【オオカミ対クマ】埼玉巨獣伝

  三宮山にある三宮神社を訪れたのは、大学三年の夏休みのことだ。

  電車とバスを乗り継いで数時間。東京を離れるにつれ、緑濃くなる景色に期待がふくらむ。

  そこには鬱蒼とした森にかこまれた、誰も知らない秘境の神社があり、年老いた神主が語る伝説があるはずだった。

  バスを降りた僕を待っていたのは、近代的なビジター・センターを備え、大勢の参拝客でにぎわう神社だった。もはや日本に秘境など存在しないのだということを知った。

  多少肩すかしを食いはしたが、大鳥居の前に祀られている石像を見て、僕の心は再び高鳴る。

  普通なら狛犬が祀られているはずだが、この神社は違う。

  ここに祀られているそれは──狼なのだ。

  話は夏休み前にさかのぼる。

  大学の文学部のゼミで、卒論についてのディスカッションをしているうちに、民話についての話になった。

  「海外では『赤ずきん』が有名だけどね。日本でも狼がからむ話は多数残されている」教授が言う。

  「『鍛冶ヶ婆』、あるいは『千疋狼』と呼ばれているものが有名だね──旅人が狼の群れに襲われて、高い木の上に逃げた。狼は肩車をして旅人に迫るが、どうしても届かない。そこに巨大な狼が現われて……」

  「僕が聞いたことがあるのは、狼が美女とお婆さんに化けて……っていう話ですが」

  僕が言うと教授は続けた。

  「茨城の『狼ばしご』だね。同じような話が新潟や静岡、高知にもある。これだけ広範囲で似たような話があるということは、かつてそれに近い事実があって、それが全国に広まったとも考えられる」

  「巨大な狼がいたっていうんですか?」ゼミの佐藤があきれた顔をする。

  佐藤はルポライター志望で、ファンタジーや民話の類をあまり好まない。

  「狼は群れで行動するからね。暗い山の中では巨大な影に見えたのかもしれない」

  「でも、それほど狼がいたのなら、どうして絶滅したんでしょう」

  「そりゃあ人を襲うからだろ。駆除されて当然さ」

  佐藤の言葉に、釈然としないものを感じて僕は言った。

  「だったら、熊はどうなんだ? いまだに襲われる人がいるのに、絶滅させようなんて話は出ないだろ」

  「熊は簡単に駆除できないからなあ」

  「何か不公平だなあ」

  「西洋で狼が嫌われるのは、人よりも家畜を襲うからだ」やり取りを聞いていた教授が口をはさむ。

  「しかし畜産文化がなかった、かつての日本ではそこまで嫌うほどの存在でもなかった。むしろ農作物を荒らす害獣を駆除してくれるので、埼玉には狼を祀った神社もあるくらいだ」

  「それなのに、狼に襲われたという話が多く残っているのは不思議ですね」

  「変なことを気にするんだな」

  佐藤は言ったが、僕の卒論のテーマはそのとき決まった。

  「『日本人と狼の民話』、という内容にするつもりなんだ」大学のカフェで、経営学部の美奈に言った。

  「もともと神様として崇められていた狼が、どうして昔話では悪役にされてしまったのか──僕は『赤ずきん』のような童話が西洋から入ってきて、それが日本の民話を変質させてしまったと思うんだ。教授が言っていた埼玉の神社にも行ってみようと思うんだけど……美奈も行かないか?」

  「そんなところまで行って、どうするの?」

  気だるい表情でドリンクをかき回しながら、美奈は言った。

  美奈と出会ったのは、新入生の歓迎会でのことだ。そのころの彼女は地方から出てきたばかりで、僕と同じく賑やかな場所は苦手だった。お互い会場の隅で居心地悪くしていたところ、何となく関係を深めていったのだ。

  三年たった今、美奈はすっかり垢抜けて、社交的になった。デートに誘っても三回に一回くらいしか予定が合わない。美人で成績優秀──一緒にいると釣り合わなく感じるときさえある。

  「イメージをつかみたいんだ。人間と狼が共存していた時代のさ」

  「文学部はのんきね。こっちは就活で毎日くたくたなのに」

  「僕も就活はしてるよ。だけど、たまには息抜きを……」

  「息抜きならもっと近場でよくない? 同じ埼玉でも川越とかさ。そんな山奥に行かなくても……」

  そう言われると返す言葉もない。美奈がすまなそうな顔で言った。

  「ごめん。あなたのそういう夢を追うところ、嫌いじゃないよ。だけど今、私たち大事な時期じゃん? 大昔にいなくなった狼のことなんか……」

  「わかった。気にしないで」

  「今度、動物園にでもいこ?」

  おどけたように手を合わせる彼女は最高に可愛くて、それ以上は何も言えなかった。

  そんなわけで気ままな一人旅になったものだから、つい神社に長居をしてしまった。

  神社を参詣してから、併設されている資料館を見てまわり、バス停に着いたのが午後五時だった。

  「ちょっと早かったか。最終バスは五時半だから……?」

  時刻表を見て、僕は言葉を失った。

  最終バスは四時半だった。次のバスは明日の朝十時までない。

  「嘘だろ……」

  しばし呆然としたが、考えていても始まらない。僕は道路沿いに駅に向かって歩き始めた。

  三十分ほど歩いたところに民家があった。人のよさそうな老夫婦が庭いじりをしているところに声をかけてみる。

  「すみません。ここから駅までどのくらいですか?」

  「あれまあ、歩いていくのかい?」奥さんが驚いたようにご主人を振り返った。

  「なああんた、こっから駅までどんぐらいだかねえ」

  「歩きだと……三時間ぐらいあんじゃねえか?」

  「三時間……」

  さすがに愕然としたが、どうにか電車があるうちには駅に着けそうだ。

  「あと小一時間も待ってくれたら、車出してもいいけどな」

  「いえいえ! それは悪いですよ」

  ご主人の言葉をさえぎって、僕は空を見上げた。

  「まだ陽も明るいし、どうせ一本道でしょう。歩いていきますよ」

  今にして思えば、僕は待つべきだったのだ──一時間後、僕は暗い山林の中にいたのだから。

  おかしい。迷うような道ではなかったはずだ。しかし現実として僕は右も左もわからない場所にいた。

  「車に乗せてもらえばよかった……」

  後悔しても遅い。引き返そうにも、今来た道さえわからない。スマホも見事に圏外だ。

  ここは本当に現代の日本なのか?

  とりあえず落ち着くため、腰を下ろしてリュックからペットボトルのお茶を出した。

  ひと息ついて、周囲の音に耳を傾ける。人の声はしないか、車の音は聞こえないか……。

  どちらも聞こえなかった。聞こえたのはうるさいほどの蝉の声と──前方の藪がガサリと揺れる音。

  「……!」

  嫌な予感がして、僕は息を飲んだ。その予感は当たっていた。

  ──猪!

  藪から現れた黒い影は、ゆうに二メートル近くある。ぎらつく視線が僕を見据えている。

  初めて野生の猪を見た、などと感慨にふける余裕はない。刺激しないように、僕はゆっくり立ち上がると、そろそろと後ずさりを始めた。

  あと少しで視界から消えようとしたとき、鈍い足音とともに猪が突進してきた。

  「うわあああっ!」

  夢中で逃げた。木の根につまずき、小枝に腕を引っかかれながら必死に走ったが、猪はどんどん距離を詰めてくる。あと数メートルというところにまで迫ってきたとき、前方の木陰に人影が現われた。

  目を疑った。それはおよそ、こんな場所には似合わない少女だったからだ。

  「危ない!」

  僕は少女をかばうようにして、近くの藪に飛びこんだ。とにかく彼女を守らなければということしか頭の中にはなかった。

  不思議なことに、猪はそれ以上追ってこなかった。藪の手前で立ち止まり、フガフガと鼻を鳴らす。

  そして方向を変えると、まるで逃げるように走り去った。

  全身から力が抜けた。ようやく落ち着いた僕は少女に聞いた。

  「大丈夫?」

  「──邪魔」

  僕はあわてて飛びのいた。彼女は顔色ひとつ変えずに立ち上がると、服に着いた葉っぱを払う。

  中学生くらいだろうか。豊かな褐色の髪に、濃い眉をした、目つきの鋭い少女だった。

  荷物もなく、ナイロンのヤッケを着ている以外は山奥とは思えないほどの軽装で、足も素足だ。

  「キミのせいで、獲物に逃げられた」少女が不満そうに僕を睨む。

  「獲物……今の猪のこと? まさか君、猟師なのか?」

  僕がそう言うと、少女はポケットからナイフを抜いた。刃渡りは三十センチほどもある。

  ナイフで仕留められるような獲物ではないだろう──と思っているうちに、少女が歩き出したので、僕はあわてて呼び止めた。この近くに住んでいるのなら、軽装なのも道理だからだ。

  「ちょ、ちょっと待って! 君はこのへんの子かい? 道に迷ってしまったんだ。近くに人家はないかな?」

  「……」

  少女はしばらく僕を見ていたが、「こっち」とだけ言った。

  少女のあとに続いて、山道を三十分ほども登った。

  膝が震え、呼吸が苦しい。だが、彼女は汗ひとつかいた様子もない。自分が情けなくなってくる。

  やがて一件の小屋が見えてきた。手作りらしく簡素なつくりで、窓とドアの他には何もない。

  小屋の中は暗かった。電気は通っていないらしく、電灯もない。かわりにテーブルの上に電池式のランタンが置いてある。ランタンをつけると、政治関係の本が何冊も積まれているのがわかった。

  「ここに住んでるの?」

  「そんなとこ」

  「君の名前は?」

  「好きに呼んで」

  そっけない答えが返ってきたあとは、まるで口を開こうとしない。

  少女は部屋の隅に敷かれたマットレスに座った。僕も荷物を置いて椅子に腰かける。

  沈黙に耐えられなくなった僕は聞いた。

  「ねえ君……ここから街まで行くには、どう行けばいい?」

  「ちょっと歩いたところに、川がある。川沿いに歩けば出られる」

  「いつも学校にはそうやって行ってるの?」

  「学校? 行ってない」

  ちょっとショックを受けた。今の日本にこんな子がいるのか──それとも登校拒否児だろうか。

  とはいえ難しそうな本が置いてあるし、受け答えも年齢以上に大人びている。これ以上は余計な詮索だろう。腕時計を見るともう八時だ。外もすっかり暗くなっていた。

  「君、悪いんだけど、よかったら今晩泊めてくれないかな。もちろんご両親には僕から……」

  「おっとうはもういないわ。おっかあは気にしないと思う」

  おっとう、おっかあとはまた古風な呼びかただ。まるで昔話に出てくる子供じゃないか。

  それにしても悪いことを聞いてしまった。

  「ごめん……」

  「何で謝るの?」

  「いや、お父さんがいないのを知らなくて……」

  「寿命だもん。しかたないわ」

  ずいぶん達観していると思う。とにかく、これ以上は家族の話はしないほうがいい。

  リュックに残っているお茶に口をつけたとき、少女がじっと僕を見ていることに気づいた。警戒されているというのが正しいだろう。知らない男性と二人きりなのだから無理もない。

  早く彼女の母親が帰ってこないかとやきもきしていると、少女が突然言った。

  「──キミは何をしにここに来たの?」

  「ああ……近くに三宮神社ってあるだろう?」話題ができたので、僕はここぞとばかりに喋った。

  「そこにお参りに行ったんだ。だけど帰りのバスの時間を間違えて……歩いて帰ろうとしたら道に迷って……」

  「あの神社に?」

  「ああ。あそこは狼を祀っているだろう? 大学の卒論を、狼と人間の関係をテーマにしようと思って」

  「狼と、人間……」

  「何ていうか……ロマンがあるじゃないか。かつてこの山に君臨し、今は絶滅してしまった狼。その伝承があそこの神社に残っているんだ。ひょっとして、今もどこかにひっそりと生きているのかも……なんてね」

  「……」

  少女は黙ってしまった。調子に乗って喋りすぎたかと思っていると、彼女が口を開いた。

  「キミ、面白いね。おっかあに気に入られると思うよ」

  少女が初めて微笑んだ。口調もどこか打ち解けてくれたように感じられる。

  「ひとつ教えておいてあげる。狼は絶滅していないわ」

  「えっ?」思わず僕は身を乗り出した。「見たのかい、狼を? どこで?」

  「……」

  少女が再び口を閉ざしたとき、小屋の外でドスンと、何か重いものが落ちる音がした。

  「おっかあ!」彼女は立ち上がった。

  「……お母さん?」

  小屋を飛び出す少女に続いて、ランタンを手に外に出た僕は、思わず声を上げた。

  「うわっ!」

  小屋の外に倒れていたのは、一頭の猪だった。大きさから見て、僕を追いかけてきたやつのようだ。

  声を上げた理由はそれだけではない。その腹は大きく抉られて、内蔵が完全に無くなっている。

  「これは……君のお母さんが?」

  「まあね」

  「お母さんも、猟師なの?」

  少女は答えなかった。母親の姿を探したが、どこにも見当たらない。挨拶をしたかったのだが……。

  その間に少女はナイフを抜いて、猪の後脚に突き立てた。ぐるりと一周させて肉を切ると、刃でこじ開けるようにして股関節を外す。

  「慣れてるんだね」

  「あたしはまだ子供だから、道具がないと……」

  妙なことを言う。その意味を考える間もなく、少女は猪の前脚をつかんで言った。

  「手伝って」

  「どうするの?」

  「どうせ食べきれないし、明日には腐る。だったら、誰かに食べてもらったほうがいい」

  「誰かって?」

  「誰かは、誰かよ」

  猪を引きずって、少女と暗い山道を歩いた。

  とんでもない重さだった。大型バイクぐらいの重さがある。しかも、ほとんど少女が運んでいるようなもので、僕は手を添えているだけのことだった。

  しばらく歩くと、森が開けて小川に出た。

  「……」

  思わず言葉を失った。月明りに照らされた渓谷は、青と黒のコントラストを描き、川面は銀色に月明りを反射している。絵画のように幻想的な光景だった。

  少女は川岸に猪を横たえた。内蔵と両脚を失ったそれに、残酷なものは感じられない。永遠に生と死を繰り返す自然のあるがままを現しているかのようだ。

  「ここを下りていけば、街に出られるわ」

  少女はそう言うと、ヤッケ姿のまま川に跳びこんだ。服についた血を洗い流し、野生の動物のように、ブルブル首を振って水しぶきを飛ばす。

  「下りるっていっても……」道らしきものは見当たらない。

  「ちょっと無理かな。朝になったら、君のお母さんに道を教えてもらうよ」

  僕がそう言うと、少女は振り向いて微笑んだ。

  月明りを浴びたその笑顔に、得も言われぬ野生的な魅力を感じた。

  小屋に戻ると、少女は慣れた手つきで猪の脚から皮を剥いだ。腿の肉を切り落とし、僕の目の前に差し出す。

  「食べて」

  「あ……ありがとう」

  肉からは嗅いだこともないほどの獣臭がした。とはいえ、昼から何も食べていないので猛烈に腹が減っている。せっかくの好意を無駄にするわけにもいかない。

  「これ、どうやって食べるの?」

  「あたしは普通に食べるけど、キミは煮るなり焼くなり、好きにすればいい」

  「普通にって……」言いかけて、僕は目を疑った。

  少女は信じられないことに、骨がついたままの生肉にかぶりついていた。

  「……」

  僕も真似して、ひと口齧ってみた──途端に、吐き出した。血の味しかしない!

  キッチンの下を覗いてみると、鍋やフライパン、カセット式のコンロがあった。米や調味料、飲料水も備蓄してある。親子二人で暮らしているなら多過ぎるほどの量だ。

  他に何かないか、脇のロッカーを開けた僕は、思わず手を止めた。

  「……!」

  ──銃だ。ライフルと散弾銃が三挺ずつ。猟師の家ならあって当然とはいえ、初めて見る銃は僕の鼓動を早めた。無意識に銃を手にしようとした僕を、彼女の言葉が止める。

  「それ、嫌い。しまって」

  「ああ……ごめん」

  僕はあわててロッカーを閉めた。それにしても不用心だ。鍵もかけていないなんて……。

  気を取り直して猪肉に向かう。肉を切ると、血が溢れ出してきた。備蓄の水で肉を洗い、フライパンで焼く。塩、コショウ、醤油を適当に振りかけると、どうにか食べられそうな匂いがしてきた。

  「器用ね」

  いつの間にか、鼻をヒクヒクさせた少女が隣にいる。

  「僕は母さんがいないから……まあ、これくらいのことは」

  「そう、おっかあが……」

  彼女が気まずそうな顔をしたので、僕は焼けた肉をひと切れ、箸でつまみ上げた。

  「食べる?」

  小さな糸切歯を覗かせて、肉を口にした彼女は、味わうように噛みしめてから微笑んだ。

  「この食べかたも、悪くないわ」

  猪肉は脂のない豚肉といった味がした。

  問題は、肉しかないことだ。備蓄の米はあったが、炊飯器がない。飯ごうはあったが使い方がわからない。わかったとしても、断りもせず他人の家の米に手は出せない。

  「せめて野菜があればなあ……」

  「野菜? あんなもの!」

  少女は焼いた肉を頬ばりながら、眉をしかめる。

  僕が食べきれなかった肉までたいらげてしまうと、ヤッケ姿のままマットレスに寝転んだ。

  「お腹いっぱいになったし、寝るわ。朝になったら街まで案内してあげる」

  「あの渓谷を歩くのは無理だよ……」

  「別の道があるわ。ちょっと遠回りするから、キミもしっかり寝ておいて」

  「ありがとう、助かるよ……じゃあ、寝かせてもらうよ。おやすみ」

  ランタンを消すと、小屋の中は真っ暗だ。床に毛布を敷き、もう一枚の毛布にくるまって横になる。

  八月とはいえ山の空気は冷たく、底冷えがした。上着を持ってきていないことを後悔した。

  「キミ、寒そうだね」暗闇の中から声がした。

  なぜわかった? 鼻をつままれてもわからない暗さなのに。

  「おっかあ、寒いって」

  少女がそう言った途端、小屋の壁がミシリと音を立て、少しずつ空気が温かくなった。

  小屋にはエアコンなどついていなかったはずだが、微かに振動が伝わってくる。

  それは機械音というより、むしろ──心臓の鼓動に似ていた。

  母は僕が幼いころに亡くなった。ほとんど記憶は残っていない。

  ただ、僕を抱きしめてくれたときの感覚を、心臓の音を、おぼろげに覚えている。

  なぜ、今さらこんなことを思い出すのか……。

  ──肩に痛みを感じて目を覚ました。

  窓から朝日が差しこんでいる。もう朝かと思う間もなく、再び肩に激痛が走る。

  「おい、起きろ!」

  「……ん?」

  聞きなれない声に寝ぼけた顔を上げると、目の前に散弾銃の銃口があった。

  「……!」

  「貴様は誰だ! なぜここにいる!」

  短い髪の、冷たい目をした女が僕を見下ろしている。

  あわてて起き上がった僕のまわりには、六人の男女がいた。

  銃を突きつけている女が一人、他はすべて男だ。薄汚れたヤッケを着て、銃を手にしている。

  「あ……あの子のお母さんですか? 僕はその……道に迷って、あの子に助けてもらって……」

  僕がたずねると、女は怒りに顔をゆがめた。

  「あの子だと? ここはわれわれのベースだ。他に誰もいない!」

  どうやら少女の母親ではないようだ。彼女を探したが、どこにも姿は見えない。

  「……まさかあの子、この家の子じゃないのか?」

  僕がそう言った途端、坊主頭の男に銃床で殴られた。口の中に血の味が広がってくる。

  「わけのわかんねえこと言うんじゃねえ! 貴重な水も勝手に使いやがって!」

  「公安のスパイかもしれねえな」と髭面の男が言う。

  「スパイならこんな間抜けな捕まりかたはしない。見ろよ、こいつ大学生だ」

  長髪に眼鏡の男は、僕のリュックから財布を抜き出すと、女に放り投げた。

  「ふん。どうやら本当に道に迷ったらしい」女が学生証を見て鼻を鳴らす。

  「いずれにせよ、ここを知られたからには、殺すしかないな……」

  坊主頭がライフルの銃口を僕に向ける。僕はなりふり構わず叫んだ。

  「ま、待ってください! 確かに勝手に使った僕が悪いです。だからって……!」

  「待て。われわれは人殺し集団じゃない。銃を下ろせ」意外にも女が助けてくれた。

  「元はと言えば、われわれも学生だ……彼がわれわれの同志になるというのなら、喜んで迎えようじゃないか」

  「異議なし!」

  「異議なし!」

  男たちの野太い声が飛ぶ。僕は恐るおそる女に聞いた。

  「あの……同志っていうと……?」

  「われわれ革命武装戦線──〈狼〉の同志だ!」

  ──聞いたことがある。

  僕が生まれるずっと前、社会の変革を求めて学生たちが立ち上がった。その一部が過激化し、武装して山奥に立てこもり、各地でテロ活動を行うようになった。しかし、そのほとんどが仲間うちで殺し合い、世間の支持も失って沈静化していった……。

  あの子が言っていた〈狼〉とは、こんな時代錯誤の暴力集団のことだったのか?

  「どうする? 革命か死か、選べ!」

  女が散弾銃を突きつけてくる。もちろん死を選ぶつもりはない。

  「な、なります! 同志になります! 革命万歳!」

  そう言った途端、髭面に横から殴られた。

  「軽々しく革命などと言うな!」

  「やはり駄目だ。こいつを殺そう」

  坊主頭が殺気立った目で僕を睨む。それを制して、女が言った。

  「……おい貴様。今の日本をどう思う?」

  「に、日本を? えーっと……」

  突然そんなことを聞かれても、すぐに答えられない。

  「何も考えていないのか!」

  銃床で腹を殴られた。とにかく何か言わなければ、このままでは殴り殺されてしまう。

  「そ、そんなことないです。物価は高くなるし、政府はアレだし、えーっと、税金とか……」

  「だったら、なぜ行動に移さない!」

  頬を殴られた。何を言っても殴られるじゃないか!

  「──総括させてみたらどうだ?」

  眼鏡の男がサディスティックな笑いを浮かべて言う。

  「そ、総括って?」

  「それを考えるのが、総括だッ!」

  女の拳が襲ってくる。感覚が麻痺して、頭の中が真っ白になってきた……。

  外に連れ出された僕は、近くの木の幹に縛りつけられた。

  「いいか。これは貴様が革命戦士に生まれ変わるチャンスだ」

  身動きできない僕に、女は真剣な目で話しかけてくる。

  「今から全員で貴様を殴る。生命の危機を感じることで、自分を見つめ直すことができるはずだ」

  正気の沙汰じゃない──そう思ったが、もう口にする気力も残っていない。

  「頑張れ。俺も通ってきた道だ。気絶から目覚めたときには、新しい人生が始まるんだ……」

  坊主頭がそう言うなり、殴りつけてきた。

  「おい、みんなも総括を手伝ってやれ!」

  「総括しろよ!」

  「総括しろよ!」

  六人に代わるがわる殴られた。頬が腫れ、肋骨がきしみ、シャツが血に染まる。

  こんなことで生まれ変われるものか。何が革命だ。何が狼だ……!

  僕の意識が薄れかけたとき、森の中から野鳥が一斉に飛び立った。

  藪がガサリと揺れ、女は殴る手を止めて振り向いた。

  「誰だッ!」

  返事はなかった。

  「こいつ、やっぱり公安の──」

  髭面が僕に銃口を突きつけたとき、藪から黒い影が姿を現した。

  それが何なのか、その場の誰もがすぐには理解できなかったに違いない。

  ──熊だ!

  喉元に白い模様を持つツキノワグマ。ヒグマほどではないにせよ、充分に危険な存在だ。山中で熊に出会えば、誰もが一瞬は動揺する。しかし、理解できなかったのは熊だからという理由ではない。その大きさのせいだった。ツキノワグマなら二メートル程度のはずだが、目の前にいるそれはどう見ても三メートルを超えている。

  熊は六人の男女を珍しそうに見つめていた。その表情は無邪気で、子熊のように見える。

  「な、何だよ……たかが熊じゃねえか!」

  眼鏡の男が頬を引きつらせて、熊に近づいていく。

  「こっちには銃があるんだぜ。この程度でビビッてるようじゃ、革命なんて──」

  熊の手が動いた。何かが木にぶつかって転がった。

  ──眼鏡の男の首だった。

  一撃で首をもがれた体が、鮮血を噴き上げて地面に倒れた。

  「うわーッ!」

  残りの五人が狂ったように銃を乱射する。僕は縛られていて逃げることもできない。流れ弾に当たらないように祈るばかりだ。

  銃の効果はなく、熊を刺激したにすぎなかった。

  うなり声を上げて熊は突進した。坊主頭をつかまえると、その首筋に背後から噛みついた。

  「アアーッ! やめろ! やめてください! 助けてくれ! 助け……」

  絶叫が途切れ、バリバリと骨の砕ける音がした。その間に三人の男たちは遠くまで逃げ去っていた。

  ただ一人、女だけは逃げなかった。

  散弾銃に装填し直すと、坊主頭の体ごと撃ちまくった。男の体が無残な肉片と化していく。

  熊は食いかけていた男を放り捨て、巨大な牙をむき出して女に迫った。

  女はひるむ様子もなく、ポケットの中のものを取り出した──手榴弾だ!

  女は手榴弾を熊の口に投げこむと、地面に転がり身をふせる。こもったような爆発音がして、熊は悲鳴のような咆哮を上げて倒れた。血と肉片とを吐き出しながら全身を痙攣させている。

  女は立ち上がって、熊の額に散弾銃を向けた。

  「──革命的に死ね!」

  至近距離から撃った。熊の頭蓋は原型をとどめないほどに砕け散った。

  気分が悪くなった──熊よりも女のほうがはるかに狂暴で、残酷に見えた。

  熊を足蹴にして、絶命したことを確かめると女は声を張り上げた。

  「貴様ら、戻ってこい!」

  三人の男たちが、青い顔をして戻ってくる。女は男たちを整列させて命じた。

  「仲間を見捨てて逃げるとはどういうことだ? 自己批判を要求する! 自分で自分を殴れ!」

  男たちは渋々、自分の頬を殴り始めた。

  ペチン、ペチンと情けない音がする。僕を殴ったときの半分の力も出していない。

  「もっと強くだ!」

  間抜けな光景だった。男たちは無言で自分の頬を叩き、女は目を光らせてその姿を見つめている。

  いずれにせよ、今は僕に意識が向いていない。縛られてさえいなければ逃げるチャンスだが……。

  ──ふいに、腕を縛っていた縄がほどけた。

  驚いて振り返ると、ナイフを握った例の少女が、身をかがめてそこにいた。

  「君! いったい……」

  言いかけた僕の口を抑えると、ついてくるように顎をしゃくる。藪に隠れて僕たちは山道を上った。

  「いったい、今までどこに行ってたんだ?」

  連中の姿が見えなくなったところで僕は聞いた。

  「野菜がほしいって言ってたじゃない。摘んできたのよ」

  少女はヤッケのポケットから、紫色をしたキノコを引っ張り出した。絶対に食べてはいけない色だ。

  「……今は食欲ないかな」

  「せっかく摘んできたのに」

  少女はキノコを放り捨てると、腫れあがった僕の顔を心配そうに覗きこんだ。

  「ひどい顔ね。何でこんなことするのかしら」

  「君こそ、あの小屋を無断で使っていたのか?」

  「誰もいなかったから使ってただけ。それにしても殴ることないじゃない」

  「……あの連中が、君が見た〈狼〉なのかい?」

  「あいつらが狼ですって? バカにしないで。あんなやつらが狼なわけないじゃない!」

  少女が不機嫌そうに口を結んだとき、下のほうが騒がしくなった。僕が逃げたことに気づいたらしい。

  僕らは再び山道を上った。

  「あそこだ!」

  遠くからの声とともに銃声がこだまする。僕のすぐ後ろで木の枝が弾け飛んだ。

  必死に逃げようとしたが、殴られ続けて僕の体力も限界だった。もう一歩も動けそうにない。

  「君だけでも、逃げろ……」

  「ダメよ、しっかりして!」

  少女を先に行かせようとしても、彼女は動こうとしない。

  振り向くと、〈狼〉の四人はもう顔が見えるところまで迫ってきていた。

  「総括は失敗だったな……」

  女が怒りの形相で、銃の引鉄に指をかけた。

  ──突然、地鳴りがした。

  「うわッ?」

  地面が激しく揺れ、追ってきた四人はもつれながら倒れた。

  山の斜面が音を立てて崩れていく。そこから土煙とともに現れたものに言葉を失った。

  一瞬、真っ黒なトラックが飛び出してきたのかと思った。

  血走った目に睨まれて、それが巨大な──想像を絶するほど巨大な熊の頭部だと気づいた。

  熊が首を振って土埃を払い落とすと、再び地面が崩れ、巨熊は後脚で立ち上がった。

  ──信じられなかった。周囲の木よりもはるかに大きい。二十メートルはある!

  巨熊は何かを探すようにあたりを見まわしたが、やがてある一点を呆然としたように見つめた。

  その視線の先には、女に殺された熊の死骸があるはずだった。

  「グフオオオオオ!」

  地面が割れるほどの咆哮を上げて、巨熊は木々をなぎ倒しながら山を駆け下りていった。

  「化物……」

  〈狼〉の四人は放心したように動かなかった。僕にしたところで、あまりの出来事に足がすくんでいる。

  ふいに、僕の体が持ち上がった。いつの間にか僕は少女に背負われていた。

  人一人背負っているとは思えないほどの力強さで、少女は山道を駆け上がっていく。

  四人が追いかけてくる気配はなかった。

  「グフウウウウ……」

  低い、悲しいうめき声が響いてくる。

  「あれは……」

  「母親グマよ。以前も見かけたことがある」彼女は言った。「彼女の子供が殺されたの。きっとあいつらは殺される。あたしたちも、ここにいたら危ない」

  その言葉どおり、巨熊は山の斜面を引き返してくる。〈狼〉たちのところへ向かっているようだ。

  連中も攻撃を始めたらしく、銃声と爆発音が聞こえてきた。

  開けた丘の上で、少女は僕を降ろしてくれた。

  数十メートルほど下の斜面に、銃を乱射しながら逃げる四人と、それを追う巨熊の姿が見える。

  逃げ遅れた男が踏み潰され、真っ赤な血だまりになる。僕は思わず目をそらした。

  残りの三人は小屋までたどり着いたようだ。窓から銃を突き出して射撃を続けている。昔のニュース映像で見た、過激派が山荘に立てこもった事件を思い出した。

  もっとも、彼らが相手をしているのは、説得を試みる警官隊などではない。子供の復讐に燃える巨大な野獣なのだ。巨熊にのしかかられた小屋は一瞬にして崩れ落ちた。

  銃声がやんだ。しばらくして、残骸の片隅から誰かが這い出してきた──あの女だ。その手にはロケット砲のようなものを抱えている。

  女は何かを叫びながら撃った。白煙を引いて飛んだ弾頭が、巨熊の腹で破裂した。

  熊はわずかによろめいただけだった。

  そして巨大な口を開けると、女を頭から飲みこんだ。

  巨熊の怒りは収まらないようだった。

  小屋の残骸を何度も、何度も踏み潰していたが──その視線が、僕らのほうに向けられる。

  「やめて! あたしたちは関係ない!」少女は叫んだ。「あなたの子供を殺したやつは、みんな死んだ!」

  そんな言葉が届くはずもない。巨熊は斜面を登って、僕らがいる丘に迫ってきた。

  僕は残った力を振り絞り、少女の手をつかんで走った。

  爪が襲いかかってきて、僕らのいた場所が大砲のような一撃にえぐり取られる。

  「あっ!」

  足元が崩れ、少女は足を滑らせた。僕はとっさに近くの木をつかんで、彼女の体を抱き抱えた。

  「グフオオオッ!」

  巨熊は目の前で大きく口を開ける。獰猛な牙が唾液に濡れて光っていた。

  ──次の瞬間、僕たちは空を飛んでいた。

  いや、この言い方は正確ではない。

  何かに襟首をつかまれて、僕らは空高く持ち上げられていた。

  「……!」

  僕らの真下に、巨熊の血走った目がある。僕らをつかんだ何かは、風のような速さで動き出した。

  「フッ……フッ……」

  頭上から息づかいが聞こえる。

  振り向くことはできなかったが、何か巨大な動物に咥えられているように思えた。

  その巨獣は風を切って走り、木々を跳び越えて僕らを運んだ。熊の姿が見る間に遠ざかっていく。

  三宮神社の境内が見えてきた。近くの草むらに僕らをそっと下ろすと、その巨獣は吠えた。

  「アオオオオオン……!」

  腹の底が震えるような、それでいて美しい響きの遠吠えだった。

  今や巨熊の姿は一キロ近以上も後方にあった。

  さすがに追いつけないと判断したのか──巨熊は山中に姿を消した。

  「……」

  僕は頭上を覆う巨大な影を見上げた。

  その巨獣は褐色の豊かな毛を持ち、尖った耳は小さく、真っ直ぐな鼻をしていた。

  それはわずか数点の剥製を残して、今は絶滅したはずの動物の特徴を持っていた。

  「ニホンオオカミ……!」

  巨大な狼は全身を震わせると、霧のように姿を消した。

  わずかに金色をした目と、黒々とした鼻だけが宙に浮いていたが、それもやがて見えなくなった。

  「──おっかあの毛は隠れ蓑なの。人間に見つからないように、何年もかけて習得したの」

  少女の声でわれに返って、僕は彼女を見た。

  「おっかあ……あの狼が?」

  「そうよ。あたしは人間のおっとうとの間に産まれたの」少女があっけらかんと言う。

  「何をバカな……」

  「信じないならそれでいいわ。でも、何千人かに一人、狼とつがいになれる人間がいるの。あたしがその証拠。狼の血を絶やさないためには、そんな人間を見つけなきゃいけない」

  「待ってくれ!」突拍子もない話だったが、僕は聞いた。「たとえそれが本当だとしても、なぜ人間と?」

  「例えば──犬とつがいになった祖先もいたわ。だけどあたしたちはより強い動物を選んだ。最も狡猾で、最も残忍で、そう簡単に絶滅しそうもない動物……」

  「それが……人間?」

  少女はうなずいた。

  「だとしても、あの大きさは──」

  「あたしたちは百歳を過ぎたころから大きくなる。聞いたことない? 山奥にいる巨大な狼の話を」

  僕は教授の話を思い出した。

  「まさか……『鍛冶ヶ婆』の話って……」

  「失礼ね。おっかあはまだ二百六十歳なのよ。そうね……おっとうは千疋狼のセン、って呼んでいたわ」

  「千疋狼の、セン……」

  「そしてあたしも、やがておっかあみたいになる」

  そう言うと少女は、ヤッケの袖をまくった。

  その腕は、びっしりと体毛に覆われていた──人間とは明らかに違う、獣のそれだった。

  「……」

  呆然としている僕に、少女は藪の向こうを指さして言った。

  「行って。ここを抜ければ神社の境内に出られる。あたしは山に戻るわ」

  「だけど、あの熊が……」

  「あいつもおっかあには手出ししない。おっかあはこの山の女王だもの。それから、最後にひとつ言っておくけど」少女は僕の目を見て言った。「おっかあのことは誰にも言わないで。あたしのことも」

  「……わかった。言わないよ。約束する」

  そう答えると、少女はニッコリ笑って走り去った。野生動物さながらの速さで山中に姿を消す。

  僕はしばらくそこから動けなかった。夢と現実の狭間に取り残された気分だった。

  神社のほうが騒がしかった。

  境内に出てみると、警官に誘導されて、何人かが神社から退避しているところだった。

  まだ朝早いので参拝客は少ない。神職や売店の従業員のようだ。

  「君、そのケガはどうしたんだ!」

  警官が僕を見て目を丸くする。

  無理もない。殴られた僕の顔は腫れ上がり、山中を走りまわって服はボロボロだ。

  「あの熊にやられたのか?」

  「あの熊……?」ようやく事態が飲みこめてきた。「まさか、山を下りたんですか、あいつが!」

  「知っているのか? 見たんだね、あの熊の化物を!」

  僕がうなずくと、警官は無線を手にした。しばらく会話をしたあとで、警官は言った。

  「すまないが、署まで一緒に来てもらえないだろうか。ケガの手当もしないと」

  パトカーに乗せられて、僕は警察署に向かうことになった。

  途中、見覚えのある場所を通り過ぎた。僕が道をたずねた、例の老夫婦がいる民家だった。

  ──その光景を見て、僕はもう少しで吐くところだった。

  建物と庭は跡形もなく壊されていた。救急車に白い布をかけた担架が運びこまれている。

  担架に乗せられた人物は、動いているようには見えなかった。

  「あの化物にやられたんだ……」

  ハンドルを握る警官の声が震えている。

  「わざわざ民家を壊しながら町に向かってる。まるで人間を恨んでいるみたいに……」

  警察署で僕はケガの手当を受け、落ち着いたところで会議室に連れていかれた。

  そこに一人の刑事が待っていた。四十歳くらいの誠実そうな男性で、名を宝田といった。

  「話をまとめると──君は道に迷って、山小屋にたどり着いた。誰もいなかったので、そこで一晩を過ごした。そこは過激派の拠点で、君はスパイと疑われて暴行を受けた。そこに熊が現われて、連中の一人が殺された。連中がその熊を殺すと、親と思われるあの巨大な熊が、連中を一人残らず殺害した。君はその隙に逃げ出した──ということで、いいのかな?」

  刑事の言葉に僕はうなずいた。約束どおり、少女と千疋狼──センのことは言わなかった。

  一人の警官が、小屋に置きっぱなしにしていた僕のリュックを持ってやってきた。

  「これは君のかい?」

  「そうです……よかった、無事だった!」

  リュックの中身をあらためた。財布とスマホも無事のようだが、すぐには返してもらえなかった。

  「念のため大学に問い合わせさせてもらうよ。それから、通話記録も確認させてもらう。まさかとは思うが、君も過激派の仲間だといけないからね。すまないが、返却はそのあとだ」

  刑事は僕のスマホと学生証を警官に渡し、話題を変えた。

  「さて、もうひとつの問題はあの大熊だ。君の言うとおりなら、あの熊は子供を殺した人間を憎んでいる──今の時点で十二名の犠牲者が出ている。過激派の連中を含めるなら十八名だ。そいつが今、国道沿いに日高市に向かっている」

  「……」

  「あの怪物が町に出たら、どれだけ被害が出るか想像もつかない。一刻も早く駆除しなければいけない。君にもぜひ協力してほしい。今のところ、奴を間近で目撃した唯一の人物だからね」

  「協力といっても……」

  言いかけたとき、廊下が騒がしくなった。

  十数名の男たちが会議室に入ってくる。迷彩服から一目で自衛隊だとわかった。

  刑事と敬礼を交わした口髭の男は、第1偵察戦闘大隊の田崎3佐と名乗った。

  「君があの大熊の第一発見者かな?」3佐が僕を見て言った。「早速だが、あの大熊に名前をつけてくれないか」

  「名前を?」

  「そんなもの、大熊でいいじゃないですか」

  刑事が口をはさむと、3佐は首を振った。

  「大熊のことは、すでに全国に報道されている……もしどこかの学校に、『オオクマ君』という名前の子供がいたとしたら、その子はいじめられたりしないだろうか。怪獣などという不名誉なあだ名で呼ばれたりしないだろうか」

  「なるほど、一理ありますね」

  そこまで言われたら、僕としても名前を考えないわけにはいかない。

  「そうですね……クマのモンスターですから、略して──」

  「──ベアラ! ベアラというのはどうだ? それがいい!」

  僕の提案はなぜか言わせてもらえなかった。

  自衛官たちは準備を進めた。次々と運びこまれた通信機器が手際よく組み上げられ、会議室は臨時の作戦指揮所となった。

  「──こちら本部。これより目標をベアラと呼称する。本部よりコブラワンへ。映像送れ」

  「コブラ……対戦車ヘリですか?」刑事が目を丸くする。

  「何しろ、相手は二十メートル級の猛獣だ。ひょっとしたら戦車より厄介かもしれん」

  会議室のモニターに、コブラから送られてきた映像が映し出される。あたり一面の森林地帯だ。

  しばらくは何の異常も見られなかったが、やがて画面の隅で不自然に揺れる木を見つけた。

  『目標視認』

  同時にコブラからの通信が入り、3佐は命じた。

  「了解。射撃開始せよ」

  『了解。射撃開始』

  機銃音とともに、画面に映る木々が弾け飛んだ。巨大な影が驚くほどの速さで移動していく。

  機銃はほとんどダメージを与えていないようだ。

  「木が邪魔だな……それにあの分厚い毛皮では、皮膚にまで銃弾は届くまい」3佐が言った。「射撃中止。しばらくは刺激せず、時間を稼いでくれ」

  「どうする気です?」刑事が聞いた。

  「ここにゴルフ場がある」3佐は広げた地図の一点を指さした。

  「現在、施設隊が落とし穴を掘っている。そこにベアラを誘いこんで足止めをしたうえで、対戦車誘導弾で仕留める──問題はベアラの誘導方法だ。コブラで牽制しつつ追いこむつもりだが、より確実に引きつけるために、何か餌のようなものがあればいいのだが……」

  「熊が好む餌……」

  刑事は腕組みをしながら考えていたが、やがて思い出したように言った。

  「──そういえば大学の山岳部が、しつこく熊に追いかけられた事件があったでしょう。あれは、熊に奪われた荷物を取り返したのがいけなかったそうですね。熊は一度逃した獲物を、絶対にあきらめないそうですから」

  「一度逃した獲物……」

  3佐と刑事はそろって僕を見た。

  「ちょ、ちょっと待ってください!」

  思わず叫ぶ僕の肩をつかんで、3佐が言う。

  「頼む! 君が頼りなんだ。君の安全は小隊が全滅しても必ず護る!」

  「全滅しても困りますけど……」

  「僕からもお願いする。これ以上の被害はどうしても食い止めたい。市民を代表してお願いする」

  刑事も深々と頭を下げる。さすがに断りきれなくなった。

  日高市内は静かだった。

  住民はすでに避難しているらしく、聞こえてくるのは鳥のさえずりと蝉の声ぐらいだ。

  ゴルフ場の鮮やかなグリーンの真ん中で、僕は新鮮な空気を吸いこんだ。

  後方には武骨な自衛隊の車──高機動車が停まっている。中には田崎3佐と宝田刑事、運転席には自衛隊員が小銃を手に待機していた。

  「もうすぐ、来るぞ!」

  3佐の声に僕は息を飲み、目の前に広がるグリーンを見つめた。

  そこには粘度の高い泥で満たされた、直径三十メートルの落とし穴が掘られているはずだ──はずだ、というのは巧妙に偽装されているので、本当に掘られているのかわからないからだ。

  もし掘られていなかったら? 掘られていても浅かったら? 不安が胸をよぎる。

  しばらくして、ヘリのローター音と断続的な銃声が近づいてきた。

  ベキベキと何かが倒れる音。ズシンとくる振動。僕はすぐにでも車に飛び乗って逃げ出したかった。

  「もう少し我慢してくれ。ベアラが君を目視するまで」

  やがて迷彩塗装のコブラが、空気を震わせて上空に現れた。

  それを追うようにして、巨大な黒い野獣がゴルフ場に入ってくる。

  ベアラだ──その巨体を再び目のあたりにして、恐怖が喉元までこみ上げてきた。

  血走った目が、グリーンの上にいる僕の姿をとらえた。

  「グフオッ……」

  足がすくむ。これで僕の役目は終わったはずなのに、体が動かなかった。

  「さあ、早く車に戻って!」

  宝田刑事が迎えに来てくれて、ようやく体が動いた。

  僕たちが高機動車に飛び乗ると同時に、運転席の隊員がアクセルを踏む。

  ベアラは四つ足になって僕らを追いかけてきた。その足がグリーンの真ん中に差しかかったときだ。

  ──凄まじい地響きがした。

  「グフオオオオッ!」

  泥のしぶきをはね上げながら、ベアラの体がグリーンに沈んでいくのが見えた。

  ベアラはもがいていたが、泥の粘度は相当あるらしく、簡単に抜け出せそうにはない。

  上空を旋回していたコブラが、ベアラから離れた位置で制止した。

  「誘導弾発射」3佐が無線で命じた。

  『誘導弾発射!』

  風を切って発射された誘導弾は、ワイヤーの遠隔操作でベアラが落ちた穴に直撃した。

  火山が噴火したようだった。爆風とともに泥が吹き上がり、僕らの車にも降り注いでくる。

  「やった!」

  3佐と刑事が握手をかわした──そして、絶句した。

  何ということだろう……土煙の向こうで、巨大な影はまだ動いている!

  『第二射、発射します!』

  再び攻撃準備に移ったヘリをベアラは睨みつけた。

  「ガアッ!」

  次の瞬間、ベアラの口から何かが迸り、コブラのフロントガラスに直撃する。

  ──泥だ。ベアラは飲みこんでいた泥を吐き出したのだ!

  視界を奪われたコブラがグリーンに着陸する。乗員があわてて脱出するのが見えた。

  攻撃で落とし穴の泥は吹き飛ばされていた。ベアラは穴から這い上がりコブラに近づいた。回転しているローターを一撃ではね飛ばし、返す拳で機体を真上から叩き潰す。

  二つに折れた機体がオレンジの炎を吹き上げた。

  「化物め……」3佐が歯ぎしりする。

  どこに隠れていたのか、自衛隊員がゴルフ場のあちこちから飛び出してきた。手にした自動小銃を撃ちまくったが、誘導弾さえ通用しない相手には牽制にもならない。

  運転席の隊員が高機動車を急発進させる。直後、ベアラの爪が背後の地面をえぐった。

  ゴルフ場を飛び出した高機動車は、アスファルトにタイヤ跡を残しながら町中を疾走する。無人の町に邪魔になるものはなかったが、それはベアラにとっても同じことだった。

  四つ足で追ってくるベアラは速かった。一歩踏み出すだけで十数メートルも前進してくるのだ。

  「もっと速く走れないんですか!」

  焦る刑事を横目に、3佐は無線で連絡を取っていた。

  「現在、作戦地点に向け目標を誘導中……A戦・B戦、配置状況を報告せよ」

  『A戦、配置完了』

  『B戦、配置完了』

  「……どこかにベアラを誘導するつもりですか」刑事が聞いた。

  「落とし穴作戦が失敗したときのために、入間川河川敷を最終防衛線に設定した。あそこには広い緑地がある。そこに一〇五ミリ砲を積んだ戦闘車を配置してある」3佐が答える。

  「入間川の向こうは川越市だ。人も建物も多すぎる。市内での作戦はほぼ不可能だ──河川敷でベアラは絶対に仕留める!」

  思惑どおりベアラは高機動車を追い、順調に入間川へと誘いこまれていた。

  だが、やはり誘導弾の攻撃は効いていたらしい。ベアラはゆっくりと速度を落とし──やがて路上に腰を下ろしてしまった。入間川まであと数キロはある。

  「まずいな……ここに居座られては、戦闘車が展開できない」

  3佐の顔に焦りの色が浮かんでいる。僕は決心して言った。

  「──僕が出ます。出てベアラをおびき寄せます」

  「しかし、それはあまりに……」

  「他に方法がありますか」

  「……」

  3佐はうなずくと、ドアを開けてくれた。

  「無理はしないでくれ。危ないと思ったらすぐに車に戻るんだ」

  僕は車を降りると、ベアラのほうへと足を進めた。

  「ベアラ! こっちに来い! 僕はここにいるぞ!」

  叫んでみたが、ベアラは動く気配を見せない。

  「どうした? 僕が憎くないのか?」

  どうすれば挑発できるのか──考えるあまり、ついベアラから目をそらしてしまった。

  「──逃げろ!」

  「はっ?」

  刑事の声が聞こえたときはもう遅かった。

  「グオオオッ!」

  ベアラが猛然と襲いかかってきた。さっきまで座りこんでいたとは思えない素早さだった。

  僕の足は恐怖で動かなかった。大きく開かれた口が眼前に迫る。

  これが人生で最後に見る光景になるのか──そう思ったとき、彼女はやってきた。

  インクが滲むように、突如現れた巨大な狼──センはベアラの腕に噛みついた。

  二頭の巨獣が地響きを立てて地面に倒れる。車から降りた刑事が呆然と口を開いた。

  「何だ、あれは……」

  「千疋狼……」

  「千疋狼?」

  「何してるの。早く逃げて」

  ──聞き覚えのある声が聞こえた。いつの間にか、ヤッケの少女がそこにいた。

  「君……ここで何をしている! こんなところにいたら危ない!」

  刑事の言葉を無視して、少女が近寄ってくる。

  「どうしてここに……」僕は聞いた。

  「おっかあがキミを気に入った。助けてあげるって」

  「えっ?」

  聞き返した僕の耳に、エンジン音が響いた。

  「とにかく、二人とも乗って!」

  刑事にうながされるまま、僕は少女と一緒に高機動車に乗った。

  「ガウッ!」

  「グフオオッ!」

  二頭が互いの急所を狙って牙を鳴らす。その隙に運転手はアクセルを踏んだ。

  ベアラは走り出した車に気づくと、センを振りほどき追ってくる。

  センもまたベアラを追い、背中から飛びついて首筋に牙を突き立てた。

  「車なんかより、自分で走ったほうが速いけどなあ」

  車内では不満そうな少女を横目に、刑事が僕に聞いてきた。

  「その子は君の知り合いかい?」

  「山で迷っているときに、助けてもらいました」

  「そんな話は聞いてないぞ」

  「それは……」

  「黙っていてくれたのね。ありがとう」

  「君、名前は? あの巨大な狼は、君とどんな関係があるんだ?」刑事が口をはさむ。

  「あなたに話すことはないわ」

  少女がそっぽを向いたとき、3佐が前方を指さした。

  「着いたぞ!」

  緑に覆われた入間川の河原が見える。高機動車は、タイヤをスリップさせながら急停止した。

  その頭上をセンとベアラが飛び越えていく。二頭はもつれ合いながら河原に落下した。

  「第一班攻撃用意──撃てッ!」間髪を入れず3佐が無線で命じる。

  耳をつんざくような砲声とともに、三方向から飛んできた砲弾がベアラの体に食いこんだ。

  「グフオオオオッ!」

  凄まじい咆哮を上げたベアラがのたうちまわる。

  「第二班攻撃用意──撃てッ!」

  今度は対岸から砲弾が放たれた。

  二発がベアラに命中したが、残りの一発はセンの足元に着弾し、河原に穴を穿つ。

  「おっかあ!」少女が叫んだ。

  続けて発射された三発は、すべてセンに向かって飛んできた。センは驚くほどの素早さで回避したが、その後の砲撃は避けきれなかった。対岸から放たれた三発のうち一発が前脚に命中した。

  少女は怒りの形相で3佐につかみかかった。

  「おっかあに何するの!」

  「お、おっかあ?」

  刑事と二人がかりで少女を引き離しながら、僕は3佐に言った。

  「あの狼は味方です! 攻撃をやめさせてください!」

  「しかし……」

  「早く!」

  3佐は困惑した目で僕を見ていたが、やがて無線で命じた。

  「本部より各班へ。砲撃はベアラに集中せよ。その他目標への砲撃は、即時中止!」

  ようやくセンへの砲撃がやんだ。少女は車を跳びだすと、血を流している母親のもとに駆け寄った。

  「君!」

  呼び止める僕を睨みつけて、少女は叫んだ。

  「──人間なんか助けるんじゃなかった!」

  「……」

  僕には何も言えなかった。そうしているうちに少女は母親の前脚を伝って、その背中に乗った。

  同時に狼は姿を消した──赤い血の跡だけが点々と、山に向かって遠ざかっていった。

  「あれは、いったい……」

  3佐が遠ざかる血の跡を呆然と見つめていると、刑事がその肩を揺さぶった。

  「田崎さん、見てください!」

  河原にには直立したまま動かなくなったベアラの姿があった。

  ──その巨体がグラリと揺れる。次の瞬間、凄まじい水柱とともに川へと没していった。

  しばらくの沈黙があった。やがて3佐は無線を手にとった。

  「ヒトサンマルゴー。現時刻をもって本作戦を終了とする」

  僕はひどく疲れていた。

  朝早く叩き起こされ、殴られたあげく山中を駆けまわり、ベアラに殺されかけたのだ。

  僕は自衛官たちと一緒に、ひとまず川越の市役所へ送り届けられることになった。

  市役所で車から降りた途端、フラッシュが焚かれ、多数の報道陣に取り囲まれる。

  『あの巨大熊について聞かせてください……』

  『熊の他にも、巨大な動物が目撃されたようですが……』

  『自衛隊が市内で実弾を使用したことについて……』

  『……そこにいる彼はどなたでしょうか?』

  質問は刑事と3佐に集中したので、僕は目立たず市役所に入ることができた。多少はテレビに映ったかもしれないが。

  昼食にカレーをごちそうになり、ソファに横たわる。このまま二十四時間ぶっ通しで眠りたかった。

  ──だが、目は冴えたままだ。

  『──人間なんか助けるんじゃなかった!』

  彼女の言葉が、頭の中にこびりついて離れない。

  「……お疲れ様。大変だったね。でも、おかげでベアラを駆除することができた」

  顔を上げると、刑事が僕のスマホを手に立っていた。

  「もう、帰ってもいいんですか?」

  スマホを受け取ると、刑事がとまどうように口を開く。

  「ああ、かまわないが……あの、巨大な狼については──」

  「僕は何も知りません。聞かれても何も答えられません」

  僕はきっぱりと言った。刑事は僕の目を見て頭をかいた。

  「……わかった。そういうことにしておこう」

  記者会見が開かれている間に、僕は市役所を出た。午後二時。今日も暑い一日になりそうだ。

  スマホの電源を入れると、美奈からのメッセージが届いている。

  『何か大変なことになってるけど、昨日行くっていってたところじゃない?』

  『ちょっと、大丈夫なの?』

  『……今、テレビに出てなかった?』

  「びっくりしたよ! まさか当事者とは思わないじゃない?」

  美奈はわざわざ川越まで来てくれた。テレビで僕を見て電車に飛び乗ったらしい。

  早く帰りたい気持ちもあったが、美奈の顔も見たかったのだ。駅前のファーストフードで待ち合わせして、今日起こったことをかいつまんで話した。

  「ひどい目に合ったね……」

  美奈は優しく、湿布を貼った僕の頬に触れた。

  「まあ、大したことはないよ」

  満身創痍だったが、男として弱いところは見せたくない。

  「せっかくだし、ちょっとブラブラしてこうよ」

  美奈が腕をからませてくる。化粧の甘い香りが鼻をくすぐった。

  僕らは川越の町を歩き始めた。

  町のメインストリートともいえるのが“蔵造りの町並み”で、瓦屋根に漆喰の壁という、江戸時代を思わせる店が並んでいる。あれだけの騒ぎが起きたのに、大勢の観光客で通りは溢れている。入間川まではかなり距離があるし、真夏の観光シーズンに店を閉めるわけにもいかないのだろう。

  通りの中央には一棟だけレトロな西洋式の建物がある。昭和初期に建てられた〈ひびき銀行〉で、つい最近まで現役で営業をしていたという。

  さらに奥に進んだところには、江戸時代に建てられた〈時の鐘〉がある。その名のとおり時刻を告げるための木造の鐘楼で、高さは十六メートルほど。まわりに高い建物がないのでひときわ目立っていた。

  美しい町並みを、美しい彼女とのんびり歩く。これ以上の幸せがあるだろうか?

  ──そんなことを考えていると、彼女が僕の耳元にささやいた。

  「それにしても……すごいチャンス、つかんだね」

  「チャンス……?」

  何のことかわからず、僕は立ち止まった。彼女はわからないのがわからない、という目で僕を見た。

  「だってそうでしょ? これだけの大事件で、あなたがその中心なんだもん。私たち有名になれるよ!」

  「……」

  ──そんなものだろうか。

  言葉が見つからず、僕は再び歩き出した。彼女はどこか不満そうな顔をした。

  氷川神社の近くまで歩いてくると、急に人通りが多くなった。報道関係らしいヘリが旋回している。

  「どうかしたの?」

  「わからないな。ベアラのことならもう片付いたはずだし……」

  美奈はスマホで何か検索していたが、突然声を上げた。

  「あの熊、引き上げ作業が終わったみたいよ。これからこの近くを通るみたい!」

  「ええっ?」

  「ねえ、見に行こうよ」

  「……」

  気が進まない。何人もの犠牲者が出ている事件。僕の中ではもう忘れたい事件なのだ。

  「どうしたの? テレビ局の人とかいるかもよ。みんなあなたの話を聞きたがるわ」

  「だけど……」

  「もう、何なの? あなた文学部なんだから、このことを本にして売りこもうとかいう気はないの? ただでさえ文学部なんて就職には不利なんだから──」

  突然にスマホから警報が鳴り響き、僕は跳び上がりそうになった。

  僕だけではなく、美奈のスマホも、歩いている人たちからのスマホからも鳴っている。

  ──Jアラート。緊急を呼びかける行政からの警報だ。

  「え……何?」

  美奈は混乱していたが、僕にはおおかたの予想はついていた。スマホの画面にはこう表示されていた。

  『国民保護に関する情報──輸送中の大型肉食獣が逃亡しました。直ちに避難してください。

  対象地域……埼玉県川越市』

  ──ベアラは死んでいなかったのだ!

  僕は美奈の手を取って、急いで駅に向かおうとしたが、早くも路上は逃げまどう人たちと、避難してきた車両で身動きも取れないほど埋まっている。

  警報が鳴りやんだかと思うと、電話がかかってきた。どうにか建物の陰に身を寄せて電話に出た。

  「もしもし?」

  『秩父署の宝田です……今、どちらにおられます?』

  「まだ川越にいますが……」

  『よかった! 申し訳ないが、すぐに川越の市役所まで来てもらえないだろうか』

  「刑事さん、今はそれどころじゃ……」

  『わかっている。君ももう知っているかと思うが、ベアラが目を覚ました。まだ動きは鈍いが……おそらくは人間がいることを察知して、川越市街地に向かっている。大至急、君に頼みたいことがあるんだ』

  「頼みたいこと……?」

  『あの狼──千疋狼を、もう一度呼ぶことはできないだろうか』

  「……」

  あまりのことに、しばらく言葉を失った。美奈が心配そうに僕の顔を覗きこむ。

  「どうしたの? 誰から?」

  「いや……」

  そうしている間にも、刑事は言葉を続けた。

  『もちろん、警察や自衛隊も動いているが、現場は混乱している。思うような動きがとれない。それにあれだけの攻撃に耐えた奴だ。次の攻撃でも成果があるかどうか……だから考えた。あの狼なら奴を倒すか、少なくとも安全な山の中に追いこむことができるんじゃないかと──』

  「できません」僕は言った。「そもそも、彼女たちがどこにいるかもわかりません。あなたたちが撃ったりするから……」

  『われわれは事情を知らなかった。君は知っていたのに教えてくれなかった──君を責めているわけじゃないんだ。あの少女が黙っていてくれと頼んだんだろう。それでもあの子らは君を助けにきてくれた。君の頼みならもう一度手を貸してくれるんじゃないか?』

  「そんな勝手な……」

  『勝手なのは承知だ。だが市民の安全を守るためならあらゆる手段を使うつもりだ。もし協力が得られないのなら、君を見つけ出してでも──』そこで刑事は言葉を切った。『すまない。無理強いできることではないな。忘れてくれ』

  「……」

  「どうしたの? 早く逃げようよ!」僕の袖を引いて美奈が言う。

  「……美奈、先に逃げてくれ」

  「えっ?」

  「刑事さん、市役所ですね? 今から行きます!」

  僕は電話を切って、市役所のほうに足を向けた。ここからなら目と鼻の先だ。

  「待って、あたしも行く!」

  「駄目だ!」僕は美奈に怒鳴った。

  彼女が驚いたように足を止める。その間に僕は駆け出した。

  「もう、何なのよ! バカァ!」

  彼女の声が背中越しに聞こえてきた。

  市役所の屋上には警察のヘリが待機していた。

  宝田刑事と一緒にヘリに乗り、まずは最初に彼女たちに会った三宮山に向かう。

  ヘリは三十分ほどで三宮山上空に着いた。森林地帯を見下ろしながら旋回する。

  「いそうか?」刑事が聞いてくる。僕は首を振った。

  「やはり無理か……」刑事は汗をぬぐうと、深いため息をついた。

  「そもそも、こんな広い山の中で──」

  僕がそう言いかけたとき、何かが──説明ができない感覚が、鼻の奥に広がった。

  僕は数キロ右手にある、峰のほうを指さして言った。

  「……あそこへ」

  「い、いるのか? どうしてわかるんだ」刑事がいぶかしげな顔をする。

  「そう言いきれるわけじゃありませんが、何というか──“匂い”がするんです」

  「匂いって……」刑事は言いかけて、首を振る。「いや、賭けるしかないな」

  ヘリは峰に近づくと、すぐ近くの道路で僕を降ろした。

  「ここにいてください。刑事さんがいると、彼女たちは話を聞いてくれません」

  僕は一人、藪をかき分けて山に入った。

  不思議なほど足に迷いがない。友達の家に遊びに行くような感覚さえする。

  山を登り続けると、不自然なほど開けた場所に出た。

  同時に、突然飛んできた何かが、足元にドスンと突き刺さった。ひしゃげた砲弾だった。

  「……そんなもの撃ちこんだりして!」

  あの少女が姿を見せた。初めて出会ったとき──いや、それ以上に警戒心をあらわにして。

  驚きはしなかった。ここにいることを僕は知っていたのだ。

  「すまない……」僕は頭を下げた。

  「それで? 何しに来たのよ」少女は腕を組み、憮然とした口調で言う。

  「君たちにお願いがあるんだ。まずは君のお母さんに会わせてくれ」

  「お願い? そんなもの聞くと思う?」

  「頼む。話だけでも……」

  「帰って!」

  ──少女の背後で樹木が揺れた。

  もやのような何かが目の前を覆い、たちまち巨大な狼の顔が現われる。

  金色の瞳がじっと僕を見つめた。恐怖は感じない。僕はセンの前にひざまずいた。

  「本当に……すまないことをした。助けてくれたあなたを傷つけてしまって。だけどもう一度だけあなたに頼みたい。あいつを──あの狂暴な熊を倒すのに、手を貸してくれないか」

  センは無言のままだ。やはり駄目なのか……と思っていると、少女が言った。

  「おっかあが手を貸さなくても、あの熊はやがて死ぬわ。山を下りて食べ物もなく、何発も撃たれ続けたら、そのうち死ぬ」

  「それまでに、どれだけの人間が犠牲になるか、わからない!」

  「そんなこと知らない!」

  激昂する少女に、センが顔を寄せた。何かをささやいているようにも見える。

  少女は一瞬、驚いた顔をした。しばらく僕と彼女を交互に見つめてから口を開く。

  「おっかあが、キミを助けると言ってる」

  「えっ!」

  「でも、条件があるわ」

  駆け寄ろうとした僕を制するように、少女が続ける。

  僕の心は暗くなった──いったいどんな条件を突きつけられるのか?

  多少の無理はあの刑事に飲ませてみせる。ことは非常事態なのだから。

  しかし、もしそれが例えば──僕の命とかなら?

  「……わかった。言ってみてくれ。僕が何とかする」

  つとめて冷静に言ったつもりだが、声の震えは隠せない。少女はおかしそうに笑った。

  「その言葉を聞いて安心したわ。おっかあは、キミをあたしの婿にしたいと言ってる」

  「……」

  一瞬、わけがわからなかった。聞き違いかとも思った。

  婿? 結婚しろということなのか? 目の前の、中学生くらいの少女と?

  いや、それ以前に、彼女は人間ですらないのに──。

  「前にも言ったでしょう。何千人かに一人、狼とつがいになれる人間がいる──キミは間違いなくその一人。匂いでわかる」

  「そんな……僕は普通の……」

  「普通の人間なら、あたしたちの居場所を簡単に見つけられない」

  少女はヤッケの袖をまくり、体毛に覆われた腕を見せた。豊かな髪をかき上げると、ピンと尖った耳があらわになった。

  「あたしも百歳を超えた。もうじきおっかあみたいに大きくなる。そうなったらもう人間とはつがいになれない。それまでに子供を産まないと、狼の血は絶える。嫌なら諦めるわ。大勢が死んで、あたしたちの一族が滅びるだけ」

  「……その言いかたは、ずるい」僕は言った。「断れるわけないじゃないか」

  「決まりね。それじゃあ、行きましょうか」

  僕は再びセンのほうを見た。気のせいか、その瞳は微笑んでいるように見えた。

  ヘリで待機していた刑事たちは驚いたに違いない。突如現れた巨大な狼が頭上を飛び越えて、山を駆け下りていくのを目の当たりにしたならば。

  僕は少女と一緒に、センの背中に必死でしがみついていた。センは建物も畑もお構いなしに踏み潰して疾走する。入間川をひと飛びで超えると、あっという間に川越の町が見えてきた。

  同時に、町中でうごめく巨大な黒い影──ベアラの姿もはっきりと確認できた。

  「もうあんなところに……」

  僕は焦った。美奈が無事ならいいのだが……。

  「このままじゃおっかあが戦えない。どこかで降りなきゃ」少女が言う。

  センは町外れで僕たちを降ろした。

  ベアラもすでにセンに気づいていた。威嚇するように後脚で立ち上がり、睥睨する。

  相手に合わせるようにセンも後脚で立った。やはり人間の血が流れているのか、踵を高く上げているほかは、人間とほとんど変わらない立姿をしている。

  「アオオン!」

  センは吠えると、山のほうを顎で示した。山に帰るよう説得しているのだ。

  「グフオオオ!」

  ベアラもまた吠えた。

  僕には聞こえた──自分はやがて死ぬ。せめて命が尽きるまで人間どもを殺戮するのだと。

  ベアラが前進した。腰ほどの高さしかない、蔵造りの町並みが次々と蹴り壊されていく。手には赤く血塗られたものが握られていたが、それが何であるかは考えたくもなかった。

  センは素早く動いた。二本足のままベアラに向かって突進していく。待ち構えていたようにベアラは腕を振るった。その攻撃をバックステップでかわしたセンは、高く跳躍して強烈なキックをお見舞いする。重いベアラの体が横倒れして、家屋の破片が飛び散った。

  続けてセンの鋭い牙が、ベアラの首元に襲いかかった。しかし、それより先にベアラの脚がセンの腹を蹴り上げる。柔道の巴投げのように、センの体は弧を描いて十数メートルも向こうに落下した。

  二頭はほとんど同時に立ち上がった。川越のシンボルである〈時の鐘〉を挟んで対自する。

  そこで信じられないものを見た。

  〈時の鐘〉の隣は老舗の和菓子屋だ──その屋根の上に誰かいる!

  しかもそれは、僕がよく知っている人に似ていた。

  「……美奈!」

  距離があるのではっきりとは確認できない。僕はとっさに走り出した。

  「そっちに行ったら危ない!」

  少女が止めるのも聞かず、大通りを一気に走る。角を曲がり、〈時の鐘〉がある路地へ入った。

  やはり美奈だった。屋根の上から一心不乱にスマホで動画を撮っている。

  「美奈、何をしてるんだ!」

  「だって、こんな凄いの、撮らないわけにはいかないでしょ? 絶対に高く売れるわ!」

  「バカ! 早く降りろ!」

  ほんの目と鼻の先で、二頭が正面から組み合っている。センはベアラが動かないように抑えてくれているようだ。美奈もようやく、そろそろと屋根の上から降り始めてくれた。

  そのとき、凄まじい衝撃に地面が揺れた。鐘の脚が折れたらしく、ゆっくりと傾いていく。

  「キャアアッ!」

  足を滑らせた美奈は、必死で屋根のへりにしがみついていた。

  僕が駆け寄るのと、美奈が手を離すのはほとんど同時だった。尻餅をつきながらも何とか彼女を受け止める。

  「ごめん……大丈夫?」

  「痛てて……」

  ほっとしている間もなく、頭上でゴオンという音が響いた。

  鐘楼から外れた、巨大な金属製の鐘が屋根の上から転がり落ちてくるのが見えた。

  「うわああッ!」

  さすがに逃げる暇はないと思った瞬間、襟首をつかまれて後ろに引っ張られた。

  鼓膜が破れそうなほどの音を立てて、目の前に鐘が落下する。

  振り返ると、少女が眉をしかめて僕を見ていた。

  「その女は──」少女はふっと、ため息をついた。「そうか、もう相手がいるんだな。キミには」

  「だ、誰よこの子……知り合い?」美奈は目を丸くしている。

  「詳しい話はあとで。とにかくここを離れないと!」

  僕らがその場を離れると、センとベアラはもつれ合いながら大通りへと出た。

  ベアラはおそらく、まだ大勢の人がいるだろう駅のほうを目指している。

  センは必死に押しとどめているようだったが、それはボクサーと大相撲の力士が戦う姿に似ていた。

  距離を取って攻撃を加えれば、センのキックと噛みつきはベアラの体力を奪うだろう。

  だが正面から組み合えば──センは仰向けに、地面に押し倒された。

  その後脚をベアラが両脇に抱えこむ。

  「グフオオーッ!」

  ベアラはセンの体を振り回し、放り投げた。その先には蔵造りの町では数少ない、鉄筋コンクリートの建物──〈ひびき銀行〉がある。センは銀行に激しく叩きつけられ、外壁がひび割れた。

  なおも突進してきたベアラはセンの頭をわしづかみにして、繰り返し建物に叩きつける。

  「ギャウンッ!」センの口から悲痛な叫びが漏れる。

  「おっかあ!」

  少女が駆け出そうとしたとき、銀行が音を立てて崩れ落ちた。粉塵が舞い、目の前が真っ白になる。

  ようやく視界が開けると──そこには瓦礫に埋もれて横たわるセンの姿があった。

  「グフオオンッ!」

  ベアラは勝ち誇ったように咆哮を上げ、ズシン、ズシンと駅に向かって移動を始めた。

  少女と僕はセンのもとに駆け寄った。目の前に巨大な鼻がある。

  しっとりと濡れていた黒い鼻は粉塵で白くなり、呼吸の音は聞こえなかった。

  「そんな……そんな!」

  僕は瓦礫を駆け上り、センの体を掘り起こそうとした。少女と一緒にコンクリートの破片をどけていく。しかし、二人がかりでも埒があきそうにない。僕はスマホで撮影していた美奈に声をかけた。

  「美奈も手伝って!」

  「無理よ! こんな瓦礫の山……」

  無理なのは自分でもわかっていた。だからといって、このまま見ているだけなどできない。

  必死に瓦礫を片づける。真夏の熱気が容赦なく襲いかかり、汗は滝のように流れ、目がくらんだ。

  だから、田崎3佐の一隊がすぐそこまで来ていたことにも、声をかけられるまで気づかなかった。

  「君! 大丈夫か!」

  振り向くと、大型トラックから二十人ほどの自衛隊員が降りてくるところだった。

  3佐は呆然と、目の前に横たわるセンを見つめていた。それから崩れかけた銀行の建物と瓦礫の山を見て腕を組んだ。

  「……」

  ほんの数秒、考えこんだ。やがて「よし」とつぶやくと、大声で隊員たちに命じた。

  「──ただちに瓦礫の撤去作業にかかれ! あの狼をここで死なせるわけにはいかん!」

  「しかし、ベアラは今、駅に向かって……」

  「復唱ッ!」

  「は、はい! 瓦礫の撤去作業、開始します!」

  隊員たちがいっせいに作業にかかった。被災地などで慣れているのだろうか、驚くほど効率的な作業だった。数分もしないうちに瓦礫は撤去され、センの体は掘り起こされた。

  僕はセンの体に上って、胸のあたりに耳を当てた。その肌は冷たく、鼓動も聞こえない。

  「くそっ!」

  両手を組んで、力いっぱい胸を叩いた──心臓マッサージのつもりだった。

  彼女の巨体に、僕の非力な両腕が何の役に立つだろう。それでも僕は続けた。

  「そこをどきなさい!」

  頭上から声がした。かろうじて残っていた銀行の二階のフロアに、整列している隊員たちの姿があった。

  「行くぞ! せーのっ……」

  十人ほどの隊員が、センの胸目がけていっせいに飛び下りてきた。着地の衝撃に巨体が弾む。続けて残りの十人も飛び下りてくる。相当な圧がかかったはずだが、センが息を吹き返す気配はなかった。

  「あきらめるな! もう一回!」

  隊員たちはもう一度同じことをした。センの体に飛び下りると、即座に階段で二階まで駆け上がり、飛び下りる。十数回は繰り返しただろうか。さすがの隊員たちにも疲労の色が見え始めたときだった。

  ──センの体が、ビクンと跳ねた。

  「……!」

  僕はセンに近づいた。次の瞬間、熱い鼻息が僕の体に吹きつけられる。

  固く閉じられていた目蓋がゆっくりと開き、優しい金色の瞳が僕を見つめた。

  「……総員退避! 動くぞ!」

  3佐の声に隊員たちが退避する。

  センの胸は規則的に波打ち、垂れていた耳がピンと逆立った。

  パラパラと粉塵を振るい落としながら、センはゆっくりと立ち上がり、空を仰いだ。

  「アオオオオーンッ!」

  サイレンのような咆哮が空気を震わせる。センは身を翻すと、駅に向かって猛然と駆け出した。

  「我々も続くぞ!」3佐が命じる。

  僕と美奈は高機動車に乗せられ、隊員たちと一緒に駅へと急いだ。

  いつの間にか少女は姿を消していた。まだ3佐のことは信じられないのかもしれない。

  本川越駅前はさながら戦場だった。

  バリケードを築いていた車両が横転し、炎を上げている。ベアラに抉られたらしいアスファルトはところどころに穴が開き、血まみれで倒れている人たちが手当もされないまま横たわっている。駅前は逃げ遅れた人たちで身動きも取れないようだった。

  3佐は隊を二つに分けると、一方に負傷者の救護を、もう一方に市民の誘導を命じた。

  駅周辺にはバスターミナルが広がり、その中央にベアラはいた。

  今にも群衆を踏み潰そうとしているベアラに、センは背後から襲いかかった。首筋に噛みつき、振りほどかれる前に自ら距離を取った。挑発するように噛みついては離れを繰り返す。

  激昂したベアラが矛先を変えたのを見計らい、センは駅ビルの屋上に飛び乗った。いくら巨大なベアラでもさすがに手が届かない高さだ。センは屋上から吠え立て、さらにベアラを挑発する。

  「アウッ! アウッ!」

  ベアラは太い腕を振り回したが、せいぜい窓ガラスが割れるくらいだ。

  その間に3佐が率いる部隊は、市民をトラックに載せて避難させていたが、それに気づいたベアラは駅ビルを離れてトラックに狙いを定めた。

  途端にセンは地上へ飛び下り、噛みつき攻撃に転じた。

  「グフオッ!」

  またも屋上へと逃れたセンに向かって、ベアラは勢いをつけて突進した。

  巨体で駅ビルに体当たりすると、今度は窓ガラスが割れるだけでは済まなかった。

  ガラガラと音を立て、駅ビルが崩れ始めた。センは一瞬驚いた表情をしたが、すぐ隣にある、さらに高い建物へと退避した。駅に直結している、〈川越プライムホテル〉で、高さが六〇メートルはある。

  ベアラはそこにも体ごと突進した──が、さすがに大型のホテルだけあって、簡単には崩れない。

  「グルル……」

  ベアラの拳が窓ガラスを叩き割った。続いて後脚も窓を蹴破ると、窓枠に爪を引っかけた。

  ──窓枠を梯子がわりに登っていくつもりだ!

  センはあたりを見まわした。足場となる駅ビルはすでに崩れ落ちている。地上に飛び下りたら、あの高さでは無事には済まないだろう。近くに飛び移れるような建物もなかった。

  獲物を追い詰めるようにベアラは一段、また一段と登り、センのいる屋上に到達した。

  ベアラの爪がセンに襲いかかった。胸元が引き裂かれ、赤い血の筋が走る。

  そのとき、センがベアラに向かって突進した。

  ベアラはようやく狙いを悟ったようだ──自分を突き落とすつもりなのだと。

  同時に嘲笑ったようにも見えた。力比べで勝てないことは、すでにわかっているはずではないか。

  落ちるのは、貴様のほうだ。ベアラがセンを押し返そうとしたとき──センは体の力を抜いた。

  「グフオッ?」

  バランスを崩したベアラの体が前によろめいた。

  その隙をセンは逃さなかった。前脚はがっしりとベアラの胴をつかまえ、逞しい後脚が床を蹴る。

  次の瞬間、二頭の体はもつれ合ったまま、真っ逆さまに地上へと落下していった。

  凄まじい衝撃とともに、何かが砕ける嫌な音がした。

  破裂した水道管が水柱を噴き上げ、視界を奪う。

  僕は走った。がむしゃらに走った。

  水煙の向こうで、巨大な影がゆっくりと立ち上がるのが見えた。

  ──その影はピンと立てた小さな耳と、真っ直ぐな鼻と、金色の瞳を持っていた。

  「センッ!」

  彼女は濡れた体をブルブルと震わせると、頭蓋を砕かれ、横たわるベアラを哀しそうに見つめた。

  安堵のあまり、僕は膝から崩れ落ちた。

  「死……死んだの、その熊?」美奈が恐るおそる近づいてくる。

  僕が彼女の体を、力いっぱい抱きしめたとき、視線を感じた。

  いつの間にか、あの少女が目の前に立っていた。

  ──そうだ。約束だ。僕は彼女の婿にならなければならない。

  これからの一生を、狼の家族として生きなければならないのだ。

  僕は最後のつもりで、美奈に軽く口づけしてから少女に言った。

  「……それじゃあ、行こうか」

  「行く……行くって、どこによ?」

  美奈の声には振り返らなかった。今振り返れば行きたくなくなるだろう。

  そうなれば僕の命はもとより、美奈の身にも何かあるかもしれない。

  少女に歩み寄った途端に、僕は激しく突き飛ばされた。

  「……?」

  思わずよろめいた体を、美奈が支えてくれる。

  「……気が変わった」少女は言った。「お下がりは御免だわ。あちこちに尻尾を振っているような雄を、婿にしたいとは思わない──そうでしょ、おっかあ?」

  センはしかたない、とでもいうように鼻息を鳴らした。

  「それじゃあね」

  少女はスルスルとセンの前脚を登り、その背中に乗る。同時に煙のように姿を消した。

  ただ重い足音だけが遠ざかっていく。

  「……」

  気配に振り返ると、3佐を始めとする自衛隊員が整列し、敬礼の姿勢を取っているのが見えた。

  足音が完全に聞こえなくなるまで、彼らは右手を下ろそうとしなかった。

  ──以上が事件の顛末だ。

  死傷者二百名近くを出した未曽有の熊害──これを熊害と呼ぶべきか迷うところだが──はこうして終わった。犠牲になられた方々には、この場を借りてお悔やみを申し上げたい。

  事件が収束してからというものの、僕の生活は一変してしまった。

  僕のアパートにはマスコミと、悪名高い『動画配信者』とやらが押し掛けるようになった。

  大学にもマスコミが追いかけてきたため、僕は二学期以降を休学せざるを得なかった。

  追い打ちをかけるように、どこから嗅ぎつけたのか、スマホにも抗議の電話が殺到した。

  『なぜかわいそうな熊を殺したのか』

  『あれは学術的に価値があった』

  『あの狼のような猛獣は、君が飼っているのか』

  ある人はわめき散らし、ある人は泣き叫び、ある人は無言のまま電話を切った。

  同じような抗議は実家の父にまでかかってきているようだ。

  この手記を読まれている方々にお願いしたい。まだ良識があるのならば、父に迷惑をかけることはやめてほしい。今回の事件には何の関係もないのだから。

  僕と美奈との関係も終わりを告げた。

  アパートにいられなくなった僕は、しばらく美奈のマンションに身を隠していたが、ある日のこと、美奈が学友の佐藤を連れてやってきた。誰にも居場所を教えないように頼んでいたのだが。

  佐藤がルポライター志望だということはすでに述べたと思う。その彼がこの事件に興味を示さないわけがなく、開口一番、この事件を本にして発表しないかと言った。

  僕は丁重に断った──あの親子のことをお金にしたくないからだ。

  しばらく口論したあと、僕は美奈のマンションを飛び出した。最後に美奈が言った言葉を覚えている。

  「あたし、野心のない男は嫌いよ!」

  以来、美奈とも佐藤とも会っていない。

  すでに気づかれていると思うが、この事件について著作をものにし、テレビでもよく見かけるあの二人が美奈と佐藤だ。世間では男女の仲だとささやかれているが、それが噂であれ事実であれ、今の僕にはどうでもいいことだ。

  さて、先に本を書く気はない、お金にする気はないと述べたが、なぜこうして手記を書いているのかといえば、ひとつは僕が望んで引き起こした事件ではないということをわかってもらいたいからだ。

  もうひとつは佐藤が書いた本は、あまりに誇張が過ぎるからだ。少なくとも美奈は『行方不明になった恋人を探しに』来てなどいないし、『放射能の影響で巨大化した』怪物も存在しない。

  ただひとつだけ、真実に近い文言があるとすれば、『精神不安定となり、人前に出るのを避けるようになった恋人』というのはある意味当たっている。

  なぜなら僕はこの手記をもって、人間社会と決別するつもりだからだ。

  僕は決めたのだ。もしあの少女──といっても僕よりはるかに年上だが──が望んでくれるなら、彼女を生涯の伴侶とすることを。

  おそらく三宮山には、もうあの親子はいないだろう。事件以来、あの山はアマチュアの学者や自称探検家に荒らされ過ぎた。僕自身、あの親子が今どこにいるかはわからない。

  だが、必ず探し出して見せる。かつて彼女たちを探し出したときのように。

  そして──狼の血を繋いでいくつもりだ。