ライカンスロープ 第20話

  空も、道も、建物も、全てが灰色で構築された空間。その一角に、刀を手にした飴色の犬がいた。

  直方体の無機質な建物の陰に身を潜め、周囲を油断なく見渡している。ピンと立った耳と湿った黒い鼻の感覚をも研ぎ澄ませ、周囲に潜むであろう対戦相手の居場所を探っているのだ。無意識のうちに、打刀の柄を握る手に力を込められていく。

  そう、相手は近くにいる。無機質な灰色の世界を彩る、危険な存在が。

  「瀞」

  犬は一人ではなかった。犬の背後には、純白のカモシカがいた。犬の背後に立つ彼女は、愛用のアサルトライフルSIG SG552を構え、彼の死角を補うように周囲を見渡している。草食動物特有の広い視野を最大限に活用して。

  「ああ」

  カモシカに小声で話しかけられた犬は、同じく小声で答えた。

  「匂いが残ってる」

  「辿れる?」

  「もち。ただ、誘いかもしれねえな」

  「うん」

  「でも、行かねえと。空は援護してくれ」

  「分かった。上から狙うから。気を付けてね」

  「ああ」

  空は音もなく跳び、10メートルはあろう建物の屋上に着地した。そして、すぐに匍匐の姿勢で屋上の隅まで移動し、これから瀞が進む先を見据え、ライフルを構える。

  (もういいな)

  相方が援護の準備を整えたと判断した瀞は、建物の影から身を乗り出し、壁に沿って北へと歩き始めた。自分には優秀な射手がついていると思うと、いくらか恐怖は柔らいだ。

  (どこからでもかかって来やがれってんだ)

  仲間に見守られ、瀞は臆することなく灰色の世界を突き進んでいった。

  -------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

  無機質な灰色の世界とは対照的な、濃い緑に覆われた樹海の中に瀞はいた。

  時刻は深夜0時を回り、月の光も出ていない。それでも瀞は夜目を光らせ、嗅覚を頼りに緑の道を進んでいた。

  戦闘服や飴色の体毛には泥による汚れが目立ち、その歩みは疲労により普段よりもはるかに遅い。

  しかし、それを隠そうとするかのように、気迫を込めた視線で周囲を睨み、緩みそうになる緊張感を気力で維持し、孤独な行軍を続けていた。

  (ん・・・・・・)

  すると、草と土の匂いの中から、鋭い嗅覚が異質な香りを拾い上げた。

  (鉄の匂い・・・・・・あそこか。五人だな。)

  前方、30メートルほどか。おそらく、武装した兵士が潜んでいる。暗闇の樹海でギリースーツを着こまれては、目で捕らえることは難しい。だが、犬の能力をより強く引き出せるようになった瀞は、その存在を匂いで捕らえることが出来た。

  瀞は構わず前進を続けた。下手に脚を止めると、待ち伏せを察知したことを気づかれてしまう。

  (待ち伏せの兵士だけじゃねえな)

  更に嗅覚を集中させると、待ち伏せをしている兵士の前方にスタングレネードのトラップが仕掛けられていることも分かった。訓練用の地雷もあるようだ。

  (獣人が丈夫だからって、訓練でもかなりのモノを使うからなぁ)

  罠と兵士の場所を数を確認し終えた瀞は、打刀を握りしめた。

  罠をすり抜けて接近し、近い敵から順番に、一刀で切り伏せていく。高速で駆け抜ければ、敵の銃撃は当たらない。

  イメージを固めた瀞は、心身の準備を整え、右足を前に踏み出した。

  この足で地を蹴り、一気に加速するつもりで。

  だが。

  (いっ!)

  瀞は右脚を空中で止めた。

  足を下ろそうとした地点に、何かある。

  目を凝らしてみてみると、それは細いワイヤーだった。

  (草木の匂いしか・・・・・・あ、上か!?)

  付近の樹木を見上げると、蔦が巻き付いた丸太がぶら下がっている。クッションはついているが、あれが直撃すると無事では済まないだろう。

  (鉄の匂いがしないトラップ・・・・・・・キメラも使うもんな、こういうの)

  間一髪で罠に気付いた瀞は、ワイヤーを踏まないように気を付けて右脚を踏み出し、そこから一気に加速した。地雷やワイヤーを避けて高速移動し、最も近い敵の側面に回り込む。

  「うおっ!?」

  そして、驚く敵兵士から銃を向けられる前に、胴へ刃引きした刀を打ち込んだ。

  直後、潜んでいた兵士たちが樹木の陰から姿を現し、小銃での銃撃を開始した。

  訓練用のペイント弾を避けつつ、瀞は敵へと向かっていった。

  キメラは森林や山中に潜むことが多いため、戦闘もそこで行われる確率が高い。故に、樹海を進軍する実戦形式の訓練は重要視されている。正に瀞は、その訓練の真っ最中だった。必要最低限の装備を持ち、敵の攻撃に警戒しつつ、目標地点へ向かっている。

  進軍中はBATの機動隊員たちが敵役となり、奇襲や待ち伏せを仕掛けてくる。隊員は全て人間だが、武器や罠を駆使し、高度な連携行動を取るキメラもいるため、この訓練は対キメラにおいても十分役立つ。

  また、機動隊員たちは非常に優秀な兵士であるため、相手にとって不足はない。しかも、獣人であるとはいえ瀞は一人であり、60時間以上も樹海の中で戦い続けているのだから、むしろ瀞たちが不利と言えるだろう。

  「ふっ!」

  五人目の隊員に一撃を打ち込み、瀞はようやく銃撃の雨から解放された。

  倒れた隊員たちは、無言で動かない。しかし、互いに訓練用の武器と防具を使用しており、何より手加減したため無事であるはずだ。怪我をしていたとしても、軽傷の範囲を出ないだろう。この訓練が初めてではない瀞はその点を熟知しているため、彼らの心配はせずに周囲を見渡し、他に敵がいないことを確認した。

  (さっきの罠は、危なかったな)

  先程、ワイヤーに引っかかりかけた自分の不注意さを反省し、瀞は再び歩き始めた。

  疲労と眠気、空腹と渇きで注意力が散漫になっているようだ。戦闘での動きも、やはり鈍っている。

  (あと何回くらい戦わされるんだろ)

  隊員たちの攻撃はいつ来るか分からないため、一時たりとも気を休めることは出来ず、睡眠も十分にとれていない。与えられた食料も、必要最低限の量しかない。

  要するに、休憩も睡眠も食料も水分も、全てが不十分な状態で戦わされているのだ。しかも、戦闘場所は深い森の中である。心身共に過酷な状況であり、自身の能力を存分に発揮できなくなっていく。

  だるい、眠い、腹が減った、喉が渇いた。様々な欲求が頭の中をぐるぐると回り、倒れてしまいそうになる。

  それでも、泣き言など言っていられない。実戦では、もっと過酷な状況に立たされることを瀞は知っている。だからこそ、訓練でこの状況を味わい、そして克服しなければならないのだ。

  (ま、キメラとの戦いと比べれば、余裕か)

  実戦で味わう苦痛と比較しつつ、瀞は時計を見て時刻を確認した。目標地点には、出発から72時間以内に到着しなければならないのだが、このペースなら十分間に合うだろう。

  安堵しつつ一歩踏み出した、その時。

  「ぐっ!!」

  胸部に衝撃が走った。

  その一撃は防弾具を貫き、骨を軋ませ肺と心臓を震わせる。

  耐えきれず、瀞は仰向けに倒れこんでしまった。

  すぐに右に転がると、自分がいた場所にペイント弾が命中する。

  (狙撃か!ちくしょう!)

  待ち伏せをしていた兵士は、五人ではなく七人だった。

  その内の二人は匂いで気取られぬよう、離れた場所で狙撃の準備を整え、一発を打ち込むチャンスを伺っていたのだ。

  前衛の五人を察知できたことで、後衛の二人に気付けなかった。注意深く嗅覚を活かせば気付けたかもしれないのだが、やはり疲労により注意力が散漫になっていたようだ。

  (くっそ!見てろよ、すぐに見つけて・・・・・・)

  肺への一撃で呼吸困難に陥った瀞は、木の陰で深呼吸を繰り返し、反撃のための体勢を整えようとした。

  しかし。

  「うっ!?」

  被弾により集中力が高まったためか、瀞は攻撃の気配を感じ取ることに成功し、その場に伏せた。

  直後、自分が歩いてきた方向からペイント弾が飛来し、木の幹に命中した。

  (まさか、つけられてたのか?)

  追跡には十分に注意してきたつもりだったが、いつの間にか後方の警戒も甘くなり、痕跡を残すような雑な歩き方になっていたようだ。

  後悔していると、無数のペイント弾が弾幕を形成し襲い掛かってきた。匍匐で移動していると、頭上を狙撃手の一発が通過した。

  (うわあああ!やべえええ!)

  静まり返っていた森は、既に銃声で賑やかになってしまった。

  どうすべきな悩む瀞の脳裏に、ある光景が浮かんだ。

  (あ、この状況・・・・・・あの時と同じじゃねえか!)

  瀞の脳裏を過ったのは、初陣の苦い経験だった。

  銃で武装したゴブリンたちの銃撃に合い、瀞はパニックを起こしてその場から走り出してしまい、孤立してしまった。

  (あの時、孤立はしたけど、銃撃からは逃げられたよな・・・・・・よし!)

  初陣での経験を基に、瀞は銃弾の雨から逃れる策を見つけた。

  (ダッシュで突っ切るしかねえ!)

  策と呼べるかわからないが、今の自分にはこれしかない。

  目にも止まらぬ速度で駆け抜け、その包囲から脱出する。

  (行くぞ!)

  瀞は意を決し、僅かに身を起こし、低い姿勢を維持して全速力で駆け出した。

  だが。

  「ぶっ!!」

  横っ面にペイント弾が命中し、飴色の体毛が青に染まった。

  早朝の樹海。

  夏が退きつつある時期であるため、朝日は程よい温もりを、空気は適度な冷気を提供してくれた。

  「あ゛ぁぁ・・・・・・」

  過ごしやすい朝であるのだが、連日の過酷な訓練のおかげで目覚めがいいとは全く言えなかった。

  疲れは消えず、眠気は払えず、体中が痛い。

  「ふあぁ・・・・・・」

  犬特有の大きな口を開いて大あくびをした瀞は、そんな体を引きずって草木をかき分け歩き、小川の前で跪いた。大股で跨げるほど狭く、膝ほどの深さの小さな川だ。

  (ひでえ面。キメラじゃねえか)

  水面に映る自身の顔を見て思わず苦笑する。目つきは悪く、眉間にしわが入り、とてつもなく不機嫌そうだ。

  そんなひどい顔を清流で清め、獣人の牙に対応した歯ブラシを使い、歯を磨き始める。今日は午前中の訓練がないため、ゆっくりと朝の日課を行うことが出来た。

  (午後はまた実戦形式の訓練だっけ。きっつい)

  そんなことを考えつつ奥歯を磨いていると。

  「おいーっす」

  隣にチーターが来て、力の抜けた声で挨拶してきた。瀞と同じく、ひどい顔の風丸だ。

  ただ、瀞と違い不機嫌そうな様子はなく、ただただ疲労の色のみが目立つ。

  「おう」

  歯磨き粉にまみれた口で挨拶を返す。

  「やっべ。超寝みー」

  「ああ」

  訓練初日は雑談を交わしていたのだが、その余裕さえ今はなかった。

  「おはよ」

  「うっす」

  すると、風丸の後ろから猿と犀、03部隊の志龍と純心が続いてきた。

  やはりと言うべきか、風丸同様に眠気から必死に逃れようとしている表情だ。

  「瀞が一番早いとか、珍しいな」

  「ああ、なんか目が覚めて」

  「顔、こえーよ」

  「お前も似たようなもんだぞ」

  志龍と純心とも挨拶を交わし、瀞は口をゆすいだ。その横で、風丸達も歯を磨き始める。

  「ぶっは」

  風丸も歯を磨き始めたが、急に歯磨き粉を噴き出して笑いだした。

  「汚ねえな、なんだよ」

  「いや、ちょ、昨日のあれが・・・・・・思い出されて・・・・・・青犬」

  風丸は体をぴくぴくと痙攣させながら、昨晩の光景を思い出して笑っている。最も、瀞にとっては思い出したくもないことなのだが。

  「笑うな。お前だって一発食らってしてたし、3分くらい時間超えたじゃねえか」

  「いや、だから、どっちがいい結果だったか、とかじゃなくて、ただ単純に、全身青色のお前が、急にツボに・・・・・・」

  すると、風丸に触発されたらしく、志龍と風丸も歯磨き粉を吐き出しながら笑い始めた。

  「確かに、今思うとあれ、傑作だったわ。間に合ったーって言いながらゴールして・・・・・・いや、間に合ったじゃねえよ。撃たれまくってるじゃねえか」

  「体中青くなってるくせに、ドヤ顔でゴールかよ。見たかったなー」

  「だよなー。あんときは笑う余裕もなかったけど」

  瀞は三人に言い返すのをやめた。三人相手では、何を言っても勝てるはずがないからだ。

  昨晩行われた訓練において、瀞は制限時間内にゴールすることは出来たが、大量のペイント弾を被弾してしまい、体中が青一色に染まってしまった。戦闘服はもちろん、飴色の体毛までも。

  瀞より早く、そして被弾も少ない志龍から馬鹿にされることは仕方ないとして、自分よりも遅かった風丸と純心に言い放題言われることは納得できないが、被弾数が最も多かった点を考慮するとやむを得ないのかもしれないと、瀞は自分に言い聞かせて怒りに耐えた。

  「そういや、今日の午後は何すんだろーな」

  「基地で演習かもな」

  風丸の問いに、志龍が答えた。

  「座学だったら、俺、寝るわ」

  「起きてても、頭に入らねーよな」

  瀞のつぶやきに、純心が応じる。

  BATの部隊間で、合同訓練が行われるようになり3か月以上が経過した。九州地方を守る07部隊は、中国・四国地方を担当する08部隊と月に2度、そして近畿地方を守る03部隊と月に1度合同訓練を行っている。

  今では03・08部隊の隊員たちとはすっかり顔馴染みであり、特に同世代の面々とは親しい間柄となっている。

  「まぁ、この森から出られるなら、どこでもいいけどな」

  そう言い、瀞は両手で川の水を掬い取り、口に含んだ。自然から生み出された冷たい清流を体に流し込むと、体内が浄化されて透き通っていく気分になる。

  しかし。

  「とう」

  天然水を味わう瀞の喉に、猫の指が命中した。

  「どぅふっ!!」

  たまらず口内の水を前方へ噴き出す瀞。しかし、瀞の喉を突いた者の姿はすでになく、水しぶきが宙を舞った。

  「危ないなぁ。急に水ぶっかけてくるなんて。ひどい」

  せき込んで気管に入った水を吐き出した瀞は振り返り、怒りを張り付けた顔を声の発信源に向けた。

  ニヤニヤと笑う灰色の猫の顔が目の前にあるかと思いきや、眼前に瞳孔が拡大したネコ科動物の目が“めきょっ”と迫る。

  「うおわっ!」

  驚いた瀞は後退し、石につまずき、川に向かって派手に尻もちをついた。

  『ぶはははははは!!』

  チーターと猿と犀の、不快な笑い声の三重奏を聞きつつ、瀞は不幸の元凶たる灰色の猫、03部隊副隊長である猫沢京香の笑みを見上げた。

  「ごめん。そこまで驚いでふっとぶとは思わなくて」

  全く反省していないであろう謝罪を述べ、京香は瀞に手を差し出した。

  「いやぁ、気にしないでください。もう慣れました・・・からっ!!」

  瀞はお返しとばかりに、痛みが残る右腕を全力で振り上げ、清流の塊を京香へ飛ばした。獣人の筋力を活用したため、水の量は多い。

  しかし、京香の姿は予備動作なく消え去り、水塊はそのまま突き進む。

  そして。

  バシャッ!

  小川へ近づいていた一人の獣人男性に直撃した。

  立派な体躯を誇る、筋骨たくましい獅子獣人に。

  「あ・・・・・・」

  その獣人が、03部隊隊長である獅子山氣雷であると分かった瞬間、瀞は身も心も凍り付いた。

  一方、消えた京香はいつの間にか、純心の肩の上に立っており、焦る瀞と怒る氣雷を面白そうに眺めていた。

  「瀞。てめえか」

  氣雷は真顔で、しかし恐ろしく低く重い声で瀞を見た。川に尻もちをついて腕を振っている瀞を見れば、犯人であることは一目瞭然。

  加えて、風丸も志龍も純心も、揃って瀞を指さしている。

  「あ、いや、その、これには深いわけが」

  瀞の言い訳を聞き終える前に、氣雷は凶悪な肉食獣の顔となり、瀞へ飛びかかった。シャツと短パンを濡らさないよう空中で脱ぎ去り、愛用の褌一丁の姿で。最も、もう濡れているが。

  「寝起きの俺に不意打ち仕掛けるとは、いい度胸じゃねえか!!」

  氣雷は瀞の背後を取り、チョークスリーパーを仕掛ける。

  (すっげえいい動き。獣みたいな表情だけど、動きは野性的というか理性的・・・・・・獣ではなく達人って感じだな)

  氣雷の寝技の上手さを感心している志龍の目の前で、親友の瀞は首を締め上げられていく。本気ではないが、それでも氣雷の攻撃は強力だ。

  「ぐ、や、やめて・・・・・・」

  「謝ってすむなら警察はいらねえよ!」

  「しかも、氣雷さん。汗くさ・・・・・・」

  「んだとお!?てめえ、この状況でよくもそんなこと言えるな!!」

  「ちが、犬だから、鼻がよくて・・・・・・わあっ!」

  水をぶっかけられ、悪口まで言われた氣雷はさらにヒートアップする。

  「おらぁ!」

  「んんー!」

  今度は、氣雷のヘッドロックが瀞に炸裂した。剛腕で頭を締め付けられ、頭部の痛みが瀞を襲う。さらには、鼻が氣雷の逞しい肉体に密着してしまい、鼻孔に入り込む汗の匂いがより濃くなる。

  「氣雷さん、寝技うめえな」

  「同情するぜ、瀞。あの痛みと匂いのくらっちまって」

  志龍と純心は、冷静に現場を観察している。

  「歯磨き粉忘れちゃった。風丸、貸して」

  「どーぞ」

  京香は純心の肩に乗ったまま、風丸から歯磨き粉を借りた。

  「ちょっと、何やってるんですか!?」

  氣雷がチョークスリーパーを解き、電気あんまを始めると、小川の対岸側から二人の獣が姿を現した。

  若いカモシカと、狸の獣人だ。

  カモシカは瀞と氣雷の一方的な取っ組み合いを見て驚いているが、狸は我関せずというように、それどころか嫌悪感さえ滲ませた呆れ顔を二人に向けている。

  「見ての通り、制裁だ」

  氣雷は電気あんまを続けながら言う。瀞の両足首をしっかりと掴んで動きを封じ込み、右足で瀞の股間に容赦ない連撃を与えながら。

  「が、あ、あ、あ、あ!!そ、ら、た、す、け、て!」

  股間に走る衝撃に耐え、瀞は必死に助けを求めた。

  かつて、同じ07部隊の隊員として共に戦い、現在は08部隊副隊長となったカモシカ獣人の空ならば、きっと自分を地獄から解放してくれると信じて。

  「制裁って・・・・・・やりすぎですよ!」

  「先に仕掛けてきたのはこっちだぞ!」

  「瀞はもう十分反省してますよ!これ以上は、パワハラとして上に報告しますよ!」

  「俺はお上なんざ怖くねえ・・・・・・が」

  氣雷はようやく足を止め、瀞を解放した。

  「これくらいにしておいてやるか」

  「瀞!」

  「ぐ・・・・・・そらぁ・・・・・・」

  小川に入り、自分へと駆け寄ってくる空の姿は、瀞には女神に見えた。

  訓練で疲れ切った体に、氣雷の猛攻を受けたのだから、無理もない。

  「大丈夫!?」

  「ああ・・・・・・なんとかな・・・・・・ほんと、やっぱり、空は頼りになるな・・・・・・あの馬鹿どもは、全然助けてくれねえんだよ」

  「馬鹿どもって、オレらのことか」

  「ひでえな、親友に対して」

  「自業自得だろーが」

  「上官的存在の私まで馬鹿扱いなんて、ひどいなぁ」

  風丸たちからの非難を無視しつつ、瀞は空の手を取りびしょ濡れになった体を苦労しつつ起こした。

  「こんな朝っぱらから、よくそんな馬鹿騒ぎなんて出来るわね」

  その様子を、狸の女性は冷めた目で見ている。

  「俺はしたくなかったんだよ。ハメられたんだ」

  「どじね」

  「うっせえ」

  「理理、お前も馬鹿騒ぎに参加したいんなら、大歓迎だぜ」

  純心の隣で歯磨きをしながら氣雷が言った。その肩の上には、いつの間にか京香が乗っている。

  「絶対しない。無理やり引き込んだりしたら、訴えるから」

  四月一日 理理(わたぬき りり)。狸獣人。08部隊の隊員であり、空の部下に当たる。

  全滅した08部隊の穴を埋めるため、通常よりも短い訓練期間を経て部隊に入ることとなった。それを危惧する声もあったが、兵士としての総合力は訓練生の中で最も高いと評価され、08部隊への入隊が決定した。

  体躯は空と同程度で細身、性格が表れているかのようにクールな印象を与える表情と、一般的な狸のイメージとは異なる容姿である。

  「あれ?和虎隊長と陸さんは?」

  「和虎隊長は、機動隊の人と話してたな。陸さんは、知らねえ」

  周囲を見渡してた空に聞かれた瀞はそう答え、付近の樹木の陰に入り、体を振るって水気を振り払った。

  「そーいや、寝床にはいなかったよな。いつも最後に起きるのに。迷ったのかな」

  「んなわけねえだろ。走りにでも行ったのか」

  「いや、溜まったもんを一人で発散しにいったんだろ」

  「お前じゃあるめえし」

  いやらしくニヤつく純心の頭を、氣雷がはたく。すると、氣雷の肩に乗った京香が口を開いた。

  「え、陸君、もうここに来てるじゃん」

  『は?』

  疑問の声を上げる男性陣。

  京香は無言で、川の上流を指さした。

  「どこにも・・・・・・」

  男性陣は京香の指さした方向を見て、そして気付いた。

  水面から、何かが出ている。し

  握りこぶしくらいの大きさで、深緑色の何かが。

  石かと思ったが、違う気がする。

  志龍は足元の石を拾い、それに向かって投げた。

  石は見事、それにあたる。

  すると。

  「いたっ」

  それは、水中からむくりと起き上がった。

  岩のような巨体を有する獣人が。

  『いっ!?』

  男性陣と、空が驚愕のあまり固まった。

  硬質な鱗に覆われ、水を滴らせながら起き上がったのは、ワニの獣人だ。

  「ふわあ。あ、みんな、おはよ」

  一糸まとわぬ姿で立ち上がったワニは、寝ぼけ眼であいさつを告げた。

  『うげえ!!』

  男性陣たちは、一斉に地面に向かってむせ始めた。

  「うっげ!きったねえ!」

  「口ゆすいだし!汗とか混じってるだろ!」

  「俺は飲んだぞ!汗どころか、垢も入ってるかもしれねえ!」

  「陸さん!なんで川ん中で寝てんだ!」

  「いつから本物のワニになりやがったんだ!」

  当のワニは、ゆっくりと歩み寄りながら頭をかいている。

  「いやぁ、ちょっと早く目が覚めて。で、けっこう寝汗かいてたから、水浴びしようって思って。それで、川の中に入ってたら、気持ちよくなって、うとうとして。鼻先は水から出してたから、息はちゃんとしてたから、安心して」

  「安心してじゃねえよ!俺ら、陸さんの出汁、飲んだじゃねえか!」

  「水中で寝るとか、本物のワニじゃねーんだから!」

  「しかも、あんな完璧に擬態すんなよ!カモフラージュ率たけえよ!」

  「もっと下流で寝てろよ!わざわざ上流に移動して、わざとか!」

  「むしろ溺れて流されろ!」

  男性陣からの総攻撃を受けても、ワニは優しく笑っている。

  「っていうか、陸さん!パンツはいて!」

  そこへ、空の悲痛な叫びが加わった。ワニに背を向けた空は、両手で顔を覆って必死に懇願している。

  「いや、大丈夫だよ、空。ワニになっている間は、ほら。こんな感じで、モノは収納されるから」

  ワニはそう言い、自身の股間部を指さした。そこには、男性器はない。代わりに、スリットと呼ばれる縦の切れ目がある。ワニ獣人の肉体でいる間は、男性器がその内部に収納されるようになっているのだ。

  「そういう問題じゃありません!!」

  「そう?あっはっはっはっは、まいったな」

  必死な空に対し、ワニはのらりくらりとした様子。温度差が激しい。

  「しっかし、いつ見ても不思議だな、陸さんの股間」

  「初めて見た時、女かと一瞬思った」

  「俺も。胸もちょっと出てるしな」

  ワニの股間を見て、瀞、風丸、志龍が感想を述べた。

  志龍の言う通り、ワニの胸部は逞しい大胸筋の上に、うっすらと脂肪が乗って膨らんでいる。

  「確かに。空よりもでけーもんな、陸さんの胸!ぶははははは!!」

  ワニの胸を指さし、純心が笑う。

  直後、空は一瞬で純心の眼前に移動し、無防備な左足へ強烈な下段蹴りを打ち込んだ。

  「んどっ!!いぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

  骨の髄まで痛みが走り、純心は倒れて呻きながら七転八倒する。

  「どうしてそんなこと言うの!?ばか!!ばか!!」

  苦しむ純心は、空の問いかけに答えることなど出来ず、ひたすら苦しみ続けた。

  その様子を、男性陣は爆笑しつつ、京香は笑顔で、理理は呆れ顔で眺めていた。

  和仁 陸(わに りく)。ワニ獣人。理理と同じく08部隊の隊員である。

  かつて獣人兵士を引退しBATの基地で清掃員として働いていたが、08部隊が全滅し隊員不足となったため、再び獣となり銃をとることとなった。部隊内では最年長で兵士としての経験も豊富だが、隊員不足を一時的に埋める役割であるため隊長職には就かず、若い隊員たちを支える存在として08部隊に在籍している。

  体躯は和虎や氣雷を凌駕するほどだが、朗らかな性格と表情はワニのイメージとかけ離れている。

  「そういやぁ、零さんはまだ寝てるのか」

  「うん。起こしても、全然起きなくて」

  瀞の問いかけに、怒りが収まった空はため息をつき答えた。

  「そ、それじゃ、起こしてやらねーとな」

  空の答えを聞いた純心は、痛みをねじ伏せて起き上がると、女性陣のテントの方へ足を引きずりながら歩いて行った。荒い鼻息を噴き出させながら。

  「懲りない奴だな」

  「ほっときゃいい」

  「単細胞犀」

  志龍と氣雷と理理は、やれやれと肩を竦めている。

  「しっかし、零さんってほんとに起きねーな。仮面ライダーとかプリキュアとか、寝過ごして見られないタイプだよな」

  「だね。モンスターファームとかも、観られなかっただろうなー」

  「え、そんなアニメ、あったっけ?」

  「土曜にね」

  「え・・・・・・あー、なんか、カービィをやってたような。その前?」

  「前の前かな」

  「生まれてねーな、オレ。てか京香さんも生まれてなくね?」

  「さぁ、どーかなー」

  雑談する風丸と京香。

  「ほら、陸さん、体拭かないと、風邪ひきますよ」

  「ありがと」

  「陸さんは脂肪が分厚いから、大丈夫だろ」

  パンツを吐いた陸は空からタオルを受け取り、瀞と並んで体を拭き始めた。引退後に運動量が減り、肉体がやや弛んでいることをからかわれても、陸は笑っていた。

  すると。

  ぎゃあああああ・・・・・・

  女性陣テントの方角から、純心のものと思われる悲鳴が。

  だが、獣人たちは全く驚かなかった。

  やがて、テントの方角から一人の獣人がゆっくりと歩いてきた。

  純心よりもはるかに小さく、京香同様に細身で華奢と呼べるほどの、小麦色の若いイタチが。まだ眠気を払えていないらしく、目はほとんど閉じられている。

  「ふわぁぁぁ・・・・・・はよ、みんな・・・・・・」

  「零さん、純心は?」

  眠気を払うべく清流で顔をゆすごうとするイタチは空の問いかけに、開いた目を向けて冷たく微笑み答えた。

  「大丈夫。生きてはいるから」

  太刀川 零(たちかわ れい)。イタチ獣人。08部隊の隊長である。

  関東地方を守る01部隊の副隊長を務めていたが、08部隊の壊滅を受け、新たな08部隊の隊長となった。他の部隊長と比べると若く経験も浅いが、ぞの実力は折り紙付きである。

  最も、普段の態度が非常にだらしないため、訓練や実戦の間でなければそれを実感することは出来ないのだが。

  「しゃんとしろよ、隊長のくせによ。いつか純心に襲われるぞ」

  笑う氣雷に対し、零は男性陣を見渡して言い返した。

  「和虎もいないじゃん」

  氣雷同様に、巨体で目立つ虎の姿がないことに気付いて。

  「隊長は、ちゃんと起きてますよ。さっき機動隊の人と話してました」

  「ふーん」

  瀞の答えを聞いても、零はどうでもいいと言わんばかりに歯を磨き始めた。

  「てか、副隊長のこと、誰も聞かねーな」

  風丸は、自身の部隊の副隊長を務める鷹、賢士のことを話題にあげた。任務や訓練以外の時間では団体行動を全く取らないため、誰も彼のことを気に留めないのだ。

  「どうせ、もうとっくに起きて、瞑想でもしてるんだろ」

  「瞑想っつっても、アレ、目をつぶって座ってるだけなんじゃねーの」

  「何か考えてるんだろ。精神を集中させて、禅の修行みたいに」

  「エロいことでも考えてんじゃねえの?」

  「いや、きっと賢士君は、そーゆーことを超越した域に達してるんじゃないかな」

  本人がいないのをいいことに、勝手に賢士についてあれこれ語る男たち。

  「陰口とは、感心しないな」

  「あ、隊長」

  それを止めようとするかのように、茂みの奥から虎の獣人、和虎が姿を現した。

  「さっきから、悲鳴が次々に聞こえてきたんだが」

  「俺も被害者の一人です。氣雷さんのせいで、ひどい目に遭いましたから」

  「お前、人のせいにしてんじゃねえよ。お前が水ぶっかけるからだろうが」

  「いや、だから、事件の真犯人は京香さんなんですよ」

  「あ、ひどい。猫のせいにして。瀞だけに」

  「はいはい、面白いですね」

  大体の事情を察した和虎は、京香をじろりと睨む。

  「またお前か」

  「まぁそう怒らないで。ネコ科はそういうことをいちいち気にしない種族なんだよ」

  「俺は、気にする」

  「はぅぅ・・・・・・イヌ科の肩を持つなんて、ネコ科の風上にも置けないね」

  「あいつは昔から冗談が通じない奴だったからな。最近はマシになったと思ったんだが」

  和虎に睨まれた京香は、氣雷の後ろに避難してしまった。

  (和虎隊長がいてくれると、抑止力になるな)

  瀞が安堵すると、和虎が表情を戻し口を開いた。

  「それより、午後の訓練の説明があったぞ」

  「何をするんです?」

  和虎は、その場にいる全員を見渡して言った。

  「紅白戦をするそうだ」

  「うっし」

  BAT08基地地下5階Jブロックにて、戦闘服を着こんだ瀞は刃渡り60センチほどの打刀を腰に差した。これで準備完了だ。

  03,07,08部隊の12名は、これから紅チームと白チームに分かれて実戦形式の試合を行うこととなった。他の部隊の隊員達とは、連携戦術を取るための訓練や一対一での試合は行ってきたが、このようなチーム戦は初めてだ。

  瀞は、自身の心が高揚していくのを実感していた。学生時代に味わった、体育や部活動での試合前の感覚に似ている。

  実戦のための訓練であり、遊びではない。また、訓練用の武器を使うとは言え、獣人同士が戦えば重症を負う危険もある。それでも、この訓練が楽しみであるという気持ちを消せないでいた。

  「こういう試合形式って初めてだよな」

  「そうだな」

  志龍は既に精神状態を、日常のそれから訓練時のものへを切り替えている。鋭い表情で棍を振っており、心身の準備は出来ているようだ。だが、表情にはわずかばかり笑みが浮かんでいる。どうやら、自分と同じくこれからが楽しみらしい。

  「あっちは隊長が二人もいるから、ちょっと心配だね」

  空はそう言いながら、ペイント弾を込めたマガジンをSG552に収めた。

  「その代わり、こっちには副隊長が二人いるじゃん」

  京香は愛刀を腰に差して微笑んでいる。反りがなく、刃渡りは40センチほどのそれは、忍刀を呼ばれている。

  「そうそう。それに、向こうには風丸と純心がいるからな。あの二人が足を引っ張るだろ。特に純心」

  「向こうのチームは、あっちには瀞があいるから大丈夫、と言ってるだろうな」

  「ちょ、隊長まで俺をからかわないでくださいよ!」

  和虎は太刀を背中に固定し、風丸と純心を馬鹿にする瀞をからかっている。いつもより表情が柔らかく、どうやら和虎も試合が楽しいらしい。

  「俺が一番、足引っ張りそうだなぁ。体がついてきてくれるかな」

  陸はぼやきながら、愛銃にゴム弾を込めていく。ポンプアクション式のショットガン、モスバーグM590だ。

  「俺らでカバーしますよ」

  「瀞はされる側だろ」

  「そんなことねえよ」

  瀞は志龍から距離を取り、居合の構えを取り、眼前に向かって鋭い一閃を放った。

  「やるからには勝たないとな」

  紅チームは和虎を隊長、京香を副隊長とし、瀞、空、志龍、陸がメンバーだ。

  白チームは氣雷を隊長、零を副隊長とし、メンバーは風丸、賢士、純心、理理となっている。

  隊員たちは左腕に、各々のチーム色のバンダナをつけている。

  「しっかし、よく作ったなぁ、こんなところ」

  陸は周囲を見渡して呟いた。

  瀞たちがいるのはBAT基地Jブロック内にある、訓練用の街である。市街地戦を想定した訓練のために、BATは基地の中に仮初の街を造ったのだ。建物は全て直方体で灰色、道路もほとんどが直線で街並みの7割は碁盤目状となっている。

  瀞たちがいるのは東にある広場で、8つの方向に道が伸びていた。一方、相手チームはこの街のどこにいるか分からない。探し出して強襲するか、あるいは待ち伏せして相手が来るのを待つか、作戦は自由だ。

  「そうですね」

  「本物の街でするわけにはいかないもんな」

  「でも、俺の故郷の田舎って、過疎化してゴーストタウン化してるとこ多いし、そこでやってもいいような気が」

  「そんなところじゃ、市街地戦の訓練にならねえだろ」

  「あ、確かに、ほとんど建物ねえや」

  「そろそろ始まるぞ。もう一度、確認する」

  和虎の一声により、全員が口を閉じて和虎に視線を向けた。

  「おそらく相手はチームを2つに分けるだろう。氣雷は仲間を三人引き連れて前進する。賢士は護衛一人と共に待ち伏せる、といったところだ。先ずは前進してくる氣雷のグループを叩く。こちらもグループを二つに分け、間隔を開けて移動する。相手と遭遇したらすぐに・・・・・・」

  ヴウウウウウウウウ・・・・・・

  不意に、機械的な音が和虎の声を遮った。

  音の発信源は北、ビルが立ち並んでいる方角だ。全員がそちらに目を向けると、無機質な世界を飛ぶ機械の群れがあった。

  「ドローン、だよな」

  「ああ」

  飛来するそれは、ドローンだ。BATの機動隊が所有しているもので、主に偵察やキメラの誘導に利用されている。

  10機のドローンは、人工的な羽音とともに編隊を組んで向かってくる。北から、南から、そして東西からも。しかもそれらは、機体の下に筒状の物体を取りつけていた。

  (まさか・・・・・・)

  その場にいる六人が同様の予想をした直後、その予想は現実のものとなった。

  ドローンに付いた筒状の物体から、40ミリグレネード弾が放出された。それらは獣人たちを取り囲むように地面に落下し、大量の白煙をまき散らした。

  「うぃ!!」

  白煙の正体はすぐに分かった。催涙ガスだ。

  瀞は目を閉じ、息を止めて白煙の中に突っ込んだ。しかし、ドローンたちは次々と催涙弾を撃ってくるため、数秒も経たないうちに周囲は催涙ガスで満たされてしまった。

  さらに。

  「ぐっ!」

  瀞の太腿に激痛が走った。ドローンの中には、グレネードランチャーにゴム弾を装てんした個体もあるのだ。

  足が止まり、催涙ガスを吸ってしまい、目も開けてしまった。

  「はぅ・・・・・・」

  こらえることなど出来ない。目からは涙が、鼻からは鼻水がどばどばとあふれ出てくる。

  このガスを浴びたのは、初めてではない。訓練生の頃、催涙ガスを浴びせられた状態で自己紹介をさせられた。実戦でガスを浴びても平静を保つためと言われたが、苦痛にさいなまれる瀞は“なるほど”と納得することなど出来なかった。

  しかし、その経験がついに活かされる時が来た。辛いが初体験の苦痛ではないため、耐えることは出来る。

  (皆、どこだ?)

  目を擦らずに僅かに開け、白煙の中で周囲を見渡すが味方の姿はない。催涙ガスとゴム弾の雨霰のせいで、落ち着いて探すこともできない。

  (くそっ!)

  瀞は涙と鼻水を垂れ流しつつ、全速力で駆け出した。とにかく今は、その場から離脱するしかないと判断して。

  「ふぅ・・・・・・」

  灰色の街の一角、2階建ての小さなビルの脇にて、瀞は大きく深呼吸をした。ようやく、ガスで麻痺していた嗅覚が戻り、視界も回復した。

  (ったく、とんでもねぇスタート合図だな)

  チームを分断させる強引なやり方に心の中で悪態を吐き、瀞はビルの陰から半身を乗り出して周囲の様子を伺った。

  味方も敵も、ドローンもいない。遠くからドローンの羽音が聞こえるが、近くにはいないようだ。

  (とりあえず、味方と合流しねえと。相手チームは、こんな風に分断してねえかもしれねえし。BATはそれくらいのこと、やってのけるしな)

  BATの訓練では、なんの前触れもなく妨害や不意打ちが襲い掛かってくる。今回のような仕打ちも、日常茶飯事だ。初めはこのことに腹を立てていた瀞だが、今では慣れてしまっている。何より、実戦では想定外のことが必ず起こると知った今、このような理不尽はむしろ必要であると理解していた。

  (さて、と)

  回復した嗅覚で付近を探ってみる。訓練と実戦を重ねた結果、索敵の範囲と精度は格段に向上した。

  (だれもいない・・・・・・人も武器も、機械も・・・・・・建物だけだ)

  暗闇の中で腕を伸ばすように、ゆっくりとその範囲を広げていく。建物に使われているコンクリートや木材、塗料の匂いばかりが肺を満たしていき、人や火薬、鉄の匂いは欠片もない。

  移動を始めようかと思った、その時。

  「お」

  よく知った香りが指先に触れた。

  相手チームのメンバーとの不意の遭遇に気を付けながら、瀞は匂いの方へと進んでいった。

  同刻、この町では珍しいカーブを描いた道を、志龍は慎重に進んでいた。

  相手チームの奇襲はもちろん、ドローンなどの無人兵器の攻撃やトラップの危険性もある。目を凝らし、耳を澄まし、四方八方に気を飛ばしてあらゆる攻撃に備えていた。

  (誰もいねえ。でも、風丸や零さんの脚ならもう遭遇しててもおかしくねえか)

  人を超える能力を持つ獣人には、常識は通じない。既に接近され、民家の陰や中、屋根の上から跳びかかってくるかもしれない。後を付けられている可能性もある。

  (純心や理理ならタイマンでぶちのめせるけど、他は無理だな。早く味方と合流しよう)

  既に地図で自身の位置は確認している。緊急時の合流地点へ志龍は進んでいたが。

  タタタタン!!

  丁字路を左折した直後、道の左右に並ぶ民家の窓から機関銃が飛び出してペイント弾を撃ってきた。

  志龍は弾を防ぎつつ後退し、丁字路の陰に隠れた。

  (ミニミか!?多分、遠隔操作されてるやつだな)

  微かに見えた銃の形状から、相手チームの銃撃でないと判断し、志龍は頭の中で地図を広げた。

  (強引に突破するか?出来なくはないだろうが、無理せずに回り込むか?)

  志龍の周囲には、警戒心という名の結界が張られていた。ドーム状に広がるそれに敵が触れれば、即座に志龍は反応し適切な行動を取るだろう。

  しかし、意識と視線が銃を備えた民家に向けられ、思考が進行ルートの検索を始めた瞬間、微かに結界の力が小さくなった。

  だから志龍は気付けなかった。

  その瞬間を狙い、500メートル離れた場所の民家の屋根から狙撃手が顔を出したことに。

  鷹の狙撃手はスコープのない狙撃銃を志龍に向け、すぐに引き金を引いた。

  顔を出してから引き金を引くまで、1秒もかからなかった。

  (こっちだと思ってたけど、違ってたかな?)

  愛用のライフル、SIG SG552を手にした空は、民家の陰から陰へ飛び交いつつ、はぐれた仲間を探していた。屋根の上を移動すれば早いが、敵に発見される危険も高くなる。もどかしいが地を進むしかなかった。

  (ビルの上から見渡そうかな?相手がいたら、そのまま狙撃も出来るし)

  民家よりも高いビルを見上げ、中に入ろうか迷ったその時。

  「空」

  名を呼ばれた空が振り返ると、他より一回り大きい二階建ての民家の脇に瀞がしゃがんでいた。

  「瀞、よかった」

  飛び上がるほど嬉しかったが、警戒は忘れず道の左右を確認しつつ移動し、空は瀞の元に駆け寄り同じように身を低くした。

  「他の皆は?」

  「私だけ」

  「そうか。ま、あんな嫌がらせみてえな攻撃受けたんじゃ、しょうがねえけど。でも、空だけでも合流できてよかった」

  「うん。ガスが充満して何も見えなくなったけど、最低でも一人は見失わないようにって、気を付けていたの。それで、近くにいた瀞が走っていったおおよその方向だけは、なんとか確認してたから」

  「なるほど、俺もそうすればよかったな・・・・・・でも悪かったな、和虎隊長や京香さんじゃなくて」

  「そんなことないよ。瀞でよかった」

  「まぁ、俺を一人にするのは危険だからな。足手まといだし」

  「そ、そういう意味じゃなくて!」

  「分かってる、冗談だよ!で、どうする、副隊長さん。指示してくれよ」

  「うん。二人で合流地点に向かいましょう。でも、もういつ相手チームと接触してもおかしくないから」

  「そうだな。遭遇した敵チームが一人だけだったら、俺たちだけで仕掛けるか」

  「もちろん、それも視野に入れて行動しましょう。でも、状況や相手に応じて攻撃するかどうか判断するから」

  「氣雷さんが相手だったら、二人がかりでも返り討ちだろうしな」

  「相手チームとトラップに気を付けながら進みましょう」

  「副隊長の狙撃にもな」

  「うん。瀞の後に私が続くから」

  「了解。じゃ、行くぜ」

  瀞は刀を握りしめ、民家の陰から踏み出した。

  後方に空がいると思うと心強く、また安心感もある。

  (空でよかった)

  瀞は背後の暖かさを感じながら、しかし気をしっかりと引き締め、灰色の街を歩き始めた。