ライカンスロープ 第17話

  「ぃ・・・・・・せ・・・・・・」

  暗い水底に、一筋の光が微かに届いた。

  (な、何だ?)

  「せ・・・・・・せぃ・・・・・・せい・・・・・・」

  やがて白い手が伸びてきて、沈んでいた身体をゆっくりと引き上げ始めた。

  (あれ、誰かに呼ばれてる?)

  「せい・・・・・・せい・・・・・・せい・・・・・・」

  水から引き上げられると、誰かに耳元で名前を呼ばれた。

  (この声・・・・・・女性だ。母さん?晴美?)

  女性の声は耳元で聞こえてきたが、上手く聞き取れなかった。まるで、耳の中に靄がかかっているかのようだ。

  しかし、聴覚に意識を集中させると、徐々に靄は消えていき、正確に形成された声が耳の中に入って来る。

  「せい・・・・・・」

  改めて聞き直すと、声の主はすぐに分かった。

  (空)

  「瀞!!瀞!!大丈夫!?しっかりして!!」

  目を開いた瀞の視界に、悲痛な空の顔が飛び込んできた。

  (やっぱり空だ。よかった、合流できて。でも、どうしたんだ、そんな顔して)

  空に何度も名を呼ばれ、瀞は返事をしようとしたが、声が出なかった。加えて、視界は狭くぼやけており、微かに揺れているように見える。

  「落ち着け、空!瀞も一緒に運ぶ!賢士!!」

  不意に、和虎の声が聞こえた。

  (あ、和虎隊長。そういえば、来てくれたんだっけ。あのでっかい奴は、倒せたんだ。流石隊長)

  瀞が和虎に話しかけようとすると、視界に賢士が映った。

  (副隊長も無事か。そりゃ、俺が無事なんだから・・・・・・うおっ!)

  突如浮遊感に襲われ、顔を突風が叩いた。思わず目を閉じると、数秒後に浮遊感が消えた。代わりに、轟音に耳を叩かれ、溜まらず顔を歪める。

  (何だ、これ?ヘリの音か?)

  目を開けると、見慣れた天井が見えた。どうやら、輸送用ヘリの中にいるようだ。

  (え、俺、ヘリの中にいるのか?何で?まだキメラがいるだろ?俺だけ逃げるわけにはいかねえよ)

  起き上がろうとしたが、やはり体は動かない。賢士を呼ぼうと口を開いても、声は出なかった。

  すると、視界に鷹ではなく、人の顔が入ってきた。女の子の顔だ。

  (綾子ちゃん。よかった、ちゃんとヘリに乗ってるな。他の皆も乗ってるよな。きっと亮太君も、風丸が連れてくるはずだ。あいつ馬鹿だけど、脚だけは速いしな)

  安心していると、遠くで銃声が聞こえた。同時に、キメラの咆哮も。

  (やっぱり、キメラはまだいるんだ。俺も降りて戦わないと)

  瀞の思いをよそに、ヘリは戦線から離脱していく。

  (降ろしてくれよ。空や、風丸も、戦ってるんだ。和虎隊長に、副隊長も。志龍だって。だから、俺も・・・・・・)

  銃声もキメラの咆哮も聞こえなくなる頃、瀞の意識は再び水底に沈んでいた。

  BAT07基地、地下6階にて。

  長期に渡り基地内で過ごす職員たちのために、地下6階及び7階は娯楽施設や商店街が設けられており、都会の一区画を丸ごと移したようになっている。

  その一角に建つファミリーレストランにて、BAT機動隊の面々が一服していた。

  「今日はいつもよりきつかったな」

  「ああ。あれだけの死体の相手だからな」

  「あれだけの事やってんだから、もう少し給料増やしてくれてもいいのによ」

  「そうだよなぁ」

  仕事を終えた隊員たちは、コーヒーや煙草を味わいつつ、数時間前の地獄絵図を思い出しながら愚痴を零し合っている。

  キメラの相手は獣人が行うため、機動隊の仕事は主に戦闘区域の封鎖と住民の避難誘導である。だが、状況によっては獣人兵士の援護や、戦闘区域の取り残された住民の救助も行うことになる。更には、稀ではあるが今回のようなキメラに殺害された住民の死体回収も任されることがある。

  「まぁ、08基地の機動隊みたいに、キメラに殺されるよりはましだけどな」

  「確かに。でも、明日は我が身かもな」

  「物騒なこと、言うなよ」

  冗談を交えつつ話す隊員達。その中に、一人だけ一言も発することなくコーヒーを啜る若者がいた。

  「おい、和田、大丈夫か?」

  壮年の隊員から話しかけられ、黙っていた和田はようやく口を開いた。

  「はい。でも少し、気分が悪くて」

  和田の笑顔は力なく、覇気がない。隊員達は、大量の死体を目の当たりにし、嘔吐していた和田の姿を思い出した。

  「お前、無理すんなよ」

  「帰って寝とけ。招集が掛かったら、呼びに行ってやるから」

  「分かりました。すいません」

  和田は一礼すると、そそくさとその場を後にした。

  若い隊員が、任務の後に体調を崩すことは珍しいことではない。残った隊員たちは、和田のことを気にせず再び談笑を続けた。

  (あの時からけっこう変わってるなぁ。ま、5年以上経つもんな)

  ファミリーレストランから出た“和田の姿をした者”は、エレベーターホールに掲載されている地下6階の案内図を見て心の中で呟いた。その後、基地全体の案内図に視線を移し、構造を記憶していく。

  その表情は、先ほどの弱々しいものから一転しており、これから戦闘を始めるのかと思う程に険しかった。

  (居住エリアの街並みは変わっても、基地の構造はあまり変わらない、か)

  男はため息をついて、エレベーターに乗り、地下7階へ向かった。

  (せっかく入れたのはいいけど、どうするかなぁ。下手に歩き回ったりしていると、絶対怪しまれる。パソコンいじったところで、肝心な情報には鍵がかかってるだろうし。そもそも、データ履歴で調べようとしたこともバレるだろうしなぁ。意外とできること少ないな。まぁ、敵の本拠地に準備無しで突っ込んだところで、出来ることなんてあるわけない、か)

  男は今、敵陣の真っただ中にいた。男にとって、それ自体は決して珍しいことではない。だからこそ、冷静に現状を、今自分が出来ることを分析していた。

  気づかれずに侵入できたことは好都合ではあるものの、ここは敵の本拠だ。より有益な情報が眠っている分、監視はより厳重である。準備不足という事もあり、出来ることは限られている。だが、その限られた出来ることを如何にしてこなすかが重要になるだろう。

  最も、それを感づかれてしまえば、その瞬間に自分の命運は尽きる。本拠であるが故に、きっと逃げられない。

  (どうするかなぁ・・・・・・流姫(りゅうき)の意見を聞きたいんだけど。連絡も取れないし)

  男は地下7階に降り立ち、案内板に目を通しつつ、仲間のことを思った。

  (この和田って人のこともよく知らないしなぁ。ボロが出ない内に脱出しないと。この人が、今度の長期休暇で基地の外に出る時が・・・・・・)

  その時、男のポケットにあるスマホが振動した。男が取り出してみると、画面には“母”の文字が。

  男は黙って電話を切り、母にメールを送った。“忙しいから出られない、また連絡するから”と。

  和田に対しても、和田の母に対しても、男は申し訳ないと思わなかった。

  黙ってスマホをしまい、歩き出した。

  (本当に、どうしよう・・・・・・あぁぁ、ストレスでまたお腹痛くなるなぁ・・・・・・あ!いいこと思いついた!)

  男は立ち止まり、満面の笑みを浮かべ、期待と歓喜を胸に秘め、エレベーターへ引き返した。

  (せっかくだから、街を楽しもうかな。漫画とかゲームとか!映画とか小説もいいな!いや、まずはご飯食べよう!久々の休暇ってことで!)

  表情も思考も180度切り替えた男は、逸る気持ちを抑え切れず、エレベーターホールの脇にある扉を開け、非常階段を小躍りするかのように駆け上がっていった。

  うぅ・・・・・・ぐうぅ・・・・・・

  身震いするような声で、瀞は目を覚ました。

  低く唸るような、呻くような声は、すぐ近くで聞こえて来る。人のものとは思えない、獣のような声だ。

  (なんだ、キメラか?)

  そう判断した瀞は動き出そうとしたが、全身を走る激痛でそれは叶わなかった。

  「ぐぅ!いっでぇ・・・・・・」

  苦痛のあまり、口から呻き声が出る。

  そして瀞は、先ほどの不気味な声が自分の声だと気づいた。自分の寝言で起きたようだ。

  (なんつー声出してんだよ、俺は)

  目を閉じて安堵し、自分の声に苦笑する。

  そして、瀞は自分が置かれていた状況を思い出した。

  (あれ、そういや、どうして俺、寝てるんだ?体中痛えし)

  寝ぼけていた意識が徐々に覚醒していき、思考が定まって来る。

  (そうだ、任務で・・・・・・ビルの前でハウンドの群れと戦って・・・・・・その後移動して、バールとか蜘蛛女みたいな奴らと戦って・・・・・・)

  そして、意識を失う前のことを思い出した。

  (綾子ちゃんたちは!?風丸は!?どうなったんだ!?)

  覚醒した瀞は目を開けて。

  「え?」

  天井を見て、再び思考が止まってしまった。

  薄暗い室内の天井には、何かが張り付いていた。

  人の形をした、何かが。

  おそらく頭部の、目と思われる部分が光る。

  その双眸は、瀞を見下ろしていた。

  そしてそれは、瀞に向かって落下してきた。

  瀞が寝ているベッドの上に着地し、痛みで動けない身体に覆いかぶさり、至近距離で顔を覗き込んでくる。

  光る両目が、瀞の目の前で大きく見開かれた。

  「うわああああああああああ!!!」

  「ああああああああああああ!!!」

  瀞は驚愕と恐怖のあまり、痛みも忘れて叫んだ。

  すると、相手も口を大きく開き、瀞に負けないほどの声量で叫んできた。

  「あああああぁぁぁぁぁぁ・・・・・・」

  やがて、瀞は絶叫を止めた。

  聞き覚えがある声が耳に届いたからだ。

  さらには、嗅ぎ覚えのある匂いがする。

  極めつけに、目を凝らしてみると、見覚えのある顔がそこにあった。

  「丈一、さん?」

  「あぁ」

  目の前にいる相手は、瀞をBATに引き込んだ蛇獣人の兵士、緒方丈一だった。

  いつもの笑顔で、瀞を見下ろしている。

  「丈一さん」

  「やぁ」

  「丈一さん」

  「何?」

  「何やってんですか?」

  「驚かそうと思って」

  「はぁ・・・・・・」

  突如現れた存在が、キメラでも幽霊でもなく瀞は安堵した。しかし、その安堵は一瞬で消え去り、呆れと怒りがふつふつと湧き上がって来る。

  「驚かすって、あんたなぁ・・・・・・俺は重症なんですよ!それなのに、こんなくだらないことして!そもそも重症を負ったのは、頑張ってキメラと戦ったからなのに!こんなおもてなしとか、最悪じゃないですか!?」

  「それはさておき、瀞君」

  「なんですか?」

  「さっきの瀞君の顔、すごかったよ。驚いてて、怖がってて。追い詰められた人って、あんな顔するんだなぁ。口も、顎が外れるくらい開けていて。欠伸する犬以上に開いてたよ、あれ。見ててめっちゃ面白かった」

  「んなことどうでもいいですから!!大体、俺をそんな顔にしやがったのは丈一さんでしょ!!」

  「だからこそ、俺がやってやったんだっていう達成感みたいなものがあって、尚更嬉しいっていうかさ」

  「そんな達成感、嬉しくないでしょ!?」

  「いや、嬉しい」

  「趣味最悪じゃないですか!!」

  「あああああああって・・・・・・いやぁ、すごい声」

  「やかましい!!」

  「重症を負ってるとか言うけど、元気じゃないか」

  「いや、全身痛いですよ!!でも、丈一さんが許せないから・・・・・・い、いてて」

  「急に“いてて”とか言っても、白々しいだけだよ」

  「本当に痛いんですよ!!」

  「じゃあ叫ぶの止めなよ。うるさいし」

  「うるさいしって、あんたが怒らせてるんでしょ!!っていうか、さっさとどいてくださいよ!いつまでそこにいるんですか!?」

  瀞の怒りを軽々といなす丈一は、ずっと瀞に覆いかぶさっている。顔も身体も、10センチほどしか離れていない。

  「いつまでも」

  「冗談言ってないで、離れてくださいよ!人に見られたらどうするんですか!?変な誤解されますよ!」

  瀞は首を左右に振りながら叫んだ。この現状を誰かに見られてしまうと、恐るべき誤解を受けることになりかねない。

  しかし瀞の願いは叶わず、恐れていた事態が発生してしまった。

  「瀞、どうし、た・・・・・・」

  部屋のドアが開き、来てほしくない人間の筆頭にあたる、和虎が入ってきた。

  和虎は瀞と、瀞に覆いかぶさる丈一を見て、固まってしまった。

  「か、和虎隊長!これは、その、違うんです!誤解ですから!丈一さんが!俺は嫌なんだけど!」

  「瀞君、ここ、地下6階だよ。5階じゃなくて」

  「んなこと言ってるんじゃないですから!!」

  尚更疑惑が深まるような言い訳しか出来ない瀞。それを聞いた和虎は振り返り。

  「安心しろ、言わないから」

  そう一言告げながら、部屋から出て行った。

  「か、和虎隊長!!待ってぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

  瀞の悲痛な叫びは、和虎の耳に届かなかった。

  「はい」

  「どうも」

  ベッド脇のパイプ椅子に座った丈一が、ポカリスエットのボトルを差し出してきた。瀞はそれを、しかめっ面で受け取った。感謝の言葉にも、ありったけの恨みを込めて。

  「そんなに怒らなくてもいいだろ」

  丈一の言葉を無視して、冷たいポカリを一気に流し込む。渇き火照った肉体に染み込んでいき、心地よかった。味わいなれている甘みも、いつもより美味しく感じられる。

  それでも、丈一への恨みと、和虎の誤解を解かねばという焦りは、全く消えなかった。

  「怒りますよ。俺に対する和虎隊長のイメージが悪くなったじゃないですか」

  「そんなふうに、他人の評価ばかり気にしてたら、何もできないよ」

  「それはそうですけど、そういうことじゃなくて。誤解は解かないといけないでしょ」

  「確かに、和虎君に嫉妬されると、怖からなぁ」

  「嫉妬とかなじゃくて・・・・・・もういいです」

  自分より一枚も二枚も上手な丈一に文句を言っても勝ち目はない。これ以上からかわれないよう、瀞は話題を反らすことにした。

  「それよりも、丈一さん。聞きたいことがあるんですが」

  「あの戦闘がどうなったか、だろ?」

  丈一は、待ってましたと言わんばかりに身を乗り出した。緩んでいた表情が引き締まり、かつてBATの説明をした時と同じ顔つきになる。丈一と会った回数は少ないが、この顔は忘れない。瀞が好きな顔つきだ。

  「安心してくれ。それを話に来たんだ」

  「丈一さんが、直々に、ですか」

  「話す内容が、ちょっと重要だからね。戦果報告以外にも、色々と言わなきゃいけないことがある。あと、任務の都合で07基地の近くに、たまたま来たから」

  「そうだったんですか」

  「ちょっと長くなるけど、黙って聞いてくれよ」

  瀞も背筋を伸ばし、心身を引き締め丈一の言葉に耳を傾けた。

  聞きたいことは山ほどある。だが、急かさず落ち着いて聞いていこうと思った。丈一なら、ちゃんと順を追って話してくれるはずだから。

  丈一にからかわれたことは、かえって良かったかもしれない。緊張が程よく解けて、冷静になれた。丈一のことだから、そこまで考えての行動だったのかもしれない。

  最も知りたいことは、同時に知ることが怖いとも思う。だが、どんな結果であろうと聞かなければならない。

  1分前とは打って変わって室内の空気が張り詰めた。

  瀞の唾を飲み込む喉の音の後、丈一の口から落ち着いた声が流れ始めた。

  同刻、BAT07基地地下5階Fブロックにて。

  廊下を歩く職員たちに混ざり、風丸は一人、松葉杖をつきながらゆっくりと進んでいた。

  「いつつ・・・・・・」

  戦闘から3日が経過したが、切り裂かれた左足と被弾した右肩はまだ完全に塞がっていない。和らいできたものの痛みはまだ続いている。服装はシャツと短パンだが、体には包帯も巻かれているため入院中の患者のような姿だ。

  それでも風丸は、目的地へと向かって歩き続けていた。

  「大丈夫か?」

  風丸の様子を見かねた若い警備員が、風丸に駆け寄ってきた。

  「あ、あざっす。でも、平気っすから。リハビリも兼ねてるんで」

  手を差し伸べてきた警備員に笑顔を返した風丸は、立ち止まらずに歩き続けた。

  表情は苦し気で、歩みは遅く弱々しいが、発した言葉は力強かった。

  「っふぃー」

  風丸は、苦労しつつ目的地である資料室に入った。

  木製の本棚が緩やかな弧を描くように並べられ、暖かみのある電球色の光に照らされている。床には緑色の絨毯が敷かれており、所々には洒落た形状の机や椅子があり、初めて訪れた者は図書館と勘違いしてしまうだろう。事実、休憩中にここで読書をするスタッフも多い。

  「すいませーん、この番号の本、探してるんですけど」

  風丸はカウンターに向かい、観葉植物の手入れをしている壮年の女性スタッフにメモを渡した。

  「はいはい」

  エプロン姿で微笑みかけてくる女性は、対キメラの特殊部隊の基地で働く人間には見えない。

  「あそこにいるんで、持ってきてくれませんか?」

  「分かりました」

  風丸がカウンターの付近にあるデスクを指さすと、スタッフは嫌な顔をせず本棚の方へ歩いて行った。資料の数は膨大だが、スタッフは本棚とジャンルの位置を完全に把握しており、資料探しは苦ではなかった。最も、部屋が広いため移動に苦労することになるのだが。

  「っと」

  風丸はデスクにつき、卓上にあったパソコンを起動させると、椅子の背もたれに体重を預けて一息ついた。

  (きっつー。脚と肩以外もいてーし。ガタガタじゃんか、俺)

  特に負傷した左脚と右肩の痛みが激しいが、強く殴られた顎や、負担をかけた右脚も痛い。疲労感も強く、居住区からここまでくるだけで息絶え絶えの状態だ。

  (喉渇いた・・・・・・でもここ、飲食禁止だし。飲食スペースまで歩くのもだりーな)

  白一色の天井を眺め、盛大なため息を付くと。

  「お待たせしました」

  優し気な声とともに、先ほどの女性スタッフが目当ての資料をデスクに置いた。濃い紫色の分厚いファイルの表紙には、“未確認2000”と書かれたラベルが貼られている。

  「あ、すんませ、ん?」

  風丸がスタッフに礼を言いつつ卓上に視線を向けると、資料と共にオレンジジュースの缶が置いてあった。

  「あまり無理しないようにね」

  自分に向けられた優しさと労りが込められた微笑みが、風丸には聖母像のように見えた。

  「うっわ。マジでありがとうございます。カラカラで」

  ハイエナの顔が見せる無垢な笑顔に、スタッフの女性は母性溢れる笑顔を返した。

  「飲食スペースまで行くのが大変なら、ここで飲んでもいいから」

  「いいんすか」

  「ええ。科学者の人たちも、堂々とコーヒー飲んだりしてるんだから」

  「本当に、ありがとです」

  心の底から感謝を述べた風丸だったが。

  (マジ嬉しい・・・・・・助かるわ。この人がおばちゃんじゃなくて、美人で巨乳の女の人だったらもっといいけど。あと、オレンジジュースじゃなくてコーラならな)

  本心までは言わなかった。

  「ぬぅぅ・・・・・・くおっ!」

  肩の痛みに耐えつつ、渾身の力を込めて缶ジュースを開けた風丸は、女性が届けてくれた資料を開いた。

  (確か・・・・・・こいつだ!)

  ページをめくっていき、目的のキメラを見つけて手を止める。

  「バルバトス・・・・・・」

  風丸は、そのキメラに名付けられた仮の名称を呟いた。

  (発見は2000年が初めてで、それ以降の目撃例は2、3年くらいか。木や槍で作った武器を投げつける。骨格は人型、身体能力は獣人と同等と思われる、と)

  バルバトスと名付けられたキメラの発見例や戦闘データを読んだ風丸は、隣のページに目を向けた。そこには、バルバトスの想像図とされる絵が掲載されている。

  骨格は人型で、深緑色の体毛で全身を覆っている。胴体は分厚く四肢は太く、大きな手は木でできた槍を握りしめている。顔は、どことなくゴリラに似ていた。

  (本物は大分違うけどなー)

  風丸はジュースを一口飲み、パソコンに体を向けてマウスを握った。

  (確か、ここだっけ)

  目的のフォルダを選択し、数日前に情報が更新されたばかりのファイルを開く。

  「うっ・・・・・・」

  濃い緑色の乱れた長髪。樹木を思わせる硬質な薄緑色の皮膚。逆三角形の輪郭についた薄い両目と縦に長い口。

  人の骨格でありながら異形の姿をしたそれは、紛れもなく先日の任務で死闘を繰り広げたキメラだ。

  植え付けられた恐怖が蘇り、傷口の痛みが増して胸が苦しくなる。冷や汗がにじみ出てきて、呼吸も苦しくなってきた。

  (落ち着け・・・・・・深呼吸・・・・・・)

  3度大きく深呼吸して、ジュースで喉を潤した風丸は、改めてキメラを、バルバトスを見据えた。

  (改めて見てみると、ホラー映画に出てきそうだな、こいつ)

  風丸は身震いしながら別のウインドウを開き、ディスプレイに表示されたバルバトスに関する情報を静かに読み始めた。

  バルバトス。

  初めてその存在が確認されたのは、2000年の初夏のことだった。

  四国の山中にて、猪や鹿の惨殺死体が多数発見される怪事件が発生した。死体は前日のように発見され、更には麓の村の住民や登山客までもが行方不明となり、数日後変わり果てた姿で発見された。

  怪物を見た、という住民の情報を得たキメラはBAT08部隊を出撃させた。08部隊は12体のゴブリンを発見し、討伐に成功する。

  しかし、帰還しようとしたその時、林の奥から木でできた槍が飛来し、隊員の右脚を貫いた。

  その後、当時の08部隊隊長が単独で射手を追跡するが取り逃がしてしまう。射手は木から木へ飛び移りながら高速で移動し、時折木の槍や石のブーメランを投擲してきたため、08部隊隊長は回避するだけで精いっぱいだった。

  微かに射手の姿を見ることはできたが、骨格が人に近いということしか分からなかった。

  その後、その射手と同様と思われるキメラは度々目撃され、バルバトスと呼ばれるようになり、“未確認キメラ”のファイルに登録されることとなった。

  (この情報って、前の情報とあんまり違わないじゃん)

  画面に表示されているバルバトスの最新データを読んでいた風丸は、未確認キメラのファイルに視線を移し、更新前のバルバトスのデータを読んで見た。

  容姿は大きく異なっているが、戦闘データや使用武器に大きな差はない。

  (バルバトスの情報って、ちゃんと調べれば、知ることができてたんだなー・・・・・・)

  風丸は背もたれにもたれかかり、体をそらして天井に顔を向けた。

  すると目の前に、天井でなく虎の顔があった。

  「ぎゃー!」

  想定外の光景を見て、風丸は驚愕し絶叫を上げ。

  「いっっっ・・・・・・てー・・・・・・・」

  傷口に走る痛みのあまり動けなくなった。

  「ほら」

  「あざっす」

  和虎に差し出されたコーラの缶を受け取った風丸は、半分近くを一気に飲み干した。

  「っかー!」

  口内で炭酸が弾け、痺れと共に甘味が広がり、渇いた体が潤っていく。その感覚に酔いしれつつ、風丸は口を拭って和虎に礼を言った。

  「ありがとーございます!やっぱ疲れたあとはこれに限るっすねー!」

  「俺はビールの方がいいがな」

  「俺はまだ未成年っすからね」

  「しかし、重症の体で炭酸を飲んでいいのか?」

  激痛に悶える風丸からコーラを求められた和虎は、付近の自動販売機でわざわざ買って来たのだった。

  「え、いや、そこは別によくないっすか?悪化とかしないっしょ。まー、健康に良いってわけじゃないかもしれないけど。ネットで調べます?」

  「そこまでしようとは思わん」

  「ですよねー。ま、心的にはいいと思うんで」

  風丸は再びコーラを飲み、隣のデスクに付いた風丸の方を見た。自分と違って、体のどこにも包帯を巻いていない。半袖シャツから出ている太い右腕にパッドが1枚貼られているだけだ。

  「和虎隊長も、なんか調べに来たんすか?」

  格の違いを実感しつつ質問すると、和虎は首を横に振った。

  「お前の見舞いに来たんだ」

  「あ、そーだったんですか」

  「看護師に聞いたら、ここだと教えてくれたからな」

  「そーいや、資料室に行くって教えましたから。すいません、ちょうど病室にいなくて」

  「気にするな。さっきは瀞の病室にも行ったが、意識が戻っていたぞ」

  「お、そーですか!いやー、先生からは大丈夫って言われてたけど、やっぱ起きないと不安ですよね!」

  「そうだな」

  和虎は頷くと、風丸が見ていた資料に視線を向けた。

  過去に討伐されたことがなく、目撃情報のみで正確なデータがないキメラの情報が纏められた資料だ。そのファイルに登録されているキメラは、“未確認キメラ”と呼ばれている。バルバトスも未確認キメラとしてファイルに登録されていたが、風丸達と戦い討伐され、正確な戦闘データが記載されることになった。

  「バルバトスについて、調べていたのか」

  吉報を聞き微笑んでいた風丸だったが、一転して表情を曇らせた。

  「はい、ちょっと」

  和虎は次に、パソコンに表示されたバルバトスの最新データに目を向ける。

  「過去の現在のデータを見比べて、どうするんだ。反省や研究だけなら、最新のデータを見るだけでいいだろう」

  「いや、そうじゃなくて」

  風丸は資料を閉じ、視線を下に落としたまま小さな声で感情を吐き出し始めた。

  「調べてみたら、未確認のキメラが書かれた書類に、バルバトスのことが書かれてるんですよね」

  「ああ。目撃情報はあったからな」

  「思い出したんですけど、座学でもちょっと触れてましたよね」

  獣人兵士の訓練課程には当然座学もあり、その中にはキメラに関する学習もある。主に出現したことがあるキメラの生態と戦法、注意点や攻略方法を兵士に教えているが、未確認キメラの情報を取り上げることもある。

  「俺、座学苦手だから、あまりちゃんと聞かなかったんですよ」

  和虎は口を挟まず、黙って風丸の告白を聞いた。

  「試験で点数が低いと追試があるから、一応全部のキメラの情報は頭に入れていたけど、未確認キメラはちゃんと把握していなかったんで・・・・・・」

  「そうか」

  風丸の口が停まると、和虎は続きを促すように相槌を打った。

  「だから、考えちゃうんですよね。もっと未確認キメラのこと勉強しておけば、もっと安全に戦えたのかなって。亮太に、あんな危ない思いをさせずにすんだのかなー・・・・・・」

  「確かにそうかもしれない。だが、任務で仮定の話をしたところで意味はない」

  「かてい・・・・・・家の話が何で出てくるんですか?」

  「そっちの“家庭”じゃない。もしこうしていれば、とか、そういう意味の“仮定”だ」

  「あー、はいはい」

  「もし勉強していれば。そんな後悔をしたところで、結果は変わらない。お前は勉強を怠り、その結果が今だ」

  和虎は、傷だらけの風丸の姿を顎で指し、厳しい口調で言い放った。

  「そっすね。もっと未確認キメラの勉強をしていれば、槍が飛んできた瞬間、こいつはあの時資料で読んだバルバトスかも、って、気づけたかもしれないし」

  「気づくことができれば、対策も考えることができる」

  「そうすれば、こんなことにはならなかった、とか考えたりしちゃって」

  重症を負った風丸はベッドの上で、激痛に苦しみながら自身の勉強不足を激しく後悔していた。

  勉強など面倒くさい。トレーニングを積んで強くなればいい。どんなキメラが出てきても、獣人なら勝てるはず。

  怠惰と自惚れによって学習を軽視し、初対面のキメラ相手に上手く立ち回ることができず、重傷を負った自分が情けなくて仕方がなかった。

  それが原因で、亮太にまで危機が迫ってしまったと思うと、自責の念は倍増した。

  「要は、戦闘を舐めていた、ということだな」

  「ですね」

  認めたくないことだが、和虎から告げられた自身の甘さを風丸は認めた。

  「だが、さっきも言ったが仮定は無意味だ。もちろん、同じ失態を犯さないよう反省は十分にすべきだが、いつまでも後悔をするんじゃない。そんな暇があったら、勉強をしろ。キメラに関する情報量は多いが、全て頭に叩き込んでおけ」

  和虎は、風丸が飲んでいたコーラの缶を取り、喉を鳴らしながらそれなりの量を飲んだ。

  (あ、俺の・・・・・・)

  気落ちした風丸に、和虎は申し訳ないという気持ちを一切持たず、再び鋭い視線を風丸に向けて言い放つ。

  「獣人は無敵じゃないんだ。戦いの前に、しっかりと備えておけ」

  「はい」

  「身体能力や技能だけじゃない。知識も武器になる」

  「身をもって分かりましたよ。これからは、ちゃんと勉強します」

  風丸は苦笑しつつ、和虎が残したコーラを一口飲んだ。

  そして、笑顔を消し、真剣な眼差しを和虎に向けた。

  「だから、和虎隊長」

  「ん?」

  「その・・・・・・」

  風丸は一度開いた口を閉じ、残ったコーラを一気に飲み干して、和虎に言った。

  「俺を、辞めさせないでください。07部隊に、獣人兵士として残してください」

  和虎は、風丸の双眼をじっと見つめ返した。声も目つきも力強く、確固たる意志を感じ取れた。

  ベッドの上で風丸は、後悔と自責以外に抱き続けていた思いがある。それは、獣人兵士を辞めさせられるのではないかという不安だった。

  風丸は今、恐怖のせいで動きが鈍るという欠点を抱えてしまったために、戦果次第で獣人兵士としての資格を剥奪される状態に陥っている。重症を負ったことで、自分の印象が更に悪くなったのではないかと思うと気が気ではなかった。

  「勉強に励むあたり、やる気はあるようだな」

  「もちろんっす!」

  「だが、やる気だけではどうにもならないこともある」

  「でもそれは、これからの俺の戦いを見て判断してほしいっつーか。お試し期間的な感じで俺を使って・・・・・・」

  和虎は、不意に風丸を睨みつけた。

  「“試す”つもりか。実戦で」

  「え、あ、いや、その・・・・・・」

  「実戦は、お前がちゃんと戦えるかどうかを確認するための場ではない。前にも言ったが、不安要素を抱えたままのお前を実戦に出すわけにはいかない。お前だけじゃないんだ。仲間や市民にも危険が及ぶ!」

  「分かってます!マジで身に染みましたから!」

  和虎の怒号を聞いても、風丸は引き下がらなかった。

  「今回の任務でも、俺、また死にそうになりましたから。それに、あそこに住んでた人たちや、08部隊も・・・・・・」

  風丸は視線をパソコンに移し、マウスを操作した。画面には、四人の獣人兵士が表示される。狼に熊、エゾリスにカメレオンだ。

  「順番が変わっていたら、俺たちがこうなってたんですよね」

  「そうだな」

  戦場となった区域の捜索を行ったところ、08部隊の獣人兵士、全員の遺体が発見された。同時に、彼らが掃討したバールにバルバトス、カマドウマの亡骸も。

  これらのキメラは付近の山中に潜んでいたらしく、その数は膨大で100を超えていた。08部隊の隊員たちは健闘したものの、その圧倒的な物量の前ではどうすることもできず、全滅してしまった。

  隊長である狼の奮闘は特に凄まじかったようで、遺体の損傷は激しく、さらに周囲はキメラの死体だらけだった。最後はバルバトスに倒されたが、死の間際にバルバトスの背中に深々とナイフを突き立てた。その一撃が、風丸と亮太の命を救うことになるのだが、彼は知ることなく息絶えた。

  「08部隊がキメラの数を減らしていたからこそ、俺たちは全滅せずにすんだ。それに、08部隊との連絡が途絶えたという事実があったからこそ、03部隊も来てくれたからな」

  「ですよね。マジで死んでしまうことがあるんだって、実感しました。自分も、仲間も、周りの人も・・・・・・しかも、あんなに酷いやり方で・・・・・・」

  08部隊副隊長の惨殺死体を思い出した風丸は、表情を曇らせた。あの光景を思い返せば、自分の死をリアルに想像出来てしまう。

  「でも、戦う理由ははっきりしました」

  風丸は再び和虎を見返して、凛とした表情で言った。

  「亮太を助けようって思ったら、俺、すっげー頑張れました。一人だったら、マジで無理だったと思います。怖くて動けくて、殺されてたと思います」

  風丸は当時の記憶を振り返り、言葉を続けた。亮太を守ろうと奮戦したあの時の闘志を思い出し、胸に宿せば、怖い顔で見つめてくる和虎が相手でもしっかりと自分の意思を伝えることができた。

  「亮太が無事だったって聞いたとき、俺、めちゃくちゃ嬉しかったんです。そして、このために戦ってるんだなって思いました。俺がキメラをぶっ倒すのは、やっぱ、人を助けるためなんだなって。直接亮太を守って、それが分かったんです」

  和虎は何も言わず、風丸の言葉を黙って聞いていた。

  「それで、人を助けるために戦うことって、超いいことだと思うんです。これからも、続けていきたいんです。死ぬかもしれないけど、それは勉強とトレーニングで頑張るから。だから、お願いします。獣人でいさせてください」

  風丸は、和虎に向かって頭を下げた。

  「顔を上げろ。お前の意思は分かった」

  和虎は、意思が込められた風丸の目を見つめ返して言った。

  「お前が兵士を続けられるかどうかは、俺の一存だけでは決められない。だが、お前の意思はしっかりと上層部に伝えておく」

  「お願いします」

  「個人的にも、俺はお前と戦いたい」

  「・・・・・・はい!」

  和虎は小さく笑い、分厚いファイルを顎で指した。

  「だから今は、勉強しておけ」

  「了解っす!」

  「他のファイルを持ってきてやるからな。先ずは、全ての未確認キメラのデータを叩き込め」

  「す、全ての、ですか?」

  「当たり前だ。同じ後悔はしたくないだろう。安心しろ。未確認キメラの情報はたったの150件くらいだ」

  そう微笑む和虎は立ち上がり、本棚の方へ歩いて行った。

  「150くらいって・・・・・・」

  これから始まる勉強地獄の重圧に押しつぶされそうになった風丸は、コーラの缶を取り、しかしそれが空であることに気付き。

  「和虎隊長!コーラのお替りも買ってきて!」

  和虎の背中に遠慮なくお願いをした。和虎は気を悪くせず、手を振って返事をした。

  傷だらけの体で、ナイフを振ることさえ叶わない。

  それでも、戦いに備えることは出来る。

  知識という武器を蓄えて、今よりもっと強くなる。

  獣が爪を研ぐように。

  風丸は知性を磨いた。