灰色のむこうがわ 11 そのいち

  この世には神様という存在がいる。らしい。

  らしい、というのも、それは誰もあったことがないのだとか。なのに、とても偉くて何でも知っているらしい。全知全能、というやつだそうだ。いやなんだそりゃ。

  獣人とは違う存在らしいからお仲間なのかもしれないけど、それにしたってなんだかすごすぎる。なんでも生き物を生み出したのは神様らしいじゃないか。なんで俺との間にこんな差があるんだ。俺なんて死ねないだけだっていうのに。ずるくないか?

  もしそんな奴がいたのなら、俺がどうして生きているのかぜひ教えてほしいものだ。死ねなくなったことがあらかじめ決められていたことなら、なんでそうしたのか教えてほしい。

  きっと何かの手違いだったんだ、俺が死ねない体を持っているのは。もっと特別な奴がこの体を手に入れるべきだった。

  だって。こんな俺が生きていても、しかたないだろ?

  :::

  『カミサマってのはみんなの心の中に住んでてな、お前がいい奴だって、知ってるからみんなお前に良くしてくれるんだ』

  ふと、リッツが昔そう言っていたコトをフリッドは思い出す。

  彼の相棒……だったかは定かではないが、ミミズク獣人の男はよくそのカミサマとやらに祈りを捧げていた。聞けば彼は信仰者で、決まった時間に礼拝をするのが日課なのだとか。何かを信仰するという行為がフリッドにはピンとこず、熱心に祈りを捧げる彼を不思議に思っていた。

  

  じゃあリッツはどうなんだろうか。カミサマってやつ、信じてるのか。そうフリッドがオラウータンの彼に聞くと、彼は決まりの悪い表情をした後に「どうだろな」と苦しげに返した。

  フリッドにはわからなかった。散々実験体として弄り回されてきたこの身が、こうも大切に扱われる、その理由が。ヒトでなしのなり損ないに、笑いかける理由が。お前がいい奴だから──そんな理由だけで、優しくなんてされるだろうか。

  笑いかけてくれたあのヒトも、面倒を見てくれたあのヒトも。みんなある日を境にいなくなる。どれだけ探しても見つからない。あれだけよくしてくれたのに、あれだけ優しく接してくれたのに。まるで最初から存在しなかったかのように、いなくなる。

  久々にこの手を取ってくれた、あの狼でさえ。

  「……っ!」

  「フリッドちゃん」

  横から呼びかけられ、フリッドはとっさに振り返る。

  レッサーパンダの老女サルビアが、心配そうに顔を覗いていた。落ち込んでいるように思われたのだろう。穏やかに接しようと努める彼女の対応が、今のフリッドには少しつらい。

  「気分はどう? まだ、すぐれない?」

  「あ……その、へいき……です」

  「そう……」

  サルビアはまだ何か言いたげだったが、余計なお節介だと思ったのだろう。それ以上は何も聞かず、その場を黙って引き下がった。

  平気なわけがなかった。目の前でヒトが、それも狼獣人が、死んだのだから。

  

  狼獣人が駆け込んできた後、フリッド達は拠点としていたアパートメントから離れ、適当な建物へと身を隠していた。

  逃げる間、フリッドは何度も誰かが命乞いをする声を耳にした。もしあの場に残り続けていたのなら、次に死体となっていたのは自分たちだったかもしれない。そう思うと、うすら寒いものが込み上げてくる。

  アレはアイツなんかじゃない。サルビアに手を引かれながら逃げている間、フリッドは何度も胸の内で繰り返した。何度も何度も、そんなことあっていいはずがないと、アイツは無事なんだと、言い聞かせた。

  それで何が[[rb:誤魔化 > ごまか]]せたろうか。ヒトが死んだという事実は、変わりようがないというのに。

  「ったく、何故お前はこんな足手まといを連れてきたのだか」

  そう真底下らなそうに語るのはサルビアの夫であるレッサーパンダの老人。追われる状況に追い込んだのは他ならない彼等夫婦だというのに、いまだに彼はその[[rb:傲慢 > ごうまん]]な態度を崩さない。

  「何故って、関係ないヒトを巻き込んで平然としていられないでしょう?」

  「ハッ、お前のその高尚な精神で私達は余計追い込まれているワケだが」

  「貴方だって昔はそうだったでしょう? 何でそう邪険にするんです」

  「その結果がこのザマだからだろう! お前はまだ夢見心地でいる気か!」

  また、言い合いだ。フリッドはちらりと二人の言い合いを見つめ、ひっそりとため息をつく。

  拠点に転がり込んで来たときから[[rb:口喧嘩 > くちげんか]]の絶えない二人だったが、逃げ出してからはより一層激しくなったように思う。毎度騒ぎ立てられては蚊帳の外に放り投げられるフリッドだったが、こう何度もあっては[[rb:辟易 > へきえき]]としてしまう。巻き込まれて始まった逃亡劇だったが、このやり取りにフリッドはそろそろ限界を感じていた。

  まず、こうして争い合う場合ではないはずだ。どうしてだか知らないが、自分達は狙われている。それも、同じ獣人に。

  それならば協力することに全力を尽くすべきだ。きっとリッツだって、そうする道を選んだはず。なのにこうしていがみ合っていては、いつまで経っても現状は好転なんかしない。

  けれど。それなら自分は、どうすればいいのか。

  「あ、の」

  「なんだ[[rb:木偶 > でく]]の坊」

  「……あたり、見てきます。まだ追いかけてきてるかも、しんないし」

  フリッドの進言に、アライグマの老人はフンと鼻を鳴らして答えた。

  肯定と受け取ったフリッドは背を向け逃げるように去っていく。サルビアに止められたような気もしたが、きっと気の所為だろう。

  「戻ってこなくていいぞ」フリッドの背中に投げかけられた、老人のその冷たい態度のほうが、よっぽど酷く思えたから。

  [newpage]

  遠くの方で銃声がなっている。ヒトのいのちを奪う無慈悲な凶弾が、今もまた、放たれている。

  その発砲音に肩を震わせながら、フリッドはもぬけの殻と化した街並みを散策する。いつあの銃弾がコチラに放たれるのかわからない。それで死ぬことはないにしても、それでも怖いものは怖い。

  (アイツ、無事……だよな)

  ただ。そんなことよりも、もっと怖いことがある。

  今この惨状を、狼が知らないこと。そして、もしかしたらこの惨状のなか、戻ってきているかもしれないこと。

  あの助けを求める狼獣人が、彼なのではないか、と。

  「っ、違う」

  いくら忘れようとしても、その予感が付き[[rb:纏 > まと]]ってくる。助けを求める手が、今にも死にそうな表情が、今も目に焼き付いて離れない。もしかしたら彼なのではないか、そう思うと不安で仕方ない。

  アイツが助けてくれたから、こうして今ここにいるというのに。不義理を働いてしまった。自分のことを、優先してしまった。生きている価値のない、ただの死に損ないが。

  「……」

  これからどうしてしまおうか。戻るな、と言われてしまった。フリッドからしても、あの場に──サルビア達の元にいる必要が感じられない。あくまで連れて来られたから一緒にいただけ。流れで行動を共にしていただけで、強制なんかされていない。

  離れるメリットは沢山ある。責められなくて済むし、一度殺されてしまえば追いかけられるという心配もない。……痛みと記憶が飛ぶリスクを払う必要こそあるが。

  唯一の[[rb:懸念点 > けねんてん]]とすれば、それはサルビアのこと。何故かよく知らないが、彼女はとても良くしてくれた。こんなにも愚か者である虎を、甲斐甲斐しく接してくれた。その上で黙っていなくなるのは……きっと、悲しむことだろう。フリッドにとっても、それはつらい。

  「……イヤ、だなあ」ポツリ、フリッドが呟く。

  誰かに思われるということは苦しいことだ。いつか離れてしまうことを考えると、つらさがこみあげてくる。

  なぜヒトは誰かを思うのだろう。ただ苦しくなるだけのことを、なんで当たり前のようにヒトに行うのだろう。

  こんなしょうもない一匹の虎なんて、見捨てしまえばいいのに。

  「今、誰カ救いヲ求めまシタか?」

  「うわ出た」

  「ワタシに慣れてきまシタね……! イイ兆候デスヨ」

  「慣れたくなかったんだよなあ」

  背後から語り掛ける気配にフリッドはうんざりしながら答える。振り返れば案の定、毛むくじゃらの山羊獣人、ゴードンの姿。いい加減というべきか、どうやったら向かう先々で偶然遭遇するのか。呆れを通り越して感心すらしてくる。

  「それにしてモ、アナタも好き物ですネえ。自ら渦中に飛び込むナンテ」

  「一度も飛び込んだおぼえないが」

  「……あーハイ、そうでした。ワタシとしたことがウッカリ。こんな危ないトコによくいられますネ、と感心していたのデスよ」

  感心しているのはゴードンも同じようだが、フリッドだって居たくている訳じゃない。同じヒトに狙われて、死にかけるような思いなんて、どうやったって御免だ。一秒たりともいたくなんかない。

  ……けど、それならば疑問もでてくる。なぜ、この山羊はここにいるのだろうか。追ってきた、というならこうして出会うこともある、のだろう。けど彼が言う通り、今ここは銃弾飛び交う危険地帯。不死者でもない彼が留まるのはどうしてか。

  「なあ。なんでお前、ここにいんだ?」

  「そりゃまあご存知のトオリ、ワタシは悩めるヒトビトに救いを授けることを生業とシテいますノデ」

  だってワタシ、薬売りなんデ。そう、ゴードンはあっけらかんと答える。

  だとしてもフリッドには解せない。ヒトを救いたいからと言ってわざわざ危ない目に会おうとするものだろうか。もしかしたらはぐらかそうとしているのかもしれないが、少なくともフリッドには嘘をついているようには見えなかった。

  まあ、騙そうとしていてもフリッドにはそれが分かるはずもないが。

  「フフフ。わかります、わかりますよ。アナタ、悩んでいらっしゃるでショ」

  「それはそうだけど、お前みたいなのにわかられたくない」

  「またまた、水臭いデスねえ」

  「水にニオイなんてないだろ」

  「そうなんですガ話の腰を折られるト続き話せナイ」

  「話の腰……?」

  「ワザとですカ?!」

  話を散々折られ次第に凹み出すゴードン。商売人としてココまでペースを乱される相手というのもやりにくいことだろう。

  

  そも対話経験の浅いフリッドに慣用句を使うのが間違いなのだ。例えば、It's raining cats and dogs(激しい雨)なんて言われたとしよう。フリッドがどんな勘違いをするか、想像に難くないはずだ。言葉とは普段使い慣れているからこそ簡単に感じるだけで、意外と難しいものなのである。

  「まあいいでショウ。悩みを抱く方は山のようにいるでショウし」

  「へー」

  「いいですネエ殺伐としたトコというのは。救いを求める方ガ数多くいらっしゃる。風が吹けば桶屋が儲かりますガ、ワタシの場合は銃弾飛び交えば、ですかネエ」

  哀しいことですがネェ、そうひっそりと嘆くゴードン。けれどフリッドにはそんなもの耳に届かなかった。

  なんで、アイツは喜んでいる? こんなあっていいはずがないことに、なんであの山羊獣人は楽しそうなんだ?

  「なん、て?」

  「うン? こう殺伐としてイルと悩みを抱く方がおおくテいいですね、と」

  「お前ッ!」フリッドが急にゴードンに襲い掛かった。胸ぐらをつかみ、あらん限りの力をもって持ち上げる。その[[rb:豹変 > ひょうへん]]ぶりに、思わずゴードンも「ヒェ」と声を漏らした。

  「ヒトが死んでるんだぞ! お前、なんでそんな!」

  感じたこともない感情が、フリッドの胸を掻き立てる。何かに突き動かされるように怒鳴り散らしている。こんなことをしたいわけでもないのに、自分を止めることができない。

  このグラリと燃えるような感情はなんだろう。こんなもの許しちゃいけないという、今まで味わったことのない、苦しみは。

  ヒトに怒りを覚える。今までフリッドは、そんな感情を抱いたことがなかった。ただ流されるように、殺されつづけてきた彼には、そんなものが湧くはずなかった。

  「きゅ、急にどうなサイましタ。何かお気に召さないコトでも」

  「ふざけてんのか! こんなのいいことじゃない。こんなの、喜んでいいコトじゃない!」

  なおもフリッドの怒りは収まらない。ゴードンの、ふざけているようにも取れる片言が、フリッドの怒りをより強くさせた。

  殺しというものが正当化されていいはずがない。ヒトが死ぬことを、喜ぶべきではない。

  前にそれで苦しんだヒトと会った。トラビスという、猿獣人だ。

  あのヒトは苦しんでいた。ヒトを殺すことに。それが[[rb:普遍 > ふへん]]になってしまったまわりに。そんなもの認めていけないと、ずっと抗っていた。

  フリッドだって彼の苦しみをすべて理解したわけでない。けれど彼は、トラビスは最初、『僕はいいヒトなんかじゃない』と言っていた。仲良くすることを、許されることを、拒んでいた。

  ヒトを殺すのは悲しいことだ。誰かが死ぬのは、哀しいことだ。分かり合うことができるはずなのに、相手をすべて否定する行為が受け入れられてしまって、大切な友達すらその手にかけて。

  なのに、それがいいことだなんて。

  「おやおや、まあ落ち着いテ。ワタシも殺しハいいものだとおもっちゃいませんヨ」

  「嘘つけ。だってお前さっき」

  「ワタシはヒトに銃を向けたりしません。エエ、殺したい、など末恐ろしい」

  「でも」言い返そうとするフリッドにゴードンは続けて言う。

  「ヒトを殺すことを厭わない方も大勢いらっしゃいマス。知ってマスカ? ヒトは正しく生きられない生き物だト」

  淡々と、冷ややかな物言い。冷水でもかけられたかのように熱が引いていく。ゴードンが放った言葉の衝撃に、フリッドはつい口を[[rb:噤 > つぐ]]んでしまう。

  そんなことはないはずだ。間違いなんて犯そうとしたくない。少なくとも、そんな獣人じゃない者を、フリッドは知っている。

  けれど。だとしたらフリッドはなぜ殺され続けていたのか。トラビスが経験したことは嘘だったのか。こうして起こっている惨状が否定できない以上、認めざるを得ないのではないだろうか。悔しいことだが、ゴードンの言う通りなんじゃないか。

  「ワタシ達、哀れな生き物。全能ぶっているだけの、おバカな生き物。争わなくちゃ生きていけない。奪わなきゃ生きていけない。

  フ、フフフ。嗚呼、カワイソウに。こんなにも困った疾患持ちが大勢いるとは」

  「なんで、嬉しそうなんだよ」

  「だってエエ、そうですよ。嬉しい、ワタシは嬉しいデス! だってコンナにも救えない生き物なんデスから。他に喜ばしいコトなんて、エエ、ありませんとモ!」

  気持ち悪いと、フリッドは率直に思った。胸元を掴まれ吊り上げられている山羊獣人のことが。

  不快感とおぞましさが込み上げる。見た目が化け物なら、怖いと感じて当然だろう。殺しても生き返るなら、気味悪がられるのも……無理はない。

  でも彼は違う。今挙げたどれにも属さない。

  「おかしいよ、お前」フリッドが口にする。これは会話が成立しない。獣人のような何かだと。

  「オカシイ? オカシイのはワタシじゃありマせん、皆さんの方デスよ」

  そう答えるゴードンは上機嫌だ。へらへらと笑いこけ、その黒い毛を揺らしている。

  きっと彼の理屈ではそうなのだ。おかしいのは自分ではなく周りの全員。殺し殺されるのを遠巻きに鑑賞する[[rb:傍観者 > ぼうかんしゃ]]。自分は一切手を汚さず、それを悪いとも思っていない。

  もうフリッドは何かを言い返せない。そんな気すら失せてしまった。正当化されるべきではないことを、あたかも当然だと主張するゴードンに。

  「おかしいよ、お前」フリッドがもう一度、そう言う。今度は否定するように。お前こそ間違っていると言う様に。

  そんなフリッドにゴードンはフフフと気味悪く笑う。「そうでしょうネ」と、返しながら。

  まるですべてがおかしくてたまらないかのように、ゴードンは笑っていた。

  :::

  その後ゴードンは用事があるのだと言い残し、そそくさとフリッドの元を離れていった。

  さっきまで感じていた、あの血が沸騰するような感覚はもうない。すっかりと冷え切ってしまった。残ったのは後味の悪さだけ。

  気分を少しでも晴らそうとしたのに、これでは余計悪くなったじゃないか。そんなゴードンに対する不満も、当人がいなければやり場すらない。

  『争わなくちゃ生きていけない。奪わなきゃ生きていけない』

  ゴードンが言っていた。何をするにしろ、生きるということはヒトに害を与えなければいけない、と。

  フリッドは信じたくなかった。そんなワケあるはずがない。ヒトは助け合って、助けられて、そうして生きていくもの。それがヒトとしての当たり前だと、フリッドはリッツに教わったのだ。それを否定したくなんてなかった。

  もしゴードンの語るそれがヒトの常ならば、リッツは嘘をついていたことになってしまう。あの日あの場所から連れ出された瞬間から今までが、全部まやかし。あのまま何者でもない状態で、惨たらしく殺され続けることこそが、フリッドの正しい人生だった。そういうことに、なってしまう。

  リッツと出会い、狼に助けられて。それが全部無意味なのだとしたら。今のフリッドにはそんなこと、耐えられない。

  「なあ、違うよな? そんなことないって、言ってくれる、よな?」

  心の中で二人に問いかける。フリッドにとって生きる上での基盤、基準となっている二人に。

  きっと違うと言ってくれるはずだ。お前は間違っていないと。あのゴードンとかいう男の方がおかしいのだと。

  けど、本当にそう言ってくれるだろうか。あくまで問いかけているのは心の中でだけ。フリッドの想像の域を出ない。そんなもの、頼りになんてできるだろうか。

  「俺、どうすればいいんだろ……。わかんねぇよ、なあ、苦しいよ……」

  何度も何度も繰り返し聞き続けてきた。その度に答えは返ってこなくとも。あの自分よりも[[rb:逞 > たくま]]しいオラウータンの彼が恋しくて、何度も問いかけ続けた。

  もう二度と、抱きしめてもらえない。ここにいていいと、言ってくれない。忘れてしまえば楽になるのに、忘れられない。

  もういっそ、ずっと眠っていられたら。目を覚まさずにいられたのなら──

  そんな失意に沈むフリッドを引き戻したのは、甲高い銃声音だった。

  「ッ!?」[[rb:咄嗟 > とっさ]]に身を屈め、撃たれないよう身体を丸く縮こませる。発砲音が鳴ったあとにそういうことをしても意味がないのだが、それがフリッドという獣人だ。

  「な、ななな、なんなんなん?!」

  また一発。明らかに近くから聞こえた。長くけたたましく、雷にも似た轟音。拳銃のような小型なものではない、おそらくは猟銃のような銃身の長いもの。

  フリッドは情けない声を上げ、身体を震わせる。

  経験がある。あの音がもしヒトに向けられているものなら、受けた者は無事じゃ済まされない。固い金属を体に打ち付けるような生易しいものではない。当たった部分から弾け飛び、肉を引きちぎる。そんな衝撃だ。

  それがもし、彼等に当たったら。それがもし、サルビアだったら。

  「……〜〜〜ッ!」

  そう考えてしまっては、フリッドはじっとしていられなかった。

  フリッドは駆け出す。銃弾飛び交うであろう、サルビア達の元へ。

  辿り着けたとしても、きっと役立たずだ。何もできないまま、撃ち殺されてオシマイだろう。そして、何もかも忘れてしまう。

  (そん、なの)

  優しくされたくなんてなかった。それはずっとずっと、枷になってしまうから。[[rb:雁字搦 > がんじがら]]めにされて、こうして理由もわからぬまま突き動かされてしまうから。

  でも、何かを返すのがヒトだと、あのヒトに教わったから。その感情が、フリッドを突き動かすから。だから、止まれない。

  またあの時のように、失いたくないから。

  (……ん? あのとき?)

  失った。何かを。大切なものを。

  走っているせいで上手く酸素が回っていないからだろうか。何かを思い出せそうな、失ったものがあるような予感が、フリッドの頭をふとかすめた。

  「止まれ!」

  「ふぁい!」

  静止を強制する声。若い男のものだろうか。フリッドはその声に反応し、つい素直に応じてしまう。

  あともう少しであの夫婦の元へ辿り着けたのに。ああ、やっぱり自分はどうしようもない。

  「う、動くなよ。一歩でも動いたら、命がないと思え」

  荒い息を整えながら、フリッドは目を閉じる。きっと次の瞬間には殺されてしまうだろうから。殺されるなら一瞬で葬って欲しい。歯を固く食いしばり、これから起こることにだまって身を任せる。

  けれど銃弾はフリッドを射抜かない。いつまでも待っても、遠くの銃声しか聞こえてこない。

  違和感を覚えたフリッドは、薄くまぶたを開きどうなっているのか確認する。

  フリッドの視界の先には、拳銃を構えるモモンガが、カタカタと震えながら立っていた。

  [newpage]

  秩序は保たれなければならない。平和は保たれなければならない。

  平穏を乱す者は処罰すべきだ。波乱を招く者は断罪されるべきだ。

  モモンガ獣人であるラッシィは、都市を守りたいと強く願っていた。都市に住む全ての獣人は幸せになるべきだ。けれど、ときにその幸せを阻む障害がある。

  都市の外は危険だ。クリーチャーが徘徊し、草木も生えない不浄の土地。脅威はいついかなる時だって、襲いかからんとその牙を研いでいる。

  だから、排除すべきだ。討滅すべきだ。[[rb:塵芥 > じんかい]]すら残さずに、一切合切殲滅すべきだ。

  (殺さなきゃ……。アレは都市に害をもたらす悪だ。だから、殺さなきゃ……!)

  引き金に指先をかけ、引くだけ。ヒトを殺すことは、なんとも簡単なものだ。小さい子供にだってできる。

  けれどラッシィは[[rb:躊躇 > ちゅうちょ]]していた。引き金を引くことを。ヒトに銃を向けることを。

  「あ、の」

  「黙れ! 動くなって、言っただろうが!」

  目の前の、名も知らない虎獣人にラッシィは叫ぶ。

  取り立てて目立つ特徴がない男だ。ココまで普通に生きてきて、幸せに暮らしたはずの、極々普通の一般人。

  そんなヒトに、ラッシィは銃身を向けている。その事実が、彼の心を蝕む。

  「お前は殺されるべきなんだ……討たれなきゃならないんだ……」

  ラッシィの口から漏れるのは、もはや[[rb:譫言 > うわごと]]だ。誰の耳にも届かない、自身を責め立てるだけの呪詛。

  物騒な文言をブツブツと呟きながらも、しかし一向に彼は撃つ気配がない。もしかしたら話し合えるんじゃないか。そう思ったフリッドは、彼の説得を試みる。

  「それ、下ろさない?」

  「しゃ、喋るな。死にたいのか」

  けれど訴えは聞き届けられなかった。依然として港着状態、緊張ばかりが場を支配している。

  ただ、諦めるにはまだ早いとフリッドは思えた。否定こそされど、会話はできている。これが問答無用ならばどうしようもなかったが、そうでないのなら。

  話ができる。それだけで恐怖は幾分か紛れてくる。いまだ殺されてもおかしくない状況だが、相手はヒトなんだと。感情を抱くことができる、ヒトなのだと。

  フリッドはなけなしの勇気を振り絞り、モモンガの彼へ説得を続ける。

  「やめよーぜこんなの。ほら、えー、アレ。撃たれるとアレじゃん」

  「アレってなんだ」

  「痛いじゃん?」

  「バカにしているのか」

  ただ。フリッドに話術なんてものないため、どうしても刺激する結果にしかならないのだが。

  交渉とは相手と自分が納得できる条件を提示する行為である。そのため、相手を刺激せずに相手の心情を探らなければならない。

  「それにさあ、俺を殺したっていいことない……いいことない、よね?」

  「それは貴様が決めることではない」

  「あ、うん。デスヨネー」

  だからこの様に要求の押し付けるだけでは上手くいくはずがない。相手の条件を妥協しながら叶えつつ、コチラの条件を混ぜていくのが交渉としてのベスト。

  ……つまり何が言いたいかというと。会話ができるといったところで、相互理解が成り立つとは限らない。むしろ逆上を買ってしまうことだってある。

  「先程から意味のないことをつべこべと……!」

  「待って待ってバカにしてないそのつもりはないぃぃ」

  

  くだらないやり取りに、ラッシィがしびれを切らし発砲する。威嚇として放たれたそれは、フリッドの丁度足元に着弾、地面を軽く抉った。

  情けなく怯えるフリッドをよそに、ラッシィは少しだけ自信をもつ。

  なんだ、簡単じゃないか。ヒトを撃つなんて。

  必要なものは覚悟だけ。相手が凶悪な肉食動物だったとしても、今この瞬間は自分の方が強い。

  誰だって黙らせられる。その力が、自分にはある。そんな根拠のない自信が、ラッシィの胸を高揚させる。

  「無駄口叩くな、次は当てるぞ」

  「なっ、待てって! 話くらい聞いてくれたって」

  「──[[rb:煩 > うるさ]]い!!」

  またもう一発。今度こそ撃たれたと思ったのだろう、フリッドが耳を伏せ縮こませた。

  情けない。この程度で怯むとは。

  自分より大柄な肉食獣人が、こんなにあっさりと平伏している。可笑しくて仕方ない。自分より数倍力のある、ただそれだけの獣人が必死になって懇願している。

  生まれとは残酷だ。食物連鎖のヒエラルキーは、努力やらでは覆らない。どう足掻こうが、草食動物は肉食動物に敵わない。遺伝子レベルで立ち打ちできない。

  でも、それがもし覆れば。弱者が強者に勝てる。そんな夢を、目の当たりにしてしまったら。

  「は、ハハ。ハハハハハ」

  最高だ。気持ちいい。こんな気持ちになれるのはいつぶりだろう。

  これならばなんだって出来る。都市を守ることも、仇なす者達を皆殺しにするのも。

  ──あの忌々しい上官だって、殺ってやれる。

  「……しね。死ねよ。みんなみんな、全員。

  ハハッ、そうだ、僕は選ばれたんだ。守るべきヒトビトを守るために。だからお前は死ぬべきなんだ。今ある平和を脅かす害獣は駆逐されるべきなんだ!」

  タガが外れてしまったラッシィを前に、フリッドは驚くばかり。先程まではかろうじて会話が成立していたのに、急におかしくなってしまった。ヒトを殺そうとしているのに、口から出てくるセリフは守るだの幸せのためだのと正反対のことばかり。

  たった一回、銃を撃っただけ。それだけで、こんなにもおかしくなってしまった。

  「なんで」

  フリッドにはわからない。暴力に溺れるということがどういうものかを。ヒトが力に屈服する様は、ヒトを狂わせてしまうものだということを。

  ただフリッドがこの時悟ったのは、もう終わりだということだけ。交渉決裂、対話は無駄に終わってしまったのだと。

  「さあ……死んじまえ!!」

  「っ!」

  ラッシィが今度こそフリッドを撃たんと銃口を向ける。今度は確実に彼をしとめるだろう。その瞬間が楽しみで仕方ない。これで自分はようやくヒトを守れるのだ。

  モモンガの彼の口角が自然と吊り上がる。嬉しそうに笑みをこぼして。

  フリッドにはその様が、おぞましい死神に見えた。

  「──フリッドちゃん!」

  殺される。そう思ったフリッドが耳にしたのは、サルビアが自身を呼ぶ声。

  直後、フリッドは抱きしめられた。そして銃声が鳴り響く。

  「…………え」

  何も感じられなかった。降っているであろう雨の冷たさも、鳴りやむことのない銃声も。

  寒気がフリッドを襲う。抱きしめられ、人肌のぬくもりを感じているはずなのに。サルビアが、抱きしめてくれているはずなのに。

  「あ、」

  フリッドにはわからない。リッツが自分に向けていた感情を。サルビアが自分に向けていた感情を。

  どうすれば返せたのだろう。ヒトじゃないから、自然に返すことができないのだろうか。

  ヒトじゃないから、こうして無慈悲にヒトの命を奪うのだろうか。