初場所・行司の日

  行司は力士と同じく、相撲部屋に所属する事となつてゐる。

  他に呼出や床山(とこやま)も部屋に所属する。

  行司は土俵入りの先導や、土俵祭の祭主も行ふ。

  『信長公記』の「行事は木瀬藏春庵、木瀬太郎太夫の両人なり」が、行司の始祖である。

  宝暦年間(1751〜1764)頃には、木村、吉田、岩井、青柳、吉川、稲葉、風松、新葉、笠松、尺子、吉岡、小柳、川島、尾上、西川、森久、漣など

  1757年に最初の大関として登録された雪見山。

  その師匠、竹嶋甚四郎は、行司出身の人物であつたらし。

  「「竹嶋」は主に九州・肥後地方で活躍した行司家の姓」。(Wikipedia「雪見山堅太夫」)

  式守の初例はこの後の、1767年である。

  立行司は木村庄之助(37代目を最後に空位)と、

  式守伊之助(41代)である。

  庄之助が主席であり、伊之助が次席である。

  かつては「年寄名跡」であつたが、現在は廃止されてゐる。後者は永濱を名乗つてゐた時期もある。

  この「立行司(たてぎようじ)」こそ、行司の中の横綱格なのである。

  大坂相撲の立行司は「木村玉之助」であり、東京との合併で大相撲設立の折に、第三位の立行司となつた。然し1951年に、大相撲の副立行司に降格された。これは大坂蔑視である! 知らんけど。

  1960年に副立行司は廃止された。現在に至る迄「玉之助」を襲名する者も無く、事實上途絶えてゐる。

  他に副立行司になつた名跡として、三役格の木村庄三郎と木村正直がある。

  また大坂相撲で、明治・大正期に立行司格の待遇を得たのは以下。

  木村清兼、木村正直、岩井相馬、木村清之助など(Wikipedia「木村玉之助」大坂相撲の立行司より)

  「木村夛司馬・木村亘り・式守見藏など、ここ100年以上襲名されてゐないものもある。一方で、2006年には式守鬼一郎の名跡が46年ぶりに復活したり、2014年には木村銀治郎の名跡が84年ぶりに復活するといつた事例もある。」(Wikipedia「行司」行司家と行司名)

  江戸時代には、「吉田司家・五条家・吉岡家・岩井家・長瀬家・吉片家・西川家・横山家・漣家・稲葉家・森家・小柳家・尾上家・川島家・吉川家・新葉家・青柳家・尺子家、などが確認されている。」(同)

  「江戸相撲の初期の番付には岩井嘉七という行司名が存在し、東京以外では明治や大正まで吉岡家や岩井家が残っていた。」(同)

  [chapter:志賀清林]

  719年の相撲節に、志賀清林が「48手」と「三種の禁じ手」を定めたとか。

  彼の最髙位は最手(ほて)で、また行司とも書かれてゐる。

  平安末期以降に志賀家は絶え、吉田司家が引き継いだとか。

  [chapter:木村家]

  伝説上の初代が、中立羽左衛門尉清重。弟子は木村姓を名乗つたてふ。

  次が中立羽左衛門又は中頭正之助。

  中立(なかだち)親方は、行司系の名跡であつた。

  また、木村瀬平から「木瀬部屋」がなつた。

  1708年に九重庄之助、同年に中立姓(実質初代、4代からは力士が継いだ)。享保11年(1725年)、木村庄之助に改めた。史実の初代である。

  文政年間(1818〜1830)の系譜では、1代と3代が架空で、2代は別系統てふ。

  木村喜左衛門政明、貞享から宝永にかけての行司([[jumpuri:木村庄之助(2代) > https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%BA%84%E4%B9%8B%E5%8A%A9_(2%E4%BB%A3)]])。

  木村庄太郎が、庄之助への出世名であつた。

  27代伊之助が、1992年迄14代を名乗つて以来、14年間空位であつた。故・37代庄之助、現・41代伊之助は共に名乗つてゐない。

  2007年に幕内格で15代庄太郎を名乗り、2015年より三役格。

  

  2008年時、木村が28名、式守が14名。

  改名例として、23代式守伊之助が27代庄之助を襲名時、弟子の式守吉之輔が木村に改名した。2006年、11代式守錦太夫を襲名。(2013年、40代式守伊之助。)

  また8〜10代錦太夫も、木村からの改名である。

  17代木村庄之助 大坂相撲から東京相撲に移籍

  松扇 20代木村庄之助

  22代木村庄之助(1951〜1959) 大坂相撲

  23代木村庄之助(2代木村正直) 大坂相撲。師匠の初代木村正直(木村越後)は、松扇 20代庄之助に並ぶ名行司であつたとする。

  25代木村庄之助 大坂相撲

  與太夫・勘太夫・錦太夫は「三太夫(さんだゆう)」と呼ばれる。幕内格以上であり、大正後期に三役格に揃つた時は、「名行司三太夫」と称された。

  與太夫は2016年に12代木村与太夫(現在12代勘太夫)が返上して以来、空位である。

  [chapter:式守家]

  初代式守伊之助に始まる。

  1740年生まれ。

  元は伊勢ノ海部屋の力士。その後、行司に転向し、吉田司家の門人となつた。

  彼の弟子が式守姓を名乗つた。

  1911年に、6代木村庄三郎が10代式守伊之助を襲名し、以降姓をかへるのはアリになつた。

  40代伊之助は、セクハラで辞職した。

  式秀親方・式秀部屋は、しきしゆうではなく「しきひで」と読む。名跡は「式守秀五郎」。

  元は行司の年寄名跡であつたが、途中から元力士が継いだ爲に残つた。

  [chapter:大坂相撲]

  1786年、初代木村槌之助が木村玉之助に改名、初代。一条家から異例の行司免許得る。

  6代木村槌之助が5代玉之助を襲名。

  1897年、伊勢神理教から6代玉之助が、七色総格免許を受く。

  8代玉之助は、木村越後に改名。

  1927年、10代の時に東京と合併した。

  1959年、13代の引退以来途絶える。

  木村清兼

  岩井相馬

  8代木村清之助

  

  [newpage]

  [chapter:吉田司家]

  第八十二代後鳥羽天皇(在位1183〜1198)の御世に、節會再興の折に召喚されし「吉田家次」。相撲全権を任され、「追風」の名を賜り、豊後守を仰せ使つたとか。以来二条家に仕へる。この初代吉田追風は、1234年に亡くなつた。

  ソースはコトバンク「[[jumpuri:吉田追風(初代) > https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%BF%BD%E9%A2%A8%28%E5%88%9D%E4%BB%A3%29-1119620]]」。

  「15世追風」が、熊本藩の3代藩主・細川綱利(細川家4代、1649〜1712)に招聘される。この時に二条家の許しを得て、熊本市に移り住む。

  吉田追風(19代、1818年没)がやり手で、1791年の上覧相撲を成功させた人物。

  1951年以降は、権限を相撲協会に譲り、形式的な権威のみとなつた。

  コトバンク「吉田司家」より。

  [chapter:五条家]

  初代は五条高長(1210〜1285)。

  五条家は半家の貴族(公家)である。

  明治期には子爵(華族)となつた。

  代々朝廷に仕へ、宮中相撲節の相撲司を任された。また、野見宿禰の子孫でもあつた。

  白川伯王家(神祇伯=神祇官の長官)と吉田家(神祇管領長上=1476年)みたいだ……。

  地方に行つて相撲道を傳へた吉田司家は、陰陽道を越前で傳へた土御門家の如くなり。また小京都の金澤も、斯樣な例があるとか。実際京から近いし。

  1823年に五条家が横綱免許を発し、吉田司家への逆襲を始める。

  1868年の戊辰戦争で、五条家当主の爲榮が功を残す。

  1877年に西南戰爭に23世吉田追風が加はり、謹慎す。