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白蛇の早苗 第4話【蛇のカミサマ】

  「ありがとうございます‥‥!」

  「ありがとうございます、本当に、本当に‥‥!」

  「蛇の神様、ありがとうございます。ありがとうございます‥‥」

  

  

  

  「‥‥‥」

  

  里人たちの感謝の言葉。

  

  どこか遠くで聞こえるような感じがするのは、どうしてだろう。

  ぼんやりと、そんなことを思いながら、早苗はサチと彼女の母親との再会を見ていた。

  

  

  

  [newpage]

  [chapter:第4話 蛇のカミサマ]

  

  沼での妖獣たちとの戦いを終え、早苗は無事にサチを里へと連れ返すことが出来た。

  あの沼での騒動はすぐ近くのこの里まで伝わり、人々は厳戒態勢に入っていた。そこかしこに松明が掲げられ、男衆は鍬や鋤、村田銃など思い思いの得物を手に見張りに着いていた。そんな緊迫した里に降り立った白蛇姿の早苗に、里人達は一瞬恐怖に襲われたが、その腕に抱えられたサチを見ると、次々と手にした得物を投げ捨て走り寄ってきた。

  集落の中央に降り立った早苗はゆっくりとサチを降ろした。

  彼女は早苗の手の中から飛び出すと母親と思しき女性のもとへ泣きながら駆け出していった。今まで我慢していたのだろう。女性の手に抱きしめられた瞬間、女の子は大声で泣き始めた。隣で若い男の人が涙を流しながら女の子の頭を撫でている。おそらく、彼が父親なのだろう。

  その光景を早苗は微笑みながら見ていた。彼女の周りでは里人たちが次々とひれ伏し、神様とか、妖様とか言って手を合わせていたが、そんなことは、正直どうでもよかった。早苗はサチが無事に帰れて、彼女と両親が喜んでいる姿を見るだけで満足だった。――――早苗はその光景のために、人間の姿を捨てたようなものなのだから。

  白い鱗に覆われた腕と体。銀に光る髪。顔つきこそ早苗のままだが、ここまで変化した彼女を見て、それが早苗だと気が付く者は居なかった。

  泣きじゃくるサチと、彼女を抱きしめる両親をみて早苗は満足気に微笑むと、胸の中でサチに語りかけた。

  ―――― よかったね。もう、一人であんな森の奥に行っちゃダメですよ。

  うっすらとほほ笑むと、ずるりと尻尾をうねらせる。お礼を、せめてお礼を、とすがる村人を無視し、早苗は里に背を向けた。何も話す気はなかった。今は一刻も早く一人になりたかった。こんな姿になってしまって、どうしたらいいか分からないのだ。ゆっくり一人で、落ち着いて考える時間が欲しい。

  しかし早苗が空へ飛び上がろうとしたその時、その背中に凛とした少女の声が掛けられた。

  「――――待ってください。せめて一言、彼らに礼を言わせてもらえませんか。白い蛇のお嬢さん」

  しん、と辺りが静まり返る。

  声の主は自分を神でも妖怪でもなくお嬢さんと呼んだ。思わず早苗は立ち止まる。

  「礼を言われるのはどうもあなたの心情にそぐわないようですが、彼らにとってあなたは命の恩人なのです。どうか、どうか少しの間、彼らの話を聞いてあげてくれませんか。‥‥頼む。一言だけでも礼を聞いてあげてくれないか。わたしも、人間を守護する立場の者として一言礼を述べたい。‥‥ありがとう。早苗」

  「!?」

  次は、名前だった。聞き覚えのある声だ。早苗は思わず、振り返る。

  「お、やっぱりな。よかった。見間違いではなかったか」

  はたして、そこには青髪の半獣、上白沢慧音が立っていた。おそらく集落の警備の応援として呼ばれてきたのだろう。

  早苗と目が合うと慧音はにこりと笑い、「ほら」と周りの里人を促す。

  次の瞬間、堰を切ったように、里人達は我先にとお礼を言い始めた。

  「ありがとう!」

  「ありがとう、へびのおねえちゃん!」

  「ありがとうございます!」

  「今度、お祭りにおいでください!」

  「早苗様!カッコいいですよ!」

  里人達の感謝の言葉が早苗に掛けられる。‥‥中には早苗、と呼んでくれるものも居た。

  早苗はどう返答したら良いか分からずに、無言で立っていた。

  その早苗の前に、慧音が歩み出てくる。

  「何が、有ったのかは知らない」

  「‥‥」

  「しかし、お前の気持ちは少しくらいなら、分かるつもりだ」

  「‥‥‥」

  「傲慢かな」

  「‥‥‥」

  「私もそうだった、だから。‥‥ただそれだけだ。全部分かるなんて言わない」

  慧音は手を伸ばし、蛇になった早苗の身体のうちで、まだ肌色を残す頬をそっと撫でる。

  後天的な半獣人。以前求聞史紀か何かで読んだ慧音についての一文を思い出し、早苗は声を上げた。

  「あなたも‥‥」

  やっと言葉を発した早苗に、慧音はにこりと微笑む。

  「人の言葉を覚えていたか。しゃべらないから忘れてしまったのかと心配したよ」

  「慧音さん‥‥」

  「事情を、話してくれるか?」

  「‥‥」

  慧音さんなら、今の自分の気持を分かってくれるのかもしれない。そう思い、早苗は今までの出来事を思い返し‥‥次の瞬間、あっと声を上げそうになった。

  ‥‥良く良く考えてみればそこまで深刻な話ではないのではないか?

  ミシャグジに取り憑かれ、下半身が蛇になった。諏訪子の眷属になれば元に戻れると言われた。現人神から白蛇に神性がすり変わり、人間で無くなり、動転して神社を飛び出した。襲ってきた妖獣たちと戦い、ミシャグジの力で退けた。結果、この姿になった。

  ‥‥あれ?

  何か大切な事を忘れている気がする。根本的なところで勘違いをしているのでは?

  「あ‥‥!」

  そうだ。そうなのだ。早苗はさっきまで「もう元に戻れない」と思い込んで暗い気持ちになっていたのだが、諏訪子の眷属になれば元に戻れる(?)のだ。

  早苗の目の前、心配そうな慧音の顔が、早苗の顔を覗き込む。

  これを一体、どう、説明すれば良いのだろうか?

  ――――ミシャグジ様に憑かれてしまい、最初下半身だけが蛇になってしまったのですが、いやらしい目付きをした祟り神から逃げているうちに髪や目までこんなんなってしまいました。てへっ。

  簡単に要約すればこうなってしまう。その内容に早苗の顔が真っ赤に染まる。‥‥言えない。言えない言えない言えない!今更こんなこと!こ、ここまで深刻な空気を漂わせておいて!

  大体、諏訪子様があんな紳士的邪神的祟り神的言動をしなければ、自分も素直に眷属の話に従ってて、さっさと元の姿に戻ってて、こんな血みどろの戦いなんか、しなくたってよかったのでは?

  「‥‥」

  「早苗?」

  俯いた早苗に深刻そうな空気を感じた慧音が、心配そうに問いかける。実際はただ赤面していただけなのだが。

  覗き込む慧音の視線と刹那、目を合わせた早苗だったが、小さく微笑むと、目をつぶって言葉を発した。

  一筋の汗を垂らしながら。

  「お、お心遣い、ありがとうございます。じ、事情は、いずれまた、お話しします。‥‥いまは、少し待ってください。‥‥何を、話せばいいのか、わかりません。それに」

  「ん?」

  「今の私は、ミシャグジの早苗のようですから」

  「‥‥どういう意味だ?」

  目を開き、慧音の後ろを見る早苗。その視線にあわせ、慧音も振り向く。

  そこにはサチがいた。

  深々と、両親と共に頭を下げている。

  「ああ、なるほど‥‥」

  「はん‥‥大事ないか、サチ」

  「むふっ?!」

  演技続行。いきなり発せられた早苗の尊大な台詞に慧音がむせた。その振る舞い方と少女の言動から、早苗が何か“カミサマ”に化けている様であると感じていた慧音だったが、まさか口調まで変えていたとは思わず。しかも、やさぐれた姐さん風。

  「ようやく泣き止みよったか。泣虫め。ま、わらわが抱いている間は泣かなかったからな。我慢したの。えらいぞ」

  「はい!‥‥ミシャグジ様、ありがとうございました!」

  満面の笑みで返すサチ。早苗も微笑み返す。慧音は呆気にとられていたが、最低限空気は読んだようでそれ以上何も聞いてこなかった。彼女の元気な声が聞きたかった早苗は、これで満足した。もう、この里に用はない。早苗はあたりを睥睨すると、するりと宙に浮かんだ。

  「早苗!」

  見上げる慧音の心配そうな視線が痛い。このまま何もかも話して相談してしまえば楽になれるのかもしれないのだが、あんな状態のサチや里人たちの前で、雰囲気ぶちこわしな身内話はしたくない。してあげたくない。

  「早苗‥‥」

  「慧音さん。いずれ説明します。今は、少し一人にさせてもらえませんか。ごめんなさい」

  「‥‥」

  そう、一言言い残すと、早苗はまた森の方へ飛んでいった。

  後に残されたのは心配そうな顔をした慧音と、ぶんぶんと手を振るサチ。そして手を合わせる里人達だった。

  

  

  

  

  [newpage]

  ************

  

  

  「やれやれですよ‥‥ほんと」

  早苗は森の上を低空で飛びながら守矢神社へと向かっていた。

  ――――もう、嫌々と駄々をこねていてもしょうがない。さっきのように妖獣が襲ってくる事態まで発生した。妖怪退治は好きだけど、あんな後味の悪い戦いはもうコリゴリだ。悔しいけれども諏訪子様に頼んでどうにかもとに戻してもらおう。

  なんだかんだで早苗はサバサバした現代っ子だった。朝の威勢の良さに比べるとあっさり考えを変え、早苗は諏訪子のもとへと向かっていた。

  早苗は左手を見る。月明かりにかざしたその腕はしなやかな鱗に覆われ、青白く輝いている。‥‥ここまで姿が変わってしまったのだ。背に腹は代えられない。元に戻れるならば少しの羞恥ぐらい我慢できる。

  すでに散々“白蛇の早苗”として信仰を集めてしまっていたが、それも諏訪子に戻してもらうとなれば関係のない話だ。そもそも(何年かかってもいいのなら)自力で元に戻るためには、“現人神の東風谷早苗”として信仰を集めなきゃならぬという話をしていたのであるからして。

  早苗は再び進行方向を見上げる。雲が途切れ、月に照らされた巨大な妖怪の山がその全体を現していた。滑らかに続く稜線。その天辺に彼女が帰るべき家がある。

  「神奈子様心配してるだろうなぁ‥‥」

  早く、帰ろう。そう考えて尻尾にもう少し力を込めて速度を上げた、その時だった。

  黒い旋風が早苗に襲いかかったのは。

  「!?」

  上空から舞い降りた黒い影。それは目にも留まらぬ速さで早苗の側を駆け抜けていく。「何」と口に出すことは出来なかった。早苗は影の衝撃波で吹き飛ばされた。

  「きゃああああああ!」

  きりきり舞いをする早苗に、追い打ちで更に二度、三度と黒い影が襲いかかる。そのたびに早苗は衝撃波に吹き飛ばされた。突然のことで何が起こったのか分からない早苗は、体勢を立て直すこともできずに森へ落下していく。そして盛大に木の葉をまき散らし、高い木の梢に墜落した。

  「あ、いたたたた‥‥な、なんだっていうんですか、一体‥‥!」

  枝に引っかかった早苗はズルリと身を起こす。影の姿は消えていた。

  「さっきの妖獣たち?‥‥懲りない奴ら!って、あれっ」

  握りしめた右手に慣れた感触がない。見れば大幣が無くなっていた。今のでどこかへ落としたらしい。

  「べ、別に無くても‥‥!」

  術は使える。力は出せる。早苗はその身を枝に巻きつけ、木の葉の陰から空を伺った。姿はない。妖気も感じられない。あの黒い影は良いだけ早苗を攻撃して、どこかへ行ってしまったようだ。

  相手の姿が見えない以上迂闊に空中に戻るのは危険だ。今日は満月ではないが月も出ている。明るい月明かりの森の上に隠れ場所はない。おまけに、今の早苗の純白の蛇姿は大層目立つのだ。

  「仕方ない、か」

  早苗はするりするりと枝を伝い、木の葉の中を潜行して再び山へ向かって進み始めた。自分を襲った相手がどこに居るか分からない。辺りを警戒しつつ、できるだけ妖怪の山の奥へと距離をかせぐ。妖怪の山までたどり着ければひとまず安心だろう。あそこには椛もいる。彼女ならきっと味方になってくれる。

  そう考え、早苗は両手で枝をかき分け、その身をくねらせながら妖怪の山へ少しずつ近づいていった。

  「っぷ、ああ、これじゃ本当に蛇ですよ‥‥」

  時折口に入ってくる葉っぱを吐き出しながら早苗は一人グチをこぼす。

  そうして枝をかき分けた、次の瞬間だった。

  「そうだねえ。全くもって蛇そのものだ」

  「―――ひああああああ!?」

  「神々しさのカケラもない」

  進む暗闇の中に突如諏訪子が現れたのだ。

  枝から逆さにカエル座りの姿勢でぶら下がり、ニヤニヤと笑いながら。

  完全にホラーである。

  「それっ!」

  諏訪子の声と同時に早苗の腹部に衝撃が走った。

  「んぐうっ!?」

  遠い地面から水が柱となって吹き出し、早苗を天高く押し流す!

  「こ、このおっ!」

  「無駄だよ!」

  早苗は水に霊力を流して操ろうとしたが、やはり諏訪子の方が早苗よりも格が上である。水は早苗の言うことを聞かず、彼女は為す術も無く押し流され続ける。ついには何も身を隠す物の無い森の上空へ吹き上げられてしまった。

  水の柱が消え、早苗はびしょ濡れで空の上に置き去りにされる。そこへ再び黒い影が襲いかかった。

  「うああっ!」

  またもや衝撃波に打たれる早苗。影はどうやら二つ居るようなのだが動きが速すぎて視界に捉えられない。早苗はまるでお手玉のように空中ではね上げ続けられた。

  度重なる攻撃を受け、段々薄れてくる意識の中で、早苗は前に似たような攻撃を受けたことを思い出してきた。これは、まるであの天狗のスペルカード‥‥

  「そのへんにしておやり、娘たち!」

  (む、娘――――?)

  夜空に響いた諏訪子の声に影の攻撃がピタリと止まる。早苗はボロボロになって再び森へ落下していったが、森に突っ込む寸前で、その体は地面から伸びてきた土塊の腕に捉えられた。

  「ぐ、うう‥‥」

  「なんだいなんだい。まるで手応えがないじゃない。これがアタシの欲しかったミシャグジさま?がっかりさせないでよー」

  不機嫌そうな諏訪子の声が響く。土の手に握り締められ、早苗は腕も動かせない。水に濡れた髪は顔に貼りつき、片目だけが覗いている。

  「きゃー。見てくださいお母様。あのミシャグジ、髪がすごいことになってます。本当にメドゥサみたいになっちゃってますよ。きもーい」

  「だめだよう、おねえちゃん。キモイなんて言っちゃあ」

  「!?」

  聞き覚えのある声と共に、早苗の目の前の木の枝に影が三つ舞い降りた。一つは諏訪子。そしてその両脇を固めるように降りてきた、不敵に微笑んだ少女が二人。

  「あ‥‥!?」

  諏訪子の右に、射命丸。そして左に姫海棠。二人の天狗が、それぞれ手に天狗扇を構え、ニヤニヤと笑いながら早苗を見下ろしている。

  「お、お母様って、お姉様って、文さん?はたてさん?な、何言ってるんですか?」

  「ああ、この子たちね。新しい私の娘」

  「へ?」

  「もしくは忠実な僕達。そうだよね?ふたりとも」

  「はーい」

  「はあい」

  諏訪子の問いに、光のない目で無邪気な返事を返す天狗二人。その姿に早苗はおののく。

  「あ、操ってるんですか?!二人を!」

  「そだよ。早苗を捕まえるために彼女たちにはちょっと手伝ってもらいました」

  「て、手伝うって‥‥」

  事も無げに言う諏訪子に、早苗は非難の目を向ける。

  しかし、諏訪子はニタリと顔を歪めると、早苗にケラケラと笑いかけた。

  「なあに、そんな目しちゃって。これ、アナタのせいなんだよ?早苗ちゃん。‥‥あなた、スペカ使ってこの二人を卵に入れちゃったじゃん。私はかわいそうになってね。割って助けてあげたのさ。そしたらネ、なんとこの二人、最初に見た私を親だと思っちゃってね。いわゆる刷り込み。それでこうして言う言聞いて、ここまで付いてきてくれているというわけです。ほんとだよ?」

  「わ、私の神代大蛇で?刷り込み!?」

  「うん」

  「それで、文さんとはたてさんを!?」

  「そ。今は忠実な、しもべ」

  無邪気に応える諏訪子。土塊の手に握り締められたまま、早苗は祟り神を見上げる。

  「一体、どうして」

  「早苗が欲しいから。ほしくなっちゃったから。すごく。とっても」

  にっこり笑う、祟り神。その笑みに、神社を飛び出す前、居間でふざけていた諏訪子とは違う空気を感じとった早苗は、戒められた体を捩り、唾を飲んだ。

  ――――ヤバい。なぜだかわからないけど、ヤバい!ヤバい!この、カミサマは!

  「‥‥そこまで、しますか。そこまでして私が欲しいんですか!」

  「当たり前じゃない!わたしがどうして早苗を探してたのか分かっていないんじゃないの?全く何!?すこしは本気で抵抗しなよ!」

  早苗の質問に諏訪子は憤慨した様子で答えた。

  「す、諏訪子様‥‥!」

  「ここまでしてアナタを迎えに来たっていうのにさ。つまんないね」

  無表情で宙にあぐらをかいたまま諏訪子が早苗の前に近づいてくる。そして腕を伸ばし、銀に染まった早苗の髪を梳き始めた。

  「こんな素敵な姿になったってのに‥‥どうしたの?まさか、元に戻してもらおうとか思ってる?自分の姿に怖気付いちゃった?だから無抵抗?」

  「あ、あの‥‥」

  早苗のどもった返答に、諏訪子はついに我慢できなくなり、怒鳴った。

  「ふざけんじゃないよ!この根性なしが!あれだけ威勢の良いこと言っといて!‥‥そんなのが私の風祝!?そんなのが私を殺しかけたミシャグジかい?私が求めてた強くて美しいミシャグジなのかい!?私を喰い殺しに来たミシャクジ様なのかい!?」

  「な、何をっ」

  「冗談じゃないね。冗談じゃないね!そんな臆病風に吹かれた弱っちいミシャグジなんか、いらないんだよ!」

  突然諏訪子が黒い霧を早苗に向かって噴きかけた。至近距離から吹き付けられ、早苗は思わずその霧を吸い込んでしまう。

  「な、なぁっ‥‥んんっ!?」

  どくん、と早苗の心臓が大きく跳ねる。身体の中からどんどんと熱が湧き、額に汗が浮き出し始めた。

  「ひひ。ほら、こっち見てごらん?さなえ」

  「ぐ‥‥ううう!?」

  諏訪子の目を見た瞬間、早苗の頭の中で何かがはじけた。腹部に切ないくらいの疼痛が押し寄せる。口の中によだれが溢れかえった。――――おいしそう。おいしそうおいしそうおいしそう!

  守矢神社を飛び出す前、ミシャグジ憑きの影響ですでに早苗は諏訪子を美味しそうに感じ始めていたのだが、今、諏訪子の黒い霧を吸い込んだ瞬間、その気持ちが一気に増幅して彼女に襲いかかってきたのだ。

  ――――目の前に居るのは誰?諏訪子様だ。‥‥いいや、この美味しそうな香りは間違いなく、蛙。だって諏訪子様はこんな無防備に"私を食べて"ってニオイはさせない。でも、この姿は諏訪子様‥‥ああ、ああ、もう何も考えられない。ほら、脂肪がほどよくノッたお餅のようなほっぺた。柔らかそうだけどプヨプヨじゃなくて、ちゃんと歯ごたえを持っていそうな細い腕。甘い脂と血液がいっぱい詰まってそうな太もも。かじりつきたくなる小さなお腹。とろとろとシャブリたくなる、金色の瞳――――!

  どんどんと蛇の食欲に早苗の理性が侵食されていく。このままでは心まで蛇になってしまう。早苗は襲いかかってくる衝動に必死に抵抗するが、頼みの綱の理性は、そういえば今日は何も食べていないなぁ、などと火に油を注ぐようなことを考えていた。

  「うあ‥‥ああ‥‥」

  「ふふふ。どう?早苗。オイシそうでしょ、アタシ」

  「な、なに、を‥‥したんです、わ、わたしにっ‥‥!」

  「ああ、呪いさね。ちょっとアンタの中のミシャグジを挑発したの。どお?これで臆病風も吹き飛んだんじゃないかしら」

  つ、と早苗の頬を諏訪子が撫でた。細い腕から漂う諏訪子の甘い肉の匂いが直接早苗の鼻孔をくすぐる。

  「っぐ、あああっ!」

  「ほーら。さなえちゃーん。わたし、オイシソウでしょう?齧ってみたい?ねえねえ。食べてみたくならない?」

  「ぐ、ああ、あああ、す、わこ、さまっ!やめて、やめてください!わた、し、そんな!」

  「我慢するでないよ。美味しそうだろう?わ・た・し。齧りたいだろ。たべたいだろ!腹食い破って、目ん玉しゃぶって!ほーら、ほらぁ」

  ニタニタ笑いながら、諏訪子は顔を近づけてくる。早苗はまるで脳味噌がぐしゃぐしゃになったような気分で、必死に耐えていた。ひっきりなしに襲ってくる飢餓感と、諏訪子の肉の匂い。ヨダレがだらだら零れ落ち、目が釘付けになる。齧りたい。今すぐにでもあの“蛙”を!しかし、わずかに残った理性が一線を越えようとする早苗を押しとどめる。身内を、敬愛する神様を食べようとする、自分の体を。

  「ひっ、い、やだ!やめて、諏訪子、さまっ、いやだ!わた、しっ!そんな、こと、したくない!」

  「ふん。強情っぱりめ」

  首を振って、諏訪子の甘い声と匂いから逃れようともがく早苗。諏訪子は片眉をあげると、右手の親指を齧る。

  「ほれ」

  「むぐうっ!?」

  食い破った指の皮から漏れ出す、真っ赤な血。諏訪子はそれを指ごと早苗の口に押し込む。

  口の中に広がる、渇望していた血の味!その瞬間、早苗の理性は蛇の本能に抑えこまれた!

  「うあああああアアァァァァ!」

  その指ごと食いちぎろうと、早苗は上半身を踊らせる。しかしすんでのところで「うひひ」とおどけた笑いと共に指は引き抜かれた。早苗は逃げる腕を追い、なおも必死にもがく。尾をビタビタと暴れさせ、そら涙を流し、牙をきらめかせ、縦に割れた瞳孔を開き、ガチガチと歯を鳴らして噛み付こうとする。

  その早苗の姿に、射命丸が怯える。

  「ひ!‥‥お、おねーさまぁ」

  「大丈夫だよ、文ちゃん。お母さんは強いですもの。私たちをちゃんと守ってくれます。あんな蛇に文ちゃんを襲わせたりはしませんよ」

  しがみつく射命丸の頭をなでるはたて。人格崩壊此処に極まれり、である。

  そんな「娘たち」の様子を尻目に、諏訪子はニヤリと笑い、早苗から離れた。

  無意識に早苗はミシャグジの力を使っているようで、彼女を掴む土塊の腕からはひっきり無しに草が生え、その腕を崩壊させようと根っこで侵食する。しかし崩れる側から諏訪子が修復するためになかなか土塊を崩せない。

  「ううう!」

  離れていく餌を見て、悔しそうに早苗が唸る。その姿を見て、諏訪子は満足気にぐふ、ぐふと笑った。

  「ふふふ。いいよ。いい感じだよ。早苗。ミシャグジさまはそうじゃなきゃ。怖くてきれいでいつもお腹を空かせてて!」

  「しゃあああああ!」

  早苗から離れ、再び二人の天狗の元まで下がると、諏訪子は柏手を打ち鳴らす。それを合図に、早苗を掴む土塊の腕がゆっくりと高く伸びていく。早苗が喚んでいる草は柏手と共に一瞬で枯れ果てて地面に落ちた。空高く掲げられる早苗の視線にあわせ諏訪子もまた宙を登っていく。そうして、ある程度の高さまで来ると、諏訪子は土の腕を止め、なおももがく早苗に呼びかけた。

  「早苗、早苗。聞いてる?‥‥いい?よーくお聞き。一週間。一週間だよ。あんたの中の『ミシャグジ』の神性が、なけなしの『現人神』の神性を完全に食い尽くすまでの時間だ。その間に元に戻れなきゃ、早苗、あんたホントにそのまま、『白蛇の早苗』として生きてくことになるよ。‥‥うふ。それでも私は別に構わないけどね。そうなりたくなかったら、一週間の間に神社までおいで。そして一緒に遊ぼう。遊んで、私が早苗を叩きのめして、眷属にしてあげる。そして元に戻してあげよう。ほんとだよ。‥‥ただし、今日みたいに腰砕けな態度で来てみな。そしたらその場で八つ裂きにしてやるよ。いいか!」

  吠える諏訪子。この時、彼女はもう悪ノリの挙句の果ての"悪の女幹部"などではなく、本物の太古の祟り神として、ミシャグジである早苗に接していた。すでに彼女が早苗を見る視線に下卑たものは無い。純粋に征服し降すべき相手として、早苗を見ている。

  早苗はそれに気がついているのかいないのか、そもそも諏訪子の話を理解できているのか。呻きながら諏訪子を威嚇し続けていた。

  「ま、聞いていようといまいと、理性があろうとなかろうと、アンタは必ず私を食い殺しに来る。そういう呪いを掛けたんだもの。心配しなくてもいいよ。それまで楽しみに待っているからね」

  言うと、諏訪子は腕を高く掲げる。それに合わせて動く土の腕。

  「振り出しに戻る、だ。もうちょっと神様やってきな!早苗!」

  そのまま土の腕は諏訪子の動きに合わせて大きく振りかぶると、ものすごい勢いで早苗を投げ飛ばす。強烈な加速に早苗の意識は暗転した。そしてそのまま、悲鳴を上げることもできず、早苗は夜空を飛ばされていった。

  「ほーれ、がんばってこーい」

  暗闇に消えてゆく早苗を、暢気な声を出して見送る。そうして、辺りにまた静けさが戻ったころ、諏訪子は嬉しそうに顔をゆがめながら、つぶやいた。

  「‥‥たまにゃ、裏をかかれるってのも楽しいだろう?なぁ。ひひ、大丈夫だって。悪いようにはしないさ。これは私らの神事だ。余計な手出しはするなよ。ひひひ」

  操られた射命丸とはたて以外、誰も居ない。しかし明らかに誰かに向かってそれをつぶやくと、諏訪子は至極満足げに、舌なめずりをしたのだった。

  

  

  

  

  

  [newpage]

  ************

  

  

  

  ‥‥ウチの神楽殿の真ん中で、白無垢の女の人が、さめざめと泣いている。

  横には諏訪子様がいて、なぜかご立腹。

  神奈子様は困り顔で、しきりに私をなだめてくる。

  私は、女の人の向かいに座ってる。

  神楽殿の周りは、真っ白な霧に包まれていて明るいけれども外は何も見えない。

  

  ‥‥なんだこれ。

  この状況はなに?

  

  不思議そうな顔をしたら、諏訪子様が怒って畳を叩いた。

  どうも私にその女の人が結婚を申し込んでいるらしい。

  でも私がうんと言わないから、女の人は悲しくて泣いているんだって。

  何度も何度も頼んだけど、何度も何度もお願いしたけれども、私に断られちゃって泣いているんだって。

  どうして結婚しないのか。何が不満なのか、と諏訪子様は怒っているんだって。

  神奈子様が説明してくれた。

  

  ‥‥ちょっとまって。女の人だよね!?

  むりむりむり、と首を振ったら、女の人が一層大きな声でしくしくと泣いた。

  山も川も森も田んぼもその他もろもろ色んなものを、いくつもいくつも越えてきたらしい。

  何ヶ月もかかって探してきたらしい。

  そして、ようやく私を見つけ出したそうだ。

  そこまでして、私と結婚したいそうだ。

  いやいやいや、待ってください。

  私にも聞かせてください。

  なんで私なんですか?

  私を探してきた理由は?

  そこまでして結婚したい理由は?

  

  ‥‥そもそもあなたは一体誰ですか?

  

  聞いたら、諏訪子様が呆れた顔をした。

  神奈子様は困った顔をした。

  女の人はさめざめと泣きながら、胸元から何かを取り出した。

  それは紫色の袱紗の包み。

  女の人が丁寧に包みをほどいていくと、中から小さな鏡が出てきた。

  それを、ゆっくりと私に向ける。

  そこに映し出される、「わたし」。

  何の変哲もない、「わたし」。

  女の人は鏡に私を映したまま、何も言わない。

  諏訪子様が、よおくみてみな、と近づくように促す。

  私は言われたとおり、近づいてよく見てみる。

  ――――何もおかしいところは無いじゃない。

  格好だって、いつものとおり。

  諏訪子様譲りの金色の目。蛇の髪飾りに、蛙の髪留め。緑の首飾り。

  白い鱗。

  赤くて長い舌。

  象牙色の、牙。

  スラリと細長い、胴体。

  分かったか?と諏訪子様が聞いてきた。

  お前とこの人は、お似合いなのだ。だって。

  女の人が、またシクシクと泣き出した。

  ああ、泣かないで。

  私は女の人に近づいて、頬を伝う涙をチロチロとなめてあげる。

  

  ――――私には神奈子様や諏訪子様と違って手がないんだもの。

  

  女の人はとてもびっくりした様子。

  ほらほら、泣かないで。

  女の人がびっくりした拍子に、頭巾が後ろに取れちゃった。

  出てきたのは、つぶらな黒い瞳の、肌の白い綺麗な女の人の顔。

  

  ‥‥遠くから蝉の声が聞こえてきた。

  暑い暑い、夏の甘くてぬるい風が吹いてきた。

  思い出した?と諏訪子様が聞いてきた。

  覚えてるかい?と神奈子様が頭を撫でてきた。

  わたしはようやく思い出した。

  ――――ああ。

  なるほど。

  あなただったんですね。

  

  

  

  [newpage]

  ************

  

  

  

  

  

  

  「ひ、ひええええ‥‥」

  えらいものを見つけてしまった。渓流沿いの岩の上から淵を覗いた河城にとりは冷や汗を流しながら、そう思った。

  今は朝。昨晩は稗田のお屋敷でのお忍びの宴会だった。9代目や貸本屋の娘に河童の技術史をちょいちょいと講義して、一緒に酒のんで騒いだあとの帰り道のこと。

  里への道としていつも使っている渓流を半ばまで上ったあたり。ちょっと流れが曲がってよどみ、淵になっている場所。そこにそれはいたのだ。

  ――――それ。でっけえでっけえ白い蛇。しかもなんと上半身が少女という、いわゆる蛇女だ。

  白い髪に、白い鱗。飾りのたぐいは何も付けていない。真珠みたいな鱗は首元まで彼女(?)の身体を覆っている。服は、上半身になにかぼろぼろのノースリーブみたいなのを一枚。あと、破れかけた青い腰巻みたいなの。腕はむき出し。むき出しの腕はシャツの袖のように白い鱗に覆われている。

  どこかで見たような服を着たそれは蛇の胴体を流れに浸し、背中を岸に生えている木の根に預ける形で仰向けに岸に引っかかっていた。

  ‥‥そーいや昨日、上白沢慧音が途中で慌てて退席していったが、もしかしてこいつが原因か?なんか騒ぎを起こしてたのか?

  「ど、どうしようかねえ‥‥」

  そんなことを考えつつ、小さな声で呟く。半分笑ったほっぺたがヒクヒクと痙攣していた。

  これが人間なら、すぐに助けに動くなりしたのだろう。人間は盟友であるからして。

  しかし河城にとりさん、今回ばかりは動けずにいた。

  ――――だってだって、気絶していると思ってた蛇女が、いつの間にか目を開いてこっちを凝視しているんだから。

  蛇に睨まれた蛙、いや、河童。河城にとりは動けなくなった。

  ゆらゆらと胴体と腕を流れに任せ、完全に脱力しているように見えるのに、こっちを見つめる金色の目は爛々と輝いて、にとりを捉えて離さない。

  ‥‥彼女にはどうにもその蛇の目線が「これからおまえをとってくう」と言っているようにしか見えないのだ。

  「あたしゃそんなに美味く無いよう‥‥?」

  河城にとりは河童である。妖怪である。力もあるし、空だって飛べる。人間よりかはよっぽど丈夫。とはいえ、やっぱり生き物。命は大切なのです。‥‥退却しましょう逃げましょう。こんな綺麗な川でドッカンドッカン戦いたくないし、なんだかあの蛇すっごい強そうだし。

  しかしにとりは、逃げるのももしかしたらやばいんじゃないかなぁ、と思い始めていた。こういう「たいきゃくー!」的な状況の時すごく頼りになる自慢の光学迷彩は今日も装備している。只の普通の魔法使いにあっさり見破られたあと、改良に改良を重ねた、いわばマークⅡ的な最新版。なのだが。

  「へ、蛇って確か赤外線見れるんだよねえ‥‥」

  残念ながら彼女の光学迷彩は可視光領域のみ。熱線カモフラージュ機能は仕様に無い!

  ああ、今すぐにでも飛んで逃げたい。そう彼女は思うのだが、あの金色の目に射すくめられた身体は、がくがくと膝を震わせるだけでてんで言うことを聞いてくれない。自分の臆病な性格をにとりは呪った。

  「ど、どーする、どーするわたし。考えろ、考えろ考えろ考えろ‥‥」

  にとりは脂汗垂らしながら考える。が、半分パニックな頭ではあんまりいいアイディアが浮かばない。せせらぎの音がさらさら響く中、にとりと蛇は無言で見つめ合い続ける。

  ――――あー、あー、早くしないと、ええと、どうしよう。煙幕張れればいいのかな?逃げるには常套手段だよねえ。熱線もある程度ごまかせるし‥‥だけどいまそういうの持ってないよ?空中魚雷はあるけど、あれは煙なんか殆ど出ないし。ああ、黒色火薬があればなぁ。いやいやいや、だめだよアタシ。無い物ねだりしてちゃあいけません。今あるもので何ができますか。――――ああ、ほら、ぐずぐずしてたから彼女が水から上がってきちゃったよー。あっはっはっておいおいおいっ!

  「ひゅいぃいっ!?}

  ついに動き出した蛇女。水からするりと出ると、向こう岸の木にずるずると巻きつき、首をかしげてやっぱりこっちを凝視する。

  さらりと流れる蛇の白い髪。小さく空いた口からは赤い舌がチロチロ覗いてる。

  「‥‥‥」

  「‥‥‥ひ」

  不思議なことににとりにはあの蛇少女の顔がどこかで見覚えのある顔に見えた。見えたのだが混乱している脳味噌はうまく記憶を引き出してくれない。

  見つめあう二人。遠くで鳴いてたカッコウがいつの間にか黙っている。

  「え、えええと」

  「‥‥」

  「ど、どどどどどこかでお会いしまっしたっけけ?」

  ある意味現実逃避な間抜けな質問。なんであたしゃこんなこと聞いてるんだ、にとりがそう思った次の瞬間。

  「しゃあああああ!」

  「ぎゃあああああ!」

  蛇少女が口を開けて威嚇してきた。にとりも大きな口を開けて悲鳴をあげる。そんな時でも現実逃避に走る彼女の脳みそは、「あ、顔は女の子のままだからあんまり大きく開けられてなくて、ちょっとらぶりい」とか考えてしまっていたり。

  そんなことを涙目で考えている間に、蛇少女はゆっくり体を伸ばしてこちらにジリジリ近づいてくる。

  いよいよもって「これからおまえをとってくう」が現実味を帯び、生命の危機を感じたにとりの脳細胞はようやく「抵抗する」という結論を選んだ。

  「っこ、このまま朝ごはんにされてたまるかい!くらえ、『お化けキューカンバー』!」

  キッッ!と音が出るくらいの凛々しさで蛇を涙目で睨むと、彼女は光り輝くきゅうりを至近距離から投げつけた。しかし。

  「‥‥‥」

  蛇は無言で、つまらなさそうな顔をすると、ちょいと尾の先を振る。

  次の瞬間。

  ぶぁじゃっ!

  「どええええ!ウォーターカッター!?」

  突如渓流から水芸のように吹き上がった幾筋もの細い水が飛来するきゅうりをことごとく切断粉砕した!

  攻撃されて、蛇は怒ってしまったようだ。

  もう一度声を上げて威嚇すると、次の瞬間ものすごい勢いで空中を突進してきた!

  「!!!!」

  もおだめだ。

  光学迷彩を展開して逃げる間もない。にとりは観念して、迫る口と牙を見ていた。

  ――――あんなんじゃあ、アタシを丸飲みできないんじゃないかなぁ、ああ、きっとキュッ、と絞められて、ゆっくり一口づつボリボリいただかれちゃうんだろうなぁ。ぐえ、痛そー‥‥

  ‥‥そう、にとりが半泣きで自分の食べられる様を高速で想像していた時だった。

  「やっとみつけたあああ!」

  「へ!?」

  「?」

  突如天空から声が響く。思わず見上げた両者の目に映るのはでっかい茄子!‥‥のように見える傘を構えてこちらにすっ飛んでくる水色の髪の少女!

  「だめーっ!だめだよ早苗!それだけはやっちゃだめええええ!」

  「‥‥‥」

  蛇は無言で尾を振る。

  ぱべえええん!

  「おぶふぅっ!」

  なにやら叫びながら、もんのすごい勢いで落下してきたナスビは、もんのすごい景気のいい音とともに蛇の尾っぽでホームランされて青空に帰っていった。

  「っきゃああああああぁぁぁあぁぁぁぁ‥‥‥」

  「な、何しに来たんだアンター!」

  台詞の意味を聞き返す間もなく、空に輝く真昼の星となってしまった未確認飛行少女へ、思わず突っ込むにとり。その眼前、ホームランの後で体勢を立て直そうとして、一瞬、蛇の動きが止まっていた。

  「!?今だねっ!」

  その隙をついて、にとりはその場から逃げ出した。光学迷彩を展開し、ありったけの弾幕を目くらまし替わりにまき散らしながら。‥‥少々森が荒れちゃうけど、背に腹は代えられない!

  「うおおおおおおおお!」

  手応えはない。にとりは振り返りもせず、さらに弾をばらまきながら一目散に森の奥へと逃げていった。

  「うおおおおおおおおおおお‥‥!」

  

  

  [newpage]

  ************

  

  

  

  ‥‥どれくらい走っただろう。気づけばあの淵からだいぶ離れた妖怪の森の近くまでにとりは来ていた。

  「はぁっ、は、はああ、お、おっかなかったよおお」

  両手を地面について、息を整える。

  何とかあの蛇からは逃げおおせたようだ。

  彼女も長いこと河童をやってきているが、喰われそうになるという恐怖の経験は今までの妖怪生活において殆ど無い。似たようなものはせいぜい鬼のパワハラぐらいだろうか。だから今回の出来事は彼女に取って結構なインパクトがあった。立ち上がれないのは全力疾走の疲れのせいだけではなかった。

  膝はガクガク、顎もガクガク。

  しばらくそうやってプルプルしていたにとりだったが、汗が引いて服が乾き始めた頃、ようやく、あの茄子がとんでもないことを言っていたことを思い出したのだった。

  「って、あれ早苗さんかい!」

  にとりは先程の恐ろしい邂逅の記憶をどうにかこうにか引っ張り出す。――どこかで見覚えのある顔と服だったけど、そうだったんか!気づけよアタシ。‥‥いやいや、だって髪は真っ白だし、袖も付けてなかったし、髪飾りも付けてなかったし、服はぼろぼろだったし、顔も‥‥顔は‥‥顔は同じだったね。

  結局、彼女は怖くてあんまり見てなかった、という結論に達した。

  「ど、どうした?おい?早苗さんよう。蛇の格好、ってかまるきり蛇だったよ?‥‥え、まさか早苗さんて、そういう体質?そういう家系?」

  まるで話しかけるかのように独りごちる。

  もし、本当に早苗さんなら、早苗さんがそんな状況ならそれはきっとすごく大変な状況なのでは。

  にとりは後ろを振り返る。視界に広がるのは鬱蒼と広がる森。

  「うううう‥‥」

  心配である。とても心配である。

  だが、一人で昼なお暗いその森の奥に再び出向き、さっきのような目に会いに行くなんて、彼女に取ってそれは出来る限り避けたい冒険だった。

  「と、とりあえず報告だねえ‥‥八坂様に‥‥」

  あの神様なら何か事情を知ってるかも。

  ‥‥神様ともども蛇になっちゃっている、という恐ろしい展開も考えられたのだが、彼女はひとまず神社に向かうことにした。

  震える足を一回叩いて気合を入れる。なんとか立ち上がると、彼女は守矢神社へ向かって飛び立った。

  

  

  [newpage]

  ************

  

  

  にとりが逃げだした淵。

  蛇女、もとい早苗は無表情で空中に浮いていた。

  「‥‥‥」

  あの諏訪子の呪いのせいで、早苗の思考はミシャグジ様のままだった。しかも呪いを掛けられた直後で混乱しているのか、今の彼女は割と簡単な、蛇の原始的本能的なことしか考えられない。そんな状態の彼女の目の前に河童が現れたのだ。

  その姿に彼女はなぜか好意的な感情を覚え、とりあえず様子をうかがってみた。そしてじっくり観察してみたら、その相手は見知った相手だった。そう感じた。

  で、嬉しくなったから”笑顔”で飛びついてみた。

  そしたらあの反応である。怯えて逃げようとした上に大きな声をだして何か投げつけてきたのだ。――――さもありなんである。笑顔はもともと威嚇の表情だったという説があるそうだが、まるでそれを証明するかのように、動物的行動状態にある早苗の先程の笑顔は、他人にとってはまさに「威嚇」にしか見えないものになっていたのだ。でも今の早苗にはそれが分からない。

  ‥‥あの、なんか叫びながら飛んできた茄子は単純に危険を感じたから跳ね飛ばした。それだけ。

  「‥‥‥」

  「蛇心」にも、さっきの一件はちょっぴりショックな出来事だったようで。

  なんとなく孤独を感じて、早苗は少し寂しそうな顔をした。

  くーきゅるるるる‥‥

  追い打ちとばかりに彼女のお腹が切ない音を立てる。もう飲まず食わずで二日目であった。

  (おなか、すいた‥‥)

  悲しげな顔で指を一本しゃぶりながら、早苗はくるりと振り返ると、ご飯を探しにずるりずるりと森の奥へ進んでいった。

  奇しくもその方角は、早苗が妖獣と戦ったあの森の方角だった。

  早苗の頭の上でさわさわと森の木々がざわめく。

  早苗は気がついていなかったが、もし木の言葉が分かる術があったなら、そのざわめきはこう聞こえたかもしれない。

  

  

  

  

  

  

  ――――ようこそ。おかえりなさい。森を守ってくれた、かみさま。

  と。

  

  

  

  

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