アンニュイな森

  Introduction

  幼い頃、森を臨む庭で、微睡みながら、戯れに時を過ごす。ほんのささやかな幸せ、それは気付けば、指と指との間から、擦り抜けて行く。それでも。風馬はどんなに辛い目にあっても、それでもなお、人との繋がりを求めた。それは誰しもが持つ業であるから、仕方ないとも云えた。空は重く、風はミシリと音を立てて冷たい。風向きは変わらない、向かい風、それでもなお、人が恋しい。だから誰しも、限りある時を大切にして生きるのだ。未来の行方など誰も知らない。だから、可能性だってなくはないのだ、そうは云えまいかーー。

  *****

  切々と、空気の色が険しくなってゆく。ここは東北の地、遠い思い出の残照が、夕陽と溶け合いながら、闇と同化してゆく。辺り一面、地べたは純白そのものだった。それはそろそろと終わり行く冬の名残りのように、道行く人の顔をキンと凍えさせる、自己主張そのものだ。

  風馬という通り名の少年が、氷柱の先端を圧(へ)し折ると、舌で溶かし始めた。瞬間、キリリと、頬が引き締まる。何故だろう、こんなにも冷たいというのに、胸が温かいというそれだけのこと、風馬はたったそれだけのことを、心に沁み渡らせていた。

  一陣の風が吹く。おしゃまな女の子たちが、通りを駆け抜ける。面白くない風馬、氷柱の残りを脇道に放ると、庇のあるトタンのバス停のベンチに腰掛けて、己の頬を引っ叩くのだった。彼(あ)の子らは如何(どう)して、あんなにはしゃいで居られる?それが解らないのだ。風馬はお母さんっ子だった。だが、雪下ろしの際の事故で、母親は首から下の自由を喪ってしまった。そんな仕事は出入りの若い男衆に任せておけばいいものを、つい出しゃばるから、それは魔が差したとでも云うべきことか。得意だった家事も裁縫も何もできずに家で看病を受ける間、母親は悔しそうに、それは涙交じりの、まるで魂からの叫びであるかのように、その声は度々部屋中に木霊するのだった。

  母親の変貌ぶりに狼狽えたのは、父親だった。実のところ、関心などハナからなかった。愛人に入れ揚げていたのだ。しかし、である。以前であれば妻は、良妻賢母として、家事を取り仕切ってくれた。それが今では、只の足手纏いでしかない。

  風馬の家の庭からは、小さな森が見える。それは家の敷地とは地続きとなっており、ベニヤの柵で境界を一応、仕切ってあるだけのことだった。

  その森には、言い伝えがあった。生贄の代わりとして死者の頭髪を捧げると翌年にはその家の者の願いが叶うという、眉唾物の話ではあったが、父親は乗ってみることにしたのである。

  父親は、精神科医としては、一応の権威は持つ身である。投与するなら、ペントバルビタールが良いだろう、そう考えた。中毒にしてしまえば、直(じき)に勝手に歿くなる、そういう腹積りだった。直接荒々しく手を掛ける覚悟までは、なかったのである。

  母親は、睡眠薬の投与開始後一年ののちに、天に召された。これはほんの匙加減ひとつのこと、容易いことではあったのだ。

  荼毘に付される前に、頭髪は残らず刈り取っておいた。スキンヘッドの妻は、それはそれで側から見れば、美しいに違いはなかった。

  ベッドサイドに腰掛けた若い女が、娼婦のような顔付きで、風馬の父親に迫る夜。窓の外は一面の雪景色、闇夜に溶け入るその様は、まるで横溢するあの母親の心奥のように、穢れなく美しかった。それでもなお、父親は若い女を選んだ。その有り様を最も痛烈に憎んだのは、風馬だった。風馬は察していたのだ。父親が森の祠(ほこら)に母親の頭髪を捧げた時、もしも神が居るとしたなら、天罰を与えてやって欲しいと、風馬は痛切にその様に思い詰めるのだった。

  七年前の春、まだ幼子に過ぎなかった風馬には、ませたことに、想い人が居た。それは、吹き渡る風のように、爽やかな少女であり溌剌としていた。彼女は、小児癌だった。スキンヘッドで、それでも、どんなに辛くとも、音を上げることのない芯の強い子だった。恋としては風馬の片想いだったが、側(はた)で見ているだけだったその風馬にも平等に笑顔を分け与えるような、心の優しい子でもあったのだ。

  幼稚園の卒園式の帰り、母親たちの思い付きで、少女とその友人等は、記念のスナップショットに写ることとなった。中央にて前を向いて笑う少女と、端っこでそっぽを向く風馬。それは風馬にとっては、幼いなりの、照れ隠しだった。

  その後、ふたりは別々の学校へと進み、自然と交流は途絶えてしまう。時は流れて一昨年(おととし)のこと、風の噂で、少女が天に召されたと聞いた。頭に鈍痛が走る。風馬は、その子の顔を思い出すなり、ひとり自室で、崩れ落ちるのだった。何もできない己の無力さを知って、風馬は、寂しさを隠し切れないでいたのだ。

  それから、風馬は男として、心も体もひと回り、大きく強くなった。寂しかった、でも負けるわけには行かなかった。

  苛められて泣きべそを掻いていた遠い日、少女が風馬を励ましたことがある。

  “いいこと、今の時代男も女も、笑う門には福来る、本当にそうなのよ!”

  数少ない遣り取りの思い出は、風馬の中で根雪のように溶け残った。人生は、戦いだ。負けても負けても、何度でも立ち上がって、前に進む。そういう価値観を、幼いながらにふたりは、会得し共有したのだ。

  閑話休題。

  あの幼かった日々から時は流れ、今、風馬には好きな少年が居る。スキンヘッドであることがあの少女を彷彿とさせたが、他は全て、真っ新(まっさら)の印象を残した。人生で二度目の恋の相手が男だったわけで、やはりそこは一筋縄では行かなかったのだ。

  相手の少年の名は、康二と云った。夏の太陽のような笑顔が目に焼き付いて離れず、それは風馬の劣情を喚起させるには、十分だったわけである。

  風馬には解りやすいところがあったから、康二は彼の想いを察した。その上で、そのことを黙殺して、友達で居続けようとしたのだ。これも或いは、捉えようによっては、悲恋だったかも知れない。

  風馬は、それが原因だったか、父の眠る寝室で、その首元に手を掛ける。赦せない、そういう思いは、募るばかりだった。こんな父親など苦しめばいい、そうも思えた。けれども、咄嗟の父親のひと言で、風馬の激る思いには罅が入る。父親は確かにこう云った、済まないーー。

  父親は既(すんで)のところで一命を取り留めることとなった。だが、ふたりの溝は、その後(のち)は決して、埋まらなかった。みしりみしりと、風馬の心が微かな悲鳴を上げる。この時にそれを救ったのは、他ならぬ康二のひと言だった。

  “そんなに好きなら、いっちょ付き合ってみんべよ!何事も経験だべした!”

  その時の笑顔に嘘がないことを信じたから、風馬は己の今と未来とを残らず、康二に託した。それはナイーヴな、少年ならではの勇気だったのである。

  康二は根っから素朴な男だったから、チャラチャラと着飾るような輩のことは、男でも女でも、あまり好かないのだった。その辺りの機微は、ふたり揃って息が合っていたから、先ずはそこからのスタートとなったわけだ。

  とはいえ。会津若松の街中で、お揃いのiPhoneとAirPods、そしてApple Watch、それらを身に付けた彼等は、ほんの一瞬、無敵とも云えた。彼等はロックを好んだ。サブスクリプション全盛の折、洋邦問わず聴き倒す。ささやかな悲劇は、直ぐそこまでひたひたと迫って来ていたというのに、ふたりにはそれが見えていなかった。

  風馬の母親は、かつて出入りの男のひとりから、熱烈に好かれていた。不貞を好まなかった母親は毅然として受け付けなかったが、その身が喪われた今、出入りの男の憎しみは、風馬の父親へと向けられることとなる。

  如月の宵、暖炉の前で、ロッキングチェアに揺られてうたた寝をしていた風馬の父、それは最早風前の灯だった。出入りの男が居間に現れる。片手には斧、次の瞬間、辺りは紅(あか)一色に染まるのだった。風馬は康二の家でお泊まり、他に誰も居ない家の中で、悲鳴は虚しく木霊していた。その後(のち)、出入りの男が火を放ったので、屋敷は全焼してしまう。男は父親の亡骸と折り重なるようにして倒れた。その時の顔は、まさに鬼の形相だった。

  風馬は、帰る家を失くした。戻ると、実家はもう、跡形もなかった。しんしんと、雪が降り積もる。風馬の孤独も誰かの痛みも何もかもを残らず、まるで空からの六花が覆い隠してくれるようで、この時の風馬には、それが丁度良い按排だった。

  風馬の引き取り手は、直ぐに見つかることとなる。それは歳の離れた、母方の従兄弟であった。克(すぐる)という。会津若松でひとり暮らしをしており、経済的には問題はなかった。一報を受けて、安堵した者は多かったという。厄介払いができてホッとしている人間は、他でもない風馬の親類には、多かったのだ。風馬はそれを薄々察知はしており、唯々諾々(いいだくだく)として従うより他なかった。それも立派な処世術のひとつではある、責められまい。

  風馬と康二の蜜月はそれからも続くこととなる。けれども、ともに高校を卒業するまでの何年かは、風馬にとっては辛抱すべきこともあり、その頼りない双肩(そうけん)には、それは重くのしかかっていた。一番のことは、風馬が克のダッチワイフ代わりになることを、立場上風馬からは断れないことだったに違いない。

  「なぁ風馬、そんな顰めっ面(しかめっつら)せんで、もっと気持ち良さそうな顔したらどうだ、おい」

  克には何を云われても無言の風馬、高校卒業までの辛抱だと、やり過ごすしかないのだった。

  康二は風馬には、優しいままだった。薄々風馬の異変には勘付いてはいたが、己の非力な立場を弁えてもいたから、何もできない現実はそのまま受け入れるしかないのだと、そう思って諦めていたのだ。

  「なんや、もうあかんのか、根性ないな」

  「ひん剥いちゃえよ!」

  ーー風馬は或る夜、克に身を預けながら、昔学校で性的暴行を受けた一部始終を、思い返していた。結局、自分は穢れたまま、己の非力さのせいで、この状況からは抜けようがない、そう思うと涙が溢れて来るばかりで、克は無言のまま、腰を打ち付けるのみだった。

  高校卒業の春、ともに上京して就職した風馬と康二は、奥多摩の小さなアパートで暮らし始めた。男同士でのことだったので不安もあったふたりだが、拍子抜けするほど簡単に物件は見つかった。時代は変わったのだ。ふたりとも成年したばかりだったが、都のパートナーシップ制度を利用しており、これが決め手となったのである。

  花冷えの折、空模様がぐずついている。切々と、それはふたりの心模様と同じように、薄墨色のグラデーションを成していた。

  部屋では、ふたりが抱き合っていた。ギシギシと、まだ真新しいパイプベッドが悲鳴を上げる。

  「あっ、あっ!康二、もっと!」

  上の空で呻く風馬、もう息も絶え絶えといったところ。康二にとっては、その一秒一秒が、嬉しくもあり面映い、目に焼き付けておきたい、そんな時間の降り積もる、いつも通りの、然るに特別な夜でもあった。

  事後、引っ越しのお祝いをささやかに行うふたり、躊躇いがちにキス、ほんのりと甘酸っぱい、青春に似た味わいがした。

  ふたりは、奥多摩のとある工場(こうば)に就職。斡旋してくれたのは、克だった。何も彼にしても、鬼だったわけではないのだ。せめてもの罪滅ぼしのつもりでもあった。その点、康二には戸惑いも躊躇いもあったが、せっかく貰えるチャンスは、ふいにしたくはなかったから、乗ってみることにしたのだ。

  季節は移ろう。渓谷の清冽な水の流れが目にキラキラと眩しい、奥多摩の夏。週末になるとふたりは度々、渓谷で釣りや水遊びを楽しんだ。

  今でも時折思い出す。母親の、断末魔の叫びを。お盆休みには、奥会津のあの森へと、行ってみようと思っていた。ふたり連れ立ってなら怖くはない、そういう算段もないではなかった。

  電車に揺られて、郡山へと向かうふたり。駅からは、電車とバスとを乗り継いで、現地へと向かう。

  「なぁ、お前の母ちゃん、可哀想なことになったんだべ?傷は癒えたかー」

  「ううん、やっぱりまだ苦しい。でも、乗り越えないとね。康ちゃんは、僕と克さんとのこと、知っていたんでしょう?よく振らなかったよね、僕のこと」

  「んだどな、だげんどお前んことは大好きだからした、諦めねえで居られたんだべ」

  母屋が全焼したかつての実家は、更地になっていた。小一時間、草刈りに精を出し、森を探索する。その時、ほんの一瞬、母親が目の前に現れた気がして、風馬は感無量だった。

  ここまで頑張って来たふたり。来る日も、来る日も、工場では苦闘の連続だった。楽しいことばかりではない、それでも諦めの悪い人間だけが生き残るのだと、そう信じていたから、頑張れた。況してや、ひとりではなかったもの、それはそうだ。

  思い返すと父親も哀れな人だったと、今ならそれくらいに思える風馬、納得して奥多摩への帰路に就いた。振り返って森を見ると、虹が架かっていた。

  命のバトンを次へと繋げないこと、それは重たい事実だ。それでもいい、そう信じられたふたりは、それは酔狂だったに違いない。皆に赦される生き方であるかは、解らない。それでも、君とならどんな地獄からでも這い上がってみせる、心底よりそう思えたから風馬は強くなった。

  アンニュイな気持ちを引き摺りながら、それでもまだやれると信じたふたりに、世間の風はもう優しかった。まだ若いもの、挫けてもいい、何度でも立ち上がれば、それでいい。ふたりは、きっと無敵なのだ。

  奥多摩に戻った翌日、克がふたりの許(もと)をわざわざ訪れた。克は、幼馴染の女性と結婚をするのだという。男はお前だけで十分だったんだよとはにかんで風馬に笑う克を、向かい合っていた康二は、歯噛みして見つめるばかりだった。

  頑張れ、そう珍しく強気に克を追い立てて、風馬は清々しい顔付きをしていた。そろそろ夏も終わり。蝉の声が五月蝿い中、風馬と康二は、ともに一途で在ろうとそう誓って、夕暮れ時の温(ぬる)い風に暫し身を曝した。

  何だって移ろいゆくもの、季節だって人の想いだって、皆そうだ。だから一瞬一瞬が掛け替えなきように、それは大切なこと。そう知って、またひとつ大きくなれたふたり、道なき道を往くそんな仲睦まじいふたりの後に、願わくば一本のしゃんとした轍が、嘘偽りなく、ちゃんとできているように。きっと風馬の母親も、それだけ、願っていたのに違いないのだからーー。

  Conclusion

  君となら、また逢える。信じてる。だからもう少しだけ、待っててーー。

  そう走り書きを認(したた)めて、アパートから逃げ出したのは、他でもなく風馬だ。仕事での失敗が重なり、追い詰められていたのだ。

  風馬が向かった先は、会津若松。結婚前日を迎えた克を、アポイントメントなしで訪ねたのだ。

  夜、酒は入っていたものの、克は、ひとりだった。事情を察した克、風馬のことを、それは丁寧に抱いてやった。前戯が長い。風馬は堪らずに、声を上擦らせる。初めて見る声と表情に、克は興奮した。最後に、お前は良い子だ、そう云って果てた克、その胸の中で風馬は、泣いていた。

  別離の折、風馬は風に溶け入るような、そんな、えもいわれぬ表情をして克に見送られていた。

  残り香さえも消え去るように、念入りにシャワーなら、浴びてきた。もう思い残すことはない。

  翌朝、奥多摩のふたりの部屋に戻ると、ドアを開けるなり康二が、抱き付いて来た。この人が僕の一番なのだと再びそう教わって、今度こそと会心の笑みを浮かべる風馬。少しあざとかったかも知れない。でも、それくらいが今は丁度良い、そう思っていたから、後悔はなかった。

  嬉しさも寂しさも悲しみも、漣(さざなみ)のように、淡々と心に寄せては返す。悔しかったことなら、互いにあった。心が折れそうになったことも、一度ではない。それでも今、風馬は、この人になら付いて行くと、嘘偽りなくそう決めていたから、だから迷うことなくキスをした。

  幸せになれるかって?このふたりのためになら、きっと幸せの方から、傅(かしず)くことに違いない。最後に、皆んな、ありがとう。

  了