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「秋月」ー創世暦 320年 新越国 秋ー

  「まだおるな…」

  アザミは視界に大きくたなびく[[rb:幟 > はた]]を苦々しい思いで一瞥した。

  赤い布に黒の染め抜き。夫である[[rb:新越深山 > ニコシミヤマ]]の紋は丸の中に下三角。今、新越深山と共に掲げられている幟は蛇の目であり、深山宗家のものであるそうだ。

  二十年ほども前、[[rb:柔国 > ニコシノクニ]]と名乗りこの地を治めていた[[rb:柔族 > ニコシゾク]]はあの旗の下に降った。アザミは柔族から深山家へ[[rb:嫁 > か]]して十年以上経つが、やはりあの旗が好きになれなかった。

  都の[[rb:中原国 > ナカハラノクニ]]から使いがきたのは三日前。少人数ではあったが武装した出で立ちをした男達を見て、アザミは女衆の居住まいである[[rb:二之城 > にのしろ]]の門を閉じさせた。そして女の出入りを禁じたあと、二之城の高楼を離れず[[rb:一之城 > いちのしろ]]の動きを注視している。二之城は僅かに緊張感が漂っていたが、一之城の男衆は特に乱れた様子もなく日常を送っているようだった。

  空に輝く日が中天に差し掛かった頃、宗家の幟は一之城の門をくぐって出ていった。

  二之城の門を開けさせ女の往来を自由にした頃、夫のウマラが訪ねてきた。

  「今日は望月だな」

  開口一番そう言った。

  確かに昨夜の月の満ち方を思い出せばそうであろう。

  「それが…どうかしたか?」

  それより、宗家の動向が気になる。今は風情を楽しむ気にはなれなかった。

  「月を肴に酒でも飲むか。月の昇る頃、待ってる」

  アザミの後方を指差した。[[rb:新越郷 > ニコシノサト]]は背後に、切り立った崖にも似た山を背負っている。その山を郷の者は[[rb:狭霧山 > さぎりやま]]と呼んでいた。

  ウマラは時たま狭霧山にアザミを呼び出す。今日もそういうことであろう。

  アザミの言葉を待たず、ウマラは踵を返す。

  「行く、ゆうとらんぞ」

  その背に声を掛けたが振り向きもしないで手を振り、去っていった。

  「勝手な男じゃの…」

  小さいため息をついた。

  夕日が山際へ沈んだあと、ゆるゆると東から昇りはじめた月を見ながらアザミは山へ向かった。赤々とした月はまだ光を放つことなく、どろりとしている。その月の色は深山の旗によく似ていた。

  [uploadedimage:13923442]

  深山の赤は、深山が流した血の色だ…。

  月と同じようなどろりとした気を抱えながら岩場につくと、ウマラが一人、郷を見下ろしてたたずんでいる。後ろから突き飛ばせば、簡単に落ちてしまう。国の主ともあろう者が、なんとも不用心なことか。

  「ヌシは備えるっちゅう事を知らんのか。今なら簡単に亡き者にできるぞ」

  「お前が言うのか? 俺は供をつけてる。お前は一人だろう」

  衞士がおるのか…

  ニヤリと笑みを浮かべたウマラをよそに、辺りを見回す。人の気配は感じられない。アザミはふんと鼻をならし胸を張った。

  「ワシを襲うような命知らずは、そうそうおらんじゃろ」

  五尺七寸を越える上背で、骨柄も良く、あらゆるところに隆々と肉がついている。並みの男ではまず太刀打ちできないであろう。

  「そら、まぁ…そうかもしれんが」

  女丈夫な妻を見上げ思わず苦笑を浮かべる。

  アザミに座るよう促して、ウマラは甕を二つ置いた。

  「まだ月は昇ったばかりだが…」

  そう言って小さい甕を差し出した。酒飲みに誘ったが、実はウマラは下戸である。よって、盃はない。アザミは小さい甕に直接口をつけ、そして眉をしかめた。

  甕を覗くと白い液体で満たされている。ニコシで酒といえば、山で採れる果実を発酵させた果実酒である。酸味が強く甘味はない。今渡されたものは、酸味の他に甘味もありトロリとした舌触りだ。アザミの知らない酒だった。

  「何じゃこれ」

  「昨年、畠を作らせたのを覚えているか」

  小さく頷く。

  良く覚えている。ウマラは一部の山の木を伐採し、火を放った。山は恵みそのものである。[[rb:柔人 > ニコシビト]]からすれば神殺しともいえる蛮行であった。

  「焼き畑の一年目は作物はとれない。二年目、今年の春に蒔いた[[rb:稗 > ヒエ]]が実ったから、一部を酒にしてみた」

  「稗の酒…」

  「美味かったら進貢しようと思ったんだが、口に合わんか」

  軽く笑い声をたてながら、もうひとつの甕を差し出す。中にはいつもの果実酒が満たされていた。

  まるで毒味じゃの。

  口直しに果実酒をあおり、一息ついた。

  二人はどちらかと言えばウマラの方が饒舌である。が、今日は口数が少ない。何を話すでもなく、昇ってくる月を眺めている。何かを抱えている証だ。

  「宗家の使い。なんじゃと?」

  ウマラの心の内を探るように尋ねた。ウマラは答えない。使いの装いから大方の見当はついていた。

  「戦じゃろ。どこでじゃ」

  射ぬくような目で見据える。ウマラは目を閉じた。

  「[[rb:大王 > おおきみ]]…いや、大伯父念願の[[rb:産加美 > ウカミ]]だよ」

  [[rb:産加美国 > ウカミノクニ]]は東隣にある小国で、深い谷に閉ざされ、今は国交もない。

  「産加美? 名目はなんぞ」

  「鬼道によって民を惑わす[[rb:鬼女 > きじょ]]を伏して、民を正道へ導くんだそうだ」

  どこかなげやりな様子に、アザミも嗤った。

  「えぇいいがかりじゃの。産加美は昔から女王の国じゃ。女王は鬼女じゃのうて、蛇神を祀る[[rb:巫女 > ふじょ]]じゃ。民も惑わされとるわけじゃねぇ」

  「知ってるよ…」

  徐々に光を放ち始めた月を見ながらウマラは呟いた。

  この春先、宗主国である[[rb:千原国 > チハラノクニ]]に大きな改変があった。千原国の中枢を握っていた中原氏が、大王[[rb:弑殺 > しいさつ]]を企てたとして誅殺された。それも族誅という重いもので、少しでも繋がりがあると疑われれば刑戮され、その波は属国を含む全土に及んだ。

  その後中原氏の抜けた軍事の穴を埋めるように台頭したのが、深山氏である。だが、帰化民族である深山氏に対して風当たりは強い。そもそもが深山の陰謀ではないかという目もある。宗家としては周りを押さえ込むため、早々に実績が欲しいのだろう。

  [uploadedimage:13890076]

  「気が乗らんのじゃの…」

  「今まで戦に際して気が乗ったことなど、一度もないな…」

  つと、視線を地へ落とした。

  「初陣の時か…。近くに気の優しい男が居た。虫も殺せぬのではないかと揶揄された男はそれでも、妻の腹に子が宿ったからなんとしても帰らねばと発奮していた。夜明けと共に戦が始まって、日が落ちて矛を納める頃、そいつは地に転がる敵兵を探しだしては切り裂いて回ってた。地に伏すおびただしい屍。その横で祝杯をあげる兵。誰も彼もが朝までは親であり兄弟だったはずなのに、夜には人ならざるものに変貌したようだった。戦はたった一日で人を変えてしまう。その事に恐怖した」

  白みを帯びてきた月光がウマラの顔に差す。自虐的な薄笑いが幽鬼のように浮かんでいる。

  「それでも俺は死地へ向かえと、数多の首を挙げ、名を上げろと号する。心とは裏腹にな」

  「…ヌシは父様に似とるの」

  ウマラの父は武門に生まれながら、戦嫌いだった。人を謗り、傷つけることも嫌った。戦でも敵を前に卒倒し、逃げ回ることもしばしばで、家門の恥とさえ言われた男だった。

  「優しい父様じゃったの」

  中原氏粛清の嵐がニコシにも訪れ、複数の者が刑戮された日。ウマラの父は沢で死んでいた。恐らく自死したであろう父の死を隠し、ウマラは国宰の座を継承した。

  「宗家のやり方は気にくわない。しかし対抗するほどの国力は新越にはない。結局は力に従うしかない。やりきれないもんだ…」

  深い哀愁が影をさしている。

  「家に生まれた者が生まれながらに負う責を、下ろしてしまえとは言えんが…。たまに忘れるくらいなら、ええと思うよ」

  ウマラの頭を静かに抱えた。

  「…それじゃぁ一夜、忘れてみようか」

  力の抜けた頭がずっしりとアザミの上にのしかかる。

  「一夜とはずいぶん束の間じゃの…」

  頬を撫でる。ウマラの目が静かにこちらを向いた。

  「北ノ山に雪が降りる前に軍道を築かねばならん。一ヶ所に大勢人を集めれば産加美に気付かれかねない。各所同時で行う。明日には各地から兵を徴発する。時が…無い」

  嫌だと言いながら、男の頭は既に戦を始めていた。

  アザミの胸に暗雲が立ち込める。男達が起こす戦の先に何があるのか、アザミは身をもって知っていた。

  やはり深山は深山じゃ。

  将の目をした夫の視線を手で覆う。

  「忘れろゆうたじゃろ…」

  ウマラの体を地に横たえた。再び開いた鈍色の瞳に天上の月が映りこむ。赤黒かった月は、今、純白に光輝いていた。月の光は汚れたものを清らかにすると、術師の友から聞いたことがある。

  今宵の月が夫に流れる生臭い血を洗い流してくれればいい。

  アザミはウマラの上に身体を重ねながら思った。

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