異聞・善なる孵化(後編)

  家を出た時は遅刻こそしないものの多少遅くなる事を覚悟していた楠葉だったがキャンバスの門をくぐった時ふと見た腕時計はいつもよりも早い位の時間を差していた。

  しかもかなり全力疾走したはずなのに殆ど息切れがないどころかそれこそキャンパス中を思い切り走り回っても足りない様な活力が満ちている。

  これもあの力の影響なのかしら……。

  そう思いながらキャンバスを歩き校舎に向かう。

  いつも通りの教室。

  いつも通りのクラスメイト。

  いつも通りの授業。

  いつも通りの昼食時間。

  昨日までとまったく変わらないいつものキャンバスライフがそこにある。

  そうしていると昨日のあの出来事が嘘の様に思える。

  しかし―。

  高まっている。悦んでいる。

  あの力を身につけた体が・あの姿に変わった体が・そしてそれを受け入れた心が―。

  そう思うと楠葉は自分の心が弾み体が震えるのを感じた。

  早く帰りたい、早く「変わりたい」と―。

  「あ……。」

  その瞬間自分の体、ちょうどヘソのあたりから何かが―あの宝玉が現れかけるのを感じる。

  そしてそこから体中に何かが満ちてくる。

  体が熱を帯びてくる。

  奇しくも昼休み・昼食後の一時だった事もあり楠葉は慌てて人知れない物陰に駆け込む。

  そして静かにそのあたりを両手で押さえると大きくその身をそらし全身で息をしながら宝玉を鎮めていく。

  「ふぅぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁぁ……すぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁ……」

  人知れず、しかしその動きは大きく。

  楠葉の呼吸が大きくなるのにつれて宝玉は少しずつ楠葉のヘソの中に消えていく。

  それと同時に楠葉の中で満ちかけていた力と熱も消えていく。

  「ふぅ……はぁぁぁぁぁ……。」

  ようやく鎮まった事を感じた時楠葉はいつの間にか自分が涙を流していた事に気づいた。

  それが何を意味するのか楠葉はまだ掴みきれなかった。

  ただ一つ言える事、それは……。

  「今はまだ―我慢しないと……」

  そうつぶやくと楠葉は軽くよろめきながらもなんとか体を立て直しその場を後にした。

  その後なんとか異変が起きる事無く午後の講義は過ぎていった―。

  時計の針が夕刻を過ぎる少し、楠葉は自宅の玄関をくぐった。

  淡々と講義のレポートを書いたり食事をすませたりする中で楠葉の心は高鳴っていた。

  早く、早く……。

  待ち遠しい。そんな思いを胸に抱きながらバスタブ一杯に張られた湯に身をくぐらせたのはすでに夜の帳も降りきった頃だった。

  「ふう……。」

  湯の温もりが素肌を包み全身を暖かく緩めていく感覚にひたりながらも楠葉は自分がこのあと行おうとする行為への期待とちょっとした不安を脳裏に浮かべていた。

  不意にその手が体に伸びかけるがそれをグッとこらえる。

  別に「準備運動」と割りきる事もできなくはないが今この一時は「その時」を迎える為の言うならば「禊ぎの儀式」でもある。

  そう自覚しているのかはわからないが楠葉は軽く身をかがめながら高まりつつある自分をあともう少しの我慢と引き締めさせていた。

  [newpage]

  暗がりに包まれた楠葉の自室。

  しばしの沈黙の中にあった部屋の扉が静かに開き、この部屋の主でもある女性―楠葉が静かに入ってくる。

  楠葉は部屋の灯りをつける事もせずそのまま窓のカーテンを閉め直すと部屋の隅にある姿見の前に立つ。

  そこに映っていた楠葉の姿は素肌にバスタオル一枚―風呂から上がりそのままの姿で楠葉はこの部屋にまで来たのだ。

  そこにいたる通路や他の部屋もまた灯りは付いておらず夜の闇のみに覆われている。

  楠葉は少し恥じらいながらしばらく姿見に移る自分自身を見つめていたが意を決した様な、それでいて少し笑みを浮かべた様な顔をするとバスタオルを解きその裸身を露わにする。

  「あぁ……」

  全てを解き放った様な心地よさに軽く声が上がる。

  本来ならそれこそ風呂場から裸のままで部屋に来ても良かったがそれをあえて行わなかったのは彼女の気質ゆえなのだろうか。

  いつも以上にまじまじと自分の裸を見つめる楠葉。

  見慣れている自分の姿のはずなのだがなぜか愛おしい。

  多少自画自賛的なものもあるが自分がここまでスタイルよく成長している事に軽くときめいてしまう。

  このままこの裸身をベッドに飛び込ませてみたい―普通ならそんな感情も湧くだろう。

  しかし、そもそも本来楠葉自身こんな風に鏡で自分の裸を見つめ回したり裸のままで部屋を歩いたり、まして過剰に反応するなどめったにする事は無い。

  彼女にそんな気持ちを与えたもの、そして彼女がこれから思い切り解き放ちたいものの姿が楠葉の脳裏に・そして心に浮かぶ。

  「さあ……いくわよ……」

  恥ずかしさもあるがそれ以上にわくわくとした気持ちがわいてくる。

  それに対する恐怖感とかは殆ど感じられない。もしそれがあったとすれば楠葉は今ここにこうしているのだろうか。

  そんな気持ちのまま楠葉はそっと下腹部の前に両手を重ね、そのまま静かにヘソのあたりまで上げる。

  「……」

  意識と力をそこに集中するうちに少しずつ自分の体内にある「それ」が内側からその存在を楠葉の体に伝えてくる。

  「―んっ!あぁっ!」

  体がジンと熱くなり思わず声が出るが今度はそれを抑える事無く静かに解きはなっていく。

  「うっ、んっ、あっ、んんっ……」

  楠葉が軽く顔をしかめる中そのヘソから紅い宝玉が姿を現す。

  薄明かりに浮かぶ楠葉の白い素肌に対しその紅さはより印象強く映える。

  今の楠葉は昨日までの楠葉とはまた異なる存在となった事を示すかの様に。

  しかしそれは楠葉にとっては驚きと同時に歓びと高まりをもたらすものでもあった。

  今こそ解き放とう。この力を。

  今こそ変わろう。この力が変えたわたしに。

  そう思いながら改めて宝玉に両手を添える楠葉。

  ふと脳裏に言霊が浮かぶ。

  力を解き放つ言葉。力を受け入れる為の言葉。そして―その為の姿に変わる言葉が。

  「変―身!」

  その言葉を唱えた瞬間、宝玉がさらに紅く光る。

  「きゃあっ!」

  光と共にその体中に解き放たれた力の流れに楠葉はつい高く声を上げた。

  その体の中・宝玉から注ぎ込まれる力の波は楠葉の神経中枢を通り末梢神経の隅々を巡り・そして脳を突き抜ける。

  「んっ、くっ、あぁっ……」

  熱い。熱い。体の芯から熱くなってくる。

  楠葉の全神経から強い熱が楠葉の体を満たしている。

  激しい熱。荒々しい熱。

  楠葉の血を・肉を・肌を・神経を・細胞の一片に至るまで熱く満たし激しく動かすかの様な熱が楠葉の内側から沸き上がってくる。

  それに反しなぜかひとしずくの汗露さえ浮かぶ事無いまま楠葉は全身から沸き上がる熱に幾度となく裸身を反らせようとする。

  しかし、彼女自身の意志でヘソにある宝玉のあたりに添えられた手の指さえ動かす事はできなかった。

  「あっ、あつっ、熱い……体が……あつい……」

  叶うならこのまま冷水を体中に浴びてその身を冷ましたくなるほどの熱さ。

  身も心も焼き付いてしまうほどの熱さがの内から吹き上がり漏れる事無く充ち満ちている。

  「ああ……あつい……いい……いい……」

  そんな熱の流れにさらされる内に楠葉の声と顔に甘い歓喜の声が混じり始める。

  全身を焼き尽くす様な熱さと同時に春から初夏の日射しを素肌一杯に浴びている様な。

  そんな身も心も高めてくれる様な熱さもまた感じられる様になった時楠葉の声に自然と歓びの色が混じり始めていた。

  苦痛と歓び・この相反する感覚の元である熱さに身を委ねる楠葉の体にいよいよ変化が訪れようとしている。

  「いい……ああ―あぁっ!」

  [newpage]

  楠葉の肌がびくっと震え体が一瞬大きくしなる。

  「ああ……あう……ううぅ……」

  宝玉から流れ出していた力と流れに満たされきった楠葉の体はそれをより強く受け入れる為の形に変化を始める。

  力を循環させていた神経と血管・細胞が激しく震えながら変わりだす。

  その柔らかくしなやかな肌の中で筋肉細胞の一筋一筋が伸縮を繰り返しながら太く・しなやかに鍛えられさらに異様な形へと変化していく。

  「うぅっ!あっ!あぁうっ!」

  骨が・いや骨格そのものがきしみ・変質していく。

  まるで骨と皮膚が一つになっていくかの様な感覚。

  あの全身に充ち満ちる熱さを持ってしても和らげきる事のできない苦痛と快感に楠葉は叫びあえぎながらその体格を大きく変えていった。

  柔らかかった肌は密度を増しながら硬化しつつ緑色に染まっていく。

  形良くくびれた腹部には蛇腹や節を思わせる様な腹筋が浮かび、一回り太さを増しつつある腕や脚にも緑の外骨格と幾つかのトゲ状の突起がが浮かび上がってくる。

  そして軽く震え続けていたその豊か目な胸が止まった時そこには柔らかい膨らみの代わりに一対の硬い胸甲がその豊かさのまま生えていた。

  その変化を万華鏡の様に多様な広がりを見せていく視界の中で見つめ続けていた楠葉の顔も同様に変わっていく。

  大きく見開かれた瞳は紅く染まりチョコンとしたその小さく形作られていた口元も大きな顎へと変わっていく。

  「うぁ……あぅ……うううゥゥゥゥ……」

  ちょこんとした鼻や顔の中に埋もれていく中楠葉の声が人のものでは無くなっていく。

  ショートボブの髪が縮れて枯れる様に頭から消えていくとそこから露わになった耳もまた埋もれていく。

  そして額のあたりから一対の細い触覚が突き出し後頭部の方にその形を軽くそらす。

  その顔は―いや、その体は紛れもなくバッタ―に近いものと化していた。

  バッタを人の形にまとめて人間サイズにしたバッタ怪人―バッタ女がそこにいた。

  ”ウゥゥゥ……ウゥゥゥ……ウゥゥゥゥゥ……”

  異形と化した口からうなり声を上げながらバッタ女は身をそらす。

  全身からミチミチと音が鳴り変化の仕上げが近い事を告げている。

  ”ウゥゥ……ウゥゥゥ……ウアゥ……”

  その体の中になお残る熱は彼女の変化を完結に導くべく最後の放熱を放つ。

  ”ウゥゥゥゥ……ウアぁぁぁぁぁーっ!”

  バッタ女が雄叫びを上げたその瞬間、その全神経・全細胞がガチリと音を立ててあるべき形に収まった。

  ”ふぅ……はぁ……終わった……みたい……”

  視界が再び単眼のものに変わる中ようやく体を動かせる様になった楠葉は改めてバッタ女と化した自分の姿を姿見越しに見つめる。

  人の形をしたバッタという異様な姿。

  自分と言う芯を元に形作られたバッタ。

  本来なら恐怖にとりつかれ心を失っていてもおかしくないほどの変貌した姿・そしてその一部始終を見てもなお楠葉はその姿に心惹かれる事ができた。

  変わっていく自分・変わっていく時の苦痛と快感の入り交じった熱さ。

  その全てが激しい位の歓びをもたらしていた。

  これはこの姿に変わる力を刻まれた時に同時に刻まれた仕掛なのだろうか。

  しかし今の楠葉はそんな事を考える事も無く静かにそのバッタ由来の外骨格に変化した体をそっと抱きしめた。

  ”なんだかちょっと……気持ちいい”

  外骨格と内側の筋肉・神経から伝わる気持ちよさについこのまま昨夜の続きに走ろうとした楠葉だったがあえてそれをこらえるかの様に体から離した拳を軽く握り顔を大きく振る。

  ”今のわたしがどうなっているのか―確かめなくちゃ”

  そうつぶやくと少し名残惜しそうに部屋を出ようとする。

  ドアノブに手をかけようとした時、一瞬昨夜の出来事が脳裏に浮かぶ。

  あの車に飛び込んでしまいスクラップにしてしまった一件。

  もしうかつに力を入れたらドアノブとかなら間違いなくつぶれてしまう。

  慎重に、慎重に力を加減しながら楠葉はそっと自室を後にした。

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  それからしばしの後、楠葉の体は夜の町を駆けていた。

  人気の殆ど無い通りを時にこそりと身を隠し、そして時にその全てを解き放つ様に跳ぶ。

  地を踏みしめる度楠葉の筋肉が引き絞られ外骨格がググッと引きしまる。

  その戒めを解き放ち夜の空へと跳ぶ時の解放感。

  文字通り風となり空を切る飛翔感。

  今は人間の柔らかい素肌ではなくバッタの硬い外骨格で感じているとは言え文字通り「自然のままの姿」でそれを感じているのだ。

  気持ちよくないわけがない。解き放たれないわけがない。

  もちろんこの姿を他者に見られたらとんでもない事になるのはわかっている。

  しかし今の自分に自らの意志でこの姿を解く術はまだ乏しく、仮に解いたとしてもかえって……。

  だからこそ楠葉は跳ぶ。

  夜の闇の中、知られぬ様に跳ぶ。気づかれぬ様に駆ける。

  跳躍と飛翔の歓びをより長く、より確かに感じ続ける為に。

  その行程の先に河川敷を見つけた楠葉はより強く足に力を込めると今まで以上に飛び跳ねる。

  静かに・大きく緑色のバッタ女が夜空に舞い―そしてそのまま河川敷の地面にドスンと音を立てて着地する。

  その高さと言い、距離と言い走り幅跳び、そして高跳びの世界記録を優に超えているだろう。

  ”ふぅ……はぁ……やっぱりいい……気持ちいい……“

  文字通り胸躍る心持ちに浸りながらも楠葉はその余韻もそのままにその視線を河川敷の先に向ける。

  自分以外誰もいない、誰かが通る気配も音も感じない。

  今の楠葉の全ての感覚が迷う事無く走り出せる事を告げている。

  ”―よしっ!“

  こくりと頷くと楠葉は一瞬身をかがめ、そこから猛然と走り出した。

  足を踏み出し、腕を振る度全身の外骨格がきしみ、それを受け止める筋肉がしなる。

  風を切り、いや自ら風となって地を・空を駆ける。

  その圧力がさらに楠葉の「素肌」を振るわせ筋肉をしならせる。

  ”あぁ……あぁ……あぁ……“

  これがランナーズハイと言うものなのだろうか。

  全神経・そして昨夜自らを鎮めていた時とはまた異なる性感さえも刺激されるほどの活力と快感に満たされながら楠葉は駆け抜けた。

  そのスピードは言うまでも無く一般的な競技記録を超えている。

  間違いなく今の楠葉は世界規模のアスリートの一人と言えるだろう。

  もっとも―緑色の外骨格を持つバッタ女の姿で公式の陸上競技に参加できれば・の話だが。

  ”あぁ……ああ……ああ……あぁぁっ!“

  ゴールと定めた場所を駆け抜けた時、楠葉は全身を貫いた絶頂感に思わず体をこわばらせかけた。

  走り続ける事で引き締めていた全身の緊張が解けたがゆえの解放感からなのだろうか。

  全力で走り抜いた者が感じられる快感とそれとはまた異なる快感の余韻に浸りながら楠葉はしばしふらりと佇む。

  ”すごい……気持ちいい……わたし……すごい体になっちゃった……“

  そうつぶやきながら静かに自分の中の昂ぶりを鎮めようとした楠葉の行動は不意に落ちた数滴のしずくによって遮られる。

  ”降るなんて聞いてなかったけど仕方ないわ。早く帰らなくちゃ"

  ふと我に返った楠葉はそのまま河川敷を離れ再び人知れず帰路に着いた。

  その夜、住宅街の一角でボヤ騒ぎがあった。

  幸い大した被害もなく消し止められたのだがその動乱の際逃げ遅れて煙に巻かれていたと思われていたある家の子供が応急手当を受けた状態で見つかったと言う。

  そもそもそのボヤ自体は一つ間違えれば全焼ものの大火事になるほどのものだったと後に判明するにつれ誰が初期消火を行ったのか、そして子供を助け応急手当まで行ったのかと言う疑問が湧いたがその真相は今も謎のままである。

  ただ助かった子供が「バッタのお面をつけた女の人」に助けられたと言う様な事を話していたがそれもまた謎のままである。

  [newpage]

  翌朝、自室で目を覚ました楠葉が昨晩の様々な体験の余韻から来るけだるさの中で人としての素肌の感覚に浸ろうとしていた。

  「あ……あっ!?」

  しかし、再び通学時間ぎりぎりを差す時計を目の当たりにしてしまい大急ぎでシャワーと着衣、そして朝食をすませ大学へと駆け出した。

  「―急がないと遅刻しちゃう!変身できればもっと早く走って跳べるのに……!」

  それでも昨日と同じ頃にキャンバスに辿り着くには十分すぎる勢いで楠葉は朝の町を駆け抜けていった―。

  第一部後編・了