ。ごんっと何かにぶつかる音がする。どうやら開けっ放しのドアに尻尾が当たったらしい。内開きのドアはたまりかねたのか、ハスキーが少し驚いて身を寄せた区間を移動し。やっと閉じられる。今の今まで、もしも男子トイレに誰か入って来たなら。開けっ放しのドアから簡単に俺達の痴態を覗けただろう。だが、閉じられた今。誰もそれを見物できる者はおらず、管狐が。パーテーションの上に乗り、ゆらゆらと尾を揺らしているだけだ。ガチャリ。鍵が、閉められる。もう開かないように。それをしたのは便器側ではなく、扉側に立っている晴喜だった。チンポが。彼が扉から俺に向きを変えると、横薙ぎにぶるんと振られる。膝をついた俺の顔、その鼻先に。他人の性器が。迫り。思わず上目遣いに相手の、犬科の顔を見上げれば。やっぱり舌を出したまま、息を荒らげ。そして腰を前に突き出し、早くって急かしていた。握られてないからか、戻っただだ余りの皮先が。俺の鼻にぴとりと触れる。むわりと鼻腔内に飛び込んで来る性臭。先走りの生臭さ、排尿する部位だからかアンモニア臭もツンと刺激して来て。そして、晴喜という雄の臭いが全面に主張されていた。蒸れた汗の臭いとブレンドされた彼の臭気は。俺の鼻から脳まで正しくその在り方を伝え。またお腹の奥を疼かせる。これ、駄目だ。本当に、駄目だと。チンポの臭いに、視界が狭まるようだった。平常時で、普通なら臭いと嫌悪に顔を背けそうなのに。唾液が口の中に湧いて来る。

  その日出会った名も知らぬ、行きづりの相手と。エッチしたと声高々にSNSで報告する輩と。そんな嫌悪していた相手と。今俺が晴喜にしようとしている行動の、何が違うのか。ちゃんと説明できる自信がなかった。他人の差し出されたチンポを前に、難しい事を考える暇もあまりなかったが。それでも、俺までも。一度踏み込んだら二度と戻れない場所に。堕ちてしまう気がして。躊躇から、固く閉じた唇が震える。そんな俺に対して、晴喜は自分の硬くなった性器の根本を持つと。そっと向きを調整し、美味しい食べ物を分け与えるようにして。唇に無情にも触れさせるのだった。

  包皮に隠れていない縦に小さく割れた尿道口が。ぬちゅり。唇に先ず生じた感覚は、熱さ。服越しに抱きしめられた晴喜の体温でもなく、掌に感じていた性器の温度でもなく。粘膜に直接感じる、火傷しそうな熱さだった。ぬるぬると、透明な粘液が俺の唇にリップクリームの如く。塗布される。だだ余った伸びた包皮が、唇と鈴口の接触部を隠すようであり。傍からみたら、唇同士がキスしているようにも錯覚させるぐらいには。晴喜の勃起してもなお分厚くだるだるの包皮は俺の唇を覆っていた。チュッ、チュッ。そうやってリップ音が小さくする。だから見えなくなった鈴口、亀頭が唇をなぞるようにして。彼の根本を握った手が指揮棒のようにそうしているのが。先っぽが見えなくても感触のせいではっきりとわかった。

  俺晴喜のチンポと、キス、してる。好きな人とファーストキスすらまだなのに。背徳感に脳が逆上せそうだった。

  「伊吹。あーんして。口、あけて」

  保健室でも思ったが。晴喜の時折発せられる。おはようしたとか、ねんねしときなよとか。どこか幼子に語り掛けるその喋り方は。余計に彼の普段の落ち着きのない仕草と合わさり。高校生にもなってどこか幼い印象を与えていたが。お兄さんは居るようだが。やはり幼い弟もいるのだろうか。お兄ちゃんとして、家では普段からそう言っていて癖になってるのか。彼の家族構成を推測しながら、勃起した逸物を口に押し付けられているこの状況は。晴喜の幼い雰囲気を台無しにしているとも取れた。性急な相手の様子に、聞くタイミングは逃したが。亀頭の初々しい色合いもあり、もしかして晴喜は童貞なのだろうか。そんな疑問が湧く。性的にも成熟が早い獣人は、童貞を十代の内に捨て去っているパターンが多いと聞く。だがハスキーの与えられる快感に対して弱そうな姿に。そうではないのかと確信を得ていく。だからと俺だって童貞であり、一応後ろを使った経験もない処女でもあるし。故に余裕を持ってリードしてあげたりといった、そんな振る舞いをできる筈もなく。ただ晴喜という男が、健気に欲しい欲しいと涎を垂らすようにしながらも。犬科の顔らしく、息を荒げながらマテをしていてくれたから状況が維持できただけだ。でもそんな相手であっても、乞うようであったのも。ハスキーから出る声音は。当然言い方には焦りも混じっていたが。迷う俺を急かし、有無を言わせぬ何かがあった。それが、晴喜の普段は秘められている雄としての部分なのだと。何となくわかる。雌として見られている。自分の好きにして良いんだと、チンポを気持ちよくしてくれる相手だと。覚醒しつつある晴喜の雄としての思考に一度そうだと判断されたら、もう手遅れなのだと。いくら俺が戸惑い、躊躇しても、もう彼の頭の中では。どこまでしていいのか、何をしていいのか。割り振られた後だった。先に手を出したのは、俺であったのだから。

  おずおずと、口を開ければ。歯を押し退けるようにして、熱い塊がゆっくりと。でも確実に潜り込んで来る。中度半端に開いた顎を、さらにこじ開けるようにして。舌の上に、晴喜のチンポが乗せられていた。俺の、舌の上に。飲食をする為の器官に、性器が触れていて。何もしなくても、だらだら少しずつ垂れ流される。先走り。しょっぱい。埋められた口のせいで、鼻呼吸しかできず。そうすると、喉奥から突き抜けて来る。濃厚な晴喜という一匹の雄、そのにおい情報を早くも俺の脳は覚え始めていた。本来嫌悪すべき、他人のチンポの臭いなんかに。ゲイであっても拒絶してもいい、性行動をする為に事前に洗ってもない蒸れた性器は既に俺の咥内に存在していて。退かそうにも、いつの間にか。引き抜けないように晴喜の毛むくじゃらな手が、俺の頭を固定するように掴んでいた。

  「あったかい、伊吹のくちのなか……」

  見下ろして来る、自身の性器を人間の口に突っ込んだハスキーの。晴喜の顔。それは完全に、恍惚に染まっていた。ぼたり。見上げた俺の頬に何かが落ちて来る。ぼたり。また。どうやら、はみ出した晴喜の舌。そこを伝い、真下に居る俺の顔に涎が垂れているようだった。いけないと遅れて気づいた晴喜が舌なめずりして。口端からも漏れ出たそれらを舌で拭うが、すぐ溢れて来てあまり意味はなかったように思う。

  「良かったね、いつも携帯で見てた雄の性器だよ。美味しい? イブキ」

  揶揄うような場に似つかわしくないとても幼い子供の声。傍観者を気どった管狐が、俺達を見ているのはわかっていたが。口に頬張った性器のせいもあって。いや、普通の状態であっても。俺が晴喜とか他の人が居る状況で平然とこいつに言葉を返したりしないのは、俺と管狐両者が共通する認識である。だからきっと、返事などはなから求めておらず。どちらかというと俺の羞恥心を煽る意図があっての事なのだろう。他人とそういった話題は避けるのに。独りでプライベードな空間が確保された途端。好んで自慰する時にそれらを求めるイブキはむっつりだよねって。くすくす馬鹿にされもした。見んなよって怒鳴れば、暫く姿を消してくれる時もある管狐も。今だけは白い毛を優雅に毛繕いしたりしながら、立ち去ったりはしない。

  フェラチオという行動。まさか自分が、学校で。クラスメイト相手に、今しているその現実にか。濃密な晴喜のチンポの臭いと、味のせいか。俺の脳髄は痺れてしまって、思考を狭めていた。なんだこれ、熱い。なんだこれ。映像で見るのとは違う。文字通り味わって、それで。味蕾を刺激する。男の味。塩とは明確に違う、塩っ辛さ。生物特有の生臭さ。乾物のスルメイカとも比喩される男性器の香り。確かににおい自体は似ていて、でも味は全く違うのだった。蒸れに蒸れた、毎日お風呂に入っていてもそこだけ消せない獣臭。原始的な混ざりものも希薄されもしなかった晴喜の存在を舌の上に感じる。身体から伸び、硬くなった肉の筒。肉と言っても、太いウインナーを頬張って嚙み切らずしゃぶるのとも違う。舌先に竿の部分。太い尿道がしっかりと通ってる事を伝えるかのように、ゴツゴツとした凹凸を感じる。ゆっくりと、目の前にある彼の腰が離れていく。そうすると舌の上に乗っているだけだった、ハスキーの生殖器も俺の口の中から抜け出ようとして。でもそうならず、途中で前へと。動きを変え。また戻って来る彼の分身。硬い歯が並ぶ咥内といえど、粘膜があるそこに包まれて。びくびくと震えて喜んでいるのがわかった。声を少し漏らしながら、ハスキーがこちらを見ながら腰を振るものだから。されるがままであったが。俺も何かしないといけない、少しでも行動を早く終わらす意味でも、手伝わないと。そう思い。少しだけ唇を窄め締め付けると、中にある包皮が剥かれ。そのせいで亀頭が舌に触れ、後悔した。ピリリと、刺激物を入れたような刺激が舌を襲う。それが。含まれているのは汗だけではないと。排泄器だと思い起こさせるにだけ足る。今日一日、晴喜だってトイレを正しく使用し。そして、密閉された空間内だからこそか。漂うキツイ臭気に顔を顰める。見た目は綺麗だと称したけれど。それ相応に今日一日で蓄積されていた僅かな汚れ。

  「朝にも、ちゃんと抜いて学校に来たのに。オレのちんちん、いつもよりガチガチだ。イブキ、苦しくない? もう少し、奥入れていい?」

  気遣いの言葉を投げかけられるが。前後する動きは止まない。一応動き自体は激しいものではなかったが、潜り込んで来るそれは。先端が喉を危うく突きかけ。人間の自分より体格が勝る獣人の逸物は、そこに容易に到達できる事を物語っていた。もしも晴喜が自分の快感を優先して乱暴にした場合、このフェラチオがイラマチオに変わって。正気ではない頭で自制しきれず。俺は喉をガツガツ突かれ、堪らずえずい咽ていたかもしれない。使われながら、彼の優しさを感じる。そのせいか、舌から感じた。薄っすら漂う尿臭に不快感が多少は薄れていく。俺の口の中にある晴喜の性器。そして排泄器でもある。剥かれた亀頭を舌に擦りつけられながら。朝出した精液の残滓もまた、塗り込まれているのかもしれなかったが。経験のなさが、動き自体は激しくならないようにしてくいるというより。粘膜の刺激が強すぎて、相手もおっかなびっくりと言う感じでもあった。だから腰の振り方はとてもぎこちない。えずいて、嘔吐したりとか。そのような事態にはならなかったが。口の中で前後する異物を舌で押し退けようとすれば、ただ相手を気持ちよくする行動に繋がっていた。チンポから伝わる快感にか、また晴喜の涎が上から落ちて髪を濡らす。

  「人間のくちって、すごいや。犬科の想像してたのより、ずっと吸い付いてッ。んんっ!」

  俺の頭を掴んでいる手に力が入る。どうやら、彼の想像上の相手。オナニーの妄想相手は舐めしゃぶってくれる時、同族であったのか。犬科の口は構造上あまり吸うという動作には向かない。深く咥えこんだり、舐めるという事に関しては、人間よりもその長いマズルと舌故に得意そうではあったが。自分のチンポに襲っている感触を、素直に実況する晴喜の様子に。逆に人間の俺は、あまり深く咥えこむと苦しく。そして根本まで完全に埋められた場合、喉奥に入る事になるので。どうしても全てを受け入れるには至らない。フェラが経験豊富な人なら、もしかしたら喉まで使う事もできたのかもしれなかったが。俺は男性器を咥えるなど初めてである。だから、抜き差しする拍子に付着した唾液で濡れた部分。根元の方はこれ以上入り過ぎないように、ストッパーの役割も兼ねて。俺の手で握って刺激していた。他人の勃起し、張った亀頭に舌を這わすと。チンポそのものは硬いが、亀頭。特に雁首等はまだぷにぷにと多少の柔らかさを保持していて。表面は風船のように膨らんでいるからか、つるつると舌先が滑る。自分で自慰する時。どこをどうすれば良いのか口を使用されながら思い出すと。何となく、舌先で擽るようにして。尿道から裏筋に添って刺激を与えると、また晴喜は。んっ。そうくぐもった声を漏らしていた。堪らないとばかりに、上を向き。舌を垂らすその姿は快感に溺れとてもみっともない。俺はそんな相手の性器で呼吸がし辛く、別の意味で溺れそうなのだが。鈴口を舌先で抉れば、びくりと身体を震わせ。刺激が強すぎたのか少しだけ腰を引く相手の反応はとても如実で。だが再び、その未知の刺激を欲してか。元の位置にチンポをつっこんで催促していた。雁首と鈴口が一番、味が濃い。逆に竿の部分はそうでもなく、もう俺の唾液の味しかしない。最初の方はそうやって、そういった技巧がないなりに舐め、吸うといった事ができていたのだが。だんだんと犬がそうするように、カクカクと俺の頭に向かって腰を振り出した為にそれすらできないで。

  「キモチイイ。伊吹に。ちんちん食べられるの、キモチイイ。もっと、もっと!」

  俺のペースで舐める事は叶わず、相手の意のままに。口を使われるこのやり方に。イラマチオされるという、画面でのエロ動画の中だけの世界であったそれが。実際に俺の身体を使って行使されるとなると、こうも苦しいのかと。生理的に涙が頬を伝い、晴喜の唾液と混ざる。鼻呼吸しか許されず、だが咥内からの肉棒と。そして腰がこちらに押し寄せて、喉奥に激突しかけながら。眼前にあるファスナーの隙間からはみ出た茂みとチンポの根本、そしてそこを保持している自分の指先が鼻先にぐいぐいと近づく。人間のように複雑に折れ曲がった硬い陰毛とは違い、獣人のそこはふわふわとしていた。どちらにせよ性器の傍で同じようにパンツの中で蒸れた部分は。漂う、晴喜の濃い男臭いもう一つの発生源。肺の中まで、彼という。シベリアンハスキーの雄に支配されそうだった。

  俺の苦しそうな息遣いは、責め立ててくる雄の棒によって物理的に奥へと声になる前に戻される。ずりずり舌の上を往復するチンポ。口蓋を下反りなそれが腰を使い懸命に向きを変え、亀頭を擦りつけ。また違う快楽を貪っていた。呼吸しようとして、チンポを吸ってしまうと。尿道の中に溜まっていた先走りがちゅるりと、まるでゼリー飲料を吸うみたいに溢れて来る。

  中学生の自慰を覚えたてのように。ひたすらに快感を貪り。チンポを突き込む速度を緩めたりして、少しでもこの行動を楽しんだり。自分自身を焦らすといった事をこのハスキーは選択しなかった。どこまでも、真っ直ぐな道を走るように。息継ぎや、休憩とか考えず。眼前のゴールテープを切る事しか、頭にないかのように。荒らげた晴喜の呼吸が物語っていた。

  「出そうッ」

  切羽詰まった青年の声。蓄積され続けた刺激の到達点。性器に見立てた場所にチンポを擦りつけ続けた雄が、どうなるか。口の中にある晴喜のが、さらに硬くなったように感じ。剥けた包皮から顔を出す亀頭はぷっくりと更に膨らみ。喉奥へと続く場所を、蓋をするように塞ごうとしてくる。ハスキーの姿勢がだんだんと腰を軽く引き、膝を曲げ。上半身が軽く前屈みになっていく。掴んだ俺の頭を、しっかりと下腹部に押し付け。最後にぶるりと、目に見えて彼の腰が震えた。

  どぷり。膨らんで、弾けそうな亀頭。膨張を続け、ついに破裂したかのように。ぱっくり開いた尿道口から熱い粘液が飛び出てくる。舌の根本に突如振りかけられたそれに。びっくりして頭を引こうとするが、俺の頭を掴んだ彼の両手はわなわなと震えながらも。それを許さないとしていた。そうしている内に、さらに勢いが増した第二射が。

  びゅう! どぷっ! びゅる、びゅるる! ぶびゅっ!

  朝に一発抜いたと言っていたのが信じられないぐらい、口の中に注がれる液体。舌の上に広がっていく熱い粘液の塊。びくんっ、びくんっ、そうやってチンポが震えながら。根本から尿道の中を突き進んで来る。どろりとした液体を吐き出す彼のはそのたびに跳ね上がり。何もしなくても口蓋に自然とぶつかってくる。

  ゲイだとしても、他人との性経験もない俺は。当然、誰かの性器なんて咥えた事はないし。ましてや、精液なんて飲んだ事もなかった。自分の手触りや臭いを知ってはいても。舐めようとも思わなかったのだから。でももう、晴喜の。欲望の証が既に解き放たれて、まだどくどくと出している途中だった。満遍なく咥内を白濁に塗り広げていくもの。栗の花に例えられるが。これは全く違うものだった。生物としての生臭さを凝縮し、体液が空気に触れず直接俺の口の中に。晴喜のチンポを使って直接、出された。晴喜の子供を作る素。ただの性衝動のまま、吐き出された。性処理の果て。あまりにも無駄に使われる、貴重な。シベリアンハスキーの、獣人の遺伝子情報。咥内を満たす、雄の臭い。これが。拒否しようとも押し寄せる味という情報。最初に感じたのは、苦み。どろどろとした半固形のような、濃厚すぎる。一部粒のようなものがあり、纏わりつく液体はスライムのようで。そんなものを、彼の性器はぶびゅぶびゅと勢いよく吐き出していた。舌触りは卵白とも、煮詰めた粥とも似ていて、違うと近い物を思い浮かんでは。どぷっ、吹き付けられた粘液に思考が乱される。次に感じたのは酸っぱいような、良くわからないもの。押し寄せる、鼻の奥から抜けていく臭気はただただ磯臭く。俺の鼻をより駄目にしていく。最後に感じたのは、甘味。砂糖とは違う、ほんのりと。隠れるようにしてある、性器から出されたものから感じ取るとは思わなかったそれ。でも覆い尽くす、大部分はやっぱりえぐみが強く、飲み物としては適していないと。生理的に嫌悪した。

  目を白黒とし、だが口の中で溢れかえるそれをどうにかしないと。遠慮なく供給されるのだから、このままでは本当に窒息しそうだった。一度始まった射精は、止められない。夥しい精液に、嫌だと思いはしても。生存本能が、飲む事を許容した。ごくり、食道まで通そうと。喉を鳴らすと。それに徹底的に抵抗するように。晴喜の精液がへばりつくのを喉の内側から感じた。絡みついて、味だけではなく。その粘度もまた、飲むのには苦労する。舌の上にどぷどぷと、出てくる量がだんだんと減り。やがて空撃ちするように、晴喜のチンポが震えるだけになると。頭上の方で深く息を吸い、吐き出す者の気配。ずるり、あれだけ出て行ってくれなかった性器が俺の口の中から抜けていく。力なく、開いたままの俺の唇から。晴喜の戻るさいに皮が巻き戻り恥ずかしがり屋な亀頭が零れるように抜け落ちる。だらんと、射精を終えたからか硬さを若干失いながらも。それでも大きな逸物。俺の舌先と、彼の伸びた包皮とを繋ぐ。唾液と精液が混合した濁った液体が太い糸のように繋がっていて。粘度のせいか、なかなか切れなかった。吐きだす息が、精液臭い。胃の中から、立ち上って来る。にんにくを多く食べた時みたいに、臭い物が内側から立ち上って来るのが止まらない。臭い、不味い。それなのに、男の象徴を舐めさせられ。そして飲まされ。俺のお腹はこっちにくれと騒ぎ、嫌な気持ちを薄れさす。好きでもない他人のチンポを舐めたのにだ。自分の常識が覆っていく、壊される。その部分に、恐怖する。俺の身体が変わるのと並行して、心まで勝手に変えないで欲しかった。

  「伊吹! 飲んじゃったのか!? ぺっ、ぺっして、ほらっ」

  惚けていた晴喜が満足げな吐息を吐き出している中、ぷつりと繋がっていた糸が切れたのと同時に我に返ったのか。大慌てで。半萎えになったチンポをぶらぶら揺らし、自身の制服を性器に纏わりついた粘液でナメクジでも這ったように汚しながら。それにも構わず、洋式便所の蓋を開け。口を手の甲で拭う人間を乱暴にならないように配慮しつつそこに向かうように誘導し。俺の背を擦る。ぺっ、しろと言われても。呼吸したいがために必死で殆ど飲んでしまった後で。俺の口の中に残留する後味は、まだ確かに精液の味と呼べるものだったが。吐き出そうにも、その量は足りず。もうないと、口を開きかけ。自分の口から漂う湯気のように視覚できそうな饐えた青臭いものに、思わずさっと閉じる。すぐ傍にハスキーの心配する顔があったというのもあったし、人間よりは一応鼻の良い筈の獣人である晴喜に。俺の今の口臭を嗅がれたくないと咄嗟に思ったからだった。それをしたのは、晴喜のチンポだが。

  「オレの精液。においキツいし、味だって不味いって聞くのに。なのに伊吹飲んじゃったのか。飲んで、くれたのか?」

  そうだと思いつつも、この馬鹿犬は。俺の口の中にそれはもう盛大に吐き出してくれたのだなと、若干思わなくもないが。一応、こうなった原因は俺のせいであるらしいので。そういう後ろめたさと、泣きそうな顔をする。耳をぺったんこにした犬の顔というのは、どこか同情心を誘う。大丈夫だと、一応そう相手を落ち着けさせる意味でも。手で制しながら、問題ないと平静を取り繕う。胃の中はどろどろとした液体のせいで、どこか胃もたれしていて。違和感が凄かったが。

  だが、大丈夫と言う俺の発言をどう受け取ったのか。ぴょこんと耳と彼のお尻から伸びた尻尾までもが真っすぐ伸び。だらんとしたチンポまで元気を取り戻さなくて良かったが。この時の晴喜のチンポは萎えているというのもあって、包皮がさらに余り。先が潰れたドリルみたいになっていた。子供チンポと感じたりしないのは、そのサイズがやはり萎えていても大きいからだ。先からぷるぷると糸を引き、尿道に残っていた精液が線香花火のようにしぶとく玉になり。揺れていた。次にばっさばっさと。音を立てて、犬の尾が揺れ出す。何となく、嫌な予感がし。身を引こうとうするが、忘れていたがここはトイレの個室。狭い場所に逃げ場所などなく。がばりとまたひっついてくる男から逃れられなかった。頬に擦りつけられる犬科のマズル。やがて床に落ちるものとばかり思っていたのに。俺のズボンにその拍子にしぶとく垂れ下がっていた雫が。晴喜の精液がへばりつく。ばっちい。そんなばっちいものを大量に飲んでしまったのに。

  良かったーって、性行動をした後とは思えない。呑気な声を聞きながら。ハスキーの後頭部を取り合えず撫で、早く離れてくれと意思表示していた。いい加減、出しっぱなしのその性器をしまって欲しいというのもあった。俺のは、状況からか。いつの間にか治まっていた。まあ、それなりに苦しかったし。ただ燻ぶる腹の熱だけが、残っている。

  「晴喜、男の俺にチンポしゃぶられて。気持ち悪いとか思わないのかよ」

  「えっと、頼んだのはオレだし。それに、ちんちん気持ちよかったから別に、いい……」

  最後に、気になっていた懸念。一応ノンケと言われる部類であろうこのハスキーが、だいぶ正気になった後で。男の俺とあれこれして傷ついてないか。その表情を見る限り、大丈夫そうではあったが。一応聞いてはいた。だが、あっけらかんと答えた晴喜。細かい事を気にしないハスキーは、どうやらこういう事も細かい事の内に収まってしまうらしい。全く細かくはないし、もう少し気にしろと。勝手に俺が叱ってしまいそうだったが。だがその楽観的すぎる部分に救われていた。良かった。正気になった後、何するんだって。軽蔑した、人を人としてみない。冷たい目じゃなくて。同性愛者を差別するものではなくて。ただただ、良かったと。俺は彼に抱きしめられ。萎えたチンポを足に押し当てられ、安堵していた。俺が彼にトラウマを与えなくて良かったと。

  「若い雄の生気が吸えて、良かったね。イブキ」

  頭上で浮いたまま、ぐるぐると意味もなく回る管狐が自分の事のように喜んでいた。恋人でもない、男の性器を吸えて。誰が喜ぶかと、晴喜が居るので声には出さず睨む。びくりと肩を震わせた管狐が、パーテーションの裏に隠れ。そっと頭だけ出し、こちらの機嫌を窺ってくるがそうするなら最初から言うなよ。

  体重をかけて、俺に身を預けるハスキーの顔は。一人でしたのなら賢者タイムと呼ばれる、虚しさに立ち去りそうなものであっが。誰かとしたという事実が。他人の中に曲がりながらも出し切った後というのもあって、気怠くも。心地いい疲労感もあるのか、余韻に浸っていた。俺の肩に甘えるようにマズルを乗せ、安心しきった息を吐くその顔がなんだか苛立ちを誘う。だから、いい加減に離れろと。その胸を押し。チンポもしまえと、怒鳴る。この時は、ここが公共のトイレだとか。そういった意識は完全に抜け落ちていた。いそいそと、仕事を終えた萎えたチンポを俺の目の前でズボンの中に押し込み。ファスナーを引き上げて、納まりの良い場所に位置を調整しなおす晴喜の姿は。とても間抜けで、どこか哀れにも感じた。そして余韻すら過ぎ去ってしまえば次に訪れるのは気まずさだった。晴喜視点だと、急に飛び掛かって。俺を襲ったようなものと感じているのか。こちらを見てはすぐ目線を逸らし、えっとって。自分のついさっきの我の忘れように。記憶はしっかり残っているのか、戸惑い。どう受け入れ、飲み込もうとしているのか。消化に時間がかかっているようであった。男にチンポを咥えられた事に関しては気にしないとしても。それをしたのは元々そういう関係であった人でもなく。友達、なのだから。獣人が発情期になるのは既に進化の過程において、置いて来た事象であり。人間と少し違う容姿をしていても、とった行動は獣に近い。

  「ご、ごめんな。伊吹」

  これまでの、快活な。男の子を絵に描いたような晴喜にしては、とてもしおらしい姿。あんなに揺れていた尾が、今だけはだらりと力なく垂れていた。大人になりかけた、多感な時期。生殖可能な身体なのに、法律上はまだ結婚も禁止されている学生の身。それで持て余した性欲。肉体的には、大人とそう変わらぬ容姿、背丈。男としてそれなりに発達した筋肉。そして精神性はどこかまだまだ幼く。幼稚にも取れる発言の数々。チグハグであり、それがまた。俺と同じ、高校生という生き物だ。こうして、落ち込んだような振る舞いをされると。確かに庇護欲をそそられ、守ってあげたくなる年下のような晴喜の姿は。なんとなく、嫌いになれない。あれだけ、自分勝手に口を使われたとしても。ごめんねと言い、俺の身体をチラチラ見て来る今の彼の中を占めるのは。罪悪感か、それとも自己保身か。言ってしまえば、同意とも取れるが。レイプ紛いに迫ってしまったのだ。この国において、同性、異性問わず。強制性交罪に当てはまる。少年法で守られる時期というものは成人していない子供、と考えられがちだが。実際の所年齢によって細かく区分されている。特に十五から十八ぐらいの高校一年生から三年の間に随分とその庇護は削られていく。実際のところ、どこまで彼が俺が被害届を出した場合。罰せられるか、定かではなかったが。それでも平穏な高校生活がこれまで通り送れるかといわれると、否であろうか。だから、心配する体を装いつつも。今必死に彼の中ではどうやって、これをなかった事に。若気の至り、黒歴史と。笑い話にしてしまえるかを考えている最中なのだろうか。

  いっそ、彼のトラウマ。心の傷にならないならそれでも良かった。事実は俺しかしらない。彼は俺の気に当てられおかしくなっただけで。何も悪気はなく、罪があるとしたら俺だけで。だというのに、状況証拠だけ見れば。彼だけ悪いと、世間から罵られたりするのだろうか。俺が先生や、そういった然るべき機関に告げ口すれば。彼のこれからの人生を滅茶苦茶にしてしまえる。それだけ、一時の気持ちで。性衝動のまま、それをした後。どう事が運ぼうと、一度した事はその人の手から離れ。予想だにしない、大きな揺り戻しとなってしまうのかもしれなかった。他者とおこなう性行動はそれ相応に責任が伴う。俺も加担したからこそ、その危うさを自覚した。彼の人生が。俺のせいで、もしもで崩れてしまうのならと。

  だが。彼のを手コキする方向にそれとなく誘導し。これはそうしたかったわけではないが、陰の力で誘惑し。調子にのった相手に乞われるまま、咥えたのはゲイの俺だった。だからそのもしもは訪れないし、俺としても。今日起きた事は隠蔽したかった。なかった事にしたいと、晴喜が言うのなら。だからこそ、それで良かったと。そう思っていたのだ。

  「伊吹、体調悪いのに。結局オレ、ちんちん。伊吹に食べさせて、その……」

  だが、彼の気にしている箇所は。俺の思っているような部分ではなく、どこまでいっても。一度崩した体調を気にしてだった。自分の立場や、学校生活を案じるよりも前に。俺の身を案じ、心配してくれていた。侮っていた。彼の仕草から、前々からその片鱗。名を覚えていない俺に対して、細かい事だと気にするなと言ってのける相手ではあったが。かなり自分が危うい立場だと理解しているのだろうか、他人と。性行動をした上で、まだそこに気づいていないだけか。

  「もし、先生に言うなら。オレ、止めないから。ごめんな、伊吹。ごめん!」

  それでも晴喜はしっかりと、この場の。お互いの立場を理解し、そして彼の目線で正しく。俺目線からは違うと思っていても。性行動を強いたと、理解していた。俺の呼び止める声も聞かず、鍵を開け、個室から走り出したハスキー。遠ざかる上履きが廊下を疾走する音だけが、俺のわだかまった心にいつまでも響いていた。いっちゃったね。そう言いながら肩に降りて来た管狐。本当に、こいつ。なんなんだろうか。お祓いできないだろうか。そういう事が得意な狐野柳の力を頼るべきか。これ以上頼らざるべきか。でもそうなると、これまで追い払ってくれていた妖共は。これ幸いと触れて来るようになるだろう。こっちを立てればあっちが立たず。どちらかを犠牲にするしかないのだろうか。俺自身にそういった追い払う、武力みたいなものがあれば。また別の切り口から、自衛という。一番の最善手を選択できたが。目覚めた力は、子宮。子を産む力らしい。陰の力が強いと言っても、俺からすると全く役に立たないどころか。いらないと思うもので。そのせいで、こうして人生すらも、何もかも振り回されているのだが。

  急いで晴喜を追いかけるべきかとも思ったが、身体はしんどいと。足に来ていた。便器の蓋を閉じ、椅子代わりにすれば。もう立ち上がるのも億劫に感じるぐらい。俺自身は射精もしていないのに。自分でした時特有の、手や、ティッシュから香る。磯臭さが、その時以上に濃厚なそれが胃からいつまでも消えないのもあって。晴喜自身は去ったのに、その分身が俺の中に存在している。何か、別の。水やジュースで口をゆすぎ、胃の中を更に奥に押し流して。消し去りたかった。その残り香で。冷静になったのに、彼とそういう事をしたのを振り返れば。反応する年頃の、俺の男としての部分。同性のそれを咥える事を、夢想しなかったわけではない。だがそれは恋人限定であり、誰でもと。妄想の中まで、顔を毎日変えたりはしなかった。好みの、エロ動画の人を見つけたらそれを何度もリピートしながら。この人の容姿良いなって、確かに思いつつも。この画面の中の人は、同じく画面の中に居る受け役の人と。金で結ばれた関係か、世界に自分達の性交を発信するのが好きな過激な性癖を持つ恋人か。良いなって思っても、俺の恋人には絶対にならないとわかってもいて。性格だって知らないし。

  消えない、俺の臭い息が。飲んだ物と、した行動を。いつまでも物語るものだから。自己嫌悪に、余計にこの場を動けなくしていた。あれで正しかったのだろうか。晴喜にした俺の行動は。絶対に褒められたものではなかっただろう。ゲイならば、ゲイだからこそ。相手を思いやる心があるなら、自制するべきであり。彼のこの後を心配するなら、その時やはり殴ってでも止めるべきだったと。終わった後で、彼との性行動に。晴喜以上に嫌悪し、後悔している自分が居た。何やってるんだよ、俺。独特の味、他人の精液の味を。舌の上に思い出しながら転がす。まだ歯茎にへばりついているような気がしてそうしていると、やはりお腹の内側。俺の子宮が疼いて、雄の種を求め、孕みたいと主張する。その事に、なんだか死にたくなった。自分がとても、浅ましい存在に成り下がったと感じて。他人の精を啜り、性交を求める。そんな存在に堕落していく気がして。膝を抱える。違うのに。あの状況で、違うのに。俺じゃない、俺も正気じゃなかった。俺も被害者だと。言いたかった。でもしたのは。俺だ。紛れもなく、男の性器を握り、舐めしゃぶり。精を飲み干したのは、どうしようもなく俺だったのだ。

  晴喜のせいにしたい気持ちと、絶対に彼のせいじゃないと。そう否定する気持ちが衝突する。連れションすると彼が言いださなければ。俺がこんな身体でなければ。こうはならなかったのに。でもこの身体じゃなければ。亮太郎とも。そして晴喜とも、友達になれなかったのだろう。この学校に転校せず田舎で、友達がいないまま。孤独に過ごしていた。それもまた事実であった。

  「イブキ、やっと雄とそういう事ができたのに。辛いの? 苦しいの?」

  やっぱり、あの子。ボクが。咄嗟に耳を塞ぐ。聞きたくない。そんな事しないで。もう[[rb:二度 > ・・]]と、しないで。お願いだから。幼少期の俺自身の声が心の中だけで叫ぶ。蓋をしていた、過去が溢れて来る。嫌々と便器の上で縮こまり首を振り続ける俺は。小学生よりもずっと、幼い姿を晒していた。

  胸の内に確かに存在するどろどろが、いつまでも気持ち悪い。

  [newpage]

  [chapter:六話 君はどんな人]

  身も心も長い時間をかけて落ち着いたころ。また開けっ放しの扉を閉め。念のために鍵を掛け。他に誰も居ないトイレの中で、俺は自身のベルトを緩めズボンを脱いでいた。大便器を使い、何も排便をしようだとか。そういった用途ではなかった。これから確かめるのは怖いが、見ないわけにもいかないと。パンツも同じようにして膝まで降ろし。中を改めた。

  丁度股間の部分がテラテラと光を反射している粘液の跡。布に付着した俺の先走りだった。晴喜との行為の最中、勃起しっぱなしで分泌されたものだろう。面積にしたら少しだけ。だが、それ以上に濡れている部分が。お尻の方、べっとりと同じように濡れているのが問題であった。漏らした。この歳で。高校生にもなって。いや、逆にそれなら良かったのかもしれない。自分が糞を漏らして。それが誰かにバレて、やーいウンコマンとか。ただトイレの大便器を使うだけで、小学生が相手を小馬鹿にするように。それだけだったなら。

  だが濡れている部分。空気に触れたからか、漂うそれは。けしてそれが糞尿の類ではないのは確かだった。管狐がふよふよと近付き、俺のパンツの内側を覗き込む。

  「うわー、雌くさーい!」

  空中でお腹を抱え、ケラケラ笑う姿に。思わず手を出すが、俺の拳は軽々避けられ。こわーいって、全く怖がった様子もなく距離を取られて終わった。

  「森の中、これを木にでも塗って待ってたら。野犬の雄にでも慰めてもらえるかもよイブキ」

  「誰がするかよ」

  俺のお尻、というより肛門。そこから漏れ出た液体は腸液ではなく、愛液とも呼ばれる。本来は膣から分泌されるものらしきそれが。雄を迎え入れる為に、膣が傷つかないように。保護する役割がある、性交を助けるヌルついた液体。晴喜のチンポを咥えてる間、俺のお腹はずっと反応を続けていた。目の前の雄に、成熟した。精子を出せる相手に。自分を孕ませてくれるかもしれない存在に。自分の身体の変化についていけなかった。こんなものが、男の身体から。孕める身体になった、なってしまった。そういった準備が、ちゃんと胎の中で完了していると知ってしまって。愕然と、ズボンとパンツを一緒くたに持った手が震える。

  こんなもの見たくないのに。俺が視たくもない管狐や、あいつらと一緒で。自分の身体の中に付属している臓器であったから、避けられない、遠ざけられない。

  濡れた部分をトイレットペーパーで水分を拭っていく。染み込んだ液体は思ったより量があるのか、水気を吸いながら。紙は溶けていくものだから、思ったよりは拭き辛く。一部が小さい塊になりながら破けてしまっていた。トイレを流す為に、溶けやすい仕組みの紙は。今だけはそのせいで作業が難航していた。でも拭かなければ、一度地肌から離れた湿ったパンツをもう一度そのまま履くのは気持ちが悪い。いくら自分から分泌されたものといえど。拭き取った物を便器の中に捨て、そのままレバーを操作し流す。証拠隠滅だ。誰にも見られたくない、知られたくない。晴喜には、誤解が一部混じりながらも気どられてしまった。どう説明したものか。それに、正しく友達として元に戻れるか。明日、彼は学校に来るだろうか。それとも、俺が明日登校できるだろうか。顔を合わせ辛いと思った。

  ゴンゴンゴン!

  便器の中を覗きながら、暗い顔をしていた俺の背後。扉が急に激しくノックされる。返事もできず、振り返るだけ。塗装が一部剥げた扉を見つめているが、それで中に入っていますかと声を掛けられる事はなく。

  ゴンゴンゴン!

  また続けざまにノックされる。俺以外にこのトイレを使用している人は居らず。小便器も、大便器に関しても。複数設置されているのだから、何もわざわざ鍵が掛かっている俺が入っているトイレをノックする必要はない。ないというのに、外の変わり者は。このトイレではないといけないというのか。力強く、ノックするものだから。トイレ中に、というより廊下までそのノック音は響き渡っているかもしれなかった。家のトイレじゃないと落ち着いてウンコができない奴が居たりするから、今扉を隔てて居るだろうそいつもまたそういう手合いだろうか。奥から何番目のとか。

  もう後処理を終えた俺は、別にこの個室に入り浸る理由もなく。相手に明け渡しても良い気がした。が、どうぞと開けるのもなと思い。取り合えず入っています。そう返事をしようとしていた。

  「まって、イブキ。声出さない方が良いよ」

  俺が口を開きかけるのと、管狐が顔の前まで来てふわりとその尾で。口に蓋をするように塞いで来たのは同時。微量に白い毛が口に入ってしまった。俺が扉の外の奴ではなく、管狐に抗議しようとした時。かすれた、泥が詰まったような、どこか聞き覚えのある濁声がした。

  「ヴゥ、ボォ、ヴォル」

  扉の前には、確かに誰かが立っていた。立っていたのだろう。だがそれはこの世の物ではなく、あちら側。最近良く学校内で見かけ、俺の周辺をウロチョロする。目も口もない、全身が墨でも垂らしたかのように。黒塗りの影みたいな奴。その妖が時折発する声と、今扉の外から聞こえてくる声は。とてもよく似ていた。

  「うーん、敵意はないみたいだけど……」

  扉を睨みつけるようにしていた管狐が、顔だけこちらに振り返る。どうしたものかと、白狐の顔は困惑に近いもので。追い払うべきか、迷いが垣間見えた。普段はだいたい近づいて来る妖には威嚇してすぐ追い払ってくれるので、その反応は珍しいと言える。言えるのだが、塞いでいた管狐の尻尾が離れると、抜け毛が残ってるんじゃないかと俺は口をもごもご動かしていた。

  そして妖が視えるといっても、俺自身彼らに対してどうこうしたいとかはなく。触らぬ神に祟りなし。――神ではなくただの妖だが――とばかりに、俺は基本知らぬ存ぜぬを貫いていた。自分からちょっかいをかけ、憑かれたくはない。もう管狐だけで十分に持て余しているのにだ。

  だから俺が黙ったまま何もしないで居ると。扉の外に居る存在はそれ以上の行動には出なかった。声を発するか、ノックしたり、軽く硬い、爪であろうか。扉を引っ掻いたりする程度で、無理に鍵を外したり。扉を壊して入って来るような乱暴な事はしない。管狐は普通に喋っているから、同一の存在なら。聞こえていてもおかしくはないのに。やってるのは完全な居留守である。

  「一応は隔たれてるから。イブキが扉を開けたり、自分から招き入れないかぎり。入っては来ないよ。所詮は低級ってところかな」

  そう言う管狐は、一度たりとも俺が招き入れた記憶がないにも関わらず。平然とどこにでも着いて来たが。深い所で繋がっているというのは、本当なのかもしれない。逃げ場のないこの状況に怖いと思わなくもないが、このままやり過ごせば入っては来ないと知り。上がった心拍は落ち着きを取り戻していた。そういえば意識を失う直前。こいつが居たような気がする。あの時、すぐ亮太郎が抱え起こしてくれたのか。手を出されたりとか、何かされた。とかはなかったが。妖に好かれる体質故か、相手がどういう目的で近づいて来るのか。不明なまま、気味が悪かった。表情も読めぬとなれば余計に。

  じっと息を潜め。居留守を続けていると。扉の外の気配が遠ざかるような気がした。足音なんて聞こえないから、本当にそんな気がするだけ。

  「いったね」

  俺の感覚を肯定するように管狐がそう言うと、息を詰めていたから。ふぅ、と。安堵していた。そういえば、こいつが追い払えばもっと早くあいつは去ったのではないかと。そんな事にすら遅れて気づく。イブキ、ビクビク怯えて可愛かったよって。俺の顔の周りを飛んでいるから。多分本人も気づいている。この野郎。やっぱり一度引っぱたいてやりたい。妖にも躾けってできるのだろうか。険しい顔をして睨んでも、どこ吹く風。この管狐が俺程度の視線で怯えたりはしない。

  コンコン。

  また俺の入っている個室がノックされる。こんどは優しく、控えめに。戻って来た。まだ諦めてなかったのか、あいつ。一緒になって扉の方に向いていた管狐。隙あり。背中を向けていたのだから、簡単に俺はその小さな身体を掴む事に成功する。普段は軽く指先で撫でたりする程度だったから、こうしてかなりぞんざいに扱うのは初めてで。そして俺はこれからこの管狐を野球ボールの如く、扉の外に向かって投げるつもりだった。大丈夫、扉にぶつかる事なく。こいつの身体はすり抜けるだろう。俺以外には触れられないのだから。そんな確信があったから、遠慮なんてなかった。いくら小動物の姿でも、喋るし、知性はあっても。中身はわりと畜生だ。狭いトイレの個室で投擲ホームをするにはちょっとやり辛い。投げた先、あの影の妖にぶつけてやろうという俺の魂胆。

  「伊吹くん、大丈夫ですか?」

  俺が管狐を無慈悲に投げつける前に。とてもよく知る人の声がした。最近一緒に暮らしている男のそれに。もしもさっきの奴が声真似してるなんて、そんな登場人物を油断させるよくあるホラー展開にまさかなと。扉を睨む。でも何となく、間違いないと予感がしていた。俺の勘が。握っていたふわふわを放り、ガチャリとスライド式の鍵を開錠し。扉を自分から開けていた。すると、佇んでいたのは月路さん。狼の顔が心配そうにしており。もう一度ノックしようとしていのか、片方の手が手の甲をこちらに見えるように固まっていた。内開きだからよかったが、外開きなら思いっきりぶつけていただろうか。

  どうやら、学校側から連絡がいっており。それで室内用のスウェットのまま着替えもせず、一応家事の最中ずっと着ているエプロンだけは脱いで来たみたいだが。車をかっ飛ばして、といっても渋滞に巻き込まれそれなりに時間を要したのか。俺が倒れてから学校に到着するタイムラグ。その間に繰り広げられたイケナイコト。見られなくて良かった。

  月路さんの方は心配する気持ちだけ、気が気でなくやっとの思いで学校に来たはいいものの。俺が保健室には居らず。探し回っていたらしい。倒れたのに動き回るなと、叱られるかと思ったが。俺の様子と、そしてトイレに入っていたからか。事情を知る月路さんだからこそか。それとも保険室の先生すら狐野柳の関係者で何か言われたのか。目線の行く先、俺のお腹を気にしているようだった。

  「その。伊吹くん。大丈夫ですか、吐き気とか」

  言葉を濁し、狼の顔が直視しないように逸らされた。取り合えず帰りましょうと、無骨で大きな手が控えめに俺の手を取る。どう答えたものか、言い淀むが。一応、下着を汚してしまいました。とだけ伝えた。どの道この人に隠しても、洗濯とか家事を全部任せてしまっているので。遠からず今日中には知られてしまう。ならば、直接的な表現を避けながらもどうにか伝えたかった。

  ぱたぱたと、狼の耳が震え。月路さんの黒い鼻の縁が赤く染まる。反応から一応正しく伝わったらしい。

  「その、見つけたのが古い文献であまり保存状態がよくなく。多くは読み解けませんでしたが、伊吹くんと同じ体質の子は大昔にもいらしたので。私なりに、ですが。思いつく限りの物は準備しておきました。人によっては生理に似た症状。血も、出たりするらしいので。家に帰ればナプキンもあります」

  え、嘘。用意周到なこの俺の保護者はそこまで、事前準備してくれていたの。嫌すぎる。というか、話しが急に生々しくなってきた。嫌すぎる!

  俺、男なのに。もしかして使わないといけないの。生理用品。血が流れたわけでもないのに、ふらりと立ち眩みに似た。気が遠くなる思いだった。俺の動揺に余計月路さんを心配させてしまう。彼の口からそういった物の名称が出てくるのも嫌だというのもあった。その使用する対象は俺で。そして用意してくれたのは月路さんで。

  一緒に暮らしているせいで、何もかも知られている。年頃の娘さんの気持ちが少しわかった気がする。異性。ゲイである俺にとって、同性は異性みたいなものであるからして。だからこそ、歳が離れたこの人に下の話。性根がとても真面目であり、あまりそういった話題とか無縁そうなのに。オナニーとかプライベートな部分を真剣な顔して気遣ってくれるし。そして俺の身体を心配してなのだろう、そういう部類の話題が狼から出る度に。頭が痛くなってくる。頭痛が痛いがネタでなく当てはまるぐらいには。何からなにまでサポートされてしまう。そして俺の現状置かれた立場と、身体は。それを残念ながら必要としていた。……そういえば、お喋り好きな管狐はトイレの床で目を回して伸びている。誰がやったのだろうか、可哀想に。

  歩けますか。無理そうなら抱っこしますがと。そう提案してくる男性から丁重に断りを入れている時。それは起きた。高校生にもなって、抱き上げられるとかごめんだというのに。彼の逞しい腕はそっと俺を抱えようと既に伸ばされており。少し月路さんが屈んだ事で、自然と俺との距離が近づくのだから。

  大丈夫かと気遣い。眉を八の字にして、耳を倒していた狼が。スン……、って真顔になる。本当に、漫画とかの表現でもある。表情の急な移り変わり。それが目の前で、月路さんの表情筋を使い。なされた事に驚くが。それより、ひくつく黒い鼻に嫌な予感がした。最近、俺の嫌な予感って外れた試しがないんだよな。だんだんと険しく、月路さんの眉が八の字からキツく吊り上がっていく。

  「伊吹くん。お友達を作るのは大変喜ばしい限りですが。不純異性交遊は感心しませんね、それも転校してそう経たぬ内に。君がそんなにプレイボーイな子だとは私知りませんでした!」

  珍しく、月路さんが怒った顔をしていた。普段は垂れ目な為に、ニコニコしていると。狼らしからぬ温和さを持っているのにだ。今だけは、その種族的特性を遺憾なく発揮していて。今にもグルルと唸られそうだった。現代社会において、獣人が吠えたり、唸ったりといった行動はされないし。マナー的にもよろしくない。本能的にするともならない。尻尾の制御は子供の頃に親からだいたい躾けられるらしいが。衝動的にやってしまう行動などその程度だ。俺の身体に残る誰かのにおい。そして言ってはなんだが。精液の残り香を嗅ぎ取ったのか、月路さんは叱る姿勢になっていた。俺を抱き上げようとしていた腕は、今はもう彼の逞しい胸元で交差し。腕組して、人間に対して仁王立ちというポーズを取っている。ただ外行きの時、慌てて出て来た為に普段着ているゆったりとしたスウェット姿であるから。迫力はその点で言えば半減していた。彼の顔だけ切り取れば肉食動物の怒り顔は十分過ぎるとも言えたが。

  身体の変化と、そして性欲も強くなる場合もあるからして。心配して飛んで来たのに。倒れた本人はお友達とイケナイコトをした後だとばかりに。そう言いたげに、というよりそう思っているのか。腕を組んだ月路さんの人差し指が抱えた苛立たしさのまま、トントンと早いテンポで二の腕を叩いていた。セックスとかしていないし、性欲のまま誰かとそういう。別に女生徒とそのような行動には及んでいない。男子とはしたが。

  フェラは、しましたね。

  しかも俺が咥える形で。口臭でバレたのなら一巻の終わりだ。制服、晴喜の精液で多少太腿の部分とか汚れてるし。そして背中が少し爪で破けているらしい。あの野郎。ゲイであると告げていないせいか、月路さんは俺が女の子とそういういかがわしい事をした後だと誤解したらしい。だとしたらどれだけ激しくやったと彼には映ったのだろうか。マズい、これは非常にマズイ。どう考えても言い訳が苦しい。いや、包み隠さず。男友達のチンポ咥えましたと言ったら、それはそれでマズイ。というか、プレイボーイって。女性の方に積極的に関わろうとする、遊び人とかそういう意味合いらしいけれど。それってもう死語ではないのだろうか。そんなツッコミを挟む余地、怖い顔した月路さんに対してできよう筈もなかったが。

  小便器が隣に並んだこの場で。ゆったりしたスウェットといえど鍛えた筋肉を隠しきれていない狼に、新品の制服を早くもほつれさせ。ズボンをいやらしい液体で汚した人間が叱られるという。なんとも酷い絵面が繰り広げられていた。あのハスキーがこの場に居たら、さらに状況は混沌と化していただろうから。居なくて正解でもあった。

  結局。身体の残り香は保健室まで運んでくれた友達であり。トイレではその、身体の制御ができず。自慰してましたと、そう嘘をついて月路さんを納得させていた。誰かと性行為に及んだ、ふしだらな人間と。狼の中に刻まれる事は避けたが。我慢できない程に。身体の変化に戸惑い、コントロールできなかったのかと。違う意味でふしだらな人間として見られてしまったと思うと。なんだか、もう、厄日だ。

  軽蔑されたりはしなかったが。月路さんに連れ帰られ、自分の家。マンションに帰って来てからはある意味更なるなる地獄が待ち受けていた。

  親切丁寧に、ナプキンの使い方をレクチャーされるとか誰が予想できただろうか。どんな羞恥プレイだ。そしてなんでそんなに詳しいんだ。この狼も男である筈なのに。そんな疑問は、妻が居るのでという爆弾発言が飛び出して来て。俺の心は荒れ狂った。

  え、既婚者だったんですか。貴方。

  だというのに、俺に付きっきりで。他の家に帰る素振りこれまでなかった。問題ないんですかって、当然の疑問は離婚済みという。更なる爆弾発言で消し飛ぶ。

  「私の仕事柄。どうしてもあまり家に帰れませんし、それに。喧嘩ばかりでしたので、出て行かれてしまいました」

  そう語る狼は、どこか寂しそうにしていた。そんな相手に対して、どう声を掛けていいかもわからず。お互い正座し、そして間にはナプキンとか生理用品が広げられているので。そんな空気に持ってこられても正直ちょっと困った。そんな話は置いておいてと。わりと需要な話を、事も無げに。月路さんはまた、説明の続きを再開するし。

  聞けた内容を整理すると。月路さんもまた、祓い屋。妖を退治する仕事をしていたのもあって、日本各地に出張ばかりであったらしい。それに嫌気がさした奥さんが、私と仕事どちらが大事なのだと。よくある内容な喧嘩を繰り広げ。実際に月路さん自身も、あまりにも家庭を顧みなかったから私にも非はあると。今だからこそ後悔はしているらしい。離婚した後で、仕事中大きな怪我をして。その優先していた仕事すら半分引退みたいな状態、事務仕事とかばかりをこなしていたら。俺の世話兼護衛という仕事が舞い込んだと。

  家事スキルはもしも次再婚するのを見据えてとかではなく。やりだしたらついつい熱中する性格のせいか。家事にのめり込み、結果メキメキと上達したらしい。現に今、俺の胃袋は月路さんにがっちり掴まれている。だって、この人の料理。美味しいし。怪我した内容とか。奥さんがどういった人とか。所謂詳細、結婚生活が何年続いたとか。そういう細かい部分は聞けなかった。俺が彼の過去に気持ちが逸れていると。白い円筒状の、タンポンって言うらしい。本来は女性の膣内に挿入して、生理の際の経血を吸収する役割があるとか。それを手に握りしめた月路さん。成人男性、見た目三十代過ぎの狼が生理用品を持って正座している姿は誰かに見られたら通報されかねない。

  「伊吹くん。ちゃんと聞いていますか。貴方の身体にかかわる大事な事ですよ」

  ええと、正直。聞きたくは、ないです。

  世の女性の方は大変だなという気持ちと。やっぱり俺の身体の状況次第ではこれらを使用しないといけないのかと、とても真剣に説明してくれる狼を目尻に。遠い目をするしかなかった。なんでそうまで、恥ずかしがらずに説明できるのだろうか。月路さんが天然なところがあると知ってはいたが、それがこういう形でも発揮されているとも言えた。

  聞いてるだけの俺はずっと恥ずかし気持ちでいっぱいで。もしも使うとなった場合。これから男子トイレで誰にもバレないように使う、そんな嫌な未来を想像して。吐き気ともいえないものがこみ上げる。胃が、むかむかする。あのハスキーのせいでまだ胃もたれしているわけではなかった。

  結局、気もそぞろなせいか。俺の体調が優れないと感じたのか。ある意味それは正しいのだが。月路さんは大事を取って明日は学校を休むように、私が連絡しておきますねと言うのだった。

  転校して初の平日の休み。仮病でもないが、風邪でもない俺の初のズル休みは。そんなもので消費された。かといって、休むといっても。普通に問題なく動けるぐらいには回復しており。そんな状態で家の中でゴロゴロしているので、かなり時間を持て余す事になった。普通の休みなら、そのまま本屋とか。ゲーセンとか、娯楽施設にたまには行くのも良いかもしれないとか思えたのだが。一応俺は病人という扱いで学校を休んでいる為に、それでばったり知り合い。学校に通っている生徒に目撃されたら目も当てられない。だから強制的に自室に居るしかなく。そして買い出し以外家から出ない月路さんが、ずっと見張っているので。結局は出られないのだが。ベッドの上で、ただただ晴喜の事を考えていた。あいつは、ちゃんと学校に来れているか。もし来て居たら、俺は休んでいるから気にしていないだろうかと。自分のせいで、とか。そう思っていないだろうか。会いたいかと言われると、正直気まずいが。それでも、相手を責める気もなかったのだから。俺は普通の顔して登校するべきだと思っていた。

  意味もなく携帯を触り。ネットサーフィンに明け暮れていると、不意に振動と通知音。そしてアプリのアイコンに通知が一件だと表示される。続けざまにそれが繰り返された分だけ、アイコンの数字が増え。何だ何だと、そのモバイルメッセージアプリをタップして画面一杯に表示すると。虎のアイコンと、亮太郎の名前。そこから続く、こちらを心配する文字と。涙目の動物のスタンプ。半ば強制的に彼と連絡先を交換していたのだが。どうやら気にかけてくれたらしい。

  鬱陶しい虎の顔が思わず浮かんで、くすりと笑ってしまう。そうすると隣で寝ていた管狐が身を起こし画面が見えない位置だからか、俺の行動に不思議そうにしていた。

  画面を素早くタップし、問題ない。保護者である月路さん、あの車を運転していた狼の人に今日は休みなさいと言われて休んだだけだと。そう返事する。入力して送信した瞬間、既読の文字が表示され。そう間を空かず。そうか、良かった。晴喜も心配していたと。俺の入力した文字が上にスライドしながら、亮太郎が打った文字がタイムラグなく表示される。

  あのハスキーは、ちゃんと登校できたんだと。つっかえていた物が少しだけ軽くなる。何かあったのかって、内容は知らないのだろうが。恐らく晴喜の様子から何かしら察したのか、亮太郎からそんな質問が飛んでくる。あの時用事があって、着いててやれずごめんなって。そんな言葉も。あの虎に、俺にそこまで気にかけたりする必要もない筈なのに。最近避けていたのもあって、そうされて後ろめたく感じた。聞く限りでは倒れた時、駆け付けてくれたのは彼であるのだから。

  運んでくれた事を一日経って。それも直接ではなくメッセージアプリを介してだが。礼を言う。本当は電話の方が良い気がしたが。無理をするなと、月路さんの言う事を聞いておけと。先んじて亮太郎に言われてしまっていた。もしかしたら、手っ取り早い電話ではなく。最初からメッセージアプリなのも、体調が悪くて寝ているかもしれないと。そう気遣ってなのかもしれなかった。元気だせよって、腕を掲げた動物のスタンプがぽこぽこ押される。

  今日は休んでしまったが。明日は登校する事と、それと隣に居るだろう晴喜に。昨日はごめん、それとありがとうと伝言をお願いする。後は、明日会って直接話さなければいけない。連絡先、知らないし。

  誤解をそのままにしているのは良くないというのもあったし。会いたくないという俺の我儘な気持ちは押し殺さなきゃいけなかった。正直逃げたいけど。でもそうしなきゃいけない、責任があったのだった。

  それと晴喜という。ハスキーの子を、俺はそこまで嫌っていなかった。あんな事。言ってしまえば、チンポを咥えてしまったが。屈託なく笑いかけて、話しかけてくれて。そんな人が後々、俺の事を気持ち悪く思ってやしないだろうか。それか、先生に報告。親、この場合月路さんになるのだが。に相談したりして。彼の学園生活が脅かされないか。不安でたまらないかもしれない。取り払ってあげたかった。俺は嫌われたとしても。最悪、ゲイであるとカミングアウトも視野に入れて。そうした場合、亮太郎にまでバレて。せっかくできた二人の友達が一瞬で無くなってしまう可能性もあったが。

  それはもう、しかたない。俺自身が言動を気を付けたところで、一度相手が聞いた言葉はどう他の人に伝わるか制御などできないのだから。ゲイである限り、そのせいで人が離れていくのなら。止める方法はない。それは、今は保護者で居てくれる月路さんも例外ではなかったが。俺という本質は、その場は取り繕えても。変えられない。

  まだ、月路さんは狐柳家。真由理という男といずれ子供を作るという事情を知っている状態が先にあるので、そうならない可能性もあるのだが。でもやっぱり気持ち悪がられるかもしれないが。彼にすらそう思われたら、俺という存在は。本当にこの都会で、真の意味で人々から拒絶され、独りぼっちになるのだろうな。

  たまに部屋に月路さんが様子を見に来る程度。昼休みの内に亮太郎と連絡したきり、俺の携帯は静かなものだった。ベッドに仰向けになり、お腹に握っている携帯を置くようにしながら。ずっと触っていたせいで端末が温い。籠った温度から、何もしなくても汗ばんでいた。田舎と違い都会の方が日中の暑さが異常に感じる。

  そういえば、獣人である月路さんとは。エアコンに関して些細なバトルを繰り広げる事がしばしばあり。どうしても人間と違い、獣人は毛皮があり。その上で服まで着込んでいるのだから、辛いらしい。記録的な猛暑日など、舌を出しながらふらふらと街の中を歩くサラリーマンらしき獣人の姿なんて珍しくもない。それは、月路さんとて例外ではなく。冷房は基本最大までぶん回す事が多く、それで冷えた室内は涼しくていいのだが。真冬の如く、冷え切ったそれは度が過ぎており。人間の俺は冬服なんて衣替えの季節でもないので、どうしても冷えすぎると寒くて震えてしまう。だから、そっと温度を上げると。見ていない隙に月路さんがまたこっそり下げるという行動が繰り繰り返されのだった。自分一人なら、家の中ならパンツ一枚でうろついたりできるのだろうが。俺という同棲相手、面倒を見ている人間がいるので。常識的な面で、彼はそういった姿にはならず。家の中でもちゃんと服を着ている。だからこそ。テレビのチャンネルバトルみたいに、エアコンの温度設定を巡って日々争うのだが。寒いものは寒い。今俺の部屋でも最大まで温度設定を下げたとしても、冷えてきたらある程度上げるのだ。一度最大まで落とす理由は、少しでも冷えるのが早くなる気がしてという理由だったりする。自室なら、文句を言うのは自分自身しかいないので。どうとでもなるが。共有スペースとなるリビングでは別だ。

  自分の部屋のエアコンに働けと命令を送信すると、ごうごうと冷やされた空気を送ってくれる機械のお陰で。みるみるあの暑さが嘘のように、部屋が涼しくなるのを感じながら。月路さんとの日常に思いを馳せていた。最初は本当にどうなるかと思ったのに。胃袋を掴まれた今、ちょろいものである。甲斐甲斐しく世話をされて絆されたともいえるが。優しい大人の男性だった。

  結婚。してたんだなって。あの人。そして祓い屋をしていただなんて。となると、月路さんにも視えているのかと、暑くても寒くても平気そうに自由気ままに過ごしている管狐を起き上がり、見下ろす。どうして、こいつの存在には気づかないのだろうか。俺と同じ世界が視えているのなら。視える部分にも、力の差というやつがあるのだろうか。

  なら俺が小さい頃からあった、他人と違う普通が。他人からすると異常が。誰にも相談できなかったあれこれが。彼にならできるのだろうか。ゲイという部分を除外して。どの程度を話してよいか。この部分はよくよく見極めないといけなかった。でなければ俺の立場は容易に崩れてしまう。それまで笑顔で接してくれていた人が、突然掌を返したように。拒絶してくるのは耐えがたいとても傷つく。私はそういうのに偏見はないよって言っている人が、隣に居る人が実はと打ち明ける。そうなった時、嫌悪感を隠しきれていない顔を見せたりなんて。遠くの存在、所詮は他人事。当事者になった途端、本質はそうではないなんて。ゲイなんだ、別に良いんじゃない。でも俺に恋なんてするなよ。なんて無自覚な言葉が。

  俺は、両親にすら打ち明けてないのに。こういった体験談や、聞こえてくるあれそれに振り回されて。より臆病になっていた。予防線を張り。自分の本音を隠し。ゲイではない自分を演じる。恋人が欲しいと思っているのに、結局。嫌われるのが何よりも怖くて、踏み込むのをよしとしなかった。自分が妖を視えるというのが、よりその予防線を強固にしていった。

  だが、それを踏み越えて来る奴というのが突如出現して。友達だと言ってくれて、嬉しいのに。俺の取っている態度というのは、どうなのだろうか。自分の作った決まり事に雁字搦めになって、踏み込まない。踏み込まれないように。そうすれば、バレずに済む。リスクを負わなければ、他人と関わらなければ。自分がゲイであると、誰も気づかない。

  でも俺の心の中に無断で入って来る奴。亮太郎と、晴喜。そして月路さんがそれだった。あの狼の獣人は、雇われであるのだから。どうしても関わるなと言われてもしかたのない部分が多く、生活を共にしているのだから。ふとした、油断した一面というのはあるのだった。そういう時であっても、どうしました。伊吹君。そうやって、温和に笑いかけて来る大人の男性が傍に居るのだから。困ったものだった。

  転校初日から、話しかけて来た集団。最初は質問攻めしてくる有象無象とは違い。鬱陶しいと感じているのを察し。日除けのように。だがそれが終わった後も、クラスの皆が興味が失せた後でも。まだ関わって来る。あの虎がわからない。月路さんは仕事。だが亮太郎は違う。メリットがない。俺に。面白い話題も提供できず。学校で会うだけ、下校を共にするわけでもない。休み時間にだけ喋る程度の関係。それだけだ。それだけなのに、友達と言い。関係を続けてくれている。

  友達、か。自分に関わって来る人がどうしてそうするのか。メリットとか、裏があるんじゃないかと。疑ってしまう、そんな自分。携帯の画面をもう一度見やれば。開きっぱなしのメッセージアプリ。親指で画面を上にスクロールして、一度読んだ文をもう一度読み進める。俺の中で、だんだん存在を大きくする人達。こういうメリット、デメリットで物事を考えてしまうのがいけないのだろうが。

  でも、だからと、わからないんだ。相手がどうして優しくしてくれるのか。その笑顔の裏が。

  友達を作らないでいた期間が長ければ長い程に、人付き合いが下手になってしまった。心が、言葉が、どうしてもつっかえて。凝り固まってしまう。どう接していいのか。こうされたから、こうしないと。与えられた分だけ返すだけ。そんな気持ちはあっても。友情を正しく理解していない気がした。だからこそ、俺は。恋人なんて夢のまた夢であり。孤独な時間をこれからも無作為に使うしかないのだった。

  ゲイである時点で生き辛いのに。自分から道を狭め、歩きを遅くし。立ち止まっている。田舎で、両親と暮らしているだけでは。引きこもっていただけでは。気づけなかった事だった。自分を見つめ直す。いい機会なのだろうか。親元から強制的に離されて。生活の保障は今の所あるのだから。ああ、そうだ。参加する部活も決めないと。身体を動かすのは嫌いではないが、かといってスポーツは苦手だ。練習して、上手くなろうという気概。そこまで熱中する程に、好きなスポーツなんてないのだから。なら文系の部活とか。そういったものに参加するべきか。どうするか。未所属は駄目だろうか。別にバイトが禁止されているというわけでもない。学費を、それとも生活費を稼ぐ為に。学校が終わった後でバイトをしている生徒もいるらしいし。偏差値が高いわりに校則は緩いと感じた。

  元々通っていた高校は部活動には力を入れていて。運動部のやる気は凄かった。俺にそういった熱意はないので、ただやってるなって。暑苦しい連中を遠巻きに見ていただけだが。

  未所属で、バイトもせず。ただ家に帰るだけ。高校生活がそれで良いのか、とも思わなくもないが。そうか、独り立ちを目指すなら。バイトして社会勉強も一つの手なのか。

  そんなふうに。また狐野柳家から逃げる手段をどうするか考えていると。玄関の方からチャイムが鳴る。誰か来たのだろうか。それで慌てて出るような真似なんて俺は当然しない。家に訪ねて来る知り合いなんて存在しないし。亮太郎にすら、まだどこに住んでるかも教えていないのだから。ならば、訪ねてくるのは宅配業者か。月路さんの知り合いぐらいしか思いつかないのだった。

  のんびり構えていると、ぱたぱたとスリッパを履いた足音が俺の部屋の前を通り過ぎ。玄関を開け、微かに誰かと話す月路さんの声が聞こえる。それで終わるものと思っていたのに、慌てたような月路さんと。一人分増えた足音が聞こえたと思ったら。バーン、そんなふうに勢いよく開く俺の部屋の扉。ゴロゴロしているだけの俺はまたベッドに横たえていた身体を飛び起こさせるには十分な出来事だった。

  「伊吹、お見舞いに来たよ」

  持っている籠をゆらゆら揺らしながら自分の顔の高さまで掲げる、想像だにしなかった。金狐の顔。いや、彼の家の事を考えていたから。全くとはならないのだろうか。細めた目と、ノックすらせず勝手に入って来た。随分と背の高い男性。学生服を着ている真由理と。その後ろでムッとしている狼の顔。多分、止めたのであろう。月路さんが何か言いたげに、真由理の後頭部を睨んでいた。俺に見せた後で、くるりと振り返ると。持っていた籠を月路さんに押し付けて。中身は、見えた限りでは林檎とかあったから果物らしい。金狐の顔がニコニコしながら邪魔しないでねって、そう言うと。狼が苦虫でも噛み潰したような顔をし。渋々引き下がっていた。台所の方に消えていく、籠を渡された男の後ろ姿に。どうやら立場的にはやはり、逆らえないのだなって。そのやり取りを黙って見ている、俺と白毛の管狐。

  「未来の番がわざわざ様子を見に来てくれたってやつだね、イブキ」

  状況をそう解説する管狐は、楽しそうだった。俺は何にも楽しくないし、何で来たんだよって。歓迎する気持ちなんてこれっぽっちもなかった。俺の部屋を見回しながら。何もないねって呟いている真由理。引っ越して来て、そこまで物が増えるわけもない。机の上に復習にと、ノートとかが広げられている程度だ。元々あまり物を置かないから、これから増える気もしていないが。

  「聞いたよ、伊吹。倒れたんだって? 大丈夫かい。やっぱり、あの時顔色が悪いと感じたのは間違いじゃなかったんだね。気づけなくてごめんね」

  近づき、ベッドの縁に座る俺に対し。真由理は目の前まで来ると屈み、目線を合わせてくれる。そうして、また頬に無断で触れようとするから。触れられる前に、俺の手が遮った。糸目だった、こいつの目が。少しだけ開き、そうした俺の手を見つめる。

  「嫌われたものだね。僕、君にまだ何もしてないのに」

  「かってに触んな」

  してるだろ、そうやってすぐ触れて来る。俺は、この男がどうしても気に食わない。こうして無遠慮に勝手に触って来るのもそうだし。妙に馴れ馴れしいし。許婚という立場であるが。亮太郎達よりも喋った時間がとても短い。それでいて顔合わせの時。こいつは、僕を愛せと。そう言ったのだった。それが一番、楽な道だと。そう示して。そして倒れた原因も。真由理の強い陽の力に反応したからというのも知った今。どうしても、こいつを好きになれなかった。俺の中でいけ好かない奴となってしまって。馴れ馴れしいのは亮太郎とかもそうだったが。比べてしまうと俺に対して狐がするのと虎がするのは違うのだった。

  心配なら、その日の内に来れば良いじゃないか。同じ学校に通っているのだから、耳に入ってもおかしくはない。次の日、服装から学校が終わった後で。見舞いの品を持って来てくれたのだろうが。どこかそれが、形だけのように思えてならない。形式に添ってしているように。俺に手を弾かれて、顔色一つ変えず。口角を上げたまま、笑顔を崩さないのも。より、薄気味わるいものを感じるのだった。

  「仮にも、こうしてお見舞いに来た。許婚に対してする態度にしては。酷いんじゃないかな、伊吹」

  酷いなって、傷ついたとばかりに。やれやれと両手の掌を見せながら、首を振る。わざとらしい仕草。ああ、そうか。そこで気づいた。こいつ。真由理は、笑ってるけど。目が笑ってないんだ。目の前にある狐の顔を見ながら、薄気味わるく感じているその正体に。俺は漸く気づいた。管狐は、目も口元も、人を馬鹿にするように嗤うのに。笑顔という同じものでも、こいつはそれがない。なさすぎた。

  それに、不意に触れられて。また俺のお腹が。子宮が、反応するのを恐れたというのもあった。あの痛みがまた襲うなんて二度とごめんだ。原因が歩いて来たのだ。歓迎するよりも、どう追い返すかばかりを考えてしまう。

  「おかげさまで見ての通り元気だよ。だから顔見たなら目的は果たしただろ。さっさと帰れよ」

  一刻も早く、出て行って欲しかった。この自室だけは、脅かされたくない。誰にも。月路さんですら、入るのをあまり許してはいない。ゴミ箱のゴミも自分で出しているし。管狐は、拒んでもひっついてくるので諦めたが。嫌われたかった。こいつには。顔合わせの時、親に勝手に決められたらしいけれど。それでそのまま、許婚になってしまって。それを良しとしたこいつにも腹が立つし、それで愛せと言われたのも腹が立つ。お前のどこを愛せと言うのだ。よく知りもしない男を。別に好かれているわけでもない。なら、いっそ嫌われて。親に猛抗議して欲しかった。こんな茶番、付き合いたくもない。男同士で、結婚とか、子供とか。本当に何を言っているのだ。力がどうとか。俺は知らない、知りたくもない。今までも、これからも。巻き込まないでくれ。

  また、真由理の手が伸びて来る。それも両方。だから俺はそれを迎え撃つつもりで。弾こうとし。だが想像以上に相手の動きが早く、目に捉えるのもやっとの動きで。簡単に俺の両手は、彼の手に掴まれ。そしてそのまま、体重をかけるようにして押し倒された。俺と真由理二人分の体重を受け止めたベッドが軋み。呑気にこちらを見ていた管狐が、スプリングの反動でぽよんと吹っ飛んでいく。細いと感じていた見かけに反し、想像だにしない力が。しっかりと俺の腕をベッドに縫い付ける。部屋にあるただ一つの照明が遮られ、陰を作る。ギラリと光る、金が二つ。狐の鋭い目だった。

  「いいかげんにしなよ、伊吹。僕も怒るよ」

  足で蹴ろうと思ったが、真由理の膝が太腿に乗せられ。思うように身動きが取れなかった。激怒した、とは違う。また、つまらなそうに俺の顔を見下ろす相手はそう言いながら。ぎりぎりと握った部分にさらに力を入れて来る。あまりの強さに、両手首が鬱血しそうだった。細身に見えても、服の下はそれなりに鍛えられているのかもしれなかった。着痩せするタイプというやつだろうか。少なくとも俺よりは逞しいらしい。獣人は生まれつき筋肉が付きやすく、人間よりは力が強い者が多いとは聞くが。こいつも、そうなのか。不公平だ。

  「はなせよ!」

  身体を揺さぶろうとも、びくともしない。ただ覆い被さるようにされただけで、こうも簡単に無力化されてしまうものなのか。俺の無駄な抵抗を嘲笑うように、顔を近づけて。目と鼻の先に、この男のマズルがある状況。そしてまた、ふんわりと香る。それと、シトラス系の。香水か何かの良い香り。ずくんと、お腹が反応した。当たって欲しくはなかったが予想通りの結果に、内心冷や汗ものだった。表情には出さなかったが。

  「君に命令されて、僕が聞くとでも? 伊吹は僕の物なんだから、どうしようと僕のかってだよ。優しくしてあげようとしてたのに」

  人の好意を無下にするなんて、なんと愚かな奴だ。そんな顔をして、俺を見下ろす金狐。その態度と、物言いにより、俺の反骨心が過剰に刺激される。

  「俺は、物じゃねぇ」

  だが、どうやっても退かせられないのだから。力で敵わない相手に対して。既に組みつかれたこの状況では、そう言うだけしかできなかった。

  「そう。まあ、いいけど。伊吹。聞いたよ、さっそくクラスメイトを食べたそうじゃないか。とても淫乱なんだね」

  「なん、で、それを」

  「君の行動は全て筒抜けだよ。監視されてないとでも思った?」

  思ってもみなかった。まさか、晴喜との一件を。真由理に知られているのを。だとしたら。もしかして、月路さんにも。俺が、クラスメイトの。性器を咥えて、性処理した。それを。当事者以外に既に知られていただなんて。何よりも、否定したかった。違うと言いたかったが。言えなかった。言い返せなかった。違う、違うと。首を振るだけしかできなかった。淫乱だと言われたのが。晴喜を心配しながら、平静を装い俺のまだ不安定な心をその一言が抉った。真由理は、そう言った。事実男の性器を、咥え、精液を飲み干した俺を。とても淫らな奴であると。あれはしかたがなかった。だって、晴喜は。俺の気にあてられて。それで。

  「まだ夫じゃないとしても、もう浮気? 手が早いね、伊吹。暮らしていた土地でも、そうやって男を食い漁っていたの?」

  「ちが、違う」

  ゲイだけど、そんな事していない。誰かと性交渉なんて。誰でもなんて、望んでない。してない。やってない。俺の昨日のおこないを責めるような物言いをする真由理に、徐々に俺の安っぽい反骨心が折られていく。それに、子宮が目覚めたのも。昨日だ。男を、精を求めるように疼くのも。初めてで。どうしたらいいのか、制御もできず。今だって、真由理を。この男を身体は勝手に求めているのだから。それが信じられなかった。こいつの言う通り、淫乱な奴。そのままじゃないか。こんなにも心は真由理という狐獣人を拒絶しているのに。

  俺の手首から真由理の手が離れても、もう抵抗する力が入らなかった。相手の言葉を否定するのに必死で。ただ首を振り、違うと言うだけで。どう違うのか、理由も述べられず。片手は自身の上半身を支えるようにベッドに手をつき。もう片方の手は、俺の胸から始まり。徐々に下へと。服の上から手を這わされる。そうやって、服の裾。そこから侵入してくる男の手が、お腹。地肌に到達した途端。びくりと身体が跳ねる。嫌悪感が確かにあった。ぞわぞわと鳥肌だって立った。だというのに、臍の下はカッと熱くなる。真由理の手がそこに触れて、どうしようもなく歓喜している部位が。

  「何が違うの、伊吹。僕に触れられて、喜んでるくせに。ほら、本当は今すぐにでも。ここに、僕が欲しいんじゃないの」

  俺の顔を覗き込んで来る薄ら笑いをした、けれど目は全く笑ってない狐獣人の顔が怖かった。細かった糸目が開眼すれば、その瞳には今にも泣きそうな俺の顔が映りこむ。違う違うと、言うだけしかできない。すんすんと、顎から首筋にかけて遠慮なく嗅がれる。お腹を触られ、臍の辺りを弄られる。さわさわと男の手がそこにあって。ここ。場所を意識させられる。

  「伊吹って、なんだか良い匂いがするね。これも此処と関係があるのかな。悪くは、ないかな。これで顔も女っぽかったら言う事ないのに……」

  顔を逸らし、少しでもこいつから。狐の鼻から逃れたくて。そうしたら。耳に入って来る。目を瞑ってか、紙袋でも伊吹の顔に被せたら勃つかなぁ。お尻に僕のを突っ込むのか、やだなぁ。なんて事を何気なく呟く真由理の声。あまりにも生々しい話題と。俺がどれだけ淫乱な奴であるか、説明する相手に。俺はこいつを誘っているつもりなんてないのに。発せられるにおいは違うというのか。そういえば、晴喜もそんな事を言っていた気がする。俺の身体が変わっていく。目に見えない形で。身体の内側なら、それだけならある程度は隠せるのに。体臭まで変わってしまうというのか。そして極めつけは、俺の容姿。何よりも、性別に関して不満そうにする真由理の態度だった。

  そんなっ。俺は好きでこうなったわけじゃない。何でそこまで勝手な事ばかり言うのだ。確かに俺はお前の家に養われているのかもしれないが、別にお前自身には何も恩を感じていないし。許婚だなんだと、触んな、気持ち悪い。男を抱く趣味がないなら、触れてくれるな。放っておいてくれ。ならお前も許婚を解消する努力をしてくれよ。お父様とやらの決定に納得はしてないんだろ。だからさ。だから、もう、嫌だ。

  「……伊吹?」

  不思議そうな真由理の声。もう聞きたくない、出て行ってよ。出て行ってくれないなら、退いてくれ。そして俺が出て行くから。もう嫌だ。望んで引っ越してきたわけでもないのに。新しい環境を一方的に提供されて。好きでもない男と結婚しろ。だなんて、いくらゲイでも受け入れられない。たとえ異性愛者だろうと、よく知りもしない女性と突然結婚しろと言われて。はいそうですかと言えるわけもない。嫌だ。貴族とか、そういった風習があった時代とも違う。嫁ぐ先が予めあって、幼少期からそういった教育があったわけでもない。親が決めて、その日初めて会った男の人に嫁ぐなんて。昔の風習は終わったのだ。現代において。もう嫌だ、嫌だ。そんな感情が後から、後から溢れて来る。それは形となって、俺の目尻を濡らすのだ。頼むから退いてよ。

  「もう、やだぁ。家、帰る。帰して、こんなところ。嫌だぁ。お前と、結婚とか意味わかんない」

  情けなくも、本当に、情けなく。俺はそんな事を言いながら、この男の前で泣いていた。涙を流しながら、不満を垂れ流す。所詮はただの泣き言に過ぎない。ずっと黙って、流されるままだったのに。今となって、手遅れなのをわかっていても。言わずにはいられなかった。溜まりに溜まった不満が、溢れて、溢れてしかたがない。どうして俺なんだよって。別の奴じゃ駄目なのかよ。俺の容姿に不満なら。男なんて抱きたくないなら、別の奴を見つけてくれよ。そうしてくれよ、お互いの為に。そうした方がいいのに、なんで俺なんだよと。伊吹。そう呼びかけて来る相手の顔をこっち見んなと手で押し。掌には真由理の黒い鼻の湿った感触や、髭がツンツン当たって折れ曲がる。この時ばかりは、ぼやけた視界ながらも。真由理の表情は崩れていたように思う。俺の姿にただただ呆気にとられたとも見えたが。それはそうなのかもしれない。だって高校生にもなって、こうもみっともなく泣き喚いてるのだから。辛い、辛い、辛くて堪らない。何もかも勝手に決められて。俺の人生を滅茶苦茶にしようとするのか。その上そんな酷い事ばかり言うのか。

  遮られていた光が再び降り注ぎ。かえって眩しい。真由理が膝立ちで身を起こしたからだ。俺の乱れた服を丁寧に直してくれるその表情は、どこかバツが悪そうだった。

  「あー、ごめんごめん。謝るから泣かないでよ。別に泣かせたいわけじゃなかったんだ、伊吹。本当だよ? でも伊吹も悪いんだよ、僕がいながら他の男とそういう事をするんだから。ちょっとお仕置きしてやろうと思っただけなのに、まさか子供みたいに泣くなんて、さ……」

  俺の服を直し終えると。ぽんぽんと、できたと。軽くお腹をあやすように叩いてくる黒い狐の手。泣き喚いた事を指摘され、咄嗟に自由な手を使い。顔を隠す。自分の年齢を考え、した行動を、どうしようもなく恥ずかしくなった。まるで、幼児だ。未だ、頬を伝うもののせいで。伸びて来る真由理の手は、表情は隠せても、隠しきれない俺の頭を撫でようとしてくるし。やめろ、馬鹿。

  「どうしたら泣き止んでくれるの、伊吹」

  人の髪を乱して覗き込んでくる男の顔を、見んなって小さく呟き。顔を別の方向に向ける。そうすると、そちらの方向から回り込むようにしてまた覗き込もうとする真由理。お仕置きとか、いくら許婚だとしても。お互いに納得していないにも関わらず。それで、彼に怒られる理由がわからない。放っておいたらいいではないか。身体だけの関係で、それで良いのではないか。それを望んでいなくても、勝手にそう思い。真由理を尚も拒絶する。泣いてしまった手前、今は相手の顔を見れないというのもあった。

  「んー、じゃあさ。これならどうかな」

  どうって、何がだよ。ぞんざいに、だんだん面倒くさいと思い。このままふて寝でもしてやろうかと、掛け布団を自分の覆った腕の隙間から探していると。そんな声を掛けられ。動きをみせない相手に。というより、顔を見られないように腕で隠してるから。俺も相手が見れないのだと気づき。そっと、自分の腕を退ける。そうすると見えたのは、困ったふうに。片耳を倒した狐獣人の顔であり。そんな相手と、俺の顔の間には。小指だけを立てて、その他の指は握られた不思議な状態の彼の手があった。だがその意味するものを知っていて。知ってはいても、それをどうして今するのかがわからず。困惑する。

  「僕は、学校を卒業した後でも君の合意なしに性的に手を出さない。そう約束するよ」

  思ってもみなかった提案であった。俺はこれから先、この男に。この身体を、好き勝手に使われるものと思っていたから。そして真由理自身も、俺の事を自分の物だと宣言していたのに。物に対してする約束ではなかった。初めて、彼が。俺を見た気がした。おずおずと、俺も差し出された狐の手と同じように。小指だけ立て。そして相手の小指に触れさせると、くっと折れ曲がり。軽く絡む。

  「約束」

  「信じられるかよ」

  ゆーびきりげーんまん。そうおふざけのようにして歌う相手に。小指を絡めた手を軽く振られながら。俺はそれでも言っていた。信用ならないと。これまでの言動、行動。全てにおいて、彼を信じられる要素に欠けていた。

  「大丈夫。術者にとって、約束ってかなり重要だから。破ったらそれ相応に痛い目に遭うし」

  本当なのだろうか。疑いが晴れない俺に対して、勿論だと頷く狐獣人。細められた目は、やはり信用に足りない。そういうふうに、相手を見上げていると。術者にとって、そういう初歩的な部分も伊吹は知らないんだねって。馬鹿にされた。俺の上から退くと、ベッドに座り、そして隣をぽんぽんと叩き。自分の隣に座るように促す彼の姿。

  「ちょっとお勉強しようか」

  糸目の狐は、何がそんなに楽しいのかこちらがわからないまま。口角を上げ、ゆらゆらと黄色と先が白い筆のような尾を揺らす。ベッドから弾き飛ばされて目を回していた管狐は、一連の騒動の内に回復したのか。ふよふよと泣き腫らした俺の顔の傍まで来ると、大丈夫? と頭を傾げていた。前足が片方、額に乗せられ肉球をぎゅむぎゅむ押し付けられる。ひょっとして先程の真由理がした真似だろうか。

  俺が促す彼の隣に渋々座ると、座学を教えるように。軽薄そうな態度とは裏腹に、しっかりとした知識が備わった物言いで。俺にこれまで誰も教えてくれなかった。祓い屋、陰陽、そういった事は聞きたかったのに。親からも、月路さんからも。そういった話題をずっと本能的に避けていたというのに。ついに知らされる。

  「伊吹の中で、まず呪術って。何だと思う?」

  呪い。呪術という文字の中に含まれるそれに。聞くだけで、不快感を催すぐらいには。あまり良いイメージが湧かない。だから印象のままに、真由理には。良からぬ事。呪われた相手にも、呪った人にも、良くない事が起こるものであると。呪術とはそういうものなのだと。先入観という印象だけで自分の考えを述べれば。やっぱりちょっとこちらを馬鹿にしたような表情に、先生としては腹が立つ奴だなって。その顔を睨み返すと、ごめんごめんと一応口では詫びていた。

  「そうだね。世間一般的には、呪術なんてそんなもので。逆にそれで良いと僕に教えてくれた先生も言っていたよ。おいそれと知識もなく扱うにはとても危険だから」

  ジェームズ・ジョージ・フレイザーという人類学者が唱えるフレイザーの呪術分類。狐の口から飛び出した、急に専門的な単語に。自室だというのに、ここは学校であり。この顔だけイケメンの部類に相当するであろう、糸目狐野郎は新任教師で。そして俺は、その座学を受ける学生にでもなったようだった。部屋着というラフな格好に対し、真由理は学校帰りにそのまま寄ったせいで学生服であるのも。そう錯覚させる要因であっただろうか。

  呪術には二つの原理。二つの類型があると真由理は言う。

  一つ。類似の原理。それに基づく模倣呪術。起きて欲しい結果に即した事を、模倣し、おこなう事で。起きて欲しい結果を人の意思で、行動で、誘導する。例えば。雨乞いで、火を起こし煙を上げるのは雲をイメージして。太鼓を打ち鳴らすのは、実際の雷雲から鳴る雷を彷彿とさせるからだ。雨音のように切り込みを入れた紙を棒に括りつけ振り。大地に少量でも水を撒くのは。

  一つ。接触の原理。それに基づく伝染呪術。かつて共にあった物は、たとえ今現在。離れていたとしても、互いに影響を及ぼし合うという考え方だ。かつて接触していた相手の物に対して、そうなって欲しいと願いを込めて。物に対して何かをして、結果を誘引するという。

  そこまで話を聞いて。思い浮かんだのは、よくある相手を呪い。藁人形に呪いたい相手の爪や髪を詰め。五寸釘をハンマーで打ち付ける老婆の姿だった。それを聞き、クスクスと口に手を当てて笑う真由理は。あってるあってると、肯定しながらも。肩を揺らしていた。

  だから、呪術とは。一種の化学反応。大気中に存在する僅かな水分子がやがて、空高く登り冷やされ雲になるように。こうして何もせず、座ってられるのも。重力下に置かれた僕らが、万有引力。地球の中心に引っ張られているからだ。起きている、目に見える全ての事象には。科学的に説明できるように。呪術にだって、そういった専門的な分野があり。類似科学と呼ばれるものであると真由理は語る。

  陰陽師とかそういうのがイメージしやすいかとなると。陰陽道において思い浮かぶ身近なものでいえば、安倍晴明とか。後世に語られるぐらい平安時代に活躍したとされる人だろうか。陰陽五行説に基づいた呪術と占術で森羅万象を読み解く。漫画やゲームで登場すると凄く強い人としてよく描写される。

  「現代にも残ってる、いざなぎ流。そっちと家は一応違うけど、まぁ、そんな感じ」

  こうも科学が発展した今、そんな非科学的な組織が他にも残ってる。それも複数。いつの間にか俺は、真由理の授業に聞き入っていた。どこか、突然ファンタジーとか。冒険物の物語に小さい頃に触れた時のような、ノスタルジックがそうさせたのかもしれない。娯楽ではなく、一応俺の身に起きているあれこれに対する。知識としてのお勉強であるのだが。俺から安倍晴明の名が出ると、隣で同じように。といっても退屈そうにだが、真由理の授業を聞いていた管狐がその時だけ露骨に嫌そうな顔をした。なんだか俺がゴキブリでも見た時に近い反応だった。

  「元を辿れば、唱門師。民間の、今で言うと自営業みたいなものかな。その陰陽師が起源なんだけど家も。才覚のある子が出て来て、名を上げて。世の裏方として、ずっと働いて来たんだ。伊吹も、今も視えているんだろう?」

  分家である憑守家も、狐野柳家と同じく。力を持つ者が多い。でもそれは今となっては過去になりつつあった。両親は視えていなかったから。俺しか、妖が視えていない。ちらりと、肩の近くに浮遊する管狐を見やり。俺の目線の動きをつぶさに観察していた真由理は、特にそれには触れず。そうだと、頷けば。満足そうにしていた。

  「良かった、力が弱まったりしてはいないんだね。子供の頃に視えていても、大人になるにつれ視えなくなる人も多いから。僕の先生も、今は視えないから。そういう人、増えてるんだ」

  どうやら、そういった力の衰退は。俺の家、憑守家だけではなかったようだった。でも視える筈の真由理であっても、月路さんと同じように。俺に憑りついている管狐は視えないのだなと心の中で落胆する。聞く限りは、陽の力がとても強いらしいこの狐獣人ならと。そんな期待も確かにあったのだ。

  「で、ここまで話して。問題! 伊吹がどうして男の身体で、どのようにして子を孕めるか。答えてみて」

  すっと指差された先、俺のお腹。真由理がそうしたせいで、俺は反射的に自分の身体を庇うように。お腹を隠した。臍でも取られそうだとばかりに。今までの流れで、俺の身体に関係するものはあったかと。新しく詰め込まれた知識と単語を並べ、必死で考えていた。俺が、こいつと、セックスして。本格的にそうしたら、どうしてそうなるのか。本来なら全く関係なさそうな今の授業内容に即している事。

  「……類似の原理」

  「正解! 呑み込みが早いね、伊吹。幼い頃から学んでいたら、きっと強い術士になったかもしれないのに。もったいないね」

  ぽつりと呟いた言葉に。パチパチと拍手する狐獣人。わざとらしい態度に、褒められているのにやっぱり人の神経を逆撫でる奴だなと。素直に喜べなかった。起きて欲しい結果に対して、模倣し。おこなう。この場合、起きて欲しい結果が妊娠として。それに必要なのは、性行為。生物学的に男女がするであろう繁殖行為である。だから、俺は。真由理の男性器を受けいれ、中に種を蒔いてもらう事で。呪術的に、妊娠するという結果がもたらされるというのか。ただそれにはそれ相応の力も必要であり。この場合霊力や妖力といった単語が出て来た。真由理からすると、それは気とか。名称としてはなんでもよくて、一応皆誰しも。多かれ少なかれ身体の内にある、目に見えない力を指してそう呼ぶに過ぎないとも。

  この世のあらゆる事象には、科学的に。そして未だ表面上では解明できぬ部分は術理的に、証明が可能である。

  「たまにテレビで瓦割りとか、肉体的に凄い人が居るでしょう。あれもそう。肉体の強化に無意識に、あるいは力の系統を変え教えとして残ってる。僕達術士は、肉体ではなくそういう術に重きを置いて。技として磨いて来たってだけ」

  属性とか、系統も区別すればかなり細分化されるらしいが。とりわけ、陰の力が強いのが俺。そして陽の力が強いのが、目の前に居る狐獣人である真由理。陰陽とは相反する力でもあるが、だからこそ。新たな可能性を生むのだと。陽に陽を足しても、力自体は増幅するが。良くない事も相応に増幅してしまう。生命や、治癒といった。育む力はとても扱いにデリケートであり。逆に何か、阻害する、壊すといった力そのものに際しては。及ぼす効力、対象に目を瞑れば。容易であるらしい。

  「それだけなら、別に俺じゃなくても。女とヤればいいじゃないか」

  誰しもが思う疑問を直接本人にぶつける。普通の男女がそうするように、結婚して。子供を産み、育てる。別に俺である必要は、今までの話の流れを思い返しても感じられず。拗ねたように、そう唇を尖らせるようにして言っていた。そうすると、ちょっとだけ。本当にちょっとだけ、真由理は。ずっと軽薄そうだった態度を薄め。糸目から金の虹彩が覗くぐらいには、開け。俺の顔をまじまじと見つめて来る。その相手の変わりように、少し怯んで。うって、尖らせた唇を戻し黙った。

  「付き合う女の子、皆。体調を崩すんだ。強すぎる陽の力に、負けちゃうんだろうね。触れるだけで、吐いた子だっているんだよ?」

  僕、顔は良いからね。モテるんだと。自慢話のように語られるが。内包する雰囲気は、どこか。そう、どこか。この男は寂しそうに感じた。そう見えただけで、これは俺の勝手な主観であり。真由理自身は一見すると、やっぱり笑っているし。酷いよねって、同意を求めて。笑い話のように話す狐の顔を見ながら。隣で聞いている俺は、少しも笑えなかった。

  そして一応試すだけ試した、精子だけ提供しての。代理出産。これもまた、受精が上手くいかず。一般的な医師の診断では精子の方に。つまり真由理の方に問題があると、告げられたらしい。別の方面、呪術的な分野の診断では。陽の強すぎる力が、卵子を破壊してしまう。陽とは増幅や膨張という一面も持っていて、それが悪さをしている。ただの陽の力を持つだけではそうはならず、真由理という。この狐獣人は、とりわけその力が強いせいで。悪い方向にも、作用してしまっている。

  昔と違い日常的に自分から垂れ流される力の制御もある程度はできるが。とりわけ興奮を伴う性行為や、体外に出てしまう体液。この場合は精子まで制御はできなかった。逆を言えば、自分の遺伝子を残そうとする時や。生命の危機に瀕した時、そういう時にこそ。生き物というのは力を発揮して高まってしまうのだった。

  ずっとそうだったのだとしたら。小さい頃から、そうだとしたら。彼の世界は。俺よりもずっと孤独だったのではないかと、ふと気づいた。俺を例に出して言えば、誰かと接触して。相手が体調を崩したりといった場面はなく。昨日、今この場において思い出したくはないが。晴喜と、そういった行動の中であっても。ハスキーは元気そうにしていた。気持ちよさそうに人の口の中で射精、していたし。あいつ。

  自分に置き換えた時。もしも、好きな子が居て。それは普通に可愛らしい女の子で。真由理の場合、狐獣人の女の子になるのだろうか。そんな子と仲良く話して、手を繋いだ瞬間。相手の体調が一変。眩暈や嘔吐をしたとする。どれだけ、衝撃を与えただろう。どれだけ自分という存在に、疑問視し。価値観がねじ曲がってしまうだろうか。触れるだけで、誰かを傷つけるのだとしたら。そして。普通に結婚して、普通に子供を作る。そんな未来が奪われたのだとしたら。

  俺は、ゲイであるから。そういった目線とは縁遠い、というか。はなから諦めている。男を好きになる以上は、望めない。だが真由理は違う、異性愛者なら。本来ある筈の、手に入る筈の幸せが手に入らないとなると。どれだけの落胆があるだろうか。

  そこに俺という存在が。また話をややこしくした。狐野柳家の長男として。子を残す。力が強いのだから、産まれる子もさぞ強い子が期待できるだろう。だから、お家的には是が非でも跡取りを欲している。真由理の代で終わらすわけにはいかず。あの手この手で、対象を探した結果が。行きついた先が、人間の男だったと。それだけに過ぎない。当人達の意見はないものとし。それは俺だけではなく、真由理も、そうで。親の決定に従ったに過ぎない。

  「伊吹が女の子なら、もっと。いや、そうだね。伊吹だから、か……」

  ぽつりと、顎を触りながら呟いた相手の真意は不明だが。一応探してみて、残念ながら狐獣人の女性で。陰の力が強い子となると、該当する者はいなかったらしく。結局は、どう転んでも。遅かれ早かれ、俺という存在に行きついたのだろう。またこちらの許可もなく、頬に触れて来る真由理の手。こんどはそれを弾いたり、拒絶の意思を示せなかった。目の前の男を憐れんでいる。言ってしまえばそれだけだ。可哀想だなって。相手に対して思い、それで何かしてあげたい。その手段が自分にはある。あったとしても、それが自分の身を犠牲にするしかない方法だったから。はいそうですかと、わかりましたと。真由理の話を聞いたから、それで心変わりしたように。許婚という役割を受け入れるなんては、ならなかったが。自分の妻が男、俺であるという事実に対して。この狐獣人もまた、受け入れ切れていないのが言葉の端々から滲み出ているし。

  ただ明確に違う部分を上げるとすれば。俺はよく知りもしない相手に対してであり。真由理は、それもあるが、とりわけ同性であるからかもしれなかった。優しく触れて来る相手の掌、温かく。そしてやっぱり、男の手であるから骨ばっていて。肉球もただ柔らかくもない。爪だって人間である自分と比べてしまうと鋭い。先は丸く整えられているが。異種族の男性であると意識させる。

  俺をただ見つめる真由理は。その狐顔を今だけは無表情にして、その瞳に何を想うのだろうか。親に対する恨み事だろうか。俺に対する、なんで女じゃないんだというやるせなさだろうか。それとも。

  「ごめんね」

  小さく呟かれた謝罪の言葉。俺を泣かした時と全く違う態度、声音。それは何に対するものであるのだろうか。今のこの状況に関してだろうか。それともこれから先、何かを俺に対してするからだろうか。また意にそぐわない事を。

  何をだよ。何がだよ。そう言えた、言えた筈だった。少し前の俺は、あんなにも彼を。真由理を毛嫌いしていて。鬱陶しがって。それで。今となっては、この男をどうしたいとか。具体的に思いつかなかった。同情はした。正直、可哀想だと思う。俺と似た境遇だったのだから。誰とも関わらないようにしてきたのなら、辛かった、寂しかったと。そう思うから。だからこそ、彼の孤独を少しだけ感じ取れて、共有した気になって。謝られても、これまでのおこないから。俺は怒っても良い筈なのに、不思議と心は凪いでいた。一度溜まっていた不満を涙と共に吐き出したからかもしれなかったが。

  「……謝んなよ、なんか。調子狂う」

  今まで、傍若無人に振る舞っておいて。急にしおらしくされると。どうしていいのかわからないというのもあって。身体を揺すり、隣同士ベッドの縁に座った状態で。相手とは逆の方を向きながら言うのだった。

  「なにそれ」

  クハッ。そんな声が聞こえたから、なんだよって。もう一度相手を見やれば、口元に拳を当てるようにして。屈託なく笑う狐獣人の顔があって。目を見張った。これまで、こいつの。真由理の笑顔は数々見て来たのに。蔑んだり、見下したり、嘲笑ったり。揶揄ったり。目は全く笑ってない。言ってしまえば作り笑いばかりであったのに。この時、初めてこの男の歳相応の笑顔を見た気がした。

  「伊吹って面白いね」

  笑かさないでよと、目尻を人差し指で拭うようにしながら。姿勢を正す狐獣人。両手を膝の上に乗せ、背筋を真っすぐにして。こちらを微笑と共に見つめて来られると。元々の顔の良さと、気品とが合わさり。これまでの印象が最悪だったのが抜け落ちた彼の姿は、綺麗だなって。男相手に思った。男性が性的対象とか、そういったゲイとしての感性ではなく。何も挟まない、純粋な心で。そんな事を胸の内で呟いて。いやいや、何を考えてるんだと。一人羞恥心を感じ。

  「やっぱ、お前みたいな奴と結婚とか。い、や、だ!」

  どうしたのって、また顔を近づけて。肩まで触れそうな距離感に。恥ずかしくて咄嗟にそう言っていた。照れ隠しにだ。なんで照れているか、わからないが。この時の俺は初めて、自分というものを曝け出していた。なにも飾らない。装わない。伊吹という人間として。本音で、喋っていた。そんな相手がまさか、嫌っていた真由理。この狐獣人相手だとは想像だにしていなかったが。嫌いだからこそ、その裏表のない感情をぶつけて。ぶつけておいてなお、俺は実際の所。もう彼を毛嫌いはそこまでしていないのだなと。

  俺の突然の否定の言葉に、目を丸くした真由理の瞳。そこに映る自分の表情を見て、思っていた。びっくりしたからか、狐の横に伸びた白い髭は扇状から寄り集まって束になってしまっている。俺の今言った台詞も、最終的にはこの男に笑われてしまうのだが。

  誰かに触れたら、相手の体調を崩す。だというのに、そういえば真由理は。会った当初から俺に対してよく触れて来ていた。その真意を読み解くとすると。初めて、なんの気兼ねもなく触れられる対象であったのだろうかと。笑いながら、お前みたいな奴。その部分に対してか、ちょっと眉を片方ぴくぴくと反応させている事から。気に障ったらしい。人格を否定されたようなものであるから、誰だって良くは思わないだろう。ざまぁみろ。

  「決めた」

  「何を決めたって言うんだよ」

  突然何かを思いついたように、糸目に戻った狐の顔は。考えている事がまるでわからず、笑う口元がより不気味だった。それがまた作り笑いであるようにも思ったが、本当に。今だけは彼は楽しそうにしているようにも感じられて。尻尾、これまで見たわざとらしい振り方ではなく。それは大きくしなやかにふりふりと揺れているというのもあった。

  視界が変わる。さっきも体験したもので、また背中をベッドが俺を受け止めていた。それをしたのはやっぱり真由理であり。覆い被さる形で狐が楽しそうに。肉食獣らしく、捕まえた兎でも見下ろすようにして。たった今思いついたらしい内容を。死刑宣告を告げる。

  「伊吹が僕の事を好きになるようにする。手は出さないけど、これから。恋人のように振る舞ってあげる。卒業して結婚するまで。徐々に慣らしていこう、お互いに、ね」

  これから、改めてよろしくね。伊吹。そう見下ろす真由理に対して、俺は。はっ? そう意味が分からないと、これまでの。同性との性行動に嫌悪しているようであったのに、どうしてそうなるのか。話しの流れが読めず。ただただ。相手を見上げ、退けと言う事すらできず呆けて。今は手を押えつけられてもないのに。抵抗という二文字すら頭に浮かんでいなかった。

  一つわかるのは。狐の瞳に浮かぶ感情。逃がさない。そんな単語だった。男とヤるの嫌なんじゃねぇのかよ。目隠しとか、紙袋とか。嫌だぞ、俺。それに俺自身、セックスは好きな人としたいし。少なくともお前じゃない。そもそも子供を産むとか、もっと嫌だ。

  平穏な学園生活。取り巻く状況、亮太郎とか晴喜で既にどうすればいいか。手一杯だというのに。別のクラスである、許婚のこの男が。積極的に関わって来たら、それどころではなくなる。止めろと、言えども。もう男の中では決定したのか。それを覆す気はまるでないらしい。お前みたいな奴、それが琴線に触れたのか。煽ったようにも取られたのか。最初会った時、僕を愛せと一方的に言ったこの狐は。これからどのようにして、俺に干渉してくるのか。考えるだけで恐ろしかった。今にも鼻歌でも歌いそうな真由理。楽しい事になってきたねと、似た顔をして。面白がっている管狐。お前はもう少し、俺を助ける努力をしろ。おい、押し倒されてるぞ。手を出さないと言ったけど、これはその内に入らないのか。ザルすぎないか、約束。セックス以外なら、ガバガバと言ってもいいものだった。早くもした約束の効力は疑わしい。

  厄日は、どうやら延長になるらしかった。どうしてだ。

  [newpage]

  [chapter:七話 それぞれの初めて]

  一日休んだというのに、感じる足の重さ。身体が怠いとかではなく、気分的な問題だ。廊下を歩くだけで、酷く疲れる。一歩、また一歩。見えて来る自分のクラス。その廊下と教室を隔てる扉。一限目、というよりもホームルームもまだだというのに。俺の歩みはどうしようもなく遅くしていた。会い辛い。誰でもない、晴喜と。

  でも会わなきゃ。駄目なんだ。自分がした結果がどうなってるのか、知らなきゃいけない。責任を取らなきゃ。

  「おはよう」

  扉を開け、誰に対して言ったわけでもない言葉をそれほど大きくはない声で放つ。扉の開閉音で、友達と駄弁っていた奴。もう一限目のノートを開いている奴。携帯をだらだらいじってる奴。この場合、先生が来るまでにしまわないと注意されるのだが。学校に持ち込み自体は許可はされているものの。利用に関しては禁止されている。

  基本的にこの学校は規則というものは緩いから。制服もあまりに着崩れていなければ、生徒指導が入ったりしない。ただピアスとか、露骨に髪を染めたりといった。授業に明らかに関係ないファッションをしていた場合はその限りではないが。それでも、やはり俺の中の印象では緩いという感想になる。元々通っていた高校は、もう少し厳しかったし。携帯の持ち込みすら禁止されていた。先進的な教育方針を謳っているらしく。だからこそ、バイトも可能であるらしい。

  思い思いにホームルームまでの早く来すぎて余裕があるからか、時間をそれぞれの考えで使ってる人達。その視線が一瞬こちらに向く。だが、殆どは。ああ、転校生か。で終わるだろうか。今回は少しだけ差異があり。一日休んでいた事を考慮すると昨日は休んでいた転校生か。となるのだろう。一瞬だけ、視線が集まったが。すぐに皆逸らされる。

  話しかけても反応が悪く。そしてこれといって特技も、成績も良さそうではない。平々凡々という印象しかなく、面白味の欠ける目立たない奴。クラスの俺に対する扱いはこうであり、この距離感をどちらかというと前の高校では望んでいたので。それ程気にする必要はなかった。これまでは。

  その視線の内。俺に向けて注がれたまま逸らさないまま、維持している人物二人が居た。

  一人は亮太郎。椅子に座っていたのに、わざわざ立ち上がり。俺の元まで歩いて来ると、体調は大丈夫かと聞いて来てくれる。大柄な虎獣人。一日見なかっただけなのに、高校生にしては発育が良すぎるこの男は。見下ろされると相も変わらず威圧感が凄かった。ただ笑い方がとても人を惹きつけるような、緩く優しいものであるから。相手を怯えさせる要素ばかりではない。でも鍛えられた筋肉と立派な大人顔負けな体格は、やはりこのクラスの中で群を抜いていた。言ってしまえば目立つ。身長もクラスの中で誰よりも高いから。二メートルと三十センチぐらいか。獣人の中でも伸びに伸びたな。隣に立つと、ブサイクではないと思うが。容姿をこれといって取り上げられる部分がなく。褒める場所に困る奴、というのが客観的な自己評価だった。だからか、最初。この虎が喋りかけてくるとどうしてもクラス中の目を引き。俺はそのせいで居心地が悪く感じていたのだが。彼の強引な優しさに触れる内に、最初は確かにこの虎の事を苦手意識していたのに。そしてそうする彼をクラスの皆がまた転校生に絡んでるって茶化したりしながら。最近では悪い気はしなかった。

  俺の友達第一号と、名乗ってくれたというのもあったかもしれない。

  「この前はありがとう」

  「びっくりした。なんか嫌な予感がして、伊吹を探してたら倒れてたからさ」

  それはそうだろう。トイレと言い、毎回クラスから消える。不自然な俺である。それはまたかって、呆れられたり。それか避けられてるなって、これから話しかけるのをやめてしまおうか。そう思わせるには十分なおこないであった。だというのに、亮太郎はその直感に従い。探して、そして俺を見つけてくれたのだった。だから昨日携帯で伝えた事と同じような言葉を。文字媒体ではなく。こんどは声に出して伝える。

  虎の大きな身体に遮られてて、少し見え辛かったが。もう一人、俺を注視したまま動けないでいる子が居た。いつもはのびのびと、マイペースに振る舞い。笑顔がデフォルトのようにニコニコしていて、舌なんて出したまま。しまい忘れているようなマヌケ顔を晒す。シベリアンハスキーの獣人。その犬科の頭が、遠巻きに俺と亮太郎を見ていた。

  俺が、晴喜の方を見ると。慌てたように顔を逸らし。ぺしょりと耳を倒して、自分の机を見るようにして。俯いてしまう。

  「なんかあったのか? お前ら」

  あったと言えば、あった。なかったと言えば、嘘になる。だがそれを誰かに、言えるような内容ではなかったから。亮太郎に対して、何でもないよって。そう言って誤魔化すのが精一杯だった。

  会い辛かったのは、俺だけじゃなかったらしい。

  授業が始まってしまえば、普通に。というより、俺は必死で授業内容を頭に詰め込み。今やっている所を暗記していくしかないのだが。一日休んだだけで、かなり遅れてしまったと感じて。焦る。これで頭が良ければなと思うが、ないものはしかたない。そのせいで、授業中。たとえ同じ教室に居ようとも。この時ばかりは晴喜の事を忘れて没頭していた。晴喜自身、普段はあまり真面目に聞いていない授業に対する姿勢を改めたように。黙々と机に向かい、黒板と睨めっこしている。

  だが休み時間。亮太郎は話しかけてくるが、それだけで。ハスキーが寄ってこない。こういう事は当然ある。誰だって、休み時間全てを友達と話す為に使うわけではない。トイレや、他の用事だってあるだろう。それに晴喜は友達が多い。他のグループに突撃するパターンもあるのだから。それなりにやる事は限られる、休み時間の内、昼休みは一番長く。この時ばかりは、俺の机に集まり。お弁当や菓子パンを持ち寄り、駄弁りながら食べるというのが恒例化していたから。様子のおかしい晴喜も、おずおずと。自分がお昼食べる物を持参して、寄って来てはいた。

  人間である俺を中心に、虎と犬。いつもは賑やかに談笑しながらの食事が、今日はお通やのようであり。その原因は、やはり俺と晴喜。というより晴喜の様子を気にして、亮太郎があまり喋らないからというのもあったかもしれない。

  話題のネタ振り。それはもっぱら、虎とハスキーからであり。それに相槌を打つ程度の俺という流れができており。お喋りな人ではない、俺という存在からそれ程話題を提供するといった事があまりできないのだから。

  だからこそ、喋り出しの一人が黙ったまま。もしょ、もしょ、そうゆっくりと菓子パンを食べる。そんなハスキーのどこか気落ちしたような姿に。亮太郎はびっくりして、こんな晴喜なんて見た事がないとばかりに。言葉にはしないが狼狽え、そしてそのせいで。この虎からも口数を奪っていた。

  お箸で犬の顔を指差すようにし、声に出さないように口パクで。虎の顔が真正面に居る俺に対してどうしたんだよこいつ。そう原因であろう、人間に対して回答を要求するのだが。俺は曖昧に、苦笑しつつも。それに対し、やはり何があったかを言えはしなかった。ちらり。視線を感じ、その方向を見やれば。青い瞳とぶつかった。のだが、俺と目が合うとその持ち主である晴喜はまた食べる事に集中するように。次の菓子パンの袋を強引に破いて、ぱくりと咥えては。もしょり、もしょりと。見ていてじれったいと感じるぐらいには、食べるペースが遅い。

  このハスキーは、基本食べるのが早い。それは巨大なお弁当箱を毎日持って来る亮太郎と同じか、食べやすい菓子パンばかりであるからそれ以上には。食べるペースが速かった。勢いよく前屈みで齧り付く様は、顔がそのまま犬食いという単語が浮かぶ。そのせいかポロポロと、とても小さな食べカスが俺の机に落ちていたりするのだが。勿論責任を持って毎回掃除させている。

  俺の歯切れの悪い返答と、そして晴喜本人の様子から。あまりつっついても良くないと感じたのか、その昼休み以降。亮太郎の追撃はなかった。だが放課後、皆が帰ろうとする時刻になれば。行動に移すのは、ずっと気になっていた虎ではなく、俺自身であり。しょんぼりしたままの、その犬の頭に向かって。話があるから、ちょっと人気のない場所に行こうと。声を潜めて言うのだった。何も言わず素直に着いて来てくれる晴喜を連れだって、教室を後にしようとすると。亮太郎は着いて行こうかと申し出てくれた。

  でも、この一件は二人で処理しないといけなかった。亮太郎を頼るわけにはいかない。だから俺が一言断ると、あっさりと諦めてくれたのがありがたかった。何かあると察して、心配したり。気遣ってくれるけれど、相手が嫌がる素振りがあると強く追及して来たりしない。こういう虎の気遣いが本当にこの時はよりありがたかった。

  俺なんかより、晴喜との付き合いは亮太郎の方が長いであろうに。どちらかというと、俺が晴喜に何かして。それで亮太郎が友達に何かしたのかよって怒ったりしそうなものなのに。両者の言い分を聞く前というのもあってか、虎は中立を保ち。どちらにも気にはかけても、必要以上に干渉してこなかった。

  ひとけのない所、定番でいえば。こういう時ドラマとかでなら屋上に続く階段とかか。屋上自体は施錠されていて、出る事は叶わないが。学生の自殺とか、そういう場所にも使われたりする昨今。想定外の使用をされた結果、学校側のリスクと生徒の安全を考慮された末。こういった場所への立ち入りはわりと厳しい。景色が一望できたり、風が吹いていて、晴れた日は気持ちが良さそうなのに。映画やドラマみたいにはいかないものだった。

  もう一つ、定番と言えば。校舎裏。よくある話では、校舎裏に呼び出された人は。そこで告白を受けたりして、そういう青春が繰り広げられたりするのだろうが。俺の後ろをとぼとぼ歩くハスキーの獣人は、これから告白されたりとか。学生での一大イベントに遭遇するわけではなく。呼んだのは俺で、女生徒ですらもなかった。

  校舎裏に着いた後で、一応周りを確認し。盗み聞きしている奴はいないか。警戒はする。俺自身、監視されているだろうが。今の今まで気づかなかったので、今更見つけられるとは思っていないが。男同士が校舎裏に明らかに怪しさ満点で行くのだ。亮太郎はしないだろうが。その様子を見ていたクラスメイトが、野次馬根性でこっそりと後をつけているとも限らない。聞かれたくなかった。

  「い、伊吹。身体、大丈夫。なのか?」

  「あ、うん。大丈夫」

  「そ、そうか……」

  手をお腹の前で合わせ、まるで悪い事をした子供のように。俯いたまま、こちらの様子を窺う晴喜。俺より身長が少し高いくせして、器用に上目遣いになっている。別にこの前の事で怒ったりしていないのだが。逆に、俺の方が怒られるべきで。何であんな事したんだと。クソホモ野郎がと、罵られたりも覚悟していたのに。冷静になった後で、どう晴喜があの一件を受け止めているのか。俺も知るのが怖かった。

  連れてきたはいいものの、どう話題を切り出したものか。お互いに、あのトイレでした事を引きずっていて。そして俺も、晴喜も、ぎこちなくなってしまっていた。亮太郎達の前では平静を装うつもりでいたのに。当事者である片割れ、ハスキーの方がこうまで露骨に態度に出してしまっているのだから。時間に任せてしまうのではなく、早急にどうにかしなくてはいけなかった。本当なら朝会った時にそうしたかったが。話しの内容が内容である。クラスメイトが居る教室で話す事なんてできなかったし。だから放課後の、今しかないのだが。

  「ご、ごめんな。オレ、あの後ずっと考えてて。伊吹が学校休んだの、オレのせいじゃないかって。その、あの時のオレ、どうかしてた」

  ぽつり、ぽつり。犬科の口からあの時の事を、その後彼がどう思っていたかを言葉に詰まりながらも。ゆっくりと、紡いでくれる。

  「いや、休んだのは大事をとってで。別に晴喜のせいじゃない、俺こそごめんな」

  俺がごめんと謝罪を口にした瞬間。ふるふると、犬の頭が俯いたまま横に振られる。

  「それでも、オレ。伊吹に抱き着いて。いや、襲って。それで。ちょっとぼんやりしてるけど、ちんちんを……」

  ちんちん。その言葉を声に出した途端、晴喜は青い顔をして自身の学生服の裾を握りしめるように。より俯いてしまうのだった。ああ、成程。彼の認識では。俺を襲い、無理やりフェラを強要したと。そういうふうに記憶されているのかと。どう説明したものかと、ハスキーの頭頂部を見ながら考えていた。原因は全部俺で、彼は偶発的に。男である俺相手に欲情したに過ぎない。そして性処理するという、その方向に誘導したのは紛れもなく俺の意思であり。晴喜には何一つ非はないのだった。抵抗は、できた。

  「どうするイブキ。イシャリョウ、だっけ。お金、この子からたかっちゃう? 出て行くなら、必要なんでしょ」

  管狐は今日もふよふよと俺の周りを漂って、そして必要のない、全くいらないアドバイスをくれるのだった。あっちいけと、晴喜が俯いて目を瞑っているのを良い事に。しっしっと手を管狐の前で邪険に、お前は余計な事を言わずあっちに行っていろと示す。声に出したら聞こえるのでそれはしない。

  「晴喜。俺はあの一件は気にしてない。お前が気に病む必要もない」

  「でも、オレのちんちん。男の、伊吹に無理やり咥えさせて」

  埒が明かないと思った。自責の念で一杯であろう、このハスキーに対して。どう俺が気にしてないと言おうが、強姦めいた事をしたと思い込んでいる相手に対して。真実をぼかしたままでは。説得するには、言葉の重みに欠ける。陰の力とか。俺に男なのに子宮があるなんて説明、何の関係もない晴喜にしても。理解は難しいだろう。そのせいで、お前は一時的におかしくなって。毒でも食らったような状態であったなどと。当事者である俺だって、未だに受け入れてすらいないのだから。他人なら猶更だった。

  そして、晴喜は同性相手に。そういう事を強要したと、より。自身を責め立てているのかもしれなかった。女性相手なら、それはそれで問題だが。抜き合いとか、おふざけや稚拙な子供の好奇心等の範疇から逸脱した。明確な、相手との性行為。精神的にダメージを与えていないか。無理やりと言うが、わりと協力的には。晴喜のチンポを舐めて、しゃぶっていたのだが。かなり都合よく、この場合にあっては。話しの方向的には都合が悪く、記憶されているのだった。あの時の晴喜を酒に酔ったみたいだと感じたのは、あながち間違いではないのかもしれない。

  オレ、オレ。そう泣きそうな相手を慰めるようなこの状況に。ただ、大丈夫。あれは黒歴史、な。お互い忘れよう、そうしようと。そんなふうに終わらしたかった俺としてはここまで気にして、そして俺の事を案じてくれる晴喜は。やっぱりこいつも底抜けに良い奴なんだなと思うと同時に、あまりに平行線を辿る時間が長かったというのもあり。ぶっちゃけ面倒くさいと感じ始めてもいた。埒が明かない。

  原因は、俺なわけなんだけど。

  「あー、そのな。晴喜。俺、ゲイ、なんだわ」

  言った。言ってしまった。これまでひた隠しにしていた。俺の性的指向。男性が男性を好きになる。ホモセクショアル。それが自分なのだと。告げてしまった。一度吐いた言葉は二度と戻って来ないと知っているのに。だから慎重に、自分を嘘で塗り固めていたのに。自ら剥がしてしまった。

  えっ、て驚く声と。俯いていた晴喜が顔を素早く上げた時、俺はこいつの顔を直視できなかった。初のカミングアウト。俺がゲイと告げて、それで晴喜がどんな顔をするか。その反応を見るのが怖くて、自然とそう仕草に出ていた。出てしまっていた。見なきゃいけないのに、見て。それで受け入れないといけないのに。気持ち悪いってそういう顔をする、相手の表情を。

  暫しの沈黙。どう言おうかきっと考えている。ゲイだから、それで。俺のチンポ咥えたのかよって、言われるだろうか。やっぱりおかしくなったのはお前のせいか。そう言いながら、最悪殴られるだろうか。友達にフェラを強要して、それがバレて。学校生活が滅茶苦茶になるのを怖れた相手が。本当は無実で、逆に俺が。明日から周囲の視線に怯えて暮らすようになるのだろうか。

  そのようなリスクを負ってまで、俺の秘密を打ち明ける必要はあったのか。正しかったのか、それはわからない。でも晴喜の誤解を。その友達思いの優しい心を守りたいと思った。自分で自分を責め、傷つける奴なんて。俺ぐらいで良い。そんな奴。そう思ったからこそ、言ったのだった。

  「それじゃ、普段から。伊吹は男のちんちん、咥えて……」

  「いや、咥えたのはお前のが初めて」

  「あ、そう、なんだ」

  なんだこのやり取り。何で経験人数を聞かれているんだ、俺。それと人を尻軽みたいに言わないで欲しい。素直に答えた後で、顔を顰めた。そうしていると視界の端に動きがあった。晴喜の手が、自身の胸に当てられて。ハァ。そう息を吐いて。どこかそれは、ほっとしているような。悪い事や、嫌な事が起こりそうで。びくびくしていたのに、そうならないと知った人みたいな反応で。

  浮かべてる表情は、俺を蔑む。気持ち悪い、理解できない者を見る。そのようなものではなかった。もっと、別の。

  「良かったぁ、それじゃ伊吹。傷ついてなかったんだ」

  「いや、ホモ野郎にチンポ咥えられてんだから。自分の心配しろよ」

  きっと俺の意見はとても真っ当で。そしてそれをした奴の台詞ではなかっただろう。自分でもそれはわかっていたが、あまりにも。晴喜のその安心しきった態度に、思わずツッコミを入れていた。目尻に少し、光るものがあったし。いつもニコニコしていたハスキーは、今はしおらしく。えへへって力なく笑うものだから。少々その言い方の勢いは削がれてしまったが。

  どうしてこいつがこんなにも、俺が男のチンポを咥えて。それで傷ついたりしてなくて安堵してるのか。わからなかった。わからないのに、相手の反応から。ただ一つわかる事、ゲイである自分を否定されなかった。そこに、顔には出していないが。晴喜とそう変わらず、心の中で安堵している自分が居た。

  また俯いて、人差し指の指先同士を合わせて。急にもじもじしだす晴喜。さっきまでは処刑台に立って、俺がいつ斧をその首に振り下ろすか。ずっとびくびくしながらごめんごめんと言っていたのに。

  「そうか、初めてなのに。オレのを。オレが初めて……そうか、そうなのか。えへへ」

  にへらって。急に照れて、笑い出したハスキーに対して、何か気持ち悪いなって思いながらも。もう落ち込んでないのを感じ、ただ眺めていた。そして、表情と態度の変化から。忙しい奴だとも。そうしていると、伊吹! と突然大きな声で名前を呼びながら。飛びついて来る目の前の男。俺より少し身長が高いぐらいだけれど、それは当然体重も勿論俺よりも重いという事だ。そんな奴が助走をつけていないとはいえ、勢いよく正面から両腕を広げて抱き着いて来たのだ。不意を突かれた俺は、思いっきり仰け反る事になり。背骨が軋んだ。

  「な、晴喜。なにすんだよ!」

  「んふふ、伊吹。伊吹、伊吹!」

  俺の名前を連呼しながら、はふはふ息を荒げ。喜びに興奮した、動物の犬のように。顔は獣人だから同じだが。高校生である晴喜は、俺に抱き着いた後でぎゅうぎゅうと抱擁をきつくし。マズルを遠慮なくこちらの頬に擦りつけ。抜け毛を分け与えて来た。黒い学生服に、耳とか一部の毛は黒いが。それ以外の晴喜の白い毛はよく目立つ。ぶんぶんと豪快に振られている尻尾と、何を感激する箇所がまるでわからない。この犬っころに対して、俺はたじたじであり。扱いに困った。それにやはり、こいつもまた力が強い。亮太郎みたいに筋肉がムキムキっと主張していない。どちらかというと身長以外で俺とそう変わらぬ身体のラインをしているというのにだ。遠慮のない抱き着きスリスリ攻撃は、俺から悲鳴を出しはしても。払いのける事は、やっぱできず。晴喜がひとしきりスリスリして、高まったテンションが落ち着くまではそれが続き。それが終わった頃には、俺は疲労困憊とばかりに校舎裏に座り込み。自身の制服についた動物の毛を、指でつまんでは地面に一本一本落としていた。飼い犬、大型犬に襲われてもみくちゃにされた飼い主の気分だった。それを口に出すと差別発言になりそうだったが。晴喜の雰囲気ってじゃれついてくる犬にそっくりなせいだ。

  隣で疲れた様子のない男は、同じように座り。最終的に思いっきり頭に拳骨を落としたのにケロッとしている。隣で舌を出したまま、やっぱりこちらを見てニコニコしているハスキーの顔はやっぱり言っちゃなんだけど馬鹿っぽい。思い出したかのようにそういえば、伊吹と連絡先交換してなかったよなと。返事をする前に話しを勝手に進めて、急いで取り出した携帯を差し出して来るしまつで。

  和解、となったと思うのだが。それからのハスキーは妙に距離感が近い気がする。隣に座る晴喜、太腿同士が触れそうなぐらいであり。俺の顔を覗き込んで、何が面白いのかとても締まりのない顔をしていたというのもある。千切れそうなぐらい尻尾を振っていて。風を起こしていた。

  強引な勢いに観念して、亮太郎と同じように。連絡先を交換する。転校しての俺の友達第二号。新着順でどこかの綺麗な景色と花が添えられた真由理のアイコンの上に、鉄製のお皿にじゅうじゅうと焼けている肉の画像をアイコンにしたハスキーの名前が追加される。

  「一緒に帰ろう、伊吹!」

  無事連絡先を交換し終えると、晴喜は立ち上がりながらそう言うのだった。亮太郎とは校門前まではたまに帰ったりするのだが。晴喜とはだいたいは、他の友達とじゃれ合いながら帰る場面をよく見ていたので。そう言われるのは初めてであった。バイトをしているこのハスキーは、どこかの部に所属してるといった事はなく。そこは俺と同じように、今日の授業を全てこなすと帰るか友達と駄弁るかの二択である。俺は駄弁るような相手がいないので、亮太郎と晴喜の気が向いてこちらを見つけようとしない場合。そそくさと教室を後にするのだが。今の所一番仲の良いと言えるだろう亮太郎は、部活に所属しているのでどうしても校門前までとはいえ一緒に帰るとは毎回ならない。申し出に対してとても嬉しく思うが、月路さんが車で迎えに来てる頃合いなので。やはり、晴喜と一緒に帰れるのは同じく校門前までとなる。それでもいいなら、そう控えめに確認を取れば。嬉しそうにうんうんと頷かれるので。ちょっと、このハスキーの反応は擽ったい。

  校舎裏から二人で正面の方に歩いてる途中、柱の影からくねくねと見覚えのある黄色と黒の縞々模様が伸びていた。それを見つけたのは隣を歩いている晴喜も一緒のようで。俺とハスキーの顔はお互いの顔を見つめ、そしてそっと人差し指を立てたら、自身のマズルに寄せ俺に歯を見せながらも静かに笑うと。前屈みに、そろり、そろりと忍び足でゆっくりと太く長いくねくねした生き物に近づいていく。そんなハスキーの射程距離まで、あと少し。さらに力を溜めるようにして、屈むと。その溜め込んだ力を解放するようにして、正面にジャンプしていた。

  結果その両手でうねうね動く毛の生えた棒を、むぎゅって思いっきり掴んだのだった。

  そうすると柱の影。繋がっているだろう先から。ギニャッ! って野太い変な声が聞こえて来て。俺より少し身長が高い晴喜よりも、更に縦にも横にも大柄な体躯をした男がお尻を押さえながら飛び出てくる。尻尾にハスキーという、目を輝かしたストラップをくっつけながらだ。

  「なにやってるんだよ、亮太郎」

  虎の尻尾を掴んだハスキー、そんな相手の制服の首根っこを掴み返し怒った亮太郎の顔。つま先が地面から離れ、ぶらんと親猫に咥えられた子猫のように吊られてる晴喜は服が伸びる伸びると言っているが楽しそうだった。俺のツッコミに対し、丸い虎耳を倒し。ばつが悪そうにしながら空いた手で頬を搔く亮太郎は、言葉を濁し。頭を下げていた。それはいいから、早くそのハスキーを離してやった方が良いと思うのだが。

  首が締まって、さっきまで笑ってたのに。だんだんと苦しそうにして、死体のように動かなくなってきているし。俺がほらって、晴喜を指差すと。気づいた虎は反射的にやっべと言いながらぱっと手を離た。そうされた犬の顔が地面にべちゃりと落ちる。小さくイデッ! そんな鳴き声を出していた。良かった、生きてた。虎の尾を掴んだのは彼なので、同情はしなかった。自業自得である。

  どうやら、俺と晴喜。二人の様子が朝からずっとおかしかったのもあり、喧嘩とかに発展したらいけないと。最初は迷ったが、気になって様子を見に来たらしい。途中から、だとしたらどこから話を聞かれていたのか。俺は内心焦っていた。内容が問題であった。だが、俺と晴喜が話していた場所と。亮太郎が隠れていた場所は少し距離があり、その巨体を隠しながら盗み見るのも此処しかなかったのが幸いであった。会話の内容は殆ど聞こえておらず、遠目に。俺達が殴り合いとかに発展せず、笑ったり抱き着いたりじゃれていたので。安心して帰ろうとしていたがそうこうしていると、こちらに歩いて来る二人に。逃げるタイミングを失い、必死で柱の影に巨体を押し込んでいたらしい。それで気づかず通り過ぎるわけもなく、はみ出た尻尾はハスキーにあえなく見つかったわけであるが。恐らく、鼻の良い晴喜には。たとえその尻尾がはみ出ていなくても、あまりその努力は意味がなかったかもしれない。通り過ぎる間際、どうやっても気づいたとも思うが。

  今日は部活がなかったのだろうか。それとも、俺達の事を優先してくれたのか。亮太郎は俺と晴喜が歩く隣に並んだ。

  「晴喜と、伊吹。二人を引き合わせたのは俺だろ。だから何かあったら、俺が仲裁に入るべきだ」

  どうやらこの虎は、責任感が強いようだった。諍いを招いたのは俺で、そしてそれで亮太郎が何か責任を感じる必要などないというのに。確かに、二人の仲に半ば強引に引き入れられたとも思っていたが。それはそれ、これはこれである。俗に言う、分類すると陰キャの方に傾く俺に対して。陽キャに分類されるだろう、このハスキーとは打ち解けられず。最近避けるようにしていたのだし。仲違いした場合。それは亮太郎の責任ではなく。俺と、晴喜の問題だった。そしてやっぱり、原因は俺、厳密には俺の特異な身体にあったのだが。亮太郎自身、言ってしまえば陰キャタイプではないが。人に合わす事もできる、器用な奴だった。会った初日は強引だったが。

  だが結果的には、晴喜とはそうならず。連絡先までさっき交換してしまった。馬が合うかと言うと、正直まだわからない。亮太郎は社交的で、誰とでも会話ができ。そしてそれは、晴喜にも当てはまる。人の輪に突撃していって、このハスキーは笑いを起こしては。また次のグループにと、嵐のような一面もあったが。とても底抜けに明るい性格をしている。

  そういったノリに馴染めず、苦手と言ってしまうかもしれない俺は。初対面の内から晴喜に対して苦手意識を持ち、そして亮太郎の友達という意識のせいで。俺の友達じゃないと、遠ざけて。全くと言って良い程に、避けていたのに。当の晴喜に対しては俺がどう感じているかなど通じていなかったが。そして倒れて、保健室で一緒についててくれて。トイレで、あんな事があったのに。今はこうして並んで歩いているのだから不思議なものだった。カミングアウトまでもしてしまって。でもそうした結果、心は晴れやかだった。

  両腕を頭の後ろで組んだ晴喜は、心配性だなって虎の顔を見上げ呆れていた。俺が伊吹と喧嘩するわけないだろって、そう言い切るハスキー。なー、伊吹。そう見上げていた虎から、俺の方に向いた犬科のマズルに怯む。あ、うんとか。そんな歯切れの悪い同意だったが。晴喜はそれで良いのか、ほらなーって。また亮太郎を見上げていた。

  俺が友達、その部分に悩み。どうなったらなれるか、それはどこからか。そういう線引きにばかり囚われてる間に、虎と犬は。ずかずかと心に上がり込んで、勝手に友達面して。俺を構い、話しかけ。笑うのだった。転校して、独りぼっちになるばかりであると。思い込んでいた未来は訪れず。手にしたこの状況に、困惑しつつも。錆びついた心に火を灯される。擽ったい、友情に。もうないと思っていた、視える俺に対して。人間関係に恐れ、踏み込めなかったのに。それぐらい寂しそうな顔をしていたのだろうか。それで、飛び越えて来てくれた亮太郎。いくら他人がそんな顔をしていたからと。誰でもできる事ではなかった。そういう振る舞いは。

  校門を抜け、亮太郎は慣れているからか。それでまた明日なって、そう声を掛けてくれるのだが。晴喜は、俺と虎の顔を交互に見て。あ、そういやここまでだっけと。もう忘れていた内容を思い出したのか、遅れて手を振りながら。亮太郎と同じようにしていた。のだが。俺が近くに止まっている月路さんの車に近づくと、ばたばたと足音を荒々しく近づいて来る。ハスキーの身体がぶつかるようにして、また俺に抱き着き捕まえて。この流れになんだかデジャヴを感じ。それは、手で顔を覆うようにして。少し離れた場所で俺を追いかけなかった亮太郎もなのか。では、晴喜が次にどう言うのか。何となく察したから、ずいって近づいて来る犬科のマズルから顔を迷惑そうに逸らしていた。

  「だだだ、駄目だぞ伊吹! パパ活なんてっ!」

  「晴喜。それ、前に俺もやったから」

  哀れんだようにして、亮太郎のそう言う声はどこか。疲れた男がさせるものだった。それはもしかしたら、自分が晴喜と全く同じ思考をしてしまった事に対して。悲痛に感じているのかもしれなかったが。えっ、えっ、そう状況が呑み込めず。ハスキーが俺と虎の顔を交互に見る。勢いから、その犬科の首がもげそうだった。月路さん。心配そうに車内からまたこちらの様子を窺っているし。狼の顔は、やはり老け顔に部類されるのか。関係を知らぬ人から見た場合、またもやあらぬ誤解を生んでいた。なんでそうなるのだと、俺の視点からするとそう思うのに。誤解する人物、それが二人目ともなれば。そんなにも俺と月路さんが一緒に居る姿は怪しいのだろうか。街中でまだ一緒に買い物とかした事はないが、もしもそのような機会があった場合。気をつけようと、もしも月路さんが聞いたら悲しむような事を思うのだった。

  [newpage]

  [chapter:八話 不安]

  あの晴喜の一件から、目に見えて俺達の仲が悪くなるどころか。むしろ、良くなっていると言ってしまってもいいのだろうか。事ある毎に、伊吹、伊吹。そうやって露骨に絡むようになったのだから。それと、このハスキーはとてもスキンシップというか。人に対して普通に触れたり、抱き着いたりしてくるのが問題であった。動物の犬が大好きな飼い主にじゃれつくようにして。休み時間になるとすぐに背後から。俺は自分の席に座っているので逃げる事もできず、わふわふと嬉しそうな晴喜の顔が。軽い衝撃と共に肩から飛び出てくるのだから。

  最初、亮太郎は俺達のそんな姿を見て。喧嘩かと危ぶんだのもあってか、良かったと。そんな顔をしていたのに。また日に日に、虎は訝しんで。ちょっとお前達、近くねぇかって。距離感の変わりように聞いて来るのだった。俺もそう思う。

  誤解無きように弁明させて頂けると、俺は晴喜に対して。そういった過剰なスキンシップは一切しておらず、されて。どちらかというと軽く迷惑に思っているぐらいには、そのおこないに対して嫌な顔を隠してもいなかった。俺達を見ている虎に態度にも出しているというのに。だから助けてくれ。

  そして晴喜は、やっぱりと言うべきか。俺がどう思おうが、顔に出そうが。関係なしに、絡んで来るのだった。にへらって、締まりのない顔で。舌だって出しっぱなしでだ。涎付けたらただじゃおかねぇぞと凄んでみても、全く聞きやしない。俺にとって問題児に変わり果てていた。

  俺は一応同性愛者に分類されるので。男が、遠慮もなく抱き着いて来る状況に。驚きと、戸惑いと、そしてどういう顔をしていいか迷って。顔を強張らせ、最終的にはやっぱり迷惑そうな表情になっていたと思う。そうするハスキーに対してカミングアウトまでしているというのに。どういう神経をして、こうやって触れ合ってくるのか。

  普通は相手がクソホモ野郎だとわかると、そういう触れ合いに遠慮したり。遠ざけたりするだろうに。逆に近づいて来るこの犬の、というより駄犬の頭の中を覗きたいぐらいには。心配になるというか、呆れて。神経を疑った。本当に、俺がゲイであるという部分は気にしていないというのか。むしろ忘れているとも取れるぐらいには、気安いのだった。だからこそ、偏見とかそういった目を向けず。変わらず、というよりこちらが身構えてしまうぐらいには。懐いた犬のように、飛びついて来る晴喜という人物。その思考回路を理解できずとも、お前はもうと、苦笑いして。肩に乗った犬の顔に俺からも触れ、押しやったり。恐る恐る撫でたりしてみたり。

  俺が転校するよりも前から仲が良かった、亮太郎からしても。この晴喜の俺に対してする振る舞いは、他の友達にはなかったものであるのだろう。また、どうしたんだよって。俺だけでなく、虎の顔までも困惑させてしまっていた。それに留まらず、クラスメイト全員が。テンションの高い晴喜を見て、なんだなんだとヤジが飛ぶ。一部、晴喜に捕まった俺に対して。同情するような声もあったが。

  男に抱き着かれた場合。異性愛者がどういった反応をするのか、俺は内心その部分に困っていた。ゲイである事を一応隠して生活しているので、一般の感性を持つ人間を演じなくてはいけないのに。この駄犬はそんな俺の苦労を知らず、遠慮なく抱き着いて来るので。晴喜のにおいに包まれる形で、同性の身体が密着して。ドキドキと勝手に高鳴る心臓。顔を赤くしては駄目だと、己を律し。それ以上に、陽の力を僅かだが持つ。そんな相手に触れられ、俺のお腹まで反応しそうで。そういった面でも、迷惑だと。顔に出ていた。

  そこに、俺と晴喜のじゃれ合いを見て。不意に聞こえて来たお前らホモかよって。そんな笑い声。それが聞こえた途端、一瞬頬が引き攣りそうになるも慌てて表情を誤魔化して。大丈夫、慣れてる。そういう言葉が聞こえた時、仮面を被るのは。そうするのに慣れきっていたというのもあった。バレてはいけない。もしも俺がゲイであると知られた場合、どのような不都合が起きるか計り知れない。だからこそひた隠しにしてきた俺の性癖。性的指向に関して、これからも。やはり知られないように、するべきで。普通を、演じなきゃいけないのだった。このように抱き着いて来るハスキーの行動に、いつぼろが出るか。危惧し。だからこそ、それを誘発しかねないとひやひやして。晴喜のこのおこないは、俺にとってそういう意味でも好ましいものではなかった。普通の友達同士ならどう振る舞うのだろうか。抱き着くな、馬鹿って。反撃に軽く叩いたり、脇を擽ってやったり、するのだろうか。

  言われたからか、晴喜が俺から身体を離し。クラスメイトに対して、違うって過剰に反論していた。耳や鼻の縁を顔を赤くし、露骨なまでにそう言う姿は。逆に変だ。だがそれは持ち前の。これまでのハスキーの性格が、年下の子供っぽいと俺が感じているように。皆も、そういうふうに感じているからか。下ネタを振られた際、一緒になってチンコだマンコだと盛り上がったりして女子から白い目で見られたり。指摘に過剰なまでに反応したり、揶揄われたらそのままボケてしまうので、いじられ役というのに落ち着いていた。だからこの時も、何気ないクラスメイトの言葉に。そんなハスキーの姿とに、どっと周りに笑いが巻き起こったりするのだが。俺に向けた言葉ではなく。晴喜に対してのそれに、笑い話にはできず。沈黙して。それは隣に居る亮太郎もなぜか同じように、虎は無表情に。周りの状況を見て。晴喜に対して、いい加減伊吹が迷惑だろって窘めても居た。

  そんな虎の意見を素直に聞くような奴だったら、俺の言葉で最初に終わっているだろう。破天荒な部分はそう簡単に止まらない。このハスキーが俺に対する過剰なスキンシップは、はやり友達同士がするそういう物であると。浸透すれば、あまり揶揄われる場面は減って。またやってるよって、笑われる程度だった。

  俺の後ろから抱きつき、頭の上に犬科のその長い顎を乗せたりしてくるし。される俺は根負けし、もう何も言わず。それでも根気強く言うのは亮太郎だけになっていた。こういう根気強い部分が、ひねくれ者である俺と接し続けて。今もなお友達で居られる理由だろうか。

  仲良くなった、のだろうか。あれがきっかけだったとなると、全く腑に落ちないのだが。一応好かれているのだから強くも言えず、その触れ合いを迷惑そうにしながらも結局は許してしまっている俺にも問題があった。

  こうして。そんなふうに亮太郎と晴喜のお陰で、言ってしまえば飽きない。楽しい学園生活を送れているというのもまた、事実であった。そうだ、楽しいんだ。俺、この二人と居ると。楽しいんだ。

  楽しいだけで。それだけで終わらない、不安要素が向こうから歩いて来なければ。気づいてしまったそれらに、もっと深掘りして。自分を変える手掛かりを知れた気がした。

  「伊吹」

  放課後に珍しく。虎と犬ではない、そして先生でもない声が俺を呼び止めたのだった。

  振り返れば、金色のように見えなくもない毛皮を纏った狐の顔。真由理が立っており、こちらに歩いて来る途中で。両隣に立っている虎と犬は、そんな俺に声を掛けた人物を視認した瞬間。少し雰囲気を変えていた。忙しくしているのか、どこにも部活動に所属していないらしい真由理は。授業が終わればすぐに姿を消してしまうのか、俺と鉢合わせる回数は少ない。

  あの俺の家での一件以来。携帯でたまに、学校には慣れたかとか。体調はあれから問題はないかとか、そういった言葉を貰うが。その程度だった。あまりメールでの会話は続かない。俺が淡々と返事してるのは、関係ないと思う。

  だというのに、今日は珍しく。学校内で話しかけてくるのだなと、普通に向き合い。どうしたのだろうかと、そんな狐獣人の顔を見上げる。こうして隣に、巨体の虎と。あまり身長が変わらない犬が並んでいるというのもあり、改めて比べると。真由理は背が高い部類なのだなと、近づいただけ。首の角度がきつくなっていく。それでも、発育が良すぎた亮太郎程ではないのが、虎はさすがと言うべきか。この虎を基準にしてしまうと。いつも扉の縁に頭をぶつけないように、屈んでいるし。となると、真由理は二メートルとちょっとかそこらだろうか。測る道具が欲しい。亮太郎に勝ってなくても、十分過ぎるぐらいには。この狐もまた背が高い。俺の隣で、一緒になって狐を見上げるハスキーは。ぽかんと、口を開けていた。舌は無論出たままだ。しまえよ。

  周囲を獣人三人に囲まれて、見上げるばかりで。低身長の気分に陥る。百七十はあるのにだ。おい、平均はあるぞ、理不尽だろお前ら。余ってるのならその背、寄こせよと思わなくもない。特に亮太郎、絶対余ってるだろ。くれよ。

  「こんどの休日、あいてる?」

  そう切り出す真由理の顔を、まじまじと見つめ。少し遅れながら、俺の予定を聞かれているのだと。気づいた。これまで、誰かと休日を過ごすなんて事がなかったので。そういう発想に至らなかったというのもある。一緒に暮らしている月路さんは別だが。お互いに慣れていこう。そう言った彼は、本当に俺とちょっとずつ打ち解けていこうとするつもりなのだろうか。その真意を測りかねていた。そうこうしていると、横から俺を庇うようにして抱き締めて来る晴喜。その突然の行動に、またかって。最近では慣れつつあるのが恐ろしかった。そんな俺の顔と、犬の顔を見て。糸目ながらも、眉を顰める狐の顔。それでも俺が普通に真由理に応対し、彼もまた俺にくっついている奴を無視して会話を続けようとすると。

  あわあわと焦るようにして。頭をこねくり回していたハスキーは思いもよらぬ事を口走るのだった。

  「お前、伊吹のなんだっ!」

  急に、吠えるようにして。晴喜が声を荒らげる。誰かに怒ったり、そういった拒絶の意思を向ける事を見た事がない俺からすると。至近距離にあるハスキーの顔は珍しく、敵対心をもろに剥き出しにしているのだから。された真由理本人ではなく、俺の方が驚いていた。そんな理由のわからぬ敵対心を突如向けられた狐の反応はとても冷めたもので。温度差があった。努めて冷静に。

  「君こそ、突然なに? 僕は伊吹に話しかけてるんだけど、邪魔しないでくれる?」

  亮太郎は、心配する素振りは見せても。口出ししたりせず、様子見に徹していて。わからない程度に少しだけ、俺の傍に寄ったから。もし何かあったら、晴喜から俺を奪うようにして。守ろうとする意思が垣間見えた。あまり取り合う気もないのか、真由理は。先程の質問を優先し、ハスキーの威嚇顔をまた無視するようにして。俺の方にその細長く感じるマズルを向けていた。だから、自分のありもしない予定を一応考える振りだけして。少し間を空け。ないよって、そう返事するつもりだった。嘘を吐き慣れていたが。ここで嘘をつく、意味はないし。だが。

  「い、伊吹は次の休日。オレと遊ぶ約束してるから埋まってる!」

  「おい、晴喜」

  そう慌てて捲し立てる駄犬に対し、そんな相手の名を呼べば。怒られたと。しゅんと、勢いをなくし耳平べったくした。至近距離にある犬の顔が露骨に変わる。そんな約束していないのに、勝手な事を言うなのと。目で訴えるのだが、オロオロと。晴喜の青い瞳は、横に動くばかりで。でも撤回はしなかった。

  誰がどう見ても、嘘だとわかるぐらいには。この晴喜という子は、嘘が吐けない性格なのか。思いっきり顔、というか全身に出ていた、というより出過ぎていたのだった。バレバレである。それを一緒に見ていた真由理は、特に何も言わず。納得すると、じゃ次の週空けといてねって。こいつもまた勝手に決めるのだった。

  それで用は済んだとばかりに。俺達を通り過ぎていくのだから、相変わらず傍若無人を地でいっていた。俺はそれで良いと返事すらしていないのにも関わらずだ。おい、俺の返事ぐらいは聞けよ。

  遠ざかっていく狐の背を、見えなくなるまでハスキーはぐるぐると唸るようにしており。毛を逆立てていた。俺は、そんな晴喜を睨んでおり。それに漸く気づいたのか。こちらを見て、犬の顔が。また悲しげになるのだが。

  「お前な、何で嘘ついたんだよ」

  責めるようなもの言いになってしまうのはしかたがなかった。それは、隣で黙って見ていた。亮太郎もそうであったのか、無言で。犬の顔を俺と同じようにして睨みつけていた。人間の俺だけの視線というより、昔からの友達である虎の。あまりに威圧感のある睨みに怯えてか。尻尾を股に挟んだ晴喜は。言葉に詰まっていた。その仕草を見ると、ちょっと可哀そうに思ってしまうが。被害者は俺だ。

  本人ですら。どうしてそうしたのか、いまいち理解できていないようであった。だが、俺の同意もなく。嘘をついたのだ。それは駄目だろって、諭すように言えば。晴喜は謝ってくれる。そうやって自分でして、してしまった後で。どうしてそうしたのか。わからないと、困り果ててしまった晴喜。

  「伊吹と仲良さげに話すあいつを見たら、無性に。オレ、なんていうか、ムカムカして。それで、つい……」

  晴喜の言い分に、俺と亮太郎は顔を見合わせ。それって、そうお互いに。ハスキーが突如湧いた感情にどういった名前をつけるべきか迷った。その間に落ち込んでしまった犬の顔に、管狐がするりと近寄り。俺以外見えないのをいいことに、つんつんと。面白おかしく前足でつっついていた。触れた感触もないのであろうが。

  「モテモテってやつ?」

  そう管狐は、こちらを見て面白そうに首を傾げていた。また状況を楽しんでいるこいつの悪癖に付き合う気のない俺は、二人が居るのもあって。真由理が晴喜を無視したように、管狐を無視していた。取り合う気もないし、俺がモテるわけないだろ。という気持ちもあった。自分でも言ってはなんだが、かなりひねくれて。面倒くさい性格をしている自覚はある。

  「狐野柳か」

  ぽつりと亮太郎が廊下の先、もう真由理が見えなくなった方向を見ながら言うのを拾う。そして、亮太郎は俺を見下ろしていた。何かしらを含んだ表情で。仏頂面になってしまったのは、何が原因か。

  「知り合いなのか、伊吹」

  「あ、ああ。ちょっと、な。というか亮太郎も知ってたんだ、真由理の事」

  許婚です。一言で言えばそうだが。あまりに説明するにはややこしすぎた。だからこそ、俺はちょっとなと触れないでって感を出しながら言うのだが。亮太郎が別のクラスの、真由理を知っているのが。

  でも、俺と違って誰とでも話せるの社交性と。それは少し方向性は違うが晴喜もだが。交友関係は広い筈で、だからこの虎が。あの狐を知らないという方が、どちらかというとあるかないかで言えば。ないのだろうが。それに、真由理は。亮太郎とは別の意味で目立つ容姿をしている。これはご本人様も言っていたから改めて挙げると癪なのだが、あの狐獣人は顔が良い。イケメンの部類であるからして、だからこそ。普通に歩いているだけで目立つのだった。対して亮太郎は、顔は凛々しくも。ちょっと厳つい虎の顔を普段は温和に。それか怠そうにしているので。話し掛けて良いタイミングがわかりやすい。だが今だけはそんな虎顔を曇らせていた。顔つきどうこう関係なく、余りある体格があるので遠目でも目立ってしまうのだが。群衆に紛れても、見つけるのは容易であろう。

  そんな虎が難しい顔をして、俺と真由理が知り合いであるという部分に。恐らくはあまり良く思っていないのか。名前と顔だけ知ってる程度だと言い。確かに目立つもんな、あいつって。巨体を見ながらしみじみと思う。うんうん、そうやって頷いている俺に対して。まだ何か言いたい事があるのか。けど、一瞬だけ言うかどうするか迷ったような素振りを亮太郎は見せたのだった。

  「ただ。あまり、良い噂は聞かないってだけだ」

  出席日数を周りが気にする程度には、よく理由もなく休むし。だからといって学校に来ている間の態度は、模範的であり。成績も悪くない。友達も居らず。誰かと親しげに話している姿を見た事がなく。だからこそ、名前と顔だけ知られている。そのような男に、俺が二人の前で親しげに声を掛けられた時。虎と犬の雰囲気が変わったように感じたのは間違いではなかったらしい。

  それで晴喜は守るようにして俺に抱き着き隠すようにしたのか。それをするのなら、身体の大きい亮太郎がする方が効果的なのだろうが。男友達である俺に対して、抱き着いたりとかそう言った事をする人物ではなかった。晴喜が特殊なのだと思う。

  それと、女生徒。そういった模範的な授業態度と、ハキハキと先生と受け答えしている姿を見て。好意を持たれる例も一応はあり、顔が整っているのも含め。

  だが。そんなものもだんだんと鳴りを潜め、実際に真由理が何かした。というわけではないし、証拠もないのだが。ある時、良くない噂が一つ。流れ出した。

  真由理に告白した子は、翌日から体調を崩し学校に来なくなる。

  亮太郎みたいな人、そういう根も葉もない噂を鵜呑みにし、関わるなと。そう言うような奴ではないと、勝手に思っていた俺は。そんな虎の姿に少し幻滅したような気分になる。あまり誰かの事を悪く言うような人ではなかったから。それは晴喜もそうで。この虎も、そしてハスキーも。日常会話の内、先生に対する愚痴は言いはしても。それ以外、他の生徒の事とか。悪く言う姿がなかった分。本当かどうかもわからない噂に流されるんだって。唇が震えた。それに目敏く気づいた虎は。何か知ってるのかって目を細めていて。

  知っている、と思う。陽の力が強すぎる真由理は、他人との接触ができず。触れた女の子は、体調を崩したと。それは本人の口から、直接俺は聞いていたからだ。だが、それで。その子が二度と登校できないようになるなんて。あの男を庇いたくはなかった。あの狐を、良くは思っていない俺は。それで、そんな噂があるんだ。マジかよって、そんな顔して。亮太郎の忠告めいた、この話題から。早く離れたかった。誰かを悪く言いたくない。という俺の偽善者ぶった心がそうさせたともいうし。ただただ。それが本当なら、あの狐は。それはしたくて、そうしたわけではないと。思わず反論したくなったからというのもあった。視たくて、視えるようになったわけじゃない。好きで、こんな身体になったわけではない。俺と、共通する事が多いあの狐に。俺が今抱いている感情は、同族意識か、同情か、哀れみか。

  「そんなの、ただの噂だろ」

  真由理は関係ない。真由理のせいじゃない。そう強く否定したい心を押し殺し、噂話自体を否定する。だがその時の俺の声音は少し強張ってしまっていて。伊吹。そう不信がり名前を呼ぶ虎の顔を見れないで。俯いてしまった。

  嘘から出たまこと。とは言うけれど。あまりに気落ちしてしまった晴喜が見ていられず、俺は本当に休日。ハスキーと遊ぶ約束を取り付けていた。俺の家の場所を教えるべきか、それともどこか遊びに行ける場所がと。脳内で算段をたてていると。弾かれたように犬の顔が跳ね上がり。両手を胸の前で握りしめ尻尾を振りながら、なら俺の家に遊びに来て欲しいと。言われてしまった。それに対してよく考えもせず、頷いて。この際亮太郎も遊ぶか、俺は三人一緒に行動してたのだから。虎にも聞いてみたのだが。亮太郎は用事があるらしく、辞退されてしまった。俺としては、晴喜と二人っきりで遊ぶっていうイメージが湧かず。こうして学校では三人で行動する事が増えた今であっても。友達との付き合い方とはと、悩む事が多いのだから。だからこそ、居て欲しい気持ちが僅かにでもあったのだが。そうか、それならしかたない。

  休み時間という短い時間ならいいが。学校のない、休日で。二人っきりで話題が尽きてしまうのではないかと。そんな心配もしていたのに。虎はこんど遊ぼうなと言うのだから。そんな俺と亮太郎のやり取りを横で聞いていた晴喜は、どうしてかホッとした顔をしているし。亮太郎が来たら不都合でもあったのだろうか。

  それよりもだ。来週の休日。いよいよ真由理とどこか行くかして。仲を深めよう企画が開催されると思うと、ちょっと憂鬱になるぐらいには。俺はやはり、一方的にあの狐をもう嫌っていなくても。苦手意識が残っていた。こちらの意見をあまり聞かないし。俺の事を、自分の物のように振る舞う様は。反感を買う。特に俺に。表では、優等生を気どっているようだが。俺と二人っきりでは、押し倒して来るし。平気でセクハラもしやがって。思い出すだけで晴喜の言葉を借りるなら、ムカムカするってやつだった。でもその後で、あんな真由理にとっては全くメリットのない約束なんてしてくれて。歩み寄るような態度を示されると。

  ごめんね。あの狐から零れた、その言葉がずっと引っ掛かっていた。一体何に対してだったのだろうか。ふざけた態度をやめて、真摯に。そう謝罪した時の、あいつの顔を思い出していた。話しの流れから推測するなら。やはり許婚になってしまった。事に対してだろうか。真由理本人も、納得しておらず。不本意であった筈で。だというのに。卒業後の俺とのあれこれに、表面上は前向きに取り組もうとしているのだから。行動が読めない。そういう点では、ハスキーもそうなのだが。晴喜の場合、裏表がなさ過ぎて。天真爛漫という言葉が当てはまる。懐っこく、無邪気な仕草は。高校生になっても。やはり突如弟ができたかのように、失礼ながらも感じ。そういうふうに見てしまっている俺は。それなりに心を許しつつあるという事でもあったが。

  ちょっと、もう少し。抱き着いたりとか、そういう過剰な触れ合いは控えて貰えると。俺の心臓が無駄にドキドキしたりしないのだが。人との関係が薄れていた分、それは人との触れ合いも同時に薄れていたという意味であり。だからこそ、手を繋いだりとか。それだけで、俺は狼狽え。照れる気持ちを隠そうとし。つっけんどんな態度ばかり取ってしまうのだった。あまりに引っ付いて来るので。ほのかに香る、晴喜が使っているのであろう制汗剤のにおいまで不可抗力だが覚えてしまった。

  ただ二人と別れた後で。一つ、懸念すべき事があったのを。帰り道。月路さんが運転する車の後部座席。そこから狼の後頭部を見ながら気づいた。俺は監視されている立場であり。こうして送り迎えという待遇までされた状況に、果たして。友達と遊びに行ってもいいのだろうか。

  未だ。誰が監視しているのか発見できておらず。学校という敷地内だから、生徒の誰かか。それとも先生か。月路さんがそういった俺の知らない術で、遠方から。いろいろ考え、結局わからない。という結論になるのだが。そういう方面に詳しそうな管狐に、せっかくなので聞いてみたのだが。

  「ボクは誰かを殺めるのは得意だけど。そういったチマチマした事は苦手なの。あのオオカミか、真由理って子に直接聞いてみたらいいじゃん」

  くぁって、大欠伸しながら。物騒な言葉を交えつつ、管狐は言うものだから。本当に、役に立たない奴って思った。

  妖を追い払うならちゃんと守ってくれよ。最近のこいつの態度は怠慢が過ぎる。元より可愛がったりしていないので。俺に報いる理由なんて管狐自身にはなく、深いところで繋がってると言うのだから。離れられないだけで。俺の命が危ぶまれない限りは、あんまり動いてはくれなかった。話し相手として、何か助言を求めても基本他力本願であり。面倒くさいとし。結局は俺を揶揄って終わるのだから。使えねーって、ご本人様に言えば。ぷりぷり小さな身体を大きく見せるように。毛を逆立てて、なんだとーって怒るのだが。なら、伊吹が望むなら。銀行とか壊してお金を集めたり。嫌いな奴、皆殺しにしてやろうか。いいね、そうしようよ。この街を焦土と化そうよ! 一人、というか一匹勝手に盛り上がり。目の前で身体をくねらせ、そう牙を剥き出しにして悪巧みする狐の額に向け。勢いよくチョップを叩き込むと、きゅうって変な声を出し。浮いていた身体が地面に沈む。はいはい、そういう物騒な事ばかり言わないの。できる筈もないし。それを俺が望むわけもないだろうと。目を回す管狐を呆れながら見下ろす。

  だから結局、俺を監視している謎の存在はわからずじまいというわけで。もしも、月路さんがそうなら。晴喜との事を知られてしまっているのだろうか。それとも、そういう監視の人から聞いてしまっているのだろうか。あれから、トイレの話題を再度蒸し返すような事はなく。自分から触れるのも憚られた。

  「月路さん」

  後部座席から声を掛ける。そうすると、運転に集中していた狼の灰色の毛が生えた。三角の耳がぴくりと動き。なんですかと、穏やかな低い男性の声が前を向きながら聞き返して来る。

  「次の休み。友達の家に遊びに行ってもいいですか?」

  俺の言い方は、とても不安が混じったものだった。晴喜と一応もう約束してしまっていたが、もし。駄目ですと。言われてしまった場合、断りの連絡を入れないといけない。俺の行動がどこまで制限されているか、今一度。考えさせる問題でもあった。ちらりと、ルームミラー越しに月路さんの目と目が合う。この人は、運転中でも良く俺の顔色を窺う。それは監視対象であり、保護者であり、体調管理も仕事の内であるからと言われたら。きっとそうなのであろうが。でもやっぱり、よくよく気にかけてくれていた。

  ルームミラーで見える部分には限界がある。だから見えない所で。膝上で携帯を強く握りしめたそのような俺の姿は。月路さんには正しく映らなかっただろうか。ただ不安げな高校生がそこにいるだけで。その表情だけで相手に与える情報は十分だとも言えたが。

  「良いですよ」

  少しだけ間があった。だからこそ、断られると思った。悪い予感ばかり。でも狼が出した返答は、俺がどこかに遊びに行くのを許可を出す旨であり。ルームミラー越しにでも、微笑んだ。狼の顔。

  「良かった。伊吹くんにも、ついに誰かと学校以外で遊びに行くようなお友達ができたんですね」

  自分の事のように、そうやって。月路さんは喜んでくれて。俺の行動範囲が、そこまで縛らていないのだと。良いんですかって、聞き返そうになる言葉を呑み込み。男の声を聞き流しながら、安心していた。良かった。断らずに済む。そうか、良いんだ。遊びに行っても良いんだ。その安堵する気持ちを俯瞰し。自分の中でどこかに行こうとする、そういった選択肢を捨てていたのだと気づいた。聞いてもないのに、断られると思い。どこかに行きたい気持ちを抱えつつも、家から。自分の部屋から出るのが嫌になって。足を伸ばす先、外に。行動範囲を広げようとして、いざそうして。断られた時の、嫌になるだろう気持ちを恐れて。優しい月路さんが、それは駄目ですと。行動を制限する姿が、見たくなくて。排除していた。そんな自分に気づいた。

  今日の夕食は、ちょっと豪勢にしましょうか。そんな提案に、止めてくださいよって。たかが友達と初めて遊びに行くぐらいで。小さい子じゃないんですからって言い返せば。本当ですねって、笑われてしまった。そうだ、たかが。たかがなんだ。難しく考えて、二の足を踏んでばかりの自分が。そんなふうに思うようになっていた。そんなきっかけを与えてくれたのは、亮太郎だ。

  ピロン。手の中にあった携帯が不意に鳴る。裏面だったそれを、表にすれば通知が一件。タップして、開けば肉のアイコン。晴喜だった。内容は、遊ぶ日何時からにするか。決めてなかったというもので。俺としては、これといって良い時間が思いつかず。相手の都合に合わせるつもりだった。けれど、待ち合わせの場所に際し。そういえば引っ越して来て、基本ずっと学校との往復だけで。それも月路さんの送迎だ。地理に明るいかといわれると、全くと言って良い程であり。ここな! って、晴喜が指名する場所を。すぐにマップアプリで検索する。でもどうやらそれは略称であったのか。ヒットせず、そこが何処だかわからなかった。

  指定した晴喜に聞く前に、運転中である月路さんに聞いてみると。俺が知らないだけで、そこそこ有名な待ち合わせ場所であるのか。すぐに、ああ。そこならと教えてくれたのだった。聞いた正式名称を入力すれば、マップアプリに場所と経路が表示される。俺が暮らしているマンションから、そう離れていない場所で安心した。電車とか、乗り継いだりした経験がないのだから。県を跨いだ事のない俺は、そういった経験も少なく。迷う自信があった。だから。晴喜が指定した時刻から、ナビが想定する時間よりも少し余裕を持って家から出発するべきだった。相手を待たせてはいけないと。そこまで考えて、わかったと。文字を入力する。相手視点だと、略称で通じたと見えてしまうから。あれだが、まぁ。今知ったので問題はないだろう。

  寝坊すんなよって。そんな返事と、骨を咥えた柴犬がぴょこんと画面に出て来て。ワン! っとスピーカーから音がした。どうやら、音が出る系のスタンプらしい。音量は小さく設定していたので、運転中の月路さんが驚いたりはしなかったが。亮太郎もそうだが。スタンプをぽんぽん押すのが、若い世代の流行りなのであろうか。いや、そんなふうに思う俺もまた彼らと同じ年齢であるのだが。あまりそういったものに馴染みがない俺は、ただの文字だけであり。絵文字すら使わない。相手の声も、表情も見えない。文字だけのやり取りにおいて、そういった文体は。相手に対して、素っ気なく見えるだろうか。でもなんだか、いまさら使うのも気恥ずかしいように思うから。デフォルトで使えるスタンプの欄を開いただけで。迷った末結局俺の文は、簡潔な文字だけで終わる。

  でも、きっと相手の画面では。今の俺が感じている気持ちは正しく伝わっていないのだろう。俺はちょっとだけ。友達の家に行く、そう改めて考えるとわくわくしている気持ちが確かにあった。懐かしい高揚感だった。小学生の頃まではちゃんと友達も居て。視える事を隠しながら、そして自分がゲイであると自覚する前だったから。日常で嘘をつく回数もそれほど多くはなかった。人と話していると正直疲れる。隠し事が多くなるにつれ、そう感じる瞬間というのは比例していった。これまでの、そして今の俺の認識であり。中学で人を遠ざけ、もう誰も傷つかないように。俺自身が、傷つかないように。それでいいんだと、納得して。していたのに。亮太郎も晴喜も、俺を構い倒すので。無理やり納得し、寂しくないと虚勢をはっていた俺という人格を。鍍金を剥がしていくようにして。感情を豊かにしていく。だから嬉しがる月路さんに遅れて、俺もまた。その事に対して嬉しがるのだった。

  機会があれば、亮太郎とも。と考えていた。二人を家に呼ぶのも良いかもしれない。俺と一緒に居るのが嫌なわけではないのだろうし。ああでも、ゲーム機とかない。殺風景な部屋だ。遊ぶには困るだろうか。高校生の友達がどうやって遊ぶのか。俺は想像できないでいた。小学生の友達でやった遊びで停滞したままの俺の感性は。鬼ごっことか、缶蹴りとか。近くの川に遊びに行って、泳いだりとかその程度で。森も、川もない。人工物ばかりの此処で、何をして遊ぶのだろうか。些細な悩みだった。一つ解決しても、また新たなそれが浮上して。人と関わらなかった分、俺という人間は。皆よりも人として遅れているのだろう。だからか。亮太郎や、晴喜といった。社交的に、誰とでも話せる人を見て。同じ年齢だというのに、凄いなって。年上の様に感じたり。緩く劣等感を刺激されたりもする。

  そんな俺の醜い感情を誰かにぶつけたりはせず。そして溜め込まれるという事もなく。ああ、独りぼっちで。ただ中学を勉強だけして過ごして、家に帰るだけの。なんの面白みもない日常というのは、どれだけ無作為に。必要な経験を得る機会を道端に放りながら、人生というものを歩んできたのだろうと。そう実感させてくれた。

  だから、そういう面で言えば。俺にとって二人は凄い奴で。そして亮太郎は勉強も俺よりできて、晴喜は留年しないと良いが。そうやってちゃんと、得られる機会の内に経験を享受してきた人達であるから。俺とは違う。劣等感を刺激されたからと、やっぱり凄いなって。二人を素直に賞賛できた。僻んだり、妬んだりといったふうに。俺が彼ら二人をそんなふうに心の中で思い、そういう意味で邪険にしたりと。まだ、俺自身手遅れになっていないのだなと。まだ変われる余地があるのだと。それでも、十分過ぎる程に既にひねくれた性格であるのだろうけれど。

  学校だけで話す関係を、変えるのも。俺から一歩、彼らがしてくれたように。踏み出してみるのも。そう思えるようになったのも引っ越して来て落ち着いた頃合いというのもあって。勉強に関してはまだ、油断できぬ段階だったが。一日遊び惚けても、問題ないぐらいではあった。

  突如俺を取り巻きだした人間関係に、固まった心が揉み解されつつあるのかもしれなかった。でも、そうなっていく。変わっていく自分を自覚しながら。両親の事を思うと、動きだした心は急停止してしまう。狐野柳家に俺の身は売られた。信じたくないそれを。俺は、未だ。両親を否定したくなかった。俺を愛してくれていると、信じたかった。

  だからこそ。月日が経っても、両親に電話一本できないで。そしてそれは、向こうからも同じなのを。より、そうだと。真由理の言葉に真実味が帯びそうで。目を背けたかった。俺から電話して、事実であるか聞けないのだから。父や、母から、元気にしているかと。電話して欲しかった。そうすれば、安心できる。俺は元気にしてるよって。今の身体の悩みも。そして狐野柳に売られたのだとしても。明るく、嘘であっても心配かけまいと振る舞えたのに。それすらできないのだから。

  ああ、そうだ。身体で思い出した。俺の男なのに備わっている子宮は、本当の女性がそうなるように。生理のようなものは起きず。月路さんが用意してくれた生理用品は使わなくて済んでいた。せっかく買って来てくれたが、俺としては絶対に使いたくなかったし。彼には悪いが内心、ガッツポーズしていたというのもある。だから、あの親切丁寧に。狼のおじさんに、多種多様な生理用品の使い方をレクチャーされる時間はなんだったんだと。思いたくもなるのだが。

  でも依然として、お腹の中には。存在しているのだろうその部位を、たまに意識しては。臍辺りを手で擦り、顔を顰めるのだった。こんなもの。いらなかったのに。

  「明日は雄の巣に向かうんだよね、イブキ。なにが起きるのかな、ボクわくわくしてきたよ!」

  車窓から流れて行く景色を見ていると、手首に纏わりつくようにして管狐が曲解した事を言うものだから。ただ遊びに行くだけだというのに。こいつは。雄だの、雌だの。交尾だの平気で言うのだから、考え方としては恐らく動物のそれであり。だからこそ俺達の営み。人間の思考をたまに理解できないと頭を振るのだが。巣じゃなくて、家、な。後雄じゃなくて、晴喜だ。

  こそこそ後部座席で管狐と押し問答を繰り広げていると、どうしましたって月路さんが不思議がるのだが。

  明日は遊びに行くだけ。それだけ。あいつ、晴喜の家に。それだけの筈なのに。なんだか俺は嫌な予感がして。またお腹を意味もなく擦っていた。

  [newpage]

  [chapter:九話 トモダチ]

  ハスキーの嘘を現実にする為に、約束の時間より随分と早く起きて。月路さんに行って来ますと言い、マンションを後にする。本当は学校と同じように車で送り迎えしましょうかという、狼の申し出があったのだが。俺は上流階級の人間ではなく、普通の学生であるわけで。本当なら学校の送迎も止めて欲しいぐらいなのに、仕事なのでと月路さんはそこだけは譲らないものだから。だが今回は俺の完全な私用であるのだから。あまり干渉されたくないというのもあった。

  それと友達との待ち合わせ場所に自分の足で向かうって事すらも、久しぶりであるのだから。俺はそういう部分も楽しみたいと思っていた。晴喜に言ったら笑われるだろうか。何だそれって。でもそれぐらいには、俺という人間は。人との関わりを避けていたのだから。何をやっても新鮮で、目新しく感じるのだった。

  狐野柳家に挨拶しに行った時と全く同じ服装。私服をあまり持っていなかったし、必要でもなかったから。引っ越して来て、買い足すという場面もなかった。制服と、部屋着があれば事足りる。使う場所がなければ、見る人がなければ。だからこそ俺の部屋はずっと殺風景なまま、引っ越してきたその日から殆ど変わっていないのだが。

  マンション周辺を歩くだけでも、此処にはこういう家が建っていて。此処のマンションは一階がテナントとして、貸してるんだなとか。携帯でナビを起動し、指示通り歩いているだけだが。それなりに楽しめていた。あ、コンビニもある。夜中何か食べたくなったら買いにこようか。月路さんが運転している車の後部座席から見えている景色というのは、どうしても限界がある。それは学校とマンションとを往復するだけの、決められたルートを辿るだけであるのだから。でも今はその車で通った道を途中で曲がり、知らない道の中を歩いているのだから。別の角度で、横、裏と。今まで見えていた建物の解像度が上がっていく。バスや電車、タクシーといった移動手段が充実していて。自転車を使う人、俺の様に徒歩で目的地に向かう人だって居て。森が多かったから、タクシーなんてなかったし。バスもこんなにも頻繁に往復してくれなかった。何処かに行くなら、自分の車やバイクを持っていないとお話にならないのが。ド田舎というものだし。だから俺も高校生の、免許が取れるようになったら。さっさと取ってしまって、移動手段としての選択肢を増やそうとしていたのに。持っているのは原付の免許ぐらいである。こっちでも取らせてもらえるだろうか。狐野柳家に頭を下げるか。それとも、自分でバイトしてお金を貯めれば。そうか、そういう用途でもやっぱり。俺にはお金が必要で。

  そんな考え事と、ナビを見ながら歩いていたからか。携帯を持ったまま、正面をちゃんと見ていない俺は。周囲に対する注意になんて意識がいっていないのもだから、人とぶつかりかける。慌てて、道を譲るようにして。避けたからそうならなかっただけで。次はどうかわからない。人の多さも、また田舎とは違うのだから。改めてこの街で暮らしている人と、自分を見比べると。やっぱり、服装からしてちょっと違うのだった。これまで意識した事がなかったというものあるが、俺自身の外行きの服装なんて。とてもラフなもので、無地のパーカーと長ズボン。見える範囲でも、多種多様。露出が多かったり、透けてたいたり。そういった女性のファッションとしてのヒラヒラした服から。カラフルな、中に着たシャツと。上着を軽く羽織る。それだけでも、個人として見比べると。俺と、通行人とでは情報量に圧倒的な差があった。髪だって金髪だけではなく、一部を緑色に染めていたり。そういったものは若い子に多いのだが。それでも、たとえ服を脱ぎ去ったとしても。彼らが自己研磨に、ピアスやネックレス。はたまた刺青。人間だけでなく、獣人もまた。そういうファッション性に関して、感性が豊かなのか。ヘッドホンを首から下げた狼の子。黒色な毛皮だというのに、額の部分や耳の部分を主張し過ぎないようにか。部分的には言えば少しだけだが虹色に染めているようであった。

  俺がそうやって眺めていると。距離があるのに不躾な視線に気づいたのか。鋭い眼光が返され、見ていませんとばかりに慌てて逸らした。絡まれたりしたら大変だ。像獣人、年齢的には月路さんとそう変わらないぐらいだろうか。特徴的な長い鼻が、ネクタイのように胸に垂れていて。その両隣には湾曲して伸びるよく磨かれているのだろう、真っ白な象牙。だがまるで腕にブレスレットをつけるかのようにして、その象牙の一部には木の葉のような刺青が入れられていた。獣人は人と違い、肌を露出している部位が非常に少ない。だから髪を染めたりといった事は、その獣毛に施す事はできても。毛の抜け変わりがとても速いせいで、手間であるから。嫌う人は少なくない。でもそういった獣人の若者には、毛皮を染めるという行動に躊躇や。面倒くさいという気持ちがないのか。多くはなくても、群衆を見渡せば何人かは居るぐらいには。存在していた。ファッションではないが。獣人のハリウッドスターなんかは、撮影の為に全身を一度脱色し。毛染めで印象を変え、役になりきったりする場合もある。前は、優しい牧師さんを演じていた茶色の優しげな馬獣人が。次に出演したアクション系映画では、短い毛を真っ赤に染め。苛烈な銃撃戦を繰り広げてたりするのだから。全身を染めた場合。まるで人間が整形したみたいに。見た目の印象はかなり変わるのだから凄いものだった。

  そういう目立ちそうな着飾り方をしていても、皆がそうやって。流行を気にして、自分という個を主張しまくれば。街の景色に溶け込んで、逆に俺みたいな。何も着飾っていない、言ってしまえばダサい奴というのは。逆に浮いてしまうのだった。ちょっとだけ、待ち合わせの場所へ向かう足取りが早足になったのは。きっと気のせいではなかったと思う。登下校するだけなら、通勤するリーマンとか。俺と同じ学生ばかりであるから。俺もまた、同じように学生服に身を包み。周囲に溶け込めていたのに。仕事から、はたまた学業から一時的に解き放たれた人々の。光の中を歩くと、影のように。存在そのものに居心地の悪さを感じてしまう。これが夜中とか、人通りの少ない時間帯なら。ちょっと近所のコンビニまで、スウェットやジャージ姿の同年代の子も居たのだろうが。誰も、俺を見ていない。気にしてないとしても。皆が、ダサい奴だと。すれ違う人々が、すれ違った後で振り向き。後ろ指差しているような気がしてしまう。これは被害妄想。過剰に人の目線を気にしているだけで。そうではないとわかっていても、俺の歩みは競歩のようになってしまっていた。ナビ通り歩いているのだから、道を間違える事もなく。待ち合わせの場所まで辿り着いてしまって。時刻を確認すると、家を出る時間が早かった分だけ。予定よりも早く来すぎてしまった。

  これからデートなのだろうか。皆、自分をより良く見せたい、よく見られたい。それかただそういう服装が好きなだけか。どちらにせよ、立ち止まった後でも。目に見える人々は、お洒落な人が多かった。これはいけない。俺もまた、そういう服を買わないと。浮いてしまう。人から、普通という枠組みから零れ落ちてしまう。ゲイであると自覚してから、そういう部分に敏感になってしまった。これでは、溶け込めない。普通になれない。あいつは変だと、言われてしまう。人と関わらなければ、外に出ないのだから。お洒落に気を遣わずに済んだのに。これからはそうもいかないのだと思い知らされるようだった。

  「わっ!」

  背後から声と共に、突如襲う両肩に重み。飛びあがるように、俺は声を出して。相手が誰であるか慌てて振り返る。そうやって突飛な声を出して初めて、周りの同じように待ち合わせ場所で佇んでいた人々は。俺という存在をたった今認識したかのように。一瞥くれると、すぐ携帯にと視線を落とすのだから。俺が思っている以上に、ダサい人を気にしていたりはしないのだった。差異を気にしているのは俺だけだ。

  背後に忍び寄っていた存在。青年の声。目線も同じぐらいか、ちょっと高い程度。ぴょこんといつもは元気に立ち上がった黒い三角耳が、帽子を半端に被っているせいか片方が倒れ。もう一つは耳出し穴から出ていた。ぺろんと口からしまい忘れたかのような、犬の舌。特徴的なハスキーの顔は、俺が待ち人にと。もう少し待たないと来ないと思っていた晴喜その人だった。

  「早いな! 伊吹っ」

  「晴喜こそ、随分早いな。まだ待ち合わせした時間より、三十分もあるのに」

  伊吹が俺の家来るって思うと、つい早く来ちゃったと。にへらって朗らかに笑う犬の顔。伊吹もそうなのかって、目を輝かしていた。俺が早く来すぎたのは、迷ったりして遅れたらいけないと。それで早く出て、早足で迷わず着いてしまったからであるのだが。ふりふり揺れている俺にはない感情豊かな。晴喜の場合自己主張の激しいとも感じる尾のせいで、顔ではなく視線が下に行き。服装全体を見る羽目になった。さっき目に付いた帽子といい。学生服以外を着た晴喜という人は、まるで別人のように感じる。元々、毛皮の色を占める割合は白が多いからか。下に黒い半袖のシャツを着ていて。上には青いデニム生地だが、夏用なのか厚みは薄そうであり。それに七分袖だった。下も、全体的に絞られており。足のラインが良く出ていた。スキニーと呼ばれるものだったか。俺とあまり体格は変わらない筈なのに、服装のせいかどこか足が長く見える。踝が見えるぐらいのスニーカーは何処のメーカーか表すマークだけはよく知るものでブランド物だろうか。ちらりと丈の短い靴下がアクセントになっていた。七分袖のお陰か、隠れる事のない手首は身に着けている時計がよく目立ち。ちょっと年季が入っているのか細かい傷があり、でもそんな傷や汚れが逆に良い味を出していると言えた。

  俺がどこを見ているのか、目線で晴喜は気づいたようで。いいだろっ、兄貴のお古なんだって。少しだけ腕を持ち上げて見えやすいようにしてくれる。帽子が斜めに、言い方は悪いが中途半端に被っているのは。そういう着こなしらしい。だが確かに。このハスキーの恰好はとても似合っているなと。ファッションに対してとても素人な目線である俺からしても、そう思えた。ちょっとチャラいような気がしたが。このハスキーの幼い印象を与える笑顔が付属すれば、丁度良い気がしてくる。俺が彼の服装を見ているように。それは晴喜も、俺が今日着て来た服装を見ているようで。だがどうしても、自分で言うのもなんだが。一つ一つ、部位を見ていくだけで晴喜の服装には発見があるのに。こちらはというと印象で言えば、地味と一言で切って捨ててしまえるものだった。

  「似合ってるな。晴喜」

  俺の服装を何か言われる前に、そう自然と相手の服装を褒めていた。こいつ馬鹿だろって、よく思う発言や行動を取る相手に対して。でもやっぱり、俺よりも優れてる部分というのはちゃんとあって。だからこそ、素直に褒めていた。貶される前に、先手を打ったとも取れたが。俺の言葉をそのまま受け取ってくれた相手は、ありがとなって。笑うのだが。

  彼の家で遊ぶだけである筈なのにそこまでめかしこむ理由はなんだ、とも思わなくもない。そういう考えだから、俺の服装はダサいのだろうが。

  「行こうぜ!」

  さっとこちらの手を取ろうとする、相手の手を思わず避けてしまう。何で、手を繋ごうとするのだろうか。此処は沢山の目があって。それに俺達は男同士で。そんな考えが一気に浮かぶ中。晴喜は俺の取った行動を不思議そうにして、やっぱり。再度手を伸ばし、こちらの手を掴んでしまうのだった。

  「ちょっと、おい。晴喜」

  「別に男同士で手を繋いでる程度、誰も気にしないって」

  それはどちらの意味でだと、帽子を被った犬の後頭部を見つめる。手を繋いだら、自分の家がある方にだろう。迷いなく歩き出した相手について行くしかなく。ちょっと気になって、周囲を見回しても。確かに誰も、俺達の行動を。男同士で手を繋いでる姿に対して、気にも留めていなかった。無関心、とも言えたが。伊吹はやっぱり細かいなって、そうルンルンで前を歩く男の子に。じんわりと掌に伝わる、誰かの体温。そうか、俺が気にし過ぎなのか。ゲイであると、晴喜にはカミングアウトしてしまっていて。それなのに、最近。過剰とも言えるぐらいスキンシップが激しくて。だが、それは彼からすると仲の良い。男友達にするそれなのか。他意はなく。晴喜は、ただそうしているだけで。気どらず、自然体で、やれてしまえるんだ。

  俺が意識し過ぎなんだ。きっと。そう納得すれば。軽く犬の手を握り返す。人のそれと違い、毛があり、肉球だってあるから。感触としては自分のとは全然違う。途中、コンビニで適当にお菓子とジュースを買い。保健室の約束を覚えていたから俺が奢ると言えば。まじでーって、ハスキーはかなりテンションが上がっていた。忘れてたのかな。

  もう少し歩き、ビルとか背の高い建造物が少なくなってきた頃。とある一軒家に辿り着く。

  二階建てで、駐車スペースが車一台分。塀で囲まれた家は、限られた土地故に庭がないながらも。集合住宅が多い印象があるこの街において十分立派に思えた。

  戌井。表札にはそう書かれていて、まごうことなき。俺の手を引き此処に連れて来た晴喜の家だった。扉を開けて、ただいまとハスキーが中に呼び掛けると。ドタドタと騒がしい足音がしだした。サイズ違いの靴が沢山玄関には並んでいて。奥行きのある廊下と、二階に続くのであろう階段が目に入った。その階段の裏手側からか、奥からひょっこりと。シベリアンハスキー。晴喜をそのまま小さくしたような顔が二つ横向きに飛び出てくる。顔つきが丸く、まだマズルもあまり長くない。見えない部分では、かなり身体を横に逸らしているのだろうか。

  そんな二人は。先に靴を脱いで、俺に上がるように促す晴喜を視認した後で。人間である俺に興味が移ったのか。廊下を歩き、まだ小さい子が興味津々ながらも。警戒したふうにこちらに寄って来る。

  「ハルにぃおかえりぃ」

  「おかえり」

  身長は一メートルか、もう少しあるかぐらい。そんな子供が二人。玄関口よりも少し高さがある廊下から俺を見上げて来る。表情は、誰だこいつってそんな感じに、言わないでもわかるぐらいには。ぽかんと口を開けていた。こちらを凝視しながら晴喜の足、両方に弟さん二人が陣取ると。ぎゅっとズボンを握っていた。そうすると慣れた様子で出迎えた二人の頭に手を置き。それぞれを優しく撫でる様子は、これまでの俺にとって弟属性とかそういうものから、違った一面。お兄さんというやつをやっていた。

  「こいつら、オレの弟」

  「やっぱり、お兄さん以外にも兄弟居たんだ」

  これまでの言動とかから、家族構成をぼんやりとは察していたが。それにしても下の子は中学生ぐらいと勝手に思っていたのに、見た目の印象だけで言えば小学校低学年ぐらいか。いや。獣人は発育が良い事を勘定に入れると、下手したらまだ幼稚園ぐらいかもしれない。ちょっと歳が離れた兄弟なのだな。

  「両親、共働きでさ。母さんが居ない時は、俺が面倒みてんの」

  足に纏わりつく、弟二人。ハルにぃ、この人誰って見上げながら晴喜に聞いていた。正直、子犬みたいな雰囲気だからか。獣人だけど。思わず撫でたくなるぐらいには二人が可愛いと思った。

  「大人しくしてろよー、兄ちゃん。これから伊吹と遊ぶからな」

  晴喜が屈んで、二人に目線の高さを合わすと。子犬二人は、はーいって元気よく挨拶していた。すると、最初と同じように。ドタドタと慌ただしく一階の奥に引っ込んでいく。こっち、そう手招きする晴喜は。見えていた階段にもう足を掛けていた。お邪魔しますと言いながら靴を脱ぎ、綺麗に揃えた後で。その晴喜の後を追う。そうしながらも、俺は弟さん達が消えていった方角を気にしていた。

  「大丈夫なのか?」

  「んー、大丈夫大丈夫。母さん居るし、午後からでかけるけど」

  こちらを振り返る事なく、そうあっけらかんと言うからには。きっと大丈夫なのだろう。俺としては、一緒に目の届く範囲で遊んだ方が良いのではと心配したというのもあった。ただ親御さんが今は居るのなら。俺がそこまで気を遣う必要もないか。

  ただ午後から居なくなるなら、確かに外出したまま俺と遊び呆けるとなると弟さん二人だけになってしまう。だからか。晴喜が自分家に固執した理由。弟さん二人だけでのお留守番は、少々気掛かりになってしまうぐらいには。大丈夫だと、安心できない幼い顔だった。

  二階に上がり、扉の一つを開けると。比べてしまうのはなんだが、俺の部屋よりは少し狭く感じる。それは物が片付けられもせず散乱しているのと、机が二つ。そして二段ベッドがあるからそう感じるからか。でもやっぱりそれを差し引いても狭い。部屋の数自体はそう多くないが、あのマンションはそれなりに家賃が高いのか個室一つ一つが広々としている。その分掃除が大変そうだが、鼻歌を奏でながら狼の顔をしたおじさんが掃除機を楽しそうによくかけているので。いつも綺麗なままだ。粘着カーペットクリーナーで自身のどうしても獣人だから人間よりも多くなってしまう抜け毛を、険しい顔して取ってたりするし。スーツとか、目立つ。

  俺が目に入った二段ベッドが気になったからか、軽く物を退かし。座る場所を確保してくれている晴喜は、俺がどうして入らず。立ち尽くしたままなのか。こちらの様子を見て得心がいったみたいだった。

  「兄貴、今独り暮らししていないから。気にしなくていいぞ。たまーに、帰って来るけどな」

  よしできた! そう床をぽんぽん叩くハスキーの手を目で追うと。片付けたというより、ただ壁の端に物を追いやっただけの。凄い適当さで確保された場所。どうやらそこに座れという事らしい。読んだ漫画とか。テレビのリモコンとか、ゲームのパッケージが無造作に転がっていた。ベッドの隣。小さなゴミ箱は大量の丸められたティッシュがこんもりと雪山のようになり。そこからポテチの袋らしき赤と銀が辛うじて飛び出ている程度。その近くには、そんな山から崩れたのか。鼻でもかんだ証拠にか、これまたくしゃくしゃのティッシュが二個程零れ落ちてしまっている。

  俺が抱いた、晴喜の部屋に対する感想。掃除とか大雑把な男の子らしいっちゃらしいけれど。それを差し引いても、汚いと失礼ながら思ってしまうぐらいには。物が散乱していた。自分の部屋が極端に何もないからこそ、余計にそう感じてしまうだけかもしれないが。

  被っていた帽子を壁のラックに引っ掛ける晴喜の後ろ姿。彼が毎日寝起きしてるからか、抱き着かれた時にたまに香る。体臭が色濃く残っていて。そして、それを誤魔化す為か。消臭剤を念入りに振りかけたような。不自然な程に柑橘系の香りがした。置き型の消臭剤とか目に見える範囲でなかったので。たぶん出掛ける前にしたのだろう。

  いつまでも突っ立ってるわけにもいかず、示された場所に座り。一つだけあるテーブルの上にコンビニで買ってきた中身を広げようとするが。そうしようとして、ちょっと困った。半分か、もう少し減った飲みかけのペットボトルが多く。そしてここにも、漫画が数冊置かれてあったから。本棚にはちゃんと、まだ入りそうなスペースがあるのにも関わらず。俺が袋を持ったまま、どうしようか迷っていると。晴喜が慌てて机の上にあったペットボトル数個を抱きかかえるようにして持つと。ちょっと捨てて来ると言いながら、部屋から出て行こうとする。が、途中一度振り返ると、ついでに何か飲むか聞かれた。お茶か、コーラとオレンジジュースはあるらしい。そこまで迷わず俺はとても無難にお茶を頼んだ。すると、ういーって気のない返事と尻尾をふりふり大きく動かしながら。お行儀悪く手が塞がってるからか、足で蹴って扉を閉めていた。姿が見えなくなって、階段を降りていく足音だけが遠ざかっていく。

  俺が今日遊びに来ると事前にわかっていたのだから。いくらでも部屋を片付けるタイミングはあったと思うのだが。ファッションはちゃんとしてるんだなって思ったのに、どうやら晴喜という男は。家の中ではかなりだらしがないタイプらしい。昨日やったであろう据え置き型ゲーム機本体がそのままテレビに繋がれており。電源を入れたらすぐに遊べる状態だった。適当に端に寄せた物、ばらばらに瓦礫のようになっていたそれらを。本は本の上に重ね。もう少し綺麗に整える。人の物を勝手に触るのはどうなのか、と思うが。本人が無造作に放置してるのでこの程度なら文句は言われまい。

  そうやって片付けだしたらついつい自分の部屋でするように止まらなくなり。座っている所から手に届く範囲。膝立ちになり、最終的には立ち上がり。物を片付けていた。敷かれた絨毯には、食べかすだって落ちているし。白と、黒の。これは抜け毛らしき。晴喜のであろう、体毛が紛れていた。獣人の一般家庭なら普通だろうか。比例対象が一度だけ訪れた狐野柳家と専業主夫のように家を管理している月路さんなので、あまり当てにはならない気がした。直ぐ帰って来るものと思っていたが、下の階がどうやら騒がしいから。恐らく弟さん達の飲み物も用意させられているのか。そんな晴喜の声らしきものが微かに聞こえてくる。

  ぐちゃぐちゃになったままの布団。二段ベッドの上は逆に綺麗に畳まれていた。きっとお兄さんが寝ていたのだろう。獣人用なのか、少しサイズが俺の普段使用しているベッドと比べて大きく感じる。使える土地は一緒なのに、家具は少し大きいのを使うのだから。獣人が暮らすには、もしかしたら都会は迫っ苦しいのかもしれない。山になっているゴミ箱。そこから零れ落ちているティッシュが気になり。だが素手で触るのは躊躇した。何を拭いたか分からぬのに。それも他人のを拾い上げるのは、と。

  そこで、コンビニで買ってきたレジ袋。晴喜がペットボトルを捨てに行ってくれたおかげで確保できた場所に、買ったお菓子を広げ空にし。手袋代わりに片手に被せる。先ずはゴミ山を真上から潰す。空気を抜くように隙間なく。ぎゅっぎゅっ、そう圧縮するように。そうすると中の空気が押し込むさいに抜けたのか、俺の顔には少し風を感じた。その際に、息をしていたのだから。不可抗力にもにおいを嗅いでしまう。上の部分は消臭剤を振りかけられても、中までは難しかったのか。少し、海産物というか。ぶっちゃけるとイカ臭いものが漂い、顔を背けた。ああ、はい。そういう。油断していた。

  同じ男なのでだいたい察したのだが。こうなる前に燃えるゴミの日に捨てろよと思うが、それを頻繁に晴喜がするようにも思えず。一週間の内二回ぐらいしかない燃えるゴミの日。ともすれば上回る供給量ではこの小さいゴミ箱では受け止めきれなかったという事か。そういえば、学校に来る前に抜いたどうこう。トイレの一件の時言っていたような気もした。朝するのだから、時間が余りある夜にしないわけがないだろうか。男子高校生の性欲。匿名での人間と獣人とで種族別にアンケートを取った場合。オナニーの回数やパートナーとのセックスの回数に関しては、人間よりも獣人の方が多いというまことしやかな嘘か本当かわからないデータもあるらしいし。それでも個人差というものは存在していて。そんな中で、晴喜という獣人の男の子がする頻度というのが。丸められたティッシュの数が物語っている気がした。俺も、その同じ男子高校生なのだが。最近の騒動というか、身に宿る子宮がいざやり始めたら反応しそうで。そういう性欲までも遠ざけていた。

  友達の、性生活に思いを馳せながら。ただの掃除、これはただの掃除だと。言い聞かせるように無心に、ゴミ箱から零れ落ちていたティッシュも拾い。手袋代わりにした袋越しの感触を詳細に認識する前に、ぽいってゴミ箱の中に放る。もう必要なくなったから、手に被せていた袋ごと。素手で触らなくて良かった。本当に。

  意図せず変な気分になってしまった。言ってしまえば普段意識しないようにしている。友達のそういう雄の部分を感じて。だが節度ある人間として、それで何かしようとか。嗅いだりとか思ったりもしなかった。どちらかというと、汚いという感情が勝ったというのもある。

  ゴミ箱の中身が気になったのか、管狐が頭を突っ込もうとしていたので。その掴みやすい長い胴を両手で掴み、こらと小声で叱る。そうすると不満げな表情をしていて、駄目なものは駄目だろ。霊体だから汚れないとしても、そのままよく俺の身体に乗っかって来たりするので。される側としては気分的によろしくはない。好奇心がお旺盛なのもいいが。好奇心は猫を殺すと言うぞ。管狐だが。

  俺が指定された場所に座り直すのと、晴喜がお盆とその上に氷と一緒に並々と液体が注がれたコップを持って来るのに。そう時間的差はなかったように思う。戻って来て、少しだけ一階に降りる時よりも片付いている部屋を見回し。そんな部屋の主である彼に対して俺は普通を装い、お帰りって言っていた。座ったこちらを見下ろすハスキーはきょとんとしていて。その青い目が、ちらりとゴミ箱の方を気にしたような。

  「わ、悪いな。部屋、片付けてくれたんだな。これ、伊吹の分。麦茶だけど」

  「あ、ああ。ありがとう」

  俺が座ってる側の机の上に、茶色い液体が入ったコップがことりと置かれ。どこか上擦った、青年の声が。つぶさにハスキーの顔を見れば、その毛の薄い部分。耳の裏とかが普段よりも赤く色づいていて。喋り方もぎこちない。平静を装うつもりであったのに、晴喜がそうなったように。俺までも言葉尻が上擦ってしまった。机を挟んで、部屋の主が座ると。お菓子を開けていいか聞いて来るので。これには無言で頷く。学校では平気でクラスメイトの下ネタに下ネタで返すのに。どうして今はこうも恥ずかしがっているのか。それは自分の自慰した痕跡を俺に知られたからだろうか。確かに、逆の立場だったらかなり気まずい。だが俺ならそもそもちゃんと片付けているだろうし。そのままにしていたのは晴喜だ。俺は、悪くない、と思う。勝手に片付けたから。そう言い切れないのだが。

  ポテチの袋を持った犬の手は、少しだけ力んでいて。横に引っ張るようにして、真ん中。二人で食べやすいように開けようとしていた。だが、俯いた彼は。袋を見ておらず。目をオロオロとさせており。俺がこれはまさか、そう思った時には。袋が爆発するようにして。中身を四散させていた。

  晴喜の足の上と言わず、俺の方まで飛んで来たポテチ。何やってるんだよって、言いたかったが。それをした本人はより慌ててしまっていて、手をばたばたと動かしていた。三秒ルール。そんな号令でもされたかのように。急いで四つん這いになると、晴喜は絨毯に広がったポテチ一つ一つを摘まんで。広げた袋の上に戻していた。

  お前、全部自分で食べろよ。それ。

  人の家の床に散らばった物を食う趣味はないと。呆れた目線を投げかけながら、一応拾うのを手伝っていた。

  二人で拾い集めたポテチを、もしょり、もしょりと。悲しそうに食べるハスキーの項垂れた姿はちょっと可愛いと思わなくもない。今日は二人っきりというのもあってか。学校でするように、晴喜が俺に抱き着いて来たりはしない。というか、こうして二人っきりだと。普段学校でクラスメイトに囲まれた状態とは、状況が違い過ぎて。距離感を測りかねていた。それは彼もなのか。妙に視線は感じるが。これといって、何か言ってくるわけでもないという。不思議な時間が流れる。話が弾む組み合わせでもないし。これが亮太郎と晴喜であれば、他愛もない話が続くのだろうが。相手は俺である。話題性なんてないぞ。

  それか。もしかしたらゴミ箱の件が尾を引いているのかもしれなかった。こいつにも羞恥心ってあるんだなって。わりと失礼な事を思う。学校で友達と下ネタでゲラ笑いするタイプだし。せっかく奢ったのに、今の彼は。美味しく食べているとは言えず。一度床に落ちたものだから、味わって食べるのも違っていた。別に捨ててくれても良かったのだが。食い意地がはっているのか、それは断固拒否するのだから。

  晴喜の家で、何をして遊ぶのだろうか。このシベリアンハスキー獣人の家にやってきて。ただ時間だけが経過していくのだから。どうやら、このハスキーは何の計画性もなく。俺を家に呼んだらしかった。何するのか聞いたら、晴喜は。あっ、て。今それに気づいたかのようにして。自分の部屋を見回し、出しっぱなしのテレビゲームを指差して。これで遊ぶかって言うのだから。行き当たりばったり。この男に前段取りや、計画性を期待するだけ無駄かもしれなかった。それか、普通の男友達というのは。事前に入念に計画して遊ぶって、わけでもないのか。これは俺の他者と関わらないまま過ごしていた固定観念かもしれないのだし。

  これで、呼んだ相手が彼女とかなら。もう少しこの男でも部屋を片付けていたりしたのかもしれない。だが俺は男友達であるから。面倒くさがったか、俺も気にしないだろうと。そう高を括ったか。

  コントローラーが二つ。お兄さんとよく遊んでいたのか。ソフトを幾つかこちらに差し出し、選択肢を与えて来る。自キャラをカメラが背後から映す三人称視点型の、銃や剣を使い敵キャラクター倒す。協力型アクションシューティングゲーム。他は対戦ゲーとか。そんなの。携帯でやれる、俗に言うガチャゲー以外、あまり触れた事がない俺は悩むも。対戦ゲーだと一日之長、というよりかなりの経験の差があるだろうし。ただ負けるだけを楽しめるとも思えなかったので。無難に協力型のを選んでいた。銃を撃ったりするテンポの速い戦闘もやった事はないが。物は試しだ。ゲーム機を起動し。準備し終えた晴喜は。俺に使い込んだ形跡のあるコントローラーを渡して来る。ちょっと裏面の自社のロゴがプリントされたシールとかが一部剥げていたり。アナログスティックの軸に、白い粉みたいなのが付着している。何だろうか。

  テレビ画面に向き合うと、退屈そうな管狐が頭の上に乗っかって。観戦者が一人というか、一匹。長い胴をぶらんと背中側に垂らしていた。もしも誰かに見られたら、変わったポニーテールみたいだろうか。

  あれこれアドバイスはしてくれるのだが。本当に最初、俺はよく死んだ。敵の猛攻に上手くガードも使えず、反撃しようとして。こちらの攻撃が出る前、予備動作の段階で潰され。一応硬いらしいキャラは、HPも低く紙装甲であるが高速移動ができるらしい晴喜のキャラよりも呆気なく倒される。その都度、彼が操作するキザな鼬獣人のキャラが。皮肉を言いながら起こしてくれるのだが。どうやら死んでも味方が全滅しない限りは、何度でも蘇生可能らしい。

  死んで覚える。まさにそれだった。操作が覚束ないながらも、一時間もする頃には。あまり死なないように立ち回る事ができ。晴喜が行け! そこだって! そんな号令が掛けられると、俺は慌てて必殺技が放てるボタンを押して。その結果、画面にはステージクリアなんて文字が浮かんだり。楽しめるのかなって。やった事ないゲームに対してそんな不安は。やっている内に、いつの間にか時間が随分と過ぎ。時計を見れば昼に近づいてるのだから。つまり、俺は時間の感覚を忘れるぐらいには熱中していたらしい。

  「久しぶりにやったから親指いてー」

  ふひーって、そんな息を吐きながら。上体を逸らし、両手を後ろについた状態で。テレビ画面を見つめるハスキー。俺が操作してる隣では、確かにカチャカチャと激しくボタンを押していたから。高速移動できる分、要求される操作量は多いのかもしれなかった。お腹空いたと。腹を擦る彼の言葉で俺も空腹を自覚する。買ってきたお菓子は晴喜が殆ど完食してしまっていた。まだ食べれるんだって、床に持っていたコントローラーを置きながら思わなくもない。次、もっと上の難易度やってみるかって。そんな彼の提案は、コンコンと。控えめなノックが遮った。

  「晴喜。お昼どうするの。食べに出かけないなら、良ければお友達のも作ろうか?」

  「あ、家! 家で食べるっ!」

  扉を少し開け、顔だけ出した。シベリアンハスキーの獣人。弟さんではなく、顔の位置が随分高いし。声が女性のそれであって。会話の内容からきっと母親であろうか。晴喜の方を見ていたその顔が、不意にこちらに向くものだから。反射的に会釈だけしていた。あらあら、ゆっくりしていってねって。親しみやすそうな犬のおばさん。顔つきというか、毛の色合いが皆同じで。血が繋がってるのだから当然でもあるが。生まれた順番を考えると。晴喜って、母親似なんだなって。そんなふうに思いながら、大したものは出せないけどと言う相手に。お構いなくと言うのだった。

  見ている限り、家族仲は良好らしい。というか、自然と俺までお昼ご飯をご馳走される流れになってしまったが。晴喜が当然食べるよなって、そんな態度であるから。良い、のかな。遠慮するべきだったか。

  いいからいいからと、座って待ってろと。ちょっと落ち着かない俺に対して、晴喜が言うものだから。申し訳なさがあった。暫く待っていると、山盛りの焼き飯が出て来る。お口に合えば良いのだけれどと、机に置いて。俺に対してだけ腰が低く、そそくさと退出していく晴喜のお母さん。邪魔しないようにという配慮であろうか。にしても、量が多い。食べ盛りの高校生という事を考慮されてのそれなのだろうが。お茶碗三倍分はないだろうか、これ。スプーンを持ちながら量に圧倒されていた。細かく切られた野菜と、横に添えらえた福神漬け。美味しそうだ。

  食べてみれば、家庭の味というものが口の中に広がる。お店で出るような、パラパラになるまで炒められたものではなく。ちょっと米がねっちょりしているが、味自体は普通に美味しいと言えた。だが、やはり気になるのは量だ。目の前の晴喜は、皿を持って。スプーンで口の中に掻き込むように。というか流し込むようにして、どんどん食べ進めていて。口を閉じた時。向日葵の種を詰め込んだハムスターのようになっているし。おいひー、なんて食べ物を口に含んだまま声が聞こえてくる始末で。どうやらこの量は、このハスキーの胃袋を基準に考えられているらしい。それか戌井家はこれが普通なのか。弟さん達二人と、お兄さんと。自分の子供達全員が男所帯であれば。自然とそうなった可能性も考えられたが。結局半分程食べ進めた段階で、俺の食べるペースは極端に落ちる。普段から量は食べないのもあって。

  だから食べないなら食べても良いかって、そんな助け船というか。涎を垂らしそうなハスキーの顔を見て。そっと、相手の方に皿を寄せていた。まだ食えるんだ、こいつ。俺とそう変わらない体格のくせに、いったいどこに入っているのだろうか。胃、凄い中で膨れてそう。だとすれば、学校で食べている菓子パン程度では。到底お腹が膨れないのではないだろうか。

  胃の中の圧迫感。それに準じる満腹感があり、身体には心地の良い眠気のようなものがあった。晴喜が食器を下げてくれて、二人で食休みしていると。ぽやぽやした犬の顔は、どうやらあちらもちょっと眠そうだと感じた。頭が揺れている。いや、ちょっと、というより。だいぶ眠そう。目があまり開いていない。友達が遊びに来てるというのに、寝る気か、こいつ。俺の名を呼ぶ声も、どこか間延びしているし。

  ハスキーの名を呼び、肩を軽く揺するが。んーって、そんな鳴き声を発するだけで。やっと重たそうな瞼が開いて、こちらを見たと思ったら。しなだれかかってきた。突然の事ながらも、支えようとしたのだが。そのまま一緒に寝転んでしまう。床、片付けておいて良かった。もしも晴喜が物を適当に押しやったままなら、何かしらに身体をぶつけていたかもしれない。

  「えへへ、いぶきぃ……」

  学校でするように、俺にくっついた晴喜は。とろんとした目で、結果的に押し倒すような形になったこちらを見つめ。兄貴にも昔こうしてたなって、そんな事を口走りながら。俺の胸の上に頭を預けて来る。落ち着いた。安心しきった顔をする犬の耳が、胸に片方押し当てられて。

  「いぶき、なんか心臓の音はやい。ドキドキしてる?」

  「おい、晴喜。離れろ」

  俺にも弟が居たらこんなふうに甘えられたりしたのだろうかと、悠長な考えをしていられないぐらいには。こちらの心音を盗み聞きした馬鹿犬の発言に、頬が熱を持つのが感じられ。両肩に手を当て、押し退けようとするのだが。そうする俺に対して晴喜は。やだーって、そんな声を出し。お腹に抱き着いて、させまいと抵抗してくる。何がやだーだ。餓鬼か、お前は。良いから離れろと、再度手に腕に力を入れようとも。びくともしない。やはり力の差はそれなりにあるようだった。それに、脛の部分辺りに。晴喜の股間であろう場所か、何か硬い物を押し付けられるような形になっているというのも。俺の心拍数が上がった原因であった。男という生物は。特に性的な事を考えていなくても、疲れた時、はたまた眠い時。不意に勃起してしまう事がままある。それは俺だって、授業中。それか今のように食後。昼休憩後、少し眠いなって思った時とかに起こりうる現象であった。それが今。晴喜の身体にも起きているのだろうか。

  「おい。当たってる、当たってるから。お前なっ」

  「んー」

  良くわかってない犬の顔は。別に俺に対して性的に興奮したから、それで抱き着いたというわけではないようで。ただ、何となく抱き着いて。そしてたまたま、晴喜の晴喜くんが元気になってしまっているだけのようだった。トイレで、俺の気に当てられた時のように。無意識に腰を押し付けて。その先を求めてるといった、衝動に振り回されたような素振りはなく。本当に、ただ。晴喜の様子はとても遊んで疲れて眠そうな。言ってしまえば電池切れした子供であった。俺の心臓の音を聞いて、何故か楽しそうであるし。瞬きして、ぼんやりとどこかを見つめながら。俺の胸の上にある犬の頭は、何かを考えているようで。

  「そっか。伊吹、男が好きなんだよな……」

  呟くようにそんな事を言いながら。こちらを目線だけで見つめて来る。続いて、耳を胸に当てるようにして。マズルが脇の方に向いていたのから、犬の頭が動き。喉を逸らし、見上げるようにして。ぴすぴす鼻を鳴らしていた。突き出たその鼻先は俺の顎に触れそうだ。

  ぽやんとした、犬の顔に。どうしてか少しだけ赤みがさす。俺の事を凝視しながら、もぞりと。身じろぎした相手はより密着して。まるで股間を更に押し付けるような動作だった。それで何かするでも。何か言うでもなく。見つめ合うだけの時間が過ぎていく。聞こえるのはお互いの呼吸する音だけ。動きはみせない。足に触れている、トクトク脈打っている棒状の塊以外は。なにがしかの感情を湛えたその晴喜の目は。眠気ではない、欲求が混じりだす。青、いや瑠璃色の瞳は。あの時とよく似ていた。俺に欲情していた。あの時に。

  犬の唇が開き、何か言いかけて。閉じる。あの時と似ていると思ったのは、ハスキーも同じだったのかもしれない。何故なら、彼の目線は俺の顔を見ているというよりは。動揺に震える、人間の唇を見ているようであったから。何を考えているのだろうか。普段ははしゃいで、騒がしいこいつも。今だけはとても静かで。俺を見つめるだけであり。

  のそり。ゆっくりと晴喜は身を起こす。両手が、俺の顔の両隣にあって。より覆いかぶさる形になってしまっていた。暗い。部屋の照明であるから。逆光で相手の表情が見えなくなるという程ではないが。それでも、今犬が感じている感情を読み取るには。足りないと思うぐらいには。晴喜の表情を言い表すには。震えるようにしてある、犬の髭。彼の吐息すら、顔に浴びそうだった。

  こちらを見下ろす眼差し、そこに。男の子ではなく。雄を感じた時。さっきまで、一緒にゲームをしてふざけていた奴と。そして昼飯を食べて幸せそうにしていた奴と全く同じな筈なのに。どこか違っていて。また、何か言おうとしてるのか。口を開きかける。俺に対して何を言うつもりであるのだろうか。この状況で。何を。

  落ち着こうとしても心拍数がまた上がってしまう。一度、彼のをフェラしてしまってからというもの。俺は無駄にこいつの事を意識してしまって。だというのに、そんな相手はまったく意に介さず。学校では他意もなく触れまくって来るのだから。心臓に悪い。でも今までの無邪気さとは無縁であり。普段は幼い印象を与える彼であっても。今は、今だけは。違って。どう違うか、言葉にできなくて。退けよと、言えなかった。もう抱き着かれていないのだから、抵抗できる筈の俺は。ただじっとしていた。

  「ハルにぃ、ゲームかしてぇ」

  「貸してー」

  バタン。ノックもなしに突如開かれる部屋の扉。俺に覆いかぶさっていた犬が、途轍もない反射神経で何かに弾き飛ばされたように浮き上がり。空中で身体を捻ると、俺を踏みつぶさないようにか、隣にダンッと大きな音を立てて着地していた。片膝を床につけて。どこかのアメコミのヒーローがさせるような。膝を傷めそうな、そんな見た目だけ格好いい。実用性のない着地を披露して。扉を開けた瞬間、自分達の兄がそんな事をするものだから。状況が読み取れないまでも、パチパチと。兄ちゃんすごーいって、弟さん二人は拍手していたが。

  「の、ノックはしろって。いつも言ってるだろうが!」

  怒鳴るようにして、晴喜が弟さん二人にプライバシーを侵害されない為の決まり事らしき文句を言うが。そう言われた二人の顔は、ケロッとしており。あまり響いていなさそうであった。

  「ハルにぃが前、一人でおちんちんで遊んでたの。お母さんに言ってないよ?」

  「ちゃんと黙ってる約束守ってるよぉ」

  みるみる、茹るように毛皮の下にある地肌を赤く染めているのか。拳を握り、小刻みに肩と言わず身体全体を震わせている晴喜の背中。聞いている俺の方を時折気にしており、そんな姿はとても憐れであった。たぶんオナニーしてる場面を家族に見られたといったところだろうか。適当に携帯ゲーム機らしき物と、幾つかのカセットを荒々しく掴むと。足音を大きく立てながら。早く部屋から出ろと、弟さん二人の背を押しやろうとしていた。

  「ハルにぃ。なんで前かがみなのぉ?」

  兄の挙動不審な様子にか弟二人の内、片割れが背を押されながらもそんな疑問を投げかけていた。前屈みな理由は、たぶん俺しかしらない。扉を閉めて。その閉めた扉に頭をぶつけるようにして、身を預けた晴喜は。ぜぇはぁと、全力疾走したかのように。息を整えていた。その間に普通に座り直して。しれっと、自分の反応しかけたモノの位置を直す。晴喜が振り返る前に。

  戻って来た表情は、この犬にしては珍しく不機嫌そうだった。邪魔されたからだろうか。何を邪魔されたというのだろうか。俺達には、何もない。何も。その筈で。だって、ただの友達であるのだから。そうあるべきであった。

  無言でまた俺の隣に座る相手から目を逸らし、次は何して遊ぼうかとか。あまり帰りは遅くならないようにしないと、月路さんを心配させてしまうなとか、そんな事を考えていた。泊まるわけにはいかないし、元々そんな予定で来てもない。そうするまでの関係でもない。

  胡坐をかいた彼は、俯いており。同じようにこれからどうするかを考えているのだろうか。呼吸は整ったようだが。未だ、股間は落ち着いてない。盛り上がり、ズボンがテント状に主張していて、俺は意識しないよう極力そこを見ないようにしていた。そういう空気に持っていきたくはないし。

  それからのハスキーの挙動は不審な部分を多くしていく。ずっと落ち着きがなく、目線を彷徨わせており。俺の身体を見たり、そして部屋にある時計を確認したりと。そんな晴喜の様子をどうしたんだと見ていると、ばっちり目が合い慌てて逸らして。また同じようにしていた。

  「ほ、ほんと。なんど言っても、あいつら言う事きかなくてさ」

  恥ずかしがっている。痕跡を見られた事以上に、していた事を家族にバレたのを俺に知られたが故に。恥ずかしがっている、と言うのが正しいのか。同じ男として、オナニーぐらいはするだろうという思考なので。それを家族に知られたり、初めて家に呼んだ俺にそれを知られたのも。同情はしても、嫌悪感とかそういったものはそれ程、感じなかった。もっと凄い事、実際にチンポだって見たし。咥えてしまった相手というのもあって。俺の中で比べてしまうと、衝撃が少なかったというのもある。ただそこまで気にしなくてもと思わなくもない。逆にそういう態度を取られると、俺までなんだか恥ずかしくなるのであって。だからこそ、普通でしょ。一貫してそんな態度を貫いていると。そ、そうかって。漸く晴喜が落ち着きを見せ始めた。

  「そうだよな。伊吹もするよな、そうだよなっ」

  パタパタと尻尾を振りながら、そのような事を言うこの駄犬を。どうするべきだろうか。あまり表沙汰にしたくない部分というのはあるのだが。当然俺だって、男としてオナニーしてるどうこう。面と向かって語り聞かせるつもりはなく。さっきまでの晴喜のように、知られた場合恥ずかしく感じるというのに。そこは考慮してくれないのだなと。口元がニヤケている彼の顔は腹が立つものだった。

  「というか、いい加減それ。どうにかしろよ」

  見たくないし、指摘したくもなかったが。話題として触れたのが。まだ盛り上がったままを維持している股間の晴喜君である。そう指摘された犬の顔が、あって反応し。今更手でそこを隠そうとしていた。本当に今更である。ちょっと前に俺の足に押し付けたりしていたのにだ。

  「えっと。俺一度勃っちゃうと、その。なかなか治まらなくて。だから朝立ちしたら起きた時毎回抜いてるんだけど……」

  いや、そこまでは聞いていないと。そんな心持ちで顔を顰めていた。また少しだけ身を寄せて来る相手。何で寄るんだ。膝同士が触れ、姿勢を低く俺の顔を覗き込んで来る犬の顔。期待を含んだ眼差しに、嫌な予感がしたというのもあった。だから身を引こうとするのだが。そうしようとすると、手をついていた俺の腕。手首を晴喜に掴まれてしまう。

  「伊吹ってさ。男が、好きなんだよな。てことはさ、オレのちんちん食べれたって事はさ。つまりさ、オレの事。その」

  「やめろ」

  下心の気配を感じ。何かを言いかけているハスキーの台詞を先回りして。被せるように、全てに対して否定していた。拒絶していた。そして、俺は納得していた。彼が何を期待していたのかを。何をどうして、俺にして欲しくて。この家に呼んだのかまで飛躍して。そして落胆していた。どうしてそのような気持ちになるのか。これまで友達と呼んでくれた事に対して、とても浮かれていたんだなと、俺自身を俯瞰して。そんな滑稽な自分を嘲笑ってもいた。ああ、そうか。それが目的か。なんだ。

  えっ。そんな表情で固まってしまった相手に対して、どうする事もできず。最初が間違っていたのだ。仲が深まったと思っていたのは。彼の中で、俺が[[rb:そういう > ・・・・]]対象であると認識されたからなのであって。別に友達だから、そういう意味で好きになってくれたわけではなかったのだなと。欲情した目を向けられ。前と同じ事を期待したのかもしれない相手に。

  過剰にも感じる、最近の抱き着いたりといったスキンシップに違和感を抱いていたけれど。そっか。好かれる行動、言動をした覚えのない俺に。懐くように。仲良くなったと勘違いしていたのだろうかと。そう落胆していた。自分に。

  掴まれていた腕を振り払うようにして、晴喜の手から逃れる。思ったより力が入っておらず、簡単に振り解けた。立ち上がると唖然と見上げているハスキーが居て。瑠璃色の瞳に、困惑と、動揺の色が見て取れた。初めて咥えたと、余計な事を言ってしまったあの時に。勘違いさせてしまったのだろうか。それで俺に、ゲイだからと性的な事を強請るなら。

  「そういうつもりなら、帰るわ」

  あれは事故である。それは間違いない。それで、晴喜の中で。俺という人間がどういう存在であるか、どう変わってしまったとしても。それは俺のせいであり、責められない。自分の先天的に生まれ持った身体のせいでそうなったのだから。だから落胆した自分の感情もまた、かってに相手に期待していたからくるものであり。実際は違うとしても、そういう感情を抱くのもおこがましいのだった。相手を傷つけず、トラウマにならずに済んだだけで。満足して、それ以上を求めなくて。求めてはいけなくて。初めてカミングアウトした相手が。これか。

  家に呼んで、えっちな事ができるのを。あわよくばを期待していたのだろうか。そんな相手に背を向けた。

  「あ、違っ。伊吹、オレそんなつもりじゃ!」

  勃起したまま、何かを言う相手に。それ以外に、どういうつもりなんだよと。ささくれ立った心が、今すぐここから立ち去りたいと俺の身体を急かす。相手の顔をそれ以上見ていたくなかったというのもあった。身体の関係を求めてるのなら、そういう場所にでも行けよと思わなくもないが。そういえば俺達は未成年である。利用自体は無理で、そんなところに。性欲を持て余しがちな年代において。丁度いい性処理相手が見つかったとしたら。どんなふうに映るのだろうな。想像して、やめた。気分が悪くなるだけであった。

  追いかけて来る相手を無視して、階段を降りていく。ドタドタと騒がしく帰ろうとする足音のせいか、弟さん達二人が一階の奥から顔を出していたが。ただならぬ雰囲気を察したのか、それとも兄が何かやらかしたと思ったのか。興味深そうにはしつつも首を突っ込む事もなく、様子を窺っているだけであった。喧嘩したとでも思われたかな。喧嘩ですらなかったが。

  靴を履き。さっさと立ち去るに限ると、お邪魔しましたと一応声を掛けながら。弟さん達の方にだけ手を振ると、小さな手を振り返してくれるものだから。可愛らしいなとこんな時でも少しだけそんな様子に微笑ましくも思った。

  玄関の扉を開き、閉めながら立ち竦んだ晴喜を一瞬見た。外までは追いかけてこない相手は。ぺたりと耳を倒し、俺を悲しげに見つめていて。期待していた事ができなくて、えっちな展開になれなくて。落ち込んだというよりは、どこか違うと思わせるそんな表情に、外と戌井家を隔てる扉を閉めながらズキリと。身体の関係を求められた俺の胸が、なぜか痛んだ。何でお前がそんな顔するんだよ、と。

  「伊吹! ま、また、学校で」

  バタンと扉を閉める音に遮られるようにして、辛うじて聞こえた晴喜のそんな台詞。俺は間違えたのだろうか。何を間違えたのだろうか。具体的にそれがわからないまでも、対応を間違えてしまった事だけはわかった。男が好きだからと、節操なく性的な事をする。求められる事に、嫌悪があったから。つい咄嗟にとってしまった行動ではあったが。やり過ぎたと、もう後悔していた。

  携帯を取り出し、月路さんに迎えに来てもらおうかと考え。今の自分の感情の動きに、少し一人になりたいとも思い。表示した画面をすぐに閉じた。浮ついた気持ちで、あのハスキーと手を繋いで歩いた道を。気落ちして、一人で歩く事になるとは思いもよらず。小さい頃以来であった。だから浮かれてたんだ。友達の家に遊びに行くなんて。自分で遠ざけてしまっていたのに。久しぶりにそんなイベントに遭遇して。自分にも友達ができたんだと。喜んで。それなのに。それなのに……。

  俺の隣で何も言わずふよふよ浮いている管狐は、普段のように茶化すでもなく。じっとこちらの様子を窺い、慰めの言葉も言わず。ただ暫くすると肩に乗っかって来る。どれだけ、今日を俺が楽しみにしていたか。知っているからか。正直、普段通り。嫌味に、茶化して。状況を面白がってくれた方がこの時は良かったのに。やめてくれよ。余計、惨めになるじゃないか。

  予定より早く帰路についてしまった。本当ならもう少し、晴喜の家に居て。もう少し打ち解けて。心の距離を縮められたかもしれなかったのに。不器用な俺では。もうなかった事になってしまった。自分から逃げるように出てきてしまったのだし。

  「俺、間違ったかな」

  誰にも聞こえないよう。小声で、空中に問いかけた。近くを通り過ぎる通行人にではなく、俺にだけ視えている相手にだ。

  「したいならすれば良いし、したくないならそれで良いとボクは思うよ。求愛してくる雄を選ぶのは雌の特権だよ」

  そういうんじゃねぇよ。別に晴喜も、俺とどうこうなりたいとかじゃなく。ただの突発的な性欲であろうし。だからこそ、動物的な思考をする管狐の言葉は状況的に合っているようにも思えたが。でも俺が望んでいた答えではなかったから。不貞腐れた。それに雌じゃねぇと、反論したかった。でもそれができない理由もあった。お腹の中。疑似的に備わっている子宮がずっと、勃起した晴喜が近くにいるせいで疼いていたのが。本当に嫌だった。そのせいでより、過剰に距離を取ってしまったのだから。対応を間違えた。そう思うのに、ではどうしたら良かったのだろうかと考える。だが考えてみても、答えが見えず。もやもやとして気持ちが悪い。友達同士で抜き合いをした事があると言っていたし。それに、勘ぐりすぎた俺がそれを重く受け止めて。勝手に傷ついて。それで。

  「……はぁ」

  自然と溜息が出た。冗談じゃねーよって、笑って。馬鹿じゃねーのって。そんなふうに、友達として上手く流せたと。今ならそう思えた。もしもしたいなら自分の手でしとけって、言えばそれで済んだのではないか。その程度の話ではなかったか。でも、できなかった。拒絶反応として。自分の雄を求める、雌性を。否定したくて。性欲を少しでもぶつけようとした相手を、咬みつくように跳ねのけてしまった。相手が本当にそれをしたいかも確かめず。股間の主張は凄かったが。

  歩きながら、携帯を取り出し。月路さんではなく、晴喜宛に謝罪の文でも打とうかと考えて。やっぱりそれも止めた。事を荒立てたのは、俺。なのであろうか。ぼんやりと意味もなく、携帯の画面を見つめながら思う。

  管狐が肩の位置から俺の顔を覗いて来るものだから、画面を狐のマズルで遮られ。俺はそれを手で押し退けた。性的に求められて、もしも身体しか見てくれてない、求められてなかったとしたら。いや、晴喜のこれまでの性格からして。そういうわけないと、冷静になって来た今なら。最後に見た、あの落ち込んだ顔が。性的な事ができなくてというより、そんな顔をしているというよりは。あれは、そう。きっと。

  「気にしすぎだよ、イブキ。もっと肩の力を抜いてみたらいいんじゃないかな。いろいろと、ね?」

  優しく、語り掛けるその声に。声質は子供のそれなのに。まるで母親が幼子に語り掛けるような、不思議な雰囲気を纏って言うものだから。つい足を止めて、管狐の横顔を見入ってしまう。

  「ふふ、思い出すなぁ。童はいつだって可愛いものだけど。イブキを見てるとそう思うよ」

  この管狐はまるで。昔、子育てでもした事があるように言うのだなと思った。後、幼稚園児みたいな扱いをするなとも。前足を口元に当て、遠くを見つめるその姿は。遠い過去に想い馳せているのか。頭の中は覗けないのだから、俺はわかりよう筈もなかったが。

  「……ちょっと遠回りして帰ろうか。イブキ。オサンポしようよ、とても酷い顔してるし。そんなんじゃ。帰っても、あのオオカミに心配されるだけだよ?」

  そんなに、俺は顔に出ているのだろうか。自分自身の頬を試しに触れてみるが、よくわからなかった。冷静なようでいて。胸のもやもやは、依然として晴れないままで。確かに、もしも管狐が言うように。俺の顔が、相手が見て心配してしまうようなそれなら。もう少し時間を置いて帰るべきか。

  「そうするか」

  珍しく、こいつの提案に乗ってみる。あまり耳を傾けようとしなかった、この妖に対し。いつになく、気遣う素振りであったというのもあったし。俺の心が、誰でも良かったから。慰めて欲しいと、そんな弱り切った状態であると自覚したからというのもある。

  「本当! やったー! ならあっち行ってみようよ。ボクもっと街の景色見てみたいっ」

  「お前。慰めたいんじゃなくて、俺が普段引きこもりだから。ただ観光したいだけじゃねぇだろうな……」

  そんなことないよーと。ウキウキした管狐の様子についつい苦笑いしてしまう。学校では授業がつまんないと、どこかに行く場合があるが。基本は憑りついている俺の傍を離れないので、あまり一人で。一匹で、か。お出かけしたりしないこいつが、妙に楽しそうなので説得力に欠けていた。

  はしゃぐ管狐の、子供特有の甲高い声は。よく響く。俺の心の奥まで、その無邪気さを伝えるかのようにして。

  [newpage]

  [chapter:十話 知らない道、知らない出会い]

  管狐の風の吹くまま気の向くままとばかりに。それに向かう道中は晴喜の手に引かれ。彼の家まで迷わず来たというのもあったかもしれない。あっちへ行ったり、こっちへ行ったり。白毛の狐の顔は時折こちらを振り返りながら。見てよ伊吹、此処のお店美味しそうだね。こっちは何のお店だろう。こいつは細長い胴体をくねくねさせては、楽しそうに建物一つ一つに何某かのコメントを残していく。

  その結果。この道を探検しようと突き進むものだから。追いかけるのに必死で、遂には道に迷っていた。ここ、どこだよ。

  だがそれで慌てる場面というのは、現代っ子であり。こうして携帯の電波が遮断されてもない場所なら、別に大丈夫という楽観視もあった。淡々と携帯のナビを使えば、自分の家までのルートなんて簡単に表示されるのだから。

  表通りから逸れ、建物と建物の狭い路地。人が三人ぐらい並んで歩けば容易に道を塞げる程度の狭さ。人通りも減って、何かのお店の裏口か。段ボールや籠。野外用の大きなゴミ箱。中身は生活ごみだろうか、少し悪臭が漂う。あまり長いはしたくなかった。ビルとビルの間は日光もあまり差し込まず、昼間と言えど薄暗いし。

  俺が迷ったからと、一緒に居る管狐も呑気なもので。新しい場所に来たら数メートル浮き上がり周囲を見回したら、また肩の上に戻って来るのを繰り返していた。こいつが居ればたとえ森で迷っても、ドローンのように上空の景色を見てもらい。誘導してもらえば抜けられそうだなと思った。

  曲がり角の先、人の話し声と。物が倒れるような音がする。こんな清掃業者とか店の関係者でもなければ寄り付かなさそうな、面白味のない場所に入り込む。物好きが俺以外にも居たようだった。誰だろうか。それに、何だか暴れている?

  「俺は犬じゃねぇ!」

  突如聞こえたそんな怒鳴り声に、びくりと身を竦ませた。別に俺に向けられたものではなくても。発生元はどうやら曲がり角の先。冷笑と、怒号。どうやら誰かが争っているらしい。人と人が声を荒らげ言い合いするのが、微かに聞こえるものだから。関わっちゃ駄目だ。こんな露骨なまでに人目のつかない場所、どう考えても厄介事で。不良同士の喧嘩とか、そんな所だろうか。聞こえなかったとばかりに、そのまま回れ右をして。一歩、二歩と。歩いて、足を止めてしまっていた。

  「……イブキ?」

  元来た道を戻ろうとしたのに、そうせず。立ち竦んだ俺に対して不思議そうにする管狐。正直関わりたくはなかった。喧嘩なんて一度もした経験がなくても、割って入って止める力なんてないのはわかりきっていたし。貧相な身体に、備わっていると自惚れたりもできなかった。このまま立ち去るべきだ。

  「ほらよっ」

  「うぐッ!?」

  「ギャハハ」

  だというのに、胸騒ぎというか。このまま本当に帰ってしまっていいのかと、疑問が湧いた。喧嘩に至った理由も知らないし、俺まで巻き込まれかねない。でも、でもだ。苦しそうな声が一つだけで。他はなんだか、たった一人を笑いものにするような。下卑た笑い声はとても耳障りで。俺は別に、正義感が強い人間ではなかった筈なのに。

  ああ、もう! 死角になっていた角を曲がれば、一人を。複数人で囲み。一方的に相手を嬲る状況を見てしまった。

  「ハハッ、さっきの威勢はどうしたんだよっ!」

  囲んでいる人達の中から、そのような声が上がると。一方的にボコボコにされているだろう人は、この野郎って勢いよくぶつかって行き。その相手ではなく、別方向から腰の部分を蹴られ。体勢を崩されると、正面から飛んで来た拳を顔面にもろに受け。思いっきり仰け反っていた。酷い。一人に対して、大勢でというのもあったが。本当に、何もさせず一方的な状況に。もしも喧嘩の発端がリンチされている彼にあろうとも、最初から全てを見て聞いたりしていない俺の視点であっても。いくらなんでもやり過ぎだと感じた。これ以上は命に係わるのではと、そう危ぶむぐらいには。口の端から血を流し、ふらふらとしつつも倒れないよう。足を震わせている子が不憫だった。

  「わー、痛そう」

  俺の首にマフラーのように巻き付いた状態で管狐がそうぼやく。どうすれば良いのだろうか。警察、は今から呼んでも駆けつけるまで遅すぎる。道中に交番らしきものはなかった。救急車、は正解かもしれないが。どの道、殴られ蹴られしている子がどんどん弱っていく。どうすれば。

  迷ってる内に、知らず知らずの内に。俺は随分と物陰から身を乗り出していたようで。足に空き缶が当たり、カランと物音を立ててしまう。そうすると、一人を囲んでいた集団の顔が。一斉にこちらに向く。

  「何見てんだテメェ!」

  一人が輪から外れ、俺に対してドスの利いた声を出す。巻き付くのを止め、ふわりと浮き上がった管狐。目を細め。毛を逆立てていた。このままでは、次殴られるのは俺か。やっぱり関わるべきではなかった。警察に電話して、その場を去った方が賢かっただろうか。弱者であるのに。気まぐれのように、ふっと湧き出た正義感で何かできるわけもないのに。でもこれ以上、リンチされてる子が殴られたり蹴られたりするのが見ていられなくて。一度見てしまった後で、もう引き返すなんて選択肢。なかった

  「おい、やめとけって」

  殴りかかろうとした相手を止めたのは、リンチする為に輪を作っていた集団の内。どうやらリーダー格らしき人で。助けてくれたというよりは、これ以上その子を嬲るのにも飽いたとも。目撃者が居て興が削がれたと言った方が正しそうではあった。いくぞ。鶴の一声とばかりに、偉そうな奴が路地の更に奥側に歩いていくと。ぞろぞろと全員が納得していないながらも。その場を後にしだす。最後尾の一人は、ぐったりして動かなくなった子の近くに。ぺって。地面に唾を吐きかけていたが。

  俺が殴られなくて良かったと安堵している隣で、尻尾の先を揺らしながら。相手の集団が見えなくなるまで、管狐は目を細め。睨んでいた。こいつのこんな表情、妖相手でもした事なくて。理由が気になったが。うつ伏せのまま倒れ、起き上がろうとして。でも、それができないでいる子が、ううって苦しそうに呻いたから。考えるよりも先に、駆けだした。

  「き、君。大丈夫っ!?」

  慌てて近寄ると、そこで相手の種族だとかを改めて落ち着いて確認できた。昼間でも薄暗い路地だから、獣人で、犬科なんだなとかそれぐらいは。離れていてもわかってはいたのだが。その顔付きは鋭く、体格もそれなりであって。狼であるのだなと、相手を心配しながら思った。顔の一部に毛染めだろうか。尖った耳の先や、頭頂部には黒色という地味目な元々の被毛に。虹色という派手な色合いが足されていた。そこに一瞬目が奪われかけるが。何よりも、血が口元の短い毛を濡らしているのが。

  「触んなっ」

  俺が抱き起そうと、肩に触れようとすると。牙を剥き出しにして凄まれてしまう。獣人は動物じゃないのだから、咬みつかれないとしても。咄嗟に伸ばした手を引っ込めた。怖い。

  同じ種族ではないので年齢はわかりにくいが。獣人の男の子。声の高さと、態度や。身体の大きさとか。同年代か、少し上かといったぐらいか。身体をひきずるようにして、俺の手を借りず壁を背に座り込んでしまう。さっきまで立っていたのだから、その時の目測でも俺よりは身長がありそうだったから。それなりに体重はありそうだから、きちんと支えられたかは自信がないが。

  クソ、そうやって吐き捨てるようにして。痛みを堪えているのか、自分を抱きしめるように。丸まってしまう。どう見ても放っておける状態ではないし、一人で動けもしなさそうだった。殴られた顔は、毛皮の下から更にぷっくり膨れて。腫れてきているのが伝わる。

  地理に詳しくないまでも、最寄りのコンビニもしくは公園でもないかと。それと病院。携帯で軽く検索した後でこの場合止血というよりは。口の中を切ったようだが。それ以外、血は流れていない。患部を冷やした方が良いのだろうか。そう考え、冷たい水が欲しかった。それか氷。とりあえず持っているハンカチで口元の血を拭おうかと思った。

  だがしかし、そうしようとした俺の手は相手に触れる前に弾かれてしまう。それでハンカチを落としたりはしなかったが。強い力で弾かれたので、その箇所。手首にジンジンと鈍い痛みが走る。

  「助けて欲しいなんて、頼んでねぇ」

  こちらを睨んで来る、まさに手負いの獣といった狼の様子に。若干怖気づいてしまう。目つきだって悪いし。正直、獣人が怒った時の表情は本当に怖い。肉食動物系の奴は特にだ。同じ狼獣人の月路さんとか、ああいう普段温厚な人がキレたらヤバイって言うし。

  人のお節介に対して取った態度。そんな奴、ほっとけばいいのに。そう耳元で管狐が語り掛けてくるものだから。そんな囁き声に後押しされ、俺はこいつの言う事に基本従いたくないという今までの天邪鬼な気質もそうで。そしてこの態度。人の善意に対して、疑い、牙を剥く。でもどこか、心の奥底で怯えているような奴にとても心当たりがあった。

  ――俺を見ているようだった。

  こういう時、亮太郎や晴喜はどうしていただろうか。こちらの意見など聞かず、だいたいは強引に。お節介を焼いたりしてきたように思う。なら。

  大人しくしろと、相手がなおも抵抗する中。脇の下に腕を突っ込み、無理やり相手の合意もなく肩を貸す。少しふらつく狼君の腕をそのまま引っ張るように、しっかりと支えた。こうして肩を貸してみたのだが、やはり背は彼の方が高いようで。そして、重い。

  立ち上がらせると自然と見下ろされてしまった。ただそこまで体格に差があるかと言うと、もっと高身長な真由理や。筋肉達磨と言ってしまえる亮太郎と比べると、そうではないと言える程度であったおかげで。晴喜ぐらいだろうか。だからこそ、あまり鍛えていない自分でも多少無理をすれば支えられたのが幸いだった。

  「俺のヘッドホン……」

  それで歩き出そうとすると、しきりに後方を気にしだした狼君。彼が見ている方向を目で追うと、無造作に転がっている。この子の私物だろうか。路地裏に転がっててとても不自然で、目立つ物。よくある頭頂部から挟むタイプではなく、後頭部から挟むようにし。人とは違う位置にある耳に引っ掛け。三角形状になった音漏れ防止のクッションで囲われたスピーカーをすっぽり耳に嵌めて固定するタイプ。獣人用の特殊なヘッドホンが転がっていた。どうやら喧嘩の拍子に、それは殴られてか、蹴られてか。一部始終見てはないので定かではないが。身に着けていたのだろうそれが、落としてしまったようであった。

  大事な物、なのかな。そんな考えが脳裏を過り。そう考えた時にはもう狼君を支えながら方向転換し、近寄っていた。ヘッドホンに近寄ろうとすると、相手も素直に歩いてくれたというのもあった。

  肩を貸したまま一緒に屈んでもらい、俺が彼の代わりに手に取った。そしてそのまま、時間の経過と共に痛みが増してぐったりしだした相手に渡すと。先程あれだけ抵抗していたのに、何かしら納得したのか黙ってしまうのだから。俺としては都合が良かった。だから事前に調べた。一番近い位置に存在しているコンビニへと足を運んだのだ。長時間支えるのにも、限界はあるからして。

  その最中、当然通行人に目撃されたりはするが。やはり、最初俺が感じたように。変に首を突っ込みたくないというのが大多数の考えであろうか。毛に血が付着している狼獣人を見て、それで通報されたり、心配して声を掛けたりといった行動に出る人はいなかった。田舎だと顔見知りばかりであるから、ご近所さんがすぐ声を掛けて来たりするのだが。こういう部分が人が多い場所だと、一人一人の繋がりが希薄になったりしてしまうのかなと。思わないでもないが。一部、亮太郎達みたいなお人好し。と言ってしまうと失礼だが。ああいう子は、稀なのかなって。

  別にそれで相手を否定したいわけではなかった。自分だって躊躇して。関わりたくないと思ったのだから。その些細な差は、言ってしまえば本当に小さなきっかけだった。元々の正義感がどうこうではなかった。だからこそ、そうしようとしない。助けようという行動を取らない。見て見ぬふりをする人達に対して、そうだよなって。納得して。

  なによりもこれまで俺という人間こそが一番誰もかもを遠ざけ。関わろうとしてこなかったのだから。他人にとやかく言ったり、思うのもかなりどの口がと言われそうだった。そうだ、きっと少し前の自分ならそうしていた。他の人達のように、立ち去っていただろう。しなかったのは。とてもお節介な二人に影響されてなのだろうか。亮太郎と、晴喜。最近できた俺の友達。彼らならどうしただろって、つい考えてしまった。そうした結果、見知らぬ狼獣人の子に肩を貸してしまって、この子をこれからどうするか。また問題が浮上する。

  歩きながらズレていた位置を直す為に、少し身体を揺すり。彼の腕をしっかりと首に引っ掛け直す。

  「なんなんだよお前。いって」

  「いいから。とりあえず、患部冷やそう」

  実際助けられようとしている、この狼君自身。困惑して、俺を見ていた。コンビニまで連行されていく道中。どうして助けたのか、理由を知りたそうだったが。残念ながらその答えを、俺自身持ち合わせていない。君の目が、姿が、俺を見ているようで。助けを差し伸べる手を一度は拒絶されようと、それで見捨てられなかった。

  聞かれたとて、答えられなかったというのが正しい。切れたであろう口の中。歯は欠けていないと良いのだが。眉を寄せ、口をもごもご動かしている狼の顔を盗み見ながら。少しだけ速足になった。

  車が店の中に間違って侵入しないように設置されている、逆Uの字状の形をしている――バリカーと呼ぶらしい――鉄製のそこに本来の用途を考えると怒られそうだったが椅子の代わりに座らせ。待っててねと一声掛けると店内に一人で入る。氷と、タオルを籠に入れると。店員さんの所に持っていき。袋はどうしますかという問いに、はいと答えた。

  買った物を抱え、急ぎ足で店内から出る。もしかしたら黙ってもう居なくなっていたり、そんな予想もしていたが。狼君は頬を押さえ、地面を見つめてばつが悪そうに待っていてくれていた。

  ガサリと袋が音を立てたからか、不貞腐れたような表情がこちらに向くと。俺の顔を見て嫌そうにそのマズルを違う方向に背けていた。そんなあからさまな態度に、どうしてか声もなく笑ってしまう。袋の中から買った商品を取り出し乱暴に包装を破いていく。有料の袋に氷はそのまま入れておいて、零れないように持ち手の部分を結ぶと。買ったタオルで軽く包み、毛皮があっても腫れてきているとわかる。その狼君の脂肪ではない、ふっくらした頬に押し付ける。

  痛い、痛い。そう声を上げていたが半場無理やり押し付けるのを続けていると。毛皮がある分、人の肌にそうするよりかは効果は薄れているようには感じたが。袋とタオルを介して伝わる冷感に。押し当てている内に、狼君の表情が心なしか和らいだようにも思えた。そう感じただけで気のせいかもしれないし。なおも俺は、即席の氷袋を顔に押し当てた状態である相手に睨まれているのだが。目つき、本当に悪いなこの子。人、殺してないよな。いや、ほぼほぼ一方的にリンチされてたんだけど。

  「俺だと、こんな事ぐらいしかできないけど。このまま病院行くか?」

  民間医療の範疇である。今からでも距離はあるが、お医者さんに診せた方がずっと良い。あくまでも俺のこれは、素人の処置だった。だからこの後で一人で歩けるまで回復したなら、それか俺が途中まで付き添いでも良いし。どう彼が選択し、物事が転ぶか考えながら。促していた。しかし。

  「金ねぇ……」

  ぶっきら棒に小さな声で返される。怪我の様子から酷そうであったから。早く行った方が良いと。なおも言おうとした俺は口を噤む事になる。これで、なら俺が治療費も出す、そう言えるぐらい裕福な人間ならまたそういう事もできたのだろうが。俺の財布の中身は月路さんに持たされているお小遣いであり、それも元を辿れば狐野柳家のお金である。自分で稼いだ物なら、好きなように人助けに使えたが。人のお金という部分が引っ掛かり、後で返してくれたら良いからと。お人好しを絵に描いたような、そんな振る舞いは取れなかった。善意は、自分で得たものでするべきだ。他人のそれでやった気になるなんて、間違っている。そんな考えが俺のお節介な気持ちを押しとどめた。結局は偽善者でしかなかった。

  「親御さんに連絡」

  「親、いねぇ……」

  咄嗟に代案として、彼の保護者に連絡を取ってもらい。迎えに来てもらえたらとも思ったのだが。思いもよらぬ言葉が続き。そして彼の地雷を踏み抜いてしまったとわかり、後悔した。

  親御さんと言った時、狼君が苦虫を噛みつぶしたように。今感じているだろう身体の痛みではなく、心の痛みで顔を歪めたのも。ごめんと、言った。言ったけれど、狼君は俺の謝罪に対して反応を返してくれなかった。あまり歳も変わらぬであろう、この子が。先輩か、同い年かはわからないが。一人で暮らしているんだと。そんな大変であろう現実に、俺では何もできないと。ここまでだった。俺が手を出せるのは、お節介を演じられるのは。ここまでだ。助けようとしたが、結局は中途半端に終わってしまったように思う。はたして意味はあったのだろうか。逆に彼の心を抉っただけではないのか。そっとしておいた方が、結果的に良かったのではないかと。ぐるぐると思考が巡る。

  慣れない事をするもんじゃなかった。

  「……りが、と」

  即席の氷袋を彼に持たせ。俺が保持する必要はなくなったと、手持ち無沙汰に。店員さんに怒られる前にこの場を後にしようか、いい加減店の前で迷惑であろうし。人の目もある。でもと考えあぐねていると。聞き取るには苦労する青年の声が聞こえた。独り言、と言ってしまえるぐらいであったが。どうやら俺に対して向けられている言葉であるようで。自分で持った氷袋の感触を確かめつつ、ちょっと頬から離してみたりして。そして再度押し当てて。横に伸びた髭をびびびと震わせていた。戸惑い、逸らされた視線。狼君は俺を見てはいない。

  「だから、ありがとうって言ってんだろっ!」

  キレ気味に、それはもう不本意だとばかりに。礼を言われる。鼻筋に刻まれた皴の数と、そして不良達に対するようにして怒鳴られているようでもあったから。コンビニに入ろうとしていたサラリーマン風の男性がこちらを見て、驚いた顔をしていた。

  バリカーから勢いをつけて座っていた姿勢から、立ちあがると。少し前はかなりふらふらとし自分でまともに立てないぐらいだったのに。もうしっかりと自分の足で立っていた。狼君の手がパンパンと付着した汚れを自らの服を叩き、軽く泥を払う。

  そしてこちらをまた睨むように、俺を一瞥すると。大事なのであろう、ヘッドホンを首にしっかりと掛けて落ちないように確かめ。ふいって、素っ気なく背を向けられてしまう。

  「その。借りは、返すから」

  最後に後頭部をがしがしと乱暴に掻き毟ると、黒色の毛が数本舞い。姿勢を猫背にさせながら片手をポケットに突っ込んで、なんだか昭和のドラマにでも出て来そうな。コテコテの不良スタイルで歩いて行くものだから。反応を返せず、呆気に取られてしまう。ポケットにもう片方の手が入れられないのは氷袋を持っているからで、不要なら捨てたらいいのに。そこは持ち帰ってくれるようだった。ゆらりゆらりと一歩進むごとに揺られている尾は、彼の機嫌を表しているのか。ただ振り子と一緒で、力なく垂れている結果なのか。そんな彼が見えなくなるまで唖然と見送ってしまうのだった。名前すら聞けていない。

  「行っちゃったね」

  管狐がふわりと俺の頭の上に乗る。後遺症が残るような傷がないと良いのだが。かなり手酷く蹴られていたから。内臓を痛めていたりしてたら大変だ。やはり病院で診てもらって欲しい。でも、しないのだろうな。というより、できない。の方が正しいのだろうか。保険が適応されたとしても三割負担。事情があり、保険証がない場合全額となる。安くはないお金がかかってしまう。

  乱暴だが、一応はお礼を言われて。狼君の去り際の台詞を反芻していた。それで後ろめたい、地雷を踏み抜いて余計な事をした。言ってしまったという。そんな気持ちが少しだけ軽くなる。やって良かったと。助けて、助ける事ができたのかも甚だ疑問だが。胸を張って誰かに報告もできやしないが。それでも。もう、しなくて良かったとは思わなかった。思わないようにしてくれたのだった。

  そうか。お礼って。感謝を伝える事とは別に。相手の気持ちを良い方向に導く効果もあるんだなって。何となく思った。

  「ねぇ、イブキ。ボク達も帰らなくていいの?」

  「そうだな」

  こいつの言葉には反発してばかりで、素直に従う場面というのは非常に少ない。この時ばかりは正しいと思ったからそう返していた。帰ろうとしてたのだから、帰るべきだ。そうするべきなのに。視界の端に動くものがあって。それを自然と目で追っていた。先ず感じたのは小さい。大きさは俺の掌に乗るぐらい。それだけなら小動物で終わるのだが。形が一応人型をしていたから、その姿がとても異形だったからこそ目を引いたというのもあった。コンビニの中を覗くようにして、数人。数匹と言っていいのか。それとも数折と言って良いのか。なぜならそいつらは鯉を二足歩行させたような姿をしており、店内が良く見える大きなガラス。と言っても本が大量に陳列されている棚が邪魔そうではあったが。見えない見えないと。必死に背伸びして、二匹で肩車したりして。中を覗こうとしていた。あ、倒れた。

  「そういや、実家では動物の姿をした奴らが多かったけれど。此処では、人型っぽいのが多いよな」

  小声で、誰が聞いているとも知れないのだから。俺はそうやってふとした疑問を口にしていた。山がすぐ近くにある、俺が元居た場所では四足の。本当に動物の霊なのだなとわかるような、妖が多かったのに。都会にやって来て、たまに見かける妖の姿というものは。そういえば人型に近い者が多いと気づいたのだった。あの影のような、学校で良く見かける奴もそうで。

  「そりゃ、森が多い所ではそういった生き物が産まれ、営みをおこない、死んでいくけれど。こんな人の都と呼ぶべき場所で、ボクみたいなのが大量に居たらそれこそおかしいでしょ」

  そういうものか。ああして小さい奴だと害がなければ見ている分には可愛いものだが。いや、鯉の頭をそのまま。人の手足のようなものが付いているというのは。はたして可愛いと言っていいのか疑問だ。魚人。

  にしても何をしているのだろうな、あいつら。しきりに中を覗こうとしては失敗しているし。ちっちゃな鯉の魚人。服を着ておらず鱗状の地肌がツヤツヤ。俺と同じサイズで他の人にも視えたなら、パニックホラーだ。いや、妖な時点で十分ホラーだが。そこら辺は俺の感覚が麻痺しているとも言える。

  管狐と一緒に、小人達を眺めていた俺は。とても油断していた。ぽんっと、肩に手を置かれ。背後から近寄って来ていた相手にまるで気づかなかったのだから。

  「おや、珍しい。儂の眷属が視えるのだな」

  にゅって横から、顔を出しながら。聞こえた渋めのしわがれた男性の声。一瞬黒い鱗の蜥蜴獣人かと思ったが。でも大きさが随分とデカい。覗き込むように屈んでいる事から、かなりの高身長だった。あまりに大きいと感じるのは、三メートル近くはあるからで。見上げたら首が痛かった。蜥蜴の顔に似ているけれど、その後頭部には角のようなものがあり。そして首が人間の骨格にしては長く感じる。纏っている衣類も、どこか古風なものであった。現代の和服というよりはひと昔前の印象を与える着物のそれで。こうしてコンビニに立ち寄るような、普段着に着用したりしないであろう。[[rb:紋付羽織袴 > もんつきはおりはかま]]と呼ばれるものであった。第一礼装として男性が着用するものであったり。黒を基調とした色合いの着物なのが特徴的であり。お腹にある結び目なのか、玉のようになっているふわふわした白い部分が目を引いた。男が腕を組んだのか、裾が折り重なり隠されてしまったが。今時結婚式とかでしか見ないようなそれ。それに鱗も合わさって黒ばかり。でもそんなあまりに目立ちすぎる風体をした男を見ているのは、いや視えているのは俺だけで。この世の者ではないのは、顔を見て俺はすぐに察した。蜥蜴に似ているけれど、違うと。気づいた時点でだ。

  龍だった。動物から進化した獣人とは違う。人に似た姿をしているから、龍人と言ってしまえる。そんな男に声を掛けられてしまったのだから。

  管狐以外で、人語を操る相手に一気に警戒心が膨れ上がる。俺が黙って相手の動向を探りつつ、片足を下げ距離を取ろうとすると。ふむと、喉を鳴らし。男は組んでいた腕を解き、片方の手が顎から伸びた白い髭を撫でつけるように触れた。マズルの横からこれまた長く伸びた。毛ではない、あれは髭と呼んでいいのか。角もまるで鹿のように枝分かれしているし。

  短冊のような、飾を。まるで願いを込めて人々が吊るしたかのように。小さい札のような物を幾重にもぶら下げていたから。その角はまるで枯れ木にも見えなくもなかった。どこか東洋龍の特徴が多く見受けられる相手に。どのようにして応対するべきか。本来なら反応した時点で失敗だと感じていた。古くから神と称されるぐらいには、格式高い生き物として描かれる事が多い空想の生き物とあまりに特徴が似すぎている。そんな相手に。管狐は沈黙を貫いている。害ある者ではないような気もしたが。それは知能の高い相手であるのだから、気分しだい。今だけであるという事でもあった。

  「あまりそう警戒するでない。珍しい人の子がいるなと声をかけただけじゃ。別に取って食いやせん。そんな目を向けられると、さすがの儂も傷つくのう……」

  長い首の部分が曲がり、龍の頭が俯く。だが、次の瞬間には持ち上がった龍のさせた表情は。妙案でも思いついたのか、そうじゃそうじゃと。胸の前でぱんと軽い音をさせながら手と手を合わせていた。

  「それでな、これも何かの縁じゃ。ちと、頼まれろ。人の子」

  そう言いながら、爬虫類のように二股に別れていない。やはり蜥蜴とかとは見た目が若干に通っていても違う生き物なのか。肉厚な、でも人のよりも随分と長いそれが。舌なめずりして。ニヤリと、龍の顔が嗤う。そんな表情をするものだから、今から魂を差し出せと。気が変わったと思わせるには十分な凄みがあって。そしてこの龍が纏う雰囲気も、どこか重ぐるしいものがあった。近くに居るだけで、相手を威圧するタイプなのだが。喋り方はどこか、気の良い老人めいていて。それが少しチグハグにも感じた。服装と、声の少々しわがれた部分と。渋い男性の声が。もしかしたら初老なのかもしれないし、儂という一人称がもっと上の年代とも取れた。龍なのだから数百年生きている可能性だってあって。俺にしか視えていないのだから、妖の部類。それか神に近しいもの、とか。

  生きている定義して良いのかもわからぬ相手。そんな人が自分なんかに、何を要求するのか。聞いちゃいけない気がした。聞いた時点で契約は成立なんて、そんな理不尽が降りかかりそうで。そしてもう、避けられない運命なのだとも。わかっていた。

  「頼みというのはだな」

  龍が乞う供物。そんなもの一般人の俺がどうして用意できるというのだろうか。この身一つ。本当に命を差し出す以外に思いつかないし、それをしろと言われて。はいそうですかと従いたくもない。管狐を置いて俺は一目散に逃げるべきだろうか。眷属と言った、まだ小さいあの魚人達なら自分でも振り払ったりして、逃げる事ぐらいはできそうであったが。こんな得体の知れない、龍人相手に。怪しい術でも使われたら、きっと敵わない。

  「ありがしゃっしたー」

  何回も言い過ぎて、ちょっとおざなりになった。それ、言えてる? と思わなくもない、店員の声をバックに。もう一度コンビニで買い物を済ました俺は、外のちょうど陰になるような。人目を避けるようにして、俺が帰って来るまで待機していた龍人に。商品が入った袋ごと手渡す。すると受け取った相手はガサゴソと中を鋭い爪がある、黒い鱗が覆う手で器用に漁るのだった。

  紙でできたカップ状の容器取り出し、続けてこれも紙の袋を破き木製のスプーンも用意する。かぱりと蓋を開けると、露出したのは薄黄色い表面。気温差にか、早くも冷凍されていた容器は汗を掻いていた。そこにスプーンを突き刺し、一欠けら掬うと。鋭い牙が並ぶ龍の顎。その中にぱくりと放り込んでしまう。

  「んー、これじゃこれ。このあいすくりんがどうしても食べたくてのう。眷属にお願いしたのじゃが、いつまで経っても戻ってこないので結局迎えに来たんじゃよ」

  あ、そうなんですね。と、俺が買って来たチョコ菓子とかで有名な企業がお出ししている、バニラ味のアイスクリームに舌鼓を打っている龍人を見ながら。そんな庶民的な様にさっきまで感じていた威厳とか威圧感がどっか行ってしまって、どう対応したらいいものか。お使いをできなくて面目ないとばかりに、龍人の足元では鯉の顔をした魚人達がぺこぺこ頭を下げいている。彼らは喋れないのかな。

  店内に入れず。そしてどうやって買うつもりだったのだろうか。店員さんに姿が視えないのに。まさか、盗み?

  それに、管狐は俺が食べている物を口にした事はないのに。この龍人は同じ妖の部類だろうに、食べ物に干渉できるのだなと。そんな差異を頭の中で上げ連ねていた。他人が現場を目撃すれば、空中に俺が買ったアイスクリームのカップと木のスプーンが浮いているように映るのだろうか。そんな危惧に、こちらを見ている人がいないかと確認する。

  その結果外で煙草を吸っている人と目が合うが、別に騒ぎになっていない事から。どうやら渡した時点で、不思議な力でも働いているのか。アイスのカップとかも視えなくなっているらしい。便利だな。後、じっとこちらを見ないでください。コンビニで携帯も見ずに煙草を吸ってる人って何でこちらを不躾に凝視してくるのだろうか。

  「儂は昔から、人に化けるのは苦手でのう。人の子、感謝する。それにしても、こういった娯楽や珍味に関してだけ言えば。人が栄えるのも悪い事ばかりではないのう」

  口にスプーンを咥えたまま、遠い目をして。どこかを見つめる龍人。その先は、遥か昔の街並みか。古き友でも思い出しているのか。何も知らない俺だとしても、そんな表情を眺めていると。哀愁を帯びているように感じられるものだった。[[rb:化学 > ばけがく]]とかあるんだと。絵本とかで出て来るような。狸が木の葉を頭に乗せて、人を化かし、驚かす様子を安直に想像する。

  ただ途中、龍人の視線が。俺を見て。というより、俺の頭の上を見ているように思えた。

  「えっと、何か」

  これまで、管狐を視認できるのは。同じ妖でしかなかった。だいたいは俺に近寄って来たのを、管狐が威嚇して追い払うから。そうなのだと思っていたが。だとしたらこの龍人もまた、視えているのだろうか。

  「いや、なに。ふと懐かしい気配を感じての。気のせいじゃ、気のせい。それにしても、久しぶりに人の子と話せて浮かれておったが。儂が視え、こうして気が狂うでもなく。怖気ず会話できているということは。主はかなり高位の目と魂を持っているのじゃな。ひょっとすると……」

  ――ずっとこちら側なのかのう?

  俺の頭の上から視線を外すと、顎を触りながら思案げに。そう語る。魂まで覗かれているようで、気持ち悪い感じがし。身を捩った。うむうむと、勝手に俺という存在に。一人納得している龍の顔に。ちょっと心当たりがある為に、迂闊な事が言えなかった。自分が普通とは違うという点でだが。こちら側、というのには疑問視するが。

  何か知っている様子ではあったが。それ以上俺に語り聞かせるでもなく。助かったと、カッカッと笑い。背後から忍び寄って来た時には聞こえなかった。カランコロンと音を鳴らし。満足したらしたで、さっさと下駄を打ち鳴らしながら帰ってしまう龍人。というかお爺さん。実年齢はわからないが、儂と言っているし。おっさんか、お爺さんでいいだろうか。名乗られてもいないし。尻尾の先、蜥蜴と違い尾ビレみたいな毛の束があった。そこに小さな魚人達が主人に置いてかれまいと、振り落とされないように必死にぶら下がっていた。

  そういえば自然な流れで奢らされてしまった。人に何かしてもらうのが当然みたいなふうであったから。ついつい、俺も従ってしまったが。人の好さそうなお爺さんみたいな口調の節々に、命令口調が混じるものだから。そうなったとも言えるし。やはり得体の知れなさと、激昂した時何をされるかわかったもんじゃないという不確定要素から。従った方が安全とそう判断していたのもある。だいたいは忠告めいたものをよこして来る、管狐がいやに静かだったのもあるが。

  「お前、故意に姿消せるだろ」

  「さぁ、なんのことだかボクわかんないなー」

  嘘つけ。俺以外に視えないのなら、低級と管狐が言う寄って来た妖達をどう追い払ってるんだよ。明らかに今までと違う妖だろう、龍人と会った後で。管狐の異様さにも再び目を向けてみた。こいつは、まだ何か隠している。それは力であったり、そして知識であったり。俺の知らない事を沢山知っている。でも教えない、聞かれない限り教えようとしないというのもあるし。俺が知る必要はないと、考えているようにも思えた。

  「いいなぁ、ボクも食べたいなー。ね、イブキ。ボクにも捧げ物ちょうだい!」

  「お前、食事できたのかよ」

  たしたしと、頭の上に乗った奴が。前足で俺の額をねーねーってお菓子買ってと強請る子供のように叩いてくる。別に痛くはないが、不快ではあった。自由気ままで、わがままであり。人の不幸を喜んだりする、性根が腐ってそうなこいつでも。飲み食いできたりするんだと。新しい発見があった。普段では、食べる真似をしても。干渉できないのか突き抜けるだけであったのに。何かしら、手順を踏めばいけるのだろうか。捧げ物と言うぐらいだから。

  「じゃ、たとえば何がいいんだよ。もちろん、学生が買える範疇で頼むぞ」

  一応、妖を追い払ってくれるという部分においては。貢献してくれているので。その報酬はビジネスライクに払おうかなという。それ以外では全く役に立たないし、むしろ居ない方が気が楽なのだが。これを機に、報酬をチラつかせ。言う事を聞かせるというのもできるかもしれない。躾けたい。このペットモドキ。ステーキとか、ピンキリだが高いのだと万単位で飛んでいくのだから。それこそペットショップで買えそうな物ができれば嬉しい。ドッグフードとかで手を撃ってくれないだろうか。妖で、狐であるから無理か。牛一頭とか学生じゃなく社会人でもそれこそ無理だぞ。

  「えっとね。健康そうな、若い男の心臓!」

  頭の上に乗っている管狐を掴み、思いっきり硬いコンクリートでできた地面に叩きつける。キュウ! とか小動物らしい鳴き声が聞こえた気がするが、罪悪感とかこれっぽっちもない。びしゃりと血が飛び散ったりはせず。勢いのまま潰れて絨毯みたいになっていた。というより、今すぐこいつ祓った方が良い。お札とかないか。それか聖水とか十字架とか、ニンニク。それはドラキュラか。買えるわけもないし、手に入れるとしたら人攫いで殺人じゃないか。捕まる。こんな奴の言葉に耳を傾けたちょっと前の俺という人間の愚かさに、なんだか頭が痛かった。

  やはり、こいつと喋ってると酷く疲れる。それは常識がかなり偏ってるというか、違うのもそうだが。こういうよくわからない冗談を言うのもだ。人を揶揄うのが大好きなようだし。俺を揶揄って遊ぶのが好きなだけとも言えるが。俺にしか視えないみたいだから。憑りつかれてるし。疲れる。憑かれてるから。余計に。笑えないな。

  なにすんのさって、足元で煎餅のようにぺしゃんこになっていた管狐がもう復活していた。霊体だから、俺がこうして暴行を加えても。どこかのギャグアニメのように元通りになるのだから、そこはちゃんとダメージを受けて欲しいものだった。

  文句ばかり垂れるうるさい管狐を無視しながら、自分が住んでいるマンションに漸く戻って来ていた。玄関ホール前で見上げると首が痛くなりそうな集合住宅。最初、此処に住むんだって。あんなにも抵抗感があったのに。学校に通う内に慣れてしまって。まだ外の世界よりは居心地が良いと、安心できる場所になってしまって。俺が唯一、遮断できる場所。嫌な事を、見るのも、聞くのも。そして視るのもだ。管狐はしかたないとして。敷居を跨いでしまえば。妖は寄ってこない。

  「あ、伊吹くん。おかえりなさい」

  耳に心地よい、よく通る低い男性の声に、ゆっくりと振り返る。片手に今日の夕飯の材料だろうか。プラスチックトレーのパックと固形調味料の箱。長ネギが一本、納まりきらず飛び出ていた。壮年ぐらいか。綺麗に整えられた毛並みをさせた狼の顔が、優しげに俺を見つめていて。さすがに近所のスーパーに徒歩で行っていたからか、愛用のエプロンは着用していないが。

  「お友達とは楽しんできましたか?」

  自然な動作で俺の隣に立つと、そっと立ち話よりはと中に入ろうと促してくれる。頭一つ分高い背丈の男が買い物袋ガサリと揺らし、今日はどうだったか聞いて来るものだから。俺は正直どう答えようか迷った。晴喜の件もあって。

  「てっきり、もう少し遅くなるのかなって。思ってました」

  「早く帰らないと心配するでしょう」

  俺の手を煩わせないように、一歩先に前に出ると。買い物袋を邪魔そうにしながら、カードキーを取り出し。玄関ホールとマンション内を遮断するロックを解除する、そんな狼の手を見ながら。どちらとも取れない。はぐらかす事にしたのだった。本当の事も、嘘も、今は吐きたくはなかった。

  「朝帰りでなければ、最近の子ですから。連絡をちゃんと寄こしてくだされば。そこまで厳しくするつもりはありませんよ。最悪、車を出せば迎えに行けますし」

  てっきり監視の人って認識が強かったから。門限でもあるのかなって、そんな先入観があったが。違うらしい。それもこれも、今まで聞けずじまいで。

  「それに。私は、……雇われ。ですから」

  立ち止まった月路さんはエレベーターを呼ぶボタンを押し、雇われ。その部分を強調するような言い方で、振り返らずに言うのだった。表情が見えない。

  そう、ですね。僕と貴方は。あくまでも狐野柳家絡みで一緒に居るだけで、それがなければ会う事すらなかった人だ。普段はまるで親のように、親身になってくれる月路さんの。

  大上さんから壁を感じた。ちょっと、いつもの雰囲気ではないようにも。この家事が得意な狼獣人から。

  上の階にあった鉄製の箱が、ぐんぐん一階まで降りてくるのが。ランプの点滅で知らせている。ぴくりともしない、犬科の中でも大型の。狼の尾は彼の引き締まったお尻から垂れ下がっているだけであり。

  「今日は何が食べたいですか? 特に希望がなければカレーにでもしようと思うのですが」

  黒い湿った鼻があるマズルの先が正面、そして上。狼が人に問いかけながらもう着きますよと知らせる光の点灯を見つめていた。

  「月路さんは……」

  俺の、本当に味方なんですか? 優しい表情をする、温和な彼を信じたい。縋りたい。大人に、頼りたい。頼ってしまいたい。それは生活面というわけではなく。もっと別の、心の支え。親元から強制的に離され。今の俺という危うい立場、未来も、命すら他人に握られた状況で。貴方はいったい、どの立ち位置の人なのですか。命を賭して、守ると言ってくれたけれど。どこまで信頼していいのか。俺は未だに決めかねていた。機会音声が到着しましたと言うようにして、静かに扉をスライドさせる。

  「辛いのとか、いけます?」

  一緒にエレベーター内に乗り込みながら、そうおどけたように聞いていた。本当に聞きたかった事はそれではないのに。俺の表情や雰囲気をよくよく見ながら、少し考え込むようにして。狼の頭が傾く。

  「できれば。甘口の方が嬉しいですね」

  ぺたりと、直立していた三角耳が倒れると。両肩を軽く動かし、ついでに袋を揺らす。半透明な袋。薄っすら中身が透ける買い物袋からは、隠し味に入れるつもりだったのか。赤々としたリンゴが窺えた。きっとこの人が作るのだから、レトルトではないカレーは絶品なのだろうな。味の保障された夕食。俺が唯一この人がする事で信用している部分。本当に、月路さんって料理が上手なんだ。本当に。母が作ってくれる同じ家庭料理よりも。舌が肥えて。親の味を忘れそうになるぐらいに。美味しいんだよな。とても。

  [newpage]

  [chapter:十一話 手洗いうがいの重要性]

  晩ご飯もお風呂も済ませてしまった、とっぷり夜も更けた頃。

  辛さは控えめながらも、スパイシーなカレーライスをご飯粒一つ残さず、お代わりまで頂いて。また食べ過ぎてしまったと、お腹を擦っていた。運動部に入るでもなく。さっさと帰宅するばかりのこのあまり動かさない身体。毎日提供される美味しいご飯に太りそうだなと思いながら、さっぱりした地肌には洗いたての寝巻が優しく己を包んでいて。ベッドの上で寝返りをうつ。するとシャンプーで洗った頭皮からフローラルなそれが枕に乗せた頭から香った。眠いような、でももう少し起きていたい。迷いながらも、明るい液晶の画面をタップする指だけは止まらない。

  夜遅くまで勉強する気も起きず。かといって他に何かしようという気にもならい。ただごろごろしていたい。心すら動かしたくなかった。無感情にSNS上で流れて行く情報に目を通し、自分とは全く関係ない他人の日常を盗み見るような感覚に浸る。最新のゲームや音楽、映画。自分と同じ高校生だろう、学生が楽しそうにはしゃぎ。日常を謳歌した一ページを切り取り、ネットの海に放流すれば拡散し。こうして俺みたいな言ってしまえば根暗な。そういう友達達と何かやる。やらかす事とは縁遠い者に届いて。羨ましいなって、動かしたくないと思った心が小さく呟くのだった。

  タイムライン上に表示されるジャンルの傾向として最近、そういった学生とか。家族や友達との仲の良さを世界にアピールしている写真や動画が増えている気がする。それは俺が、今まで関心がないと。独りでも楽しめる物にばかり視野が狭まっていたからであって。外部から刺激が与えられ。よくよく自分という人間が、寂しい奴なんだなって。気づいた。そうしてそういった人達を見て、妬んでいるのも。羨ましい。俺も、そういう事をしてみたい。遊んで、はしゃいで、笑い合って。そんな元々あった、見ないふりをしていた欲。

  誰と。自分自身に投げかけた問いに。答えに詰まった。それはきっと、もしかしたら。亮太郎や、晴喜みたいな。あいつらとなら、そうなるのかなって。虎と犬の顔を思い出して。彼らが俺にして。与えてくれて。それで俺は何をしただろうか。人付き合いが苦手で、上手くこなせないまま。いつもつっけんどんな態度ばかりで。遊びにも一度も誘ったりせず。そして誘われたりはしなかった。でも晴喜の家に遊びに行くってなって。自分から一歩を、踏み出せないままだったのに。

  機会が与えられておきながら俺は酷く傷ついたとばかりに、話しも聞かず晴喜の家から飛び出して。一度したんだ。してしまったんだ。誰だって次を期待してしまうものだろう。

  それも、自分が気持ちよくなれるのだから。正気を無くし、晴喜は俺にフェラを強要させたと思い込んでいたけれど。そうではなく、俺の力のせいで。だからゲイであると告白して、少しでも相手の自責の念を和らげてあげたいと思ったんだ。たとえ、伊吹って人のチンポしゃぶるのが好きなんだって思われたとしても。

  あの時はショックで。身体が目的だったんだって。俺はきっと取り乱した。取り乱していたんだ。言葉としては短く、帰ると。そう言っていたけれど。余裕のなさがそうさせた。自分自身、男なのに孕む身体だと。受け入れられていない状態で、性的なアプローチに酷く恐れたというのもある。ずっと疼いていたお腹が、子宮が。次を期待した晴喜を、俺の意思とは無関係に。求めていたから。だから、晴喜を加害者に仕立て上げたかった。俺は友達から突然、性的に触れられた被害者に。なりたがった。

  でも被害者は、晴喜でしかなかった。あの気の良いハスキーに全部押し付けて、悪者にしたかった。被害者を気どりたかった、そんなどうしようもない浅ましさ。

  こうして冷静になった今。あの時の自分にもっと心の余裕があれば、動揺なんてしなければ。お腹の疼きを無視できれば。馬鹿かお前、自分の手でしろよとか。笑い話で終わった筈だった。全てを打ち明けて、あの時のトイレで起きたのは。お前には一切非がないと言うべきであった。そうしたらあのまま、もう少し彼の家で遊んで。駄弁って、そのまま楽しい気持ちを維持して。別れを惜しんで、また明日学校でと。お互いに約束できただろうに。

  間違っていた。何を間違えたのか、その時はわからないまでも。今ならわかる。俺は、自分という人間を。心の在り方を間違えていた。関わるべきじゃなかった。他人に悪い影響ばかり与えてしまう。俺は普通じゃない。妖が視えて。ゲイで。男なのに子宮だってあって。

  男が好きなんだと自覚した日から。俺は間違ってると思っていた。世間的に男は女が好きで、そうあるべきだと。俺自身、それを肯定していた。それが普通であり、生物として正しいとも。だから自分はそういったものから踏み外した、別の何かだ。周りには誰一人、そういった人なんていやしない。もしかしたら居たのかもしれないが、俺がそうだったように。家族や友達に易々と打ち明けれるものではなかった。

  異常だ、間違っている。自分自身の性的趣向を否定しながら、変えられない。女の人を綺麗だ、可愛いとは思っても、それまでだ。恋愛感情を抱く事はできないのだなと、わかっていた。

  だから携帯を操作し、そういった同じ趣向の人を眺め。自分が住んでいる場所ではなく、世界に目を向ければ。こんなにも同じような悩みを、苦悩を抱いている人は居るんだって知った。知って、俺以上に辛い人達ばかりで。そして、男同士でもカップルになり幸せそうに暮らしている人も居るんだと。知ったんだ。

  俺もそうなりたい。そんな気持ちは確かにあるのに。行動に移す事はやっぱりなかった。なりたいという以上に、知られたくない、バレたくないという感情の方が強かったというのもある。自分の異常性を。男を好きになる、男なんて。精神疾患だと。間違ってると、言われやしないか。縮こまり、閉じ籠り、身を伏せ。ただ嫌だ嫌だと、何もしないを選ぶのが。今までの俺で、これからの俺だった。その筈だった。

  人助けとかそういったものは。俺よりも優しい人がして。誰かを助けて、俺はそんな人を眺めながら凄いなって。それと同時に俺ではできないなって。そう思うしかできない人間でしかなかったのに。今日は、二人。助けた、のだろうか。こんな俺でも誰かの役に立てたのだろうか。普通から転げ落ちてしまった俺でも、普通に良い事をして、普通に感謝されたり。

  あの狼君。そして、妖ではあったが龍人。やる前から諦めるのが癖になっていた。やって、後悔するより。やって、傷つくより。それが楽だったから。楽な道ばかり選ぶようになってしまっていた。

  狐野柳家だってそうだ。本当に嫌なら、逃げたいなら、今すぐ四の五の言わず行動に移せばいいんだ。追手が掛かるかは、やってみなければわからないのに。何もしないで、できない、無理だと。俺はいつも言う。そうやって自分を守ろうとして、泥濘にさらに嵌り込んでいく。状況的に俺の身柄は縛られているようでいて。一番、何よりも、誰よりも縛っているのは。俺自身だ。状況を言い訳にしてるんだ。変わりたいのに、変わろうとしない。自分の心の有り様が一番、足を引っ張っている。それを理解したからと、気づけたからと。なら今この瞬間から変われるわけもない。自分に価値を見出せなかった、何もしないくせに。

  なら、必要とされたなら。俺の身体で、狐野柳家の跡取り問題を解決できるのなら。視方を変えれば、これもまた人助けにならないだろうか。誰とも子を成せない真由理。選ぶ立場にないのに、わがままな俺は。そんな人助けができるチャンスを選別する、選んでしまう。なるべく俺が傷つかない、損失がない方へ。産みたくなんて、ないと。自分しかできないものがあったんだと思った。代用ができない、代わりがいない。でもどうして、よりにもよって。こんな事なんだ。本当か嘘か知らないが女性が経験する出産の痛みというものは、男性では耐えられないという。死亡するリスクだってあるだろう。赤子が無事なら、あちらさんは喜ぶだろうか。だが逆に、産んだ後の俺の身がどうなろうと。狐野柳家にとってどうでもよく、悲しむとも思えない。

  よそ様を心配するような。そんな人達ならもっと、穏便に。こんな無理やり、月路さんを使って連れて来たりしないだろう。お見合いではないにしろ、事前に話を通し。時間をかけ、真由理ともっと話し合いながら。産んでくれと頼まれたなら。また違ったのだろうか。突然が過ぎる。

  何もかも。待ってくれ。待ってくれよ。どうしろって言うんだよ。俺に。俺なんかに。いや、向こうは要求している。初めから。

  月路さんの優しさと。真由理が見せる、こちらを気遣うような態度や発言に。より心を乱される。物として扱ってくれたなら諦められた。心を捨てられた。そうしてきたから、そうしたら楽だから。楽なのに。今になって、楽な道を選ばしてくれない。親の保護下であったから。なのに考えなきゃいけない。見なくちゃいけない。俺に感情があり、些細な事で傷つくように。相手にも感情があり、俺の何気ない発言で。心痛めるのだから。

  また堂々巡りだった。いくら考えても、答えなんてない。正しさなんて最初から存在しない。物事には結果しか付きまとわない。俺が嫌がろうが、妥協しようが、望もうが。最終的に狐野柳家に従うしかない。考えただけ、その結論に辿り着く。考えるのがしんどい。どう折り合いをつけていくか。あの家と、自分と。そして、真由理と。

  男に抱かれる。セックスする。一度だけではない、愛する男性とそういう事をやがてしたりなんて。夢想し、性欲を駆り立て。ティッシュをゴミ箱に捨てながら虚しさを味わう夜を幾度体験しただろうか。向こうからやってきたりしない。

  少女漫画のように王子様はいない。

  男相手に来るわけもない。

  そんな素敵な男性。俺を肯定してくれる、必要としてくれる、唯一としてくれる。愛してくれる人なんて。この世にいない。求めるだけで、俺から愛せない。そんな器量のない人間に、どうして現れたりするのだろうか。

  独り。独りか。

  考えるのに疲れた俺は、自然と手を下半身に伸ばしていた。もう片方の手で携帯は保持したまま。ブックマークしたサイトを慣れた手付きで表示する。ズボンの下に指を滑り込ませると、まだ萎えた自分の物に触れた。あんなに辛い、嫌だと。グチャグチャになっていた感情に。忘れたい。一時でも、何も考えたくないと。性欲に逃げたかった。

  簡単だった。自分の身体についてる性器に触れ、刺激すれば。自ずと脳は気持ちいいと判断し、射精に至ろうとする。絶頂を、オーガズムを得られる。とても簡単で、とても卑しい現実逃避の仕方だった。多少はあった眠気なんて消えていた。うだうだ考え続けて、気分が悪くなって。それで寝られなさそうだったから。運動ではないが。射精を伴えば、男というのは体力を消費する。一回のオナニーで消費するカロリーは、だいたい三十分くらいのジョギングとか。そんな記事を昔見た気がする。それでオナニーしまくったからと、ダイエットに繋がったりはしないそうだが。手軽に疲労感と、脳をぼやけさせ。一時だけ快楽に夢中になれる手段としては、これ以上ないぐらいお手軽であった。

  それにそういった事はご無沙汰だった。都会に無理やり連れて来られて、環境が変わりそういう気になれなかったというのもあったが。狼のおっさん。と言ったら月路さんは悲しむだろうが、急に家族でもない赤の他人と住まわされて。自分自身の身体の変化もあって。しようと思えなかった。

  俺の趣向にそった物を提供してくれる。学生であり、クレジットカードといった使える金銭の取引方法が限られる身であっても。無料で公開されている。動画や画像、小説。いわゆるオカズだった。今開いているのは匿名で誰でも投稿できる、登録しなくても閲覧だけは可能な海外のポルノ動画サイトだった。無論、ゲイである俺だから。投稿されている動画も再生すれば男同士が映っている。サムネイルと英語のタイトルから内容を予測し、そういう目的で使えそうなものを探す。

  そうしながら手は自身のを緩く揉んでいた。まだオカズを探す段階であっても、そうしながら。刺激を与えていれば勃起するのが男の身体であり。泣けるような。親しい人が死んだとか、そこまで悲しみに暮れたわけでもなかった俺はもう。劣情を手探り寄せていた。何週間もオナニーをしていなかったからこそ、というのもあったかもしれないし。昨日してても、年齢的に勃起自体苦労はしなかっただろうか。晴喜のオナニー回数を見て、ちょっといくらなんでもと思って。心の中で小馬鹿にしていても。同じ高校生である。少ないとはけっして言えない性欲が確かにあった。人には大っぴらに言わないだけで。

  望む結果を得られる。自分の身体を使い、少しばかりの体液を吐き出すだけで。本来の用途としては間違っているが。現実逃避に使うには、薬を使うわけでもないのだから一番健全で後遺症もない。俺以外に迷惑も掛からない。自慰という行動自体に適当なメリットを上げれば、それぐらいは咄嗟に思い浮かんだ。だんだんと手の中で血が通い、大きくなっていくもの。

  並んだサムネイルをスクロールしながら、次のページに切り替え。また探す。そんな中に逞しい肉体を惜しげもなく晒した狼獣人が映り、心臓が跳ねた。顔も、好みだった。年齢は毛並みとかも考慮して、二十代後半だろうか。匿名性を維持する為にマスク等も身に着けていない。自分の顔の良さを理解し、鍛えた肉体と一緒に。画面の向こう側、今見ている俺に。挑発的に笑う顔つきは若々しさがまだ残っていたが、雄としての魅力に溢れた自分の理想の男性像そのものだった。こんな人が、恋人で。甘く、愛を囁いてくれたら。と思うも、もう少し老けたらどこか。狼だからか、つい月路さんに似てる要素を探してしまって。そういうふうに思った時には。サムネイルをタップしかけた指は前の画面に戻っていた。性欲の中でふと湧いた罪悪感。身近な人間が脳裏に過ると、やめたのだった。月路さんに出会う前なら普通に再生ボタンを押して。なんの気兼ねもなく事に及んでいただろうに。

  次に目に付いたのは無修正のガチガチに硬くなったチンポを舐めている人間の男性だった。舐められている相手は、下半身しか映っておらず。でも毛皮があることから獣人だとはわかる。とりあえず内容を確かめる為に再生ボタンを押し、シークバーを弄る。想像する恋人像は優しく俺を抱いてくれる人だったりするが、性欲の発散としてのオカズに使うなら。ただエロさだけを求めて、激しく人間を使うといったものでも良かった。理想や、愛なんてものは細かい事全て投げ捨てた性欲の前には幾ら求めていても。相手がいない一人寂しい自慰において、無駄であるのだから。サクっとエロいことに興奮して、サクっと発散するに限る。あまり時間を掛けていると、オナニーなんかで睡眠時間を削り。結果夜更かしして、明日起きるのが辛いなんて笑えない。だが、動かしていたシークバーが止まる。それはここが抜きどころだとか、画面に映ったあまりの卑猥さに。思わずそうしたとかじゃなかった。人間にチンポを舐めさせている相手が、その獣人の種族がよりにもよってハスキーと呼ばれる犬種の犬獣人だったから。表情一つとってもずっと大人びた男性であったので、同じ種族だとしてもあの馬鹿っぽい犬の顔とは似てるなんて微塵も思わなかったが。舐めているのが人間で。シチュエーション的にも、トイレで実際に晴喜とした事を連想させたから。

  自然とごくりっ、と唾を呑んだ。この頃にはもう俺のチンポは臨戦態勢であり。窮屈だと、パンツからの解放を要求していたが。それでそのまま、荒々しく抜きあげようとはしなかった。この動画もまた、友達を。あの状況を思い出しながら、するという。自分自身により嫌悪したからだ。

  「久しぶりにするの? イブキ」

  管狐がデリカシーもなく、俺の傍にいつの間にか寄って来ていた。こういう事をする時、気を遣って見ないフリというか。壁をすり抜けられるので暫くどっか行ってくれるそんな配慮なんてしてくれない。求めるだけこの妖に対して無駄だと俺はずっと前に学習しているので、今更。こいつに対して羞恥心はそこまで、湧かない。とまではならず、やはりどっか行けよと。恥ずかしさに言うのだが。恥ずかしいのなら、見られている中でオナニーなんてしなければ良いのにっていう。ぐうの音も出ない正論を言い返されたりするのだが。男というのはしたい時はどうしてもしたくなる。こいつは、誰にも告げ口しないし。揶揄いはしても、誰にも視えないのだから。物言えぬペットだと思えば、まだ無視すれば良かった。人語を操れるから、後日揶揄うネタを提供するとわかっていても。

  子孫を残す為に交尾ではなく、ただ独りで欲を発散するだけのこの行動自体に。この管狐はよく毎回好き好んでするねと言いはしても。するなとは言わない。人間ってそういうものでしょって態度だ。あくまでも妖視点で、動物的な反応をする。したいならすれば程度だった。気持ちよかった? と聞いて来たりはするが。

  いちいち、声を掛けるなよと。携帯に熱心に注視していた俺は。好奇心をありありと隠しもしない管狐の、その狐の顔に邪魔するなよと言外に表情で示しながら振り返る。胸元で揃えた前足。後ろ足のない細長い胴体。溜息を吐きながら、身を起こし。見下ろしたら当然あるのは勃起した自身のズボンの中で屹立した下半身。ぽいって、携帯を布団の上に放る。

  「お前のせいでする気がなくなった」

  「えー。せっかくイブキの可愛いところ見るチャンスだったのに」

  「どこがだ」

  見んな。人間だったらコーラとポップコーンを準備しそうな、そんなずっと前から見たかった映画が急遽。放送延期になり、残念がるようにして。くねくねと空中で身を捻りながら不平不満を漏らす狐の顔を睨む。人間がする自慰行動自体は理解できないまでも。それをする俺の姿は面白いらしい。可愛くなんてないと思うのだが。ただ自分の性器を刺激してる姿なんて。この妖は別に、俺を性的対象に見て興奮してるわけでもないとは思うし。そうだとしたらより問題だが。どこが面白いのだか。日常ではそういう話題から遠ざかり嫌がる普段の態度が、夜一人になるとこうして性欲を発露させている。むっつりなところ。らしい。うるせぇ。

  別の動画を探すのも気が進まなかった。またオナニーができなかった。と思わなくもないが。近しい人を重ね、それが恋してる人に似てるならまだしも。友達とか、そういった人に似ていると俺は興奮できない性質だったのもある。嫌いな奴に似てるならなおさらだったろうが。なんの気兼ねもない対象だからこそ。罪悪感もなく、性的消費物として使えて、身を任せられるというもの。まあ、そんな見ず知らずの相手に。今貴方をオカズに自慰してますなんて、もしも知られたら。二度と恥ずかしくてオカズとして使わないだろうが。相手の履歴に残らないというのも重要だ。それか二次元、無機物の。それこそ絵とか、官能小説。そういったものはたとえ使用しても罪悪感を薄れさす。作り手自身、そう使われる事を想定している人だって居るだろうし。

  刺激したというのもあるし。俗な言い方だが、サムネイルだけでムラムラしたのだが。感情だけは離反し。下半身と上半身がてんで違う方向に舵を切ってしまっていた。する前にいろいろ考えていたから余計に。その考えていた事から一時でも解放されたくて。そうしようとして。できなかった。かといって、今すぐ寝られるかというと。それもまた無理そうだった。中途半端に落ち着かない身体。火照ったまま。解消する術を知りつつも。時として性欲というのは、ほとほと扱いに困る。自分からおいそれとそういう方向に持っていきながら。

  男は脳と下半身が別々の生き物と馬鹿にされるが、言い得て妙だ。

  暑い。そう思い、そこから龍人が食べていた物が無性に恋しくなった。アイス。それも同じバニラ味。ねーねーしないの、と鬱陶しい管狐を押し退け、立ち上がる。自室のドアを開け廊下へと出て。冷凍庫にあるかもしれないと、確かめる為にだ。時間帯が関係していて、廊下は灯りが消されており。一度部屋から出てしまえば、家の中だろうともう暗く。だが俺の部屋と丁度、反対方向にあるもう一つの扉。廊下が暗いのもあり、その扉の隙間から灯りが零れていた。月路さん、まだ起きてるんだ。

  だいたい彼の夜のルーティンワークとして、俺と一緒にご飯を食べ終えると。そのまま汚れた食器を洗い、一度自室に籠る。どうやら筋トレをしているようで、その後で。俺と入れ替わりか、遅れて。汗ばんだ身体を流しに、お風呂場に消えていくのだ。あまり彼は自身の裸を見せたがらない節があった。俺自身、自分の裸を月路さんに見られたくないので。故意に暴きたい、とは思わなかったし。ゲイとして、男の裸に当然興味はあっても。そこは尊重していた。脱衣所から出て来る時、必ず上下共に寝巻をしっかり着て出て来るし。相手も、俺自身もお互いに気をつけているせいか。偶然にも起きうるアクシデントって奴、ちょっとだけ半裸の月路さんを見れたりとか。当然男なのだから、ぶら下がってるだろう男性器も今のところ遭遇してはいない。だから鍛えてるんだろうなって、スーツを着ている時。その窮屈そうな盛り上がりとかで。どれくらいかを想像はしても。毛皮で隠しきれない実際の筋肉の形というものは。知らなかった。

  その後は軽く読書したり、報告書だろうか。何か書類を片付けて、寝てしまうようで。朝は俺よりも早く起きて、朝食とお弁当を作る必要があるのだから。あまり夜更かしする人ではなかった。だからこの時間にはもう寝入っている場合が大半であり。まだ起きている証であろう、その漏れ出た光に。珍しいな、と思いつつも。そういう時も勿論あるだろうと納得し。そろりそろりと、足音をなるべく殺し。ついでにトイレを済ませてから台所に向かう。これからいろいろ触るから、手も洗いたかったし。

  物色してみた結果。残念ながら月路さんはアイスクリーム系は買いそろえていないらしい。中をぎっしり埋め尽くすのは、冷凍食品ばかりで。それは調理され、お弁当の一品か、ご飯の内の一つに早変わりしてしまうのだろう。そういえば、あの狼のおじさんは。不思議と似合うエプロンを着て、お菓子作りとかするのだから。既に出来上がったお菓子自体は、あまりこの家になかったように思う。作るから、買わないのだろうか。であれば頼めば月路さん特製のアイスクリームとかそういったものもできそうではあった。だが今から頼むというのは、その。いくら彼は仕事とはいえ。常識外れであるし。普通の人間であれば良くは思わないであろう。不満など欠伸にも出さず。わかりましたと、言ってくれる恐れはあったが。その場合、頼んでおいて罪悪感に苛まされそうであった。

  でも諦めるには。どうしても食べたい。その衝動が消えない。別の欲求を無理やり押し殺したばかりというのもあって。三大欲求に正直過ぎるのもどうなのだと思うが、食べたいものは食べたい。

  サイフを持ち、一応出掛けるのだから月路さんに声を掛けようかと迷う。すぐそこのコンビニまで行くだけだというのもあって。珍しく起きていて、お仕事中なのかもしれないのだから。邪魔しちゃ悪いなって感情と。でも保護者であるのだから、一応声掛けぐらいはするべきだと判断した。もし起きていたら、彼の分も買って来てこんな時間に甘い物を食べる共犯者に仕立て上げるのも悪くはないであろう。

  自分と比べていっぱい食べる彼は、暇さえあれば筋トレをするぐらいには自己管理に余念がない。ただ勤勉なだけなのかなって、最初はそう思っていたのに。何となく理由を聞いてみたら、自身のお腹を触りながら。とても、とても深刻そうな顔で。

  ――伊吹くん、この歳になるとですね。油断すると食べたら食べただけ脂肪になるんです。

  まるで実体験の如く。語る中年ぐらいの狼の顔は、なぜだか説得力があった。別に月路さんは太っていないし、祓い屋の仕事をして身体を動かしていたが。怪我のせいで引退した今でも、その身はまだ鍛えられた肉付きを維持したままで。若干、よくよく見ると確かに脂肪が薄っすら乗っていなくもないが。太ってると定義するには、足りたいと言える程度だった。惰性で続けているようでいて、動いていた時と変わらない食事量と。落ちた代謝。食べる事自体が好きなのもあって。料理の腕が伸びたのもそこが起因しているのだろう。なかなかに本人としてはとても世知辛い理由であった。

  コンコン。控えめに、集中力を乱さない程度にだが。軽くノックしてみる。自分の部屋と同じ扉。暫く待ってみても、返事がされたりはせず。ただ足元に僅かな隙間から零れる部屋の明かりが存在しているだけで。起きていると早合点していた俺は、もしかしてだが。部屋の主が寝落ちしている可能性に思い当る。それもまた、珍しいなと思うが。月路さん。試しに声にも出して、部屋の中に呼び掛けてみる。それでも反応がない。

  なら、つけっぱなしの電気を消すべきか。無断で部屋の中に立ち入るのはいくら同居人といえど、無礼に当たるか。その部分にも悩み、どうしようか迷いながらもドアノブに触れる。ちょっとだけ、ちょっと覗いて。開けてみて。もしも起きていたが、集中して気づかなかっただけなら。返事がなくてとそれなりの理由を告げながら、コンビニに行く旨を伝えるだけでいい。それか本当に寝落ちしているだけなら、静かに部屋の電気を消せばいい。俺の部屋と鏡映しの間取りなのだから、扉を開けてすぐの壁にスイッチがある筈で。中まで足を踏み入れなくても、手を伸ばせば届く範囲。入るわけではない。そうやって、手首を捻り。少し押してみる。別に鍵など掛けていないのだから。簡単に空箱を倒すような力でも、軽い扉は動いた。

  暗い廊下から、明るい部屋へ。扉によって、開けていく視界。俺の部屋よりは家具が置かれていて、奥の机には写真立てと。書類らしきもの。そして台所にあるものと比べてしまうと、とても小さな一人用冷蔵庫。人間用のより一回り大きな、月路さん達。大柄な人が多い獣人でもゆったりと寝られるベッド。畳まれたストレッチマット。隅に片付けられたダンベル。

  一瞬の内に俺の視界にはそれだけの物の情報が流れ込んで来て。そして、探さなくても月路さんは部屋に当然居て。寝ているのかなって疑問は、ベッドの縁に腰かけているのだから。なんだ、起きてたんだって。そうやって、寝落ちしていないのだと知ったのだが。左手で握られた携帯。耳にクリップ状に止められた、獣人用小型イヤホン。有線なのか、両耳から伸びた線が握っている携帯の端子に刺さっていた。それだけなら、何か音楽とか、動画でも見てるのかなって思えた。それだけなら。もう一つの手が、自身の股座に伸びていなければ。

  「んっ、はっ、はっ……」

  同居人を気にしてか押し殺すように男性の悩ましげな声。乱れた呼吸音。すぐ掴み取れるようにか、自身が座っている傍。ベッドに無造作に置かれているティッシュの箱。ゆっくりと、右手が上下する。掴んだ物を起点に。そうすると、僅かにだがくちゅりと粘着質な音が鳴った。すんっ。ただ、鼻呼吸するだけで。この部屋を満たしていた香る雄の臭い。

  携帯の画面に熱心に注がれていた狼の目線が、不意に俺を見た。そんな彼の目が驚愕に、見開かれていく。自慰、してた。月路さんが。普段俺にまるで親戚のおじさんのように。いや、親のように。エプロンなんてつけて、料理して。家事をして。スーツを着て、車で送り迎えしてくれる。そんな男がだ。硬く膨張した自身のを刺激していた。

  服を太腿までずらし、股間部だけを露出した状態でベッドに腰かけ。自身のチンポを、シコっていただなんてと。ドアノブを握ったまま、開いた扉を閉じずに。俺は呆け、固まっていた。部屋の明かりを反射するように、亀頭がテカっていた。先走りだろうか。掴んだ手すら濡らす勢いで。この行動が既に序盤ではなく、もしかしたら中盤。いや、射精寸前まで上り詰めようとしている真っ最中だったのだろうか。男の、月路さんの秘匿されるべき部位。それも最大限大きくなった状態で。見えて、見てしまった。長さも、太さも誇らしそうな。綺麗に剥けていて、亀頭は当然赤黒く初々しさなど若い頃に捨て去り。俺や晴喜のと違い、まさに大人のチンポという見本がそこに存在していた。妻が居た、いわゆるバツイチと呼ばれる人なのだから。それか昔、恋人も居たりしたのかもしれないし。狼という種族柄と、俺の主観も含めて言えば顔も悪くない。そして温和で、世話焼きであり優しい人となれば当然今もなおモテたりするのだろう。色合いが、女性経験をその口で語らずとも。既に膣の中を幾度も往復したと想起させるような、色素を黒く、濃くさせて物語っていた。

  熟成された、ともすれば成熟した。衰えを感じさせない、その無視できない存在感。同性であるのだから、彼もまた、一人の男。雄であったのだと。思い出した。部屋に漂う雄臭さ。

  「い、伊吹くん!?」

  大きく開いていた股を閉じ。握っていた熱い滾りから手を離すと、どうにか今からでも隠そうと慌てる月路さん。慌てたからか、右手に握っていた携帯を振ってしまい。刺さっていた端子が千切れるように外れてしまう。両方の耳に止められていたイヤホンの内、右側だけ引っ張られるように狼の耳から零れ落ちていた。イヤホンに伝えていた音声が、自動的に携帯に内臓されているスピーカーに切り替わったのか。それなりの音量で流れる。激しく何かを打ち付ける音と、女性の喘ぎ声。そんな音を聞かせまいと、流れていた動画を再生停止しようと月路さんはしたのだろう。操作しようと携帯の画面に触れようとした左手。自身の先走りでべとべとになっているのに気づいたのか、寸での所で液晶画面の前でぴたりと静止する。あわあわと、何かを言いかけて。言葉になっておらず、開閉を繰り返す狼の顎。

  毛皮がなければ、顔を真っ赤にしているだろう狼のおじさん。

  「コンビニに、アイス買いにいくんですけど。月路さんもいりますか?」

  目を逸らしながら、辛うじて言えたのはそれだけだった。俺の隣で管狐がわーって、月路さんの方を見ながら口元を前足で押さえている。ノックの音も、俺の声も聞こえないわけだ。ヘッドホンみたいに音漏れがしにくく、周囲の音を排除する形状じゃなくとも。イヤホンであんな、艶めかしい喘ぎ声を聞いていたら。刺激に集中して、余計に聞こえなかったのかもしれない。

  親が突然息子の部屋の扉を開け、オナニーしているのを見られるみたいに。まさか、逆に俺の方が先に。彼のそういう場面を目撃してしまうなんて。若干、見ておきながら同性であるのだから。同情しなくもない。見てしまってごめんって、気持ち。

  でもアクシデントとはいえそれなりにまじまじと短い時間とはいえ。相手のチンポの大きさ、形を見てしまった自分を恥じた。いくら自分がゲイであるとしても、やはり見られたら相手は恥ずかしいだろうし。嫌であろう。それもオナニーの最中。人に見せる目的で彼はしていないのだから。誰にも見られていないからこそ、一般的にする行動であるわけで。としたら、管狐が常に居る俺が。それをしようとすれば、抜き配信とかそういった行動をする人達とそう変わらないのでは。と思わなくもないが。不特定多数と。プライバシーなんてなんのそのな、常に俺の傍に張り付いている。妖であるこいつに見せるのとでは意味合いがかなり違うとは思う。いや、思いたかった。

  お互いに黙ったまま。相手が立てる、衣擦れの音だけがいやに鼓膜に響く。

  「……年甲斐もなく、お恥ずかしい」

  そう居心地悪そうに言うのは、対面に座った月路さんであり。俺はあの後、そっと扉を閉め。二人分のアイスを買いにコンビニまで走った。昼間立ち寄ったのとは違うが、何回コンビニエンスストアに行けば気が済むのであろうか。一回目は急遽手当てするのに必要で。二回目は頼まれて。三回目はただの俺の食い意地だったが。値段を気にしなければだいたいの物は手に入ってしまう便利性故と時間帯を気にせずアクセスのし易さ。急いでもないのに。走った理由。それは月路さんのモノを見たばかりであったから。その煩悩とも呼べる、近しい人の性器の形をついつい思い浮かべないように。そういしていた。

  近しい人だからこそ、ゲイである自分を隠しながら生活し。そういう目線で見ないようにしていたのに。性に全く興味がないわけではないのだから。彼のチンポの大きさ、部屋に漂ってた性臭、自分の手で快楽を貪る狼の顔。それらを見た罪悪感と同等には、高揚する気持ちが。わーって叫びだしたい変わりに、走ったのだ。夜中だし、実際にしたら近所迷惑だ。

  カップ状の器にぎっしり詰まってるアイスにぶすぶすスプーンを意味もなく突き刺しながら、ちらりとこちらの様子を窺ってくる狼。茶化すでもなく、わざわざ触れようともせず。ひたすらその部分に俺は触れないようにしていたのに。見られた本人はまだ、羞恥心が抜けないらしい。本当にごめんなさい。

  あの後、俺が買いに行ってる間に。最後までしたのだろうか。それとも、パンツの中に発散しないまま押し込んで。その彼の性欲の行方は定かではないが。夏場においてひんやりと舌の上に乗せると体温で溶けていく甘味は。やはり買って来て良かったと思わせてくれた。夜に食べたものは脂肪になりやすいとか、そんな事を聞いた事があるが。自身のお腹を気にしている狼も、渋々と差し出されたアイスを食べている。今だけは後々の事を考える余裕もないというだけかもしれないが。逆の立場だったら、消えたい。今すぐ、そう思うのだろうか。いっそ殺してくれって。本当に死にたいわけではないが。そんな気分に陥ったりしてしまったり。

  月路さんも。するんですね。なんて返そうかとも思ったが。今の彼の心情で言えば、そんなふうに言えば傷ついてしまうだろうか。おいそれと迂闊には言えない。だからこそ黙々と自分で買ったアイスを食べているのだが。気まずい。見られたのが俺でなくて良かったという。立ち込める気まずさの中でも、そんなふうに思ったりもしたが。やはり、見てごめんなさいという気分は拭えず。

  「その、すみません」

  「伊吹くんは悪くありません。その、鍵を掛け忘れた私が悪いので」

  アハハ。二人して乾いた笑い。取り繕った笑顔を向ける。人の部屋を返事も待たず勝手に開けたのは俺であるし。そう言ってくれているが、こちら側にもそれなりに落ち度はあったのだった。罪悪感が凄い。こう、ゲイである身で。男の裸を見られてラッキー! なんて、単純に思える筈もなく。ただただ、俺まで恥ずかしく。申し訳なさだけがあった。それで月路さんのを見たからと、興奮したりできよう筈もなかった。だって一緒に住んでいる、他人であるのだし。いくら男が好きでも、そういう雰囲気でないなら。感じ方も全然違うのだから。隙間から覗いて、見られている事がバレなければ。他人のそういう所を覗き見して、ドキドキしたりするのだろうか。でもそうはならず、ばっちりお互いを認識し。こうなってしまったのだから。いたたまれなさと気まずさが凄い。僕の分はと、俺のアイスに顔を突っ込んで突き抜けている管狐。どうやってこいつは食べるのだろうか。供物台にでも置いて、祈りを捧げたら食べる事も叶うとか。先ず要求された品が人の肉であったので、願いを叶えてやる気なんてさらさらなかったが。冗談でも言って良い事と悪い事ぐらいあるであろうに。ふざけるのも大概にして欲しかったが。この管狐はこんな性格である。人を揶揄って遊ぶような、そういう振る舞いこそ妖らしいと言えば。らしいのかもしれなかった。化けて出て、人を驚かす。そんなおこないがむしろ普通であり。それでもされる側はたまったものではないのだが。

  今日一日、本当に濃厚だったように思う。晴喜の家に遊びに行くだけだったのに。不良少年を助け、龍人の願いを聞き、こうして月路さんと夜中にも関わらずアイスを食べている。普段しない事をした結果、得られる筈のなかった経験ばかり。だからこそ得たとも言えるが、必要のなかったものも混じり。全ての起きうる事が選べるわけでもなかったが。これは別に、いらなかったなと。両耳をぺったり倒したまま、いつまでも戻らない狼をこっそり見ながら思うのだった。

  月路さんそういや。手、洗ったのかな。そう思いながら、困った顔でアイスを食べる彼の無骨で毛むくじゃらな手を。スプーンを咥えながら無言で見つめた。

  [newpage]

  [chapter:十二話 君と一緒に]

  「んで、大丈夫なのかよ」

  開口一番、亮太郎が椅子を引き。ギィィ、って音を立てながら座り。俺の机に勝手に頬杖ついてみせる。本来の席の所有者である奴はそれを見越してか、それとも元々他の奴に用があってか。休憩時間になるとすぐ立ち上がるのだから。断りを入れる必要もなく、当たり前のようにして。虎が背もたれに片腕を置き、胸で挟みながら。背後でぺしぺしと尻尾がしなり、机の上にあった鉛筆をダイスのように転がしていた。器用な奴。

  「なにがだよ」

  主語もなしに、何が大丈夫だというのか。先ずそこをはっきりさせろとばかりに、俺はそのような振る舞いに少々呆れつつ。持ち主に未だ怒られていないのだから、別に良いのだろうが。クラス一の巨漢である、この筋肉達磨な虎に言えないだけなのか。

  俺の返答に、虎の。大型猫科動物らしい、小さな額にかけてから鼻筋に向かって横に広がっていくような。そこに付属する丸っこい頬、白く硬い髭がぴんっと十センチは越えていそうな。横に長く生え揃ったそれらごとふるると震わせて。口元を言い難そうに歪めていた。

  「なにがって、その。真由理の件だよ。今週だろ」

  珍しく周辺を気にした素振りをしつつ、同い年なのに。その太ましいふさふさの首回りに隠れきれない中央にある盛り上がり。喉仏から出る、これまた野太い声を、いつになく潜め。そんな虎の言い方に。何となく、嫌だなって思った。俺だって真由理の事に関してあまり良い印象なんて全くと言って良い程には、持ち合わせてはいないのだが。それでもだ。家に押し掛けて来た時の、あのお互いに慣れていこうと。譲渡のような、一歩引いた。振る舞いをする男に。思わず庇いたくなる気持ちが湧いたのだった。

  それでも。学校中に蔓延しているのか。その悪い噂。それを否定する材料も、そして俺の事を心配する亮太郎の気持ちを蔑ろにするのも。どちらも選べないまま。

  そうか。晴喜と遊ぶからと、次の週に持ち越しで成り行きで約束を取り付けられてしまったが。今週、あの人を小馬鹿にしたような狐。無駄に顔は良いから余計たちが悪いあいつと。どこかに行くんだった。行く場所はサプライズとばかりに何も教えてくれないままで、正直忘れていた。不必要に学校ではこちらに干渉してこないものだから。よくつるんでる虎と、ハスキーの方がインパクトとして大きいから。というのもあった。

  「というか、それってマジなの?」

  のし。突如頭頂部に荷重がかかる。後方に居る奴が喋ると、僅かに振動するから。どうやら犬科のマズルを人の頭を使って台置きのようにしているらしい。誰かなど、声と。そしてこのような振る舞いをする相手など。晴喜以外に居ないというのもあって。頭上で猫だましをするように、ぺしんと両手で叩くと。あだっ! そんな声がした後重みが消える。眼前に居る虎は、あーあー。そんな声を出しながら。寝こだましに驚いた表情を頬杖ついたまま苦笑いに変えていた。

  上半身ごと振り返りながら、背もたれに腕を乗せ。支えにすると。ハスキーの獣人が自身の長く突き出た口吻を両手で押さえ、唸っていた。あんな別れ方したのに、懲りない奴。自然と自分の目が据わるのがわかった。

  真由理に告白した子が、翌日から体調を崩し学校に来なくなった。あの、狐の伊達男が何かしたのだろうか。したとして、そうする理由は。そもそも帰りの道中、たまたま事故に遭ってとか。他にいろいろ思いつきはするのに。彼を正直よく知りもしない俺は。否定も肯定も、やはりできないのだから。自分の許婚を悪く言われて、嫌な気持ちになった。というわけではない。俺自身、許婚になる事に納得なんてしていないのだから。むしろだ。あの男の事を、一緒になって悪く言ってしまっても。そうしてしまっても良いぐらいの権利が、これまでの俺に対する態度や扱いが。そうしてしまえる理由があるような気がするのに。

  「いや、俺も先輩に聞いただけだ……」

  「本当でも、嘘でも。俺、何かアイツ嫌い!」

  虎と犬の会話を間に挟まれながら聞き。根拠を問われた亮太郎はそういえばと、言葉を濁し。晴喜は実際に会った第一印象でか、ぷいって顔を背けながら。精一杯俺は嫌いなんですって顔を作っていた。むむむと、眉をきつく狭めて。

  嫌い。そうだな、俺も真由理の事嫌ってた。そうだった。でも今はそれが、過去形になりつつあるのだから。それは、どうしてだろうか。俺に無遠慮に触れて来るし。それは、腕を組んでまだ明後日の方向を向いている晴喜もそうだが。作り物みたいな笑顔を張り付けて、糸みたいに目を細めて。ニコニコしてるのもなんだか不気味であるし、得体が知れないのも。本心がこう、掴みどころのない男だと。そんな印象を抱かせる奴だった。心配そうに、声をかけて来たりして。でも体調を崩したのはそんなふうに寄って来た、真由理のせいで。それで、晴喜とあんな事になって。

  あれからというもの。ふとした瞬間。ハスキーの、青い瞳がじっと俺の事を見つめている事が多い。どうしたんだよって、亮太郎ないし。俺が声をかければ、ぶんぶんと首を振って。なんでもないって言うのだけれど。見られてるなって、すぐわかるぐらいには。露骨だった。嘘が吐けない奴だから。感情がそのまま顔に出るから、何を考えているのか。例に出すと対極の位置に位置するぐらいには。晴喜と真由理って性格が間反対のように感じる。だからか、早々にハスキーはあの狐を馬が合わないと本能的に気づいたのかもしれないが。快活な振る舞いばかりの活発で笑顔が絶えないこれまでのハスキーの雰囲気ではないから。だからこそ、俺も亮太郎も早めに気づいたというのもある。また、何かあったのか。そう虎に問われ。彼の家に遊びに行った時。ない事もなかった、とも言えなくもない。でも何もなかった。何も起きないように、俺が怒って。逃げるように帰ったのだから。何もないと言える筈で。

  だからと、懲りずに晴喜は俺に抱き着いて来たりはするのだが。性的な雰囲気が滲んだのは、あの家での時だけで。学校では至って、普通に仲の良い友達に対してじゃれているだけのように映る。そうされている張本人の俺でも、そう感じるのだから。間違いないとは思う。同級生とエロトークなどしようものなら、やっべ。勃った。とか言いながら、股間を押さえ。他の奴らに笑われながら肩を小突かれたりしていたりするし。そのままトイレに走っていく晴喜が。暫くしてスッキリした―、とか言いながら教室に帰って来るのだから。本当に、明け透けがない奴だった。良い意味でも、悪い意味でもだ。学校で何やってるんだよ。

  そんな振る舞いに男友達は多いが、その分。女子達からは若干避けられているんじゃないかと思えたが。元々の弟属性みたいな、天真爛漫な所が、そういう性的な部分の嫌悪感を薄れさせ。やだー、もう。とか言われながらも、気持ち悪いとか言われたりしない所が。凄いなって思う。逆に言うと、全く性的対象に。異性にモテていないとも言えるが。

  女子の会話を聞いていると、たまに好きな男子の話とか。そういった意中の相手はとか、お決まりの会話が聞こえて来たりはするのだが。晴喜の名前が出ると、長い髪をいじりながらあー、と間延びした声を出し。晴喜だし。でだいたい終わってしまうのだった。男子って馬鹿ばっかり。そんな中でも亮太郎は性根は優しく、そういった下ネタに関して積極的に乗って来るわけでもないから。女子受けは悪くないと言えた。晴喜と比べて、という注釈がついてだが。顔も、背も高いし。見た目の包容力という意味では、魅力的に映るのだろうが。最終的には汗臭い。と言われている。これは本人もそれなりに気にしているらしい。晴喜はどうだかしらないが。亮太郎に関して言えば、本人の口から彼女が欲しいとは聞いているので。それなりにケアをしているようなのだが。部活でどうしても汗だくになるし、今の季節。人間ですら、暑い暑いと。手で団扇代わりに仰いだりするのだから。獣人という、毛皮が脱げない奴は余計に蒸れるのだろう。体臭は生まれ持っての個人差が大きく、それは代謝。発汗量もそうで。長所を並べては、短所もまた。よくよく女子達はクラスの男子達の日頃の行動や言動を見ているのだった。俺は。まぁ、影薄いし。目立つ虎と犬の傍に居るから、客観的に見て付属品みたいな扱いだろうか。自分でそう評価すると、悲しくなってくるな。

  男子は男子で、あいつが可愛いだの。あの子とヤりたいだの。あいつ顔は可愛いけど、性格悪いしなーとか。欲望丸出しだったりな会話が飛び交ったりするので。ことこういう話題に限って言えば、直接相手に言ったりはしないまでも。お互いに言いたい放題な部分があった。クラスの仲は悪くはない。というか良好な部類であろうか。一緒に常に授業を受けているからこそ、長く一緒に居て。見え過ぎてしまうから。隣の芝生は青いとばかりに。そのまま先輩や、隣のクラスの女子や男子が良いだの、素敵だの。飛躍していくのが常だ。後は若い男性教師に、女子達がキャーキャー言ったり。それで、同じクラスの男子が歯ぎしりするように。それ犯罪だからなと、黒いオーラを醸し出すのだ。

  いつだって、年上の。落ち着いた大人は無条件に魅力的に映ったりするものだ。逆に言えば、下心丸出しの。性欲が先行している奴らはいつまで経っても、そのせいで相手にされないとも言えるが。高校生という、子供と大人の中間。垢抜けぬ年齢であるのだから。そんな中でも、精神的に成長した。余裕のある一部の男子はちゃんとモテているのだが。だから、真由理もそんな中に入っているのだろう。顔も、スタイルも。モデルのようで、人目を引くし。常に愛想が良い、理想の男性像を同じ高校生な筈なのに纏っているのだから。噂がなければ、もっと女子受けは凄かったのではないのだろうかと。あの狐を褒めるのは癪だが、容姿に関しては揺るぎない事実であるので。そう思わなくもないのだった。

  俺からすると、腹黒そうな。セクハラ野郎なのだが。押し倒されて、お腹。触られたし。そんな奴と、許婚って。やっぱり実感が湧かない。現実味がない。同性婚が認められていないこと日本で。俺と、同じ男性である。真由理がだ。

  休みにわざわざ。俺なんかに何の用であるのだか。あれから、本当にどうするのか打ち合わせ的なものがなかった。相手も忘れてるのだろうか。それだったら、それで。俺は別に良いのに。そんなわけもなく、前日の夜。明日、この時間に迎えに行く。的なメールが一方的に届くはめになるのだが。

  真由理が指定した、学校が休みの日。十時前には、来る的な事を言っていたので。それまでには準備を終えていた。特にこれといって、何かするというものでもないし。ただ部屋着から外用の私服に着替える程度である。まだまだ自分の服を持ち合わせていないので、晴喜の家に遊びに行った時とそう変わらない。実家から出て来る時に全ての服など持ってこれなかったのだから。殆ど攫われるように、突然であったし。そう言い訳を重ねるが、今日の今日まで。別に他の休みの日に買いにいけば良いだろうという、そんなツッコミを自分自身でするが。それまでずっと、家に引きこもって。自分の部屋だけが、安心できると。極力月路さんとも必要以上には顔を合わせないようにしていたのだから。

  もしも、また晴喜の家とか。それかどこか、ゲーセンとかカラオケとか。そういった娯楽施設に遊びに行くのなら、必要になってくるのだろうなと思うが。あんなふうになった今。学校では仲良くしていても、休みの日にまた遊ぼうと。誘われない気がしていた。あのような態度を取って、帰ってしまった手前もあって。俺から誘う。そうするべきなのかなって思うも、それで相手が嫌だなって思ったりしないだろうか。俺に貴重な休みを使わせる、時間を浪費させる。俺と居て、楽しいのだろうか。友達と言ってくれるが、それは今でも有効なのか。いろいろ考えてしまうのだった。今の学校に転校してくるまで、友達というそういった関係性を断ってきていたのだから。距離感がわからない。

  「大人しくしてろよ」

  「ボクはいつだって、イイ子にしてるじゃんかー」

  どこがだよ。月路さんが作ってくれた朝食を食べ、時間まで自室でゆっくりしながら。そうやって管狐に釘を刺す。どうやってもこいつは俺の周辺をうろちょろして、状況を見て。面白がり、変な事を言うのだから。着いて来るなって言っても、従わない。言う事を聞かないし。それなら、黙って。大人しくしてろと、妥協案を提示するしかなかった。亮太郎家に、こういう奴を寄せ付けないお札とか。本当にないのかな。こんど聞いてみるべきか。

  田舎程、妖がうろついてないから。別についてこなくても問題はないように思うのだが。そういった事と関係なく、俺とこいつは一心同体のように。憑かれていると、そう言えるのだった。管狐にとってプライバシーなんて言葉存在していない。人がトイレしていても、するりと壁を通り抜けて。暇だのなんだの自分勝手に言ってくるのだから。

  そうこうしていると時間が近づいているなって、時計を見ながら床に転がっていると家のインターホンが鳴る。素早く応対するのはきまって同居人である、狼のおじさんだ。あんまりおじさんおじさん言うと可哀想な気もするが。月路さんは別にそこまで若いとはお世辞にも言えないのだから。良く動き、衰えていない身体は。十分そういった面で若々しいとも言えたが。直接面と向かって言わないだけ、別に良いのではないかと。俺は勝手に心の中でだけそう区分していた。戻って来るスリッパを履いた足音。部屋の扉がノックされる。

  「伊吹くん、真由理様がいらっしゃいましたよ」

  扉越しに、男の低い声が来客を告げていた。本当に来たよ。当日、ちゃんと着替えて。出掛ける準備を終えておいてまだ、俺はそんな言葉が出るぐらいに。真由理と出掛けるという実感がなかった。楽しそうに先んじて、管狐が月路さんが居るのであろう。扉に向かって突撃して、ぶち当たらず。遮るものなどないと、通り抜け。細い尻尾が最後に扉に対して、水面に沈むようにして見えなくなる。

  今行きます。呼びに来てくれた相手に聞こえるように返事しながら、だらしなく横たえていた身体を起こし、携帯と財布をポケットに素早く押し込みながら。扉を開けて。そうすれば少し控えた場所で、月路さんが布団叩きを持ったままこちらを見ていた。置いてくればいいのに。今日は天気がいいからと、自分のベッドに敷いているそれを。ベランダに干していたのだろう。俺が出掛けた後で、自分のだけでなく。こちらの布団も干す気なのだろうか。それとなく部屋に入っても良いか、尋ねられる。特にやましいもの。というか、本当に何もない殺風景な部屋なので。構いませんと言いながら。首を正面から九十度、横に動かせば。玄関には想定通り、細身で高身長の男が。待ってるんだけどって、そんな態度で。靴箱とか何もない方の壁に、こちらを見ながら腕を組みもたれかかっていた。

  「おはよう。伊吹」

  そんな態度をしていたくせして、俺と目が合うと。ちょっとだけ首を傾げ、ニコリと笑いながら。普通に挨拶される。それに対して俺は、どもりながらも。おはよう。そうやって真由理に返事していた。廊下を数歩、スリッパを履いた俺の足音がぱたぱたと。外履きを履く為に近づけば、狐の目線が上から下へと注がれているのに気づく。こちらを値踏みをするように。

  もたれかかっていた身体を正し、自身の顎を触りながら思案し。片耳を倒す狐獣人の仕草を見ていると。片手を腰に当て、もう片方のフリーな手は俺に向けて。ぴっと指差して来る。

  「……僕とのデートに、そんな恰好で来る気?」

  「は?」

  さも不快だとばかりに、肩を竦めた男は。そのような事をのたまって。俺は、そう。あまりに考えもしなかった単語に対して。失礼な態度に対し、さらに失礼な返事でもって。口を開け、何言ってるんだこいつって。そんなふうにしていた。デート? 誰と、誰が。まるでわかってない俺を馬鹿にするように、やれやれと首を振る狐。

  君と、僕だよ。そうやって今日彼と出掛けるのがどういった意味合いであるか。教えてくれる。だって、そんな。俺とお前は、勝手に家が決めた許婚で。それに、付き合ってもないし。性別だって、男と男だ。どこかに遊びに行くなら理解できる。男同士で、デートなんて。とても他人事に感じられた。だってそれは男と女の人が。街中でするものであって。少数の、ゲイカップルだとしても。俺の目の届かない、とても。とても遠くの存在であって。自分とは関係ない。自分はそうなれない。そう、思ってた。これまで。そう思い込んでいた。それが。

  俺と、真由理が、デート?

  馬鹿な。そんなわけ。また、揶揄われているのだろうか。人の気持ちを、弄んで。俺を、どうしたいんだよ。お前。

  真意がどこにあるか、まるでわからないそんな相手。俺の服装を一瞥して、貶しているともとれる。実際にそうなのであろう態度をさせて。出会って即座に服装をとやかく言われ。じゃあお前はどうなんだよと、服装を改めてみると。第一印象はとてもシンプルだった。真っ白なシャツと黒いズボン。ただそれだけ。上着を脱いだ学生服とも見えるそんなもので。だがYシャツの胸元からお腹まで連なるボタンの内、上の部分をわざと留めないまま。ボリュームのある雪のような胸毛を溢れさせていた。そこに乗るようにか、埋もれるようにしてシルバーの細いネックレスが存在していて。肘近くまで捲られた袖。古典的な狐柄であるのだから、黄色と。手から手首までを染める黒に近い焦げ茶色。その境目に細いバンドような、小さい時計が存在感は薄いながらも巻かているのにも、遅まきながら気づく。なんの変哲もないズボン、だが上背のある真由理は当然足も長く。錯覚どうこうではなく、すらりとしていた。履いている靴は革靴なのか。ぴかぴかに磨かれており。紐等なく、先にいくにつれ尖っていく印象を与えるそんなデザインだった。サラリーマンがよく履いていそうな仕事用の靴だなって思ったが、どうやら違うらしい。挙げるとしたらそれぐらいで。でも元の素材が良いからか、高身長でありスタイルの良い彼が着ると。後は大きめなサングラスでも掛ければ、それだけでハリウッドスターのオフの日と言われても違和感がなかった。

  それ、部屋着? 俺の服装を指差したまま、そのような事を聞いて来る狐の男。違うと首を振るが。この前の晴喜にしろ、そして今、目の前に居る真由理にしろ。ちゃんと外出に際し着飾った人が居るとなると。より自分の服装のダサさを思い知らされる気がした。着古したよれたパーカーとズボン、上下共に同じ色。違う色をどう合わせたら良いかもわからないし、だいたいは全部一色になってしまいがちであった。引っ越して来て、殆どの衣服を持ってこれず買わないままであったが。アクセサリーなんて、元々実家にも置いていない。コーディネートに拘るとかそんなレベルですらなかったが。今から彼と、一緒に歩き、そして外に出掛けると改めてそう認識すると。彼の言う通りデートであると意識すると。たちまち自分がとても恥ずかしい野郎で、みっともない服装でもしているように感じてしまう。

  居心地が悪くて、つい。自分の二の腕を掴むようにしながら身を捻り。縮こまる。見ないでと、そんなふうに。していた。してしまっていた。じっとこちらを見つめてるのであろう、いまいちどこを見てるかわかりにくい。彼の細めた視線が、どういう感情を湛えてるのか。わからなくさせる。

  不意に自身の手首を良く見えるように持ち上げ、そこに存在している時計を。真由理は見ているようだった。片耳を震わせながら時間を確認している。

  「ちょっと予定外だけど、いいか」

  俺に対してというより、ただの独り言めいていたが。そのまま降ろされると思っていた狐の手が、こちらに伸びて来て。無防備に力なく垂れている方の腕を取られる。弱い力で引っ張られて、それでもつんのめってしまう。連れ出すというのか、自分に相応しくないとした恰好の相手を。外に、連れて行って。それで、どうするんだよ。誰かが見て、お前の立っている隣の奴。見た目に差がありすぎるって、そう思わせる為に。わざとそうするのかと、俺は怯んだ。

  でも俺の卑屈な気持ちなんて置いてけぼりで、靴を履けと強要され。そのまま月路さんまでも巻き込んで。車を出してもらい、一緒に狼が運転するセダン系の車内。後部座席に並んで座って。そのまま、此処に向かってと狐が指示するままに。行き先に向かう車。

  停車した場所。俺にとっては縁遠いと感じさせる。メンズ専門なのであろう服屋だった。でかでかと掲げられているブランドのロゴ。入るには躊躇してしまうぐらいには、服だけでなく、店員さんも内装もお洒落な。綺麗の氾濫。自分がとても場違いであると、急いでスーツを着た月路さんと、真由理に挟まれて。俺は凄く帰りたい気持ちにさせられる。なんで、こんなところ。そして真由理の言いなりになっている月路さんに腹が立った。雇われであるのだから狐野柳家に逆らえないのだろうが。それでもだ。反論ぐらいしてもいいのに。最初、誰に対しても柔らかな対応をしている彼であっても。こと真由理に対してだけは、露骨に顔を顰めていたのに。こしょこしょと狐が狼に対して耳打ちすると、途端に協力的になってしまったのだから。買収されたと思った。その時は。

  でもそうやって此処に連れて来られて。背に、狐の手がそっと当てられる。中に入るのを二の足を踏んでいる俺の顔を覗き込むようにして、真由理が。反対に立つ狼のマズルに比べて、細い印象を与える。そんな口元が薄っすら笑う。

  「まずは買いにいこっか。伊吹に似合いそうな服」

  んふふ。小さく、お淑やかに笑う狐が。そう言うのだ。服。俺の。なんでお前がそんな事をするんだよ。と困惑に見上げるが。背を押されるまま、勝手にお店の扉を開ける俺よりも大きな手。いらっしゃいませと、愛想の良い煌びやかな店員さんが出迎えて。ずけずけと俺の事を、頭から足先まで見て来る。見て来るんだ。その視線の動きだけで嫌だやめてくれと。居たくない恥ずかしいやめてと身を小さくする。

  「お久しぶりです。この子に合いそうな服、見繕ってくれますか?」

  目を塞ぎたい。耳を塞ぎたい。自分の事をどうこう言われたくない。そんなふうに、内心はパニックになっているのに。ぎゅっと握った拳。そんな時身を寄せて来た真由理の、開放的な胸毛が肩に触れる。ずぶずぶと雪の中に沈んでいくようだった。そうされると、どうしても香る。この男の体臭、どこか。安心するにおい。狐の黄色い毛が、光によって黄金にも見える。綺麗な被毛がさせる、太陽のような。お日様の香り。それと、シトラス系の香水も若干混じっていて。強張っていた、握った拳から力が抜ける。この子と言いながら、背にあった手が肩に回されていて。ああ、だから。狐との距離が近くなったのか。少し離れた所で、ただの付き添いですという顔をしている月路さん。俺の見た目に何も触れず、わかりましたとハキハキと返事して。店員さんが真由理の反対側に立ち、さらに店内の奥へと案内されていく。これでは連行されてるのも同じであった。

  そのまま、あれでもないこれでもないと。女の子がお人形に対して、服を着せ変えていくように。俺の身体の前に持ってきては、違うのに取り換えていく。今の流行だとこれねとか。そこに狐が、もう少し落ち着いた奴の方が伊吹は似合うんじゃないと口を出して。イメチェンなら大胆にいかないと。そんな店員さんとの応酬が繰り広げられていた。渦中の人物は俺であって。それでも決めるのは早いのか、全ての商品が頭の中に入っているのか。あれよあれよと、籠に入れられて。数点だけ残されたら。試着室に押し込められる。着ろと。ようはそういう事だった。

  気が進まないままながらも。渡された衣服に裾を通していく。ベルトも。ちらりと見えた値札が、ゾッとする。こんなの、俺。上着すら買えない。親元から離れ、仕送りもなく。バイトもしていない学生の身で。ちょっとだけ困らない程度に月路さんから渡されるお金はあれど。自分のお小遣いなんてたかがしれているというのにだ。着たはいいものの、途方にくれる。

  「伊吹、まだー?」

  そうこうしていると、勝手に閉じていたカーテンを断りもなく開ける真由理。全部とはいかず、ただ少しだけ開け。自分の顔をずぼりと差し込める程度ではあったが。何してるだと、慌て。ちゃんと服を全部着ているというのに、全裸の時そうするようにして。さっと身体の前部分を隠すように背を向ける。俺の反応なんて度外視で、うんうんとカーテンから飛び出た狐の頭だけ見えるそれが頷いて。似合ってるねって。言うのだった。

  全部着てるのを確認したとばかりに、シャーってレールを走る音をさせ。カーテンを許可もなく最大まで開けられて。そうすると月路さんと店員さんにまで、俺の。普段着ないような服を、着せられている。服に着られている筈の俺を、見られて。馬鹿にするどころか。なのに、どうしてか全員。満足そうにしていた。

  支払いはどうするのか、その行方を目で追っていると。今着ているのと、籠に入れた大量の服も合わせ。真由理が一括で払ってくれるらしい。とんとん拍子で進む会話にいつまでも置いてけぼりであったのに。咄嗟に、財布を取り出そうとしていた彼の手を掴もうとする。お金。俺の手などするりと避けられて。カードを取り出すと、それを店員さんに渡していた。

  「おい、お前。お金っ!」

  「騒がない。はしたないよ、伊吹」

  ぴしゃりと、俺の大声になりそうな抗議と。ばたばたする行動を窘められる。他人に奢られるという行動に、見返りを求められると。タダ程怖いものはないと。そうされて良い理由も思いつかない俺は。それでもなお食い下がろうとした。店員さんが渡されたカードを機械に通している場面であろうとも。だって、この男に。真由理にそうされる理由が、そうされて良い理由なんて。ないのだから。

  「心配しなくても、僕。お金の使い道ないから。つい、伊吹の恰好見て言っちゃったけど。なんか。様子から、傷つけてしまったんでしょ? だからお詫び」

  なん、で。確かに、真由理に言われて傷ついた。傷ついてしまった、これまでずっと怠っていた部分を他人に指摘されて。でもそれは、そうしてきた俺の責任であり。言われても仕方のない部分であったのだから。自分がダサい奴だってわかっていながら、どう悪いか考えず。調べず。変わろうとしてこなかった、俺がただ、悪いのだから。それでいざ言われたからと、勝手に傷ついたとしても。自業自得で、今ならそう思える。思っているのにだ。だからと、彼に謝罪を。何かを代わりに、詫びに差し出されて。それを良しとしていい筈がなかった。止めて欲しい月路さんは、微笑ましいものでも見るように、見守るだけであって。

  納得のいっていない。いくわけもない。嫌っていた相手に。嫌な奴だと断じていた真由理に、そうされて。嬉しいと素直になれず。そして支払われた額が、桁が学生が使って良いものではなくて。おかしい、おかしいと。叫び出したい。間違ってるのはお前で。俺は間違っていないのだとそれなのに。

  じれったくなったのか。暫し思案顔をした狐獣人は。何を思い立ったか、正面から一歩。さらに距離を詰めて来て。そして、俺の肩に手を置く。いつだってこいつは、俺に触れて来る。何も言わず当然の顔して。その遠慮のない手に視線が誘導されている内に、反対側の。いっそとても無防備になっている耳元が擽ったいと感じた。それは狐の、口がとても近い距離にあったからで。

  ――伊吹は僕の許婚なんだから。夫が妻に物を贈るって思えば良いんじゃない?

  甘く、囁くようにして。耳元でした男の呟きに。反射的にそうされた耳を手で塞ぎ。二歩、彼が近づいて来た以上に。後ろに下がる。そうすると、たまたまそこに居た月路さんの胸にぶつかって。狼が慌てて俺を支えていた。

  「冗談だよ。顔、赤いよ。伊吹」

  うるっせぇ。思わず狐のニヤケ面を。悪戯が成功して楽しそうにも取れる、相手の顔を睨んでいた。俺が獣人なら、唸り声でも出して威嚇しそうなぐらいで。顔に力が入ってるから、怒ってるから。今、顔面が熱いのであって。けっしてお前の言葉に、赤面したわけじゃないと。訴えていた。管狐までも、同じような顔してこちらを見ているものだから。俺にだけしか視えないとしても、似たような顔が二つ並んでるともなれば余計に腹が立つ。獣人の狐の顔と、妖の狐の顔という違いはあったが。

  俺が試着していた服もお会計する為に一度脱ぎ、タグ等を外してもらい。また着るといった工程を踏むと。元々着ていた俺の私服は月路さんの手に渡った。一件目でどっと疲れた気がする。本当に。何着か、数えるのも。そのトータルの額もちゃんと計算するのが億劫になるぐらいには。その真由理に買い与えられた品々は、車の後部トランクに入れるのかなと思われたが。俺達が乗って来た後部座席にぽいぽい投げ入れるようにして、狐の男がそうすると。狼に向かって、じゃっ! ってそう手を上げていた。荷物はよろしくとばかりに。

  これには雇い主、というか雇い主のご子息になるのかな。そんな相手に対して一応は言う事を嫌々ながらも聞いたり、この服屋に連れて来てくれるのは乗り気であったが。用無しとなった途端この態度に難色を示す狼のおじさん。

  「おっさんが若い二人のデートにいつまでも着いて来るもんじゃないよ」

  ピシリ。そう言われた途端、月路さんの顔が凍りつく。そうして、小さく。おっ、おっさん。唇を震わせるようにしていた。真由理の隣に立っていた俺は、あ。それ、言うんだ。って狐の横顔を見ていた。言ってはなんだがその鋭さのある狼特有なれど、老け顔の部類になってしまう月路さんの容姿を、そのようにして。明け透けもなく。もう少しオブラートに包むとかしないのだろうか。しない、のだろうな。俺と会って開口一番があの発言であったのだし。そういう性格なのだろう。

  余程ショックだったのか、スーツのせいで形の崩れない肩のラインがそのまま一段だらりと下がる。頭の位置も一緒に。両耳もぺしょんと、倒れてしまっていて。実年齢を知らない俺だが。この反応から意外と若いのかもしれない。尻尾を引きずるようにして。運転席のドアを開け、俺の顔を一瞬だけ見て。乗り込んでいく狼の姿。その後ろ姿はあまりにもの悲しさがあった。

  真由理は月路さんがそうして車を発進させるよりも早く。まだ何か言い足りないのか。車体にもたれかかるようにして、運転席側の窓を覗き込んで。窓を開けるようにジェスチャーしていた。俺と同じようにまだ何かあるのかと、そんな顔をした狼が見返す中。手元で操作したのか。エンジンをスタートさせたら。電動の窓が格納されて、二人の間に隔てていた透明な壁がなくなる。仕事とはいえ、本当に良いように使われているな。お世話される対象だとしても、これまで。月路さんをあそこまで顎で使うみたいな真似、俺でもしなかったのに。

  二三、月路さんと真由理が何か話して。そんな中で、聞こえてくる単語。

  「じゃ、朝帰りになるから。心配して夜に電話とかかけてこないでね」

  耳を疑うような、それに。これにはしょんぼり狼も、そして権力者の息子に使われる社会人って大変だなってぼんやりしていた俺までも。なんだそれと、聞き捨てならないとばかりに。真由理を問いただそうとするが。どこ吹く風、狐は車に向かって手を振るだけであった。

  戻って来た狐が当然の顔して、隣に立つと。行こっか。そう予定が狂わされながらも、予め決めていた場所に俺を連れていくつもりなのか。すたすた歩き出してしまうものだから。慌てて付いて行く。今度は何処に行くっていうんだよ。そんな当然な疑問は、着いてからのお楽しみって。口元に人差し指を当てていなされてしまう。

  最寄りのバス停、看板に記載されている時刻を真由理が確認し。良かった、あまり待たずにすむねって。こちらに振り返っていた。それに対してそうかよって、口を尖らしながら。別にどうでもいいとばかりに。そんなふうにツンケンと返しても怒るどころか、俺の反応をどこか面白がっている節があった。服を買い与えた相手が、こんな可愛くもない態度をしようものなら。普通はちょっとぐらい小言が飛んで来ても良いのにとも思わなくもない。自分でしておいてだが。

  先に待っていた人の後ろに並ぶと。確かに彼が言うように、程なくしてバス停目指して減速してくる大きな車。流石に、タクシーやバスといった公共機関にあたっては。田舎とさして仕様に違いがあるわけもなく。乗り込むと空いてる席を見回し、二人一緒なのに確認も取らず黙って窓際の席に座る。そうすると、その隣には真由理が座るわけだが。その時でも、俺は狐の方ではなく窓から見える景色を見ているフリをしていた。フリ、というのは窓に反射している真由理の表情を盗み見ているからだ。

  前の席だろうか。進行方向だろうか。真っすぐ前を向いた狐の横顔が、反射して映っていた。窺い知れた相手の表情は、やはり怒ってるわけでも、不満そうにもしておらず。今の状況を楽しむようであり。ずっと口角がちょっと上がっている。狭い椅子、尻に敷いて痛くないようにか。腕置きと自身の太腿との隙間から前へと伸びている狐の、大きな筆先のような尻尾が俺の脹脛に当たっていた。そこまで先をくるりくるりと、楽しげに揺らしている。

  本当にデートを楽しみにしている彼氏のようで。そんな狐の表情を盗み見ながら俺は困惑していた。買い与えられた、今着ている服もそうだが。今日を突然企画して内容を話さず実行している真由理にもだ。普通、男とデートなんてして楽しいとは思えなくて。むしろ罰ゲームか何かを他の人と、俺の知らない奴と賭け事でもして。やらされていると。そうであったならまだ納得できる。普通の、いわゆる異性愛者の事を。同性愛者である、ゲイである俺達がその人達を呼称する時言う。ノンケであると思われる真由理が。男の俺と、デートをしようとするのが不可解であった。

  これで、俺が見た目中性的で。見ようによっては女性っぽいと、勘違いされやすい稀な男性であればまた違っただろうが。百人にアンケートを取っても、それが千人に増えようと。この人は男性ですに、皆が投票するであろう。それぐらいには、俺の見た目はどこにでもいる、パッとしない。男の子って奴で。強いて言えば、少し頬にそばかすがあったりして。お世辞でも綺麗だとか。そして格好いいと言われたりとかは無縁である。小さい頃に近所のお爺ちゃんお婆ちゃんから可愛いねと言われたきりだ。そのような男を連れて、向かう先。どういう心境なのだろうか。今から、場所に到着した途端に。ドッキリですという看板を掲げた真由理の友達が待っていたりしないだろうか。

  反対側の二つの席。そちらを利用している獣人と人間の女の子二人が、チラチラこちらを。正しくは真由理を見て。何か言っていた。きっと格好いいとかそんなのだ。ただ、バスの車内で。椅子に座っているだけで絵になっているのだから。不思議で。窓から射し込む斜光により。俺の方側の、彼の毛並みがより光を反射し、黄金に輝いていて。彼女達が見えている方は、どちらかというとそこまで美しい毛並みではないと思うのだが。それでも、整った狐の。しゅっとしたマズルのラインは、獣人、人間問わずに美形に映るらしい。彼の身体に隠れて、彼女達から見え辛いのが幸いか。だってこんな居るだけで目立つような、そんな男の隣に。一応買ってもらった服で少々は見てくれがマシになった程度の、平凡か下手したら以下のそのような男が座っているなど。ただの引き立て役以外の何者でもなく。

  こうして相手と比べて、劣等感でイジイジしている輩というのは。より心が反映されてしまうのだろうか。俺みたいなやつ。

  バスの道中ずっと、窓に顔を向けたまま。真由理と、不貞腐れた人間の顔が重なるように映っている。俺の、顔だ。真新しい、服も一緒に。似合ってるなんて微塵も思っていない。いくら似合ってると言われても、そんな事ないと否定してしまう。してしまっていた。そして納得のできない彼の行動に、より僻んでしまうのだった。行き先すら、確認を怠っていたのに今になって気づいた。

  車酔いとか、そういったアクシデントもなく。そういう乗り物酔いは強い方だったが。それはどうやら隣に座っている狐もそうであるようで。どちらかというと、ぐったりして項垂れている。憎たらしい狐の張り付けた笑顔が崩れるのが見たかったと思わなくもないが。デートという目的のくせに、全くそんな浮ついた空気なんてなく。バスの中会話なんて一言もなかった。それは俺がずっと真由理を無視するように、外の景色を見ていたからで。そんな相手にわざわざ気を遣って、真由理が何か言ってくるわけでもなかった。

  やがて辿り着いた施設。大きな建物と、動物のオブジェ。目に入る文字とで、それが何か。だんだんと理解すると共に、まさかここで降りるのかと。嫌な予感がひしひしと感じるぐらいには、まさかと。よりにもよって此処なのかと、他にこのバスには利用客が居るのに。そして運転手だって。減速しだした車体に、やっと振り返ってしまうと。いつの間にか俺を見下ろす座高の違う男の目線。着いたよって、無慈悲に告げられる。死刑宣告。

  俺と真由理、男子高校生二人が。降り立った場所、彼女を伴ってのダブルデートとかではなく。本当に男同士二人でやって来たのは。大きな水族館だった。どうやらそれなりに有名で、繁盛しているのか。営業開始時間はとうに過ぎており、それ故に利用客が休日なのもあってごった返していた。魚なんて、別に好きだとか。嫌いだとか。そういうのは美味しいか、そうでないかしか考えた事がなく。ただ見て楽しむ。それを目的にした施設に、両親とも訪れた事のない。そもそも、ここまで規模の大きな施設。田舎には存在していなかったが。大手有名ショッピングセンターが一件ぐらいだ。

  「お前、ここ……」

  「うだうだしてるとさらに混むから、行こうか」

  服屋に訪れた時と同様にして、どうやらこのまま見ずに帰るとはいかないらしい。また背にこいつの。真由理の手があって。肉球がぷにぷに押して来て後退を阻止していた。だから勝手に触んな。建物自体は奇抜な色合いはしておらず、使われている外装など白だけであり。外観に対してはあまり主張していないらしい。それはそうだろう。売りは内部であるのだから。

  自分の入場料を払おうとすると、事前にチケットを二枚買っておいたらしく。出せず。また奢られてしまう。肩を並べて男二人。人間と獣人が建物の中に入って行く。薄暗くないってく館内。足元と天井は必要最低限だけの光量であり、混雑しているけれど。ぶつかりそうというわけでもない。そんな人混みの中を抜けていく。

  そうすると大きな広場に出て。正面にある巨大な分厚い強化ガラスが視界一面に広がっており。薄暗い自分達が居る場所を、水を透過した青い光が照らしていた。そんな中に無数の小さな影が、俺達を覆い尽くすようにして通り過ぎていく。小魚の群体だった。合図もなし、皆同じ方向に一生懸命泳いでいて。そんな群体が突如、弾けるように中央に大きな穴が開くと。そこからのっそりと。尾ビレを揺らし、突き進んで来るジンベエザメが顔を出すものだから。食われないのかなって思うも、ただ通り過ぎただけのようで。口を開けるでもなく、そのままガラスにぶつかる前に進路を変えていた。

  口の中が乾きを覚えて、それで俺は。ずっと口を開けたまま、見惚れてしまっていた事に気づき。何食わぬ顔で、閉じたりしたのだが。隣に居る男はどうやら一部始終、水槽ではなく。俺がどんな反応をするか見ていたようで。口に拳を当て、他の人の雰囲気を邪魔しないように静かに笑いを堪えていた。さりげなく、肘で相手の横腹を小突くが効いてやしない。

  「どう、去年できた水族館で。ジンベエザメが飼育できる大きな水槽って、日本でも数える程しかないんだよ」

  そうなんだ。勝手な思い込みで、どの水族館でもたいがいの有名な魚は見れるものと思っていたけれど。どうやら違うらしい。飼育する魚が巨大になれば、それはそれだけの規模の水槽が必要なのは。当然な理由なのだが。狐の顔からまた水槽を見やれば、一度目には気づかなかったが。底の方からエイがゆったりと羽ばたくように浮上してくる。切り取られた水中の風景に、突如似つかわしくないものが泳いでおり。それは、てっきり俺の背後か頭の上にでもふよふよ浮いているものとばかり思っていた。管狐であった。海蛇のように身をくねらせながら広い水槽の中を泳ぐ姿は、海の生き物とそう変わらなくも見えたが。生憎とあいつは妖であり、水中だからと別に呼吸は必要ないらしい。毛皮、濡れたりしないのだろうか。何やってるんだ、あいつ。と思わなくもないが。森ばかりのド田舎で暮らしていたのはお互い様で、最近急に都会に引っ越して来て。こうして一部とはいえ、海の中という環境は。俺だけでなく管狐にとっても新鮮であったらしい。

  いつになくはしゃいでる。別に俺以外視えないし、他のお客様の邪魔にもならず。そして一緒に遊泳している魚も無反応であるから、特に害はないらしい。なら至る結論は、放っておくに限る。だった、飽きたら戻って来るだろうし。

  にしてもデッケェ。人間一人、丸呑みにできそうな巨体であり。名前にだってサメとついているのに、食性はプランクトンだというのだから。実物を見た今でも信じられなかった。急に温厚だという性格が豹変して、水槽に共存している魚達を根こそぎ貪ってしまう光景が思い浮かんでは消えていく。感嘆に、息を零した。

  また。俺の反応を見て楽しんでるのではないか。そう見入っていた自分を恥じ、それとなく隣に居る真由理を横目に窺えば、狐もまた。巨大な水槽を眺めていて。俺みたいに溜息めいたものを零すでもなく、とりわけて感想を口に出すでもなく。ただ見ている、というのが正しい。

  「そういえば。ペンギンとかも居るから、他も見てまわろうか?」

  俺が彼の横顔を見つめている事に気づいたのか、狐の顔が見下ろすように見返して。そして、次の場所へと誘おうとする。此処まで来ると、俺ももう。意地を張ったり、僻んだりせず。素直に頷いて、歩き出す彼の隣に立っていた。

  「足元、暗いから。気をつけて」

  だがそう言いながら手を差し出そうとする真由理のせいで、一瞬逡巡した後。差し出された手をスルーする。二段ぐらいの、本当に小さな階段が高低差のあるフロアとフロアを繋ぐ境目にあって、彼の言うように光量が落とされた空間で。いくら段差自体にも光源が設置されてるからと、躓かない可能性は零ではない。だとしても、まるで。女相手に。自分の彼女にするように接されると、調子が狂うというのもあったし。いくら素直になろうとしても、相手のそれも同性の。これはたとえ異性でもあってもか。手をはいそうですかと。取るかとはならなかった。狐の顔からぷいって、顔を進行方向に向けると。なぜか笑う気配。

  次は小さな水槽の中にまた別の空間を切り取って。その中に生き物が陳列されているゾーンに差し掛かったのか。クラゲがふよふよ、仲間にぶつかったりしながら無重力を漂うようにしていた。クラゲ、と言っても。それだけで結構な種類が居るのか、違う水槽を覗けば。俺が思い描く、キノコの傘に触手のようなものをぶらさげたのではなく。どことなくラグビーボールのような不思議な形のまで居て。姿形、出会う場所が違えば地球外生命体みたいだなって。

  そしてすぐ近くで女性の声がして、可愛いと。ガラスに近づいては隣の彼氏であろう男に、見てこの子、と振り返っていた。そんなカップルの様子に我に返り、辺りを見回せば。どこも、だいたいは子連れの親子か。若い男女のカップルばかりであった。人間の両親に、両手を繋がれている小さな子供。白毛をした猫の女の子と、黒毛の猫の男の子が無言で並んで立っており。でも背後でこっそり、尻尾の先が絡んでいたりと。そうやって、俺と真由理のような。男同士で来ている奴なんて居なくて。途端に場違いなのではないのかと。知らず知らず浮かれ始めた心が陰る。変に、思われてやしないだろうか。男同士で。水族館デートなんて。

  そうだ。なんで。そもそもデートなんて。親同士の勝手に決めた、口約束の許婚に。どうしてそこまで拘るんだよ。どうして、恋人の真似事なんてしようとするんだよ。クラゲを見ていた俺の顔。ガラスに反射したその表情が途端に曇るのが、良くわかった。そして背後から狐の、真由理が近づいて来るのまで。

  「道中は嫌そうにしてたけど、気に入ってくれた? 伊吹って、あまりこういった場所に出掛けた事ないって聞いたから」

  誰に聞いたのだろうか。月路さん、だろうか。俺のあれこれをある程度知っている人など、彼ぐらいで。真由理が亮太郎や晴喜と喋っているイメージが湧かない。どうして、そんなふうに言うんだよ。身体が目当てのくせに。勘違い、しそうになるじゃないか。まるで、俺を見てくれているようで。俺自身を、ただ見て。知って、それでも隣に居てくれようとしてくれるように。勘違いしてしまいそうになる。そんな奴いるわけもない。結局は都合の良い存在でしかなく。利用しようとする。

  諦めていた。気持ち悪いと罵られないだけマシで。周囲と少し違うだけで、排他される。同じ同性であっても、そんな中に存在する異物。それが俺だ。

  俺は。俺自身がそういった性的マイノリティに属していながら。それが疎ましいと、俺自身を否定し続けている。否定し続ける事で、自分の心を守っている。自傷行為を続けながら、感情を殺し。そうではないと、無関心に、無感情に。触れてくれるな。関わってくれるな。とそう気取っている。

  ゲイである自分。いっそ、そんな考え方を。心のありようを。怪物のように例えて。俺の中には、人に見せてはいけない、知られてはいけない。怪物を飼っている。いつまでも、いつまでも、殺せない。野に放せない。怪物を、死ぬその時まで。飼い続けるしかないのだと。

  他のゲイの人は、それでいい。それを認め、ありのまま。傷つきながら、生きているのだろう。でも俺は、他人から与えられる傷に怖がり。どうせ傷つくのならと、自分で自分を刺し殺すんだ。男の人を、好きにならないように。それは間違っていると、世界が言っているのだから。否定されるのなら、ならない方がいい。本当なら自分の大事な。個性と言えるものを。床に転がして。俺はモブで良かった。何処にでも居る。印象に残らない。誰の記憶にも残らない。それで良かった。寂しいと思う前に。その感情すらまた床に転がして。足元には、キラキラしたドロドロした、色とりどりの宝玉が俺を照らしているとしても。

  それを思い出させないで欲しかった。月路さんも。亮太郎も。晴喜も。真由理も。捨てたまま忘れていたかったのに。思い出したら、胸が痛いんだ。

  「……真由理は。どうなんだよ」

  クラゲを見つめながら、背後に立っている男に向かってそう問いかけていた。まるでたまに来るような口ぶりでもあったから。以前から知ってたかのように。だって案内する男の足取りは迷いがなく、何の魚だろうかと。俺が独り言のように呟いても。すぐ答えてくれる。近くにその種類や生態が明記された看板とかを特に見なくてもだ。誤魔化すように質問に、また質問で返していた。いや、誤魔化していた。自分の湧いた感情に。また八つ当たりしそうで。

  「そうだね。僕は、触れるもの皆。壊れちゃうから。こうして、檻やガラスで遮っている内は。皆と同じように、愛でていられるから。そういう意味でならこういう場所は好ましく思う。かな」

  淡々と、語られる。彼の心情。背後に立っていた気配が移動して、また隣に立たれる。それが当たり前みたいに。こいつはそうするんだなって思った。そうして、そういうふうに言いながら見つめる先。愛でる対象を、眺める狐の顔は。好きと言いながら、どこか。違っていて。それがどういう意味か、考えて。不登校になった女生徒の噂を思い出した。それと、真由理自身が言っていた。触れるだけで吐いた子だって居るって。言っていたではないか。そんな台詞を。聞いていたではないか。俺は。

  あくまでも観賞用であり、手で触れたりといった事は人以外の。動物であってもできないのか。こと命が宿る物に関して。触れる事すら許されないのだろうか。どの程度、彼の力と呼ばれる。非科学的な、影響が。他人に及ぼすのか。俺はこうして触れられて、何ともないのだから。わからなかった。いや、自分の力が叩き起こされるように。身体が変化した、という意味では十分過ぎる程に俺自身も影響があったのだが。学校で倒れた時と違い。今は真由理に触れられても特に身体が反応したりといった現象は起きず。さいさい触れられるだけで反応するなど、ごめんこうむる。だからこそ、俺もまだ見て楽しむ余裕があったのだが。その余裕すら、あった筈なのに。なのにな。また周囲を気にしてしまっているのだから。

  男同士で水族館なんて。そんな決めつけで。俺はまた傷ついていく。誰かに、言われたわけでもないのに。視線を気にして。世間体を気にして。嘘なんてつきたくない。正直でいたい。でもそうするには、どうしても生き辛い。嘘をまた嘘で覆い隠して。両親にすら、異性愛者であると振る舞っていたのだから。

  自分を守る為に嘘を並べる。それは自分が同性愛者であるのも。妖が視えるのも。本当は、とても寂しがりで。構って欲しいのも。全部、全部全部。言ってはいけないものだとしていた。でも気づいたら、この街に来て。友達ができて。かなり不本意だが、許婚である。真由理とこうしてデートモドキをしている自分が居た。晴喜には、ゲイであると自分からばらしてしまって。

  ぼんやりと水槽を見つめる彼が、幻想的なクラゲの浮遊に何を想うのか。

  「うおー! すげぇ!」

  がやがやと家族連れや恋人か、まだ未満の人達がさせる話し声の中に。突如割り込むようにして、妙にテンションの高い声。思考を放棄する形で、振り向けば。二人組の男の子が居て。片方がはしゃいで、もう片方が騒ぐなと注意していた。見た目からして。俺達と同年代だろうか。きっとそうは変わらないであろう。休日に、俺と真由理のように。こうして男同士で水族館に来る奴なんて居るんだなって。そんなふうにして、あまり不躾にならいようにしながらも。興味が湧き、ついつい目で追っていた。周囲に居た人は突如聞こえた男の子の大声に、俺と同様に驚き振り返りはしても。別に火災だとか、何か事件が起きたとかでもないのだからと。すぐに一緒に居る人と会話の続きを。それか場所を移していた。俺以外、もう興味を失っていた。

  クラゲコーナーの隣。カクレクマノミとか、珊瑚と一緒に展示されてるコーナーで大きな身体に似つかわしくない。子供っぽい仕草で犬科の子がはしゃいでいた。

  「美味そう」

  「お前なぁ……」

  両手を水槽にぺったりと置き、自身のマズル。その濡れた鼻先すらむにってくっつきそうになりながら。水槽を凝視する。友達なのか、そんな浮かれように周囲を気にして若干恥ずかしそうにしながらも。ちょっと口元がニヤケているのが隠せていない男の子もまた。浮かれているのだろうか。犬の子の隣に立つと、妙に距離が近いというか。肩が触れ合いそうな、そんな距離感で。同性なのに、どこか。ちょっと違うなって。そんな違和感に気づいたのはきっと、一部始終を盗み見て観察している俺だけなのだろう。人間の男の子が両手をポケットに閉まっている内、そっと犬科の男の子の方側だけ外に出すと。すかさず大きな手が攫おうと、手を繋ごうとしたのだろう。だがそれをいち早く察知した相手に逃げられていた。

  「馬鹿、場所を考えろ。場所を」

  「ごめんごめん。ニシシ」

  恥ずかしさが頂点に達したのか。小さな身体をぷんぷん怒らせながら。ついでに頬を赤くさせ。小声でそう人の子に怒られている犬の子は、全く悪びれてるどころか。笑ってた。衝撃だった。まさかなって、感じた違和感に。それがもしかして。もしかするとが、ありもしない。俺が夢想だけして、捨てた。そんなの、あるわけない。男が好きな、人同士。出会うのすら稀で。それで。あんなふうに。学生の内に、恋して。もしかしたら同じ学校なのかもしれない。そんな二人が仲睦まじくしているなんて。理想がそこにあった。

  でもそんな場面が。奇跡が俺に起きないのもまた。当たり前だった。ずっと人との関わりを避け続けていた俺は。誰かに好意を持つ前に、それはつまり。相手に好意を持たれるわけもないのだから。そんな機会訪れる筈がなかったのだ。わかっている。だというのに、その同性の恋人。周りを気にしながらも、お互い楽しんで。デートしている。そんなあの二人を見て、衝撃を受け。また、嫉妬していた。なんとも醜い嫉妬の仕方だった。自分から放棄しておいて。手に入らなかったこれまでを振り返ると。与えられる筈もないのに。愛だなんだと。自分には関係ないものと。それは空想の、絵本の。そういったジャンルを扱った小説や漫画の中だけであるのだと。現実なんて所詮こんなものだと。思って。思い込んで。思い込もうとして。

  「伊吹?」

  隣から声を掛けられる。息を呑んだ。もうすっかり。あの二人に心が囚われていた俺は。誰と、どうして。此処に来たかなんて事すら、忘れかけていた。気遣わしげに、狐の男が。俺の顔を覗き込んで来る。身長差があるのだからそうされても仕方ないのだが。それでも、毎回表情を見ようと。顔を近づけて来るのが疎ましい。

  「大丈夫? 気分が悪いなら、どこか休憩できる場所でも」

  「――なんでもねぇよ」

  本当に、心配そうな相手の様子に。苛立った。どうせそれも上辺だけであって。こいつが俺に対して、心配なんてするわけもない。そうするのは俺に価値があるからだ。替えの利かない。代用品がないからだ。俺自身を心配しているわけではない。俺の肉体に不調があると、相手方が困るといった。そういった都合でしかない。その筈で。こんなデートなんて言って、連れ出されて。浮かれそうになる自分の心の動きを抑えつけた。違うんだと。真由理の、内心思っている事なんて。まだわからないのに。わかるわけないのに。会って、会話した回数なんてまだまだ数える程で。よく知りもしない相手を。気に食わないと、気に入らないと、否定して。

  また、俺の身体に触れてこようとする。その手を。獣人の、人と比べると大きく。爪が目立って、毛むくじゃらで、肉球があるそれを。避ける。その時だけは、糸目であったこいつの。狐の瞳が、薄っすら開くようにして。金色の、獣の目が良く見えた。怒ったか。とも思ったがそれ以上。相手も何も言わなくなったから。それで終わりだった。

  真由理が俺を心配するのも。水槽を見て楽しむのもだ。だから、もう飽きたと。そんな体で、歩き出す。次に行くコーナーなんて当てもなく。真由理は、隣に着いてこなかった。ズキリ。どうしてか、俺の胸が痛んだ。可哀想なのは俺で。無理やり狐野柳家に使われる為に、引っ越して来て。子供を産めと強要されているのだから。だから当然、被害者で。

  あの男の、腹の内が読めなかった。俺をこんな場所に連れだしてくれた。ちょっと前は一緒に、ぎこちないながらも楽しそうに見てまわっていたのにだ。

  いずれ顔だけは良い、あの男の子供を産む事になるのだから。だからこそ優しくしないで欲しい。こんな奴に。俺なんかに。俺みたいな人間に。

  でも、暫く歩いて。じわじわと後悔が。どうしてあんなふうな態度を取ってしまったのだと。どうしてあんな態度ばかり取ってしまうのかと。自分自身がしたおこないを顧みて、するべきではなかった。していいものではなかったと、わかっていた。

  そうだ。俺はわかってた、最初から。真由理自身、俺を宛がわれた被害者なのだと。本当なら、普通に恋愛して。普通に、狐の女の子と結婚して。普通に子供を授かる筈だった。そうならなかったのは、彼の生まれ持った特異性だが。父親の方針で、どうして俺がそんな力を。どのようにして授かっているのかを、知られたのか。知ったのか、わからないが。

  それでも、彼が望んで。俺を連れて来たわけじゃないのは。初顔合わせで。狐野柳家に伺った時、既に知っていたではないか。不本意だと。ありありと、態度で。行動で示していたではないか。だからこそ、優しくされると。辛くなるのだった。いっそ物のように。ただ子を産む、道具だと。扱ってくれた方がマシで。そうしてくれた方が、俺はもっと。心の底から、彼を疎んじて、恨んで。全ての事を、お前のせいだと言って、拒絶できたのに。でもそうできない。できない筈で。だというのに。俺はまた彼に八つ当たりしていた。

  自分の辛さを、他人に当たり散らして。発散した気になって、結局より。自分も相手も傷つける、泥濘に嵌り込む。どうしようもないおこないばかりをしていた。誰も、スッキリしない。気持ち悪い感情ばかり湧いて来る。心地よく何処までも、自分は不幸なのだと。不幸に浸っていたくなるのに。

  当てもなく、意味もなく。歩き回って、人とぶつかりそうになって。それがどれだけ、自分の足元すら覚束ないぐらいに動揺しているかを伝えていた。このままでは、本当に誰かにぶつかってしまうと。足を止めた。とても、酷い人間だ。俺。

  「わー、兄ちゃん兄ちゃん! お魚さんがいっぱいいるよー!」

  「そうだな、爺様が言ってた通り。ようけいるな弟よ」

  声だけ聞くと、男兄弟が水槽を眺めて楽しそうに浮かれている場面を想像するだろうか。そんな微笑ましい会話に止めた足のまま、思わず視線を巡らせ。視界に入って来た情報に目を疑う。狸だ。狸が居る。これは誇張でも、背丈がまだまだ小さいのだから狸獣人をそう空目したわけでもなく。本当に四足の狸が精一杯身を伸ばし、前足を水槽のガラスにぺとって当てながら。頭を左右に動かし――これは眼前を通り過ぎていく魚を目線ではなく頭ごと追いかけてしまっているようなのだが――そんな狸が二匹。人の言葉を喋りながらはしゃいでいた。

  当然服など着ていない、毛皮のみである。ただ額には一枚の木の葉、だろうか。乗せられているのがなんとも。周囲に居る人が全く驚くどころか、気にせずに居るのだから。幻覚と幻聴を同時に身に起こったと思ってしまっても仕方ないぐらいには咄嗟に光景を信じられず。俺はつい先程まで抱えた気持ち悪さにぐわんぐわんと脳を揺らしていたのだから。

  そっと背後から近寄り。自分の足を抱え込むように屈んで、なるべく彼らの視線の高さに合わせながら。狸? そう声をかけてみる。これが幻覚でも幻聴でもないとすると、俺の異質な部分。人の世ならざる者が視える目を信じるなら、彼らの正体はきっと。

  かなり夢中になっていたのと、背後から静かに近づいた気配に気づかず。急にかけられた俺の声に反応してか。尻尾の先から頭の先まで、狸二匹が鏡合わせのようにしてびびびびと毛が逆立っていく。首が錆びたかのように、ぎぎぎとこちらに振り返るさい。お互いのマズルの先が触れ合いそうな。

  「に、兄ちゃん。人間がこっちを見てるよ」

  「う、狼狽えるな弟よ。かような人間が我らの術を見破れるわけ……」

  わたわた。二足歩行には苦しい骨格故か、水槽に手をついて支えていたのを止めれば。両前足は当然、床につくしかなく。それで身を揺すったからか、落ちそうになった頭に乗っていた木の葉を押さえていた。獣人と違い、かぱかぱ。アフレコと吹き替え音声が合っていないかのように動く口。やっぱりこいつら、妖だ。そう確信を得ながら、田舎でも狸の妖が居たには居たが。だいたい人里で見かけたのは部位が欠損してたりした、首無し狸だったので。ああ、トラックとかに轢かれた霊なのかなって。でも今目の前に居る二匹は、五体満足パーツが揃っており。そしてなによりも、喋る。ここが違う。都会の妖は知能が高いのだろうか。因果関係が気になるが。それよりも、こうも人が多い場所で普通に出没している方が気になった。人型ですらない。

  「何してんの、お前ら」

  改めて、狸二匹と目と目が合ったままそう言えば。相手はもう見られていないと、事実を認めないとはならなくなったようで。観念したのか、兄と弟とお互いを呼んでいるのだから。兄弟なのであろう、二匹がお互いを目だけで相談し。そうした後、見上げて来る。全体的に灰褐色な毛並みをしており、目の周りから頬にかけてや足先とかが黒い毛。犬に似てなくもないが、やっぱりどう見ても狸であった。田舎だと、小さい子犬を拾って育てたら。狸だったと間違うぐらいには、幼少期の狸は犬に似ているが。この子達は、そんな幼い時期は過ぎていそうな見た目をしている。言動はとても幼い印象を与えるが。

  どうやら、爺様。彼らにとっての親か保護者に当たる人だろうか、その者が語る人間界にはこういった大きな生け簀――水族館のことか――を見て楽しむ変わった建物があると聞いて。言いつけを破り、こっそり見に来てしまった。かいつまんで話すまでもない、なんともわかりやすい内容だった。皆が帰った後、食べられちゃうの? って弟の方であろうか。見た目からはどっちが兄でどっちが弟か。瓜二つの狸姿では全くわからないのだが。声の高さが若干、弟の方が高い。そんな質問に、食べねぇよと。苦笑いしていた。

  「えっ! でも兄ちゃんが言ってたよ!」

  むぎゅ。俺の否定の言葉に驚いたのか、大声を出す狸のマズルを地面に押えつける形で。もう一匹の狸が前足両方を乗せていた。どうやら、人間の暮らしを知ったかぶりした。知見の殆ど変わらぬ弟に通振りたかった兄の嘘を、意図せずばらしてしまったらしい。だらだら冷や汗が見えそうだった。

  俺が虚空に語りかけているように周りには映らないのか、こうして普通に喋ってても不審に思われなかった。どうやら、彼らの容姿は普通の人にはただの獣人の子供にしか見えないらしい。らしいというのは、俺には本当に動物の狸にしか見えていないので。この二匹が言う証言と、周りの状況から信じる他ないという意味でだが。だとしたら逆に、自分よりも小さな子供に話しかけている奴ってなるので。俺が老け顔だったりしたら事案だなって、思わなくもないが。俺の目は彼らの術なるものの精度がどの程度かはわからないが、誤魔化せなかったらしい。

  ただ、動物が喋り。コミカルに動いて感情を表現する様は、どこか演劇のようでいて。一時とはいえ、俺のささくれ立った荒れた心を鎮めてくれる要因にはなった。同じ妖である管狐だったなら、こうはならなかったろうが。あいつはすぐ俺の神経を逆撫でる事を言うし。下手に妖が近づこうとすると、威嚇して追い払うので。この子達とこうして茶々を入れられず、落ち着いて話せるという状況自体。偶然が重なった結果だが。

  「ありがとうな」

  狸二匹に、礼を言っていた。思わずペットでもないのに、手を伸ばし。木の葉に触れないようにその頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細める弟さんの方。兄の方は警戒心が高そうだから咬みつかれそうな気がして、自然とそちらを撫でていた。えへへと、素直に地面に転がり。お腹を見せてくれる。そうすると額の向き的に木の葉が落ちそうだが、不思議な力でも作用しているのか。この時は落ちたりはしなかった。

  無防備すぎる弟に対し、人間に気安く触らせるなと。おいと声をかける兄狸。そういえば、こうやって不用意に触れてしまったが。あれだけ真由理に勝手に触んなと俺が内心ぶつくさ言っていたのを棚に上げる行動だなと気づいた。

  人間相手がするのと、動物相手にするのとでは意味合いが違うよなと。でも喋る狸の妖だと、どっちに区分されるのだろうか。

  でもこうして出会えたのは偶然だが。タイミングとしては悪くなかったように思う。でも視えるのが俺で良かった、これで祓い屋とかそういった生業にしている者に見つかったら問答無用で追い払われたりといった。まだ何も悪い事してないこの子達を、傷つけるような人であった可能性だって。だから、少なくとも真由理が俺を探して見つける前に。そういう意味でも、さっさと帰りなよと。俺は促していた。元々もう帰る気だったのか、俺に言われるのは癪だと態度に出してはいても。兄狸は弟狸を鼻で突いて起こし。帰るぞと声をかけていた。

  たたたと小さな足音をさせながら二匹仲良く、集団の足元を縫うように潜り抜けて。出口の方であろう方角へと消えていく。途中、スカートを履いたご婦人の股下を潜ってしまい。こら、クソガキと旦那さんだろうか。男性に怒鳴られていたが。そういや、入場料。どうしたのだろうか。人間のお金、持ってるとは思えなくて。そういう意味では、もしかしたら悪い事。になるのだろうか。判断が難しく。あまり深堀しない方が良さそうだった。

  二匹を見送った後立ち上がり。今、此処はどこだろうか。館内マップでもないかなと、少し歩きながら探すと。水槽がない場所に出てしまう。どうやらお土産コーナーらしい。魚をデフォルメした人形が、各サイズ取り揃えられていたり。キーホルダーや、お菓子の缶。どんな物があるかつい気になりだして。種類だけは沢山あるんだなって。見回して。他に見てまわっていた人が、今日来た記念にか。それとも来れなかった友達や家族にお土産にか、理由はそれぞれだろうが。レジに持って行っていた。

  でも俺の気を引いた物は、何の変哲もないキーホルダーであった。それを軽く手に取ろうとして、陳列されている棚から引っ掛かっている部分を外すまでもなく。ただ軽く手に乗せる程度に、持ち上げて。見てみるだけにとどめていた。その、狐獣人の飼育員さんを模したであろう。二頭身のキャラクターにだ。他はだいたい、飼育されているオットセイや、イルカ等といったもので。売れ行きも、残ってる個数からだいたいは窺い知れるというもの。つまりは、この飼育員さんキーホルダーはあんまり売れていないのか。同じ場所に、色違いのが何個もぶら下がっていた。

  「ああ、それね。言ってなかったけど、此処に土地貸してるの僕の家の系列だから。オーナーがご機嫌取りに作ったらしいよ。売れては、ないようだね」

  いつの間に、そこに居たのか。俺が手に取っているキーホルダーを横から覗き込みながら。狐の顔をした男が、そう説明してくれる。他のキャラクターが売り切れていたり、残り僅かな状況を見て。同じ感想を抱いたらしい。ちょっとだけ、顔を顰めていた。狐野柳家が本業は祓い屋として、副業として手広くやってるとは知ってたけど。手広過ぎやしないだろうか。

  あの狸達が居る時に見つからなくて良かったと。内心焦りながら、平常心を装う。

  「欲しいの?」

  手に取るのをやめて、横に立つ。無駄に身長の高い相手を見上げる。そうしないと、自分の魅力をアピールする為か。わざとボタンを留めていない胸元の雪景色に話しかける形になってしまうからだ。

  「……怒って、ないのかよ」

  「何に?」

  無表情の狐にすかさず聞き返されてしまったから。つい視線を逸らしてしまう。えっとって。まごついて。自分が悪いのに。そう、さっきの態度はあんまりだった。彼に対して、どういう意図だとしても。それでも気にかけてくれたのだから。それに対して取る俺の態度は、本当にどうかしていた。謝るべきだった。そうするのがきっと正しい。人として。頭ではわかっているのに。だというのに、どうしてか喉がつっかえてしまって。言葉にならない。できない。

  あの狸達のおかげで、だいぶ心は穏やかに。平常心を取り戻したというのに。

  自分が嫌だなって思ったらその嫌な感情のまま、気持ちを表現するのはあまりにも簡単なのに。自分に非があったら、どうしてこうまでも。難しくなるのだろうか。ごめんと、そう言うだけなのに。そのごめんが、さっきは悪かったって。俺なりの言葉で。言えないままいつまでも、何も言えず。結局は俯いてしまったからか。狐は俺を見るのを止め、自身の腕に巻かれている腕時計を確認していた。

  「お腹がすく時間だね。どこか、食べに行こうか。それとも、もう少し見てまわりたい?」

  無言で、首を振る。そう。俺の反応に納得したのか。ちょっとトイレに行ってくるから、先に入口で待ってて。道はわかるよね? そう言われたら、それには素直にただ頷いて。すたすた姿勢良く歩いて行く男の背を目で追った。

  お前でも、トイレなんてするんだ。なんて。人混みに紛れるまで、目立つ相手を見つめ。生きてるんだから、アイドルだってオナラぐらいするのに。どこか、自分とは違う領域に。生きている世界が違うんだなって、言葉の節々に混じる。それらに。それは、金銭感覚とか。物の感じ方とか、考え方といったものであって。真由理が化け物とか、妖とか。そういう意味ではなかった。普通の、人間だ。心を持っている、人だ。だから俺の些細な言葉でも傷つく筈であって。態度であったり。表情であったり。与える影響は、俺自身。身近な人間にはそれなりにあるのだから。生きている以上。気遣ってあげるべきで。

  「イブキ! イブキ! すごいよ! 試しにジンベエザメってやつに食べられてみたんだけど、真っ暗で何も見えなかったんだよ!」

  キャハハと、子供の笑い声。管狐がお腹を抱えるようにして、空中で丸まっていた。人の気もしらないで、こいつが一番。どうやら水族館を謳歌していたらしい。あまりに無邪気で、何者にも囚われない。妖らしいこいつが。いっそその振る舞いが羨ましかった。誰にも見えないし、構われないのだから。それだけ好き勝手しても、誰の迷惑にもならない。唯一、俺みたいに視える存在にだけ。視える相手も、憑いている対象だけなのかもしれないが。この管狐がその気にならない限り、俺以外はずっと認識できないのだろうな。いくら妖が視えるとしても。そんな特別な力がこいつにはあるのだろう。

  そうやって、管狐。管狐と頭の中で呼んでいるが。そういえば、ずっと名前すら知らず。というかあるのだろうか。いつ妖として生まれ、俺に憑りついたのかもわからない。謎多き得体の知れないこいつが。

  「そういや、お前。名前あるのかよ?」

  ここまで人混みであって、騒がしければ。俺の独り言など誰も聞いてやしないだろう。そう高を括って、実際。それで誰かが反応するわけもなく。俺だけが視えている、管狐だけ。また急にどうしたのって、そんな態度で。こちらに向き直り。細い蛇みたいな身体を静止させていた。胸元で揃えられた、動物の骨格をさせた前足。真っ白な毛並みと、首に巻かれたしめ縄。鳴らない鈴。いつも、おいとか。お前とか。そう呼んでいた。名前がないのなら、つけるべきか。ペットではないが。

  「……」

  スッと細められた瞼。それはそのまま、三日月のようにして。口元に片方の前足を当て。獣人ができうる笑い方ではない、広く裂けていく口。ニタニタと、不気味に。普段は子供のように振る舞う管狐が、悍ましい存在であるとばかりに。俺を見て、嗤ってた。

  「頑張って思い出すといいよ」

  ケタケタ。人を馬鹿にするように。いつまでも嘲笑っていた。

  [newpage]

  [chapter:十三話 君の真意]

  遅いな、真由理。ウンコかな。管狐と一緒にただ待つというのは、見ている分には見た目は可愛いので。見た目だけは。そういった意味ではペットとして良いのだが、話し相手としては疲れる場合が多いのと。人の目がある外でとなると、俺は必要がなければ話しかけないというのもあって。管狐も黙ったまま、頭の上で帽子のようにしてる事が多い。それか首にマフラーのように巻き付いて、肩に頭を乗せているか。喋り出すとうるさいし。黙っていてくれると気が楽だった。今は遊び疲れたという感じであったが。

  水族館の建物の中から出て来る、特徴的な男の姿を発見する。身長が高いせいで。日本人の平均身長を余裕で超し、獣人としても高い部類であるからして。人混みの中でも頭一つ分抜けている狐の頭は見つけやすかったというのもあったが。生活する上で、頭をぶつけそうになる以外では便利そうではある。高い所にある物とか取りやすいし、他人の身体に視界を邪魔されない。それに、勝手に道を譲るようにして。人々が避けていくようで、歩きやすそうだ。俺がそう思っているように、関係のない赤の他人でも。真由理という存在は目立つのだから、視界の端に捉えては、自然と道を譲ってしまうのだろう。それは自分よりも大きな身体であるからとか。顔がイケメンであるからとか。纏ってるオーラが一般人めいていないからとか。理由を並べだしたらきりがないぐらいで。性格とか、これまでの言動とか。全てなかった事に、知らない人であれば。向こうも俺を見つけたのだろう。こちらに真っすぐ歩いて来る姿に。獣人だ。うわ、顔カッコいい。とか思ったりしたのだろうが。第一印象って大事だよな。

  いかんせん。俺の許婚であり。幼少期に少しだけ遊んだりした、相手で。絶賛忌み嫌ってますオーラ全開で、偏屈な態度ばかり向けているのだが。俺がちょっと拗ねたりそういった態度をすると、ふふって余裕たっぷりに笑うところが。余計に腹が立つのだが。大人の余裕みたいな、そんなものを見せられると。年齢が同じの癖にってのと、いかに自分が幼い考え方感じ方をしているかを教えられているようで。やはり、いい気はしない。

  「おまたせ」

  片方の手をパーの形でこちらに翳し、優しく見下ろして来るのも。俺が膨れっ面を作る原因だった。

  「怒らないでよ、伊吹」

  「怒ってねぇ」

  行こうかと、バスで通って来た道沿いにある歩道を示す相手に。ついて行くのだが、次は何処に連れて行かれるのだろうか。お腹が空く時間とか言っていたから、それは食事ができる場所なのだろうけれど。あまり畏まった場所とかは避けて欲しかった。テーブルマナーとか知らないし、お金を払うとなると。俺の所持金はとても心持たない。

  付き合ってる男性に出してもらう。という精神が俺には全くないし。そも俺は女性ではないのでそうされるイメージ自体がなかった、する、となっても。彼女を持つとか考えた事もないし。後輩とかできたら奢ったりするのかなと思ったりはしたが、そのような相手も今の所予定にない。だからこの男にそうされるのをあまり良しとしないのもあって。世の中には奢られて、そうされて当然と、同じ会って楽しむという対等な立場と来てやってるという立場を都合の良いように入れ替えて物を言う人だっているが。俺は少なくともそうではなく。自分の分ぐらいは出したいと思うタイプだった。だからこそ、服屋で全額出したあげく。水族館の入場料すらこちらの分も払ってしまった真由理に対して罪悪感ばかりで。いや、付き合ってもないな。前提がまず間違えていた。

  正直、この狐の容姿から言えば。ちょっとしゃれたお店がきっと似合うだろう。テーブルに座り、コーヒーカップでも握りながら流し目でも送れば。何かのCMみたいに。かといって俺は、そこらのラーメン屋とか。たこ焼きでも持って、外でぱくついているぐらいが丁度いいと思えるぐらいには。外見的な差が生じている。獣人と人間という種族的な外見的な違いもあったが。その上で、美醜というのは存在していて。こうして隣を歩いている相手とはやはり、場違いに感じる。デートスポットではなく、ただの歩道でもだ。道路側に立っている相手を盗み見ていると、目敏く気づいた真由理が。どうしたのって微笑んで来るのも。こいつは自分の顔の良さがわかって、そうしている部分があるので。余計にたちが悪い。

  でも、二人で歩いてやがて辿り着いたお店は。俺が思っていたような、お洒落で、値段も書かれていないような安直なイメージではなく、どちらかというと庶民的な。言ってしまえば。そう。

  「ファミレス……」

  「別のお店の方がいい?」

  いや、此処で良いです。是非。次は本当にお高いお店に連れて行かれかねないからと。ただ、真由理がこんな。と言ってしまうとお店に失礼だが。ごく一般家庭が寄るようなのを選んだのが意外、と言えば意外だった。夜はナプキンを着けて、油の塊みたいな肉をナイフをすっと通している方がイメージしやすい。それぐらい、こいつの容姿とオーラが俺の目線からすると異質なのだ。月路さんと初めて一緒に食べたのも、ファミレスだった。系列は違ったが。

  ただ俺が、お前がこういうお店を選ぶと思わなかった旨を正直に語ると。くはって、そう息を吐き出して。堪らないとばかりに、肩を震わせるのだが。

  「そりゃ、そういったお店に行く時もあるけど。毎日じゃないよ。それにこういうお店の方が、伊吹も気にせず。好きな物食べられるでしょう?」

  偏見が過ぎると、狐に笑われてしまったから。頬が赤くなる気がする。そりゃ俺の思い描く想像力なんて、誇張表現ばかりの。ネットで見聞きした情報であったり。ドラマや、小説とか。そういった創作での媒体ばかりであるが。それでも、そんなに笑わなくても良いじゃないかと。高笑いとかせず、ツボに入っていても。笑い方にまで品の良さが出ている狐の顔を睨む。

  「そうだね。じゃあ次は、もっと雰囲気のある。夜景が見えるお店とかにしようか」

  次。そうやって当然のように、まるで次回があるかのように言われてしまい。俺は面食らう。だって今日のこれは、こいつの気まぐれに過ぎず。デートと称したお遊びの範囲であると思っていたから。恋人のように振る舞うが、どの程度まで。どの期間それが有効なのかもわからず。相手の好奇心と遊び心を満たしたら、突如終わるものという事かもしれなかったが。これで一度切りではないと、そう言っているようで。

  だとしたら、身が持たない。本当に、俺に対して好意があるように。気を遣って。俺の事を考えて、行動してくれているようで。そういうふうに距離を詰めていく相手に。恋人の仮面を被って近づく相手に、そういった耐性がない俺が。だんだんと絆されやしないかと危ぶむ。自分の人に対する警戒心の高さは自覚しているので、おいそれと気持ちが向く。という事態にはならないとは思うが。逆に妖相手には警戒心が薄く。見た目が気持ち悪いというのを除けば、明確に危害を加えられた事がないのもある。地元では動物の容姿をしている奴が多かったし。足に纏わりついたりはあっても噛まれたりとか、そういう事はなかった。引っ越して来て、ちょっと恐怖を感じたのは。あの黒い人型の影みたいな奴ぐらいだ。

  実際に、今日だって。都会では珍しい部類になりそうな動物の容姿をした妖であろう。狸二匹に、警戒心もなく近づいて。自ら声までかけて。管狐が傍に居ない状況で、もしも襲いかかってくるタイプなら危なかった筈なのに。

  それぐらいに、自分のこれまで身近に居た存在は。人よりどちらかというと妖。人ならざる者の方が多かった。両親を除いて、地元で暮らしている間は友人と呼べる人を作らないようにしていたのだから。そうなるのは当然であり、必然である。だからこそ、最初からフレンドリーに接してくる相手に。困惑と、警戒心が先立ってしまうのだが。

  店内に二名様と通されて、お好きな席にどうぞと言われるぐらいには。空席があり、お昼ぴったりとなっていたらもっと混んでいただろうか。水族館から出る時から、歩いて来る道中で経過した時間で。ピークを丁度過ぎていた。四人掛けのテーブル席に向かい合って座り、席に着いたら真由理が手に取ったメニュー表を差し出して来る。

  月路さんもそうだが。あの人は俺の付き人とか、仕事としてのそういう側面があるが。対等である筈の真由理ですら、自分で取れるのに。そうするんだなって、相手の所作を見ていた。出来た人間、ていう言葉が脳裏をかすめる。その点、俺はあまり誰かに気遣いができるという事はなく。独りで居る時間が長すぎたというのもあるし、人付き合いをしていて自然と身に付くものが備わっていなかったというのに。気づかされる。店員さんが持ってきてくれた水の入ったグラスですら、俺と真由理両者の方に置いてくれているのに。手の取りやすい位置に自分のと一緒に寄せてくれるし。

  そういえば、行く先々の場所。此処含め、俺がどうしたら喜ぶか、気を遣わず楽しめるかと。考えられているものばかりで。そして、道路を歩いている時ですら。道路側に立つという行動を気づかれぬ内に自然と取ってしまうぐらいには。出来た人、なのだろう。相手を思い、考え、行動に移せる人だと。今日一日、一緒に居て感じたそれが。俺が真由理に対する評価だった。自分の何も出来ていない部分は棚に上げてだ。恋人のように振る舞うを有言実行して、まるで彼女のように、女性のように扱われる事自体は。嫌な気分になる気もしたが。実際にされて、それが俺の事を考えてくれて、してくれてるとなると。ずっと意味もなく抱いていた僻みとか。ひねくれた性格での、この狐獣人に対する反発心を取り除いて。俺ではなく、架空の誰かにそうしている光景を。一歩引いて眺めているような、そんな状態で俯瞰すれば、悪い気はそこまでしていないと。気づいてしまった。

  でも結局は、どうしてそこまでするのだろうか。どうして、こうまで自分が言いだした事だとしても怒らず付き合ってくれるのだろうか。言ってしまえば、癇癪持ちみたいな俺相手に。気長に、そして次もあるみたいに言えるのだろうか。ああそうかいって、好きにしなよって。言ってくれるものと、気持ちも距離も離れてくれるものと。そう思っていたのに。

  ガッツリ食べるべき場面ではないのだから迷ったが、食べたい気持ちに逆らわなかった俺はハンバーグが映ったランチメニューを選び。対して真由理は胃に重たい物を注文する事はなかったが。適度にお腹が膨れれば良いとばかりに。食べながらでも、やはり相手の育ちは出るのだから。俺自身、母の躾け自体はそれなりにちゃんとしていたのもあったので。お箸の使い方とか、くちゃくちゃ音を立てて食べたりとか。そういった基本的な部分で言えば普通に類似点を貰える範疇なのだが。そう変わらぬと思えても、小さく器用に箸で切り分けて。獣人の口なのだから、豪快に俺の口よりも食べられそうなものなのに。静かに少量ずつ食べ進める相手。伏し目がちな、というより糸目だが。俯いて、順番に品を変えながら口を動かす姿は。気品というか、どこか女性のようなお淑やかさに類する印象も与えた。背格好とか、骨格はしっかり男性なので。ほっそりしたマズルをさせた狐の顔は、強いて言えば見えなくもないが。やはり、男の身体だった。手だって、指が長いが無骨で。手の甲には毛皮のせいで分かりにくいが、薄っすらと血管の形だって浮かんでいる。

  真由理が選んだのは和風のランチメニューだった。食べ物の好みは、和食なのかなと。思いながら、俺は洋食も和食もどちらも好きなので。出された物に関しては、好き嫌いが無く。なんでも喜んで食べるが。小さい頃残していたら、母に怒られたし。両親が働いているふうではなくても、食べ物に困るような貧乏な暮らしではなかったが。それでも勿体ないが口癖であった。

  父は教育に関しては母に一任していて、よく書斎に籠っていた。扉の隙間から覗いた部屋は、壁一面ぎっしり本ばかりで。その背表紙は古めかしい物が多く、字が欠けて何と書いているか。部屋に立ち入る事を許可されていなかったから。終ぞわからなかった。かといって厳しい父親像とはかけ離れていて。わからない事があって話しかけたら、普通に教えてくれる。物知りな父。時々厳しいが、おおらかな母というのが俺の中での両親だった。

  「次は、どこに連れて行く気だよ」

  食後のコーヒーとばかりに、外は暑いのに冷房の効いた店内だからか。熱い食べ物を胃に納めた後というのもあってか、上昇した体温を冷まそうというのか。ちょっと薄着の為に、買ってくれた服といえど肌寒さを感じ始めた俺とは別に。アイスコーヒーを美味しそうに啜る狐に、俺はそう聞いていた。ミルクも、砂糖も入れないブラックなんて。よく飲めるなって。そんな気持ちも混ざりながら。徹頭徹尾食に関してというか、俺の舌は。言ってしまえば子供舌というやつだ。辛いのは平気だが。酸っぱい物はあまり好まず。甘い物が好きだし。だから迷わず選んだのもハンバーグなのだが。オムライスもいいな。自分で作るとなると、オムライスって凄く難しいよな。卵で包むの。月路さんは何てことのないように簡単にやってのけてしまうが。俺が試しにやらせてもらったらぐちゃぐちゃになった。赤いチャーハンの出来上がり。

  あの狼の料理はお世辞抜きで美味しいのだが。いかんせんオムライスに旗はいらないと思う。爪楊枝に一生懸命鋏で切った紙をくっつけて、お手製のを量産しキッチンの棚にストックしているのを想像してしまうと。迂闊にいらないと言い出せないのだが。なお、旗に描かれている絵はオブラートに包めば独創的だったとだけ言っておこう。絵心はないらしい。

  コーヒーを飲みながら、テーブル席だから窓に隣り合った場所というのもあって。外を頬杖ついて眺めていた真由理。口元が意味もなく口角が上がっている。別に俺と居て、楽しい雰囲気でもないのにな。そんな狐の耳がぴくりと反応する。ことりと静かに置かれるコーヒーのカップ。頬杖ついた手はそのまま。楽しそうな表情は崩さず、何処だと思う? って。そんなふうにしている真由理にまたイラっとしかけるが。俺が怒り出しそうな気配を察知し、おどけてみせる。

  「そうだね、何処がいいかな」

  「考えてなかったのかよ」

  「うーん、そうだね。伊吹が怒って帰るか、楽しめなかった場合もあるだろうから。後はなりゆきでーって、感じかな」

  何てことのないように。僕自身、誰かとデートなんて初めてだし。そう付け加えられた相手の言葉に。なんだそれって、ぼそりと呟く。モテてそうで、経験豊富だろうなって。勝手に決めつけていたのに。それはこれまでの午前中の彼の様子から、そうなんだろうなって。俺が感じて、過去の誰かとそうして来た経験があるから。俺に対してもそうしているだけであって。俺も誰しもの、大勢いる人の、いずれ真由理にとって通過していく、忘れる相手であると。そう勝手に決めつけてた。思えば、俺はずっと。先入観と、色眼鏡。相手を決めつけて、断じて、心を閉ざしてしまう場面が多かった。警戒心が、獣人よりも獣じみていて。これを口に出せば、獣人差別発言とも取られかねないが。それぐらい、俺という人間は。関わり辛い面倒くさい相手だろうなって。会話の合間に水で喉を潤す。

  「逃げても、良いよ」

  先程と全く同じ顔で、思わぬ発言をする狐獣人。主語もなく、何から。と困惑し、思考を巡らせれば。俺と、真由理しかこのテーブルには居らず。管狐が頭に乗っている事を除いてだが。誰から、何から逃げるか。となれば自ずと。

  でもそれは、一番口にしない人から出る言葉だと思った。それぐらいに、真由理が言うのが。あまりにも、俺に与える衝撃は大きく。そして、また苛立たせた。ちょっと見直しては。またすぐにこいつって、そう煽るような言動をする相手に。俺自身、どう接すればいいか。見失っているのもあって。

  「何に、だよ」

  動揺がそのままに、声が震えていた。俺が何に逃げたがっていて。そうしたいと望んでいるか、誰にも言ってもないのに。一緒に暮らしている月路さんにも。だというのに、どうしてそうも見透かしたように言うのか。

  「狐野柳家、ひいては。僕から、かな……」

  笑おうとして、息が変に声にもならず漏れ出た。頬がぴくつく。テーブルの上に置いてある自身の手が、緩かった指に力が入り。握りこまれていく。

  「お前が、それを言うのかよ」

  本心からの言葉だった。ありのまま、何も着飾らない。俺の怒り。お前の家が、勝手に許婚と決めて。それで、断らず。よしとして、こうして恋人の振りをして。デートに連れ出して。俺をどうしたいんだよ、お前。そんな激情を必死に抑えつける。だってここは店内で、他にお客さんも居る。内容が内容だから、言動に気をつけないと。危うい発言が飛び出してしまいそうだった。

  「逃げたいなら、逃げればいい」

  「逃がして、くれるのかよ……」

  「そうだね、僕は追いかけないよ。それは約束する。でもお父様は手段を選ばない。少々強引なところがあるから。何かしらして、僕の元に返すかもね」

  感じたニュアンス、少々ではすまないぐらい。成されるかもしれない所業に戦慄する。自分の父親がするかもねって、雨が降ったら傘でも持ってきてくれるんじゃない? ぐらいの。とても声音としては気軽に、真由理が想像する俺の逃げた場合の未来が。あまりにちぐはぐで。でもそれは、とどのつまり。

  「やっぱり、逃げられないじゃないか」

  俺の手から、力が抜けていく。胸の内を焦がしていた、怒りという感情も萎えていく。それぐらいに、相対する。自分と巨大な存在に。企業ないし、立場の者に。それをして、犯罪だと逮捕されない者が居る。揉み消せてしまう存在に。あまりに感じてしまった。無力感が、肉体に現れていく。ああ、だから。こうして、お前はオママゴトに興じていられるのか。立った場所の、目線が違うから。俺を見下して、いっそ。人間でもないものとして。これはいわゆる、温情なのか。

  「そんなんなっても、使うのかよ」

  使うの部分。本当は抱くとか、犯すとか。そういう言葉を選びたかったが、公共では憚られると。一瞬考えてはそう変換していた。それでも相手には俺がどう言いたいか、ニュアンスで通じるだろうという確信があった。この場において、それ以外にないとも言えたが。

  ずっと上がっていた口角が元に戻り、無表情になった狐の顔。さも、目の前に居る俺が。それか、生きている世界自体がつまらないとばかりに。冷めた目線をよこして来る。こいつの、時折させる。この目が苦手だった。底冷えするぐらい、金の虹彩が。獣の目が、射貫いて来るような。そのまま、俺の心臓を止めてしまいそうなぐらい。凍えるような、瞳がだ。

  「どうだろうね。狐野柳家の跡取りとして、僕は僕なりに。それなりに責務を果たすつもりではあるけれど……」

  「そのための犠牲かよ」

  それが、真由理ただ一人で完結しているのなら。とても、褒められる考え方だった。だがその過程で、世継ぎ問題で使い潰されるのは。俺だ。逃げた場合、ただ産むだけの道具に加工されたとしても。それを完遂しようとするとも取れる発言をしたのだから。この狐獣人の男は、お父様を少々強引だって言うけれど。お前も十分にして、強引な所があるよなと。心の中で吐き捨てた。

  どうしてか犠牲と言った時、目の前の男が片方の眉を軽く持ち上げたが。反応はそれだけで、そこまで動揺もしいないふうで。

  「力を持つ者として、責務がある。僕なりに、この反吐が出る仕事に誇りを持っているからね」

  淡々と語られるようでいて、反吐が出る。その部分だけ感情が、何かが込められていたが。綺麗ごとのようでいて、実質そうなのであろう。そして真由理はもう、祓い屋として高校生なのに。仕事をしているのだと、内容から察した。だから時折学校を休んでいるのだとも。納得した。

  ノブレス・オブリージュ。気高さとか、義務とか。そんな意味だっけか。社会的地位が高い者にはそれ相応の、責任と義務が伴うっていう。貴族的な思考をした人物とかに使われたりする単語を思い浮かべていた。実際に正しいのかは、調べないとわからないが。だいたいは合っていると思う。思い浮かんだ単語は。真由理が口にする言葉から、そういう責任感とか。義務とかを感じられたからというのもあったが。実際に、纏った雰囲気と。彼には限られた者のみが行使できる妖に対する力と、家柄があったのだから。時代や生まれが日本でなければ、貴族としての階級とか持っていてもおかしくはない人なのだなって。なら俺は、農民か、奴隷か。

  幼少期に行使した、小さな青白い炎。今は先生と狐が慕う人の元で師事し、成長したのだから。俺が想像できる範囲を超えた術が使えてもおかしくはない。力自体は、類を見ない才能を発揮しているらしいし。だからこそ、そのせいで。制御できない範囲でまで、大きすぎる力が作用してしまって。一般女性と子供ができないという問題、というか生き物としての言ってしまっては欠陥を抱えているのだが。同性愛者である、俺という。子孫を残すという生き物として当然な枠組みから外れた者から、欠陥と言われた場合かなり不本意だろうが。自分自身を卑下するように、そう思っているので。そんな言葉がすぐ浮かんだ。

  なら、ならさ。そうしてしまうなら。そうしてしまえるならさ。どうして、こうやって。期待させる事をするんだよ。どうして、デートなんて。するんだよ。人間味を見せずに、物として扱ってくれよ。愛されたいのに、そうされるのが怖い俺に。一欠けらでも、恵んでくれるなと。知らないままの方が、その方が。だって知った後で、冷たく扱われたら。もっと辛くなるのに。

  「別に、伊吹が僕との結婚を望まないなら。自由にし――」

  その時、着信音が鳴る。近い場所でした音の発信源、でもそれは俺の聞き慣れたメロディーではなかった。だとすると。対面に座る男がポケットから取り出した携帯を見て、露骨なまでに狐の顔がしかめっ面を作る。今まで、あまりそういう表情をしなかったから。ちょっとだけ新鮮に思えた。お前でも、電話が掛かって来て嫌なタイミングってあるんだって。

  溜息を一つ、俺に向かって。失礼。そう話の途中に詫びながら、耳に当てて電話に出る真由理。

  「もしもし。今日はデートだからかけてこないでって言ったよね」

  不機嫌そうなまま、それは表情が見えない相手にも。声の質から伝わったのか。真由理は、さぞ迷惑そうに。電話相手に対応していた。漏れ聞こえてくる、僅かな相手の声は。どこか、謝罪を口にしながらも。何か急ぎの用があるのか。必死な感じで用件を伝えていた。渋々、内容を聞いて行く内に狐獣人が真剣な眼差しに変わっていく。

  そして、通話を切ると。心を落ち着けるように、携帯をしまい。最後の一口であるコーヒーを、一息で飲み干して。

  「しかたない」

  お会計にと立ち上がる、真由理に。俺も慌てて、立ち上がりながら。状況について行けず。何となく、じゃあこれで今日はおひらきと。この狐から解放されるんだなって。安堵と、若干の心残りをの感じていたのに。何処に。伝票を持って先に先にと行こうとする背に、声をかけていた。何かあったのかとそんなふうに。

  「ん? お仕事。タクシー呼ぶね。伊吹はもう、残念だけど帰った方が良いよ」

  携帯を操作し、位置を確認しているのか。こちらを見ずに一方的に言われる。妖が視えていても、全く携わってこなかった。自分の憑守家や狐野柳家の本当の生業。祓い屋としての仕事。見たい。完全に素人である、俺なんか足手まとい。邪魔になるかもしれない、それでも見たいという欲求。知りたいという探求。好奇心。この男を少しだけ、知りたいとも思えた。

  「それ。俺もついて行って、いいか」

  立ち止まった真由理がこちらに流し目を送って来た。するとたちまち、えも言えぬ圧がぐっと。まるで重量物でも持ったように俺の身体全体に。なんだ、これ。

  「イブキー、やめといたら?」

  子供の声で忠告が入る。管狐だった。俺が感じている圧は、こいつには通じていないのか。それとも向けられている対象が絞られているからか。ぺたって頭の上にだらけた管狐は欠伸しながら言うのだから呑気なもので。冷や汗が伝う。

  「……好きにすれば?」

  俺の提案、それは危険だと。安全は保障できないと、はねつけられるものとばかり思っていた。それかやっぱりやめとく、そう言うべきかとも。だってそれぐらい、雰囲気の変わった狐獣人のそれは。初めてこいつを生き物として怖い、と思ったからだった。でもどういうわけか、受け入れられた。というより、呆れに近いのかもしれない。たまたまだけれど、場所も近いし徒歩で向かうよと言う彼に。早くついて行かなければ置いていかれると思った俺は小走りで狐の尾を追った。

  あーあ。そんな管狐の声は、俺のわくわくする気持ちのせいか聞こえないふりをして。

  向かった先は人の気配が疎らになって、どこか。近寄りがたい雰囲気が漂う、周囲を仮設の壁で覆われた廃ビルらしき場所だった。立ち入り禁止の文字。ビルの高さと同じだけ背の高い仮設の壁は中の詳細がまるでわからない。改装か、それとも取り壊す為なのか。工事現場を見て頭の上に乗っている管狐が、興味深げにしていた。閉じられたゲート付近にスーツ姿の人が立っており。こちらを見つけると。というよりか、俺の隣に居る真由理を。だろうが。恭しくお辞儀していた。狐野柳家関係だから、また狐の人かなって思っていたら。獣人ではあったが、兎の特徴を持った人で。茶色い毛と、黒い瞳。そして目立つ長い耳が真っすぐ立っておらず、横に寄り添うように垂れていた。ロップイヤーって言うんだっけか。ああいう兎の人。

  「お休みのところ。恐れ入ります」

  「そういうのいいから」

  礼儀作法がしっかりしてそうな、所作と。お決まりの口上を述べようとした相手を遮るようにして。真由理が急かす。そうされた相手は、はいと。兎の顔を無表情なままで仕事の内容を言う為にか。再度口を開こうとして、その途中で俺と目が合う。あーって。言葉を濁しながら。それでも、誰こいつみたいな感情が滲み出ていた。部外者に見せたくない、知られたくない案件であろうから。あまりに、普通の高校生ぐらいの子が私服でこんなひとけのないところうろちょろしてます感があれば。そういう感情が透けて見えるものか。それと、力関係とか立場とかそういう細かい部分はわからぬが。真由理に対しては畏まっていても、俺という人間相手にはそうする理由がない、てのもあるのかもしれないが。

  「この方は……」

  俺本人ではなく、連れて来た張本人。狐の顔を見上げる兎の人。こうして並ぶとやはり真由理の背の高さと、逆にあまり俺と背が変わらなそうなスーツ姿のこの人に若干の親近感が湧く。垂れた耳が直立したら一瞬で覆るが、身長測定では計測されない筈なので大丈夫だと思う。

  さっと、肩に狐の手が伸びて来て。引き寄せられるようにして、真由理と密着する事を強要される。何するんだよって文句でも言ってやりたくなったが。俺ではなく、狐は兎に微笑を湛えたまま。

  「この子が、僕の許婚である伊吹くん。これから会う事も増えるだろうし。仲良くしてあげてね、千秋さん」

  こいつが? と半信半疑なのか、説明された後でも。まだ俺の事を訝しんでいた。真由理に千秋さんと呼ばれた兎の人も、いい加減仕事モードに戻ったのか。拳を小さい口元に当ててゴホンと咳払いしていた。実際に男が子供を産む、許婚になれと言われた俺自身、荒唐無稽であり。信じたくもないのだが。わかります、その気持ち。と親近感が続けて。

  桁が四桁しかない、ダイヤル式の錠前で鎖を繋ぎ。開かないように封鎖されたゲート。仮囲いである壁は薄く、叩けばガンガンと音が鳴ったが。飛散した破片等が突き破らないように丈夫そうだ。じゃらじゃらと、鎖が文句を垂れながら。封じられていた道を呆気なく開く。

  過去に駐車場であった場所には廃材と重機がそのまま放置されており。被った砂埃が解体工事をしようと決めて。実際に決行しないまま、工事が止まっている時間を物語っているようであった。ブロック状の破片が、砕く途中のような状態で野ざらしにされている。

  二人の会話に聞き耳を立てていると。どうやら元はオフィスビルであった五階建てのこの建物は。出火原因は恐らく喫煙所に行かず、休憩室で吸い。消し忘れの煙草か何かだろうと結論付けられ。書類を大量に置いていたビル内は、瞬く間に広がった火の手と。逃げ遅れた人が居た為に。悲しい事に死傷者を出した事故物件として、鎮火した後も人の手が入らぬまま放置され、そしていざ取り壊すとなった時。数々の問題が発生したというらしかった。相次ぐビル内で感じる居もしない人の気配と、今もなお焦げたような異臭と熱さ。相次ぐ工事を担当する作業員の事故。そのせいかだんだんと下請け業者が寄り付かなくなり。それでお祓いにと、携わった人からたらい回しのようにして。最終的に狐野柳家に話が持ってこられたとなるわけで。工期と予算と、土地の持ち主との折り合いがつかなかったのか。一日でも早く、解決してくれと藁にも縋る気持ちでの依頼者の声と。そしてたまたま、動ける人員が他におらず。今日は駄目と事前に告知していた真由理にそれでもお声が掛かったわけで。

  不機嫌ですと、狐の顔が歪んでおり。その隣を丁寧に説明しながら歩く千秋さん。そしてそんな二人の後ろから、俺は自分で言っておきながら帰りたい気持ちが。まだビル内に入っていないとしても、もう胸の内に溢れかえっていた。今から帰りますって言うべきか、それはそれで怒られるだろうか。事故物件とか、幽霊屋敷とか。そういったホラー映画はあまり得意ではない。妖自体は耐性があっても、人を驚かそう、怖がらそうっていう目的の元。作られたそういった手合いは苦手なのだ。

  予想できる事であった。祓い屋の仕事なのだから、墓地とか。事故物件。山の中のトンネル。思い浮かべれば、だいたいは心霊スポットと呼ばれるもので。知ってたら絶対に行きたいとならない場所ばかり。何で、行きたいなんて言ってしまったのか。

  狐野柳家に仕事が回って来たという事はだ。妖が絡んでいるのだろうか。此処で死んだ人の幽霊。焼死体のまま出てきたら、それはそれでグロテスクなので嫌だなと思うが。先行する二人はそういった手合いを見慣れているのか、それだけ何件もこなしているのか怖がったりしていない。

  特に真由理は休みの日に仕事を振って来た事に関して怒ってはいても、内容はどうでもいいからと。さっさと終わらして伊吹と帰るんだからというスタンスだった。それがまるで、俺とのデートを邪魔されたのが嫌だと見えなくもなくて。余計複雑な感情を誘発するのだが。ごっこ遊び、あれはごっこ遊び。そう言い聞かせる。

  「離れないでね、伊吹」

  真由理が念押しするように。ここからは危険だと、笑顔を消した狐の顔がそう物語っていた。お、おう。気のない返事をしてはみたが。一応真由理は聞いただけだが強いらしいし、そんなに危なくないような気もしていて。こいつの傍なら、それに千秋さんという兎獣人も今は居るし。最悪、俺には管狐が居る。最終的な防壁としては、こいつは普段まるで役に立たないし。むしろ居ない方が良いぐらいなのだが。こと妖に関してだけは、追い払ってくれるというのもあって。そうしてくれていた月日があった為に。廃墟は怖いが、危険という。妖に対する危機感は薄れていた。だから俺の今頭を占めているもの。ファミレスでの会話の内容を思い返しているのだった。

  電話で遮られたが。真由理が言いかけた台詞。自由にどうたら。俺が不必要になったら、捨てるとも取れるし。それとも、好意的に取ったなら。普通の人生に戻してくれるとも。

  当事者である、産む側である俺が納得できるかどうかという違い。どうすれば良いか、言ってくれていた。僕を愛したら楽になるよって。その意味を。ゲイであるけれど。男が男を好きになってもいいと。良いのだろうか俺が。誰かを、男の人を愛しても。誰かに愛されても。でも、それはもしかして一方的な。形だけの夫婦をしようとしてくれる真由理に対して、俺だけが恋焦がれているという状況になりはしないだろうか。どこに、彼の本心があるのか。それがわからない限り。盲目的にそうしようとは思えないし、思いたくはなかった。

  このまま、デートを。ごっこ遊びを繰り返して、真由理の事を。狐の背中を見つめている、俺が本当に好きになってしまうもしもが。好意的な振る舞いばかりをされて。それで。

  結婚が嫌なら。まるで真由理は俺との婚姻に前向きな考えでいるようで。そんな紙に書いて申請もできない。公的に認められない関係だというのに。そうなった場合、そこにすら責任を果たそうとしてくれているようで。

  「あれ」

  ぐにゃり。視界が歪んだ。思わず見つめていた背に手を伸ばそうとした。その下に付属している、ふさふさの黄色と先だけ白い大きな尻尾に。待って。置いて行かないで。頭の上に乗っていた管狐がしきりに。俺の名を呼んでいる気がした。倒れそうになっているのに、気づかぬまま二人は先に歩いて行くし。声を上げようとして、どうしてか出せず。自分の状態があやふやに溶けていくような。不思議な感覚が襲う。俺。おれは。どこ。

  足元が崩れ。とぷんと、池に沈み込むようにして。感覚ごと、落ちた。

  [newpage]

  [chapter:十四話 きっと、残響]

  本当に嫌になる。くたくたになった身体。次にやらなきゃいけない事リストの中に、羅列したものが脳内でがんがんと騒ぎ立てているのに。あまりに億劫だからと、身だけはやる気が湧かないとばかりに。後回しに、後回しに、明日には本気を出したいが。出す本気なんて、完全回復しない気力に。そんなもの永遠に巡ってこない事に薄々気づいていても。今休む言い訳に俺はそれを使うだろう。

  嗚呼、まただ。せっかく残業してまで仕上げた書類に駄目だしを食らう。慢性化した睡眠不足と疲労が、集中しているようでいて。全くもってできていないのだから。そうやってミスを減らそうと減らそうと、おかしな部分を直そうとして。また人よりもできない俺は労働時間だけが増え、そうなっていく。だが労基というのは厄介なもので。一定以上の日数と、残業時間を越えた場合法律が動きだすのだから。そうならないように、たとえしていたとしても。なかった事のように、日数と、勤務時間は模範的なものになって。俺が頑張ったという気持ちは何の対価も得られず、成した仕事量には釣り合わない金銭が毎月銀行に振り込まれるのだろう。辞めたい。でもその一言が、俺の人生を終わらすトドメとなりそうで。もっと効率よく、定時以内にできていれば。同僚も残業しても俺程ではない。隣の席に座る奴と比べて、より自分の必死な様を。そのざまを痛感して、持った書類に意味もなく皴を多くする。コピーし直しだ。紙とインクの無駄だ。自分の時間すら無駄にして。本当に無駄が好きだなって、上司に言われた小言がいつまでも。俺の胸を抉り続けている。辞めたい。

  こんな碌に使えない奴、年齢も転職にと動くにはフットワークを重くしていて。デスクに齧りついている時間と一緒で、どんどん腰を上げ辛くしていく。

  少しだけ、仮眠に。少しだけ。自分の机がベッド代わりと、うつ伏せになり。ほんの少し目を瞑る。十分仮眠を取れば、途切れた集中力は復活して。よりよく効率的に仕事ができるだろう。ニュースでもやっていた。だから俺も一人になったら試してみようと思った。何時間も寝てしまうなら家に帰った方が良いが。その往復すら億劫で。

  なぜだか焦げ臭い。呼吸がし辛い。今、何時だ。暑い、誰だ間違って暖房を入れたのは。そんな季節ではないであろうに。だがこのフロアには俺だけの筈で。空調は各フロア独立しているのにどうして。ならば俺以外に残っていた奴が別のフロアで何かしたのか。部署は違うし、数年勤めたこの部署といえど。一つフロアを跨げば赤の他人。顔は見覚えがあっても、名前なんて覚えていない。文句でも言ってやろうか。立ち上がろうとしたら、より呼吸がし辛く。風邪でもないのに酷く咳き込んだ。

  暑い。汗が止まらない。暑い。どうしてこんなにも。外が妙に明るい。耳鳴りがする。

  「イブキ。しっかりして、イブキ」

  ジリリリうるさい。こんなけたたましい目覚ましをセットした覚えがない。熱い。咳が止まらない。喉が渇いた。ウォーターサーバーの方へ行って水が飲みたい。酷く、喉が。吐き気だって。頭痛い。中途半端に仮眠を取ると、頭が痛くなったりするがそれだろうか。鳴って。嗚呼、うるさい。誰かこの目覚ましを止めてくれ。俺はもう起きたというのに。

  視界を覆い尽くすように。赤。

  「イブキ、それは君じゃないよ」

  胸が苦しく、吐き出し、吸い込んだ息が焼けそうに思え。咳き込んで、涎が地面を汚した。ひび割れたアスファルト。俺を、俺を見ている。狐。管狐だ。風を感じて、此処が外だと気づいた。座り込んだ身体は、そのまま見上げれば空が見える。景色から、建物の屋上だと理解したが。どうして一階に居た筈の俺がと。混乱しそうで。不自然に荒くなった呼吸を落ち着けるように、深呼吸するのに努めた。何かに引っ張られている。心が、身体が、何かに。負の感情に。

  暑い。痛い。熱い。焼ける、引き裂かれるように。途端に一部が冷たくなっていく、炙られているのに。どうしてか冷たく、氷でも押し付けられているように。でも吸い込んだ息のせいで、内側から。肺を焼かれ続ける。これは、なんだ。知らない。俺の記憶ではない。俺の体験ではない。

  「そう、ゆっくり。息をしてイブキ、力が暴走してる」

  自分の内から、ぞわぞわと溢れ続けるもの。それが紐でも引っ張るように、何かに持っていかれる。でも噴出が治まれば、そんな感覚もやがてなくなった。自分という存在が戻って来る。どこか、違うように。幽体離脱ではないが、遠かった意識が。隣にズレるようにしてあった俺の意識が、身体に重なる。

  「ッ、ハッ。……今、のは」

  「此処に残った思念、かな。イブキの力が不安定だから、それを利用して伝えたかったみたい。君のそれは、親和性が高いから。自分がいかに苦しくて、辛かったか。知って欲しかったみたい」

  俺を心配そうに、様子を窺っていた管狐はそう言うと。俺の背後に目線をやる。まるで、誰かが。俺以外が居るように。だから振り返ろうとして躊躇する、それをしていいか。気配なんて感じないのに。俺は何となくで、よく妖に感じる。居るなって感覚がしたから。恐れはなかった。今の体験が、居るであろうそいつがしたとしても。心を落ち着けながら、視る決心をして振り向けば。佇んでいたのは黒い、木の人形。俺が立ったら同じぐらいの背丈。でもよく見れば、ひび割れが多く。それが普通の等身大の木彫り人形ではなく、炭化した。炭でできた人形なのだとわかる。服屋にあった、服を飾る木製のマネキンを、そっくりそのまま綺麗にじっくり焼いたみたいな。昼間服屋に寄ったから、そんなイメージを連想していた。存在しない筈なのに、どうしてか鼻腔を擽るものは。とても焦げ臭い。

  関節が上手く動かないのか、腕を持ち上げようとすれば。可動部から破片がぽろぽろ落ちていく。無理にでも素早く動かせば、そのままバラバラになりそうだった。顔の部分はもう表情すら窺えない。眼球があった場所は。大きく落ち窪んでいる。

  「一応聞きたいんだけど。これは、悪いものか?」

  傍に居る管狐に、平静を取り戻した俺は。そう聞いていた。これが、何か。どうしたいか、正直俺にはわからない。対処法なんて、祓い屋でもないのだから。それをする力もない。無言で、焼けた喉は対話も無理そうだった。すり足のように、きっと股関節や膝が曲がらず持ち上げる事ができないのだろう。中途半端に手が持ち上がって、じりじりと。数センチずつこちらににじり寄る姿は。ゾンビみたいだった。最近のゾンビは走って追いかけて来たり、かなりアグレッシブであるが。逃げないの、そんなふうに小首を傾げていたが。聞いたらちゃんと答えてくれる気がした。聞かない限り、答えない意地の悪い管狐は。

  「良いか、悪いか。それは君達の尺度だよ、イブキ。そうだね、君の感覚を乱し。無理やり共感してもらおうと、死を追体験させて。そういう意味では害になるかな」

  そうか。そうなんだ。痛かった、熱かった。それはとても。死ぬ間際であっても、死にきれず。早く殺してくれと乞い願うぐらいには。苦しみながら亡くなったのだろう。共感していた。それは管狐が言うように、突如として流れ込んで来た。イメージというより。身をもって体験した、あまりにリアルなものであったから。哀れんでいた。生き返る事も、俺は親族も知らないし。それを伝える事もできない。でも、誰からも忘れられたまま。遺体だけ回収されて、魂だけ此処に焼け跡のようにこびりついて。知って欲しかったんだ。こいつは、そんな強い。強すぎる、いっそ相手を祟り殺しそうな、そんな強い思い。

  「辛かったんだな……」

  苦しかったよな。孤独だったよな。理不尽に、自分のあずかり知らぬところで。誰かの不注意で、貴方は。亡くなってしまったんだな。もっと早く、決断していれば。もっと早く、こんな職場辞めていれば。そうしたら、そうしたら。いや、仮眠なんて取らなければ。ミスをしなければ。もっとましな。人生を送れていたかもしれなかったのに。それは、さぞ。無念だったろう。

  俺は当事者でも、この人を見て来たわけでもないのに。片方の目から、雫が頬を伝う感触と。あまりにも、俺まで苦しいとばかりに。声を震わせて、辛かったなと言っていた。それをどうするつもりなのか興味深げに、俺を見ていた管狐がゆらりと身をくねらせる。目を三日月みたいに細めて。

  言葉が届いたのか、どんどん砕けていく身体に。限界が来たのか。歩みとも呼べない、そんな動きを止めてしまった炭の妖は。全体がもう崩れかかっていた。最初から立っていた場所と、この間に俺まで距離を詰めた分だけ。後ろには二本の、黒色の石膏でもまぶしたような線ができていて。まるでその身は、崩れていく身体は。力を使い果たしたかのようにも感じられた。

  もう少しだけ、あと少し。俺に手を伸ばそうとするそんな動きを。ゆっくりとした動作を。見つめていて。だが黒かった妖の身体を、青が包んだ。しゅぼって、着火剤にライターで火をつけるようにして。勢いよく足元から轟々と燃え盛る、青白い炎。

  「真由理」

  そんな身に覚えのある炎で俺はわかっていた。随分と、小さい頃見た物とは規模が違っていたけれど。急に離れ離れになって、一人屋上に連れて来られて。多分、探して。追いついたのだろう。彼が、真由理が、狐の手が。管狐ではなく、獣人の五本指ある手が。こちらに。正確には炭人形に向けて掌を翳していて。

  「なん、で……」

  もう少しだった。もう少しで、何かを。救えた気がした。この人の痛みを、苦しみを、理解してあげて。分かち合って。もう少しで。一人寂しいと訴える、彼を。

  「伊吹。それはいけない。そっちに行っちゃだめだ。伊吹はまだ、生きている。可哀想と思ってしまったとしても、それ以上はいけないよ。魅入られてしまう」

  炭の身体は、とてもよく燃えた。生前の時のように。以上に。でも痛みで苦しんだり、叫んだりといった。そんな苦しみを与えない。近くで燃えているのに、俺にその温度は伝わってこない。見た目こそ、高温だとばかりに色合いをした炎をしているが。人を傷つけない、優しい炎だった。妖だけを殺す、そんな炎だった。

  最終的に、不自然なタイヤ痕みたいなものと。焼け焦げた臭いと。舞う、紙吹雪のようにして細かな灰が。でもそれも、風に乗って、消えていった。座り込んだ俺の元まで歩いて来た真由理は、そっと跪くと。肩を抱き、そうやって。視界を白が覆った。肌触りが衣服ではなく、毛だから。彼の胸元から溢れている白毛だった。ふんわりと頬を擽る毛先達。よく手入れがされている。そうして、男の若干の汗の臭いといった体臭と薄まった香水。身を触れ合って、この男の胸がしきりに上下しているのに気づいた。耳を当てるようにして、心臓の音も不可抗力で聞こえてしまって。まるで、激しく運動をした後のようでいて。

  「怖かったね。ごめんね、伊吹。まさか君だけを攫うなんて。そんな力もない低級という話だったから。いや、これは言い訳だね。連れて来たのは僕なのに、予測しておくべきだった」

  「別に、怖くなんて」

  だって、あんな奴見慣れている。俺は幼い頃から。妖が視えた。人ならざる者が。いつだって俺を怖がらすのは、どちらかというと。人間の方で。向けられる善意や、悪意に敏感になって。拒絶して。それで。

  胸に抱き込んだ後、背中にある支える為の手と。ゆっくりと頭を撫でて来る男の手。その行動をする意味がわからなかった。だって着いて来るって言いだしたのは自分自身であり。これはまさに自業自得だった。彼がそこまで責任を感じる必要なんて。まさか、最後尾を歩いている。俺がいの一番に襲われるとは思わなかったが。守ってくれている管狐すら何も反応できず。そうして、別に心にも、身体にも傷を負った。というわけでもない。そして実際に彼は強かったのだろう。手を翳しただけで、妖一匹。消滅させてみせたのだから。

  止めろよと、普段通り。真由理がするその行動に対して抗おうとして、相手の胸を押し。離れようと。そうしようとして自分の手が震えている事に気づいた。ぐー、ぱーと、開いたり閉じたりしながら。自分の手の震えが、自覚した後でも止まらない。止められない。どうして。

  「いつも、こんな事してるのかよ」

  こんな恐ろしい目に遭うような。命の危険が、生じる。甘くみていた、お札とか貼って。お経を唱えて終わりぐらいのそんなものを想像していた。妖に囲まれて育ったのに、こんな。感覚を乗っ取られた事なんて一度もない。触れてこようとする者は、だいたいは管狐が追い払ってくれていたから。

  「そうだね。いっぱい、祓って来たよ。いっぱい。誰かがやらないといけないから。僕には、それができたから」

  不自然に感じていた、あの妖に対する共感性が抜けていけば。残ったのは死に対する恐怖だった。だから、震えている俺を。その身体を抱きしめてくれているんだ。こいつは。真由理はそうやって、デート中には見せなかった。本当に申し訳なさそうな顔をしていた。自信に満ち溢れて、時に冷めた目を向ける彼ではなかった。連れて来た事に対する。巻き込んだ事に対する、自責の念だ。そんな顔、するんだ。お前でもやっぱり駄目って言っとくんだったって。軽率な行動の結果で、それで悔いたりするんだ。俺なんて消耗品だろうに。

  「どうしても、必要なのかよ」

  「……うん。そうだね」

  正義感もあって。責任感も、そして人並みの優しさも感じられる。それなのに。跡取り問題。どうしても、世継ぎの話が浮上するのだから。それは俺じゃなくてもいいだろう。勝手にやってろよ。そう言いたい、言いたいのに。俺以外にはできないのだと。俺の日常は非現実的な場面ばかり、多くなっていて。実家で暮らしていた頃は、ただ居るなって。たまに寄って来る小動物ぐらいの感覚だったのに。妖とはそれぐらいの距離感だった。でも此処は、この街の妖は違った。知能が高かったり、会話ができる奴ら。こうして。悪意とは言い切れないが、変わり果てた。死そのものを直接、こちらが拒否する間もなく与えて来る。知って欲しいという気持ちからか。押し付けて来る。完全な追体験の結果、ショック死しかねない。そんなものをだ。

  血を絶やしたらいけないと。家を継ぎ、そして。祓い屋を続ける気なんだ。衰退していくままにはしないと。仕事自体は嫌っていても、それで誰かを救える事を知っているから。自分にしかできないのなら。する。それが真由理なんだ。大多数を救う為なら、少数を切り捨てる決断もできる。その少数が、俺なだけであって。

  そして俺にも、俺にしかできない事がある。彼は望んでいる。率先して協力すれば人として扱ってくれる。俺の意思を無視するか、しないか。こちらで選ばせてくれる。俺だけが、彼にしてあげられる事。この男に。それでも。そう簡単に、ゲイだからと受け入れられない。割り切れない。納得できない。

  そもそも、産んだからと。力を引き継げる保証すらないのに。

  「やっぱり。俺は、嫌だよ」

  これには、何も言わず。狐の手が頭を撫でるだけであって。ごめんとも、そうだねとも、返してくれなかった。黙るのは卑怯だ。でも黙ってしまうぐらいには、ちゃんと考えてくれているんだなって。そういう意味でも、俺は徐々に。真由理という男を。この狐を知りつつあった。ただ、顔は良いなとか。そうやって見た目だけで、表面上の態度だけ見て。もういいと、拒絶していたのに。相手の心に触れかけていた。恐ろしい。怖がりな俺は。何もかも、知るのが怖かった。恐れた。殻に閉じこもるのは楽で。

  千秋さんが、ぜぇぜぇと。死にそうになりながら階段を駆け上って来て。真由理様と声をかけてくるまで。俺達はそうしていた。そうやって、真由理の胸に身体を預けていた。誰かに撫でられるなんて、いつ以来だろうか。

  運動不足だねって、千秋さんに対して真由理は微笑んでいたが。それに返事する余裕もない兎は、今にも倒れそうだった。普段は事務仕事ばかりなのだろうか。そんな千秋さんを見ていたからか。それとも、真由理に抱きしめられていたからか。いつの間にか、手の震えは止まってた。

  伊吹が怖い目に遭ったから、危険な妖だったと料金割り増しにしといてね。ってそんな事を千秋さんに言う真由理と。それなりに貰っているのに、これ以上ぼったくったら私が怒られますと泣きそうな顔をする兎。仲良いな。というより、この狐に普段から振り回されているように感じた。俺自身、デートだなんだと。当日、それも会うまで内容も知らされなかったから。そういう唯我独尊みたいな所がある真由理に振り回されたのだが。

  仕事の話をする二人から距離を取り。そっと、管狐に文句を垂れる。お前なら反応できたんじゃないのかよって。察知能力とか、だいたいは何かを感じて事前に教えてくれるのに今回はそれがなかった。

  「ボクの力はかなり限定されてるからね。悪意のないただの呼び寄せの術式だったし。イブキを食べよう、殺そうとかそういった敵意がある相手の判別と、妖問わず相手を威圧したりとか。後は――」

  「伊吹、大丈夫?」

  小声で管狐と会話していると。どうやら話が終わったらしい真由理が俺に声を掛けてきた。千秋さんはしきりに携帯に耳を当て、敬語で喋りながらぺこぺこ腰を折っている。何か重要な事を言いかけていた気がするが、誰にも見えない管狐と構わず喋っていると怪しまれるし。別に帰っても話は聞けるのだからと、俺の事を気にする。今はこの狐の顔をした背の高い男を相手するべきだった。擦り傷も何もない。身体の震えも止まったから。何ともないと。普段通りにする。無理を言って着いて来た手前があったし、これ以上こいつに心配をかけまいとしていた。

  「しばらくしたら月路さんが来るから。今日はそれに乗って帰りなね」

  あれって、てっきり仕事は終えたし。別に怪我もしてないのだからデートを再開するのかなとか思っていた俺は。このまま帰そうとする真由理の態度に驚く。きっと、言葉にしなかったが。思いっきり顔に出ていたのだろう、俺の表情を見て。くすりと笑っていた。

  「あんな事があったのに、デートの続きなんてするわけないでしょ。後遺症がないとも言えないから、安静にするべきだよ。伊吹」

  伸びて来る手。先んじてどうするのか察知した管狐が頭の上から退く。恐らく俺以外、すり抜けて触れられないとは思うのだが。気分の問題なのであろうか。さっき撫でていたからか。ぽんぽんと、頭の上に真由理の手が置かれ。軽くバウンドするようにされる。子供扱いするようなそんな仕草。後々から襲って来た恐怖に震えていたのもあって。こいつからすると、子供みたいに感じたというのもあったのかもしれないが。俺とお前は同い年だし、身長の違いはあれど。まるで弟にするように。そうされていい気分はしなかった。

  相手の手首を手の甲で弾くようにして、退ける。そうしないといつまでもそうされそうってのもあったが。気安く触られるのを許した覚えはなかった。落ち着くまで抱きしめられていたのは、ノーカウントだ。俺も気が動転していたし。あれは、例外。今は嫌だと。それに、特に身体に不調はなかったので。もしもこのままデートごっこをするというのなら、付き合う気ではいたので意表を突かれただけだ。別に、お前が次。どこに連れて行ってくれるだとか。期待していたわけではない。けっして。

  腕を組んで、ふんって怒るような態度を取っていると。ふむと顎を触りながら、真由理が何かを考えているようなそんな顔をする。そしたら少しだけ間合いを詰め、また俺の耳の穴に口元を寄せると。

  「もしかして、朝帰りって言ったの本気にしてた?」

  囁くようにまた何を言ってるんだと思い。服屋と違い、仰け反ったりはしなかったが。言われた意味を考えていた。そういえばそのような事を月路さん相手に言っていたのを聞いていたような気がする。男同士、ただの夜通し遊ぶだけ。とも取れるが。俺と真由理は、最終的には身体の関係になる前提であるので。その朝帰りという言葉を使った場合、少々普通の男同士。男友達とかに使うのとは、意味合いが異なってくる。だからその意味を正しく。まるで男女のそれのように、変換して。理解すると。みるみる首から上が熱く。お前、何を言って。そんなふうに、はぁっ!? て聞き返していた。より、可笑しそうに笑う狐と。携帯のマイクを遮るように手を当て。俺の声にびっくりしたと、表情で語る千秋さんと。

  冗談だよ。そう言う真由理は、本当に。こいつ。ちょっとだけ見直しては、すぐその評価を覆される。素直に褒められるのは顔と身長だけか。底意地が本当に悪い。俺を揶揄って何が楽しいというのだろうか。揶揄うのは管狐で十分足りているというのに。

  戸締りをして、仮囲いに設けられたゲート前で俺と真由理、そして千秋さん三人で並んで待っていると。見慣れたセダン系の車が遠くから、法定速度ギリギリぐらいの速度で走って来る。人通りも、他に走っている車も居ないというのもあって。大丈夫だとは思うが、あまり飛ばしたりしないものだから。月路さんらしくないなって思った。

  急ブレーキ気味に、俺達の前に停車すると。運転していた、部屋着のまま急いで出て来ただろう狼の顔をした体格の良い男がドアを壊しそうな。そんな勢いで飛び出てくる。それはそのまま、俺の元までやって来て。肩に手を置き。

  「大丈夫ですか、伊吹様っ!」

  かなり気が動転しているのか。君呼びから様付けに戻ってしまっていた。落ち着きなよって、俺が言う前に。すぐ傍に居た真由理が月路さんに声を掛ける。そうすれば、優しげな普段の目つきをキッと吊り上げて。狼が吠えるようにして。元々低い声質をさらに低く、こんな声出せたんだってぐらい。それは怒気を含んでいた。

  「真由理様、これはどういう事ですか。伊吹様の身に何かあった場合どう責任を取ってくれるおつもりなのですか、何かあってからでは遅いのですよ!」

  「うん、そうだね。ごめん」

  「ごめん、ですと。それですむとお思いで」

  「ちょちょちょ、ちょっと。待って待って!」

  ネチネチと攻勢に出た狼に対して、狐はとても素直に謝罪を口にしていて。それでも止まらない勢いに。これはいけないと俺が間に入る。だって着いて来たのは俺で、真由理はちゃんと帰そうと。タクシーを呼んでくれようとしていたのだから。非があるとしたら俺で、彼が怒られて良い筈がなかった。むしろ、守って、助けてくれたのだから。月路さんの逞しい胸を必死で押し、そうすると何故止めるんですかと言いたそうに。まだまだ文句が言い足りない狼が、一応黙る。たぶん、形式上は俺に仕えているからだとは思う。だからこそ、無理やり間に入って飛び火したりはしないのだが。といっても、こうなった原因。俺が危険なのを顧みず、同行したのを理解すると。狼のネチネチ攻撃は俺に向くのだが。敬語で正論をひたすら言われるというのは、とても。いやかなり効く。言い返す余地を与えず、ちょっとでも目線を泳がせると聞いているのですかと喝が入る。

  使用人みたいな人だが、駄目な事はちゃんと窘めるのが月路さんだった。普段はやんわりと、駄目ですって言うのに。流石に今回の一件は事が事なので、本当に怒っている。狼の顔が怒りに一色に染まると、本当に怖い。普段は大口開けて笑ったり、喋ったりしないからこそ。今だけは鋭い歯がちらちらして、咬まれそうって思ってしまう。動物が怒ってそうするように、獣人だからと咬んだりはしないが。獣人の彼女を怒らせたら彼氏が爪で引っ掻かれたなんて事はあるらしいが。せっかく庇ったのに。巻き込まれるのはごめんだとばかりに、しれっと真由理は俺と月路さんから距離を取って。千秋さんと離れてこちらを黙視しているしで。そちらに気を取られていると、ちゃんと聞いているんですかってまた怒られた。

  これもまた、自業自得であるのは重々承知しているのだが。人生の先輩でもあるし、ちゃんと聞くべきであり。本気で心配している大人としての視点で、月路さんは言ってくれているので。とても、とてもありがたい言葉なのであるが。それでも、何で俺。こんなに言われているんだと思わなくもない。十分怖い目に遭って、そういう意味ではかなり手痛いお灸を据えられたというのに。もうわかった、わかったから程々にしてくれないものだろうか。そういう気持ちで、狼の顔をそっと上目遣いで見上げると。あ、これは駄目なパターンですねって。それぐらい。眉根を寄せて、お説教モードになってしまった男に。結局のところ、三十分ぐらいはくどくど、ネチネチ。最終的には普段の暮らしでの、こういう所も直しなさいと。飛び火して。はい、ごめんなさいと繰り返していた。朝起きられないと、眠そうにしているのも夜更かしばかりしているからですよとか。こっそりお菓子など食べて。とか。正直途中からはあまり人に聞かれたくないものまで含まれていて。萎縮、とは違うが。身を縮こまらせて、お願いだから。そこの二人、聞かないでと。そんな気持ち。恥ずかしい。自分がこの人に見せていただらしなさを、あれこれ暴露しないで欲しかった。小さい子に言い聞かせるようであったから、余計に。本当に、ほんっとうに。恥ずかしいです。すみません。反省しています。二度としません。はい。

  「ボクの忠告無視するからだよ、イブキ」

  ぺしぺしと、頭の上に乗った管狐が額を叩いて来る。うるせぇ。でも珍しく真っ当な事を言っているのだから。扱いが自分でも雑とは思っているこいつ相手にすら何も言えないのだった。

  月路さんの車、後部座席に乗り込んで。シートベルトをしっかりと着用した所でコンコンと、窓から音がする。真由理がその黒茶色をした手袋のような手の甲で叩いたからだ。ドアの内側にあるスイッチを操作して、窓を下げると。ルーフに片腕を置き、腰を折って覗き込んで来る狐の頭。

  「また近い内にデートしようね、伊吹」

  「それは冗談じゃなかったのかよ」

  まさか、と口元をニヤケさせ。おどけて見せる真由理。ゆらりと大きなふわふわもこもこな尻尾が、彼のお尻より高い位置で揺れていた。一度は触れてみたいと思わなくもないが。獣人の尻尾とか耳って、不用意に触れるのはセクハラだし。たとえ恋人でも嫌がる人が多いデリケートな部位だった。俺だってお尻とか、首筋とか。仲の良い友達と言っても。亮太郎や晴喜に触られるのは嫌だと思うだろう。

  「言っただろう。お互いに徐々に慣れようって。僕も、君も、お互いを知らなさすぎる。埋めていこうよ、なんたって許婚なんだから。僕達」

  幼少期のほんの少し遊んだ程度の記憶しかなく、こうして二人共成長した後で再開して。確かに俺は、彼という。狐獣人で、狐野柳家の跡取りとしての。真由理という情報以外、あまり。というか殆ど知らない。それは紙に書かれた、プロフィール程度の情報であって。何が好きで、嫌いか。どういう事を言われて、喜ぶか、傷つくかも。知らないのだった。

  今日の彼との午前中の行動を振り返れば、とてもよくしてくれていたと思う。男の俺相手に、若干女性に接するように。言ってしまえば模範的、お手本になるような本かネットの記事でも読んで勉強して、実施しているような違和感はあったが。それでも、そういったものもひっくるめて、よくやってくれている。と言えた。全部、俺を前提に。俺個人を重要視して、プランを練ってくれて。楽しまそうとしてくれていたと思う。しきりに彼の言葉の中に混じる、許婚。強調するようでいて、まるで自分に言い聞かせているようでもあって。二人の立場を都度確認しているとも取れかねない。

  俺と、真由理を唯一繋いでいる要素とも感じた。

  そうだ、前提が違えば。もっと出会うタイミングが違えば、許婚とか関係なく。俺とこいつは、もっと違う形で。普通の友達になれたのではないか。と思わなくもない。嫌な奴だって決めつけていたけど、そう否定して。拒絶していたかったが。そうではなく、認めたくはなかったが、認めたら。より、自分の感情の幼稚さに向き合う形になるから。小さい頃無邪気に、手を繋いで走り回っていた頃のように。戻れたのでは。そうはならなかった。ならなかった今が、現実だ。

  だから認めざるを得ない。真由理は、良い奴だって。嫌いになりきれない。嫌っていた方が楽だから。こいつと向き合わずに、子供を産めなんてあんまりな条件を突き付けられなければ。俺はもっと素直に、友達としてこの狐を簡単に。早い段階で受け入れていたのではないか。不必要に壁を作らずに。

  「またね、伊吹」

  またね、か。その言葉に俺は、ああとか。そうかとか。同じように、またなって。そう返す事もできたのだろう。でもやれたのは黙ったまま、こくりと頷くだけであった。笑顔で応対もできず、暗い表情で。

  最後に車が離れる間際。狐獣人がさせた、困ったような笑い方がとても印象的だった。いつも作り笑いが上手な真由理にしては。

  期待しても良いのだろうか。男同士の恋愛なんて。俺達にできるのだろうか。身体だけを目当てにせず、俺という個人を。真由理はちゃんと見て、向き合って、知ろうとしてくれているのだろうか。嘘偽りなく。嘘吐きな俺に対して。

  生きる上で、俺は沢山の嘘を日常的に吐いて来た。それは必要だったから。妖が視える事を隠す為に。自分が男が性的対象にしてしまう、ゲイであると隠す為に。そういった小さな嘘を相手に言う度に、罪悪感と。でも必要な事だって正当化して。だってそうしないとお互いに傷つく事になる。俺が、辛い目に遭う。だからこれはしかたないのだと。日常的に繰り返される積み重ねのせいで、麻痺していく。嘘を吐く事に。慣れていく。そうやって、嘘吐きな自分が構成され形作っていく内に。当然であると。当たり前になっていく。そんな自分を顧みて、怯えるんだ。

  俺はどうしようもなく、愛されるに足る人間ではないと。人と違ってしまったばかりに。普通になれなかったばかりに。皆と同じなんだと仮面を被り。仮面の下で唇を噛むんだ。

  子供を産むのは嫌だと意思表示し。それでもまだ、真由理は。俺と接してくれるというのか。知ろうとしてくれるのか。俺はこんなにも、お前を知ろうとしなかったのに。表面上でしか、お前を。

  そして、今車を運転してくれている月路さんも。雇われであるのに、狐野柳家である真由理に対してああも食って掛かって。後で立場的に怒られてしまわないのだろうか。そんな事差し置いて、俺の身を案じてくれるぐらいには。この狼獣人の男性は、俺側に、俺という人間の味方で居てくれるのだろうか。貴方も、信じて良いのですか。

  ルームミラー越しに、前を向いて真剣に運転している男の瞳を見つめていると。不意に視線が合い、どうしましたって。あんなにさっきは怒っていたのに、今は普段通りに。優しげに語りかけてくれる。ずっとそうだった。引っ越す為に、攫うように連れだしたけれど。最初から、月路さんは伊吹様と。慕ってくれていた。そうする理由も真意もわからぬそれに。下心が絶対ある。仕事だから、そうしてるんだって。俺は決めつけて。心では拒絶して、信用していなかった人。炊事洗濯とか、細々とした雑務に関して信頼はできても。

  ここ最近、友達ができて。人間関係が一変して。出会った人々。月路さん。真由理。亮太郎。晴喜。俺はもっと人を信じてみても。良いのかもしれないと思わせられた。もっと相手を知ろうとしてみても。ゲイとか妖が視える以前に、一人の人として。歩み寄るべきだと。いつまでも、自分という殻に。楽な方にばかり逃げてばかりの、自分とはお別れするべきなのかもって。

  これも、友達の居なかった地元で。親は居ても、自室に籠り気味で。学業以外で、人を寄せ付けないようにしていた状態では。そのような気持ちになりはしなかった。なりよう筈もなかった。前向きに。ずっと後ろ向きな考えばかりしていた。俺の中での変化の兆し。

  「ありがとうございます」

  そのような考えをしながら、狼の後頭部に言っていた。いつも気にかけてくれて。仕事とはいえ世話をしてくれて。すると、当然ですって。私は伊吹君の身の周りのお世話をするのが務めですからと。言われてしまうとしても。伝えたかった。伝えるべきだった。

  普段と違う道。バスを経由して水族館に行き、別の場所に行く為に歩いたりと。随分と家から遠退いてしまった。家、とあのマンションを言えてしまうぐらいには。当然のように感覚としてはそこが帰るべき場所だと認識していて。地元の、両親が暮らしているあの家が。随分と遠い過去に思えてしまう。連絡を取っていないのも、寄こしてこないのもそうで。それでいて、半分引き籠りのような期間が長かったけれど。それは記憶の鮮烈さでいえばとても薄い証拠だった。それだけ、引っ越して来てから起こる出来事一つ一つが。色鮮やかに映って。凝り固まった俺の心を揺り動かして来る。

  時間帯のせいか、工場地帯に差し掛かったのか。片側一車線なのもあって歩道もないからか。人通りがとても少ない。夕方にはまだ早いのだから、皆働いているか。曜日的に俺と同じようにお休みだろうか。だから人が寄り付かない、と言えばそうで。対向車が一つ反対車線から迫るのが。ああ、俺達だけじゃないんだって安堵を与えてくれる。それぐらい、都会の人混みに辟易している俺としては。田舎の廃れた道を連想させるこの狭い通りは懐かしくもあるが。それでも少し、寂しく感じさせるものだった。

  「伊吹くん、体調は大丈夫ですか?」

  こうやって、俺の事を気にかけてくれる。ルームミラーを運転中にも関わらず、後部座席に座っている俺の表情を見ようと。狼の目線がチラチラと。前、向いてないと危ないですよって。そう注意しようとした。その上で、今はもう。身体も、心も落ち着いて居られて。問題などないと、これも伝えるべきだって。

  「逃げて」

  耳元で管狐が突如俺に呼び掛ける。

  鳴り響くクラクション。ブレーキペダルを思いっきり踏んだのか、つんのめる身体。シートベルトが肩に痛い程食い込む。月路さんが強引に左にハンドルを切ったのか。身体が右に遠心力で傾くまま抵抗ができない。前方、少し前に見えていた対向車が車線を越えて。こちら側に向かってくる。本来車と車が向き合うわけ、ないのに。その後襲う、衝撃。身体が浮いた。視界が揺れ、意識が一瞬だけ途絶え。停車したのであろう車の中で。ぐったりとシートに身を預けながら。朦朧とした意識、回復していく思考。そうしていると自分側の扉が開き、伸びて来る灰色の毛を纏った手。カチャカチャと慌てたように、俺のちゃんとしていたシートベルトを外そうと躍起になっているのをぼんやり見ていた。どうにか外れると、普段の彼が俺に対してするとは思えない程に。乱暴に、力任せに引き寄せられて。抱き抱えられて。月路さんが俺を抱っこしていた。俺を。高校生になって、こんな姿誰かに見られたら恥ずかしいなって思うも。額から血を流した狼の顔が目の前に合って、そんな文句言えなかった。

  人間一人、抱えたまま走っているのだから。狼の口が閉じられる事なく、ハッ、ハッと息を荒げて。走るものだから、ゆさゆさ揺さぶられて乗り物酔いには強い筈の俺でも正直気持ち悪い。抱えられたまま、月路さんの肩に頭を預けていると。セダン系の彼の車が思いっきり壁に激突しており、前がひしゃげている事故現場が見えた。そしてそうするようになったのは、避けようとハンドルを切った車に対し。運転席側から押すように対向車がノンブレーキで衝突したからだ。道路に残されたブレーキ痕は月路さんの車一つだけだったのと、片側一車線の狭い道故に逃げきれなかったのが物語っていた。

  事故を起こした相手側の車、その運転席の扉が内側から大きな音と共に開く。そしてまず見えたのは靴。中からこじ開けるようにして、文字通り蹴破るようにしたからなのか。首を擦りながら、出て来た奴。頭の上にある特徴的な鬣と、丸っこい耳。犬っぽい顔つき。気怠そうな黒目が、こちらを見ていた。人を抱き抱えて走る狼ではなく、抱えられた俺を。[[rb:鬣犬 > ハイエナ]]獣人がだ。片手に逃げられた物。手元でギラリと昼間だからか、刃物が太陽光を反射していた。

  「おいおい、逃げるなよー」

  弾んだ男性の声が、そうやって俺達に投げかけられる。どうしてこうなってるのかまるでわからない。じわじわと身体中が痛む。何で治安が他国よりも良い筈の日本で、まるで何かのアクション映画でよくある奴みたな状況に自分が置かれているのか。銃を乱射してこないだけ、銃社会でないだけ。安易に手に入らないみたいだが。相手が持ってないのがたまたまか。

  「大丈夫です、大丈夫ですよ。伊吹くん!」

  走り、息を切らしながら。俺を安心させようと語り掛けて来る焦った狼の声。方角的に、どんどん工場地帯に向かっている。フェンスが多く、乗り越えられそうにもないのだから。道なりに行くしかないのだが。この先、どこに出るのか。走って追いかけて来ている事故を起こしたのに、月路さんと違って人を抱えていないからか。軽快に駆ける相手の姿がずっと視界の端にあって。安心というか落ち着ける筈もなかったが。管狐が怪我はない、伊吹と。月路さんが走る速度と全く同じ速度で浮きながら。こちらの身体の様子を見て来る。警告、遅せぇよ馬鹿って。そんな声を発したかったが。喋ると舌を噛みそうだ。

  「おかしい、人がいないにしても。居なさすぎる」

  走りながら、狼が周囲を見渡して。そう口にしていた。確かに、あんな大事故。凄い音だってしたのだから、誰か。近くに居た人が気づいて、様子を見に来て。救急車とか警察を呼んでくても良い筈なのに。人っ子一人。いくら工場地帯とはいえ、人の気配がなさすぎると気づいた。追いかけて来る相手に、どんどん逃げ込む場所も見つけられないまま。やがて袋小路に辿り着いて。これ以上走れないのだと、月路さんの顔が強張る。俺を抱えたまま走っていたのだから、肩で息をしていて。胸だって凄い上下している。抱かれているから破裂しそうな心臓の音だって。

  「無駄だぜ。人払いの術を仕掛けておいた。誰も来ねぇよ」

  俺、こういうの得意なんだぜって。どこか自慢げに、持っていた刃物の先を指先でぴんと弾いている鬣犬の男。ゆっくりと、俺を抱えて此処まで走って来た狼は。地面に降ろしてくれる。どうするというのか。これ以上逃げられないとはいえ。刃物を持っている。車で体当たりしてくる、常軌を逸した相手に対して。それに術、と言った。という事は、表の人間ですらなかった。そして仕掛けておいたと言った相手。つまり俺達が近辺を通る事を、あらかじめ予測していたという事実。普段学校から家にと行き来する道ならまだわかる。ただ普通に人通りにしたって交通量も多く、人の目があるから襲撃には向かないとしても。今回、真由理とデートしてから。突発的な依頼で予期せぬ場所に訪れて、予期せぬルートを経由して帰ろうとした俺達を。どうやって待ち伏せなんてできるのだろうか。

  「大丈夫です、伊吹くん。私が、命に代えても。守ります」

  聞き覚えのある台詞だった。一度だけ、俺に宣言した。それは、あの時。俺に向けられた、本当かどうかもわからない。薄っぺらいように感じた、そのような言葉であって。実際に現実になって良いものでもなかった。そこまでされるいわれもない。そこまで、しなくていい。しないで。そんな気持ちで座り込んだ身体に叱咤し、相手のズボンを掴んだが。額から血を流した狼の顔は、普段。困りましたねって、俺がだらしない姿を見せた時とか。お菓子を摘まみ食いしてるのを見つけられたのと、全く変わらないそれで。せっかく掴んだ手を、優しく狼の手が解いてくる。

  鬣犬に対して、真っすぐ向き合った月路さんは。すっと、拳を握り。構えを取った。武術でも嗜んでいるのか、腰を落としたそれは様になっていたが。ただ、ボロボロになった姿と、荒い呼吸から。かなりのハンデを背負っているのは明白であり。元祓い屋としてどれ程の力があったのかは定かではないが。戦える、任せられるなんて気持ち。見ていて湧く筈もなかった。

  「おいおいおっさん、そんな状態で戦えんのかよ」

  「黙れ。クソガキ。どこの手の者だ」

  軽薄そうな相手に対して、元々の声の低さを遺憾なく発揮して。月路さんがドスの利いた台詞を吐く。それは今までの彼の畏まった態度からは想像できないぐらいには、本当に彼が言ったのか信じられないぐらいの刺々しさだった。月路さんは鬣犬相手に対し、糞餓鬼と言ったが。見た目からは獣人のせいか正確な年齢はわかり辛いが。確かに、低い声といっても。狼よりはまだ、高い方で。そして態度はどこか落ち着きがなく。自分の力を誇示したくてたまらないといった感じが拭えない。

  「言うわけないだろ」

  普通に持っていたナイフをくるりと手元で向きを変え、逆手に持ち直すと。鬣犬の男はトン、トン。そうやって片足を上げては、つま先で地面を叩くようにしてリズムを刻みだす。

  「未登録の術士か、それとも……」

  「おっさんとお喋りする趣味はねぇよ」

  「おっさんじゃない、おじさんと言いなさい。クソガキ」

  二人の会話がなされる中、歯茎まで見えるぐらい牙を剥いた狼と。尚も続く鬣犬の靴が地面を叩く音。息上がってんぞという指摘には、月路さんは昨今の獣人がすればはしたないと言われる仕草。グルルと唸って返していた。お互いにまだ仕掛けない。会話をしながらタイミングを計っているのか。その為に、靴の履き位置を直すからする動作を今しているのか。月路さんの乱れた呼吸と、暴漢。この場合暗殺者とかそういう手合いと言っていいのか。そんな男の地面をつま先で叩く音だけに、意識が収束していく感じがした。

  幾度目かの、トン、トン、と地面を叩いた時。どちらが先か、それとも同時か。身を低くした両者が目を鋭くして。走り出す。体格で言えば、月路さんの方が勝っていて。身長にそこまでの差はない。獣人だから元来の恵まれた体躯を発揮した瞬発力で、素早く間合いを詰めた両者。月路さんが怪我をしていると思えない速さで突き出された拳を、鬣犬が獲物を持っていない方の腕でブロックすると。肉と言わず骨を叩くような重い音がした。そこから痛がる素振りもなく、逆手に持ったナイフが横薙ぎに振るわれ。ステップを刻むように、追撃せず後ろに下がった狼の胸元。服だけをすっぱりと裂く。

  「へぇ、意外に戦えんじゃん」

  こんどは素早く、両手を時間差で。ボクサーのように拳を振るう月路さんに対し。一発でも入れば致命打になりそうな、重点的に腹筋と腕周りを鍛えた男の拳を、難なく。余裕な態度を崩さず。最低限の動きで。まるで風でそよぐ草木のように、避けていく鬣犬の男。戦い慣れていた。それは普段家事と運転ばかりの月路さんもそうだが。対峙する相手も同じぐらい、いや。素人目で見てもそれ以上に。それぐらい両者には力量差よりも何よりも、余裕の差があった。会話をしている内に、走っていたせいで息が上がっていた狼の呼吸が再び乱れ始める。額は血管が多く通っている為に、見た目以上に浅い傷でも出血すると聞くが。それでも、このままではあまりに分が悪かった。そして、合間合間。避けながら、ヒットアンドアウェイを徹底するように。鬣犬の男は、相手の体力を削るように動くものだから。ほんの少しでも隙があれば振るわれる凶器。刃物が、月路さんの腕や、太腿をこんどは服だけに留まらず浅く切り裂いていく。血が流れる箇所を増やしていく。

  この戦法は時間だけ掛かるが、とても堅実なやり方だった。軽薄そうな態度とは裏腹に、男がかなり慎重なのも窺える。そんな両者の攻防に俺が割って入るという事もできず。というより、もし月路さんが大きく動けば。すかさず男は対象を狼から変え、座り込んで傍観してしまっている俺に向かおうとする様子すらあった。それがより、月路さんの精神的余裕を削いでいた。

  「くっ」

  苦しげに、月路さんがこちらを気にしたようにしながら。背に庇うようにしつつも。対峙した男と距離を取る。そうするとお互い小休憩とばかりに、最初と同じように構えを取る月路さんと。足でリズムを刻む鬣犬の男。ただ、体力だけはこの日は戻らないとばかりに明確に減っているのが自分じゃなくても、手に取るようにわかった。足はしっかりと地面を踏みしめているが、月路さんの上体がふらついていたからだ。

  そんな中、視界で動く別の存在。ふよふよと、浮いている管狐に。そういえば、こいつなら。この状況を変える事ができるのではと。妙案を思いつく。俺ではどうにもできない。足が竦んで、立ち上がれない。俺では。何も。だから他者に頼るしかできないのなら。こいつならどうにか。そう縋る気持ちで。

  「別にイブキがやれって言うなら良いけど。殺しちゃっていいの?」

  俺が頼ろうとした相手、憑りついている妖は。そう切り替えして来た。三日月のように、俺を嗤う狐の顔。動物のそれが、ニタニタと。していて。この状況で、好転するならそうするべきだと頭では理解していても。怯んだ。殺す。誰を、相手を。恐らくだが俺を殺しに来た、相手を。俺の命令でそうなるというのかと。言われてしまえば、思えば、躊躇ってしまった。

  だって、俺は普通の高校生で。自分が死ぬのは勿論、誰かを殺めるとか考えた事もない。怒って、死ねよ馬鹿とか。そんな悪態はついたりしても本当に死んで欲しいわけではない。それぐらいに、俺の感性は普通の歳相応のものの筈であって。命の取り合いとか非現実的過ぎて、今もなお。こうして月路さんと相手の男が、殺し合いめいた事をしているのが信じられず。だからこそ声も出せず黙って見ているのだが。

  いい加減面倒臭いとばかりに、首を擦るような。癖なのだろう、鬣犬の男は。狼の顔を睨んでいた。

  「んだよ、怪我して引退した奴がいるだけだって言うから。楽勝だと思ったのに。けっこう粘るじゃねぇか……」

  あーあ、嫌になると。頭を振ると、頭頂部から後頭部にかけてにある特徴的な鬣が揺れる。ぐっと拳を握ったまま、構えを解かない月路さんは。体力が底をつきかけているとしても、その迫力だけは衰えやしていなかった。次踏み込んでくれば、必ず殴り倒してやるってぐらいには。狼は相手を睨み返している。トン、トン。また一定のテンポで刻まれる音が、妙に意識に食い込む。それが、急にトトンと。変わらなかったテンポを意図して乱した。

  ――まっ、よく頑張ったよ。おっさん。

  そんな男の相手をどこか称えるとも、馬鹿にするとも、どちらとも取れる台詞が聞こえた時には。捉えていた鬣犬の姿はどこにもなく。びくりと身体を一度震わせて、痛そうに呻く月路さんの声がした。ぐらりと、狼の広いと思った背が傾いていく。それはそのまま、踏ん張りもせず。どさりと重そうな身を受け身も取らず固い地面に横たえて。視界を遮るようにして、俺を守るように立っていた人が居なくなると。代わりに立っていたのは、刃物を持ってこちらを見下ろす男だけで。ぽたり、ぽたり。刃先から血が滴っていた。

  「手応えが、なんか。……まあ、いいか」

  倒れた月路さんは、お腹を押さえ。ぶるぶると震えていた。寒がるように、気候的に。暑いぐらいなのに。どうしてそうしてるのか、理解が追いつかないが。だんだんと広がっていく赤い水溜まり。その発生源は、どうやら月路さんの身体からのようであった。浅く切られた程度ではここまで。だとしたら。

  唖然と、一緒に普通に暮らしていた筈の狼獣人を見ていた。どうして、血の池に横たわっているのか。あんなに乱れた呼吸が、今は浅くか細くなっているのか。いつかの光景に重なる。狼の男の人が、血だらけで横たわっている姿が。俺は、前にも一度。それを見た事があった。

  「呆けてんなよ」

  鈍い痛みが頬に走った。地面に転がる俺の肉体。片足を持ち上げた月路さんを刺し男。それで、蹴られたのだと理解した。死のうとしている。今まさにそうなっている月路さんと同じように、俺も。殺されるんだと漸く悟った。あまりに遅すぎる、実感だった。

  髪を掴んで来た相手に全く抵抗できず、顔だけ無理やり持ち上げられる。皮膚ごと抜けそうで強い裂けるような痛みがするが。それでもまだ、どうしてこんな事するんだって。相手の思考が理解できなかった。どうしてこうも、平気で。他者を傷つけて、踏みにじるような。平穏に生きている人を、脅かすような。ここは日本だぞ。撮影現場だけでやってくれと、睨みつける。きっと、狼の顔をした月路さんがさせる睨みにまるで怯まなかったこの男が。俺程度のそれに、全く怖気づくなんて事はなかったが。

  「なんで、こんな事……」

  「あっ? そりゃ金の為だろ。学生一人殺すだけで、かなりの大金貰えるんだから。ぼろい依頼だよなぁ」

  なって、同意を求めるように。砕けた態度で、破顔した相手。面白い映画だったろって、そんな同意を得ようとするぐらいには。気安い態度だった。

  「んじゃ。獲物を前に長々と、舌なめずりする気もないんでな」

  首に当てられたナイフ。もしかしたら、月路さんがこの間にほんの少しでも時間稼ぎをしたら。そんなピンチを救う漫画のヒーローみたいに、再び起き上がって。立ち上がってくれて、こいつを倒してくれるんじゃないかって淡い気持ちを嘲笑うようにして。

  ただあるがままの現実といえば。横たわった狼獣人はどうにか起き上がろうという気はあるようだったが、力が入らないのか。肩が地面からほんの少し離れる程度、身を起こす事は叶わず。

  鬣犬が血濡れの、親しい人の血液で汚れたナイフを。無情にもこちらに当てて来るものだから。

  やっと、もう少しだけ。他人に、皆に。歩み寄ろうと思った矢先に、信じられると。信じてみたいと思った時に、こんな災難が降りかかるなんて。俺は恨まれるような事をしたのだろうか。それともこれも、狐野柳家に関わったから。そうだとしても、まさか命を狙われるなんて。思いもしなかった。

  体感時間が遅くなっていく。こういう時、脳内を駆け巡るのは走馬灯だと言うけれど。俺の心は、どこか遠くへ。暗い、暗い、本堂の中。天井を見上げても暗すぎて見通せない場所に俺は座っていて。見下ろした容姿は。幼い頃の手そのものだった。ぐるりと囲むようにして、火が消えた蝋燭が沢山並んでいた。人間には暗すぎる筈で、何も知覚できないと思えるのに。不思議と感じられた。それはこれが夢だと、過去の在りし日の記憶だと。認識しているからだ。

  精神世界の俺と、現実世界の俺はまるで違っていて。淡々と、作業のように。無表情の鬣犬の男は、今まさに腕を動かそうとしている。すっと軽く引くだけで、切れ味の良い刃物は。俺の動脈を、首筋を切り裂くのだろう。こんなにも呆気なく、自分の人生が終わるんだって。諦めにも似た感覚が。

  ――イブキ、いいかげん。名前を呼んでよ。本当は、忘れたわけじゃないんでしょ?

  管狐の声だった。こんな状況において、とても落ち着いた。場にそぐわぬ子供の声。頭の中に直接響いて来るようなそれに。似ても似つかないその声に、あの日を思い出した。俺は、そうだ。前にも一度。月路さんを。死のうとしていたあの男を救おうとしたんだ。ああ、初対面じゃなかったんだ。俺は。もっとずっと。真由理と出会うよりも前に。

  どうして忘れてたんだろう。忘れた振りをしていたんだろうか。それは幼い心には、あまりにも衝撃的で。受け止めるには。目の前で誰かが死ぬなんて。それも沢山。沢山死んだんだ。あの日、男の人も、女の人も。断末魔が耳からこびりついて離れない。あんなの、二度と、ごめんだ。

  「……タマモ」

  気だるげな表情になって、あーお腹空いたと抜かしそうな。そんな鬣犬の表情に変化が。目が突如として見開かれ。俺から飛びのくようにして距離を取った。後ほんの少し、後ほんの少しで、こんな学生一人殺せたというのに。それをするよりも先ず、自分の身を優先したかのようだった。

  ――チリン。

  とても清んだ、綺麗な鈴の音だった。今まで生きて来た中で、こんなにも上質で。美しい鈴の音など聞いた事がないと思えるような。二度程大きく後方に離れ、数メートル距離を取った鬣犬と、倒れたまま腕で漸く上半身だけでも身を起こした俺との間に。ちょんと、前足から。そして後ろ足を遅れて、スローモーションのように。緩やかに着地した白狐。

  美しく輝くような毛並み。四つ足の獣はふるりと首を振ると、また鈴の音色がする。首にはしめ縄が首輪のように巻かれており、そこに一つ。飾り付けられた鈴がさせた音だった。優雅にともすれば風に煽られるようにして持ち上がる尻尾。一本ではなく、それは二本あって。毛並みの輝き方がまるでワックスをかけたかのように、人工物のようでいて。幾つもの上げ連ねた点から、その狐の容姿から得られた情報は。ただの獣ではないと教えてくれていた。大きさは中型犬程しかないのに、どこか。その纏った雰囲気は現実感がなく、妖だと瞬時に悟る。俺の傍に居た管狐は、居なくなっていた。でも、狐という要素は同じでも。姿を変えた、この二尾の狐が。俺に憑いていた子だってのは。心で、感じていた。確信していた。

  そしてこれまでと違う点がもう一つ。鬣犬の男の視線の先もまた、そんな二尾の白狐を視ていた。

  「おいおい、長らく表舞台から消えた憑守家って。もしかして式神使いなのかよ? それでか……」

  左前足を上げ、そして下げ。次は右前足を上げて、自分の容姿を確認するように。犬が自分の尻尾を追いかけるようにして、くるりとその場で一回転してみせる白狐。

  「うーん。顕現できるのはこれが限界か。ま、遠いしね」

  容姿が変わろうと、そのマイペースさはどのような状況においても一緒だった。声については、子供の声から若干容姿が変わったせいか。成長してるようにも聞こえるもので。中性的であり、聞きようによっては女性の声にも聞こえなくもなかった。

  さてと、どうする。伊吹。そんなふうに、こてんと首を傾けて流し目を送って来る白狐。名を呼んだだけでどうだというのだ。それで何かが変わるのか。この状況に。月路さんを救えるのか。俺が、助かるのか。普通の獣なら、咬まれたり引っ掻かれたりしたら危ういとは思うが。相手は武術の心得や刃物を持ち、そして俺の知らない能力で一瞬だけ消えてみせたのだ。そんな相手に、どうなるというのか。それでも、頼るしかなかった。こいつに頼ってはいけない、それだけはしちゃいけないと。俺の心の奥が強く否定していても。それでも。助けたかった、あの日と同じように。

  「ころ。いや……。タマモ、追い払うだけでいい。それだけでいい」

  「はーい!」

  殺せ。そう言うのはとても簡単だった。そういった殺意が微塵もないと言われると、そうではなかったが。でも俺は、目の前の。自分の命を奪いに来た相手にまだ、死んで欲しくない。そう思っていた。その甘さから出た言葉だった。それに対して元気よく返事してくれる姿とは裏腹に、お尻を地に着けてしまう白狐。お座りした姿は愛嬌があり、可愛げのあるものだった。

  「呼ぶならもう少しまともな式神を――」

  何かしらを言いかけた男の台詞は、全てを紡げぬまま止まる。その代わりというかのように、どちゃりと重い物が落ちる音。握られていたナイフが、宙を舞う。鬣犬は肩を押さえた。一気に溢れた汗が毛皮があってもわかる程で。叫ぼうとするのと同時に、力いっぱい歯をかみ合わせたのか。子供がむくれてそうするように、頬を不格好に膨らませ。片膝を付いていた。

  ある筈の物がなかった。いや、あるにはあるが。本来あるべき場所にないと言った方が正しかった。男の肩の付け根から先、片方の腕が消失しており。そのあった場所を、手で塞ぐようにしているが。指の隙間からドクドクと液体が溢れており。そして溢れた物は、大きな雫となり。地面へと。腕に降り注ぐようにして、本当なら血管を通してその中身へと送られるべきそれが。表面を滴らせていた。

  鬣犬の腕が、肩の関節が外れたように。根元からするりと取れてしまって。地面に落ちたのだ。

  「ッウ!? 何だ、何を! しや、がった!」

  クソガッ。そう吐き捨てて、痛みを我慢しながらまた何かを避けるように。男が跳躍すると、地面を俺ですら見えない。視えない。何かが抉った。硬いアスファルトを、まるで熱したナイフをチーズに通すように。先程まではなかった不自然な穴。二メートル程縦長に陥没した地面から、欠けた破片と土埃だけが僅かに舞う。

  白狐が座ったまま可愛く尾を振ると、それはそのまま。また地面を、はたまたフェンスを。変貌させていく。まるで、巨大な獣が爪でも振るうように。随分と距離を取った男は、先程の月路さん以上に。変な汗を大量に掻いており、涎すら口の端から垂らしていた。ゼェハァと息をするものだから、満身創痍に近いのかもしれない。それくらい流れた血は多かった。あんなに一気に血が噴き出たのに、ショック死しないだけ。本来なら凄い事なのかもしれない。それでも、決着はついた。そう思えた。

  白狐は座ったまま、尾を静止させ。追いかけたり、追撃はしなかった。まるでそうしないといけないかのように、微動だにしない。目線はずっと、相手を見つめているが。

  それよりも、何よりも。月路さんだった。俺を守る為に傷ついた、彼の安否が気になった。足を、腕をもつれさせながら。程近い距離に横たわっている男の元に近づく。普通の人より鍛えられた狼の肉体は、それでも。人を殺す為の武器には無力だった。力むと硬くなる筋肉は容易く、肉を断ち切り。内臓まで届かせたのか。一連の流れの内。白狐が作ってくれた時間。相手との距離。今なら、やっとそんな狼に近づけて。それで。気が動転する。落ち着かないといけないのに。それぐらい、いつの間にか。俺にとって彼は、大切な人に。信用はできなくても、なってしまっていたんだと気づかせた。身近な人が、こうも簡単に。理由も金だなんだと、そんなしょうもないもので。こうなって良い筈がないというのにだ。

  最初見た時より、随分と広がっている血の池。意識があるか、確かめる為に声を掛けて。肩を揺さぶろうとして、寸前で思いとどまる。揺らしたら不味いか。どうしたら、止血。そうだ止血しなきゃ。考えた事がどんどん脳内に溢れては、動揺が押し流す。した方が良い事、それはした方が本当に良いのか。自信がなかった。

  小さく息をしている狼の顔は、灰色の毛皮があっても青白いとわかる。毛の薄い目元や耳の裏。乾いた鼻先が、健康状態が悪いと知らせていて。それでもまだ生きていると実感した。良かったまだ息がある! でもそれは、後数分で、後一呼吸で。失われそうなぐらいには、心持たないものだった。腹部を押さえた狼の両手は、赤というよりはどす黒く変色した液体で染め上げられており。彼の大事な物が、身体を構成する上で必要な部分が。零れ落ちているのだと。

  救急車。呼ばなきゃ。取り出した携帯。でもいつもなら流れるような操作で、ロック画面を解除できるのに。手が震えて、パスワードが間違っていると。無機質な警告文が拒絶してくる。いや、まて。緊急通報があるじゃないか。別にホーム画面に行かなくても、電話を掛けるぐらい。そんな事まで気づかないなんて。

  「ぐあぁああぁ!!」

  もう勢いを削いだ、襲い掛かって来る筈がないと思い込んでいた。そんな相手が突如雄叫びを上げる。じゅうじゅうと嫌な音と共に。月路さんに覆いかぶさるように、携帯を持ったまま。まだ何もできていない俺は。そんな声で、意識の外に追いやっていた相手を思い出し。顔を上げる。肉が焼ける臭いがした。とても美味しいそうだとか、思えないような。何の肉かわからないまでも、嫌悪感を抱く。そんなものが辺り一面を満たしている濃い鉄錆の臭いに混じりだす。男の消失した腕、その付け根から不自然な煙があった。残ったもう一つの手には、紙切れが燃えており。それも全て燃え切る前に手放すと、跡形もなくなってしまう。

  塞いだんだ。それも、焼いて。そんな火力を出せる、術だろうか。真由理は何も介さず、ただ手を翳すだけで青白い炎を出していたけれど。備わった元々の力の違いか、それとも素養の問題か。それでも持続時間は少ないながらも使えるんだ。逃げもせず、足元に落ちた。腕。ではなくナイフを拾う男は。戦意を削がれるどころか、血走った眼をこちらに向け。また逆手に持った獲物を構えて見せた。

  「どうやら、有効射程は十メートルかそこらか。連続して出せるのも一度に二回まで。尾の数か? 切断、かまいたち、近い術式なら知ってるが。見えない、不可視の斬撃……」

  「腕を落とされておいてよく見てるね。ボクが威圧してるのに怯えもしない、大したものだよ。キミ」

  鬣犬の考えを纏める為か。独り言にしては声が大きいと感じる呟きに対して、しらばっくれるでもなく白狐は肯定するように。というか、賞賛を送っていた。はんっ、とそんなふうに。片方の頬を持ち上げ、鋭い牙をチラつかせる男は。大量の汗で毛皮を湿らせながらも、笑っていた。伊達に修羅場は潜っていないという事だろうか。悠長に会話なんて。この間にも、月路さんは死にかけているというのに。

  「あー、ぼろい依頼だと思ったのに。割に合わなくなった。むしろ赤字だ、赤字」

  「これ以上やるなら、イブキの頼みだからさっきはわざと腕だけにしたけど。次は首を飛ばすよ」

  「おお、こえーこえー!」

  会話の中から俺でも理解できる範囲で。だがそういえばと、周囲を改めて見渡せば。二尾の白狐から放射状に縦線のように抉られた地面は。規則性がないと思われたが、一定以上の距離から先の場所は無事だった。だからこそ、かなり距離を取った相手が応急処置をしていても無事だったのだろうが。

  深呼吸し、息を整えて。その上で、鬣犬の手負いの男はまた足を片方持ち上げ、つま先で地面をこつりこつりと叩きだす。集中力を増す為の、ルーティン。よくスポーツ選手が試合をする直前にする、動作に似ていた。そこまで特筆すべき動作、とも言えないながらも。彼が術士であるなら話は別だった。俺の知らない。武術ではなく、妖術とかそういったものを行使する相手なら。何かしらの意味がある。だが、それがどういった意味があるかは。わからない。知識が圧倒的に欠けていて。考える材料が足りない。

  そこで。類似の原理と言った、真由理の声が脳裏に浮かぶ。

  起きて欲しい結果に即した事を、模倣し、おこなう事で。望んだ結果を呼び込むだったか。規則正しく、メトロノームのように。一定のテンポでなされるその動作にどういった意味があるのか。そして、消えたように見えた直前。素早く足を動かして、テンポを自ら崩していた。瞬間移動ではないとしたら。人がそのような動きをすれば、バラバラに千切れたり。空気摩擦で焼けるとか、そんな科学的な根拠と。これは非科学的な事象に基づくものでと、今までの常識と。この世の者ではない者達の非常識の狭間で、上手く考えが纏まらない。

  そうこう何か答えはないかと考えても、答えを導き出す前に状況は動きだす。相手が踏み込んだと感じた瞬間、白狐がお座りしたまま。二つある尾の内、一本だけを空中を叩くように振るう。そうすると、フェイントだったのか男は寸前で立ち止まり。頬を浅く切られたのか、鮮血が滲む。有効射程ギリギリを見切ってか。十メートルと言った、その範囲に入らないように。

  「ボクが本当は力を抑えていて、もう少し尾を伸ばせてたらキミ。死んでたのに。その度胸、本当に現代の子?」

  「そりゃどうもっ」

  男は振るうには全く届かない、間合いですらない場所で。だからこそか。握っていたナイフを躊躇なく投擲していた。俺目掛けて。白狐の横を通り過ぎる前に、空中で何かに弾かれたかのように。ナイフが刃と持ち手の部分とで分かたれる。二つある尾の内、先程振られなかったもう一つが。横向きに、尾を動かした後だった。

  「二本」

  投げて無手になった筈の男の手は、自身の腰に向かう。そうして、抜かれたもう一本のまだ誰の血に濡れていないナイフ。力強く、複数地面が抉られた白狐の有効範囲に男の足が踏み込んで。尾を使い切って、今すぐ振れないのか。七メートル、五メートルと距離を詰める間。不可視の斬撃と呼んだそれが男の身を脅かす事はなく。自慢の攻撃を潰されて、慌てても良いぐらいなのに。座っていた狐の顔が逆に楽しそうに、人を嘲笑う。俺によく見せる顔をさせていた。怖ろしい、怪物のそれで。

  白狐は今や中型犬ぐらいのサイズのくせに、裂けるように大きく空いた口を。追い越していく相手に向けてまるで咬みつくように。飛び掛かるでもなく、何かの予備動作のように。距離としてはまるで足りない、届かないというのに。繰り返される両者の攻防。月路さんとの拳を交えてのそれとは、正直レベルが違っていた。

  そんなさなかトトンと、またあの足音が聞こえた。バクリと閉じられた狐の口。空中を食べるように、それで生じた弾けるような破裂音。男が居た場所が突如そこが切り取られ、真空になったからか。吸い込まれるような風を感じた。引っ張られる、と思ったが。俺の身体を受け止めてくれた相手。白狐のすぐ傍に居たと思った鬣犬が。俺に抱き着くように存在していて。背に回すように、相手の腕があった。また、あの瞬間移動とも思える。そんな動き。どんなタネが隠されているのか、暴けないまま。接近を二度許していた。

  背中が熱いと感じた。火傷したように。でも突如として、内側から切り裂かれるような鋭い痛みも感じて。

  「空間を操ったり、事象の上書きではないのか。そうだったら過去も未來も、上半身ごと今ので食べられたのに。考え過ぎた、もっと単純な術か……」

  鈍ったかな。そう残念そうに、白狐の。子供っぽい、少女のような声が。この時ばかりは年老いて聞こえた気がする。

  そして月路さんの腹を刺した物と全く同じ形状の物が、俺の背から深く沈み込んでいて。

  「へへっ、俺様の勝ち」

  ゲームの勝敗を知って、喜ぶように。にこやかに笑う、鬣犬の顔が。いっそ清々しいと思った。白目が見えない、黒水晶みたいな瞳はとても透き通っていて。綺麗だって思った。そこに恨みといった感情はなかった。そんな気持ちで、相手に刃物を向けたわけではなく。本当に、お金の為だったんだなって。納得と共に、終わったのだと思った。途端に、俯く白狐の肉体がぼろぼろと。崩れていく。俺の中から血ではない何かが抜き取られていく感覚と、ぞわぞわと弄られるような感覚が同時に襲う。空気中に溶けるように、足先から崩れる途中。しめ縄も消え去り、そこにあった鈴が離れ。地面に触れる前に消失してしまう。

  「式神使いは術者をさっさと殺っちまうのがセオリーってな。このナイフ。どこに刺しても、相手の力を乱す[[rb:呪 > まじな]]いが込められてるからよく効くだろ」

  そして、俺が膝を付いたすぐ傍に転がるようにして。倒れたままであった月路さんの身体にもまた。ヒビが入るようにして、崩壊が始まっていた。薄っすら瞼を持ち上げた狼が。俺を見ていたが。唇を動かす力もないのか。顎が震えるだけでそれが言葉を紡ぐ事はなかった。何が言いたかったのだろうか。彼の事だから、守れなくて。謝罪の言葉だろうか。謝るなら、きっと。俺の方なのに。

  救いたかった。救えた筈だった。でも違ってた。

  管狐に、タマモに頼れば。でも、相手の方が一枚上手だった。準備し尽くして、こちらをはなから殺すつもりで望んだ相手なのだから。目的を完遂する執着と、覚悟が違い過ぎた。きっと、タマモに頼んだ時。追い払うだけでいいなんて言わず。殺せと言っておけば、こうならなかった。初撃は相手もわからぬまま入ったのだ。不意打ちに近いものだからこそ。対人慣れしたこいつを。そしたら、俺も、月路さんも。死なずに済んだのだろうか。そう後悔しながら。形を失ってく月路さんの身体を見ていた。痛い、すごく痛いけれど。そうされた現実感がなく、それよりもどうしようもない無力感が無気力なままにそうさせていた。痛がるのも。

  「やっぱり、こいつも式神か。気配はまるで人間なのに。刺した時の手応えがなんか変な奴だって思ったんだよな。憑守家特有の術かこれも?」

  身体から力が抜け、手の甲から地面に腕を落とすようにだらりと。でも握っていた携帯だけは手放さないようにしていた。痛がってないが、それでも痛み自体は感じていて。強く、液晶が割れそうなのを危ぶむぐらいには。握りこんでるから落とさなかったというのもあるが。ジンジン、ジクジク。痛みが大きくなっている。そこにぐりぐりと刺さったナイフを捻る動きをされて。これには堪らず呻いた。そうした後で引き抜かれる。呼吸がし辛い。肺でも傷つけられたのだろうか。肋骨とか骨が邪魔で、お腹と比べ背中や胸は刺し難いだろうに。器用だな。

  どうせ今日殺されるとわかっていたのなら。両親に電話して、ちゃんと。どうして狐野柳家に何も言わず、俺の身を預けたのか。売ったというのは本当なのか確かめて。亮太郎とも、晴喜とも。ちゃんと、他愛もない話をして。笑って過ごして。友達として、ちゃんと俺からも。友達だと言えるように、振る舞いたかったなって。

  恋愛もできず、童貞のまま死ぬのか。ならいっそ自暴自棄になって、マッチングアプリ等で身体の関係だけでも、お仲間を、出会いを求めても良かっただろうか。ないな。誰とも経験せず死ぬのは惜しい気はするが、性処理とか一時の衝動や快楽だけで他人と身体を繋げるのはやっぱり。嫌だと感じる。自分を安売りするのは違うと思う。

  もっと、真由理と。あいつと。俺の許婚である、狐獣人と。向き合って。もう少し俺から歩み寄るべきだった。そうしたら。そしたら。もっと、きっと違ってた。

  鬣犬の声がこんなにも近くに居るというのに、遠く感じる。俺を見下ろす相手は、どこまでも。普通だった。腕を斬られた事に対してもう怒ってもないし。別に殺す事自体に愉悦を感じたり、そうやって喜んでいたりしない。仕事だからか。快楽殺人者ではないのか。ただ丁寧に、仕事を完遂するだけといった感じで。

  「じゃーな」

  振り下ろされる刃と、無機質な声が。俺が認識した最後の記憶だった。

  [newpage]

  [chapter:十五話 未解決事件]

  高校生失踪事件、謎の共同生活者。

  事件発覚まで、学生の授業態度といった様子にこれといって問題はなく。学校側は関与を否定。事件に対して全面的に協力する旨を示しており。

  最後に目撃されたとする日。一緒に居たであろう人物ならび、学友と思われる子には事情聴取は済んでおり。関連性は低いとされている。

  家出か、誘拐か、はたまた。しかし、調査を続ける内に事件は思わぬ方向に転ぶ。

  行方不明になった高校生が暮らしていたマンション。近隣住民の事情聴取の結果、行方不明の高校生は身元不明の成人男性と共同生活をしていたことが明らかになる。

  ただ不可解な事に。住民達はその男性の顔や身元について尋ねると要領を得ず。断片的な情報しか提供されない。まるで、記憶がそこだけ綺麗に抜け落ちたかのように。

  少ない情報から繋ぎ合わせた結果。謎の人物の正体。犬科の獣人であり、オオガミツキジと名乗っていた可能性が高く。だが、戸籍上その名前が該当する人物。血縁者の記録は存在しないとされ。マンションの部屋の契約者。勤務先として登録されていた、派遣会社は。記載されていた住所を訪ねてみると、空き地であったとされており。同じく記載されていた電話も繋がらず、本件は事件性が高いと見ており。

  現在、この謎の人物である。オオガミツキジと呼ばれていただろう存在に焦点を当て、彼の身元や事件の関与。容疑者としての可能性についても、調査を進めている。

  追記。失踪事件発覚から少し前。工場地区での運転手両者が行方不明とされている車衝突事故との因果関係についても考慮するべきと見ている。

  [newpage]

  [chapter:十六話 本当の独りぼっち]

  「人間だ」

  「人間じゃぞ」

  「いや、名のある者が化けているのやもしれぬ」

  「でもにおいは人間だ」

  妙に周りが騒がしかった。ここは天国、はたまた地獄。本当にそんなもの、死んだ後で存在しているか確かめる術はないし。というかそこまで信じてもいなかった。信仰心とか持ち合わせていない。バルハラとかゲヘナとか、創作物を楽しむ上で物語としてのスパイス程度であって。俺にとっての認識などその程度のものだった。

  だから行きつく先は無であっても、それはそれで良くて。輪廻転生とかも、あってもなくても。どちらでもいいし、記憶がないのに。転生したいとも思わない。そうしてまでもう一度会いたい人も、自分の魂にそこまでの価値を見出してもいない。死んだらそのまま何もかも消え去って残らなくても問題ない。だからと生きている内に、何かを頑張ったかというと。そうでもなく。ただ自分の人生を謳歌、しているとも言えず。生きて、そして。殺されたんだって。

  そう、自分は死んだものと思っていたのに。どうしてか、複数の話し声のようなものが。聞こえ。それは。正直うるさいと感じるものだった。

  生きているとしたら、目覚めるとしたら病院のベッドだと思うのだが。俺の身を受け止めてくれる消毒されたシーツのにおいだとか。柔らかな布のような感触はなく。硬い、アスファルトではなく。土、であろうか。舗装されていない地面であるとわかる。とても頬の感触がじゃりじゃりする。小石が当たって寝苦しい。それになんだか獣臭い。

  「主、触ってみよ」

  「できぬ。そういう主がやってみせよ」

  ギャンギャン、動物が喧嘩するよなものが合間に挟まる。人との会話というより、どこか違うが。飼い主と、リードで繋がれた犬が井戸端会議中に吠えているとも。聞こえなくもない。生きてるのなら、いい加減目を覚ますべきであり。妙に気怠い身体を起こしながら。俺は目を開けた。そうするとどよめくようにして、周囲で騒がしかった奴らが途端に静まり返る。

  目の前に広がる光景。空は薄暗く、星が良く見えた。赤い満月が爛々と輝いており。という事は、夜なんだなって。でも、満月は今日だったか。それにあんな色。毎日意識していないから月齢など覚えていないが。

  瓦屋根を使用した木造の建物。窓らしき場所にガラスは使用されておらず。隙間がそのままか。あれは、障子だろうか。軒先があるが、横殴りの雨を防ぐには心持たない気がする。そんな一階建ての同じような建物がずらりと並んでおり。それは背後にも同様で。どうやらそんな建物と建物との広めの路地に、俺は倒れていたらしい。路地の中央には水路のようなものがあり。申し訳程度に木製の蓋が並んでる。道路に設置されてる排水口なら、だいたいは蓋が重いコンクリートブロックか。グレーチングと呼ばれる網目状のステンレス製か、スチール製といったものが嵌っているのに。どうにも古めかしい。

  それは俺を囲むように居る存在達もそうで。身に着けているのは着物と、素足を守るように履いているのは草鞋だった。着物にしたって、今時お洒落に着るとしたら柄が入っている事が多いが。皆、無地で地味目な色合いだった。それに獣の頭がこちらを好奇の目で見下ろしている。獣人達ばかり、と思ったが。群衆の中に仮面をつけた奴。顔を布で覆った奴。そして獣人と思った奴らにしたって、どこか。おかしい。背格好が、普通の人とは違っている。手が、人間と同じ五本指ではないし。足の関節も、不格好に。つま先立ちしているような。にしては踵の位置が随分上にある。まるで、そう。まるで。四足の動物がそのまま無理に二足歩行したような。夜だからか、提灯のような物を棒に括りつけて持っている者だって居るが。そもそも持っておらず。炎自体が、自立して浮遊している。

  おかしい、本当におかしい。建物にしたって、木造ばかりなのは良いが。俺が居た場所は都内から少し離れてはいたが。工場地区だった。そのような建物一つも、小さい倉庫ぐらいは確かにあったが。人が住む事を前提に、とは違う。

  テレビの中でよくある、時代劇のセットの世界に飛び込んだ。そう認識すると、しっくりくるが。それだけではない。やはり囲む群衆が普通の、人じゃない。喋る言葉までどこか古風に感じる。標準語からは外れている。

  でもちょっと視点を変えれば、俺はどちらかというと。そいつらを見慣れている気さえした。雰囲気が、よく知るものだからだ。妖。妖怪の類いであれば。彼らの足元にはどうしてだか、羽釜が転がっていて。いや、よく見ると。人の手足が生えている。なんだあれ。

  「ここ、どこだよ……」

  喋りおった。そう周囲を囲む、得体の知れない生き物達がざわつくが。俺の身体を擦るように、傷を確かめるが。刺された箇所はなくなっていた。であれば、あの襲撃は夢であり。今のこの光景も現実ではないのでは。でも夢特有のふわふわした感覚とか、自分が考え、行動できず。かってに物語が進んでいくような不思議な体験とはいかず、ちゃんと。今、鮮明に思考し。指だって自分の意思で動かせる。

  「タマモ、タマモ! どこだっ。月路さん!」

  返事などなかった。どれだけ邪険にしようとも、俺の傍に常に居た。管狐、あいつの姿がなかった。妖に囲まれた状況だとすると、あいつがいないと不自然だ。常に、追い払って危害が及ぶ前に。守ってくれていたのに。警告はいつも遅いし、助言も役に立たないが。それでもだ。ずっと、ずっと一緒だった。だというのに、俺が呼んでも。小憎たらしい、子供のような声が返事をしてくれない。

  月路さん。彼も、居ない。俺の保護者の代わりだった。あの狼の獣人がだ。どうなった。最後に見た光景。刃物を持った鬣犬も、今は居ない。

  ざり。土を誰かが踏みしめる音。動揺して、俯いていて気づくのが遅れたが。いつの間にか、群衆の中から一人。いや、一匹か。鬼のような仮面を被った、老人のように背の曲がっている人に近しい奴が眼前まで迫り。しわしわの手がこちらに伸ばされている。

  「うまそうじゃ」

  かすれた声は、俺に対してそう言っているのがどうにか聞き取れて。別に倒れていて、助けようとか。そういった意思を持って近づいて来たわけではないと悟ると。触れようとしてきたその、骨のようなガリガリの腕を咄嗟に弾いた。恐怖に立ち上がる。食われる。と思ったからだ。生物としての危機感が漸く、追いつくようにして。囲んでいる生き物達が、友好的ではないと気づいた。

  大丈夫、足に力は入る。走れる。そう感じた時には駆けだしていた。左右には建物があって、前も、後ろも群衆が居たが。その片方に正面突破とばかりに突撃すれば。驚いて、獣のような奴が悲鳴を上げて。転ぶ。少しだけ可哀想に思うが、それで穴のあいた包囲を勢いのまま抜けると。背後から、逃げたぞと。そんな焦った声と。こちらを追うような足音。

  ついてくる。ここどこだ。木造の建物ばかり、少し開けた場所に出たら、黒い川。小さい橋を渡り、また木造の建物。路地を走り、また出会う人を避け。布がふよふよ浮いていたから。それを通るのに邪魔だったから払いのけると、何すんだと布から文句を言われた。生きてる?

  暗がりに逃げ込んで。酒樽だろうか、その影に隠れやり過ごしたりしながら。どうにか追っ手を撒けば。そこで呼吸が落ち着くまでじっとしていた。右も左もわからず、走って来たから。今自分が何処かもわからぬ土地で、土地勘もないのだから。迷子でしかなく。これから、どのようにして帰ればいいかもわからない。蹲ると、立ち上がれなかった。

  持っていた携帯、失くしていなかった。ずっと握りしめていた物。縋る気持ちで液晶を点灯させると、残念ながら電波は圏外の表示。ナビも使えやしない。

  生きている事を喜ぶべきか。妙に現実感があるが。これは夢に近く、そういったもので。俺は死んで、このような場所に迷い込んだとしたほうがまだ。正気を保てそうだった。管狐が居ないから、悲鳴を上げそうになるから。手を口に当て、必死で噛み殺す。乱れた呼吸は走ったからだけでそうなったわけではない。

  俺は本当の意味で、独りぼっちになった事がないのだと。管狐が居たから。ずっと、他人に視えないあいつに。知らず知らず依存していたのだ。心の均衡を保つ為に。心細さをどこか、埋める相手として。そうしている自分に、あいつが居なくなって気づいた。気づいたからと、帰ってこないが。呼んでも返事がない。深い所で繋がっていると言っていたけれど、俺からはあいつの存在を感じ取る事ができない。消え去った。力を使い果たし。消滅した、とも思えるが。あの時、どうなったんだ。どうなったんだよと。虚空に向かって怒鳴りたいが、声を出すのは。今だけはしちゃいけなかった。近くに、さっきの奴らが居るかもしれない。見つかったら、こんどこそ。本当に死んでしまう気がして。

  「あー! あの時の人間のお兄ちゃん!」

  見つかった。そう思い、大袈裟なぐらい身体をびくつかせるが。このような場所で、何故か知っている声のようなものが聞こえた。俺を見つけた奴、そいつは。全体的に灰褐色な毛並みをしており、目の周りから頬にかけや足先とかが黒い毛。犬に似てなくもないが、どう見ても狸だった。人を指差すように、片方の前足を上げている。

  「もしかして、僕達が視えてたのって。お兄ちゃんも妖なの?」

  トテトテと、何の警戒心もなく近づいて来る。見た目は普通の野生に居そうな狸。人の言葉を喋っているが、安い映画のアフレコのように。口パクが合っていない。きょとんと、狸の顔が首を傾げながら。俺がどういった存在か訪ねて来る。止まっていた息を再開させる。あまりにびっくりして、呼吸すら忘れていた。てっきり、俺を食おうとする奴らかと思って。

  どうやら、今は兄であるもう一匹の狸は居ないのか。姿は見えない。俺を見つけたのがこの子で良かったが、それでどうにかなるとも思えなかった。助けてくれる相手とも。この子自体は水族館で接した限り害はなさそうだが。

  「なぁ、お前。ここがどこかわかる?」

  俺の質問に、子供っぽい狸の顔が。露骨に顰められる。聞いては不味い事だったか。それとも、あまりに知っていないとおかしいのか。

  「お兄ちゃん、変な質問するね。ここは僕達、妖の町だよ。現世に疲れて帰って来たんじゃないの?」

  にしても、化けるの上手なんだねと。ぴょんぴょん跳ねて、凄い凄いと。何処からどう見ても人間にしか見えないよと。褒めてくれる狸。ああ、そう。といろいろあり過ぎて、もう驚くのすら疲れてしまった。どうにかしてこの子に、隠れられる場所。あわよくば匿ってくれないだろうか。自分より幼そうな、それも狸に頼るしかなさそうな現状に。我ながら情けないとも思えたが。背に腹は代えられないというやつだろうか。とても低姿勢に、狸様に恐る恐る聞いてみた。

  「行くとこないの? こっち、こっち! 僕の家おいでよ!」

  先導するように、さらに薄暗い場所へと誘う狸の尾。闇の中に入るようで、その先に何があるかも見通せないのだから。少々躊躇する。その代わり。その化け方教えてって。僕兄ちゃんより変化不得意なんだって。一匹、足元で勝手に盛り上がっているのだが。人を騙そうとかそういった悪意が感じられない。俺の目が節穴なだけで。本当はこの先でぱっくりいかれる可能性もあったが。どの道、此処であーだこーだ考えて居ても。いずれ奴らに見つかるだろう。ならば、この子に賭けてみようか。誰も信用せず、後悔しながら死んだのだから。死んでないのかもしれないが。変な場所に飛ばされたようだし。自分の足が本当はなくなって。自分自身が死んでいるのを認めれない、幽霊になってしまっている場合だってあるだろう。足、触った限り今の所あるけど。

  帰らなきゃ。帰りたい。月路さんがどうなったか。自分がどうなったか。このままじゃわからないから。自分が生きているとしたら確かめないと。皆心配しているかもしれない。していないかもしれない。これから先、どうなるかなんて。飛び込んでみなければわからない。

  実は病院で寝たきりで、意識不明の患者が見ているような夢かもしれないが。俺、死んでないと良いな。やりたい事いっぱい、ある筈。たぶん。そこまで生き死にに、これまで深く考えた事もないし。でも、死にたくないとは思うのだから不思議だ。出口を探さないと。夢からか、この変な場所から。空気がどんよりしてて、湿気が多いみたいな。肌に纏わりつく感覚はないが。でも居心地は不思議と嫌じゃない。でも、出ないと。帰らないと。そんな焦燥感だけは消えない。

  「こっちだよ」

  「あのな、お前と違って夜目がきかないんだよ」

  どんどん先に行ってしまう狸を追うので精一杯だった。走り疲れているというのもあったが。それでも、元気がよい狸は暗がりだと気を抜くと見失いそうで。おちおち考え事も許してくれない。

  だから狸を追いかける事に集中するしかなかった。胸の内に抱えた、不安と孤独に押しつぶされそうになりながらも。