春雷

  introduction

  愛って、なんだと思う?

  それは永遠に続くもの?

  形はあるの?

  なにもかもなくなっても、愛があるならーーそういうものが愛だとしたなら、僕らは嬉しい。

  君となら、どこへ行けようか。

  迷いながら、手探りの日々を送る。

  これは、愛だろうか?

  考えるたびに、躊躇が増す。

  君になら愛の言葉も、囁こう。

  でも、それが嘘なら、意味などないから。

  春雷が轟く。

  いつかは、君の気持ちも知りたい。

  一緒に歩こう、それだけを願って。

  だから云うよ。

  好きだよ、でもそれだけじゃないよ。

  ありがとう。

  ヒロイックな朱赤の階段を一段一段カーブに沿って昇っていくように、そのときの僕らの心は静々と跳ね上がっていた、まるで涙を流しながらのこと、それはまるで人生の縮図だ。

  なんだろう、この冷たくもあり温かくもあるような気持ち。

  まるでオキシトシンでも振りかけられているかのように、僕とその家族一同はこの見知らぬ星からきた青年を受け入れていた、ごく自然に、しかし激しく。

  ふわり、心が舞い上がる。

  いつでも、いつまででも、ほんの一瞬でも一緒にいたいと思う。

  そんな僕らふたりを、両親も心ならずも応援していた、いつのまにか。

  それもまた、あるいはひとつの愛の形なのかと、僕らは思ったーー。

  *****

  1

  「うああーっ!」

  重い荷物を担ぎながらそろりそろりと主人が急な階段を降りる、これがいけなかった、主人はぎっくり腰となってしまった、階段から転げ落ちる主人、しばらくは働けないと言う、笑えるようでいながらそんな温かくも、馬鹿な話ではある。

  その昔の長屋の風情を残した東京下町の現代、見上げると不細工なベランダが情緒の欠片も感じさせないタワーマンションが林立している、年々住みづらくなってゆくさまは奥方としてはとても腹立たしいばかり、何がぎっくり腰だ、少しは働け、奥方はこのように、日が経つにつれて怒りを鬱屈とさせてゆくのだった。

  軽々しくも重々しい沈痛な雰囲気が辺りを支配する、息子とその妹が似たような丸い面を並べて、下を向いている、視界の斜め下にはちゃぶ台が置かれ、その向こう側には簡素な箪笥が並ぶ、流しは全てステンレスで張られ、柱は煤けて相応の味を醸していた。

  息子は留吉で、妹はきらりだ、留吉の足元には猫が一匹丸まっている、にゃん助といった適当な名で呼ばれているのだが、実はプライドが高い、面倒な存在なのだ、留吉に可愛がられている、野良であり、連れてきたのも留吉だ。

  で、実はこのにゃん助、喋るのだ!

  ただ気分屋であり、その時々によって喋る相手を選ぶ、大抵は留吉と喋るのだが、相手をはす向かいの良吉とする場合もあるのだ、実は留吉は良吉と幼馴染みで、その筋の人間であることは良吉の両親からはすでに知られていた、良吉の両親からは可愛がられており、あとは留吉の実の両親がどう出るか、その話し合いが今まさに行われているのである。

  「どうするよ、あんた!」

  「どうするもこうするもおめえ、はす向かいの旦那がいいって言ってんだ、飲むしかあるめえ」

  下町の風情を残した男親は、はす向かいの旦那のせいにしつつも、結局のところは息子のことを可愛がっているのだ。

  「ま、仕方ないわね、跡継ぎは要るからきらり、婿を取りなさい」

  きらりは黙って頷く、だが留吉は見逃さなかった、その瞬間にきらりの両眼が留吉を憎々しげに射抜いたことを。

  その後、小屋裏で揉める留吉ときらり、一触即発だ、あんたなんで面倒ごとを全部わたしに押し付けるの、俺は湘南で自由になりたい、そんな調子で話がまったく噛み合わないのだ、そこへやってきたのがにゃん助、どうしたお前ら、そう云ってふたりの話を聞くのだった、やがてすべての話を聞き終えるとにゃん助は手持ちの巾着から小瓶を取り出し、中の液体を振りまく、するとどうだろう、ふたりとも見違えるように、朗らかな気分となるのだった。

  そこへやってきたのは良吉だ、「よう留吉、どうした、そんなマリファナでも吸ったような面して」とのたまう、なので留吉は「湘南行き決定!俺も彼氏見つけんだー!」と返した。

  「留吉、お前どんなんタイプなんだ?俺はデブ細のデブだけど」

  「俺はデブデブよん。」

  「あー、そんな感じしたー!お互い頑張ろうな!それよりうちこねえ?今晩、両親いないんで暇でさー」

  だが先ほどの話し合いのピリピリとしたムードでぐったりとしていた留吉は、これを適当にあしらった。

  「またなー」

  「おう」

  振り返ると、良吉が両親と挨拶をしていた、それはまるで家鴨たちの鳴き声でも聞いているかのようで、滑稽だった。

  再び室内に入り木製の急な階段をそろそろと上がる留吉、足を動かすとともにみしりみしりという怪しげな物音を煤けた階段が立てるので、怖いのである、この辺りのことはいつまで経っても慣れない。

  自室に入るといつも目に飛び込むのが、大きな梁である、もう一日が終わろうとしていた、ガタガタに崩れたスカイラインの隙間から切れ切れに見える残照が、美しい。

  もう夕食は済ませた、先ほどの光景は食事中のものだったのだ、目の前のサッシを眺めながらキャスター付きの椅子の背もたれに寄りかかって、煌めく夜空を五感で感じていると、物音が鳴った、突然だ。

  「コンコン」

  見ると「ごめんください」という声とともに太った青年がサッシから室内に入ろうとしていた、窓の鍵はかかっていたのにだ、おかしいわけである、だが入ろうとしているのに脚が上がらない、見かねた留吉は青年を引き上げようとする、その次の瞬間に「うわあーっ!」という声とともに部屋の端から端まで二人が転がっていくのである、重さにつられて。

  「あいたたた……。」

  しばし蹲るふたり、やがて立ち上がった見知らぬ青年の頭には、青い角が生えていた、どうだろう、見ると光っているではないか!

  フルンという名のその青年は留吉にペコリと頭を下げると、痛そうにフルフルとした腹を抱えながらその場に正座するのだった、「はじめまして、僕の名前はスフィアス=フルン、ここ地球と同じ天の川銀河の端っこにある惑星リリアからきました、よろしくね」とそれだけ言って温かで柔らかな掌をすっと差し出した。

  握手して、同盟成立!

  だが留吉からしてみればそれどころではない、白くて柔い太腿がはち切れそうで、それが留吉をいざなっているようだったから、これはもうたまらない、ここは我慢をするしかなかったのだから、じりじりとした心持ちが留吉をいらだたせているかのようだった。

  窓から小さな中庭を見下ろすと、一帯を小さな宇宙船が覆い尽くしていた、なんだろう、この違和感は、留吉はそれには開いた口が塞がらないのだった。

  しかしそれにも増して興奮しているのはこれもまた留吉なのだった、「宇宙船の中見せてよ!」と興奮のあまり顔を上気させる、すると「僕が案内します、ついてきて!」と云ってフルンが先にドタバタと階段を駆け下りてゆくのだ、続いて留吉も、転がり落ちそうな勢いで駆け出してゆくのだった。

  「おい、留吉!そこの角のある奴!」

  父が二人を呼び止める、「おいこの白いのはなんだ!宇宙船か!」といった具合で、まあバレてはいるのではあるが、問題はその血相だ、今にも倒れそうなほどに顔を赤くしていたのである。

  「あらそこの兄ちゃん、留吉の連れ?」

  母がそう言うのでその場のノリで双方うんと頷き、即興でカップル成立、フルンはといえば頬をポッと紅く染めてすでに奥さん顔、留吉はといえばやんちゃな笑みでこれに応える。

  コクピットに入れてもらうと、中は驚くほどに狭かった、ただ純白の世界だった、ディスプレイを覆うガラスでさえもが白い、そのそばにある小さな座席にちんまりと腰掛けた留吉はただ、目の前のその白をぼんやりと眺めるだけなのだった。

  ブルンがこの小さな中庭に着陸したのはそもそも中庭のある戸建てがこの辺りにはなかったというのがある、タワーマンションの内側は目立ちすぎる上に、着陸時の高度の問題もあって侵入は不可能だったのである、ふたりは星を見上げる、リリアはどのあたりだろうか、留吉は突然抱きつかれた、そしてその胸のなかでフルンはおいおいと泣く、フルンも青年ではあるが、地球人の若者と同じでまだまだ子供のようなものだ、弱いところだってある、男だって泣くのだ。

  2

  懐かしい風が薄紅の花片を運ぶ、三月。

  陽射しの眩い昼間、まるでなかよしの兄弟のように手を繋いで、欅の並木の真横をズンズンと進んでゆくふたり、そのとき、どうしたことだろうか、くらりと身体がよろめいた、軽い目眩だろうと思った留吉だったが、フルンはいつでもやさしかった。

  帰宅後に、ふたりでコーヒーブレイク。

  ねえもうちょっとコーヒー足して、留吉のそんな声に応えるように、コーヒーポットからカップに温かな液体を注いでゆくフルン、純白の湯気が途端にふわりと舞い上がる、コーヒーの黒に限りなく近い色と湯気の白とのコントラストが綺麗だ、つけ合わせは羊羹、それはいくらなんでもどんなことだろうか、と思うフルンなのだが、それはおくびにもださない。

  ここでにゃん助がひとこと、飯をよこせ、とこれである、横暴にも見えるが、これも茶目っ気なのだと留吉は知っている。

  どうもこの家の大人たちの耳には、にゃん助の喋り声は聞こえていないようだが、はす向かいの良吉の家の人間は全員聞こえるのである、不思議なこともあるものだ。

  幾日かを経て、翌月に留吉とともに大学進学を控えた良吉が遊びにきた、これを機に皆でフルンの出自やその他もろもろを聞き出そうというのである、フルンはどこからやってきたんだ、良吉がそう聞くとフルンはリリアと答える、遠いらしい、戻れる確率は限りなく低いのだとか、残念だ。

  実はリリアは敵国の攻撃を受けてすでにない、情報戦の末に敵国の手に渡った戦略兵器である機械要塞の主砲で一撃で粉砕されたのだ、要するにフルンはふたりに心配をかけたくなかったのである、だからわずかでも戻れる確率があるかのように装ったのだ。

  留吉と良吉はこの四月から湘南藤沢の同じ大学に通うこととなった、フルンも同じ大学だ、知的水準は案外同じ程度らしい、本来ならば相方のフルンがいるなら地元にいても良さそうなものであるが、そこはそれ、湘南で自由になるという大テーマは揺らがなかったのである、それにしても抜けている割には意外と頭のいい三人なのだった、これからますます三人でつるめる、これでよかったのである!

  「湘南でも三人でつるもうな!」

  どちらからともなくでてきた言葉、覇気があった、それはすぐそこの未来への希望から来ていた。

  やがて引っ越し、留吉とフルンは同じアパートに住む、にゃん助は留吉が連れてきた、家猫で頭がいいから、騒ぐなどの粗相はしないだろう。

  「にゃん助お留守番よろしくねー」

  「行ってきまーす!」

  フルンは大学では人気者になっていた、それは光る角のお陰でもある、ふわふわとした雰囲気も癒し系として認知されていた、もう二度と会えないだろうが心の強い凛とした実母を思い出しては記憶に刻みつける、そして遥か彼方のやさしい実父を思い出してはやはり記憶に刻みつける、だからだろう、ほんのひとひらの涙が宙を舞う、そのとき、一瞬、崩れ落ちそうになった、だがフルンにはもう留吉がいる、きっと大丈夫だ。

  「君に逢えてよかったよ、留吉」

  「ん?なにか言ったか?」

  「ううん、大丈夫」

  このとき実は、留吉にはフルンの声が筒抜けだったのである、ただ恥ずかしかったから、聞こえていないふりをしたのだ。

  遠く遠く、遙かな空の向こう側。地続きではないけれども、リリアと地球は、膨大な数の微粒子を間に置いて確かに繋がっている、そうとも云えた。

  それからどれくらい経ったろうか。

  ある曇天の正午ごろ、雲がところどころ切れ切れになっていて、隙間からわずかに陽の光がコンクリートに落ちてきていた。

  雀が一羽、フルンの目の前を飛び立っていった、可愛いなあとそれだけを言ったが実はもう少し考えていて、「白鳥よりも雀のような男でありたい」といったように思考がぐるぐると頭のなかを回っているのだ、そんなようにしているときは要注意で、フルン、必ず迷子になるのだ。

  キャンパス内をうろうろと歩き回るフルン、このときはひとりだった、腹の虫が盛大に鳴っている、だが、方向音痴なので留吉は見つからない。

  実はフルンには財布は持たされていない、そそっかしいのですぐに失くすのだ、同様の理由で携帯も持たされていない、失くしたら高額なので、しかたないのだ。

  こういうときには待ち合わせ場所を決めてあるのだが、掠めるほどのほんの先を周回するフルン、まだ留吉とは合流できそうにない。

  ここで運よく良吉と出会うフルン、その案内で実際にはすぐに留吉と逢えたのだから実にラッキーだ、何しろこのキャンパスは広い、ラビリンスのようだとは何時かのフルンの台詞、言い得て妙だと、留吉はひとりごちた。さて、良吉は留吉にひとこと言い放った、次はないと思えとこの調子なのだ、それを聞いた留吉は愛想笑いをしつつ深々と頭を下げる、珍しいこともあるものである。

  「駄目だろうフルン、もういい加減待ち合わせ場所くらいはおぼえないと、な。」

  「うん!」

  ここでフルンに耳打ちする留吉。

  「明日するんだろ、H」

  「いいんじゃない?」

  「実は明日の晩うちの両親が様子を見にくるって言うんだ、ファッションホテルにフケよう!」

  「駄目だよ留吉、そういうことはちゃんとしなきゃ」

  「ちぇっ!」

  大学のキャンパスは空が広い、東京とはまた違う、地球の丸さを感じられるかのようなパノラミックな景色が、たとえ錯覚だったとしても美しい。

  「なあ留吉、なんで俺まで巻き込む?」

  「実はうちの部屋、散らかってんだよ!片付けお願い!成功したら居酒屋で奢る」

  「おっしゃ、乗る!」

  実はこのとき、全員二十歳だ。

  すでに酒は飲んでいる、とはいっても嗜む程度にではある、実は留吉と良吉は発泡酒でいいのだが、フルンが銀河高原ビールしか飲まないのである、自然と皆が銀河高原ビールとなる、とまぁ贅沢になるから宅飲みはあまりしないのだ、それに居酒屋の方が飯が旨い。

  さて、まずは片づけだ、これが難儀だった、荷物の量が凄い、半端ではないのだ、アパートのゴミ置き場に山となるビニール袋、申し訳ないとは思いながらも押し込んでゆく。

  ご丁寧に普段は一切やらない掃除機かけやサニタリーの清掃までして、部屋はようやく綺麗になった。

  掃除のあとはご褒美の時間、宵の口から居酒屋でのディナータイムだ、ここで電話が鳴る、なんと留吉の両親からだ、実は留吉は日にちを勘違いしていたのだ、来訪は今晩なのである、精算をして、良吉と別れて、慌てて家に舞い戻る。

  良吉は文句を云うので、日を改めてご馳走することとした。

  「ちょっといつまで待たせてんのよ、あんたたち」

  「遅えんだよ、とっとと鍵を開けろ」

  見るとすでに父と母は部屋の前にいたのだ、錠に鍵を差し込みひねる、ノブを回しながら手前に引くとギシギシと音をたてながら鉄の扉が開いた、貧乏学生のひとり暮らし、そこはアパートであるし外廊下だ、当然ではある。

  「あら、綺麗!どうせ慌ててやったんでしょうけど、ここまで綺麗ならいいわ!自炊用の食品を少し買っておいたの、冷蔵庫に入るかしら?私が入れるから大丈夫よ」

  これは言うまでもなくチェックである、冷蔵庫の中を整理しておいてよかったと、ほっと胸を撫で下ろすふたりなのだった。

  父と母はそれから程なくして帰っていこうとしていた、扉を開けるとさらさらと湿り気のない風が舞い込む、上を向くと明るい夜空が街灯に照らされてその周りを蛾が舞うのだった、微かに瞬く星々のきらりとした煌めきで妹を思い出した留吉、最後にその様子だけを聞いておこうと思った。

  「なあ母さん、妹どうなんだ?」

  「いい縁談がまとまりそうなの、レズビアンだったら大変だったわ。うちは実家の界隈では随一の彫金の工房だから、代を絶たせるわけにはいかなかったの。すまなかったわね、留吉にはうるさく言いすぎたわ、よくなかった。でも少しだけでいいから、妹の気持ちもわかってやって。じゃ!」

  「ほんじゃ留吉、頑張ってや!」

  怒涛のように去った時間、残されたふたりがなすべきことといえばひとつだけ、そう、肌を重ね合い、交わるのである。

  その扉は閉まり、翌朝まで開くことはなかった。

  3

  日々が緩やかに、流れる水のようにそろそろと過ぎゆき、ときは翌年の春になっていた、季節はずれの雪の舞う朝、これは積もるだろうかと、そんなことを思う留吉だった。

  ベランダの近くで外の様子を眺めていた留吉に覆い被さったフルンは、切々とした表情を浮かべると、頬を赤く染めながら口づけをした。

  そろそろ桜の季節も近づこうというのに、春の雪、やむ予感なし、張り詰めた凛とした空気がストーブで和らげられようとするなか、二人は身体を重ねるのだった。

  「雪ばかり降るなあ、本当に春か?まだ春は遥か彼方だったりしてな」

  誰もくすりとも笑わないし、それどころか誰のなんの感情をも動かさないにゃん助のジャブ、少々苦しい、だが、明日は雷だな、そう云うのでふたりは目を見張った。

  にゃん助の天気予報は、当たるのだ。

  そんな折、留吉の父が梅毒とHIVに罹患した、潜伏梅毒だったが、たまたま別の検査で発見された、こうなるともう一刻の猶予もない、事態は風雲急を告げるのだった。

  すでに時は夕刻、だというのににゃん助は出かけようとする、いったいどうしたというのかと、ふたりは訝しんだ。

  にゃん助の特殊能力はといえば話すことしかないが、実はこの猫、この世界では有名なかの青い鳥の友達なのだった。

  走る、走る!

  やがてにゃん助の話を聞いた青い鳥は、留吉の父が収容されている病院へと、羽ばたいた。

  しばらくのちには父は退院した、生還したのだ、これは奇跡的なことだ。

  父母も交えて一家総出で退院祝いをする、鰻割烹の伊豆榮である、会席コースを個室でいただくのである、お高いのである、これは母の奢りであった、ああ見えて母は父のことを好いて好いて仕方なかったのだ、それはもう世界で一番というくらいに好きだったのである。

  「あなたこれは奮発したの。過去のことはもういいわ。もう病気はやめてね。ついていきます」

  潜伏梅毒が発見されたときには、父は医師にがんがん小突かれてそれはもう大変だったらしい。

  梅毒にHIVなど聞くも恐ろしいのでその話は宴の席ではやめてもらった留吉、そもそも両方に罹患するなどということ自体が倫理的にはあり得ない話にのである、もちろん可能性としては確かにあるにはあるが、病状の進行にしても通常よりもかなり早かったこともあり、それはいったいどういうわけでなのか、留吉は首を捻った。

  悶々とした会食だった。

  伊豆榮を出ると、春爛漫、夜桜が舞っていた、さあっと風がたなびくように、花弁を連れて去ってゆく。

  これだけだろうか、本当にこれでいいのだろうか、結論から言うと、よくなかったわけである、梅毒は、当然の成り行きではあるが、留吉の母にも感染していたのだ。

  母が父を許したのは、そのことについての覚悟もあったのだ、道理で。

  普通はわからない方がおかしいのだが、かつての父同様に母にも症状がなく、ひと目見たところでわからないのである、今どき比較的よくみられる症例である、父母はともに己の身体に無関心であり、また梅毒のみの罹患よりも症状の進行が早く、無症状でもあったために、気づきにくかったわけなのだ。

  突如の雷鳴、いわゆる春雷である。

  不運の、予兆。

  伊豆榮の帰り道で、ようやく母も嫌な予感を持った。

  今度は母が緊急入院、病室の窓辺には、あのときの青い鳥が留まっていた、その力もあって、母も二つの重篤な病気から生還した。

  もうほんの暫く放置すれば今どき大変珍しいことに父母が鼻にゴム腫を患おうかというのに、誰も異変に気づかない、それもおかしな話だと、このとき留吉は内心ではそう思っていたのだ、でも解ってなどいなかった、それは己も同じようなことなのだった。

  それでも、いなくなっては欲しくはない人たちだった、粗末にしていたことを内心で詫びる留吉、もちろんきらりにしてもそうだ、無関心だったわけではない、そこにありふれた家族の幸せがあればこその日常だったのだ、生還して、よかったーー。

  もともと父は男前だったし母は美人だったのだ、ただ少々目方は重いが、症状がなかったために容姿に異変がなかったのである、今回は進行も早く、間に合ってよかった、あとでにゃん助が言っていた、そう、あれはあれでいいのではないかと留吉に言うので冗談じゃないと返す留吉、一同ほっとしていたのは確かだ。

  本当に、母は綺麗だった、その肌はまるで泉か鏡の表面であるかのようだった、その点だけは留吉もよく似ているのだった、二人とも入浴時には水をよく弾く。

  一同ともに歩く帰り路、家族には温かいこともあれば険しいこともあるだろう、それらがあったとしてもあるいはなかったとしてもそれはまずはそうだろうが、留吉の脳内にはフルンとの家族絵図が描かれている。

  柳の下を歩く、さわさわと枝が揺れる真下を歩いていると、すうっとひんやりとした風が通り抜けた、それはまるで、春先の頃の冷たい風のようだったーー。

  母の快気祝いは叙々苑の焼肉だった、揃いも揃って丸い身体をしているからか、皆よく食べる。

  「あんた馬鹿よ!でも、わたしも馬鹿だったわ!だから今回だけ、許してあげる。その代わり、一回だけビンタさせなさい」

  椅子から乗り出して、母、父の右頬をバチーン!

  外では、春雷が鳴っていた、これは吉報を連れてきたようである。

  「ねえ、わたし妊娠したの」

  「孫か!めでたいなあ!特上カルビ五人前追加ー!」

  4

  「僕、留吉さんのことが大好きです。でも、お別れが近いかもしれません」

  留吉は首を捻る、そもそもフルンには行くところなどないのではという疑問が湧いたのだ、リリアはもうないというのだからもっともではある、だがやはり別れは近づいているようでもあった。

  「お父さんとお母さんが地球に来るんです、実はリリアに住んでいた人々は辛うじて助かっていたんです、それで今は別の惑星に住んでいるらしいのです、帰らないといけないかもしれないのです。」

  明日の夜に裏山に着陸するらしい、フルンの父母を乗せた宇宙船。

  前日の夜は、無我夢中で抱き合った、すべらかな肌は密着し、柔らかな鼻の筋やぷっくりとした頬に互いにキスの雨を降らせながら、そして互いに寄り添いながら、ふたり揃って涙が止まらなかった。

  フルンの身体は地球の黄色人種のそれとなんら変わらない、むしろそれよりも美しいくらいだ、太く短い首、見事なアールを描いた二の腕、スレンダーな女性の腰くらいはありそうな太腿、ぷっくりとしたふくらはぎ、そしてふっくらとした双丘、滑らかなラインを描いた腰、どこもかしこも、美しい。

  別れ難い、離れ難い、さざ波のような涙の膜が、いつまでもふたりの肌の表面をさらさらと流れ続けて、止まらなかった。

  約束の日、約束の時間、静々と前へと進むふたり、手を繋いでいるのは、ささやかな抵抗。

  実家でいつか見た宇宙船よりはだいぶ大きなそれが、裏山へと着陸した。

  「お父さん、お母さん、僕地球に残りたい」

  「なぜ!家族でしょう?ともに暮らさなければ!」

  「この人と、僕は生きていきます」

  これがフルンにとっては精いっぱいの、意志表示だった。フルンの母はやさしかった、頬を張るだけで去っていってくれたのだ、どこの世界でも母はやさしかった。

  それからも毎年、地球に訪れてくれたフルンの父と母、立派な人たちなのだろう、ほんの何日かいるだけでも、きちんと家族で在ろうとした。

  

  妹には一粒種ができた、彼女の出産はこれが唯一であったからそう云うには違いない、間違いない、すくすくと育っている、丸々とした男の子だ、妹は旦那さんとも仲がいい、結婚するまでは文句を垂れ流していた妹だったが、いざ蓋を開けてみれば、うまくいっているのだった。

  留吉たちふたりの仲はといえば、フルンの度胸と勇気に、救われた。

  愛はなくても生きてはいけるが、あったに越したことはない。

  子供の代わりにと云ってはなんだが、最近になってもう一匹猫を飼い始めた、フローリングは爪で引っ掻く上に場合によっては人の脚まで引っ掻くこともあり、更にはグルーミングは大変な上にあまり懐かないが、それでも可愛い、家族が増えたようなものだ、素敵だ。

  フルンは地球人とは体質が微妙に異なっていた、冬の晩に毎日全裸で眠っていても、風邪を全く引かないのだ、まだ若いからかなとは思ってはいるのだが、やはり地球人とは違うのかなと引っかかることもある。

  大学卒業後は、平日の昼間は留吉は仕事で、フルンは専業主夫だ、頑張ってふたりの新しい家が欲しい、今の家は古すぎるからだ、いつまでもともにいられればいい、それが幻想だということくらいはわかっている、それでもなんとしてでも、そばにいたいのだ。

  良吉は留吉の同僚だった、「おう、おはよう」とどちらからともなく挨拶を交わすふたり、毎日同じ電車に乗るのだ、仲がいいのか悪いのかは本人たち以外の誰にもわからないが、ただの友達には違いない。

  「週末、三人でピクニックにでも行かないか?」

  突然の提案、良吉から。二つ返事で、それは決まった。海が見たい、それだけのことだったらしい。

  煌めくような日差しの四月のこと、ひと気のないビーチで、約束通り、三人。その日は、風が強かった、どうしたものか、キャリーバッグの中で猫が暴れている、最後の桜が今年も散ってしまうというのに辺りに桜はなく、ろくすっぽその光景も見られないなんて、悲しい。

  それからはあっという間だった、見る間に雲が立ち込めてきて春雷が鳴るのだった、タイミングの悪いことだ、だがこれは、吉兆だったのだ。

  にゃん助が友達を欲しがっていたらしくて、もう一匹の猫も喋れるようにしたのだ。

  もう一匹の猫は、名前をポン助という、名付け親は留吉だ、長生きするといい、しかし所詮は猫のこと、天に召されても、新たな家族を迎えるだけだが。

  conclusion

  いつまでもだなんて、嘘だ。

  永遠なんて、ない。

  それでもあえて言う、君よ、ずっとともにいよう、それは留吉の言葉だ、頷くフルン。

  心の奥のひだがじくじくと疼きだすとき、ふたりは互いのそばにいた、もう一度だけチャンスがあったなら、そんな未来の映像が見えるとき、それならばともにジャンプすればいい、ふたりは心からそう思う、幸せはすぐ近くにある、きっと手は届く。

  おかしな家族の子どもがおかしな“家族”をつくるとは限らない。

  これから先もそばにいられれば、それはふたりの言葉。

  愛そう、きっと未来はある。

  -THE END-