続・椿

  Introduction

  肌を斬るような凍て付いた風が、地の底を這うような己の吐息によって、幾らかは温(ぬく)まる、そんな心地。まるで時の流れさえ止まってしまいそうな按排だった、ちょうどそんな宵の口のこと。今にも崩れ落ちそうな男の自我は、朧げな己の記憶を辿ってゆくことで、辛うじて保たれていた。

  *****

  ーーそれは遡ること十二年前、一月も終わりの、真冬の底のことだ。

  まだ男は、少年だった。名は絃次郎(こうじろう)、澁澤絃次郎だ。中学への進学を控えたその冬、悴んだ掌をギュウと音が鳴るほど握り締めて、絃次郎は初恋の相手の十歩後ろで、虚ろな面立ちを隠せずにいた。初恋の相手は、まだウブな情感も顕(あらわ)にしながら、ポニーテールの娘と、掌を重ね合わせていた。

  絃次郎は、ドロドロとした感情の畝(うね)りが己の中で奔流するのを、関係ないからと、あと一歩、既のところで、辛うじて踏み止まっていた。初恋の相手の名は、フルネームで、古谷恭二である。ひと回りは歳上の兄を持つ、絃次郎とは同級の、男好きのする容貌の人たらし。そんな雰囲気で、絃次郎のデリケートな心奥を土足で駆け回るものだから、まだ少年だもの、それは仕方のないこと、顔には出た。

  殺気立つ絃次郎をあやしたのは、担任の兵頭だった。

  「おっす!青春してるか、若人(わこうど)よ」

  兵頭はまだ二十五歳の若手教員で、馴れ馴れしいが、生徒からは人気はあった。

  「先生、どうもこうもないですよ! 俺ときたら告白前からフラれたようなもんだし、気分は沼です」

  肩の力が抜けた瞬間のこと、ひと息ついて、絃次郎の眼からは、温かな雫が数滴、流れ落ちた。追い込んではいけないと、自分でもそう思うのに、じゃじゃ馬な心はひとりでに、暴走をしてしまう。そんな心の機微は、兵頭にはお見通しだった。垢抜けない顔をして、実は兵頭は百戦錬磨、恋愛については一家言あるのだ。

  「塞翁が馬、って知ってるか?あれだな、俺が思うに、お前の想い人は男だ。だから、フラれてみるのも悪くはないかもだぞ、人生長い目で見なきゃならん」

  ドキンと、絃次郎の心臓が、音を立てた。動悸が止まらない。脂汗が肌に滲み、滴り落ちる。縋るような眼差しが兵頭を捉えると、突然視界が変わった。

  「どうだ、気分転換もたまにはいいぞ」

  気が付くと絃次郎は、兵頭に肩車をされていた。小柄な絃次郎は、分厚い肉体の兵頭の肩の上では、まるで実の子のようでもあった。

  憧れは消えない、でもそれだけでは、生きてはいけない。解ってはいるのに、往生際の悪い自分がいて、他人の手を煩わせる。

  「悪い癖だな」

  ボソリと呟いたひと言は、兵頭には筒抜けだった。待ち焦がれた笑顔は、季節はずれの遠い蜃気楼のようにして、淡く消えた。

  絃次郎は、澁澤家の嫡男として、テン年代の生まれである。澁澤家は、金物問屋の江戸時代よりの老舗澁澤商店の創業者一族であり、当代はレストラン経営も行っている。そうした出自故、経済面で困ったことはほぼないが、己がゲイであることについては緘黙するかの如くに沈黙されるばかりであり、幼いながらに、困難は背負っていた。

  何度挫けても、絃次郎はそれでも、恭二を好くことを、止めようとはしなかった。寂しがりだったその背中は憂いを帯びて、なおのこと愛らしくもあったが、何の力もない少年には、武器となるものはそれくらいしか与えられてはいなかったのであるから、運命とは残酷だ。

  子供の頃より病弱だった絃次郎だが、草食系のはにかんだ笑顔が見る者を和ませるので、出入りの若い女衆からは、当時から人気はあった。ただ絃次郎は、恭二以外の他人から好かれることには関心が凡そなかったのであり、有象無象の女どものことは内心では、忌み嫌っていた。

  恭二はと云うと、それは女好きだったが、男のことも悪くはないと思っているのであり、必ずしもその点に関しては、排他的であるとは云えなかった。もっと云えば、恭二は絃次郎のことは嫌いではなかった。ただ男たる者、娘っ子ひとりのことなら、相手の方から跪(ひざまず)かせるくらいでなければ、それくらいには思ってはいたから、ふたりの間の溝は、まだまだ埋まりそうにはなかったのだ、仕方ない。男としての意地と乙女のような内面とが渾然一体となって、矛盾した様相を呈していた恭二、その父は既に喪われており、母はあくまでも親としてよりも、女として在ることに拘った。色々と困難を抱えながら、男らしい我儘さを孕みつつ成長していく恭二に対して、絃次郎は取り付く島もなかったから、それは確かに、可哀想だったかも知れない。

  十二年前、あの日から、絃次郎の時間は止まってしまった。まだ弱かった自分、何もかも抱え切れなくて、あの日、兵頭に縋った。兵頭は抱いてくれた、それは丁寧に。絃次郎は、ひと晩啜り泣いた。後で訊くと、死ぬんじゃないかと思って、それなら、そんな話だった。危ない橋を渡ったのだ。それは賭けとも云えた。その日の記憶は、絃次郎は余すことなく、封印をしてしまう。恭二は相変わらず振り向いてくれないが、一夜の情事は確かに、ひとりの少年を救った。これは確かだったのだ。

  十二年の歳月を経て、大人になった絃次郎は、庭で咲いたばかりの椿の花を一輪捥いで、雪の上に載せると、凛とした面持ちで覚悟を決めた。今日こそ、決着を付けねばならない。想いなら、幾らでもある。あの日受け取った誠意の欠片なら、まだ己の中にだって残っているのだ、そう思って駆け出した。チェックメイト、覚悟を決める時がやってきたのだ。

  インターホンを押す。軽量鉄骨のアパートの二階の共用廊下の片隅で、絃次郎は吹き込む風が冷たい最中、野良犬のような心持ちで、あの日からの想い人の顔が出てくるのを、待ち侘びていた。

  絃次郎ははち切れそうな感情を持て余して、その場に崩れ落ちる。その瞬間に、取り巻く空気が変わった。

  何はともあれ、ドアは開いた。そして、再び絃次郎は兵頭に抱かれるのだった。絃次郎にとってその夜は、馨(かぐわ)しい香りのする、人生のエッセンスそのものだった。

  兵頭は相変わらずの面立ちで絃次郎を惑わすが、考えてみれば彼ももういい歳をした男なのである。所帯も持たずに、ワンルームのアパートの荷物の山に埋もれる、そんな暮らしの中で、兵頭もまた、絃次郎のことを忘れられずにいたのだ。

  ただひとつだけ、ボタンを掛け違えていた。兵頭は寂しさのあまり、恭二とそういう仲になってしまっていたのである。兵頭は絃次郎と出逢って、一途にその気持ちに応えようとしていたから、恭二の存在は邪魔になった。これは恭二には恨まれた。

  「何でお前は俺の居場所を盗んで、平然としていられるの?」

  そう問われて、絃次郎の胸は痛んだ。だが、退けない。だから敢えて問うた。

  「じゃあお前は、そんなことを抜かすお前は、僕のことを、受け入れて抱き締めてくれるのか?今までどうだった?冗談抜かせよ!」

  薄々、恭二もその想いには勘付いてはいたから、絃次郎のそのひと言で、改めて茫然とするばかりなのだった。

  結論から云うと、絃次郎は恭二と、友達にならなれた。二の句を継ぐにも、恭二は淡々としたもの。

  「だって俺、ウケだもん」

  そう云われて、思わず絃次郎は吹き出した。

  「それなら、皆んなハナから、そうなんじゃないの?この世界そもそも、ウケしかいなくない?」

  それでふたりは笑い転げた。心の中の根雪のような違和感が解(ほど)けてゆくのを、ふたり揃って、何処かで感じながらーー。

  恭二はまだ女という存在にも未練があるらしく、そちらの前では気丈に振る舞う。生きていると、辛いこともままあるものだ。けれども、前を向くしかない。恭二には恭二なりの幸せの形があるように、それはきっと絃次郎にもあるものだから、諦めないでいればいい。絃次郎は己の罪深さを感じながらも、今できる精一杯を成し遂げるべく、兵頭とがっぷり四つで向き合うこととした。

  そうしたことを受けて、次の逢瀬で、絃次郎は兵頭を組み敷いた。

  「ねぇ兵頭くん、今日は僕がリードするから!」

  「うん、それでいいよ」

  存外素直に兵頭が甘えてくるので、絃次郎は拍子抜けするのだった。

  それから少しずつ、ふたりの新たな日常が廻り始めると、兵頭は子供のような自我を持て余して甘えてくるので、絃次郎は思案するのだった。このまま飼い慣らしておくのもいいか、そうも思えて、絃次郎は一時、幸せだった。

  凶報は、それから一週間ののちに、絃次郎の耳に入った。兵頭が、嫉妬に駆られた生徒に刺されて、深傷(ふかで)を負ったのだった。兵頭は今も生徒からは人気があったが、それだけに、嫉妬もされるのである。

  幸い命に別条はなかったので、入院こそ必要だったものの、それもひと月ほどで済んで、ふたりには安息が与えられたかのようだった。

  兵頭は、頭の片隅で、ずっと絃次郎を気に掛けていた。振り返ると、その身に降り掛かる運命は安楽とは云えず、悲恋も多かった。男同士でのこと、教員でもあるから、世間の目もあった。目にちらついて離れなかったのは、絃次郎のはち切れんばかりの肢体、男ならではの肉体だ。それだけではない。甘ったれな面構えも、戯けた時の面立ちも、あどけない笑顔も、皆んな大好きだったのだ。

  ふたりは入院というハプニングを利用して、新婚の夫婦(めおと)のような、睦まじい時間を過ごすのだった。打てば響く、そんな幸せ。だが、残虐な運命は、急転回をして、ふたりを奈落へと突き落とすこととなる。

  何故だろう、涙が止め処もなく溢れてきて、悔しくてならない。絃次郎は、歯を食い縛った。兵頭を刺した少年とは、示談が成立していた。だが、その少年は再び兵頭を襲い、今、絃次郎にも襲い掛かろうとしているのである。後ろでは、可哀想に兵頭が、息も絶え絶えにぜいぜいと、苦しそうにしている。絃次郎は、少年に喰らい付いた。何としてでも、兵頭のことだけは、助けたかった。生きていて欲しかった。だから、ここで絃次郎は、己の命運をあらかた、使い果たしたかのようだった。少年は、何度も何度も容赦なく、絃次郎のことを突き刺し続けた。幸せになってね、それだけを云い残して、絃次郎は風に溶けて、最早消えゆく運命となりつつあった。

  少年は直ちに自害した。残されたふたりは、その少年の命を引き継ぐかのような按排で、奇跡的に一命を取り留めた。それは、ちょうど椿の咲く季節のことだった。少年の挙動を不審に思った兵頭の同僚が、跡を付けてくれていたのだ。あと一歩気付くのが遅かったなら、間に合わなかった。それから一年が経って、ふたりして後遺症もよくなった頃合、また椿が咲き乱れた。今度こそ幸せになれる、そう信じたから、ふたりは笑顔でいられた。仕事も帰る家もある、まだまだ生きられる。そんな幸せ。ふとあの少年の孤独に思いを致して、ふたりは時に号泣もした。皆が幸せになれるわけではない、運命など所詮は不公平なもの、それは止むを得なかった。それでも朝日は昇るし、夜になれば暗闇が辺りを支配する。変わらぬ世の理の冷徹さに改めて身じろぎをするふたり、所詮運命の前では、まだまだ子供のようなものに過ぎないのだった。

  橙の光線が地平線と溶け合いながら闇を齎そうとする時、一瞬不安になって、兵頭は子供のように、絃次郎の温もりを求めた。やっと掴み取れた運命の人、もう繋いだ手を離すつもりはない。

  「ねぇ、俺のこと、まだ好き?」

  そう訊かれて、もちろんと肯(うなず)いて、絃次郎は目の前の絶壁頭をくしゃくしゃになるまで撫で回した。

  こんな幸せもあっていい、そう思えたのは、ふたりが大人になってきた証拠だ。そのままで、真っ直ぐに生きるより他ない、問題ない、この世の中そんなに、不幸ばかりではない。

  溶け合う視線が闇に揺らめいて、視界を潤ませる。

  「また好きになっていいかい?」

  自信なさげに俯く兵頭を見て、堪らなくなって、絃次郎は抱き付いた。今度こそ、幸せは、手放さないーー。

  Conclusion

  恭二と、いつか見たポニーテールの娘が、結ばれたという報せを受けて、兵頭が己では駄目だったのだと、絃次郎に吐露した。その邪魔をしたくなかったから、今日まで気持ちを入れ込めなかったのだという。確かに、そういうこともまた、あるのだ。

  皆んな幸せになれればそれでいいよ、そう云ってこの日の兵頭はいつになく穏やかだった。そういえば誰も兵頭を下の名前では呼ばない。知らない者も多かったが、もちろん絃次郎や恭二は知っていた。それでも敢えて姓で呼ぶのは、その方が兵頭が嬉しそうにするからなのだった。

  兵頭の男性観に纏わる原体験は、小学二年の頃にまで遡る。同級の、ひと回りは小さな男の子をずっと好いていた。周りは、その気持ちに薄らと気付いてはいたが、敢えて反対はしなかった。兵頭は幼い頃は病弱で、生きることもままならない有り様。だから両親は、どんな形でもいいから生きていて欲しいと、それだけ、願っていたのだ。

  兵頭はその思いを受けて、粘り強く頑張った。やがて武道に目覚めると、それまでとは打って変わった力強い一面が、顔を覗かせるようになった。好きな子を虐めから守りたい、その一心で奮闘したのだ。

  その男の子とは、小学校の卒業を機に、離れ離れとなる。だが、その後様々な出逢いを重ねることで兵頭は強くなったから、それも悪いことばかりではなかった。

  ずっと心残りだった絃次郎と寄り添える日々の幸せを、まだウブだった頃の自分の幼さと重ね合わせて、まだまだ大きな器にならないといけない、そう思った兵頭、何があってもこの日々を手放すまいとそれだけを誓った。

  三月、恭二の結婚式の日を迎えた。絃次郎と兵頭も呼ばれており、もちろん出席をした。空が青い。ツンと鼻に抜けるような、そんなすっきりとした空気の冷たさに身じろぎをする一同、記念撮影で、懐かしい面子が並んだ。皆大きくなった。それは掛け替えのない、幸せなこと。授かった命だから、万にひとつも粗末にしてはいけない、そう祝辞で恩師として述べた兵頭、まだあどけなさの残る恭二に幾許かの頼りなさを感じつつも、いい男になったと、そうも思っていた。写真は綺麗に撮れた。珍しいくらいに凛々しく写った新郎に、思わずふたりの笑みが溢(こぼ)れた。

  その夜、絃次郎はいつになく男らしかった。ほろ酔い加減の兵頭を力強く組み敷いて、甘やかなひと時を愉しむ。こんな幸せがいつまでも続くように、そう祈るようにして、今夜も切々と、情事に耽るのだった。

  まだまだ、人生はこれからが本番、兵頭にしてもそんな思いだった。絃次郎の住む部屋の一階で、ふたりは息の詰まる距離感にも慣れた様子だ。硝子一枚隔てた外では、椿が思い思いに綻んでいる。まだ行ける、そう確信して、兵頭は今日も絃次郎に甘える。ふたりなら、その力百人力だと、兵頭は笑った。だから絃次郎はキスをした。甘い口付け、その行末が未知の世界でも、ふたりにはたじろぐ時間はもうない。未来を、君となら作ろう、そう思えて、ふたりは心底、幸せだったーー。

  了