楠葉が別荘に戻った頃には朝日は十分すぎるほど登り切っていた。
押し寄せる空腹感は簡単に抑えきれなかったがそれをなんとか押さえながら浴室に向かう。
その辺りはやはり年頃の女性と言う所だろう。
ランニングウェアを脱ぎ脱衣籠に入れるとそのまま浴室に飛び込む。
穏やかな解放感に満ちているかのようなシャワーの音だけがしばらくの間辺りに響いていた。
その音色がようやく静まり楠葉はバスローブだけを身にまとい浴室をあとにする。
朝の日射しの入る中余人のいない室内でバスローブ姿のままで静かに歩く。
体に残るシャワーの名残の温もりとバスローブの感触、そして日射しの心地よさに浸っていると先ほどのあの戦いが夢だったのでは無いかと思えてくる。
あの変身した時の楠葉を思わせる―いや、それ以上の禍々しさを宿した異形の怪人達との戦い。
その戦いの中で新たな姿と力を得た記憶と感覚は紛れもなく楠葉の体に刻み込まれている。
それを思い出す内にふと楠葉は両手の拳を強く握りしめ全身に力を込めていた。
瞳を閉じ大きく息をしながら体を伸ばす。
いつしか両脚にも力が入りスリッパ越しに床を踏みしめる。
「ふぅ……はぁ……」
呼吸を整えながら力を高め意識を集中させていく。
もう少しで宝玉が体に浮かび上がり変身が始まる―と思った所で楠葉は再び襲った空腹感のせいで思わず床にへたり込む。
「はは……やっぱり早く朝ご飯食べないと……」
軽く苦笑しながらもなんとか立ち上がり、バスローブを多少着崩したまま楠葉はキッチンへと向かった。
かつての数倍の量の朝食を平らげようやく一息つくとそのままリビングに入りテレビをつける。
ちょうど朝のワールドニュースが放送されており様々な国の様々な話題が伝えられている。
楠葉はそれらの話題に目を通し耳を傾けながら海外赴任中の両親にふと思いをはせていた。
そんな楠葉の瞳がふと鋭く見開かれたのは番組のかなり終わりの方の話題が流された時だった。
「某国の某地方その他で謎の生物確認・その後周辺の集落や村に壊滅的な被害が……」
そのニュース・そして映し出された謎の生物と思われる影の写真にあの異形の者達・そして変身した自分を重ねる事は余りにも簡単でありすぎた。
他の国でもあの怪人達が現れている・もしかすると自分の様な存在も―?
それ以前に今自分がいるこの近くにもその存在がうごめきいずれは―!
この事実は楠葉にはあまりにも衝撃的だった。
あの姿になる事自体に抵抗はない。実際さっきもまた無意識に変身しようとしかけた位だから。
しかし、あの怪人達・そして自分にあの姿を与えた存在の正体はやはりわからない。
もしかすると自分もいずれは人の姿と心を失い文字通りの怪人となってしまうのだろうか……。
そんな思いに駆られながら楠葉はテレビの電源を落とし静かに立ち上がろうとする。しかし……。
「えっ!?」
急に激しい脱力感が体を襲い意識が失われていく。
全身に力が入らない・それよりも力そのものが無いかの様に―。
ふらっと体が揺れ着崩したままだったバスローブの帯が解ける。
「あ……」
そのまま露わになった楠葉の裸身が床の上に崩れ落ちる。
無情にもそれを覆い隠す事無くバスローブもまた力なくふわりと床に降りるのだった。
[newpage]
“―っ!”
唐突に目を覚ました楠葉は辺りがいつの間にか夕闇に包まれていた事に気づいた。
“わたし……一日眠ってたんだ……しかも裸で……“
何一つ覆う物の無い素肌の感覚を全身で感じながら楠葉はまだけだるさの残る体をゆっくりと起こしつつ床に落ちたバスローブを手に取ろうとする。
その時、楠葉の目に異様な物体が飛び込んできた。
“え?これって……わたしの腕?”
確かにそれは楠葉の右腕だった。それは何より楠葉自身の実感でわかる。
しかしその形は普段見慣れた自分の腕でも、まして変身した時の腕とも違っている。
そもそも体の感覚自体どこかおかしい。普段の素肌の感触でも変身した時の外骨格の感覚でもない。
“これって―どうなっているの!?”
慌てて立ち上がり浴室に駆け込む。
そこで鏡越しに見たものは―楠葉の姿であった。
ショートボブの髪と柔らかな素肌に彩られた楠葉の姿。
しかしその体形は彼女自身の知る姿とは大きくかけ離れていた。
人の素肌に覆われた中からいかつい外骨格と節の様な間接を浮かび上がらせる体格。
“ああ……ああぁ……”
思わず声を漏らした口から覗いているのは歯と言うより限りなく昆虫のアゴに近い牙。
見開かれた瞳は紅く染まり額からは一対の触覚が伸びている。
人と言うよりバッタ―バッタ女と言うべき存在が人の―楠葉の皮を被っているかの様な存在。
それが今の楠葉だった。
“これって……これって……”
楠葉の脳裏に先ほどまで見ていた夢がおぼろげに浮かぶ。
異形と化した自分が町に現れ容赦なく人を襲う光景。
その中に見知った人達がいたかどうかさえわからない。
なぜならその夢の中の楠葉はそんな事さえ理解できないほどの異形と化していたのだから―!
今まであんな夢を見た事はない。
それこそ変身できるようになってからも、なる前からも。
あのクモ怪人の襲来や朝に見たニュースの影響か、はたまたあの黒いバッタ女への進化の影響か。
“一度元の姿に戻らないと!”
そう言いつつ楠葉は下腹部に両手を添えもとの自分に戻ろうと意識を集中させるがどうしても力が入らない。
むしろ意識を集中させようとするほど心が乱れていくのを感じてしまう。
楠葉の形をしたバッタ女の姿のまま楠葉はひたすら焦りを感じていた。
“―おなか―すいたー”
突然そんな言葉が口から出た。
激しい焦りの中不意に出たその言葉。そしてそれに続く様な激しい空腹感。
いや、空腹感と言うより飢餓感と言える衝動が体の内側から全身に満ちている。
それこそ今この別荘の中の全食料を食べ尽くしても足りないほどに。
“たべたい―おなか―いっぱいにしたいー”
楠葉はそうつぶやくと体をよろつかせながらも浴室を後にし、そのままの姿で別荘の外に出た。
あたりはさらに夜の闇に包まれ生い茂る木々が静けさを引き立てている。
“ごはん―たべないと―”
楠葉は辺りを見回しながら「食料」の気配を求める。
その目・耳・触覚、全ての感覚を研ぎ澄ましながら。
そして、楠葉は森の奥へと歩き出した。
―もし楠葉が麓の方に歩き出していたのならまさにあの悪夢をその身をもって具現する事となっていたであろう。
そして彼女は二度と人としての姿を現す事もなかったかも知れない。
そうする事無く動く事ができたのはより自らを満たせる「食料」の気配を感じたのか、それとも今の楠葉自身の中で風前の灯火のごとく揺らめいていた楠葉の自我が無意識に抵抗していたからだろうか……。
[newpage]
なかばおぼろげな動きをしながら山奥を進む楠葉。
木々の間をすりぬけ、岩場をなんとかかわしながらの多少たよりない動きで歩いている。
“たべたい―たべたい―おなか―いっぱいにー”
その念を頭一杯に浮かべ人の皮を着たバッタのような姿で歩く楠葉の姿は怪物としか言いようが無い。
足を踏み出す度、腕を動かす度に肌の下で外骨格がきしむようにうごめく。
紅く光った目を見開き、額の触覚を揺らしながら「食料」を求めてさまよっている。
激しい飢餓感と欠乏感、そしてそれを満たそうとする欲求が今の楠葉の意識の殆どを占めている。
そんな中楠葉の体が突如として背中から倒れる。
いや―押し倒される!
楠葉を押し倒した者、それは一匹の巨大なコウモリだった。
その大きさは人間サイズ、そしてその姿は人の形をしたコウモリ―そう、コウモリ怪人と言うにふさわしいか。
コウモリ怪人は楠葉を力ずくで押し倒すとその両肩を押さえ込む。
楠葉も必死でふりほどこうとするが両肩を押さえられた事もあってか力がうまく入らずただじたばたともがいている。
コウモリ怪人は目の前にいる奇妙な姿をした獲物に過剰なまでに食欲をそそられるのを感じながら大きく牙を開く。
その瞬間、楠葉は力を振り絞る様に両腕を伸ばしコウモリ怪人の首を掴むとそのままその肩に噛みついた。
逃げ延びようとする生存本能か、それとも―!
突然の事態にコウモリ怪人の顔が驚きと苦痛にゆがんだ瞬間、その体はほぼ一瞬で塵となり消えていく。
“―っ!!”
異変は噛みついた楠葉にも起きていた。
コウモリ怪人に噛みついた瞬間激しい勢いで何かが体の中に注ぎ込まれる。
生命力―平たく言えばそんな所だろうか―それがコウモリ怪人の体から吸い出され自分の中に吸い込まれていく。
体の中に力が満ちおぼろげだった意識が回復していく中で楠葉の中にある感覚が走る。
“不味い!”
今まで感じた事もない、例えようもないほどの不快感。
吐き気や口をすすぎたい欲求が止まらない程の不味い味覚。
体中に満ちる活力と心の中に満ちるたまらないほどの拒絶感に苦しみながらも楠葉はゆらりと立ち上がる。
いつの間にかその周りにまた別種の怪人達が三体ほど楠葉を囲んでいた。
獲物を横取りしようとしていた相手が返り討ちに合った事に恐れているのか、それとも喜んでいるのか。
どちらにしろこの怪人達をどうにかしないとならない事だけは確かである。
“う……うう……うぅぅぅ……うあぁぁぁぁーっ!“
楠葉は吠えた。それは体の中に満ちた生命力の活性か、それとも口と心の中に満ちる不快感への拒絶か。はたまた目の前にいる怪人達に対する闘争心か。
その叫びと共に楠葉は脱皮した。
ヘソの辺りから紅い宝玉が浮き上がりそこからいびつな形で体を覆っていた柔肌がめくれる様に破れその下から現れた黒い外骨格と一つになる。
ショートボブの髪が枯れる様に消え、両耳や鼻筋も顔の中に埋もれていく。
対して額の触覚はさらに鋭く伸び口元からはバッタのアゴがせり出す。
咆吼が止んだ時そこに立っていたのは楠葉の皮を被ったバッタ怪人ではなく黒いバッタ女の姿となった楠葉だった。
その光景に怪人達は一瞬恐れをなすがその中に感じる強い生命力を食らおうとする本能に突き動かされる様に楠葉に襲い掛かる。
“―はぁ……はぁ……は―あぁぁぁぁっ!”
変化の反動でしばらく肩で息をしていた楠葉だったが怪人の気配に呼応する様に反射的に拳を突き出す。
その拳に貫かれて怪人は燃え尽きた。
残った怪人達は一瞬おののいたようにも見えたが再び威嚇する様に楠葉を囲む。
それに対し楠葉もまた未だに残る不快感をこらえながらも身構えた―。
[newpage]
楠葉が別荘に戻ったのはそれからしばらくしての事だった。
幸い誰にも気づかれる事無く中には入れたがその姿は未だに黒いバッタ女のままであった。
怪人達を倒してもなお警戒を解かなかったからか、それとも解けなかったのか。
普段の―変身できる様になってからの―彼女ならそれこそいくら夜中とは言え、むしろ夜中だからこそ変身を解いて山を降りると言うのは考えられない話ではある。
しかしそちら方面での心境は今の彼女には欠片もよぎってはいない。
もしかすると今の楠葉は自分が人間だと言う事さえ認識できていないのかも知れない。
朝突然意識を失い人の皮を着たバッタの姿で目を覚ました事。
元に戻ろうとしてあせる内に意識が混乱しいつの間にか激しい捕食本能に取り込まれて外に出た事。
そして襲い掛かった怪人を―「食べた」事で力を取り戻してしまった事。
その衝撃と混乱は楠葉から例え一時的にしても人としての意識・自我を麻痺させるには十分だった。
飛び出した時よりもさらに深くなった夜の闇に閉ざされた別荘の中を楠葉は歩く。
その姿以上にその動きは仮の自宅に戻った住人と言うよりも文字通り未知の場所に迷い込んだ異界の存在と言える。
その時、不意に楠葉の触覚、そして耳―にあたる部分が激しく鳴り響く異音を捕らえた。
“―電話?こんな時間に……まさか!”
何度も何度も鳴り響くその音に楠葉の意識がかすかに反応した。
異音の正体は別荘にしつらえた電話のベルである。
この番号は他の人間にはほとんど知らせていない。その数少ない例外がいるとすれば―。
楠葉は走りだした。闇の中を必死に、その音の先に向けて。
そしてそのヘソに両手をかざし必死に願った。念じた。
“うぅぅ……くぅぅぅ……うぁぁぁ……!”
意識を込める度、力を注ぐ度に顔が、頭が悲鳴を上げる。
それでも楠葉はこらえる。こらえながら進む。
苦痛にもがくバッタ女の顔が変わっていく。
顔の色は黒から緑、そしてベージュオークルに。
硬い外骨格と強靱なアゴに覆われた顔は柔らかい素肌とショートボブの髪、そして可愛らしい口元をたたえた顔立ちに。
瞳も大きく見開かれた紅い瞳が一瞬まぶたに覆われるとその色と形を変える。
「はぁ、はぁっ、あぁっ、あぁっ……!」
外骨格に覆われた右手を伸ばし慎重に、しかし急いで受話器を手に取ると楠葉は再び伸びた耳と口元にそえる。
受話器から響いてきた声、それは今はめったに会う事のできない両親の声だった。
「―う、うん、ごめんなさい、ちょっとお風呂に入ってて……うん、大丈夫。でも、電話してくれてありがとう……」
電話越しの何気ない親子のやりとり。たわいもない近況報告と無事の確認。
これまでもごく普通に行われていた電話の光景。
楠葉にとっては日常のちょっとした一コマの一つ。
たとえ今は必死で戻す事のできた顔を除けば未だ黒いバッタ女の姿になっているとしてもそれは間違いなく楠葉が今電話をしている人達の「娘」である事の証だった。
短くも長い電話が終わり受話器の音が途切れる。
それによる安堵で力がゆるんだのか楠葉の顔がみるみる黒いバッタ女のものに戻っていく。
“ふぅ……はぁ……ああ……”
かなり無理をして顔を戻していたのだろうかその息は多少荒い。
しかし、その瞳からはいつしか涙が流れていた。
硬く鋭い指で同じ様に硬い顔をなぞり涙をぬぐう。
ふとテーブルに目を置くと携帯通信機にメール着信の通達が記されてた。
そっと手に取り操作しながらメールを見る。
そのメールは友人達からのものだった。
小旅行を楽しんでいる事、楠葉と一緒で無いのを残念に思う事、そして次は楠葉も一緒に行こうと言う事……。
そんなメッセージが込められていた。
それを見ながら楠葉は自分が改めて泣いている事に気づいた。
“わたし―やっぱり人間なんだ―「わたし」ーなんだー”
確かに今の自分は無理矢理に与えられたバッタ女の姿をしている。
強靱な肉体と力、そしてやろうと思えば自分の様な異形の存在を「食べる」事もできなくはない。
しかし―それと同時に人間としての自分を思う声に涙を流す事ができる。
それは自分が「人間」なのだからと楠葉は思った。
そしてもう一つ、あのコウモリ怪人を「食べた」時のあの思い出したくもない不味さと不快感。
あれも自分が「人間」だからこそ不味いと感じられたのかも知れない、と。
もしあれを何の抵抗もなく貪る様に味わえる様になったのならそれこそ自分は本当に人間では無くなるのだろう。
少なくとも今のわたしは人間だ。人間として生きている。
そしてこれからも―。
そう強く思いながら楠葉は立ち上がりヘソの宝玉に手をかざす。
[newpage]
別荘にようやく灯りが灯った時、窓のガラスに映っていたのは人として生まれたままの姿で立つ楠葉だった。
その姿にたまらないほどの感慨と愛しさを感じながら楠葉は静かに瞳を閉じしばし顔を上げ、その体をそっと抱きしめる。
しばしそうしていたあと、楠葉は床に落ちていたバスローブをようやく手に取ると浴室に向かう。
その後、バスローブ姿で浴室を出た楠葉はあまりにも遅くなった夕食を取る。
「おいしい―!」
量はともかく内容は簡素なメニューだったがそれを味わえる事、食べられる事に楠葉は再び感慨に浸っていた。
その感慨の余韻に浸りながら楠葉は静かに自室のベッドに倒れ込み、静かに寝息を立てていた。
今度は異形の悪夢にうなされる事無く、心穏やかな眠りの途に就きながら。
もっとも翌朝、バスローブの帯が解けていた事に気づかず目を覚まし体を起こした楠葉がその肢体と素肌を朝日の中で露わにしてしまった事はちょっとしたご愛敬だろう。
楠葉が確実に歩んでいる日々の道のり、この出来事はその道のりをより良き形で歩む為の通過儀礼だったのかも知れない……。
第二部中編・了