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[chapter:一]
初めてこの店に来た時も、確かノイズが走ったように記憶している。見慣れないうどん屋にふらりと立ち寄り、[[rb:暖簾 > のれん]]をくぐり、ガラガラと戸を開け、景気のいい挨拶をした大将にまずおかしなことが起きたのだ。
和帽子に横長のデジタルノイズが発生し、調理白衣がじりじりとチラつき、店内の客たちがざわざわと葉擦れのような音を立てた。
それは予兆のようであり、同時に脳のどこかの部分から懐かしさを呼び起こすものでもあった。
客たちが向ける怪訝な目については気にならなかった。子供の頃の俺はクラスでも浮いた存在だったし、今でも会社で似たような状況にあるから、そういう目に慣れていたからかもしれない。
あからさまにおかしいそのノイズについて思いを巡らせることは、なぜだか今日までしてこなかった。思い出したくなかったからか、或いはそういう力でも働いていたのか、とにかく俺はそれについて不思議に思わず受け入れていたのだ。以来ノイズは発生しなかったし、客たちの視線も和らいだせいかもしれない。
「今日の貴方を取り巻く気の流れは良くないように思います。運転はいつも以上にお気を付けを」
しかし今日、大将にそんなことを言われた瞬間から、俺の人生は激変した。もともと感覚的なことを[[rb:宣 > のたま]]う人物だったから、気の流れがどうとかいうことに対して違和感があったわけではない。ただ、大将の鷹のように鋭い目が強く言っていたのだ。いよいよ転機だと。波乱の幕開けだと。それを示すように、ノイズたちが再び俺の前に現れた。
辛うじて保っていた日常が綻びていくような現象について、やはり今回も大きく驚くことはなかった。どこか当然のことのように、それは現実として受け入れられた。
会計の後、店のあちこちでノイズが見えた。客が一瞬違う姿に見えた。それについても、――やはり俺の本音は気付かないふりをしたがっていたような気がするが、当たり前の現実であるかのように心の奥に浸透した。そのノイズたちと同じものを、俺は過去に見ていたはずだからだ。
目の調子がおかしいだとか、そんな苦し紛れの言い訳も出てこないほど、俺の脳に封印されている記憶が懐かしく震えていた。
見えざるものが見えていたという有り得ない記憶は、しかしおそらく本物なのだと今では思う。見えていたのは「何」かとか、「それ」と「何」をしていたかとか、そういった細かな情報は見つからない。まるでスコップでそこだけ抉り取ってしまったように、大事な部分だけが欠落していた。
そんなものは気のせいで、実際には何もなかったのかもしれない。それなのに、殆どが曖昧で色を持たない過去の記憶の中で、見えていたというただひとつの事実だけが異質なほどくっきりと脳に刻まれていた。
何が本当の自分なのか解らない。二十六年の歳月を、そんな違和感とともに過ごしてきた。
手打ちうどん【[[rb:仙狸庵 > せんりあん]]】を出るとノイズは落ち着いたが、車を走らせて少しすると、道の端っこに嫌な予感が吹き溜まりになっていた。俺はそこを避けて通った。
〝見えていた〟という表現は、即ち、今では見えなくなっていたということだ。
それはどうしてか。解るはずもない。俺は思考というものが苦手だった。今起きていることについて、そしてこれから起きるかもしれないことについて、いったいどう向き合えばいいのか、考えるのがとにかく億劫だった。
「受け入れればよいのですよ。ただ、ありのままに」
まるでそこにいるかのように、以前言われた大将の言葉が蘇る。
俗世を離れた胡散臭さの塊のような大将だけれども、なぜだか俺には途轍もない大人物に思えた。俺の零す愚痴を否定も肯定もせず、あまりにマクロな視点からものを言う。それがむしろ心地よかった。まるで悩みどころか俺という存在そのものがちっぽけだと思い知らせてくれるかのようで。
もちろん肯定も否定もされないものだから、俺の悩みに答えが出た試しは無い。再び見えるようになり始めたノイズたちをありのまま受け入れるには、少しばかり覚悟が要りそうだ。
ぽつりぽつりと雨が降り始めた。フロントガラス越しの世界がぽつりぽつりと水滴に浸食されていく。気乗りはしないがワイパーを作動させる。
甲殻類のようなアームにより、薄く堆積した砂埃もろともに、水滴たちはまとめて拭き流されていった。往路はまあいいとして、しかし復路は最悪だ。ギガガガ、とビビリ音を立てて定位置に戻り、後には酷い拭きムラが残る。視界が明瞭になるのは往路のみだった。
可哀想なプリウスは社用車のくせに整備が行き届いていない。申請はもちろんしているのだが、上の連中はこんなちっぽけな経費すら渋ってくる。自腹で直してやるほど車への愛も会社への忠誠心も無い俺は、次の車検まではこれと付き合うことを受け入れるしかなかった。ありのままに。
おそらく整備不良は言い訳にはなるまい。峠に差し掛かり、そして下る直前に、俺は道を間違えた。道なりに進めばそのまま下りだが、斜め左に進むとゴルフ場への細い道がある。そちらに進んでしまったのだ。外側線はきちんと引かれているから普通なら間違えることはない。
……「普通の人間」であるならば。
俺は今日もまた自分の不完全さを思い知ることになった。まったくいやになる。大将の言う「気の流れ」とやらが悪いのかもしれない。もっとも、そんなものに責任を押しつけるほど腐っちゃいないつもりだ。
だから、「道が広くなってから切り返そう」と甘い考えをした自分を、俺は責めなければならない。
「――――!」
道を間違えた瞬間にバックをするべきだったのだ。突如として現れたノイズの壁に、俺の運転するプリウスは激突した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ブレーキを踏む暇も無かった。複数の何かにぶつかる衝撃とともにノイズが弾け飛んで消えた。頭が揺さぶられ、景色が上下に揺れた。赤い番傘みたいなものが舞い飛ぶのが見えた。車は止まっていた。エンジンは掛かったままだった。右足は遅すぎるブレーキを踏んでいた。
悲鳴が聞こえた。切羽詰まった、複数の、悲痛極まりない金切り声だった。
何が起きたのか判らなかった。何人もの和服姿が横たわっていた。この時になってようやく肩に食い込んだシートベルトの痛みを感じた。
頭がふわふわしていた。自分が何をしているのか判らなかった。エンジンを切り、ドアを開け、シートベルトに引っ張られ、シートベルトを外し、そして俺は、悲鳴と怒号の中に、ふらふらと近づいていった。何かに導かれるように。
信じられない光景だった。心臓が早鐘を打っていた。ピクリとも動かない者、手だけ辛うじて動かしている者、尻もちをついて慄いている者、駆け寄って介抱しようとしている者。それらの光景に驚いたのではない。いや、それにも驚いていたのだろうが、それとは別に驚く原因があった。そこにいたのは皆、顔が人間ではなかったのだ。
それは狐だった。頭の中からノイズが取り払われた今、それらの姿形がはっきりと見えた。俺が[[rb:轢 > ひ]]いたのは、袴や着物を着た、狐たちだったのだ。
目の奥で意識が遠ざかるような感覚がした。右足が力を失った。手を突いて倒れた。痛みは無かった。辛うじて顔をもたげた目線の先で、複数人の狐が白無垢の狐に嘆きの声を掛けていた。その脇で、紋付袴を着た小さな狐が尻もちをついて俺を見ていた。尻もちをついていた、つまりそいつは人の形をしていた。そいつだけでなく、狐たちはみな二足歩行をしていた。
紋付袴の狐は目を見開き、ぽかんと口を開け、俺を見ていた。それがよろよろと立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。俺の目をずっと見つめたまま、ふらふらと、吸い寄せられるように。その後ろで、なりませぬ、というような日本語が聞こえた。それでもそいつは歩みを止めなかった。脱力している俺は身動きが取れなかった。次第に視界がぼやけてきた。脳の奥の秘められた部分が、強く強く共鳴していた。呻きが出た。涙が出た。吐き気がした。けれど、そいつが俺まで迫り、しゃがみ、俺の顔を覗き込んだ途端に、それらはすぅっと奥に引っ込んでいった。
「見つけた……」
幼い子供の声だった。人間の子と殆ど変わらない声質の、あどけない声だった。
「……やっと見つけた」
狐の子が、なぜか泣きそうに顔を歪めながらそう言った。
と、その後ろからパタパタと足音が聞こえてきた。
「オトキチ殿、なりませぬ!」
「そやつから離れてくだされ!」
「おのれ人間!」
金色混じりの神職風の服を着た三人の狐が血相を変えて駆け寄ってきた。狐の子へは心配を、そして俺へは敵意を向けて。そのうちの一人が脱げかかった長い帽子を振り乱しながら何かをぶつぶつ唱え、二本の指先を俺に向ける。それが敵意でなく殺意だと気付いたのは狐の指先から黒いビームが飛んできた時だ。まだ脱力している俺は、顔面に迫りくるそれを疑問に思うだけで何の反応も示すことができなかった。
しかし狐の子がくるりと振り返り、手を横に払うと黒い光はいとも簡単に掻き消えた。それを見た三人の狐は慌てて立ち止まり、呆気に取られた顔をしていた。
「血迷いましたかオトキチ様!?」
ぼんやりとしていた頭が少しずつはっきりしてくる。狐の子から温かい気が流れ込んでくる。或いはそれは狐の子から発せられる温かい気に包まれているかのようだった。俺の頭に巣食っている常温で固体の血栓が溶けていった。少しふらつきながらも俺は立ち上がることができた。明瞭に像を結んだ阿鼻叫喚の光景を見て、血の気が引いた。
狐の子は考え込む仕草を見せた。しかしそれは束の間のことで、小狐は俺の手を取り、ギュッと握った。人間と同じで五本指の手だった。再び動き出そうとする狐たちに手を向けて小狐は、動くな、と一喝した。
「この人を傷つけることはこのおれが許さねえ!」
そうして小狐は俺の腕にしがみつき、訳の分からない展開にトドメを刺す。
「おれはこの人と結婚する」
その発言のみならず、この場で起きた全てのことはもちろん理解ができない。が、ひとつだけ確かなことがある。どうやら俺は常識では計り知れない異様な事態に巻き込まれたということだ。
まさしく転機で、波乱の幕開けだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大混乱する俺の頭で理解できたのは、無数の火の玉の応酬が繰り広げられたということだけだった。本気で俺を殺しに掛かる狐たちから俺を守るように小狐は戦った。その小狐は今、助手席に乗っている。
車に乗り込んだ俺を、狐たちは追ってこなかった。追ってこようとはしたものの、他の狐に呼び止められ、怪我人の救助に向かったのだ。
俺は惨劇から目を背け、狭い道を無理やり切り返そうとバックをした。車の下から血だらけの狐が出てきた。俺は吐き気と涙を堪えながら元来た道を戻っていった。雨はやんでいた。よく見るとこの道はゴルフ場への道などではなかった。
こんな時、普通の人間であれば取るべき行動がすぐに判るのだろうか。ボンネットとバンパーがへこんだ社用車でどこへ向かえばいいのか、隣で袴を脱ぎ始めた小狐にどう声を掛けるべきか、すぐに判るのだろうか。或いは常人であればあの惨劇に何かしら適した行動を取れていたのだろうか。
小狐は何も持っていなかったはずなのに気が付けば別の服に着替えていた。藤色でダボダボの……また和服だ。下の袴を腰の部分で括っていて、上の裾をその中に入れていた。袴は膝までしかなく、白い[[rb:脚絆 > きゃはん]]のようなものが巻かれていた。足に履いているのは[[rb:草鞋 > わらじ]]のようだった。
この服は何という呼び名だろうと思っていると、紋付袴を畳んでいた小狐と不意に目が合った。稲穂色の体毛よりも明るい、琥珀色の目をしていた。明るいからか瞳孔は縦長で、しかしなぜだかそこに獣の性質は感じられなかった。知性のありそうな顔立ちだからだろうか。思わず吸い込まれそうな気分になり、慌てて前を向いた。車はセンターラインをはみ出しかけていた。
「黙っててごめん。なんて言えばいいか考えてた」
小狐も前を向いてそう言った。声はやはり見た目相応に幼かった。濁りが一切なく、――例えが適しているか不明だが、女性声優が充てた少年の声のようだった。先の台詞が続かないあたり、まだ考えはまとまっていないらしい。
「さっきのことは何もかも俺の理解の範囲を超えている。説明してくれ。全部に」
「……うん」
畳み終わった袴を脇に置き、しかし小狐は話を始めなかった。沈痛な面持ちで俯いたまま固く口を閉ざしている。体付きが人間だからなのかどうなのか判らないが、人間のように表情が豊かに思えた。
言いたくない理由があるのだろうか。それとも単に説明という行為が苦手なのだろうか。目付きからは利発そうな印象を受けるのだが、いずれにせよこのままでは[[rb:埒 > らち]]が明かない。
「まずお前たちは何者なんだ」
そこでこちらから少しずつ尋ねていくことにした。小狐は少し目を泳がせながらポツリと呟く。
「そっか、やっぱり知らないんだな……」
俺はその回答に少し不快感を覚えた。そんなことを知るはずがないだろうと。狐とは四つ足の動物だ。服など着ないしましてや日本語など喋らない。それが人間の常識だ。人知を超えた存在を知らなかったからと言って、そんな風に落胆される道理はない。
「おれたちはレイコの一族。代々この山に棲んでいる」
「レイコ」俺は少し考える。「霊的な狐という意味か?」
「そう。伝え聞くところによると、遠い昔は神仏の眷属をしていたとかいう話だ」
「眷属というと稲荷神社の神使のようなものか」
「そんな感じだ。稲荷神社とはまた別の系統だけど」
「この辺は毎日のように通るが、あんな道があったことを俺は知らない。あの道は何で、あそこで何が起きたんだ」
「おれたちの里への道。人間には見えない……気付かないようになってたはずなんだけど」
「そうかもしれない。だけど今日は通れた」
「そうだね。起きた事実は変わらないし、変えることもできない。――ごめんね、あんちゃん」
小狐は脈絡もなくいきなり謝ってきた。
「ごめんとは」
「人間の暮らしがどんなものか詳しくは知らないけど、あんちゃんはもう普通の暮らしには戻れない」
俺は答えなかった。驚きもしなかった。頭はまだ混乱しているが、どこかそれは予測していた部分があったからだ。
小狐は心底哀しそうに続けた。
「ああなった以上、もう逃げられない」
「どの口がそれを言う。あれだけ啖呵切っておいて」
逃げ去る際、この小狐は慌てふためく狐たちに対して「もし追ってきやがったら誰だろうと皆殺しにしてやる」と火に油を注ぐ捨て台詞を残した。その台詞にちゃんとした抑止力があるかどうか、こいつらの関係を知らない俺には判らない。だが返ってきたセリフを考えればその効果にあまり期待が持てそうにないことは明らかだった。
――このままでは済まさぬぞ。
鼻面にシワを寄せながらのそれが俺と小狐どちらに向けられたものかは不明だが、ともかく巻き込まれたくない俺は一人で車に乗り込んだ。……はずなのだが、気が付いたらこいつは車にいた。いや、最初は後部座席にいたから俺の気付かないうちに乗ったのだろうが。
「大丈夫、あんちゃんのことはおれが守る。安心して」
俺はあえて返事をしなかった。
「オトキチってのがお前の名前か」
「うん。音色の〝音〟に、吉日の〝吉〟と書く」
「あいつらはお前の仲間じゃないのか。音吉様とか呼んでおきながらお前にも攻撃してきたじゃないか」
「色々と抗いがたい事情があってね。ほんとは鼻つまみ者なんだよ、おれは」
「その抗いがたい事情にお前は抗ったわけだ」
「まあね。――さっきあんちゃんが突っ込んできたのはね、おれの結婚式だったんだよ」
タイヤがまたセンターラインを踏んだ。
「……ずいぶんと若く見えるが」
この音吉と名乗った小狐は周囲の狐よりも若く、いや、それどころか幼く見えた。それなのに結婚とは些か驚きを隠せない。しかし日本人も昔は十五歳で結婚とかよくある話だったようだし、それに霊狐とやらの常識は俺には解らない。
「自分でもそう思うよ。いくらなんでも早すぎるし、それに相手は熟女だし。だけど里のためには我慢しなきゃならなかった」
「政略結婚のようなものか?」
視界の端で小狐が目を丸くするのが見えた気がした。
「察しがいいんだね。正確にはふたつの里の合併のために里一番の使い手同士が結婚するってことになったわけ」
「里一番」
「そう。誰もおれには敵わない。だから安心してほしい」
「里一番なのに鼻つまみ者で、それなのに里の大事な結婚を任される」
「厄介払いも兼ねてるんだよ。結婚したからといっておれが新しい里の権力者になるわけでもなし。相手の里のやつらはおれを知らないからね。それでみんなヨイショして押し付けようとしてたってわけだ。だけど、――まぁあんなことになったからね、自里の面目も掛かってるし攻撃せざるを得なかったんだ」
「なぜお前はわざわざ仲間を裏切るような真似をしたんだ? 里のために我慢しようと思うって気持ちがあるんだ、憎いわけでもないだろうに」
「それだけの理由ができたからさ」
ヘアピンカーブを慎重に曲がり終えてから訊く。
「それは?」
「あんちゃんに会えたから」
それでそこに行き着くわけか。段々と察しがついてきた。小狐の最初の台詞、やっと見つけた、という台詞から推測するに、小狐は過去に俺と会ったことがあり、なおかつ親密な関係にあったのだ。――おそらく俺の思い出せない記憶の中に。
峠道が終わり、いよいよ自宅か会社かどちらかを選ばなければならなくなる。
「気を悪くしないでもらいたいんだが、ひとつ言っておかなければならないことがある」
「うん」
「俺には生まれてこのかたお前と会った記憶がない」
「おれもないよ」
「は?」
右折レーンに入り忘れた。仕方なく直進する。いや待て信号が赤だ!
急ブレーキを掛けた。ABSが作動しつつ停止線を大きく越えて止まったが横断歩道までは行っていない。馬鹿になったシートベルトがまた俺の肩に食い込んだ。
「あんちゃんと会うのはこれが初めてだよ」
じゃあ何なんだよ。俺は冷えた肝を温め直しながら心の中で呟いた。
「でも分かるんだ」
お前に俺の何が解る。
「あんちゃんがおれの運命の相手だって」
おい待て。
「だって魂が震えたんだよ」
待てって。
「あんちゃん」
やめろ。
「おれと結婚しよう」
「悪いが降りてくれないか」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
付き合ってられるか。とんでもない畜生だ。お前は雄狐だろう。そして「あんちゃん」と呼ぶからには俺が男だと知っての発言だろう。何が結婚しようだ。何が運命だ。何が魂が震えただ。こっちが寒気で震えるわ。ふざけやがってこのサイコパス。見た目は利発そうだとか思った俺が馬鹿だった。
「ねえ、あんちゃんは何て名だ?」
もういい。俺は人間の生活に戻る。狐は狐の世界で勝手にやってくれ。
「おれはきちんと名乗ったんだからさ」
「狐の天敵とか苦手な物はどんなものがある?」
「……もしかしておれを追い出そうとしてない?」
「パッと思いつくのは犬か。でも犬はコストが掛かるし世話がな」
「悲しいこと言わないでよ」
「お前には悪いが俺は狐が嫌いなんだ。それに備えも必要だ」
「言っとくけど普通の犬を怖がる霊狐はいないよ。ヤコと一緒にしちゃいけない」
ヤコって何だ専門用語を使うな。興味は無いからどうでもいいが。
「重要な確認だ。道を見えなくすることができるくらいだ。お前たちは普通の人間に見えるのか?」
「基本的には見えないようにしてる」
「服だけ浮いて見えるなんてことは」
「服込みで変化してるからそれはないし、それに――例えばこの紋付羽織袴は実際に仕立てた実物だけど、見えないようにすることもできる」
オーケー。俺は自宅でなく会社に戻ることにした。せっかく金曜のノー残業デーだ。さっさと終わらせてさっさと帰ろう。そうしてこの小狐とはさようならだ。以降、小狐が何を言っても無視を決め込んだ。だいたい俺は誰かと話しながらだと運転が疎かになるくせがある。これ以上の事故など起こしてはならない。沈黙は金。そうやって俺が何も言わないでいると、小狐は途中から諦めて窓の外を見ていた。それでいい。
事務所に戻り、事情を説明する。といってもまさか狐の嫁入りに突っ込んだなどと言えるはずはないし信じてもくれないだろう。だからここは無難に穏便に、猪とぶつかったと言っておいた。
あの山で猪など見たことも聞いたこともないが、俺の想像が作り出した猪は、その後何事も無かったかのように山に帰って子宝に恵まれ素晴らしき余生を送りましたとさ。
「吉崎さん今度は猪に負けたの」女性事務員が面白そうに茶化してきた。
「カミソリの次は猪? いろんなものと勝負する男だねえ」経理の男が乗ってきた。
「はあ、お恥ずかしながら」俺は真顔の愛想笑いをした。まったく、また不名誉な称号が増えそうだ。
幸い事故の程度も軽く始末書だけで済んだが、面倒なことに安全に力を入れている会社だけあって事故事例報告書なるものを作って共有する必要がある。俺は溜息をついた。いったい何を書けというのだ。急に飛び出してくる猪とぶつからないようにする対策などあるものか。
連絡書類を受け取り、事務所からまた作業場へ。もちろん別のプリウスに乗り換えてだ。朝、事務所から社用車で作業場に向かい、作業員たちと昼前まで仕事をし、昼に事務所に戻りがてら仙狸庵かどこかで昼食を摂り、昼から別の作業場へ出向き、そこでの作業が終われば事務所に車を返して退勤という流れだ。俺はふたつの作業場と事務所を繋ぐパイプ役のような立ち位置だった。それが実作業でミスばかりする使いみちのない頭でっかちの末路だ。
ここにいくつかの逸話がある。ある男が草刈り機で事務所の敷地内の草刈りをしていたら石飛が起き、更に壁で跳弾した石は男の顔に命中しこめかみから軽く出血した。その時その男につけられたあだ名が「草刈り機に負けた男」。
また別の日、自動ドアがなぜか反応せず、閉まりかけたドアに肩をぶつけて転倒しそうになったことがある。見事なスピンを決めて持ち直したにも拘らず、ついたあだ名は「自動ドアに負けた男」。
他にも解けた靴紐で転びそうになった時、紙で指を切った時、熱すぎる緑茶が持てなかった時、ついこの間はカミソリに負けて出勤し、その度に新たなあだ名が増えていった。そして今日新たに追加されたのが、
「猪に負けた男って何?」
仕事が終わり、自分の車のドアを開けると小狐がそこにいた。ロックを忘れていた。
「まだいたんだな。猪と仲良く山に帰ったのかと思った」
「いつやつらが来るか分かったもんじゃないからね。ずっと見守ってたんだよ。どこも神棚があって居心地悪かったけど」
エンジンを掛けながら頬の筋肉が緩むのを感じた。これはいいことを聞いた。
「神棚が苦手なんだな」
「ここもそうなんだけど信仰が薄いとあまり効果は無いよ」
「それは残念だ」
マンションではなく実家のほうに神棚があるのだが、生憎俺はそれを拝んだことなど一度もない。母親が介護施設に入った今となっては誰も住んでいないから神棚も放置されているはずだ。俺が神なら間違いなく祟るだろうな。
帰りにスポーツ用品店で金属バットを購入した。いかにもスポーツと無縁な男がそんなものを買うのだから、怪しまれないように硬式ボールとグローブを二個ずつ、そして子供用の野球帽も一緒に買った。これにより俺の行為は親戚の子へプレゼントついでにキャッチボールなどをする性格の好いお兄さんの模範的行動か何かだと思われたはずだ。
実際はもちろん護身用だ。車でダメージが入るくらいなのだから金属バットでも効果はあるだろう。たぶん。
「効かないこともないかな。うまく当たればだけど」
ああそう。
今日は晩飯を作る気にもならなかったからコンビニで弁当を買って帰った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
いつもなら何の感慨も湧かないマンションのドアが、今日は少しばかり恋しく思えた。なんだかんだでここは自分の住処なのだから、今日のように現実離れした体験をした日には自分だけの聖域がありがたく思えるのだろう。
俺はしみじみとドアを開ける。そうして小狐が入る前にドアを閉めてやろうか一瞬迷いはしたが、さすがにそれは憚られた。
結局のところ、俺はこいつと関わらざるを得ないことを心のどこかで受け入れていたのだろう。俺がドアを開けたまま窺うように振り返ると、小狐は嬉しそうに小走りで駆け込んだ。上がる瞬間に足から[[rb:草鞋 > わらじ]]が消えるのが見えた。便利なものだ。
一人暮らしをするのであれば2Kのマンションがちょうどいい。ダイニングなど要らないし、特に必要が無ければ一部屋でもいいくらいだが、参ったことに俺には目的があるから二部屋要る。俺が唯一他人に自慢できるものが、一部屋まるまる使用したホームシアターセットだからだ。
小狐があちこち興味深そうにうろつき回っている間にファミリーマートの焼肉弁当を広げて食べた。弁当を買った時には考えもしなかったが、あの霊狐とかいう存在は何か食べるのだろうか。面倒を見る義理など無いが、よくよく考えてみればあの小狐には帰るところがない。気乗りはしないが聞いてみるだけ聞いてみるべきだろう。
そういえば小狐の足音がしなくなっている。空の弁当を手にキッチンに向かったがそこには居ない。バスルームにもいない。となるとあそこだ。冷蔵庫からチューハイを出してシアタールームに入ってみると、小狐は部屋の真ん中で照明も点けずにしょぼくれていた。まあ、点け方は普通に判らないのだろうが。
俺がスイッチを入れると小狐は顔を上げる。更に近づくと立ち上がって俺の腰にしがみついた。斜めに顔を押しつける小狐からは、不安、緊張、寂しさ……そんな感情を読み取ることができた。
「一人で辛かったね、あんちゃん。もう大丈夫だよ」
鳥肌が立った。前言撤回。俺には狐の気持ちなど理解できないし知りたくもない。
「おい」俺は少し凄みを利かせながら言った。「離れろ気持ち悪い」
小狐は気を悪くするでも反省するでもない様子でパッと離れた。そうしてくるりと背を向け、
「残留思念ってやつ。この部屋にはあんちゃんが毎日発してた負の感情が渦巻いてる」
言うに事欠いて負の感情だと。ここは俺の癒しの空間だぞ。55インチ4K対応テレビに六畳にはもったいない5・1チャンネルのスピーカーサラウンドシステムだ。いくら費やしたと思ってる。それによる大迫力の映画鑑賞は日頃の鬱屈した気分を全て吹き飛ばしてくれるのだ。狐ごときに理解できるはずはないか。
小狐は再び振り返り、俺の顔を見た。その顔はふざけているわけでもおちょくっているわけでもなく、至極真面目なものだった。そうして小狐は濁りのない声を幾分か低くして言った。
「不安、苦悩」
まず一歩、小狐が踏み出した。その足の運びを見ただけでなぜかドキリとした。
「欲求不満とやりきれなさが同程度」
また一歩、小狐が歩を進めた。
「僅かな寂しさと侘しさもあるね」
無音の足音が重々しく心に響く。
「そして一番大きなものが――」
目の前でピタリと足を止め、
「――劣等感」
チューハイを握る俺の左手に力が入った。
「もちろん正の感情もある。満足感。達成感。快感。爽快感。緊張の緩和。だけどそれは一時しのぎでしかない」
さっきから言ってやろう言ってやろうと思っている「それ以上続けると追い出してやる」という台詞がなぜか出てこない。小狐の言うことが的を射ているのではない。雰囲気に呑まれただけだ。……おそらく。
「この部屋で行う誤魔化しの儀式――何をしているかまでは分からないけど、根本が解決しないままフタをして忘れようとして、だけどあんちゃん自身その行為の虚しさを知っていて、正の感情が逆に負の感情になってしまってる」
「それで?」
俺が言うと小狐は少し首を傾げた。
「『おれが来たからもう大丈夫だ』とでも言うつもりか。お前に何が解る。そしてお前に何ができる。もう一度はっきり言わせてもらうが、俺は狐が嫌いなんだ。狐にカウンセリングされる筋合いなどこれっぽっちも無い」
小狐は少しの間黙ったが、俺に気圧されたとか傷付いたとかいうわけではない。二度も狐が嫌いだと言ったのに、こいつはそれを微塵も気にしていない様子だった。
「おれはね」
やがて小狐は哀愁漂う顔で話し始める。
「生まれた時からある使命に突き動かされて生きてきたんだ」
俺は相槌を打つこともなく聞いた。どうせ頭のおかしいことを言うからだ。
「誰かを探してた。誰かがおれを呼んでいた」
ほら見たことか。
「それが誰かはもちろん分からない。だけど存在は確かに感じてた。何度も里を抜けようとして、そのたびに連れ戻されては叱られた。人里に降りていくにはあまりに幼すぎたから。一人前になるまでは外に出てはならないと何度も灸を据えられた」
TSUTAYAで借りた映画の返却期限が今日だったことに気が付いた。旧作は一週間周期だからいいが、新作・準新作が絡むとパターンが崩れて把握が困難になる。
「だけど一人前になる前に、その気配が消えてなくなった。どうしてかは分からない。相手がこの世からいなくなってしまったのか、おれの感じ取る力が失われてしまったのか」
借りていた映画をまとめて鞄に入れ、部屋を出る。チューハイを飲む前に気付けてよかった。
後をついてくる気配がした。俺は振り返って小狐に向き直り、人差し指を突き付けながらはっきりとこう言った。
「解らなければ何度でも言ってやる。俺はお前を知らないし、俺は狐が嫌いなんだ」
人差し指の先にはノイズがあった。一瞬戸惑ったが、それは辛うじて小狐の形を保っていた。俺は言葉を失いかけたが持ち直した。
「人違いか、さもなければ妄想だ。他をあたってくれ。狐に騙されてなるものか」
「これから外に出るの?」
「俺には俺の生活がある」俺は玄関に向かう。
「やめたほうがいい。危ないよ」小狐が駆け寄ってくる。
「狐に行動を制限されてたまるか」靴を履く。
「分からなければ何度でも言ってあげる」
「なんだと?」俺はイラっとして振り向いた。
「あんちゃんはもう普通の暮らしには戻れない」
「クソ食らえだ」俺は後ろ手で玄関を開ける。
そうして振り返った瞬間、ぬらりと現れたノイズから鋭利な光が飛んできた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
強かに尻を打ち付けた。体全体がすごい力で引っ張られて床に転がった。何かが目の前にいた。藤色の服――小狐だ。小狐が俺の前に立ちはだかっていた。いや、長身の人影の前に立ちはだかっていた。青色の光が玄関の壁や床、天井を照らしていた。
「あんちゃん、奥に」
向こうを向いたまま小狐が言った。
「――早く!」
剣幕に圧されて俺は何度か躓きながら部屋に駆け込んだ。転がっていた金属バットを拾って振り向くと、小狐と長身の男は睨み合ったまま動いていなかった。長身の男の顔はやはり狐だった。小狐の藤色の服が揺らめき、長身の狐の濃紺の着流しが揺らめいていた。二人とも、今はもうノイズではなかった。
「いきなり武装して来やがって」小狐が言った。
長身の狐は銀色に光る刀らしきものに力を込めたまま固まっていた。それを押し留めているのは小狐から放たれる青い光だった。青色の光が蛇のように生物的なうねりをもって刀に巻き付いているように見えた。両者とも動きはないが、青い光が押されてはパシパシ音を立てて消え、消えてはまた生まれが繰り返されている。俺には見えない駆け引きがあるのかもしれなかった。
「気を静めてください音吉。できることならあなたと戦いたくはありません」
「問答無用で襲ってきたくせに偉そうなんだよキヌマル」
「確かに。では話し合いに移りましょうか」
長身の狐が刀を下ろすと同時に小狐が光を収めた。相手が持っていたのは金属の刀ではなく木刀のようだった。それがさっきまでは銀色に光っていて、あたかも日本刀のような鋭い輝きを放っていた。光が止んだ今では木目の美しさだけが際立っている。同じく木製の鞘に納めると、カチャ、と金属のような音がした。その部分にだけは金属部品が使われていたのかもしれない。
小狐がくるりと振り返って俺を見た。
「あんちゃんもバットをおさめて」
「いや待てよ」何勝手に仕切ってやがる。「殺されかけたんだぞ。はいそうですかと家に上げられるか」
「大丈夫、主導権はもうこっちにある」
「その通りです。不意打ちに失敗した以上、こちらからはもう手出しはしません」
こいつもこいつでニコニコ偉そうにしやがって。狐ってやつはみんな自己中なのか。
「ではお邪魔致します」
おい誰が許可を出した。おい小狐勝手に招き入れるな。ああもう世界は俺の意思と関係なく回りやがる。
「勝手に話を進めるな。話があるならそこでしろ」
俺は我が物顔で上がり込もうとする男にバットを向けた。
「やれやれ、小さい男だ」
大きなお世話だ。
「解せませんね音吉」男は二度ほど首を振る。「なぜこんな人間を庇うのです? 甲斐性もなければ覇気もない。反応は鈍いし気も利かない。おまけに空気も読めない。ついでに気も小さい肝も小さい器も小さい。長所を探すほうが難しそうな出来損ないではないですか」
何かボロクソ言われてるんだが。
「まだ時期ではないことですし、あなたが無理に人間と交じる必要などないのですよ」
「キヌマル。無駄話をしに来たんじゃないんだろ。本題を言えよ」
「今のも大事な話なんですがね。さて、それでは歓迎されていないようですのでここで」
キヌマルと呼ばれた狐は木刀を床に寝かせながら正座になった。小狐もその対面に座る。仕方なく俺も座った。
「まずひとつ。ヨネヅヒメが亡くなりました」
「だろうな。助からないだろうとは思ってた」
あまりにあっさりした返答にキヌマルと呼ばれた狐は呆気にとられていた。糸のように細かった目が僅かに開き、口の先に歯列が見えた。
「……ならばなぜ」
ヨネヅヒメとはおそらく白無垢を着て倒れていた狐で、小狐の結婚相手なのだろう。
「相手の一族は激昂を極めています。今はそこの人間に直接の怨嗟が向けられていますが、葬り去ったそののちには軽挙妄動を起こしたあなたに非難の目が向けられることは必至!――いいや、あなたがその人間を庇い立てするならば、そう遠からぬうち諸共に殺されるでしょう。……あなたは解っているのですか? いくらあなたが強かろうと、ふたつの里の狐たち全員を相手にして無事に済むわけがありません。今ならまだ間に合います。その人間の首を手に帰ってきてください。ひとたびあなたが相手の里の者に手を掛けてしまえば後戻りはできません。私は無理を言って最初の使者として一人で参じました。――あなたを死なせたくない一心で。この気持ちを解ってくれますか?」
一気に捲し立てる男を前に、小狐は黙り込んだ。身じろぎひとつせず、じっと相手を見たまま動かなかった。尻尾の先すら微動だにしない。こちらは背中側のため表情は見えないが、おそらく神妙な顔をしているに違いない。俺のことは既に眼中にないキヌマルという狐も黙って小狐を見ていた。
やがて小狐はおもむろに話し出す。
「ヨネヅヒメの他に死者は?」
それはキヌマルの長い説得に対する返事ではなかった。キヌマルは開きかけていた目を更に開け、再び細め、落胆したように鼻から軽く息を吐いた。
「最前列の二人が。うち一人はあちらのヨジロウ殿ですが、もう一人はヤチスケです」
「……そうか」
「そうか、ではありません!」キヌマルは両手を床に叩きつけた。「その人間は我らの同胞を殺した、言わば怨敵です。庇う理由などあろうものか! 気でも触れましたか!」
そうして叩き付けた手をそのまま前に滑らせ、
「どうか私の気持ちも汲んでください。この通りです」
深々と頭を下げた。
「頭を上げてくれよキヌマル。おれはあんたに頭を下げられていいような大層なやつじゃない。あんたの気持ちは痛いほど分かるし、おれはあんたに感謝してる。他の誰がおれを蔑んでもあんただけはおれを思ってくれた。力の使い方も教えてくれた。今回だって、こうして最初に来てくれた。これはとても名誉なことだと思ってる」
それでは、と頭を上げて様子を窺うキヌマルに、小狐はふるふると首を振った。
「だけどおれにはおれの事情がある。とてもとても深くて大きい事情が」
「いったい何なのですその事情は! 里ふたつを敵に回し、――ええい、里ふたつを滅茶苦茶にしておいて許されるほどの事情なのですか!」
「その事情は、今は言えない。もし聞きたければおれを捕らえてみるんだな」
キヌマルは長い長い息を今度は口から吐いた。今にも泣きそうで、恨みがましくもある目をしていた。
「できるわけがないでしょう、この私に」
その声は虫の羽音のように弱々しかった。キヌマルは一度大きく項垂れ、意を決したように立ち上がる。
「ですが、その役目は次の刺客が担うことになります。……本当によいのですね、音吉。これは大いなる意味を持つ選択ですよ」
「ああ。今まで世話になった。みんなにもよろしく言っといてくれ」
小狐は座ったまま答えた。キヌマルはくるりと踵を返し、一歩、二歩、三歩、摺り足で歩いた。そうしてふと立ち止まって三秒ほど考え、
「人間」こちらを見ないまま言った。「我々としましても、あなた以外の無関係な人間を巻き込むことを望みません。というより、人間の社会で大きな騒ぎを起こしたくありません。お互いのために、どこか外れの一軒家にでも移り住むことを勧めます」
それは罠か、と言いかけてやめた。キヌマルは顔だけをこちらに向けて、
「親切心で言っているのですよ。我々はともかく相手の里の者は音吉の[[rb:出鱈目 > でたらめ]]な強さを目で見て知っているわけではありません。ヨネヅヒメを失った今、音吉は正攻法で戦って敵う相手ではない。一度、ないし二度刺客を打ち負かされ、手段を択ばなくなったらどうするか……。多少の犠牲を覚悟に数の暴力で来るならばまだ可愛いほうでしょう。あなたがたが嬲り殺しにされるだけで済みますからね。ですが、もしそうでない場合、例えば周りの住人を人質にしないとも限りませんし、或いは形振りさえ構わなければマンションごと爆破という手も取れるでしょう。あなたはそんな惨事を望みますか? あなたは狐に操られただけの一般人を殴り殺すことができますか? どうせできないでしょう。そうした場合に手を汚すことになるのは音吉なのですよ。よく考えることです」
そうして視線は小狐へと移る。小狐が立ち上がったので俺も遅れて立つ。キヌマルの目は哀愁に満ちていた。
「もう生きて会うことはないかもしれませんね。さようなら音吉」
「さよならキヌマル」
小狐の応対は最後まであっさりとしたものだった。寂しそうな音を立てて閉まるドアを見つめながら小狐が何を思ったか、俺には想像もつかない。
場にはしばらく無言が続いた。ゆっくり上下する小狐の肩と時計の音だけが、その中にあって変化を見せる存在だった。と、パッキンのいかれかけたキッチンの水道から水が一滴落ちた。小狐の耳が反応したのをきっかけに、俺もその変化に加わった。
「あいつ、俺を殺し損なったことで咎められるんじゃないのか」
小狐の耳が後ろを向いた。狐の耳とはなかなか可動域が広いもののようだ。動物の生態はまったく詳しくないのだが。小狐は体の半分だけ振り返った。
「それはないよ。存続が危ういくらい小規模な里なんだ。……仲間意識は強いから」
その顔に浮かぶ表情を見れば、キヌマルとの訣別が相当堪えたらしいということは判る。或いは、俺が轢き殺したヤチスケという狐のほうに対してかもしれない。いや、おそらくその両方だろう。
「なあ」気付けば俺は尋ねていた。「正直に答えてくれ。この事態は俺のせいなのか。お前はどう思ってるんだ」
小狐は細い目のまま少し考え、
「責任の所在を考えると答えは出ないだろうね。だけどあんちゃんはわざとやったわけじゃないんだろ。それならおれは言うことはない」
「そうやって俺を庇う理由は何だ? キヌマルとやらの肩を持つわけじゃないし、みすみす殺されたくもないが、相手の立場を考えると怨まれても仕方がないことだと思う。小規模な里に住む者同士の強い仲間意識――その繋がりよりもお前は俺を優先した。それはどうしてだ?」
「言ったでしょ、あんちゃんがおれの運命の相手だからだよ」
「真面目に答えろ」
語気を強めた俺に、小狐は完全に向き直り、はっきりとこう言った。
「大真面目だよ。おれは嘘はついていない」
「じゃあその根拠はどこにある? 嘘をついていないとすれば態度がちぐはぐに思える。最初はな、俺はお前のことを頭のおかしいやつだと思っていた。そもそも人間じゃないし狐だし二足歩行をしているし、しかも仲間は問答無用で俺を殺そうとしてきた。こんな化物たちが何を考えているか理解することなど不可能だと思っていた。だからお前のことも、できることなら追い出してやろうとも考えていた。ついさっきまではな。しかしキヌマルという狐とお前のやり取りを見ていると、とてもそうは思えなくなった。二人とも受け答えは極めて理知的だし、仲間を思い、哀しみ、相手を尊重する人間性を持つ。あんなやり取りを見てしまうとお前の一連の行動に疑問が浮かぶ。結婚しようなどと迫ってきたのだってチャチな芝居にしか思えない。或いは――お前、わざと俺に気持ち悪がられようとしていないか?」
その言葉に小狐は固まったように見えた。だがそれは少しの間だけで、小狐はスタスタと俺のほうに歩み寄り、顔を見上げながらきりっとした目付きで言った。
「さっきも言ったけど、おれは一言も嘘は言っていない」しかしすぐに表情を崩し、「だけど、ご名答。おれはあんちゃんに気味悪がられていたほうが都合がよかった」
「事情を聞いても?」
「今はまだ駄目だ。あんちゃんが結婚してくれるって言うなら話してもいい」
結婚したいというところまで本当なのか。実によく解らん。小狐の台詞は返答がノーだと判った上であえて言ったものだろうから、こちらもあえて答える必要はない。俺はひとつ息を吐く。
「俺は自分がそんな重要人物には思えんが」
「あんちゃんは至って普通の人間だよ。猪にも負けるしカミソリにだって負けるような、何の取り柄もない人間」
「おい」
小狐はくすくす笑い、
「だけどおれにとっては重要人物なんだ。里の者は誰一人関係しない、おれとあんちゃんだけの問題。そしてあんちゃんにとってもおれは重要人物なんだよ」
「改めて訊くが、本当に初めて会ったんだな? お前は俺の知らない何かを知っているようだが」
「それを説明するには、あんちゃんにはまだ受け入れ態勢ができていない。だから気味悪がられることで隠そうとしたんだ」
俺はしばし目を伏せた。正直なところ、まだ信用するに足る情報は得られていない。だってそうだろう。キヌマルとの会話、そしてこの会話。情報そのものは増えはしたものの、含みをもたせる表現ばかりで大事なことは何ひとつとして満足のいく説明をされていないのだから。
けれど、何かがあることは確かだった。仲間を捨ててまで俺を庇おうとするほどの、何か途轍もなく大きな事情が。例えば俺が捨て台詞とともに会社を辞めて転職するのとは規模が違う。命が懸かっている。それだけの覚悟をこの小狐はしたのだ。この俺のために。
もしかすると狐たちの壮大な嘘なのかもしれないし、小狐の事情というのが我々人間にとっては災厄を招くものだったりするのかもしれない。それでも、――もちろん直観以外の何物でもないが、この小狐は信用してもいいかもしれないと、そう思うようになっていた。
「判った。信じ難い話ではあるが、一応はお前の話を信じる方向で行動する」
「建前でも嬉しいよ」
「建前じゃない。どうせそうするしか道はないんだ。不可抗力なきっかけで巻き込まれた事態だし俺自身納得はできないにしても、事実だけ見ればお前は俺の命の恩人だろう。最初だってお前が狐たちを引き付けてくれなければ俺は殺されてた。さっきだって守ってくれた。蔑ろにしたらそれこそ人間の恥だ。結婚はできないがお前の意思を尊重する」
「いやそこは結婚してよ」
「できるか。狐の基準で考える前に人間の基準を考えろ」
「なるほど一理ある。要は順序が必要だってことだね」
「違う」
小狐は玄関のドアに向かって歩き始めた。足の裏に草鞋が生え、ドアの前に立ち、右手をかざす。人差し指と中指に集まった青い光を、金属のドアに押し付けた。何をするのかと見ていると、点を描き、ほうき星のような線を描き、その下に漢字の岩のような字を描いた。少なくとも日本語ではないが、俺はそれを達筆だと感じた。
「それは?」
「ダキニのシュジ。お守りみたいなもんだと思って」
「悪いが専門用語で言われても解らん」
「ま、おいおい教えてあげるよ。それより早くCD返しに行かなきゃ延滞料取られるよ」
「何だお前、人間の文化を知ってるのか」
「ある程度はね」
「しかし残念なことにこれはCDじゃなくブルーレイだ」
「悪いけど専門用語で言われても分かんないよ」
「この小狐」
小狐はニッと悪戯っぽく笑った。狐のくせに本当に人間のように表情が豊かだ。なぜだか、心が少し温かくなった気がした。とても懐かしい、不思議な感情だ。俺はある種の決意とともに車のキーを手に取り玄関に向かった。どうやら俺の中で覚悟は決まりつつあるようだ。
「ま、おいおい教えてやるよ」
どうせつまらん人生だ。狐につままれてみるのも一興かもしれない。俺はそのための準備として、Amazonであるものを即日注文した。
[newpage]
[chapter:壱]
狐につままれてしまったのだと、僕は自分の姿のことを思った。周りから見れば誰もが僕をおかしいと思うはずなのに、世界で一番異質な僕を、なぜだか誰もがすんなりと受け入れた。
今となっては昔のことを断片的にしか思い出すことはできないから、本当はもめたのかもしれないし、或いは僕の知らないところで話し合いでも行われたのかもしれない。いずれにせよ当時の記憶を詳らかに振り返ることができない以上、確かめようのないことだ。
その町は酷く居心地が悪かった。記憶がなく馴染みのない町だからそう思うのだろうけれど、僕の本能はここが自分の居場所でないことをいつも告げていた。武家屋敷はもとより、町を埋め尽くすほどの木造家屋や商家にしても入りがたい雰囲気が出ていたし、川も、橋も、なぜと説明はできないものの、忌避感に似た違和感があった。
武士や町人、商人たちに対してもそうだったけれど、彼らそのものというよりは、着ているものに違和感があったのだろうと思う。もっとも、それはやはり僕が何も身に付けていなかったからかもしれない。僕は記憶の初めから裸だった。
しかしながら、裸でいることにも、そして人間と違う姿をしていることにも、誰も何も言ってこなかった。気に留めていないようだった。裸でうろつく子供は他にもいたからかもしれない。だけど、こんな動物の姿をしているのは僕の他に誰一人としていなかった。それは明らかにおかしいことだった。
二足歩行の狐。それが僕の姿だった。狐の頭があって、お尻にはふさふさの尾がある。体中が柔らかな毛に覆われていて、そしてその色は黒だった。それ以外の骨格なんかは人間と同じようだったけれど、僕の姿が異質なことに、誰一人として気にする素振りを見せなかった。それはどうしてだろう。
「僕の姿は変じゃないですか?」
町を行く人にこう尋ねたことがある。別に変じゃない。まあ服くらい着てもいいんじゃないか。誰に尋ねてもこんな中途半端な返答しか得られなかった。
「僕はみんなと違う姿をしています」
いいんじゃないか。気になるなら人に化けたらどうだ。おそらく百人くらいからそう言われ、僕は聞くのをやめた。
それが思い出せる最初の記憶だった。そこからしばらく記憶が曖昧になり、ずいぶんと長い間よくわからない空間の中を彷徨っていた気がする。僕の記憶は過去に遡るほど形を持たない混沌になった。曖昧な記憶が空白を経てたまに明瞭になっても、僕は同じようにその町並みを狐の姿で歩いていた。その繰り返しだった。
酷くお腹が空いていたことを覚えている。道行く人に何かをせがむ乞食のようなことを毎日していた。誰かが食べ物を恵んでくれないと、仕方なく草を食べた。川辺の木に生っている実を食べた。それらは殆どが食べられないもので、すぐに気分が悪くなって吐いた。もし食べられる実であれば稚児が取れるような高さに残っているはずなどないことを、幼い僕には解らなかった。
僕はみすぼらしく痩せこけて歩くのも億劫になった。誰かが憐れんでくれることを期待して、地蔵堂の中に座り込んだ。
そして長い混沌を経て、僕は義父に拾われた。時間はそこから概ね正しく進み始めた気がする。
異質な僕をすんなり受け入れた、とは言ったものの、義父から受けた扱いはあまり振り返りたいものではない。僕が狐の姿をしていたからそういう扱いをしてきたのではなく、たぶん僕でなく誰か別の子であっても、――人間の子であっても、義父はきっと同じように扱ったのだろう。
僕はおそらく義父の後継者となるべく育てられた。はっきりと断言はできないけれど、きっと半分くらいはそれで正しいと思う。上等な着物を着せられた。手触りのいい烏帽子を被せられた。様々な作法や字の読み書き、暦の読み方作り方(実際に作ることはしなかったけれど)、星の見方を教わった。
義父は陰陽師だった。僕は義父の指導のもと、日々陰陽道の教えを受けた。しかしそこには大きな問題があった。余りに教え方が厳しすぎたことだ。少しでももたついたり理解が遅れたりすると、すぐに平手が飛んできた。手に何かを持っているとそれで殴られることも多かった。光明真言を間違えようものなら平手でなく拳が飛んできた。顔を何度も殴られて口が閉じなくなったこともあった。一刻も早く私と同じ術を使えるようになれ。そう言われ続けて育った。その言葉の裏に、「命を助けてやったのだから」が隠れていることは判り切っていた。
身の回りの世話は雇っている女中たちがだいたい引き受けてくれていた。僕の仕事はだいたい
が義父の仕事の手伝いだった。義父は絶えず[[rb:護摩木 > ごまぎ]]を使っていたから、それの補充が主だった。
近くの山で杉や檜、柏など様々な種類の木の枝や根を刈って持ち帰り、葉や土を落として形を整え護摩木を作った。そのほか[[rb:護摩壇 > ごまだん]]の掃除、炉の片付けなど女中に任せられないことをするのが僕の役目だった。
屋敷には動物の頭骨が幾つか飾られていた。それが飾られていたのではなく「祀られていた」のだと知ったのは、――そしてその頭骨が狐だったと知ったのは、だいぶ経ってからのことだった。確かに頭骨と僕を見比べてみると、成長するに従い伸びてきた鼻骨の形といい目の位置といい歯の形といい、何もかも僕にそっくりだった。なぜ気付かなかったのか不思議なくらいに。
それを知った時、僕は自分の身が危ないと一瞬思った。だけど義父は他の人間たちと同じく僕が狐の姿をしていることに何の疑問も持っていなかった。だからどうした。お前は普通の狐とは違う。それしか言わず、追及しすぎると殴られた。僕の骨を使わないんですかと尋ねたこともあるけれど、お前の骨など使い物になるかと一蹴されただけで終わった。
義父は狐の骨を使って――或いは使わない場合もあるけれど――様々な呪術、様々な祈祷を行った。人から仕事を依頼されそれを行う、そういう民間の陰陽師だった。かつては宮廷にいたものの、修験の道を経て今に至るのだと客との世間話でちらりと話していたのを偶然聞いたこともあるが、詳しい経緯は解らない。
宮廷とはどこにあるのか最初判らなかったけれど、どうやらこの町の中心にある神社のことを指すらしかった。一度付近を通ったことがあるけれど、物々しい門、誰をも受け付けないような重苦しい壁、そして神社に似つかわしくない門番の武士。他の神社と違い、その神社だけが特別なものだった。酷く忌避感を覚えた僕は、それ以来そこには近づいていない。
どうして義父が宮廷から離れたかは解らなかった。だけどさほど興味はなかったし、僕がそれを知っていることをまず義父は知らない。聞いたところで怒られるだけなのは目に見えていたから聞かなかった。理由が何であるにせよ、義父はこうやって政治から離れたところでひっそりと商売をし、遊女に耽る毎日を送っている。
[[rb:加持祈祷 > かじきとう]]や地鎮の儀を依頼されることももちろんあるけれど、依頼の多くは呪詛や呪詛返し、それもいわゆる狐付けや狐落としに関するものばかりだった。狐の骨を使ったり使わなかったりして、義父は依頼をすべて成功させてきた。
いや、成功の見込みのないものはそもそも断っていたというのが正しい。時には官僚を相手にした呪詛を依頼されることもあるからだ。そういう場合、相手の背後に宮廷陰陽師が控えている可能性がある。
義父と彼らの力関係がどういったものであるか僕には判らないけれど、分の悪い勝負はしたくないという、実に義父らしい現実的な考えなのだろう。良心的な表現をするなら堅実という言葉が当てはまる。成長していくにつれて、僕は義父のそういった呪術を教え込まれた。そのうち一番最後に教わった[[rb:荼枳尼天法 > だきにてんほう]]はなかなか習得できなかった。呪詛は一般人の念仏にすら簡単に跳ね返され、或いは[[rb:修法 > しゅうほう]]そのものの負荷により、そして義父の暴力により、僕は内外から損耗しながら成長していった。
[newpage]
[chapter:二]
翌日、土曜日の朝は爽やかな秋晴れだった。健康的に六時半に目覚め、顔を洗い、トップバリュの薄いスポーツドリンクを飲んで散歩に出かけた。
いつからだろう、休日なのに際限なく眠ることができなくなったのは。六年間規則正しい社会人生活を続けたために身に付いた哀しき性か、夜更かしをしても早くに目が覚めてしまうようになってしまった。もっとも、昨日は頭痛がして二十二時という早い時間に寝始めたが故の早起きともいえるのだが。それですっきり目覚めて気分が乗った俺は、ついでに調子にも乗って散歩などという普段しないような酔狂を始めたわけだ。
「しかし何だ」俺は周りを見回しながら呟いた。「もっと悪霊で溢れているものかと思った」
何の拍子でか解らないが、俺は再び見えざるものが見えるようになっていた。もちろん霊狐たちは昨日から見えていたが、それ以外のノイズたちだ。俺の脳だか眼だかに突き刺さっていたフィルターが突然抜け落ちたみたいに、身の回りに潜む異質な存在が今でははっきりと認識できる。
意外だったのは、その数が思っていたよりも少ないことだった。マンションのドアを開けてすぐに一反木綿のような薄い半透明の紙が風に飛ばされているのを見たが、それ以降はつい先ほど公園のベンチに座っている今にも消えそうなシャボン玉みたいな中年女性を一人見たくらいだ。
前を行く音吉が振り返り、歩みを止めないまま俺の独り言に答えた。
「悪霊なんてのはまず生まれないもんなんだよ」
「へえ」
音吉は再びくるりと翻った。その拍子に指先を覆うほどダボダボになっている袖の先が美しく空中を舞った。今日の服は昨日と違って上が黄緑色で下の袴が山吹色だった。服込みで変化していると言っていたが、それでも毎日着替えるようだ。呼称は[[rb:水干 > すいかん]]というらしい。
さて、歩きながら音吉が言うには、霊的な存在というのはすべて人の思念から生まれるのだという。怨霊を例にすると、まず誰かに対して怨みを持つとする。そのままでは何もないが、その怨みが昂じ、更に長期に亘るとひとつに集まって意思を持つようになる。その意思は持ち主の願いを遂行すべく行動を開始する。持ち主がそれを思い続ける限り。
話を聞いて思ったが、それはおそらく〝生霊〟と呼ばれるものだろう。そう口を挟んでみると、生霊も死霊も同じものなのだと言う。どちらも人の思いから生まれたものに変わりはなく、違いがあるとすれば糧となる感情の供給源が生きているか死んでいるかの違いくらいだと。ふと先程のシャボン玉のように薄い中年女性を思い出した。あれはおそらく消える間近の元悪霊なのだろう。
もっとも、音吉が先に言ったが、人ひとりがそこまでの怨霊を作り上げるのは極めて稀なことらしい。多少の感情は体から放たれるなり世界に拡散・希釈されてしまうし、それに滅多なことではひとつのことを思い続けるなんてことはしない。
「人ひとりの場合は、ね」と音吉は言った。「ここからが話のミソだよ」
では集団はどうか。音吉は、大事なのは思念の集約なのだと言った。集団がひとつのほうに向かって思念を続けると、その〝気〟が集まり意思を持ち、ひとつの〝存在〟となるのだと。とはいえ、集団といえば会社や学校などがすぐに頭に浮かぶが、俺は皆が同じ思考をするなどとはどうしても考えられなかった。会社の理念すら飾りなのだ。残業も決して多くはないほうだし、全員が同じことを考えるなど有り得ない。そう思っていると、音吉もやはり集団でもなかなか怨霊など生まれにくいと言った。
ひとつのまとまった悪霊にならない思念の集合は〝場〟そのものに影響を与えるらしい。初めて訪れる銀行やオフィスで感じる近寄りがたい異様な雰囲気といったものがそれにあたるのだろうか。上司への不満か、同僚たちのギクシャクか、一種類に限定はされないにしろ、負の感情そのものは場合によっては確かに溜まりそうな気はする。
「国民感情というものもそれで説明ができるのかもしれないな」
「まさにそれだよ。妖狐は国民感情によって生まれた」
「霊狐と妖狐は別物なのか」
「霊的な存在という点では同じだけどね。起源とか性質とか決定的に違うところがある」
「おっと、人だ」
田舎というほど田舎ではないのだが、土曜の朝七時に出歩く人間はあまりいない。自転車や原付、車などはそれなりにいるものの、徒歩となると今日の俺のように散歩を楽しむ酔狂な物好きか犬の散歩くらいのものだ。そのうちの酔狂な物好きのほうが前方からやってきたのだ。他人からは俺一人しか見えないはずだ。さすがに誰もいないところに話しかける変人になりたくはないため、俺はスマートフォンを取り出して通話するふりをしながら話の続きを聞いた。
妖狐はもとは人々の迷信から生まれた。狐は人を化かす。狐は人に化ける。狐は人に憑く。そういった人々の気が自然界に流れ、――何もないところから湧いて出たのか実在する狐が変容したのかどうかまでは定かでないにしろ、実際に妖狐という存在が生まれることとなった。しかしこれは狐という存在そのものに対して抱いた庶民の畏れであり、狐の中のある一匹に対して集中したイメージではない。それでも妖狐を全国各地に分散的に生み出す結果をもたらした。いやはや、昔の人間は迷信深いというか信心深いというか……。
しかしそうなると、もし狐に限らず〝ひとつの対象物〟にひとつの思念が集まったとしたら?
「それが宗教ってやつだね」
「とすると神や仏は実在するのか」
「物分かりがいいね。するよ」
「俄には信じがたい話だな」
神や仏が先に存在したわけではなく、人々が神や仏を作り出したということらしい。人々が考え出したこれこれこういう設定の仏や、これこれこういう生い立ちの神が広く庶民に伝えられ、庶民はそれを信仰し、気が――多くの場合、願いという形を取って――ひとところに集まり、実際にそういう設定を持った神仏が生まれるに至る。
そう聞いて、色々と突っ込みたいところや疑問が次々浮かんでくるが、一番大きな疑問は一神教と一神教は決して共存できまい、というところだ。そちらの分野には疎い俺だが、キリスト教をはじめとする多くの一神教ではまず神が最初に在って、その神が世界を創ったとしているはずだ。その神が他の宗教の創造神を作ったというのでは説明が付くまい。戦争が起きるぞ。
「生まれた神仏は時代とともに様々な設定を付加される」
だが俺が疑問を口にする前に次の話に移ってしまった。
「そうして眷属というものが生まれ、信じられ、形を持ち」
「霊狐が生まれたというわけだな」
「そういうこと。おれたちの一族は、元はダキニの眷属だった」
ここでダキニとやらが出てくるわけか。
「知らないだろうから簡単に説明するけど、ダキニってのは空海と一緒に日本にやってきた密教の諸仏に含まれてて、日本で広く信仰されていくにつれて狐と関わるようになっていき、既に狐を眷属としていた神道の稲荷神と同一視されたんだ。表現は適切じゃないかもしれないけど、便宜的に今のダキニは仏教系の稲荷と呼ぶことができる」
「ちょっと待て、稲荷は神社の神だろう。何で仏と同一視されたりするんだ?」
俺は純粋な疑問を投げかけただけなのだが、音吉は目を丸くして驚いていた。いや本当に目が真ん丸になって、まるで狐につままれたようだった。
「そこから?」
「知識はないと言ったはずだぞ」
「神仏シュウゴウを知らないなんて日本人じゃない」
「勝手に主語を大きくするな」
「じゃあ質問。たまに鳥居を構えた寺がある理由は?」
「鳥居があるのが正しいのか間違いなのかがそもそも判らん」
「たまに鐘のある神社がある理由は?」
「そんな神社は見たことがない」
「話にならない」
「待て待て。神社にあったらおかしいことくらいは判るぞ」
「おかしくはないんだよ。その昔、仏教は神道と混ざり合ってたんだ。ふたつの宗教が混ざり合うことを、習い合わさると書いて習合、神道と仏教では神仏習合という。もちろん足して二で割っておしまいみたいな単純な合体じゃないんだけど」
「神と仏が共存したというわけだな」
「共存というか、さっき言ったでしょ、同一視されたって。日本古来からの神は仏が化身した〝仮の姿〟であるとして、それぞれ対応する仏を割り当てられたんだ。それ以前は確かに共存するだけに止まってたんだけどね」
「何だそれは。そんなのってありなのか。いや、だって、お前の言う通りに神や仏が信仰によって実際に生まれたとして、それぞれ一人ずつの神や仏がいて……ああ混乱してきた」
俺は飾りスマホと左手で頭を抱えて眉をひそめた。
「[[rb:鈴次 > れいじ]]さんが混乱しているように、神仏も混乱したんだよ」
混乱しながらも神仏は適応しようとした。しかし、既に大きな力を持っていた彼らですら、自分たちを形作る根本のエネルギー、つまり人々の信仰心が別のベクトルを与えてくることに抗うことはできなかった。
「神や仏にもできることとできないことがあるんだ。信仰の方向性が集約することによってひとつの明確なイメージを固めてしまった後では、一定以上の軌道修正は困難になる」
「天地[[rb:開闢 > かいびゃく]]、全知全能の神が万能ではない?」
「神だからとすべての設定を忠実に再現できるわけではないってことだよ」
「浄土や高天原という場所も存在しないかもしれない」
「おれはあると思ってるけど、もしかしたらないのかもしれないね。だけど神々は、できるとできないとに[[rb:拘 > かかわ]]らず、そういう設定・過去を与えられて生まれてくる。この世に生まれた瞬間から過去を持っているんだ」
「つまり、……いや、何でもない」
それは壮大な〝なりきり〟だな、と言いかけてやめた。あまりにも言い方が悪すぎる。
俺がさっき疑問に思った一神教同士の競合も、おそらくそういうことなのだろう。神は世界を創らない。……のかもしれない。
「だが少し読めてきたぞ。合体に不整合が起きたということだな」
「鈴次さんって頭いいね」
「高専卒をなめるなよ」
「神仏習合も知らないのにえらい」
「上げて落とすな」
「で、いろんな神がいて、いろんな仏がいて、すんなり合体したのもいるにはいる。性質が酷似していたとかね。でも無理矢理こじつけたようなのが大半だったから多くの場合で習合は叶わなかった。特に酷かったのが稲荷神でね、今はだいたい五柱(いつはしら)の神に落ち着いてる稲荷は、時代を遡るとウカノミタマノカミ、オオゲツヒメノカミ、ミケツカミ、ウケモチノカミ、オオタノカミ、サルタヒコノカミ、オオミヤノメノオオカミ……などなど、神道だけでもいろんな神が稲荷と見なされてたわけだけど、そこはなんとかうまくやってたらしい。同じ神道だし、稲荷としながらもきちんとそれぞれ主祭神を決めて祀っていたところが多かったしね。だけど……」
そこへやってきたのが性質の異なる密教のダキニだ。何やら狐に乗った姿が定着し、狐繋がりで稲荷と同一とされたのだとか。無茶苦茶にもほどがある。彼らも無茶苦茶だと思ったに違いない。そうして不整合を起こし……それで……どうなるんだ?
「一足す一が一にならず三になったわけ」
「よく解らん」
「もともとの神・仏に加え、新しい思想、新しい信仰に準じた新しい神仏が生まれたんだ」
「そんなことが?」
「だってそうでしょ、人々の信仰の方向性がそれまでと異なっちゃうんだ。それに対応できなければ、自分たちに流れるはずだったエネルギーは別のところに向かい、――そうだね、例えるなら川の流れが変わって別のところに湖を作ってしまうように、それが新しい神仏を形作るのは当然の流れだと思う。で、結論をいうと、習合前の神仏たちの多くは信仰から切り離されてしまったんだ」
俺の頭の中でそれらの情報と昨日の音吉の話が一瞬で結び付いた。
「お前たちの祖先は信仰から切り離されたダキニの眷属」
「そういうこと。稲荷と同じでダキニも相当信仰の方向性が移り変わったって話だ。ついでに言うと、神仏はひとつとは限らない。名前が同じでも解釈が二分割されれば二体の同じ仏が生まれることも有り得る。極端な話、宗派ごとに生まれたっておかしくない。それらが日本各地でいろんな信仰とともに移り変わり、合体し、時には切り離され、そうやって狐に限らずいろんな眷属が路頭に迷っていった。元いたマンダラから無かったことにされたものもいた」
「マンダラはよく解らんが、切り離された神仏はどうなる」
「消える。人々の信仰心がエネルギー源なんだから、流れこむ川がなくなれば取り残された湖は消えてなくなってしまう。それは眷属だって例外じゃない。中には新しく生まれた神仏と調和が取れたのもいるらしいけどね」
「しかし切り離されたはずのお前たちは現代まで生きている」
「その通り。おれの言いたいことをよく分かってくれるね。だけどその疑問に答えるのはまたあとだ。あまり外で聞きたい話じゃないと思うから」
マンション付近の何区画かを周り、最後の曲がり角を曲がった。そこに部屋から出た時に見た一反木綿のようなゴミ袋サイズの紙が漂っていた。目も口も鼻もない、向こうの景色が透けているだけの、ただの薄紙だ。それでもそこには意志が、正確には意志だったものを感じることができた。おそらくこいつは元悪霊だったものの成れの果てで、消えるのを待つだけの虚しい存在なのだろう。どことなく俺たちのことを興味深く見るようにしばらく留まっていたが、やがてまた風に乗ってどこかへ飛んで行った。
「俺はたぶん悪霊の発生源にはならないだろうな」
「そうだね。鈴次さんは負け犬根性が地になってるせいで意志が弱いから」
「言ってくれるじゃないか」
「次は何に負けるかな?」
「どうかな、狐にだけは負けたくないが」
例えば生意気な小狐とか、と睨んでやると音吉は上機嫌に笑った。
「何かに負けたとしても、そのことを怨んだり根に持ったりしなければ大丈夫だよ。怨霊はまず自分に取り憑くという考え方をすればいい。自分が悪感情を抱くことで悪い気を放ち、場の状態を悪くし、そこにいる全員の気を悪くし、そして場合によって怨霊を生み出してしまう。負の感情は世界にとって何のためにもならない」
まことに同感だ。ただ他人を批判するための嫌味や皮肉は誰のためにもならない。俺は一瞬脳裏をよぎった会社の日常を奥に押しやりながらマンションのドアを開け、入り、閉める。音吉が描いたダキニのシュジとやらが微かな煌きを放っていた。
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[chapter:弐]
出来が悪かったせいか、それとも出来の良し悪しに関係なくそういう修行か儀礼があったのか判らないけれど、十三歳(推定)になった僕はいきなり山に置き去りにされた。生きて帰れ。修験の境地に至るのだ。その二言だけ残して去っていく義父の背を、僕は絶望の眼差しで見送るしかできなかった。
捨てられたわけではなかったろう。けれど、死んだところで哀しみもしなかったことはまず間違いない。その修行は、山における常識を知らない十三歳の子供にとってはあまりにも過酷だった。義父は人の通る山道からだいぶ外れたところを通り半日かけて山の高いところまで登ったのだ。その義父がいなくなれば無知な子供が帰れる道理はなかった。元来た道を戻ろうとして、幾らも経たないうちに僕は遭難した。あちらを歩きこちらを歩き、僕は必死に歩けるところを探し、山を下ろうとした。
とにかく下れば人里に出られる。それは子供の甘い考えだった。木にしがみつきながら斜面を降りて辿り着いたのはただの沢だった。そしてすぐに夜がやってきた。
星の位置が見えるようになったことで方角は判ったけれど、判ったところでどうにもならない。夜は暗くて地面が見えないし、山犬の群れになど出くわしたらひとたまりもない。方向を覚えておいて夜が明けてから歩くにしても、地形上どうしてもまっすぐに進めないこともあるし、まっすぐ進めたところで元の道に戻れる保証もない。その日は沢に留まった。
不思議と怖くはなかったけれど、気は張っていたし、それに秋の終わりで山の夜は寒く、着流しの上に羽織るものもなく、とても寝られる環境ではなかった。眠れない僕は光明真言をひたすら唱えた。夜通し唱え続けた功徳かどうかは判らないけれど、夜明けを迎えるまで虫の鳴き声に梟以外の獣の気配が混ざることはなかった。少なくとも遭難初日の夜としては平和だったのだろうけれど、いつまでも神徳が続くことはなかった。
一睡もしていなかったことで体が重かった。食料はまだ余裕があったものの、山歩きがいつまで続くか判らない以上節約しなければならなかった。お腹が空いた。空腹という感覚を、僕は数年ぶりに思い出した。歩き続けたのも久しぶりだった。道と呼べない斜面を登り続けた。しがみついていた木の幹からしがみつける次の幹に向けて踏ん張って登った。手の力が次第に抜けていった。足が上がらず木の根によく躓いた。みるみる体力がなくなっていった。あの頃と同じ脱力状態がやってきた。たぶんそのせいもあるのだろう、僕は堆積した落ち葉に紛れていた斜面に足を取られ、幹につかまる前に滑り落ちた。
これまで登り続けた斜面を一気に滑った。運悪くどの木にも引っ掛からず、僕の体はまるでピンボールのように木に弾かれながら落ちていった。体が回転し、上下が判らなくなった。奇跡的に顔や首はぶつけなかったものの、斜面の終わりに生えていた最後の木に、僕は腰を強かにぶつけた。
僕はもう歩けなかった。あちこちが擦り切れて痛かった。あちこちをぶつけて痛かった。手も足も動かなかった。遅れて吐き気が込み上げた。
しばらくすれば痛みは引いた。でもそれは動かなければという前提だった。少しでも動けばすぐに全身の痛みが存在を主張し始めた。頑張って頑張って痛みに耐え、やっと楽に身を横たえる体勢にする、それで精一杯だった。
程度の違いこそあるけれど、足と手はどれも無傷ではなく、立ち上がるのも不可能だった。おそらく満足に動けるようになるには数日かかるだろう。
しかし僕は絶望を知った。食料や水が入った袋がなくなっていた。転げ落ちる過程でどこかに引っ掛かってしまったのだろう。これで僕の体力は回復の手段を失ってしまったことになる。
けれど、絶望と恐怖は結び付かなかった。死という言葉の存在と意味は知っていても、それに対して恐怖することは僕にとっては有り得なかった。
それは幼い時分に死と密接な関わりを持ってしまっていたからか、或いは、単に生きたいと思ったことがなかったからなのか。何にせよ、僕はいずれやってくる死を拒絶せず受け入れようとした。ただ、ありのままに。
大日如来と不動明王の真言を何度か唱え、すぐにやめた。痛くて印も結べないし、こんな心境で何を祈ればいいか判らなかったからだ。浄土系でない僕が何となく南無阿弥陀仏と唱えるわけにもいかない。
満身創痍の体で唯一無事なのは意外にも尻尾だった。僕は仰向けで足の間から覗く尻尾を揺らした。自分の見えないところから生える尻尾がふわふわと動くのを見るのは存外に楽しく、しかしこれが最期の遊びになるのかと思うと、そのことに対してのみ寂しい気持ちになった。すぐに疲れたし足の擦り傷にちくちく毛が刺さって痛かったし、それに、なぜだかそれは僕に適さないような気がして、尻尾遊びは長く続けなかった。
すると、次には強い眠気が襲ってきた。何に対しても無防備になってしまった僕は、むしろ安心して眠りに就けるだろうと思った。夜は冷えるし土も冷たい。もしかしたらもう目覚めることはないかもしれない。そう考えて僕は顔を西に向けた。名残の太陽は木が邪魔で見えなかった。僕は穏やかな気持ちで目を閉じた。
けれども僕は目を覚ました。寒さによってではなく、また十分に眠ったからでもなかった。時分は夕暮れが始まった辺りなのだ。ただ、気配を感じたからだ。足音や息遣いではない、何かがそこにいるという漠然とした、――しかし強烈な存在感――それはまさしく霊的直観だった。[[rb:鬼魅 > きみ]]の類が僕の死の臭いを嗅ぎ付けやってきたのだ。僕は何とか体を動かそうとしたけれど、激痛は変わらずそこにあった。
しかし僕は起きねばならなかった。抗わねばならなかった。獣に食われて死ぬのならまだいい。だけど鬼魅に魂を喰われるのだけは耐えられない。僕は力を振り絞った。命を振り絞った。痛む腰に鞭を打ち、肘に力を籠め、歯を食い縛って顔を上げた。
しかしそこにいたのは狐だった。前脚と後脚をきれいに揃え、じっと僕を見据えていた。
狐は琥珀色のきれいな目をしていた。神々しいほどの白毛であったこともそれがただの獣であるはずがないと確信するに足る根拠になったけれど、例えそれを考慮しなかったとしても、その目に紛れもなく秘められた知性が雄弁に語っていた。
僕は脱力して再び天を仰ぎ、心の中で笑った。これは因果応報であると。狐を弄んできた罰なのだと。もしかするとその狐は[[rb:荼枳尼天 > だきにてん]]の化身、或いは使いかもしれなかった。私欲のために荼枳尼天法を[[rb:徒 > いたずら]]に[[rb:修 > しゅう]]してきた僕に罰を与えるために現れたのだ。或いは、死にゆく僕から心臓を抉り取りに来たのかもしれない。であるならば僕は抵抗などしてはならない。妖狐であるにせよ荼枳尼天の使いであるにせよ荼枳尼天そのものであるにせよ、これから起こることは自分に下される罰なのだから、僕がすべきはそれを甘んじて受け入れることしかないのだ。
白狐は足音も立てず僕に近づいた。手を伸ばせば触れることができるくらいまで近づいた。僕は身じろぎひとつしなかった。白狐は少しの間何かを思案するように立ち止まり、そうして口を開けて牙を覗かせた。その牙はこれから僕の喉に向かうのだ。
「そんな哀しそうな顔をするな」
しかしそうはならなかった。何が起きたのか理解が追いつかなかった。僕は頭を持ち上げ、すぐに激痛を思い出して脱力した。白狐が口を利いた。それの意味するところを考えようとしたが、考えがまとまるより前に、白狐は後脚ですっと立ち上がった。
そして白狐は僕の見ている前で流れるような変化を見せたのだ。
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[chapter:三]
狐が化けるということが冗談でなく真実であると知っている人はそれなりにいるかもしれない。だから伝記にもなり得たのだろう。では実際に化ける場面を目で見たことのある人間はどれくらいいるだろうか。これだけ広い日本だ、一握りくらいはいるかもしれない。だがそれを更にスローで見たことのある人間となるとどうだろう。一握りの中の一握り、それこそ一つまみ程度しかいないのではないだろうか。その点のみでいえば俺は貴重な体験をしているといえるのかもしれないが、ひとつ問題があるとすれば、その変化が部分的なものでしかないということだ。
いや、部分的とは最適な表現でないかもしれない。今まさに起きている変化は、手だけとか足だけとかいう纏まった一部位ではないからだ。それを一括りに表す便利な熟語は存在するものの、だからといってそれを部分的と称するには些か乱暴にあたるかもしれない。
それは「体表」のことだ。彼らにとってみれば体毛と呼ばれたほうが有り難いかもしれない。紋付袴を別にすると、音吉が着ていた水干は実物ではなく、音吉がそれ込みで変化したものだった。それらがどこから来たものかというと、それは音吉の体の一部が変化したものという他あるまい。その変化を解くということは、音吉の体に戻っていくということを意味する。
彼らとて何もないところからものを生み出すことはできないのだ。人間とかけ離れた存在である彼らにも、彼らなりに従うべき世界の法則があるらしい。
ちょうど草鞋を脱いだ時のように、音吉の服が消えていく。消えていくというよりは、返っていくといったほうが自然だった。広げた両手から垂れるダボダボの袖の生地が薄くなり、目には見えないほどの細かな繊維となって体毛の隙間に吸い込まれていくようだった。重力で膨らんでいた膝上の裾が薄くなり、続いて虫眼鏡の収斂現象で焦げたみたいに穴が開き、膝頭が見えた。そしてそれらはシリンジで押し出したレーヨンを戯れに再度吸引した時のように、いや、もっと判りやすく、無数のチンアナゴが砂の中に引っ込むように、それらはすうっと音吉の中に返っていった。
後に残るのは音吉の裸体。普通の狐であれば服など着けないのが常識だが、彼らは二足歩行をする霊狐であり、見た限り衣服を着用する習慣があるらしいため、この状態はやはり裸と称するほうがいいだろう。服の変化を解いた今、音吉は何も身に着けない稲穂色の裸体を晒していた。
体付きのみ見るならば痩せた人間の子と大差ない。体毛に覆われているかいないかの違いがあるだけだった。毛足の長さや量はキタキツネには及ばない程度だが、夏毛というほどほっそりしているわけでもない。だがその体毛による嵩増しを例え差し引かなかったとしても、音吉の体付きは華奢であるといえた。腕も、肘も、肩も、腰も、首も、折れそうなくらい細かった。とはいえそれは栄養の足りない不健康な痩せ方ではなく、不必要な肉の一切が存在しない洗練されたアスリートを彷彿させた。といっても見て取れるほどの筋肉があるわけではないのだが。
足の指は四本、手の指は五本。本当に、人と狐が程よく混ざり合ったような造形だといえる。手首から手の甲にかけては黒く、手の平には犬や猫のような肉球がある。
体毛以外に人と違う部分を探すとすれば、やはり首から上が動物の狐であることだ。ピンと立った黒の三角耳に、すっと伸びる鼻先、口が閉じていることで長く伸びている黒い唇。そして見えてはいないが閉じた口の中には上下二本ずつの犬歯が伸びているはずだった。
次点に尻尾が挙がるだろう。人間にはもはや名残の尾てい骨しかないその場所に、彼らは尻尾を生やしている。肩幅程度に開いた足の間から、膝下まで垂れた尻尾が見えている。
そして目をやったことで気が付いた、股間。これまでの情報と人称代名詞から男であるとほぼ確信はしていたが、足と足と間にはやはりその証明が存在していた。
敢えてここで挙げはしたが、人間との差異があるかどうかは判断がつかない。少なからぬ体毛もあって見ただけでは詳しい構造は判らないが、少なくとも今の状態――人間と同じようにぶら下がっている状態だけを見るならば、それは体毛を有している以外には人間のそれと違いはないといえる。
なぜ服を脱ぐ必要があるかについて、ある程度の推測は可能だった。それは散歩中にした話の続きにあたる。信仰から切り離され消滅を待つばかりだった眷属たちが現代まで存在し続けている理由がそれだ。
話を聞く限り彼らは世代交代をしている。当時から現代にかけて同じ個体が死なずに生き延びているわけではなく、繁殖し、系譜を繋げているのだ。
「それが切り離された眷属たちが選んだ存続の方法だったわけか」
音吉は微かに目を開け微笑んだだけだったが、それは肯定のサインなのだろうと思った。
「いきなり脱ぎだして、頭がおかしいとは言わないんだね」
「おかしいと思う気持ちがないではないが、それは所詮人間の常識にすぎない」
「嬉しいね、そう言ってくれるのは。だけど確かにその通り。人間の常識を霊狐に当てはめてもいけないし、霊狐の常識をそのまま人間の常識に当てはめてもいけない。おれの格好と鈴次さんの格好は、そのまま二人の壁の厚みだ」
「そういう常識が変わろうとする動きもあるにはある。途方もない時間が掛かりそうだが」
「無理しなくてもいい。少なくとも今はね」
そう言うと音吉は一瞬でまた元の服に身を包んだ。今度の変化はとても人間の目では追えるものではなかった。
「霊的な存在に、――いや、確かにおれは男だけど、霊的な存在の繁殖には性別が関係しない。もっとも、里の長なんかになると男女で結婚しなければならないしきたりがあるにはあるんだけどね。ちょうどおれの結婚相手がヨネヅヒメだったように」
俺が轢き殺してしまった狐の話が出て、俺は僅かに気まずい気持ちになった。
「そのヨネヅヒメという狐について、お前はどういう感情を持っていた?」
「歳が離れすぎてたのもあるし、ろくに交流もしていなかった相手の里のこともよく知らないし、おれとしては結婚なんてしたくなかった。だからある意味では鈴次さんに感謝しているんだよ」
もしかすると俺の感じている負い目がそう思わせるだけなのかもしれないが、その台詞はどこか俺を気遣っての方便のような気がしてならなかった。
結婚そのものに乗り気でないのは事実だとしても、それでも本音を言えば里を敵に回したくなんかなかったはずだ。しかもあんな最悪な形で。あれだけの啖呵を切ったのはおそらく自分が標的になることで俺への敵対心を逸らすためなんだろうと今では思う。キヌマルの話からするとあまり効果は出ていないようだが、それにしてもそうまでさせる大事な事情とやらが俺にはあるらしい。その事情とは何か。俺は少し推察してみた。
「霊狐の常識として、結婚相手に性別は関係しない。だから俺と結婚することは霊狐の常識からすれば普通のことで、その目的は信仰から切り離された霊狐がこの先も存続するため。そして俺でなければならないのは、例えば俺にその適正があるから」
これまでの情報から出せる結論としてはそういったところだが、音吉は残念そうに首を振った。
「ところがそれは結び付かないんだ。確かに分離した眷属は現世に留まる方法として人間の血を混ぜることを選んだ。だけどそれは何世代かに一回で事足りる。キヌマルが言ってたの覚えてるかな、まだ時期ではないから無理に人間と交じる必要がないってやつ。おれはまだその世代じゃない。おれが鈴次さんと結婚したいのはね、本当に個人的な理由にすぎないんだ。血を混ぜるのは人間であれば誰でもいい。だけどおれが鈴次さんじゃないと駄目な事情というのは、もう一度言うけど個人的な事情でしかない」
「個人的な事情、ね。それはいつか俺にも理解できる日が来るのか?」
何気なしの問いだったが、音吉は口をつぐんだ。そうして黄緑色の水干を翻して背を向けて、ベランダへの大窓に掛かるカーテンを開けた。やけに心地よい音を立てた。秋晴れの眩しい太陽光が部屋を照らした。音吉の落とす影が妙に寂しかった。もし影に目が付いていたとしたら、その目は涙を流しているかもしれなかった。
「理解できる。……そう信じてるよ」
「希望的観測にしてはスケールがでかすぎる気がするな」
「でも仕方がない。出会い方が悪すぎた」
「まあ、あの場合ああするしかなかったんだろう。今となっては巻き込まれたという認識もしていない。俺は俺の納得のもと行動しているし、納得できないことは持てる力で抗う。その結果が何であれ、俺は後悔はしないだろうと思う」
そう、例え日常というものがこの先ずっと戻ってこなかったとしてもだ。人生はなるようにしかならない。納得さえしていれば人生はそう悪いものではない。そもそも納得していなければ音吉を部屋に上げていないだろうし、その前に車から蹴落としているだろう。そして俺は今この世にいない。納得のいかない死を迎えていたはずなのだ。
人生はなるようにしかならない。なるようになった結果が今の人生だ。
色即是空、そして空即是色という有り難い言葉もある。
[newpage]
[chapter:参]
僕は白狐に運ばれた。膝と背中を両腕で抱えられ、空中を舞っていた。白狐が変化したのは二足歩行の姿だった。人間の骨格を持っているけれど、体を覆う毛や顔の形、尻尾は狐のまま――そう、僕とまったく同じ狐人間だった。僕は胸が熱くなるのを感じた。毛色は違うけれど、僕と同じだ、仲間なのだ。そう思うと泣きたくなった。
白狐は自らを[[rb:観堂丸 > みどうまる]]と名乗った。
背丈は僕よりは高く義父には及ばないくらいだ。それなのに僕を軽々と持ち上げ、木々の間を軽々とすり抜けて駆け下りていった。登っているのか降りているのか目を閉じれば判らないほど鮮やかな身のこなしだった。
枝から枝へ、土から幹へ、たん、と飛び上がっては水干が舞う。白い水干が風で膨らみ、藍の袴も風で膨らみ、しかし暗くなり始めているにも拘らず、裾や袖を枝に引っ掛けるなんてことは一度たりともなかった。
跳躍は十尺に及ぶこともあった。それでいて僕の痛めた腰に響くことは殆どなく、僕は揺り籠の中にいるような心地にさえなった。時たま夕焼けに照らされる観堂丸の顔は、楽しそうに笑んでいた。
辿り着いたのは彼が〝里〟と呼ぶ集落だった。そこにはやはり二足歩行の狐たちが暮らしていて、僕の来訪に多種多様な視線を投げ掛けていた。怪訝、忌避、好奇。基本的には招かれざる客
なのだろうと僕は直感した。夕暮れに突如やってきた災厄の芽。ともすれば僕はそんな風に人々の目に映ったかもしれない。観堂丸を咎める声も上がったが、それを笑い飛ばす観堂丸はどうやら結構な立場にあるらしかった。
観堂丸に抱えられたまま、僕は瓦屋根の立派な建物に連れていかれた。高い屋根があり、立派な柱があり、畳があり。住居は人間のものとまったくといっていいほど同じだった。そこでやっと下ろされた僕は、いかにも威厳のありそうな三人の狐たちに囲まれた。[[rb:狩衣 > かりぎぬ]]姿や[[rb:作務衣 > さむえ]]姿、観堂丸のような水干姿と統一性はなかったが、それでも里の中心を担う者たちなのだろうということはすぐに判った。威厳がありそうな顔や目つきだったし、そして確かな霊威が感じられた。
まだ一人で座れないほど全身が痛んでいた僕に、観堂丸は背を支えて座らせてくれた。なぜだかそうされていると心が安らぐ気がした。
「こいつが快復するまでここで世話をする」
それはまさに報告のようだった。目上の者への相談ではなく、御触れを伝える幕府の役人のような調子で。
「やれやれ、観堂丸の道楽には困ったものだ」
「素性も判らぬ人の子を……」
「人間の間諜やもしれぬのに……」
と、周りの狐たちは呆れた顔や渋い顔をしていたけれど、それでも観堂丸の決定を退けることはなかった。
おそらく観堂丸は里の長か、その次席にあたる人物なのだろう。稚児を愛でるように僕の頭を軽く叩き、観堂丸は僕を抱えて立ち上がった。
「あ、あの」
僕はここへ来て、いや、観堂丸に助けられて以来初めて声を出した。どこかに連れて行かれる前に聞かなければならないことがあったのだ。
「助けて頂き有難く存じます。ひとつお尋ねしたいことが御座います。あなたがたは僕の仲間なのではありませんか?」
先程彼らははっきりと僕のことを人の子だと言った。その違和感を僕は確かめなければならなかった。
「珍妙なことを抜かす」狩衣姿の年老いた狐が笑いながら言った。「お前は人間、我らは霊狐、仲間と呼ぶには些か無理があろう」
「でも僕は狐の姿をしています」
僕がそう言うと、ここで初めて気が付いたように狐たちは僕の姿をまじまじと見た。
「これは奇怪な」
「人が狐に化けるとは」
「巧妙すぎて気付かなんだぞ」
どこからどう見ても狐なのに、僕には彼らの言動が理解できなかった。
「確かにお前は歪な存在であるようだが、だからとて大した問題ではなかろうよ」
やっぱり彼らも他の人間同様に僕を異質だと思っていなかったようだ。
「では」と遮るように観堂丸が言った。「これにて失礼する」
「失礼仕ります」と僕は痛くない程度に頭を下げた。
そこからさほど遠くない場所に建てられた立派な庵が観堂丸の住まいだった。その中に連れて入られた僕は[[rb:筵 > むしろ]]の上に寝せられ介抱された。筵は編んで日が浅いようで、濃厚な藁の香りが気持ちを楽にさせた。
観堂丸は水桶と手拭いを用意して僕の体を拭いてくれた。
「骨は折れていないようで何よりだ。すぐにでも薬を塗ってやりたいところではあるが、生憎おれたちは薬など使わんから持ち合わせがない。今用意させているがいつになるか判らん」
「お気遣い有難う御座います観堂丸様」
「様なんて付けてくれるな。くすぐったいったらありはしない」
「でも里の長なのでしょう」
「長というならあそこにいた三人とおれを合わせた全員が長だ」
「それにしては有無を言わせぬ物言いだったように思います」
「そうしないと怒られるのだよ。威厳がどうとか言ってな。連中はおれを勝手に持ち上げようとしてるだけさ。とはいえおれは連中よりずっと若輩の新参だ。顔を立てる姿勢は見せねばおれの気が済まん。完全に長となるのはまだ先でいい」
「なぜ皆さまは貴方を長にしようと?」
「おれが[[rb:辰狐 > しんこ]]だからだよ」
「辰狐」僕ははっとして呟いた。「[[rb:辰狐王菩薩 > しんこおうぼさつ]]」
「よく知っているな。つまり[[rb:荼枳尼 > だきに]]のことだ。おれはその眷属だった」
「だった?」
「今は違う。荼枳尼ともども切り離されてしまった」
〝切り離される〟と耳慣れない現象について、話を聞いた僕は驚愕した。
神仏は人間が作り出す。神仏は人間が作り変える。そして神仏は消えていく。[[rb:神祇官 > じんぎかん]]や仏僧、陰陽師の身勝手により神仏が振り回されている。その言葉に僕の気分は沈み、何も言えなくなってしまった。
「昨今の日の本を取り巻く神仏情勢は目まぐるしく変化している。その中で日々新たな神仏が生まれては分離して行き場を失っている。神や仏は己の役目を終えたのだと自ら進んで消えてゆくが、我々眷属は生への執着心は多分にあるからな。霊狐の隠れ里とはそういった者たちの集まりだよ。[[rb:黒女子 > こくじょし]]や[[rb:赤女子 > しゃくじょし]]や[[rb:帝釈 > たいしゃく]]の[[rb:乗狐 > じょうこ]]、或いは弁財天の眷属。そういったかつての辰狐たちが往々に長となって里を率いていく。だいたいは狐は狐、鹿は鹿とまとまって集落を作るが、[[rb:飯縄 > イヅナ]]の狐と天狗のように共存共栄することもある」
罪の意識が僕を襲った。人間が彼らを勝手に生み出し、利用するだけ利用して、そして勝手に不幸な目に遭わせてしまう。人間とは何と身勝手なのだろう。それは呪術によって狐の骨を弄んできた僕や義父も例外ではなかった。
やがて[[rb:擂鉢 > すりばち]]と薬草を持った狐と薬湯の入った器を手にした狐がやってきた。薬草はよく沁み、薬湯はいかにも効きそうな苦さだった。観堂丸に尋ねたいことはまだまだあったけれど、今夜はもう休めと言われてそれに従った。薬湯の効果なのか体がぽかぽかした僕は、そのまま気を失うように眠り込んだ。
子狐たちはまだ上手く変化ができないようで、四つ足の姿でよく僕のところに遊びに来た。観堂丸が僕の体を労わって子狐たちを制したけれど、子供が聞かん坊なのは人も狐も同じようで、僕の着流しの裾や袖を噛んでは引っ張って観堂丸に怒られていた。次には観堂丸を呼び捨てにしてからかい始め、しまいには四つ足に変化した観堂丸に追い立てられていた。彼は本当に人当たりも面倒見もよかった。だから何処の誰とも判らぬ僕をこうやって助けたりするのだろうし、その何処の誰とも判らぬ僕のところに子供を遣って安心できるほど親たちにも信頼されているのだろう。
観堂丸は僕にも呼び捨てにしろとか堅苦しい言葉遣いをやめろとか言ってきたが、僕がそれを取りこなすのは困難を極めた。最終的にそっぽを向いて口を利かなくなったので、僕は精一杯の努力をしてやっと〝様〟を外すことだけできた。
年寄りたちから軽い聴取のようなものも行われたが、僕は義父とはぐれたことと、義父にあまりよい扱いを受けていなかったことと、だからもしかすると捨てられたのかもしれないということを伝えた。
義理とはいえ陰陽師の息子であるとは決して言わなかった。言えば殺されるかもしれなかったけれど、それが理由ではない。狐たちが敵視している陰陽師を里に連れてきたことで観堂丸の立場が危ういものになってしまうのを恐れたからだ。
とはいえ嘘は吐きたくなかったから、突き詰めて素性を訊かれていればおそらく答えていただろうと思う。名のある家で奉公している身だという説明で狐たちが納得してくれたのは幸いだったかもしれない。観堂丸が睨みを利かせていたおかげもあるだろう。
ただ、疑いの目が完全になくなったわけではなかった。三日が経過して歩けるようになった僕が子狐たちと遊んでいると、やってきた作務衣姿の老狐が改めて僕の素性を気にする素振りを見せたので僕はこう言ってみた。
「では僕をここに置いてください。助けてくださった恩返しに命の続く限り奉公致します」
人里に帰らなければ疑いも何もあったものではない、僕にはその覚悟があるのだと言外に示した。断られるのを判り切って言ったことだけれど、強ち冗談というほどでもなかった。どうせ元の生活に戻ったところで楽しいものではないし、あんなことを聞いた後では陰陽術を使い続ける気も起きなかった。それならばここで、観堂丸のもとで……。もちろん一笑に付された。人と狐は相容れぬものだと。
「まあ、ひとつだけ人と霊狐が交じる道がなくはないが、お主のような童にはあまりにも酷じゃ。観堂丸が許すまいて」
それの意味するところは解らなかったけれど、尋ねたところで返事が変わるわけでもない。僕が何も言わないでいると、ひっくり返って腹を見せた子狐を撫でながら老狐は言った。
「お主にはお主の役割というものがあるのじゃろう。人の世に戻り務めを果たすが良い。お主は自分の姿を気にしておったが、それも何か意味があってのことじゃ。――良いか、〝お主はお主の役割を果たせ〟」
最後の部分だけ音の響き方が違ったような気がした。まるでこの老狐が発した言葉でないような、まるでこの老狐の口を借りて別の何かが喋ったような。
けれどもそれは気のせいに他ならず、老狐と子狐たち以外の狐はもちろんいなかったし、老狐には老狐の気配しかなかった。未熟でも陰陽師だ。それは確信している。けれど、老狐の言葉が僕の心の中にある特定の何かを刺激したことは確かだった。
「まあ、こうやって子供らの相手をしてくれることには感謝しておるよ。こやつらの元気は尽きることがないし、何より遠慮がない。わしらでは命がいくらあっても足りぬからの」
老狐はそう言って冗談めかした笑みを僕に向けた。僕も会釈を返したけれど、笑い慣れていない僕の笑みは幾分ぎこちないものだったに違いない。老狐が手を離すと子狐は今度は僕の裾を口で引っ張って催促した。
「子供らには不自由をさせたくないものじゃ」
「同感です」
僕は子狐たちをひっくり返したり抱き抱えたり相手をしながら、老狐が去っていくのを目で見送った。
山を下りられるほど体力が戻るにはそれから二日を要した。
[newpage]
[chapter:四]
「キヌマルの言ったことだけどさ、おれもやっぱりマンションは危ないと思うんだよ」
音吉が助手席でごそごそしながら言った。ダッシュボードの中を物色したりシートの下を覗いたり忙しいやつだ。車好きなやつならばその狼藉は大いに叱責の対象となるだろう。
しかし生憎ながら俺はこのダイハツのムーヴに対して愛着や執着といったものはさほど持っていない。車は走りさえすればいい。それだけだ。
「そのつもりではいるが、如何せん考えなければならないことが多くてな」
「悠長にしてたらそれだけ後手を取ることになる」
「判っている。だから今日は実家の様子をまず見に行く」
「え、もう顔合わせ? まだお互いに準備が」
「誰もいないから安心しろ。いたとしても姿を隠せ」
「なんだ」
隣の市に俺の実家があるが、今はもう誰も住んでいない。五年ほど前まで母が一人で住んでいたが、膝を悪くして歩行が辛くなり、そして軽度の認知症が入り始めたこともあって、現在は老人福祉施設に入所している。
実家は山の近くにあり、家はそれなりにまばらに建っている。理想とまではいかないが、少なくとも何か争いが起きたとしても他人に迷惑を掛けにくい立地といえるだろう。問題はあまり良い思い出が無いことと、かなりのボロ屋ということだ。
「家は人が住まなくなったらすぐに傷むという。まだ住める状態であればそこに引っ越すが、音吉、それより先にひとつ確認しておくことがある」
「うん?」
「お前は誰が来ても追い返す自信があるそうだが、――それはまあ信じる他ないが、しかしキヌマルも言っていただろう、数に物を言わせてきたらどうするつもりだ?」
「全員ぶっ殺すだけだ」
「簡単に言うんだな。できるのか? いや、できるかできないかを聞いてるわけじゃない。なんて言えばいいか……。そうだな、この状況、どう展開すれば〝解決した〟ことになる?」
「解決ね。うーん……やつら全員が諦めてくれることかな」
「俺には霊狐の常識も考え方も解らんが、実現の見込みはあるのか」
「低いだろうなあ」と音吉は他人事のように言い放った。「でも、だからといって平和的解決はもっと見込めない。殺し合いをするにしても話し合いをするにしても、まずこちらの力を見せつける段階は必要だ」
「やれやれ」
俺が危惧しているのは、あまり長丁場になるようなら実家からの通勤が面倒臭くなることと、刺客に対して俺が音吉の足手まといになることだ。正直な話、金属バットでどうこうできるような相手ではないだろう。まともに見たのはキヌマルしかいないが、なんか動きは速いし変な力を使うし人間に敵う相手ではなさそうだ。俺はどう動けばいいのだろう。音吉の後ろに隠れて音吉が敵を蹂躙する様を見ているだけでいいのだろうか。いいとしても、音吉が無双するだけで解決するような単純な問題なのだろうか。
そんな風に俺が頭を悩ませながら危険な運転をしていたのだが、音吉はまったく別の心配をしていた。
「仕事はやめないの?」
「おいおい」驚きすぎてアクセルを強めに踏んだ。「いきなり何てことを言い出すんだ」
「最低でも休職するべきだと思う。周りを巻き込みたくないならね」
「人間社会というのはただ生きていくだけでも金が掛かる。その金を稼ぐ手段は主に労働だ」
「貯蓄とかないの?」
「貯蓄か。あるぞ。マイナスの貯蓄がな」
「それって借金じゃん」
「母親が作ったものだ。それにホームシアターセットも買ったしいよいよ金はない」
「あんなもの買うから……」
「あれの良さは狐には解るまい」
「まあそれはどうでもいいや。言いにくいことだけど、それでも仕事してる場合じゃないんだよ。鈴次さんは事の重大さをまだ分かってないね」
「ならどうしろと言うんだ。先立つものは必要だぞ」
「いっそ山奥にでも住む? 食べるものなら採ってきてあげるよ」
「勘弁してくれ。どんな修行だ」
「まあ、鈴次さんがそれでいいって言うならそれでもいいよ。でもね、本音を言えば今すぐにでもこの場から遠く離れるべきなんだ。さすがにそれをしたがらないだろうというのは分かってるから、これで妥協してるんだ」
もしかすると失う日常というのは人間社会で暮らせなくなるレベルのものなのだろうか。それは困るな。
……いや、困ることはないのかもしれない。どうせ良い方面での人間関係などないに等しいのだ。俺一人が失踪したところで誰も悲しむまい。ああ、あの人いなくなったんだ、いつかそうなる気がしてたよ。こう言う者もいるだろう。会社は扱いに困るお荷物がいなくなってせいせいするだろうし、母親は母親で俺がいなくなったことすら気付かないかもしれない。
「何か良くないこと考えてるね?」
「おいおい」驚きすぎてアクセルを踏みすぎた。「そういうのも判ってしまうものなのか?」いきなり加速したと思ったら減速して、おかしいムーヴだと後ろのヤマト運輸に思われているだろう。
「心を読めるってわけじゃないんだけど、場を取り巻く気の変化で感情の種類くらいは分かる」
「参ったな」
つまり愛想笑いや社交辞令なんかも看破されてしまうのだろうか。ひょっとすると、霊狐社会は人間社会よりも面倒なのではないだろうか。愛想笑いや社交辞令が必要な社会であればの話だが。
マンションからざっと車で四十分の距離だった。国道から県道に折れた山沿いに、俺の実家は変わらず建っていた。生垣は伸び放題で私道を塞ぎかけていたが何とか通れそうだ。ウィンカーを出して右折待ち。こんな田舎に珍しく対向車が二台も続いていた。その間にヤマト運輸は俺の左側をすり抜けて去っていった。
確か百何坪だったか、貧乏なくせに地価のおかげで敷地面積だけはありやがる。俺は雑草だらけの広い庭を見て溜息を吐いた。大は小を兼ねるというが、必ずしも大が小より優れているとは限らない。大きすぎることにより生じるデメリットというものはちゃんと考慮しなければならないのだ。子供の頃の強制労働を思い出し、またそれをしなければならないことを嘆いた。
憂さ晴らしにそいつらをタイヤで踏みつぶしてやったが、気休めにもならなかった。デコボコの地面の上で、雑草たちは俺と違って力強く蔓延っていた。
適当な位置に車を止め、俺は久方ぶりの実家の土を踏みしめた。たかが四十分でも足は疲れる。穿いているのがデニムのジーンズというのも影響しているかもしれない。汎用性が高い反面、窮屈なのが玉に瑕だ。俺は血流を促すように全身を伸ばした。上はしまむらの白いロングTシャツが一枚。余談だが長袖一枚で過ごせる時期が俺は好きだった。
足を伸ばし腰を伸ばし、俺は家を見上げる。生垣、縁側、雨戸、瓦屋根、漆喰、広い庭。古き良き日本家屋なのかもしれないが、何の感慨も湧いてこない。そういうのは屋敷と呼べるくらい本格的なものに付加される価値であり、今俺の前に建っているのはただのボロ屋だ。子供の頃に築五十年とか聞いたことはある。つまり今では築六十年をゆうに超えているということだ。やれやれ。
「いい家じゃん」
「どこがだ」
鍵を開けるのは相当難儀した。そもそもここに住んでいた頃には外出時、夜間関係なく鍵など掛けた記憶がない。鍵穴のほうも開閉されることに慣れていないのだろう。格子戸の擦りガラスを地震のように揺らし、何とか鍵を回すことに成功した。やかましい音を立てて玄関が開き、埃っぽい空気と埃だらけの玄関と埃だらけの廊下が出迎えてくれた。廊下というよりは縁というほうが正しいか。小豆色の石がびっしり埋まった洗い出しの玄関に、上がり[[rb:框 > かまち]]から長く横に伸びる内縁。雨戸を閉めているため所々開いている木の隙間から光が差しこんでいるだけだが、それでも木板には埃が堆積しているのがはっきりと判る。やれやれ。
「引っ越しの前に掃除だな。面倒臭い」
こんなことだろうと思ってスリッパを持ってきてはいたが、やる気は出ない。しかし俺と対照的に、音吉は目を輝かせてそわそわしていた。
「おれに任せといて」
どうやらこいつは綺麗好きらしい。何とも頼もしいことだ。
「まだ水は出ないからまた今度だ」
「だけどここ、神棚があるね?」
「そうだ忘れてた。お前を追い出すのにここから神棚を持ち出そうと初め考えていたんだ」
「度胸あるね。素人がそんなことやってたら祟られてたよ。ただでさえ放置してるし」
「生憎俺は無神論者なんでな」
俺がそう言うと音吉はくすくす笑った。
「鈴次さんってたまに面白い冗談を言うね。まあ、障りが無いといいけど」
足取り軽く音吉は玄関を上がる。足音と木板が軋む音を立てながら、小さな足跡が生まれていく。成程、見えない人間からしたらとんでもない怪現象だろうな。音吉はなかなか気の利くやつで、頼んでもいないのに雨戸を開けてくれた。途端に家に命が吹き込まれた。
不要なものは母が施設に入るのを機にざっと処分しているものの、家具類はそのまま置いてある。施設からまたここに帰ってこないとも言い切れないからだ。箪笥、食器棚、テーブル、ついでに炬燵もそのままだ。炬燵布団だけがないが、おそらく押入れだろう。もっとも、断熱性の低すぎるこの家で冬を過ごしたくはないものだが。
しかし見れば見るほど嫌になってくる。古すぎる家に住むと人は精神に不調を来すというのが持論だが、そう的外れなものでないと俺は思う。
ひび割れた漆喰、板の反り返った天井、そういったものを見れば誰もが負の感情を呼び起こされるはずだ。……まあ、はしゃぎ回っている音吉を見ると自信が揺らいでしまうが。何がそんなに嬉しいのだろうか。一階の四部屋と台所だけでなく二階にも二部屋あるんだぞ。何だこの部屋数は。俺にはやはり2Kのマンションがちょうどいい。
「何じゃ騒々しい」
突然の声に悪寒が走った。襖を隔てた隣の部屋から声がしたのだ。いやいや有り得ない。音吉の声にしては幾らか低く、イントネーションがどこか年寄り臭かった。もちろん俺の声でもない。まさか誰も住んでいないのをいいことに浮浪者が住みついたのか。金属バットをマンションに置いてきたのを後悔した。まあ構うまいが。
俺は思い切って襖を引いた。バタ、と勢いのある音を立てて襖が開き、中の様子が丸見えになる。俺は身構えて目を凝らした。窓があるため光量に問題はない。しかし何も飛び出してくる気配はなかったし、浮浪者がいるわけでもなかった。
そこは母の寝室兼仏間だった。六畳の狭い空間に閉め切られた仏壇があり、先祖の遺影が二枚あり、枠組みだけになった木製のベッドが……いや待て。俺はベッドの上の違和感に気が付いた。確かに浮浪者は寝ていない。しかし[[rb:簀 > す]]の[[rb:子 > こ]]の上には別のものが寝ていたのだ。
俺は最初、それを犬だと認識した。全身が白い犬だと。長く膨らんだ尻尾をだらりと伸ばし、細い手足をぷるぷると伸ばし、気だるげな顔を俺に向けていた。俺はその顔を見て驚愕した。顔ももちろん白いのだが、うっすらと開いた目の縁や頬辺りが赤く[[rb:隈取 > くまど]]りされていた。
その犬と俺はしばらく見つめ合っていた。その犬はまるで一方的に俺を見ていて、俺に見つめ返されていると気付いていないようだった。しかし目を逸らさない俺に違和感を覚えたのか次第に目が泳ぎ始める。右を見て左を見て、そして、
「お主、わしが見えるのか」
俺はこくりと頷いた。
「……」
「……」
少しの間をおいて、俺とそいつは同時に行動を起こした。そいつは横たわった体勢から垂直に跳ね、俺は音吉を呼ぶ声を上げた。そいつは天井付近まで飛び上がり、猫のように鮮やかに空中で一回転した。およそ常識で考えられない動きだった。危険を感じたものの俺は全身が強張って後退するのが遅れていた。その間にそいつは俺を睨み付けながら着地し、そして――!
簀の子の隙間に右前脚を挟んだ。
甲高い鳴き声が響いた。顔を[[rb:顰 > しか]]めて痛がっていた。俺はここでそいつが犬でなく狐であることに気が付いた。白狐は情けない姿勢になりながらどうにか前脚を抜き、立ち上がる。決まり悪そうな表情をしたのは少しの間だけだった。
白狐は両前脚を揃えてこちらを見上げた。首からは神主が持つような[[rb:幣 > ぬさ]]の紙のようなものが垂れ下がっていた。完全に立ち直ったそいつは威厳に満ち溢れていた。鋭い視線で俺の目を射抜いていたが、少なくとも飛び掛かってくる気はなさそうだった。
心がざわざわした。白狐の細目が俺の目をじっと見ていた。目というよりは目の奥、いや、更に奥の、そう、脳がもやもやした。忌避感に似た居心地の悪さを感じた。もしかすると何らかの霊的干渉を受けているのかもしれない。
気味が悪くなった俺は立ち退こうと試みたが体が動かなかった。いや、動きはする。指も動くし手も動く。膝の曲げ伸ばしもできる。しかし、いざ後ずさろうとすると足が言うことを聞かなかった。不思議な感覚だった。
「お主は……」
白狐の表情が少しずつ曇っていくのが見て取れた。目が殆ど閉じ、眉を[[rb:顰 > しか]]め、口の端が渋く伸びていった。
そうして俺の頭上の辺りを見上げ、
「因果なことを……。[[rb:大神 > おおかみ]]よ、わしにこんな厄介事はあんまりではありませぬか」
泣きそうな顔で訳の解らない台詞を吐き、半透明になって俺の頭上に吸い込まれるように消えていった。
途端に体が動いた。今になって気付いたが、相当な重圧があったようだ。足には疲労が溜まり、心臓はバクバクしていた。すっかり気配の消えた部屋に入って天井付近を見上げると、そこには埃を被った神棚があり、狐の置物がひとつ立っていた。
おそらく今のは切り離されていない現代の稲荷神の眷属なのだろう。立ち尽くしていると、落ち着いた足音とともに音吉がやってきて俺の隣に立った。涼しげな顔をして同じように神棚を見上げた。
「ずっと見てたのか」
「おれは稲荷狐が嫌いでね」
「そうか、気が合うな」
音吉は意外そうに俺を見た。
「鈴次さんも? どうして?」
「なぜか解らんが」
「ふうん。ま、とにかくここの掃除は鈴次さんがやってね」
「判っている」
祟られるようなことはなさそうなので少し安心したが、とはいえ眷属が棲んでいることを知ってしまえば神棚をあんな状態にしておくわけにもいくまい。次に来た時に掃除をしようと心に決めた。面倒だが好き嫌いと義務は別物だ。
ざっと家の点検をした。一階にも二階にも雨漏りの後は見受けられないし、問題なく住めそうだった。ただひとつ裏の勝手口の戸が開かなかったが、元よりそこは使っていなかったため問題なしとしていいだろう。ガスと電気と水道を通すことと転居届。やれやれ、忙しくなりそうだ。
庭先に車を乗り入れる音が聞こえた。トラック系の音だ。隣家は少し離れているからこの家が目的であることは明らかだ。何だろうと縁側から窺うと、それはヤマト運輸の二トントラックだった。いやいや。俺と音吉は顔を見合わせて頷いた。
靴を履いて玄関から出ると、配達員はちょうど荷物を手にこちらへ向かってきていた。二十代前半の短髪。気が弱そうで、荷物が軽く当たったのか眼鏡がずれている。荷物の大きさは肩幅より少し大きい程度、厚みは親指と小指で挟める程度の段ボールだった。確かに昨晩Amazonのお急ぎ便を利用したが、いくら天下のAmazonでも早すぎる。そう思ってよく段ボールを観察してみると、貼られている伝票以外に模様はなく、Amazonの文字はどこにも見当たらなかった。
荒れた庭に時折足を取られながら俺のところまで来た配達員は、怪しいものでも見るような目で俺の顔を窺った。
「すみません、こちらにお住まいですか?」
「今は違います」
「ですよね……。私もそういう認識だったんですが、送り先の住所は確かにここなんですよ。所有者の方ですか?」
「そうです」
「吉崎さん?」
「はい」
「あれ、合ってるじゃないですか。吉崎……すず……つぐ……さん、ですか?」
「れいじです」
「失礼しました。では受け取りのほうを……」
「いや、それはできない」
「えっ」
きっぱりと断ると、配達員はこの世界の法則を見失ったように唖然としていた。
「俺は確かに吉崎だが、五年も前から別のところに住んでいる。母もしばらく前から施設に入所しているし、施設側へ申告しているのは俺の現住所だ。つまり役所的には現在この家には誰も住んでいないことになっていて、そんなところに届いた荷物を受け取ることは誰にもできない。近いうち再びここに越してくる予定だが、それまでは受け取れないということで理解してほしい。こんなことを一介の配達員に言うのは気が引けるが」
配達員は困った顔をしてしばらくごねたが、根負けしてすごすごと引き返した。段ボールを荷台に積んでトラックに乗り込み、排気ガスを吹かして走り去っていった。運転席で大きな溜息を吐いたのが遠くからでも見えた。
トラックが完全に見えなくなってから、俺は背後に歩み寄ってきた音吉に言った。
「見てやり取りした感じでは怪しくなかったが、どうだ?」
「怪しさは満点だよ」
「ふむ。同じ霊狐でも見分けが付かないものなのか?」
「霊狐そのものが人に化けてたとかだったらすぐに分かるけど、今の人は生身の人間に狐が憑いてたんだと思う。憑依は人の心に入り込むから、よっぽど前面に出てこない限りはその人の気に隠れちゃって分からないんだ。触れば分かるんだけどね」
「狐が憑くというのは具体的にどういうことなんだ?」
「人間にとっての定義は色々あるけど、おれたちの定義でいくなら文字通り狐が影響を与えること。これにはいくつか段階があってね。狐がその人の中に乗り移って意思・行動すべてを掌握する重度のものから、こちらも乗り移りはするけど、意思は本人のまま、行動を支配する中度のもの、それから、実際には乗り移らないし意思も行動も本人のものだけど、感情に影響を与える軽度のもの」
「軽度がよく解らん」
「認識の操作。つまり喜怒哀楽や寒暑、苦痛、好き嫌いの方向性だね。それがあたかも自分でそう感じているように操作されるんだ。結果、その人の行動の選択に影響を及ぼす」
俺はそれを聞いて寒気を感じた。つまり自分で行動しているつもりでも、実は狐がそうさせていたということか。実に怖い話だ。
「で、今の人だけど、おれが縁側から姿を見せた瞬間ちらりとおれのほうを見た。まずいと思ったのかすぐに別のほうに目をやったけど、取り繕い方が下手くそだね」
「あんな怪しい方法で近づいてくるしな。さすがにあれは受け取れん」
「たぶんだけどうちの里の者だと思う。でなければおれの姿を見てもお構いなしに行動を起こしてたはずだ。ここから縁側まではおれにとっちゃひと飛びの距離だからね。まあ、いずれにしても次はもっと準備をして強硬手段に出ると思う。で、これからどうする?」
「ここが住める状態だというのは判ったからな、引っ越しの準備だ」
「よしきた」
時刻は十時半。ちょうどいい、今から戻れば仙狸庵が開店するタイミングだ。昼はそこで済ませ、ダイソーに寄って掃除用品などを買い揃えよう。
美味いうどんを食わせてやると言うと、音吉は喜び勇んで車に乗り込んだ。
[newpage]
[chapter:肆]
別れは何とも呆気ないものだった。[[rb:観堂丸 > みどうまる]]に安全なところまで運ばれ、それからは一人で歩いて山を下りた。「達者でな」というのが別れの挨拶だった。また会おうと言われなかったのが寂しかったけれど、僕は独り立ちしたらまた彼らに会いに行こうと心に決めた。
滞在中、霊狐たちは食事も用意してくれたけれど、僕は意図的に食べる量を減らしていた。山ごもりから帰ったら丸々太っていたなどいかにも怪しいからだ。もっとも、穀物や山菜、果実が中心では太ること自体難しそうだったけれど。そして僕はわざと斜面を滑って体中に土を付け、草鞋に穴を開け、哀れで幸運な遭難者を装った。
しかしそんなことをしなくとも、義父は僕の姿にも山での出来事にもさして興味がないようだった。よく帰った、の一言掛けたのみで、あとは目すら合わせず自分の仕事に戻った。余りにも呆気なく、僕は、そう、少しだけ寂しい気持ちになった。女中だけが僕に優しい言葉を掛けてくれたけれど、彼女たちにしても必要以上に僕の事情には足を踏み入れない。
そうして僕は何事もなかったかのように日常に戻った。僕はもう陰陽術の行使を望んでいなかったけれど、僕が望むと望まざるとに拘らず、義父に命じられればやらざるを得なかった。狐の骨を使って人を呪い、時には死に至らしめ、僕の罪は増えていく。
苦痛でならなかった。いっそ出て行きたいと思うほどに。しかしここを出ても行くところがない。義父に従うより他に道はなく、不本意ながら僕は着実に一人前の陰陽師に近づいていった。
完全に義父に代わって[[rb:修法 > しゅうほう]]を任せられるようにもなり、その間に義父は外の用事に出かけるということも多くなった。外に出て何をするかというと、知人の僧侶と会合に出たり、地鎮の儀や歩けない依頼人への出張などに出たりだ。地鎮といってもだいだいは宮廷陰陽師の領分だから、大っぴらに届け出ができない闇賭博場の建造の時などに義父のような隠れ陰陽師の出番になるわけだ。
例え日の当たらない仕事であろうと、どちらかというと僕は地鎮や[[rb:反閇 > へんばい]]作法などを修めたかった。けれどそれらは一通り教えられはしたものの、僕が任せられるのはいつだって呪詛を掛けたり落としたりする[[rb:調伏法 > ちょうぶくほう]]ばかりだった。推測でしかないけれど、義父は自分のしたくないことをさせるために後継者が欲しかっただけなのではないだろうか。
僕は自分の姿を思う。手足や尾先、耳先など一部が白いのを除いて全身が黒い。黒とはまさに調伏法で着る狩衣の色そのものだ。生まれながらにして運命は決まっていたのだと、そんな馬鹿げたことを少し信じてしまいそうになる。
その日も僕は朝からいくつかの呪詛を行った。怨敵調伏の法はだいたいが数日に亘って行われるが、長いもので七日に及ぶものをいちいち待っていては依頼がかさむ。そのためひとつの法が終われば別件の法に取り掛かるといった風に一日に何件かを並行していた。よくこれだけ人を呪いたがる人が途切れないものだと呆れてしまう。このままこんなことを続けているといつか人の心を失ってしまいそうだ。僕はそういう例を一人知っている。
早朝義父は僕に、夕刻に特殊な調伏法を行うことになるだろうから用意をして待っていろと命じていた。[[rb:袈裟 > けさ]]を着て[[rb:金剛杖 > こんごうじょう]]を持ち、まるで山伏みたいな格好で義父は知人たちとともに出掛けていった。
それで今日の呪詛がすべて終わったあと、頃合いを見て女中に仏飯の用意を頼んでから壇を整えて待った。特殊な、というのが気にかかるけれど、調伏法には変わりないのだから炉は三角のままでいいだろうと判断した。狩衣も黒のままで問題ないはずだ。炉に火を灯し、灯明を置き、供物となる饅頭や林檎、柿を護摩器に盛った。供える花は菊を用意し、護摩木は若い杉の根を多く揃えた。荼枳尼、つまり稲荷と杉は相性がいいからだ。本尊の指定まではされていなかったけれど、おそらくここ数日していたのと同じ荼枳尼天法になるだろう。同一の道場で頻繁に本尊を変えると障りがあるからだ。とはいえ特殊と義父が言うからには違うかもしれないけれど、もし違ったとしても杉は流用できるだろうし、ここまでなら先に用意をしていても問題ないだろう。
荼枳尼天の[[rb:式盤 > ちょくばん]]はそのままに、もし[[rb:六字明王 > ろくじみょうおう]]の図像が必要になった場合に備えていつでも取り出せる状態にした。
ふと式盤の頂点に描かれている荼枳尼天を見て僕は複雑な気持ちになった。描かれている荼枳尼天は立派な狐に乗り宝珠と宝剣を持つ美麗なる女天だ。僕がこの家に来て間もない頃、――僕の記憶が正しければの話だけれど、式盤に描かれた荼枳尼天は狐に乗ってなどいなかった。剣も持っておらず宝珠もなかった。それから僅か数年でこの変わりようだ。これでは習合に無理が掛かるのも頷ける。あの式盤はおそらくもうここにはない。日の本の誰にも拝まれなくなった古い仏尊は信仰から切り離され、そうして眷属ともども行き場を失ってしまう。観堂丸はそうした分離荼枳尼天とともに生まれた悲しき霊狐なのだ。
昨今の日の本の神仏情勢は目まぐるしく変化していると観堂丸は言った。その言葉は決して被害者側の大げさな誇張表現ではなく事実だ。荼枳尼天は狐に乗り始めてから稲荷と見なされるようになったし、最近では宇賀弁財天が荼枳尼天と同一だとする見解も出ている。この絵図に描かれている荼枳尼天が剣と宝珠を持っているのはその影響だ。
正直な話、無茶苦茶にも程があると思う。確かに宇賀弁財天と荼枳尼天の共通点は理解できる部分もある。しかしそれだけで同一と見なしてしまうのはいくらなんでも短絡的だ。いったい人間はどれだけの神仏を弄べば気が済むのだろう。人を呪い殺し、神を殺し、そうして繁栄する文明など間違っている。僕が神なら人の世などただではおかない。……否、「世を滅ぼす神」として願われて生まれない限り、神は世界を滅ぼしたりはしない。神も仏も身勝手な人間による犠牲者なのだ。それと知りながら陰陽術を行使し続ける僕は罰当たりもいいところだ。
荼枳尼天法の次第は数が多いと義父に聞いたことがある。もっと陰陽道色が強いものもあれば、狐の骨でなく人骨を使ったり、或いは骨そのものを使わないものもあるらしい。願わくは、この家で行われている修法によって分離する荼枳尼天および眷属がいないことを祈るばかりだ。自分のしていることを棚に上げて、実に無責任な願いだと自分でも思う。
六字明王も六字明王で哀しき宿命を背負っていると思う。この仏尊はもともと空海が伝えた仏教の中にはいなかった。ここで荼枳尼天法と並んで行われているものに[[rb:六字経法 > ろくじきょうほう]]という修法があるが、その六字経法のために密教が陰陽道を取り入れながら勝手に創造した仏なのだ。もっとも、――神仏が人々の心により作り出されたという話は今でも信じがたいものではあるけれど、もしそうであるならば、六字明王は至って通常通りの生まれ方をしたといえる。
しかしこの仏尊の哀しき宿命とはそのことではない。ずっと六字経法の本尊として祀られてきたものの、ここへきて六字経法の本尊は[[rb:聖観音 > しょうかんのん]]であるという説が流布してきた。解釈ひとつで本尊を変えようというのだ。それでは六字明王はどうなる? ここではまだ六字明王を本尊として祀っているけれど、いずれは変わっていくのかもしれない。そして日の本から信仰するものがいなくなれば、明王はこれも定めと消えることを受け入れるのだろうか。例えそうでも眷属は切り離される。六字明王の掛図には走る白狐が描かれている。この狐が未来の観堂丸になるかもしれないのだと考えると物悲しい気持ちになった。こんな信仰方法があっていいのだろうか。仏教も、神道も、道教も、そしてそれらを都合よく混ぜ合わせた陰陽道や修験道も。皆それぞれに身勝手だ。
物思いに耽っていると、屋敷の入り口で人の気配がした。義父が帰ってきたのだ。義父は一息つくでもなく一直線に道場にやってきた。一目見てギョッとした。袈裟があちこち擦り切れたり焦げたりしている上に、何枚もの[[rb:西嶽真人 > さいごくしんじん]]符を貼り付けられた[[rb:簀 > す]]巻きを肩に担いでいたからだ。何が何やらまったく理解ができなかった。
「[[rb:反閇 > へんばい]]を踏め。今すぐ場を清めよ」
珍しく焦っている義父に触発され、僕は慌てて腰の禁刀に手を伸ばした。でも、いきなり反閇って……。僕は禁刀を抜きながら手順を必死に思い出し、反閇に取り掛かった。
「[[rb:四縦五横 > しじゅうごおう]]、[[rb:禹為除道蚩尤避兵 > ういじょどうしゆうひへい]]、[[rb:令吾周遍 > れいごしゅうへい]][[rb:天下帰還 > てんかきかん]]、[[rb:故嚮吾者死 > こきょうごしゃし]]、[[rb:留吾者亡 > りゅうごしゃぼう]]、――[[rb:急急如律令 > きゅうきゅうにょりつりょう]]」
刀で護摩壇に向けて大きく九字を切り、続けて[[rb:禹歩 > うほ]]に移る。念じながら刀を胸に押し当て、三歩、[[rb:九跡 > きゅうせき]]、北斗七星の数を踏んでいく。
踏み終えたら振り返り、九字を切った壇に向かって呪文を唱える。
「[[rb:南斗北斗三台玉女 > なんとほくとさんだいぎょくじょ]]、[[rb:左青龍避万兵 > させいりゅうひばんぺい]]、[[rb:右白虎避不祥 > うびゃっこひふしょう]]、[[rb:前朱雀避口舌 > ぜんすざくひくせつ]]、[[rb:後玄武避万鬼 > ごげんぶひばんき]]、[[rb:前後扶翼 > ぜんごふよく]]、――[[rb:急々如律令 > きゅうきゅうにょりつりょう]]」
よく覚えているものだと自分に感心した。ここで行われるどんな修法においても[[rb:反閇 > へんばい]]から始めたことなどなく、覚えているのは偏に憧れからにすぎなかった。それをいきなりやれと言うのだから義父はほとほと理不尽にすぎる。これで僕が覚えていなければまた理不尽な拳が飛んできていたに違いない。
次に暦を頭に浮かべる。今日は丙、つまり[[rb:陽干日 > ようかんび]]だ。
「[[rb:乾 > けん]]、[[rb:坤 > こん]]、[[rb:元 > げん]]、[[rb:亨 > こう]]、[[rb:利 > り]]、[[rb:貞 > てい]]」
左足から出し、仕上げの六歩。これで場は清められたはずだ。僕の反閇がひとまず許せるものであることは、義父が何も咎めなかったところから想像できた。いや、そもそも狩衣に着替えていてこちらを見ていなかったのかもしれないけれど。
「不動法だ。[[rb:式盤 > ちょくばん]]は要らん」
義父は不動明王の掛図を僕に手渡したあと、簀巻きを無造作に放り投げた。護摩壇と礼盤の間、九字を切ったまさに一番結界の強い場の中心で、その塊は僅かに動いた。中のモノは生きている。霊符のせいで気配の種類が探れないが、怨家の者を直接連れてきたにしては小さい。子供でない限り人間ではないだろう。そうなると物の怪の類としか考えられなかった。
「護摩木を変えろ。杉は駄目だ。檜も性質的に合わん。桑がよい」
いったいどんな化物を連れてきたのか。僕は身震いしながらも指示に従い荼枳尼天の式盤を片付けて不動明王の絵図を掛けた。杉の護摩木を片付け、桑の木の根、それもとびきり真っ直ぐな若木を用意した。脇机に山積みになった桑の木の根をまず一本炉に焼べると途端に青い匂いが立ち込め、たったこれだけで簀巻きの中身は苦しそうに悶えた。若木には水気が多く、しかしだからこそ神聖な炎になる。杉の気を桑の気に置き換えている間に女中に仏飯をもらいに行き、他の供物とともに並べ、灯明にも火を灯した。
南の壁に掛かった不動明王に向かうように礼盤の上に座った。簀巻きに近づいたことで僕は息が苦しくなった。空気がそこだけ重かった。凄まじい気の強さだった。魔物が霊符の力に抗おうとしているのだ。[[rb:西嶽真人 > さいごくしんじん]]の霊符は見える部分だけで六枚に及ぶ。それなのにこれだけの抵抗ができるなんて、果たして僕如きに敵う相手なのだろうか。
こういった形での悪魔調伏は初めてだったし、不動法は自身への息災祈願しかしたことがなかったけれど、狐の骨を使わずに済むことに関してのみいえば幾らか気は楽だった。不動明王の修法に狐が関係するものは存在しないからだ。
しかし義父は炉の奥に別の炉を作り、その中心に狐の骨を置いた。戸惑う僕に何の説明もせず、義父は護摩壇の東西、そして南方に水晶でできた龍の飾りを配置した。火の不動尊に対して水の象徴を配置するその意図は僕には判らなかったが、間もなく説明が始まった。
「基本通りの調伏法でよいが、不動明王の[[rb:勧請 > かんじょう]]より先に護摩木とともにこの魔を奥側の炉に[[rb:焼 > く]]べることになる。投じるのは私がやろう。これは火の魔物ゆえ焼滅することはないが、符のほうは当然燃えてしまう。符が燃え尽きればこやつは自由を取り戻すが、三方を水で塞いだ以上、北方にしか逃げ道はない。お前はそれを不動明王の[[rb:御力 > おんりき]]を以て正面から魔を[[rb:降伏 > ごうぶく]]せしめよ。符が燃え尽きる直前に九字を切れ。ただし縦横法でなく不動の力を強める修験法で行え。[[rb:独鈷 > とっこ]]で構わん。おそらく印をそれぞれ結んでおる暇はあるまい。九字の結界が働いている間に不動明王を勧請するのだ。普段通りに供物を投じ、ひたすらに不動真言を唱えよ。[[rb:一字呪 > いちじしゅ]]を繰り返せ。魔が弱ってからのことは追って指示をする」
義父は僕の傍らに独鈷を置き、簀巻きを抱え上げた。僕は置いてあった禁刀を取り上げて腰に仕舞い、義父の足取りを目で追った。
予め不動明王を勧請しないのは西嶽真人と不動明王が相容れない存在だからで、不動明王に対する配慮なのだろう。符を燃やして西嶽真人の力が減じたところで速やかに不動明王に移行する必要があるということだ。義父が護摩壇を挟んだ対面に座し、準備が整ったことを知らせるように目配せをしてきた。
僕は護摩木を奥の炉に並べ、手前の炉から火を移した。香を体に塗り、壇と炉を[[rb:灑水 > しゃすい]]で清めた。少し迷ったが、奥の炉も同様に清めた。そして独鈷の位置を確かめ、ひとつだけ息を吐いた。
義父の両手に抱えられたそれはずっしりと重そうで、あんなものを炙って大丈夫なのかと少し不安になった。壇が火に耐えられるかどうかと。しかしああして手で触れられるにも拘らず魔の物には実体と呼べるものがなく、したがってそれが発することになる火は火であって火ではないのだ。火事は起きまい。
赤子を寝かせるように、義父は炉の上に簀巻きをそっと置き不動真言を唱えた。火はすぐに燃え移り、中央から端に向けて広がっていく。藁の焼けるにおいが道場に充満する。護摩木を追加すると苦しそうに魔物が蠢いた。程なく火は筵すべてを包んだ。西嶽真人の符が見る間に燃えていき、魔の動きはどんどん活発になり、釣り上げられた魚のように跳ねた。僕は独鈷を拾い、目の前で火の粉を散らす魔に向けて九字を切った。
「[[rb:臨兵闘者皆陣烈在前 > りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん]]」
独鈷が空に四縦五横の格子を描く。そこで霊符が完全に燃え尽き魔の物が自由を取り戻した。僕は独鈷を置き両手の指を組み合わせる。印を思い出すのに一瞬もたついたけれど、何とか不動根本印を結ぶことに成功した。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン、ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン、ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン……」
頭に不動明王を浮かべながら小呪を繰り返した。隙を見て供物を投じなければ。
神聖なる炎に焼かれ、魔物は悶えている。想定していたほど暴れず、これなら僕でも何とかできそうだと安堵した。僕は真言を唱え続けた。
ひたすら祈っていたせいで気が付かなかった。藁が燃え尽き、その魔物の全貌が明らかになったことに。魔物が正体を表したことに。真言を唱えながら供物に手を伸ばし、炉に投じようと前方を向いた時だ。不意に〝それ〟と目が合った。
獣の目が光っていた。燃え盛る火中にあって、それでもはっきり琥珀色の目が光っていた。僕ははっとしてそれを見た。霊符がなくなったことで感じられるようになったその気配は、そして生命の躍動を感じさせるその毛の流れは、その白毛は。
「や、ひ、こォ……」
「み……みど……」
僕が慕ってやまない霊狐の長が牙を剥き、僕の首を目がけて跳躍した。
[newpage]
[chapter:五]
音吉は人間の少年に変化した。そこまではいいのだが、なんと服が水干のままだったのだ。
「いやいや」
そういう祭りならともかく、日本広しといえど、どのご時世に普段着に和服をチョイスする子供がいるんだ。日本狭しといえど、もしかしたら探せばいるのかもしれないが、少なくとも俺がそんなレアケースを背負い込むつもりは毛頭ない。
音吉曰く、見慣れた服はともかくそうでないものは現物を目にしないと変化が難しいのだそうで、そのため俺は予定を前倒ししてスーパーに向かった。子供服売り場で実物を見せてやるためだ。もちろんダイソーの用事なども済ませておいた。
だが、わざわざ音吉を変化させる必要が無かったことを、仙狸庵に行ってすぐに知らされた。なぜなら、仙狸庵に三人ほどいた客はすべて、人ではなかったからだ。
「いやいや」それが入店した瞬間に俺が発した台詞だった。「何だこれは」
カウンターに年配と見える頭巾を被った農家が一人、テーブルにビジネスマン風の男二人連れが座っていた。そこまではいい。しかし農家のほうはよく判らないが尖った耳が頭巾から飛び出ていて、ビジネスマン二人のほうは首から上に犬の顔が付いていた。この二人には見覚えがあった。正確には服装と雰囲気だけでの判断になるが、確かに俺はその二人の〝人間〟をよくここで見かけていた。
「こりゃ驚いた」
俺の隣で狐顔が、いや待て。
「おい」
「いいじゃん」音吉は変化を解いていた。「みんな人間じゃないんだし」
その時テーブルに座っている二人のうち、こちらを向いているほうの目付きが険しくなったのに気が付いたが、理由は解らなかったしすぐにまたうどんに目を落としたので気にしないことにした。俺と音吉は誰からも近くないカウンターの隅っこに座ることにした。客が人間でなかろうが大将が人間でなかろうがもうどうでもいい。得体の知れない人物の作る得体の知れない食べ物だろうと、俺は既にここのうどんを何度も食べているのだ。
大将はどう見ても人間に見えるのだが、それでも昨日ノイズが走ったのは確かだった。正体を尋ねるべきか否か……。今のところはやめておこう。
俺は海老天うどん、音吉はきつねうどんを大将に向かって注文した。はいよ、と大将はカウンターの端に鎮座している木彫りの大黒天像のように朗らかな笑みで答えた。
「やっぱり油揚げが好物だったりするのか?」
「まあ好きだね。でも今回きつねうどんを頼んだのはそれが理由ってわけじゃない。狐がきつねうどんを食べる、こういう遊び心は鈴次さんが好きかと思ってね」
「嫌いではないがそれを動機にするな」
出された水を飲みながら俺は少し考えた。おそらくだが、狐は油揚げが好きというのは人間が勝手に押しつけたイメージだろう。それが普及し、イメージが集約されると実際に油揚げが好きな狐が生まれるはずだ。どう普及したかについては、おそらく稲荷神社へのお供え物から来ているのだろうが、眷属は切り離されたあともその性質を子孫代々受け継いでいったに違いない。
俺は半ば確信をもって音吉に言った。
「だいたいの霊狐は油揚げを好物としているが、妖狐はそうとも言い切れない」
「段々とおれたちのことが分かり始めてきたね。だけど半分違う。確かに霊狐と妖狐は決定的に違うと言ったけど、人間にとっては狐は狐で一緒くたにされるんだよ。狐は油揚げが好きというイメージは、霊狐に限らずすべての妖狐にも当てはめられたわけ」
「つまり結局のところ狐は油揚げが好きというわけだな」
「ヤコ以外はね」ヤコとは野ぎつね、或いは妖力を持つが妖狐にはなり切れない半端な狐のことだと音吉は思い出したように付け加えた。
「妖狐と霊狐の起源の違いは聞いたが、性質も異なるのか?」
「そりゃあもう別の種類ってくらい違う」
「例えば?」
「妖狐は念仏に弱い」
少し考え、成程、と言ってはみたが実際は理解などしていなかった。妖狐は念仏に弱い。逆に霊狐は念仏に強いのか?
「ギョウジャがダキニダキニって唱えまくってる念仏にダキニの眷属が弱かったりしたらお使いなんてできないじゃん」
「ああ、それもそうか」
「妖狐……というより妖怪さんたちは起源に神仏が関係せず、昔から魔のモノとして長く扱われてきたからね。神仏の加護に弱いんだよ」
そう言いながら音吉は前を向いたまま背後を気にする素振りを見せた。見なくても判る。これが場の気というものなのか、さっきからピリピリと刺すような気配を背中に感じる。十中八九ビジネスマン風の犬二人からだろう。途切れ途切れに霊狐がどうたらとか聞こえる。今俺たちがしていた会話のせいもあるのもしれないが、あまり歓迎されていないみたいだ。
「実はですね、霊狐のお客さんは入れないようになっているんですよ」はいどうぞ、と二人前のうどんを俺たちの前に置きながら大将が言った。「この付近の山は霊狐さんたちの勢力が強いですからね。私としましては歓迎なのですが、肩身が狭いと感じるお客さんが多数なのですよ。吉崎さんとご一緒だったからこちらの霊狐さんはこの店を認識できたのでしょうが、そうでなければ見えていなかったと思いますよ」
「変化を解いたのはまずかったかな」音吉が不敵な笑みで尋ねた。
「いえいえお気になさらず。お仲間に吹聴さえしなければ」
「なら大丈夫かな。もう里には戻らないだろうし」
大将は少し興味深そうに眉を上げたが、あまり立ち入りすぎるのは良くないと感じたのか、それ以上は尋ねてこなかった。俺は箸立てから箸を抜いて音吉に差し出した。音吉の「ありがとう」に俺は思い出して指を差した。
高さ十五センチほどの付け台には啓発ポスターのような張り紙が等間隔に並んでいる。絵のない筆文字のみで、〝食物に感謝〟〝縁に感謝〟〝親切に感謝〟などなど、感謝の押し売りだ。まさか大将の直筆でないと思いたいが。
曰く、感謝の気持ちが気の流れの好循環を生むのだとか。以前までは俺はそれを胡散臭いと感じていたが、人ならざるものが発生するメカニズムを知ってしまったあとでは一概に馬鹿にはできない。目的は解らないが、大将は世の中のことを考えているのだ。たぶん。
「なるほどなぁ」
音吉は深く納得したように頷きながら大将を見た。大将は地蔵のように穏やかに微笑んでいた。どうにもこの二人は俺の知らない領域で高度な駆け引きをしているような気がしてならない。まあ、俺には関係のない話か。
「いただきます」
「いただきます」
俺と音吉は深く感謝を込めて合掌し、粛々と食べ始めた。一口食べた瞬間、音吉の目付きが変わった。すぐに二口目に入り、口をもごもごさせて飲み込み、出汁を啜る。
「強いコシ、だけど適度に柔らかく弾力があり、喉越しは最高だ……。麺だけでも相当美味いのにこの出汁……。鰹と昆布だけでこんな深い味わいを出せるもんなのか……? いや、何か隠し味があるな」油揚げを一口齧り、「なんてこった、甘みが体に染み渡る……。こりゃ美味い。成仏しそうだ」
俺は自分がしばらく固まっていたことに気付かなかった。いやいや、どこの評論家だお前は。
「只者じゃないな、大将。あんたいったい何者だ?」
偶然にも俺が聞きたかったことを音吉が代弁した形になった。俺はうどんを啜りながら大将を窺う。大将は高らかに笑いながら目尻にたくさんのシワを作った。
「お上手な霊狐さんだ。まあ、欲している答えにはならないでしょうがお答えしましょう。私はただ貴方がたよりも長く生きているだけの、しがないうどん職人です。まあ、うどんを打ち始めたのはつい最近のことですがね」
どうやら音吉は大将の正体を探ろうと……いや、あの講釈は大げさすぎて逆に不自然ではないか。いや、それを遊び心として含めての掛け合いだったのかもしれない。
大将の言った〝最近〟がいつのことなのか気になり、俺は口を挟もうと思ったが、
「うどんが美味いのは本心だよ」
音吉に先を越されてしまった。俺は昔から会話にスムーズに参入するのが苦手だった。――その最近とはどれくらい昔の話ですか?――決め顔でこう尋ねるスマートな吉崎鈴次はこの世界には不似合いなのだ。
音吉は終始唸りながら夢中でうどんを貪り、汁の一滴も残さず完食した。その間に三人いた客は入れ替わり、昼時ということもあって店内はそこそこ混み始めた。尻尾の割れた猫や狸なども見受けられたが、皆やはり霊狐の音吉に怪訝な目を向けていた。
そんな環境が居心地がいいはずもなく、また大将と話をするにもこの時間帯は避けたほうがよさそうだと、俺と音吉は早々に仙狸庵を後にした。
「次に来る時は変化は解かないほうがいいだろうな」
車に乗り込みながら俺が言うと、
「あんまり来たい場所じゃないな。うどんは確かに美味かったけど」
音吉はこう言って肩を竦めた。
「あの大将、おれはあんまりいい気がしない。何ていうか得体が知れない。近しい雰囲気を感じもするけど、[[rb:心 > うら]]恐ろしいものも感じる。ただの直感でしかないけどね」
「そうか。俺にしてみればただの気のいい爺さんだが、人間の俺よりも霊狐のお前が言うほうが正しいのかもしれないな」
エンジンを掛け、発進する前に仙狸庵の外観を見上げた。三角屋根に板張りの造りをした至って普通のうどん屋だ。飾り気というものは存在しないが、人間相手の商売でないのなら気にする必要は無いのかもしれない。
何か頭に引っ掛かるものを感じたが、一先ずは発進だ。早いところこの山から離れなければならない。考えなしに仙狸庵に来たものの、今思えばこの辺りは霊狐たちの縄張りだった。
霊狐。もとはダキニの眷属をしていたという霊狐たち。今は分離してしまった霊狐たち。
「ダキニについてもう少し詳しく教えてくれないか」
俺はふと尋ねてみた。今朝の話では空海が持ち込んだ諸仏に含まれ、だんだんと狐と関わるようになっていって稲荷と習合したということだけ聞いていた。
知りたいのはそれ以外のことだ。どういう性質を持っているとか、そういうことが聞きたかった。あとご利益とか。
「スマホを出して、検索欄にダキニと入れます」
「運転中だぞ。簡単にでいいから教えてくれ」
「怖気付くかなって思って言わなかったんだけどね」
「なんだそれは」
「インド仏教には興味ないだろうから省くとして、日本に来た当初のダキニは死んだ人の肉を食べる鬼だったんだ。その性質から十一世紀頃には閻魔天の眷属になったけど、まあ立場的には下っ端もいいところだった。だけどトウミツの力もあって次第に信仰する人が増え始め、十三世紀には閻魔天から離れてダキニ天として独立した仏尊になった。天っていうのは毘沙門天とか弁財天とかと同じで天部のこと」
「トウミツとは」
「東の寺と書いて[[rb:東寺 > とうじ]]で興った密教のことを東密というんだ。空海が開いた真言宗のことだね。ついでに最澄が興した天台密教は[[rb:台密 > だいみつ]]という」
歴史嫌いだが最澄は辛うじて覚えている。
「ダキニ信仰が盛んになった理由のひとつにダキニ天法というシュウホウがあってね、これはものすごく強力な呪法で瞬く間に広まっていったんだ。チョウブクからゾウエキ、息災、敬愛まで願い事は何でも叶うとされた。実際ギョウジャの力量によっては何でも叶ってた」
専門用語が多すぎるがいちいち口を挟まないでおこう。
「そんなダキニには今も昔も変わらない性質があって」
そこで音吉は言葉を途切らせ、意味ありげに俺の顔を見上げる気配がした。俺は対向車がいないことを確認してから横目で音吉を見る。
「ダキニは人の心臓を食べる」
俺は何事もなかったかのように前を向き直した。
「あれ、驚かない?」
「知識がないからな、驚きようがない」
「残念」
「それが対価か? その、シュウホウとやらの」
「そういうわけじゃないよ。あくまで死人の心臓しか食べてはならない。そういう約束をさせられたんだよ、大黒天に怒られてね」
「という〝設定〟……というわけか」
「そういうこと。人が死ぬ半年前にそれを知り、その人が死んだら他の鬼とかに取られる前に食べちゃうんだ。シュウホウの対価というわけではないんだけど、一番密接に関わっていたギョウジャが対象になることが多かったのは確かだね」
「大黒天といえば仙狸庵にも木彫りの置物があったな」
大将の笑顔によく似た大黒天像がカウンターに……。
「ん?」
俺は突然術が解けたように我に返った。
「……何で俺は何も聞かずにうどんだけ食って店を出たんだ?」
聞きたいことは山程あったはずだ。正体はもとより、昨日の昼に言われた意味深な台詞の真意を確かめたかった。
それに俺は吉崎と名乗ったことは一度もなかったのにあの大将は確かに吉崎さんと言った。いや、そんなことよりも……。
「俺以外に……人間はいなかったぞ」
人間だと思っていた客たちが実は人間でなかった。それではなぜ俺だけが仙狸庵を知ることができた? なぜ音吉はあからさまに客に忌避されていたのに俺はそうでもなかったのか?
人間だと思っていたものが実は人間ではなかった……?
それならば俺は――? 気付けばハンドルを握る手が震えていた。
「鈴次さんは人間じゃない」
車が左右にふらついた。センターラインを踏み、急ハンドルを切り、外側線を踏んで急ハンドルを切り、側溝にタイヤが嵌まりかけた。軽い上りだったことも幸いして奇跡的に緩やかなブレーキングに成功したが、一歩間違えれば俺は直線道路に負けた男になっていたところだった。後続車もおらず、今回は本当に運に助けられた。
「ちょちょちょ、じょ、冗談だってば、ビックリしたなぁもう」
縋るようにシートベルトを掴んだ音吉が珍しく焦った声で言った。
「鈴次さんの体は紛れもない人間だよ、安心して」
「運転中にたちの悪い冗談はやめてくれ」
俺は生まれて初めて過呼吸らしきものを体験していた。
「意外と繊細だよね鈴次さんって」
「大きなお世話だ」
ハザードを焚いてパーキングブレーキを踏み、しばらく呼吸を整える。眩暈を起こす俺に構わず音吉は一人で勝手に喋り始めた。構わず、というよりは、俺がわざわざ尋ねなくても済むように疑問を推測して勝手に答えるという音吉なりの気の遣い方なのだろうが。
「認識の操作。軽度の狐憑きと同じことだよ。あの大将は鈴次さんに自分への質問をしないように働き掛けたってわけだ。それと、これは確信的な推測なんだけど、鈴次さんは周りの人間に対してあの店を紹介するだとかあの店でうどんを食べたとか一度も言ったことはないんじゃないかな?」
確かにしていない。俺は頷いて示した。
「それも認識の操作のうちだ」
そうかもしれないが、それは俺の交友の狭さが理由とも考えられるとは言わなかった。まだ動悸は治まらない。
「何で鈴次さんがあの店を認識できたのかは分からない。おれたちの認識すら操作するほどの人物だから、何らかの目的があってのことだとは思う。それが良い目的か悪い目的か、おれの想像の及ぶところではないけどね」
「後日――」俺は一息吐いて続けた。「改めて訪ねないといけないな。――今すぐにじゃないというのもまた認識の操作なのかもしれないが」
「熟考できてることに関しては大丈夫だよ。操作されてたらそもそも気付かないから」
「やれやれ」俺は首を振った。「すべての行動に疑心暗鬼になりそうだ」
「車の運転はそれくらいがちょうどいいんじゃないの」
「実にその通り。頼むからからかわないでくれ」
「さっきので十分心得たよ」
心底そう願いたいものだ。深呼吸、後方確認、パーキングブレーキの解除、ハザードを消して発進。しかしシートを倒して手の平を枕にした音吉は平然とこう言った。
「霊狐を轢き殺すことに定評のある鈴次さんだけど、自損事故で殺されるのは御免被るね」
「そういうところだぞ小狐」
[newpage]
[chapter:伍]
それは慟哭だった。それは絶望だった。そしてそれは憎悪だった。眼前に迫った鋭い牙は、光る九字の格子に跳ね返された。観堂丸は三角炉の上に倒れ込み、火の粉が勢いよく舞い上がった。そして再び立ち上がり、恨めしげな、そして哀しげな眼を僕に向けながら、再び飛び掛かっては跳ね返された。自棄を起こしたように何度も何度も同じことを繰り返した。その度に体に格子の傷跡が増えていった。
僕はすべてを悟った。義父が朝からどこへ行っていたのかを。そこで何をしたのかを。そして、義父が僕を山に置き去りにした本当の理由を。
伝えたかった。狂ったように体当たりを繰り返す観堂丸に、伝えたかった。誤解を解きたかった。僕はそんなつもりであの里に行ったんじゃないと。
けれどそんな言い訳など何になる? 伝えたところで誰が信じる? 僕のせいじゃない――それを言ったとして、では僕が今していることは何なのだ? 僕は陰陽師で、義父とともに観堂丸を[[rb:調伏 > ちょうぶく]]しようとしている。それは誰の目にも明らかだ。僕は観堂丸に、延いては里の皆に、許されざることをしたのだ。
そして、僕は彼の目に籠められた感情に気付いてしまった。今、彼が何を思っているのかを。何を思って徒に自身を傷つけているのかを。彼はここで死のうとしているのだ。僕への殺意は確かに本物なのだろう。けれど、この状況でそれが叶わないことは判っているはずだ。それなのに、身を切りながらも彼は僕の首に牙を突き立てようとしている。叶わないのならばいっそ死んでやると。やりきれない絶望、哀しみ、怨み。彼はこうせずにはいられないのだ。
火の向こうから叱責する声が聞こえた。印を結べ、真言を唱えろと。けれど僕はもうこれ以上続けるつもりはなかった。ふと気が付くと、九字の結界が一箇所綻び始めていた。それを見て僕は決心した。いつの間にか右手に強く握っていた独鈷を、そっと下ろした。顎を上げた。そうすることで、無防備な首が曝された。僕は観堂丸に殺されようとした。起きたことはもう変えられない。その償いに僕の命を差し出そう。そして、せめて彼だけでも逃げてくれれば幾ばくかの罪滅ぼしにもなるかもしれないと。遠くでオンキリキリと唱える声が聞こえた。今から始めて間に合うものか。結界には目で見えるほどの大穴が開いていた。
そしてついに鈍い音を立てて結界が砕け、憤怒の眼光が尾を引いた。浄化の炎を身に纏い、まさに火の化身となった霊狐は、僕の罪を焼き尽くさんと牙を剥いた。小さな前脚が僕の胸をトンと押し、直後僕は激しく礼盤から転げ落ちた。頭が床に叩きつけられて立烏帽子が脱げた。霊狐は空中で一回転し、僕の上に着地した。僕を逃さぬように、確実に僕の命を刈るために、彼は体重以上の圧力を与えて僕を押さえ付けた。僕はすべてを受け入れた。僕は最期にありったけの懺悔の念を心に浮かべた。彼が罰を与えてくれることに感謝した。前脚から胸に伝わる重みにすら感謝した。燃え盛る激情が近づいた。火はやはり熱くなく、僕の狩衣に燃え移ることはなかった。炎が後光のようだった。彼の炎は物を焼かなかった。代わりに命を焼いた。僕の魂は彼の憤怒に焦がされた。……いつまで経っても牙が僕の首に食い込むことはなかった。
「何故抗わぬ」
じわりと涙が込み上げた。こんな時にまで優しい心を見せないでほしかった。
「僕を殺して逃げるんだ」キリウンキャクウンと聞こえた。時間がない。「早く」
怒れる霊狐は鼻面に皺を寄せて躊躇いを見せ、僕の胸を踏み付けて跳躍した。しかしその逡巡が命取りとなった。
「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダ・マカロシャダ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン」
宙を飛んだはずの観堂丸が何かに引っ張られたようにつんのめって落下した。撃たれた鳥のように無防備に、頭から。護摩壇の向こうで、外縛印を結んだ義父が厳かに立っていた。不動明王金縛法が成就したのだ。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン、ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン、ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン……」
不動明王小呪を唱えながら義父がゆらゆら歩いてきた。不動剣印に全ての力が籠もっているのが手の甲に浮いた血管から窺えた。観堂丸は伏したまま身動きが取れていなかった。燃え盛っていた体の火はほぼ消え、書物の燃え残りのように燻っていた。
「文殊の穴から九字を抜けたか。やはり見立て通り荼枳尼天の元眷属なのだな。面白い」
声に反応するように微かに観堂丸の体が動いた。頭を[[rb:擡 > もた]]げようとする素振りも見せた。しかし見えない手に押さえ付けられているかの如く彼の動きは阻害されていた。
「魔を前に何たる体たらく」
吐き捨てるように義父が言った。僕は起き上がろうとしたけれど、体が鉛のように重く呼吸すらままならない。
「懲罰を与えたいところではあるが、明王の御前でそのような醜態を曝すわけにはいかぬ。さあ、法に戻れ!」
不動明王は既に降臨している。体が満足に動かないのはその霊威のせいなのだ。僕はまずうつ伏せになり、手を支えにしてやっと上体のみ起こすことができた。そのままずるずると観堂丸のもとに這い寄る。
壇に背を向けたことで、そして壇から離れたことで少しだけ体が楽になった。再び呼吸ができるようになった。僕は途中で歩みを止め、義父を振り返った。
「父上」確かめなければならなかった。「この法の目的は何なのですか」
義父はふんと鼻を鳴らし、「その霊狐を骨に封じるのよ」
「何のために」
「より強い呪のために決まっておる。霊狐を用いてこそ荼枳尼天法の真価が発揮できるのよ」
「荼枳尼天への冒涜となります」
「何をとぼけたことを。荼枳尼から切り離された狐を再び荼枳尼のもとに返してやるのだぞ。狐にとっても本望だろうよ」
「しかしその荼枳尼はもはや別の――」
「黙れ!」義父が怒鳴った。「無駄口はそこまでだ。法に戻れと言っておろう!――お前はお前の役割を果たせ」
手の甲のみならずこめかみにまで血管が走っている。顔中汗だくで息が上がっている。不動明王の霊威、そして不動金縛法。義父の体にも相当な負担が掛かっているはずだ。もしかするとこのまま時間を稼げば……。
「妙な気を起こすでないぞ」しかし義父は僕の心を見透かしていた。「逃がすくらいならばここで滅するのみ」
僕は何も言わず観堂丸のもとに歩み寄った。義父は真言を再開した。
「観堂丸」
義父に聞こえないように囁いた。不動真言に神経を注いでいる義父には聞こえないだろう。観堂丸はもはや身じろぎひとつしない。目を細め、ただ苦しそうに歯を食い縛っていた。
「観堂丸……」
何と声を掛けていいか判らなかった。重くのしかかる罪の意識、義父が働いたであろう暴虐。観堂丸の抱いているであろう怨讐、無念、悔恨。自責もあるかもしれない。どんな言葉を用いたにしろ、それらを僅かでも和らげることなどできるはずがないのだ。
「やつの言う通りにしろ」観堂丸が言った。「このまま丸く収めるためにはどうすればいいか冷静になって考えろ。間違ってもおれを逃がそうなどと考えるな。こうなってはもう逃げられん。まあ、おれとともに死にたければ話は別だがな」
一瞬それもいいかもしれないと愚かにも思ってしまった。でもそれは無責任だ。贖罪の義務を放棄した逃げにしかならない。僕は、僕は……。
「僕は観堂丸を死なせたくありません」
「ふん」観堂丸は力ない目を僕に向けた。「ならば生きろ。罪の意識があるならな」
僕は観堂丸を壇に戻して修法を続け、義父の命ずるままに骨に封じた。観堂丸は抵抗を一切しなかった。
こうして僕の生にまた新たな罪が刻まれた。
[newpage]
[chapter:六]
マンションを引き払うべきか否かについては相当迷った。短期で片が付くと判っているなら部屋はこのままにしておきたいのだが、しかし長引くのであれば誰もいない部屋に支払われる家賃は無駄と言わざるを得ず、ただでさえ金のない俺には到底採り得ない選択肢だ。管理人と親しければまた違うのかもしれないが、もちろんそんな都合のいい事は俺の人生には起こるはずもない。面倒だが仕方がない、ホームシアターセットは実家に移設することにしよう。
一人暮らしとはいえひとつの完成された住処を丸ごと移動するのはなかなかに手間が掛かる。常人には見えざる狐の手を借りることはできるものの、事は人員だけの問題ではない。しがない会社員が所有するダイハツムーヴでは詰みこめる荷物に限りがある。往復八十分をいったい何往復すれば足りるか想像するだけで気が遠くなるし、何より箪笥や食器棚を軽自動車に積み込むのは幾らなんでも無理がある。よって、業者に頼むより他にない。十月というちょうどシーズンとシーズンの間で料金も高くはないだろうから、これに関しては好都合といえる。
しかしながら業者と関わるのは必要最低限にしておきたい。誰かと接触すればその人物が狐に憑かれている可能性を疑わなければならないからだ。迅速に荷運びができるよう、すべての荷物を梱包まで完全にやっておくべきだ。月曜からはまた仕事がある。明日の日曜日に……いや、掃除から引っ越しまで終わるはずがないな。来週の土日まで待つわけにもいかない。仕方ない、月曜日に有休を取って引っ越しだ。
そういうわけで、関係各所への手続きの電話などを済ませた俺は急いで荷造りを始めた。急な依頼を引き受けてくれた引越し業者には本当に頭が下がる。仙狸庵の張り紙に倣い、俺は深い深い感謝の念を電波に乗せて送った。
響き渡るDA PUMPは場の空気を良くしていたに違いないが、突然のインターホンの音で空気が張り詰めた。俺は真顔になってオーディオを止め、金属バットを手に玄関に向かった。
覗き窓からヤマト運輸の帽子が見えた。制服も見えた。手に持っているのは中くらいの段ボールだったが、今度はちゃんとAmazonのマークがついていた。
それだけなら至って普通の光景であるのだが、残念ながら俺のバットを握る力はいっそう強くなった。なぜなら、その配達員は昼前に実家にやってきた眼鏡の男だったからだ。俺は心の中で舌打ちした。届けられた荷物は今度こそ昨晩俺が注文したものなのだろうと思う。それは対霊狐用の――まあ気休めみたいなものだが、霊狐に襲われた時に備えて買ったものだ。それを霊狐が持ってくるというのはなかなか皮肉なものだな。
俺は音吉を手招きし、チェーンロックを掛けてからドアを開けた。
「はい」
「こんにちは、宅配便です。あれっ!」素っ頓狂な声を配達員は上げた。「やっぱり、吉崎さんじゃないですか!」
俺の真横で音吉が手から青い光を放って脅しを掛けていたが、配達員は音吉を見ておらず、今日初対面である俺との思わぬ再会に興奮しているようだった。
「お名前を見た時にもしかしてとは思ってたんですが、こちらにお住まいなんですねえ」
「全然違う地区を担当しているんだな」
「そりゃあうちは人手不足ですからね」
もちろん俺はそんな言い分を簡単に信じるほど愚かではない。荷物というのは近い順に配達していくものだろう。ここから実家までどれくらいの距離があり、どれだけの家が建っていると思っている。こんな短時間で運び終えられるはずはない。それに、いくら人手不足でもそんな広範囲を一人で受け持つはずはないのだ。
俺がそう指摘すると、
「そりゃああれですよ。……あれ?」
男は自分の行動に疑いを持ったようだ。
「えっ、何で僕こんなこと……? 何で一直線に……まだ荷物いっぱいあるのに……」
見る間に顔色が変わっていく。自分がしでかしたことがどれだけ重大かを認識したように、唇が震え、顔面が蒼白になり、白目を剥き痙攣し……。いやいや。
尋常でない気配を感じた俺はその場から飛び退いた。配達員は段ボールをドアの隙間に押し付けた。段ボールは、開いていた。
数枚の白い紙が部屋に飛び込む。「キュウキュウニョリツリョウ」配達員がそう言った瞬間、白い紙は空中で三人の人影へと変化した。
まず一人が着地して身を屈め、二人目が腰の金色に光る錫杖を前に構えながら着地し、三人目がその後ろで「オンダキニ……」とぶつぶつ唱え――!
――次の瞬間には三人とも地に伏せていた。音吉の体から放たれる青い光が瞬く間に三人を押さえ付けたのだ。三本の錫杖がほぼ同時に地面に叩き付けられ、その残響はしばらく耳に残った。
そいつらはもちろん狐だった。一様に黒の僧衣らしき服を着て、身の丈ほどある錫杖を手にしていた。前の二人がうつ伏せで、三人目のみ仰向けに倒れている。それぞれに起きたことが信じられない様子で戸惑いの声を漏らしていた。
青い光が追い打ちをかけるように伸びていく。その様はまさに蛇で、意思を持ったように――実際には音吉の意思なのだろうが――錫杖を持つそれぞれの手を捻り上げた。シャラン、と金属音がして、それぞれの手から錫杖が落ちた。
足音を立てずゆらゆらと音吉が三人に近づいていった。
「おれは言ったよな」音吉が一人目の頭を乱暴に掴む。「追ってきたら誰だろうと皆殺しにするってな」
しかし相手の狐はそれに怯える様子はなく、牙を剥いて音吉を睨み付けた。
「それが音吉殿の意志ですか」
「そうだって言ってるだろ。認識が不足してたんなら今回は見逃してやる。さっさと帰って他のやつらにも伝えるんだな」
青い光がしゅるしゅると蛇のように音吉の体に戻っていき、やがて場を支配していた重い空気は消えてなくなった。
自由を取り戻した三人はよろよろと身を起こすが、もう戦闘の意思はないようだった。
「我らは音吉殿に危害を加えるつもりはありませんでした」
「それで? 最初からおれを狙っていたら勝てたとでも?」
三人が鋭く音吉を睨んだ。
「おい音吉」俺は話に割って入った。何だってそう挑発するんだ。
「言っとくけどね」音吉は俺を見ないまま言った。「話し合う余地は最初からないんだよ」
「そうとも」相手の狐が俺を睨んだ。「ヨネヅヒメを殺された怨み、我らは決して忘れぬ」
ヨネヅヒメの怨みということはこいつらはやはり相手の里の狐だったということだ。音吉が俺のほうに歩み寄ってきて小声で言った。
「狭い世界に生きてるとね、安っぽい矜持を持つようになるんだよ。他の妖から嫌われる原因なのにな」
小声ではあったが、それは三人にも聞こえるように言ったものだ。三人はその嫌味に対して特に反応は見せず、錫杖を拾って立ち上がる。キヌマルほど背は高くないが、少し横幅ががっしりしていた。それが三人揃って僧衣を着ているのだから、姿だけ見れば思わずたじろいでしまいそうだ。
「音吉殿の温情は有り難く頂戴する。しかしそれが命取りになること、後に悔やむであろう」
「温情と感じてくれるんなら、今日から三日間は引っ越しの邪魔だから来ないでくれ」
相手の狐は鼻を鳴らしただけで答えなかった。
「然らば、これにて失礼する」
そう言って三者同時に錫杖を少し上げて床に叩いて鳴らした。その様は少し格好が良かったのだが、くるりと背を向けて歩き出し、チェーンロックが引っ掛かったドアで玉突き事故を起こしたのには吹き出してしまった。
「おのれ謀ったな!」
いやいや勘弁してくれ。
近づいたら殺されかねないので遠巻きに指差して説明したものの理解してくれず、最終的に彼らは最初のように人の形をした白い紙に入ってドアの隙間から出ていった。
しばらくしてドアから出ると、配達員が俺の荷物に手を載せ壁にもたれて座っていた。呆けていて声を掛けても反応は薄い。どうやら視線の先には別の世界でもあるようだ。とても俺の手に負えそうになかったため、ヤマト運輸か救急車のどちらに連絡すべきか迷っていると、配達員は天国を見たまま人間と思えぬ動きで飛び起き、俺の喉に向けてボールペンを突き立てようとした。
軽く引っ張られる力を感じ、一歩退いた俺はボールペンを難なく躱した。配達員は上半身を折ってだらりと手を下ろしていた。
「甘いね鈴次さん。三人は帰ってもそいつの中身まで帰っていない可能性を考えないと」
音吉から伸びる青い光が俺を引っ張ったようだ。
「なにぶん分析化学の危険予知と妖怪科学の危険予知では分野が違いすぎてな」
配達員は泥酔したように体を揺らしながらたたらを踏み、そのうちに堪えきれずに壁に顔面から突っ込み、倒れた。帽子の脱げた配達員の全身から淡い光が漏れ出てきて、それがひとつにまとまって狐の形を作った。いったんは四つ足に、そしてすぐに二足歩行の姿に移り変わる。その変化は流れるようで、神秘的で、煌びやかでさえあった。てっきり口から吐き出されるものとばかり想像していた俺は軽く意表を突かれた。
やがて光が色を得た。現れた狐は、薄紫色の水干らしきものと烏帽子を身に付けていた。厳かな雰囲気を纏う人物だった。しかし目付きこそ鋭くはあったものの、威圧する種類のものではなかった。その視線は俺でなく俺の背後にいる音吉に向けられていた。音吉は足音を立てずに俺の横まで歩いてきた。
「何をしているのだ音吉」
はあ、と音吉は溜息を吐いた。
「そっくりそのまま返すよ。話は全部キヌマルに伝えてある。今更話すことなんてひとつもないよ。――力ずくで連れ戻そうって心積もりなら話は別だけど」
「お前は親に手を上げるつもりか」
俺は目を見開いた。隣に目をやると、音吉は俺を遮るように手を出し、
「どうかそういう事態にはさせないでほしいものだね。――親父」
いやいや、と俺は心の中で呟いた。まったく、勘弁してくれ。
[newpage]
[chapter:陸]
「情け容赦というものはなかった」
僕の胸の中で声が響いた。その声ははっきりとしているものの小さく、僕の体の中に染み込んでいくようだった。声というよりは、それは骨の発する念だった。
「どれだけ高名な道士や僧侶、陰陽師であろうとも、相手が一人であれば遅れは取らん。多少の犠牲は出るかもしれんがな。しかしやつらは四人で来た」
骨の中で思念体となって封じられた観堂丸の語りだ。
「おれは即座に里の放棄を命じた。長の二人は避難の手助けと護衛を、おれとあと一人の長は陰陽師の相手をした。まあ、長くは持たなかったが」
「里のみんなは逃げられましたか」
「幾らかは逃げ延びたかもしれんが、相当数が犠牲になっただろう。符で封じられたおれはその様子を耳で聞いていた。残りの長と若衆が団結して迎撃にあたり、そして返り討ちに遭う様をな」
僕は頭骨をギュッと抱いた。
「お前に非はない」心中を察したかのように骨は温かい熱を発した。「と言いたいところだが、お前は陰陽師の子であることを最低限告げるべきだった。せめておれだけにでも」
「僕を怨んでいますか」
念が溜息を吐いた。
「皆は怨んでいるだろうな。人間の子が里に来て、それから僅か二月あまりの出来事だ。関連付けて考えないほうがおかしい」
当然だと僕は思った。
「だがそれはそれとして、おれ個人の話をするならば、お前が本心からおれたちを陥れたのでないことが判った以上、怨みはせんよ」
「僕のせいなのに?」
「過ぎたことは何をしても覆せん。それに里に連れて行ったのはおれだからな、非があるとすればおれのほうだ。もし生き残りがいれば、おれのことも大層怨んでいることだろう」
「僕はこれからどうしたらいいのでしょう」
「どうもできまい。おれはこんな有様だし、こうまで監視の目が厳しいとな」
「でもこうしてお話することができる」
「まあな。だがそれだけだ。今は何もできん。どちらかに妙案が浮かんだらまた話そう」
そうして骨は語ることをやめ、僅かに感じられていた熱も消え失せてしまった。
骨を壇に置いて修法の後片付けをしていると、程なく義父が道場にやってきて呪詛の首尾を尋ねた。上々だと伝えると満足そうに頷いた。そして片付けを終え、僕が道場を出るのを見届けてから錠を掛けた。
この錠は最近付け足されたものだ。僕が観堂丸を骨に封じたことについて肯定的な意見を持っていないことは見透かされている。例えば骨を持ち出すとか、自分の知らない間に何らかの修法を行い霊狐を解放でもしないかと警戒しているのだ。
それだけの力が観堂丸にはあった。
観堂丸の――霊狐による狐付けの威力は凄まじいものだった。それまでの方式では、行者、つまり僕の思念を集約して送り、対象を取り巻く場に影響を与えて気の流れを悪くすることを呪詛とした。その結果、対象は心身に不調をきたすか、或いは不慮の事故に遭うなどし、それを以て呪詛の完了とする。何とも気の長い話で、修法が数日に亘ってしまうのはそのせいでもある。
それに引き換え、新たな調伏法では思念体となった観堂丸が直接向かって害を為すことになる。対象が無防備であれば一日で終わってしまうこともあるし、例え物忌みをしていたとしても、それが陰陽師の指導のもと行われる本格的なものでなければ一切影響しなかった。義父が霊狐を手に入れようとしたのも頷ける。
しかしながら消耗が激しすぎた。自分の思念でなく霊狐を念じて操るため、通常の修法の何倍もの体力と精神力が削られた。
ひとつの修法に掛かる時間が短くなれば、当然依頼をこなさなくて済む時間も増えるのではないかと最初は思った。七日の法が二日で終われば、あとの五日は何もしなくて済むだろうと。けれどそうはならなかった。以前であれば断っていた難易度の高い仕事を義父が請けるようになったからだ。依頼の数はむしろ増え、僕には疲労ばかりが嵩んだ。修法を終えた途端に体中から力が抜け、そのまま気絶することもよくあった。
そうなればさすがの義父も仕事の数を減らした。実現の見込みが低いものにのみ霊狐を使うことにしたのだ。それにより確かに負担は軽減されたものの、それでも精神は少しずつ擦り減っていった。
負担が大きいからこそ義父は僕に観堂丸の調伏をさせ、使役するよう仕向けたのだと思っていた。しかしそんな甘い話でなかったことを、僕はその身を以て知ることとなった。観堂丸が呪詛返しに遭ったのだ。
初日は順調だった。しかし怨家は違和感に即座に気が付いたのだろう、次の日には陰陽師による身固めを施されていて、その場で成就するはずだった負の念が逆流し、そのまま僕の中へと流れ込んできた。
頭が破裂するかと思った。頭に杓を刺して掻き回されているようだった。脳がぐちゃぐちゃになり、槌で叩かれるように頭骨が痛み、抗いようのない吐き気が込み上げた。僕にできたのは壇を汚さないよう礼盤から離れることだけだった。嘔吐は長く続き、体中の全成分が抜けていった。両目が取れて落ちてしまう錯覚にまで陥り、目の前が真っ暗になって何も見えなくなった。麻痺と痙攣で全身が言うことを聞かなくなった。血の気が引き、唇が冷たくなり、もしかするとこのまま死んでしまうのかもしれないと半ば覚悟をしはじめた時、僕は体の芯から温まる感覚を認めた。それが僕の心拍を正常にし、血の流れを整え、気を落ち着かせていった。僕はそこで自分の目がまだちゃんと付いていることに気が付いた。
黒かった視界に光が差し込み、少しずつ像がくっきりする。そこに誰かがいた。その誰かが僕の頭に手を乗せていた。狐人間だった。観堂丸だった。観堂丸が、僕を安心させるように、僕をあやすように、温かな手の平で僕の頭を撫でていた。僕は救われたようにそのまま気を失った。
修法が中断して荼枳尼天の機嫌を損ねたことも影響しているのだろう、反動は甚だ大きく、全身の虚脱感は五日続いた。そのうちの三日は立つこともできず、一人で厠にも行けなかった。その間の僕の世話を、義父は女中でなく観堂丸にさせた。呪詛返しにより臥した僕は、清めの儀式を行うまでは不浄なものとして扱われるからだ。離れ屋に隔離された僕は、いつかのように観堂丸に面倒を見てもらった。穢れを嫌う義父は一度として来なかったが、観堂丸が逃げ出すといった心配はしていなかった。というのも、今の観堂丸は頭骨と結び付いてしまっているため、頑丈な錠を掛けた檻の中に骨を入れておけば逃げ出すことは叶わないからだ。その檻は部屋の隅っこに置かれている。
初日は食べ物も喉を通らず、抜け殻のように放心していた。観堂丸も僕に声をかけることなく、気の向くまま家の中を物色していたようだった。片っ端から木箱を開けてみたり、掛図を広げてみたり。僕はそれを見える範囲でぼんやりと眺めていた。眺めてはいたけれど、その実何も見てはいなかったように思う。判断基準は音だけだった。その音も耳に入っては僕の頭に何も残さず消えていくようだった。
でも、箱を開ける音がし、包みを開ける音がし、唐突に物音が止まった違和感には気が付いた。視覚に意識を向けると、両手で[[rb:式盤 > ちょくばん]]を抱え上げ、哀愁漂う顔をした観堂丸が見えた。
観堂丸、と声を出そうとして、ただ呼吸音だけが出た。それでも観堂丸は気が付いて顔を向けてきた。決まり悪そうに口角を上げて、もう一度式盤に目を落とす。
「前時代の荼枳尼を見るとどうしてもな」
それは僕がこの家に来た当初からあった荼枳尼天法の式盤だった。捨てられていたものとばかり思っていたけれど、どうやら違っていたようだ。
僕が喋れないことを知っている観堂丸はそれ以上話を続けず、式盤を丁寧に仕舞った。僕はまた視界から意識が離れ始めたけれど、観堂丸が同じ箱の中にあった珠を取り上げた時、再び焦点が合う。
白い珠だった。観堂丸の毛色と同じくらい白く、歪みのない球体だった。すべて真っ白ではなく、赤い模様が表面にあった。着流しの裏生地に見られる縫い目のような。
「これが[[rb:如意宝珠 > にょいほうじゅ]]だったらな」
観堂丸は軽く鼻で笑ってその珠を式盤と一緒に仕舞ったけれど、僕は何か引っ掛かるものを感じた。どこかに神聖さを感じたのか、或いは禍々しさを感じたのか、それは判らないけれど、とにかく僕の脳のどこかの部分が反応した。
昔の荼枳尼を見たせいなのか、物色をやめた観堂丸はそれきり骨に引っ込んでしまった。
離れ家は静けさに包まれた。女中や依頼人が外を歩く音はたまに聞こえるけれど、それ以外は本当に静かだった。
そのせいもあるのだろう、僕は起きているかいないか判らない状態で、長い幻覚を見た。いや、幻覚などではなかった。或いはただの夢だったのかもしれないけれど、それは混濁した意識の中にあって、幻と呼ぶのが躊躇われるほど現実味を帯びていた。
五歳くらいの少年が立っていた。冬の寒い日だった。身の丈に合わない大きな首巻きをし、異国風の帽子をかぶり、手にも暖かそうな被せ物を着けていた。それでも少年は寒そうに身を縮め、誰かを探すように辺りを見回していた。頬を赤くして目を潤ませ、不安そうに誰かを求めていた。
少年がキョロキョロすると同時に僕の視界がぐらぐら揺れた。面食らい、僕は軽く目を回した。手で頭を押さえた。手袋ごしに帽子――ニット帽の感触が伝わった。あれ、と僕は自分の姿を見る。僕は、その少年になっていた。
そこはたぶん神社だったと思う。僕はそこにぽつんと一人ぼっちで佇んでいた。そんなに大きな神社ではなかった。境内には砂利が敷き詰められ、石畳の参道があり、手水舎があり、拝殿があった。でも拝殿がどんな構造をしていたかまったく覚えていない。その方向を見るのがとにかく怖かったからだ。目を向けることもままならなかったと思う。僕はそこから早く出たい一心で振り返った。
その時、視界の端っこに動物が駆け抜けたのが見えた。驚いた僕は身構えた。だけどどこにも動物なんていなかった。あれ、おかしい、確かに見たのに。そう思って全身を使ってキョロキョロしていると、またも動物の気配がした。綺麗な毛並みのイタチのようにも見えた。
左に振り返るとそいつも左に、右に振り返るとそいつも右に。僕の動きに合わせてそいつは僕の視界から隠れようとした。そいつの狙いが判らなかった僕は恐怖して、たぶん顔をくしゃくしゃにして泣いて走った。されど、走れども走れども、僕の後ろにはずっとそいつの気配が付き纏っていた。いやだ、来ないで。そう叫びながら僕は顔だけを後ろに向けた。そいつは僕にぴったりとくっついていた。無我夢中に手を振って追い払おうとした。僕の手の平がそいつに命中した。違和感があった。僕の手と、その動物らしきものに、感触があった。僕は走るのをやめ、上半身だけを捻った。だけど全部は見えなかった。その動物らしきものは、初め僕のお尻に噛み付いているように見えた。でも、恐る恐る手を伸ばして、そうじゃないことが判った。それは僕のお尻に繋がっていた。いや、僕のお尻から生えていたのだ。動物らしきものが。動物の尻尾が。――狐の尻尾が。
僕は自分の体を確認した。僕は裸だった。厚着をしていたはずの服がなかった。マフラーも帽子も手袋もなかった。靴下もなく靴もなく、まったくの裸だった。だけど、一切の肌がなかった。僕の全身は、毛で覆われていたのだ。耳は軟らかく尖っていた。尻尾は覚束無いながら自分の意思で動かすことができた。鼻先が湿っていた。舌が長かった。爪が尖っていた。毛は黒かったけれど、僕は、それが二足歩行の狐であることを確信していた。
何を思ったのかは曖昧で覚えていない。だけど僕は鳥居をくぐって神社を出ようとした。鳥居から見える景色には車がたくさん通っていたように記憶している。だけど、ひとたび外に出ると、そこには車などなかった。木造の家屋がずらりと立ち並び、僕には見たことのない服を着た人々が往来していた。お祭りで着せてもらった浴衣みたいな服を――浴衣ほど派手ではないにしろ――みんな着ていた。土の道路に、そういう人たちと、あとは野良犬が歩いていた。違う世界にやってきたのだと、僕は幼いながらに思った。
違う世界。その言葉に僕は光明を見た。僕はどこか別の世界からやってきたのだ。そう考えれば合点がいく気がした。狐の姿は仮の姿で、僕は本当は人間に違いないのだ。
……やっぱり合点がいかなかった。もしそうだとしても、なぜ狐の姿になる必要があったのか。そして、なぜこの世界にやってきたのか。増えた疑問に応えることはできなかった。
「観堂丸」
不思議と声が出た。まだ体は疲労感に支配されていたけれど、幾分かは和らいでいた。
半透明のぼんやりとした光が蛇のようににゅるにゅると流動しながら骨から出てきて、檻の隙間を通り、僕の目の前で実体化した。観堂丸はその衣装が好きなのか、いつもと同じ白い水干に藍色の袴姿だった。
「喋れるようになったか。まあ、まる一日寝ていれば幾らか回復もするか」
まる一日というところが気になって外を見ようとすると、戸はすべて閉め切られていて、灯籠の光だけが部屋を照らしていた。
「言葉通りまる一日寝ていた。で、どうした」
ということは呪詛返しに遭った次の日の夕方か夜分ということらしい。ずっと起きていた気がするのに。
「笑わないで聞いてください。僕はどうやら違う世界からやってきたみたいです」
「ほう」
僕は夢或いは幻の内容を観堂丸に話した。それそのものが取り留めのない漠然とした内容だったから説明するのは少し難しかったけれど、僕の姿が狐でなかったということと、神社の鳥居をくぐったらこの世界だったということを強調して言った。
「荒唐無稽な話だな。笑いはせんが、真面目にお前は夢を見たのだと言わせてもらう」
「ではどうして僕は狐の姿をしているのでしょう」
「そういうものなのだろうよ」
「それです」と僕は言った。「誰もが皆そう言うのです。おかしいはずのことをおかしいと言わないのです。霊狐たちならともかく、人間が狐の姿をしているなんて普通は有り得ないのです。仮に僕の父が狐の姿をしていたらどう思いますか? 明らかにおかしいでしょう」
「ふむ」観堂丸は考える仕草を見せた。「確かにおかしいのかもしれないな。だが物事の本質は[[rb:遍 > あまね]]く〝[[rb:空 > くう]]〟なのだから、お前は偶然狐の姿をした人間に生まれたに過ぎないとおれは考える」
「そんな仏教思想が聞きたいのではありません」
「その姿をしているということがおかしいと言い張るのであれば、お前にはお前の、その姿なりの役割というものがあるのだろう。それはそれでいいとして、違う世界から来たという根拠は何処にある?」
「それは……」
「現実味があるといっても所詮夢は夢ではないのか」
「浴衣」
「ゆかた」
「ニット帽」
「にっとぼう」
「ピンボール」
「……それらは?」
「僕が辛うじて覚えている物の名です。聞き覚えはありませんか」
「ゆかたとは[[rb:湯帷子 > ゆかたびら]]のことだろうか」
「おそらくは」
「単純に略語になっただけのような気はするが、湯帷子そのものが普及しておらんから何とも言えんな。にっとぼう、ぴんぼーるとやらは初めて聞いた」
僕は大きく頷いた。少しだけど僕の説に拠り所が見つかって嬉しくなった。しかし観堂丸はどうしても認めたがらず、「お前の造語という線はどうだ」と苦し紛れの意見をした。
「輪投げ。金魚すくい。花火」
少しムッとした僕は追撃を加えた。
「輪投げと花火は知っている」
「花火といっても打ち上げでなく手で持てるくらい小さい花火です。僕の知る限りこの町でそんなものを見たことがありません」
「ふむ」
「他にもカステラ」
「かすてら」
「ヨーヨー」
「よーよー」
「それから……」
「判った判った。もういい」
どんどん頭の中に蘇ってくる単語をそのまま口に出していると観堂丸に止められた。
「お前はここで育ってきて知るはずのない言葉を知っているというのだな。完全には信じ難いが、百歩譲ってやろう」
一息つくと頭がくらくらした。少し興奮しすぎたらしい。気付けば猛烈にお腹が空いていて、それも力が出ない要因だったのだろう。
観堂丸が窓際の鈴を鳴らし、女中に合図をした。
「信じたところでどうなるという話でもないがな。それでお前、どうしたい?」
「宮廷に行ってみたいです」
「何を馬鹿な」
「夢で見た神社で感じた忌避感と、宮廷の付近で感じた忌避感は同じもののような気がします。宮廷が何らかの鍵を握っているに違いありません」
「しかしなあ……」
ここで女中が粥を持ってやってきた。穢れを案じて中までは入って来ず、入口に置かれた椀を、観堂丸が僕のところに持ってきてくれた。体を起こしてくれたものの、手を上げるだけでも目眩がして自力で食べることは難しく、観堂丸が杓で掬って食べさせてくれた。
「観堂丸は」僕は粥を嚥下しながら尋ねた。「観堂丸はどうしたいですか」
杓を持つ観堂丸の手が止まった。何だろうと顔を窺うと、観堂丸は真面目な顔で僕の目を見つめていた。
「この粥が欲しいか?」
質問の意味が解らず僕は目を瞬かせた。しばらく考えたもののやはり意図は掴めない。説明もしてくれない。意図は解らないものの、欲しいか欲しくないかでいえば欲しいので、僕は機嫌を窺うように上目で頷いた。
「ならばお前はしなければならないことがある」
成程と僕は頷いた。
「掛けまくも畏き観堂丸霊狐御前の御手を煩わせること、極めて心苦しき次第に御座りまする。何卒この私の――」
「おい」観堂丸は僕の顎を掴んだ。「逆だ、この馬鹿者め。その堅苦しい言葉遣いをいい加減やめろと言っているのだ」
「ああ、そういう……。しかし僕は誰に対してもこうなのです」
「そんなものはおれの知ったことではない。拒否など許さぬ」
観堂丸は顔を背けてしまった。僕は大いに迷った。生まれてこの方これ以外の言葉遣いをしたことがないのだ。呼び捨てにすら抵抗があるのにそれ以上を求めてくるなんて、少々横暴なのではないか。
しかしながら僕は観堂丸に逆らうことはできない。しばらく待って観堂丸が折れる気配を見せないので、僕は言い付けに従わざるを得なかった。
「観堂丸、僕に粥を食べさせて」
すると観堂丸は判りやすいくらい笑顔になって僕の口に粥を突っ込んだ。熱くて涙が出た。
「うむ、童はこうでなくてはな」
子供はどちらなのだろうかと思ったけれど、それは言わないでおいた。
「まあ冗談だ。おれとしてはそのほうが嬉しいが、お前がどうしても落ち着かんというのであれば無理強いはせんよ。では話に戻ろう。おれのしたいことは何かという話だな」
観堂丸は粥を持つ手を少し止めて考えた。
「仏は慈悲深いと言われるが、眷属はそうではない。元来我らは汚れ仕事をする立場でもあったからな。切り離されたところで性質が変わるわけでもない。誰かに怨みを持つこともあれば、如何なる手段を用いても報復を成し遂げようと執着する場合もある。おれの言いたいことは解るな?」
僕は控えめに頷いた。その考えは当然のことだと元より思っていた。
「やつとて陰陽師だ。神仏及び眷属への信仰心は多分にあるだろうよ。しかしやつのしたことは到底許されることではない。成程確かに分離霊狐はもはや神仏の眷属ではなかろう。しかし言わせてもらえばその責任は人間にあるのだ。それを棚に上げて呪詛の道具にするなど[[rb:釈迦牟尼 > しゃかむに]]が許してもこのおれが許さぬ。だいいち天部や明王を祀っておいてのあの狼藉だ。神仏は馬鹿ではない。遅かれ早かれ悲惨な死に方をするだろうよ」
いつの間にか鼻面に皺が寄っていたことに気付いたように観堂丸は自分の鼻筋に目をやった。取り繕うように鼻を掻き、
「まあなんだ、互いがどう動くにせよ、当面の間は怪しまれる行動は慎むべきだな」
「そうですね」
「お前、もう少し頑張ってみんか?」
いったい何の話かと思って、すぐに気が付いた。慣れるまでには時間がかかりそうだ。
[newpage]
[chapter:七]
話し合いの場を設けず一方的な口論により父親を追い返した音吉は、それは酷く消沈していた。結局事を荒立てたくないという理由でヤマト運輸に電話をして〝体調不良〟の配達員を迎えに来てもらい、伝票に受領印を押したあとで二人を見送り、そうして部屋に戻ると音吉は畳んだ布団の上でうつ伏せになっていた。
改めて考えてみて、やはり音吉はとんでもないことをしでかしたのだなと思わざるを得なかった。そう、当たり前のことだがこいつにも親がいる。親どころか祖父母もいるかもしれないし、兄弟だっているかもしれない。音吉は自らを鼻つまみ者と自称していたが、それでも友人の一人くらいはいたかもしれない。音吉はそれらすべてと訣別したのだ。
口にするだけなら容易かもしれない。突っ張るだけなら誰にでもできるのかもしれない。しかし本気で納得して受け入れられるかどうかは、それはまた別の話なのだ。虚勢はすぐにボロが出る。こいつが何年生きているかは知らないが、見た目通り音吉の情緒は子供なのだ。親に面と向かって訣別を口にして平気でいられるはずがない。それを証明するように、問答が続くにつれて音吉の口調は感情的になった。
俺が近づいても音吉は顔を上げなかった。枕に顎を食い込ませ、組んだ腕の中に鼻を突っ込んでいる。掛ける言葉も見つからず、俺は黙って横に座った。布団の上で、音吉の肩が規則正しく上下している。呼吸自体は落ち着いている。少し時間が経過しているおかげだろうが、それでも覇気を取り戻すまでには至っていない。
「もうちょっとさあ、考えてほしかったよな」弱々しく音吉が言った。「親がわざわざ来るなよな」
少し考えたが、気の利いた言葉は見つからない。思っていることをそのまま言うことにした。
「親だからこそ……じゃないのか」
「分かってるよ。分かってるけどさ」
不祥事を起こした狐の親という立場もあるだろう。しかし息子の身を案じている気持ちが一番だということは、今更語らずとも音吉は理解しているはずだ。でなければこんなにも心を掻き乱されるはずはない。
「おれさ、親父とあんまり仲良くないと思ってたんだよ。他の狐なら当然使えて然るべき力が使えないし、小さい頃からいつも怒られてばっかりだった。キヌマルが霊狐でなく妖狐としての力の使い方を教えてくれて、それでたまたま村一番の使い手にまでなれた。だけど親父は正統な力じゃないと認めてくれなくて、おれはそんな親父のことどうしても好きになれなかった。でもさ、おれがヨネヅヒメと結婚することが決まって、親父が真っ先に紋付羽織袴を仕立ててくれたんだよ。正装と無縁だったおれの着付けはほんとに下手くそだったけど、親父はおれの着崩れを笑いながら直してくれた。里の厄介払いだって分かってるのに、それでも親父は嬉しそうだった」
その父親に向かって音吉は暴言を吐き、場合によっては消えてもらうと強引に追い返した。音吉も、父親も、その心中は俺如きに計り知れるものではない。
「ねえ鈴次さん、お願いがある」
「俺に実現可能なことなら何なりと」
「背中撫でて」
「お安い御用だ」
俺は音吉の背に手を伸ばし、水干の上にそっと乗せた。布生地が軽く沈み込み、程なく中の本体に到達する。手触りは布そのもので、それを変化で再現するというのは相当なものなのだろう。俺は肩甲骨の辺りから手を滑らせ、腰の上まで撫でることを繰り返した。心なしか、音吉の感情が伝わってくる気がした。音吉は離れていても俺の気持ちが読み取れるが、もしかすると手で直接触れれば俺にも音吉の心が感じられるのかもしれない。俺は手の平に意識を集中し、音吉の中心に向かって手を伸ばした。それはもちろん比喩であるが、比喩と呼ぶには躊躇われるほどリアリティがある表現だった。俺の手はそこにある。それなのに、手の平の感覚は音吉の体の中に沈んでいた。俺は音吉の心に直接触れていた。音吉の心はひどく不安定だった。嵐が来る直前の、黒く分厚い雲に覆われた高湿度の生ぬるい空間が広がっていた。俺は慈愛の心を籠めて手を滑らせた。上から下に、荒れ狂っているであろう深層部にまで到達することを願って。
「……っ」
音吉の肩が揺れた。僅かに呼吸が乱れた。一撫でするごとに音吉の心の表層の皮が剥がれるみたいに、手の往復に合わせて音吉は剥き出しの感情を場に放出した。組んだ腕の中で拳が握られていた。組んだ腕の中で強く歯を食い縛っていた。しかし決して涙は見せなかった。涙を見せずただ耐えて、内に秘めたる激情は静かに活動を停止していった。
「おれは……」そこまで言って音吉は躊躇ったが、俺には音吉の心中が解った。
誰とも争いたくはない。それが本音だ。それくらい俺にだって解っちゃいた。いや、解ったつもりになっていだけだ。しかしその度合いは俺の想像を超えて大きなものだった。できれば戦いたくないのではない。心底争いたくないのだ。それもそうだ。誰が好き好んで昨日の友を今日の敵にしたがるだろう。さっきの三人組だって、よく知りもしない相手の里のものとはいえ、音吉を傷付けるつもりはなかったと言った。誰もが皆、平和にやっていたのだ。他者と違う音吉をある部分で蔑みながらも仲間として受け入れ、里と里の取引材料として使いながらも、それでも音吉を始末するという形での決着はできることならつけたがらなかった。
「だけど鈴次さんを殺させないためにはああするしかなかった!……少なくとも、おれには思い付かなかった」
そこに俺という部外者が入り込み、すべてを滅茶苦茶にした。音吉は音吉の事情があり、やつらにはやつらの面子がある。お互いに望まないながらも後には引けないのだ。俺が絡んでいるという音吉の事情については、然るべき時が来るまで聞いてはいけないのだろう。
あの場で俺を庇うために人生のすべてを投げ出した音吉。良心の呵責に喘ぎながら、それでもなお親を突き放した音吉。俺にはその覚悟に報いる義務がある。……どういう形で? 音吉とともに戦えばいいのか? 音吉とともに遠い地へ逃げればいいのか? それとも、俺が身を投げだして音吉の免罪を乞えばいいのか?
「…………」
それしかないように思えてきたが、今それをしては無駄に命を捨てるだけだ。命以外の罪の償い方を話し合う。そのためには音吉も言ったが力が必要だ。音吉に真の戦意がない以上、俺がやるしかない。
「鈴次さん」音吉が顔を上げて俺を見た。「今何を決意したの? 嫌だよ、いなくならないでよ」そう言って無防備に俺に抱き着いてきた。さっきは我慢した涙が溢れている。
「……心を読むなよ」そんな姿を見せるなよ。「お前と同じように、俺も覚悟をしただけだ」
いったい俺とお前にどんな因縁があるというんだ。言ってくれなきゃ解らないだろう。
接触面積が増えたせいなのか判らないが、音吉の心の涙が俺にまで伝わってくる。治まっていたはずの嵐が吹き荒れているのが判る。
「嫌だよ、嫌だよ。おれを置いてかないでよ」
そういうところまで覗かないでくれ。……いや、覗いているのではない。繋がっているのだ。俺は音吉と繋がり、音吉は俺と繋がり、お互いがリンクしているのだ。否応なく感情が引っ張られ、間もなく共振した。音吉の心が震え、俺の心が震えた。堪えようのない激情が俺の胸に渦巻いた。音吉から発せられた負の感情が俺の中に流れ、返っていき、それが幾度も繰り返される。∞の軌跡を描きながら循環する。通過するたびに俺の心を抉り、削り取ったそれを喰らってさらに増大しているように思えた。音吉はこんな膨大な不安と葛藤を抱えていたのだ。
俺は音吉を強く抱き締めた。無限の軌道にブレーキを掛けた。大丈夫だ、大丈夫だ、と念じ続けた。背を撫で続けた。それが摩擦になったように、僅かに流速が和らいだ気がした。嗚咽を漏らしながら、音吉のほうも感情を制御しようと努めていた。
やがて嵐は過ぎ、あとには長雨が残った。それはもはや心を削り取る力を失い、むしろ荒れ地に降り注いでは毒を洗い流す浄化の雨だった。哀しくあり、しかしどことなく心地の良さも感じさせた。いつしか音吉の肩の上がり下がりは規則性を取り戻していた。
「何でこんな出会い方になったんだろうな」落ち着いた声で音吉は言った。「鈴次さんを里に連れてきて、順を追って一緒になる未来もあったはずなんだ。それなのにどうしてこんな最悪な形に……」
俺を責めているわけではないのは判る。ただこうなってしまった現状を嘆いているだけだ。それでも俺は責任を感じずにはいられなかった。
「ねえ鈴次さん、何で気配消したんだよ。ちっちゃい頃はあんなに強く感じられてたのにさ」
「その話も本当だったのか?」
「一言だって嘘は言っていない」
「しかしそうだとしても俺には昔の記憶自体が……」そこまで言って俺の脳裏に一筋の光が走った。「ちっちゃい頃って、それは何年くらい前の話だ? 気配を感じられなくなったってのは、いったいいつごろだ?」
俺の胸から離れた音吉はきょとんと目を丸め、しばらくのちに俯いて考え、再び見上げる。
「正確には覚えてないけど、五つくらいの頃だったと思う。つまり二十一年くらい前」
「……」
俺は色んな意味で唖然とした。まさかの同い年。成長の度合いが違うのだろうが、見た目も口調も子供なのに、そんなに長く生きているとは。いや、それはどうでもいい。俺を唖然とさせた理由は他にある。
「関連があるかは不明だが、思い当たる節がないでもない」
音吉の目付きが変わった。「それは?」
「お前が五歳の出来事を朧げにしか覚えていないように、二十六年も生きるとだいたいの人間は幼少期の記憶を断片的にしか残していないものだ。しかし俺にはその断片すらない。ある部分を境に、それ以前の記憶が丸ごと欠落している。それだけなら単に忘れているだけだということもできるが、不思議なことに、その境以前に〝見えざるものが見えていた〟事実のみをはっきりと覚えているんだ。記憶がないにも拘らずな。そしてその境とは俺が五歳くらいのこと――つまり、二十一年前だ」
「……繋がりがありそうだね」
「俺は人の顔も名前も覚えられない不完全人間だから、ただの思い違いという可能性は十分に考えられるぞ」
「その頃の鈴次さんを知る人物は?」
「母親くらいしかいない。当時の保育園の先生もいるが、俺のことを覚えているかどうか、望みは薄いだろう。……まさかとは思うが会いに行くとか言うんじゃないだろうな」
「これは大事なことだよ」音吉はすっと立ち上がる。「おれの直観はよく当たる」
やれやれ。荷造りもしなきゃならない、大掃除もしなきゃならない、そのうえ更に母親の面会が重なるか。俺はタスクが増えすぎると落ち着かなくなるのだ。まったくもって、やれやれだ。
「まあそれはいいとして、ひとつ問題がある」
俺も立ち上がり、臨終の宣告をする医師のような深刻な目で言った。
「母親は認知症だ」
「そいつは強烈だね」
[newpage]
[chapter:漆]
一度呪詛返しを受けてしまったせいなのか定かでないけれど、僕の心身は明らかに消耗していた。肉体は脱力し、精神は摩耗し。有り体に言えば疲れが取り切れていないだけなのだけれど、もっと踏み込んで言えば、魂の一部が不可逆な損傷を受けてしまったような、荼枳尼天が僕の心臓の一部を持って行ってしまったような、そんな感じだ。
もちろんそれは比喩表現以上のものではなく、おそらく長く休めば徐々に回復していくのだろうという実感を自分では受けるが、もちろん義父はそんな悠長なことを許してはくれない。手を抜いてもくれない。死が見えて初めて加減をしてくれる。言ってみれば僕は使い捨ての駒だ。
一度呪詛を成功させればそれが実績となり基準となってしまう。つまり失敗するまで止まらないということで、僕は頑張れば頑張るほど自分の首を絞めることになるのだ。義父が僕を育てて呪詛を任せるようになったのは、自分が霊狐の呪詛返しに遭いたくなかったからだ。今なら断言できる。
万全でないまま、いつ返されるか怯えながら日々呪詛を続けた。この時ばかりは憑き物落としなどの依頼が有り難かった。負担は少なくて済むし、返される心配がなかったからだ。といっても所詮は気休めに過ぎず、僕は半ば自棄になりながら人々の怨みの代行になり続けた。官僚の姿がちらほらと見え始めたのは程なくしてからだった。
義父は彼らに僕を紹介した。それまでの依頼主であれば僕はあくまで裏方の扱いだったけれど、義父には何らかの思惑があるようだ。それを裏付けるように、以前まで僕に任せっきりだった軽い依頼を義父が受け持ち、僕を官僚の依頼に集中させるようになった。
官僚たちが持ち込む依頼は、ある意味ではやりやすかった。商人や町人からの呪詛依頼では相手の名前や所在がはっきりしないことも少なくなく、思念を頼りに怨家を探すのには骨が折れた。その点、官僚たちの呪詛の対象はほぼ立場の近い官僚であるから、名も所在もはっきりしている。
ひとつの修法に集中できるようにはなったけれど、そのぶん失敗が許されなくなった。義父の口ぶりからすると、おそらく僕が行ってきたこれまでの呪詛は、すべてこのための練習でしかなかったのだろうと思う。僕は慎重に慎重を期し、もし怨家の背後に陰陽師の気配を認めれば、無理せず身を引いて、隙ができるのを根気強く待った。あえてこちらの気配をにおわせておいて相手に警戒させ、そうしてしばらく沈黙し、相手がこちらの呪詛を跳ね除けたのだと錯覚したところを突くという駆け引きもした。そうして僕は局所的に名を上げていった。
新しい道場、そして女中を宛がわれた。皆が僕を誉めそやした。悪い気はしなかったけれど、それで舞い上がるのは愚かであると自戒した。どんなにおだてられても分の悪すぎる依頼からは身を引いた。それほどまでに呪詛返しを恐れていたのだ。あんなもの二度と味わいたくはない。
ただ断るだけでは反感を買う。依頼主に難がある場合は、いったん「難しい依頼ですがやるだけやってみましょう」と依頼を引き受けておいて、何もせずに時間を置き、「力は尽くしましたが……」と頭を下げる。或いは怨家の身辺を調査して得た情報を依頼主に教える。そうすると渋々ながらも引き下がってくれるという寸法だ。そこにはもちろん観堂丸の手腕に助けられた部分が大いにある。そうやって僕はだんだんと義父のような小狡い陰陽師になっていった。
けれど、いや、もちろんと言うべきか、そんな順調に事が運ぶはずはなかった。
決して油断していたわけではない。調子に乗っていたわけでもない。ただ読み合いに負けただけだ。背後に宮廷陰陽師が控えていたことは早くから気付いていた。僕が軽く干渉して相手を警戒させ、僕が沈黙して油断させる例の手を使ったのだが、相手が警戒を解いたのが罠だった。
思念体となった観堂丸が放った渾身の念が、隠れていた陰陽師によって瞬時に防がれたのだ。跳ね返されたその力は前回の比ではなく、僕は頭の一箇所を刀でめった刺しにされたような激痛を感じ、一瞬にして意識を失った。
ところが目を覚ましても刀は刺さったままだった。それどころか寝ている間に刀は全身に広がっていた。目を覚まし、そこが離れ屋で自分は仰向けで寝ていたのだと気が付くまでの僅かな間だけが、安寧と呼べる最後の時間だった。指一本、そう、たった一本の指を動かそうと筋肉に力を入れただけなのに、それを皮切りに全身の刀が一斉に暴れ始めたのだ。
僕は絶叫した。頭が、耳が、目が、喉が、腕が、肩が、腹が、背が、足が。次々に切り落とされ、抉られ、刻まれた。全身から血が噴き出した。目の前が真っ赤になった。目から血が噴出した。何も見えなかった。生まれて初めて「助けて」と叫んだ。喉から血が逆流し、叫べなくなった。鼻から血が流れ落ちた。刻まれた断面から、僕の成分がすべて抜けていった。ふっと意識が遠のき、一瞬の浮遊感ののちに視界が開ける。僕の体はバラバラになどなっていなかった。しかし目の前に[[rb:三面六臂 > さんめんろっぴ]]の明王が現れ、それぞれの手に持った剣を僕に向けて乱暴に振り下ろした。ものも言えず僕は刻まれた。声なき声とともに、僕の成分が喉から抜けていった。
霊狐がいた。その霊狐に、[[rb:女天 > にょてん]]が騎乗していた。女天は手に宝剣を持っていた。珠を持っていた。女天は宝剣を天にかざした。宝剣が光り、次の瞬間には僕の心臓を刺し貫いていた。また次の瞬間には、僕の心臓は女天の掲げる剣の先にあった。規則正しく脈打つそれを、女天が乱暴に掴み、剣から引き抜き、そして大口を開け――。
「おい、しっかりしろ」
観堂丸の声がしたような気がした。幻はすっと消え去り、あとには激痛だけが残った。血は血ではなかった。僕の体は刻まれてなどいなかった。しかし万力で体中を締め上げられているような痛みは引くことはなく、耳に届く観堂丸の声すらもが激痛の発生源となった。僕は再び気を失い、そして激痛で目を覚ました。苦しみ悶える動きで更に苦しみ、気を失い、激痛で目を覚ます、終わることのないまさに[[rb:無間地獄 > むけんじごく]]の中に僕は在った。
それはもはや永遠に続くものとしか思えなかった。僕はそれを過去の罪すべてを償うための罰なのだと思おうとした。けれど、できなかった。その地獄は人間の薄弱な意志など容易く打ち砕き、醜い体裁を踏みにじるものだった。助けて、と僕はもう一度叫んだ。しかしそれは叫んだ気がしただけで、声どころか息すら出ていなかった。
観堂丸、と僕は声を出そうとした。口から生気が抜けていった。
観堂丸、と僕は手を伸ばそうとした。手がバラバラになった気がした。
僕が感じる激痛を糧に、痛みは更に勢いを増しているように思えた。痛みに体が痺れてもなお傷み続けていた。もう助からないと、そう強く確信した。僕は観堂丸に何かを言い残そうと考えた。僕の命をすべて振り絞ればそれくらいは成せるかもしれない。
僕は確かに手を伸ばした。観堂丸。僕は確かに声を出した。ごめんなさい。僕は確かに謝れた。できることなら観堂丸に殺してほしかった。だけど、それをお願いする力はもう残っていなかった。腕は空中で脱力し、僕の命は腕と同時に落ちて尽きる――そう予感した。
けれどもそれを引き留める力があった。観堂丸が僕の腕を取ったのだ。離れかけた意識が舞い戻り、ぐらつきながら元の器に収まった。そのまま意識の焦点が合った時、浮かび上がった情景を目を閉じたまま見ていた。
それは観堂丸の念じる世界だった。空も地面も何もない、光の中に観堂丸は立っていた。両足を揃え、目を閉じ、合掌していた。どこかから吹く風に水干がはためいていた。観堂丸の手が、残像を伴いながら印を結んだ。左人差し指を立て、右手で包み込む、[[rb:智拳印 > ちけんいん]]。
オン・バザラ・ダドバン・[[rb:七難即滅 > しちなんそくめつ]]
オン・アビラ・ウンケン・[[rb:七福即生 > しちふくそくじょう]]
オン・マカキャラヤ・[[rb:悪病消除 > あくびょうしょうじょ]]
オン・エンマヤ・[[rb:起死回生 > きしかいせい]]
目まぐるしく印を変え、流れるように真言を唱え、
オン・ダキニ・ギャチ・ギャカ・ネイエイ・ソワカ
オン・ダキニ・ギャチ・ギャカ・ネイエイ・ソワカ
オン・ダキニ・ギャチ・ギャカ・ネイエイ・ソワカ……
そうして観堂丸は荼枳尼真言を繰り返した。まるで何かの法を修するかのように。
「痛みが」と僕は呟いた。そういえば全身の痛みが和らいでいた。僕は自分の体を確認しようとして、自分に体がないことに気が付いた。
お前に憑いたのだ、と観堂丸の声がした。声はしたものの、観堂丸は変わらず真言を唱え続けている。
観堂丸が僕に憑いた?
それはまさしく言葉通りのことだった。ここは僕の意識の中。観堂丸は僕の中に入り込んでいるのだ。けれどそれは何のために?
その答えは観堂丸の表情を見れば明らかだった。荼枳尼天印を構えながら、観堂丸は苦痛に顔を歪めていた。観堂丸は僕の痛みを肩代わりしようと……。
そんなことしなくていい、と僕は言った。だってこれは僕が償うべき僕の罪なのだから。
黙って身を委ねろ、と観堂丸が訴え掛けた。
金剛合掌、そして観堂丸は諸手を開いた。僕はそこに包まれるべきだと感じた。僕は実体がないまま観堂丸に引き寄せられた。
「お前の本意ではなかろう。認識を歪めてまでする行いを、どうか許してくれ」
僕は観堂丸の言葉に感激した。意味も理解できないままに感謝した。僕は観堂丸の腕に包み込まれた。その瞬間、僕の脳で何かが成就した。
何をすべきかすぐに解った。僕は観堂丸を求めた。見えない手を、観堂丸に回した。僕に応えるように観堂丸は僕を抱いた。僕は幸福に包まれた。それは僕が生まれて初めて味わう感覚だった。観堂丸の接吻が快楽をもたらし、その強い刺激は刻まれた脳を即座に修復した。
僕の顔があった。狐の形をした僕の顔が現れた。僕の肩があった。体毛に覆われた僕の肩が現れた。観堂丸が触れるたび、何もないところから僕の全身が出現していった。背を撫でられ、猛烈な快感とともに背と腹が実体を得た。尻を撫でられ、熱い滾りが現れた。大腿を撫でられ、足の先まで、僕の頭の中に僕のすべてが具象化された。僕は裸だった。観堂丸もいつからか何も身に着けていなかった。僕たちは光の中で交わった。観堂丸が僕の首筋を舐め、僕は喜びに仰け反った。熱い滾りがその熱を勢いよく解き放った。
残っていた痛みがみるみる消えていった。いや、痛みという感覚が別の強すぎる感覚に上書きされたのだ。喜悦、感謝、幸福、慈愛……。そのような既存の言葉では到底表現しきれない至上の喜びの中に僕の精神は在った。そしてそれは、観堂丸が僕の中に入ってきた時、更に増幅された。
極めて抵抗なく、収まるべきものが収まった。その瞬間、僕は激しく絶頂した。観堂丸が動くたび、止め処なく、際限なく、凄まじい快感が脳から末端まで突き抜けていった。僕は悶絶した。痙攣した。ともすれば死にそうなほどの強烈な快感が僕の心を揺さぶり続けた。もしこのまま死んでしまうことができたなら、それはどんなに幸せなことだろう。
けれど僕は知っていた。観堂丸は僕を生かそうとしているのだ。僕は観堂丸の意志に応える義務がある。僕はごめんなさいの代わりにありがとうの気持ちを込め、自ら唇を寄せた。口を付け合い、結合し、そうして観堂丸は僕の中に生命の塊を解き放った。腹の底を起点として、僕の成分が上書きされていくような感覚がした。その感覚は僕に猛烈な疲労感をもたらし、抗うこともできず僕の心身は脱力していった。
薄れゆく意識の中、僕は体中に生命力が漲っていくのを感じた。
[newpage]
[chapter:八]
適齢期を過ぎた出産は様々な方面に障害を発生させると俺は思っている。母体への負担もさることながら、産まれてくる子が遺伝子疾患を抱えるリスクが高まるのだと以前どこかで見たことがある。加えて母親同士の年齢差により周囲から孤立しやすくなったり、子に時代遅れな教育を行ったりと、先天的にも後天的にも良い要素はひとつとしてない。俺がこう育ったのはそれが端を発しているのではないかと思う。俺は母が四十九の時の子だった。
もちろんそれが言い訳に過ぎないことは判っている。怨んでも嘆いても現状が良くなるわけではない。起きたことは仕方のない話なのだ。もっとも、だからといってそれをありのままに受け入れられるかどうかはまた別の話だ。この劣等感はおそらく死ぬまで付いて回るだろう。
俺は母のことが苦手だった。別に暴力を受けただとかいう目に見える不幸はなかったが、愛情が不足していたことは早い段階から気付いていた。義務感で育てられているのだと、漠然とだが受け取れた。
広い家であったことを利用して、母は自宅で小学生の学習塾をしていた。俺は学校から帰ると二階の自室に籠るか道路向こうの河原に降りて一人遊びをするかしかすることがなかった。兄弟もおらず、父親もおらず、俺は寂しい少年時代を送ったものだ。母自身に心の余裕がなかったこともあったのだろうし、また要領がすこぶる悪かったこともあり、俺に構う暇などなかったのだろう。大人になってから解る彼女の要領の悪さ。それを思い出すと、成程遺伝だなと嫌でも思わされる。
持論だが、放置も立派な虐待に当たると俺は思っている。後天的な情緒の発達には幼少期にどれだけ健全な脳への刺激が与えられたかで決まる。それはつまり人生経験であるし、好奇心や疑問の解決、探究心の増進、承認欲求の適切な充足などが当てはまる。それにより子供は考える力が養われ、自立する力を持つ大人になっていくのだ。
「どちらかというと肯定寄りだけど、完全に鈴次さんが正しいとは言い難いな」
まあ、こんな考えが他人に理解されるとは思っていない。結局能力ある人間からすれば持たざるものの言い訳にすぎないからだ。持つ者はなぜ自分がそれを持っているのか考えたことがない。だから持たないのはただの努力不足だとしか思わないし、自分の子にもその勝手な常識を押し付けて非難するのだ。努力する能力だって勝手に生えてくるものじゃない。生えてくる土壌が必要なのだ。
「健全な精神はどうやって育まれるか。これは至極単純なことなんだよ」
「霊狐の常識を聞かせてもらおうか」
「どれだけ幸せを感じられるか。言い換えると、どれだけ腹の底から笑ったか」
ハンドルを指で叩きながら考えた。成程、一理ある。
「他者の心の揺らぎが分かるとね、どうしても他人を傷付けようって気にならなくなるし、むしろどうすれば良い気の流れになるかってことを自然に考えるようになるんだ」
「他人の気持ちになって考える能力が先天的に与えられているからこそ言える理屈だな」
「その通り。人間は色んな意味で可哀想だと思うよ。おれたちは、――まあ醜い勢力争いなんかもあるにはあるけど、基本的には誰もが他者を尊重する精神を持ってる」
「それでいて鼻つまみ者というのは矛盾していないか?」
「そこはまた事情が違ってくるんだ。おれの得た力というのは霊狐という存在を貶めるものになりかねないからね。霊狐が妖狐の力を使うことはあまり褒められたことじゃないという共通の認識があるんだよ。そのへんは霊狐の集落と妖狐の集落が一緒じゃないところからも察してほしい。ま、安い挟持ってやつだよ。霊狐、妖狐、野狐。狐同士だって種類が違うと相容れないんだから、狐が聖人や賢者になることはありえないね」
「ひとつ訊くが、お前は里にいて幸せだったか?」
「それなりにね。なんだかんだで可愛がられてはいたし、おれも率先して大人たちの仕事を手伝った。小狐の遊び相手になったりもしたし、悪ガキ同士で喧嘩もした。それはおれが力をつけてからも変わらなかった。手加減の方法もキヌマルに教わってたし、子供にとっちゃ霊狐も妖狐もどうでもいいからな」
普通はそこで迫害されると思うのだが、それは人間ならではの常識なのだろうか。
「お前はキヌマルに相当世話になったようだな」
「そりゃあね。里の合併がなければ結婚してたと思うよ」
「おいおい」今すぐ帰ってやれよと昨日の俺なら言っていただろうな。
「おれは里一番の術の使い手、キヌマルは里一番の剣の使い手。なかなかお似合いだったと自分でも思う」
今すぐ帰ってやれよと思わず言いそうになった。
「強いだろうというのは見た目からも雰囲気からも判るが、まさかあの目付きの怖い兄ちゃんがそんな面倒見が良いやつだとはな。名は体を表すと言うが、名前が絹だけに物腰が柔らかくなるってことなのかな」
「うん?」
ちなみに、いや、ちなまないが俺は絹より木綿のほうが好きだ。鍋となると特に。豆腐の話だが、鍋に絹ごしを入れるやつは気違いだとすら思う。
「もしかして鈴次さん、絹糸の絹だと思ってる? 鬼怒川の鬼怒だよ」
「何だと」そんなもの言われなきゃ判らないだろう。
「名は体を表すというより、体を表す名を与えられたんだよ。元服の時にね」
「いやはや、お前の歳を知った時くらいの衝撃だよ」
「事故らないでね」
やれやれ、日本語とは難しい。よほど特徴的でない限り、音だけで漢字まで判るものか。逆もまた然りで、俺だって正しくれいじと読んでくれる人はそう多くない。そういう時、日本も韓国のように漢字を廃止してしまえばいいのにと決まって思う。それはそれで不便だろうが。
それにしても元服というしきたりがまだあるとは。どうやら霊狐の集落は昔ながらの風習を大切にしているらしい。
「音吉というのも幼名なんだよ」
「となると元服前に結婚することになってたわけか。霊狐の社会も複雑なんだな」
「今回は特別なんだよ。元服の儀式も一緒にする予定だった」
ということは、音吉が新しい名をもらう機会を俺がおじゃんにしてしまったわけだ。やれやれ。閻魔帳の俺のページにはいったいどれだけの罪状が書き連ねられているのだろうか。
音吉は他に、ヨネヅヒメは米津姫、米津姫とともに俺に轢き殺されたヤチスケは八千助だと漢字を教えてくれた。
「ちなみに八千助はおれより年長の悪ガキ仲間だった」
もう勘弁してくれ。
時刻は午後三時半。母が入所している老人福祉施設へとやってきた。着くなり音吉は軽く顔を顰めた。どうしたのかと問うと、あまり良い気の流れではないのだと。確かに、そう感じるのも頷ける何かがここにはある。おそらくこういった施設はどれもそうなのだろう。
中を歩きながら、音吉は「[[rb:姨捨山 > おばすてやま]]だなこれは」と吐き捨てるように言った。人によって意見は異なるだろうが、俺は音吉の表現に大いに賛同する。高齢社会、少子化、核家族。家庭で面倒を見られない高齢者の行き着く先。日本の闇、未来の縮図がここにある。あくまで個人的な意見だ。
前方から来たフィリピン人の女性介護士を呼び止め、身分を明かした上で母のことを尋ねる。残念ながら顔を覚えられるほど通いつめてはいないのだ。彼女は流暢な日本語で母の様子を教えてくれた。変わらずです、と。それを聞いて俺は気が重くなった。変わらず元気だ、という社交辞令なのか、変わらず同じ様子だ、という立ち入った状況説明なのかは判らないが、どちらにしても同じことだ。
母の認知症は当初は軽度のものだったが、五年の間にそこそこ進行し、いつからか俺の呼び掛けに返事をしなくなった。何を言っても床のある一点を見つめたまま顔も目も動かさない。コミュニケーションが取れないと人の心は容易く離れるもので、面会の間隔は年々空いていった。
今では足も弱り、普段は車椅子に乗って施設内を独り言をぶつぶつ言いながら一日中徘徊しているらしい。返事をしないといっても言葉は通じていて、これから食事だとか風呂だとか職員が伝えると素直に応じるそうだ。トイレも一人で勝手にするし、暴れたり反抗したりしないところも含め、職員にとってみれば優良な入所者かもしれない。
「鈴次さん」
もうすぐ母の部屋というところで音吉が立ち止まって言った。やけに神妙な音吉の顔を見て俺は嫌な予感を感じ取った。
「狐の気配がする」
そんなことだろうと思った。俺は溜息とともに項垂れた。こんなところで面倒ごとは勘弁してくれ。
「どこからだ?」
音吉の手がすっと伸び、その指がある部屋を差した。半ば確信を持って指先が示す方向を見ると、やはりというか何というか、部屋のネームプレートには見事に吉崎敬子と表示されていた。
まったく、勘弁してくれ。金属バットは車の中だ。
部屋のドアは閉まっている。先入観のせいか判らないが、ドアの前に立つと妙に重い空気を感じる。――拒まれている。そんな感想はおそらく俺の心がもたらす錯覚だろう。
呼び掛けに応じるかどうかはともかく、そして母が部屋にいるかどうかはともかく、部屋に入る前にドアをノックするのは当然の礼儀だ。それに従い、俺はコンコンとふたつノックをした。コンコンと言う擬音語が頭の中で即座に狐の鳴き声と結び付いたが、実際の狐が本当にコンコンと鳴くかどうかは不明だ。いや、野生の狐ではないが、まさに今日の昼前に悲鳴という形で鳴き声を耳にした。キャーンだかギャーンだか、とにかくコンではなかったことだけは確かだ。もっとも、実際にコンコンと鳴くのだとしても、それを悲鳴に採用するとは到底思えないのだが。
なぜだろう、実家で寝ていた眷属霊狐のことを考えていたせいなのか、部屋の中で前足を揃えてお座りしている凛々しい狐がその眷族と同じに見える。
「うわ」
音吉が不機嫌な声を出したが、どんな顔をしていたかは判らない。俺の視線は目の前の霊狐と母親に固定されていたからだ。
母は外を眺めていた。カーテンと窓を開け放し、外から入る風を受けていた。車椅子の上で、まるで風に含まれる生命力を吸収しているように。
「母さん」
俺は声を掛けた。その結果が判りきっている前提の、義務的な辞令だ。母はもちろん返事をすることも振り返ることもなかった。
「お主の言葉は届かぬよ」
その霊狐が俺に向かって言った。首の幣も、声の響きも、やはり実家にいた狐と同一のものとしか思えない。
「同じやつだよ」音吉が小声で俺の疑問に答えてくれた。
「ここで会うとは因果なものよ」霊狐がニィっと口角を伸ばした。しかしそれが愉快という感情から来るものでないことは何となく読み取れた。
どうしたらいいか判らなかった。母と話をするために来たら里と関係のない稲荷の眷族霊狐がいて、それが言うには俺の言葉は母には届かないと。届かないからどうする、その先を言ってくれないとどうしようもない。
そこで俺は、ちょうど物理の計算で空気をないものとして扱うように、その狐をスルーした。母の前に回り込んで顔を覗き込み、「母さん」もう一度声を掛けた。やはり母は眉一つ動かさなかった。
「心の籠もらぬ声がどうして届こうか」
母の顔の前で手を揺らす。手の影が目に掛かっても、それでも俺の姿を認識していないようだった。肩を揺すっても、頬を手で触れても、まるで俺の存在そのものを感じないようにインプットされているみたいに……。
「その人に何をした?」
音吉の声がした。その人に何をした、というのはどういうことだ。その人、それは母のことだ。何をしたというのは何だ。誰が、何を? 俺は振り返る。壁にもたれて腕を組んだ音吉と眷属狐が睨み合っていた。
「わしは何もしておらぬよ」
音吉は無言で壁から離れ、こちらに向かって歩いてきた。
「おっと、余計な手出しは無用じゃ」
眷属狐が割って入り、厳かに座った。後姿が揺らめいていた。景色が揺らめいていた。その霊狐を中心として、陽炎のような揺らぎが発生していた。――威嚇。おそらくその霊狐は音吉を威嚇しているのだろう。
「おれはその人に一瞬でいいから触れたいだけだ」
「それが余計なことというのよ。部外者が立ち入ってよい領域ではない」
「悪いけど」音吉の体からも陽炎が立ち上った。「これは大事なことなんでね」
「ほう、面白い」
ちりり、と空気が焦げたにおいがした。音吉の体から青い光がちらちら見えていた。眷属霊狐がすっと立ち上がった。一触即発。いやいや、こんな狭い部屋で何をする気だ。
「待て、それなら俺は関係者だろう」
何だかリアルファイトに突入しそうな二人の間に割って入った。
「説明してくれ。でなきゃ何も解らないし納得できない」
霊狐が顔だけをこちらに向け、吊り上がった目をさらに吊り上げ不気味に笑った。
「知らずともよい。お主はお主の役割を果たせばよいのじゃ」
「……」
何だろう。なぜかそのフレーズに聞き覚えがある気がした。俺は脳をフル稼働させ記憶を検索するがヒット数はゼロ件だった。いや、何も見つからず検索中のまま動いていないだけだ。ポンコツCPUとメモリでは成果は上がるまい。仕方なく検索を中断し、代わりに尋ねた。
「差し障りのないことくらい教えてくれてもいいんじゃないか。母がどんな状態かとか、母と霊狐に何の繋がりがあるのかとか」
「いやじゃ」
プイ、と顔を背けた。こちらからあちらに、二七〇度くらい首が回った。狐の生態は奥が深い。
「これ以上の面倒事は沢山じゃ。大体お主、ろくに祀りもせずに頼み事など随分と虫のよい話と思わぬか」
それを言われると返す言葉がない。
「その者は以前から稲荷大神への信仰が厚かった故、祀れぬ状態になったあとも時折こうして様子を見に来ておるに過ぎぬ。わしは何もしておらぬし、これから何かをするつもりもない。言えるのはこれだけじゃ」
「あんたが何もしてなくても」音吉がすっと指を差す。「他の狐が何かをしていないとは限らない」
指の先には木製の整理棚があり、そこに実家の神棚にあったものと同じ狐の置物があった。
……こんなものあったっけか?
「ふん、目障りな小僧め。不安を煽ることを言いおって。安心せい。例えわしら稲荷大神の眷属が何かをしていたとしても、それはこの者のためにしておることじゃ。信を仇で返すような低俗な真似などせぬよ。さあ帰れ」
そう言って眷族霊狐は母と俺の間に割って入った。もう近づくなということだろう。音吉はこれ以上の進展は見込めないと言うように首を振った。そう言われてもな。
「油揚げ五枚」
「は?」
「出汁の染みた油揚げだ。美味いぞ」
「お主は阿呆か。食物でわしが釣れると思うな」
「何なら稲荷寿司も付ける」
「それおれが食いたい」
「お前は黙ってろ」
「お主は根本から勘違いしておるようじゃの。供物とは日頃の感謝の気持ちを込めて捧げられるものじゃ。神も眷族も、見返りを求めた供物には見向きもせぬ。正当な儀式を経るわけでもなし」
「どん兵衛きつねうどん」
「いい加減にせい!」一喝。鋭い牙の列が見えた。「それらは確かに好物じゃが、それとこれとは別じゃ。これはお主のためでもあるのじゃぞ。世の中には知らぬほうがよいこともある」
「いい加減にしてほしいのはこっちのほうなんだが」
俺はピシャリと言ってやった。だんだん腹が立ってきた。
「昨日から今日にかけて謎が積み重なるばかりでひとつとして答えが見えてこない。こんなことで納得ができると思うか。音吉、これはお前にも言ってるんだぞ。当事者は俺なんだ。知る権利はあるはずだ。それを何だお前ら、受け入れ態勢ができていないとか知らずともよいだとか勝手なこと言ってくれやがって」
「お主を納得させる必要がわしにはないというだけの話よ。お主の事情のためにわしらの事情を曲げねばならぬ道理がどこにあろうか」
「そうか解った。神棚は撤去する」
「何じゃと」
音吉が笑う音が聞こえた。「いいねそれ。おれも住みやすくなる」
「そんなことをすればただでは済まさぬぞ」
「これは俺の事情というやつだ」
「ふん、減らず口を。ああ、この親からどうしてこんな罰当たりな子が生まれるのか。嘆かわしいことじゃ」
そんな親だからこそこんな子が生まれたんじゃないのか、と、それは言わないでおいた。
「お主がそうしたければするがよい。その結果どうなろうとそれは自然の摂理じゃ」
勢いで言ったものの大して効果はないようだ。これ以上は埒が明かない。音吉も帰ろうと言うし、見舞いのどら焼きだけ置いてその場を後にした。
「もし母とコミュニケーションが取れるのなら俺のことは言わなくていいからこれを食べさせてあげてくれ」
そう言い残してきたものの、どら焼きの行方が母の口だろうが狐の口だろうが、それは別に気にしない。
こうして貴重な時間を割いてこんなところまでやってきたものの、何の成果も得られなかった。謎は謎のままだし、俺の知らない事情たちが俺を翻弄している現状は何も変わらない。俺は何も知らないまま命の危険に晒され、俺の知らない事情で音吉は傷付こうとしている。当事者のはずの俺だけが部外者だ。
施設内を歩いて帰りながら、俺は音吉に文句を垂れた。俺だけ蚊帳の外というのが気に食わないと。切っ掛けは確かに俺の車が狐の嫁入りに突っ込んだことだし、その事実を軽視するつもりもないが、あとのことはすべて成り行きだ。人生はなるようにしかならないが、それを納得して受け入れる度量は今の俺にはない。事情を言わないのは相手の事情だから無理強いするつもりはないが、それはそれで不満を感じる、ただそれだけだ。
仙狸庵の大将にしろ音吉にしろ、そして稲荷の眷属霊狐にしろ、何だか誰も彼もが俺の知らないところで動き、俺の人生を弄んでいるように思えてしまう。褒められた人生でないとはいえ、俺の人生の流れに自分の力が及ばないのは些か不本意だし、それと同時に気味悪くもなる。
「正直言うとね、おれも戸惑ってる」申し訳がなさそうな顔で音吉は言った。「何か大きな流れがあって、おれたちはその流れに呑まれている。そんな気がするんだ」
「お前がひた隠しにする事情ってやつがすべての鍵、源流だと思っていたんだが」
「おれもそう思ってた。だけどさっきふと思ったのが、おれの抱える事情にあいつら稲荷の霊狐が関わっている可能性があるってこと。おれはそれが気になるね」
「それが気になるねと言われても、お前の事情が解らない以上、重大なことのように言われたからとて俺の知るところではないわけだが」
少し言い方が刺々しくなってしまったせいか、音吉はばつの悪い顔になって俯いた。
「ごめんね鈴次さん。これはすごく微妙で繊細なことなんだ。言うと言わないとで鈴次さんの人生が大きく異なってしまう可能性があるから」
「気遣いから来ているのならそんなものは不要だ。何が起きても俺の人生であることには変わりない」
「それは理解はしてるよ」
「大事なのは納得なんだ。納得さえできれば、人生が多少良くなろうと悪くなろうと構やしない。納得さえできていれば、待つものが例え死であったとしても未練は残るまい。……まあ、無理にとは言わんが、俺がお前にとって結婚したいくらいの重要人物であるんなら、そしてお前が俺にとっても重要人物であると言い切るんなら、お前一人だけが重荷を背負うのはどうなのかな。それこそ事情を知らないから言えるのだろうが」
「…………そうだね、確かにそうだけど」
「ここまでのことが起きてるんだ。俺の人生にどんな因縁があったとしても覚悟はできているつもりだが」
「受け入れ態勢ってのはそういう意味じゃないんだよ。事情を説明したとして、それを十全に理解して受け入れられる状況にないということ」
「言わずに待ったらそのうち理解できる状態になるかもしれない、と?」
「そうともいえる」
「お前、俺の中に何を見ている? 俺という人間を勝手に決めつけるなよ。お前の口ぶりだと俺の中に何か〝違うもの〟がいて、その〝違うもの〟はお前の言う事情を知っていて、だからお前はそれが出てくるのを待っている、そんな印象を受ける」
一瞬だが音吉の歩みが止まりかけたのを俺は見過ごさなかった。当たらずも遠からずというところか。
「お前が俺の中の何を待っているのか知らんが、俺は俺なんだぞ。二十六年間生きて培ってきた吉崎鈴次という人間性ってやつをお前はないものとして扱うのか」それこそ物理の計算みたいに。
今度は完全に立ち止まった。
「お前がそこまで言いたがらないのだからそれだけの事情というものがあるのだろうが、もし俺がそれを受け入れられなかったとしても、少なくともお前が何に必死になっているか理解して納得ができるんじゃないのか。今のままだとお前の行動はただの奇行なんだぞ。里のやつらにとっても、そして俺にとっても。腹を割れよ。腹を括れよ。言わなきゃ何も始まらない。どうせ目の前の問題は変わらないんだ。お前の心配は無事に霊狐たちの襲撃をしのぎ終えてからすることだ。それが叶わんうちに死んでしまったら、それは納得できる死に方にはならない。俺を悪霊にする気か」
音吉は観念したように目を閉じ、軽く開き、何かを喋ろうとし、やっぱり何も言わなかった。
俺の言うべきことはすべて言った。あとはこいつの判断に任せる。言おうが言うまいが、どちらでも構わない。
俺は音吉を促して施設を後にし、車に乗り込んだ。エンジンをかけ、バックをするために後方確認。その際にちらりと音吉を見ると、姿勢よく座った音吉は膝の上で握り拳を作り、じっと前を向いていた。何らかの決意のようなものを感じ取ることができた。
車の流れに乗って片側二車線の国道を走っていると、やがて音吉は周囲の環境音の中、よく通る声で話し始めた。
「おれの名は音吉。過去がどうであれ、事情がどうであれ、今のおれは音吉以外の何者でもない。産まれてから今に至るまでに培ってきた音吉という人間性ってやつは、おれの言う事情とは無関係に養われてきたものだ。事情に縛られていようがいまいが、これまでの二十六年間は確かにおれの人生だし、無に帰ることはない。だからおれは音吉として、同じように吉崎鈴次として歩んできた二十六年間に向き合わなきゃいけなかったんだね」
それの意味するところは解らないが、俺は黙って続きを聴く。
「鈴次さんの言う通りだよ。おれはおれの願望を押し付けてた。事情をすんなりと受け入れてくれることを望んでた。受け入れられなかったら、それはおれの人生を否定されるも同じことだったから。だけど、それが鈴次さんの人生を侮辱するってことに気付かなかった。盲目になってた自分が恥ずかしいよ」
「俺の中に何かがいるというのは当たっているのか」
「ううん。おれが待ってたのは、鈴次さんが記憶を取り戻すことだった」
「五歳ごろの記憶というやつか」
「そうじゃないけど、もしかするとそうともいえるかもしれない」
「はっきりしないな」
「そうじゃない、と言い切れるのがおれの事情に関わる部分で、そうともいえるかもしれない、という不確定要素が稲荷の眷属霊狐が関わっているかもしれない部分。やつらのことは今のところ考えるだけ無駄だから置いておくとして、これからおれは音吉として、鈴次さんの人間性を尊重して事情を話すことにする」
「……さっきから、まるで昔は音吉じゃなかったみたいな物言いをするんだな」
「そうだよ。もちろん音吉という名前じゃなかった。――今聞きたい?」
俺は少し考える。「大事な話だろう。コーヒーでも飲みながら落ち着いて聞くべきだな」
音吉はふふっと笑った。「納得できる死というのは事故死じゃないしね」
「実にまったくその通り。どら焼き食うか」
「食べる」
「一個しかないから俺にも半分くれ」
「いいよ。――半分こ、ね」
持論だが、セブンイレブンの「こだわり卵のふんわり生どら焼き」に勝るどら焼きはないと思っている。単に生クリームが好きなだけではないかと言われれば否定はしない。
俺と音吉、人と霊狐、俺たちにいったいどんな因縁があるのか。話を聞くのがむしろ楽しみですらある。
事故を起こすわけにはいかない。俺はいつも以上に慎重に左車線をトロトロと走った。のだが……。
なぜか渋滞に巻き込まれた。行きの道ではしていなかった道路工事が始まっていたのだ。音吉が怪訝そうに首を傾げた。
[newpage]
[chapter:捌]
一命を取り留めたというだけで、僕の体は瀕死のままだった。ただし僕の命の向かう先は、消滅でなく回復の方向に切り替わっていた。それは偏に観堂丸のおかげだった。観堂丸からもらった生命力は確かに僕の中に満ちていた。
本当なら今でも激痛が体を支配しているはずだと観堂丸は言った。それを感じないのは、昨日観堂丸が一時的に僕に憑き、痛みの認識のみを取り払ったからであると。確かに腕を抓ってみても痛みはほとんど感じない。
そして観堂丸が歪めた認識はそれだけではない。僕が観堂丸を愛おしく感じたこと、体を求めたこと、幸福を感じたこと。それらすべては観堂丸が僕に〝そう思うよう〟に仕向けたからだと。
でも僕は目を覚ました今でも観堂丸としたことに対して何の悪感情も抱いてはいない。それどころか、命を救ってくれたこと、僕のためを思ってくれたこと、自分の身を削ってまで僕の痛みを取り除こうとしてくれたことに対して抱く感情は感謝以外に有り得ない。行為を思い返すと確かに顔が熱くなるものを感じるけれど、それは僕が初めて行った性的な交わりによる羞恥に過ぎず、断じて人ならざる霊狐と交わったことに対する恥辱などではない。もし改めて観堂丸が僕を求めれば、僕はこの身を差し出すことに吝かではない。
しかし観堂丸はそれすらも認識操作の産物であると頻りに謝った。それは違うと僕ははっきり言った。僕は初めて観堂丸に会った時から他人思いの観堂丸に親愛の情を抱いていたのだ。僕が霊狐たちにしてしまった許されざる仕打ちに対して思う後ろめたさから来ているわけではない。懺悔からくる服従でもない。人柄に対する畏敬、尊敬の念が初めからあったのだと。
それでも、やはり違うのだと観堂丸は低頭した。
「そもそも切り離された眷属霊狐が人の姿を取るようになったのにはいくつが理由があってな。印を結ぶ必要があるから、器用に手先を使う必要があるから、そして、人と交わるのに都合がいいからなのだ」
信仰から切り離され、消滅を待つだけだった元眷属たちは、人と交じることで血を残そうと試みた。人と同じ姿を取り、人と同じ文化を真似、人と同じものを食べ、そして人と子を成すことで。二足歩行の姿は、一応は変化であるものの、四足と同じくその人個人の姿として定着している。
「僕は四つ足の観堂丸の姿も好きだな」抵抗はまだあったけれど、僕は敬語を取り払った。「ねえ観堂丸、観堂丸さえよければ、僕は観堂丸と結婚したいって思う」
僕に力を与えたせいで透明度が増してしまった観堂丸は、向こうの景色を映しながら穏やかに笑った。申し訳がなさそうな、或いは哀れむような、或いは馬鹿にするような、そんな複雑な目をしながら僕の頭を撫でた。
「負担が掛かりすぎて頭が疲れているのだ。まずは養生することだ」
まるで疲れからくる妄言のように言われ、ちょっとむっとした。
「僕は狐落としも本業としているんだ。僕の中に観堂丸の影響が残ってないことくらい判るよ」
「お前の力もまだまだということだな。おれの力は確かにお前の中に留まっている」
「観堂丸がくれたのは生命力だ。そしてそのせいで観堂丸は残っていた力を失いつつある」
「負い目など感じるな。おれはおれのためにやったに過ぎない。お前が死ねばおれが自由になる機会が失われる、ただそれだけの理由だ。狐とは皆等しく利己的なのだ」
「僕が生きて、観堂丸が自由になって、そしたら一緒になってくれる? 陰陽道も仏道も関係ない、どこか遠いところで。僕は観堂丸を思い続ける。僕が観堂丸を欲し続ける。そうすれば観堂丸は消えたりしない」
「人一人の願力では限度があろうよ。だがその気持ちは有り難く受け取っておこう」観堂丸は目を伏せたまま僕の頭を撫で続けた。「しかし心配は無用だ。これでもお前よりは長く生きよう」
優しく頭を撫でながらも、観堂丸は僕が発した先の言動を厳しく戒めた。陰陽道も仏道も関係なく、という部分だ。
「いったん始めた信仰を軽んじてはならん。ただでさえ昨日あれだけのことをしでかしているのだ。お前の頭の中の出来事とはいえ、仏はお見通しだ。おれも大概目をつけられていような」
それがどういう意味か僕にも解った。大日如来、大黒天、閻魔天、そして荼枳尼天。これだけの尊格に呼び掛けておいていきなり目の前で交わり始めたのだ。実際にその場に勧請されたかどうかはさておき、それがどれだけ無礼な行為にあたるか改めて考えるまでもない。しかしながら僕はこうして生きている。仏は願いを聞き入れてくれたのだと、僕は感謝の念を決して忘れてはならない。
それはそれとして、僕はふとあることを思い出した。
「本尊の前で交わるものに立川流という一派があります」
義父の知り合いの僧侶に聞いただけなので詳しくはないけれど、近頃勢いを増している真言宗の流派のひとつに立川流というものがある。狐の骨はともかく人骨を祀るというのは主にそれだ。
「見てきたわけではないから強くは言えんが、あれはあれである意味では真理を説いているともいえるのだがな」
「真理?」
「うむ。いや、まあ詳しい話はよしておこう。もとはひとつの思想であったはずの仏教もこれだけ多様化しているのだ。[[rb:顕教 > けんぎょう]]と違い密教の伝承は口伝によるものが多く、地域ごとに宗派ごとに仏閣ごとに、それぞれに独自の流儀がある。お前の家で用いる陰陽術が他より強い密教色を持つようにな。あるひとつの常識で他の流儀を論ずることはできまい」
観堂丸は言葉を濁したけれど、僕は何となく言いたいことが解る気がした。
立川流では、男女が交わることによって大日如来と一体になる、つまり即身成仏が叶うのだと信じられている。下卑た顔をする義父の知人からそれを聞いた時、顔には出さないまでも、内心それを馬鹿げたことだと一笑に付したものだ。
しかし僕は昨日、観堂丸との交わりでそれを実感した気がした。僕の絶頂、観堂丸の絶頂。その瞬間には確かに特別な何かを感じたし、観堂丸との抱擁に金剛界の大日如来を表す智拳印を想起したことは事実だった。
陰陽道が道教を軸に様々な宗教を取り入れたように、密教も陰陽道を取り入れたのだ。陰と陽、女と男、[[rb:陰陽和合 > いんようわごう]]。立川流が大真面目に結び付けて考えたことは決して不自然な流れとは言い切れない。何事も否定してはならない。考え方はそれぞれ異なるのだから。地域ごとに宗派ごとに仏閣ごとに、そして時代ごとに。
考え方を否定してはならないが、神仏を蔑ろにしていることに関してはやはり異を唱えざるを得ない。話を聞く限り立川流では荼枳尼天だけでなく不動明王や愛染明王に独自の解釈を加えたらしい。おそらく、昨今の立川流の勢いを見るに、それらの尊格はまた別に独立したものになっているに違いない。
むろん、その憂いは僕たち自身の行いを棚に上げている。これだけ荼枳尼天や六字明王を弄んでおいて他の神仏の心配をする資格など僕にはない。観堂丸が唱えた真言に聞き慣れない閻魔真言が混じっていたのは、おそらく彼が現役だったのは荼枳尼天がまだ天部でなく、ただの荼枳尼として閻魔天の眷属をしていた時代だったからなのだろう。観堂丸を切り離したのは僕たち陰陽師や密教徒、僧侶、修験者たちだ。僕にできるのはやはり懺悔しかないのだ。
オン・ダキニ・ギャチ・ギャカ・ネイエイ・ソワカ
僕は小声で荼枳尼真言を唱え、頭に荼枳尼天を思い描き、過去の罪に懺悔を、そして観堂丸の息災を強く願った。聞こえるはずはなかったのだけれど、観堂丸は僕に応えるように慈愛の念を込めた手を額に乗せてきた。程なく、心地よい眠気が僕を包んだ。観堂丸がそうさせようとしたのかは判らない。けれど僕は抗った。眠る前に観堂丸に言っておきたいことがあったのだ。
「本当の幸せというのは、誰かに必要とされることなんだ」
必要とされること。愛し愛されること。昨日、今まで生きてきて味わったことのない幸せを感じて気付いた真理。あれは決して観堂丸の術の影響ではない。
僕は観堂丸を強く求めている。そして観堂丸も――。観堂丸さえよければ、やはり僕は観堂丸と一緒になりたい。
もはや喋ることは叶わなかったけれど、僕は確かに観堂丸の声を遠くで聞いた。
判っている、と。
[newpage]
[chapter:九]
急がば回れという諺があるだろう、と得意げに言い訳をして、俺は左折して脇道に逸れた。よほど辺鄙なところでない限り、少々回り道をしたからといって市内の道で迷うことはない。もしもの時はGoogleMapの力を借りればいい。
しかし俺は急がば回れの用法を少しばかり間違えていたようだ。今の俺の状況を鑑みるに、急いでいるのは引っ越し作業や実家の大掃除に掛ける時間がないことで、回れというのは回り道ではなく渋滞を我慢することだったのだ。
「ちょっと油断しちゃったな」
音吉は前方を見ながら言った。何のことかと問うと、俺が道を外れたのはそういう働きかけがあったからだと。それを聞いて鳥肌が立った。俺は飽くまでも自分の意志で曲がったつもりだった。今だって強くそう思っているのに、それは俺の認識が歪められたからであると。……俄には信じ難いが、音吉がそう言うのだからそうなのだろう。
前方にはまた道路工事があった。安全第一と書かれた黄と黒のバリケードが道を塞ぎ、安全太郎が手を振り回して迂回を促していた。生身の人間はおらず、近づくと工事などしていなかった。ますます怪しかったが、人様の敷地に入らない限りバックができない道幅のため、俺はさらなる左折を余儀なくされた。
が。
人間とは学習する生き物だ。俺は一度バックすべきところでバックをせずに痛い目を見ている。そう、狐の嫁入りに突っ込んだ時のことだ。ここで左折などしようものならそれこそ敵の思うつぼなのだ。俺は狭い道をバックで戻り始めた。バックミラーを見ながら後退し、人様の敷地に向かう。
「正解だね」と音吉は満足げな顔で言った。「あれ全部狐だったよ」
「おいおい」安全太郎がこちらをしっかりと見ていた。「無機質にも化けられるのか?」
ハンドルを切り、まるで我が物のように駐車スペースに車を入れる。
「自分自身が化ける場合と、自分以外に対して特定の姿に見えるよう働きかける場合のふたつがある。こっちは消耗が激しいけどね」
「いろいろテクニックがあるんだな」
そうして再度ハンドルを切り、元の道に戻ろうとして、
「おいおい」
ブレーキを踏んだ。元の道にもバリケードが置かれていた。どうしても俺を誘導したいらしい。おそらく人気のないところで事を起こしたいのだろうが、既に人目に付きすぎている。やり方がお粗末すぎるぞ狐ども。
「どうする音吉」
「突っ込んじゃっていいよ。大丈夫、車に傷はつかない」
「冗談じゃない。俺にまた霊狐を轢けというのか」
「今度は殺されるだけじゃ済まないかもね」
音吉は他人事のように笑った。冗談じゃない。
「まあ、とりあえずどっちでもいいから進んでよ。突っ込む意思を見せてやつらが引かなければおれが何とかする」
「それはつまり国道に戻るか脇道を進むかを俺に選べということか」
「いっそのことやつらの誘導に従ってもいいけど」
「勘弁してくれ」
人目が多いほうがやつらは動きにくいことは確かだ。俺は国道に戻ろうとして、やっぱり考え直した。人前で騒ぎを起こしたくないのはこちらだって同じことだ。バリケードに突っ込もうとするダイハツムーヴを見られるのはまあいいとして、そのバリケードが狐か何かになって逃げていくのを見られるのは如何なものか。或いはバリケードのまま吹っ飛ぶにしても、そんな乱暴な運転を誰かに見られたくはない。さてどうするか。
コンコン、と狐の鳴き声でない音がした。窓がノックされたのだ。外を見ると、およそ洋風の家には似つかわしくない厳つい丸刈りの兄さんが筋肉質の腕を組んで立っていた。どうやら長居しすぎたようだ。
「すみません、対向車をやり過ごしてました」
もちろん嘘だが言い訳には十分だ。俺はひとまず発進しようとして、
「なっ」
急ブレーキを踏んだ。目の前にバリケードが置かれていた。まずい、と俺が思った時には、厳つい兄さんが両手で持った植木鉢を俺めがけて振り下ろしていた。
手で庇おうとしたが間に合うはずはなかった。
しかしその植木鉢は窓ガラスを割ることも俺の頭を割ることもなく、空中で止まっていた。
「だから甘いよ鈴次さん。まあ、おれも騙されかけたけど」
動きを止められた厳つい兄さんはそれでもこめかみに青筋を立てて腕をぷるぷるさせていた。
とりあえず一所に留まっていては危険だ。俺はバリケードに構わず発進した。撥ねない程度のスピードでバンパーがバリケードに触れ、倒し、成程確かに動物的な感触を踏み越えた。撥ねれば死ぬかもしれないが踏んだくらいでは死なないだろう。そのまま俺は国道に向かおうとしたのだが、バリケードの向こう側に車が進入してきていて通行の邪魔になっていた。
「本物」と音吉は言った。運転手の目は俺を強く睨み付けていた。
仕方なく国道と反対方向へ。つまり直進すると最初のバリケードがあるところだ。バリケードは変わらずそこにあった。俺はどうしようか一秒ほど考え、直進することにした。なに、今回のことはやつらが仕掛けてきたことだ。跳ね飛ばされても文句は言えまい。
しかしスピードを上げてそこを直進しようとしたところ、前方から軽トラがやってきた。目算時速三十キロくらいか。まさかぶつけるつもりで……? バリケードと交通太郎が左右に避けた。
「いやまいったね」と音吉は呟いた。確かにこれはまずい。まことに不本意ながら、俺は結局やつらの誘導にはまってしまった。
「おいおい何だこれは」
左折した俺はとてもアクセルを踏み込む気になれなかった。まるで交差点が異世界の境界線だったかのように、そこから先の世界がいきなり暗くなっていた。空は黄昏時のように暗く、建物はすべて黒塗りで潰されているように、窓も、塀も、輪郭以外のすべてが真っ黒だった。俺たちがいる部分だけが僅かに明るく、まるで舞台のスポットライトのようだった。ここは住宅街を仕切る道路が伸びているはずだ。太陽も見えないしいったいどういうことだ。
車を止める。どうする?
「まったく、気の短いやつらだね。引っ越しするのも待てないのか」
音吉はそう言って目を伏せた。おそらく音吉の里の霊狐たちが来たのだろうと表情から窺えた。
遠くから何かが聞こえてきた。何かの行列がやってきた。暗闇の中から念仏とともに武士やら僧やらの格好をした行列が現れた。オリンピックの行進のようにきれいに一列ずつ左右に分かれ、そしてきれいに色分けされていた。前方が神官の集団、その次が武士の集団、その後ろに錫杖を持った僧侶が多数並んでいる。それらが一様に念仏を唱えているのだ。その光景は場の雰囲気も相まって異様に尽きる。
ほんたいしんにょーじゅーくーりー
じゃくじょーあんらくむーいーしゃー
神官は本当に近所の神社にいそうな狩衣姿だ。薄水色に徳川家の家紋のような金の模様が全体にちりばめられている。頭には黒色の尖った烏帽子を被り、手にはヘラみたいな薄い木の板を持っている。
きょーちーじーひーりーしょーこー
うんどーこーらいみょーこうじんー
武士はみな三度笠を被り、足袋を履き、呼称は知らないが昔テレビで見た大岡越前とまったく同じ肩の張った服を着て、腰には真剣のようにも見える黒塗りの刀を下げている。一様に数珠を嵌めた左手を胸の前に立てて、僧侶に合わせて念仏を唱えている。
こんしーさんがいかいぜーがー
うーごーちゅーしゅーじょーしつぜー
僧侶も山吹色の袈裟で統一されている。袈裟の下には紫のインナーのような服を着ているようで、右肩から先、そして裾から下にはその紫が見えている。こうして見ると袈裟というのはなかなかにファッショナブルだ。武士と同じく左手に数珠を嵌め、右手に錫杖を手にしていた。
ごーしーぜーほーじゅーほーいー
せーけんそーじょーじゅーとんじんちし
気が付けば車の後方からも僧侶と神官の集団がやってきていた。こちらには武士の姿はないが、両サイドから迫る念仏の重々しい響きは戦う術を持たない一般人を尻込みさせるには十分といえるだろう。まったく、5・1チャンネルのスピーカーサラウンドシステムの臨場感も真っ青だ。何せこれは臨場そのものなのだから。タイトルを付けるとしたら「挟撃の霊狐たち」……B級だな。
「大丈夫だとは思うけど、もしものことがあったら逃げてね」
「不吉なことを言うなよ」ハンドルを握る手に汗をかいていたことに気が付いた。
「前は見えなくても車で突っ切ったら抜けられるはずだ」
「なら今逃げないか?」
「おれにとってもケリを付けるのにちょうどいいからさ」
「どっちにしろここまで来てお前を置いて逃げる気はないぞ。記憶はないが運命共同体なんだろう?」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。――降りようか」
「俺は何をすればいい」
「壁を背にしてバットを構えて身を守って」
「やれやれ」
自分で身を守らなければならないくらい音吉に余裕がないということだと読み取った。俺は少し考え、エンジンを切らずギアをドライブのままにしてパーキングブレーキを強く踏み込んだ。すぐに発進できるようにだ。
さんどくぼんのーかいとくげーだつ
そくとくげーだつ
トランクルームに置いていた段ボールから作業服を取り出して服の上から着込む。これが通販で購入したものだ。まさかこんな早く使うことになるとは思わなかったが、さて、きちんと俺を守ってくれるのだろうか。
「その服は?」
「ステンレスワイヤー糸をベースにした繊維の組み合わせにより高い耐切創能力を有し、メタ系アラミド繊維による高い耐熱性を持つハイブリッド作業服だ」
難点は普段着にするには上下ともにいささかオレンジ色が過ぎるということと、多少なりゴワゴワして可動域に制限が掛かるということだ。もっとも、自慢ではないが可動域を制限されて困るほど体は柔らかくない。
「ふーん」
あまり興味がなさそうな音吉は俺の金属バットと硬式ボールを手に取り、指でダキニのシュジを描いた。別に攻撃力が上がるわけじゃないけど、と言いながら。ミズノのロゴに被せて描いたものだから別の字に見えるが、まあ問題はないのだろう。ボールのほうは渡されても困るためポケットに突っ込んだ。ダキニのシュジはお守りみたいなもの、と以前言っていたことだし、何らかの利益はあるだろう。たぶん。
ぎゃーてぃーぎゃーてぃー
はーらーぎゃーてぃー
はらそーぎゃーてぃー
ぼーじーそわーかー
――いなりーしんーぎょう――
稲荷心経とやらを終え、僧侶が一斉に錫杖を鳴らした。声と歩みが止まったことで静寂が訪れる。すぐ側は国道なのに車の音もしなければ人の気配もない。想像でしかないが、今の念仏により〝場の気〟とやらがどうにかなったのだろう。
音吉は手に青い光を込めて手の平全体で自らの前にダキニのシュジを描いた。そうして右拳を突き出し、左手でそれを隠すように構えた。
「オンダキニギャチギャカネイエイソワカオンダキニギャチギャカネイエイソワカオンダキニギャチギャカネイエイソワカ……」
何か起きるのかと見ていたが変化は表れず、音吉はその姿勢のまま固まっていた。
「……やっぱ無理か」
何だそれは。
「ま、仕方ない。おれはおれだ」
行動はよく解らんが、そういえばこいつは「他の狐なら当然使えて然るべき力が使えない」と言っていた。まあ、それについて推測を巡らせるには些か時間がないようだ。俺は姿勢を正した音吉に倣い、前方に目をやる。
神官軍団の後ろにいた武士の集団が前に進み出た。神官二列の間から武士が二列出てきて並び、更にその間から一人の風格ある武士が現れた。鬼怒丸……ではなかったが、雰囲気はよく似ている。その霊狐は集団を離れて単独で音吉の前に進んだ。音吉も俺から離れて前に出る。急に不安になった俺は民家の塀に寄った。
「見事〝彼ら〟の精鋭を打ち負かしたようだな」
その精鋭とはもしかして昼過ぎに来て一瞬で音吉に倒された上にチェーンロックの開け方を知らなかった三人組のことだろうか。
「鬼怒丸はどうした?」
声掛けや質問に直接的な返答をしないのは音吉の癖なのか、それとも不機嫌を表しているのか、それは判らないが、相手は特に気にする様子を見せず、フン、と鼻を鳴らした。鬼怒丸よりは些か荒っぽい雰囲気を感じ取れる。
「この場にあやつを随伴させるのは酷というものだろう」
今度は音吉が鼻を鳴らす。
「それはつまりこのおれに勝てる前提の話だな」
「もはや我々は貴様を庇い立てできる立場にあらず。しかし大罪人といえど同胞である貴様を彼らに殺させたくはない」
我々が責任をもって介錯しよう――そう言って相手の霊狐は三度笠に手をやり存在を消した。それを合図に武士の集団は腰に下げた刀に手をかけ、僧侶と神官は合掌した。その行動は見事なまでに一致し、大きな音が出る動きでないのにバッと音の圧が伝わってきた。
音吉が軽く身を屈める。
剣客が刀に手をやる。
「――参る!」
まるで爆音で始まるクラシックのようだった。剣客、そして後方の武士たちが一斉に踏み出すと同時に僧侶たちによる呪文のコーラスが始まった。
オンキリカクソワカオンキリカクソワカ……。
音吉が手を払う。武士たちが青い光に呑まれて吹っ飛んだ。
しかし数人は姿勢を低くして掻い潜り、左右、正面、そして空中から躍り掛かる。音吉がもう一度手を払うと残っていた武士の動きが止まった。音吉の体から伸びる青い光が、やはり蛇のように相手に巻き付いていた。
オンキリカクソワカ
オンキリカクソワカ……
コーラスを終えた僧侶たちが一度手を鳴らす。武士たちは巻き付く光を手で払いのけようともがく自由を得ていた。心なしか音吉の力にキレがないように思える。
ほんたいしんにょーじゅーくーりー
そうして再び始まった稲荷心経と同時に場の暗さが増し、空気の重々しさも増し、武士たちの束縛が解けた。先ほど吹っ飛ばされた霊狐が合流。音吉はまた数人を吹き飛ばすが間に合わない。五人の刀が一気に音吉に向けて振り下ろされた。
はっと息を呑んだ。しかし刀は粘土の塊に突き当たったように停止した。濃い青が音吉を取り巻いていて、刀を押し留めていた。刀はやはり光っているが木刀のように見えた。
「覚悟しろよ」濁りのない低い声がした。「でえい!」
音吉から発生する衝撃波が場を震撼させた。霊狐たちは受け身も取れずに激しく吹っ飛んだ。塀に衝突した者はそのまま立ち上がらなかった。
「おれは負けられない。おれたちを殺そうとするんなら、殺される覚悟を持て!」
それはおそらく自分に言い聞かせているのだろう。追ってくるやつは誰だろうと皆殺しにすると言っておきながら、やってきた鬼怒丸を話し合いで帰し、父親も追い返し、今回は見逃してやると言って三人組を帰らせたのだから。
さんどくぼんのーかいとくげーだつ
気が付けば僧侶たちは民家の屋根、ガレージの上、門柱の上などに立ち、俺たちを取り囲んでいた。武士たちの体から陽炎が立っていた。刀が発する輝きが増していた。武士たちは刀を中段に構え、――と、音吉が身を屈めて跳躍し、武士たちの中心に突っ込む。
「はあっ!」
音吉を中心として爆発が起きたようだった。数人の武士が吹き飛ばされ、塀の中に消えていった。追い打ちをかけるように蛇が後を追った。
爆発を免れた武士の刀が音吉を襲う。音吉は手を払って個別に跳ね飛ばす。右に一振り、左に一振り。しかし左のほうは当たらなかった。それは鬼怒丸に似た最初の剣客だった。音吉の攻撃を身をよじって躱し、まっすぐ伸びた蛇のような青い光を、そいつは掛け声とともに切り落とした。不機嫌に歪む音吉の横顔が見えた。音吉はそいつに対して両手をかざし、包み込むように動きを止めた。まだまだ迫る刀を避けながら、固まった剣客の鳩尾あたりをトンと指で押したかと思うと、指先からの光が背中を貫通した。力なく倒れた剣客はそれきり動かなかった。
オンキリカクソワカ
オンキリカクソワカ
オンキリカクソワカ
オンキリカクソワカ
焦りを見せたのか、はたまた準備ができたのかは判らない。〝場〟を作り出すだけの役割しか持たないのかと思っていた僧侶が一斉に構えた。数珠を持つ手はそのままに、音吉と同じように光る手でダキニのシュジを自分たちの前方に描いた。……いや、音吉のそれとは形が異なっていた。錫杖を持つ僧侶の組が武士と並んで前へ出て、神官は変わらず武士の後ろに陣取り稲荷心経を続けた。
俺の隣に後退した音吉が、気を付けて、と一言。前や横だけでなく背後の僧侶たちもが同じようなフォーメーションを武士抜きで取っていた。
僧侶が錫杖を地面で叩いて鳴らす。それを合図に一斉攻撃が始まった。
いやもう、その光景といったら「絶望の花火」とでも名付けるべきか。二十人にも三十人にもなる僧侶たちが火の玉を作り出して飛ばしてきたのだ、その一面の青い弾幕を一目見れば絶望以外に表現する言葉はあるまい。これはもう人間に対処できる次元でないと俺の頭は判断したようで、俺は棒立ちになっていた。
しかし音吉は俊敏に動いた。背で俺を塀に押し付け、火球の軌道を限定して防壁のような光を張った。成程それで火球は防いだものの、間髪を容れずに躍り掛かった武士の刀がそれを切り裂いた。舌打ちが聞こえ、音吉は覆いの光をそのまま外に向けて放射した。まともに浴びた武士は悲鳴を上げて転がった。
一息つく間もなく火球が迫る。武士が迫る。音吉はそれらに機敏に立ち向かう。が、数が多すぎた。加えて音吉は俺に向かってくる敵にも対処しなければならず、頻りに首を振っては状況を判断して反撃していた。一瞬の油断が命取りになると目が物語っていた。
きょーちーじーひーりーしょーこー
当初とは打って変わって、武士たちは音吉に切り掛かるというよりは音吉の攻撃を誘ってそれを弾くなり切り落とすなりすることを目的としているように見えた。音吉の妖力だか霊力だかを切り離して弱体化させようという目論見なのかもしれないと推測した。それを裏付けるように、音吉の武士たちに対する攻撃が幾分か消極的になった。
うんどーこーらいみょーこうじんー
火球のひとつが音吉の水干を掠め、嫌な音を立てて焦げ目が付いた。一瞬だが音吉の動きが鈍り、そこに僧侶が繰り出す錫杖の一撃が上段から迫る。青い光に覆われた手でそれを防ぐが、武士の刀と違って大きな衝撃が音吉に伝わったようで、ぐらついた隙に武士が刺突を繰り出そうと――!
「ギャッ!」
俺は反射的にバットを突き出していた。バットの先は見事横腹に命中し、武士はその勢いのままアスファルトを転がり、すかさず音吉はその武士に蛇を巻き付けた。
「助かった」眼前の僧侶を跳ね飛ばして音吉が呟く。音吉は肩で息をしていた。
「俺だってたまには役に立つ。――だいぶしんどそうだが大丈夫か」
「ちょっときついね。逃げる?」
その台詞に俺が車を見ると、まことに残念なことに僧侶の軍団は運転席の横に前進しており、更にはバンパーの上に錫杖を持った僧侶が佇んでいた。あちゃー、と音吉は苦笑いした。俺はそれよりも僧侶に踏まれてワイパーが変な形に曲がっていることに怒りを覚えた。ま、仕方ないねとおどけたように笑い、音吉は再び敵に向かった。
ごーしーぜーほーじゅーほーいー
戦いは混戦に縺れ込んだ。火球が舞い、刀が舞い、錫杖が舞い、金属バットが舞った。俺は隙の少ない突きで抵抗した。人間であり武術の心得のない俺に倒される間抜けな霊狐はいなかったが、ある程度の牽制にはなったようだ。武士が落とした刀を拾って使ってもみたが、光を放たないただの木刀は僧侶の錫杖により簡単に砕かれてしまった。
逆上した僧侶の錫杖と火球が俺を襲う。錫杖は音吉が防いでくれたが隙間を縫うようにカーブした火球が俺の右腕に直撃した。
「いって!」
どことなく予想していたことではあるが、耐熱性に優れているはずのメタ系アラミド繊維は霊狐の火を防いではくれないようだった。肉体でない何かの成分が焼けた感じがし、俺の右腕は内部からの酷い鈍痛で握力を失った。
ぎゃーてぃーぎゃーてぃー
はーらーぎゃーてぃー
稲荷心経がループするたび敵の力は増し、逆に音吉の力は減退していく。火球はその数を増やし、剣筋はより早くより鋭くなる。音吉の身を守る青い光が、切られ、削られ、焼かれていく。そうしてついに決定的な一打が音吉の剥き出しの右足に命中した。
鈍い音がした。呻き声を上げ、音吉が肩から倒れる。俺は木刀の追撃を加えようとする武士に向け、バットを投げた。まさか唯一の武器を投げてくるとは思わなかったのだろう、バットは肩だか頭部だかにまともに当たり、武士はもんどりうって倒れた。俺はすかさず距離を詰めてバットを回収する。
俺が稼げた時間は僅かなものだったが、音吉は無事に起き上がった。しかしその苦し気に顰める顔を見れば、状況は劣勢へと変わってしまったのだと確信しないわけにはいかなかった。
動きの鈍った音吉は火球と刀の両方を同時に防ぐことができなかった。火球が当たるたび、音吉はぐらりとよろめいて勢いを失った。迫るピンチに音吉は如何にも燃費の悪そうな爆発を起こして凌いでいたが、出鱈目な強さを持つらしい音吉も、ついに歯を食い縛っていないと立っていられない状態になった。
満足に動ける敵の数もだいぶ減っている。善戦はしたのだろうが、負けるな、と俺は直感した。俺はバットを構えて音吉に寄り添った。背を合わせ、最後の抵抗を試みる。
と、背中の気配が変化した。振り向いた俺はぎょっとした。音吉は四つ足の姿に変化していたのだ。身の回りにいくつもの青い火球を纏い、滑らかに姿勢を低くすると一気に跳躍した。僧侶の首に噛み付いたあと、地面を跳ね塀を跳ねた。後ろに光の尾を引くその様は流れ星のように美しく、獣性を感じさせる動きで次々と霊狐たちを翻弄した。一撃一撃は軽いようだったが、敵がよろめくと周囲を取り巻いていたいくつもの火球を命中させ、まともに浴びた相手は立ち上がることができなかった。
だが相手は甘くなかった。刀の一振りが音吉の胴体に命中した。息の詰まった鳴き声を発し、音吉は力なく地面に落下した。武士は容赦なく刀を両手で握り、渾身の力で振り下ろそうとした。
俺はすかさずそこに割って入った。武士は鼻面に皺を寄せ、目障りな、と吐き捨てるように言って刀を振り下ろした。俺はそれをバットで防ごうとしたものの、刀は軽くバットに触れただけで軌道を変え、流れるように俺の鳩尾を突いた。
うっ、と俺は力なく膝から崩れ落ちた。金属バットが空しい音を立ててアスファルトを転がった。呼吸困難に喘ぐ俺はもう抵抗する力を持たなかった。
ぼーじーそわーかー
耳障りだった稲荷心経が止まった。辺りに静寂が満ちる。風もない、金属音もない、希望もない。見えていた武士の足が、一歩を踏み出した。
「貴様は〝彼ら〟へ捧げることとなっている。米津姫の怨みは彼らが晴らすことだろう」
俺が顔を上げると、その武士はぐにゃりと半透明になり、そうして俺に迫ってきた。湿度の高い部屋に入った時のような感覚とともに、そいつは俺の中に入ってきたのだ。――俺に憑こうとしている。俺は引き剥がそうとしたが、霞を掴むようなものだった。木刀のみを残し、その霊狐は完全に俺の中に入った。
脳に粘液が纏わりつくようだった。俺の思考が別の何かに上書きされるようだった。何かの覆いがかけられるようだった。そいつは俺の口を勝手に使って喋り始めた。
「音吉の力は本当に規格外のものだ。此度我らが音吉の力を抑えることに成功したのは貴様がいたからだと言ってよい」
俺はそれに反論することはできなかった。行動を支配されているせいではなく、ぐうの音も出ないほどの正論だったからだ。俺が邪魔をしなければ音吉はもっと楽にこいつらを全滅させていたに違いない。
「皮肉なものよ。守るべき者が枷になるというのは」
喋りながら、俺の中でそいつがどんどんと一体化していくのが判った。自分の意志ではないのに勝手に立ち上がった。
その人から離れろ――突然背後で音吉の声がした。周囲の霊狐たちが慌てて陣を組みなおす。
ほんたいしんにょーじゅーくーりー
そいつが俺の体を使って振り向くと、音吉はまた二足の水干姿で立っていた。しかし手は力なく垂れ下がり、立つのがやっとという状態だった。俺の体は地面に落ちていた木刀を拾う。
「音吉よ。こやつの体でそなたに止めを刺してやろう。それならば本望だろう? まあしばし待て、完全に憑くま――――っで、で、で……っ」
軽い吐き気が込み上げた。俺の頭で何かが渦巻いた。俺の頭の中で、そいつがぐるぐると逃げ惑っていた。右目の裏辺りが蠢き、左目の裏辺りが疼き、頭のてっぺんにぞわぞわと移動し、
「ヒィー!」
悲鳴とともに俺の外に飛び出した。四つ足の狐がボテッと背中から落下し、すぐに立ち上がって身構えた。虚脱感に襲われた俺は再び膝をついた。
霊狐は再び武士の姿を取り、恐れの色が浮かんだ目で俺を見た。
「き、きさま、何者だ!」
何者だと言われても困る。
「あの力、まさしく稲荷の狐! きさまの目的は一体何だ! 何ゆえ我らに近づいた!」
何のことか解らず腹が立った。どいつもこいつも俺の知らないところで俺の知らない何かを見て勝手に人を判断しやがって。俺は手に持っていた木刀を構えようと思ったが力が出なかった。
「おのれ、答えぬのならここで始末してくれる!」
その武士は刀を構え、手に刀がないことに気が付いた。そいつの代わりに錫杖を持った僧侶が進み出たが、俺を守るように音吉が立ち塞がり、その歩みを止めた。
「音吉……あくまでもその人間に拘るというのか」僧侶が話す。
「……」
「死ぬ前にそなたの事情を話してもよいのではないか」
「……」
「解せんな」別の方面から声がした。「なぜ殺さなかった」それは、最初に音吉と対峙し、音吉の光に腹を貫かれた剣客だった。こちらも立っているのがやっとという状態で、よろよろと歩いてきた。
「殺せるわけないだろ……」音吉は声を絞り出した。「里のみんなに手を掛けるなんて真似、おれにはできないよ。これからの時代を担う尊い若狐の命を、奪えるもんか」
霊狐たちは顔を見合わせ、少しだけ表情を曇らせた。
「まるで里の長のような立派なことを抜かすのだな」
「……」
「貴様の気持ちは解らんでもないが、事態はそんな甘い話ではない。貴様を殺さねば〝彼ら〟に顔向けができんし、当然のことながらそこの人間を許すこともできん」
「判ってるよ。これはおれの我儘だ。最初から最後まで」
そうして音吉はくるりと振り返って俺を見上げ、
「ごめんね鈴次さん。また救えなかった。――おれのせいだ」
顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。そうして俺の顔を惜しむように抱き締める。触れたことで感情が一部リンクし、音吉が胸に抱える哀しみが流れ込んできた。それは怒涛のようだった。荒れ狂う大波が持つものは悲哀だけではない。後悔と、強い懺悔も含まれていた。懺悔? 懺悔って何だ。〝また〟って何だ? 音吉に感化されて涙を流す俺は、それを尋ねることはできなかった。
剣客が刀を構える気配がした。音吉は徐に振り返り、手に僅かな力を籠める。どれほどの抵抗もできないことはもはや明白だった。しかし音吉の力はむしろ初めよりも強かった。武士も僧侶も怯むほどの強く激しい青が、場を飲み込まんとしていた。――音吉は命を燃やしていた。
甲高い狐の鳴き声が場を[[rb:劈 > つんざ]]いた。それは遠くから発せられたものでありながら、稲荷心経を掻き消し、武士や僧侶すべての注意を引き、音吉の決意すら中断させるものだった。悲鳴のようでもあり、警鐘のようでもあった。
足音がした。犬がアスファルト上を走るような、軽快な足音だった。それは四つ足の霊狐だった。その場の誰もが身構えないことから、同じ里の仲間なのだろう。その霊狐は剣客の前まで来ると二足の形態に一瞬で変化をした。それは他でもない、着流しを着た鬼怒丸だった。
「大変です」
短く言い、剣客に近寄って耳打ちした。
「米津姫が…………。しかし……………………八千助と………………しまい、………………ません。……………………場合によっては音吉の…………………………」
剣客が複雑な表情を浮かべた。音吉と俺を交互に見て苦い顔をし、どうしようか迷っている様子だった。
「ええい」そうして剣客は乱暴に刀を納める。「退散する!」
周囲の霊狐たちは一斉にどよめいたが、すたすたと歩き去る剣客のあとに従った。剣客が四つ足に、それに倣って次々と木刀を背負った四つ足の狐姿になって走り去る。鬼怒丸はこちらを一瞥したが、表情を変えることなく彼らに付いていった。
雲が晴れる。空が本来の色を取り戻す。道も、塀も、建物も、まるで悪い夢だったかのように何事もなく元の状態に戻っていった。
しかし俺の右腕の鈍痛は夢なんかではないし、
「おい音吉!」
力なく倒れた満身創痍の音吉もまた、悪い夢ではなかった。
[newpage]
[chapter:玖]
歩けるようにはなったものの、やはり体調は芳しくなく、体は鉛を背負ったように重かった。僕はしばらく依頼を請けずに体力の回復に努めた。起床後にまず川へ行き薬師如来に祈願しながら病鬼を撫で落とし、日課の光明真言を唱え、そのあと不動明王に息災を祈願した。その後は最近怠けがちだった護摩木作りのために山に入ったり、紙で人形を作ったり、[[rb:三類形 > さんるいぎょう]]のための小麦を挽いたり、物置と化している離れ屋を片付けたりした。
片付けの際に[[rb:泰山府君 > たいざんふくん]]の掛け図や古い禁刀など細々したものを持ち出した。もう使わないであろう旧時代の荼枳尼天が描かれた[[rb:式盤 > ちょくばん]]も一緒に僕の道場に移した。荼枳尼天への感謝を念ずると称し、義父の了承を得てのことだ。
日が経てど、僕の体は完全には治らなかった。頭骨が道場に仕舞われてしまったせいで観堂丸に会えないのが辛かったし、義父が日に日に焦れているのを見るのも別の意味で辛かった。とうとう、依頼主の催促もあったのだろう、義父は体力も精神力も万全には程遠い僕を無理やり復帰させた。複雑な気持ちで義父とともに道場に入ると、今まで義父の前に勝手に現れることのなかった観堂丸が骨から出てきて警告を発した。
「こやつの体はもう持たんぞ。次に失敗した時が最期と思え。まあ、おれは誰が死のうと興味はないがな」
そう言って観堂丸は引っ込んだ。物言いが乱暴だったのは僕たちの関係を悟られないようにするための配慮だと僕には判っていた。
義父はそれでも呪詛を決行した。復帰後間もないこともあり、勘を取り戻すために軽い依頼にしてあるのだと言って。義父の助けもあって呪詛は簡単に成功したものの、次に失敗したら僕が死ぬかもしれないと忠告を受けたにも拘らず、義父は僕に呪詛を続けさせるつもりなのだと確信を得てしまった。
これまでに何度も死にかけている僕は、死そのものに対する恐怖は持っていない。しかし納得できない死に方をするのは耐えられなかった。死ぬ時に納得ができないというのは未練があるからだ。昔はなかった未練が今はある。僕が何者でどこから来たのか、今となってはそんなものはどうでもいい。ただ、観堂丸だけが心残りだ。観堂丸だけは何が何でも解放してあげたかった。
僕は補助を続ける義父に嘘をついた。体は十分に癒えましたと。再び一人で呪詛を行えるようになれば、本来の依頼を行わずに観堂丸を骨から解放する法を行えると思ったのだ。そのあとに怒り狂った義父に僕が殺されようと構わない。しかし義父はしばし待てと言った。
「実は数年前から大きな案件を抱えていてな、お前にはそれを何としても成し遂げてほしいのだ。それもあってお前に力を付けさせようと無理をさせてきたのだが、辛い思いをさせたことを済まなく思っている」
いきなり今まで掛けたことのないような優しい言葉を発した義父に戸惑い、僕は何も言うことができなかった。義父は更に、それが終われば僕を一人前として認め、独り立ちさせるとまで言った。
その法は一人で行うことになるので、そのためにも単独修法に体を慣らしておく必要がある。そういったことで一人での呪詛を再開するようになったところは僕の望み通りの展開になった。
僕は観堂丸に経緯を説明した。僕が義父から解放されれば観堂丸を解放することができるのだと喜び勇んで話をする僕を、観堂丸は一蹴した。
「やつの口車に乗るな。わざわざお前を育ててやらせる必要がどこにある? そんなに大事なことならやつが自分自身で行えばいいことだろうが。やつはただ自分が死にたくないだけだ」
そう言われると確かにそうかもしれないと僕は思った。そして対象が宮廷の陰陽師なのだと言った時、観堂丸は鼻で笑った。
「そんなことだろうと思っていた。確かやつは元宮廷陰陽師だと言っていたな。おおかた計略に掛かったとか出し抜かれたとかで権力争いに負けたのだろうよ。それを根に持ち隠れ陰陽師に身を[[rb:窶 > やつ]]したあとも復讐の機会を眈々と狙っていたのだろう。小さい男だ」
「僕は……」
「良いか、絶対にやつを信じるな。お前の体が意に反して早い限界を迎えたからの強行なのだ。成功の見込みが少ないことはやつにも判っているはずだ。お前は確実に死ぬぞ。生きたければさっさと逃げろ。或いは――」
ずい、と身を乗り出して観堂丸は脅すように言った。
「呪詛の標的をお前の父にするか、だ」
「それは……」
「おれはやつを殺せるし、お前も自由になれる。一番の妙案なのではないか?」
「……」
僕が何も言わないでいると、観堂丸は鼻でひとつ息を吐いて、「判っている」と頭を撫でてきた。
「できないことくらい判っている。お前の優しさというか甘さにはもう慣れっこだ」
「ごめんなさい」
「謝るな。勢いで言っただけだ。しかしそうなると、道はひとつしかないな」
僕はこくりと頷いた。観堂丸もニッと笑った。そして僕たちは約束を交わした。ともに逃げようと。僕は観堂丸だけを解放しようという考えを捨てた。どちらかがどちらかの犠牲になるのではなく、どちらともが救われなければならないのだ。
その日の呪詛は恙無く終了した。陰陽師の影が見えることもなく、怨家は無防備だった。それもそのはず、相手は官僚ではなく下働きの奉公人だったのだ。何か粗相でもして官僚の気に障ったのだろう。だからといって、何も呪い殺すことはないのに……。そう思いながらも、今更何を愁えるでもない。やはりそれは他人事、遠い出来事なのだ。数え切れないほどの人を呪い殺し、罪もない人を殺したことに何の感情も抱かないような僕が優しくなんかあるものか。
「いいや、お前は優しい」
突然、僕の頭の中に観堂丸の姿が映り込んだ。いきなり頭の中に侵入してきたことを驚く僕に、観堂丸は逆に怪訝な顔をし、「お前が呼んだのだろうが」と頭を小突いてきた。僕が呼んだ?
「お前は呪詛のたびに心を擦り減らし、それを仕方ないと諦めながらも救いを求めている」
「それを言うなら観堂丸だって」
「おれも?」
「気丈に振る舞いながら、心が寂しいと訴えている。元凶の僕が言えた立場ではないけれど」
「果たしてそうかな?」
「そうだよ」
生まれも育ちもまったく異なり考え方も違っているけれど、少なくとも今の二人が置かれている境遇や二人が抱いている感情は同じだ。
僕はその証明として、観堂丸の額に手の先を乗せる。
途端に光が広がった。木々が現れ、山々が現れ、空が現れ。澄んだ山の空気、澄んだ川のせせらぎ、鳥の囀りが僕たちを包み込んだ。
観堂丸は大きく目を見開いた。そこは観堂丸が暮らしていた里の風景。家々も、畑も、畦道も、観堂丸が長く慣れ親しんだもので、そして僕にも見覚えがあるものだった。
しかしそこには人々だけがいない。子狐も、若狐も、長たちも。観堂丸の目が細くなっていく。
組んでいた腕が垂れ、肩が震え、そして程なく[[rb:頽 > くずお]]れた。僕は彼を抱き締めた。僕の体では心許ないかもしれない。頼りにならないかもしれない。だけど、僕は支えになりたかった。
「お前、これは」僕のお腹で声が響く。「これは……あまりに酷というものだぞ」
「ごめんなさい」
だけど、僕が働き掛けた力は微々たるものだ。それでこれだけ堰が切れるのだから、観堂丸の心中がどのような状態であったか、推して強く知るべし。
「責任を取ってもらわねばならんな。いい機会だ、少し付き合え」
観堂丸は目を拭い、立ち上がって僕の手を取った。僕たちは村道を歩いた。周りの景色を噛み締めながら、親子、或いは兄弟のように歩いた。足音がやけに現実味を帯びていた。足音ひとつ、風景ひとつひとつ。観堂丸はそれらを鮮明に覚えているのだ。この里が観堂丸にとって如何に大事であったかがよく判る。思わず手の力が強くなり、観堂丸も握り返した。繋がっている手から、お互いの感情が行き来しているようだった。僕は観堂丸の気持ちが判り、観堂丸も僕の気持ちが判っている。傷付き合い、そして無言で慰め合った。
辿り着いたのは里の最奥にある神域だった。見渡す限りの杉の森にぽっかりと口を開けて伸びる石階段。どの木も樹齢が長く、頭上まで枝葉が生い茂っている。僕は来たことがなかったけれど、石階段に立ち並ぶ朱塗りの鳥居だけは遠くから見ていた。
二丈程度の間隔で並ぶ鳥居のひとつひとつにお辞儀をしながら階段を上り、着いた先には神社があった。拝殿前の大鳥居には「稲荷大神」と書いてある。よっつの苔生した灯籠が並んでいた。
「なあ、お前、神葬祭の次第は知っているか?」
僕は観堂丸が何をしにここまで来たのか理解した。
「いえ、[[rb:祓 > はらえ]]の祝詞なら幾つか上げられるけれど……」
「そうか。まあこればかりは陰陽師の領分ではあるまいな」
観堂丸はそちらには行かず、外周を回るように歩いた。そして、神宮寺に辿り着いた。観堂丸の着衣はいつの間にか紫と金の袈裟になっていた。
社殿に比べて寺院の規模は小さいようだ。この神仏混淆の時世において神の領域を重視してい
るのは、おそらくこの里の守護を願ってのことなのだろう。
お堂の板床はひんやりとしていた。床を軋ませながら中を進み、観堂丸は本尊の前に座る。本尊は大日如来。おそらく別に荼枳尼のお堂もあるに違いない。
[[rb:鈴 > りん]]を鳴らしながら読経する観堂丸の後ろで、僕は坐して黙祷した。失われたであろう少なくない命たちに対して。
ここは僕の頭の中の世界だ。魂はこの場にいるはずもなく、できることは読経くらいしかない。けれど、観堂丸が忠実に再現した架空の里で行われる供養の念は、必ずや現地の里に届くはずなのだ。それは[[rb:呪 > まじな]]いの概念と通ずるものであり、僕たちはいつもそうして怨家に呪詛を送っていたのだ。強く願えば願うほど、長く願えば願うほど、鮮明に思い描くほど、想像の里と現実の里は結び付き、思いは届く。
神官でも僧侶でもない僕には観堂丸の[[rb:誦 > よ]]む[[rb:経文 > きょうもん]]が何か殆ど判らなかったけれど、ふたつ目の[[rb:理趣経 > りしゅきょう]]は序盤の特徴的な繰り返しから判ったし、唯一暗記している般若心経には僕も加わった。
計よっつの経を丁寧に読み上げた観堂丸は、厳かな雰囲気を残したまま僕を連れて寺院を後にした。石階段を下りながら、いつか実際に赴かねばならんな、と観堂丸は言った。僕は無言で頷いた。
以前僕が面倒を見てもらった観堂丸の庵で僕たちは抱き合った。観堂丸に認識を歪められたのではない、これが僕の本心であると証明するために。僕は観堂丸と抱き合いたい。交わりたい。一緒になりたい。そして……。
「失わせてしまった命のぶん、新たな命を育みたい」
それがどういう意味なのかすぐに観堂丸に伝わった。僕たちは魂で触れ合い、繋がっている。僕の意志は即座に観堂丸に伝えられ、観堂丸の動揺はすぐに僕にも伝わった。目を丸くする観堂丸に僕は自分から迫る。あの観堂丸が、少し怯んだ。
「できるのでしょう? 長の一人が言っていた。本来相容れないはずの人と霊狐が交じる道がひとつだけあると。それがこれだと今では解るんだ」
「おれと子を成そうと言うか」
僕はニコリと笑った。「それが、僕の願い」
観堂丸は迷っていた。戸惑っていた。倫理の葛藤が渦巻いていた。けれど、渦の中心にある彼の本音は、彼の望みは、きちんと余さず僕に伝わっている。
「…………」
それなのに観堂丸は負い目なんてものに負けてしまっている。お前の本心は解っているが、それは歪められた認識により変化してしまった本心なのだと心が言っている。だけど僕は心で言い返した。例えそれが本当であろうと、〝変わる前の弥彦〟は本望に思ったに違いないと。光栄に思ったに違いないと。以前から抱いていた親愛の情については再度語るまでもない。僕の目には熱が籠もっていたはずだ。眼差しは真剣そのものだったはずだ。けれど、それでも観堂丸はばつの悪い顔をやめなかった。僕は煮え切らない霊狐の長に火を付けてやろうと思った。
「あくまで観堂丸が自分が悪いと言い張るのなら」僕は声を幾分か低くして言った。「その責任を取ってもらわなければならない」両手で観堂丸の頬を包み、「惚れさせておいて見放すなんて、それはあまりに酷というものだよ」鼻を触れ合わせた。観堂丸の怯んだ目が間近く、少しおかしくなった。
間の抜けた顔と迷走思考はやがてひとつの方向に収束していく。つまり、沈着で自信家の、いつもの観堂丸に。僕の発した言葉を吸収し、それに対して納得のいく答えが見つかったのだ。観堂丸は僕の頬を包み返した。
「一本取られたな。お前の言うことはもっともだ。応えねば男が廃る」
「僕を娶ってくれますか?」
「幸せにすると誓おう」
そして僕たちは接吻した。観堂丸の力強い口付けに僕の心は一瞬で蕩けた。ぞわぞわ、と鳥肌が、いや、体毛が逆立ち膨らんだ。観堂丸が僕の服に消え去るように念じた。僕の全身は程なく外気に曝される。負けじと僕も観堂丸の服を消し去った。細身ながらもがっしりと頼もしい肢体に心を奪われ僕は思わず頬を擦り付けた。神々しい白毛が僕のすべてを包み込んだ。その中には、思念体となってもなお息衝く命の脈動があった。切り離されてもなお迷わず生き続ける、強い強い[[rb:不退転 > ふたいてん]]の意志があった。僕は畏敬と敬慕の念をありったけの慕情で包んで伝え渡した。観堂丸は僕の背を逆撫でした。ぞくぞくと背が仰け反り、開いた口に観堂丸が口を寄せ、牙の間から覗く舌を差し込んだ瞬間、怒涛の如く愛念が流れ込んだ。僕は腰が砕けるほど強く感じた。全身が敏感になっていた。観堂丸がどこを撫でても、触れられた部分から幸せが注入され全身に行き渡った。
はぁ、と息を漏らした。それを許さぬように観堂丸は僕の口を再度塞ぎ、強く強く吸い付いた。そこでも幸せが注入され、その代わりに僕の短い人生で積み重ねてきた罪穢れといったものが吸い出されていくようだった。僕を[[rb:仇人 > あたびと]]とするすべての人々の代わりに、僕を[[rb:赦 > ゆる]]そうとしていた。
僕には観堂丸に返せるものがない。観堂丸を赦すこともできなければ、与えられる何物も持ってはいない。幸せをくれることに対し、感謝することしかできなかった。けれど、それで十分なのだと意思が返ってきた。元眷属の身である以上、人からの感謝が何よりも有り難い糧なのだと。僕は全身全霊で感謝を表現した。背を撫で、腹を撫で、愛撫を加えた。何も持たない今の代わりにこれからの〝未来〟を約束した。そして自然と身を委ねる。未来を作るために、僕は自分でそれを導いた。
自分が自分でなくなる感覚に襲われた。観堂丸が僕の中に入ってくる、ただそれだけで僕の心は浄土へ送られていくようだった。僕は観堂丸の首に手をまわし、強くしがみついた。この場にしっかりと意識を留めるために。ともに喜びを分かち合うために。二人で協力するために。
僕は何度も絶頂した。観堂丸の男根が奥に進み、抜かれ、再び収まる、その反復ごとに僕の全身は痙攣し、跳ね、快感が爆発する。しかし不思議なことに僕の男根から精は放たれなかった。目一杯に張りつめていたそれはすぐにでも爆発しそうだったのに、観堂丸がもたらす快感はそれを増長するものでなく逆に鎮静化させ、別の気を増幅するものだった。それは即ち陰の気。僕の男根はこの場においては[[rb:陽根 > ようこん]]たり得ず、観堂丸の陽の気を受け入れる[[rb:陰門 > いんもん]]こそが重要視されるべき器官だった。
それを意識し始めてから、僕の内面に変化が表れ始めた。観堂丸の突き入れによる快感が体の底から感じられるようになった。絶頂による快感が、全身を駆け巡ったあと、〝そこ〟に帰着するようだった。僕が声を上げて絶頂するたび、僕の中で準備が整っていくようだった。早く〝そこ〟に観堂丸を取り入れたいと、強く思うようになった。早く観堂丸に放たせようと、強く陰門を締め付けた。
観堂丸の高まりは魂を通じて僕にも伝わった。観堂丸も僕の〝そこ〟に意識を向け、終着点に向けて上り詰めようとしていた。
弥彦、と甘く優しい声が僕の耳を魅了した。もっと名を呼んでほしかった。もっともっと僕の存在を認めてほしかった。
「観堂丸」
「弥彦」
「観堂丸……」
「弥彦」
名を呼び合い、求め合い、愛を交わし合った。快感に歪む顔を繕って微笑みに変えると、観堂丸の胸が満たされるのが判った。観堂丸が僕の鼻を舐めると、僕の胸に喜びが満ちていった。程なくして観堂丸の動きが速まった。
「あっあっ、あっ」
強くはなく、その代わりに優しく小刻みな動きだった。それは絶頂と非絶頂の周期を取り払い、僕を常に〝陰〟にさせるものだった。その快感は僕の耐えうる限度を超えていた。
「みど……あ、あああぁぁぁ……!」
絶えず繰り返される絶頂に僕はまともな言葉を失っていた。
「耐えろよ弥彦、もうじきだ」
突き入れのたびにぷるぷる揺れる僕の男根は完全に鎮まっていて、そのぶん腹の奥底が燃え盛っていた。観堂丸の男根が突き上げるその熱い部分は、今はまだ僕だけのもの。そこが間もなく観堂丸と僕の二人のものになる。僕はそれが待ち遠しくて待ち遠しくて堪らなくなり、
「来、て……」
ぎゅうっと絶頂に身を縮こまらせながら、
「み、みど……ま、……き、来て……来てえ……っ!」半ば絶叫しながら観堂丸を呼んだ。そうしてひときわ強く長い快感が走る。それはまさに観堂丸を受け入れるには最高の瞬間だった。
「弥彦……!」
その瞬間に僕の名を呼んでくれたことが何よりも嬉しかった。観堂丸の怒張が僕の奥底を突き、僕の燃え立つ〝そこ〟に向けて熱を放出した。陽根の先からどくどく溢れ出すそれは即座に僕の全身を快感という形で駆け巡り、僕の熱の塊と溶け合った。陰の気と陽の気が僕の中で和合するのを感じた。僕の〝生〟というものの役割が、今ここで果たされた気がした。最高の幸せがそこにあった。脳が揺さぶられ、多幸感が脳天を突き抜けた。それは決して比喩的表現に留まらず、僕は体の底から頭頂部まで観堂丸の刀に刺し貫かれたかのような物理的感触に襲われていた。
全身のすべての感覚が幸福を示していた。身じろぎが快感を生み、身悶えが絶頂を誘発した。観堂丸は僕を労るように背中を撫でてくれた。お腹を撫でてくれた。僕のお腹は焼け石を飲み込んだように燃え盛っていた。それは紛れもない命の炎だった。
そこに観堂丸との愛の証が存在する。その実感だけで僕の脳はぐらぐら揺れた。けれど、――けれど?
けれど、何だろう?
炎が僕の何かを焼いた。刀の先が何かの膜を破いた。僕の頭の中に被さっていた覆いに穴が開き、僕の中に少量の水が流れ込んできた。少量ながら、その水は高濃度に凝縮された悲哀の水だった。絶頂の中にありながら、頭から首、首から体へと哀しみの寒さが下りてきた。
「どうした弥彦」
僕は激しく首を振った。涙が飛び散り観堂丸の体毛に吸われていった。その動きでまた僕は絶頂した。絶頂しながら泣いた。号泣しながら観堂丸を求めた。抗いようのない哀しみから逃げるように。逃げられない運命から逃げるように。
「どうした、なぜ泣くのだ」
僕は嗚咽を漏らした。この先の出来事を僕は知っている。僕は目出度く観堂丸の子を身籠る。けれど、僕は、僕たちは、その時が来るまでに――。
哀しみの増大が膜の亀裂を大きくし、悲しみ以外のものが洪水となって押し寄せた。浴衣、ヨーヨー、花火、ピンボール、車、バス、カステラ、お母さん、園長先生、マフラー、ニット帽、鳥居、手水舎、神社、宮司、そして――。
「そこまでじゃ」
――そして、稲荷狐。
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[chapter:十]
パニックで逆に冷静になれたのは初めてかもしれない。ピクリとも動かなくなった音吉、何の感情も流れてこなくなった音吉に触れ、俺の脳で何かのスイッチが入った。
音吉の体は見た目以上に軽かった。霊狐という存在であるからか、力を失いつつあるからかは判らない。俺は今にも消えてしまいそうな音吉を抱えて車に乗り込み、助手席に固定し、急いで車を発進させた。
行く先は仙狸庵以外になかった。俺の力ではどうにもできない。縋る相手は大将のほかにいなかった。
それなのに、大将は俺を拒んだ。そうに違いなかった。通い慣れた道で店を見落とすはずなどないし、引き返してもう一往復しても、気付けば店のある地点を過ぎていた。――俺は店を認識することができなかった。
時間を無駄にできない俺は実家に向かった。縋れる藁があるとすればもうそこにしかない。俺は田舎の道を猛スピードで走り抜け、玄関に車をベタ付けして音吉を抱え降ろした。音吉の体は心なしか更に軽くなっているように思えた。
スリッパも履かず、転びそうになりながらドタドタと駆け込んだ先は母の仏間だ。俺は神棚を見上げ、声を張り上げた。助けてくれ、と。
しかし神棚からの返事はなく、俺の声は背後の仏壇の中で虚しく木霊した。俺たちのほうが先に施設を出たのだから、まだここには帰っていないのかもしれない。それでも俺は他に行くところがない。俺は泣きながら助けを求めた。お願いだ、助けてくれ。
騒々しい、と迷惑顔の眷族霊狐が背後にいた。俺は文字通り縋り付こうとしたが、するりと脇をすり抜けた眷族霊狐はそのまま踏み台に上がり、俺が何か言う前にはっきりと言った。
「力を貸すことはできぬ」
威厳を放つように胸を反らしながら俺を見下ろし、続ける。立ち入ってはならないというのもそうだが、仮に手助けしようと思っても、分離霊狐はもはや現眷族霊狐とは別の理で生きているため力の性質が異なりすぎる。いずれにしてもできることはないのだと。途方に暮れる俺に、ひとつ助言をするならば、と眷族霊狐は言った。
「願うがよい。我々にとってもそやつらにとっても、人の願いがすべての力の源じゃ。ただただ願え。ひたすらに」
そうして眷族霊狐は神棚に吸い込まれるように消えていく。
俺は隣の部屋の畳の上に音吉を寝かそうとして、やめた。手を離したら、その瞬間に音吉の体は霧散してしまいそうな、そんな恐ろしい予感が脳裏をよぎったからだ。
「音吉」
名を呼びながら、俺は強く念じた。消えるな、生きろと。お前にはまだまだやることがあるだろう。お前には果たさなきゃならない事情があるだろう。話さなきゃならない事情があるんだろう。俺はこのままじゃ納得できないぞ。起きろ、起きてくれ――。俺はぐったりしている音吉の体を強く抱きしめた。
ありがとうは言わないぞ。命を救ってくれてありがとうなんて言わないし、体を張って俺を守ってくれてありがとうなんて絶対に言うものか。それはお前が復活したら、そして霊狐たちと決着を付けてから、改めて言うことだ。だから、起きて、お前の力でやつらをぶっ飛ばして、俺にありがとうと言わせてくれ。起きて生意気を言ってくれ。起きて、憎まれ口を叩いてくれ。音吉――!
俺は念じた。強く念じた。強く強く、音吉の回復を祈った。しかし俺は感じていた。俺の願いは壁にぶつかって先に進んでいなかった。俺の手の触れる先、音吉の背という障壁に阻まれて。精神生命体のような存在なのに、その精神は隔絶されていた。しっかりとしたセキュリティが掛けられていた。
無意識的に額を押し付けていた。ヒヤリと冷たい鼻と違い、音吉の額には熱があった。俺はその熱に向けて意識を集中した。強く強く呼び掛けた。暗闇の先に、音吉の意識を見出そうとした。取り留めのない意識の末端を掴み取ろうとした。それは太陽のコロナを掴むような、非現実的で途方もない試みだった。
額を境として、俺という宇宙、音吉という宇宙、ふたつの宇宙が存在していた。境からは確かに俺の意識が流れ込み、読み取れはしないものの音吉の意識が流れてきていた。それは理論的に考えれば熱の伝導による錯覚なのだろうが、俺はそれでもそこに意識を見出していた。俺からは絶えず信号が発せられている。アクセスの要求とも言える。その要求は無秩序な空間に溶けて消えていった。音吉の宇宙は、宇宙になる前の混沌だった。星もない、光もない、ただ光の原料だけが形を持たず漂っていた。どれだけ呼び掛けても感情の行き来は起きず、俺の伸ばす手は形を持たない流動体を掻き混ぜ、深層部に潜ろうとすればその闇の深さと密度に押し潰され力を失った。密度がある、つまりそこには何らかの塊があるのだ。そこだけでない。俺が意識を巡らせれば、目では見えないそこかしこに類似の密度の塊があった。それが機能を失いつつある感情、或いは記憶の塊なのだと漠然と感じた。
俺の思念にベクトルが加わった。どこかに対して呼び掛けるのでなく、一番手近な塊に向けて思念を集中させたのだ。起きろ、応えろ、返事をしろ。俺の呼び掛けはその塊の殻をカリカリと引っ掻き、ごくごく小さな穴を開けた。そこから漏れ出る光の尻尾を、俺の思念は逃さず掴み取った。俺と音吉が、細い細い糸で繋がった。
しかしそれで十分だった。俺の外で順番待ちを起こしていた願いたちが、その糸を通じてなだれ込んだのだ。糸は見る間に太くなり、その塊を破裂させた。塊は音もなく爆発し、その爆風は隣の塊を巻き込み、誘爆し、そして混沌の中に浮かんでいたすべての塊が連鎖し、混沌は間もなく光と形を得た。
光の中には音吉が横たわって漂っていた。形の概念を持つようになった空間の中で、俺の姿もまた具現化されていた。光の中を泳いで進み、漂う音吉を両手で抱き止めた。もうどこへも逃がさないように。――もう二度と、離れ離れにならないように。
俺はそれからどうすればいいか、宿命にも似た強い意志により判っていた。解らないが、判っていた。それは不思議な感覚だった。倫理観や常識というものは、その感覚の前では無意味な概念だった。俺は迷わず音吉の水干を消した。俺が願うだけで、音吉の身を包んでいた衣服は音もなく消え去ったのだ。
裸体になった音吉を、俺は強く抱き締めた。俺の体に喜びが満ちるとともに、音吉への慈愛が膨れ上がった。俺は自分の服も消し去った。
喜びと慈愛を音吉に伝えるために最適な方法を、俺はやはり知っていた。屹立する陰茎を音吉の中に挿入した時、やはりそれが正解であったことを証明するように、か細い呻きが音吉の喉から漏れ出た。その声に俺の喜びは更に膨れ上がった。はぁ、と声を漏らし、俺は堪らず陰茎の抜き差しを繰り返した。
濃密に繋がっているためか、音吉の感情が理解できた。未だ意識を取り戻さない音吉の、深層部で激しく燃え立つ喜びが、俺の送る慈愛の代わりに返ってきた。音吉の陰茎ははち切れんばかりに勃起していた。
なぜこれが喜びに繋がる行為なのか俺には解らなかった。それでもこれは絶対的に正しい行いだった。
溺水者が息を吹き返すように、「っ、かはっ、はっ」音吉は喉奥から声と息の塊を破裂させ、「あっ、あああっ!!」それと同時に音吉はピンと立った陰茎の先から盛大に白濁を放った。
目は開かないまでも、意識のレベルが上がったのだろう、音吉の感情が俺に流れてくるようになった。それはただただ大きな喜びだった。朦朧としながらも俺と繋がっていることを理解している。俺が陰茎を挿すたびに、その喜びはどんどんと膨れ上がっていった。音吉の「生」が活性化していった。そしてそれはそのまま俺の喜びをも刺激した。
こうして音吉が生きている喜び、こうして音吉と繋がれた喜び――なぜだろう、俺はこうするために生まれてきたのだという確信まである。それは誰かに認識を歪められているわけではなく、俺が生まれた時から抱いていた義務感――そうだ、五歳児までの俺は確かにその義務感を持っていた。
何かの力が俺に流れてきている。何かの力が俺の記憶を刺激している。目の前の音吉が、途轍もなく大事な、かけがえのない存在であると訴えている。――絶対に死なせてはならない。
「死ぬなよ、音吉」
囁くような俺の言葉に音吉は微弱に顔を歪め、意識のレベルをまた上げた。耳がピクピク動き、口の中をもごもごさせた。突き入れのスピードを上げると、その意識は急速に覚醒へと向かった。
音吉が俺の首に手を回した。智拳印――俺は何かを思い出す。
ズルズルと陰茎が出入りする。そのたびに嬌声を上げて音吉は射精を繰り返す。――その光景にも覚えがある。
俺の意識に何か別のものが混入している。酷く気味の悪い感覚だった。いや、混入ではない、長い間留まっていたカプセル剤が溶け始め、中の成分が染み出そうとしているのだ。俺の中の別の何かが俺を上書きしようとしている。快感の中にあって、不安を呼び起こすような。まるで狐憑きのように、得体の知れない力――。
「音吉、僕は、俺は……?」
それでも俺は動くことをやめなかった。音吉を助けることは俺にとっても〝それ〟にとっても重要な共通認識だったからだ。
「う、うっ、うぅ……ああっ!」
こうして音吉が絶頂するたび、俺もそいつも激しい喜びに震える。俺は音吉の口に軽く口付けし、すぐに離した。すると、まるで口から命が吹き込まれたように音吉の目が薄く開いた。
「れ……じ、さん……?」
開き、俺を認識し、行為を認識し、嬉しそうに身を捩る。音吉は安心しきったように笑んでいた。心の底から嬉しそうに、幸せそうに。俺はその幸せを成就させなければならない。
俺は抜き差しを更に早めた。途端に音吉は声を上げて切羽詰まった顔になり、結合部を見て、仰け反って、また呻きながらびゅくびゅくと精を放つ。そんな音吉の愛おしさに俺の下半身は敏感に反応した。陰茎は更に硬くなり、突き入れは限界まで速まり、挿し入れは更に深くなる。程なく俺は下腹部から込み上げるものを感じた。
「音吉……」
俺が名を呼ぶと、音吉は泣きそうな顔をしながらも力強く頷いた。強く強く俺にしがみついた。俺は胸を締め付けられながら陰茎を突き立てた。
音吉の一番奥の部分で快感が弾け飛ぶ。俺の陰茎から放たれる熱が音吉を貫き、そのまま全身に染み渡るのを感じた。音吉の喜びは巡り巡って俺に返り、俺は更に快感の渦に呑み込まれた。その快感が俺の頭を覆っていた膜のようなものを唐突に突き破る。その穴から何かが流れてきた。それはまさしく使命と約束。俺が音吉とこうすることはやはり正しく、むしろ悲願であったと確信した。
しかしそれと同時に得体の知れない記憶が俺に流れ込む。荼枳尼天、義父、六字経法、陰陽師、護摩木、宮廷、呪詛、荼枳尼天法、観堂丸、そして、〝僕〟という存在。俺の中にあるものは吉崎鈴次であり吉崎鈴次ではない。じゃあ、何だ? 俺は何だ? 俺は、僕は、私は…………誰なんだ?
「ヤヒコ……?」
音吉がその〝誰か〟の名を呼んだ瞬間、俺の脳に開けられた穴が拡がり、中に溜まっていた記憶たちが激流となって押し寄せた。
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[chapter:拾]
「情愛とは斯くも強く美しきものかな。しかし些か逸脱が過ぎよう」
その霊狐は二足歩行をしていた。白い狩衣を着ていた。紅色の袴を穿いていた。目の縁や頬辺りに赤い隈取があった。僕の脳が激しくざわめき、その狐に会ったことがあることを知らせていた。僕がこれまでの人生で感じてきた忌避感の発生源は、まさにこれなのだと確信した。
「観堂丸。お主はお主の役割を果たせ」
掛け声とともにその霊狐は手に持った幣をひと振りした。瞬く間に観堂丸が僕の世界から消えた。
「弥彦。お主はこの先へ進んではならぬ」
そしてその霊狐は僕の頭に大幣を被せ、エイっと気合の籠もった掛け声を上げた。脳の中が急速に冷えていく、景色が引き伸ばされて消えていく、そんな感覚がし、気付けば僕の意識は道場に戻っていた。
快感の余韻が残っていた。手がぴりぴりと震え、足がぴくぴくと痙攣し、頭がふわふわした。陰門がきゅうきゅうと刺激を欲していた。けれどその必要はもうなく、僕のお腹には確かに観堂丸からもらった温かさが息衝いていた。
呆けていた頭が思考力を取り戻すにつれ、僕の中で使命感が膨れ上がった。逃げなければならない、と。僕は式盤の中から観堂丸が封じられた頭骨を取り出して抱えた。沈黙している観堂丸を連れ、僕は道場の出口に向かって歩いた。道場には錠が掛けられているというのに。
しかし錠は開いていた。僕が近づくと、ギィ、と音がして扉が開いた。義父はどこにもいなかった。
もしも観堂丸と逃げ出すことができたなら、と寝床で考えたことがある。僕は陰陽師の身分を捨て、人里も捨て、隠れ里で霊狐たちと暮らしていたい。僕のしたことを霊狐たちが許してくれるかは判らない。虫のいい話かもしれない。叶わないならば、二人きりで暮らしたい。それが観堂丸にとって良いことなのかは判らない。僕には何も判らない。ただはっきりと判るのは、ここから逃げなければならないことだけだった。
僕には誇れる過去がない。肩書も、陰陽師としての能力も、煌びやかな服も烏帽子も必要ない。義父の目がない今、僕は何も持たずに屋敷を後にした。女中の姿もなかった。
それどころか町人の姿すらなかった。外れのほうとはいえ日中に人が途切れることなど有り得ない。まるで町人が目覚めることを忘れたように、町はひっそり静まり返っていた。しかし僕の頭は強大すぎる使命感に支配されていた。人がいないことも、観堂丸が喋らないことも、不思議に思いつつも別の思考がそれを上書きした。行かねばならない、ただそれによってのみ、僕の体は動いていた。自分の体が自分のものでない気がした。自分の足が自分のものでない気がした。疲れも感じなかった。知らないはずの道を知っていた。山を上り、斜面を降り、獣道を進んだ。僕は迷うことなく一直線に霊狐の里に向かっていたのだ。
辿り着いたのは夕方だった。里は美しく、とても争いが起きたようには思えなかった。ひょっとしたら誰かが戻ってきて、争いの爪痕を修復したのだろうか。しかしそれにしては人の気配はまったくなかった。これはまるで観堂丸の記憶を元に僕が頭の中に思い描いていた里の情景そのものだった。そこに生じる違和感の正体を、僕は知っていた。しかし、それより他の思考が僕の行動を決定していた。やらねばならない。僕は観堂丸の庵に直行した。
抱えていた頭骨を下ろすと、観堂丸は直ちに半透明の流体で現れ、やがて実体となった。穏やかに笑む観堂丸を前に僕は烏帽子を外して狩衣を脱ぎ去った。精神ではなく実体で観堂丸と交わることもまた、僕の望みであった。僕は何も言わずに手を広げる観堂丸に包まれようとした。
しかしここで、してはならない、という別の使命感が僕の頭の中にあることに気が付いた。踏み出そうとする足を引き止める力が。
一方で、しなければならない使命感は変わらず存在する。ふたつの相反する使命感。極めて歪な状態に僕の頭は混乱した。
「どうした弥彦。せっかく念願が叶ったのだぞ」
その言葉は僕に何の感動も与えなかった。それは観堂丸の言葉ではないと、観堂丸の本心ではないと、頭のどこかの部分で感付いていた。
それでよい、と声がした気がした。それは観堂丸の心の声だった。触れ合ってもいないのに、僕は観堂丸の心が判ったのだ。しかしはっきりした感覚ではなく、山向こうの声のように細く小さな響きだった。或いはそれは僕が観堂丸の言葉を勝手に決めつけただけなのかもしれない。
「何でもできる」と目の前の観堂丸の口は言った。「子を成すことも、育てることも、里を興すことも思いのままだ」
僕はそれを芝居がかった狂言のように感じた。目の前の観堂丸が観堂丸であって観堂丸でない、そんな矛盾をなぜか確信していた。
「何をしているのだ」それでよい、と遠くで声がした。「おれと情を交わそう」わざとらしい笑顔の裏に、惑わされるな、という意思を巧妙に紛れ込ませていた。「さあ」さあ、と声がした。「弥彦」狐の力を使えと声がした。「おれと役目を果たそう」お前はお前の役割を果たせ。観堂丸の力強い目が僕を先に進ませた。僕は庵を飛び出した。
観堂丸の言うように、僕はここでずっと暮らす道を選ぶこともできた。観堂丸と二人だけで幸せな日々を送り、子を産み、育て、里を作り直すこともできた。けれど違うんだ。それは正しい流れじゃない。あの時あの場、道場の錠は開いてなどいなかった。開いていてはいけなかった。この流れは正しくない。
僕は道すがら、家々の戸を開けて回った。知っている家もあれば知らない家もある。知っている家はすんなり開き、中を見回すことができた。知らない家は開かなかった。それは、開いては不都合があるからに違いなかった。僕は迷わず戸を破壊した。中は、真っ暗だった。時分のせいではない。そこには無があったのだ。ややあって、記憶を掻き集めて家の体裁が整えられる。玄関が生まれ、畳が生まれ、家具や囲炉裏、調度品が取り繕われた。僕の拳に力が入る。
この世界は偽りだ。観堂丸も、義父も、そして僕も。何もかもが虚構だ。実際のものでありながら、精巧に作られた模造品だ。これまでの出来事は僕の記憶を再生していただけなのだ。僕の見聞きしたことしか起こらない。もしも記憶を逸脱すれば、皆が皆うろたえた。
人間のはずの僕が狐の姿をしている。それは実際にはあってはならないことなのだ。
何かの力が僕に掛かっている。誰かが僕に働き掛けている。妨害している。認識を歪めている。そのせいで僕は役割を果たすことができないでいる。
その力の正体を、僕は知っているはずなのだ。僕に掛かっている覆いを外さなければならない。――いや、世界の覆いを。
日は力を失ったように沈み、道は暗くなり始めていた。しかし空にはずいぶんと都合よく満月があった。脱いだはずの狩衣をいつの間にか着ていた。
揺らぐ世界の中、僕は神社へ続く石階段を上り始めた。
[newpage]
[chapter:十一]
深海か宇宙かに漂うみたいに、酷く気分がふわふわしていた。その空間は粘性の高いオイルのような液体で満たされていて、動けないことはないのだが億劫になる程度には体の動きが制限されていた。睡眠不足時の目覚めのようだった。できればこのまま漂っていたいが、アラームが俺に動くことを強要していた。
俺は右手を動かそうと試みた。しかし右手にはひときわ密度の高いオイルが纏わり付いているようで、指一本すら動かなかった。熱く、そして痺れていた。
仕方なく左手を動かす。こちらも熱く痺れてはいるが、何とか指くらいは動かせそうだった。何か、チクチクとした感触が指先にあった。そのまま手でまさぐると、どうやらそれは毛の生えた岩のようだった。
毛の生えた岩? よく判らないが、それを読み解く思考力はまだ俺の頭にはない。アラームがまた起きろと急き立てる。しかし気付けばアラームなど鳴ってはいない。危機感と使命感が幻聴という仮の形を取って表れたに過ぎず、そしてそのアラームは急速に俺の意識を覚醒させていった。
睡眠不足どころか超絶すっきりと目覚めた俺は辺りを見回そうとして、すぐに全裸の音吉で目が止まった。日は殆ど暮れているが、はっきりと見えた。何で裸に?――その答えを一瞬で思い出し、俺は血の気が引きながら顔が熱くなるという不思議な感覚に襲われた。
俺の右手は音吉の背に、左手は音吉の頭の下に敷かれたままだった。毛の生えた岩というのはどうやら音吉の頭部だったらしい。――狐の頭骨――俺はまた妙な記憶の断片を思い出す。
静かに寝息を立てる音吉を起こさないように手を離すと、圧迫されていた手が元の血流と血圧を取り戻す。痺れが強くなり、痛みに変わり、そうしてじわじわと治まっていった。
不思議なことに、思い出したはずの記憶を再び失っていた。俺は音吉との行為の中で、脳に被せられていた覆いに穴が開き、そこから色々なものが溢れ出し、流れ込んできた。それは膨大な量の、〝俺ではない誰か〟の記憶だった。それらが一気に流れ込んできて……おそらくその負担に俺の脳が耐えられなかったのだろう、俺は気を失い、目を覚ますとその記憶たちはどこかにまた封じられていた。そう、封じられたという表現が一番適している。出てきたものをまるごと覆い、――流出したオイルを堰き止めるように、包み込んで回収されてしまったのだ。今は隠れて思い出すことはできない。何かの力がそうさせたのだ。
俺は音吉とした行為について、何の悪感情も抱いてはいなかった。それが音吉を助けるのに必要な行為だったということを今でも強く判っている。誰かに認識を歪められたのではないと、失われたはずの記憶がそう言っている。その記憶の持ち主である〝誰か〟は、俺であり俺でないもの、そして音吉が待ち望んでいる存在だ。そしてその存在は、やはり音吉を大切に思っているのだ。
その存在に思考を引っ張られることに対し、不愉快に感じる気持ちがないではない。俺の人間性を侵食していると考えることもできるからだ。しかし、俺の情緒は、そいつを受け入れてやってもいいと言っている。俺がそいつを思い出すことで俺が別の何者かに変化してしまおうと、やはりそれも含めて俺の人生なのだろうし、そいつを含めて俺なのかもしれない。むしろ俺が半端者なのは、そいつがいなかったからかもしれないとも思う。
もっとも、こう〝思わされている〟のだとしたらお手上げなのだが、ひとまず俺の意志に揺るぎはない。俺と〝そいつ〟は、音吉を救わなければならないと思っている。
俺は裸の音吉を残し、仏間に向かった。薄暗く静穏な仏間はどこか神秘的な力――霊威――があった。なんとなく、今まで感じられなかったものを感じ取る能力が備わっているような気がした。俺は踏み台に上がり、狐の置物をじっと見つめ、拍手を二回鳴らし、
「ありがとうございました」
深々と頭を下げた。気に食わないやつだろうが何だろうが、音吉を助ける助言をしてくれたのは事実なのだ。
「死地へと向かう心積もりじゃな」
どこかから声がした。それは狐の置物からのようでもあり、背後からのようでもあり、頭の中からのようでもあった。
「たいそう立派な心掛けじゃが、お主、それは軽率というものじゃ」
力を貸すことはできないという相手と問答をする気はない。俺は踏み台を降りた。
「小狐はお主が死ぬと悲しむぞ」
しかし仏間を出ても部屋を出ても玄関を出ても、声はずっと付きまとってきた。
「死にに行くんじゃない。話を付けにいくだけだ」
「問答無用で殺されるとお主は気付いておろう」
「音吉を殺させないために、いったい俺に何ができる?」
「小狐ばかりでない、お主の母も悲しむぞ」
「知ったことか」
そう、知ったことじゃない。その一言に尽きる。
「お主は一人では生きておらぬ。お主の母がどれだけお主のためを思っていたか、お主には判るまい」
「判るまい、とは何だ」俺はイライラしながら言った。「本人が判らない気遣いを美徳にしようとするなよ」庭には車がぽつんとあるだけだ。それでも俺は姿の見えない相手を睨み続けた。「母が俺に何をしてくれた。俺の目線から言わせてもらえば孤独を与えてくれただけだ。俺のためを思っていたというのなら、もっと見える形ですべきだったと今でも思っている」
間違ったことは言っていない。親切というのは受け取る側がそう思うから親切になるのだ。本人が親切だと思っていないのならそれはただの自己満足でしかなく、その自己満足に対して感謝を押し付けるのは偽善にも満たない身勝手だ。
「まあよい、お主にはお主の考え方があろう。個人的な話をするならば、わしはお主の母のため、お主には死んでほしくないと思っておるわけじゃが……生憎ながら介入は許されぬ」
「だったら放っておいてくれ」
俺は半ばやけくそに車のドアを開け、乗り込もうとして後ずさった。運転席に我が物顔で霊狐が座っていたのだ。
「困ったときの神頼みという言葉があるが」その霊狐は二足歩行で、神主のような恰好をしていた。「多くの人々がこの言葉を勘違いしておる」白い狩衣に紅色の袴、そして天井で情けない形に折れている烏帽子。「困難に直面した時、神に頼る。これは別に悪いことではない」声の質からあの眷属霊狐だろう。「しかし初めから神に頼ろうとする姿勢は頂けぬ。神は都合の良い道具ではないからの」呆然と立ち尽くす俺を押しのけるように霊狐がぬっと身を乗り出した。「己の力で立ち向かうため、神に助力を求める。これが正しい流れじゃ」直立した霊狐は俺と同じくらいの背丈だった。「神を畏れ敬い、運気を分けてもらう。神社とはそういう場所じゃ」
「ここは神社じゃない」
「神仏は人の信仰により生まれるということを聞いておろう。願いこそが神仏の力の源となるわけじゃ。では願いなら何でもよいかというと、決してそうではない。悪しき願いから生まれた邪神ならばともかく、多くの神仏は正しき心から生まれておる。そこに質の悪い願いを持ってくれば、それは穢れとなり毒となり神仏を蝕むのじゃ。神道の世界では穢れとは気が枯れると書いて[[rb:気枯 > けが]]れと言い換えられる」
「参拝の心掛けを聞かせてくれなんて頼んだ覚えはないが」
「良い気の循環をもたらすには正しき心構えが必要ということじゃの」
「聞いているのか」
「これから成そうとする事柄に対し、己で誓いを立てるのじゃ。さすれば必ずや神は後押しをしてくれよう」
「別に俺は願掛けをするつもりなん……」
言いかけて俺は止めた。眷属霊狐の意図に気づいたからだ。思わず笑みを零しそうになったが、いくら何でも失礼にあたると思って堪えた。
俺は足を揃えて姿勢を正し、拍手を二回し、
「名も知らぬ稲荷の眷属様。これより霊狐と決着を付けに参ります。分の悪い駆け引きをすることになると思いますが、精一杯頑張りますので、どうぞ見守ってください」
深々とお辞儀をした。そうしてしばらく頭を下げたまま待ち、頭を上げると眷属霊狐の姿はどこにもなかった。
狐につままれたように立ち竦んでいたが、車の助手席の下あたりから何かが光っているのを認めた。車内に入って見てみれば、それは俺に乗り移った霊狐が回収せず置いていった木刀だった。今、その木刀はやつらが持っていた時よりも強い光を放ち、手に持つと不思議と力がみなぎってくるような気がした。
俺は家に向かってもう一度お辞儀をした。少しだけ稲荷の狐が好きになれそうだった。
[newpage]
[chapter:拾壱]
石階段を駆け上がり、杉のトンネルを抜けると、日は完全に沈んで月夜の世界になっていた。僕は息を整え、ゆっくりと石畳を歩いた。手水舎で手と口を清め、大幣を手に取った。手に取っていた。どこから現れたものかは判らないけれど、気付けば僕の手にあった。握り締めると力がすっと吸い込まれ、大幣に移ったような気がした。大幣のほうからも力が流れてきていた。山の上流を流れる清水のような、澄んだ力だった。幣はまるで初めから僕の一部であったかのように、僕の手にしっくりと収まっていた。
幣串は杉でできていた。霊狐にとっての神木だ。僕の力――いや、この里の霊狐たちの力が幣に籠もっている。僕に力を貸してくれている。霊狐たちは僕を赦してくれたのだろうか?
いいや違う。この里で起きた出来事は過去のものだ。僕が体験したすべての出来事は、過去に一度起きていることだ。この力の持ち主たちは、霊狐であって霊狐でないもの、即ち、霊狐の役割を与えられた何かの存在だ。
突然、灯籠に火が灯った。本殿前に配置されたよっつの灯籠。左右にふたつずつ、計よっつの灯籠が厳かに輝き、正方形の領域を作った。通常なら神前で上げる祝詞を、この中心で上げるべきだと直感した。僕の背を押す何かの力を感じる。
僕はそこに歩を進め、荘重な心持ちで振り返った。鎮守の森に、大鳥居。場には確かな霊威を感じた。僕は幣を持ち上げ水平に構えた。その動きは残像を伴っているように見えた。自分の行動が、なぜだかとても神秘的なもののようだった。
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[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:白 > まを]]す
[[rb:祓詞 > はらえことば]]が終わったあと、僕は大幣を両手で前に突き出して直角にお辞儀をしていた。霊威は変わらずそこに在った。静まりきった夜の神社は僕の精神を鋭くさせた。僕の頭に[[rb:大祓 > おおはらえ]]の祝詞がすらすらと浮かんできた。義父の暴力教育によって暗記したそれが、今ここで発揮されることになる――。
[[rb:掛 > か]]けまくも[[rb:畏 > かしこ]]き[[rb:稲荷大神 > いなりおほかみ]]の[[rb:大前 > おほまえ]]に
しかし出てきたのは稲荷祝詞だった。おかしい、と思うものの僕の口は止まらなかった。
[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:白 > まを]]さく[[rb:朝 > あした]]に[[rb:夕 > ゆうべ]]に
[[rb:勤 > いそし]]み[[rb:務 > つとむ]]る[[rb:家 > いゑ]]の[[rb:産業 > なりはひ]]を
[[rb:緩 > ゆるぶ]][[rb:事無 > ことな]]く[[rb:怠 > おこたる]][[rb:事無 > ことな]]く
[[rb:彌 > いや]][[rb:奨 > すす]]めに[[rb:奨 > すす]]め[[rb:賜 > たま]]ひ[[rb:彌 > いや]][[rb:助 > たすけ]]に[[rb:助 > たすけ]][[rb:賜 > たま]]ひて
[[rb:家門 > いえかど]][[rb:高 > たか]]く[[rb:令吹興 > ふきをこさしめ]][[rb:賜 > たま]]ひ
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[[rb:茂 > いか]]し[[rb:八桑枝 > やぐはえ]]の[[rb:如 > ごと]]く[[rb:令立槃 > たちさかへしめ]][[rb:賜 > たま]]ひ
[[rb:家 > いえ]]にも[[rb:身 > み]]にも[[rb:枉神 > まがかみ]]の[[rb:枉事 > まがごと]][[rb:有 > あ]]らしめず
[[rb:過 > あやまち]][[rb:犯 > をか]]す[[rb:事 > こと]]の[[rb:有 > あ]]らむをば
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[[rb:夜 > よ]]の[[rb:守 > まもり]][[rb:日 > ひ]]の[[rb:守 > まもり]]に[[rb:守 > まもり]][[rb:幸 > さきは]]へ[[rb:賜 > たま]]へと
[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:白 > まを]]す
僕は稲荷祝詞を知らなかった。それなのに一度も詰まることなく奏上を終えるなんて、そんな
ことがあるのだろうか。原因は判らないが、〝場の力〟が僕をそうさせたのだ。大幣を持つ手はまた僕の知らぬ間に動いていて、今は空を指し示していた。僕は天を見上げる。今にも降ってきそうな星空に、満月が浮かぶ。僕は、自分が何を祓おうとしているのか、漠然と理解した。世界の覆い、それは空のことだ。
僕が世界に気付くとほぼ同時に、世界の方も何かに気が付いた。音もなく薄雲が発生し、満月や星空を覆い隠さんとする。しかし僕はその薄雲の向こう側にある何かを強く見続けた。
[[rb:稲蒼魂命 > ウカノミタマノミコト]]、[[rb:猿田毘古神 > サルタヒコノカミ]]、[[rb:大宮能売大神 > オオミヤノメノオオカミ]]、[[rb:田中大神 > タナカノオオカミ]]、[[rb:四之大神 > シノオオカミ]]……。他にも稲荷とされる多くの神がいる。様々な豊穣神の総称としての稲荷大神は、神仏習合で荼枳尼天以外に大日如来と比べられることがあった。真言密教の流れを特に強く受け入れた陰陽術を行使する僕はそのことを学んで知っている。稲荷とされるそれぞれの神は[[rb:本地垂迹 > ほんじすいじゃく]]でそれぞれ別の仏に[[rb:準 > なぞら]]えられたが、稲荷大神全体としては大日如来なのだ。様々な神の集合といえる稲荷大神は、すべての仏が大日如来の化身であるという真言密教における考えと確かに似ている。宇宙を覆うものは大日如来、即ち稲荷大神なのだ。
ここで僕は思い当たった。僕を覆う力というのは稲荷の力なのではないか? それなのに稲荷祝詞を上げるのは誤っているのではないか? 逆に覆いの力を強めてしまうのではないか?
しかし僕が疑問を抱いたところで僕がそれを中断することはなかった。こうすることは正しいという絶対的な自信があったのだ。認識を歪められている可能性ももちろん考えた。それでも、この場に漂う力、幣串から伝わる狐の力は僕に良い流れをもたらしている。そう確信してやまなかった。
月は[[rb:翳 > かげ]]って雨が降る。構わず幣を掲げ持つ。灯籠の光は雨に負けじと強くなっていた。そうして僕は知らない祝詞を上げ始める。
[[rb:高天原 > たかまがはら]]に[[rb:神留坐 > かむづまりま]]す
[[rb:皇親神漏岐神漏册 > すめらがむつかむろぎかみろみ]]の[[rb:命 > みこと]]を[[rb:以 > もち]]て
[[rb:豊葦原 > とよあしはら]]の[[rb:瑞穂 > みずほ]]の[[rb:國 > くに]][[rb:五穀 > いつくさ]]の[[rb:種津物 > たなつもの]]の[[rb:神霊 > みたま]]
[[rb:稲荷五社大明神 > いなりごしゃだいみょうじん]]へ[[rb:鎮坐 > しづまりま]]す
[[rb:稲蒼魂命 > うがのみたまのみこと]] [[rb:大巳貴命 > おほなむちのみこと]] [[rb:太田命 > おほたのみこと]]
[[rb:大宮姫命 > おおみやひめのみこと]] [[rb:保食命 > うけもちのみこと]]
[[rb:五柱 > いつはしら]]の[[rb:大恩神 > おほをんかみ]] [[rb:天 > あめ]]より[[rb:五穀 > いつくさ]]の[[rb:元祖 > みをや]]として
[[rb:普 > あまね]]く[[rb:種 > たね]]を[[rb:降 > くだ]]し [[rb:千代 > ちよ]][[rb:萬代 > よろづ]]まで
[[rb:秋 > あき]]の[[rb:垂穂 > たりほ]] [[rb:八握 > やつか]]に[[rb:莫々然 > しなひて]]
[[rb:上者帝 > かみはみかど]]を[[rb:奉始顕 > はじめまつりうつし]] [[rb:主 > あを]][[rb:蒼生 > ひとくさ]]を[[rb:養 > ひた]]し
[[rb:心 > こころ]]の[[rb:儘 > まま]]に[[rb:潔 > いさぎよ]]く [[rb:生 > うみ]]の[[rb:子 > こ]]の[[rb:八十續 > やそつづき]]まで
[[rb:生成 > うみなし]][[rb:賜 > たま]]ふと [[rb:祓 > はら]]ひ[[rb:申 > まを]]し[[rb:敬 > うやま]]ひ[[rb:奉 > まつ]]れば
[[rb:立春 > たつはる]]の[[rb:秋風 > あきかぜ]] [[rb:通気 > つうき]][[rb:自在 > じざい]]の [[rb:徳 > いさほし]]は
[[rb:明安正家 > あかやすせいか]]の [[rb:住 > すみ]]に[[rb:能風 > よきかぜ]]
[[rb:秋 > あき]]の[[rb:神道 > かみみち]]に [[rb:奉出 > いでまつり]] [[rb:光皆 > ひかりみな]]
[[rb:稲荷五社大明神 > いなりごしゃだいみょうじん]]の[[rb:徳 > いさほし]]なりと
[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:申 > まを]]せば
[[rb:十穀 > とくさ]]の[[rb:種津物 > たなつもの]] [[rb:五穀成就不致 > ごこくじょうじゅせず]]と[[rb:云事 > いふこと]]なし
[[rb:祈處願處 > いのるところねがふところ]] [[rb:守幸給 > まもりさきはへたま]]ひ
[[rb:無上霊寶 > うえなきみたま]] [[rb:神道加持 > しんとうかじ]]
大幣を左に一回、右に一回。それは車のワイパーのように雲を晴らす働きを持っていた。けれど、それはプリウスの壊れたワイパーのように効率が悪く、雲の薄くなった部分はあっという間に補われる。
でも、一瞬、――ほんの一瞬だけ、雲の晴れ間から信号が届く。とても懐かしい波動を感じた。僕はそれに意識を傾ける。細く短い光の筋を、捕まえようと試みる。けれどそれは酷く脆いもので、乱暴に扱うとすぐに壊れた。こちらからの接続はできそうにない。ただ、受け取るだけしか。
雨は嵐に変わりつつあった。それに伴い光は更に細まり、僕は更に意識を集中しながら幣を往復させた。対抗するように嵐はもっと酷くなる。意地の張り合いのように。
受け取った光はひとつの情報を形作る。神社、宮司、稲荷狐。けれどその先がどうしても掴めない。大事な大事な何かを。
思い出さなければならない。僕はそれを強く願う。すると、手に持った大幣が変化するのを感じた。光を放ちながら、いつしかそれは木刀になっていた。
直感。僕はそれで天を薙いだ。目に見えない風が、空に向かって飛んでいった。
直観。僕は切り裂かれた覆いから流れてきた情報の断片から、確かな記憶を復元した。
「――狐落とし」
僕がそれを思い出すと同時に雲は再び集まり、[[rb:祓除 > ふつじょ]]できないくらいの厚さになった。気付けば木刀は再び幣の姿に戻っていた。どれだけ幣を振っても、どれだけ意識を集中しても、もうこちらとあちらが繋がることはなかった。ただ雨が僕を責めるように打ち付けていた。
けれど、受け取った記憶は今度こそ残った。それは僕の正体を明確にするには十分すぎるほどの情報を持っていた。僕は弥彦であって弥彦でない。けれど、ある意味では弥彦そのものだった。この世界は、僕を含めて紛い物だったのだ。
「風邪を引くぞ」
天を仰ぐ僕に声が掛かる。目を遣れば、大鳥居の下に観堂丸が佇んでいるのが見えた。
「この時期の雨は身に堪う」
「こんな展開は記憶にありません。逸脱した行為をして大丈夫なのですか?」
「構わん。ここまでくればやつとて気にするまいよ」
「あなたは、具体的には何者なのでしょう」
「気付いているだろう。お前の記憶を忠実に再現した、観堂丸であって観堂丸でない存在だ。はっきりとしたのはついさっき、お前が覆いを祓った時だがな」
観堂丸であって観堂丸でない霊狐の長は僕の横で空を見上げる。月は完全に隠れ、空の色は判らない。灯籠の光のほかは、すべてが闇だった。
「おれはお前の中にある狐の力を使えと言ったつもりだったのだが、まあ構うまい。皆もお前の味方をしてくれたようだ」
「狐の力」
「元の世界でお前が受けた狐落とし。その落とされた狐がつまりお前だ」
「そして狐の僕は弥彦の記憶と同化したわけですね」
「弥彦」霊狐の長は僕を諭すように言った。「堅苦しい言葉を使うな。おれは確かに本物の観堂丸ではないが、観堂丸になるべくして生まれたのだ。現実には起きていないことだろうが何だろうが、このおれは今こうして生きている。観堂丸として接してくれたほうがおれも報われるというものだ」
僕は観堂丸の胸に顔を押し付けた。観堂丸は優しく僕を撫でてくれた。
以前、観堂丸は「この世界は間違っている」と言った。観堂丸という存在は、僕という存在は、そしてこの世界に存在するすべての生命は、本来であればあってはならないのだ。……そして、お腹の中に宿った命も。
「僕の役目、それは……」
それは、すべてをあるべき形に戻すこと。
「だがよく考えろよ弥彦。お前のこの状況を作り出したのは稲荷神そのものといっていいのだぞ。相手が悪いと思わんか」
「でも、やらなきゃならない」
「判っていればいい。では行くか」
「行く? どこへ?」
「決まっているだろう。この世界で一番[[rb:歪 > いびつ]]な存在、――中心であり国境、――宮廷だ」
[newpage]
[chapter:十二]
黄昏の山道に、仙狸庵は素知らぬ顔をして建っていた。
流石にアラミド作業服は暑いため、ジーンズとロングTシャツ姿に戻ってから車を降り、俺は仙狸庵の戸に手を掛けた。
ガララ、と音を立てて戸を開き、入る。中は少しばかり異様な雰囲気がした。十分に飯時だろうに客がいない。いや、カウンターに一人の女性がいるが、上品に座っているだけで何かを食べているふうでもない。……店内を見回すと、客がいた痕跡はあった。しかし食べかけの状態で器はそのままだし、うどんもそのまま、おにぎりもそのまま、箸は机の上、或いは床上に散らばり、ただ客だけがいなかった。まるで慌てて逃げ出したかのように。
いらっしゃい、と大将の声がする。女性もこちらを見る。思わず見とれそうな美貌だった。年齢は二十代後半だろうか、ノースリーブでダークブルーのワンピースをエレガントに着こなしていて、艶のあるストレートの黒髪が肩を越えて伸び、耳には真珠っぽいイヤリングだかピアスだかを付けていた。露出した肌は健康的で、同じく健康的な色をした顔でにこやかに微笑んできた。俺は軽く会釈をする。
俺はその女性のひとつ飛ばした隣に座った。なぜそんな近くに座ろうと思ったのだろうか。おそらく、そうすることを働き掛けられたのだ。この店に立ち寄ることさえも。
特に注文したわけではないが、大将は俺に水を出したあと、うどんを茹で始めた。既に麺は打った後で、やはり俺がここに来ることを見越していたのだ。
女性は興味深そうに俺の顔を覗き込んできた。
「貴方、なかなか数奇な運命にあるようね」
「それはどうも」とだけ俺は答えた。美しい人だと思ったが途端に興味を失った。運命だとかスピリチュアルだとかいうワードを持ち出す人物にろくなやつはいないからだ。
「安心して、敵ではないわよ。味方でもないけれど」
「それはどうも」と俺は再び答えた。「その敵でも味方でもない絶世の美女が、いったい俺に何の用ですか」
「用なんて程のものはないわよ。今の貴方を一目見てみたかっただけ。もう帰るわ」
「俺に会ったことがあるんですか?――例えば、俺の運命を捻じ曲げた時とかに」
「物騒な表現を使うわね」女性は優雅にコップの水を飲む。「何が起きても運命はひとつよ」
「それについては頷ける部分と頷けない部分がありますね」
そう言って俺もコップに口を付けた。
一生のうちに用意された道はひとつではない。いつ如何なる時でも、目の前には様々な選択肢が手を伸ばし、可能性を提示している。人はその手のひとつひとつにジャンクションを掛けて線を確定させ、辿ることを繰り返して生きていく。そうして死ぬ瞬間に完成する一本の線をどれだけ良いものにしていけるかを追求するのだ。おっかなびっくり道を辿りながら、「もしかすると隣にはもっといい線があったのかもしれない」と思うことも多々あるだろう。しかしどう足掻こうが、起きていたかもしれない並行世界を覗き見ることなど不可能だ。
「起きた後に確定するものを運命と呼ぶならば、確かに運命はひとつしかない。しかしながら、物事とは原因と結果の積み重ねにより成り立つもので、そこにはどうあっても確率という要素が絡んでくる。起きる前に視点を置くならば、やはり運命は分岐していると言わざるを得ない」
「人間の視点からすればそう考えるのが当然ね。まあ、言及はやめておくわ。こうしてお話をしていることですらあまり好ましいことではないし」
「なおさら俺をここに呼び寄せた理由が解りませんね」
「本当に一目見たかっただけなのよ。用は済んだわ」
女性はコップをカウンターに押しやった。
「仏教思想では」大将は膳に器を置きながら言った。「因と果の間に〝[[rb:縁 > えん]]〟が入ります。因縁、とはよく言いますが、因と縁は厳密には分けて考えられます。原因と結果の間にあるすべての要素、人の繋がりから物の有無、空気の流れに至るまで、すべての間接的な要素が縁なのです。世の中のあらゆるものはお互いに影響を与え合って存在しています。何ものにも影響を受けない確固たる〝[[rb:我 > が]]〟など存在し得ない。――この理を[[rb:諸法無我 > しょほうむが]]といいます」
そうして差し出された膳にはきつねうどんが乗っていた。それは見事に俺が食べたかったものだった。
「こうしてうどんを食べるという行為も、何かしらの結果に繋がる縁かもしれない」
「そういうことですね」
「では、大将と出会えた縁に感謝しながら、いただきます」
そうして俺は音吉の食レポの答え合わせを始めた。確かに油揚げは出汁が染みていて美味い。美味いが、俺はすぐに我に返る。今はそんなことを考えている場合ではないのだ。俺は各所の後片付けをし始めた大将に向かって言った。
「大将、俺が瀕死の音吉を乗せてここを通った時、どうして助けてくれなかったんですか」
その言葉に大将は首を傾げた。
「これは異なことを」
「ここまできてとぼけないでください。あなたが認識を歪めたことくらい俺にも判ります」
大将は笑いながら膳と器を纏め、
「貴方は一人で生きているわけではありませんし、一人で死ぬわけでもありません。すべての縁の中で、貴方も別の縁となるべくして生きています。諸法無我の理の中、貴方があの霊狐の少年と出会ったことは途轍もなく大きな縁で、そこに私の余計な介入は不要なのです」
そう言って隣を通り過ぎていった。
「……いや何の答えにもなっていないが」
タヌキ親父はわざとらしい笑顔でうどんを打ち始めた。
「貴方たちで解決しなさいってこと。私たちはあくまで傍観者。干渉しちゃいけないのよ」
「はあ。では、なぜその傍観者たちが、こうして俺を普通の人間には見つけることのできないうどん屋に呼び寄せたんでしょうね。立派な干渉だと思うんですが」
「さあ、何か事情があるんじゃないかしら」
「たった二日で事情という言葉が嫌いになりましたよ」
「ところで吉崎さん、あの少年はどのくらいの量を食べられますか?」
カウンター越しに大将が面白おかしそうな口調で訊いてきた。
「……量? そんなこと俺に言われても霊狐の生態なんて知るわけないじゃないですか。そもそも人間と違う代謝をしているみたいだし」
そう、音吉曰くここのうどんは霊的代謝に合致しているのだとか。俺はそれを聞いて曖昧な返事をするだけに止めたが、納得はいかなかった。自然素材だろうが化学調味料だろうが形あるものはすべて化学式で表せるのだ。自然だから体にいい、人工だから体に悪いというのが生身の人間に適用されるのだとしても、本来動物に猛毒であるネギを消化しやがる霊狐にもそれを適用するには説得力が足りない。形あるものを食べているくせにトイレに行く姿を見たことがないし、やつらにとっての消化も代謝も俺の知るところではない。
「まあ、若いのですから大盛でもよいでしょう」
「何でここで音吉の話なん…………まさか!」
俺が慌てて入り口に目を遣るのと、入り口がすごい音で開かれるのはほぼ同時だった。ガシャン、とガラスが割れそうなほど乱暴に開かれた戸から、誰かが現れた。
首から上が暖簾に隠れて顔を見ることはできないが、隠れているのが首から上という時点で子供であることは明らかだ。線の細さ、華奢な足、膝下から覗かせる稲穂色の体毛。何もかもに見覚えがある。俺は二人がなぜ俺をここに呼び寄せたのか、はっきりと判った。こいつら、時間稼ぎしやがったんだ。
暖簾を掻き分け、乱暴に戸を閉めて入店した音吉は、それはそれは不機嫌を露わにしてつかつか歩いてきた。いつもの水干ではなく紺一色の着流しだった。簡素で飾り気はなく、それは弱り切った音吉の力を表しているのかもしれなかった。しかしその小さな存在から放たれる威圧感は凄まじく、俺は子供を前に情けなく縮こまるしかできなかった。歩きながら、音吉は激しい息切れを整えているようだった。ここまで全力で走ってきたのだろうというのが窺えた。
やがて俺の真横まで歩いてきた音吉は、一際大きな音を立てて床を踏みしめて立ち止まった。ピンと伸びた足は肩幅に開き、拳を握り締めた手もまっすぐに伸び、鋭い目で俺を睨み付け、大きく息を吸い、
「――このっ、大馬鹿者めえ!」
そうして店が揺れるほどの大声を上げた。
「このたわけ! ぼんくら! ヤドロク! 頓珍漢! うつけ者!」
「おい、音吉、口調」
「[[rb:喧 > やかま]]しい! 何の力も持たないくせにっ! 偉そうに体張ろうとするな!」
それだけ言って、音吉は力尽きるように俺にもたれかかった。俺はそれを抱きとめた。熱に浮かされたように激しく肩を上下させながら、音吉は俺の首に手を回し、力を込めた。
「いなくならないでって、置いてかないでって、おれ言ったよね」音吉は泣いていた。
「言った」俺は音吉の後頭部を撫でた。
「運命共同体って言ったの誰だっけ」
「俺だ」
「反省して」
「悪かった」
流れてくる念は、心配から安堵へと移り変わり、そうして最後に決意となって俺の首に巻き付いた。もう絶対に離さないと、首に縄でも付けられたようだった。
「これを見てどう思います」大将の声がした。「勘弁してあげてもいいんじゃないですか」
「傍観者だって言っているでしょう」女性の声がした。「切り開くのはこの子たちよ」
女性は今度こそ用が済んだというように立ち上がった。音吉の手に力が籠もる。不安げに、[[rb:訝 > いぶか]]るように女性を見上げていた。女性は音吉を安心させるように穏やかに微笑みながら歩いてきて、俺たちを見下ろしながら一度髪の毛を掻き上げた。
「今日、貴方たちが起こした騒動は各地で噂になっているわ。市街地でドンパチ始めるなんて、ほんと度胸あるわよね。干渉を受けた住宅の中にも様々な神仏が祀られていることを心得なさい」
顔を見合わせた俺たちそれぞれにじっくり顔を向け、何だかまるで教師が悪ガキに言い聞かせているようだった。
「だから、飽くまでも私たちの迷惑のためだけに言わせてもらうのだけれど、貴方たちはこれから里に向かいなさい。さもなければ騒ぎは人間社会にまで広がるわよ」
「貴方は……」俺は今更ながらに疑問に思った。「貴方は、いったい何者ですか?」
「何度言わせるつもり? 私たちはただの傍観者。もっとも、どこかの馬鹿狐が余計なお節介をしてしまったようだけれど」
そうして女性は身を翻し、
「ではごきげんよう」
最後に飛び切りの笑顔を見せて歩いていった。控えめな音を立てて戸が開き、女性の姿が闇に吸い込まれ、そうして戸が閉められた瞬間、途端に体が軽くなる気がした。知らず知らず彼女の霊威というものにあてられていたらしく、そのせいもあるのだろう、音吉はへなへなとその場に座り込んだ。音吉を抱えて丸椅子に座らせると、そこには既に音吉の膳が用意されていた。月見肉うどん、大盛。でかすぎる器に鎮座する麺は、実に俺の三倍量だ。呆気に取られて大将を見ると、大将は相変わらず大黒天像のような朗らかな笑みを俺たちに向けていた。
「さあ、それを食べて元気を出してください」
いやいや。
「ありがとう大将」
いやいやいや。
「いただきます」
霊狐の生態は実に理解が及ばない。俺は生まれて初めてうどんを飲み物にする存在を目の当たりにした。
[newpage]
[chapter:拾弐]
以前僕が宮廷に行きたいと言った時、観堂丸は渋い反応をした。それは宮廷なんてものが実際には存在しないからだ。いや、存在自体はしていたけれど、この世界のように神社の体系を取っていなかったのだ。であるならば、逸脱した行為をしなければならない僕は、是が非でも宮廷に赴く必要があるということだ。
翌朝、僕は四足になった観堂丸の背に乗って山を下りた。
町は打って変わって元の姿を取り戻していた。通りには町民たちが溢れ、その隙間を縫って天
秤棒を巧みに操る[[rb:棒天売 > ぼてふり]]がすいすい走る。僕たちは更にその隙間を縫って疾走した。
誰も僕たちを不思議に思わない。にこやかに微笑みかけたり手を挙げたり、過干渉しない程度に僕たちを勇気付けてくれていた。
義父はどうなっているんだろうと僕は思ったけれど、観堂丸はわざと僕の道場を通らなかった。どんな顔をすればいいかお互いに判らんだろうよ、と観堂丸は言ったけれど、確かにそうだ。やがて宮廷が目前に迫った辺りで、観堂丸は二足の姿になった。騎乗の影響で足取りがふらついたけれど、観堂丸は僕をしっかりと支えてくれた。
宮廷は変わらず威圧感を漂わせていた。門番の武士も変わらず何者も寄せ付けないような[[rb:厳 > いかめ]]しい顔付きをしていたけれど、僕たちが前に立っても、それどころか中に入ろうとしても、呼び止めることなく突っ立っていた。記憶を逸脱したからには僕たちの敵ではないということなのか、それとも、予め僕たちが来ても止めないように命じられているのだろうか。僕は軽く黙礼するだけに止めた。
門の先にあった朱塗りの鳥居に一礼してくぐる。ここから先は未知の領域だ。僕の記憶にもないし、僕が観堂丸に乗り移られた時に共有したいくつかの記憶にも、宮廷に関するものは何ひとつなかった。それなのに、敷地の中は何もかもが現実味を帯びていた。参道の石畳から砂利の一粒一粒、手水舎の龍神の装飾に至るまで、きっちりと細かく作られていた。いいや、僕は知っている。これすらも僕の記憶。僕の、五歳児の頃に見た記憶なのだ。
「僕が封印された時に来た神社、それがそのまま宮廷になった」
「そういうことになろうな」
人の気配はなかった。僕たちは手を繋いで参道を進み、手水舎で手と口を清めた。水は冷たく、場所が場所だけにどことなく霊的な力を感じないではいられなかった。
霊威は感じる。けれどそれは神社全体に感じるだけで、どこかに集中しているわけではなく、例えば一対の狛犬や狛狐(と呼べばいいのだろうか。僕の知るどのような神社にもこのような狐像はなかったように思う)には何の存在感もなかった。ここには誰もいないのだろうか? いいやそんなはずはない。いるはずなのだ。――稲荷の狐が。
僕たちは続いて拝殿に向かった。ここでの記憶もないに等しい。五歳よりもっと小さい頃に来たかもしれないけれど、はっきりとした記憶ではない。さて、どうしよう。
狛狐のことにしてもそうなのだろう、僕が弥彦として生きていた時代と元の世界の時代はおそらくかなり離れている。僕の知る神社には拝殿の前に箱はなかったし、箱の上に紐をぶら下げた鈴もなかった。何をするためにあるのか皆目見当がつかない。
鈴をずっと見上げていると、合図のように観堂丸に腕を突付かれた。顔を戻すと、戻した視線の先、閉じた格子戸の前に人影を認めた。二足歩行、白い狩衣、紅の袴、赤い隈取。
忌避感の正体……稲荷の狐。
「やはり来おったな」
その霊狐は不敵に笑って僕たちを出迎えた。
「入るがよい。都合上茶を出すことはできぬがな」
僕たちは促されるままに拝殿に上がった。格子戸には不透明な板状の何かが嵌まっていた――僕はそれをガラスと呼ぶことを知っていた。畳を踏む感覚に、僕の中の忌避感がむくむくと膨れ上がった。僕はこの拝殿の中で嫌な思いをしたはずだった。
[[rb:茵 > しとね]]のようなものが用意されていた。……座布団……に、僕たちは座る。
中はとても明るかった。燭台こそあるものの、それは正面に一対あるだけで、とても全体をここまで明るくでき得るものではない。明かりはどうやら上から差しているようで、見上げると天井に張り付いた筒から火ではない何かの光が発せられていた。また僕の脳が何かの刺激を受けた。
「お主はそれを知っておるはずじゃ」
僕は頷いて答えた。「蛍光灯」
「記憶の[[rb:混淆 > こんこう]]じゃの。お主が生きていた時代にはなかったものじゃ。さぞかし戸惑っておろう」
正面に霊狐が座り、対面して左に僕、右に観堂丸が正座している。僕はこの構図に覚えがある。
僕はまさにこのように宮司に向かい合って狐落としを受けたのだ。けれど、目の前の霊狐は手に幣も何も持ってはいない。そこは安心できそうだ。
「少し長くなる。楽にするがよい」霊狐は厳かに話し始めた。「混淆しながらも理解しておろうが、本来のお主は五歳の頃にこの福丸稲荷神社にて狐落としを受けた。お主は知るまいが、今の時代、狐落としというものはなかなかに廃れておる。それも狐を神使とする稲荷神社で行うなど、――昔でこそ伏見の[[rb:命婦社 > みょうぶしゃ]]で行ってはおったが――現在であれば殆ど有り得ぬ話じゃ。この神社でも久しくしたことはなかった。しかしお主の母は敢えてこの稲荷神社にやってきて、息子の狐祓いを請うた。宮司もたいそう困っておったが、祈祷の祝詞を上手に読み換え、それは恙無く終わった。然して願いは届けられ、本来のお主の狐は祓われたわけじゃ。哀しいかな、宮司は神の存在など信じておらぬが、お主の母が敬虔なる稲荷信仰者であったが故の成就じゃ」
パチ、と燭台の火が意味ありげに爆ぜた。目を戻すと、霊狐は懐から[[rb:檜扇 > ひおうぎ]]を出していた。その扇を広げて水平にし、その上に青い光で人魂のような火球を作り、それから僕に目を合わせた。
「――さて、本来のお主には本当に狐が憑いておったのか? 答えは否。お主は確かに狐じゃが、外から憑いた狐ではないのじゃ」
「生来の狐であると?」
「魂の半分が狐でできておったということじゃ」扇の上で火球がふたつに分かれ、踊りながら狐が現れた。「わしが止めたために中断はしたが、お主も記憶の先を知っておろう。死の淵にあった観堂丸と弥彦は約束を交わし、儀式を経てお互いの魂を縛り付け、来世で結ばれることを望んだ。そして数百年ののち、巡り巡って魂と魂は約束通りに引かれ合い、同じ時代に再び出現したということじゃ。お主はその片割れ、吉崎鈴次という男が備えておった狐の部分じゃ。本来の弥彦は人間であるのにこの世界において狐の姿を取っておったのは、つまりそういうことじゃ」
「この世界は厳密には何なのですか?」
「狐落としにより思念の奥底に封じられたお主が、お主が持つ前世の記憶により混ざり合い再編された世界じゃ。そのために本来の記憶とほんの僅かながら齟齬があったということじゃの。さて、大詰めじゃ。五歳児までの記憶しか持たぬお主――、もっとも、その五歳児までの記憶もこの世界では封じられておったはずなのじゃが――お主は今の外の世界のこともいくつか知っておる。天井にくっついておる蛍光灯のようにの」
「僕が外の世界と繋がろうとしている」
「そうじゃ。いやはや、ここまでのことが起ころうとは予想だにしておらなんだ。偏にお主と観堂丸の想いの力が成せた業じゃの。記憶の中の出来事とはいえ、この世界においても相当な力を発揮したのじゃ」
「しかし貴方はそれを妨害した」
「当然じゃ。それがわしの役目じゃからの」
燭台の火がまた爆ぜた。今度は気のせいでなく、ゆらゆらと風に棚引いている。考えてみれば、そもそも蝋燭が爆ぜるなんておかしな話だ。
ざわざわと木々が鳴いた。それはこの拝殿の外からの音だった。耳を澄ますと、境内を囲む鎮守の森がざわめいている音だということにすぐに気が付いた。……鎮守の森? ここは建前上は宮廷だ。僕の記憶にある神社がそのまま宮廷になり、その宮廷を囲むものは堅牢な門壁だったはずだ。森なんて……。
「外の世界が騒がしい。先もおかしな侵入者があった」霊狐は目を伏せて言った。耳を立てて外の音を聴いているようだ。「わしの役目はこの世界に平穏をもたらすこと」目を伏せたまま檜扇を閉じ、それと同時に火球は消え去った。「もともとこの世界は混沌じゃった。そこに一条の光が差し、それを切っ掛けとしてこのような理路整然とした時の流れを持つ世界が作られたのじゃ。お主が成長したばかりでなく外的要因がある。その一条の光をもたらした何かがの。いくらわしでも外の出来事については判らぬが」
「僕には判る」僕はきっぱりと言い放った。「外の僕が観堂丸の生まれ変わりと出会ったんだ」
「なぜ判る?」
「僕を呼ぶ声がした」僕は無意識的に立ち上がっていた。「僕は外の世界に出なければならない。会いに行かなければならない。観堂丸の生まれ変わりに」
ここは〝国境〟だ。中の世界と外の世界を繋ぐ、中継点。方法は解らないけれど、僕はここから外に出ることができるはずだ。僕は強く拳を握る。
「――それが僕の役目だ」
「まあ落ち着け」座ったまま霊狐が言う。「事はそう単純な話でないことを知れ。外のお主はお主抜きでずっと生きておる。前世の記憶も狐の魂も持たず、完全なる人として成長し、情緒を育んできたはずじゃ。そこにもうひとつの確固たる人間性を持つお主が出ていけば、一体どうなろうか?」
僕はその白々しい物言いに腹が立った。
「元はといえば貴方がたがやったことでしょう」
「わしはわしの役割を果たしたまでよ。ついでに言うと、忠実に再現はしておるものの、わしはその時にお主に影響を与えた稲荷の眷族霊狐ではない。わしとてお主の世界における登場人物のひとつに過ぎぬわけじゃ。その点、現実の眷族霊狐よりも融通が利かぬと思え。力尽くで事を為そうとすればこちらも相応の力を以て止めてみせよう。そしてわしにはその力がある。わしの役目は、言い換えるとお主をこの世界に閉じ込めることじゃ」
霊狐が音もなく立ち上がる。その所作はひどく美しく、一切の無駄がないように思えた。扇を懐に仕舞いながら僕の前まで歩く。
「悪いことは言わぬ。この世界で暮らすが良い。お主が望むならまた初めに遡行することもできる。任意の段階で時を止め、そのまま留まることもできる。お主が願えば世界は変わる。世界はお主のためにある。この世界はお主の世界。ただ、わしという障害を持つだけじゃ」
境内を歩きながら、僕は森のざわめきに耳を傾けた。森はどこにもない。けれど音は絶えず聞こえている。
「国境であり中心」隣を歩く観堂丸が呟いた。「森はそこに在り、またそこに在らず」
やっと喋った。全然話に入ってこなかったくせに。少し不貞腐れている僕の頭に観堂丸は手を乗せた。澄まし顔は、おれの出る幕ではなかったろうよ、とでも言いたげだった。
結局のところ、僕はどうすればいいのだろう。僕の役目ははっきりした。僕は何としても外の世界に出なければならない。けれど、そのために何をすればいいのか判らない。
「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」と観堂丸は言った。「思い出すがよい。お前がどうやってこの世界にやってきたのかを。そしてあやつがどんな存在か、改めて考えてみろ」
僕がどうやってここに来たか。僕は五歳の頃にこの福丸稲荷神社で狐落としを受けた。弥彦の生まれ変わりはふたつに分かれ、人間部分はそのまま世界に留まり、狐部分がこの世界に封じられたのだ。それがおそらくここでの僕の記憶の始まりだ。神社で一人佇んでいた僕は、狐の姿をしていた。僕は恐ろしくなって、鳥居から出ようと……。僕は足を止める。
今まさに見上げている鳥居がそれだ。あやふやではあるけれど、あの時、鳥居の外には車が通っていた気がした。そのあと鳥居をくぐり、世界が変化した。鳥居が世界を隔てる門……? いやしかしそうなると時系列がおかしくなる。神社で佇んでいた時にはすでに僕はこの世界に来ていたはずなのだ。そのうえで鳥居をくぐることにより車が通る世界から日本家屋が立ち並ぶ世界に変化する意味が解らない。解らないけれど、鳥居をくぐるという行為が何かしら重要な役割を担っていることは確かな気はする。
僕を封じたのは稲荷神の力。その時に僕に何かをした眷属霊狐が、稲荷神の意図かどうかは判らないものの、この世界で僕を監視している。その霊狐は実際には僕の頭が複製した存在であるらしいけれど、そういう役目を持っていることは確かなのだ。もし僕が持つ前世の記憶から外れる行為をすると、霊狐はすかさず軌道修正をしようと……いいや違う、あの霊狐の役割はこの世界に平穏をもたらすことと言っていた。それは行為の逸脱ではなく、この世界の根幹を揺るがす事態――つまり、僕が外の世界と繋がることでこの世界が消滅なり破壊なりされてしまうのを防ぐということを指している。だから、混沌から世界が生まれても、僕が記憶を逸脱しても、手を出さずに静観しているのだ。もしも僕が本気でこの世界から出ようとすれば、或いは世界に穴を開けようとすれば、あの霊狐は全力で止めに掛かるに違いない。
僕は自分の手を見つめた。こんな小さな手で何ができるのだろう。大切な存在を救えもしない無力な手で。
「何だお前、怖気付いたのか」
「そういうわけじゃないけど……。いや、そうかもしれない」
「お前がどうしたいか。大事なのはそれだけなのだ。あやつも言っていただろう。この世界はお前のためにある。お前はさしずめ弥彦天皇といったところだ」
「それなのに僕よりも力の強い[[rb:摂政 > せっしょう]]がいる」
「ならば征夷大将軍になるしかないな」
冗談を言いながら僕たちは門を出た。宮廷を抜ければ霊威はなくなったけれど、あの霊狐はおそらく本気になればこの世界全体に影響を与えるほどの力を持っているのだろう。そんな相手に何ができるのだろうか。すっかり肩を落とした僕に対してなのだろう、観堂丸の溜息が聞こえた。
「お前は皆の後押しを受けているのだぞ」
「判ってるよ。僕はこの世界から出なければならない。でも、そう、事はそう単純な話ではないんだ」
僕の中では使命感が燃え上っている。けれど、それはそれとして、僕が外の世界に出ることで何が起きるか考えないわけにはいかなかった。僕がいなくなればこの世界は存在意義を失い、おそらく消滅してしまう。そうなればここで生きていた観堂丸をはじめとするみんなだって消えてしまう。それに、僕の人間性が外の世界の僕の人間性に及ぼす影響だって捨て置くわけにはいかない。それに、それに……。
足を止めた僕に、観堂丸は咎めるような口調で言った。
「判らなければ今一度言ってやろう。この世界はお前のためにある。――お前はお前の役割を果たせ」
「判ってるよ。だけど……」
「だけど、とは何だ。何がお前を惑わせる?」
僕はお腹に手をやった。観堂丸からもらったぬくもりは、変わらずそこに在った。ひとつの命が、確かに息衝いていた。
「この子を消し去るなんてできっこない」
観堂丸ははっとしたように動きを止める。そうして何かを言おうとして、けれど何も言わず、困り果てたように左手で頭を押さえた。僕は観堂丸に抱き着いた。観堂丸は強く僕を抱き返してくれた。
「僕は外に出なければならない。けれど、出たくない」
「皆の呼び声が聞こえぬか」
「聞こえる」
「未来のおれの呼び声が聞こえぬか」
「聞こえる」
「未来のお前の呼び声が聞こえぬか」
「聞こえるよ。それでも……」
「その子にしたところで起きなかった事象のひとつに過ぎんのだぞ」
僕は顔を上げた。
「産んだところで僕の自己満足でしかないと、そう言いたいの?」
「それは……」
「貴方が僕から生まれたのなら知っているはずだ。僕がどれだけ無念のうちに死んだかを。観堂丸がどれだけの無念を抱えて死んだかを」
それなのに貴方がそんなことを言うなんて信じられない。僕は強く観堂丸を睨み付けた。一瞬怯みかけた観堂丸は、しかし次の瞬間には僕よりも鋭い目付きになった。
「大義を見失うなよ弥彦」凄みのある声だった。「だからこそ来世に託したのだろうが!」
強く胸を突き飛ばされ、僕は無様に尻餅をついた。
「良いか。お前はその背に重責を負っていることを自覚せよ」
追い打ちをかけるように大股で近づき、僕を強く見下ろす。
「立て! 禁刀を抜け! 九字を切れ!――おれが喝を入れてやる!」
言うなり観堂丸は周囲に無数の青い人魂のような火球を纏わせた。そのうちのひとつが弧を描きながら僕に迫ってくる。僕は咄嗟に右手を出した。
魂が焼ける音とともに僕は悲鳴を上げた。燃えなかった狩衣の下で、僕の右腕は鈍痛を発しながら魂を焦がしていた。
「構えろ、小さき陰陽師よ!」観堂丸が怒鳴った。「抗え! さもなくばお前の魂はここで尽きることになろう!」
無数の火球が一斉に放たれた。避けなければならない――僕のものでないような強い意志が竦んだ足を動かせた。転げるように距離を取った僕は、起き上がりざまに腰の禁刀を抜こうとして取り落とした。手が痺れて思うように力が入らなかったのだ。
僕は左手で刀印を結んで九字を切り結界を張った。途端、格子に無数の蛇が噛み付いた。結界越しに物凄い圧力が掛かった。格子の一部から蛇が侵入せんと牙を剥いていた。格子の中でもやはり文殊の領域が脆かった。即席の結界では長く持ちそうもない。左手で禁刀を拾い上げ、今度は文殊の関係しない中国道教由来の陰陽式で九字の結界を張り直す。
「四縦五横、禹為除ど……っ!」
格子が音を立てて割れ、刀を手にした観堂丸が迫ってきた。観堂丸の振り下ろす刀が禁刀とぶつかり金属音を響かせた。僕と観堂丸は刀を押し合った。
「弥彦よ、我らは捨てられるべき忌まわしき遺物だが、お前は報われるべき我らの悲願。お前が立ち止まってどうするのだ」
けれど観堂丸の力は強く、それに脇差程度の長さしか持たない禁刀では鍔迫り合いにもならなかった。僕はずるずると後退した。
「お前が迷ってどうするのだ。それでは我らが浮かばれんではないか!――生まれ変わった観堂丸も、それでは余りに報われんではないか!」
刀が強く押され、切っ先が僕の首に掛かった。
「記憶が封じられたのはお前の責ではないが、引き継がれるべき前世の記憶に囚われ、偽りの幻想で妥協せんとするその姿は余りに無様だ」
また、観堂丸の体から湧き出る霊力も、蛇の姿となって僕に巻き付いていった。
「偽物だと軽んずるなよ。断言するが、本物の観堂丸とて今のお前を見れば幻滅するに違いないぞ!」
そして僕は腕を締め上げられ禁刀を落とした。そもそも、しっかりとした護身法も施さない生身の状態で万全の観堂丸に勝てるはずなどなかったのだ。
「だからって……」虫が鳴くような声で僕は言った。「僕と観堂丸が愛し合い、子を身籠ったのは事実なんだ。その結果をなかったことにするなんて、僕にはできないよ」
溜息が聞こえた。しかしそれが落胆でなく居た堪れない同情の類であることは何となく判った。
「お前の気持ちは多分に判る」観堂丸の手から刀が消えた。「それでもお前は決断せねばならんのだ」
巻き付いていた蛇も消え、僕は力なく地面に座り込んだ。
「おれがいては決心が鈍ろう。少し一人で考えるがよい」観堂丸は僕に目線を合わせ、「だが忘れるな、我らはどこまでもお前の味方なのだ」いつもの優しい口調で諭すように言った。「お前が望めばすぐに駆け付けよう。もしもお前が〝本気で〟望むならば、この世界で永遠に暮らすことも吝かではない」
そして観堂丸は四つ足で駆けていった。去り際に残した頬の温もりが僕の寂しさを助長した。独りぼっちで残された僕は、お腹を押さえながら、声を殺して泣いた。
[newpage]
[chapter:十三]
霊狐たちは俺たちを襲ってこなかった。里への小道で見かけた四つ足の霊狐も、里の入口(入口といっても明確な入口が用意されているわけではなく、そこから民家が始まっているから便宜的に入口と呼んだに過ぎない)の広場にいた多くの四つ足の霊狐たちも、――何人か二足形態になりはしたが、それでも俺たちを取り囲むだけで飛び掛かってくるような素振りは見せなかった。エンジンを切り、キーを抜き、俺たちは無言で車から降りた。
満月に照らされ、狩衣をはためかせながら車を降りる音吉は見た目以上に大人びて見えた。格好のせいでもあるだろうが、事態の深刻さに対する覚悟が滲み出ている顔付きが一番の要因だ。ここで何が起きているのか、こいつは半ば確信しているようだった。
音吉は仙狸庵を出るなり、襲ってきた霊狐たちのうち神官がしていたものと同じ、薄水色に徳川家の家紋のような金の模様が全体にちりばめられた狩衣姿になった。ただし頭には帽子もなく、薄い木の板(音吉によるとそれは[[rb:笏 > しゃく]]というらしい)も持っていない。武士が落とした木刀は俺が持っている。俺はというと相変わらずアラミド繊維でオレンジ色の消防服みたいな作業服だ。こうして並んで見ると異様な組み合わせだ。
ボソボソと音吉の名が呟かれる中、四足の霊狐が代表のように音吉の前に歩いてきた。その足取りは弱々しく、暗がりに慣れてくると体中が傷だらけなのが見て取れた。二足にならないのではなく、なれないのかもしれない。頭を垂れ、目だけを鋭く音吉に向け、その霊狐は厳かに里の総意を代弁した。
「何をしに来た裏切り者」
「そう睨むなよ。争いにきたわけじゃない」
飄々と受け流し、音吉は里の奥を憂わしげに見る。やはり今の音吉は子供のようには見えない。
車外の空気に落ち着いて触れてみると、里を取り巻く異様な雰囲気というものが俺にも感じられた。日が沈み、明かりも殆ど灯らない里の様子を遠くまで見渡すことはできないが、重苦しく、そして多様な黒い感情が里の奥で渦巻いているのが判る。それは悲哀であったり、憎悪であったり、――そして怨念であったり。そしてその塊は明らかにこちらに近づいてきていた。
接近を察知した周囲の霊狐たちがどよめき、右往左往し始めた。おそらくここにいる霊狐はみな戦う力が乏しいか、或いは負傷して退いたものたちなのだろう。体の小さなものも多く見受けられ、子供たちも多くいるのだろうと推測できる。もしかすると小狐たちは二足に変化することができないのかもしれない。
不安を見せる霊狐たちに、下がっていろ、と音吉は前に出た。
「[[rb:米津姫 > ヨネヅヒメ]]の怨念……だけじゃないな。いったいどういうことだ」
霊狐たちは口々に言う。怨念、怨念、怨念。その人間のせい、人間のせい、人間のせい、償え、償え、償え。――命を以て。
「黙れ」
音吉が重々しく言うと雑言はぴたりとやんだ。
「お前たちのそのねちっこい邪念が〝あれ〟を生み出したのだろうが。身から出た錆とはこのことだ」
「何を言うか」先程の霊狐が言った。「その人間がすべての元凶ではないか」
「おれは〝今〟の話をしている。米津姫たちを死なせてしまったのは確かにここにいる吉崎鈴次に原因があるにしろ、その後に適切な供養ができなかったどころかあのような哀れな怨霊に変じさせてしまったのはお前たちの過失だろうが」
それに反論する霊狐はいなかった。音吉は再び里の奥に視線を移し、軽く舌打ちをした。
「ふたつの里の霊狐たちの悪感情を取り込んで復活した米津姫、か。厄介極まりないな」
「米津姫だけではない」
聞き覚えのある声にそちらを向くと、ボロボロになった音吉の父親が歩いてきていた。
「八千坊と、それからヨジロウ殿も取り込まれておる」
「何てこったい。八千助までか……」
米津姫の気配が近付き、それに追い立てられるようにぞろぞろと二足の霊狐たちの姿が見え始めた。霊狐たちは後退しながら念仏を唱え、米津姫を鎮めようとしているようだった。怪我の度合いに差はあるにしろ、皆それぞれに消耗していた。その中に、鬼怒丸らしき姿があった。鬼怒丸は最前列に立ち、武士たちとともに僧侶たちを護りながら米津姫に立ち向かっていた。すべて合わせると五十人を超えそうな霊狐たちの抵抗をものともせず、前進を続ける米津姫がぬっと視界に入った。
「あれが……?」
俺は唖然として思わず呟いていた。姫と名が付くこともあり、少なくとも人の形をしているものとばかり思い込んでいた。しかし現れたのは、およそ生命体と呼べないような、黒い塊だった。その黒さはエネルギーそのものであり、圧縮された電力のような何かが線香花火のようにパチパチと弾けている。
電力というのは強ち間違った表現ではないようで、弾けたエネルギーが誘導雷のように一人の僧侶に伸び、その僧侶は感電するように体を痙攣させ、悲鳴を上げることもなく倒れた。
「まずいなありゃ」
「あんなのと戦って勝てるのか」
「さてね」
「俺はいないほうが良かったんじゃ?」
「おれの知らないところで刺客に殺されるなんておれが死にきれないよ」
「お前が怨霊になるのは勘弁だな」
黒い塊はこちらに近づくにつれて密度を増しているように思えた。その理由を、なぜだか俺は判る気がした。目を持たないそれが、俺と音吉の二人を見ていた。俺はその視線に米津姫の未練を垣間見た。里の霊狐たちの怨念に後押しされた、深くて強い未練だ。おそらく音吉に対する思慕と、そして結婚を台無しにした俺に対する憎悪。それが俺たちの存在を視認したことで膨らんでいるのだ。
米津姫の怒りの矛先は俺なのだ。音吉もそれを判っているからこそ、俺を護るように前に立ち、構えを取ったのだろう。
僧侶の群れはさながら磁石が反発しあうように押しのけられていた。それでも、足をもつれさせながらも、苦しい顔をしながらも、必死の念仏をやめることはなかった。念仏が一周し、俺は彼らが唱えているのが般若心経であることを知った。やがて後列の僧侶たちが俺たちの存在に気が付き始めた。
「鈴次さんには子供たちの盾になってほしい」
そう言って音吉が前に出ると僧侶たちは左右に分かれていく。まるでもうひとつの磁石のように。米津姫が僧侶を掻き分け、音吉が掻き分け、そうして両者の間に道ができた。一番前にいた鬼怒丸が最後にこちらに気付いた。音吉と鬼怒丸の視線が交差する。
鬼怒丸は、そして霊狐たちは、自分たちが何をすべきであるか、新たな状況において自分たちの役割が何であるか、即座に理解したようだった。空気に鮮度が満ちた。音吉が来た、それだけで彼らは希望を見出だしたのだ。
僧侶たちが陣形を組み直した。武士たちが守りの体勢に入った。鬼怒丸と音吉が肩を並べた。
膨れ上がった黒い塊が使命を自覚したように凝縮し、そして衝撃とともに弾けた。生暖かい憎悪の風が吹き付けた。花開く[[rb:蕾 > つぼみ]]から現れる親指姫のように、黒の花弁から、禍々しい黒色の光を放つ狐が現れた。赤く燃える目をぎらつかせ、みっつに分かれた尾を揺らめかせ、歯を一度噛み鳴らし、きゅるる、と声をくぐもらせた。
場に満ちる般若心経と、それを切り裂く元女狐の甲高い咆吼。そして音吉の踏み出す足音。霊狐の里に渦巻く様々な思念が、こうして衝突した。
[newpage]
[chapter:拾参]
みっともなく泣き崩れる僕を叱咤したのは、意外なことに義父だった。苛立たしげな足音でやってきた義父は、遊んでいる場合か、依頼が溜まっているのだ、早く戻らんか、それだけ言って去っていった。
誰もが皆この歪な世界を知る中で、今更どうやって日常に戻れというのだろう。しかしそれが義父の優しさなのだとあとで気付いた。本物の義父に優しさがあったのかどうか、今でも判らない。優しくない義父しか知らない僕の記憶から生まれたこの世界の義父は、義父らしさを失わずに優しさを表現する方法をこれしか持たないのだ。
本物ではない。しかしそれでも僕は少しだけ救われた気がした。偽りの幻想での妥協だろうと構うものか。僕が納得している。それでいい。
立ち上がった僕はそのまま町を歩いた。蕎麦を食べ、団子を食べ、少しだけ偽りの日常に溶け込んだ。どちらもはっきりとした記憶はなかったけれど、味は鮮明に再現された。もしかしたら外の世界と情報が混淆しているだけかもしれないけれど。野良犬に残った団子をやり、町を外れて河原に向かった。考え事をするにはやはり一人がいい。
「唱え奉る光明真言は大日[[rb:普門 > ふもん]]の[[rb:萬徳 > まんどく]]を二十三字に[[rb:攝 > あつ]]めたり おのれを[[rb:空 > むな]]しゅうして一心に唱え奉れば[[rb:御仏 > みほとけ]]の光明に照らされて[[rb:三妄 > まよい]]の[[rb:霧 > きり]]おのづから[[rb:霽 > は]]れ[[rb:浄心 > じょうしん]]の[[rb:玉 > たま]][[rb:明 > あきら]]かにして[[rb:眞如 > しんにょ]]の月まどかならん――」
オン・アボキャ・ベイロシャナウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
オン・アボキャ・ベイロシャナウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
オン・アボキャ・ベイロシャナウ・マカボダラ・マニ・ハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン
僕の唱えた光明真言は川のせせらぎとよく調和した。それは仏と同化した僕が自然と溶け合い[[rb:濁世 > じょくせ]]を見下ろすような[[rb:感得 > かんとく]]であり、僕の精神を研ぎ澄まし、陰陽師としての力を高める日課だった。僕は閉眼合掌して川の音に耳を澄まし、真理を得ようとした。僕が進むべき、真の道を。この世界の僕と外の世界の僕、そしてお腹の子が進むべき未来について。
外の世界の僕、つまりふたつに分かれたうちの人間の部分には前世の記憶がないのだろうか? 僕抜きで情緒を育んできたと、確か眷属霊狐はそう言っていた。とすると、観堂丸の生まれ変わりは僕の生まれ変わりの〝肉体〟に会っても仕方がないのではないだろうか。観堂丸の生まれ変わりにとっては、〝この僕だけがいればそれでいい〟のではないのだろうか。どうにかして僕だけが外の世界の僕と同化することなく独立して存在できれば。……そう、例えば霊狐たちのように実体を持たない存在となって。
僕は首を振った。恐ろしい考えを振り払った。観堂丸の魂は、――はっきりとしたことは判らないけれど、生まれた時から生まれ変わりの肉体とともにあったはずだ。であるならば、僕はやはり記憶と情緒だけを欠く僕の生まれ変わりと同化し、観堂丸と巡り合わなければならない。
或いは、実現可能かどうかは置いておいて、記憶だけを送るというのはどうだろうか。それならば肉体が持つ人間性を損なわずに済む。記憶が増えることで多少の変化はあるだろうけれど、僕という人間性が混じることにはならない。
いいや、そんなことは有り得ない。記憶と人間性を切り離して考えることなどできない。過去の出来事なしに僕の人間性は培われなかったはずだ。記憶を付与するということは経験を付与することと同義であり、人間性に影響を与えないはずはない。むしろ、僕という記憶を得ることで、外の僕は完全なる人間性を得ると、そう考えることもできる。……これは外の僕の人間性を損なわせることに対する都合のいい言い訳かもしれないけれど。
観堂丸は僕にふたつの矛盾を突き付けた。〝お前がどうしたいか、大事なのはそれだけだ〟と言っておきながら、僕が外に出たくないと言ったらそれを咎めた。
この世界の人々は僕から生まれ、僕の願望を叶えるために存在するのだ。皆が僕を外に出したがるということは、それはつまり僕の願望なのだ。僕自身が納得しきれない、噛み合わない本心。この世界でこの子を育てていきたいという願望と、外の世界で観堂丸の生まれ変わりに会い、改めてやり直したいという相反する願望。しかし、その解決方法は驚くほど簡単に浮かんだ。
――この子とともに出ればいいのだ。
果たしてそんなことができるのだろうか? しかしやらねばならないのだ。何が起きるかとか、何が正しいかとか、そんなことはあとで考えればいい。この世界を壊してでも、偽の眷属霊狐を殺してでも、僕は外に出る。
とはいえ、この世界は元は混沌だとあの霊狐は言っていた。僕としても、原初の記憶まで遡ればそうであったと思える部分がある。例え世界が壊れても、元の混沌に戻るだけに違いなく、そこには依然としてあの霊狐が管理者として存在しているのだ。もっと根本を覆す方法を取らねばならない。この世界を壊すのではなく、ふたつの世界を繋げるための方法を。
そう、それはあの霊狐が自ら行動を起こして止めるくらい危惧していることなのだ。世界が繋がっては困るのだ。その方法は、まだ思い付かない。
「弥彦よ、ここにいたのか」
川と同化していた僕はその声に驚いて跳ねそうになった。
「いい加減に戻ってこんか。依頼主を待たせるな」
それは義父だった。義父がいつもの不機嫌な顔で僕を呼びに来たのだ。
「はい」
僕は素直に応じることにした。どうせ案は思い付かない。しばらく日課に浸ってみるのもいいかもしれない。おそらく僕が死んだところで混沌に戻るだけなのだろうし。
「父上」僕は前を歩く義父に尋ねた。「今日の依頼はどういったものなのですか」
義父は前を向いたまま答えた。「狐落としだ」
「狐落とし」
何かの冗談かと思った。さもなければ嫌味か皮肉かと。もしも観堂丸に言われたのであればその裏に何か意図があるとすぐに気付けたはずだけれど、相手は義父である。気付くのが遅れた。
「おさらいをするぞ。狐落としとはいったいどういうものなのだろうか?」
「それは……読んで字の如く、憑いた狐を祓い落とすこと」
「狐が憑かない狐付きもある」
「それは単なる呪詛で、呪詛を返すなり祓うなりします」
「狐が憑いていると思い込んでいるだけの依頼主も中にはいよう。その場合は如何にする?」
「思い込みを解くことで狐を落としたと見なします」
「そうだ。実際に憑いていなかったとしても、依頼主に狐が落ちたという気にさせることで、依頼主が発する気の流れがよくなるわけだ」
義父が何を言わんとしているか、僕にはもう判っていた。義父はそれで役目を終えたと言わんばかりに、僕が道場に着くなり気配を消してしまった。あとは僕が思うようにやれということだ。――勘付かれないように、飽くまでも日々の依頼をこなすように、粛々と。
狐落としとはいったいどういうものなのだろうか? という義父の初歩的な問いは、日々のおさらいなどではなかった。それは僕の存在そのものに対する問い掛けだ。
外の世界で受けた狐落としにより産まれたのが僕だ。狐落としにより狐が落ちる。これは普通の流れといえるけれど、普通の場合は狐はその人から切り離される。野に返されるか、或いは殺されるかしかない。
しかし僕は切り離されたあと、その人の頭の中に封じ込められたのだ。これはどう考えても普通ではない。こうなると、外の僕が受けた狐落としは呪詛落としなどではなく、〝狐落としという名の呪詛〟と見なすことができる。
そう、つまり僕は受けた狐落としを祓おうというのだ。――勘付かれないように、飽くまでも日々の依頼をこなすように、粛々と。そして僕は準備を始める。
[[rb:三類形 > さんるいぎょう]]を作るのには古来より小麦の練り物を使用した。現在(もちろん外の世界の話でなく僕が弥彦として実際に生きていた頃のことだ)では紙でも何でもいいみたいだけれど、この家ではずっと小麦を用いてきた。陰陽師を名乗りながら、義父は古くからの方式に拘る節があったのだ。だからこそ密教色の強い陰陽術を主張し、宮廷から追い出される羽目になったのだろう。数珠だって、かの有名な安倍晴明だって使わなかったというのに。
三類形を作る作業はそれなりに好きだった。少なくとも護摩木を作るよりは。小麦を挽き、練り、――手打ちうどん――また記憶の混淆が起こった――そうして薄く延ばし、型抜きをし、[[rb:蘖 > ひこばえ]]で染め、[[rb:天狐 > てんこ]]と[[rb:地狐 > ちこ]]と[[rb:人狐 > にんこ]]を七組、つまり七枚ずつ作るのだ。天狐とは[[rb:鳶 > とび]]、地狐とはそのまま狐、人狐とは怨家を表す。至極簡潔にいうと、それらを加持しながら焼き、最後に残った灰を依頼者が飲むのが[[rb:六字経法 > ろくじきょうほう]]の次第だ。
僕は長らくこの六字経法を能動的呪詛の法として用いてきた。けれど、時代を遡れば六字経法は狐落とし、呪詛祓いを目的に広く修されてきたのだ。そしてそれを修するには七日を要し、その七日目に効果が纏めて発揮される。今回、僕が密かに狐落としを行うにあたり、これほど適した法はないといえる。
ところで、頭の中の世界、言わば精神世界において、神仏の加護はあるのだろうか? そんなことがふと頭をよぎったが、それは僕が仏僧でなく陰陽師であり、悟りのさの字にも理解が及んでいないからだ。僕のように表面の意味だけを知っていることと真理を知っていることの間には天と地の差がある。
いつか観堂丸は言った。頭の中の出来事とはいえ仏はお見通しだ、ということを。僕という人間はただの[[rb:仮和合 > けわごう]]に過ぎない。頭の中の独立した世界だろうが何だろうが、神仏は等しく摂理の中に存在するはずだ。
それに、この世界において[[rb:神助 > しんじょ]]を得ることは己の内なる力を開放する手段でもあるのだ。この世界は僕の世界。その気になれば僕は何でもできる。でも、即座に異なる色の狩衣に着替えることはできても、世界そのものに影響を与えるような現象を引き起こすには、僕が人として生まれ育ってきた過程で培った常識が邪魔をする。その気になれば何でもできるというのは、その気になれなければ何にもできないということだ。その〝その気〟を引き出すための〝切っ掛け〟が必要なのだ。それにはやはり僕が慣れ親しんだ儀式が相応しい。
天狐、地狐はともかく、人の形に切り抜いた人狐には怨敵の名を書かなければならない。僕は筆に墨を付けたまま固まっていた。何と名を綴ればよいのだろう?
僕を封じたのは稲荷の力だ。では稲荷神? 狐落としを行った宮司? それとも直接僕に働きかけた眷属霊狐?
結局、僕は稲荷眷属霊狐と書いた。
むろん正式な名など知るはずもないし、そもそも名を持たないのかもしれないけれど、呪詛を行うにあたり、必ずしも実名でなければならないわけではない。通称でもいいし、最悪場所だけでもよい。この場合は依頼者の強い念がなければ成功しにくいけれど、今回に限って言えば、僕は相手の顔も知っているし、所在も知っている。そして通称とは言わないまでも、稲荷眷属霊狐という呼称は僕の対峙する相手と見事に結び付いている。条件は好ましい。
三類形は二十一枚焼くことになるのだけれど、これは一日分だ。七日続けるとなると、実に百四十七枚も用意しなければならない。嵩張るし疲れるし、これまでは毎日一日分ずつ作ってきたのだけれど、今回は特別だ。もし初日に相手にばれてしまった場合を考えると、その日のうちに七日分を焼いて強引に儀式を終わりまで持っていくために、いっぺんに作っておくのが望ましかった。悲鳴を上げる腕を叱咤しながら、僕はひたすら小麦を練った。
百四十七枚を用意するのには夜までかかった。四十九の鳶、四十九の狐、四十九の[[rb:人形 > ひとがた]]が燭台の明かりの下で勢ぞろいする光景はなかなかに気味が悪かった。
腕が疲れていようが眠かろうが、休んではならない。妙な焦燥感が僕を急き立てたのだ。僕はこのまま修法に入らなければならない。遅れれば、何か取り返しのつかない事態が起きる。そんな確信じみた予感があったのだ。
三類形を容れる器を取りに物置に足を踏み入れた時、僕はその焦燥感の発生源を知る。
[newpage]
[chapter:十四]
鋭くも鈍い衝撃が走った。軟質の重量物同士が激しくぶつかり合うような、静かで苛烈な衝突だった。音吉の青い気と米津姫の黒い気がコロナのように揺らめいた。そのうちの黒い気のほうを、鬼怒丸をはじめとした武士が刀で切り離した。端から弱らせていくという寸法なのかもしれないが、切られたそばからすぐに再生していて、あまり効果があるようには見えなかった。それどころか近づきすぎた武士が一人、復活した黒い気に刺し貫かれていた。
「出すぎるな!」
音吉が檄を飛ばす。その声は苦しげだった。かざした両手が震えていた。じりじりと押されていた。霊的代謝が良いという仙狸庵のうどんで幾らか回復したとはいえ、やはり本調子ではないのだ。歯痒かった。苦しむ音吉をただ見ているしかできない自分が、酷く歯痒かった。俺に力があれば――。
ぎゃーてぃーぎゃーてぃー
はーらーぎゃーてぃー
はらそーぎゃーてぃー
ぼーじーそわーかー
――はんにゃーしんぎょう――
般若心経がまた一周し、シャン、と一斉に錫杖が打ち鳴らされた。その音は酷く神秘的で、俺の心の中のどこかの部分が驚いて跳ねた。
僧侶たちは錫杖の先を米津姫に向け、また初めから般若心経を唱え始める。
仏説まーかー般若ーはーらーみーたーしんぎょうー
心のどこかの部分が落ち着かなかった。一字一句が俺を急き立てた。それは米津姫に向けられているようで、実は俺に向けられている、そんな錯覚にまで陥った。
音吉が押し負けて跳ね飛ばされるのを見て、駆け付けたがっている足に応えられないのが憎かった。鬼怒丸から渡された刀で必死に応戦する音吉の助けになれない自分が憎かった。
要所要所で[[rb:鈴 > りん]]の代わりに錫杖が鳴らされるたび、俺の中に罪の意識が蓄積していった。青と黒の気が織りなす激流の中で、錫杖の音は独立した周波数となって確実に俺の耳に届き、責め立てた。
――何をしている、立っているだけか、その刀は飾りか、一番の罪人だろう、体を張れ――僧侶たちは、いや、霊狐たちは皆、俺を責めているのだ。実際に背後でも俺の責が囁かれていた。俺を捧げれば米津姫は鎮まるのではないか、とも。しかしそれを実行する気概はないようだった。
米津姫は大きく吼え、音吉の纏う青い光を噛み千切った。そしてそれを咥え、醜く咀嚼し、取り込み、黒い気は更に強大になった。
やっべえ、と音吉が微かに呟いた。音吉の力を取り込んだということは、拮抗気味だった力関係が僅かでも傾いてしまったことを意味する。
思わず足を踏み出そうとし、音吉に目で止められた。来ちゃいけない。音吉の目は強く言っていた。
首に噛み付こうとする米津姫の牙を、音吉はすんでのところで躱した。掛け声とともに鬼怒丸が一太刀浴びせ、起き上がりざまに音吉が一太刀追撃するも、高密度の黒い塊は軽く波打っただけだった。
米津姫は鬼怒丸を見ていなかった。それは米津姫にとって鬼怒丸が取るに足らない存在だからというのもあるのだろうが、そもそも米津姫はこちらしか見ていないのだ。俺と音吉の二人しか。米津姫の狙いは確かに俺だ。しかし、音吉を取り込むこともまた、米津姫の願望なのだ。米津姫は音吉とひとつになりたがっている。
だから黒い気が鬼怒丸の肩を刀ごと貫いたのも、たまたま誘導雷が弾けただけの不運な出来事なのだ。
誘導雷は音吉にも当たっていたが、音吉のほうは身に纏う青い気が影響を防いでいた。音吉はその青い気で米津姫を包み、押さえ付けようと力を振り絞っていた。米津姫はまったく意に介さず、三又の尾を広げ、音吉よりも大きな気で逆に包み込もうとした。音吉は即座に後ろに跳躍し、腰を落とし、広がっていた気を凝縮させ、鋭い刺突を繰り出した。
それは確かに有効打となった。米津姫は大きく後退した。しかし、放散して武士たちに切り裂かれた黒い気はやはり見る間に復活し、風穴の開いた胴も何事もなく塞がり、黒色の狐は平気な顔をして立ち上がる。赤い眼光を吊り上げ、愉快そうに笑っていた。音吉が消耗していくたび、もうすぐ自分のものになるのだという確信を得ていくように。
このままでは音吉は負けてしまう。俺は自分の持つ木刀に力を込めた。そして一歩を踏み出そうとして、――踏み出せなかった。すぐ側で、肩から血を流す鬼怒丸が俺に働きかけていたのだ。
「あなたを庇って音吉がやられてしまいますよ」
鬼怒丸は付近の武士に替えの刀を受け取り、片腕で再び向かっていった。俺は喋ることすら許されなかった。足を止め、両手で木刀を構え、ただ見ているだけしか。
むーけーげーこー むーうーくーふー
おんりーいっさいてんどーむーそう
何の力も持たない無様な俺を、般若心経は責め続けた。シャン、と錫杖が鳴る。俺の意識は無力の沼に沈み込む。
音吉の狩衣は焦げてボロボロになっている。――向かわなければならない。
音吉が組み敷かれた――音吉を助けなければならない。
鬼怒丸の怒声が悲鳴に変わる――助けることができない。
音吉が感電する――助けてはならない。
俺に力があれば。――覆いがなければ。腎臓の辺りが熱くなった。般若心経がついに俺の内臓を焼き始めたのだ。般若心経は再び一周し、色即是空、空即是色と唱えているのが聞こえた。
色即是空、色は即ち是れ[[rb:空 > くう]]なり。[[rb:空 > くう]]とは[[rb:仮和合 > けわごう]]。あらゆる存在には自性がなく、すべて無自性である。〝それ〟はその時たまたま〝その状態〟として存在しているだけで、確固たる〝それ〟など存在し得ない。吉崎鈴次という存在は、たまたま吉崎鈴次という形に集まっているだけで、俺という人間はただの水と炭素とその他諸々の集合体に過ぎない。それが色即是空。物事の本質は遍く〝空〟なのだ。
だが、確固たる存在が存在しないからこそ、世界にはあらゆる姿の存在が存在し得る可能性が生まれるのだ。それが、空即是色。空は即ち是れ色なり。
動悸がした。米津姫が音吉の右腕に噛み付いたからではない。……なぜ俺はこんなことを知っている? 確かに量子力学を齧るにあたって仏教思想に行き当たったことはあるが、仏教という言葉を見ただけでアレルギーを起こしてUターンしたはずだ。色即是空と空即是色という言葉の意味は別の機会に調べたものの、到底理解できるものではなかったはずだ。
むーむーみょーやく むーむーみょーじん
ないしーむーろーしーやくむーろーしーじん
「……[[rb:無苦集滅道 > むくしゅうめつどう]] [[rb:無智亦無得 > むちやくむとく]]」
それの続きが口を衝いて出た。心臓が早鐘を打っていた。なぜ俺は般若心経を知っている? 腎臓が熱い。おかしい。[[rb:人黄 > じんおう]]はそんなところにないはずだ。……待て、人黄って何だ?
そうか、と俺は気が付いた。音吉と交わったときに一瞬だけ復活した記憶に含まれていたのだ。これらの記憶は、俺の中にいる〝そいつ〟が有している記憶なのだ。音吉を助けるため、外に出ようとしているのだ。
しかし不十分だった。思い出すには一歩足りない。覆いの力はそれほどまでに強いものだった。何か――こちらの世界とあちらの世界を繋ぐものがあれば――。腎臓の熱さが存在を主張した。
その熱は腎臓が発しているのではなかった。耐熱性に優れたアラミド繊維を貫通し、外部から与えられる熱だった。俺はそこに手を遣る。
そこには、ダキニのシュジ――[[rb:荼枳尼 > ダキニ]]の[[rb:種字 > しゅじ]]が描かれた硬式野球ボールがあった。
[newpage]
[chapter:拾肆]
白い珠だった。歪みがなく、ほぼ完全な球体だ。すべて真っ白ではなく、赤い縫い目のような模様が表面にあり、それとは別に荼枳尼を表す種字のひとつ、[[rb:हं > カン]]が描かれていて、それが光っていたのだ。僕はその珠に見覚えがあった。それは、――だめだ、思い出そうとしてはいけない。今思い出そうとすれば勘付かれる。――まだ世界は接続されてはならない。僕は珠を懐に仕舞った。
道場に行くと、護摩壇はすでに整っていた。六字明王の図が掛けられ、壇上には弓矢が配され、香や灑水が用意され、護摩木が積み上げられていた。誰が、いつの間に? もしかすると僕の願いがそうさせた? いいや、そんな働き掛けをした覚えはない。僕はそこに義父の気配を感じずにはいられなかった。僕は皆の後押しを受けている。
左手には百八の本式数珠、右手には独鈷。僕はしめやかに儀式を始めた。
[newpage]
[chapter:十五]
米津姫が立ち止まった。血だらけの音吉が振り返った。霊狐たちの視線が俺に集中した。俺は何かに導かれるように左手で片合掌をし、般若心経を[[rb:誦 > よ]]み始めた。
「[[rb:究竟涅槃 > くうぎょうねはん]] [[rb:三世諸仏 > さんぜしょぶつ]] [[rb:依般若波羅蜜多故 > えはんにゃはらみったこ]]」
俺の意識は深い水底に沈みつつも、高みから[[rb:濁世 > じょくせ]]を[[rb:俯瞰 > ふかん]]しているような気分だった。周囲の思念というものが、研ぎ澄まされた精神と調和した。米津姫は酷く居心地が悪そうだった。音吉は俺の豹変に驚きながらも、それを受け入れていた。他の霊狐たちは、俺に対する嫌忌の念を更に強めていた。それはもともと霊狐たちが持っていた思念であるが、直接的な思念ではない。しかし深層意識といえどそれらは場の力に影響を与え、そしてそれが米津姫の力の供給源となってしまっているのだ。音吉がいくら戦ったところで、その傷が周囲の霊狐たちにより癒されては意味がないのだ。今ならそれが理解できる。俺が米津姫を轢き殺したことに対する邪念。それを取り払わないことにはいくら皆が般若心経を唱えたところで鎮まるはずがない。俺は自分の役割を認識した。
俺が率いるのだ。俺が僧侶たちの念の方向性を示すのだ。俺は一歩前に出て声量を上げた。足はいつの間にか動くようになっていた。膝をついた鬼怒丸が呆気に取られていた。
「[[rb:得阿耨多羅三藐三菩提 > とくあのくたらさんみゃくさんぼだい]] [[rb:故知般若波羅蜜多 > こちはんにゃはらみった]]」
怨嗟の向かう先が俺であるとはいえ、僧侶及び戦線離脱した武士たちによる般若心経は米津姫を鎮める気持ちを籠めて唱えられているものだ。節によりムラはあるが、それは確かに米津姫の力を抑える効果を発揮していた。
「[[rb:是大神呪 > ぜだいじんしゅ]] [[rb:是大明呪 > ぜだいみょうしゅ]] [[rb:是無上呪 > ぜむじょうしゅ]] [[rb:是無等等呪 > ぜむとうどうしゅ]]」
米津姫が俺への不快感を露わにした。般若心経の中でも特に終盤の真言の部分を嫌っているようだ。そして自分に対する純粋な退魔の力を感じたせいなのだろう。般若心経は死者のためにあるものではないとはいえ、未練を残せし者に対し、道理を悟らせ、成仏へと促すものであることは確かだ。
「[[rb:羯諦羯諦 > ぎゃていぎゃてい]] [[rb:波羅羯諦 > はらぎゃてい]] [[rb:波羅僧羯諦 > はらそぎゃてい]] [[rb:菩提薩婆訶 > ぼじそわか]]」
音吉の制止を振り切り、米津姫が俺に向かってきた。
「――般若心経」
俺は導かれるままに刀の先を米津姫に向ける。刀は輝きを増し、淡い光が煙のように立ち上っていた。米津姫は赤い目を見開いて急ブレーキをかけ、その場でたじろいだ。そうして上空から叩きつけられる音吉の斬撃を後方に跳躍して躱す。
「音吉」俺は音吉の背に声を掛けた。「[[rb:理趣経 > りしゅきょう]]を皆に[[rb:誦 > よ]]ませてくれ」
「理趣経?」音吉は少し考える素振りを見せた。「人が好いね。救うつもりなんだ」
「元はといえば俺のせいなんだ。それが道理というものだ」
「残念なことに[[rb:暗誦 > あんじゅ]]できるやつがいないし、意味を知らずに[[rb:誦 > よ]]んだところで効果は見込めない。おれが誦む必要がある。だけどおれにしたって記憶が残っているかどうか――鬼怒丸」
「承知」
四足になった鬼怒丸は武士たちに指示を伝え、大回りをして里の奥に疾走していった。おそらく自ら経典を取りに行ったのだろう。
やがて鬼怒丸の指示なのだろう、陣形が変わった。米津姫を挟み込む形ではなく、扇形で迎え撃つ形だ。自分の代わりに武士を集中させたのかもしれない。
「いけるか音吉?」
「まだ何とか。鈴次さんは?」
「記憶が足りない」
「分かった、何とかする」
「死ぬなよ」
「鈴次さんもね」
そうして音吉は再び米津姫に向かい、俺は般若心経に戻った。背後から放たれる僧侶数十人による般若心経は、まるでトランペットスピーカーの前にいるような重厚な合唱だった。錫杖は、俺を越えて米津姫一点に向けられていた。
それで威力が集中したのかもしれない、米津姫の抵抗が激しくなった。妖気に頼るのではなく、より活動的に、より野性的に動くようになり、武士たちどころか音吉までをも翻弄した。
[[rb:理趣経 > りしゅきょう]]というのは数多くある密教経典のうちのひとつで、特に真言宗と馴染みが深く、堅固な[[rb:菩提心 > ぼだいしん]]により必ず真理を悟り、膨大な利益をもたらす道筋を述べている。
俺自身が般若心経を[[rb:誦 > とな]]えて解ったが、米津姫はその強すぎる未練がそのまま成仏への反発力となっているのだ。般若心経の威力は確かなものであるが、急ぎ足では悟ろうとする心とともに鬱憤が溜まってしまうのだろう。――その鬱憤が音吉の右足に噛み付いた。血が噴き出し、音吉は機動力を失った。
これでは真の意味で米津姫を救うことができない。理趣経はその点、般若心経よりも遥かにゆっくりと進行する。そして、――音吉への執拗な噛み付き――推測でしかないが、米津姫は音吉に惚れ込んでいたのだろう。それこそ俺に対する怨念を上回るほど。理趣経には男女の交わりをはじめとする欲求の肯定(むろん全肯定ではない)が含まれている。理趣経では欲を捨てろとは言っておらず、逆に欲を持てと説かれているが、それは目先の個人的な欲のことではなく〝[[rb:大欲 > たいよく]]〟のことだ。些事に拘らず、自分だけの欲でなく世界全体・宇宙全体の欲を完成させることを説いている。米津姫の未練を否定せず順を追って諭すには、この経を措いて他に思い付かない。
笑いが出た。――音吉を助けに入った武士たちが次々蹴散らされている。まったく、何の記憶なのだろう。俺の中にいるのが誰かは知らんが、早いところすべてを思い出してくれないか。早くしないと、――米津姫の全身の気が夥しい数の蛇へと変じ、音吉の防壁を容易く噛み裂いた。――早くしないと、戦う術を思い出さないまま戦う羽目になってしまうじゃないか。
俺は音吉に巻き付く蛇どもを一閃のうちに両断した。
[newpage]
[chapter:拾伍]
ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン
ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン
ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウン・タラタ・カン・マン
数珠を順繰りに送りながら、金剛盤の上で[[rb:三類形 > さんるいぎょう]]を掻き混ぜる。数珠が一周し、不動明王[[rb:慈救咒 > じくじゅ]]を百八回誦し終えた。掻き混ぜる手は止めず、続いて[[rb:大威徳 > だいいとく]]明王の真言に移る。
オン・シュチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ
オン・シュチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ
オン・シュチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ……
麺でできた三類形は掻き混ぜる過程で壊れてしまう場合がある。焼く順番は天地人と決まっているため、壊れたとしても判別がつく程度でなければならず、そのため混ぜる作業は慎重に行わなければならない。
僕は同時に別のことをするのが苦手だった。例えば右手と左手で別の字を書くような。だから僕はこのように真言を唱えながら数珠を操り、三類形を掻き混ぜ、必要に応じて護摩木を補充するという複雑な並行作業を身に付けるのにかなりの時間を要した。今だって決して慣れたとはいえず、真言を間違えないよう、数珠を回し忘れないよう、右手の動きが疎かにならないよう、常に集中力を払っていなければならない。
百八回(数え間違えていなければ)唱え終わった。僕は絶えず動かしていた右手を止め、独鈷を取り上げ、金剛盤に[[rb:降三世 > ごうざんぜ]]明王の加護を願う。
オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ
オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ
オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・ハッタ……
唱える回数は三類形の数と同じ二十一回で、数珠にはそれと判るよう二十一個の主玉が終わったところに大きさの違う四天玉があるのだけれど、初めのころ数珠の起点を間違えて回数が判らなくなったことがあった。苦い思い出だ。
さあ、いよいよだ。僕は独鈷を置き、三類形を焼くため火箸を取ろうとして、――火箸がどこにもないことに気が付いた。おや、と思って左右を回視する。右の脇机にも、左の脇机にも、もちろん護摩壇にもなく、――〝何か〟と目があった。
「……!」
燃え盛る炉火に顔が浮かんでいた。火と同調しながら、その顔はゆらゆらと揺らめいて、やがて輪郭を得ていった。
「お主、痛い目を見ねば解らぬのか」
それはまさしくあの眷属霊狐だった。僕は九字を切ろうと独鈷を取り上げようとして、――独鈷がないことに気が付いた。ないのはそれだけでなく、護摩木もなかった。脇机もなかった。六字明王の掛け図が消えていた。道場が、消え始めていた。
異常な事態に僕は酷く狼狽した。距離も取らずに禁刀を抜こうとして、はたき落とされた。眷属霊狐の右手から伸びる[[rb:笏 > しゃく]]が、僕の手を打ち付けたのだ。
「一度混沌に戻してくれよう。頭を冷やすがよい」
そして左手に握られた大幣が、僕に伸ばされ――。
鋭いものが閃き、葉擦れのような音を立てて幣が落ちた。幣串だけとなった棒を手に、霊狐は鋭く東を見た。
壁のなくなった道場の外側に、刀を構えた観堂丸が立っていた。道場の周りは宇宙に囲まれていた。観堂丸は次の瞬間には僕の前に煙のように現れ、炉火ごと眷属霊狐を斬り付けた。憑き物が落ちるように霊狐は炉火から分離した。
「水臭いぞ弥彦」揺らめく観堂丸は言った。「おれを呼ばんか」
「でも、こうして来てくれた」
炎を割り、迫る霊狐を観堂丸が止める。刀が打ち合うように、金属音と火花が散った。笏と木刀が交差し、そうして二人は同時に実体化した。
「その神木刀……この世界の物ではないな」
「外の世界も慌ただしいのだろうよ」
そうして観堂丸は力を籠め、笏を両断した。音もなく眷属霊狐は後方に退避する。
「[[rb:修法 > しゅうほう]]を続けろ。おれが[[rb:地狐 > ちこ]]の役を担おう」
「でも、もう何も残っていない」
道場はもう僕たちの周囲の床と護摩壇以外に何もなかった。護摩木もなく、三類形も消えてしまった。儀式は中断されたのだ。
「己の内に念じ上げるのだ。[[rb:観想 > かんそう]]せよ。さすれば〝それ〟は〝そこ〟にある」
そう言い残して観堂丸は眷属霊狐に向かった。眷属霊狐はどこかから取り出した大きな玉串を振り回して観堂丸を跳ね除けた。
観想せよ。さすればそれはそこにある。そうだ、この世界は僕の世界。僕はこの世界で何でもできる。あの霊狐の干渉を上回る力で念じさえすれば。
そのためには疑念が大敵だ。疑わず、確信する。僕があると念じれば、それは必ずあるのだ。
僕はそこにあるのが当然のように手を伸ばした。確かな金属の感触が僕に応えた。そして火箸は三類形の気配を掴み取る。それを切っ掛けとして金剛盤が姿を取り戻す。脇机が復活する。護摩木が再び積み上がる。火は衰えを見せない。[[rb:天狐 > てんこ]]七枚、今ここに。
オン・キャチ・キャチュウ・キャビチ・カンジュカンジュ・タチバチ・ソワカ
オン・キャチ・キャチュウ・キャビチ・カンジュカンジュ・タチバチ・ソワカ
オン・キャチ・キャチュウ・キャビチ・カンジュカンジュ・タチバチ・ソワカ……
燃え盛る天狐たちが羽ばたいた。炎の中心から、天狐、即ち[[rb:鳶 > とび]]が力強く翔び立った。次々と火が移り、次々と声を上げ――さながら[[rb:鬨 > とき]]の声のように――霊狐に向かって飛んでいった。
鳶たちはそのまま霊狐を突き破らんかの勢いで、――僕は強く念じた。この法は怨敵を傷付けるために有らず――鳶たちは速度を緩め、観堂丸の周りで止まった。
僕は続けざまに地狐を焼べた。[[rb:六字神呪経 > ろくじしんじゅきょう]]を繰り返すたび、地狐を焼べるたび、観堂丸に力が満ちていくのが判った。観堂丸は大きな玉串をも両断した。刀は輝きを増していた。剣筋は空間に大きな切れ目を入れた。その力はまさしく稲荷の力だった。
「ええい忌まわしい!」
霊狐は玉串を放り投げる。しかしそれは捨てたのではなく、ふたつに分かれた玉串はそのまま葉を散らし、葉先がそれぞれ観堂丸に向いた。小魚の群れのように、無数の榊の葉が観堂丸に打ち付けた。
観堂丸は剣先で自身の前に大きく種字[[rb:हं > カン]]を書き、念を込める。葉の嵐は防壁にぶつかり消えていった。
しかし眷属霊狐は次の瞬間には観堂丸に迫っていた。枝だけとなった榊を刀のように振り下ろし、荼枳尼の種字を容易く切り裂いた。斬撃は観堂丸にも及び、その重い一撃を観堂丸は辛うじて刀で受けたものの、ふたつ目の玉串を避けることはできなかった。
その斬撃を防いだのは天狐たちだった。七羽の鳶が矢のように打ち付け、玉串の枝を打ち砕く。
「ふん、姑息な」鼻を鳴らし、霊狐は一歩下がる。「しかしわしを見くびってくれるなよ」そう言って眷属霊狐は檜扇を広げ、大きく円を描く。ざわざわと音を立て、霊狐の周りを林のように榊の枝が取り囲んだ。
「弥彦よ、ひとつ教えてやろう。外の世界、つまり〝現代〟に六字明王の[[rb:神威 > しんい]]は存在せぬ。この意味を、お主は理解できよう?」
集中が途切れたことを示すように炉火の勢いが弱まる。にやりと霊狐がほくそ笑むのが判った。
「そうらそらそら!」
呪力が弱まったのを見計らい、霊狐を取り囲む榊が葉を飛ばした。観堂丸は胆力を練り、身の回りに青い気を纏い、それを防壁とした。しかし葉の刃はそれを切り裂き、切り開き、切り刻み、着実に観堂丸を追い詰めていった。
「構うな弥彦!」観堂丸が怒鳴った。「忘れたか、ここはお前の世界だ」
その一言で僕は自分の存在を思い出す。疑念は大敵だ。観想せよ、さすればそれはそこにある――護摩木を追加し、炉火は再び勢いを取り戻した。僕はすぐさま自分が自身に吸い込まれるような感得を覚えた。僕はもはや火箸を用いなかった。僕の念に感応し、手の動きに連動し、三類形は手も触れずに浮遊して自ずから火に飛び込んだ。
さながら打ち上げ花火のようだった。七組七様の光が空高く舞い上がった。天狐は無数の鳶となって美しい弧を描き、榊の嵐を打ち払う。地狐の力は観堂丸を更に強く輝かせ、榊の葉を焼き尽くす。人狐はそのまま僕の呪念の塊となり、眷属霊狐を取り囲んだ。その輝きは悪鬼の呪いを祓除し、僕を本来の僕にするものなのだ。
「悪鬼?」突如、世界の雰囲気が変わった。「貴様、今、わしのことを悪鬼と称したか」宇宙がその気配に恐れ慄いていた。「このわしを悪鬼扱いしおったか!」
眷属霊狐の怒声はそのまま衝撃波となった。輝く天狐も、観堂丸の地狐の力も、人狐の念塊も、霊狐の鬼気迫る気迫を前に、その姿を保てず霧散していった。
憎悪にも似た気が霊狐を取り巻いた。この世界を形作っていた〝力〟というものがすべてそこに集約されていた。
その力は余りに大きすぎた。それこそ、一目見ただけで戦意が殺がれるほどに。空が霊狐に味方した。大地が霊狐に味方した。宇宙が霊狐のものとなった。すべてが霊狐の力の源となった。僕が発した呪力さえも。
「嘆かわしい。お主等をずっと守ってきたこのわしを、こともあろうに悪鬼呼ばわりとはの。お主がそう望むのならば、わしはお主に牙を剥いてみせよう」
霊狐の気が僕に迫る。霊狐の一振りが蛇となり、僕を庇おうとした観堂丸の首に噛み付いた。観堂丸から鮮血が噴き出した。手から刀が離れて消えた。
観堂丸、と駆け寄ろうとして、身動きができなかった。僕は既に霊狐の気に呑まれていた。もがく観堂丸を、僕は見ているしかできなかった。
「忘れるな、弥彦」虫の鳴くような声で観堂丸は囁いた。「それでもこれはお前の世界」
それだけ言って、観堂丸は力を失い、さらさらと混沌に溶けていった。
[newpage]
[chapter:十六]
我武者羅に刀を振るった。蛇たちを切り刻み、米津姫の表層を切り刻み、反撃の暇を与えないことを心掛けた。疲弊した音吉を護れるのは、もはや俺しかいないのだ。
むろん、猪どころかカミソリに負けるような人間に敵う相手ではない。蛇は無尽蔵に湧いて出て木刀に絡み付き、米津姫そのものも俺の首に向かってきた。振り回す木刀が米津姫の顔面に当たったのは、本当に偶然だった。鳴き声を上げて米津姫は地面に落ちる。
俺は音吉に肩を貸し、米津姫と距離を取った。俺たちが後ずさるのに合わせて僧侶たちも同じだけ後ろに下がる。
しかしイレギュラーが起きる。下がらなかった狐が一人だけいたのだ。それは俺たちが里に来た時からいた、戦う術を持たない四足の老狐だった。その老狐は米津姫でなく俺を見ていた。何か信じがたいものを目にして、その正体を明らかにしようと凝視するように。
ご老体、と血相を変えた霊狐たちが連れ戻そうと駆け寄ってくるが、
「[[rb:六字尊 > ろくじそん]]の力を感じるぞ」
老狐は俺を見てそう言ったのだ。意味が解らなかった。そうしている間にも蛇は迫った。顔面を打たれた米津姫の怒りに呼応するようにその数を増して。
「皆、あの者には[[rb:六字尊 > ろくじそん]]の加護がある」老狐は興奮して言った。「それだけではない、荼枳尼の加護もじゃ!」
「六字尊とは六字明王のことですか」尋ねる声がした。
「そうじゃ、儂の曽祖父は六字尊の眷属であったが故に判る」
膝をつきながらも戦線に戻る音吉とともに、俺は蛇たちを死に物狂いで防いだ。
「あの者が持つ木刀からではない。あの者自身の内にそれはある。そしてそれは助けを求めておる!」
木刀に噛み付く蛇を振り落とそうとしているところに、背後から何かが跳躍する音が聞こえた。
と、俺の首にいきなり蛇が巻き付いた。肝を冷やしてそれを掴むと、それは蛇ではなく狐の尾だった。老狐が俺の首と頭を踏んで立っていたのだ。
「僧侶どもよ、神官となれ! 祝詞を上げよ!」
[[rb:嗄 > しわが]]れた怒鳴り声に耳がキンキンした。無遠慮に俺の頭を踏み台にして老狐は再び跳躍し、何となく二足で着地するような重めの足音が聞こえた。
「儂に続けい!」
そうして老狐は祝詞を上げ始める。それはどこか懐かしい、どこかで聞いた祝詞だった。――稲荷祝詞。俺はそれを知っていた。
[[rb:掛 > か]]けまくも[[rb:畏 > かしこ]]き[[rb:稲荷大神 > いなりおほかみ]]の[[rb:大前 > おほまえ]]に
[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:白 > まを]]さく……
[newpage]
[chapter:拾陸]
[[rb:朝 > あした]]に[[rb:夕 > ゆうべ]]に[[rb:勤 > いそし]]み[[rb:務 > つとむ]]る[[rb:家 > いゑ]]の[[rb:産業 > なりはひ]]を……
混沌の中に、突如として稲荷祝詞が響いた。禍々しい場の気が少しだけたじろいだ気がした。しかし祝詞は遠く、遥か山の頂で行われる祭りを麓で聞いているようだった。僕の体は未だに竦んで動くことはできなかった。
祝詞を鼻で笑った霊狐は構わず僕に迫る。護摩の炉火のように揺らめく体で不敵に笑み、その牙をちらつかせながら口が開く。その口の中は遥かなる闇だった。もしもそれに呑まれてしまえば、僕はもはや混沌から生じることさえ叶わない。そんな確信があった。唾液を滴らせる牙は紛うことなき妖気を孕んでいた。その牙が、一尺、一寸、一分、近づいてくる。
[[rb:हां > カーン]]
何の前触れもなく、僕と霊狐の間に梵字が現れ破裂した。爆風をもろに浴びて悶える霊狐の周囲に何枚もの札が音もなく現れ、次々と張り付いた。
ノウマク・サラバ・タタギャテイビャク・サラバ・ボッケイビャク・サラバタ・タラタ・ センダ・マカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバ・ビギナン・ウン・タラタ・カン・マン
札が自ら発火し、霊狐を炎で包んだ。僕はその火界呪に聞き覚えがあった。背後に懐かしい気配――不動根本印を結んだ義父が険しい顔をして立っていた。
「魔を前にして何たる体たらく!」
そうして義父は僕の頬を平手で打ちつけた。衝撃で僕は倒れ込み、手を頬にやる。……体が動いた。日常を思い出させる一撃は、僕の体に自由をもたらしたのだ。
「物の怪よ、そなたの言う〝現代〟にも不動尊は健在であろう。私はそれを確信しているぞ」
そうして義父は不動真言を唱え始める。火はその力を増し、この世界を焼き尽くさんばかりの如き勢いとなり、――その勢いの中から飛び出した弱々しく小さな火球が義父の体を静かに貫いた。一瞬の沈黙のあと、義父は瞬く間に火に包まれた。
火の中にありながら、義父は厳めしい表情を崩さずに僕を見て、力強く言った。
「弥彦よ、矢を放て、灰を飲め! 修法は終わってはおらんぞ!」
やがて義父は炎に負け、崩れるように混沌に呑まれた。
僕は動くようになった体で周囲を見渡した。灰、灰……そんなものはどこにもない。そうだ、観想しなければ。けれど上手くいかない。恐怖と動揺が邪魔をする。
炎を纏った霊狐は四足になっていた。ぐるる、と喉を鳴らす様はまさに物の怪で、
「誰が物の怪じゃ」
恨みがましい声がした。声の質はすっかり変わり、眷属霊狐はもはや妖狐となっていた。――そう、眷属霊狐を模した皮が剥がれ、〝それ〟が本来の姿を取り戻したのだ。
僕は九字を切ることを思い出す。けれど、大口を開け、炎の尾を引いた妖狐の牙は、未熟な僕が創る九字の格子を容易く噛み砕く。牙と牙が噛み合わされるその刹那、妖狐の目と僕の目が至近距離で合った。――とても哀しげな目をしていた。悪鬼、物の怪、妖狐。そういう扱いをされたことに深く傷付いている。……しかしなぜ?
戸惑う僕を尾が薙いだ。不動の炎に打ち勝った妖狐はもはや火の化身だった。その尾は僕の魂を焼き、身の内の罪を強く思い出させた。激痛が走り、息が詰まり、立っていられなくなった。僕は蹲り、[[rb:頭 > こうべ]]を垂れた。
突如、みっつの剣筋が妖狐に襲い掛かった。
作務衣姿の霊狐、狩衣姿の霊狐、水干姿の霊狐……それは観堂丸の里の長たちだった。
「弥彦よ、六字経法を成就させよ」
「偽りの世から脱け出すのだ」
「――お主はお主の役割を果たせ」
そうして三人の長は僕の代わりに弓に矢を番え、各方向に矢を射た。勢いよく飛び出した矢が妖狐の作った混沌を切り裂く。東西南北、そして上下。混沌に切れ目が入り、覆いが捲れ始めた。
胸に当てた手をぎゅっと握った。そうだ、怖気付くな、僕は皆の後押しを受けている。僕にはまだしなければならないことがあるのだ。
僕はその場に三類形の灰を念じようとした。しかしそこに、
「お待ち遠様」
余りに場違いな澄んだ声がした。女性の声だった。見ると、飾り[[rb:簪 > かんざし]]と着物が美しい茶屋のお姉さんが、急須と湯呑を盆に乗せてやってきていた。何で急に、いや、それよりも、ここは危ないということを伝えなければ。けれどお姉さんはにこりと笑い、
「[[rb:子孫 > うみのこ]]の[[rb:八十 > やそ]][[rb:連屬 > つづき]]に[[rb:至 > いたる]]まで」
僕はぽかんとした。遅れてそれが稲荷祝詞の続きであることに気が付いた。
[[rb:茂 > いか]]し[[rb:八桑枝 > やぐはえ]]の[[rb:如 > ごと]]く[[rb:令立槃 > たちさかへしめ]][[rb:賜 > たま]]ひ
[[rb:家 > いえ]]にも[[rb:身 > み]]にも[[rb:枉神 > まがかみ]]の[[rb:枉事 > まがごと]][[rb:有 > あ]]らしめず
稲荷祝詞は近くに下りていた。そこかしこに人がいた。僕が取り仕切る宇宙の中に、ぞろぞろと人々が押し寄せていた。皆が皆その姿を主張していた。誰も彼もが祝詞を唱えていた。小さな子でさえも、懸命に声を上げて。中には霊狐の里の住人たちも……。
妖狐が声を荒らげた。貴様らの役割を果たせと。
民衆が応えた。これが我らの役目だと。
[[rb:過 > あやまち]][[rb:犯 > をか]]す[[rb:事 > こと]]の[[rb:有 > あ]]らむをば
[[rb:神 > かむ]][[rb:直日 > なをひ]][[rb:大直日 > おほなをひ]]に[[rb:見直 > みなほし]][[rb:聞直 > ききなほし]][[rb:座 > まし]]て
お姉さんが持ってきてくれた湯呑には三類形が焼けて残った灰が入っていた。僕は急須を手に持ち湯を注ぐ。文字通り灰色に濁った湯にはすべてがあった。狐落としを祓う呪力や僕自身の思いだけではない、観堂丸や長たちをはじめ、町の皆、里の皆、すべての人たちの思いが詰まっていた。
長たちが燃え尽きる。僕は湯呑を両手で持つ。怒り狂った妖狐が迫る。僕は落ち着いて口を付け、中の〝すべて〟を流し込む。
開幕、或いは閉幕のように、妖狐の背景が切り替わった。灰を飲んだ僕と世界が剥離したのだ。僕をはじめ、すべての人々が〝そこ〟に吸い込まれる。
〝そこ〟とはつまり門のことだ。そして門とは鳥居のことだ。
そこにあったのは、やはり、見覚えのあるあの神社だった。
[newpage]
[chapter:十七]
般若心経がなくなったせいなのか、米津姫は本来の力を取り戻したように見えた。蛇たちは俺から木刀を奪い取ろうと全身に喰らい付いた。獰猛に、殺意を持って。腕を噛まれた。足を噛まれた。腹を噛まれた。体の内側が燃やされるような痛みについに俺は膝をついた。
[[rb:夜 > よ]]の[[rb:守 > まもり]][[rb:日 > ひ]]の[[rb:守 > まもり]]に[[rb:守 > まもり]][[rb:幸 > さきは]]へ[[rb:賜 > たま]]へと
[[rb:恐 > かしこ]]み[[rb:恐 > かしこ]]みも[[rb:白 > まを]]す
しかし祝詞が一周した途端、何かが変わった。
辺りが明るくなった。誰かが火を灯したのではない。俺がそう感じたのだ。
俺は身の内に光明を見た。
その光明が俺の中に降りてきた。脳を覆っていた膜が剥がれ、
「オン・キリカク・ソワカ」そして俺は静かに使命を思い出す。「オン・キリカク・ソワカ、オン・キリカク・ソワカ、オン・キリカク・ソワカ……」
木刀に巻き付いていた蛇が焼け落ち、俺に喰らい付いていた他の蛇が慌てて離れていった。
「オン・キリカク・ソワカ、オン・キリカク・ソワカ……」
俺は荼枳尼真言を繰り返しながら木刀に念を込める。荼枳尼天と習合した過去を持つ稲荷大神の力を引き出すためだ。神仏習合も知らなかったのだから当然現代の神仏情勢について詳しいはずがないものの、それが可能であることは、里の連中が神官の恰好で同じ荼枳尼の真言を唱えたことから推測できた。
然して推測通りに木刀は輝きを増す。お節介の稲荷狐から受けた力は増幅され、活き活きと清浄な[[rb:狭霧 > さぎり]]を立ち上らせていた。その刃を米津姫に向けると、その威力に米津姫を取り巻いていた蛇たちは消滅し、黒の陽炎も消え去って本体のみが残った。米津姫は姿勢を落とし、牙を剥いて威嚇した。痩せてみすぼらしくなったように見えるが、体に漲る活力は些かの衰えも見せていない。
祝詞を終えた霊狐たちが輝く神木刀を見てどよめいている。場には経も祝詞もなく、米津姫を抑え付ける力はない。――記憶がはっきりせず、戦い方が思い出せない。おそらくいつまでも場を持たせることはできまい。見せかけのはったりがいつまで続くか……。
とそこに里の奥から何者かが猛スピードで駆けてきた。暗くてよく見えないが、それは獣のようだった。軽快な足音、力強い踏み込み――民家の屋根から大きく跳躍し、満月を背に狐のシルエットを浮かび上がらせた。米津姫を大きく飛び越えたそいつは見事に俺の後ろに着地した。
その霊狐は巻物を咥え、頭を垂れて息を切らせていた。肩からは大量の血が流れている。
それは鬼怒丸だった。経を取りに行った鬼怒丸が帰ってきたのだ。音吉が駆け寄り巻物を受け取る。
「ありがとう鬼怒丸」
弱々しく笑った鬼怒丸は、使命を果たしたようによろよろと脇に寄って伏せた。
「こちらは任せろ」俺は米津姫に向き直って言った。
「いけるの?」
「大丈夫だ。――今度こそな」
俺は一瞬だけ振り返って音吉に笑って見せた。視線が交錯した瞬間、一瞬にしてお互いの気持ちが通じ合った。すべての事情が伝わった。気持ちが引っ張られそうになった俺は慌てて前を向いた。ずっと目を見続けてしまったら、高まる感情を抑えきれる自信がなかったからだ。
ふふ、と音吉が愉快げに笑うのが聞こえた。
「任せたぞ、陰陽師の息子よ」音吉は悪戯っぽく言った。
「そっちこそ、霊狐の長」俺も悪戯っぽく言ってやった。
音吉が巻物を開く音がした。持ち前の霊力を行使する気配がし、間もなく声が上がる。
「[[rb:帰命 > みょう]][[rb:毘 > び]][[rb:盧遮那 > るしゃな]]……」
高く伸びる少年の声が闇を震わせる。ちらりと目を遣ると、経典に書かれている内容が空中に浮かび上がり、こちらからは鏡文字のように反転して見えた。
神官たちは再び僧侶になり、数珠を片手に合掌した。満身創痍の武士たちが俺の横に並んだ。数を見るに、一時は戦線を離脱した者も戻ってきたに違いない。皆が皆、己の使命を再認識していた。俺への警戒心は薄れていまい。しかし今や目的はただひとつ共通していた。霊狐たちは、里の垣根を超えて、人と霊狐の垣根を越えて、米津姫を救おうとしていた。
[[rb:如是我聞 > じょしがぶん]] [[rb:一時薄伽梵 > いっしふぁきゃふぁん]] [[rb:成就殊勝 > せいしゅうしゅしょう]]
[[rb:一切如來 > いっせいじょらい]] [[rb:金剛加持 > きんこうかち]] [[rb:三摩耶智 > さんまやち]]
僧侶たちが音吉の理趣経に追随し始める。始めは皆たどたどしく声は揃っていなかったが、しかし数人の識者(それは音吉に秒でやられた三人組だった)の先導もあり、独特の漢音読みにも対応していき、次第に統率が取れていく。読経自体に問題はなさそうだった。
進行に合わせてスクロールする理趣経の文字はそれ自体が荼枳尼の種字のように霊威を持ち、それに対して米津姫は強い反感を示した。強い未練に加え、焦りと恐怖が米津姫の成分となる。
黒い閃光――俺には黒い線がただ伸びただけのように見えた。米津姫は次の瞬間には近くの武士の首に食らい付いていた。牙が食い込むのが見えた。めりめりと首の骨が軋む音まで聞こえた。その首から血飛沫が飛び散ることは、もはや誰にも止められない事象だった。
しかしそうはならなかった。米津姫は牙を食い込ませたまま、下顎をぶるぶると震わせていた。耳を伏せ、哀しげに目を歪めて。俺はそこに米津姫の生前の優しき本性を見ずにはいられなかった。米津姫は助けに入った武士に次々と襲い掛かる。まるで八つ当たりのように。
俺はそこに入ることができなかった。経の指揮を取る音吉を守らなければならなかったのもあるし、それに、俺が近づけば米津姫は怒りに任せて本当に自里の者を食い殺しかねない。そんな予感がしたのだ。俺はただ木刀を構えて米津姫の方から迫ってくるのを待った。
近い順からなぎ倒されてゆく武士たち。そうして俺の番が来た。米津姫はピタリと停止し、すべての元凶たるこの俺を両の眼で捉え、歯茎の根本が見えるほど牙を剥いた。俺さえいなければ自分が死ぬことはなかった。俺さえいなければ愛する音吉に寄り添うことができた。俺さえいなければ、今こうして傷付くこともなかった。そして俺さえいなければ、これから未練を抱えたまま成仏しなくて済んだのだ。米津姫は皆の読経により未練が浄化されていくことを哀しんでいる。
[[rb:金剛手菩薩 > こんこうしゅほさん]] [[rb:摩訶薩 > ばかさ]]
[[rb:觀自在菩薩 > かんしさいほさん]] [[rb:摩訶薩 > ばかさ]]
[[rb:虚空藏菩薩 > きょこうそうほさん]] [[rb:摩訶薩 > ばかさ]]
[[rb:金剛拳菩薩 > こんこうけんほさん]] [[rb:摩訶薩 > ばかさ]]
俺を殺せばまだ間に合う。そうすれば状況は一変、読経は中断し、音吉を取り込むことができる。米津姫は元凶であり障害である俺に向け、裂けそうなほどの大口を開けて飛び掛かってきた。
木刀に強すぎる衝撃が加わった。攻撃を受けた木刀は大きく[[rb:撓 > しな]]り、そして手首ごと大きく押され、俺の顔面と米津姫の牙が肉薄する。俺は首を逸らし、三歩後退したあと尻もちをついた。
およそ九十度まで開いた口が閉じられる。みしりと嫌な音がした。霊力においては確かに米津姫の一撃を防いでいたが、物理的強度に問題があった。両前脚を支えに米津姫の牙が一本、また一本と杉に食い込んでいく。木の繊維が悲鳴を上げた。
稲荷の白い[[rb:狭霧 > さぎり]]と米津姫の黒い気が争っていた。互いに反発しあい、削ぎ合っていた。俺は米津姫の気を間近で感じた。[[rb:愛別離苦 > あいべつりく]]、[[rb:五蘊盛苦 > ごうんじょうく]]、[[rb:怨憎会苦 > おんぞうえく]]、[[rb:求不得苦 > ぐふとくく]]。すべての苦しみが米津姫を蝕んでいた。しかしそれらに対し、悟らねばならない義務感もあった。彼女の心の中には正と負のせめぎ合いが成す嵐が吹き荒れていた。
やがて木刀に亀裂が入る。俺は思い出したように人差指と中指を立てる。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」
至近距離から切られた九字の印に、酷く痛々しい悲鳴が響いた。光り輝く格子は俺と米津姫とを遮断し、そのまま地に伏せさせる結界となった。
米津姫は抵抗した。格子に噛み付き、脱しようともがいていた。
経典を手に読経する音吉が穏やかな目で米津姫に寄り添った。
[[rb:妙適 > びょうてき]] [[rb:淸淨句 > せいせいく]] [[rb:是菩薩位 > しほさい]]――音吉は続ける。米津姫は乞うように鳴いた。
[[rb:慾箭 > よくせん]] [[rb:淸淨句 > せいせいく]] [[rb:是菩薩位 > しほさい]]――諭されたくないと訴えていた。
[[rb:觸 > しょく]] [[rb:淸淨句 > せいせいく]] [[rb:是菩薩位 > しほさい]]――まだ生きたいと願っていた。
[[rb:愛縛 > あいはく]] [[rb:淸淨句 > せいせいく]] [[rb:是菩薩位 > しほさい]]――音吉を愛したいと望んでいた。
[[rb:一切自在主 > いっさいしさいしゅ]] [[rb:淸淨句 > せいせいく]] [[rb:是菩薩位 > しほさい]]――里の未来を紡ぎたいと、強く。
けれど、それが自分のわがままであると彼女は既に知っていた。皆に迷惑を掛けているのだと、自覚していた。米津姫の感情に当てられた霊狐たちが米津姫に駆け寄った。
このまま行けば米津姫は無事に成仏するだろう。未練はやがて薄れ、苦しみのない安らかな境地に至る。……けれど、俺はこのままではいけないと思った。このまま成仏させてはならない。できることがまだあると。助けなければ。生かさなければ。何か別の形で。
何か、別の形で。その時、俺の腎臓が再び熱くなった。今度こそ内臓を焼かれるような、強く激しい熱だった。[[rb:蹲 > うずくま]]りながらポケットに手を突っ込んでそれを取り出す。
野球ボールに描かれた[[rb:荼枳尼 > ダキニ]]の[[rb:種字 > しゅじ]]が、意志を持つように光っていた。
[newpage]
[chapter:拾漆]
混沌の中に、鎮守の森に囲まれた神社が浮かんでいた。神社の中には整った砂利が敷き詰められた境内があり、石畳があり、手水舎があり、拝殿があった。
その神社に向かって、すべての存在が吸い込まれていった。町人が吸い込まれ、建物が縮みながら吸い込まれ、鳥居をくぐり、そうして神社の中に入り、徐々に薄くなって消えていった。
妖狐が鳥居の前に立ち塞がった。肩を張り膝を張り、頭を低くして四肢を踏みしめていた。妖狐の全身から放たれる強い強い思念が、記憶たちの流出をせき止めた。僕が吸い込まれる力も弱くなり、僕は静かに着地する。地面があったわけではない。僕が着地したと思ったからそこに地面があったのだ。
今やこの世界は僕の世界で、妖狐の世界は神社の領域のみだった。けれども妖狐の力は健在で、他の何を流出させたとしても僕だけは絶対に留め置こうと強い意志を持ち、陽炎を伴って流星のように僕に飛び掛かってきた。
僕は観堂丸の手から離れた木刀を観想した。しかし出てきたのは金属でできた棒だった。金属バット――僕はそれをそう呼ぶことを知っていた。その棒に荼枳尼の種字が描かれていることも、それを僕が振るうべきことも、僕には当然のことのように思えた。
振り下ろされるバットは妖狐を強かに打ち据え、悲鳴を上げて妖狐は弾け飛ぶ。が、纏っていた陽炎がそのまま僕を襲った。猛烈な熱さにたじろいだ僕は顔を覆い、身の回りの気を鎮めるよう念じた。しかし再び目を開けたその時、何か大きな塊が僕の体に激突した。
左腕、そして脇腹の骨が折れる音がした。ぐらりと世界が揺らめいた。その間にも妖狐は念を飛ばす。妖狐は神社に立っていた石灯籠を操ったのだ。僕の身の丈ほどもある石灯籠を、一基、二基、三基、ミサイルのように僕に向けて飛ばした。
僕は構わずバットを振るった。そのバットは僕の世界において何者も太刀打ちできない至高のひと振りだった。木刀は迫る石灯籠を一基砕き、また一基砕いていった。僕はこの世界で何でもできる。僕の腕は折れてなどいないし、脇腹だって無傷なのだ。そしてその通りに僕の体は元に戻り、――鳥居から次々飛び出してきた何十基もの石灯籠に再び砕かれた。
物も言えず苦しみ、再び混沌を浮遊した。しかし続けざまに有り得ない事態が起きる。手水舎で水を吐き出していた龍神の装飾が分離して巨大化し、ふわふわと鳥居をくぐってやってきたのだ。厳めしい顔をした龍神は大口を開けて僕の全身に巻き付き、そのまま頭を咥え込もうとした。僕は迫る龍に向かって動くなと念じた。しかし全身を激痛に支配されている今、満足な効果は得られず、龍は泥沼を泳ぐように着実に進んできた。
妖狐が悠然と僕に歩み寄る。
「民間信仰において狐の前身は蛇、蛇とは即ち龍の化身。龍の力を前に小童が敵うと思うてか」
龍が僕の全身を締め上げる。全身の骨が粉々になっていくのが判った。僕は何とかして龍の影響を排除しようと試みたものの、締め付けは増すばかりだった。その中で、至高のひと振りがぐにゃりと曲がる感覚がした。
「無駄な抵抗はやめよ。わしはお主を苦しめたいわけではないのじゃ。大人しく混沌に帰るがよい」
「僕は別に……」絞り出すように声を出した。「混沌に帰ろうが帰るまいがどうでもいいんだ」
記憶たちは門をくぐり、粗方あちらの世界に送られた。吉崎鈴次は弥彦の生まれ変わりという存在と使命を思い出し、観堂丸の生まれ変わり――そう、音吉という名の霊狐とともに喜びを分かち合っているはずだ。今更この残り[[rb:滓 > かす]]の僕が出ていかなかったとしても大勢に影響はない。
「だけど」だけど僕には。「――僕には何としても叶えなければならない願いがある!」例えこの身が滅びようとも――。
その時、龍の隙間から光が漏れた。僕の中で何かが応える音がした。それは熱を発し、龍の体を焼き落とした。龍神は悲痛な声を上げて僕から離れた。
眩いばかりの輝きとともに懐から出てきたのは、荼枳尼の種字が描かれた野球ボールだった。
[newpage]
[chapter:十八]
皆の視線がそのボールに集中した。光り輝く荼枳尼の種字を前に拝む者まで現れた。
だがその隙に米津姫の牙は九字の格子の一部にひびを入れていた。荼枳尼天の[[rb:本地 > ほんじ]]である文殊菩薩の領域を噛み砕きつつあることに、おそらく俺だけが気付いていた。
そして格子の一本は音を立てて折れ、米津姫は流動体となって隙間から抜け出た。皆がそれぞれ油断に気が付く。視線が米津姫に戻る。流動体は俺に迫り、実体化し、大口を開ける。
俺は何かの使命のように、米津姫の大口に向けて、腕を突っ込んだ。
[chapter:拾捌]
妖狐の視線がそのボールに向けられた。
「それは――。そうか、世界の綻びはそこから来たか」
野球ボールから放たれる光は僕の願いに呼応していた。呼応し、僕の願いを叶える宝珠となった。願いのすべて、役割のすべて、力のすべてがそこにあった。
光はそのまま希望の光となり、龍と妖狐の全身を針のように刺し貫く。珠はそのまま生命力の塊となり、生まれたいと願いを発していた。
僕は念じた。珠は独りでに浮かび上がり、輝きを増す。そうして僕を制止しようとする存在を焼き払いながら、一直線に鳥居に突っ込んでいった。
[chapter:十九]
米津姫の口から光が放たれた。それは俺が突っ込んだ野球ボールから放たれる輝きで、その光は針のように米津姫を内部から貫き、さながら超新星爆発のように黒い体から白の光が突き抜けた。米津姫の体がボロボロと崩れていく。しかし米津姫は逃げようとも抵抗しようともしなかった。その光が自らを浄化するものであると知っていたからだ。
土が砂になるように崩れた体は、光を反射する水面のように輝きながら分解していく。それを繰り返し、彼女の体は小さく弱くなっていった。
音吉が最後に彼女を抱いた。彼女は穏やかに音吉の目を見て、最後に残っていたほんの僅かな未練を鳴き声にし、氷が水に解けるように消えていき、あとには白球だけが残った。
姫、と嘆く声が四方から上がる。おんおんと泣き喚く年寄りもいた。
「喚くな!」音吉が怒声を上げた。「感じぬか。米津姫の思念が立ち込めていることに」
霊狐たちはどよめいてきょろきょろと辺りを見回す。もちろん目に見える何物も存在はしない。米津姫は今、不完全な〝場の気〟となって留まっているのだ。
「嘆くな、怨むな、悲しむな。姫を再び怨霊にするなど余りに酷ではないか」
元[[rb:辰狐 > しんこ]]、そして霊狐の里の長であった威厳は健在だった。皆が音吉の力強い言葉、強い意志に動かされた。
音吉が勢いよく右手を広げ、皆を先導する。
「願え。強く願え! 良いか、お前たちの願いの方向性が姫のすべてを決定する!」
そうしてふたつの里はひとつになる。
集約された〝ひとつの意志〟に導かれ、やがて〝場の気〟は渦を巻きながら〝ひとつ〟に纏まっていく。それはなぜだか俺の願いの成就にも思えた。
[newpage]
[chapter:拾玖]
あとには虚しさが残った。力を使い果たした僕は、全身を虚脱感に支配されていた。もう何も残っていない。何かを願う力もないし、己を奮い立たせる気力もない。僕にはもはや妖狐の攻撃を防ぐ手立てはなかった。
けれど、妖狐の攻撃が僕に降りかかることはなかった。妖狐は鳥居の前で倒れていたからだ。僕はそこに歩いていった。浮かんだほうが早くて楽なはずなのに、それを念じることすら億劫だった。一歩一歩、よろよろと歩きながら、焼け焦げた妖狐から立ち上る煙霧を見ていた。僕はそこから妖狐の感情を読み取ることができた。力を失っても、身動きが取れなくなるほど傷付いていても、僕をこの世界に留めようとする強い意志があった。それとは別に、僕に理解されない哀しさもあった。僕はその感情の正体が解らなかった。
僕が近付く。妖狐は起き上がろうと体に力を入れる。でも、その力はなく、ただ手足をぴくぴくと痙攣させるだけだった。動こうとすればするほど、妖狐から立ち上る煙霧の量が増えていく。それはそのまま生命力の漏出で、妖狐はその身と命を失いつつあった。
更に近づく僕の前に、何かが現れた。鳥居から音もなく影が出て、人の姿を取った。
それは女性だった。二十代くらいで、ノースリーブでダークブルーのワンピースを着ていた。ストレートの黒髪を肩下まで伸ばし、耳には真珠らしきイヤリングもしくはピアスを付けていた。
その女性は優しそうに僕に微笑んだあと、妖狐を労わるようにしゃがんで撫で始める。妖狐は軽く顔を上げ、小さく鳴いた。女性は妖狐を軽々と抱きかかえ、立ち上がる。そうして僕に目を向け、もう一度微笑んだ。
「この子は然るべきところでしばらく休ませるわ。傷が癒えたらまた貴方の元に返すから安心して」
そうしてくるりと踵を返し、顔だけを僕に向ける。
「悪く思わないであげてね。この子はただ貴方を守っていただけなの」
「あの」僕は尋ねた。「その狐はいったい何なんですか」
「鳥居をくぐりなさい。そうすればすべてを理解するはずよ。――それじゃ、お母さんを大切にね」
女性は艶然と微笑み、鳥居の中に消えていった。
辺りの混沌が落ち着きを見せた。世界が狭まり、神社もなくなり、鳥居を中心とした僅かな領域だけが僕のいる世界だった。吉崎鈴次の脳に間借りしていた僕の世界が、元の姿に戻ろうとしているのだ。
そのまま僕は混沌に呑まれる道を選ぶこともできた。記憶を取り戻すという役割において僕が出る必要性は薄れている。しかし思い直す。僕という最後の欠片を補完することで、前世の願いは成就されるのだ。それに、飽くまで個人的な願望を言うならば、僕はやはり観堂丸の生まれ変わりに会ってみたい。
僕は一歩を踏み出し、鳥居に向かった。残っていた世界が縮小し、僕と一緒に鳥居に吸い込まれ、消えていく。僕の成分は分解され、思念体となって何かの道を通った。僕はそのままどこかに向けて移動していた。
そのトンネルの壁面には水族館の連絡通路のようにいろんな光景が映し出されていた。壁面といってもあやふやなもので、境界なんてなかったのだけれど。見たことがあるようなないような自然の風景が、ぼんやりと、あっちに浮かんだりこっちに浮かんだり、とりあえず退屈はしそうになかった。
そんな中、とりわけて近いところに学習塾の光景が浮かび上がった。畳の上に敷かれた絨毯の上に数人の子供たちが座っていた。三台並べられた長机一台につき二人ずつ、思い思いに足を伸ばして。教えているのは老齢の女性。それは僕の、――吉崎鈴次の母だった。プリント学習をする子供たち一人一人に声を掛け、手こずっている子には解き方を教えながら、順番に回っていく。右の子を見て、左の子を見て。眼差しは酷く優しかった。まるで、自分の安らぎはここにしかないような。
景色が移り変わる。さっきより若い母が見たことのない家の庭で三人の大人と話をしている。会話の内容は聞こえない。もっと近づいてみなければ。
気付けば母の隣に佇んでいた。僕はいつの間にか世界に吸い込まれていたのだ。皆の視線が集中する。母以外の三人が大慌てで逃げていった。やはり狐が憑いていた、呪われている、破談だ。そんな言葉が聞こえた。僕は狐の姿だった。けれどそれは慣れ親しんだ姿ではなく四つ足だった。自分の顔は見えないけれど、僕はそれがあの妖狐の姿なのだと直感した。嘆く母が居た堪れなくて、僕は世界から離れた。
これはあの妖狐の記憶だ。僕は今あの妖狐の記憶に包まれている。あの妖狐は僕が創りだした存在ではなく、初めから別の生命として存在していたのだ。だから僕の知らないことを知っていた。
妖狐の正体、それは[[rb:狐筋 > きつねすじ]]の家系に代々憑いていた守護霊だったのだ。妖狐でなく霊狐。現眷属でなく、分離した元眷属。消えゆく彼らが取った生存の方法が、家に憑くことだったのだ。むろん、一方的でなく相互扶助の関係で。
しかし狐は母の代で力を衰えさせる。狐筋であるというだけで迫害される自らの家系を、母は酷く憎んでいた。親を始めとする血縁を捨て、独りで生きようとした。自らに憑く狐でなく稲荷を信仰した。見向きもされなくなった失意の狐は年々弱っていくことになる。
狐筋を理由に婚約を破棄された母にはお腹の子だけが残された。母は隣県に移り住み、一人で子を育てた。もちろん狐も付いてきた。
狐はその子、鈴次に取り憑いた。それは生き残るための打算でなく、心からの慈愛からだった。生まれながらにして霊力が高く、〝見る〟力を備えていた鈴次が、悪いものに引きずられないように、護ろうとしたのだ。僕は強く覚えている。見えざるものを見ていたその記憶の大半は、主にその狐とのものだったのだ。狐はずっと僕のことを守り続けてくれていた。
しかし狐は憑くまで知らなかった。鈴次が前世の約束に縛られて生まれてきたことを。その身の半分に狐の力を宿していたことを。そして約束を交わした片割れと強く強く引き合っていたことを。
母は大事な我が子に狐の面影を見る。狐、約束、会いにいく。幼い情緒のまま前世の約束に引っ張られ奇行を繰り返すその様を狐の仕業と結論付けた母は、福丸稲荷神社で狐落としを依頼した。
狐はそこで自分が落とされることを覚悟した。やってきた眷属霊狐の力は弱り切った狐の力では手も足も出ないほど強大だった。しかし眷属は鈴次に備わる狐の力を封印しようとした。前世から受け継いだ狐の力に含まれる記憶ごと、鈴次の奥深くに封じてしまおうと。なぜだと狐は尋ねる。眷属は答える。この者の望みは息子の奇行の鎮静、その方法がこれなのだと。おまえの役割は封じた力が出てこないように見張ることなのだ。
斯くして狐は記憶の管理者となった。自分ごと弥彦の記憶を封印しようとする稲荷の力を感じながら、これには稲荷神の配慮もあるのだと確信した。鈴次と音吉が引き合う力は甚だ大きく、幼すぎる彼らには荷が重すぎるのだと。その時が来るまでの、その力を得るまでの、一時的な封印なのだと。
母は息子を思い、狐も自らが運命を共にする家筋の末裔を思い、稲荷神は数奇な運命を背負う二人を思い。それぞれがそれぞれ正しいと思う行動をしたことで今回の騒動が起きたのだ。誰が悪いわけではない。誰も悪くない。それどころか結果的には良い方向に進んだのかもしれない。今、外の世界がどうなっているか情報は流れてこないけれど、何が起きていても僕は受け入れようと思う。転生を叶えてくれた、分離荼枳尼のためにも。
トンネルの壁面が新たな記憶を映し出す。すべて弥彦と観堂丸を映した光景だった。それは僕の世界で再生されなかった、〝それから〟の記憶だ。僕の影響がなくなった純粋なる記憶の中で、弥彦は事実通りに人間の姿をしていた。そうだ、弥彦は確かに長い後ろ髪を結い上げていた。それに僕は自分のことを僕と呼ぶけれど、本当の弥彦の人称代名詞は僕ではなかった。僕というのは五歳の鈴次から来ているものだ。今、この僕は、弥彦でも鈴次でもない半端な存在となって客観的に彼らを見ていた。
弥彦と観堂丸が道場で仲睦まじく寄り添う光景が、ワンシーン、またワンシーンと走馬灯のように流れていく。観堂丸が肩を抱き、弥彦はお腹を押さえながら幸せそうに見上げる、そんな光景もあった。けれどついにその日は来てしまう。僕はトンネルの壁に意識を近づける。
宮廷は、弥彦の義父が呪詛を掛けて回ることを敢えて黙認していた。わざと泳がせて呪詛を氾濫させればそれだけ宮廷陰陽師の依頼も増えるからだ。しかし彼らは自分たちが呪詛の対象になり始めたことで初めて観堂丸の霊力を知る。もっとも、未熟な弥彦の呪詛など真っ向から跳ね返せるだけの力を彼らは有していたのだが、万が一のことを考えてのことなのだろう、ついに義父を[[rb:検断 > けんだん]]することを決定した。
義父の一世一代の復讐計画、それを逆手に取って逃亡を計画していた弥彦と観堂丸、それぞれの思惑を嘲笑うように、意表を突く形で大勢の役人が道場になだれ込んだ。
幕府に仇なす大悪党。その大義名分が切り捨てという異例の処罰を認めた。六字経法と違って荼枳尼天法では怨敵の名を記す必要はなく証拠なんてなかったのだけれど、相手は宮廷陰陽師だ。朝廷のお抱えがそうだと言えばそうなのだ。現在進行形で行われている呪詛は、朝廷の高官にあてたものなのだ。
そして弥彦は無抵抗のまま凶刃に倒れる。憤怒の観堂丸が役人たちに幻術を掛ける。重傷の弥彦と自らが封じられた頭骨を抱え、道場から逃走する。義父は血溜まりの中に転がっていた。
宮廷陰陽師の使役する式たちが追跡する。観堂丸は背を焼かれ、切り刻まれ、次々と大傷を負っていく。道場は役人たちに囲まれていた。もしも弥彦を抱えていなかったとすれば、或いは観堂丸は一人でも逃げられたかもしれない。瀕死でありながら、弥彦も観堂丸に逃げてと訴え掛けていた。けれど、観堂丸がそうしないことは、弥彦には哀しいほどに解っていた。
弥彦から滴る血を振り撒きながら、自身からも霊力を放散させながら、観堂丸は敷地内を逃げ続けた。無駄な抵抗だと判っていても、諦めなかった。こんな報われない最期があってなるものかと、歯を食い縛りながら。
結局道場に追い込まれた観堂丸は、香油を撒いた床の上に燭台を倒した。間もなく火の手が上がる。
ねえ観堂丸、と弥彦は言った。幸せだったよ、ありがとう。
だから逃げて。そうして弥彦は目を伏せる。弥彦を抱く観堂丸には、失われていく弥彦の生命力が、どうにもならない現実が判っていた。
弥彦、と観堂丸は怒鳴りつけた。願いを言え、おれが叶えてやる。
死の淵の弥彦が微かに念じた。――生まれ変わっても、また観堂丸と一緒になりたいな。
弥彦を抱えたまま、観堂丸はしばらく佇んでいた。
火の手は勢いを増し、天井にまで燃え広がっていた。
修法の中断した道場には霊威が立ち込めていた。その霊威に、観堂丸は意識を傾けた。
弥彦を修法壇に横たえ、観堂丸は流動体となる。
何事もなかったかのように弥彦が起き上がる。観堂丸が中に入ったのだ。
そうして弥彦は観堂丸の意志のもと、印を結ぶ。
オン・ダキニ・エイ・ソワカ
オン・ダキニ・イタラヤ・ソワカ
オン・ダキニ・エイ・ソワカ
オン・ダキニ・サンダク・ギャクウン
オン・ダキニ・アラハシャノウ……
それは正式な祈祷とは程遠いものだった。用意されている供物も捧げず、護摩木も焼べず、独鈷による加持もしない。しかし何でもよかった。既に勧請されている荼枳尼天が満足する供物がそこにあるからだ。荼枳尼はその特性上、既に弥彦の死期を知っていたに違いない。
そして観堂丸は願いを告げる。自らの命をも代償にして。
崩れゆく道場の中、僕は記憶から追い出される力を感じた。遠ざかる景色の中に、僕はその姿を見た。女天であるはずの荼枳尼は、――本質を前に性別などさしたる問題ではないのですよ――どこかから声がした――男神のようにも見えるそれは、大黒天のように穏やかな笑みを湛えつつも、鷹のように鋭い目をしていた。
道場が完全に崩れ落ちたところで僕は記憶から追い出され、トンネルに戻された。
[newpage]
[chapter:二十]
ぞわぞわと体毛が逆立った気がした。人間が有するはずのない獣毛が、風に揺れる稲穂のように波打った気がした。それは錯覚のようであり、同時に現実のようでもあった。体内で何かが渦巻いていた。俺のものでない意志たちが、居場所を探して体内を駆け巡っていた。
ある時そいつらがいきなり思い出したようにすっと全身に染み渡る。まるで寝起きのスポーツドリンクのように。足の先から髪の先にまで漫勉なく、それらは俺と一体化したのだ。
背中の毛が逆撫でされるような気がした。もちろん体毛などないが、確かに俺自身が経験したようなはっきりとした不思議な感覚とともに、俺は失ったものを取り戻した。
そして、取り戻したばかりの俺の力の一部が浮いているのが判った。ぽうっと、人魂のように、俺の一部であって俺でない別の命として、その場に漂っていた。
その命の行く先を、俺は知っていた。それの役割を、俺は知っていた。そしてそれはその通りに目の前の新たな生命の塊に吸われていった。
終わった。
不思議な確信と、不思議な達成感。――俺は俺の役目を終えたのだ。
急に力が抜け、立っていられなくなった。俺は倒れそうな体を何とか持たせ、前列から静かに離れ、隅のほうに音を立てず座り込んだ。よく見れば全身傷だらけだ。米津姫の霊威のせいか、体のあちこちにあかぎれのような裂傷があるし、傷がないところでも内部から激しい鈍痛がある。アラミド繊維の作業服が、ステンレスワイヤーが切れることはなかったものの、あちこち破けている。
いったい何なのだろう。落ちこぼれの会社員がいったい何をしているのだろう。目の前の光景は、本当に俺が関係していることなのだろうか。これだけ多くの人がいて、それらは人間でなく霊狐で、その霊狐たちに騒動をもたらし、霊狐たちに殺されかけ、そうかと思えば霊狐たちを助けている。よく解らない。解らないが、これが現実だ、受け入れるしかない。そう、ありのままに。
正直な気持ちを言うと、少し羨ましいと感じないでもない。これだけ多くの者たちから願われ、望まれる米津姫は、何と恵まれているのだろうかと。
羨ましいが、それでもそれは嫉妬ではない。嫉妬などしてしまえばこれから生まれんとする米津姫の剥き出しの精神に悪影響を与えてしまう。今は俺も、純粋な気持ちで祝福せねばなるまい。新生米津姫がどのような立場に置かれるかは俺には想像もつかないが、きっと、存続の危うい小規模な里を栄えさせる重要人物となるのだろう。そこに何の因果か人間の俺が噛んでしまっている。騒動の種である俺が言える立場ではないが、これも何かの縁として、米津姫の安寧なる未来を強く願った。
諸行無常、諸法無我。因縁と因果。あらゆる事象は影響を及ぼし合う因果関係によって成り立つもので、何ものにも影響を受けない確固たる〝我〟など存在しえない。
一般人の俺からすればそんなマクロすぎる考え方は今でも理解しがたいものだが、このごく一般的なダメ人間のレベルに合わせて教訓的に解釈すると、他との繋がりなしに自分というものは存在し得ないのだから、皆さんその〝縁〟に感謝しましょうということだ。
それを「はいそうですか」と素直に受け入れられるほどの度量は俺にはないが、人が人として生きるにあたり、他者との繋がりというものは確かに大切なものなのだろうなと今では思う。
ひとつの形に定着し、生まれ落ちた新たな希望に群がる数々の祝福。心地よくもあり、寂しくもなる。
俺は吉崎鈴次として生きてきた二十六年間の集大成を思い浮かべた。俺が得られたものはなんだろうかと。誰もいないキッチン、パッキンのいかれかけた水道、悪い気の吹き溜まりになりがちな奥まったバスルーム、リサイクルショップで買った中古の洗濯機、そして夜中でも休むことなく鳴き続けることを仕事とする冷蔵庫。誰もいない食卓、誰もいないシアタールーム、誰もいない寝床。一人で寝て、一人で起きて、一人で生きる。それが俺の得た人生。
「だけどこれからは違う」
幼い声がした。重くなり始めた瞼を開き、そちらを見る。ボロボロの狩衣を着た霊狐の少年が、いつの間にか横に立っていた。血だらけの音吉は穏やかに目を伏せ、菩薩のような笑みを浮かべていた。
「本当の幸せというのはね、誰かに必要とされることなんだ」
どこかで覚えがある台詞とともに、俺の横にすっと歩み寄る。そうして俺の顔を見下ろしながら、
「大丈夫。おれが必要としてるよ」
飛び切りの笑顔でこう言ってのけたのだ。俺は気恥ずかしくなって苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そういう決め台詞は俺に言わせてほしかったな」
音吉はくすくす笑う。その笑みには霊狐の長たる威厳はなく、すっかりもとの音吉になっていた。
込み上げる気持ちが、二人同時に爆発した。強く、強く、俺たちは抱き合った。慰めなんかじゃない、その抱擁は成就の証だった。数百年越しの念願と悲願が、もう誰にも邪魔されることのない世界の中で、叶えられたのだ。
「会えて嬉しい」俺は華奢な音吉の背骨が折れそうなほど、
「もう離さない」音吉は俺の背に爪が食い込むほど、強く抱き締め合った。もう離さない、もう逃がさない、もう誰にも邪魔させない、今度こそ二人で幸せになるのだと。
音吉の頬は熱かった。音吉の体は熱かった。満身創痍でありながら、体中に活力が漲っていた。喜びの気が俺の中にまで入ってきた。
霊狐たちの視線が少しずつ集まり始めるのを感じた。米津姫は再びこの世界に定着した。安堵と感動により、米津姫に集中していた意識が離れ、こちらに向ける余裕ができたのだ。俺に対する直接的な敵意は薄れている。米津姫が助かったのは俺の力によるものも大きいからだ。が、だからといって俺を許すかどうか、それは各個人では決めかねるのだろう。それに、米津姫は確かに助かったが、八千助やヨジロウという霊狐が失われた事実は覆せない。
やがて声が上がり始める。この人間の正体は何だ。六字明王の力が漏れ出たのはなぜだ。荼枳尼の力も強く感じた。なぜ稲荷の加護を得ていたのだ……。
霊狐たちの疑問はもっともだ。役立たずの会社員だったはずの男がいきなり般若心経を[[rb:暗誦 > あんじゅ]]したり九字を切ったりし始めたのだ、一連の不可思議な行動について怪しまないはずはない。が、霊狐たち全員を満足させる返答などあるはずがない。俺たちの事情を話すわけにもいかないし、だいいち信じてもらえる気がしない。もっとも、理解してもらう必要がそもそもないのだが。
徐々に俺たちを取り囲みつつある霊狐たちに向かい、俺は落ち着いて立ち上がり、こう言った。
「今日は帰って寝る」
その途端に皆が明らかな敵意を見せた。とはいえ襲い掛かってくるほどではなかった。逃げるのか、おのれ人間、何と無責任な。四方から浴びせられる非難の中、音吉と手を繋いで車に向かう。米津姫の今後、そして俺の処遇についてなど、どうか一晩かけてじっくりと話し合ってくれ。
霊狐たちが左右に分かれる。老人、幼子、そして傷ついた武士や僧侶。その中に、見覚えのある霊狐がいた。音吉と争った際に口上を述べた偉そうな剣客だ。他の霊狐と違ってそいつは左右どちらにも分かれず、仁王立ちで俺たちを待ち構えていた。とはいえ刀に手を掛けてはおらず、逃がすまいといった意志は見えなかった。
「貴様の正体が何なのか、目的が何なのか。貴様には説明責任がある。だが我々は皆疲弊しているし、それは貴様らとて同じであろう。満足な意思の疎通が期待できるとは思えん」
そう言って剣客は滑らかな足取りで道を開ける。
「よって、今宵は見逃そう」
俺は「どうも」とだけ言って偉そうな剣客の横をすり抜けた。すれ違う際に切り掛かってくることもなく、俺たちは静かに重々しく霊狐の集団から抜け出した。
「しかし忘れるな」剣客が低い声で言った。「貴様の罪は消えてはおらん」
俺はピタリと足を止める。別にそのまま去ることだってできたはずだし、そうするほうが正しいことなのだとこの吉崎鈴次の判断能力は告げている。負けず嫌い、自尊心、矜持……。どうだろう、俺を突き動かす理由は判らないが、そんな高尚なものではないだろう。悪戯心。そう表現するのが正しいのかもしれない。
「罪を重ねるようで心苦しいが」俺は振り返り、剣客の醸し出す雰囲気に対抗するように低い声で言った。「どうしても宣言しておかなければならないことがある」
それは、と問うように剣客が僅かに首を傾げた。
「あなたたちの怒りを買うことは重々承知している。しかしこれは極めて重要なことで、何があろうと決して譲れないものだ」
そうして俺は音吉を引き寄せ、膝を抱えて持ち上げ、にっと笑って高々と宣言した。
「俺はこいつと結婚する」
それを聞いていた霊狐たちが一斉に耳を真上に立てて目を丸くし、ぽかんと口を開けた。その様は酷く滑稽で、そのせいなのか何なのか、音吉は高らかに笑った。
[newpage]
[chapter:弐拾]
僕は自分がどんどん分解されていくのを感じながら、このトンネルには明確な出口というものが存在しないことに気が付いた。まるで食物のように分解され、循環し、そして僕はいつの間にか吉崎鈴次の一部となる。
それはそれで怖い話のように思える。結局のところ、僕の自我は鈴次であり鈴次でなく、弥彦と一体化した形を取りながら弥彦ではなく、どちらでもないものだったのだ。そう思うと途端に寂しさを覚えてしまう。
一瞬、ほんの一瞬だけれど、邪な考えが脳裏を過ぎった。僕がその気になれば、鈴次に取って代わることも可能ではないかと。
けれど僕は振り払う。そんなことを考えては観堂丸に怒られてしまうし、それに僕は自分で決めたではないか、外の僕の人間性に影響を与えたくないと。
記憶も何も殆ど混じり合ってしまった今では判る。吉崎鈴次は僕と同化することをむしろ望んでいる。僕は、鈴次に欠けている最後のピースを補完しなければならない。僕はこれから吉崎鈴次の一部にならなければならない。吉崎鈴次として生きなければならない。
けれど、その決断はまだ鈍い。たぶん、僕が決心しないせいで他の人々に比べて分解が遅いのだろう。
それならば最後に少しだけ我儘を言いたい。僕は、僕の自我を残したまま観堂丸の生まれ変わりを見てみたい。鈴次に取って代わらなくてもいい、ただ、覗き見るだけでもいい。少しの間だけでも。
何となく、分解が更に遅くなった気がした。
[newpage]
[chapter:二十一]
疲れているからなのか、マンションのドアがやけに重く感じられた。ドアを開き、音吉とともに中に入る。ギィィ……ドアは自然に閉まっていき、――バタン、重々しさを助長するように閉じる。カタン。俺は敢えて軽い音が立つように錠を掛けた。外界との隔絶を願うように。
荼枳尼の種字は、今にも消えそうなほど薄くなっていた。霊狐が思念体として侵入するのを防いでいた文字通りお守りとしてのそれは、今やその役割を終えようとしていた。少し物悲しい気持ちになるが、その感情の正体を探ろうとする意思が阻害されているような気がした。しかしその〝働き掛け〟は至極弱々しく、今の俺であれば容易に跳ね返せるものだった。とはいえ、考えてほしくないのであれば考えないでおこう。こちらはこちらで考えなければならないことが他にある。
ぬるい水道水で手を洗う。手にいくつもできた細かい裂傷が沁み、俺が今立っているのが現実世界であることを認識させてくれる。徐々に冷たくなる水で、顔を洗い、口をすすいだ。穢れを落とすように。
顔と手を拭くと、音吉がグラスを差し出して待っていた。いつの間にか藤色の水干に着替え直した音吉が、2Lのミネラルウォーターを我が物顔で冷蔵庫から出して注いでくれたのだ。俺はそれを受け取って一気に飲み干した。
「さっきの鈴次さん、かっこよかったよ」音吉は自分もミネラルウォーターを飲みながら言う。
「からかうな」俺はにししと笑う音吉を軽く小突いた。
部屋に入り、溜息をひとつ吐く。その溜息には一言では到底表せない感情が詰まっていた。
去り際、里に新たな火種を残してきたことについて後悔する気持ちがないではないが、まあ、おそらく、――希望的観測も多かれ少なかれあるだろうが、殺伐とした悪い展開にはならないだろうという予感はしている。衝突はするだろうし、認めてもくれないだろうが、それでもどのみち俺は突き進まねばならない。
「疲れたな」俺は片付け途中の散らかった部屋を見て呟く。
色々なことがありすぎた。こんな密度の高い二日間を過ごしたのは生まれて初めてだ。そしてそれはまだ終わりでなく、これからしなければならないことは山程ある。
口の閉じた段ボール、口の開いた段ボール、開きっぱなしのタンス。それらを見て、そういえばもう引っ越しの必要性がほぼなくなっていることに思い至る。〝話し合い〟にはこちらから出向くし、霊狐たちが問答無用で襲い掛かってくることもないはずだ。
それでも、やっぱり俺は引っ越しを続けようと思った。何かを新しく始めるには、この部屋は余りに狭すぎる。
「疲れたね」音吉が座りながら言う。
「まったくだ」俺も音吉の隣に座る。
「今日はもう片付けの続きをする気にはならないよ」音吉が俺の手を取る。
「同感だ」
「お疲れ様、鈴次さん」労わるように手を撫でる。
俺は無言で音吉の手を取り抱き寄せた。脇を抱え、背後から強く抱き締める。
「本当に疲れたのはいったい誰だ」戸惑う音吉の耳に囁いた。「すまない、苦労を掛けて」
思い出すことができなくて音吉には多大な迷惑と苦労を掛けた。俺のために里を捨てさせ、家族を捨てさせた。それだけではなかった。遥か昔、俺のせいで里が壊滅し、自身も捕まり自由を奪われ、いいように使われて最後には命を落とす……。何もかも俺が元凶だったのだ。何て[[rb:業 > ごう]]を抱えた人間なんだ、俺は。
「謝るのはなしだよ」音吉は俺の手をほどく。「おれはこの〝縁〟に満足してる」そうしてくるりと俺のほうを向き、「こうして鈴次さんが思い出した。それでいいんだよ」笑顔のまま頷いた。「そう、それでいい。例え今の状況が[[rb:宿業 > しゅくごう]]なのだとしてもね。考えるべきはこれまでのことじゃなくこれからのことだよ。〝最悪〟から脱したこれからは、きっと目まぐるしく未来が切り開かれていくと思うんだ。――鈴次さんはこうしておれと再会したことをどう思ってる?」
「嬉しいに決まっている」
「じゃ、訊くよ。――その気持ちは過去の自責なんかに負ける程度のものなの?」
はっとして音吉を見る。その目は〝真理〟を見ていた。
「おれだって嬉しいんだ。そんなものに気持ちを台無しにされたくないね」
笑いが出た。ただただ情けなくて。こんなことにも気付けない大馬鹿者なんだ、この俺は。
「お前の言う通りだ」俺は目を伏せる。「情けない男で済まない」一筋の涙が頬を伝った。
「もー、謝るのはなしだってば」音吉は苦笑いで俺の額を指でつついた。「鈴次さんは優しいね。自分より人のことを思えるからこそ苦しいんだ」
「嬉しいことを言ってくれるが、優しくない人間に救いがないのと同様に、優しいだけが取り柄の人間にも救いがないというのが持論だ」
「ほら出た負け犬根性。ここは素直にありがとうって言うところだよ?」
「そうだな、それもそうだ。じゃあ……」
俺はおずおずと音吉に向き直る。気恥ずかしいことこの上ないが、たまには格好つける吉崎鈴次も悪くない。俺は音吉の両肩を強く掴んだ。
思えば感謝と懺悔ばかりしてきた。何度も命を救われて、迷惑を掛けて。それでもこいつはそれでいいと言う。それなら俺が言うべきことは、迷惑を掛けてごめんなさいではなく、迷惑を受け入れてくれてありがとうなのだ。
俺の脳裏に過去の情景が次々と蘇る。山から滑り落ちた時、助けてくれた。傷が治るまで面倒を見てくれた。仲間の仇なのに殺さないでいてくれた。赦してくれた。親身になってくれた。強烈な呪詛返しにより死の淵を彷徨っていたところを救ってくれた。契りを交わしてくれた。愛してくれた。願いを叶えてくれた。そして、本当に生まれ変わって、こうして俺の前に現れてくれた。記憶のない俺を見捨てないでいてくれた。戦う力を持たない俺の命を何度も救ってくれた。
何と言えば一番か、考えようとしてやめた。理屈や言い訳じゃない、素直な気持ちをそのまま伝えるべきなのだと。この状況すべてを踏まえて俺が言うべきは――。
「俺と出会ってくれて、ありがとう」
しみじみと、そんな台詞が出てきた。たぶん予想の外だったのだろう、音吉は目をぱちくりさせてばつが悪そうにはにかんだ。
「何だか壮大なありがとうを言われちゃったね。ちょっぴり照れちゃうよ」
「足りないなら何千回でも言ってやるぞ」
「そんなことされたら恥ずかしさで燃え尽きちゃうよ」
へへへ、と音吉は笑う。本当に、安堵しきった顔だった。胸が苦しくなって、俺は音吉の肩を抱き寄せた。
「自由……なんだな」たぶん、おそらく。
「そうだよ。おれたちを苦しめるやつはもういない」
呪詛を強要させる存在もいない。役人に追われることもない。俺たちは、俺たちの意志で未来を決定することができる。顔を傾けて肩にもたれかかってくるこの小さくて大きな存在と、ずっと一緒に暮らすことができる。
「……実感が湧かないな。こんなにも嬉しいことなのに」
「色々あったからね、疲れてるんだよ。一晩経てば気持ちも落ち着くと思うよ」
「そうかもしれないな。本当に色々あった」
「でも、それはそれとしてさ」
俺の腕の中で、音吉は扇情的な目で俺を見上げた。
「もっと疲れることをしない?」
「そうだな、こんな日の最後には締め括りが必要だ」
余りのわざとらしさにお互い笑いが出た。その愛らしい顔に、俺は母犬が子犬にするように顔を擦り付けた。肩を抱き、背を抱き、頬を擦り付け、今ここにある確かな存在を刻み込むように。存在そのものを慈しむように。音吉の上機嫌な鼻呼吸は、僅かずつ確実に熱を帯びていった。
しかしながら、俺は少しだけ戸惑っていた。俺の脳裏には弥彦として得た強い記憶が焼き付いている。今の俺を突き動かす感情には弥彦が観堂丸を想う思慕の念が多分に含まれている。当然、今の俺は弥彦ではない。記憶と欲求に幾ばくかの齟齬を感じているのだ。
「迷わなくていいんだよ」音吉は母が子を諭すように穏やかに言った。「変に構える必要なんてない。前世に縛られる必要もない。前の姿や立場がどうであれ、今のおれはやっぱり音吉となるべくして生まれてきたんだし、鈴次さんもやっぱり吉崎鈴次以外の何者でもないんだよ」
「俺は俺として」
「そう。そしておれも音吉として、これからの鈴次さんに寄り添っていくよ」
だから、俺は俺なりに音吉を求めればいいのだ。
それは自然な流れだった。目を細めた音吉が、その口を窄めて俺の口に合わせる。俺は肩の手を後頭部にやり、自ら唇を押し付ける。その時、確かな記憶が呼び覚まされた。唇に当たる毛のちくちくとした感触、鼻先に触れる黒鼻の濡れた感触。舌に触れる犬歯の感触。風貌こそまったく違うが、俺はそこにかつての情愛の切っ掛けを見出だした。そして、ずっと願っていた実体での交合が叶うことを大いに喜んだ。
「やっと叶うね」
音吉も同様に喜びを顔に示していた。舌を差し込むと、音吉は甘く鳴いて目を伏せ、背を仰け反らせた。舌が触れ合うたび、絡み合うたび、音吉はぞくぞくと震えながら肩を怒らせた。
へなへなと脱力する音吉をそっと寝せる。潤んだ目が寂しがっていた。一秒たりとも離れることを惜しむように、手を伸ばして俺を求めた。俺はシャツを脱ぎ、音吉の手を取って覆い被さる。華奢で心許ない首筋に舌を這わせ、手を胸に。心音とともに、音吉から幸福の感情が流れてきた。そのまま手でまさぐると、小さな体が軽く跳ねる。俺は音吉の水干に消えろと働き掛けた。音吉の身を包んでいた水干が、半透明になりながら音吉の中に返っていく。
突起があった。平たい胸に形成されるごくごく僅かな隆起の先に、白いふわふわな体毛に守られるようにして、薄い桃色が飛び出ていた。毛を掻き分けてそこに指を触れる。音吉は肩を竦め、足を閉じ、全身を縮めた。俺はひとつの確信のもと、両の手でくりくりとそこに刺激を加える。
「んん……!」
案の定、音吉は猛烈に身を捩った。切なげな目で、更なる刺激を求めて喉奥から声を漏らす。その弱々しい声もろとも、俺は音吉の口に貪り付いた。乳首を人差し指で転がしながら口を吸う。切羽詰まった声が俺の口内でくぐもる。当然、俺の声ではなく刺激に耐える音吉の声だ。なぜこんなに感じているのか理由は解らない。が、それをすることで音吉がこうして喜んでいるのだから、理由なんてどうでもいいのだ。
音吉は喘ぎ声以外に言葉を発しなかった。それは俺とて同じだった。六畳の部屋に、息遣いと、甘く高い声だけが響く。お互いの欲求は、感情は、言葉にせずとも伝わった。嬉しい、気持ちいい、もっと。それらの気持ちは嬌声から、或いは触れた指先から、舌先から、過剰なほど伝わってくる。今や音吉は舌すらも性感帯とし、ぬるりと舐られるたび、感電したように全身に快感を行き渡らせていた。
そして快感の行き着く先はひとつ。一際大きな嬌声とともに、俺の腹にじわりと温かいものが掛かる感覚がした。痙攣する上半身から下に目を向けると、音吉のぷるぷる震える小ぶりな陰茎が、精を吐き出していた。既に脈動は終わっていたが、手を胸から下部へ撫で下ろす際、一度だけピクンと跳ね、鈴口から滲み出た白い水玉が膨れて垂れた。
音吉の腹の上はびしょびしょだった。俺はそれに手を触れる。やはり人間と同じように粘液質ではあったものの、不思議なことにその粘りは徐々に消えてなくなっていった。ちょうど、アセトンやメタノールが跡形もなく揮発していくように。こうして手で触れられる存在であるにも拘らず、やはり人間とは違う理に生きる存在であることを認識せざるを得ない。
消えていく精と生に儚さを感じた俺は、音吉のそれを口に含んだ。思わずしてしまった行為であるが、それは音吉に愛情をぶつける方法として適しているように思えた。目一杯に背伸びした陰茎を舌で包み込むと、なぜだか解らないが酷く心が満ちた。口内で捲れた包皮とその中身、及び包皮を覆い尽くす白く短い柔毛から与えられる様々な感覚が、擽ったくもあり、心地よくもある。音吉が快感を得て、その巡った喜びが伝わってくることが嬉しいのかもしれない。この吉崎鈴次という男の人生において、男の陰茎を咥えて喜ぶことになるとは夢にも思わなかったが。
本当にいいの、と音吉は言った。鈴次さんが望むなら好みの女体に変化するよ、と。
無粋なことを聞くな、と俺は音吉の脇腹を擽った。本質を前に性別などさしたる問題ではない。
桃色のそれは予想に反して無味であり無臭だった。分泌物すらも、舌先に絡みつく粘り気こそ感じるものの味はなかった。ただ、五感以外の感覚が敏感に反応した。それは生命の感覚。陽の気を持つ陽根が、溢れんばかりの生命力を宿していた。俺はその生命力を摂取したいという欲求があるのを感じた。そしてそれとは別に、相反する欲求があることも。即ち音吉を陽でなく陰とするということだ。それらは相反しながらも、音吉を愛するという点ではどちらも同じだった。
徐々に膨れ上がる愛情を、俺はそのままぶつけた。陰茎を執拗に舐め回し、それどころか乳首まで刺激した。泣き声に近い喘ぎが狂おしく情欲を掻き立てた。常に余裕綽々の音吉が、こうやって首にしがみ付いて俺の顔を足で挟み込み、じたばたと踵を背中に打ち付けてくるほど快感に悶えている姿が、胸が張り裂けそうなくらい愛らしいのだ。
喘ぎは最後に悲鳴となり、俺の口の中で音吉は激しく精を撒き散らした。迸りは若きエネルギーを示すように途轍もない勢いを持ち、亀頭の先の割れ目から、五度、六度、情愛の塊を発射させる。味やにおいがなくとも熱はある。俺はその熱とともに確かな生命力を感じながら飲み下した。未だ硬度を残したまま脈動の余震のような軽い痙攣を繰り返す亀頭を軽く刺激し、口を往復させ、じわじわと滲み出る快感の残滓を余すところなく味わった。その微弱な刺激はさながら整理運動のように、音吉の心を落ち着けるとともに、十分な満足感を与えることとなった。
熱に浮かされるような息遣いの中、音吉は虫の鳴くような声で俺の名を呼んだ。蕩けた声、蕩けた顔、蕩けた心。音吉は俺の陰の要求を敏感に察知していると同時に、音吉自身もまたその欲求を強く発していた。早く俺と繋がりたいと、強く強く求めていた。
俺は音吉と頬を擦り合わせたあと、膝立ちになってジーンズのベルトを外し、アラミド繊維の作業服の下にありながら大ダメージを受けてしまった布切れ同然のデニムジーンズ、そして下着を迷うことなく脱ぎ捨てた。
そう低くない室温ですらひんやりと感じるほど、俺のそれは濡れに濡れていた。音吉の感情に当てられて、そして俺自身から沸々と湧き上がる欲求に突き動かされ、先端から獣のように涎を垂らさんとしていた。音吉が浮いた目で視線を送ってきていた。一刻も早い和合を、急かしていた。
頭の中での交わりと違い、挿入には強い抵抗と摩擦が伴った。音吉は全身を強張らせ、苦しげな呻き声を上げる。不安になって動きを止めると、大丈夫、と音吉は微笑んだ。大丈夫、ちゃんと入るから。
「ひょっとして慣れていたりするのか?」
「経験がまるでないわけじゃないよ。鬼怒丸や八千助と少しね、――まあ、昔の話だけど」
「そうか」
それに対して軽く嫉妬する気持ちがないではないが、それは所詮人間の常識に過ぎない。それにそれが常識であろうとなかろうと、それはもはや過去の話だ。音吉が音吉でなくなるわけではないし、気持ちが薄れるわけでもない。むしろ対抗心のようなものが湧き上がった。
「鈴次さんがいい人で嬉しいよ」
「いい人なんて言われたのは生まれて初めてだ」
「じゃ、これから毎日言ってあげる」
そう言って音吉は目を伏せて続きをせがんだ。まったく、これから毎日いい人にならなければならないじゃないか。
いい人の俺は、陰茎の挿入をよりゆっくりと行った。内壁の抵抗を受けながら、陰茎は僅かずつ確かに奥に進んだ。音吉は歯を食い縛っていた。それは幾ばくかの苦痛に耐える意味合いもあったが、しかし音吉はその中に確かな快感を受け取っていた。自身の陰門からもたらされる苦しみともどかしさを、むしろ楽しんでいた。しかし挿入が半ばを過ぎた頃、その抵抗はいきなりなくなる。
「うあっ!」
陰茎はずるりと一気に奥まで突き刺さり、音吉の全身の体毛がぶわっと逆立った。同時に、びゅ、と陰茎の先端から一度だけ精が飛び出した。突然の大きな刺激でぷるぷる震える音吉を宥めるように、俺は胸から腹にかけてを撫で、肩から腕を撫で、頭から首へ、逆立った毛を戻すように撫でていった。
しおらしく耳を倒した音吉が両手を伸ばした。俺は要求に応え、体を前に倒す。音吉が首に手を回し、ぎゅっと抱き着いてきた。やっと繋がれたという喜びを、伝えるかの如く。
浮いた背に手を差し入れると、そこには音吉の熱が籠っていた。熱くて強い、生命力の証。――ドクン、と鼓動が聞こえた。それは手を触れた背から受ける心音ではなく、もっと下部、そう、俺の陰茎が突き刺さっている、その内部からのものだ。体内ということもあるのだろう、そこは更に熱を帯びていた。喜びと興奮で、さながらそこが心臓のように、強く大きく脈打ちながら、陰茎を包み込んでいた。
俺は音吉を抱え上げる。脱力している音吉はかくんと首を折ったまま擡げる力を入れることができないでいた。姿勢が上がっていくにつれ音吉が微弱に痙攣を始める。陰茎による圧迫感が途轍もない快感を生み出しているのだ。今まさに音吉が受けているであろう感覚を、俺は〝受ける側〟として記憶している。音吉は今、陽を受け入れる陰の存在となっているのだ。
やがて上体がほぼ垂直まで起きると、音吉は折れていた首を持ち上げる。半開きの目と口のまま、辛うじて平静を保っていた。その余裕のない口に、俺はもう一度口を付け、乳首を刺激する。はぁ、と息を漏らしながら、音吉はぞくぞくと背を仰け反らせた。
「離すなよ」
命綱のように首に巻き付いている音吉の腕に、ぎゅっと力が入る。それを確認し、一度弾みを付ける。音吉の腰が持ち上がり、それに伴って陰茎が僅かに抜け、再び刺さる。音吉が声を漏らし、ぶるっと震えた。
現実世界では正しく働く重力が邪魔をして、なかなかスムーズに動くことができない。それも記憶と現実の齟齬といえる。が、別にそれでよかった。時間を掛けて愛し合うことの、いったいどこに問題があろうか。ゆさり、ゆさり、ゆさりと、スローペースで突き入れ、それに合わせて音吉は鳴く。音吉は確かに感じていて、そしてこの行為を楽しみ、喜んでいた。
ただ、その快感とは裏腹に、音吉の陰茎は硬度を落としつつあった。先端から白濁を垂らしてはいるが、それは勃起が治まることで尿道に残っていたものが流れ出ているに過ぎず、新たに分泌されたものではなかった。「あ、あ、ああっ!」――きゅうっと、音吉の直腸内が収縮する感覚がした。つまりはそういうことなのだ。
射精を伴わず大きく痙攣しながら絶頂した音吉は、倒れ込むようにもたれてきた。俺の胸に顔を埋め、強すぎる快感に耐える。しかしそれは音吉にとってはまずかったかもしれない。今、音吉の下半身は膝立ちになっていて、尻が浮いている。つまり俺がスムーズな突き入れを行うことができるようになったということだ。
「う、ぃ……っ」
心の準備が整わない状態でのペースアップに音吉は酷く面食らっていた。俺の目を泣きそうに見つめ、しかしずるずると抜き差しのスピードが変わらないことに焦り、徐々に悲鳴を上げ始める。身を捩り、逃れようとする。しかし俺の右手は音吉の背を抱え込んで離さない。膝を折って座り込もうとする。しかし俺は更に後方に倒れ込み、それを許さない。音吉は険しい顔で耐えながらも何とか俺を睨むような表情を繕った。このイジワル、と涙目が言っていた。睨みながら、それはまたもや襲う絶頂に情けなく歪められた。先ほどよりも大きな痙攣は、見ている俺を不安にさせるほどだった。
しかし、こうまで切羽詰まりながらも、止まない突き入れに悶えながらも、音吉は決してやめてとは言わなかった。苦しいまでの快感に、こいつは狂いたがっていた。ガクガクと全身を震わせながら、すっかり萎えてしまった幼い性器をぷるぷると震わせながら、この際だからもう目一杯までやってしまってほしいと、強くではないが訴えていた。俺は音吉の背を撫で、尾を撫で、尻を撫で、そうして身を起こした。体勢を変えるためだ。ぐり、と肛内が圧迫され、音吉はまた鈍く呻きながら仰け反った。
出来上がった音吉はもはやされるがままだった。ゆっくりと仰向けに寝かせ、尾を背に敷き込まないよう前に通し、今度は俺が膝立ちになって覆い被さる。目端に涙を溜めた音吉と目が合う。音吉は不安げな表情を浮かべている。しかし肛内はぴくぴくと喜びと期待に沸いていた。俺は音吉の頬を撫でた。ほんの僅かながら、安心の感情が伝わってきた。
この体勢であれば、その気になれば滅茶苦茶にスピードを速めることだってできた。しかし俺はそうしなかった。ゆっくりと抜き、ゆっくりと挿す。それを繰り返した。その緩やかな刺激は音吉の尻には物足りないかもしれないが、表情は安堵そのものだった。音吉を鳴かせたいという悪戯心は、暫しあとに取っておく。
徐々に速まるペースとともに、快感も高まっていく。音吉がまた絶頂に震える。じたばたと暴れ回る手を、俺は押さえ付けた。行き場をなくした快感が、音吉の胴体を魚のように跳ねさせる。俺はその荒ぶりを全身でもって押さえ付け、
「ん、う、うぅ……」
呻き声を上げる唇すらも塞いだ。全身を駆け巡る快感を逃がせなくなり、代わりに体内が激しく動いた。突き入れの中にあっても、音吉の肛内で凄まじい蠕動運動が起きているのを感じた。
受け入れる準備はできている。受け入れたいと望んでいる。俺は唇を離す。
「れ……い…………っ」
快感に支配されながら、脳を揺さぶられながら、顎をガクガクさせながら、音吉はそれでも俺の名を呼ぼうとした。お願い、鈴次さん。俺はその要求に応えるべく、突き入れの速度を極限まで速める。
「いあ、あっ、う、あっ、ああああああっ!!」
乱暴なまでに突き入れながら、俺は音吉の名を連呼した。音吉はもはやまともな言葉を発せない。それでも強く俺を求めていた。押さえ付けられている手が、俺を求めていた。俺は手の平を音吉の手の平に合わせた。音吉の身の内に幸福感が満ちる。音吉が手を握り返す。
「音吉、音吉……」
蠢く腸壁が絡み付く。高まる欲望、高まる衝動。そして音吉が一際大きな絶叫を上げる。首だけで体が持ち上がるほど大きく仰け反って痙攣し、収縮する腸壁がぎゅうっと陰茎を締め上げた。
「音吉……っ!」
そうして俺は音吉の絶叫の中、すべてを〝そこ〟に放った。欲のすべてが熱と化し、大きく脈動する陰茎から放たれる熱が、何度も激しく内壁に打ち付け、内にある熱の塊を貫きながら溶け合った。音吉は全身を強張らせて長く呻いた。熱の流入を感じながら、その喜びに浸るように。俺にはその熱が、物理的干渉を超えて音吉の中心に向かったような錯覚を受けた。
糸が切れたように音吉の緊張が解れる。背が着地し、肩が下り、俺の手に食い込んでいた手の力が抜ける。俺の手の甲にはくっきりと指の跡が残っていた。音吉は止まっていたらしい息を吐き、だらしなく口を開けたまま小刻みに呼吸を繰り返した。目を閉じ、呼吸を整え、時たま快感の余韻にビクンと跳ねる。俺が頬に手を遣ると、音吉はまた軽く跳ね、焦点の合わない廃人のような目を薄く開く。
「激し……すぎだよ」
「そうしたい気持ち、そうしてほしい気持ち。これらが一致しただけだ」
「……イジワル」
頭を撫でてやると、音吉は再び目を閉じる。
「生身って……こんなに、疲れるん、だね……。頭が……ふわふわ、する…………」
そう言って少し苦し気に「ううん」と呻く。肛内は微弱ながら未だ蠢いていた。音吉の全身は未だ快感に満ちていた。少し動くだけで軽く絶頂を誘発してしまうような、そんな極致に今の音吉はあった。俺は敢えて口を触れさせる。ん、と音吉が鳴く。俺は敢えて名を囁く。その声にすら快感を得ていた。
ある時、音吉は密着している腹に手を差し入れる。自らの腹を撫でながら、熱い、と。俺もそこを撫でながら、そこで何が起きているか確信していた。俺は音吉の手を腹の上で握る。その現象が俺の人間としての人生にどういう変化をもたらすか、十分に解った上で、それでも俺は音吉の目を強く見つめ、はっきりと言った。
愛している――音吉の目と脳が蕩けるのが判った。いじらしい目付きで、潤んだ目で、俺を見ていた。人ならざる存在と、人ならざる子を成すことの、すべてを受け入れた俺を。
「おれを娶ってくれますか?」
「幸せにすると誓おう」
その瞬間、音吉はくしゃくしゃに顔を歪めて泣き始めた。俺を無理やり抱き寄せ、顔を埋め、声を上げて。ここへきてようやっと実感が湧いたみたいに。
音吉をあやすように撫でながら、けれどそうではないことを知る。その涙は音吉が音吉として生まれ育つ過程において、一瞬たりとも離れることなく付き纏い続けていた使命感から解放された、その安堵から来ている涙なのだ。音吉は生まれた瞬間から音吉でないものになることを宿命付けられていた。片割れの俺が思い出さなかったことで、音吉がそうやって歩んできた人生が、或いは無に帰してしまうかもしれない……そんな不安を抱えさせてしまっていた。
俺は音吉と違って記憶を有さない状態で長く人生を歩んできた。記憶が馴染みきっていない今の俺は、弥彦としての記憶に強く突き動かされているといっていい。が、それと同時に俺は俺としてこの音吉という存在が堪らなく愛おしいと思っている確信がある。正直なところ、戸惑いがないといえば嘘になる。しかし、それでも俺は失われていた記憶を含めて俺なのであり、俺がこれからすることは、吉崎鈴次として音吉を愛することなのだ。
震える手でしがみ付く音吉の背を撫でながら、これから末永くよろしく、という気持ちを込め、俺は強く抱擁した。音吉も同じように抱擁を返した。ぎゅっと背に掛かる力で、心が満たされていく気がした。俺の歩んできた人生が、価値あるものに変化した気がした。
神仏から分離しているいないに拘らず、霊狐にとって、願いは力。それは人間にとっても同じことではないだろうか。そして、求め合うということはお互いがお互いに力を与え合うことなのだ。
もしこんなことを音吉に言えば、何だか「クサい」とからかわれてしまいそうな気がする。だから、離れたがらない音吉を布団に運びながら、俺は心で思うだけに止めた。
布団に寝せ、一緒に布団を被り、電気を消す。
「おやすみ」
そして、また明日。今夜はよく眠れそうだ。
[newpage]
[chapter:弐拾壱]
毛色も違えば容姿も似付かない。けれど、音吉が纏う雰囲気は観堂丸のものが多分に含まれているように思えたし、目力には確かに観堂丸の面影を感じることができた。そうして見ると、もしかすると観堂丸の幼い頃はこんなだったかもしれないなんて偉そうにしみじみと思ってしまう。神仏の眷属として生まれた彼に幼い頃があるかは解らないけれど。
僕抜きでも、二人はちゃんと二人なりに固く結びついていた。
それはそれでちょっとだけ寂しい気もする。けれど、僕は望み通りにこうして彼らの営みを見届けることができた。僕として思い残すことは、そう、もう何もない。僕はこれから、トンネルの中で見てきた最後の記憶たちを引き連れて、吉崎鈴次と完全に同化する。
たぶん、何も変わりはすまい。ふと思い出せる過去の記憶が増えている、ただそれだけのことだ。欲を言えば、僕が弥彦として偽りの世界を生きてきたことや、僕が僕としてこのトンネルを通ったことなんかをちゃんと思い出してくれれば一番だけれど、それは望みすぎかもしれない。だから、もしそうなれば嬉しいな、と思う程度にしよう。
そうして僕は目を閉じる。実体なんてないのだけれど、目を閉じたことにする。体の繋ぎがなくなって、僕が溶けていく。寝起きのスポーツドリンクが全身に行き渡るように。もしくは、ダマになった粉体試薬が超音波装置に掛けられ、見る間に水に溶けていくように。僕は最後に、観堂丸への思慕の念を浮かべながら、大きな流れに身を委ねた。
寝ている鈴次の手が、寝ている音吉の頭を優しく撫でた。
[newpage]
[chapter:二十二]
一月は往ぬるとはよく言ったもので、年が明けて色々しているうちに、気付けばもう半分が過ぎている。そして気付けば朝の八時を越えている。枕元の時計を見て俺は飛び上がった。
やばい、寝過ごした。昨夜夜更かしして〝ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生〟を観てしまったせいに違いない。
慌てて階段を下りると、何やら味噌汁のいい匂いが漂っている。俺は申し訳ない気持ちになって台所の暖簾をくぐった。
「あ、おはよう鈴次さん」おたまを手にした音吉が清々しく声を掛けてきた。
「悪い。代わるよ」
同じように映画を観て同じ時間に寝たはずの音吉に全部やらせてしまった。まったく、隣に寝ているのだから起こしてくれればいいものを。
「いいよ、もうできるしゆっくりしてて」
「チビは?」
「あー、まあ、見てくれてる」
「参ったな」
ばつが悪くなって頭を掻く俺に歯を見せて笑い、音吉は鍋と魚焼きグリルに戻った。
閉じた襖の隙間からそっと居間を覗くと、まず走り回る幼狐が目に入った。部屋中を四つ足で跳ね回り、思い出したようにその場の二人に順番に突進する。そこにいるのはどちらも霊狐で、人間でいえば中年程度の男女だ。二人ともラフな紫の着流し姿で、男のほうは胡坐で腕を組み、女のほうは両手を正座の上で揃えている。そして、二人して俺の目を的確に捉える。
やれやれ、狐はこれだから困る。覚悟を決めて襖を開けると、俺の姿を認めた子狐が猛ダッシュで駆けてきた。俺は突進を受け止め、畳にひっくり返し、わちゃわちゃと腹を撫でてやる。甘噛みを軽く叱り、脇を抱えて顔の高さに持ち上げる。
手足の先が黒く、耳の裏も黒く、そしてまだ丸い顔に浮かぶ爛々とした目は、音吉を思わせる琥珀色だ。音吉よりは幾分か色は濃いが、幼いながらに聡明に見える目付きは将来を期待させるものだ。余り俺に似ている要素が見当たらないのは寂しいところだが、その楽しみは、こいつが二足に化けられるようになってからに取っておこう。今はこのやんちゃな聞かん坊の時期を楽しもう。
名前は初之助だ。由来は……そう素晴らしいものではないし言わないでおくが、二人で納得して付けた名前であることは確かだ。ふざけて「観堂丸」はどうだ、と言ってみたが、どうやら「丸」というのは元服で成人に付けられる一般的な添え字で、幼名には向かないらしい。それに……、と音吉は白々しく言った。諸事情により観堂丸という名は忌まわしいものとされているんだよ、と。いやはや、身が竦む思いだ。
子狐の相手はそこそこに、俺は丁寧に正座をして朝の挨拶をするが、案の定ねちねちと嫌味を言われた。音吉一人に家事を任せるとは何事か、そんな男に息子はやれんぞ……とまあ、隠さず言うとこの二人は音吉の両親だ。父親のほうは常に仏頂面で会うたびに重箱の隅をつつくように俺の落ち度を責めてくるが、その嫌味は別に俺への嫌がらせというわけではなく一種のコミュニケーションのようなものだ。
とはいえ居心地の悪い茶番であることは確かなのだが、幸いなことに母親のほうがそれを仲裁してくれる。何だかんだで二人とも孫ができて嬉しいらしい。こんな風に朝早くから顔を見せにやってくることだし。とりあえず殺伐とした関係にならなくて済みそうだ。もっとも、父親のほうに問答無用で刺し殺されそうになった過去があるにはあるが、まあ、それは水に流しておく。俺はいい人なのだ。たまに鬼怒丸が来ることもあるが、あいつのは本気の嫌味だから俺も嫌味を返す。
里はもちろん俺を許すことはなかった。それもそうだろう、米津姫騒動が治まらない中、不謹慎にも子作りなどして火に油を注いでしまったのだ。こうして俺の罪はまたひとつ増えたわけだが、死罪を言い渡されることもなかったし、誰かが刺客としてやってくることもなかった。放っておいたらおそらくそういう展開になっていたのだろうが、それを宥めて止めてくれた人物がいるのだ。俺の罰は懲役三年という軽い刑に留まった。今の俺は仮保釈中のようなものだ。
「おーっす、邪魔するぞ」
「げ」
その人物がやってきた。縁側からずかずかと上がり込んできたのは、白衣に赤の長袴という巫女服に身を包んだ、音吉よりももっと若い霊狐の少年だ。初之助が大喜びで駆けていった。おーよしよし、と飛び付いた初を受け止め、そいつは甘噛みを気にせず撫で摩る。
「これは姫、ご機嫌麗しゅう」
「こんな子供にやめてよ親父さん」
居心地が悪そうに笑いながらそいつも姿勢を低くする。そうして次に俺を見て、
「よう罪人」にやにやしながら霊狐の少年は言った。
「またそんなものを着やがってクソガキ」俺も憎まれ口を返す。
「貴様、姫にそんな口を」
音吉の父が俺を叱るが知ったことではない。俺にはこいつの機嫌を取る理由がないからだ。
こいつは、新生米津姫その人だった。姫だが、何と男に変わってしまったのだ。そんなびっくり現象に対し、里の連中はたいそう戸惑ったという話だ。確かに米津姫が取り込んだ八千助も与次郎も男だが、米津姫の力はその二名を足したよりも遥かに強い。現に意識の主体は姫のものなのに、一体全体どういうことだろうかと。
まあ、いくら論じたところで起きたことが覆るわけでもない。仕方なく現在新たな名を決めるべく議論を重ねているようだ。それまでは男なのに姫と呼ばれることになるが、本人はこれで満更でもないらしく、巫女服を着ているところからも窺える通り、生前に愛用していた着物の姿になったり女言葉を遣ったりして周囲を惑わす困り者なのだとか。
こうなった原因について、俺たちと米津姫本人だけが知っている。米津姫の主たる力の根源は、他でもない俺から与えられた力なのだ。俺の中の弥彦が願い、授かった生命の塊、それが生きたいと願う米津姫の意志に引っ張られ、同化した。言わば今の米津姫は俺の分身のようであり子供のようでもある複雑な事情を持つ存在ということになる。
そんな俺の一部を吸収したことで、米津姫は俺たちに秘められた事情についてかなり深いところまで知ってしまっている。が、それを他言する気はないらしい。自分の命が今あるのは俺たちのおかげという理由もあるし、前世からの繋がりが実を結んだ奇跡を純粋に祝福する気持ちも大いにある。俺に対して厳しく当たるクソガキだが、まあ、そう悪くは思っていないようだ。俺の罪が軽くなったのも彼(彼女)が里の皆を説得してくれたからといっていいし、与次郎や八千助の遺族にも、自分たちは米津姫の中でちゃんと生きているから安心してほしいと言った。こう言ってはあれだが、彼は結果的にふたつの里を取り持つ懸け橋のような存在となったといえる。
「おい、何しに来やがったクソガキ」膳を手にした音吉が入るなり言った。
「音吉様ぁ、お早う御座いまぁす」米津姫はくねくねと音吉に近寄っていく。
ただ、俺たちに対する配慮とは話が別らしく、米津姫は音吉へのアタックをやめるつもりはないらしい。こんな風に俺の目の前で音吉の手を取ってイチャイチャしようとしたり、ある時など俺が不在の時を狙って[[rb:襦袢 > じゅばん]]姿で家に押し掛けて里の老人たちに連れ戻されたこともあったとかなんとか。
「うるせえ、おめえの飯はねえからな」
当の音吉はこんな風に素っ気なく米津姫の手を払っているが、子育てに加えてうるさい弟分ができてしまった音吉の心労を考えると涙が出そうになる。
「構いません、もう食べて参りましたので」
とはいえ、これから四人の食事が始まるのに何も出さないのも礼儀を欠く。茶を入れ、冷蔵庫にあった稲荷寿司を提供してやった。
居心地の悪い朝食を無事終え、音吉と初は三人の霊狐とともに里に向かった。里に連れて行かず、音吉の両親や米津姫がこの家で愛孫の面倒を見てくれることもあるが、基本的には毎日里に連れて行き、俺の仕事が終わるまでそこで遊ばせている。人間の俺とは違い、子供はきちんと受け入れてくれているのだ。音吉のほうも、まあ居心地が良いかどうかは判らないが、鬼怒丸が親身になってくれているという話もあるし、いい感じに関係が修復されていっているのではないだろうか。認められていないのは俺だけだが、俺もそのうち表向きだけでも許されるだろうと思っている。たぶん。その暁には、――まあ人間式か霊狐式かは判らないが、祝言を挙げたいと思う。できれば母も同席で。
母は今も施設にいるが、今はちゃんと受け答えもするし、以前より足腰も丈夫になってきている。そして、七十五になって、漸く母は狐の存在を認めた。自分の家系に取り憑いた憑き物狐を、身の内に受け入れたのだ。死に掛けだった憑き物狐は順調に回復し、今では母の膝の上がお気に入りの場所となっている。
それには稲荷の眷属霊狐の力添えが大きいといえる。決して少ないとはいえない借金を背負い、体に不調を来し、息子は家を出て一人暮らしを始める……。母は徐々に〝よくない感情〟に蝕まれていった。半ば無理やり施設に入ることになり、神棚を放置してしまったことを日々懺悔する母の強い信仰心もあったのだろう、見かねた眷属霊狐が母に取り憑いて歯止めを掛けた。母の内でどんな対話をしたか、それは俺には知り得ないことだが、今、母はこうしてある程度まともな生活ができるようになっている。音吉とともに面会に行った際、音吉の姿は見えてはいなかったはずだったが、悟ったような、諦めたような、けれど穏やかな顔で俺の顔を見た。
葛藤は強かろうが、それでも狐と縁を切ることのできなかった息子を、受け入れようとしていた。そこにもはや何者かの〝認識の操作〟が存在していないことは音吉が強く断言した。複雑な気持ちだが、俺は稲荷の眷属霊狐に感謝をしなければならない。初之助が二足の姿に化けられるくらいまで成長すれば、俺は母を家に連れて帰ろうと思っている。
四つ足で駆けていく音吉たちを見送り、俺は音吉が触れたがらない神棚の日課に掛かることにした。
水を入れ替えた榊立てを両手に持ち、仏間に入り、踏み台に足を掛けて上る。会社であれば見事に不安全行動として注意される行為だが、もはや俺を咎める上司も同僚もいない。年が明ける前に仕事をやめたからだ。
榊を神棚前方の左右に置く。埃の一切なくなったピカピカの神棚に、御札が二枚立てかけてある。一枚はつい先日初詣に行った氏神神社の御札、もう一枚は、隣県にある福丸稲荷神社の御札だ。中に入りたがらない音吉を外に残して一人で参拝したが、特に誰かと話をすることはなかった。何か威厳のある眷属霊狐がいたのを見かけはしたが、向こうから話しかけてくることもなかったし、こちらから話をしにいくこともしなかった。いくら地元でないとはいえ、何もない空間に話しかける不審者にはなりたくないからだ。おそらく宮司にも狐の姿は見えていないだろうし。感謝は金額で決まるわけではないが、そこそこの賽銭をし、拝礼し、神札を授かって帰った。ただそれだけだ。
「供物はまだか」にゅっと出てきた半透明の狐が威圧的に顔を近づけてきた。
「はいはいもうちょっと待ってくださいね」俺はいやみったらしく言ってやった。だいたいこいつら(母から抜けた一匹が加わり二匹に増えた)は供え物に含まれる〝気〟を食べるだけでいいくせにちゃっかりと全部食べやがる。要求するものは油揚げや稲荷寿司ばかり。米とか塩じゃなかったのか。[[rb:神饌 > しんせん]]は人に還元してこそじゃなかったのか。
「わしらが見えておる相手に遠慮をする必要などなかろう」
とまあ、そういうことだ。だから米や塩より油揚げがいいし、実際に舌で味わいたいという身勝手な都合なのだ。御下がりで使うこともできず、何とも家計にやさしくない。そのぶん何かご利益でもあればいいのだが、それを口にすると、
「『いい報いを受けるために善をするならそれは善ではなくなってしまう』という言葉がある」などと減らず口を叩きやがる。
もちろん俺のほうも「しない善よりする偽善」と減らず口を返してやる。まあ、それなりにうまくやっているつもりだ。今晩は油揚げを持ち帰って供えてやろう。出汁の染みた、美味い油揚げを。家で作れればいいのだが、生憎俺の料理スキルはまだそこには至っていない。あの味に到達するには修行が必要だろう。
トップバリュの安い油揚げを厳かに捧げ、ふたつのブーイングを受けながらいやみったらしく祝詞を上げ、仏間を出た。そして支度をし、車に乗り込む。
何というか、賑やかな生活になった。人間は俺だけで回りはどいつも狐ばかりだが、俺はこの通りしっかりと日々を楽しんでいる。人生はなるようにしかならない。なるようになった人生が今の人生だし、これからもそうだ。しかしそれは外からやってくる変化をただ「仕方のないもの」と受け入れるという意味ではない。変化する世をありのまま受け入れ、同調し、同調できないものに対してはぶつかるか避ければいい。それだけなのだ。俺はそれで仕事をやめることにした。
少し期待はしていたものの、記憶が完全に戻ったからといって、俺がいきなり〝できる男〟になるわけではなかった。色々な存在に負けてしまう不完全人間な俺の性質は、魂の半分が封印されていたからとかいう都合のいいものではなく、どうやら生来備わっていた特性らしい。
別にそれに絶望したわけではない。得意分野が違うのだと見切りを付けたのだ。俺には理屈でなく感性を頼りに本能的に動く作業が向いている、それを確信しただけだ。法律に反しないよう早めの退職宣言をし、有給消化を含めてちゃっかりボーナスの時期を跨いでから六年間務めた会社を離れた。
では俺に向いている仕事とは何だろうかと考えた時、ふとある重要なことを思い出した。
役目を終えて静かに消えようとしていた大将を、俺は強く引き留めた。俺だけではない、俺が大将の認識の操作を打ち消したことで続々とやってきた客たちも、声を揃えて要求したのだ。これからもここのうどんを食わせてくれ、と。
信仰の方向性は違うが、皆の願いはこれまで通り確かに大将を現世に留め置くだけの力になったようだ。いつまで存在できるか判りませんが、やるだけやってみましょう――数百年もの時を俺たちの願いのために生き延びてくれた大将は、また暫く留まってくれるようだ。
そうして俺は仙狸庵の跡を継ぐべく大将の教えを受けることになった。味付けなどはまだまだだが、麺を打つのはそこそこ筋があると褒められた。まあ、こちとら小麦を練ることには長けている。とはいえ大将の年季に比べると釈迦の右手の先から左手の先ほどの差があるから、仕込みからすべて任されることになるのはいつになるやら。もっとも、いくらスキルアップをしようとも刑期を終えるまではこの店を任せてもらえることはないのだが。
俺のうどん作りの腕が一定以上になれば、霊狐の里で霊狐どもにうどんを提供する。それを三年間続けること。……ちょっとおかしいようだが、この里への奉公が俺への刑罰だ。霊狐たちの言い分、俺の人間の法律で裁くべきという言い分、そして米津姫の口添えすべてを考慮した結果、こんなふうになったのだ。現在、音吉を含む若狐たちが田園の中に仙狸庵二号店を建設中だ。ああ、それと晴れて分離荼枳尼との結び付きがなくなったおかげで音吉が霊狐としての力の使い方を身につけることができ、いよいよ手が付けられなくなったというのも俺の罰が軽減された理由に含まれるかもしれない。いずれにせよ俺はそれを真摯に受け入れるつもりだ。
「早く私の役目を終えさせてくださいよ」
そういうわけで、毎日毎日こうして笑顔のプレッシャーを掛けられながら、俺は穏やかな気持ちでうどん作りに励んでいる。
俺は、いつぞやこの仙狸庵にやってきていた黒ワンピースの女性が言った、「数奇な運命にある」との言葉を思い出した。もうひとつ、「何が起きても運命はひとつ」というフレーズも。
それが正しいことかどうか、今の俺にも判らない。ただ、判ったところでどうなるものでもないということは解るようになった。だって俺は人間なのだ。そう、今できることをやる、それに尽きる。日々懸命に働き、他者の人間性を尊重し、そして笑顔の絶えない家庭を築き、それを守る。それが俺の目下の目標だ。
とはいえ何も言い返せないのは悔しい。だから、俺は考えに考えてこんな結論を出した。
「運命は変わらずとも運勢は変えられる」
人間が辿り着く哲学としては、なかなかに味があるのではないだろうか。
俺の呟きを聞いていた大将は、まあ悪くないといった感じで朗らかに笑んでいた。
―終―
[newpage]
[chapter:あとがき]
皆さんこんにちは、はじめましての方ははじめまして、軟体動物TACOです。まずは本書をお手に取ってくださいまして、まことにありがとうございます。
今回お届けいたしましたこの「狐の嫁いらず」ですが、眷属の狐のみならず神は出てくるわ仏は出てくるわ、なかなか大胆なことをしてしまったと思っています。その道にいらっしゃる方からすれば大激怒させてしまいそうな設定がたくさんありますが、どうか有識者の方々におかれましては、無神論者の考え出した愚かな創作神仏観ということでご容赦いただければと思います。
狐は以前から好きではあったのですが、知識と呼べるものはまったくといっていいほどありませんでした。今回このお話を書くにあたって色々と調べを進めたところ、その奥深さにただただ嘆息するばかり。きつねすごい。古い。歴史がある。かっこいい。かわいい。
一口に狐といっても、野ぎつね、稲荷の眷属狐、それから日本や中国に古くから伝わる妖狐たちなど様々です。神仏の眷属狐(霊狐)と妖狐を今回は設定上どうしても別々の存在として扱わざるを得ませんでしたが、一般的にはだいたい同じような存在のようですね。もちろん説も色々なので一概には言えないのですが……。
そんなことより、「稲荷とは稲荷神で神道の神様である」とずっと思っていたのですが、何と仏教にも稲荷がある!? というのが当初の驚きでした。そこから複雑な歴史と神仏習合の深みに足を取られ身動きが取れなくなることに。神と仏が同一視されたことに、今でも違和感が付いて回ります。
仏教系の稲荷は愛知県の豊川稲荷がもっとも有名(らしい)です。本尊は千手観音ですが、鎮守として「[[rb:豊川吒枳尼真天 > とよかわだきにしんてん]]」が祀られています。京都の伏見稲荷大社などと並び、日本三大稲荷と称されることが多いそうです。ちなみにですが、日本三大稲荷に挙げられる神社仏閣は何と何と十四にのぼるそうですよ!!…………?
このお話を書き始めて興味が湧き、地元愛媛のお稲荷さん巡りをするようになりました。そこで気付いたのは稲荷神社は数あれど主祭神が稲荷の神社は少ないということですね。少なくとも近隣には。そんな中、松山市の伊豫稲荷神社は主祭神をウカノミタマノオオカミとしており、(おそらく)愛媛で一番大きな稲荷神社です。日本六稲荷に挙げられることがあるほど大きいし、仏教と強く結びついていた形跡が見られて面白いし(荼枳尼天も祀られています)、何と地名が稲荷なんですよ。地域と神社が密着していることもうかがえます。ほかにも宇和島市には仏教系稲荷の龍光寺があり、本尊は十一面観音です。稲荷神の[[rb:本地仏 > ほんじぶつ]]は荼枳尼だけではないのです。こちらはまだ訪れていませんが、そのうち行ってみたいですね。県内だけでなく、いつか伏見稲荷大社や豊川稲荷にも行きたいものです。
資料とまではいかないので参考書籍のほうには載せておりませんが、陰陽師や時代の雰囲気を知るためにそれっぽい漫画や小説を読み漁りました。特に歴史については学生時代にアレルギーを起こすほど嫌いでしたし、学研から出ている「日本の歴史」という漫画シリーズにはお世話になりました。夢枕獏「陰陽師」も小説版でなく漫画版で読み、あと、そう、あとあとあと!
三田村信行の「風の陰陽師」ですね。この本は素晴らしいです。ある意味、素晴らしいです。表紙だけ見ると普通の陰陽師小説なんですが、ものすごく可愛い狐の男の子たちが出てくるんですよ。挿絵にもばっちり出ますし、何と三巻の表紙をめくった口絵には二匹仲良くおねんねするカラーイラストまで!(同じポプラ社発行でも<ポプラ文庫ピュアフル>のほうには無いかもしれません)
水干をはじめとする和服の狐が好きになったのは間違いなくこの本の影響です。本当に狐が可愛いので皆さん是非、そう、是非、ぜ、ひ……。あー、その、ええ、……いえ、その、本当に狐が可愛いです。本当に狐が可愛いですよ! ※何があってもTACOは責任を負わないものとする。
ちょっと過剰な含みを持たせてしまいましたが普通にスリル満点で俗説に基づきしっかりした地盤を持つ陰陽師陰陽師している良い小説です。晴明VS道満といったお約束バトルもありますし!
さて、気付けば猶予はあとわずか。裏話とかしたかったのですが、つい熱が入りすぎました。名残惜しいですがそろそろあとがきを纏めにかかりたいと思います。
同人活動は今回が初めてでして、これまで文章を書いてピクシブにアップするだけの活動しかしてこなかったタコは、ひとつの本にするという作業がこんなにも大変なことだとは知りませんでした。本文書くだけで半年かかっているのに書き終わってから二ヶ月も経って製本が終わっていないという体たらく! いやいや、こんなことを毎回続けられる方はすごいなぁと感心するばかりです。ほんと、自分一人の力ではこの本は出ていなかったのではないかと本気で思います。それくらい色々な方に助けていただきました。足向けて寝られません。足が多いだけに大変です。
多忙な時期にご好意で素晴らしすぎるカバーイラストと挿絵を描いてくださったうまにさん、本当にありがとうございました。出来上がったカラー絵を見た瞬間、灰色だった人生に色が生まれるのを感じました。音吉を可愛く描いてくださって……本当に、本当にありがとうございました! そして臨場感たっぷりの戦闘シーン挿絵や愛情たっぷりの挿絵、日常たっぷりの挿絵、どれも筆舌に尽くしがたいくらい素晴らしいです。感謝してもしきれません。
過労死寸前なのにイケてる表紙をデザインしてくださったり叩けばボロばかり出る入稿前のデータにメスを入れてくださったひいらぎさん、本当にありがとうございました。貴方様がいらっしゃらなければこんなスムーズな入稿は叶わなかったどころか間に合わなかったかもしれません。感謝してもしきれません。本当に、寿命を削ってまでありがとうございました。
そして申し込みの際やその他もろもろ大変お世話になった日向丸さん(まるさん)、様々な印刷会社の特徴を細かく教えてくださったぶれいずさんに、多大なる愛と感謝を申し上げます。
さて頃合いです。お別れの時がやってきました。個人誌はこれ限りのつもりなので最初で最後の挨拶となりますが、予定は未定という言葉もありますし、再来年あたりにしれっと別の個人誌で挨拶をしている可能性もなくはありません。もしもまたこのタコと〝縁〟というものを結ぶ機会がありましたら、その時はよろしくお願いしますね。
それでは、ここまで読んでくださいまして、本当にありがとうございました。皆様との縁に感謝!
二〇十九年 九月二十二日 TACO
参考書籍
中村 禎里「狐の日本史 古代・中世篇」
中村 禎里「狐の日本史 近世・近代篇」
松村 潔 「日本人はなぜ狐を信仰するのか」
笹間 良彦「ダキニ信仰とその俗信」
藤巻 一保「安倍晴明占術大全」
不二 龍彦「決定版 呪法全書」
草野 巧 「図解 黒魔術」
田辺 三郎助 編集
「神仏習合と修験」
◇ ◇ 原文ここまで ◇ ◇
(2025/10/28追記)
あとがきの一文に誤りがありました。
愛媛県松山市の[[rb:伊豫 > いよ]]稲荷神社に荼枳尼天が祀られているというのは誤りで、正しくは「[[rb:久美社 > きゅうびしゃ]]」という境内社の社前に、荼枳尼天と思しき[[rb:女天 > にょてん]]が描かれた[[rb:扁額 > へんがく]]が掛かっているというものです。間違った情報をあろうことか紙媒体に流してしまい申し訳ありませんでした。6年間ずっともやもやしてました。すっきり。
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