ライカンスロープ 第1話

  暗い森の中を、ひたすら走り続けた。

  たった一つの目的を果たすために。

  それは、生命を維持するための、悪意の無い、必須の殺害。

  ほぼ全ての動植物が実行するであろう、逃れられない行動。

  狩猟。

  剥き出しの純粋な野性が、命令を下す。

  獲物を狩れと、生きろと。

  そのために殺せと。

  五感を発揮すれば、追跡は容易い。

  夜目が利くため、足跡や倒れた草木は見逃さない。

  優れた鼻が、微かな臭いをも嗅ぎ取る。

  そしてついに、獲物に追いついた。

  否、獲物は逃げることを止めていた。

  こちらに向き直り、牙を剥き出して睨みつけてくる。

  獲物へと飛び掛かる。

  獲物もこちらに飛び掛かる。

  どちらの牙が上か。

  勝負だ。

  野性同士がぶつかる。牙と牙が交錯する。

  狩るものと狩られるものが逆転して。

  立っていたのは強者だった。

  [newpage]

  満月が映える深夜。

  眩く光る月光は、星々と共に下界に広がる木々を静かに照らしていた。街から離れたその場所は、人工の光が一切無く、それ故に天然の光が強く煌めいている。

  そんな夜空を、月光を切り裂きながら1台のヘリが走り抜けた。月光を反射する、漆黒の大型輸送ヘリだ。大自然に紛れ込んだ異質な機械は、寝静まった森を起こしてしまう程の騒音を上げ、自らの存在を誇示している。

  操縦席には、壮年の操縦士が一人、隣に若い副操縦士が一人。そして後部には、武装した兵士五人の姿があった。

  右側の席に腰を下ろしているのは、夜間作戦用の黒い戦闘服を身に着けた、青年兵士だった。同年代の男性と比較すると背は高く、鍛え上げているため筋肉質だが、無駄な肉は無く引き締まった体の持ち主だ。

  防弾ベストに両肘両膝を守るプロテクター。踏み抜き防止のための鉄板入りのブーツ、右腰の拳銃。左腰の手榴弾、左胸部のナイフ。近代兵士の兵装としては珍しくないが、ただ一点、異質な武器があった。

  それは、日本刀だ。刃渡り60センチほどの、一振りの刀を、青年は大事に抱えていた。加えて、青年はフルフェイスのヘルメットを被っているが、鼻と口の部位が大きく前方に突き出ていた。最後に、腰のやや下の辺りから、飴色の毛に追われた50センチほどの尻尾が出ている。普通の兵士とは、その3点が大きく異なっていた。

  (いよいよ、か・・・・・・)

  青年は、口内に溜まった唾を飲み込み、これから自身の身に降りかかる試練を考え、緊張しつつも、僅かに高揚していた。

  ついに、始まるのだ。導かれ、ひたすら歩いてきた。そしてようやく、長いレールの出発点に立った。部活の試合でも、期末テストでも、こんな心境にはならなかった。

  社会人になったという自覚。何より、兵士となり、実戦に足を踏み入れるという非現実。しかも、自分も相手も、異形の存在なのだ。

  「瀞」

  「ん?」

  高鳴る鼓動を感じていると、右から声を掛けられた。緊張を溶かす、柔和は女性の声だ。

  首を捩じると、そこには同じ兵装に身を包んだ兵士の姿が。青年よりも小柄で細身だが、柔らかくしなやかな筋肉を搭載した大腿部はやや太い。

  青年と同じく異形のヘルメットを被り、白く短い尻尾を生やしている。そして、抱えている武器は日本刀ではなく、小型のアサルトライフルだった。

  「何?」

  「大丈夫?震えているけど」

  「え、マジで?」

  女性から心配そうに聞かれた、瀞と呼ばれた青年は、自身が震えていることに気付いていなかった。

  「怖いの?」

  「いや、そういうことじゃなくて、適度な緊張感というか、なんというか・・・・・・武者震いだよ」

  恥じらいを感じながらも、頭を回転させ、適した言葉を探し出した瀞は、胸を張って答えた。

  すると、正面の席からヤジが飛んできた。

  「へっへっへー。正直に言えよ。めっちゃ怖いって」

  明らかに馬鹿にしている意図を含んだ言葉を投げつけてきたのは、瀞の正面に座る青年だ。少年の幼さが消えていないその兵士は、女性兵士よりも小柄で細身の体格だ。ヘルメットの出っ張りは小さい。尻尾は長く、立ち上がっても地面に接するほどで、クロムイエローに黒点の斑模様だ。

  日本刀もライフルも持っていないが、左右の腰にはやや刃渡りが長いコンバットナイフがあった。

  「うるせえな。お前は黙ってろ。っつうか、怖くねえって」

  「んなこと震えて言われても説得力ねーよ」

  「武者震いっつったろ」

  「嘘つくなよ」

  「嘘じゃねえ。ちょっと緊張してただけだっての」

  「僕ちん怖いワン」

  「うっせえ。学力試験29点男」

  「ちょ、それ今関係ねーし!」

  言い合いを始めた二人。女性兵士が止めようとするよりも早く、瀞の左隣から静止の命令が下された。

  「瀞。風丸。止めろ」

  短い一言。声を荒げている訳でもないが、その太い声は、瀞と、風丸という小柄な兵士を止めた。

  命令を下したのは、5人の中で最も大柄な兵士だった。背は180センチを軽く飛び越え、多量の筋肉を搭載した四肢も胴体も太い。ヘルメットの形状は風丸のものに近く、長い尻尾は虎のような黄金色と黒の縞模様だ。

  そして、手にした武器は瀞と同じく日本刀だ。最も、刃渡りは80センチと長く、反りも深い。

  「はいっ!」

  「さーせん!」

  二人は同時に謝罪した。

  「談笑自体は悪くない。過度な緊張は危険だからな。だが、緊張感が全く無いのも問題がある。真剣さが足りん」

  「ですよねー」

  「すいません、和虎隊長」

  瀞は深々と頭を下げた。

  隊長の言う通りだ。戦闘前に、こんなどうでもいい話を長々としてどうする。しかも、風丸から悪口を言われてムキになるなど、正に言語道断だ。

  「瀞」

  自身の子供じみた行動を反省していると、大柄な兵士、和虎は再び話しかけてきた。

  「は、はいっ」

  「怖がることは、悪いことじゃない。恐怖を抱かない奴は、決まって真っ先に死ぬ。そういうものだ」

  「はぁ・・・・・・」

  「俺も怖い。だが、これが俺たちの務めだ。怖いから嫌だとか、甘えは許されない」

  「ですよね」

  瀞はうつむき、自身の中の恐怖を認めた。鼓動が高鳴る原因の一つには、紛れもなく恐怖が混じっていた。

  そんな瀞に、顔をぐっと近づけて、和虎は言った。

  「安心しろ。俺が誰も死なせない」

  ヘルメット越しに、目が合った。

  根拠のない約束。しかし瀞は、和虎の発言には絶大な信頼を寄せていた。

  和虎隊長が言うんだから、大丈夫だ。そう実感できる。

  「はい!」

  瀞の返事を聞いた和虎は、満足そうに頷いた。

  「んだよ、和虎隊長が言ったら、簡単に認めやがって」

  「和虎隊長と違って、お前の発言は軽いしむかつくからな。人を馬鹿にしてやがる」

  「してねーよ!」

  「してるだろ!滲み出てるんだよ、悪意が!大体、お前は大丈夫なのかよ」

  「俺は割と余裕」

  「本当かよ。不安でしかねえ」

  言い合う二人。しかし、瀞の声は先ほどよりも大きくなっていた。

  (しっかし、何も言わねえな)

  瀞はふと、風丸の隣に座る男に目を向けた。

  自分よりも背は高く、引き締まった肉体。縹色の尾、五人の中で最も出っ張りが大きいヘルメット。手にしたライフル。何より目を引くのは、背中から生えた大きな翼。

  「副隊長、起きてますか?」

  腕を組み、ヘリが出動した時から姿勢をずっと変えない仲間に、瀞は声をかけた。

  「不必要な確認はするな」

  素っ気ない返答。予測できたとは言え、快いものではない。

  (起きてる、でいいだろ!大丈夫なのかよ・・・・・・まぁ、訓練ではいつもお世話になってるし、大丈夫とは思うけど)

  戦闘直前に、自分より技量も経験も上である上官に対して不安を抱くなど、あってはならないことだ。だが、抱かずにはいられない。

  (まぁ、和虎隊長がいるから大丈夫だよな)

  「瀞」

  「ん」

  隊長への信頼で不安を消した瀞に、空が話しかけてきた。

  「もう大丈夫?」

  「ああ。ありがとな」

  不安を見抜き、心配してくれる仲間。その存在が、とても有難い。

  「空こそ、平気なのか?」

  「うん。不安がないって言ったら、嘘になるけど。でも、和虎隊長もいるし、副隊長もいるし、この子もいるから」

  空は、手にしたライフルを掲げて見せた。宝物も自慢するかのように。

  「まさか、本当に許可が下りるとは思わなかったなぁ。操さんに感謝しないと。ずっと使ってみたかったの。SG552、すごいでしょ」

  「ああ、変えてもらったんだっけ」

  瀞は、数日前の苦い記憶を思い出した。

  渡されたライフルを抱きしめ、飛び跳ねて喜ぶ空は、プレゼントをもらった子供のようだった。そして、銃なんか変えたって同じだろ、と冷めた口調で言った自分に対し、延々と銃器の解説を始めた空は、子を叱る母のようだった。

  (この子ってお前・・・・・・まぁ、いいけど)

  銃のことは別として、事実、瀞は空を尊敬していた。同い年とは思えないほど落ち着きがあり、しっかりしている。見習いたいものだ。

  「着いたぞ」

  「え?」

  不意に、和虎が言った。同時に、ヘリの動きが変わる。どうやら、移動を止めてホバリングしているようだ。

  「着いたんですか、じゃあ、今から・・・・・・」

  「戦闘だ。賢士」

  和虎は応えつつ立ち上がり、副隊長の名を呼んだ。ほぼ同時に、副隊長は立ち上がり、ヘリの側面のハッチを開き、国産アサルトライフル89式小銃を構えて下方に銃口を向けた。

  「あっ」

  和虎が反対側のハッチを開くと、空も立って和虎の隣へ行き、ライフルを下界に向けた。

  (え、ちょ、マジで、もう?実戦?え、え、ええええ・・・・・・)

  「瀞、風丸、どちらから行く?」

  和虎から聞かれたものの、瀞は答えられなかった。

  不意に、恐怖が圧し掛かった。雑談でほぐれたはずの筋肉が固まり、一歩を踏み出せない。

  これから自分は、怪物と戦わなければならない。殺し合いが始まるのだ。

  その事実は、これまでに何度も確認し、恐怖や緊張をねじ伏せてきたというのに、眼前に迫った途端、再び体がすくんでしまった。

  心の準備が出来ていなかった。出動前出来ていると思っていたのは、どうやら勘違いだったようだ。

  「行きまっす」

  そんな瀞を置き去りにして、風丸が立ち上がった。

  「すぐ下に、敵、いるわけじゃないんすよね」

  「ああ。戦闘区域から少し離れている。それに、BATの兵士たちも下に控えている」

  「そんじゃ」

  短いやり取りの後、風丸はいとも簡単に、まるで玄関から出かけるように、ヘリから飛び降りた。

  呆然とする瀞を残したまま。

  「あっ。お、俺も行きます」

  風丸の背中を見送った瀞は、すぐに立ち上がった。

  年下相手に、後れを取るわけにはいかない。

  ちっぽけなプライドが、この場は瀞の背中を押してくれた。

  「瀞」

  「は、はい」

  下界へと向かう瀞の肩を、和虎が掴んだ。

  「お前は今から何をする?」

  「か、怪物を、ぶっ倒します」

  「そうだ。自分のやるべきことを忘れるな」

  「はい」

  「それと、俺がさっき言ったことも忘れるな」

  「分かりました」

  「よし。行け!」

  胸を、和虎の激励が叩く。震えが止まった。

  瀞は一度深呼吸すると、戦場への一歩を踏み出した。

  初陣が、始まった。

  [newpage]

  ライカンスロープ  第1章  特殊部隊編

  日没間際の大都会。

  八分ほど地平線に沈んだ太陽は、微弱ながらも日光を放ち続けており、高層ビルを側面から照らし、幾つもの長い影が街に伸びていた。影がかかった建物は一足早く闇を迎えており、看板に光を灯し夜に備えていた。

  そんな光景を、高級車の中からぽかんと眺める少年がいた。卒業を目前に控えた、学生服姿の中学生である。大都会の光景は、田舎育ちの彼にとっては全てが規格外であり、珍しそうに車の窓から眺めていた。

  やがて彼を乗せた車は、一際高いビルの地下駐車場へと入っていった。

  (すっげ、東京は違うな。大分市の比じゃねえよ)

  自身が知る最大の都会よりも、はるかにスケールが大きい街並みに感心しつつ、少年は運転手の壮年男性に従い、車から降りた。

  (でも、どうして・・・・・・)

  導かれるままに、駐車場を通り、エレベーターに乗り、清潔感のあるビルの中を進んでいく。いい匂い、綺麗、高価、と、漠然とした感想を抱きながら、少年はひたすら考えていた。なぜ自分はここにいるのか、と。

  卒業式の練習を、面倒と思いながらも真面目に参加していた少年は、突如職員室に呼び出された。そして、スーツ姿の壮年男性に、連れ出され、東京都にやってきた。足を踏み入れたのは、今回が初めてだった。

  車で熊本空港まで移動した後、ヘリコプターに乗り込んで一気に羽田空港へ行き、そして車で数十分。そして、このビルに到着した。

  何故呼び出されたかは不明のままだ。出発前も移動中も、何も聞かされていない。言われるまま、ここまで来た。

  (何だよ何だよ・・・・・・俺、何も、悪いことしてないよな。まさか、すっげえレアな病原菌持ってるとか?人体実験されるのか?それとも、拉致されるんじゃないのか?いや、もうされてる!?いやいや、ひょっとすると、選ばれた戦士とかだったりしてな。超能力とか持ってる体質だったりして)

  ここに連れてこられた理由については、漫画やゲームの影響で、非現実的なものばかり浮かんでしまう。都会に来た高揚感もあって、ちょっとした妄想も楽しく感じられた。

  (それにしても、学ランって、浮くよな)

  廊下をすれ違う人々、皆がスーツや白衣を着ている。学生服を着ている自分は、極めて異質だった。アヒルが一匹、白鳥の群れに紛れ込んでしまったかのようだ。

  「この部屋の中に入ってください」

  突如、前を歩く壮年男性が、ドアの前で止まった。会議室2と、ドアに取り付けられた札には書いてある。

  「あ、はい」

  少年は、躊躇いなくドアを開けた。

  内部は、狭い個室だった。自分の学校の教室の半分程度の広さしかない。しかし、床には紺色の絨毯が敷き詰められ、中央にはテーブルと、それを挟んで向かい合うソファー。隅には流し台とポット、食器が入った棚や小型冷蔵庫まである。

  「やぁ、初めまして」

  部屋には先客がいた。ソファーに腰かけた、スーツ姿の若い男性が一人。二十歳ほどであろうか。整った顔たちに柔和な笑みを浮かべた男は、立ち上がって少年へと近づいてきた。

  「あ、どうも、こんにちは」

  少年も挨拶を返しつつ、部屋に入った。背後で、ドアが閉まる音がする。しかし少年は振り返らず、男の方を向いていた。

  「緒方丈一(おがたじょういち)です」

  丈一と名乗った男は、右手を差し出してきた。

  「あ、犬神瀞(いぬがみせい)って言います」

  自己紹介されたと気付いた少年、瀞は、丈一の握手に応じた。

  「うん、本人で間違いないね」

  「はい。あの、よ、よろしくお願いします」

  初対面かつ正体不明の男性と二人きり。緊張を必死で抑えて頭を下げた。

  「とりあえず、座ろうか」

  「はい」

  丈一に促され、瀞はソファーに座った。丈一と向かい合う形で。

  「とりあえず、何か飲もうか。何がいい?」

  「ああ、いや、大丈夫です」

  「遠慮しなくていいから。長くなるし」

  「はぁ」

  丈一は、にっこりと微笑みかけてくる。お堅い感じは、全く無い。それでも、緊張がすぐに解けるわけではない。

  「座ってていいから」

  「あ、手伝いますから」

  「いいって」

  身を乗り出した丈一に肩を押されて、立ち上がろうとした瀞は仕方なく座った。一方、立ち上がった丈一は冷蔵庫の方へと向かう。

  「コーヒーより、ジュースがいいな」

  「あ、コーヒーでも大丈夫です」

  「本当に?砂糖もミルクもないよ」

  「あー、やっぱり、ジュースでお願いします」

  「オッケー」

  やがて丈一は、オレンジジュースが入ったガラスのコップを2つ手にして戻ってきた。

  「ありがとうございます」

  「どういたしまして。ま、そんなに緊張しなくてもいいから」

  「はい」

  「でも、しちゃうよな。急にこんなところに連れてこられて。まだ何も説明されてないでしょ」

  「は、はい」

  「しょうがないとはいえ、このやり方、なんとかならないかなぁ。俺の時もそうだったし」

  「そうなんですか」

  「そうなんだよ。大体、説明係に俺を使うっていうのもなぁ。ほんと、上の人達は勝手っていうか、もうちょっと俺たちのこと考えてほしいな」

  「はぁ」

  「ま、そんな愚痴、君に言っても仕方がないか。ごめんね、いきなりこんな話して」

  「いえ」

  丈一は、気さくに話しかけてくる。しかし瀞は、緊張のため相槌を返すことしかできなかった。

  すると、丈一はジューズを一口飲み、想定外の話を出してきた。

  「漫画とか、読む?」

  「え、ええ、少しは」

  話題に驚きつつも、瀞は頷いた。

  「どんなの?」

  「どんなのって・・・・・・まぁ、有名なやつとか」

  「犬士ヒムカ、分かる?」

  「あ、分かります!読んでます!めっちゃ好きです」

  「あれ面白いよな」

  「はい!」

  共通の話題という、たったひとつのきっかけ。それだけで、徐々に、二人は打ち解けていった。

  漫画という趣味から、話は次々に枝分かれしていき、自分のことをどんどん話し、相手の言葉に耳を傾ける。知ることが楽しくて、知ってもらうことが嬉しくて、会話は弾んだ。

  「プレデターとか、知ってるんだ」

  「はい。やっぱ、面白い映画だから、再放送とかされますよ」

  「テレビでやる映画って、吹替版ばかりなんだよな」

  「俺はそっちの方が好きですけど」

  「え、東京って、チャンネルそんなに多いんですか!?」

  「大分が少ないだけだよ。金曜ロードショーやってないんだな」

  「あ、家はケーブルのおかげで観れます」

  「え、”おじい”って、怖いって意味なの?おじいさん、じゃなくて?」

  「はい。通じないんですね」

  「だって、方言だから」

  「方言って知りませんでした」

  「温泉かぁ。最近、入ってないな」

  「うちの近所、普通にありますよ。毎週入ってる人とかもいますし」

  「お金あるんだな」

  「いや、そういうわけじゃなくて。350円だし」

  「やっす!」

  気が付けば、友人のように接していた。大人が相手なのに、親や教師とは異なる、友人たちに抱くような親近感を抱いて会話を楽しんでいた。

  [newpage]

  北九州の某所、人里から遠く離れた地にある、とある小山の麓。そこには、迷彩柄の戦闘服を着て、小銃で武装した兵士達の姿があった。装甲車や大型トラックも停まっており、点灯したライトは山の方に向けられていた。

  迷彩柄の戦闘服を着た兵士たちは、小山を完全に取り囲んでいる。その兵士たちにからやや離れた場所に立った瀞は、小山を見上げていた。

  (ついに、始まる・・・・・・)

  この包囲網の内側、小山に一歩でも入ったら、もうそこは戦場だ。安全は保障されない。

  (マジで始まるって、おい。やばい、やばいよ、丈一さん!!)

  僅かに、吐き気がする。瀞は何度も繰り返した深呼吸を、再び行った。

  「瀞、離れないようにしようね」

  隣にいる空が、優しく話しかけてくる。

  「ああ、そうだな」

  「一人になったら、死ぬよな、多分。気を付けねーと」

  風丸は、もうからかってこない。自分ほどではないが、流石に緊張しているようだ。

  「ああ、気を付けないとな」

  瀞は頷き、再び山を見上げる。何の変哲のない山が、地獄であるかの様に見えた。

  (何が起こるんだろう・・・・・・どんな敵が来るんだ?訓練通りにいくのか?やばい、怖いな・・・・・・)

  「07部隊、突入してください!」

  緊張で身を震わせていると、装甲車の付近に立つ兵士が、周囲に轟く大声を張り上げた。

  (いっ!もうっ!?ここにきてまだ1分しか経ってねえよ!)

  「行くぞ!集まれ!」

  今度は、トラックの脇で司令官と会話をしていた和虎が大声を発し、隊員たちを集めた。瀞、空、風丸、そして離れた場所で瞑想していた副隊長もやってくる。

  「4月12日、午前0時27分。工藤和虎(くどうかずとら)、日鷹賢士(ひだかけんし)、犬神瀞、鹿山空(かやまそら)、知多風丸(ちたかぜまる)、以上07部隊五名、現場に入ります」

  司令官が、無線に告げた。

  和虎は、腰の太刀を抜き放った。銀色に輝く刃が、車のライトを浴びてギラリと光った。

  風丸も、ナイフを抜いた。左右の手に1本ずつ、二刀流だ。

  副隊長の賢士と空もは、ライフルの安全装置を解除する。

  それを見ていた瀞も、腰の刀の柄を握りしめた。

  (頼むぜ)

  ゆっくりと抜く。この戦闘で自身の命を委ねる存在に、心の中で祈りながら。

  「打ち合わせ通りに行く。賢士、頼むぞ」

  「了解」

  和虎が、前に出る。兵士たちが分かれてできた道を突き進んでいく。

  (うわー!本当に始まる!戦いが!)

  心の中では恐怖で叫んでいた瀞だが、躊躇わず、和虎の背中を追った。死なせないという和虎の言葉が、引っ張ってくれた。

  (いつまでも考えてたってしょうがねえ!もう行くしかねえんだ!)

  瀞がそれに続く。その後ろを風丸が、そして空が続く。最後尾に賢士がついた。

  すぐに、五人の姿は兵士たちから見えなくなった。兵士たちは、変わらず警戒を続行した。

  登山用の山道ではない、文字通りの森の中。傾斜は緩やかだが足元は石や枝が転がっており、雑草も生い茂っている。さらには木々が所せましと並んでおり、非常に歩き辛い。そんな山道を、瀞達は武器を手にし、警戒しつつ歩き続けていた。

  (全然疲れない。やっぱり、この体はすごいな)

  自身の肉体能力に感心しながら、瀞は目の前の和虎の背を追った。

  (すぐにドンパチ始まると思っていたけど、意外と、静かだな。叫び声とかも聞こえないし)

  本当に、ここが危険区域になっているのかと、瀞は心の中で首を傾げた。

  静かで、生物の気配が感じられない。はじめは、いつ敵が来るのかとビクビクしながら歩いていたため、精神的な重圧も大きかったが、今ではそれも薄れつつある。

  敵の有無について和虎に聞きたいが、流石に躊躇われる。すると。

  「和虎隊長。本当に、この山にいるんですか?」

  背後から、風丸の疑問が飛んできた。咎めたいところだが、自分も聞きたかったので少し有難い。

  「情報によると、間違いないらしい」

  和虎は足を止めず、振り返らず、冷静に返した。咎めるわけでもなく、いつものように。

  「間違いとかじゃ?」

  「ありえない話ではない。だがその場合でも、俺たちが確かめる必要がある」

  「何体でしたっけ?」

  「目撃情報では、5体だ」

  「この広い山の中で、たった5体を、俺たちだけで探すんですか?めんどくせー」

  風丸の不満げな声を聴き、瀞も黙っていられなくなった。

  「風丸、文句言うなよ」

  「けどよー。それより瀞、何の臭いも感じないのか?」

  「全然。ただ、ヘルメット脱いだら、もっと分かるかも」

  「いらねーよな、やっぱり。こんなとこ、人いねーし」

  瀞は、刀を鞘に納め、ヘルメットに手を掛け和虎に聞こうとした。

  「ああ。和虎隊長、ヘルメット脱いでも・・・・・・」

  その時、ある匂いが瀞の鼻を撫でた。過去に嗅いできた、どの動植物とも違う、独特の臭気だ。

  「隊長!待ってください!臭いが!」

  瀞は前を歩く和虎を呼び止めた。和虎が、そして他の隊員たちもが足を止めた。

  「どこだ?」

  「こっちです!」

  瀞は、臭いが流れてきた方向へと歩き出した。和虎の右前方からだ。和虎を追い越し、瀞は臭いを追った。

  主に足元から、獣の臭いが漂ってくる。歩いた時についたのだろう。

  (あ、これって)

  進んでいくと、踏まれた雑草や折れた枝が見つかった。何者かがここを歩いた証拠だ。

  この先に敵がいるという恐ろしさ、そしてそれを一番先に見つけたという誇らしさ。

  恐怖と喜びを抱き、瀞は足元に注意しつつ歩き続けようとした。

  その直後だった。

  「瀞!!」

  ドドンッ!!

  ギンッ!!

  「ギャン!!」

  瀞は追ってきた和虎から、左へと突き飛ばされた。

  2発の銃声が響き、和虎は太刀を振り前方からの銃撃を防ぐ。

  後方で賢士が引き金を引き、瀞を狙った標的を仕留め、断末魔が飛ぶ。

  全てが、ほぼ同時に起こっていた。

  何が起こったか。瀞と空、そして風丸は同じ疑問を抱いた。

  だが、それを理解する時間は無かった。

  一瞬の攻防を合図にしたかのように、四方八方から銃撃が襲い掛かってきた。

  耳に刺さり胸にまで響く銃声が深夜の森に響き渡り、マズルフラッシュが目を叩く。先ほどまでの静寂と暗闇が嘘のようだ。

  (え、ちょ、何で銃が!?)

  瀞はうつ伏せに倒れたまま、動けなかった。どうすればいいのか分からない。

  縋るように和虎を見ると、太刀を振りまわりて銃撃を防いでいる。

  (近づけない・・・・・・)

  次に反対方向を見た。風丸がいるはずだ。

  「あっ!」

  風丸は、いた。しかし、瀞が見たのは風丸の背中だった。ナイフを両手に、姿勢を低くして銃撃の出どころへと突っ込んでいく。

  「風丸!!待てよ!!」

  (一人になったら、俺たちは・・・・・・)

  名を呼んでも、届かない。もう、見えなくなった。

  瀞は、平伏したまま動き始めた。

  頭を上げたら死ぬ。この場から動かなくても死ぬ。

  どこに行けばいい?

  「いって!」

  すると、左肩を銃弾が掠めた。表皮をわずかに傷つけただけだが、混乱を倍増させるには十分な一撃だった。

  (やばいやばいやばいやばいやばいやばい!!!!)

  瀞は起き上がり、駆け出した。この場から1秒でも早く脱出したかった。

  「いっ!」

  すると、正面から人影が近づいてきた。銃を持っている。きっと敵だ。

  (殺される!!)

  「うああああああああああああ!!!」

  瀞は方向転換し、全速力で駆けだした。ひたすら、走る。幸い、銃撃には当たらなかった。

  全速力で走ったため、わずか数分だが、銃撃の渦からはかなり距離を取ることに成功した。

  「うおっ!!」

  しかし、足元に伸びる木の根に躓いてしまった。速度が出ていた分、より大きくバランスを崩してしまう。

  不運にも、転倒した先は傾斜が急で崖のようになっており、瀞はそこを転がり落ちてしまった。

  優れた肉体能力を持っていても、精神が乱れていてはどうしようもない。

  草木に捕まることさえできず、瀞は坂の下まで落下した。

  「ってえ・・・・・・」

  瀞は、痛む膝と左肩を抑え、ゆっくりと起き上がった。

  (もう、撃ってこない、よな・・・・・・怪我も、大したことない。血も出てないな)

  恐る恐る、中腰になって周囲を見渡す。人影はない。気配も、臭いもない。

  (あ、危なかった・・・・・・いきなり、あんなの、無理だろ・・・・・・大体、銃持ってるなんて聞いてねえぞ。しかも、5体以上、絶対にいた)

  とりあえず、無事であることに安心する。しかし。

  (でも、助かってよかった・・・・・・じゃねえ!!!)

  瀞はようやく、孤立したことに気付いた。

  (やばい!!一人っきりじゃねえか!!敵がいるのに!!しかも銃撃ってくるやつらが!!今襲われたら死ぬ!!)

  突如、恐怖が全身を包み込んだ。正体不明の敵が大勢いる、暗い山の中で。

  (こええ・・・・・・)

  木陰に隠れ、座り込む。

  漆黒に取り囲まれた、絶望的状況だ。

  (指揮してくれる人がいないから、何すればいいのか・・・・・・)

  心も体も動かなくなった。世界に味方がいなくなったと錯覚してしまう。

  巨大な獣に丸のみにされたようだ。あとは、胃の中で溶かされるだけ・・・・・・。

  「瀞」

  その時、心中にて、声が聞こえた。自分の名を呼ぶ声が。

  「瀞。せーい」

  (晴美・・・・・・)

  戦場に響く声は、隊長や仲間のものではなかった。

  それは、紛れもない恋人の声。訓練中ではなく、日常で聞くはずの声だった。

  (そう言えば、出発前・・・・・・)

  瀞は、今日の夕方のことを思い出した。

  本来ならば、今日は休みだったのだ。

  久しぶりに、恋人に会いに行った。

  しかし彼女は、課題とレポート、さらにはアルバイトによる疲れが溜まっていた。

  家に帰りつくと同時に、眠ってしまった。

  眠っている彼女に迷惑を掛けたくなかったために、手を出すことは出来なかった。

  黙って添い寝して、寝顔を見守っていた。

  そこで、呼び出されたのだ。

  (楽しかったな。一緒に買い物して、飯食って。可愛かったな、寝顔)

  彼女を見て、触れて、嗅いで。共に過ごした時間を思い返す。

  すると、暗闇に一筋の光が差し込んだ。

  (そう言えば、和虎隊長も言ってたっけ。大切な人を思い出したら、恐怖は和らいで緊張も収まるって・・・・・・なんで忘れてたんだろう。隊長の言葉を。晴美のことを)

  瀞は、大きく深呼吸をして、立ち上がった。

  (そうだ、晴美とまた会いたい。今は、そのためでいい。それだけのことで十分だ)

  緊張や恐怖が全て消えたわけではないが、動けるところまでは回復した。これからのことについて、考えることができた。

  (状況を整理しよう。とりあえず、敵は大勢いる。で、皆とはぐれた。今真っ先にすべきことは・・・・・・合流することだ)

  瀞は周囲を見回した。落ちてきた急斜面は、登れないほどではない。そして、銃撃の音は止んでいる。

  (地図を見るより、自分のにおいをたどって言った方がいいんじゃないのか?そうすれば、はぐれた場所に戻れる。そこから、皆のにおいをたどろう)

  冷静になれば、取るべき行動は分かってくる。

  (もう、ヘルメットも取ろう。怒られるだろうけど、においが分かりづれえ。一般人だっているわけねえし。んなこと気にして死んじまったら、元も子もねえよ)

  瀞は意を決し、ヘルメットに手をかけ、それを外した。

  その頭部は、”人”から大きく逸脱したものだった。

  飴色の体毛に覆われ、巨大な口は前方に大きく突き出しており、その上に黒い鼻がついている。大きな両眼、そして三角の耳がピンと頭の上に2つある。

  それは、人でなく、犬の頭部に近い。人の骨格を持ちながら、犬の頭部を持ち、全身に飴色の体毛を纏い、尻尾まで生やしている。それが、今の瀞の肉体だ。

  (全力で走ったから、マジで1キロは離れてるかもな。まぁ、とにかく、自分のにおいをたどれば、迷わずはぐれた場所まで戻れるはずだ)

  そう考えながら、傾斜を見上げたその時だった。

  (ん!これ、近い!)

  ヘルメットを脱ぐことによって曝け出された鼻は、何物にも邪魔されることなく機能を発揮することができた。背後から漂ってくる、獣の臭いを感知する。

  瀞は振り返り、木々の奥を睨んだ。

  暗闇の中、樹木の隣に爛々と輝く金色の光が二つある。

  (誰もいないのに・・・・・・でも、一体だ。戦うか?)

  瀞は腰の刀を掴んだ。しかし、抜こうとした手はすぐ止まる。

  金色の光が、ぽつぽつと灯ってゆく。やがてその数は、10まで増えた。

  (ちょ、5体は、多い・・・・・・)

  瀞は光に背を向け、かがんで両足に力を籠め、飛び上がった。

  8メートルほどの急斜面を飛び越え、着地と同時に首を曲げて後方を見ると、暗闇から出現した獣たちの姿が見えた。爛々と輝く金色の双眸の獣が。

  骨格は大型犬に近いが、容姿はまるで異なる。褐色の体毛、大きく裂けた口、不揃いの鋭い牙。そして、表皮が所々で破れて露出してしまうほど発達した筋肉。

  悪魔にでも取りつかれたような、凶悪な姿の犬だ。

  犬の数は5体。瀞に向かって突進してきた。荒い呼吸を繰り返し、小さく唸りながら、獲物へと一直線に向かう。

  瀞は逃げ出した。5体の犬は、傾斜を駆け上がり、追いかける。

  (無理だ!勝てない!死ぬ!)

  暗い森の中を、必死で走り続けた。

  自身の生命を脅かす敵から逃げるために。

  行く手を阻むように立つ木々を避け、草や枝を踏みつけ、ただひたすら駆け抜けた。

  命を狙われ、追われ、逃げる。

  初体験の、狩られる恐怖。

  眠っていた野性が叩き起こされ、自身を守るための最善策を提供し、肉体が脳の命令を待たず実行してくれた。

  だからこそ、生きている。

  しかし。

  (これでいいのかよ)

  心に一点の疑問が芽生える。

  それは即座に変貌した。

  (倒せよ)

  ”攻撃”へと。

  目覚めたばかりの野性は、狩られる側でいることを拒んだ。

  逆だろう、狩れと、命令してきた。

  そう、自分は今、肉食動物でもあるのだ。

  ふつふつと、怒りにも似た戦闘意欲に身を任せ、瀞は急停止しつつ犬の方へと体を向け、刀に手を掛けた。

  それなりの距離を走ったため、速度の個人差が生じており、犬の位置にはばらつきがあった。

  最も近い犬との距離は、20メートルほども離れていた。足の速さはこちらに分があったようだ。

  しかし、犬はこちらに猛進してくる。チーターに匹敵するほどの速さであり、20メートル程度の距離は一瞬で縮まっていく。

  犬と目が合った。獲物が足を止めたことを喜んでいるかのように見えた。

  瀞の胸中に恐怖は無かった。自身を獲物と見なす犬に対する怒りは、それ以上に大きかったからだ。

  そして、犬は瀞へと飛んだ。

  犬の口が大きく開かれる。

  殺意の塊が飛来してくる。

  既に攻撃の体勢を整えていた瀞は、負けじと自身の牙を剥いた。

  左手で鞘を掴み、柄を手にした右手を振りぬく。

  銀色の閃光が走った。

  犬の右側へと踏み込みつつ、放たれた居合い。

  (斬った!!)

  手に残る、硬い感触。

  仕留めたかは分からないが、確実に切った。

  生死を確認する暇はなかった。後続の犬たちが襲い掛かる。

  2体目の犬が、低い姿勢で走り、前足を突き出してきた。

  牙に劣らぬ爪の突進を、サイドステップで躱し、振り上げた刀を頭部に振り下ろす。

  3体目が背後に回り込んで飛び掛かってくるが、しゃがみつつ、不安定な姿勢で刀を振り上げ腹を裂いた。

  4体目と5体目は左右前方から突っ込んできた。

  臆することなく、瀞は安全圏である前方へ飛び込んだ。

  瀞が立っていた場所で、犬同士が衝突し合った。

  そして、即座に方向転換した瀞は、地に倒れた片方の犬の脊柱に刀を突き立てた。

  もう一体の犬が、弱々しく立ち上がる。衝突した際のダメージは抜けていないようだった。

  瀞は、一転して自身から攻めた。

  間合いを詰め、獲物の脳天へと唐竹割を打ち込む。

  犬は、対応できなかった。

  最後の犬を仕留めた瀞は、すぐに最初の1体が倒れている場所へと向き直った。

  仕留めていないかもしれない。そう思ったが、それは杞憂だった。

  木の根元に、居合いによって腹を裂かれた犬が転がっていた。傷口は深かったらしく、内蔵が零れ落ちており、弱々しく呼吸している。

  周囲を見渡したが、立っている犬はいなかった。頭を斬られたものは死んでおり、腹を斬られたものは虫の息だ。

  (これ、俺が、やったのか・・・・・・)

  目の前に広がる惨劇に、瀞は圧倒された。何もなかった森が、一瞬で死体だらけだ。それを作り出したのは、紛れもなく自分自身である。

  (すげえ・・・・・・)

  危険を排除したことにより得られた安堵。そして、これほどの戦果を叩き出せた歓喜。

  しかしながら、勝利の余韻に浸ることは出来なかった。正体不明の感情が胸に沈殿し、喜びを妨げている。

  (すっきりしねえな。いや、嬉しいんだけど。まぁ、助かったらよかった)

  冷静になってきた瀞は、顔をしかめた。悪臭が、鼻を突いたのだ。

  訓練の一環で嗅いだことがある、血と内蔵の臭い。呼吸の度に、鼻が曲がりそうになる。また、地面に飛び出た血と内蔵も、視覚を犯してくる。

  (グロ・・・・・・すっきしりねえ理由は、これかもな。早く離れよう)

  瀞は入念に刀の血のりを払い、味方との合流を急ぐことにした。

  (考えてみたら、まだ敵はいるかもしれないしな。一人のままは危なすぎるだろ・・・・・・くっそ、血の臭いのせいで臭いが分かりづれえ。方向は、こっちだったよな)

  悪臭に耐えつつ、味方の臭いを探る瀞。その鼻に、再び異質なにおいが飛び込んできた。

  獣の臭い。そして、金属と火薬の臭いだ。

  (やっべ!!)

  瀞は身を低くして、右へと飛んだ。

  直後、銃声とともに鉛玉が飛来してきた。

  瀞は木々の間を走り、地面にできたわずかな窪みに身を潜めた。

  しばし銃声は続き、不意に止まった。すると、獣の臭いが徐々に接近してきた。

  (くっそ!さっきのやつらか!)

  瀞の脳裏に、先ほど味わった銃弾の雨の恐怖が蘇った。

  1発で自分を死に至らしめる凶弾が飛び交い、自分は何もできなかった。

  (落ち着け、大丈夫だ・・・・・・今の俺なら・・・・・・)

  瀞は、先ほど獣を仕留めた感触を反芻し、飴色の体毛に覆われた自分の手を見た。

  速度も、硬さも、凶暴さも、全てが逸脱した獣を5体、自分は仕留めたのだ。今の自分も、十分、化物だ。

  日夜心身を鍛えてきた。剣術もしっかりと学んだ。銃相手の訓練も積んだ。

  (そうさ、やれるはずなんだ)

  瀞は再び、帰りを待つ恋人のことを思い出した。

  (晴美ともう一回会いたいな)

  そのために頑張る。今は、それでいい。

  兵士の義務よりも、今は、生物としての生存本能に身を任せよう。

  (行くぞ・・・・・・行くぞ!!)

  瀞は刀を握る手に力を籠め、起き上がり、地を蹴った。

  森の中に、再び銃声が鳴り響いた。