目を覚ました時、俺は執務室のような場所でソファに寝かされていた。ぼんやりとした思考の中、気だるさを抱えながら起き上がり、部屋を見渡す。
「目が覚めたか」
声がしたのは背後からだった。一気に目が覚め、慌てて振り返る。部屋の入口に白衣の男が立っていた。
「貴様は誰だ。何故こんな場所に連れてきた」
俺は警戒心をあらわにし、男を睨みつけた。
男はそんな俺の態度をを気にもかけないような様子で肩を竦め、悠々と横を通り過ぎる。
そうして男はガラス張りの戸棚をひとつ開けると、中身を探し始めた。
「質問は一度にひとつにしたまえ」
男の行動に拍子抜けしそうになるが、警戒は止めない。俺は質問を続ける。
「ならまず、ここは何処だ」
「ふむ……それなら、大方君の想像通りだろう」
一瞬だけ考える素振りを見せた後、そう答えた。
眠りにつく……否、意識を失う前、俺はある組織の研究施設に潜入していた。
国の捜査機関の一員である俺は、上からの命を受け、組織が非人道的実験を行っている可能性の調査を行っていたのだ。
ところが、その予想が確信に近づき、もう少しで十分な情報を得られると思っていた時、背後から何者かに気絶させられたのだ。
男は想像通りと言った。つまりは、ここは施設のどこかということなのだろう。
「なら、あんたはこの施設の関係者だよな。俺をどうするつもりだ」
国に目をつけられるような実験を行っている組織なのだ。そんな所に捕まったとなれば、俺も何をされるかわかったものではない。
「それ聞いたところで、何か変わるわけでもあるまい」
男は棚から目当ての物を取り出すと、再びこちらへ歩いてくる。よく見ると、注射器のような見た目をしてーー
「なっ……!?」
俺はいきなり腕を引かれ、身体の向きを翻されると、後ろから押さえつけられた。男に組み付かれた事にハッとして、抵抗し振りほどこうとした時、首筋に鋭い痛みが走る。
「暴れない方が身のためだ」
正直油断していた。それほど体格も良くはなく、格闘も不向きそうな格好をしていて舐めていた。
視線を横にやれば、妙な色の液体を注射されていた。男はゆっくりとその液体を俺の体に流し込む。抵抗しようにも、首筋に注射器を打たれてしまっている以上出血の危険もあり、不用意に暴れられない。
焦りからか薬の影響か、心臓が高鳴り始める。
注射された辺りの内側から焼かれるような感覚が広がってきた。
「きさまっ……一体なにを……!」
液体を注入し終え、男が距離を置く。
俺は熱を感じる箇所を反対の手で押さえつけるが、妙な感覚は収まらず、肩から腕へと伝播していく。
「なに、すぐにわかる」
熱はやがて全身に広がり、立っているのも辛くなる。膝をつき、荒い息遣いで男を睨みつける。男は相変わらず無関心のような、感情を読めない表情でこちらを眺めている。
「ぅ……が、ぁ……!」
背中の辺りからゴキゴキと音がした。骨がどうにかなってしまったような感覚を感じる。不思議なことに痛みはそれほど無いが、身体を溶かす様な熱に呻き声をあげる。
その感覚が背中だけでなく全身に広がり始めた時、ふと自分の腕が目に入った。そこには獣のような黄色い毛がびっしりと生えてきていた。爪は鋭く伸びていて、関節が音を立てて変形していくのがわかる。
「ひっ……ぎぁ……」
背中の違和感は背骨を伝い下へ降りていき、尾てい骨のあたりに着いた時、ぞわりとした感覚が全身を走った。
身体の変形する感覚は尾てい骨で止まらず、そのまま背骨を延長するかのように伸びていく。
今まで自分には無かった器官から変化の熱が伝わってくることに、戸惑いを感じる隙もない。
やがて変化は顔にも及んだ。鼻が伸びていき、耳が徐々に上に移っていくのを感じる。髪は縮れてはらはらと抜け落ちていった。
「ぅ……ぐぁああああっ!!」
「ほう、虎か」
獣のような叫び声をあげる俺を見て、男はそうつぶやいた。
身体の変化は落ち着いたものの、全身を覆う疲労感で身動きが取れない。浅く息を整えながら、男の方を睨む。
男が手を二回鳴らして合図すると、扉を開けて人が入ってきた。助手か何かだろうか。何かを持ってきて手渡していた。
「まずは自分の姿を見てみたまえ」
男が助手らしき人に目配せをし、部屋の隅に置かれた姿見を運ばせる。
俺は慣れない感覚の身体を引きずり、自分の姿を見る。そこに映っていたのは紛れもなく一匹の虎だった。
所々破れた服をかぶったその虎は顔も手足も体毛に包まれており、人間の面影はまったくなく、牙まで生えている。そして、手には鋭い鉤爪があり、獲物を引き裂くことに特化していた。
「ふむ……いい仕上がりだな……」
男の言葉を聞いてハッとする。そうだ、俺はこんなところで呆然としている場合じゃない。
指令書にあったように、この施設を脱出して情報を持ち帰らなければ。
俺は調査中、檻に入れられている動物が何匹かいることを思い出した。単なる実験用の動物かと思っていたが、いまとなっては彼らが被験者だった事に気づく。彼らはおそらく俺と同じような実験を受けた人たちなのだろう。
どう考えてもこの施設は動物を使った人為的な遺伝子操作技術を研究していることが推測できる。
彼らを解放するにも、まずはここの執務室を脱出しなければならない。この牙と爪があるならあるいはーー
「ふむ、てっきり絶望して固まっているのかと思いきや、一人で考え事か」
はっと我に返ると、男はいつの間にかすぐ目の前にいた。
驚いて距離を取ろうとするが、男が手に持っている物を見たら、目が離せなくなった。
「ほら、特製のマタタビだ。ネコ科にはたまらないらしいじゃないか」
そう言って男は袋を開けると、怪しげな笑みを浮かべる。
(なんだこれ……!ダメだ……!この匂いを嗅いだら……!!!)
頭では拒否しても体は勝手に動いてしまう。口の中には唾液が溢れ出し始めた。無意識のうちに喉の奥からはゴロゴロとうなり声が出始めている。
完全に男の意図に乗せられてしまっていることに悔しさを感じる。でも、本能に逆らうことなどできない。気づいた時には俺のマズルはマタタビの入った袋へと近づいていた。
ガブッ!!! 袋ごとマタタビを奪い取り、中身をすべて口に放り込む。そのまま床の上で転げ回って噛み砕いて飲み込んだ。さっきまでの抵抗はなんだったのかと思うぐらい意識はすぐに霧散していく。頭がぼーっとして自分が何を考えているかもわからなくなっている状況で男の声だけが頭に響いていた。
「はは、こんなところで惚けていていいのか?お前の任務とやらを遂げなくて」
任務……任務……そうだ、俺はこの施設の違法な実験を調べる役目があったじゃないか。
頭の中で、理性が少しずつ制御を取り戻す。
「グァ……だ……だめ……だ……」
「おお、そうか。ならおかわりもあるんだが、これは要らないようだな?」
男が2つ目のマタタビの袋をチラつかせる。それが視界に入った時、再び思考能力が低下していくのを感じた。体が自然と動き出す。
男の手の中にある物を奪おうとする。手が動くたびに鋭い爪が見え隠れする。
「まあまて。もし君がお利口にできたなら、特別なご褒美をあげようじゃないか」
男はそういうと自分のポケットの中から小さなカプセルのようなものを用意してニヤリと笑う。
「これが何かわかるか?」
「……ぅあ……」
カプセルを見て、再び我に返る。
このカプセルは一種の記憶端末だ。ここの施設の研究員が、以前これと似たようなものを使用しているのを見たことがある。
「これはこの施設で行われている遺伝子操作技術の実験データをまとめた記憶端子だ。この施設で行われている事、そしてどこでどのような生物が誕生したのかが全て記されている」
俺は耳を疑った。この男は正気なのか。
それが本当だとして、それを見せることに何のメリットがあるのか。そう思っていた。
男は俺の目の前の床にマタタビを置きながら言う。
「立派に待てが出来たらこれを渡してもいいが……どうする、猫ちゃん」
地獄のような選択だった。
普通に考えれば、人間の俺がマタタビの誘惑に負け、貴重なデータをみすみす逃すなんてことはありえない。ただきっぱりと断ればいいだけだ。
なのに、俺は目の前に置かれたマタタビからひとときも目が離せない。
本能が吼え、理性が悲鳴をあげている。今すぐにでもかじりつきたい。ああ、俺は一体……。
いや、俺は猫でも虎でもない、人間なんだ。
人間の尊厳を保たなければならない。
たとえ、どれほど辛い決断だったとしても。
俺は必死にマタタビを睨む。
人間としての誇りを取り戻すために。
俺の様子がおかしいことに気づいた男が言った。
「ほう、まだ自我を保っているとは。中々に優秀な遺伝子を持った実験体だ」
男が顎に手を当てて感嘆のため息をつく。
「だが、どこまで耐えられるかな。その獣の姿で」
「グルゥゥ……」
しかしもう、ほとんど我慢の限界だった。もはや頭の中にはカプセルだとか、脱出だとか、そんなものはなかった。ただマタタビに噛みつきたい、それだけだった。
ちょっとだけ。ほんの少しだけ。
最後の一線を、涎を零しながら半歩踏み越えようか。というその時、男は俺に歩み寄ってきた。
「仕方ないな、手伝ってやるか」
男は突然俺の首根っこを掴み、そのまま鼻先をマタタビの前に押し込んだ。
「ガウァッ!?」
今まで我慢した分、感じたことのない強烈な衝撃。その感覚は凄まじく、気がつけば全身の毛が逆立っていた。
「どうだ美味いか?我慢は体に毒だぞ、好きなだけ食えば良い」
気づけば、マタタビの枝は俺の口の中に入っていた。噛めば噛むほど香りが広がる。舌触りが心地よい。何も考えられなくなるような至福の時間。
「いい子だ」
男はそう言って俺の頭を撫でてくる。その手つきは優しく、まるで子供にするようなものだった。
「ん……ァ……ン……」
思わず声が出て、気持ち良さに腰が抜けそうになる。俺の中の人間だった心は何度も首を振って否定するが、俺の尻尾はゆらゆらと嬉しそうに揺れる。
「ふわぁ……なァ……」
本能に任せて夢中でマタタビを咥えていた。理性が完全に消え去ったわけではない。でも、マタタビの魅力には抗えない。口の中いっぱいに広がる甘ったるい香り……幸せだ、これ以上のものはない。
「あぅ……グルルゥ……」
口からヨダレが垂れ落ちる。
「もっと欲しいのか、そうかそうか」
そう言うと男はポケットから袋を取り出し、再び床に置く。
俺は考えることをやめた。今はただこの幸せな瞬間に浸っていたかった。
袋を乱雑に爪で破り、中身を出して、躊躇なく食べ始める。
口の中に広がっていくマタタビの味わい。
脳髄に直接届く刺激。
快楽物質の放出。
それはどんな麻薬よりも中毒性があり、そして依存性があった。
「ほら、まだあるぞ」
男はまた袋を取り出すと、俺はそこに鼻先を突っ込む。
さっきまでの辛さが嘘のように吹き飛び、呼吸する度に心が満たされていく。
ああ……俺は一体何をしていたんだっけ……。
まあいいや……そんなことより、まだまだ物足りない。
早く次のをくれよ……!
俺は男に向かって催促するように喉を鳴らした。
「そう焦るな、腹が膨れるほど用意してある。せっかくだ、今日一日かけてたっぷり堪能させてやる。なにせ、滅多に来ない逸材を捕獲できたようだからな。お前は運がいいな、猫ちゃん」
そういうと男は、さっきまで俺が寝かされていたソファの上をポンポンと叩く。俺はその合図を受け、上に跳び乗る。
「それじゃあ、食事が終わったらまた呼んでくれ」
男はそう言い残すと部屋から出て行き、残されたのは助手らしき人と、マタタビをせがむ一匹の虎だけだった。
それからというもの、俺はひたすらマタタビを食べる毎日を送っていた。
朝昼晩、場所を問わず、時には一日中。
「ガァゥ!!」
俺の一生で一番の好物は、今はただただ目の前にあるマタタビである。
もう昔みたいな日々なんて考えられない。
だって、今の方がずっと楽しいし、最高なんだもの。
それに、人間としての生活を忘れたわけじゃない。
ただちょっとだけ、ほんの少しの間、 俺が俺でなくなってしまうだけ。
それだけの事だ。……でも、もし願いが叶うなら。
「次はもっと大きな袋を用意してくれ」
俺はきっと、そう呟くだろう。