AdAd
  
白蛇の早苗 第7話【蛇神の宴】

  暗い闇に、硬い音が響く。

  からり、からりと石が転がる音。

  闇の奥にいる人物は、その音を聞いて、にんまりと笑った。

  「お、来たねえ来たねえ‥‥うひひ」

  「おかあさま、誰か来ました」

  「誰か来ましたよ」

  「何かこわい人が来ました」

  「お母様、怖いです」

  鈴のような少女の声が、両側から響いて足音を消す。その声に、“おかあさま”はしがみつく片方の頭をぐりぐりと撫でた。

  「おお、よーしよし、大丈夫。母様は強いですからね。あんな女どもに、貴方達を襲わせたりはしませんよ」

  「‥‥何時の時代の悪役気取ってるんだい。暗い洞窟の奥で女侍らせて酒呑んで。アホかお前は」

  「諏訪子さん‥‥」

  「ふふ、誰かと思ったら出雲の田舎蛇女に仙人じゃん。どったの?呑み相手いなくて寂しくなったの?じゃあ、ここで呑んでいく?おつまみもあるんだよ。ウサギの干し肉」

  闇の向こうにいたのは、祟り神と、彼女に洗脳された天狗達。彼女らを訪ねてきたのは、神奈子に、華扇だった。

  けらけらと笑う諏訪子に、神奈子は静かな声で返す。

  「早苗を見つけた。一緒に来て。悪いが眷属云々てな、お前の変態的野望は、今回は後回しだ。早苗を元に戻すよ。イヤとは言わせないよ」

  「イヤだ」

  「諏訪子さん!」

  洞窟に華扇の怒号が響く。

  妖怪の山の裏っかわ。そのどこかにある、薄暗い洞窟の奥。

  神奈子がようやく見つけた諏訪子は、そこで天狗二匹と一緒に酒を飲んでいた。

  「あはは。ようやくお出ましかい。神奈子。待ったよ。しかし付き添いがいるとは。一人じゃ自信がなくなったかい。そんなに弱くなったかねぇ、アンタ」

  「‥‥そうかもね」

  おどけた諏訪子の言葉に、神奈子は言い返さなかった。ぐるりとあたりを見渡す。何の変哲もない洞窟。しかしその空気には、祟り神の瘴気がうっすらと混じっていて。

  暗闇で湿っぽい宴会を開く祟り神を神奈子は睨む。それは、どことなく憐憫の情を含んだものだった。

  「うまく隠れたものだわ。正直焦ったよ。このまま見つからないんじゃないかってね」

  「おんや、焦る必要がある?私が少々いなくなったところで、早苗がお献立考えるのに困るくらいじゃないのかい」

  「ふざけたことを言わないでください諏訪子さん!その早苗ちゃんが今どんな状況か知らないでしょう!あの子はね!」

  「知ってるよー。あの子、心までミシャグジになっちゃってるんでしょ?」

  「っ‥‥!」

  「舌を垂らして、しゅうしゅう言って、人間の言葉とか忘れて」

  「あなた‥‥!」

  「‥‥」

  憤る華扇の横で、神奈子はじっと諏訪子を睨んでいた。唇の端を噛んで。ただおちゃらけた様子の諏訪子を睨んでいた。

  「そだね?」

  「‥‥さすがに専門家だね」

  「あはは。褒めなくてもいいよー」

  「褒めてないよ」

  「ありゃ」

  かっかっか、と酔っ払って笑う諏訪子に対し、神奈子はしかめ面のまま、静かに言葉を返した。諏訪子はべろりと舌なめずりをすると盃を上げる。

  「はたて、お代り」

  「‥‥!」

  じわじわと重たくなっていく場の空気に怯えながら、はたてが健気に諏訪子に酌をする。射命丸は諏訪子に抱き付きながら、神奈子を威嚇するように睨んでいた。

  「まあ、専門家って言われてもねー。だって、早苗をあんなふうにしたの、私だし。自分でしたことだから言われなくてもわかりますって」

  「なんですって‥‥!」

  華扇が、包帯の巻かれた拳をぎりりと握りしめた。赤い目が、闇にきらめく。しかし仙人の怒りの表情を見ても、諏訪子はおちゃらけたままだった。

  「あ、ミシャグジを憑かせるようなことはしてないよ?あれは私もあずかり知らないところで起きたこと。私はちょっとした呪いを掛けただけだもん」

  「呪い!?」

  「うん。あの子の中のミシャグジをちょっと元気にしてあげたの。現人神の神性を喰いやすくできるように。‥‥いまごろ、ミシャグジの神性に、現人神の神性はあらかた食いつくされちゃってる頃なんじゃないかなぁ。タイムリミットは一週間だったから、ひーふーみー。‥‥うん、今日か明日だねえ。うふふ。神様みたいな人間は、妖怪みたいな神様に。墜ちて二度とは戻れないっと」

  「あなた!悪ふざけにも程がありますよ!なんてことを!」

  歌うようにあっけらかんと、とんでもないことを言い放つ諏訪子。激高して怒鳴る華扇をじとりと見つめると、ニヤケながら諏訪子は呟いた。

  「おうおう、怒りっぽい仙人だね。修業が足らないんじゃないかい」

  「この怒りは当然のものです。家族ともいうべき子を、あまつさえ自分の手で化け物に貶めるとは。悪ふざけにしても度が過ぎています!」

  「そうだね。あんたから見りゃ悪ふざけかもね」

  ぐび、と杯の酒を呑み干すと、打って変わって真剣な目で、諏訪子は怒る華扇ではなく神奈子を睨めつけた。洞窟内の空気が瞬時に冷たく雰囲気を変える。射命丸が身体を震わせた。

  「‥‥お前は、色々わかってると思うけどさ、神奈子」

  「諏訪子」

  「仙人殿よ。悪ふざけならここまで本気にはならないよ。ならないんだよ」

  「あなたは、何を――――」

  何か言いかけた華扇を遮り、諏訪子は言を続ける。

  「もう、無いと思ってたんだ。“ここ”じゃあ。ミシャグジ様との喧嘩。調伏」

  帽子の縁から除く諏訪子の口元が小さく上がる。

  「私が、私だった頃の思い出。楽しい楽しい洩矢の神遊び」

  また、突き出された杯に、はたてが手を震わせながら酒を注ぐ。

  一口、それを舐めると諏訪子は二人を睨め付けた。

  「正直、早苗に可哀想なことをしてる自覚はあるよ。あの子は私達の家族だし、かわいいかわいい私の子孫だし」

  「なら‥‥!」

  「でもね、だめなんだよ。‥‥我慢出来ないんだよ!どうしても!どうしても!」

  華扇の言葉を遮って諏訪子が吠える。がん、と岩の床に打ち付けられる杯から、酒がはじけ飛ぶ。

  「我慢出来ないんだ!あの頃の、あの頃の残りカスが騒ぐんだ!」

  前かがみになり、バリバリと片手で顔を掻きむしる諏訪子を、「母様」と射命丸が手を伸ばして止める。

  「懐かしいニオイを嗅いで、黙っていられなくなったのは私のほうさ」

  「‥‥」

  「ミシャグジと喧嘩して、叩きのめして、従えて‥‥私はずっとそうしてきた。私という祟り神はそうして出来てきた」

  「‥‥諏訪子、さん?」

  打って変わってぽつりとつぶやかれた独白に、多惑いの声を上げる華扇。諏訪子はうつろな目で、酒を巻き散らかした足元を見ていた。

  「あんな綺麗なミシャグジ見せられて、喧嘩までして。‥‥為すすべもなかったよ。早苗の部屋からあのニオイがしてきた瞬間、すぐにあのころの私が目を覚ました。‥‥頭の奥で口からよだれを垂らして、言ってくるんだ。あのミシャグジがほしい。ほしいって。ニオイを振りまけ、誘え、捕まえろ、叩きのめせ、手に入れろって。‥‥だけど相手は早苗だよ。必死で衝動を抑えた。抑えたかったよ」

  「‥‥最初っからノリノリだっただろう、お前」

  「あれでも抵抗したんだよ。‥‥ま、結果はごらんの通りさ。結局抗うことなんか出来やしなかった。あっというまだった。それに」

  ふう、と一息ついて、諏訪子は岩の天井を遠い目をして見上げる。

  「ミシャグジを目の前にして、何もしないという選択肢を選んだ時点で『土着神の頂点』という神性は、死ぬ」

  「‥‥」

  「うふふ。死ぬんだよ。死んじゃうんだよ。‥‥私はね、そんなことしたらね、ただのよく分からない何かになる」

  あはは、と笑って諏訪子はかくりと首をかしげて見せる。神奈子は黙ったまま、諏訪子を睨んでいた。華扇は得体のしれない諏訪子の様子に、気圧された様子で、なんとか口を開いた。

  「そ、そんな、大げさな」

  「仙人のあんたにはわからんかね。でもね。神様も妖怪も同じでしょ。存在する理由が失われたら、それが死なんだから」

  深い溜息をつくと、射命丸の手を優しく握って諏訪子は顔を上げた。

  「――――だから、楽しい楽しい神遊びができるなら、そのためなら、私は何でもする」

  「あなた、そんな単純な――――」

  「くはっ。だ阿保め」

  「なっ――」

  諏訪子の纏う空気が変わる。ぎろりと、諏訪子の金色の目が神奈子達を捉える。ギラギラと光る二つの目玉。それはどこまでも無邪気で楽しそうで残酷なカミサマの目。ここにいるのは、「坤を創造する」なんて生ぬるい肩書きなどかなぐり捨てた、土着神の頂点。畏れを振り撒く太古の祟り神。

  べろりと舌舐めずりをして、諏訪子は言った。

  「おとなしいミシャグジを、オママゴトみたいに簡単に眷属にしたって、意味がない。誰からも畏れられる、恐ろしい恐ろしい蛇神を叩きのめして従えて。‥‥あのミシャグジとケンカできるなら、それができるなら、それをするためならなんでもする。‥‥たとえあの子を、蛇に堕としてでも」

  その台詞を聞いた瞬間、黙っていた神奈子が、叫んだ。

  「もうやめろ。早苗は、風祝はお前の玩具じゃない!」

  「ひひひ。道徳的な台詞、かっこいいねえ。でもだめだよ。もう、呪いは掛けられてる。私の神遊びは始まってる」

  叫ぶ神奈子を、ゲッゲッ、と面白そうに嘲笑う祟り神。

  彼女の口が、三日月のように吊り上がる。

  「――――私だって、ミシャグジの玩具じゃないんだ!」

  「な!?」

  諏訪子が吼えた瞬間、洞窟が震え出す。そして周囲の岩盤に次々とひびが入り始めた。

  「崩れる!?」

  「諏訪子!」

  驚く華扇を横目に、諏訪子のもとに駆け寄ろうとする神奈子。そこに、壁から突き出た巨大な土塊の腕が襲いかかる。

  「このっ!」

  神奈子は御柱を喚ぶと腕にぶち当てた。次々と土の腕は串刺しにされる。

  諏訪子は座ったまま、二匹の天狗を抱き寄せると自分が腰掛けている岩ごと、少しずつ地面に潜り始めた。

  神奈子はどうにか諏訪子を捕まえようと彼女に近づこうとするが、土塊の腕は力押しとばかりに圧倒的な数で神奈子に襲いかかる。狭い洞窟の上、ここは地下。神奈子得意の大技は使えず、そして坤を創る神――――大地を操る祟り神の諏訪子にとって有利な条件は揃いすぎていた。

  「なあ仙人!守矢の一年神主を知ってるかい?あいつらはどうして殺されてたか、知ってるかい?」

  「は!?――――」

  崩れる岩を殴り飛ばしていた華扇に、突然諏訪子が楽しそうに声をかける。

  「私と神遊びをしてたからだよ!ミシャグジを降ろした奴らと喧嘩をしてたからだ!奴らは身体までミシャグジにならなかったからテンでヤワだった!でも、早苗は身体もミシャグジになったから、もしかしたら死なないで済むかもねえ!あはははは!」

  「な、何言ってるんですか貴女!」

  「諏訪子!待て!待ちなさい!」

  「神奈子!退いて!」

  半ば土砂に埋もれながら、神奈子は逃げていく諏訪子を睨みつける。

  返ってきたのは、楽しそうな無邪気な声だった。

  「――――ああ、楽しいねェ。清々しい気分だ!あは、"堕ちる"ってのはいいもんだねえ、神奈子!」

  落盤が始まる。降り注ぐ土砂に隠れて、諏訪子の姿は見えなくなった。

  諏訪子の神力でも込められているのか、振りかかる土砂は神奈子の力を以てしても簡単に払いのけることはできず、徐々に彼女は身動きが取れなくなっていく。そんな神奈子を助けようと華扇が必死に近づこうとするが、自分を守るので精いっぱいだった。

  「神奈子!」

  「あいつの罠だ!華扇は外に出て!」

  「でも!」

  「いいから!あいつが動いた!神社に戻って、皆に――――」

  言葉は最後まで伝えられなかった。天井が抜け、二人の間を隔てたのだ。畜生、と呪いの言葉を吐くと、もう姿の見えない諏訪子に向かって、神奈子は怒鳴った。

  「この、馬鹿神がぁ!」

  直後、神奈子の視界は暗転した。

  

  

  [newpage]

  

  ************

  [chapter:第7話 蛇神の宴]

  

  

  

  

  「あははははっ!」

  蛇神が笑うたび、沼が爆発する。

  真珠色の髪をなびかせ、高笑いをあげながら、蛇神は凶悪な風の塊を化け熊に向かって叩きつける。

  小山のような化け熊の巨体は、しかしその重量を以てしても爆風に耐えることができず、湿原をゴロゴロと転がされた。起き上がろうとする化け熊に、白蛇は何度も何度も何度も風を叩きつけて弄ぶ。

  「ほらぁ、ほらぁ、さっさと掛かって来なさいよ!この森の奴らを皆殺しにするんでしょ!」

  嘲笑を受け、されるがままに嬲られていた化け熊の目が釣り上がる。一声吠えるとこちらも風を喚び、白蛇の爆風にぶつけ、威力を弱めた。そのまま、逆巻く風に乗せて毛針を飛ばす。白蛇はそれをこともなげに躱した。

  「へえ」

  ようやくまともな反撃に出た化け熊に、白蛇はニヤリと笑うと水面まで降下。

  局所的な台風でも吹き荒れたかのような有様の沼で、二匹の獣が対峙する。

  片や、その身を黒く染め上げた小山のような化け物熊。

  片や、真珠のような輝きを放つ鱗を纏った、白い蛇神。

  蛇神は熊を見つめて楽しそうに笑うと、一直線に突き進む。

  間合いまで近づいた蛇を叩き落とそうと化け熊は腕を振り回すが、蛇神はその腕に巻きつくようにするりするりとすれすれで躱し、化け熊をからかう。蛇の楽しげな笑い声と熊の苛々とした唸り声が沼に響く。

  「早苗さん‥‥」

  感嘆と不安の入り交じった小さな声。

  椛は、岸辺に近い水面から顔だけを出し、狼達と同じように二匹の様子を伺っていた。

  熊に握り締められた身体は、まだあちこちが軋み、うまく動かない。それに加え、先程の暴風である。沼に落下した椛は水中にいたため運良く衝撃波の直撃は受けなかったものの、爆風は沼に大波を起こし、容赦なく椛を襲った。彼女は水中でもみくちゃにされ、イヤというほど水を飲まされた。

  身体にまとわりつく濡れた重たい服。手足を振り回して必死で泳ぎ、ようやく岸辺までたどり着いた彼女は水中の流木に足を絡め、波に流されないようしっかりと踏ん張る。

  そうして彼女が振り返った先では、早苗があの恐ろしい化け熊をいとも簡単にもてあそんでいた。

  ――――自分の剣さえ折ったあの相手を、ああも楽々と‥‥

  椛の胸に頼もしさと同時に、強い不安感が巻き起こる。

  あれだけ人間離れした姿になってしまって、果たして早苗さんは、ほんとに元の早苗さんに戻れるのだろうかと。‥‥どうやって、連れ帰れば良いんだろうかと。

  

  「ふん!」

  風を纏った真っ白い尻尾が、熊の顔面を叩く。

  彼女の体重の数倍、いや数十倍もあるであろう化け熊は石ころでも打つように軽々と吹っ飛ばされた。

  水を跳ね飛ばし、沼の上を転がって、向かう先には岸辺の椛。

  「んなぁ?」

  慌てて椛は水から飛び出す。

  間を置かずに化け熊は椛の居た岸辺に突っ込み、盛大な水しぶきを上げる。

  岸辺には巨大な熊の体に押しつぶされて大きな窪みが出来上がった。

  ‥‥ぐうう、ぐううう

  苦しそうな声を上げる熊に追いかけてきた早苗が飛びつく。振り払おうとする熊の手を長い身体を器用にくねらせすり抜けると、早苗は彼の黒く濡れた鼻にしがみつく。

  「ちょっと痛いよ」

  そう、楽しげに言うが早いか、早苗は牙を剥くと化け熊の鼻にかぶり付いた!

  「ギャアアアアアア!」

  「うわぁっ!」

  熊の上げた大音量の悲鳴に、椛は思わず耳を抑えた。

  早苗に噛み付かれた化け熊は気味の悪い甲高い悲鳴を上げてかぶりを振る。顔面ごと早苗を地面に打ち付けて潰そうとした化け熊だったが、早苗はつい、と身を翻して熊から離れる。結果、化け熊は自爆する格好となり、したたかに自らの頭を地面に打ち付けた。

  「あははは!馬鹿!貴方馬鹿だねぇ!」

  ケラケラと腹を抱えて笑う早苗。その開いた口から覗く白い牙からは透明な液体が滴っている。彼女はどうやら毒蛇だったらしい。熊は早苗に噛まれた鼻を押さえ、苦しそうに湿原の上をのたうち回っている。あの甲高い悲鳴をあげながら。

  「――――!」

  その悲鳴に耳をやられそうになり、こちらはこちらで苦しげに耳を抑えて木の影から戦いを見守る椛の視界に、今度は上空から接近する未確認物体が映り込む。

  「ぎゃぁぁぁぁっぁぁぁあああああぁああああ!」

  ――――小傘ちゃん!?

  白い煙の尾を引きながら雲を突き抜けて落ちてきた小傘は、まっすぐ沼へとつっこんできたが、彼女がしょった何か――御柱だ――がいきなり煙を撒き散らし、彼女は空中で急制動を受けた。彼女はあわてて柱を落とし、沼の上空で傘を開いてふわふわと落下する。沼のひどい有様と化け熊の姿に小傘は顔を青ざめさせたが、木の影にいる椛の白い服を見つけると、軌道を修正してその方に降下してきた。

  幸い、沼で戦う二匹は小傘のことなど眼中にない様子である。毛針の標的にされる前に、小傘はなんとか椛と合流できそうだ。

  しかしもう少しで椛の傍に着地するという瞬間、早苗が熊の顔面近くでまた風を爆発させた。

  「ひいいいい!」

  その余波を受けて小傘のバランスが崩れる。

  「うわっ」

  思わず椛は手を伸ばして彼女を受け止めた。

  小さな風呂敷包みを背負い、お姫様チックに椛に抱えられた小傘は、傷だらけ泥だらけの椛の顔を見て一瞬驚いた表情をしたが、すぐに安心したため息をつくと鼻水と涙まみれの顔を笑顔で歪め、はらはらと泣いた。

  「よ、よがっだあぁぁ、椛ぃぃぃ‥‥は、速かった、すごく速かった‥‥」

  「ちょっと、どうしたの?小傘ちゃん?ねえ?あの筒は?」

  「神奈子様のご加護‥‥」

  「あれが?」

  「椛の、ところまで、連れ、ていってくれるってって‥‥」

  「へえ‥‥んなっ!!?」

  椛の視界に、とんでもない光景が映り込む。なんだかよくわからない小傘の説明をゆっくり聞いている暇はなかった。毒を打たれ激高した化け熊が、ぶるりと身を震わせると、全身の毛を逆立てたのだ。

  ――――まさか、全方位に!?

  「小傘ちゃん、伏せて!」

  「へ?」

  抱えたままの小傘ごと地面に倒れこむ椛。眼前では、蛇神が相変わらず熊の周りを飛び回り、風を当てて熊を揺さぶって遊んでいた。

  「早苗さん!」

  熊の攻撃の前兆が見えているであろうに、のんきに遊ぶ蛇神に、椛は思わず叫ぶ。

  返事も反応もなかった。

  化け熊は無言で、逆立てた毛を周囲に向かって無差別に打ち出す!

  「小傘ちゃん!傘!盾に!」

  「はひ!?」

  うろたえる小傘の腕を強引に掴み、その手に握られた傘を開くと、椛は二人を覆う即席の盾にする。さらに天狗の神通力でつむじ風を作り、傘の表面を覆う。

  「なにを――」

  小傘の疑問の声は、すぐに襲ってきた破砕音の嵐にかき消された。

  がんがんがんがんがん!

  「きゃああああ!いたいいたいいたい!」

  「我慢して!」

  この傘と小傘は感覚でも共有しているのか。毛針の威力は椛のつむじ風によってかなり下げられているのだが、それでもゴツゴツと傘に当たる毛針の衝撃に小傘は悲鳴を上げる。

  勝手に彼女の傘を盾にしたことを心の中で小傘に謝りながら、椛は必死に早口でまじないを唱えてつむじ風のバリアにありったけの神通力を送り続けた。

  (早苗さん――――!)

  傘に遮られて早苗の様子は二人からは伺えない。“あの”早苗なら大丈夫だと椛は信じたかったが、彼女のあの恐ろしい爆風の音が聞こえない。

  がんっ。

  針の嵐はどれくらいの間続いたのだろうか。最後の一発らしき針の音を最後に、沼に静寂が広がる。

  もう何も言わずにじっと耐えている小傘。椛は慎重に傘の陰から顔を出して様子をうかがう。

  「!」

  視線の先には、荒い息を吐きながら体を起こした化け熊と、その顔の先で空中に静止している早苗の姿があった。

  「早苗さん!」

  思わず叫ぶ。身じろぎ一つしない早苗の姿に、椛の背中に冷たいものが走る。が。

  「‥‥」

  ぷっ、と早苗が無言で何かを吐き出した。かなり離れた距離からだったが、椛の千里眼はしっかりとその吐き出されたものを見た。

  「ハゲるよ?」

  笑いを含んだ楽しそうな声。彼女が吐き出したのは、あの熊の毛針だった。落ちる毛針を追いかけた椛の視線は、彼女の真下の水面に無数に浮かぶものを捉える。

  それは細切れにされた熊の毛。

  椛の目が驚愕に大きく開かれる。早苗は、どういう手を使ったのかあの至近距離で熊の毛針をすべて迎撃したのだ。風や盾で押し退けるのではない。すべてその場に打ち落としているのだ。‥‥おまけに、口にくわえて受け止めるなんて芸当まで。

  熊の顔に、椛が初めて見る表情が浮かんだ。彼女の勘違いでなければ、それは多分、絶望。

  「そろそろ飽きたわ」

  そうつぶやくと、早苗は無造作に真っ白い腕を振るう。

  ――――ぎゃひいいいいい!

  途端に熊が両手で目を押さえる。彼女はさっきの毛針攻撃を素手でも受け止めていたらしく、手に持っていた熊の毛針を投げて、彼の両目を潰したのだ。毒が回っているのか、すっかり動きの鈍った化け熊はそれをよけることも防ぐこともできなかった。

  はじけた眼球のしぶきが降り掛かるのを気にもとめずに、早苗は悲鳴を上げる化け熊をほくそ笑んで見下ろす。頬を流れる熊の体液を、ぺろりと舐めながら。

  「へへ。マズっ」

  蛇神が長い舌を出して笑う。次の瞬間、湖から無数の水の針が飛び出した。何千本もの超高速の水の針は、化け熊の体を覆う硬い毛皮を、まるで真綿に串を通すようにあっさりと貫いていく。どす黒い飛沫をあげながら、ぐちゃぐちゃに。

  ぎゃああっ!ぎゃあああああああ!

  「ひいっ!?」

  その光景を見た小傘の小さな悲鳴が椛の耳に聞こえる。半ば呆然としながらも、椛は理解した。――――毛針を撃ち落したのはあれだ。あの水の針だ!

  そして、化け熊がぐらぐらとうずくまると、早苗はするりと熊の背中に降り、その白くて長い体を獲物の首にきつく巻き付けた。

  化け熊の体が、一瞬ぴくりと震える。

  「死ね」

  ぼぎり。

  「――――!」

  じわじわと絞め殺すなんてヤワなものではなかった。するりと熊の首に巻き付いた蛇の胴体は、一瞬で化け熊の喉笛と頚椎を粉砕した。

  うずくまった姿勢のままで、悲鳴さえ上げさせてもらえずに、化け熊は永久に沈黙する。

  早苗は熊の首に巻き付けた体をほどくと、勝ち誇るように熊の背中の上でずるりととぐろを巻く。まもなく、熊の死体からは、煤のような黒い障気が吹き出し始めた。その醜悪な匂いを嗅ぎ、彼女の顔が歓喜に歪む。

  舌をだらりと垂らして、目を細め。しゅう、と吐き出されるのは静かなケモノの勝ち鬨。その姿からは人間のニオイなど微塵も感じられない。あれは美しくもおぞましい、白い蛇神様。

  「‥‥‥!」

  自分でも知らぬ間に、椛は耳を伏せ、尻尾を巻いていた。その隣では、いつの間にか傘を畳んだ小傘が、真っ青な顔で歯をカチカチと鳴らしている。

  二人とも、恐怖で動くことができなかった。今、少しでも動いたら彼女の獲物にされる。 そう、思えてならなかった。

  「クサイね、あんた」

  化け熊の死体から吹き出す瘴気は勢いを増し、沼全体に広がり、渦を巻いていた。少しずつ腐り始めた熊の背をなで、早苗は手についた黒い液体を顔の前から垂らして独りごちる。

  「‥‥森が文句言ってるよう?クサイクサイ、って。このままじゃぁ、枯れちゃうよう、って」

  瘴気を受けて、沼の周りでざわざわと苦しそうに揺れる森。くるりとそれを見渡すと、早苗は真っ白い鱗に覆われた両の腕を、すうと高く掲げる。

  「しょうがない奴だね――――」

  深く息を吐くと、早苗は両腕を熊の背中に突き刺した。ぐしゃ、と低い水音。真っ黒い血が跳ね飛び、彼女の顔に振りかかる。

  二の腕近くまで熊に沈んだ両の手に、蛇神様は力を込める。

  瞬間。ざわり、と熊の背中に溢れる血液の表面が泡立った。

  白い腕が突き刺さった穴から、血液がごぼごぼと吹き出し、泡を吹きながら熊の身体を覆っていく。すっかり血に覆われた熊の死体がブルブルと震えだした。

  「それっ!」

  「!?」

  「な――」

  二人が見つめる先で、早苗の掛け声を合図に真っ黒い血を吹き飛ばして熊の死体が爆発した。

  「――――!」

  小傘の目が真ん丸に見開かれる。

  血を吹き飛ばし、熊の毛皮を引き裂きながら、すさまじい勢いで死体から植物の芽が伸びてゆく。死体からは吹き上がる植物の波がまるで波紋のように沼に広がる。

  さらに蛇神の居るところから風が吹き出した。瘴気を払い飛ばし、草の波を追いかけるように沼へ蒼い風が吹き渡る。

  湧き上がる萌芽の波は水面をわたり、岸辺へ。熊との戦いで荒れ果て、泥と土がむき出しになった湿地に、緑の波が広がる。そこかしこに横たわる、森の戦士達の死体を飲み込みながら。波に触れられた死体からは、あの熊の死体と同じように青々とした草が吹き上がる。

  「来た!」

  椛が小さく叫ぶ。二人の居る湿地の端まで、草の波が迫る。すぐに二人は蒼い風と草の波に飲み込まれた。

  二人の下から、周りから、次々と青草が芽を出し、葉を伸ばす。時折、小さな花が混じり、ポンポンと早送りで花を開いて散ってゆく。ざあ、と一瞬二人を覆い尽くすくらいに伸びた植物は、吹きつける風に穏やかに倒れ、柔らかい草の絨毯に変わる。そして、波が通り過ぎたあとには、緑輝く草原が広がっていた。

  「わあああ‥‥!」

  先程の恐怖の表情はどこへやら、小傘は一変した沼の風景を満面の笑みで見つめている。

  さすがに生きている者には草は生えないらしい。死体と同じように自分の皮膚を突き破って草が生え出すのではないかと心配していた椛は、目を輝かせる小傘の横でほっと胸をなでおろした。

  草の波は沼地の周囲の森まで達すると、一瞬ひときわ高く吹き上がり、勢いをそのままに森の奥へと進んでいった。

  瘴気を一掃し、さわやかな風が沼に吹き渡る。

  化け熊の死体があった場所は、こんもりとした草に覆われた小島になり、そこには一抱えはありそうな大きい白樺が、さわさわと枝を風に揺らしていた。動物達の死体が横たわっていた場所からも、杉や榊、桜の幼木が伸び、ぽつぽつと沼に散らばる緑の墓標と化していた。

  午後の日差しを浴びて静かにうねる草の波。沼は、完全に穢れを祓われた。

  「すごい‥‥!」

  「これじゃあ、ほんとに神様じゃないですか‥‥」

  「早苗は神様になったんだよ!」

  半ば呆然と、体を起こして緑に見惚れる二人。圧倒的な光景に気を奪われ、彼女らは気がついていない。

  ‥‥目の前の光景の中に早苗が居ないことに。

  「――――ねえ、あんたたち」

  「!!!」

  「ひ!?」

  声は突然、二人の後ろから降ってきた。

  振り向く前に、背後から真っ白い腕が彼女らの両側にズルリと伸び、抱き抱えるように二人の首に回される。冷たい鱗の感覚がひんやりと二人の首から背筋に染み渡ってゆき、椛と小傘の顔が一瞬にして青く染まった。後頭部に、何か柔らかいものが当たる。膝立ちの姿勢のまま抱き寄せられる格好で、二人は捕まえられた。

  白い腕は、締めるわけでも、しかし緩めるわけでもなくピッタリと彼女らの首を押さえて動かない。考えるまでもなく、この白い腕の持ち主は明白だ。恐怖が再び彼女たちを襲う。一瞬にして全身をめった刺しにされ、首を砕かれた化け熊を思い出し、二人は指一本動かすことも出来なくなった。

  「ねえ‥‥さっきから‥‥何してるの?‥‥あたしが来る前にあいつとケンカしてたり、急に空から降ってきたり‥‥」

  「あ、あのっ、私はっ」

  「は、はひ、はひい」

  「ねえ?」

  少しずつ首に回された腕が締まり、顔を上に向けられる格好になる。恐る恐る目を上げた先には、薄く薄く笑みを浮かべた、金色の蛇の瞳があった。‥‥早苗はミシャグジ化した直後よりは幾分人間的な笑顔を出せるようになっていた。捕まえられた二人にとっては何の救いにもならない変化であったが。

  「お前たち、だあれ?」

  「――――!」

  真珠色の髪をざらりと流して首をかしげる蛇神。悪いことに、どうも、早苗は二人のことを全く覚えていない様子である。にとりの事を覚えていなかったように。‥‥そもそも、覚えていたら纏めて爆風で吹っ飛ばす、なんてマネなんかしないだろう。多分。

  椛の胸に、冷たいものが広がる。――――早苗さんは完全に、私たちのことを忘れて蛇神になってしまったのだろうか――――

  「ねえ?」

  「は、はいっ!」

  「ひえええ‥‥」

  ペロペロと細長い舌が二人の近くまで伸びる。早苗は興味深そうに、二人の顔をまじまじと覗き込んだ。

  「ふん。おまえ、変な格好してる狼だねえ。耳も尻尾もあるくせにニンゲンの格好しちゃってさぁ」

  ‥‥それを言うなら、早苗さんも蛇としちゃ大概変な格好ですよね。腕もあるし顔は人間だし。という突っ込みなんて、こんな状況で言えるはずもなく。

  「あ、あの、私、天狗、天狗なんです。白狼天狗のイヌバシリモミジです!」

  「あ、天狗か。おまえ、天狗なんだね。ふーん」

  「あう」

  名乗れば、もしかしたら私たちのことを思い出してくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に必死に声を出した椛だったが、その期待はあえなく打ち砕かれた。早苗は毛の先ほども動じず、微笑を浮かべたまま椛の顔を睨めつける。彼女の瞳孔がクッ、と細くなった。

  「‥‥わ、わちきは唐傘おばけの多々良‥‥」

  「まだあんたには聞いてない」

  「きゅう!?」

  椛の意図を汲み取り、同じく名乗ろうとした小傘だったが、不機嫌そうな声と一緒に首を絞められて悶絶する。

  「く、ひ‥‥」

  「うふふふ‥‥へえ。おまえはお化けなんだぁ。なに?ニンゲンのミコみたいな格好して」

  「くえ‥‥」

  途切れ途切れに吐出される小傘の痙攣混じりの弱々しい悲鳴。早苗は目を細めてそれを聞いている。どうすることも出来ずに嬲られる彼女の様子を隣で伺っていた椛に、突然、再度早苗の興味が移った。

  「んー?」

  「ひ!?」

  あれえ、とでも言いたげな表情でわずかに眉を上げると、早苗は椛の頭に鼻を近づける。

  「ああ、おまえ、なんかいい匂いがする‥‥」

  「ひええ!?」

  牙を覗かせてじとり、と笑う早苗。釣り上がった口の端から涎がこぼれ、椛の頭にボタリと落ちる。その感触に椛の内蔵がぎゅうと縮こまる。守矢神社に詰めていたせいか、椛の体に、かすかに諏訪子の匂いがついていたようだ。微かではあるがようやく現れたあの生意気蛙の気配に、早苗は恍惚として涎を垂らす。だが椛と小傘はそんな早苗のミシャグジ的事情など知らない。ひたすら恐怖するだけだ。早苗はますます顔を椛に近づけると、椛の髪のにおいを嗅ぐ。早苗の鼻息が耳に当たって椛は非常にこそばゆかったが、身じろぎすることもできずにされるがままだった。

  隣ではようやく腕の力を抜いてもらえた小傘が、顔を紫色にして椛の様子をうかがっていた。

  「ああああ、あの‥‥」

  「あれ、おまえからもいい匂いがするねえ。お化けのくせに‥‥ふうん。おいしそう」

  「うひぃっ!?」

  今度は小傘の番だった。同じように匂いを嗅がれ、かわいそうに小傘は今にも失神しそうな様子で必死に耐えている。

  (た、食べられる――――!)

  白蛇と化した早苗が“金の蛙”――諏訪子――を求めているなど諸々の事情を知らない二人には、「おいしそう」と言われて匂いを嗅がれているこの状況は、どう考えても、自分たちを食べようとしているようにしか思えない。

  すでに二人の生殺与奪の権は蛇神様が完全に掌握している。彼女たちを拘束しているのが首に巻き付いている腕だけなら、一か八か、やけくそで暴れて逃げ出そうかとも考えていた椛だったが、いつの間にか白い蛇の胴体が壁のように二人の周りに巻き上がっているのを見て、椛の目から光が消える。

  あの化け熊の首を一瞬で粉砕したギロチンが、二人をぐるりと囲んでスタンバイしているのだ。逃げ出そうとして蛇神様の無興を買えばどうなるか。きっと、あっというまに全身粉砕骨折の妖怪ソーセージが二本出来上がるだろう。よしんば逃げられたとしても、今度はあの水の針がある。彼女は、もう逃げられないことを悟った。

  「んんー♪」

  早苗は相変わらず恍惚としながら二人の匂いを嗅いでいる。守矢神社での滞在時間が小傘にくらべ比較的長かった椛が、特に執拗に匂いを嗅がれた。

  ぽたりぽたりと蛇の涎が椛の頭に垂れる。脱力し、まるで糸の切れた人形のような椛の様子に構うこともなく、早苗は存分にあの蛙の匂いを吸い込む。金色の目を細め、赤い舌をチロチロと伸ばし椛の首をテロりと舐め、仕舞いには甘噛みまで。

  ピリピリと頚動脈の辺りに走る鋭い牙の感触に、椛の脳裏に大昔、まだ四足で走りまわっていた頃、捕まえていた獲物の姿が浮かぶ。首筋に牙を突き立てられ、必死に逃げようと身悶えていた彼らの姿。抵抗さえせずにされるがままの今の自分は、獲物以前の只のエサ‥‥

  蛇神様の、早苗さんの贄なら、それでも良いかなぁ、とあきらめモードに入るくらいに、椛の抵抗心は綺麗サッパリ消え失せていた。おなじく、小傘も。

  そんな時である。身も心も蛇神様の獲物と化していた椛に、嬉しそうな声が掛けられたのは。

  「ねえ、天狗」

  「は、はい‥‥」

  いよいよかぁ、とぼんやり思う椛に蛇神様は言を続ける。

  「お前達から、すごくいい匂いがする」

  「あは、アハハ‥‥そ、そうですか?」

  「うん。あの、クソ憎たらしい金色の蛙の匂いが」

  「あはは‥‥は!?」

  「オマエ、あいつの居場所、知ってる?」

  「か、蛙!?」

  予想外の言葉に、機能停止状態だった椛の脳味噌が覚醒する。

  ――――蛙!?金色の蛙?‥‥なに、それ。

  「そう。でっかい金色の蛙。人間みたいに立って歩くの」

  「そ、そんなの‥‥」

  「そいつの匂いがお前達からするの」

  「か、蛙って‥‥し、しし知りませんぐぅ!?」

  椛の首に巻きつく白い腕に、一瞬だけ力が込められた。

  「隠し立てなんかしたら首千切るからね」

  「か、ぐほ、隠してない、隠しません!」

  早苗はあくまで淡々と、薄ら笑いを浮かべたまま尋問を続ける。

  「じゃあ、どうしてあの蛙の匂いがお前達からするの?」

  「そ、それは‥‥」

  「すわ、諏訪子様のことじゃ、ないかな?もしかして‥‥」

  「へ?」

  「スワコ‥‥?」

  脇から割り込んできた小傘の言葉に反応し、早苗の顔がずい、と小傘に近づけられる。

  鼻先をくすぐる赤い舌に怯えつつ、小傘は懸命に答えた。

  「そ、そうです。諏訪子、様です。金色の、蛙の格好をした、神様で‥‥」

  「でかい?」

  「こ、小柄、かなぁ?」

  「普通のカエル共に比べてだよ?」

  「あ、でかい、でかいです!」

  「歩く?」

  「歩きます!」

  「変な力を使う?強い?」

  「そ、そりゃあ‥‥神様ですし‥‥」

  「あは!それ、それよ!そいつ!ねえ。どこに居るの?お前、場所知ってるんだね?」

  早苗は縦に割れた瞳を爛々と輝かせ、小傘に頬を寄せる。

  そんな彼女の様子に、椛と小傘は再度落胆した。諏訪子の名前が出ても、早苗の心はミシャグジのまま戻らなかったのだから。

  「どこに居るの?私ねぇ、そいつを食べたくてしょうがないの。そいつの巣に案内してよ。ねえ」

  「食べっ!?」

  「うふふ、ふふふふ‥‥やっと見つけたぁ。生意気な蛙神め‥‥ひとのみにしてやるんだから‥‥」

  「‥‥‥‥」

  もう小傘も椛も早苗の変貌ぶりに付いていけなくなってきていた。

  どうして諏訪子のことは覚えていて、どうして食べたいのかなんて、二人には全く分からない。多分ミシャグジだからなんだろう。きっと。そうやってやや投げやりに考えることぐらいしか二人には出来ない。

  むしろこの状況は早苗を神社まで連れ帰らなければいけない二人にとって好都合である。黙っていても勝手に諏訪子の元までついてきてくれるのだから。今の早苗に首輪をつけて神社まで引っ張っていくことなんか、絶対に無理だし。

  とりあえず早苗におニク的な意味で食べられる事態は回避されたと思った二人は、ほっとため息を付いた。

  しかしそんな二人を相変わらず抱えたまま、早苗は一瞬だけ思案し、遠くを見つめてボソリと言った。

  「‥‥道案内は一人居りゃあ十分だよね‥‥」

  「「二人一緒でお願いします!」」

  涎を一滴垂らしながらつぶやかれた台詞の意図を瞬時に理解し、二人は必死に声を出す。

  「えー、だってお腹すいたし。あいつの匂い付きなら少しはオイシイだろうし‥‥」

  「一人じゃだめなんです!わちき、途中、ちょ、ちょっと道に不案内なところ、あるし‥‥」

  「そそ、そうです!それに、私も途中まではあんまり詳しくないんです!私が詳しくないところは小傘が詳しいんです!」

  「ですです!で、椛が詳しくないところは私が詳しいんです!」

  「へえ」

  もちろん方便である。

  たり、と涎をたらして二人を品定めする早苗に、二人は必死で説得を試みる。

  「だ、だから二人居ないと、諏訪子様のとこまでは行けませんよ!?」

  「‥‥ふうん。そうなんだ」

  「‥‥はい」

  「‥‥」

  「‥‥‥?」

  「‥‥ま、いいわ」

  つまらなさそうな顔をしてため息をつく早苗。同時に椛と小傘を捕まえていた腕の力が抜ける。二人はようやく首を解放され、へなへなと腰を落とした。

  「ねえ、天狗にお化け。あたしは今すぐにでも蛙のとこまで案内してもらいたいんだけど、その前にやんなきゃいけないことがあるの。付いてきてくれる?」

  「へ?」

  「はい?」

  解放されてすっかり脱力し、地面にぺたりと座り込む二人の横を、ずるずると早苗が進む。二人の前まで回りこむと、少し首をかしげながら、もう一度言った。

  「付いてきてくれる?」

  「「はい!」」

  二人に拒否など出来るはずもなく、するつもりもなかった。

  素直な二人の態度に満足したのか、早苗は特に威嚇することもなく、薄く笑うと背を向けて宙に浮く。そして森の奥へと向かって離陸した。すぐに椛が後を追う。椛の後ろから、すっかり忘れ去られていた生き残りの狼達が走って付いていく。彼らはずっと、木の影から様子を伺っていたのだ。

  小傘もすぐにあとを追おうとしたが、何かに気がつくと、辺りを見回した。そして草むらの中から神奈子に渡された風呂敷包みを見付け出すと、急いで背負い込む。

  「お化け!早くしてよ!」

  「只今!」

  ちょいと不機嫌そうな声が響き、小傘は慌てて傘を握ると離陸する。

  少し傾きかけた午後の日差しに照らされた、緑の沼地。その上を越えて少女たちは森の奥へと飛んでいった。

  

  [newpage]

  

  ***************

  

  

  懐から出したミニミニ御柱は、何度か小傘が呼びかけると疲れた様子の神奈子の声を流し始めた。

  ああー、これが「けーたい」なのかなぁ、と小傘はぼんやり思う。最近幻想郷に流れ着く彼らみたいに、指でつまんで伸ばす「あんてな」とか「しろくろえきしょう」とかは付いていないけど。

  『‥‥ああ、よかった、早苗のとこまで無事に辿りつけたんだね。速かったろう。ごめん』

  「大丈夫ですよう。神奈子様を焚き付けたの、わちきだし」

  『ごめんね‥‥』

  「いいですって」

  『ありがとう。で、どうなの、どうだったの?早苗は?戦いはどうなったの?なんかすごい力が降ろされてたけど‥‥』

  「え、ええと、なんていいますか、二大怪獣超決戦?」

  『‥‥なんとなく、なんとなくわかる気がするけど』

  「そんでもって、こすもくりーなー?もしくは大神降ろし‥‥」

  『は?』

  早苗の神社で見た娯楽作品に例えて、ぼんやりと小傘が説明をする。

  あんまり突飛もない光景と体験だったからか、真面目に説明するのがなんだか馬鹿馬鹿しい気がしたのだ。

  「とにかく早苗さんが、蛇神モードの早苗さんがでっかい熊をあっさりやっつけて、ぐちゃぐちゃになってた沼地をあっという間に元通りにしたんですよう」

  『‥‥すっかりミシャグジだなぁ、早苗‥‥』

  「私たちのことは、もう覚えてないみたいです‥‥」

  『ああー‥‥』

  ミニミニ御柱から聞こえてくる声は落胆の声だった。

  小傘は、神奈子に渡されたそれで先程の戦いと今の早苗の様子を神奈子に連絡していた。

  目の前に広がる光景に、ときおり視線を奪われながら。

  

  「はい、お化け巫女さん、どうぞ」

  「あ、はい。あ、ありがとうございます」

  小傘は御柱を耳に当てたまま、目の前に差し出された素焼きの湯呑みをうけとる。

  湯呑みを差し出した少女は、他にも何個か湯呑みが乗せられたお盆を持って、同じように周りの者に湯呑みを配っていく。

  ふわふわの丸くて茶色い尻尾が、質素な柿渋色の着物のおしりで揺れている。彼女の頭には、これまた茶色い兎の耳が付いていた。

  途切れた小傘の会話と、漏れ聞こえてきた台詞。それを気に留めた神奈子が不思議そうな声で問いかけてくる。

  『‥‥何してんの?』

  「宴会です」

  『へ?』

  「森の動物達の、宴会‥‥」

  そう。宴会である。

  早苗に連れてこられた二人を森の奥で待っていたのは、小さな洞窟と、その前の広場に集まった動物達だった。

  ぽつぽつと薄暗がりに狐火が灯り、日陰で薄暗い広場をぼんやりと照らす。

  狐火を灯しているのは何人かの幼子達。皆、狐の耳と、尻尾を持ち、その筆のような尻尾の先に狐火をつけてかがり火役をしている。熱は無いタイプの狐火のようで、尻尾の炎が草木や他の娘たちに触れても、特に燃え移る様子も触れられた側が熱がる様子も見られなかった。

  彼女たちがぴょこぴょこ動くので、狐火もそれに合わせてうごく。ゆらゆらと影が動く幻想的な照明のもとで、老若男女がせわしなく宴の準備をしていた。‥‥彼らも皆、獣の耳と尻尾を持っていた。

  ぽかんと口を開けてその光景を見つめる椛と小傘に、おもむろに近づいてきた老爺がゆっくりと頭を下げた。

  彼もまた、獣の耳をもっていた。角の取れた白黒の三角耳。狸の耳だ。

  おもわず頭を下げ返す椛と小傘に、狸の翁は杖を持った手で広場の片隅を指し示し、この宴に加わっていって欲しいと静かに言ったのだった。黒い獣に打ち勝った、祝の宴であると。あの妖獣を打ち払ってくれたミシャグジ様への感謝の宴であると。‥‥一緒に戦ってくれた二人にも、是非お礼がしたいからと。思わず二人は顔を見合わせた。

  早苗はすでに広場の奥にある洞穴の前に陣取っている。傍らで真っ白な着物を纏った狐耳の少女がパタパタと手を振り回しながら何事かしゃべっていた。彼女は狐火付きの子達より一回り年上の顔立ちをしている。

  早苗のいう用事とはこのことなのだろう。これが済まない限りは自分たちも動けない。まだすこし戸惑いつつも二人は首を縦に振り、宴への参加を承諾したのだった。

  「‥‥昔話の光景だねえ。これは」

  素焼きの湯呑みに満たされたにごり酒をすすりつつ、小傘は小さく息を吐く。少し飴色の、酸味の強いどぶろくだ。

  「私もなんとか合流しよう」との返事を最期に、小傘と神奈子の通話は終わった。ミニミニ御柱を巫女服の懐にしまうと、傍らに紫の傘を引き寄せ、小傘は足を崩す。

  宴は、特にはっきりとした合図もなく、なし崩し的に始まった。

  彼女の視線の先では、赤みがかった狐火が、酌をしたり料理をつまみ食いしてぴょこぴょこと動きまわる狐少女達に合わせて、ゆらゆらと広場を行き来している。

  彼女たちは、普段小傘が見慣れた妖獣とはまた違った容姿をしていた。例えば、人里に時たま油揚げを買いに来る八雲藍やそこにいる椛のように、人の体に獣の耳と尻尾のような、ほぼ人間という姿ではなかった。

  尻尾と耳はあるとして、問題はその顔。鼻はまだ長く、髭が残り、毛がもさもさと生えている。

  手も、完全に五本指に分かれている者か、ほとんど獣のままで肉球が残っている者のどちらか。皆化け方が中途半端なのである。それは狐の少女達だけではなく、この広場にいる者たち全般に言えることであった。中には完全に人の姿となり、動物の名残は耳か尻尾だけというものも居る。早苗の側に居る狐少女や、先程の老狸のように。彼らはそれなりに力のある、妖怪に近い存在ということなのだろう。そのような者はこの中にはほんの数人しか居ない。

  おそらく、今晩ここにいる彼らの殆どは、普段人の姿など取らない、もしくは取れない者たちばかりということなのだ。

  「ちょっと大げさじゃないかなぁ‥‥」

  随分と浮かれた動物たちの様子にやれやれと苦笑を浮かべて小傘は溜息をつく。これでも、彼女は最低100年はゆうに過ごした正真正銘の付喪神である。彼らよりはずっと年上だ。もしかしたら、あの狸の長老より。

  強い麹の香りを放つどぶろくを舐めながら、彼女は目の前の光景について考えてみる。――古く、昔話に伝わる動物達の宴の話。人の姿を取り、人のように宴を開き酒を呑む動物達の話。たとえば越後の山奥に伝わる狐の嫁入りとか。きっとこの宴会も、嫁入りの宴のように、かれらにとって特別な特別な「ハレ」の日の宴会なんだろう。

  それにしては、と小傘は思う。――――獣同士の戦いに勝ったくらいで、ここまで盛大に開くもんだろうか。何かちがう目的の宴会なんじゃないの?これって。

  カッコウやカワガラスたちが言うには(彼女たちは羽つきにクチバシ付きの、まるで絵巻物の烏天狗のような姿である)、たくさん森の動物達が死んだ、大戦争の勝利の宴なのだから盛大で当然。とのことであったが。

  あの戦いの様子を見ていた小傘にも、そのことはよく分かる。でも、ちょっと大げさであるという違和感は拭えない。滅多に取らない人の姿を取って、酒まで用意して。

  一番不思議なのは、小傘たちが帰ってきたときにはもう宴の用意が出来ていたということである。まるで最初から宴を開くことを決めていたかのようだった。

  予定通りに開かれる宴。蛇神様への感謝。人の姿をとった動物達。

  ――――なにかの儀式?

  「かんがえすぎかなぁ」

  ポツリとつぶやいて、口元から湯呑みを離す。間髪入れずに、狐の女の子が「お化けのミコさまどうぞ」と小さな徳利から酒を注いできた。

  「ありゃ、ありがとう。‥‥ね、お嬢ちゃんは、こういう宴会、初めて?」

  「うんー」

  「お、それにしちゃあ、お酌がうまいじゃない」

  「教えてもらったのー。お姉ちゃんたちに」

  「へえ」

  「このかっこもね、初めて!あのね、お姉ちゃんたちがね、一生けんめー私達にジュツをかけてくれてね」

  「そう‥‥」

  人の姿を取るのは初めてだと言った狐はピコピコと嬉しそうに尻尾を振りながら、満面の笑みで小傘に嬉しそうに説明する。小傘もその愛らしい姿を見て、笑顔を返す。

  「メいっぱい楽しんで。めったにないからね、こういうの。きっと」

  「うん!」

  ぱたぱたと狐は広場の中へと戻って行く。尻尾に灯された狐火がぴょこぴょこと跳ねている。

  愛らしい姿に目を細め、そういえば椛は何をしているかなぁ、と小傘は広場を見渡す。

  程なく、視界の隅に、なにやら車座になって酒を飲んでいる椛の背中が映り込む。

  彼女を囲んでいるのは、灰色の着物を身につけ、灰色の尻尾と耳を持った数人の男女だった。

  「さぁさぁお姉様。遠慮せずにもっと呑んでください!」

  「いや、あのね、もうちょっとゆっくり呑みたいんだけどね、私は」

  「あれ、お姉様は天狗様なんでしょう?あたし、お祖父様から聞きました。白狼天狗の方々は、それはそれはよくお酒を飲まれる方たちだと。滝をせき止めて代わりに山のような大樽をひっくり返して、酒の滝を流してそれを飲み干されると」

  「一体全体どこの世界の天狗の話ですか!?いくらなんでもそんな非常識な飲み方なんかしませんよ!ね、お願いだから、もうちょっとゆっくり。ゆっくりね。あとね、なんでそんなにあなたはピッタリ私にくっついて来るの?ちょっと、暑いんだけど」

  「それはお姉様が私の命を救ってくれたからでございます」

  「お前だけじゃないだろ、俺達もだろ」

  「うっさいわね!いいの!お姉様は私が殺されそうになったとき、高い高い空の上から一直線に、私を助けに来てくれたの!あんた達はついでなんだからね!ごちゃごちゃ言うと尻尾噛み切るよ!」」

  「はいはい」

  「ああ、だめだ。もうコイツ、頭ん中桜色だわ」

  「こないだまで竹林のカゲロウねえさまとかに一目あいたい!とか言ってたのに」

  「浮気もんめ」

  「ちょ、あの人は別!探しに行ったって、会えないんだもん!あの人!でも残り香はいい匂いだったよ」

  「それはわかる」

  「ありゃ別嬪さんの匂いだ」

  「お前ら縄張り越えてどこまでほっつき歩いてんだよ‥‥」

  「あ、や、いや、ま、まあ、コイツは男兄弟ばっかりだったからなぁ‥‥姉貴が欲しいとか昔言ってたなぁ」

  「憧れのお姉様、ねえ」

  「へえ、意外意外」

  「ああ、お姉様ぁ‥‥」

  「‥‥ねえ。とりあえずね、その『お姉様』て、何とかなりません?」

  「お嫌いですか?」

  「いや、あの、なんていうか、こそばゆい。必要以上に。「椛」でいいから」

  「では、椛お姉様で!」

  「ああうう」

  「姉御、うざかったら適当にそいつ噛んでいいですからね」

  「姉御もやめて‥‥」

  「じゃ、姐さんで」

  「あんたらも同じじゃないかー!」

  広場の片隅で、椛は狼達に囲まれていた。全滅寸前の自分たちを、その身を省みずに助けに入ってきてくれた命の恩人ということで、それはもうベッタリと、彼らは椛のそばから離れない。結局は化け熊に捕まり、同じように殺されそうになった椛なのだが、命の恩人は命の恩人、なにより自分たちのために命がけで戦ってくれた天狗様、と彼らは椛をすっかり慕っていた。

  特に、化け熊に絞め殺されかかっていた雌狼がすごかった。袖がちぎれたように無くなっている灰色の着物に、長い黒髪、肌色の顔に黒い鼻、ちょこんと立った灰色の鋭い狼の耳という獣人の姿になった彼女はどこか変なスイッチが入っているらしく、椛のことを「お姉様」と呼び、目を潤ませ頬を染め、椛にしゃなりとしなだれかかり一時も彼女の元を離れようとしない。

  ぞっこんラブな様子の狼娘にベッタリとくっつかれ、困った様子で耳をヘタらせる椛の後ろ姿を肴に、小傘がもう一口湯呑みの酒を口に含む。

  湯呑みを口から離した時、耳元で小さな声がした。

  「随分賑やかなことになってるね」

  「!?」

  聞き覚えのある声。左肩に微かな重み。小傘は驚いて肩口を振り返る。そこにいたのは、小さな白い蛇だった。

  太さは小傘の人差し指くらいだろうか。つやつやと輝く鱗を纏った、赤い目の蛇がそこにいた。

  全く見覚えのない小さな白い蛇だったが、すぐに小傘は正体を把握した。

  「八坂様!?」

  「声は小さくね。おまたせ。どんな感じ?様子は」

  叫びかけた小傘を制し、小さな白蛇は神奈子の声で小傘に話しかける。

  「あ、いえ、相変わらず宴会です。特に変わったことは‥‥八坂様は、またなんでそんなお姿で?」

  「超お忍びモード。‥‥普段の格好で来ちゃったら、あの早苗がどんな反応するか分からないからね。嫌でしょ、こんなところで大騒ぎなんて」

  「ですねぇ‥‥」

  広場のあちこちで揺れる幼い狐娘達の尻尾を眺めながら、小傘が小声で同意する。

  その向こうでは、ほろよい加減の早苗が傍に控える狐少女の首に片腕を回して、何事か彼女の耳元でささやき青ざめさせていた。もう片方の手に持った升で、次々と酒を飲み干す。そんな早苗の姿は、まさにウワバミ。

  「すっかり神様になっちゃって、まあ‥‥」

  「‥‥側にいる狐さん、可哀想に‥‥」

  八岐大蛇みたい、と呟く神奈子。小傘は、手に持った湯呑みの酒を飲む振りをして口元を隠し、肩に乗った蛇に尋ねる。

  「で、どうやって早苗さんを元に戻すんです?あの様子じゃあ、そう簡単には行かないんじゃないですか?」

  「色々手は考えてるよ。‥‥諏訪子にやらせれば一番早いんだろうけどね」

  「諏訪子様ですか」

  「神社で話したとおり、一旦ミシャグジ状態の早苗を諏訪子の眷属にして、そのうえでミシャグジに命令して早苗を解放する、ってのが唯一の手。‥‥意識をミシャグジから早苗に戻すだけなら、他にも手はあるけど‥‥」

  「身体までは、と」

  「うん」

  「じゃあ、諏訪子様をここに‥‥」

  「ごめん、無理だった」

  「は?」

  「‥‥あいつもあいつでミシャグジの匂いに当てられて絶賛暴走中なんだよ。‥‥此処に来る前に諏訪子を見つけてさ、連れてこようとしたら返り討ちにあったわ」

  「返り討ちって」

  「生き埋めにされちゃったわ。何とか華扇に助けてもらえたけど」

  小さな蛇はせわしなく舌を出してブチブチと不機嫌そうな声を出した。

  「な、なんでまた諏訪子様が八坂様を襲うんです?」

  「自分の遊びを邪魔されたくないんだ。自分を襲ってくる本気の早苗と遊びたいんだよ。‥‥面倒な奴だよ」

  「はー」

  「ん?」

  「丁度いい状況、なんですかねぇ。早苗さん‥‥いえ、ミシャグジ様は『金色の蛙』が食べたくてしょうがないそうで。この宴会が終わったら案内するって話になってるんです。すいません、言うのが遅くなりました」

  「放っておいても早苗はあいつのところに行くようになってるってか。すべてはあいつのシナリオ通り、だなぁ」

  「そうなんですかねえ‥‥」

  パタパタと狐娘が近づいてきたので二人は適当に口をつぐんだ。

  女の子は小傘の前まで来ると、あのね、と興奮した顔で話し始める。

  「あのね、みしゃぐじ様がね、おばけミコさんに来て欲しいんだって」

  「おおう、呼び出しだぁ」

  「ハヤク来な、だって」

  「はい、今行きますよ。ありがとう」

  小傘は微笑んで少女に返事をする。狐少女はにこりと笑い返すと、パタパタと椛の方に向かって走っていった。

  潔く立ち上がると、「行きます」と小さく呟く。神奈子蛇が頷く気配がした。神奈子が付いている安心感はかなりなもので、早苗の呼び出しを受けても小傘は比較的冷静でいられた。さっきの女の子は椛に同じことをしゃべっているらしい。神奈子が来ていることを知らない椛は女の子の言葉にあからさまに動揺していた。やおら広場を見渡し、小傘と目が合うと「どうする!?」的な視線を向けてくる。

  小傘は椛の側まで行くと、手を握って顔を近づけた。

  「大丈夫、いこう。味方もいるよ」

  「味方?」

  小傘は椛に目配せすると、自分の肩に目線を向ける。

  彼女の目線に合わせて小傘の方を見た椛は、小傘の髪に隠れるように肩にちょこんと乗っかっている白い蛇を見つけた。

  ぎくりと眉を上げる椛に、白い蛇は小さい舌をぺろりと出すと、聞き覚えのある声でフランクに話しかけたのだった。

  念を使って。

  (はろう、モミちゃん)

  (え、あれっ、神奈子様!?)

  「まだぁ!?」

  頭の中に響いた声に戸惑う椛の背中に、今度はイラ付いた蛇神の声がかかる。

  振り返ると、とぐろを解いた早苗が洞穴の入り口で壁に片手を付き、こっちを睨んでいた。

  「早くしなさーい!ほらあ!」

  「は、はひっ!」

  椛は尻尾の先でバシバシ地面を叩く早苗に最敬礼で向かい直ると、カクカクとした動きで洞穴に向かって歩いて行く。その後から、茄子色の傘を下げて、風祝姿の小傘が続いた。神奈子は小傘の頭を登ると、普段神奈子が頭に付けている注連縄のように頭に巻きつく。

  早苗と神奈子の合いの子のような格好になった小傘の背中に、先程までとは違い、ざわついた広場の雰囲気が伝わる。

  

  (空気が変わったねえ)

  (楽しそうなのは子供たちだけのようですね)

  念で話しかける神奈子に、小声で小傘が答える。

  小傘の観察通り、さっきまでと違い広場にいる動物達は子供たちを除いて一様に緊張した面持ちで、言葉少なに酒を飲んでいた。中には杯を地面において飲むのを止めているものも居る。

  椛を「お姉様」と呼んでいたあの雌狼は、なんと手を合わせてなにやら一心に拝み始めた。

  (な、何されるんでしょう、私達‥‥)

  (あんまり楽しいことじゃないみたいだね)

  

  入り口まで歩きながら、小傘は神奈子に今の時点で何か作戦はあるのかと訪ねてみる。帰ってきた返事は「洞窟に入ってからタイミング待ち」とのことだった。詳しく聞こうとした小傘だったが、早苗の目がこちらを睨んでいるのを見て、口をつぐんだ。聞かれたら、まずそうだし。

  洞窟の入口をくぐると、中はかなりの奥行きがある空間だということが分かった。シュルシュルと先を行く早苗の鱗の音が、暗闇にさわさわと反響している。

  「来なさいよ、もっと奥まで」

  白蛇の声が二人を呼ぶ。声のする方へ更に進んだ椛と小傘は、たどり着いた先でうめき声を上げた。

  「なっ‥‥!」

  「これって‥‥」

  (‥‥)

  洞窟の一番奥、そこには一面に乾いた杉の葉がしかれ、早苗はその上でとぐろを巻いていた。

  「遅いよー」

  ギラギラと光る金色の蛇の瞳が小傘と椛を睨む。しかし、二人はその目ではなく、早苗の周りに転がるモノに、目を奪われていた。

  「ほ、骨‥‥」

  「全部、動物の‥‥?」

  早苗の周りを取り囲むように、ゴロゴロと散らばるのは、真っ白い動物の頭蓋骨。

  半ば砕けたものから、完全に形を残すものまで。悪い冗談のような光景がそこには広がっていた。

  ――――この骨は何の骨?まさか。嫌な想像に、小傘は唇をかむ。神奈子は、ずっと押し黙ったままだった。

  「さ、早苗さん、いえ、ミシャグジ様、こ、これって」

  「なに?この骨がどうかしたの?」

  「‥‥私が説明します」

  早苗の後ろの闇の中から、声が響く。さっき早苗に絡まれていた、狐の少女がそこにいた。

  「私はミシャグジ様の神使を勤めさせていただいております、狐でございます。これはすべて、あの黒い獣達のものです。戦いに勝った証として、沼の戦いの際、ミシャグジ様が打ち倒された獣共の骨を、我々が持ち帰って清め、こうして捧げているのです」

  なんとも、おぞましい捧げ物である。「沼の戦い」とは、一番最初に早苗が里の女の子をかばいながら戦った一件のことだろう。その光景を見ていた椛と神奈子はすぐに合点した。小傘もその話は神奈子から聞かされていたので、これが、と驚きの表情で白骨を見下ろす。狐の言葉に、三人は少しだけ安堵の溜息を吐いた。――白蛇様の食べかすではなさそうだったから。

  しかし、次に早苗が発した言葉にその溜息をまた飲み込まざるを得なくなった。

  「まあ、いまから一個、増えるんだけど。‥‥ちゃんと蛙のところまで案内しなきゃ、オマエラもこうするからね」

  言うと、早苗は狐の少女に、ほら、と顎で促す。少女は、無表情で足元から何かを持ち上げた。

  それを一目見て、早苗は少し眉を上げる。

  「なに?随分弱ってるけど。病気でも持ってんの?そいつ」

  「‥‥いえ、狸達が、私刑に掛けましたので。逃げないようにと」

  「は、おっそろしいことするね。全く」

  「――!」

  「まさ、か」

  小傘が、掠れた声を出す。狐の少女の手の中には、こげ茶色の毛の塊があった。彼女はそれを胸の高さまで持ち上げると、早苗に捧げる。

  早苗は鱗に覆われた白い腕を伸ばすとその毛の塊をつかんだ。そのまま狐娘からひったくるようにして奪うと、顔の前でそれをぶら下げる。毛玉は、だらりと手足を伸ばすと、弱々しい声を出した。

  「くぅ‥‥」

  「天狗にオバケ。よーく見ときなさいな」

  それは、まだまだ小さな、子供の狸だった。

  無造作に尻尾を握りぶらぶらと揺らしながら、早苗は狐娘に聞く。

  「こいつ?あれの妹って。なんだ、まだまだちびっちゃいじゃん。お腹にたまるかなぁ。あんたたち、適当に関係ない狸拾ってきたんじゃないでしょうね」

  「‥‥いえ、まちがいなく、あれの妹です」

  「そう」

  早苗は目を閉じてぐったりと動かない狸の鼻先を二度、三度と弾く。

  弱々しく目を開けた仔狸に、早苗は牙を見せつけるように口を開いて、低い声で話しかける。

  「‥‥運がなかったね。オチビちゃん。これから何されるかは、あんたたちの長老から聞いてるよね?」

  「!?‥‥ひぁ‥‥ああ‥‥」

  「恨むならこの森の奴らを恨みなさい。わかった?」

  狼狽える仔狸の様子など全く構わずに、早苗は淡々と事を進めた。

  「じゃ、いただきます‥‥」

  「いや、いやあっ!?やめて、いやだ、いやだああ!」

  泣き叫び、手足をばたつかせる仔狸の首筋に、早苗の牙が迫る。

  気がつくと、小傘は叫んでいた。

  「さな‥‥ミシャグジ様!待ってください!」

  「あー?」

  「ひぃっ!?」

  「小傘!?」

  (‥‥)

  狸を吊り下げたまま、蛇神が眉間に皺を寄せて小傘を睨み返す。狐娘はその表情にすくみあがり、椛は振り返って、声を上げた彼女を驚いた表情で見つめていた。

  蛇神の、その恐ろしい表情に小傘は声を出したことを一瞬後悔したが、ぎり、と唇を噛むと丹田に力を入れた。

  「な、何をする気ですか!カミサマ!そんな小さい子を!‥‥あなた!この森を守ったんじゃないんですか!?この森の動物達を守る神様じゃないんですか!?そんな小さな子に、一体何をする気ですか!」

  「な、なんてことを!あなた、今すぐやめなさい!謝って、ミシャグジ様に謝って!」

  「やかましい!」

  慌てる狐娘の台詞を小傘は一蹴した。

  ――――何をする気なのか。‥‥聞かなくても、もう小傘には答えが分かっていた。

  そういうものを、一部の神様が好むということも知っている。神奈子が押し黙ったままなのも、理由は想像できる。彼女の社は、大昔から、"それ"をたくさん必要としてきたそうだから。

  椛もおそらく分かっているのだろう。荒神と付き合う者達にとっての"それ"の必要性を。だから、何も言わない。

  小傘にだって、分からないではない。長い妖怪人生、こんな光景はなんども見てきた。

  でも小傘は、我慢ができなかった。口を挟んだ。止めようとした。‥‥そんなことをしてしまう自分は何百年も生きてきた妖怪にしては甘いのかもしれない。それはきっと人間に近いところで生きる付喪神だからこそ生まれた甘さなのだ。

  小傘は自問する。どうして自分は止めろといったのか。かわいそうな仔狸のため?それとも、「人としての早苗」のため?――――たぶん、後者。

  小傘は早苗の返事を待った。できるならば、答えなど聞きたくなかった。

  「食べるに決まってるでしょ。イケニエだもん。この子」

  「―――― っ!」

  あっさりと、白蛇の赤い唇からその台詞が紡がれる。最悪なことに、答えは小傘の想像したとおりだった。

  噛んだ唇から血の味が舌の上に広がっていく。

  どうして、この宴にいる動物達は、無理矢理にでも幼子にいたるまで人間の姿をしているのか。その疑問に答えが付く。――――イケニエと、そうでない者を、はっきりと区別するためだ。

  生贄は獣の姿のままで。そうでない者たちは、ヒトの姿をとる。見えない残酷な生贄の烙印。食べられる側は獣、そうでない側はニンゲンとは、実に動物らしい考え方だ!

  「獣共が‥‥!」

  うつむきながら放たれた、彼女の低く小さな呪詛に、椛がビクリと震える。

  早苗は片眉をあげ、呆れたように小傘を見下ろすと、言い聞かせるように話し始めた。

  「これはね、約束事なの。‥‥私と、この森の奴らとの。私にこの森を守ってもらう代わりに、望みのものを私に差し出すって。この森の奴らったら、私を勝手に洞穴に閉じ込めるはよく分からないお願いばっかりするは自分勝手なことばっかり言うはでさ。だから、試したの。本当に私をこの森のカミサマにする覚悟があるの?って。ちゃんと私の欲しい物よこせるのかって。ま、見たとおり、今回は約束守ったみたいだけど」

  「ひ、うええ、放して、放してぇ‥‥」

  ぶらぶらと仔狸を振り回す早苗。小傘は、赤と青の目で蛇神を睨み続けた。

  小傘の態度に、早苗の機嫌が急激に悪化していく。シュゥと威嚇の声をあげると、ばたん、ばたんと尻尾の先を地面に打ち付け始めた。

  「は、なんだ、まだ何か文句あるの?部外者は引っ込んでなさいよ。これは私と動物共との話しなんだから。それとも何?あんたが身代わりにでもなる?」

  ずるり、と早苗が小傘に体を伸ばす。小傘は身構えることもなく、近づいてくる蛇の瞳を睨み続けた。

  早苗は、唇を噛みながら自分を睨みつける小傘に、鼻と鼻が触れそうな距離まで顔を近づけ、見下ろす。真白い早苗の髪が、小傘の顔を撫でた。鋭い牙を剥きだしにして、恐ろしい形相で睨みつける。

  しかしうっすらと涙を浮かべながらも、小傘は睨むことをやめなかった。

  「なに?あんだけでかい声出しといてだんまり?ほら、文句あるなら言いなさいよ。早く!‥‥ほら、言いなさい!言いなさいよ!‥‥ったく、ねえ、なんか喋れよ!この弱虫オバケ!」

  早苗が、大きな口を開けて吠える。

  牙の先から、透明な雫がはじけ飛んだ。

  小傘は、ひたすらに耐え、涙目で早苗を睨み続けた。

  どう脅しても態度を変えない小傘に、早苗は訳がわからない、という表情で一旦身体を引き戻す。

  しばらく、音の消えた洞窟の中で、蛇神と付喪神は睨み合った。

  「やめ、て」

  「あ?」

  ‥‥そして、ようやく小傘の口から吐き出されたのは、怒りの言葉でも呪いの言葉でもなかった。

  「やめて、くだ、さい‥‥」

  「ああ?」

  小傘の頬を、一滴の涙が伝う。

  「やめて、ください。もう、こんな恐ろしいことなんか。ねえ、早苗さん。もう、やめて‥‥」

  「は?何言ってんの?」

  「やめて!もうやめて!早苗さん!お願いだから、いつもの早苗さんに戻って!さでずむで、容赦なくて‥‥だけどちょっぴりやさしくて、「ろぼっと」が大好きで‥‥おねがい、おねがいだからぁ‥‥こんな、こと‥‥」

  「小傘‥‥」

  (小傘、あんた‥‥)

  変貌した早苗の恐ろしい振る舞いを散々見せられて、何度もショックを受けていた小傘の涙腺は、ついに決壊した。気がつくと、小傘は早苗に駆け寄り、仔狸を握る彼女の腕を掴んで、涙を流して懇願していた。

  「やめて、やめてよう!さなえ!もうやめてってば!元に戻って!ねえ!」

  小傘の涙声が洞窟に響く。

  一瞬、ほんの一瞬早苗はおののいたが、ますます苛々とした顔をすると憎々しげに小傘を睨みつけた。

  ‥‥小傘の涙も懇願も、早苗を解呪するには全く至らなかった。

  「‥‥鬱陶しい‥‥ああ、鬱陶しい!離せ、この手を離せ!」

  (小傘、落ち着きな!一旦離れて!)

  「いや‥‥いやです!絶対に!!」

  (ああもう!)

  神奈子蛇が肩の上から、必死の念を送るが、小傘は早苗から離れようとしなかった。

  「ああそう。‥‥わかった。わかったよ。私の言うことが聞けないんなら、今すぐここで死ね。喰ってあげるわ。アンタから!」

  「――――!」

  真っ白い髪を振り乱し、白蛇が激昂する。

  強引に手を振って小傘の手を振りほどき、仔狸を投げ捨てると、するりと小傘に胴体を巻きつけ始めた。

  「こ、小傘!逃げて!」

  (あ、バカっ!ヤメな椛!)

  「邪魔すんな、天狗」

  ずん。

  「ぐぶ!?」

  とっさに気がついた神奈子の制止も聞かずに、慌てて小傘をかばおうと彼女に駆け寄った椛だったが、早苗の凶悪な腕の一振りを腹に受けてあっさりと昏倒する。前かがみで崩れ落ちた椛を振り向きもせず、早苗は小傘に白い胴体を巻き付けていく。

  蛇の体が自分を縛る様子を、小傘は抵抗もせずに涙で腫れた目でぼんやりと眺めていた。

  腰を抜かした狐の少女が、顔を背けるのが視界の隅に写る。その向こうには、あの子狸が転がっていた。

  ふん、と鼻を鳴らし、小傘は眼を閉じる。

  ――――私は付喪神だ。身体が壊されたって死にゃしない。早苗さんにあの子狸を食べさせてしまうくらいなら、代わりに私が喰われればいい。早苗さんに、これ以上ひどいことなんか、させない。‥‥ひひひ。残念だったね、ミシャグジ様!あんたの思い通りにゃさせないよ!

  「‥‥うらめしやぁ」

  ぽつりと、小傘は一言だけ呟いた。

  涙の跡が残る頬を歪ませて、ニヤリと笑いながら。

  「覚悟はいいね?」

  ギリリ、と小傘を絞めつけて、早苗が楽しそうに聞いた。ようやく、小煩いオバケを黙らせることが出来るのだから。

  すぐに襲ってくるであろう痛みを思い、小傘は固く目を閉じた。返事のない小傘をニヤニヤと見下ろすと、早苗は、何のためらいもなく小傘の首にかぶり付いた!

  

  

  

  

  

  

  「!?」

  「ありがとう。‥‥でも、こういうのは、あたしの役目だよ、小傘」

  

  

  

  気がつくと、いつの間にか小傘は巻きつく蛇の胴体を抜け出し、うずくまる椛の隣でぺたりと座り込んでいた。

  小傘の目が真ん丸に見開かれる。さっきまで小傘の居た早苗の胴体の中で、彼女に首に噛み付かれていたのは、神奈子だった。

  かぶり付いたとたん、突然姿を変えた獲物に、早苗もさすがに慌てふためいた。

  「!?ふ、ふがぁっ!?」

  「これを待ってたんだよ!このタイミングを!」

  「むうっ!むぐああ!」

  「ぐうっ!」

  驚きと怒りと戸惑いに目を大きく見開くと、早苗は噛みついた顎に力を込める。

  歯が骨に食い込む気味の悪い音が、神奈子の脳に響く。噛まれた首が、ものすごい勢いで熱を持ってきている。視界が、一瞬ゆがむ。目玉が勝手に動いたのだ。毒のせいで。

  神奈子は、腕の震えを振り払い、早苗をきつく抱きしめる。噛まれた首からは血が流れだし、早苗の口の端からあふれだした。

  止めどなく流れ出る赤くて熱い血。早苗の舌は自然に動き、口の中にあふれたそれを呑み始める。

  「ほおら、怖くない。たんとお飲み。神様の血だ。遠慮しないでどんどん飲みなさい‥‥」

  「ぐうううう!」

  早苗は唸りをあげながら、神奈子の血を呑んでゆく。あふれた血で、神奈子の赤い服が、ほとんどボロと化した早苗の風祝装束が、真っ赤に染まってゆく。

  その光景に、我に帰った小傘が悲鳴を上げた。

  「か、神奈子様!何されてるんです!やめてください!そのままじゃ死んじゃいます!」

  「大丈夫!心配しないで見てな!」

  「顔真っ青じゃないですか!」

  「これは毒のせい!」

  「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃないですか!」

  「う‥‥あ‥‥」

  小傘の悲痛な声で椛は目を覚ました。薄く開けた目に飛び込んできたのは、早苗に噛み付かれ、首から血を流している小傘‥‥ではなく、神奈子!

  「か、神奈子さま‥‥!?」

  「やめてください!」

  「いいや、まだだね、まだ‥‥」

  「うううう!」

  真っ赤な神奈子の血に乗って、彼女の神気が早苗に流れこんでいく。早苗の身体から、黒い煙が湧き出すのが見える。諏訪子の呪いが、早苗の身体の中から、神奈子の神気によって押し出されていく。一番強引で手っ取り早くて確実な、神奈子流の解呪方法だった。

  しかし、代償も大きい。流れ出る血液の量に比例し、神奈子の顔から血の気が引いていく。毒は全身に周り、もう足元もおぼつかない。膝は勝手に震えだし、脂汗が背中を伝う。

  (ああ、もうちょっと、もうちょっとなんだけどねえ‥‥くそっ)

  ぐるりと視界が回り、神奈子は意識を手放した。

  

  

  

  [newpage]

  

  

  ************

  

  

  

  

  

  

  

  それは彼女にとって、まるで、急に夢から覚めるような感覚だった。

  ゆっくりと、目の前に焦点が合っていく。

  口の中にあふれる血の匂い。

  唇にふれる熱い皮膚の感覚。

  視界に映る、腰を抜かすオバケと、前かがみになって腹を抑えている天狗と、狐と――――

  ――――あれぇ、小傘さんと椛さんがなんでこんなとこに‥‥へっ!?

  「もがっ!?」

  慌てて口を離す。血に染まった首をがくりとうなだれさせ、顔面蒼白で自分に抱きついているこの女性は――!?

  「神奈子様っ!?」

  「早苗さん!?」

  「まさか!」

  目の前で二人が驚きの声を上げる。

  小さく呻くと、神奈子は薄目を開けた。

  「‥‥あ‥‥?ああ、ああ、よかった。戻ってきたね。‥‥早苗」

  「か、かなこ、さま」

  早苗の縦に割れた瞳が、きゅっと細くなった。彼女は急速に思い出していく。諏訪子に呪いをかけられたこと、その後の、ミシャグジとしての自分の振る舞い。動物達の神楽、化け熊との戦い、生贄を食べようとしたこと、小傘を噛んだら、いつの間にか神奈子になってて――――

  ミシャグジだった頃の記憶と、早苗本人の意識が急速にドッキングしていく。

  「‥‥あ」

  うつむき、黙りこむ早苗。神奈子が、心配そうに早苗に声をかける。

  「早苗‥‥?」

  「わた、し‥‥あ、あれっ‥‥」

  ぐるりと後ろを振り返る。周りに転がる骨の山。白蛇の早苗の金色の目が、暗闇の中のおぞましい光景をぼんやりと映していた。

  「‥‥い」

  「ん、なんだい‥‥」

  「遅い、遅いですよっ!来るのがっ!」

  「んぐぁ!?」

  「あ」

  「‥‥あっ」

  涙目で叫ぶが早いが、早苗は再び神奈子の肩にかぶりつく。

  早苗さんが元に!と喜びの笑顔を浮かべていた小傘と椛は、ポカンと気の抜けた声を上げた。

  「がるるる!」

  「ごめん、ごめんね、さな、え‥‥う」

  「むううう!もめでふ!ふんで、もふとふひむふぃてふれむふってん!」

  「あ、ああ‥‥」

  「さ、早苗さん!、ブレイク!ブレイク!」

  「むふー!」

  「早苗さん、もう許してあげて!神奈子様死ぬ、ほんとに死ぬ!」

  「むふうう!」

  「おふぅ‥‥」

  「神奈子様ー!」

  がるるる、と、涙目でさっきとは違ううなり声を上げて、神奈子にかぶりつく早苗と、必死にそれを止めようとする小傘。

  未だに腹を押さえてノビている椛は、その光景に、はは、と小さな笑いを浮かべる。

  とりあえず、早苗は戻ってきた。諏訪子の呪いは、解かれたように見えた。

  「がるるる!」

  ‥‥まだ随分、ミシャグジ寄りではあったが。

  

  

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