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[戦場のフーガ if]追想と懸想のファンタジア

  遥か彼方、時の向こう側─

  いつだったか、誰かが僕のそばにいた気がする。

  それは、本当にいつでも、僕のそばに居てくれて─

  ─同時に、僕のそばには居なかった。

  でも、それは僕の心をいつだって救ってくれた。

  光であり、希望であり、唯一無二であり─

  ──それは──

  [newpage]

  「へへっ!オレが一番乗りだもんねー!」

  「待ってよ、ハックー!」

  とある村。その村外れ。

  そこにある花畑へと、少年とカゴを持った少女が走っていた。

  「遅いぞチック!そんなんじゃ日が暮れちゃうぞ!」

  「はぁ、はぁ…!もう、ハックがいきなり走り出すからでしょー!?」

  その場で足踏みをしながら振り返り、ハックと呼ばれた少年は不満げな声を漏らす。

  そして、チックと呼ばれた少女はハックの元に追いついた後、カゴを地面に置き、息を整えながらハックを叱る。

  しかし、ハックは悪びれもせず、へへっと笑った。

  「こーいうのは、早く着いた方がえらいんだぜ!それっ!」

  「あっ!もうっ……!待ってよハックー!」

  後ろから呼び掛けられる声にニシシ、と笑いながら、花畑の真ん中へとハックが駆けていく─と。

  「わっ!?うわぁぁっ!?」

  「えっ!?ハック!?」

  ハックの足元に何かがぶつかり、それにつまづいたハックの身体は、空中で一回転するように回り、咲き誇る花の上へと転がる。

  「わぶぶ!……ってて」

  「ハック!大丈夫!?」

  転んだハックの元にチックが慌てて駆け寄ると、ハックは身体に付いた土を払い落としながら立ち上がる。

  「うん、ちょこーっとびっくりしたけど、花がクッションになってくれたし大丈夫さ!」

  「はぁ…よかった……もう!ちゃんと歩かないからこういう事になるんだよ!?

  それにお花だってメチャクチャにしちゃうしー!」

  思ったよりも元気そうに笑顔を見せるハックに、チックは胸を撫で下ろしたあと、両手を腰に当て、ハックに顔を寄せながら注意する。

  それに対し、ハックは迫るチックからやや仰け反るようにしながら、こけた場所を指さす。

  「わ、わっ!?

  いや違うって!いや、違わないんだけど…あそこで躓いたのだって、なんか石とかに比べたら柔らかかったし、なんかデカかったしさぁ!」

  「えー…?自分の足がもつれて転んだだけじゃないのー?」

  「違うって!ほらあそこ!」

  「もう…ヘビとかじゃないよね…?」

  ハックが指で示した場所をチックがそろり、そろりと近付いて見に行く─と。

  「…えっ!キャッ!?」

  「ど、どうした!?大丈夫かチック!?やっぱヘビだったのか!?」

  チックが悲鳴にも似た小さな叫び声を上げると、ハックはすぐさまチックに駆け寄る。

  チックは微かに震える手で、自身の目の先にある"何か"を指さす。

  「ひ…ヒトが…」

  「えっ?」

  ハックは、チックの指さす場所に目をやり、そろり、そろりと近付く…と。

  「うわぁ!?ホントだヒトが…!」

  「「倒れてる…!」」

  2人は声を揃えながら、倒れたヒト─黒い外套を身にまとった青年に驚き、その見慣れない異様な光景に息を飲むのだった。

  [newpage]

  ──。

  ─これは、なんだろう。

  浮いている様な、沈んでいる様な、そんなどちらとも言えないような感覚。

  見ようとしても目は開かず、ただ静寂が流れる。

  ─ここは、どこなんだろう。

  ふと、風が吹く様な音がして、同時に胸の奥が温かい感覚に包まれる。

  すると、目は開かないのに、瞼の裏では断片的に何かの映像が見え始めた。

  『─約束するよ……絶対に、君の元に行く……この生命に……いや、尻尾にかけても…かな…?僕は、ここで…君に誓うよ』

  ─僕の声だ。

  『ええ─わたし、ずっと待ってる。あなたのこと、ずっと、ずっと…』

  ─知らない声だ。

  でも…とても綺麗で、透き通る様な声。

  『ありがとう……"───"さん』

  ─誰なんだろう。

  でも、思い出さなきゃ行けない気がする。

  『絶対に行くから…!何があっても……たとえ何度死んだとしても……絶対……キミの元に……!』

  ─僕にとって、何かとても…大切な…

  [newpage]

  「─っ……うぅ……」

  徐々に意識が戻るような感覚と共に、両目へと光が差し込む。

  そのまま薄目を開けた状態で、ぼやけた視界のまま目だけを動かし周りを見る。

  (……どこだ、ここは…?)

  やや古ぼけてはいるが、腐った様子もなく見た感じまだまだ丈夫そうな、しっかりとした木造の壁。

  窓際にある小さな棚の上で、花瓶に活けられた2輪の花。

  その下には、家族写真らしきものがフォトスタンドに入れられて飾られている。

  どうやら、ここは誰かの家らしい。

  「……ん……?」

  少し手を動かそうとして、ふとその手に布の感触を覚える。

  (…布団…?いや、ベッドか…?)

  寝ていた場所が床でも地面でもないことに安心感と懐かしさを覚える傍ら、そのまま僕は動かそうとした手を自身の体に当て、左腕の付け根から反時計回りに左足、右足の付け根へと撫でて手触りの感触を確かめる。

  感触から鑑みるに─どうやら五体満足ではあるらしい。

  その事にふうっ…と、小さくため息を吐いて安堵すると、僕はゆっくりと上体を起こしながら、欠伸を噛み殺しつつ改めて周りを見渡し、思案する。

  (転送─されてきたにしては、随分と丁寧な気がするけど…)

  僕は、軽くこれまでの経緯を振り返り…"ないな"、と頭を振る。

  あの転送方法だ。

  歓迎されることはもちろん、半ば強引な方法だっただけに、わざわざそこまで手を回すこともないだろう。

  (じゃあ、ここは一体─?)

  そうして改めて視線を巡らせる─と、ベッドの右手側にあるドアがカチャリ、と開いて、小さなイヌヒトの少年と少女が恐る恐る顔を覗かせた。

  そして、2人と自然と視線が合─

  パタンッ

  ─ったと思ったら、扉を閉められてしまった。

  (………?)

  訳が分からず、首を傾げて閉められたドアを見つめると、そのドア越しに何やら小さなヒソヒソ声が響いてきた。

  (ねぇハック…!なんで閉めたの…!?)

  (いや、だって絶対起きないと思ってたんだもん…!ぐっすり寝てたし…!)

  (だからって、閉めてもどうにもならないでしょ…!?)

  (って言っても、もう閉めちゃったんだしまた開けたらなんかヘンじゃん…!)

  (情けない事言わないの!男の子でしょ…!?)

  「あの……?」

  「「ひゃあああ!?」」

  ベッドから立ち上がり、ドアを開けヒソヒソ声で話していた2人に声をかけると、2人は声を揃えて飛び上がった。

  「び、びっくりしたぁ…」

  「お、おどかすなよな!」

  「えっ?あ、ごめんなさい…?」

  何故か怒られてしまい、困惑しながら僕は2人に謝罪する。

  「ううん、私達の方こそごめんなさい。お兄ちゃんの事がどうしても気になって…」

  「……」

  気になる、か…

  確かに、全身ほぼ黒づくめの服装に身を包んだ男が居たら……

  居たら……

  ……

  あれ?

  (今の僕って、相当怪しいヤツなんじゃ……?)

  途端にそんな考えに至り、右手でこめかみを抑える。

  どうしよう。

  説明すれば分かってくれるだろうか。

  いやそれよりも……

  (そういえば自分で自分の事、何一つ知らない……)

  そもそも、ここは何処だ?

  僕は、誰だ…?

  何故……ここにいる?

  僕……は。

  (……どうして……)

  …何も……思い出せないんだろう?

  「「?」」

  そんな不安の渦に巻かれながら思考を巡らせていると、頭上から2人が不思議そうに覗き込んできた。

  確かに、自分達の倍以上の身長がある大男が自分たちを見て突然黙りこくってしまえば、そりゃ気になるだろう。

  僕だって多分……いや、絶対気になるだろうし。

  「えっと……兄ちゃん、大丈夫か?」

  「頭が痛いなら、もう少しおねんねする……?」

  「……いや、平気だよ………」

  なんとか苦笑いしながら微笑む……が、まだ寝起きで足元が覚束無いのか、身体がよろけてベッドの縁に腰掛けるような形で転けてしまう。

  「わわ!?お兄ちゃん、大丈夫!?」

  「あ、ああ……ちょっと転けただけさ」

  そんな僕の様子を見て、2人組のうちの女の子の方が駆け寄ってくる。

  僕は軽く微笑みながら、その女の子に答えつつ男の子の方を見遣り─

  見遣り─

  ………

  「えっ……!?双子!?」

  「「いまさら!?」」

  全然気付かなかった……いや、気付く余裕がなかったと言うべきだろうか?

  どちらにしても、彼ら……彼女ら?はとてもよく似ていた。

  そう、すごく似ている。

  髪型と髪の長さ、仕草。それらがまるで鏡合わせの様にそっくりピッタリで、違いと言えば服装、あとは声ぐらいしか見当たらない。

  それ程までに、2人はよく似ていた。

  「ああいや……ちょっとまだ頭が混乱しててさ……とりあえず、状況を整理させてくれるかな?」

  「?うん、あたしたちで出来ることなら手伝うよ!」

  僕の問いに、女の子はトン、と自分の胸を叩く。

  幼いながら、かなりしっかりした子のようだ。

  その様子に…ギャップだろうか?思わずフッ、と笑みがこぼれた。

  「「ハッ……!」」

  「?どうしたの、そんなに目を輝かせて……?」

  「う、ううん!なんでもないの!ね、ハック!」

  「お、おう!それよりも、オレたちは何をすればいいんだ?」

  「あ、そうだったね。えっと……とりあえず、君達2人の名前を教えて貰える……かな?」

  「名前?いいよ!」

  待ってました、とばかりに双子の一人─上半身裸であちこちキズだらけの男の子─が胸を張りつつ、ドンと拳で叩きながら元気よく答える。

  「オレはハック!で、こっちは…」

  「あたしはチック!よろしくね、えっと……」

  ハック、という男の子の自己紹介に続いて、チックという女の子が続くと、こちらを見上げながら少し困ったような顔をする。

  「あ、僕か。ごめんね、僕は──」

  そう言いかけて、ふと頬を風が撫でる。

  振り返ると、いつの間にか開いていた窓から風が差し込んでいたようだ。

  ひんやりとしつつも、様々な花の香りを乗せた風は、なぜだか──とても懐かしくて。

  (……ウインド)

  ふと、自然にそんな言葉が脳裏に浮かぶ。

  聞きなれないワード。

  でも何故か、頭の中で反芻する度にその言葉はしっくり来ていて。

  そして同時に、とても懐かしい気持ちがあって。

  気付けば……口から出ていた。

  「……ウインド……僕は、ウインド。よろしくね、2人とも」

  「ウインドお兄ちゃんね!よろしく!」

  「よろしくな!ウインド兄ちゃん!」

  そう言って、2人はそれぞれ右手と左手を伸ばしてくる。

  座って握手するのも、なんだか失礼だ。

  そう思って僕は立ち上がり、両手で2人の手を握り返しながら握手し……その手の小ささに、口端を小さく歪めながら微笑む。

  「……フッ」

  ─この感じ。この感触……なんだか少し、懐かしい気がする。

  もっと昔……いや、記憶さえも越えて……

  何か……──

  「「あっ…!!」」

  「?どうしたの?」

  ふと、2人が手を離すと、視線がある一点を見つめ出す。

  僕も気になって、視線の先を追い……

  「あっ」

  そこで、ようやく服の──纏っていた外套の裾が破けているのに気がついた。

  「ごっ…ごめんなさい!でも、兄ちゃんオレとチックの2人で運んでも重くて…!」

  「ごめんなさい、お兄ちゃん…」

  泣きそうな顔で告げつつ顔を俯かせる2人を見て、僕はふっ、と口元を緩めると、2人の頭を撫でる。

  「「えっ…?」」

  「大丈夫、気にしてないよ。それよりも、重かったのに僕をここまで運んでくれたんだね……ありがとう」

  それに、と付け加えながら、外套の裾の部分を手に取り、擦り切れた部分を見る。

  「この服、少しカッコよくしたかったんだ。良い感じに仕上がったから、むしろ感謝してるくらいさ」

  そう告げながらあはは、と笑うと、再び風が吹き外套がはためく。

  本当は、いつから着ていたのか、それすら分からないけど。

  でも、2人を合わせてもまだ有り余る程の身長の僕を、この子達が引きずってでも一生懸命に運んできてくれたのだとしたら。

  そう思うと、この破れさえ、記憶のない今の僕にとっては、これから大切な思い出になる─

  ─なんだか、そんな気がした。

  「改めて、助けてくれてありがとうね、えーっと……ハックちゃんに、チックくん…?」

  「「逆だってばー!」」

  一つだけ、思い出した気がする。

  僕は多分──人の名前を覚えるのが苦手だ。

  [newpage]

  「なぁなぁ兄ちゃん、兄ちゃんって、この村の人間じゃないだろ?」

  「ん~、分からないけど……多分そうかも……?」

  「多分じゃ分からないってば~!」

  そんな会話をしていると、チックが水の入った陶器製のコップを持って僕へと差し出してきた。

  「ウインドお兄ちゃん、お水飲める?」

  「ああ、ありがとう。わざわざ注いで来てくれたのかい?」

  「うんっ!お兄ちゃん疲れてるだろうなって思って!」

  そう言って無邪気に笑うチックの頭を、僕は髪型が崩れないように優しく撫でる。

  「チックちゃんはすごく気遣いが出来るんだね。僕、ちゃんと覚えたよ」

  「えへへ……!」

  僕はチックに微笑むと、彼女が持ってきてくれた水をコップをそっと傾けて飲む。

  汲みたての水なのだろう。

  ひんやりしていて、喉をするりと通っていく。

  硬水なのか、やや舌触りが硬い様な気もするが……それでも美味しい。

  「お水、美味しい?お兄ちゃん」

  「ああ、最高だよ。ありがとう、チックちゃん」

  「えへへ……」

  そんな会話を交わす中で、ハックの質問は変わらず続く。

  「じゃあさじゃあさ!ウインド兄ちゃんは、どこに住んでたの?なんでこの村に来たんだ?」

  「というか花畑で倒れてたけど、あんなとこで何してたんだ?この辺りじゃ兄ちゃんみたいな人、全っ然見た事ねーしさ!」

  「っていうか、そのマントみたいな服、カッコイイな!シューカみたいだ!あ、マントと言えばオレもさ──!」

  「え、ええっと……」

  「もう、ハックってば!お兄ちゃん起きたばっかりなんだし、質問ばかりしないで少しは休ませてあげてよ!」

  怒涛の質問攻めに、何からどう答えるべきかと悩んでいると、チックが助け舟を出してくれた。

  「あはは……ありがとう、チックちゃん」

  「ううん!これくらい、いつもの事だから大丈夫っ!」

  「な、なんだよー!これじゃオレだけ悪いヤツみたいじゃないかー!?」

  「だってそうでしょー?ハックはいっつも空気読まないでさ!」

  「はぁ!?見えない空気が読めるわけないだろ!そういうチックも兄ちゃんにデレデレしちゃってさ!」

  「えっ!?し、してないわよっ!?ハックのバカっ!」

  「あー!?バカってなんだよ!俺がバカならチックもバカだろー!?」

  「なによー!?」

  「なんだよー!?」

  なんだか、これ以上はさらにヒートアップしそうだったので、僕はおでこがぶつかる程に睨み合った2人の間に割って入る。

  「ま、まぁまぁ2人とも落ち着いて…!ケンカしなくても僕はちゃんと休めてるし、質問にもちゃんと答えるからさ…!」

  「「む~…!」」

  そう伝えても、2人の熱は収まる気配がない。

  どうしよう─そう思った時だった。

  「はいはい!2人共そこまで!」

  そう女性の声がして、2人の頭にぽんっ、と手が置かれる。

  その声の方─と言っても真正面だが─を見上げると、そこには開きっぱなしのドアから現れたであろう、チックをそのまま大人にしたような女性が居た。

  「もう、様子を見に行ったと思ったら……なかなか戻って来ない上にケンカしてるんだから……ごめんなさいね?この子達が突然……」

  「い、いえ……」

  そうやって、やや上目遣いにこちらを見るその女性に、僕は少しドギマギしてしまう。

  見たところ、母親だろうか?

  でも、そう見えない程にとても若く、綺麗な人だった。

  「ほらチック、ハック?2人共、お兄ちゃんにごめんなさいは?」

  「「……ごめんなさい」」

  「い、いや……僕は特に、困る様なことされてないですから……」

  そう言って、僕は両手をひらひらと振る。

  「むしろ、2人には助けて貰ったみたいですし、お水も頂いちゃいましたし……むしろ感謝したいくらいですよ」

  「そう?なら良いのだけれど……じゃあ、2人が何かしたら、いつでも言ってくださいね?」

  「あ、あはは……分かりました……」

  ……どうやら、思ったより芯の強いヒトなのかもしれない。

  言葉は優しいが、どこか有無を言わせない圧と言うか、なんというか……そんなものを感じさせる何かがあった。

  でも……

  (これが、母親ってもの……なのかな?)

  2人は反省した後、調子を取り戻したのか、僕と話した事を嬉々として口々に母親に話しかけていて。

  母親の方も、2人の話を同時に聞き捌きながら、相槌やリアクションを取っている。

  今の僕には、母親の記憶は無いけれど……でも。

  (なんだか、良いなぁ)

  気付けば、口元が綻んでいた。

  「………うん!2人のお話はよく分かったわ!今日もいっぱい、スゴいことがあったのね!」

  「「うんっ!」」

  そうして眺めていると、2人の話を聞き終えたのか、母親は2人の頭を撫でながら笑顔で頷いた。

  「さて!それじゃあそんな2人に、ママからお願いがあります!」

  母親─ママさんがそう言うと、ママさんは台所からお財布とバッグを持ってきて、お財布をチックに、バッグの方をハックに手渡す。

  「はいコレ!チックはお会計役、ハックは力持ちだから、荷物持ち役ね!それから……」

  と、ママさんはエプロンのポケットに入れていたメモ帳を取り出してサラサラと何かを書くと、紙を取りチックに手渡す。

  「はいっ!これがお買い物リストね!ちょっと多いから、2人が協力しないと難しいけど……ちゃんと出来るかな~?」

  「「うんっ!」」

  「ん!良いお返事♪それじゃあ……」

  

  「あっ、ちょっと待って!」

  そう言って、ママさんが2人に出発の合図を出そうとすると……ハックがそれを制止する。

  「?どうしたの、ハック?」

  チックが首を傾げると、ハックは妙にもじもじしながら、小さくもごもごと呟くと……うんっ、と頷き、勢いよく90度の角度で頭を下げた。

  「ごめん、チック!さっきはバカって言ったり、からかったりして……!」

  ハックからの突然の謝罪に、僕を含む3人はポカンとしていたが……チックはすぐさま我に返ると、同じ角度で、しかしゆっくりと頭を下げた。

  「ううん、わたしもごめんね!ハックの事はバカじゃなくて、ほんとはとっても頼りになるって思ってるよ……!」

  「チック……!」

  2人はお互いに謝りあった後、手を繋いでママさんに向き直る。

  「ごめんなかーちゃん!もう大丈夫だよ!なっ、チック!」

  「うんっ!わたしも大丈夫だよ!ね、ハック!」

  そう言うと、2人はニッコリと笑顔を浮かべながら頷き合った。

  「うん!ちゃんと仲直り出来た上に、いい顔になったじゃない!」

  そう言うと、ママさんは2人をとても愛おしそうに、そして嬉しそうに両手で抱き締める。

  チックも、ハックも、嬉しそうに抱きしめられるその光景に、僕も気付けば笑みが溢れていた。

  「ん~~っ……!よしっ!じゃあ、お願いするわね、2人とも!……行ってらっしゃい!」

  「「はーい!行ってきまーすっ!!」」

  そう言うと、2人は手を繋いだまま部屋を出て、外へと駆け出していった。

  その背が見えなくなるまで手を振りながら見送ると、ママさんはふうっ、と息をついて袖を捲った。

  「さて!私も家事を頑張らないと……!」

  と、どこかへ向かおうとするママさんの背を見てハッと我に返った僕は、置いていかれないように声をかける。

  「あっ、待ってください!あの……!」

  「あら?どうかしたかしら?えっと……」

  そう言ってこちらを振り向き、首を傾げるママさんに、僕はペコリと頭を下げる。

  「ウインドと申します。あの……良ければ僕にも、何かお手伝いさせて頂けませんか?」

  「えっ!?いえいえ、あの子達のお客様なんですから、どうかお構いなくごゆっくり……!」

  「いえ、一宿一飯……って言うと変ですが、ベッドをお借りしたりとお世話になった分は、しっかりお返ししたくて……!」

  「あらまぁ……律儀なんですねぇ……それじゃあ、これからお洗濯をするのだけれど……」

  「あっ!やりますっ!ぜひお手伝いさせてくださいっ!」

  そう言うと、僕はママさんの元へと向かう。

  気付くと、いつの間にかさっきまでのふらつきは消えていた。

  [newpage]

  「──でね!ひと休みしてたハックの鼻の上に、ちょうちょが乗ってね!」

  「ちょ、チック!?その話はオレが恥ずかしいってば~!?」

  「あはは…!2人共、仲良くお使い出来たみたいで何よりだよ」

  リビングの少し大きなテーブルに着きながら、僕はチックとハックのお使い話を聞いていた。

  合間にチラリとキッチンを見ると、そこではお使いで買ってきてくれた材料を元に、ママさんがご飯を作っている。

  食べ盛りな2人に加え、僕という存在が現れた事で沢山作るそうで、忙しそうだ。

  (本当は、手伝ってあげたいんだけど……)

  いざキッチンに入ると、食材庫には知っている食材がほとんどなく。

  加えて、調味料の類も知らないものばかりだったのだ。

  これでは、手伝おうにも邪魔になる─。

  そう判断した僕は、その代わりに家事をこなして、お料理に関してはママさんに任せる、という事にした。

  ちなみに、手伝えないことに対して謝るとママさんは、

  『いいのよこれくらい!むしろ沢山手伝ってくれたから、とっても助かったわ!今日はご馳走、作ってあげるわね!』

  と、むしろ感謝を述べられた上で張り切っていた。

  だから今、こうして大人しく待っている……という訳だ。

  「……でね!それでハックがね!」

  「もーっ!チックってばーっ!?」

  と、2人が話しをしてくれている……と。

  コンコンココンッ

  不意にノックの音が玄関から響き、僕らは扉の方を見る。

  「あれ?こんな時間にお客さん…?」

  チラリと窓を見遣ると、もうすっかり日が落ちて、外はいくつかの民家から吊るされるランプの光以外は真っ暗だった。

  すると、もう一度ノックが玄関から響いた。

  コンコンココンッ

  「あっ、まただ……?一体、誰なん──」

  「あっ!とーちゃんだ!帰ってきたーっ!」

  「パパ!パパー!」

  と、急に2人は弾かれるように玄関に駆け出し、扉を開ける。

  すると─

  「ただいまー!……って、おぉ!?」

  「パパ!おかえりーっ!!」

  「とーちゃん!おかえりーっ!!」

  ドアが開き、現れた人物にチックとハックが飛びつくようにハグをする。

  飛びつかれた人物──パパ、と言われた人物は、例えるならハックが年相応に成長した上で顎髭が生え、眼鏡をかけたナイスミドル一歩手前……といった容姿が当てはまりそうな、優しそうな顔立ちをしていた。

  「ははは!ただいまチック、ハック!そしてママと……んん?」

  チック、ハックの2人のパパ──パパさんは、リビングに居るママさんへと視線を向けるのと同時に、僕を見て眼鏡をクイッと上げ直しながら、やや訝しげな視線を覗かせる。

  「あ、えと……お邪魔してます……ハハ……」

  そんな視線を浴びながら、僕は苦笑いしつつ片手を軽く上げて挨拶をする。

  すると一瞬、冷えるような静寂が流れた。

  (……気まずい……)

  何とか口角を上げて取り繕いながら手を振る中で、僕はそんなことを思った。

  気まず過ぎて逃げ出したい程だが、逃げるにもなにか変だ。

  とはいえ、出ていけ、と言われれば即出ていこう──そう考えていると。

  「ハッハッハ!おいおい母さん、こんなカッコイイお兄さん、何処で拾ってきたんだい?とうとう僕も浮気されちゃったのかな~?」

  突然、弾けた様に笑うと、手を休めることなく料理を作るママさんの背に笑いながら話しかける。

  「もう!あなたったら違うわよ!この方は……」

  「ハイハイハイ!オレが見つけて助けたんだぜ、とーちゃん!!」

  「えー!違うよ!パパ、あたしも一緒に助けたんだよ!?」

  チック、ハックの2人がしがみついたまま競う様に主張し合う中で、パパさんはハッハッハ!と笑う。

  「分かってるって!帰る途中に村の人から聞いたよ、2人が頑張って人助けしてたってことはな!スゴいじゃないか、2人とも!偉いぞー!」

  そう言って、パパ、と呼ばれた男性は双子の頭をわしゃわしゃと撫でる。

  撫でられる度に、2人の小さなしっぽが嬉しそうにピコピコと揺れ、とても可愛らしい。

  ──ふと、頭の中でその光景に何かが重なる。

  「もう、あの子達ったら……ふふ、ごめんなさいね、ウインドさん。あの子達、あの人が帰るといつもああして褒められようと一生懸命に─」

  ──なんだろう、これは──

  「──さん?」

  ──懐かしいような、そうでないような──

  「─ウインドさん?どうかされました?」

  「えっ!?」

  ハッと我に返ると、ママさんが不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。

  僕は咄嗟に首を横に振りながら、

  「あ、いえ……!えと、すみません……」

  「あら?どうして謝るんです?」

  「そうだよ!兄ちゃん、まだ何も悪いことしてないだろ?」

  ふと横を見ると、さっきまでパパさんにくっついていたハックが首を傾げながら横に来ていた。

  「あれー?そういうハックはもう何か新しいイタズラを思いついたみたいな感じだねっ?」

  「えっ!?なんで分かったんだ!?……あっ」

  チックのカマかけのような言葉につい反応したハックは、咄嗟に口から出た言葉を塞ぐように両手で口を抑えるが……時すでに遅かったようだ。

  「ハック~…?もうイタズラは程々にしなさいってさっき言ったでしょ!?お買い物袋にカエルなんか入れて!本当にびっくりしたんだから!」

  「ヤベっ……!違うんだよかーちゃん、オレまだ何も思いついてないってば~っ!?」

  そうして、ママさんとハックの鬼ごっこが始まりかけ……

  「もしもーし!ところで僕はもう家に入ってもいいのかな~!?」

  ……る所で、パパさんの一言でママさんは我に返った。

  「えっ!?あ、あら私ったらお客様もいるのに、つい…!ごめんなさいねパパ!チック!ハック!荷物もってあげて!」

  「「はーい!!」」

  そう声を掛けられて、安堵するハックと少ししてやったりな笑顔を浮かべるチック。

  こうして見ると、チックはハックとは別ベクトルでイタズラ好き……なのかもしれないと、何となく思った。

  [newpage]

  「ほぉ……じゃあ、今は何も?」

  「はい……名前くらいしか、思い出せなくて……」

  「あっ!オレそれ聞いた事ある!"きおくそーしつ"?って言うんだろ!」

  「ハック、なにそれ?」

  「うーん…オレもよくは知らないんだけど……でもシューカの冒険で読んだ感じだと、なんにも思い出せなくなるし、今までの事ぜーんぶ忘れちゃってるらしいぜ?」

  「えっ!?そうなのウインドお兄ちゃん!?」

  「あ、ああ……」

  「そうなんだ……お兄ちゃんかわいそう……」

  ママさんが作ってくれた夕食をみんなで囲みながら、僕はテーブルの向かい側に座るパパさんと話をしていた。

  記憶喪失のこと。

  花畑で倒れる前までは何をしていたのかも、元々どこにいたのかも分からないことも。

  「ふぅむ……」

  そこまで話すと、パパさんは顎髭を弄りながら考えるような素振りを見せ─

  「にわかには信じがたいが、この子達の懐き様からして、悪い人じゃないと思うな、僕は」

  「えっ……!?ってことは、信じてくれるんですか……!?」

  「信じるも何も、当の本人である君がそう言うんだから信じるしかないさ。それに……」

  「それに……?」

  パパさんは、コーヒーカップを持ち上げコーヒーを静かに啜ると、受け皿へカップをそっと置く。

  「それが嘘でも真でも……見たところ、それくらいの若さで記憶を無くしているって言う事は、少なからず何かあったんだろう?」

  そう言われて、見つからない記憶を必死に手探りしてみる。

  ─だが、やっぱり見つからない。

  ─見つからない、のに。

  「……そうかも、しれません」

  気付けばふと、肯定の言葉が口から出ていた。

  その言葉を聞いて、パパさんはふっ、と微笑む。

  「仮に話したくないとしても、無理に話さなくていいさ。何しろ、今は戦争してるんだ──そういう事なんて、誰にだってありうる事さ」

  そう言いながら、パパさんの目は優しくも、どこか物悲しそうな、憂いを含んだ目をしていた。

  「……ありがとうございます。すみません……まだ会ったばかりなのに……」

  「いいんだ。このご時世─君に会えたのも、何かの巡り合わせだろう。良ければ少し、この家に居なさい」

  「えっ……!?いや、でも僕は……」

  「そうだよ兄ちゃん!ここに居なよ!」

  「あたしも賛成!なんだかお兄ちゃんが出来たみたいで嬉しいし!」

  いつの間にか2人から手を握られながら、そんな事を懇願される。

  ふと、その光景が再びまた何かと重なりそうになり、目頭が熱くなる─が。

  「……ごめんね。気持ちは嬉しいけど、長くは居られないよ」

  「「ええーっ!?」」

  「気持ちは嬉しいんだ。本当に……けど、何故だか……僕にはやらないといけない事がある──そんな気がするんだ。だから2、3日したら、この家と村を出るよ」

  「そんなぁ…」

  「せっかく会えたのに…」

  落ち込む2人の頭を優しく撫でながら、僕はごめんね、と小さく呟く。

  「……そういう訳です。ですから、すみません……一宿一飯、よりは少し多くなるかもしれませんが、この恩はお手伝いで返させてください」

  そう言って、僕はテーブル越しにではあるが頭を下げた。

  「……そうか。だが、辛くなったらいつでも言いなさい。僕達はいつでも大丈夫だから」

  「……本当に、その言葉だけで救われます。ありがとうございます」

  頭を上げ、申し訳なさそうに告げる──と、ママさんがうん、と頷きながら両手をパンッ、と合わせた。

  「……さて!なんだか少ししんみりしちゃったわね!せっかくのご飯、冷めちゃうわよ?」

  「……うん、そうだな!さぁ、パパも食べるとするか!もうお腹空いて倒れそうだよ!」

  「あ!ダメよパパ!食べる前にはちゃんと"いただきます"しなきゃ!」

  「そうだぞ!オレだって今日はいいとこ見せようと手も洗って─」

  「えー?そう言ってハック、いつもはあたしが言わないと全然洗おうとしないくせに……」

  「わ!?わー!?チック!それは言わない約束だろーっ!?」

  「あれ~?そう言って約束しようとしても、いつも逃げちゃうのはどこの誰でしたっけ~?」

  「もーっ!?チックってばー!?」

  「……ふふっ」

  暖かな食卓に、温かな笑顔と笑い声が満ちる。

  何時ぶりなんだろう、こんなに笑ったのは。

  何年ぶりなんだろう、こんなに平和な時間は。

  (……仮に、記憶が戻らなくても)

  このまま、時が止まってしまえばいいのに……と。

  本気で、そう思った──そんな夜だった。

  [newpage]

  ─

  ──

  ───

  ──ねぇ、………さん──

  『なぁに?』

  ──僕、不安なんだ…このまま、いつか君が遠くに行って、ふっと僕の前から消えてしまいそうで──

  『……』

  ──お願いだ。嘘でもいい……僕の傍から居なくならないって、約束してくれないか?──

  『それは……ごめんなさい、出来ないわ……わたしには、帰らないといけない場所があるから……』

  ──そう、だよね……ごめん、忘れて──

  『でも……』

  ──……でも?──

  『わたしとあなたがこうして出会えた……それはきっと運命なんじゃないかって、わたしは思ってるわ』

  ──……確かに、全ての運命に偶然は無い、全て必然って、誰かが言ってたけど……それでも、また独りになるのは……こわいよ──

  『大丈夫よ……あなたは独りにならないわ。たとえ離れても──』

  ──心が繋がってる、とか?──

  『それだけじゃないわ。未来できっと、わたし達は──また会える』

  ──どうして、そう言い切れるのさ?──

  『ふふっ、どうしてかしらね?』

  ──あはは……ならさ、一つだけ……今叶えられる頼みを聞いてくれないかな?──

  『えぇ、なぁに?』

  ──手を、繋いで欲しいんだ──

  『手を?』

  ──うん。そうしたら、僕はきっと大丈夫だと思うから──

  『ふふ、もちろんよ……』

  ──ありがとう……──

  『なら、わたしからも一つ、お願いしてもいいかしら?』

  ──なんだい?──

  『……例え、あなたがわたしの事を忘れても……今この事が、思い出に変わったとしても……』

  『私といた、この事を……どうか忘れないで。それがきっと、わたし達をまた出会わせてくれる……そんな気がするの』

  ──忘れるわけない。忘れないよ……絶対に──

  『ありがとう……わたしも、忘れないわ』

  『あなたに会えたことも、あなたの声も、そしてこの手の温もりも……ずっと……』

  ──僕も忘れないよ。君と過ごしている今も、これまでも……そしてこれからも──

  ──だから、きっと僕達は大丈夫……そうだよね……"ハンナさん"──

  ────

  ──

  ─

  「─ッ、ハァッ…!?」

  僕は、飛び起きる様にして身体を起こしながら目を覚ます。

  外がまだ暗いのを見ると、どうやらまだ深夜のようだ。

  「……今のは……?」

  寝起きの頭に、必死に血を巡らせる。

  思い出せない。

  けれど、妙に心に残る……温かい、あの名前……

  「……ハンナ、さん……?」

  その時、フッ……と意識が遠くなる感覚がして──

  僕はまた、深い眠りへと落ちていった。

  [newpage]

  あれから結局、"ハンナ"というヒトの事以外何も思い出せないまま、2日が過ぎた。

  (あれ以来、夢も見なかったな……)

  溜息をつきながら、僕は夕日を眺める。

  確か、夢の中も、こんな夕焼け空だった。

  ("忘れない"──か)

  地平線の彼方に沈んでいく夕日を見つめながら、僕は洗濯物を取り込んだカゴを抱え、家に戻っていく。

  今日はパパさんが村の会合で、ママさんは買い物に出かけ、僕とチック、ハックがお留守番をしていた。

  今頃家の中では、2人が頑張って掃除をしているはずだ。

  ……そう、思ってたはずなんだが。

  [newpage]

  「ただいま」

  そう言って、カゴを抱えながら玄関を開ける──が。

  「あれ?チック?ハック?おかしいな、いつもなら何してても出迎えに──」

  バサバサッ

  そう言いながら玄関のドアを開けた僕の上に、何かが降ってきた。

  「うわああぁっ!!?」

  頭にコツコツと当たる以外にも、何かがいくつか髪に引っかかり、僕は慌てて頭を振る

  「わーい!引っ掛かった引っ掛かったー!!」

  ハックがそう言いながらケラケラと笑う。

  「ちょ─ハックかい!?なんだよこれ!?なんのムシ!?」

  何が降ってきたか直視するのが怖くて、僕は目を閉じながらブルブルッ、と全身を震い、払い落とす。

  「なんの─って、ただのアメと花だよ?」

  「へ?アメ……花?」

  そう言って恐る恐る目を開けると、辺りには個包装されたアメと、色とりどりの花が散らばっていた。

  「あ、本当だ……って!いきなりイタズラなんてひどいじゃないか!?」

  と、つい語気をやや荒らげながら注意すると、途端にハックはしゅんとしたような顔で下を向いた。

  「──ごめんよ。別に怒らせたかったわけじゃないんだ……な、チック?」

  そういって、ハックは身を隠すように自分の後ろに隠れていたチックに話しかける。

  「うん……ごめんなさい、ウインドお兄ちゃん……私達、嫌がらせをしようと思った訳じゃなくて、ただ──」

  「うん、元気になってほしかったんだ……

  ここのところ、兄ちゃんずっと暗い顔して落ち込んでたし……少しでも励ましたくて……」

  「だから、飴玉とかお花でイタズラしたら、キレイだし甘いしで、ちょっとは元気になってくれるかな、って思って……」

  「「ごめんなさい……」」

  「……2人とも……」

  確かに言われてみれば、落ちてきたのはこれだけ……

  彼らがいつもイタズラに使うというムシやカエルが居なかったのを見ると、本当にそのつもりだったのかもしれない。

  「それに、兄ちゃん……そろそろ居なくなるんだろ?だから兄ちゃんに、俺たちのこと忘れて欲しくなくって……」

  「うん……だから、もしこの先何も思い出せなくっても、私達の事を覚えててくれたら、お兄ちゃんも寂しくないかな、って……」

  そうおずおずと伝えるチックの手には、一輪の勿忘草が握られていた。

  きっと、イタズラの後に渡してくれるつもりだったのかもしれない。

  「チック…ハック…」

  フゥッ……と鼻を鳴らしながら、目元から少し涙が出そうになるのを堪える。

  (この子達は……そうか、僕よりとても小さいはずなのに……僕の事を、僕以上に考えていてくれたんだ……)

  そう思って、僕は─初めて僕自身の事に気付いた。

  それは──寂しさだった。

  (ああ、そうか──)

  記憶が無いなら、それも仕方ないと心のどこかで思っていたのかもしれない。

  思い出せない寂しさも、それで生まれる孤独も……いずれ生まれる新しい記憶で覆い隠せばきっと、それを忘れられるだろうと。

  (でも……違った様だ)

  僕は、身をかがめるようにして目線を合わせると、チックが差し出した花を受け取り、胸ポケットに差し込むと──2人の頭をそっと撫でながら、呟くように告げた。

  「ありがとう……そして心配させてごめんね」

  「兄ちゃん……」

  「お兄ちゃん……」

  「心配しなくても大丈夫。こんな事までしてくれたんだもん、僕は2人のこと……忘れないよ」

  「「……!うん……!」」

  2人が、目尻に涙を少しだけ浮かべながら笑う姿に、自然と笑みがこぼれた。

  例え、この先何があっても。

  何が起きたとしても、忘れないだろう。

  僕とこの子達の出会いは、心に"楔"となって──

  ……"楔"と、なって……

  (あれ──?)

  その違和感を感じるのと同時に、世界の音がしん……と静まり返った。

  (なんだ、この感じ──?)

  ──そう、これはキミがやるしかないんだよ──

  (……声……?)

  恐らく、男性だと思える低い声が、頭の中に響く。

  ──たとえキミが忘れていても、キミの胸の奥で確かに輝く、その光が何なのかを知るためにも──

  コンコンコン。

  僕は、脳内に響く声に耳を傾けながら、頭を撫でていた

  「あっ!とーちゃんとかーちゃんだ!やっと帰ってき─」

  そう言って、音に気づいたハックが玄関に走ろうとするのを、チックが腕を引いて制止する。

  「待ってハック!音……っていうか、リズムがなんか…」

  「音?言われてみればそうかもだけど……でも─」

  チックとハックが言い合う中、再度ノックの音がドア越しに響く。

  コンコンコン。

  「……なぁ、オレやっぱりよく分かんねぇよ!とーちゃんとかーちゃんかもしれないだろ!?早く開けてやろうぜ?!」

  「でも、お留守番してる時に知らない人が来ても開けちゃダメって、ママが言ってたでしょ?」

  「だから知らない人じゃないかもじゃん!」

  ──でも、これだけは忘れちゃダメだよ?──

  コンコンコ──

  「……あれ?」

  「止まった……?」

  ──僕らはかつて──

  「いや、なんか……」

  「ヤバい気がする……!」

  「ハック!!」

  ──"人"だった事を──

  その時、バンッ!と玄関のドアに何かが叩き付けられる音が響いた。

  「ハッ!?」

  その音でようやく我に返った僕は、ハックがいつの間にか手元から離れて、チックを震えながら庇う様子を見て……恥ずかしいかな、それでようやく何かが起きているらしいことに気付けた。

  「えっ、2人共どうし──」

  『チック!ハック!居るんだろう!?逃げろーッ!!』

  突如、ドア越しに男の──パパさんの声が響く。

  『な、なんだお前は!?離せッ!』

  もう1つ声が聞こえた。

  パパさんじゃない男性の声。

  様子を察するに、どうやら取っ組みあって争っているらしい。

  「パパさんっ!?」

  『あっ!ウインド君か!?すまない、2人を連れて逃げ──』

  パァンッ

  僕がドア越しに呼び掛けるのと同時に、乾いた破裂音が響き。

  「……えっ?」

  途端、先程までとは違う静寂が訪れる。

  (──なんだ、今の音)

  聞いた事がある。

  それも、恐らくつい最近、どこかで。

  音。

  破裂音。

  膨らんだ風船を割るのとは違う、まるで何かが──

  「とーちゃんっ!」

  「パパっ!」

  2人の声で我に返った途端、ドアの下から何かの液体のようなものが染み出しているのが見えた。

  ──赤かった。

  そして、それはゆっくりと、だがジワジワと範囲を広げていき──

  玄関に、小さな赤い水溜まりを作り出していた。

  「──ッ!パパさんっ!!!」

  そう僕が呼びかけるのと同時に。

  玄関のドアからカチャリ、と鍵の開く音がして。

  「ああクソッ……!いってェな畜生がッ……!!」

  軍服にまるでトマトを1つ投げつけられた様な、そんな赤い模様を携えたドーベルマンのイヌヒト──ベルマン帝国軍の兵士が、悪態をつきながら脚を引き摺る様にして、ゆっくりと玄関から顔を覗かせた。

  どうやら、先程の破裂音の際に、自身の足も諸共撃ってしまったらしい。

  そしてその奥には、横たわったまま動かない、見慣れたイヌヒトの男性が──

  「──ッ!パパーッ!!」

  思考が止まる。

  記憶が先程から脳内を駆け巡り、様々なものを浮かべさせては消えさせていく。

  ショックとか、悲しみとか、怒りとか──そんなものが全て綯い交ぜになって、思考に空白を生み出す。

  どうしたらいい。

  「うるせェぞガキ!こいつと同じところに送ってやろうか!?」

  兵士が手に持ったライフルを、背後に横たわったパパさんに一瞬だけ向けながら威嚇する。

  「ひっ……!」

  その気迫と光景に、ただひたすら怯えるチックを見て、兵士は口元をニヤリと歪める。

  「そうそう、そうやってガキは怯えてりゃいいんだよ…!」

  兵士はそう言いながら、顔に狂気を張りつけたままドアを潜ろうとする。

  ぐしゃり、と散らばった花が血と泥に塗れたブーツに踏み潰され、2人との距離が縮まっていく。

  「やめろッ!チックに……っ、手をっ、出すな……っ!」

  そこに、チックに手を触れさせまいと庇う様に、ハックが立ち塞がった。

  「チッ……!ギャーギャーうるせェんだよガキ!」

  銃口が、ハックに向けられる。

  最早一刻の猶予もない。

  (どうしたら──!)

  その時、動かした足に何かが触れる。

  反射的にに目をやると、それは──

  (さっきのイタズラの……アメ玉?)

  僕は咄嗟に拾い上げ、振りかぶる。

  もう、ヤケクソだった。

  「ッ!」

  アメ玉を、ぶつけるつもりで兵士に投げつける。

  しかしそれはぶつかることなく──兵士の後頭部を掠めるように、コンッ、と音を立てて壁へとぶつかった。

  「ん?」

  だが、それが逆に功を奏したのかもしれない。

  兵士が首だけを後ろに回した瞬間、僕はしゃがんだまま床を強く蹴り上げ──相手の腰目掛けて、勢いよくぶつかった。

  「ぐおッ!?」

  「うおおッ!!」

  ぶつかった衝撃でライフルの引き金が握りこまれたのか、パンッ、と再び破裂音が響く。

  だが幸いにも、倒れ込む過程だったのもあり、射線は上へとズレ──弾丸が貫いたのは、天井だった。

  「ぐッ…!!貴様ァ!!!」

  「兄ちゃんッ!」

  「逃げてッ!2人共!窓だ!!」

  顔を向ける余裕も無いまま、僕は暴れる兵士の腕を抑えながら叫ぶ。

  こうなりゃもう、ヤケクソだった。

  「分かった!立てるか、チック!?」

  「あ、で、でも……!パパが……!お兄ちゃんが……!!」

  へたりこんだチックを引っ張りあげるように、ハックが懸命に立たせようとする。

  「僕なら大丈夫ッ!必ず後で追いつくから!!」

  「でも!!」

  「行けッ!!行けーッ!!!」

  兵士と睨み合いながら叫んでいるから、2人の顔は見えない。

  けれど。

  「わかった……!絶対だよっ!!」

  その言葉だけで、理解するにはもう十分だった。

  「畜ッ生!!離せ貴様ァ!!!」

  「離さない……!離してたまるかァ!!」

  僕は両腕を抑えたまま、なんとか兵士に馬乗りの体勢になると、思い切り頭突きをくらわす。

  「「ぐっ…!!」」

  お互いに痛みで頭がくらくらするが、こうなればもう道連れでもなんでもいい。

  今は、こいつを動けない様にするだけだ。

  くらくらする頭をブンブンと左右に振って無理矢理に覚醒しながら、僕は再度頭突きをする。

  「ッッ!!」

  「あっ、ぐッ……!?」

  まだ前後不覚であろう兵士に再度ぶつけると、ゴツッ、という鈍い音がすると同時に、兵士の顔へと赤い液体が滴り落ちた。

  どうやら、頭が割れたらしい。

  だが、それは向こうも同じようだった。

  「ハッ……!ハアッ……!!」

  「ガ……グッ……!」

  荒く息をする度に、ぽたり、ぽたりと血が滴り落ちる。

  だが、その赤は兵士の額から溢れ出した血で上書きされるように、兵士の顔に細い線を描きながら地面に小さな血溜まりを作っていく。

  (もう少し……だけ……時間を……!)

  そう思いながら、兵士の額へと何度も頭を打ち据える。

  「落ちろッ……!落ちろッ……!!」

  まるで呪詛のように唱えながら、僕は何度も頭を振りかぶる。

  すると、意識が飛びそうになる中で、どこからか窓が開く音がした。

  同時に、さっきは聞こえなかった戦車の履帯の駆動音や、村の人々の逃げ回る悲鳴。兵士の怒号。そして──銃声が耳朶を打った。

  (あんまり、モタモタ出来ないッ…!!)

  これをトドメにしなければ。

  「グオォォオオッ!!!!!」

  獣のように咆哮を上げながら、僕は頭を振りかぶり……思い切り、兵士の額へと己の頭蓋を打ち据えた。

  ゴキャギッ。

  どちらだろう。

  どちらかの頭蓋が砕け、割れるような、なんとも言えない鈍い音が響いたかと思うと。

  「グァォ……ォ…………?」

  兵士はそう小さく呻くと、白目を向いて泡を吹きながら小刻みに痙攣し始めた。

  どうやら、気絶したらしい。

  「……っ……う……」

  その様子を見て、僕は飛びそうになる意識をギリギリで保ちながら、這いずるようにして兵士から退き……

  「……2人共……っ……ごめ…」

  そのまま、意識を落とした。

  [newpage]

  「……大丈夫か、チック……?」

  「……うん、なんとか大丈夫……ありがとう、ハック……」

  あの後。

  ウインドが2人を逃がしてから、実に5時間が経過していた。

  『必ず後で追いつく』……その言葉を信じて、2人は花畑のさらに奥にある森の中で、じっと身を潜めながら待っていたのであった。

  だが……

  「もう、戦車も兵士のヤツらもどっか行っちゃったのに、どうして誰もこっちに逃げてこないんだろう……」

  ハックはそう言いながら、木に昇ると枝に腰かけ、村のほうをジッ、と見つめる。

  そうして村の方を見るハックを見上げながらチックは、

  「もしかしたらみんなきっと、反対側に逃げたのかも……?」

  と告げる。

  「あ、確かにそれもあるよな……じゃあさチック、探しに行かない?」

  「えっ?でも待ってた方が……」

  「そうしてオレたち、ずっと待ってたけどさ!もしかしたらケガしてるかもしんねーじゃん!特にとーちゃんとかさ!」

  「あ……確かに……!」

  「だろ!?探しに行こーぜ!」

  「うんっ!」

  木から降りたハックは、チックと手を取り合うと村へと歩いていった。

  [newpage]

  「おーい!とーちゃーんっ!かーちゃーんっ!!」

  「ウインドお兄ちゃーんっ!!」

  数十分後、そこでは一面焼け野原と化した村の跡を歩きながら叫ぶ、2人の姿があった。

  「戦車ならいなくなったよーっ!」

  「かくれんぼしてるなら出てきてくれよー!?」

  だが……呼び掛けても呼び掛けても、帰ってくるのは静寂と……

  「うえぇ……コゲくさ……」

  「みんな燃えちゃってるね……」

  村は、民家があった所は燃えて倒壊しているか骨組みだけに。

  草木があった場所もすっかり燃えてしまい、今や見る影も無くなっていた。

  「なんか……同じ景色ばっかりで分かんないけど、多分……この辺りだよね、わたし達の家って……」

  「うん……多分……」

  双子の家も、また例外ではなかった。

  数時間前まで過ごしていた場所が、黒く焦げ、墨となった場所を見ながら、2人は不安そうに辺りを見回す。

  「ねぇ、ハック……」

  「なに、チック……?」

  「……パパ、死んじゃったのかな……?」

  いつの間にか、チックはぽろぽろと涙を零しながら、父親が倒れていた場所を見つめていた。

  「そ……そんなわけないだろ!?きっとウインド兄ちゃんが助けてくれてるって!」

  「じゃあママは!?ママは生きてるの……?」

  「それは……」

  ハックは少し考えてから、空に向かってどこか縋るような目をした後、チックに向き直り、ニカッと笑って告げる。

  「……大丈夫だって!きっとかーちゃんもウインド兄ちゃんが助けてくれてるよ!」

  「……じゃあ……」

  「チック……?」

  チックは俯き、わなわなと手を震わせながら……顔を上げ、涙をいっぱい目に浮かべたまま、叫ぶ様に言う。

  「じゃあなんで!なんで3人ともここに居ないの!?なんで『大丈夫だよ、無事だよ』って、ここに来てくれないの!?」

  「チック……」

  「さっきからずっと呼んでるのに!ずっと探してるのに!!どこにも……っ!どうして!?ねぇ、なんで!?ハック…!!」

  そうひとしきり叫ぶと、チックはその場で泣き声を上げながら蹲ってしまった。

  「……オレだって……」

  すると、ハックも肩でしゃくりあげながら、

  「オレだって、そう信じてるもん!みんな助かってるって!無事だって!!シューカみたいに、ウインド兄ちゃんが助けてくれてるって!!そう思ってるのに、さぁ……っ……!!」

  そこまで言うと、ハックはしゃくり上げるような声を上げながら、チックと共に嗚咽を漏らし……

  「「ううう……うわあああぁぁぁんっ!!!!!」」

  戦火の下。

  朝日が昇る焼けた村跡に、2人の声が響く。

  ……だが、その声に反応や返事を返してくれる存在は……どこにもいなかった。

  [newpage]

  2人は、しばらく村跡を歩いたあと……花畑へと戻り、疲れた様に座り込んだ。

  「疲れたぁ~……」

  「疲れちゃった……」

  「……なぁ、なんか食べるものないかなぁ……?」

  「さぁ……わたしも何も持ってないよ……」

  「はぁ……結局拾ったのは、このヘルメットだけかぁ……」

  そう言うと、2人共黙りこくり……少しした後に、チックが申し訳無さそうに口を開いた。

  「……ねぇ、ハック」

  「なに……?」

  「……さっきはその、ごめんね……ハックも辛いのに、キツく当たっちゃって……」

  チックからの謝罪に、ハックは複雑そうな顔をしながら、ぽりぽりと頬を掻く。

  「……いいよ。オレもその……泣いちゃったし……」

  そう告げると、再び沈黙が流れ──それを破るかのように、ハックは手元にあった花を一輪摘むと、チックへと差し出した。

  「……なぁチック、これ」

  「え……?」

  「オレ、泣いてばっかりとか…謝ってばかりなのって、調子狂うからさ、その……これ」

  「ハック……」

  「……さっき拾ったヘルメットさ、着けるの嫌がってたけど……それ着けたら、少しは可愛くなるんじゃないか?」

  「……うんっ」

  そう言ってチックは花を受け取ると、ヘルメットの耳出し部分の穴へと差し込み、ヘルメットを被った。

  「えへへ……どう、ハック?似合ってるかな?」

  そう言って笑うチックは、どこか寂しさを紛らわせる様に、少しぎこちない笑顔を見せて。

  それを見て、ハックは立ち上がり、チックの手を取った。

  「チック……!」

  「ハック……」

  「オレっ……何があっても、今度は絶対チックを守るよ!ウインド兄ちゃんやとーちゃんやかーちゃんが居なくても!オレが絶対に、チックを守ってみせるから!!」

  そう、涙混じりに、懸命に……そう、一生懸命に伝えるハックの手を、チックは両手で包む。

  「うんっ……ならわたしも、ハックのこと……お姉ちゃんとして守ってあげるね」

  そう言って、2人は顔を見合わせると、2人とも涙をこらえるような顔で…同じような顔で、笑った。

  そして、風が舞いあがる。

  「あれ……?なぁチック、あれって……」

  ハックが指さす先には、まるで山のように大きく……

  それでいて、そこかしこからブシュ、ブシュと、まるで息遣いのように蒸気を噴き出しながら動く巨大な戦車──タラニスが居た。

  「わぁ、おっきい……」

  2人が呆気に取られて見つめていると、タラニスはバシュウゥーッ!っと、大きな溜め息を着くように蒸気を全身から吹き出し──その巨体をやや沈めるようにして静止した。

  「あれ?止まった……?」

  チックがそう呟くと、ハックは目をキラキラさせながらチックへと迫った。

  「なぁチック!あれに乗り込もう!」

  「えっ!?」

  突然の申し出にチックが驚いていると、ハックはまるで自分にも言い聞かせるように、

  「乗りたいとかじゃないんだ!ただ、あんなにでっかい戦車なら、食べられるものいっぱいあると思うしさ!」

  と、ウンウンと頷き、一人で納得する。

  それを見て、チックはハァ、と肩を竦めながらも、

  「ハックってば、誤魔化し方が下手なんだから……でも」

  と、ハックに掴まれるよりも先に、その手を繋いだ。

  「えっ?チック、いつもなら"わたしは反対"って──」

  「うん。でもどうせ行くんでしょ?なら……」

  そこまで言って、にっこりと笑うチックに、ハックもニカッと笑って頷く。

  「おう!一緒に行こうぜ!チック!」

  「うん!お願いね、ハック!」

  風が、花々を撫でるようにして吹いていった。

  [newpage]

  『全く、キミも大概だねぇ』

  白。

  天井も地面も壁も…いや、そんな概念すら無いような、ただ真っ白な空間の中……ペストマスクに赤い、大仰な服を着た人物──マエストロが、一点をじっと見つめながら呟いた。

  『でもま、これで……ようやく"完成"だ』

  そういうと、マエストロは目の前にあるキーボードへ、まるでピアノを伴奏するかのように緩やかに、しかし靱やかに指を躍らせていく。

  『大丈夫さ。キミの旅はこれから始まる』

  それはまるで、運指に合わせて歌うかのように、しかしどこか嘲笑うかのようでもあり。

  『今はただ、安心して眠るといいよ』

  そしてどこか……子守歌の様でもあった。

  『さぁ、始めよう。僕らのフーガ……いや……』

  マエストロはキーボードから静かに指を離すと、キーボードのある位置よりも更に奥……空間の先で、そびえ立つように並ぶ巨大なガラスシリンダーの前へと立ち……

  『キミと僕の望む……[[rb:理想の世界 > Ideal Future]]を』

  そこで、液体の中で浮かぶように眠る──身体中に紋様が奔った白狼の姿を見つめ──

  仮面の奥の顔を、まるで紙を握り潰したようにぐしゃり、と歪ませたのだった。

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