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鼓動は口より饒舌 - 原作

  [chapter:1.]

  子供というのは大概において情報伝達の手段に笑顔を取り入れる生き物だ。それも年齢が低くなればなるほど、外界の希望を信じて疑わない彼らは実によく笑う。子供は笑うために生まれてきたといっても過言ではない。もしも笑わない子供がいるとすれば、それはある種の家庭的な問題を抱えているとか、成長過程において逆方向の刺激が与えられたからだ。

  むろん笑うことが正義でないし、笑わないことが悪にもなりえないが、概して子供らしさと笑顔は結び付いているのではないだろうか。

  ところが、ここに幼くして笑うことをやめた[[rb:五反田勇 > ゴタンダイサム]]という猫人の少年がいる。別段他の家庭と比べて問題を多く抱えているわけではないのだが、家風というかなんというか、厳格な両親のもとで育てばそうなるのも自然といえるだろう。

  むろん笑わないことが悪にもなりえないのだから、子供らしくない、大人びた子供だと言う周りの大人たちに対し、なんて大人げない大人なんだろう、と逆に心の中で蔑んできた勇は決して悪い子ではない。彼は笑わないことで早期の精神的自立を手に入れた。

  子供はいずれ大人になる。少年期とは大人になるための準備期間と表現することも可能だ。はて、そうなると自立の早さはメリットであり、成長が促されるのであれば笑わないことこそが正義ということにはならないだろうか? それに対する一般論はさておくとして、勇本人の観点からすれば、「子供らしさは馬鹿げたこと」という回答になる。

  とはいえ、どれだけ背伸びをしようとも子供は子供であり、持論に説得性を持たせるためにはどうしても人生をその足で歩むことが肝要である。笑うことを知ったうえで笑わないことと、笑うことを知らないがゆえに笑えないこと、このふたつに天と地ほどの懸隔があるということを、勇は経験から知ることができていない。

  それを思えば、勇があの〝笑顔の権化〟と巡り合ったのは幸運とも、或いは予定調和ともいえる。

  勇がその猫人、[[rb:有楽詠吉 > ウラクエイキチ]]と最初に会ったのは小学校に上がってすぐだったが、前述の理由から低学年にはそこかしこに笑顔がひしめいている。その雑木林の中にあっては詠吉もまた笑顔の一人に過ぎず、彼のみが取り分けて特別な笑顔を持つ存在というわけではなかった。それでも他の遍く子供たちと決定的に異なっていたのは、詠吉が一切の〝邪念〟を持たなかったことである。

  クラスの――ごく一般的な子供たちが持つ邪念の対象は、しばしば勇に向けられた。ノリが悪く冗談も通じない澄ました仏頂面は、雑木林に小火を起こす火種となるには十分だった。はじめのうちは火花でもなんでもない言い合いでも、同い年の勇にクソガキ呼ばわりされれば摩擦も大きくなろう。勇はめでたく入学当初から敵意を一身に受けることとなったが、彼の両親譲りの達者な口に勝てる者は一人としていなかった。いったいどこの国に口喧嘩に理論を持ち出す小学一年生がいようか。

  子供は得てして他人の毛並みを揶揄の手札としたがるものだが、模様にバリエーションが生じやすい白黒猫の中においても勇の模様は整った分布をしていた。額から下部を貫くようなハチワレも綺麗な左右対称、体のぶち模様も歪といえるものはなく、毛並みを手軽にからかうことはできまい。

  そうなれば、ボキャブラリーに乏しい直情生物は拳に訴えるしかなくなるものだが、勇が精神年齢の低い同級生に抱く侮蔑という感情は変換率ほぼ百パーセントで負けん気となり、火打石と火打石は正面からぶつかった。

  だが小火は雑木林を大火事にすることなく鎮火することとなる。延焼を防いだのは詠吉だった。

  言うなれば犬の喧嘩に割り込むようなものだ。負けん気と負けん気がドンパチやっている真ん中に入るのは無謀極まりない愚行に他ならず、額を叩かれ弾き出された詠吉は大泣きする。その奇行にギョッとして争いの手が止まったもののそれはほんの一瞬。頭に血が上っているいないに関係なく、詠吉の行為は文字通りただの奇行でしかなかった。

  しかしその奇行も連続すればどうだろう。喧嘩の心得も持たず無策に泣きながら突っ込んでくる様に、少なくとも勇のほうは毒気を抜かれた。火打石の矛先が詠吉に向きそうになるや否や、すんなりと手を止め、相手の雑言に耳を貸すことなく争いをやめた。

  そういうことが立て続けに何回もあり、いつしかそのクラスに深刻な争いは起きなくなっていた。むろんまったく起きないわけではなかったが、詠吉が止めに入ると何だか気まずくなってやめてしまったり、或いは詠吉自身が〝ムカつくやつ〟として邪念の対象になることが初めのころに何度かあったものの、一頻り泣いたあと何事もなかったかのようにケロッと笑う詠吉に対して何の征服感も満足感も得られずやめてしまったりと、争う雰囲気でなくなるのだ。

  詠吉が争いごとを嫌っているのは間違いないが、別に彼もやられてやり返さないわけではなかった。ただあまりに非力で、且つ相手を傷つける強い意思というものがなく、相手にしてみれば張り合いがないのだ。誰から見ても詠吉は取るに足らないただの馬鹿……なのだが、憎まれるタイプの馬鹿ではなかったということだ。

  非理知的な笑顔の雑木林に紛れ込む、一風変わったお馬鹿さん。それが周りと比較した、当時の詠吉の姿だ。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  その後しばらく二人は別のクラスに分かれ、六年で再び同じクラスとなるのだが、それまでの四年間、詠吉のおかしな影響力の働かない状況下では勇はやはり浮いた存在に逆戻りするのだった。周りが成長するのと同じだけ(或いはそれ以上に)勇も成長するわけで、一足先に進んだ精神的自立の差が埋まりはせず、深刻とは言わないまでも、少なくない争いが常に付いて回り、そのすべてに対し勇は正当に反発した。背が高い方だったこともあってか喧嘩沙汰になることこそ少なかったが、いがみ合いは日常茶飯事だった。家に帰ると途端に訪れる寂しさと侘しさが彼の心を蝕んだが、彼は一度も泣いたことがない。泣いたら負けだ、泣いたら人生そのものに負けてしまう……と。実際のところは、泣くことはつまり子供っぽいと本能的に結びつけてしまっていたせいなのだが。

  彼は寂寥感と鬱憤の原因を追究すべく熟考を重ね、そのたび相手が悪いと結論付ける。そうして眉間に皺が増え、何かが起きる前に威嚇する。学力の高い勇が小学生活で一度も学級委員に選出されなかったのは、そういう荒っぽさが当時の彼にはあったからだろう。

  さて、六年で再び同じクラスになる二人であるが、五年の頃にはすでに接点は復活していた。勇が小三の頃から通っていた書道教室に詠吉も通い始めたのだ。まずはそのあたりの話をしていこう。

  その書道教室は高齢の猫人女性が運営していた。書道の他に茶道を嗜んでいることもあって、静寂を好み礼儀にも厳しいが、基本的に人当たりはよく、すべての生徒から慕われていた。嘘か誠か、勇の父親が子供の頃にはすでに高齢だったという話だが、はてさて。

  どんな習い事でもそうではあるのだが、書道が合う合わないは子の性質によって差が激しく、生徒の入れ替わりはそれなりにあった。そのため、いちいち誰がやめる、誰が新しく入ってきたなどというアナウンスは行われず、詠吉もまた当然のようにいつの間にか一緒の教室に座っていた。

  もはや滅多なことでは驚かなくなっていた勇を驚かせたのは、詠吉の笑顔が一年生の頃とまったく変わっていなかったことだ。

  充分とはいえないまでも、小五ともなると分別も付きはじめ、交友の度合いに応じたコミュニケーションを取るものだ。初めて会う人には初めまして、明らかな目上の人には敬語、もちろん知らない大人には付いていかない。それなのにその茶トラの間抜け面は、まるで離れ離れになった親友との再会に喜ぶように勇に飛びついた。目を輝かせ、久しぶり、元気だった、だなんて。別に仲良くもなんともなかったはずだし、それにクラスが違うだけで顔を合わせるくらい学校で何度もしてきただろうに、なんでいきなりこいつは馴れ馴れしく……と勇が戸惑っていると先生に二人まとめて怒られることに。

  巻き添えを食った優等生の勇は仏頂面のレベルが一段階上がってしまったが、当の詠吉は悪びれもせずニコニコと上機嫌。勇はこれからこの別次元の生物に付きまとわれる確定的すぎる未来を想像し、一刻も早い[[rb:退場 > フェードアウト]]を願ったものだが、一ヶ月経っても二ヶ月経っても詠吉は辞める素振りを見せず、それどころか絶対に合わないだろうと確信していた習字に馴染んできたのだ。

  無駄に活発、無駄にハイテンション、世間知らず、馬鹿。それと精緻な書道がどうすれば結び付く? 知識不足で片付けられそうにない難問に勇は困惑するが、現にそうやって詠吉は適応している。多くの化学法則がそうであるように、結果的にそうなっているのだからそうなのだと受け入れざるを得ない事象だ。

  その答えはさておき、書道を始めることになったきっかけについてだ。詠吉が話すところによれば、落ち着きを持たせるため、という理由で通わされたということだが、成程確かに毛筆を握っている間〝だけ〟は詠吉は別人のように落ち着いていた。もっとも、筆を置いた瞬間にいつもの詠吉に戻るのだから、それが本当に意味のあることなのかといえば疑問なところだ。目を輝かせて歪んだ字に感動し、朱筆だらけで帰ってきてはしょぼくれる。本当に、勇にとって詠吉は疑問だらけの生物だった。

  「見下してる感がハンパないからじゃない?」

  そうかと思えば、詠吉は勇の慢性的フラストレーションの根本原因を一言で表したりする。なぜそのような話題になったか忘れてしまうほど、そしてその夜になかなか寝付けなくなるほど、勇にとってその一言は衝撃的だった。

  勇が見舞われるトラブルの理由について、「偉そうだから」というのは喧嘩後の〝お話し合い〟の場においてよく言われるフレーズだったが、そんな馬鹿らしい理由で突っかかってくる相手が悪いと思っていたし、それに自分が周りより賢いのは事実だし、と真面目に取り合わず、いつも形だけの「ごめんなさい」で済ませていた。

  「偉そう」と「見下している」は意味の上ではほぼ同じかもしれないが、勇はその微妙なニュアンスの違いに納得した。突っかかってくる相手が悪いという気持ちはもちろんそのまま残りはするものの、わざわざ突っかかってくるくらい不快に思われる、それだけの原因が自分の方にもあったのだと気がついたのだ。

  その一言はたまたま勇の本質を突いただけに過ぎず、詠吉自身は物事の本質を見抜くことができるような教養もなければ学力もない、不器用で五年生になっても泣き虫で落ち着きもない子供すぎる子供だ。それでもその一件以来、勇は詠吉を見る目を「ただの馬鹿」では済まさなくなった。対等に接し、人格を尊重するようになった。結果的にそれは、同級生との付き合い方を変えるための良い練習相手になったともいえる。

  かけ離れた存在を知ろうとする知識欲というか探求心がそうさせたのか、勇は書道教室の後に詠吉と一緒に行動することが多くなった。もとより勇は習い事以外に家に用事はなく、詠吉はフリーダム。たまたま家に直行せず何とはなしに付いていったのを切っ掛けに、以来そうするように。いや、もしかするとその初日にまたもや詠吉の意外な一面を見て、更なる知識欲が膨れ上がったせいなのかもしれないが。

  詠吉は近くの神社に参拝することを日課としていた。このご時世それだけでも驚嘆に値するのに、詠吉は本気で神の存在を信じていた。神仏の存否に対する一般論――或いは極論――或いは獣人類における神仏信仰の概論などはさておき、勇本人の観点からすれば「神様なんているはずないだろ」という回答になる。

  「いるよ、絶対いる! ほら、今も風が吹いたし神様が通ったんだよ!」

  何かをお願いしているのか、はたまた日ごろの感謝を述べているのか勇には判らなかったが、真剣な笑顔で強く手を合わせる詠吉に水を差す気にはなれなかった。「ちっちゃい頃にお願いしたらおばあちゃんの病気が治ったから」という理由についても、そんなのはたまたまだろ、なんてひねくれた茶々は決して入れなかった。それは紛れもなく詠吉による影響である。

  もっとも、毎日五円のお賽銭と聞いた瞬間、「年間一八二五円」と無粋な呟きをしてしまうのは現実主義者の性分というものだ。

  人は適応する生き物だ。どんな常識外れの変人でも、慣れてしまえば普通の人間に思えてくるものだ。詠吉と関わるうち、勇が持つ自分とかけ離れた存在への探求心、好奇心というものはすぐに薄れていったが、それでも勇は何となく、――そう、ただ何となく詠吉と行動を共にし続けた。何となく一緒に歩き、何となく話し、何となくお参りを見守り、何となく別れ、時には本の貸し借りをする。一般的な「一緒に遊ぶ」と同じ括りにしてよいかは微妙なところであるが、とりあえずは二人を友人と称して差し支えないだろう。違うクラスである以上、会うのは基本的に週一の書道教室の帰りしかないにしてもだ。

  居心地がいいからだな、と勇はすぐに気が付いた。生まれて初めてといっていいのだ、悪意も敵意も打算も持たない善人に触れたのは。意外性さえ受け入れてしまえば、詠吉に残るのは混じりけのない純情だけだ。勇の悪い部分への指摘にしたって嫌味も皮肉もなく、良いところは手放しで褒める。居心地が悪くなろうはずもない。

  別段家族のことを嫌っているわけでも悪人と思っているわけでもないが、帰るべき場所である家の居心地がそんなに良くないのは確かだった。成績を気にするのは将来のため、読書は教養を高めるといって買い与えられた小説も中学年あたりからは推理小説ばかりになり、娯楽の中でも学力をつけさせようとする打算が、この時点での勇でも容易く見抜けた。まあ、その読書が生活の一部になるまで気に入っているのは親の目論見通りなのかもしれないが。

  それらに対しては勇とて間違ったことと思っていないし、厳しくするのも子供のためなのだろうと思ってもいるが、どことなく窮屈さを感じてしまうのは否めなかった。

  勇には学力がある。詠吉にはあまりない。でもそれが何だというのだろう。学力至上主義に育てられてきた勇だが、どう見ても詠吉の方が人生を楽しんでいるように思えた。参拝の際によく宮司とも親しげにしているのを見るし、すれ違う人ともそれなりの割合で知り合いだった。なんでこんなに知り合いが多いんだろうと疑問に思った勇だったが、ある日、神社で行われる月次祭(つきなみのまつり)の手伝いに勇も半ば無理やり引っ張って来られたことで、だいたいの事情を理解した。背丈も小さいし不器用なものだからあまり役に立っているふうではなかったものの、詠吉は地域住民から広く可愛がられていた。

  自信満々の習字で添削されるたび涙目になり、袖口や手首の墨汁を毎週更新するたびに悲愴な顔になり、貸した小説で人が死ぬたびにボロ泣きする。でもそれが何だというのだろう。馬鹿みたいに笑うのはガキっぽい、馬鹿みたいに泣くのもガキっぽい。でも、それが何だというのだろう。笑わないことや泣かないことは、これっぽっちも偉くない。一度も泣いたことがない自分より、泣き虫のあいつのほうが強い心を持っている。「勇」なんて立派な名前、あいつにこそ相応しい。――なまじ頭が良いせいなのか、そんなことを考えては自己嫌悪に苛まれる日々だった。

  まあ、それも六年になって再び詠吉と同じクラスになるまでの短い期間の話だ。六年になり、「久しぶりに一緒のクラスになったね」などと満面の笑顔に手を振られ、勇は「一年間うるさくなる」なんて嫌味ったらしく肩をすくめて見せながらも、満更悪くないと思う自分がいることを感じていた。

  カタブツモンスターが柔らかくなり、そこに加わるスマイルモンスター。多少の軋轢もなくはなかったが、我の強い小学六年生ばかりが集まる中、そのクラスは奇跡と呼べるほど穏やかな、それでいて明朗快活な纏まりを見せた。不穏も格差もなく、行事は一致団結し。正真正銘の平和といえた。勇は小学生活最後の年にして初めて学校が楽しいと感じることを知った。この経験はその後の人生総てを後押しする大いなる支柱となるはずだ。

  もっとも、楽しいと感じる経験に乏しかったものだから、ワクワクの中に別のざわめきが含まれていることに気づかなかったのだろうが、その感情の正体の判明もまた、別の経験に繋がることになる。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  書道教室も中学に上がればやめてしまう。勇が一抹の名残惜しさを感じていると、先生はその日の題目に、ある一文字の漢字を挙げた。

  「本来は中学になってから習う字だけど、先生はこの字が好きだから」

  そう言ってスラスラと書いて見せたのは、「恋」という字だった。恋愛、恋情、色恋……。恋は心を豊かにします。なくても困りはしないけれど、あれば人生はもっとよくなるものです……。などと老婆は顔を綻ばせた。

  「個人的な好みを差し置いても、そうですね、詠吉くんほどではないにしろ、この字には八法のほとんどが含まれています。この字を練習することで、もっともっとお習字がうまくなりますよ」

  八法とはいわゆる永字八法にみられるように、止め、跳ね、払いなど基本となる八つの技法のことで、永字八法とはその技法が「永」のたった一文字に詰まっていることを意味する。そして先生が「詠吉くんほどではないにしろ」と言ったのは、有楽詠吉の詠にその永の字が含まれることを差している。詠吉が教室に通い始めた当初の話になるが、その偶然に先生はたいそう喜び、詠吉もよくわからないながら大いに喜び、その二人だけの喜びムードの中で生徒たちは永の字を延々と書かされ続けた。

  その時と同じように、機械的に恋の字を書き続ける中、もしかしたら詠吉がこれまで書道教室を続けられたのはそういうことがあったおかげなのかもしれないなと勇は思った。

  ゲシュタルト崩壊を起こすほど恋の字を書き続ける中、頃合いを見計らったかのように先生は教室の後ろに掛かっている額を指差し、どうやら自書らしい「眷戀」という熟語について話を始めた。右側の戀は恋の旧字体で、眷恋とは一言でいえば「恋焦がれること」という意味なのだという。

  よほどロマンティックな経験をしたのだろうなと思いながらも、はっきりいって老婆の少女時代のことなどどうでもよいというのが本音の勇は、それよりも恋という言葉の意味について考えた。小説をはじめとするあらゆる大衆娯楽作品に取り入れられる一大要素であるが、正直なところその意味を理解しているとは言い難かった。登場人物の描写から「どういう状態になる」ということは知っていても、まるで実感が湧かない。その人のことばかり考えてしまったり、触れただけでドキドキしたり、その人に群がる取り巻きを憎んだり、危険を顧みずその人を守ろうとしたり、或いは逆にきつく当たったり……。そんな体験など一度たりともしたことがないのだから、理解が及ばないのも無理からぬ話だ。

  「恋っていったいどんななんだろうね」

  一年前よりはるかに上達した字を眺めながら呟く詠吉に、勇は「さあ、わかんね」と曖昧に答えた。――眷恋。恋焦がれること。勇はぼんやりと考える。胸を焦がすほどの熱い感情ってどんなものなんだろう。恋っていったい何なんだろう。俺にも解る日が来るのかな……。

  [newpage]

  [chapter:2.]

  

  俺、たぶんこいつに恋してる……。

  勇がそう自覚したのはつい最近、つまり中学に上がってからだ。こいつというのはもちろん詠吉のことで、恋のこの字も解らなかった勇にいったいどんな心境の変化があったのか。順を追って話していこう。

  勇は小学校を卒業し、そのまま公立中学校にスライド式に進学した。学力重視に育てられながらも私立中学に通わなかったのは、偏に父の一声によるものだ。小中はどうしても自分と同じように公立だなんて、変なところで変な拘りを見せる。まあ、そのおかげで詠吉と同じ中学になれはしたが、勇としては私立に通おうが公立に通おうが別にどちらでもよかった。詠吉がいなければ自分はもっと嫌な奴だったに違いなく、そしてその自覚もなかったのだろう。自分を変えてくれた詠吉には感謝しているし、もちろん離れ離れになるのは寂しい。寂しいが、そこまで苦にはならないに違いない。……と、そう思っていたのだが。

  人は適応する生き物なのだ。どれだけありがたいものでも、慣れてしまえばあるのが当然に思えてしまう。進学と同時に書道教室を卒業した勇は、プライベートにおける詠吉との接点がなくなってしまったことで初めて気が付いた。どれだけそれまでの自分が詠吉ありきで成り立っていたのかを。

  幸運にも同じクラスになれはしたものの、詠吉の性格上友人は多く、休み時間には常に詠吉の机を中心に男子たちが群がるようになっていた。中学に上がって間もないというのに、別の小学校区の子ともすでに打ち解けているのだ。詠吉の笑顔は未だ健在だ。その自分以外に無差別に向けられる笑顔が、とたんに恨めしくなった。

  「あれ、イサム、最近よく笑うようになったなって思ったのにさ」

  そうなると、たまにこうやって笑顔を向けられてもあんまり嬉しいと思わなくなるものだ。本心は嬉しいはずなのだが、嬉しいと感じたくなくなるというか。そのもやもやと不愉快になる感情が嫉妬であると、勇は熟考の末に気が付いた。

  「まーたミケンにシワ寄ってるよ」

  「ほ、ほっとけって。触んなよ」

  遠慮なしに眉間をぐりぐりするそのスキンシップを払い除け、勇は不貞腐れたように机に突っ伏す。そうしたら今度は頭をポンポン叩き始めるし、本当にもう、いつまでもこうやってべたべたと顔に触れたり手に触れたりとガキっぽい。中一にもなって少しは分別というものを覚えろ。

  でも、と勇は考える。そういうものをひっくるめて詠吉なのだと。分別がないのも、年不相応に無邪気な笑顔を馬鹿みたいに振りまくのも、どれもこれも有楽詠吉を有楽詠吉たらしめている要素であって、もしもなくなってしまえば詠吉は詠吉でなくなる。そんなぶっ飛んだことを断言できてしまうほど、それらは確固たる詠吉のアイデンティティとして定着している。それが判っているのなら、勇のすべきことは、それらをありのまま受け入れることしかないのだ。

  とはいっても、無遠慮に触られるのは恥ずかしい。その恥ずかしいと感じることが、つまりはそういうことなのだ。

  詠吉に触れられることで湧き起こる感情――複雑に絡み合い、とても一言で表せられないそれらの束を解きほぐし、冷静に感情の内訳を分析してみると、まず表層から不快感が抽出された。なぜ不快感? 詠吉に対して直接の嫌悪感がない以上、それは別の感情に付随するものだ。どういう感情を抱くと不快になるのかと考えたとき、こっちの気も知らないで、というフレーズが脳裏をよぎった。つまり、こっちの気をあっちが知っていればそれは不快でないということになりそうだ。

  次にもどかしさ、悔しさ、苛立ち、欲求不満が強固に結びついていた。それらが縦横に絡まり、嬉しさと恥ずかしさに覆い被さるヴェールとなっている。そこで勇はそれらすべてを引っくるめて表すことができる二文字の熟語に思い当たったのだ。

  嫉妬。書道教室を卒業してしまった自分に、詠吉を独占することはもうできない。自分だけに笑顔を向けてくれることはもうない。たまにこうして向けられている笑顔は本物の笑顔ではなく、申し訳程度の気まぐれでしかないのだ。だから素直に喜べない……と。

  家に帰ると、昔感じていた虚無感は喪失感へと姿を変え、再び勇を襲うようになっていた。それを紛らわせるように本を読んでも勉強をしても、なかなか摂取できない笑顔のことばかり考えてしまう。取り巻きに嫉妬して、不貞腐れて、恥ずかしがって、ドキドキして。

  それってつまり恋じゃないのか――理論派の勇には、その帰結は明敏だった。

  男相手に何考えてんだと振り払おうすればするほど意識してしまうし、何か別の感情を勘違いしているだけなんじゃないかと冷静に分析するほどに、その感情を紛れもないものとして確信してしまう。

  でも、だからといって、それならどう行動すればいいのか皆目見当がつかない。詠吉をどうしたいのか、自分はどうなりたいのか、どうすれば自分は満足するのかということについて、勇は答えを出せずにいる。

  「で、何考えてんの?」

  「……人生を哲学してんの」

  「テツガクって何?」

  「人生について悩んでんの」

  「ふーん、テツガクって悩むことなんだ」

  訂正するのも面倒だと放っておいた勇だが、咄嗟にそう言い換えたことからも判る通り、あながち間違ったものでもあるまい。哲学とはとりあえずの結論に到るまでの過程総てが悩みで構成されているようなものだ。

  「イサムでも悩むことがあるんだね」

  「悩んでばっかりですよー。人生はわからないことばかりなんだから。まったく、〝気楽〟がうらやましいわ」

  「人生ってわからないから楽しいんだよ。お父さん言ってた」

  「はぁ、そりゃまたずいぶんな……」楽天家だことで、と勇は危うく言いそうになった。気を抜くと余計な一言を発してしまう癖は一朝一夕では抜けない。

  先が判らないより判るほうがいいに決まっているというのが勇の価値観だ。人生のプランを構築し、理想の自分を思い描き、それに沿うように努力をする。勇は中学に入学したばかりだというのにすでに志望校を決めているし、この間の書道の授業でも将来の夢に堂々と「弁護士」と書いた。

  でも、と勇は考える。果たしてそれが幸せに繋がるのだろうかと。もし志望校に合格できなかった場合、代替となる高校は近場にはない。そうなればプラン全部に修正をかけなければならない。もし落ちたら絶対うろたえてしまう……。

  もちろんそうならないように勉強を重ねればいいというのは正論だが、不確定な未来をどれだけ確定させようとしても、遠い未来になればなるほどズレは大きくなり、確実からは遠ざかってしまうものだ。果たしてそれは良いことなのだろうか。

  弁護士という目標について、別にそこまで強い執着があるわけではない。単に弁護士なら両親も祖父母も文句は言わないだろうという打算からだ。どうしてもそれでなければならないわけではない。

  となると、もし弁護士でなくてもいいというのなら……。

  「……何のために勉強してんだろうなあ」

  「なりたい自分になるためじゃない? イサムは弁護士になりたいんでしょ?」

  「べーつに。ほんとになりたいわけじゃない」

  毎日予習復習は欠かさない。数学も理科も国語も得意。法律に関しても独学で勉強を始めている。がんばってはいるはずだ。でもそれはやらなきゃいけないからやっているだけで、やりたいから――やりたい目標があるからやっているわけではない。意欲からではなく義務だけでやっている。

  なるほど、と勇は気が付く。自分の人生にはそんな低次元な目標しかなかったのだと。人生のプランも、理想の自分も、うるさい親を黙らせるために取って付けた張りぼてにすぎないのだと。

  「なりたいものもないし、やりたいこともない」

  「ふーん。じゃ、こういうのは?」

  詠吉はしゃがみ、勇と目線を合わせるように机の上で腕を組んで顎を乗せた。

  「なりたい自分が見つかったときのため」

  近すぎる顔から距離を取りながら、何言ってんだコイツ、と心の中で呟いた。詠吉の顔は自信満々で、さも「今すっごくいいこと言ってるよ」みたいに輝いている。手の甲を半分隠すくらいダボダボな制服で、まったく格好がついていないというのに。ネクタイだってズレている。

  「ぼくだって何になりたいかなんて考えてないよ。勉強だってイヤだからしてないようなものだし。……でももし、いざ何かになりたいって思ったとき、勉強が足りなくて歯がゆい思いをするかもしれない」

  「いや、勉強すりゃいいだけじゃん」

  「えーヤダ」

  「おい説得力」

  「だから、その点イサムはえらいねってこと言いたいの」

  「そりゃどうも」

  まったく、そんな当たり前のことを満面の笑みで説かれても……。

  教養は可能性の幅を広げる。そんなものは考えなくても判る常識だ。芸人だって一流大学を出るし、スポーツ選手だってそうだ。トッププロでもない限り、引退後を見据えた人生設計をしなければ待つものは闇だ。

  勉強をすればするほど何かになれる範囲は広くなる。そのなりたい「何か」が判らないから悩んでいるのだ。

  「何が起きるかわからない人生、いいと思うけどな」

  最後にまた眉間をグリグリされ、

  「だって、ネタバレなしに楽しめるんだよ?」

  チャイムと同時に詠吉は自分の席に戻っていった。

  それは行き当たりばったりって言うんだ、と心の中で毒づいた。何も知らないから楽しめる? それはその先が見えていないだけ、ただ能天気なだけなのだ。

  とはいえ、むろん肯定こそできないものの、ある意味ではそれも幸せなのかもしれないと勇は思った。眼力がなく、悪い点に気づかなければ余分な不幸も見えないのかもしれないと。

  授業開始の挨拶の動作ついでに教室の後部に目をやる。書道の授業で書いたクラス全員の「将来の夢」をがずらりと並ぶ中、詠吉のそれがひときわ目立っていた。

  幸せな自分になりたいです!――そう言いながら特大の「幸」の一文字を自信満々に掲げるアホ面を鮮明に思い出す。本当に馬鹿な奴だ。幸せな自分になりたい、それはいいことだとしても、あの場面ではその〝手段〟について書くべきなのだ。何々になることで幸せに手にしたい、何々を達成することで幸せになりたい、そういうのを書けと。まったく、本当に、どこまでも幸せな頭をしている奴だと勇は思った。

  ああ、と勇は詠吉に抱く感情の一部を理解できた。ただただ心配なのだ。詠吉の頭が。

  人生は判らないより判るほうがいいに決まっている。――それでは、今こうやって詠吉への感情のやり場に困っていることが楽しくないのかといえば、決してそうでもない。これについてはもっと掘り下げて考えていかなければならないだろう。

  眉間に残る擽ったさは、しばらく勇を授業から遠ざけた。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  コミュニケーションに難がある勇にも、入学して半年も経てば決して多くはないものの話し相手くらいはできる。学力が高い者同士でテスト対策を話し合うこともあれば、成績下位者からの懇願で渋々学習塾じみたプチ講義をすることもあった。他者と関わる機会が増えたことで離れた視点から詠吉を見ることができるようになり、勇自身も客観視できるようになったのかもしれない。

  やっぱり恋なんかじゃないのかもしれない――詠吉のスキンシップを避け続けることを半年ほど繰り返した頃、勇はそんな風に思うようになった。

  相変わらず触れられることにも詠吉を取り巻く生徒を見ることにも不快感を覚えはする。でも、それを嫉妬と呼ぶことを認めるにしても、だからといって安直に恋と結び付けることに対しては疑問に思うようになったのだ。なぜなら、恋と呼ぶには決定的に欠けているものがあることに気付いたからだ。

  激情。どうしてもこいつを自分のモノにしたい。どうしてもこいつと恋仲になりたい。そういった感情が足りないのだ。まるでないというのは言い過ぎにしても、明らかに乏しいのは事実だった。羨ましいなら取り巻きの輪に自分から入ればいい。会いたいなら神社で待ち構えればいい。それをしないということは、つまりその程度のものしか持っていないのだと。

  ある程度納得できる結論を見出した勇はひとまず安心するが、その考えが甘かったことを、勇はすぐに思い知る。

  小学の頃と比べるとすっかり角が取れた勇は、何の因果か後期の学級委員長に推薦された。正直なところいい迷惑と思った勇だが、学力があれば内申のために部活動に入る必要はないと考えて帰宅部を選択していたこともあり、手軽に「やってますアピール」を出せるなら悪くないと受け入れた。

  活動内容について今回特筆すべきことは殆どないのだが、ひとつだけ、他の委員会が関係しない提出物の取りまとめについてのみ大きく関係する。

  ある日配布された、まちづくりに関するあまり必要性を感じないアンケートを、詠吉だけが未提出だった。詠吉は小学の頃から宿題や翌日の準備を後回しにするきらいがあったため、今回もそうだろうと勇は放課後に勇み足で部活に向かおうとする詠吉を廊下で呼び止めて催促した。

  「ごめんごめん。存在忘れてるわけじゃないよ、半分は終わってるし。あれ、期限なかったよね?」

  「いや、特に言ってなかったけど普通は次の日に出すだろ……」

  、それも二分で終わるような単純なアンケートだ。もちろん翌朝に全部が全部滞りなく集まったかというとそうではないが、他の未提出だった生徒たちのように、休み時間などを利用して書けばいいだけだ。それを半分だけ書いて放置って……。元来落ち着きのない詠吉だ、書いている途中で他に気を取られて忘れてしまう様を勇は二秒で想像した。

  「んーと……あさってまで待ってくれない?」

  今晩も町内会があるし明日は……とスケジュールを思い浮かべながら呟く詠吉に、

  「あのさ、有楽」

  こうやって勇は余計な一言を言ってしまうのだ。

  「町内会とかボランティアとか清掃活動とか神社の手伝いとか、そんなん大人の役目だろ」

  大人の仕事以外にも、詠吉は書道部とボランティア部を掛け持ちしている。

  「ちょくちょく宿題忘れてるの見るし、お前、忙しいことをやりたくないことから逃げるための言い訳に使ってないか?」

  勇には、詠吉が多事多端の中に身を置いて気持ちよがっているようにしか思えなかったのだ。

  正体不明の苛立ちから余計なことを言ってしまった自覚はあったが、勇が真に後悔したのは、詠吉の顔を見た瞬間だった。

  無駄に活発、無駄にハイテンション、分別を知らず世間知らず、年不相応に無邪気な笑顔を馬鹿みたいに振りまく……それら詠吉を形作るアイデンティティの一切が、その瞬間の詠吉から剥離していたのだ。

  「あ…………」

  凍り付いていた時間はわずか二、三秒程度のもの。けれど、――何だ、この顔、この表情――今の勇にとっては、それが十秒にも二十秒にも引き延ばされて感じられた。勇の心にかつてないざわめきが生じた。

  くるりと、そう、まるで顔を見られたくないように詠吉は背を向け、数秒間の硬直ののち、

  「ごめん、明日には出すよ」

  それだけ言って走り去っていった。

  未だ引き延ばされた時間の中に取り残されている勇は、ぐるぐると渦巻く感情に翻弄され前後不覚に陥っていた。景色が傾いて見え、心拍とともに脈動し、いつの間にか元の角度に戻ってはまた歪み始める。

  初めて見る詠吉の顔――例えば職員室で先生と真面目な話をする時の真面目な顔、例えば書道で集中しているときの真面目な顔、例えばシリアスな小説を読む時の真面目な顔――そのどれとも違う詠吉の〝真顔〟を、勇は初めて目にした。

  アイデンティティを失った詠吉を詠吉として認識しなくなることはなかったが、勇はこの瞬間、それまでの詠吉とこれからの詠吉の間に決定的な境界線が生じたことを確信した。自分の手で、鋭いナイフで、深い溝を彫ってしまったのだと。

  顔が見えないぶん、最後の口調も足音も普段の詠吉と大差はないように感じられた。けれど、それを言い訳にして逃避できないことは勇にも判っていた。いくら表面を取り繕おうが、いつも上を向いている尻尾が垂れ下がっていたのを勇の目は覚えていた。

  湾曲する景色の中、部活動に行かず帰っていく詠吉の姿が窓から見えた。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  思い出そうとすれば思い出すことはできようが、家に帰るまでの記憶はひどく曖昧だった。言いようのない惨めさと、余計な一言を発した情けなさと、言いようのない焦燥感にリソースを割くのに精いっぱいで、外部刺激を受け取る余裕がなかったのだ。

  この焦燥感は何なんだろう。ベッドに倒れこんだ勇はようやく思考ができるようになった。なぜあいつはあんなにショックを受けた。あの発言のどこにショックを受ける要素があった。何があいつの地雷を踏んだ。いくら考えても解らなかった。彼がそれまで生きてきた経験だけでは、かけ離れた存在である詠吉の人生を推量するのは困難だ。

  しかしただひとつ確かなことは、取り返しのつかないことを起こしたということだ。その辺のクラスメートとする喧嘩とはわけが違う、ただ謝って終わりでない、何か重大な欠損が詠吉に起きてしまったのだ。

  失われてはならない何かが損なわれてしまった。

  失ってほしくない何かが損なわれてしまった。

  〝詠吉に求めている何か〟が、損なわれてしまった。

  その何かが何なのかは解らない。勇は、思念の激流の中で暴れまわる後悔の刃が胸のあちこちを刻み続けているのを歯を食いしばって耐えるしかなかった。

  心が乱れると眠れなくなるのは勇の持病のようなものだ。目を閉じても渦巻き続ける苦悶の中、勇は僅かでも眠れたのか判別がつかないまま朝を迎えた。億劫という感情を無心という停滞力で抑え付け、どうにか登校した。詠吉に合わせる顔や掛ける言葉を考えることすら放棄して。何事につけ用意周到な彼からはありえないことだ。

  ところが詠吉は何も変わっていなかった。いつもと変わらずニコニコ顔で、昨日のことなど何もなかったかのように「おはよう、イサム!」だなんて。手には例のアンケート用紙を持ち、遅くなってごめんね、と。手渡されたそれを、勇はどう言っていいか判らず無言で受け取ったが、

  「お前、これ……」

  勇は目を見開いた。驚愕して、唖然として、目どころか口まで間抜けに開いて。

  何で、こんなに――異様なのは字の多さだった。

  2, あなたの住む町についておたずねします

  問①自分の住む町が好きですか?――大好きだ。

  問②その理由は何ですか?(自由記載)――地域住民たちの結束が強いところ。自治会の加入率93%程度。市民一斉清掃世帯参加率70~75%程度。昨年秋祭りの世帯参加率88%程度。本年子ども祭りの世帯参加率96%程度。町全体や子どものことを大事に考え、古くからの伝統を重んじている。住民に活気がある。

  問③あなたのお住まいの地域に足りないと感じるものは何ですか?――その他――道路や建物にまとまりがなく路地が多くなっている。路地もまっすぐでなく、見通しの悪いところも多く、子どもが飛び出すと危ない。道の幅が狭く、朝は一方通行を無視する車やバイクが多い。傷病者も入りづらく、家も密集していて火事が起きると広がりやすい。外から来た人にはどこにお店があるのかわかりにくく、多くの店が近所の常連客のためだけに存在している。

  問④あなたのお住まいの地域は、おおむね10年後~20年後、どのような地域になればよいと思いますか?――その他――整った区画整備がされ、車も人も安心して通れるように。個人営業のお店が広く門戸を開ける環境に。

  毛筆は上手になっても鉛筆の字は汚いままだ。でも、むろん内面を知っているからこその補正がかかっているのだろうが、だからこそ一生懸命さが伝わる。

  睡眠不足でメンタルが不安定になっていた勇は、正体不明の涙が溢れてくるのを止めることができなかった。

  「お前……これ、無記名なんだぞ……」

  自治会加入率やら祭りの参加率やら、道路や建物の問題点やら交通の安全性やら、いったいその小さな足でどれだけ駆け回って情報を集めたのか。門戸を開くなんて慣用句だって知っているとは思えない。いったい何人の大人たちに尋ねまわった。どれだけの店の経営者に尋ねまわった。

  内申に繋がるわけでもない、褒めてもらえるでもない。こんなアンケートに真面目に答えて何になる。どうせどこぞの機関の天下り役員が活動実績作りのために用意したお遊びに決まっている。こんなものが本当にまちづくりに役に立つなんて信じる馬鹿がどこにいる。

  ここにいる。いつも笑顔で、不器用で、全力投球で、お人好しで、自分よりも他人の幸せを心から願っている、打算なき良心を持つただの馬鹿。詠吉は何も変わっていなかった。損ないながらも、詠吉は詠吉で在り続けた。

  肩を震わせながらどんどん俯いていく勇を心配するように顔を覗き込む詠吉を、勇は片腕で抱き寄せた。傍目には男子同士が肩を組んでふざけているようにしか見えないはずだが、そこにはおふざけなどでは決してあり得ない〝激情〟が存在していた。

  とても一言ではまとめられない、一言でまとめるという行為が冒涜になるほど一途で無量の感情を、勇ははっきりと自覚した。

  「ごめんな」

  この不器用さを、純情を、守りたいと思った。自分が損なわせてしまったぶん、これから大人になるにつれ確実に損ない続けていくであろうそれに歯止めをかけようと。もしそれが叶わずとも、それによって傷付くに違いない詠吉の心の拠り所になりたいと。今にも踏み抜きそうな薄氷の上で走り回る詠吉に、焦燥感だけ抱いていてはいけないと。この手で守らなければ、命綱を――舫い綱を繋がなければ。

  何を謝っているのか判らないみたいな態度を取る詠吉の、そのどこまでが本心なのか勇には判らない。気遣ってとぼけているだけなのか、はたまた昨日のことなどいつものように過去に流し去り、本当に判っていないだけなのか。でも、どちらでもいいと勇は思った。どっちだろうが詠吉は詠吉だ。判らなくてもいい。判ろうとしなくてもいい。

  人生は判らなくても楽しいのかもしれない。

  [newpage]

  [chapter:3.]

  

  勇は詠吉のスキンシップを容認した。というより、嬉しいという気持ちを否定せず受け入れるようになった。頭をポンポンされ、耳をグイグイされ、手を引っ張られ、変わらぬ子供っぽさに安心する。もちろん表向きには嫌がっている素振りは見せていて、反対に背丈の違いを利用して上から頭をくしゃくしゃしてやり、膨れっ面をさせては悦に浸る。

  仲良すぎ、とからかわれることもあったが、「有楽が嫌がることしてくるからガキ扱いして返してんの」と正当化している。基本的に人の嫌がることをしない詠吉だが、勇に対して行いを改めないのは、勇が本当は嫌がってなどいないことを十分に判っているからだった。そして、子供扱いされることを嫌がりながらも本気で抵抗していないことを勇も理解している。じゃれ合いを通じ、勇は詠吉との繋がりを確認していた。むろんそれは物理的でなく精神的な繋がりを指すものだが、感覚とは全般的に直接触れるほうが伝導率は高いものだ。あえて触れさせ、あえて触れることで、繋がりを強固なものとしたい。無意識的にそういう願望があったのだろう。

  「もー、真ん中通っちゃダメだってば」

  とまあ、こんな風に学校帰りに神社のお参りについていった際に、正中(参道の真ん中)をわざと通って詠吉に手を握らせたりする。手を握られ、引っ張られ、気付かれない程度に握り返して付いていく。勇にはそれで満足だった。勇の詠吉に対するスタンスは、どちらかといえば保護者に近かった。事実、詠吉に抱く感情の比重は母性や父性のほうが大きい。あれだけの激情を湧き上がらせておきながら、勇は無意識的に身を引いていたのだ。そうしながら、人目につかないところで手を触れ会い、淡い恋心を満たさせる。

  勇がそんな立ち位置で自分を落ち着けようとしているのは、本能的に〝本心〟の行く先が不幸に繋がっていることを理解しているからだ。衝動よりも論理を正義とする現実主義者の勇は、多種多様な種族が混在するこの世界、多種多様だからこそ認められない多様性というものが存在することを、考えなくても理解しているのだ。猫人は比較的多く存在してはいても、種族比率を下げる行為は〝悪〟……それが現実、それが世間なのだ。

  寄り添いの形はいくらでもある。恋人である必要はどこにもない。詠吉の近くにいればそれでいい。いつか詠吉が本当の意味で大人になるまで、或いは、いつか本当に詠吉を任せられる誰かが現れるその日まで――。

  成長する過程で培われてきた勇の性質は、総括すると〝波面を平らにすること〟に行き着く。必要以上には揉め事を起こさない、争わない、先を見通し、やばそうな道は先んじて避ける……。この期に及んで、勇はまたその行動原理に基づいて人生を決定しようとしていた。

  「ねえイサム、いつか言ったよね、ぼくの行動が嫌なことから逃げるためだって」

  しかし、いつだって詠吉はこうやって綺麗な水面に波紋を発生させるのだ。そんな詠吉になぜこうまで惹かれるのか、勇はまだ解っていない。

  ずっと負い目に感じている出来事を持ち出され何も言えないでいると、参拝を終えた詠吉はくるりと振り返って勇を見る。その表情は、真顔……というよりは、素顔のようだった。どちらかといえば笑顔に近いものではあるものの、どことなく世の不浄を知って愁いを帯びたような、そう、少し大人びた顔のようだと勇は思った。

  「ぼくね、ずっと逃げてたんだと思う。イサムの言う通りに」

  何から逃げていたか。それは祖母の死からだった。

  詠吉に打ち明けられ、勇はふとあることを思い出す。神様にお願いしたらおばあちゃんの病気が治った、と詠吉は言っていたはずだ。治ったというのが嘘とは思えない。治ったという度合いが低かったのか、一時的に治って悪化したか、或いは完治したあと老衰か別の病気で死んだのか。いずれにせよ事実も時系列もはっきりしないし、話題がデリケートなこともあり、ここでも勇は何も言えなかった。

  「おばあちゃんね、死んじゃうちょっと前まで意識不明だったんだ」

  それは詠吉が小学二年生のことだった。詠吉が学校から帰ると、まさに祖母が救急車で運ばれている場面だった。脳内出血だった。高齢における脳の手術は負担が大きく、死は免れたものの意識が戻ることはなかった。そして、次に出血した時が本当の終わりであると。

  母親を早くから亡くしている詠吉は、実母の穴隙を補って余りあるほどの母性を発揮する祖母に、それはそれはたいそう懐いたものだった。怒られるのも、褒められるのも、父や祖父以上に祖母によって行われた。

  その祖母に、ありがとうも言えなければさようならも言えないなんて、幼い詠吉にとって何よりも残酷な仕打ちだろう。詠吉は病院にいる間ずっと、祖母の手を握り続けた。繋がっている手から、少しでも自分の感情を伝えようと。そして願わくは、どうか目を覚ましてほしいと。

  病院で夜を明かし、学校も休んで祖母に付き添い、また夜を明かすことを三日繰り返した。

  四日目の朝、詠吉は祖父に連れられて神社に参った。一時でも祖母の手を離すことを不安がった詠吉だが、これは祖母のためなのだと諭されると素直に従った。

  当時の詠吉にその習慣はなかったが、祖父母は毎朝連れ立って神社に参拝していた。こうやってお参りする行為自体を祖母は喜ぶのだと祖父は言い、自分のために神様にお願いしてくれることはもちろん、自分が行けない代わりに神様に感謝を伝えに行ってくれることを喜ぶに違いないと。祖父にそう言われ、未熟な情緒ながらも彼なりに強く納得した。

  こういう状況ではまさに神の奇跡としか思えないだろう、その日の午後に祖母は目を覚ました。それどころか翌日には上半身を起こして病院食を口にするなど驚くべき回復ぶりを見せ、詠吉は泣いて喜んだ。もちろん油断はできないし次の出血が即ち死であることに変わりはないものの、この分だとじきに退院できるだろうと担当医も言った。登校前に祖母に挨拶し、下校時に祖母の病院に寄り、以前と同じ暮らしに戻れることを今か今かと待ち望む。それを数日繰り返した頃だった。

  本当にいい子だよ。夕暮れの中、祖母は詠吉の頭を撫でながらしみじみと言った。お前はいい子だから、この先どんな辛いことがあっても我慢できるね。苦しくても、悲しくても、絶対に負けちゃいけないよ。

  いつもと同じ祖母の愛情表現としか受け取れなかった詠吉は、いつもと同じ満面の笑みで大きく頷いたが、それはある意味では祖母にとって最高の手土産となったに違いない。

  ありがとう。この一言を最期に交わすことができたのは、詠吉のその後の人生にとって大いなる意味を持つ。翌日に祖母が逝ったことを知っても、驚き悲しみはしたものの、少なくとも「感謝を伝えるべきだった」という類の後悔はしなかった。そして家族の誰も死に目に会うことが叶わずとも、祖母はきっと満足していたに違いないと詠吉は確信していた。

  詠吉はそこで話を切る。どう続きを話せばいいか判らないのか、或いは、湧き起こる感情を抑えているのか。いずれにせよ勇は、詠吉が何を言わんとしているか、この話の終着点がどういうものであるか、大体のところを理解した。そして、詠吉の笑顔と素顔の正体も。

  「どんなばあちゃんだった?」

  勇は詠吉の背を促して拝殿から離れながら尋ねた。

  「優しくて、厳しくて、いつもぼくを心配してくれてた。いろんなところに連れてってくれたし、やっちゃいけないことを教えてくれた。ぼくに強さをくれた」

  人気のない鎮守の森の陰を歩きながら、詠吉は祖母との思い出を語っていった。

  「人と比べずに、ぼくそのものを見てくれた。人より低い点数のテストでも、前より良かったらほめてくれた。宿題さぼってるところなんかはこっぴどく怒られたけど……」

  「書道とかしてた?」

  「ううん、書道はしてなかったけど、詩歌――俳句とか短歌つくるのが好きだったよ。これはおじいちゃんやお父さんも同じなんだけど」

  「ご飯作ってくれたりとかは?」

  「今は叔母さんが作りに来てくれることが多いけど、昔はおばあちゃんがご飯作ってくれてて、すごくおいしかったのを覚えてる。魚もさばくし盛り付けもすごいし、肉じゃがとかカレーなんかもすごくおいしかった。その中でも……」

  次第に声のトーンも低くなり、低い背がさらに低くなる。

  「焼き飯……とはちょっと違うんだけど、[[rb:煮飯 > にめし]]って呼んでたご飯が……一番好きで……」

  言葉が完全に途切れる。もはや表情を窺うことができないほど俯いている。

  そして勇は、

  「――苦しくても、悲しくても、絶対に負けちゃいけない」

  聞いたばかりの詠吉の祖母の言葉を言ってみせた。ぐっと強張る詠吉の背を撫で、肩に手を回す。苦しくて泣いても、負けたと思わなければ負けじゃない。悲しくて泣いても、負けたと思わなければ負けじゃない。これが詠吉のスタイルだ。――それはまるで、殴られた痛みで流れた涙の言い訳に生理反応を用いてきた勇の姿と似ていた。

  負けたと思わなければ負けじゃない。その姿勢は立派なものだ。如何なる事象においても、そう思う姿勢は正しいといっていいのかもしれない。でも……。

  「……でもさ、有楽」

  勇は詠吉の耳にはっきりと考えを伝える。

  「ばあちゃんが死んだことくらいは心の底から悲しんでもいいんじゃないか?」

  詠吉は祖母の死から逃げていた。決して死を認めたくなかったからではない。死の直前に綺麗な別れをしたことは、大好きだった祖母との離別から詠吉の精神を守り、無事に乗り越えさせる大事な儀式だったに違いない。しかしそれは同時に、死を悲しむことを拒絶させる呪いにもなっていた。

  詠吉の会得した心の強さは本物である。とはいえ最強ではないし、全能でもない。純真でありながら強かな心を持つ詠吉の強さの裏には、悲しむことを許されない自傷の刃があった。

  泣くことと、泣かないこと、そのどちらにも優劣はつけられまい。そして故人を悼むことの善悪を論じることも。ただ、本当の意味で泣いた経験がないことは、おそらく良いこととは言えないのではないだろうか。

  勇にしがみつき、声を殺して泣いている詠吉の背を撫でながら、そのちっぽけな体から毒素が抜けていくのを感じていた。

  背を撫で、頭を撫でながら、あぁ、と勇はあることに思い至った。自分だってそうなんだということに。心の底から笑ったこともなければ、心の底から泣いたこともないことに。

  ふふ、と息が漏れた。おかしくなって、というのももちろんあるが、それだけではない。

  見上げた詠吉が怪訝な顔をする。

  「……なんでイサムも泣いてんのさ?」

  「たまには……そういうこともあるだろ」

  勇は今まさに、後天的に付与された行動原理が猛烈な勢いで溶かされていくのを感じていた。それは、馬鹿みたいに笑うことは子供っぽく、馬鹿みたいに泣くことも子供っぽいというものだ。別にそれ自体を間違いだと断ずることはできないが、転じて言ってみれば、心の底から泣いたことがなければ、或いは心の底から笑ったことがなければ、その子供は正当な手順で子供時代を終えられないということだ。詠吉は本能的に、勇は論理的に、そういった答えに辿り着いたのだ。

  子供は笑う生き物だ。同時に、泣く生き物でもある。笑うことも、泣くことも、決して悪いことではない。笑いながら、泣きながら、二人は人生における不可視の節目を迎えた。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  「他にもおばあちゃんはね、自分の思う通りに生きなさいって言ったよ」

  聳え立つクスノキを見上げながら詠吉は呟く。

  「自分の信念を貫き通せ、自分の信じる道をひた走れ」

  御神木ほどではないにしろ、幹を一周するには手を広げた詠吉が三人くらい必要だろう。

  「だからぼくはやりたいと思ったことは迷わずやる。それが人の迷惑につながることでなければね」

  で、それがボランティアだったり町内会だったり「人の役に立つこと」なのは詠吉らしいといえばらしいのだが。

  「無理して頑張るのは生き急ぐって言うんだ」

  勇は詠吉の後頭部に手を載せながら言う。

  「息抜きしないと潰れちまうぞ。ただでさえ小さいんだから」

  「あっ、チビって言った!」

  「人はちっぽけな存在ってことを言ってんだよ」

  いつものようにクシャクシャと乱暴に頭を撫で、手を下ろす。

  「本当にー?」

  「そうだよ。一人であがいたところで、所詮手の届く範囲は限られてるんだ。でも……」

  でも二人なら、と言いそうになり、勇は慌てて口をつぐんだ。無意識に言おうとした、つまりそれが剥き出しの本心であるということを、勇はもはや否定しない。否定はしないが、勇の理性はやはりそれを押し止め、鎮静する。

  「でも……二人なら」

  勇はドキリとした。それは詠吉の口から発せられたものだった。詠吉はじっと勇の目を見据えていた。そのまま心の中まで射抜いてしまいそうな真剣な眼差しで。

  努めて表情を落ち着け、勇は詠吉の視線から逃げるように閉眼しながら頷く。

  「一人より二人、二人より三人、三人よりたくさん。お前には人の繋がりがたくさんある。これまでお前が助けてきた人々が、きっといつかお前の助けになる」

  「そうかもしれない。でも……」

  今度は詠吉が「でも」で止めた。その続きはすぐに読み取れるものではなく、また、理解してはならないものだと漠然と感じた勇は、

  「帰ろう」

  目を逸らしながら詠吉の背を促した。

  ――掴む手があった。勇の手を引き、魂を引き留め、意志を伝えようとする手が。

  一瞬だが、勇は時間が止まったような錯覚に囚われた。この鎮守の森ごと自分たちが時間の流れから切り離されたような、自分と詠吉が周りの自然すべてと一体になったような錯覚に。

  鋭敏に研ぎ澄まされた感覚が、手に掛かる力の強まりを感じ取る。

  「ぼくは勇を頼りにしてる」握る手を、ギュッと。「――これからもずっと」

  「……身に余る光栄だよ」逡巡ののち、勇はすっと手をほどく。

  言うべきではないのか、と心の奥底から訴える何かがある。ここで言わねば後悔する、ここで言わねば男に非ず。心音の波に乗り、本音が勇を急き立てる。情動に波立つ水面が勇の心を掻き乱す。一歩、二歩、三歩、詠吉と距離が離れていく。四歩、五歩、クスノキの葉擦れが不安を掻き立て歩みが重くなる。六歩、七歩、ついに勇は立ち止まった。このまま歩けば詠吉との繋がりが断たれてしまう。そんなありえないことを直観する。このまま歩けば、きっと不可逆の損傷が二人の間に起きてしまうと。

  さりとて言ってどうなるか。待つものは波乱。良くないタイプの、到底乗り越えられるはずのない災厄だ。衝動で動けたほうがまだ幸せだったかもしれないと、勇は自分の性分を恨んだ。恨みながらも、自制を利かせてくれることには感謝する。

  「おや、五反田くん」

  進んでも後悔、戻っても後悔の膠着状態を打破する声があった。目をやってみれば、狩衣姿の老猫人、この神社の宮司が歩いてきていた。はじめは角度的に勇の姿しか見えておらず、背後に突っ立つ詠吉を認めると、僅かに首を傾げる。

  詠吉の顔には涙の形跡もあるし、――勇にもあるのだが、二人の人間性を鑑みると、どう考えても勇が詠吉を泣かせたように見えるだろう。さてどうしたものかと、勇は頭を下げて挨拶しながら考える。

  「イサムにおばあちゃんのことを聞いてもらってたんだ」

  だが歩いてきた詠吉の一言で宮司は納得した。確かに、崇敬な氏子であった詠吉の祖母の事情を宮司が知っていてもおかしくない。

  とても賢く、道理を弁えた素晴らしい人だったと宮司は言った。先見の明に長け、当意即妙にも優れ、常に他者への気遣いに溢れていたと。

  ねえ詠吉くん、と宮司は詠吉にニッコリと微笑みかける。

  「どーせぼくは落ち着きのない不器用なおっちょこちょいですよーだ」

  膨れっ面の詠吉に笑う宮司。日常的に行われていることを窺わせるやり取りだ。

  「でも、きみにはおばあちゃんの思いやりがしっかりと受け継がれている。将来有望だよ」

  宮司の笑顔は詠吉のように邪念のない、本当に他人のことを思うことができるタイプのものに勇には思えた。皮肉めいた冗談は言いつつも、詠吉の未来に幸があることを本気で願っている。亡き祖母のような立派な大人になってほしいと、心から期待しているのだ。

  「そして、代々受け継がれてきた希少な有楽の姓をきちんと受け継いでいく」

  詠吉と勇は同時に顔を上げた。視線が集まり首をひねる宮司に、勇はさりげない風を装って尋ねる。

  「……珍しい名字なんですか?」

  「そうだね」と宮司は頷く。「ユウラクはともかく、ウラクと読ませるのはもうこの子の家しかないと聞いているよ」

  探せばありそうなのに、と勇が顎に手をやって考えていると、宮司はペラペラと説明を続ける。

  有楽と書いてウラクと読む姓は、遥か大昔、獣人類に戸籍が与えられた際に生まれた新たな姓なのだという。当時、獣人たちの多くは養子縁組関係にあった身元引受人の姓を受け継ぐ形を取ったが、一部は人間の庇護を離れて自立した。既存の姓を踏襲しない完全新規のものが多く生まれたが、情勢が情勢だったこともあり、その多くは時代を下るごとに少しずつ減っていった。有楽はその貴重な生き残りのうちのひとつだと。

  「……」

  「……」

  「どうしたのかな?」真剣に考え込む二人に宮司が声をかける。

  「あ、ああいや」勇は表情を取り繕う。「何でもないような名字にもいろいろと歴史があるんですね」

  咄嗟に当たり障りのない返答ができるのは勇の強みかもしれない。

  「そうだね、歴史は大事だ。先人の生きてきた軌跡を引き継ぎ、後世に伝えていく……たいへん重要なことだよ。もちろん抗えない時の流れというものもあるけれど、ね」

  祈祷に向かう宮司に別れを告げ、勇と詠吉はどことなく気まずい雰囲気の中、無言で参道を歩き、鳥居をくぐって外に出る。

  二人の家の方角は正反対。遠回りすればまだ一緒に歩くことはできるが、基本的にはここでお別れだ。

  じゃ、また。このくらいのテンションがちょうどいいかなと勇が思考を巡らせていると、

  「それじゃイサム、また明日っ!」

  勇に先駆け、詠吉がいつもの笑顔、いつものテンションで別れの挨拶をした。勇の目が無意識に細まる。この時ばかりは笑顔に無理が掛かっていることが容易に窺えた。

  勇は詠吉の頭に手を載せ、

  「たまには眉間にシワ寄せて考えろ」親指で眉間をグリグリする。「明日は土曜日だぞ」

  「あれ、そっかぁ」

  詠吉はおどけたように笑い、勇の手を両手で引き剥がす。本当に大人と子供のように大きさの違う手で、まるでコンビニのビッグサイズのフライドチキン食べる幼子みたいに両手で掴んでいる。でも詠吉は至極真面目な顔、大人びた笑顔で、勇の手を名残惜しむように握り続けていた。手を通して勇に何かを伝えるかのように、――いや、勇の手から何かを感じ取ろうとしているように。

  「うん」何かを確かめるように頷いた詠吉は、「じゃ、またね!」何がそんなに楽しいのか判らないほど体を弾ませながら走り去った。

  手だけ振り返した勇は、詠吉の姿が見えなくなるまで小さな背中を見守った。そうして踵を返し、自らも帰路につきながら、表情がどんどんと渋く歪んでいくのを感じていた。俯き、目を細め、眉間にシワを寄せ、そして歯を食いしばる。勇は自分にそんな悔しさが存在していたことを意外に思った。そんなに隠れて悔しがってたんなら、知ってしまう前に行動を起こしておけばよかったんだ。

  もはや何もできない。何もしてはならない。衝動を押さえつける理性ごと、丸め込んで沈黙させる現実を知ってしまったから。

  ――有楽という姓をこの世から絶やしてはならない。

  [newpage]

  [chapter:4.]

  

  人はちっぽけな存在だ。まさか詠吉を諭した言葉がそのまま跳ね返ってくるなんて、……少なくとも、こんなに早く跳ね返ってくるなんて、勇は思ってもみなかった。

  いや、ちっぽけというのは相対的な話かもしれないと自分の手を見ながら考えた。人は強い。ただ現実のほうが大きすぎるだけなのだ。

  大きな現実はしばしば困難を生み出し、人はそれに立ち向かうため徒党を組む。一人より二人。

  しかし勇は気づいてしまった。その大きすぎる現実こそ人の手によって作り上げられたのだと。人と人との繋がりも、社会のシステムも、固定観念も常識も。

  極端な話、もしも無人の地で詠吉と二人で暮らすとしよう。そこに二人を束縛し得るものが存在するだろうか。世間の目もなく種族比率の概念もなく、属すべきコミュニティもなければ準ずるためのルールもない。名字の価値も、性別の問題さえも。二人を邪魔する[[rb:柵 > しがらみ]]は何ひとつとして存在しないのだ。

  勇の心は既に折れていた。力なくベッドに倒れ、天井を力なく見上げながら、自分の小ささをこれでもかと思い知っていた。絶対的には人は強い。だがそれは強くなる余地があるだけで、強くあろうとしなかった者が強くなろうはずもない。この六畳の狭い空間に閉じこもって完結していた小さな勇にとって、数多の人々が協力して作り上げた世界はあまりに大きい。

  ――衝動のままに生きられる人間になりたかった。敗北した勇はもはや涙を堪えようとしなかった。天井の白が滲んでいくのを力なく見つめ、五反田勇という一人の人間の早すぎる限界を、ひしひしと悟っていた。もう何もできない。何もしてはならない。有楽という姓を、この世から絶やしてはならない。

  けれど波立つ水面は治まらない。心の奥底で、火種は未だ生きていた。どれだけ心を落ち着かせようとしても、それは変わらずそこに在った。抑えつけようと爪を立てるその下に。胸の奥に、心の奥に、無言で叫ぶ激情が。

  有無を言わさず水面を揺らす詠吉という存在は、勇にとってそれほどまでに大きいものだ。詠吉がいなくとも勇は勇として生きてはいけよう。けれど詠吉がいれば、勇はもっと勇になれる。

  勇は目を閉じ、開く。涙が目尻に押しやられ、視界がクリアになる。

  ――まだ負けていない。負けたと思わなければ、負けじゃない。

  詠吉のために在りたい。そして、自分のために在ってほしい。だけど。

  理性か衝動か。どちらに向かって踏ん切りをつけるか、選ぶ判断力はまだある。ただ、決断力だけが足りていない。

  部屋の戸がノックされたのはその時だ。勇は涙を拭って返事をし、開いていく戸を目で追った。

  入ってきたのは白優勢キジトラ模様の猫人、勇の父親だった。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  さて、一方の詠吉に移ってみよう。時間的には夕飯も終わり、寝巻き姿から入浴を終えたことも窺える。普段であれば嫌々ながら学習机に向かい宿題を片付けている頃だろうか。

  ところが今日はどうだろう。全開にした窓から遠くを見つめ、何事かを考えている風である。その目は網戸の向こうの何かを見つめているようで、もしかすると想像の情景を投影しているのかもしれない。

  表情は柔らかく大人びている。懐かしむように笑い、誰かを悼んでいる風に哀しそうにもする。そうかと思えば胸を押さえ、穏やかに目を伏せたりもする。外面からのみ判断するならば、達観という感情ただひとつだけが辛うじて読み取れそうだ。

  息をひとつ吐いた詠吉は窓を閉める。

  布団の上にしゃがみ、胡坐になり、広げた両手を見る。はてさて、自分の手の小ささ、もしくは存在の小ささでも感じているのだろうか。いや、それにしては至極表情が穏やかだ。どことなく嬉しそうに自分の手を見つめ、徐にその手を胸に押し当てる。そして表情は聖母のように安らいでゆく。

  うん、と詠吉は何かを確信したように頷く。座ったばかりなのにまた立ち上がり、部屋を出、父と祖父の晩酌の場に向かっていった。

  ここでは追いかけるのはやめにしよう。勇の覚悟の行く末が定まっていない以上、最後に見せた詠吉の覚悟の表情の行く末を先に覗き見ることは非礼に値する。

  [newpage]

  [chapter:5.]

  

  休日も平日と同じ時間に起きる習慣の勇は、いつもと同じ時間に目を覚ました。あれだけ心を乱されたにも拘らずあまり眠りを阻害されなかったのは、眠りに至る直前までには心が落ち着いていた証拠だろう。即ち、考えが纏まったということだ。

  いつもと同じように粛々と朝食を摂り、歯を磨く。

  心地の良い音と振動を脳で感じ、鏡に映る自分の姿を見ていると、無心の隙間に昨晩の記憶が音もなく潜り込んでくるのを勇は感じた。晩飯もそこそこに退散した勇の部屋に侵入する、父親の記憶だ。

  この世界は謎で構成されている――入るなり父はそう言った。頭大丈夫かと勇は父が心配になった。

  全てを疑え。法則を疑え、常識を疑え。知識欲を燃やせ。探求心の減衰は即ち成長の衰退の始まりだ。解くべき謎を謎のままにしておくな。

  まあ、中にはつまらない謎もあるだろう。これが厄介なところで、解かなくても困らないが解くのが面白いタイプの謎を解くために、そのつまらない謎の解が山ほど必要になる。心を掴んで離さない謎と遭遇した時、知識が及ばず解が導けないのは甚だ悔しいものだ。知識はあって損はない。

  どんな謎が固有振動数に合致するか、また人生のどの段階で出くわすかは人それぞれだ。その時のため、手札を増やせ、扱える武器を増やせ。休息するのは大いに構わない。だが不貞腐れているだけであればそれは停滞に他ならない。立ち止まっている暇があったら己を磨け。

  勇は心の中で溜息を吐いた。つまるところ、なんだかんだサボってないで勉強しろってことを言いたいわけだな、と辟易した。

  立ち止まるのはどういう時か――と人差し指を立てた父は続けた。経験則から言うが、知識だけでは片付かない現実に直面した時だ。そして現実を恐れ、尻込みしてしまうのは、その事象について理解が及ばないからだ。ここで勘違いしてはならないのは、知識だけでは及ばないのではなく、知識が圧倒的に足りていないということだ。

  どうしようもない現実とて謎のひとつに過ぎない。必ず解に導くための方法がある。アプローチを変えてみろ。手を変え品を変え、トライアンドエラーを繰り返し、自分の及び得る領域の一部だけでも掴み取り、公式の展開、値の代入、単位の換算を繰り返すように、一歩一歩道を開いていけ。全ての謎は他の謎と隣接している。

  必要なのは経験だよ、勇クン。父は小説に出てくる探偵の仕草を真似た。先人の残した定理や公式をなぞるだけで彼らを超えられると思うなよ。自らの手で、足で、経験を積み重ねろ。畳の上の水練でもいけないし、井の中の蛙になってもいけない。とにかく行動あるのみだ。――頭でっかちなだけの男で終わるなよ。

  口をすすぎながら改めて思い返す。回りくどくて嫌になるが、あの父親から初めて悪くないことを聞いた気がする。いや、自分が聞こうとしていなかっただけなのだと判っている。自分から父を避けていただけなのだ。

  目ヤニを処理し、服を着替える。出ていこうとする気配で、父に行き先を問われる。人生勉強に行くとだけ勇は答えた。特に引き留める声は無かった。

  勇はこれから、解かなくても困ることはないが解くのが面白い謎を解きに行くのだ。その謎を解くために必要になるのが、さらに解くのが面白い謎の解……。つまり、勇はそういう存在に心を掴まれたのだ。――問答無用で水面を波立たせる固有振動数を持つ謎に。

  とにかく行動あるのみ。必要なのは経験だよ、勇クン。勇はおかしくなって笑った。

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

  普段から寝付きのいい詠吉は、いつもと同じように気持ちよく目を覚ました。肘を支えに起き上がり、んん、と背伸びをしたあと、ルーチンにない行動を取る。昨晩も見せた、両手を眺めるという行為だ。今こそ彼の内面に立ち入ろう。

  詠吉は勇の手の感触を思い返していたのだ。単純なことのように見えようが、その実態は甚だ奥深い。

  同時刻の勇がまさにそうしているように、詠吉も同じく朝食を摂り、茶を飲み、歯を磨く。

  心地の良い音と振動が脳に伝わり、手に伝わる。

  響きの心地よさ。それは物理的な振動のみ指すのではない。そのことを、詠吉は昨晩改めて認識した。詠吉は勇と同じように鏡を見ながら昨晩のことを思い出す。晩酌中の父と祖父と交わした会話の記憶だ。

  将来、もしいい相手が見つからなかった等の理由により結婚できなかったとして、有楽の名字がなくなることについてどう思うか。詠吉はそれを二人に尋ねた。

  残念っちゃ残念だが、それはそれで仕方あるめぇ、と祖父は即答した。いい相手が見つかるかどうか、それは神さんの気分次第だからなぁ。

  見つからなかった場合、それは神様のせいなのかと一瞬疑問に思った詠吉だが、そういうことではないだろうとすぐに思い直した。たぶん、見つからないほうが良かったのだと思うもんだと祖父は言うだろうと。

  結婚するだけが人生ではないと父は言った。結婚しようとするまいと、子を成そうと成すまいと、お前が吉を詠じ続けてくれていればそれでいいと父は言った。

  父の言葉の意味を十全に理解できる文学の才が詠吉に発現しなかったことは父にとって残念なところだろうが、それならと父は詠吉に解るように言い直す。お前がお前なりの幸せを思い続けていれば満足だと。そうしてできることなら、その幸せを周りにも分け与えてくれればと。

  でもきっと大丈夫、と父は詠吉の頭を愛しそうに撫でる。響き合う波はきっと見つかるよ。

  父の発した最後のフレーズは、すっと抵抗なく詠吉の体に吸収されていった。まるでひとつだけ欠けたパズルのピースのように。或いは、頑丈な錠にピタリと合う鍵のように。

  響き合う波。そういうことかと詠吉は自分の手を見た。それに惹かれたのかと。

  秋高しいー……。出来上がった祖父は即興で詩吟を始める。父は困ったように笑う。幸せだな、と詠吉は涙目で笑った。――名字に縛られる必要はない。大事なものは他にある。漠然と、詠吉はそう思った。

  口をすすぎながら改めて考える。心地よい響きを返してくれる存在のことを。

  「気付いてたんだよ、イサム」

  いくら馬鹿でも、不器用でも、おっちょこちょいでも。もちろんだいぶ遅くはなったけれど、勇の悩みも、葛藤も、決意も、そして理性も、全部共鳴して伝わった。おかしなことだと判っていたけれど、勇ならいいと思っていた。〝気付かない自分〟に気付かせてくれる勇になら、頭の足りない自分を導いてくれる勇になら、ぼくはどんな道でもついていけるよと。

  馬鹿なりにおかしなことだと思うくらいなのだから、頭のいい勇はもっとおかしなことだと解っていたに違いない。だから葛藤していたのだろうし、だから理性の介入も必要だったのだろうと。それで、詠吉は衝動に身を任せることを我慢した。

  「でも、もうやめるよ」詠吉は靴紐を結びながら呟く。

  勇を待つことはもうしない。響かせてくれるのを待つだけではいけない。こちらから響かせてやることが必要なのだ。

  近づくだけで共振する。触れればもっと振動する。確かに、世の中には自分にとってのみ心地の良い波というものも存在する。けれど〝響き合う波〟は、相手にとっても心地が良いものでなければならない。独りよがりになってはならない。

  靴を履き終え詠吉は出発する。これから、勇を蝕む葛藤というノイズを取り払いに行く。もしも望んだ結果にならずとも、寄り添いの形はひとつでない。結果がどうあれ、その儀式を経ることで、波はもっとクリアになるはずだ。

  [newpage]

  [chapter:6.]

  

  この日の二人は確かによく響いているのかもしれない。同じように目覚め、同じように朝の支度をし、同じように家を出て、同じ場所に向かうのだから。

  一足先に神社に着いた勇は、朝の神社にどことなく神秘的なものを感じずにはいられなかった。ややあって勇は気が付く。時間帯がいつもと違うからであると。陽光がいつもと違う角度で差し、朝に活発になる鳥の声がそう感じさせるのだと。そういった冷めた考えを、今日の勇は振り払う。長く現実主義者であった勇は、この日初めて自らの意志で参拝した。

  都合のいいことだと判っている。困ったときのみの神頼みが無礼であると。だから勇は叶えてほしいとは願わなかった。成就しなくてもいい、見守ってほしいと。でも、できることなら、どういう結果になったとしても、これからの二人……いや、神様を信じる詠吉だけでも、これからの人生を幸せに生きていくことができるよう応援してほしいと。

  深々と礼をするのを見計らったように、珍しいね、と背後から声がした。見ずとも判る。振り返らないまま、願掛けだよ、と勇は答えた。

  気が合うね、と声がした。ぼくも今日は願掛けに来たんだよ、と。

  詠吉と入れ替わり、勇はその淀みない所作を見守った。

  祖母の忌明け以降、病気の日を除いて毎日参拝を欠かさなかった詠吉だが、祖母の件を別にすれば初めて特定の人物に偏ったお願いをした。内容は……今更語ることでもあるまい。

  最後の一礼を終えた詠吉は、今日はイサムに用があったんだ、と告げた。

  気が合うな、と勇は笑う。俺も今日はお前に用があったんだ、と。

  気が合うね、と笑みがこぼれた。ああ、やっぱり波は響いている。

  二人とも、どちらが先に用件を言うか迷っている。

  クスノキの上でスズメが鳴いている。餌付けもされていないのにハトが降りている。境内に吹き込む風が、詠吉の頬を優しく撫でる。詠吉は心が満ちていくのを感じた。

  一言に集約できることかと勇は尋ねた。詠吉は少し考え、できると答えた。

  それはつまり、同時に言うことができるか確認したということだ。

  にっこりと詠吉は笑った。にっこりと勇は笑った。

  そして、二人はお互いが促し合うように口を開き、…………。

  世界は変わらず在り続ける。歴史は変わらず在り続ける。人も、社会も、取り巻く世間も常識も。それらは時に波乱として二人の前に立ちはだかることもあるだろう。大きすぎる現実は、きっと二人を幾度となく立ち止まらせるに違いない。

  けれど、人はちっぽけだが強かだ。一人でなく二人ならばもっと強い。馬鹿みたいに笑い、馬鹿みたいに泣き、馬鹿みたいに拗ね、馬鹿みたいに謝り、そうして馬鹿みたいに抱き合う二人はこれからもっと強くなる。強くあろうとする者が強くならない道理はどこにもないのだ。

  知識だけではどうしようもない現実に直面することもあるかもしれない。どうしようもない[[rb:柵 > しがらみ]]に波が遮られることもあるかもしれない。それでも、こうやって二人の手が繋がれ続けている間は、勇は確固たる勇として、詠吉は確固たる詠吉として、共に成長を続けていける。いずれ謎を紐解き、乗り越えていくはずだ。

  行く末がどうなるかなど、今から論じたところで詮無き話だ。人生は判らないから楽しい。人生は、解らないからこそ楽しい。

  心地よく響き合っているふたつの波が、その確たる〝解〟なのではなかろうか。

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