またたびゼリーの花嫁

  猫の国の王城。

  豪華な結婚式場へ連れて来られたハルは、不安そうに辺りを見回していた。

  頭には花飾り。

  身体はすでに猫化が進み、人間の耳は猫耳へ変わり始めている。

  腰の後ろではしっぽが落ち着きなく揺れていた。

  それでもまだ、人間としての心は残っていた。

  「帰らなきゃ……。」

  そう呟いた時だった。

  猫たちが大きな銀の皿を運んでくる。

  「花嫁様への祝いの品です!」

  皿の上には透き通った琥珀色のゼリーが並んでいた。

  甘く芳醇な香りが周囲へ広がる。

  「またたびゼリーでございます。」

  ハルは興味本位で一つ手に取った。

  「ちょっとだけなら……。」

  ぷるん。

  口に入れた瞬間。

  全身に幸福感が駆け抜けた。

  耳がぴくりと跳ねる。

  しっぽが思わず大きく揺れた。

  「おいしい……!」

  今まで食べたどんなお菓子とも違う。

  甘くて。

  ふわふわして。

  食べるだけで心が軽くなる。

  気が付けば二つ目を口へ運んでいた。

  三つ目。

  四つ目。

  五つ目。

  止まらない。

  「もっとないの?」

  猫たちは歓声を上げた。

  「花嫁様がお気に召された!」

  次々に運ばれてくるまたたびゼリー。

  ハルは夢中になって食べ続けた。

  すると。

  身体に変化が現れ始める。

  指先に柔らかな肉球が現れる。

  爪は細く鋭く伸びた。

  頬にはふわふわした猫毛が増えていく。

  「え……?」

  スプーンに映った自分の姿を見てハルは驚いた。

  だが。

  またたびゼリーを一口食べると、その驚きはすぐに薄れてしまう。

  「もう一個だけ。」

  さらに食べる。

  耳はより猫らしい形になる。

  瞳孔は細長く変化する。

  頬を撫でると柔らかな毛並みが感じられた。

  猫化は確実に進んでいた。

  それなのに。

  恐怖よりもゼリーを食べたい気持ちの方が強かった。

  その頃。

  結婚式場へ到着したバロンは物陰から様子を見ていた。

  ハルを救い出すためにやって来たのだ。

  しかし。

  彼の目に映ったのは予想外の光景だった。

  「もっと!」

  「次はその味!」

  「早く!」

  ハルは嬉しそうにまたたびゼリーを頬張っていた。

  猫たちに囲まれ。

  満面の笑顔で。

  助けを求める様子もない。

  それどころか。

  食べるたびに猫化が進むことすら気にしていなかった。

  「ふふ……。」

  猫耳をぴくぴく動かしながら笑う。

  人間の世界へ帰りたいという焦りも。

  元に戻りたいという気持ちも。

  少しずつ薄れているように見えた。

  バロンはしばらく黙って見つめていた。

  やがて静かに帽子のつばを下ろす。

  「そうか……。」

  その声は誰にも聞こえない。

  ハルは相変わらずゼリーに夢中だった。

  「彼女が自ら選ぶなら。」

  バロンはそれ以上何も言わなかった。

  そのまま姿を消していった。

  ハルがそのことに気付くことはなかった。

  目の前のまたたびゼリーしか見えていなかったからだ。

  それから数週間。

  またたびゼリーを食べ続けた結果、猫化は完全に定着した。

  全身は柔らかな猫毛に覆われる。

  耳も。

  しっぽも。

  完全に猫のものだった。

  そして。

  身体は少しずつ丸くなっていった。

  最初は服が少しきつい程度だった。

  だがまたたびゼリーを食べる量は増え続ける。

  朝から食べる。

  昼も食べる。

  夜も食べる。

  眠る前にも食べる。

  気付けばお腹は大きく膨らみ、身体全体がふっくらとしていた。

  さらに数週間後。

  「よいしょ……。」

  起き上がろうとする。

  だが。

  ごろん。

  横へ転がった。

  「え?」

  もう一度。

  ごろん。

  やはり起き上がれない。

  猫化した身体はすっかり丸々と太っていた。

  それでも。

  「ゼリー持ってきてー。」

  真っ先にそう言う。

  侍女猫たちは困惑したが、またたびゼリーを運んでくる。

  ハルは満面の笑みで受け取った。

  そんなある日。

  ハルはベッドごと従者の猫達に担ぎ上げられ、猫王と巨大な倉庫を訪れていた。

  そこには天井まで積み上げられたまたたびゼリー。

  数え切れないほどの量だった。

  「ハルちゃん。」

  猫王は満足そうに微笑む。

  「わしと結婚するにゃら、この先一生好きなだけまたたびゼリーを食べてよいにゃ。」

  ハルの耳がぴくりと反応した。

  「一生?」

  「一生。」

  「毎日?」

  「毎日。」

  「食べ放題?」

  「もちろん。」

  ハルは倉庫いっぱいのゼリーを見つめた。

  迷いはなかった。

  人間の世界へ帰ることも。

  元の姿へ戻ることも。

  今の彼女にはどうでもよかった。

  「結婚します!」

  即答だった。

  こうしてハルは猫王妃となった。

  その日から部屋に運び込まれるまたたびゼリーは倍になった。

  ハルは満足そうに食べる。

  次の日も。

  その次の日も。

  もう自力では身動きすら取れない。

  部屋から出られない。

  それでも。

  またたびゼリーだけは食べられた。

  やがて猫王は巨大な特注ベッドを用意した。

  王城の一室はほとんどハル専用の居住区になった。

  腕すら動かせなくなった彼女を侍女たちが世話をする。

  ゼリーを口元へ運ぶ。

  ハルは食べる。

  その繰り返し。

  「ハルちゃん、幸せかにゃ?」

  ある日、猫王が尋ねた。

  ハルは少し考えた。

  窓の外には猫の国の景色。

  部屋には大量のまたたびゼリー。

  そして自分はまったく動けない。

  それでも。

  目の前にあるゼリーを一口食べる。

  甘くて幸せな味が広がった。

  猫耳がぴくりと動く。

  「うん。」

  ハルは笑った。

  「幸せにゃ。」

  こうしてハルは猫の国で暮らし続けた。

  自ら歩くことも。

  どこかへ旅立つことも。

  人間の世界へ帰ることもなく。

  ただ大好きなまたたびゼリーに囲まれながら。

  王城の一室で穏やかな日々を過ごしたという。

  それが――

  またたびゼリーを愛しすぎた王妃の、終着点だった。