灰色のむこうがわ 12 そのいち

  今日も今日とて空は雲天。天候は移り変わることなく、いつものように薄暗さを天に張り付けている。

  あんまり、眺め続けていて気分の良いものじゃねえな。ボンネットの上、大の字に寝そべりながらガレッツォは思う。マンハントを終えたあとでは、特に。

  ゴミカスを処理しただけ。目障りな雑草を刈り取っただけ。ただそれだけのこと。それだけだというのに、どうだろう、気分はどうも晴れない。

  マンハントを終える度に、決まってガレッツォは気分が沈んでいた。胸に抱く恨み辛みを消化せんと挑んでいるのに、全く物足りない。むしろ不満が増す一方だ。

  都市に対する[[rb:鬱憤 > うっぷん]]晴らしのはずなのに。ヤっている間はあんなにも気持ちがいいのに。却って胸の内はまだ足りないと[[rb:燻 > くすぶ]]り続けている。不完全燃焼、これでは疲れの方が勝っているではないか。

  「随分なヘコみ具合な」車内から狼が声をかけてくる。いつも通りの、どこか退屈そうな声で。

  「なんだ、心配してくれんのかチャド」

  「やらかしたか」

  「は〜あ〜? そんなワケねーだろ、俺をなんだと思ってやがる」

  そうは言うが、実際図星だ。

  マンハント自体は成功、つつがなく終わった。けれど、その後現れたクリーチャーにガレッツォは苦戦。大事こそ至らなかったが、一歩間違えれば狩られていたのはガレッツォの方だっただろう。

  あの虎獣人が中々死ななかったから。アイツがもっとあっさり死んでくれていたら、ああはならなかった。

  思い返せば、あれのタフさは異常だった。若さを加味しても、脳天を打ち抜かれてあそこまで生きているのも不自然だ。だからこそ失態を犯してしまったわけで。

  「これでも俺、上に立つ男だから。使えない部下の尻拭いで大変なのよ」

  「教育足りてないだけだろ」

  「現場では実践力が求められんだよ。いくら教え込んでも実践では[[rb:案山子 > カカシ]]同然、なんてよくあることなんだぜ?」

  「それが事実ならお前、むしろ苛立ってるはずだろ。今日に限って嘘下手なのな」

  適当にあしらっていたはずだったが、それがかえって裏目に出てしまった。

  ああ、本当に今日は調子が悪い。コイツもコイツだ。気づいたのなら黙っていてくれればよかったのに。

  機嫌悪く舌打ちをすると、くすくすと笑い声が返ってくる。ああ、最悪だ。調子も悪ければ気分も悪い。

  このままふて寝でも決め込んでやろうと、ガレッツォは寝返りを打つ。すると、ガレッツォの視線を白いものが掻っ切っていく。

  何事かと起き上がると、それは鰐の腹へと墜落した。

  紙飛行機だ。ふと下を向けば、ジープの窓から狼が乗り出しこちらを伺っている。

  「……間抜けヅラ」

  「はぁ?」

  「返してやるよ、ソレ。俺には不要の長物だから」

  鼻につくようなニヤケ面を浮かべる狼。奇麗な顔をしているからか、こういう表情をしていても不思議と怒りが募らない。大分得な面をしているなと感心するくらいだ。

  返してやる、なんて。そんな借りあったろうか。そんな狼の態度にガレッツォは怪訝に思いながらも、紙飛行機を拾う。

  ぱっと見は何の変哲もない真っ新な紙。けれどよく確認すると模様のようなものが描き込まれている。装飾目的ではない、恐らくはさっと狼が描いたであろうもの。

  (成る程ね。だから返す、か)

  何が描かれているのか、紙を開いて確かめるでもなく察したガレッツォは、それを空へと滑らせる。

  「はっ、お前俺のこと好き過ぎかよ」

  「なんでそうなる」

  車内に再び引っ込んでいく狼。

  相も変わらず素直ではないなと思う。けど、確かに必要だった。そんな余裕が。

  積もるものが消えたわけじゃない。けれどそれで腐るお前は、らしくない。

  ──そんなことを言われたら嬉しくないはずがないだろ。シャイな知り合いのそんな一面に、鰐獣人はひっそりと口角を吊り上げた。

  ❋

  「で? ダーウィン。今回はどんな情報持ってきてくれたんだ?」

  すっかり調子を取り戻したガレッツォが窓から車内を覗き込む。

  車内では狼が黙々と紙を折っていた。いつも通りの澄ました表情で。

  先程も紙飛行機を折って飛ばしてきたが、それとは違うようだ。黙々と折られていくそれに、ガレッツォは見覚えがある。

  それは、よく女が売りつけてくるもの。それも色目を使ってくるような、そんな女が。

  「……花?」

  「そうだが。なんか文句あるか」

  それも一本や二本ではない。軽く花束でも作れる程の量を、狼は折っていた。

  ボンネットから飛び降りたガレッツォが窓越しに一つ、その花を手に取る。折り目正しく、端もよれていない。奇麗な出来栄えだ。関心のあまりヒュウ、と口笛を鳴らすほどに。

  狼が靴磨きを生業としているのはガレッツォも知っていたが、ここまで器用だとは思っていなかった。造花とはいえ、そこいらの女性が売りつけてくる物より出来がいい。

  「なんだよ、これ。俺にくれたりすんの?」

  ガレッツォが紙の花をひらひらと振りながらそう聞くと、狼は鼻をフンと鳴らして、「んなワケあるかボケ」と返した。

  「……サヨナラを、言えなかったからな」

  重々しく、狼はそう語る。

  踏みこまない方がいい。そう瞬時に判断したガレッツォは、「そうか」と何事もなかったかのように返事を返した。

  ウェンディが亡くなった。その[[rb:訃報 > ふほう]]を狼が知ったのは、つい最近のことだった。

  直接亡くなったと知らされたわけではない。孤児院の経営者であるジャービスは、できる限り彼女を留めていたらしいが、最後は本人自身の意思で孤児院を出ていったそうだ。

  『ウチは子供を預かる施設だからね。子供の意思は尊重するさ。

  ウェンディが幸せになりたいというなら、私はそれを応援する。幸せというのはヒトが生きる糧だからね。子供の願いを否定したりしないさ』

  だから彼女は出ていった。子供のままでは幸せになれないから。

  それがジャービスの筋書きだろう。それ以上彼女の行方を、彼女の顛末を知りたくなかった狼は早々に孤児院を後にした。

  十中八九、彼女は亡くなっただろう。都市のどこかで、人通りのかたわらで。

  狼が作った赤い靴を、大事に抱きながら。最後まで幸せになるんだと、自分に言い聞かせながら。

  当然これは狼の想像だ。そうだろうという、狼が都市に抱くイメージの元に考えたものでしかない。

  誰か優しいヒトに拾われて今でも生きている。そんな可能性を、けれど狼はあり得ないと知っているから。だから、亡くなったと、そう結論付けた。

  あの日もし、もっと強く止められたなら。

  あの日、自分と一緒に行こうと言えたなら。

  そんなもしもを考えても仕方ないことだ。ウェンディは自ら『幸せ』になろうとしたのだから。それを止めないと、狼は決意したのだから。

  「にしたってお前、折り紙上手なのな」

  「たまに折ってやってたからな」

  「売る用に?」

  「売る用に」

  ガレッツォが意味深にニタリと笑う。なにをどう勘違いしたのだろう、「へぇ〜、ほ〜ぅ」などと吹いている。

  その反応にカチンときた狼が、今しがた出来上がった折り花を手裏剣のように投げつける。鰐の固い皮膚では対して効かないのか、ガレッツォは避けることなくそのまま受け止められた。

  笑みを一層深めるガレッツォ。ムキになるなんてよっぽどじゃないか、なんて受け取られたのだろう。余計なことをしたと狼が内心舌打ちをする。

  別に折り花を売っていたのは狼ではない。売っていたのは狼の恩人、ナターシャだ。

  それも無理矢理手伝わされていただけ。こんなものなくても引く手数多だったろうに、売れないコのためなんて名目で、関係ないのに折らされた。

  ぶっちゃけ不名誉だ。勘違いされるのも、折るのが上手くなったのも。

  「健気なもんだ。コイツを必死になって男に売りつけるんだろ? 下手したらちんちくりんのガキだって」

  「お前には[[rb:慰安 > いあん]]部隊がくんだろ」

  「だからって貰わないってことねーから。ほら、俺色男だしぃ? 気まぐれに歩けば引く手数多なのよ」

  「そーかい。そりゃよかったな」

  「嫉妬したか? ん?」

  「だれが」

  でも。何かを言いかけそうになって、でも、と狼は口を噤む。

  こんなことをしなくとも、器量さえあれば問題なく生きていける。子供が花を売って、大人とそういう関係を持つ。そんな生き方を迫られる必要なんて、本来はないはずだった。

  ただの理想論だと狼だって分かっている。子供というのはいつだって非力で、だからこそ都合のいいように利用される。無知だからこそつけ入れられ、幸せになることを夢見て、そうなりたい大人に蹂躙され、その一生を終える。

  だからウェンディは犠牲になった。当然のように、あの都市の[[rb:贄 > にえ]]に。

  「……なあ」

  「あー? どしたよ」

  「ここいらで見晴らしのいいトコ、ないか」

  折りに折った花の束を、狼は掻き集めジープの外へと出る。

  暫し意表を突かれたようにガレッツォは驚いていたが、狼の意図を汲むと、開け放たれたドアを閉めクイと首を振る。

  「いいぜ。ついて来い」

  ❋

  そうしてガレッツォに連れてこられたのは、監視塔のてっぺんだった。

  都市の外にそびえたつそこは、本来は外部からの侵略──要はクリーチャーがやってこないかの見張り台。監視塔、なんて厳かな名称で呼ばれているが、実物は木造建ての単組なものだ。

  「いートコだろ? ココ」

  腰ほどの高さの柵にガレッツォは体を預け、狼に同意を求める。

  吹き抜ける風がさあと、二人の身体を撫でる。視界に広がるのは都市と、朽ち果てた廃墟群。空から差し込む光が、終わってしまったというもの寂しさを一層際立たせている。

  「アンタにしては、な」

  乱れる毛先を撫でつけ、狼がそう言う。

  ここなら、届きそうだ。どこまでも遠く、彼方まで。

  狼は丹精込めて折った花を取り出した。それを空へかざせば、花弁は風に[[rb:攫 > さら]]われ彼方へと舞っていく。

  「……何がしたかったんだ?」

  「ケジメ」

  「儀式的な?」

  「そ。……何時までも、囚われてばかりじゃな」

  ふぅんと空返事を返し、ガレッツォは遠く散っていく花びらを眺める。

  肝心なことは何も聞かない。けれど狼にはそれが有難かった。

  ウェンディが亡くなったこと。フリッドを撃ち殺したこと。忘れようとすると、かえって難しい後悔の日々。

  けれどそれはもう過ぎてしまったことだ。哀しいけれど、過ぎ去ってしまった出来事だ。何時までも哀しんでいては生きていけない。前へ、進めない。

  「なあ」

  「ん」

  「きっと俺は……いや、俺も、ヒトらしくないんだろうな」

  「……」

  「失うものが、生きていて多すぎる。その度に『そんなもんさ』って気にしなくなって、どうでもいいとシラきって」

  監視塔の柵から狼は身を乗り出す。こんなに高い場所に来ても、空は遠い。手をかざしても、触れることすら叶わない。

  「ままならねえなって、思う。未だ俺は弱いままの……ガキのままの、俺で。

  なんも変わらない。大人になれば、って思って生きてきた。きっと報われんじゃねーかって。……そんなの、あり得なかったのに」

  それでも。天にかざしていた手を、狼は握りしめる。

  辛いとは、一度も言わない。見捨てることを選んだのは自分自身だ。ならば、辛いという言葉は甘えになってしまう。

  

  「……不自由だな」いつの間にかその場で胡座をかいていたガレッツォが言う。

  やり場のない怒りも哀しみも、ここには多すぎる。もっと違うやり方なら、もっと違う場所なら、こんな感情を抱くこともなかったのだろう。

  ガレッツォの虚しい囁きに、狼はただ一言、「そうだな」と返し空を仰ぐ。

  何処にもない、天国と呼ばれるであろう場所を胸に描きながら。

  :::

  失ったものが何なのか思い出せない、というのは、何とも虚しいことだ。不死者として幾度か経験したフリッドだが、それでも失ったことを自覚するのは胸が苦しくなる。

  狼が長い外出から戻ってきたあのあと。いつの間にか血まみれで、拠点のボロアパートにいたあのあと。フリッド達は再び拠点を移すこととなった。

  あれだけ悲惨な光景を目の当たりにすれば、その判断も[[rb:妥当 > だとう]]だろう。狼も、血塗れの部屋で寝食を共にするほど肝が座っていない。

  自身がなぜ血を被っていたかを、狼は聞かなかった。

  聞かれてもフリッドには答えられない。なんせ、そのあたりの記憶がすっぽりと抜け落ちているのだから。

  「お、おかえり」

  「……ああ」

  けれどなにかがあった。そのことだけは、何となく身体に染み付いているようで。不思議なことに、前までは気にも留めてなかった狼の帰りに声がけするようになった。

  どうして急にそんなことをするようになったのか、フリッドにもわからない。けれど、そうするたび、ストンと胸の内で落ちてくるものがあった。

  きっと自分はいい出会いをしたのだろう。胸の内に感じるたび、特にそう思う。そしてそれは恐らく、二度と会えない現実と結びついている。

  「なんだ俯いてしおらしくなって。気持ち悪」

  「なっ! き、気持ち悪くなんかねーが!?」

  「そーかよ」

  長い遠出の前は気まずかった狼との会話。けど今は少しだけましになった。

  そういえば、血塗れだった自身にむかって、狼は珍しく慌てていた。普段は居ないほうがマシな扱いをしているのに。

  「またぼけっとしやがって。何もねーとこですっ転んでも知らねーぞ」

  「いやそんなよく転ばねーし」

  「どうだろうな。お前やたらポンコツあたまだし」

  「ぽ、ぽんこ……!」

  「同じ男だとは到底思えねーんだよな。なんかこう、色々と残念すぎて」

  

  訂正。前より酷くなった。

  「俺はどこも残念じゃねー!!」

  フリッドは男である。狼に散々馬鹿にされようと、自身が男として産まれたことだけは否定させない。させるわけにはいかない。

  ならばどうすればいいか。単純に、男として認められるにはどうすればいいか。

  フリッドはおもむろに服に手をかけると、勢いよく脱ぎだした。

  「どうだ! 俺のイイ感じのぼでーは!」

  そして自身の肉体を余すことなく見せつける。

  バキバキに割れている、まではいかないが、見せびらかすには恥ずかしくない身体だとフリッドは思っている。嫌なことがあったらとりあえず運動すればいいと教えたリッツの教育の賜物だ。それが役に立ったかどうかはともかく。

  狼の盛大な溜息が聞こえる。ふとそちらをみれば、額に手を当てて眉をしかめているではないか。

  何故だ。何が足りない。やはり真の男を見せなければ認められないか。

  そうとくればフリッドも奥の手を出すしかない。ベルトに手をかけ、そのまま勢いよく──

  「やめろアホが」

  下げられる前に狼の回し蹴りが炸裂。男を見せること叶わず、フリッドはそのまま地に伏すこととなった。

  ❋

  「……それで」

  「はい」

  「アタマ、冷えたか」

  「ごめんなさい、反省してます」

  自身で転ぶ前に狼の手で転がされるハメになったフリッド。相応の罰として、正座を強制させられていた。

  これが反省の表明になるかはフリッドにもわからなかったが、狼曰く暫くしたらわかるとのこと。これ以上怒らせても損しかならないため、フリッドは黙って受け入れるしかない。

  「つか、お前の真っ裸なんて見飽きてんだよ俺は」

  「じゃあ男だって知ってるじゃんか」

  「同じ男だと思われたくない、な? どこに行っても素っ裸になるのを恥じないお前と同じ扱いされたくない、って言ってんの」

  「ばっ、俺だってはずかしいと思うことくらい……」

  狼の白い目がフリッドに突き刺さる。

  そこまで自分はコイツの前で裸になったろうか。相手が男だから見られても問題ないとは思うが、そこまで頻繁に脱いだ覚えもないのだが。

  そもそも裸自体がなんだという話でもある。監禁されていた頃は服なんて着せられることがなかった。フリッドにとって服とは、ヒトと最低限対話するのに必要な装備。一人なら脱いでいても問題ないだろう、なんて考えの持ち主なのだ。

  「あれ……な、い……?」

  故に、こうなってしまう。

  

  フリッドの背に冷たいものがつう、と流れる。まさか狼の前では最低限のヒトを保つことすらできていないのか。そうだとしたら同類だと思われたくないのも頷ける。ヒトとケダモノでは価値観そのものが違う。

  現に狼を見やれば、『お前ウッソだろ』なんて物言いたい表情だ。表情を読むなんてできないフリッドでも、その物言いたげさは完全に理解できる。地雷なんてものじゃない、完全に爆心地そのものを見ている眼だ。

  「裸になることがお前の好み、ってんなら止めねぇよ。うん」

  顔を背け狼がそう言う。これもわかる。何を言っても無駄だという意思表示だ。関係を解消したい、なんなら永遠に分かり合えないし分かり合いたくないという、平たく言えばフリッドへの静かな死刑宣告。

  「ちが、裸になるのは好きだからじゃなくて、」

  「冷える夜でもすっぽんぽんで寝てるしな」

  「いやそれは服着て寝ると暑いからで」

  「馬鹿は風邪ひかない、なんつーけど、マジなのな」

  「やめてホント違うんだ、好きで裸なんかじゃないんだ」

  「そっか」

  「違うんだよぉ!!」

  誤解だ。大きな勘違いだ。

  見せつけたいから裸になっているのではない。裸になるのが慣れているからそうなっているだけだ。

  そんな風にフリッドは弁明しても、狼はどこ吹く風だ。何時ものように上着を脱ぎ、毛布ですっぽりと覆いかぶさってしまった。

  こうなってしまえば狼は聞く耳を持ってくれない。フリッドは落胆し肩を落とすと、脱ぎっぱなしの上着を拾い袖を通す。

  (なんだろうなあ。な~んで、上手く話せないんだろ)

  顔を突き合わせば、どうしても下らないことばかり喋ってしまう。それはまあどうでもいいことだ。下らないこと、なのだから。

  それでもフリッドはもどかしさを感じる。こういうことを話したいのではないと。

  『いつもありがとう』とか、『お前といると』とか。もっと伝えたいものがあるはずなのに、どうしても口から出てこない。

  (お前といると……なん、だろ)

  ドッグタグをきつく握りしめる。なにか出てきそうなのに、締め付けられて行き場のないものが、フリッドの胸を掻き立てる。

  いずれ言わなければいけない。素性も何も明かせない身だが、それでも側において貰えたのだ。せめて感謝だけは、伝えなければ。

  自分が、忘れてしまう前に。

  :::

  「終わりましたよ、マダム」

  「どうもありがとう。はい、これ」

  きれいに磨かれた靴を目にし、女性は大いに喜び、狼の手にチップを握らせる。

  狼は申し訳ないと口では言いつつそれを受け取る。優雅に去っていく女性の背をにこやかに見送ると、ふうと一息つき、張り詰めていた気をほぐした。

  復興都市はいつもと変わらない。誰もが幸せになることを望んで、あるものは仕事に従士し、またあるものは己をよりよく見せるために画策する。いつもの街並み。変わらない日常。

  狼もまた、普段の生活に戻ろうと必死だった。

  ウェンディが死んだところで誰かが悲しむことなんてない。その死に、心を動かされるものなんて誰もいない。

  だからこそ狼もそれに倣う。内心残酷だとは思いながらも。

  たった一人が悲劇を嘆いたところでなんになるというのだろう。たった一人の少女の死で、何も変わらないこの都市で。自分一人が悲しみに暮れても、声をかけるヒトなんていない。

  だから、けじめをつけた。悩むのも悲しむのも、あの瞬間まで。

  引きずったところでで変わるものなんてない。切り替えなければ、生き残れない。

  (今日の稼ぎは……まあまあか)

  こうして仕事をしている間、その間だけは少しだけ余計なことを考えずに済む。

  ただひたすら客の靴と向かい合い、ブラシをかけ、洗剤で磨く。他者の歩みを垣間見るような、そんな時間。

  嫌なことも苦しいことも、きっとこの靴はすべて受け入れてきた。自分には到底なしえないことだ。だって、振り返ってしまったら……。

  「──もし。仕事を頼みたいのだが」

  やって来た客に呼びかけられ、狼ははっと意識を現実へと引き戻す。

  どうも思った以上に深く思索にふけていたようだ。狼は少しかぶりを振り、客へと向き直る。

  「ああ、今日は店じまい──」

  店じまいをするところだったと伝えようとして……狼は息を詰まらせる。

  気が付けばあたりはヒトが集まり、ざわめいている。ちょっとした騒ぎになっていたのに、呼びかけられるまで気づかなかったとは。

  対面する鷲鳥人は周りのギャラリーなど気にも留めない様子で、狼へ微笑みを向けている。

  「ダメ、かい? どうしても」

  復興都市現市長でも? そう言いたげに、鷲鳥人の彼──ドライアスは首を傾げる。

  ゴクリと、唾を飲み下す。とんでもない人物がやって来た。こんな、道端の商いに。

  「……いいですよ。市長」から回る思考と激しく主張する心臓の鼓動にどうにかなりそうになりながらも、狼はそう、精一杯冷静を装いながら椅子に腰掛けるよう促した。

  ❋

  狼には恨みという感情が理解できない。

  大切な人を殺されてしまった。大事なものを奪われた。そういうとき、ヒトは激情に駆られる。それはわかる。どうしても許せないものは一つくらい、誰だってもっているものだから。

  けれど狼には、自分でも抑えが効かなくなるほどの激情を抱いたことがない。冷めているとかリアリストだからとかでは、きっとなくて。

  要は疲れてしまったのだろう。誰かを恨むことに。それで何かが変わるものじゃないからと、無意味な感情だからと、丸めてポイとどこかへ投げ捨ててしまったのだ。

  「いやあ助かった。最近の激務続きで身支度を整える暇がなかったもので」

  だからだろう。ドライアスを相手取に商いをこなすことに、狼は抵抗がなかった。

  この澄ました鷹野郎さえいなければ、もっといい未来を歩めた者が大勢いる。幸せになることを義務づけなければ、哀しい結末を歩まずに済んだ者が大勢いる。

  「式典とかありましたものね。スピーチ、中々のものでしたよ」

  「そうかい? ハハ、ありがとう」

  けど、そこまでだ。恨むべき対象、そういう風潮を作ったもの。それ以上の感情が、湧き上がってこない。

  そういう意味でなら、ここの都市の獣人たちの方がよっぽど健全なのだろう。失ったものを取り戻そうと、ヒトとして当たり前のことをしている。……同じようになりたいかと言われれば、首を振って否定するだろうが。

  いつものように靴の泥をブラシで払い、洗剤を布に付け磨いていく。

  靴に罪はない。どれだけ悪辣であれ、靴に刻まれた汚れや傷は、皆等しく同じものだから。

  「みんなが幸せになれるように。みんなが、幸せになることを望めるように。

  ……素敵なことだと思います。そう思えることも、そのために努力することも」

  「ああ。先代はとても立派な方だった。未来に抱く希望も何も無いなか、彼は先だって私達を導いてくれた」

  遠い過去を振り返るように、ドライアスは目を細める。

  先代。都市を形にした、ヒトビトの希望となった人物。その功績は確かに偉大で、後任である鷹も少なからず影響されたのだろう。心酔するようなその目に、狼もなんとなく察せられる。

  「とても眩い方でした。なんていうのでしょう、こう、青春の一ページを丁寧に切り取って、その思い出が語りかけてくるような」

  「あどけない、ということでしょうか」

  「ハハハ。まあ、童心さながらの無茶振りをしていたのは否めませんがね」

  だとしたら、今こうして都市が機能しているのも先代本人の力そのものではないのかもしれない。

  あくまで彼は獣人達に希望を持ってほしいから、目標を定めて導いた、という認識が正しいのだろう。こんな、幸せを求めるが故に悲しい事態を引き起こすような、そんな場所にしたいとは願ってなかった。の、かもしれない。

  ……あくまで想像だ。狼は首を振って否定する。

  もしかしたら恨むべき対象はその先代なのかもしれない。こんな都市をつくって、こんな息苦しい街にして。

  それでも恨みきれないのは、まだ自分はヒトとして欠けているから、なのだろうか。

  「似ている、といえば、もしかしたら貴方かもしれません」

  「……え?」

  ドライアスの不意な発言に、狼はつい手元から目を離し顔を上げてしまう。

  自分が、その先代に? こんな都市をつくった、張本人に?

  「まさか」それこそありえないと、狼は否定する。

  けれどドライアスが、タカが狼を見るその眼差しは懐かしいものを見るような穏やかなもので。伊達や酔狂で語っているようにはとても思えない。

  「実は私、ずっと貴方の噂を耳にしていました。

  『幸せになるためのお手伝いをする』……なんて、素晴らしい方なんだと」

  「市長様が思うようなものじゃありませんよ」

  「いえいえ謙遜なさらず。こうして話をしているだけでも、貴方の素晴らしさをひしひしと、感じさせられます。ええ、なんだかとても懐かしい感覚です」

  自分はそんな立派な獣人じゃない。

  誰かに幸せになってほしい。そう、常々願っていた。それは事実だ。そんなヒトのために力になれるなら、いや、そんなヒトの歩みの負担を、少しでも減らせたらと。

  けれどどうだろう。自分には、そんなこと全くできてはいないじゃないか。誰かに願う傍らでこうして靴を磨いて。誰かの幸せのためになったことなんて一度としてない。

  それどころか、不幸にしてばかりだ。悲しい目に合わせてばかりだ。

  『お前が生きてて、よかった』

  あの日、虎獣人を撃ち殺した瞬間のことが、狼の頭をよぎる。

  そんな言葉かけられるようなヒトじゃない。自分はもっと惨めで、愚かしい生き物なのに。

  「ですから、今日は貴方にお話を持ちかけたいと思っておりまして」

  「はなし……ですか」

  「私と一緒に、この都市を運営してみませんか? 都民たち全員が、幸せになれるように」

  息を呑む。ドライアスの眼差しに、冷たさのようなものが入り交じる。

  まるでセカイが止まってしまったかのような、そんな静寂が、狼とその周囲の空間を包み込む。そんな錯覚を、狼は感じた。