1
「君は僕にとっての“生活必需品”なんだよ」
湿った眼差しであの子が俺を見つめた、はじめての夜。俺もまた同じことを考えていた。あれは、告白だったのだろう。ほんの一秒前を振り返ってそう思い、ぎりぎりの間合い、闇に飲まれそうな顔をしていたあの子への返事として、一瞬だけハグをした。それがあの時の俺にでき得た、精一杯には違いなかった。
ススムは、それは可愛かった。同級で、丸い背中をしていて、ちょうど野良猫のような雰囲気の、あっさり顔の男子だった。学年は中学二年だったが、ほんの十歳くらいには間違われる、そんな甘やかな雰囲気の少年だった。
俺でいいのか?それは喉元まで出かかった言葉だが、間一髪で飲み込んだ。ススムの中で現実が歪曲しているにせよ、俺が良い按配の男に見えているのは、事実らしいからだ。騙せるうちは、騙しておくに限る。俺はずっこいのだ。
「君が居なくなったら、僕は寂しい」
時折ススムが漏らす言葉だ。本当に物好きなことだ。その気にさえなれば、代わりなど幾らでも居るだろうに。俺は腑に落ちなくて、小首を傾(かし)げる。木洩れ陽の落ちる散歩路で、湿り気を帯びた冴えない風に吹かれながら、俺らは感傷的な気分をのそりのそりと轍として残した。
途中、見知った野良猫が戯れ付く。こういう生き物を嫌いなわけではないが、何だかくすぐったい。
「お前が居なくなったら、俺も寂しい」
俺はそれだけを告げると、野良猫からもススムからも逃げるように遠ざかった。気恥ずかしいのだ。柄でもないことをしたから、今日の晩飯は鍋だ。一緒に食うのだ、それくらいの我儘なら、親だってきっと許すだろう。だからそう決まった。我ながら、えらいこじつけだな、そうは思うのだ。これでも。
温かな湯気が頬を蒸すようだった。まだ鍋物の季節には幾らか早いが、こういうものを俺は恋しがっていた。ひと足早く、ススムが汁を啜る。
「旨んまいやー!」
瞬間、母の顔が綻(ほころ)んだ。
「いいお顔!たんとおあがり」
俺は何時だって、飯をもそもそと食う。だからか、親は度々苦虫を噛み潰したような顔をするのだ。
「悪ぃね。俺も旨いとは思ってんのよ」
あらあら、とだけ返す母、やはり満更でもないようだ。テレビがバラエティ番組を映し出している。滅びかけた因習かも知れないが、我が家ではまだ現役である。それは、ここが下町風情であることを思えば、当たり前の話なのかも知れなかった。
午後八時ちょうど。俺はススムを家まで送ることにした。途中、朽ちた木造家屋の寄り集まった裏路を歩いていると、オーケストラの音色がくっきりと耳に聴こえた。いやに大きなヴォリュームだ。俺はススムが俺よりは音楽に詳しいことを知っていたので、振ってみた。
「ね、これ誰の曲?」
「田園だよ、ベートーヴェン!でも僕はこういうのよりかは、ジャズがいいな」
こういう時、少し背伸びをしようとしている様が垣間見えて、我が相方ながら、まだまだ子供なのが手に取るようで、だからこそ、愛くるしかった。
別れ際に翻って、あの子は額にキスをした。何事もなく一日が終わる。寂しい。俺はススムを抱き締めた。間もなくススムんちの玄関の扉が開く。手を振る。閉まるまで俺は見送った。また逢えるか、次はいつか。明日は模試、勝負だ。
「ね、ね、お前あれが好きなの?どういう趣味?てかお似合いではあったけどなー」
姉が俺を嘲(あざけ)る。美人との専らの評判だが、俺は知っている。こいつは性格が悪い。そういう面で、実にブスなのだ。だからお互い様。もちろん、口には出せないこと。そもそもこれは茶飯事、相手をしていたら寝る間もなくなりそうなので、俺は手をひらひらとさせながら、風呂場へと向かった。
今日は学校で、嫌なことがあった。昼休みに用を足していると、複数の先輩が俺をひん剥いたのだ。粗チンだ何だと、腹を抱えて笑っていた。俺はというと、現実感がなくて、遠い目をして立ち竦んでいた。それはよくあること、あそこはバンカラな学校なのだ。止むを得ない。
カランを捻る。シャワーで隅々まで洗い流す。俺はいつも風呂は最後だ。この日は疲れたのか、湯槽で舟を漕ぐ始末だった。
「寝る前に田園でも聴いたら、熟睡できっかな」
俺は自室のベッドに横たわると、イヤホンで田園を聴き始めた。先ほどの予感は的中し、直ぐに熟睡できた。俺は大抵のことは寝れば忘れる。先輩のことも姉貴のことも、全部そうだ。ただ、あの子の色んな表情だけは、日付が変わってもなお、忘れることはなかった。色褪せないのだ。
2
模試の手応えは、まずまずだった。あの子は頭が良い。同じ高校へ行きたい。俺は頑張っていたのだ、それこそ柄でもないことだが。
あの子は塾に通わない。知り合いの家庭教師に教わっているらしい。それはそれで贅沢な話ではあった。
今日はススムはどうしているか。昨日逢ったばかりなのに、不安が募る。稚(いとけな)い。でも仕方ない、気にはなるのだ。だからといって、付き纏(まと)うこともできない。
水平線も地平線も関係のない都会の夕暮れ、俺は込み上げる感情を抑え切れずに、その場に蹲る。駅のホームでのこと。無感情な人々の群れが車両へと吸い込まれてゆくのを横目に見ながら、俺は歯を食い縛った。
*****
父の三回忌があった。もう二年が経ったというのだ。詰め襟姿で、やけに淡々とした自分が居た。読経が始まる。焼香を済ませる間も、俺の目からは涙の一滴も出やしなかった。薄情者め、そういう批判なら、甘んじて受け入れよう、そう思った。
父は仕事中の事故で天に召された。立派な人だとは知っていた。ただ、絆ならなかった。父は無口な人で、会話らしい会話をしたことはこれまでに一度も無い。それで今更俺は何を思えばいい、そういう疑問を拭えずに居たのだ。
それから一年が経って、母は再婚をした。相手は、よく喋る人だった。表面的には、上手く行ってはいた。だが彼も、友達にならなれそうな、けれども父とは呼べない、そんな感じの人だった。俺がずっと寂しいのには、そういう理由もあった。
俺ひとりが取り残されている、そんな気もしていた。もちろん、そういう拗(す)ね方は良くないと、自分でもそう思う。ただ俺はまだ子どもだ。甘えさせてくれ、そうも思っていた。心底からの、それは叫びだったーー。
*****
再び、駅のホームにて。顔を持ち上げる。ふと、空が見えた。それでひと息つけた。やがて子供じみた妄想と決別すると、俺もまた意を決して、電車に乗り込む。ガタガタと揺れる車内は、今時だというのにメカニカルノイズが盛大だ。イヤホンを着けてはみるが、俺のは安物だから、音楽が負けてしまう。よく聴こえないのだ。車内には白いワイヤレスイヤホンを着けた人が何人も居る。
「あれ、皆んなAirPodsかな?いいよなぁ」
まだ子供風情、贅沢なのは判っている。ただ、俺も仲間になりたかった。五年は早いか。我ながら、ただの世迷い言だな、そう思った。
最寄り駅から乗合バスに揺られること暫し。足立区花畑、この下町界隈では、ステテコ姿のお爺ちゃんが闊歩し、団地の植え込みをアゲハチョウが舞う。嫌いではない。まだ街灯が点くには少し早い折、俺は裏路を折れるとコンビニへと足を運ぶのだった。
シュークリームとコーラを買って、家路に就く。有料のレジ袋になら、入れてもらった。そのままでも持てないこともないが、万引き犯と間違われそうで、嫌なのだ。
帰ると、姉貴からプレゼントがあった。使い古しのAirPods Proをくれるというのだ。どういう風の吹き回しだろうか。何でも、新しいモデルを買ったので、もう要らないのだとか。思わずガッツポーズ。だが次のひと言で、冷や水を浴びせられることとなる。
「ま、私の耳垢がたっぷり付いてるけど、それでも良ければ、ね」
なるほど、それで中古買い取りでも高値が付かないから、俺のところにお鉢が回ってきたわけだ。それでも嬉しいものは嬉しい。そんな自分に嫌気が差すこともあるが、それだって寝てしまえば忘れるのだ。だから俺は気にしないことにして、明日に備えた。
その晩、俺は寝付けなかった。薄ぼんやりとした意識の中で、茫洋とした時間を延々と彷徨う。
ずっと俺は不安だった。いつかあの子が居なくなってしまうのではないか、そう思えてならなくて。気が付けば俺にとっても、あの子は“生活必需品”となっていた。本当にだ。
いつかともに暮らせたら、そんな我儘で温かな灯火が稚い心を仄(ほの)かに照らし出す。もちろん先のことなんて解らない。それでも、その思いはしっかりと、心に根ざした。絵空事と罵られても、それで良かった。
3
走る、走る。躰中がゆさゆさと、音でも立てているかのように揺れる。もう秋も暮れかかっているというのに、汗が止め処もなく噴き出す。息が上がる。今朝は寝坊をしてしまった。あの子を怒らせたくはない。これでも必死なのだ。
インターホンを押す。あの子の家の前で、息を整える。扉がギシギシと開くと、ススムは俺のなりを見るなり、笑い出した。寝癖が付いているのがその理由らしい。ともあれ、機嫌を損ねていなくて、良かった。
ススムの部屋で、俺らはマイルス・デイヴィスの音源を聴いていた。名盤ではあるのだろうが、俺の発育不全気味の耳に醸すのは、あくまでごくスタンダードな響き。部屋にBluetoothスピーカーがあるので、それでそういう音が鳴っているのだ。それでもロスレスの音源で、意外とそこそこの音で鳴っていたりもする。これではラジカセも廃れるというもの。昔は音楽といえば金持ちの道楽だったらしいので、昨今の風潮を俺は密かに歓迎していた。でもやはりと云うべきか、ジャズはまだ俺にはちょっと早いかも知れなかった。
ここでティー・ブレイク。駅前の洋菓子店で買ったタルトがあるというのだ。有り難い。俺は甘味は大好物なのだ。
ジャズトランペットの音色をバックに、紅茶とタルトで幸せなひと時。ここでススム、意外なことを漏らした。
「うちの兄ちゃん、ずっと入院しててさ。親がイライラしてんのよ。いつになったら退院できるのかって」
初耳だった。俺はそもそも、ススムに兄が居たことさえも知らないでいたのだ。
「あの、兄さんって、病気で?」
「うん、まぁそんなとこ。良くはならんらしい」
それで察した。何処も大変なのだと、思い知った。俺は一介の子供風情だから、何にもなれないし、何もできない。無力だった。俺の知らないススムの話がまだまだたくさんあるのだと思うと、俺は塞ぐより他なかった。現実は、得てして理想とは異なる。俺は深く溜め息を吐くと、立ち上がって帰り支度を始める。ススムとの距離が遠くなった、そんな気がしたからだ。
「え、何で?待って、まだ行かんと!」
目の前のあの子の目が縋るようだったので、心に隙ができた。耳慣れない方言の余韻、そしてハグ。他に、何も要らなかった。それだけで良かった。そのまま押し倒され、事に雪崩込む。強引な成り行き。
ススムは見る間に下着姿になって、丹念に俺の服を脱がせる。初めては、俺が抱くのだと思っていた。だが現実は、俺が抱かれそうになっている。戸惑いながらも、結局俺は成り行きに任せた。窓のカーテンが開いていた。雀の囀りが、始終鳴り止まない中でのことだった。
事後、公園へ散歩に出掛けた。そこは小さな児童遊園。辺り一帯をざっくり見遣ると、先客が居るようで、俺は声を掛けた。
「よう、ケンタ、ミチル!」
「何だいそこ、昼間から仲良さそうにしちゃってさ。俺らはハブだよ、なぁミチル!」
不服そうにするケンタ、顔がむくれている。そういえばこいつもゲイだったかと、俺は末節を思い起こす。
「さしずめ不純同性交遊といったところですかね」
「それよかススムんち行かねえ?暇でさ」
「いえいえ、滅相もございません。おふたりに置かれましては、ぜひ、おデートをお楽しみになられますよう」
何を云うかと思えば。これにはカチンと来た。だがまだ続きがある。
「な!俺らも混ぜろよ、どうせいちゃいちゃすんだろ?」
「もうお済ましでいらっしゃいます」
「うえー。帰れ帰れー」
こうして、ひと通りの会話ののちに、俺らは追い返されてしまった。公園前の通り路、ざくざくと落ち葉を踏み鳴らす。ひと足早い北からの風の便りが、季節がまた移ろい行くことを知らせてくれていた。
「なぁさっきの、酷くねぇ?」
特にミチルの慇懃(いんぎん)無礼な物云いで心の折れかけた俺は、ススムに纏(まと)わり付きたくて目で合図をする。
「帰って部屋で映画でも観よ!」
「え、何の映画?」
映画と云えばハリウッドな俺は、正直この展開にはあまり期待が持てなかった。フランス映画だとか云われたら、どう居眠りするかの算段になってしまう。それは真っ平御免だからだ。
「フランス映画。ポンヌフの恋人ってののDVDがあんだー」
「ごめん、興味ない」
「なんだー。じゃあゲームとか」
成り行きで、ススムの部屋でゲームに興じる。何度やっても勝てないのだ、これが。部屋にテレビもない俺のような人間には、ゲームは不毛でしかなかった。
疲れて、ススムの肩に頭を持たせる。それは凡そ子供らしくはない距離感で、まだ上手にはなれない自分が居た。
「チー坊、今日飯食ってけ!」
突然そう云われて、俺の目はたぶん輝いていたのだと思う。ススムの顔もまた、一点の曇りもない快晴そのものだったからだ。俺らにはまだ、メランコリックな情念なぞは似合わない。これくらいでちょうど良いのだ。
4
あれから一年半。俺らは、同じ高校に進学しようとしていた。都立日比谷高校、その名前だけで眠たい目も醒めるような、それだけのインパクトがある。周囲からは驚かれた。特にケンタとミチルは、目を剥いた。
「スゲー!ススムはともかく、チー坊お前いつからそんなに勉強できたんだっけ?」
「不正の匂いがしますね。疚(やま)しいことがあるなら、今のうちに白状することです」
「何もねぇし!それより俺、もう不安しかない」
そうなのだ、俺にはもう心配事しかなかった。あの日比谷だ。授業に付いて行けるか。せっかく受験が終わったのに、また勉強三昧の日々が待っている。
それでもいい、ススムと一緒なら、それもいい。また顔を突き合わせて、馬鹿話ができる。昔馴染みも交えて、楽しく連(つる)める。そんな幸せを、この手に掴んだこと。俺はまだ頑張ると、父の墓前に手を合わせて、これから先も独立独歩で歩いてゆく、そう誓った。
春休み、渋谷帰り。カフェに立ち寄った。ここは坂の多い街だ。スターバックスの座席に収まると、俺はフラペチーノをぐるぐると掻き回す。そういえば俺は、最近は女の人とは、視線も合わせない。嫌がられるからだ。ならば結構、間に合ってるんで、そういう心境。電車でも、毎日毎回、俺は遠い目をしていたと思う。でも今は別だ。
「チー坊、今夜焼き肉奢るで!」
「あーススム今ニカッとした!相変わらずめんこいなあ。てか何でまた方言?」
「自分もおんなじやてー!」
こんな遣り取りがいつまででも続く。飽きない。今日は桜も見た。月が変われば高校生活が始まる。
「そろそろ、少年気分ともお別れかな。こんなことなら、いっそひと晩、高値で買ってもらってもよかったかぁー。誰かにな」
ぺろんと舌を出す。本気ではないのだ。鈍い俺でもそれは解った。だから問うた。
「How much?」
「10 billion dollars.」
「アホかw」
俺らはタイムマシーンを持っている。どんなことがあってもいつでも、この日の記憶にジャンプできる。そんな自信なら俺にはある。もっと全力で、そう云い聞かせて、未来へだってジャンプできるんだ。
いつだったか、まだ随分と稚い子供だった頃のこと。夏の夜、線香花火で遊んだ。俺は物憂い目で、ハナから落ちる定めの火の玉を眺めていたのだと思う。隣にはススムとケンタとミチル。この四人で、よく遊んだ。
あの日、初恋の人を亡くした。それはテレビの画面越しの世界での話。何を大袈裟な、そう云うかも知れない。だが、俺は後を追おうとした。その機微を察したススムが、笑顔で声を掛けてくれたのだ。まだ頑張れ、あのひと言で、今の俺がある。頑張れだなんてダサい言葉だ。でも、“まだ”というワードが緩衝材の役割を果たして、俺の心奥の闇に柔らかく響いてくれた。
それから幾度も辛いことがあって、その度毎に“まだ頑張れ”と己を鼓舞した。その向こう側に見えるススムの笑顔が、俺には一等眩しく見えた。
誰しも、辛いことの十や二十はある。生きていれば、皆、そんなだ。そういう時に、変わらず見守ってくれる存在が居たなら、それがその人にとってのEssentials for livingだ。それを忘れないでいられるうちは、まだ頑張れる。大丈夫だ。
中学ではひと時秀才気取りだった俺、たぶんあの高校では落ちこぼれるのだろう。それでも、俺にはススムが居るから、きっと頑張れる。遮二無二頑張る、それもまた時には乙なものなのですよ。
またいつか