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山の神 ー創世暦 333年 新越国 早春ー

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  333年 春 [[rb:新越国 > ニコシノクニ]]―

  暗い夜を押しのけるように、ほんのりと日が差し込む頃。霧が[[rb:山峡 > やまかい]]から[[rb:新越 > ニコシ]]の郷にどっと流れ込む。[[rb:白 > しら]]んだ深い[[rb:靄 > もや]]の郷はまだ眠りの中にあり、小鳥のさえずりだけが響いていた。

  「おい、ツマベニ…ツマベニ起きろ…」

  まどろみの中にいるツマベニをよく知った声が呼ぶ。低い、母の声。うっすら目を開けたが、辺りはまだ[[rb:仄暗 > ほのぐら]]い。ツマベニは再び目を閉じた。

  「おい、起きろ。今日はカシワの[[rb:兄 > あに]]さが北へ発つとゆうとったじゃろうが…」

  やや強くなった声と共に、身体が大きく揺さぶられた。

  「眠ぃんじゃ…。まだ夜じゃ…」

  「もう明ける。みんな外で待っとるぞ」

  「…ぅん」

  声は聞こえるのだが、瞼が重くて開かない。ツマベニは小さく体を屈めた。

  「しょうがねぇ奴じゃのぉ…」

  ふわりと体が浮く。次にどさりと落とされたところは温かい母の背だ。そして背中に一枚衣がかけられる。

  ぬくいのぉ…このまま寝ててぇのぉ…。

  背中に体を押し付け、眠りに落ちていく。しかし足に触れた冷気が、すぐさまツマベニを現へと引き戻した。

  「…んぅ……」

  足を縮め何とか衣に隠す。もぞもぞと体を動かす度に、母が揺らしてツマベニを良いところへ戻した。しばらくして母が立止まり、ツマベニはうっすらと目を開けた。

  「[[rb:母 > かか]]さ、わしゃもう行くぞ!!」

  怒声のような固い声がツマベニの耳をつんざく。思わず背中に耳を押し付けた。朝から聞きたくもない次兄、カシワの声。

  「そう言うな。ツマベニ連れてきた。顔見てけ」

  しがみつくツマベニを振り落とすように地面におろす。ツマベニはすぐさま母の足にとりついた。カシワがふんぞり返って見下ろしている。

  「ぼけったれの顔なんぞ要らんわ!」

  唾棄するような言葉に、ツマベニの寝ぼけ眼がしっかと開いた。

  「誰がボケたれじゃぁ。ワシぁ[[rb:兄 > あに]]さの顔なんぞ見たくもねぇんじゃ。北でもなんでもとっとと行ったらええじゃ!」

  日頃から馬が合わない上に、無理やり起こされたツマベニはすこぶる気分が悪い。

  「おい、ツマベニよぉ。[[rb:兄 > あに]]さは[[rb:防人 > さきもり]]として行くんじゃ。もう少しえぇ顔できんのか!」

  母が後ろから襟首をつかみ上げる。剛腕の母によって、ツマベニの足が宙に浮いた。それも慣れっこである。ツマベニはそのままふいと顔を背けた。

  「ええ顔なんぞ出来るか!![[rb:兄 > あに]]さなんぞ、ワシぁどうでもええんぞ!!」

  「あぁ、ワシもヌシの顔なんぞ見たくねぇわ。とっととどっか消えろ。目障りなんじゃ」

  延々と続きそうな投げ合いを、厳かな声が制する。父が二人をそれぞれに見ていた。差し当たってこれという表情はない。父はおおよそ、このように凪いだ顔をしている。

  「ツマベニ、兄に言葉を…」

  感情のない父の声はたまに恐ろしくも感じる。ツマベニは小さくうなずいた。

  地面におろされたツマベニはうつむきながら進み出る。胸の前で小さく手を重ねた。

  「この地を離れる[[rb:兄 > あに]]さに[[rb:山神 > ヤマツミ]]さまの恵みがありますように。[[rb:平 > たいら]]かなることを祈っとります…」

  「はっ…。思ってもねぇ事いいよって。[[rb:質 > タチ]]の[[rb:悪 > わり]]ぃことじゃ…」

  カシワが呟く。ツマベニはキッと[[rb:睨 > ね]]め上げた。

  ワシだって言いたくねぇんじゃ…。ツマベニは思う。

  「カシワは余計な事を言わなくていい」

  父に言われ、カシワは苦々しく頭を垂れる。そして供を連れ、粛々と門をくぐっていった。

  ツマベニは急に身震いがして、茂みに飛び込む。用を足して戻ると既に皆の姿は無く、父だけが[[rb:佇 > たたず]]んでいた。

  「皆、行ってしまったぞ」

  先程と変わらぬ様子の父は、ツマベニに小さな甕を差し出した。

  あぁ…。

  憂鬱に受け取る。

  「のぉ、[[rb:父 > とと]]さ。あの川は父さと、爺様が引いた川なんじゃろ?なんぞもっと郷の近くを通さんかったんじゃ?」

  川から水を汲むのは女の仕事だ。幼くとも、歩けるようになれば小さな甕を渡される。生きるために水が必要なのはわかるが、やはり億劫であった。

  「あれは畑に水を撒くための川だからな。郷より畑に近い方がいい。川の位置との関係もあるが…大水の時に郷ごと流されたくないってのもある。北の堰は平時の歯止めにしかならんよ」

  ふぅん…

  聞きながらツマベニの頭には別の事が浮かんだ。

  「[[rb:父 > とと]]さよ。新越の郷を攻めるのは簡単じゃの。堰で水を止めてしまえばえぇ」

  父は目を大きくする。そしてツマベニの前に屈みこんだ。

  「お前は政など関心が無いと思っていたが?」

  父の目に微かな喜びが見える。ツマベニは野兎のように鼻をひくつかせた。

  「ワシぁ、[[rb:父 > とと]]さの子じゃ。[[rb:新越 > ニコシ]]の[[rb:媛 > ヒメ]]じゃぞ」

  得意になって胸を張ると、父は更に顔を近づけた。

  「それではツマベニヒメ。お前は郷を守るためにどうする?」

  「そら北の守りを…」

  言いかけて、ツマベニは口を閉じた。

  「北に変事あらば、カシワは真っ先に死なねばならんだろうよ…」

  父の目から笑みが消えていた。遠回しな訓告がツマベニに刺さる。

  「け、けど。北から人が来たゆうのは聞いたことがねぇの…」

  誤魔化すように目を逸らした。

  ツマベニには確信もある。新越の郷の北は切り立った崖に近く、更にその北は深い山々が重なり合っている。人が住んでいるというのは聞いたことがないし、そちらから人が訪れたこともない。変事というのは考えづらかった。

  「そうか。ツマベニは知らぬか」

  歩を進めながら、父は北の山々を眺める。続いてツマベニを見下ろした。

  「この郷は一度だけ北から攻められた事がある。攻めたのはこの父の、伯父だ」

  胸を差し父は言った。

  「この地を治めていた[[rb:柔 > ニコシ]]族は[[rb:遠祖 > とおつおや]]から受け継いだ土地を手放さざるを得なくなった。お前の母の家さ。無いという慢心が、目の前に大きく開いた穴さえ見えなくする。お前もそのような心持ちでいると、いずれどこの誰とも知らぬ者に、その命を差し出さねばならなくなるぞ」

  そう言う父の目は暗い。

  他人事ではないのだ。数十年前この[[rb:新越国 > ニコシノクニ]]を攻め獲った[[rb:深山 > ミヤマ]]の家も、二年前の負け戦で宗家が解体された。新越深山家はそれまでの縁をたどって排斥を免れたが、いつ何時憂き目を見るかわからないのだ。父の心配は尽きない。

  ツマベニはまだ幼く、その事を知らなかった。

  最初からゆうてくれればええのに、[[rb:父 > とと]]さは意地悪じゃ…。

  そう思っただけだ。

  ツマベニがむくれているうちに二人は、川辺へ出た。

  いつもは郷の女衆が連れ立っているが、今日は人の影が無い。郷の方を向くと炊事の煙がまっすぐと立ち昇っている。随分と時間を取ってしまったことをツマベニは悟った。

  手を差し出す父に甕を渡す。父は屈んで、ツマベニの小さな甕に水を汲んだ。

  足元に白い花が揺れている。

  「イチゲの花じゃ…」

  ツマベニは白い花を摘んだ。

  「父さ、このイチゲ。花が二つついとるぞ」

  イチゲソウは花が一つ咲くから[[rb:一華 > イチゲ]]である。よく似た花で二つ付けるものもあるが、それは別の花だ。

  「まぁ…そういう事もある」

  父は何かを思うようにイチゲの花を眺めた後、ツマベニの髪に挿した。

  「ツマベニ…父を手伝ってくれるか?」

  父の手が優しく髪に触れる。

  「ワシが?」

  首を傾げる。

  「あぁ。その花を摘んでくれればそれでいい」

  父が微笑んだ。

  朝餉を終えると、父に言われたように外へ出る支度を母に頼んだ。母は不安げに眉根を寄せたが、支度はしてくれた。

  「のぉ、[[rb:母 > かか]]さ。これ苦しい…」

  腹に何重にも重ねた布を差す。

  「ヌシは粗忽じゃからの。転げても怪我せんように巻いとけ」

  「これは…?きっついぞ…」

  脛に巻いた布を差す。

  「その方が歩くには楽だぞ…」

  父が言う。こてこてと体に布を巻いたツマベニは小さな籠を渡された。

  「沢へ出る頃になったらこれに摘んでくれ」

  父も同じように旅装束であったが、短弓と、珍しく手槍などを提げている。

  「槍…?」

  「この時期はクマが出んとも限らんからな」

  「父さ、槍なんぞ使えるのか?」

  母は郷では知らぬ者がおらぬほどの女傑だ。年を取っていくらか瘦せたものの、まだ戈を振るい、練兵にも顔を出し男衆を鼓舞する。父はと言えば、館に籠り執政を行うばかりである。身体も華奢で、とても戦えるようには見えなかった。

  「ま、お前が逃げる間の時間稼ぎくらいにはな」

  苦笑を浮かべた父の顔は何とも頼りない。

  「のぉ…母さも行かんのか?ワシ、父さだけじゃ心配じゃぞ」

  およそクマのような母を見上げる。

  「大事無ぇ。姿を隠しとるだけで、供はついとるよ」

  母の立てた親指の先をツマベニはうかがったが、人の気配は感じなかった。

  門の前でいくらか渋ってみたが、父に促されツマベニは気の進まぬ様子で東の門をくぐった。思えば郷から離れるのは初めてだ。不安もあるが、少しの期待に胸を膨らませた。

  上から光が差し込み始めた山は、すでに朝靄も無く春の陽光だ。若芽が萌え始めたばかりの森は、光が地まで届いて明るい。枯草交じりの地面は、踏むごとにサクリサクリと音を立てて楽しかった。しばらく足元ばかり見ていたツマベニが目を上げると,青いシダが群生して生えているのが見えた。

  「父さ、こごみじゃぞ。採ってくか?」

  春の恵みに目を輝かせる。父は静かに首を振った。

  「辞めておけ。採りすぎると絶える。そういうものは山の者に任せてる。そのうち届くだろうよ」

  ほうか…。

  父は雑談が無い。ツマベニも黙って後ろを歩いた。

  小さい峰を越えると、二人は山陰に入った。冷たい空気がそっとツマベニに触れる。沢筋にはまだ残雪が高々とあった。あちらから吹いてくるのだろう。日なたと違って随分と肌寒い。

  「のう、父さ。春の山は不思議じゃの」

  ツマベニは言う。

  「どう…不思議だ?」

  父は振り返らず答えた。

  「春と冬がひとところに住んどるようじゃ。ここはぬくい。ちぃとそこへ行けば寒い。不思議じゃ」

  父は小さく肩を揺らした。

  「そうかもな」

  父さはどこまで行くんじゃろう。

  初めは周りの風景を楽しんでいたツマベニも、慣れぬ山道に疲れを感じていた。新越郷の東には隣の郷があるが、父は新越を出て早々に北東へ進路をとった。沢へ降りたら花をと言っていたのに、ひたすら峰を登っている。

  「のぉ、父さ。ワシ疲れたじゃ。どこまで行くんじゃ…」

  立ち止まって言う。

  「まだ、半分だぞ」

  振り向いた父は更に山の方を指した。

  「ワシ、もう歩けんぞ…」

  「…そう言ってもな。戻る気はないぞ。ここまでの行程が無駄になる」

  「嫌じゃぁ…。歩けんのじゃ。足も痛ぇんじゃ…」

  切実に訴える。父はいつもの如く表情のない顔で見下ろしていた。兄や母のように罵るのであれば、返しようがある。だが父はこれといって責める訳でもない。ただ凪いだ目で見つめるだけなのだ。

  「……誰ぞ、ついておるんじゃろ?ワシ担いでくれんかの?」

  「衛士はいざという時の守であって、荷物持ちではない」

  父の返事はにべもない。

  「ワシまだ八つじゃ。めのこじゃぞ…。ほんな歩けんわ…」

  座り込んだ。頭上で父のため息が聞こえた。

  目の前に背中が現れる。

  「ほら、おぶされ」

  「え…ええのか?」

  逡巡する。

  「歩くか?」

  振り向いた父の顔がどこか意地悪い。ツマベニは黙っておぶさった。

  母の肉厚な背と違い、少し筋張って居心地が悪い。それでも。

  父さの背中もぬくいの…。

  ゆさゆさと揺られながら、ツマベニは目を閉じた。

  *

  322年 同国―

  「カケ…。アユカケー…」

  くぐもる音に紛れて、己を呼ぶ声が聞こえた。返事をしようと口を開けると、息が泡沫に変わり、水が流れ込んできた。激しい流れにもまれ、身体が思うように動かない。水音に紛れ、なおも名を呼ぶ声が聞こえる。掻き分けるように、明るく見える方へ手を伸ばした。

  視界が開け、急に体が軽くなる。

  「アユカケ!!」

  今度はハッキリと声が聞こえた。

  ゲホッ。

  返事をしようとすると、喉の奥で水が動いた。誰かが強く背中を叩く。

  アユカケは飲み込んだ水を吐いた。

  「大丈夫か、アユカケ」

  かすんだ目に映る。少年と、もう一人。青年というにはまだあどけなさを感じさせる、少年ともつかない男。

  「カシワ兄さ…。カヤ…」

  「申し訳ありません、アユカケさま…」

  カヤと呼ばれた男は申し訳なさそうに身を小さくする。アユカケは息を整えながら首を振る。

  「カヤのせいじゃねぇ。ワシが滑っただけじゃ…」

  「ほうじゃ、カヤ。ヌシはすぐ己を責めよるの」

  アユカケの背をさすりながら、カシワは苦笑を投げる。アユカケが小さくくしゃみをした。

  カヤはすぐに枯れ木を集め、火を熾した。

  アユカケの濡れた衣を剥がし、火にあたらせる。カヤは己の衣を差し出した。

  「あの…お嫌でなければ」

  「カヤ、寒ぃじゃろ?」

  「私はその…丈夫ですから」

  カシワとアユカケは顔を見合わせ、衣を受け取った。カヤは先日臣下である[[rb:尾鷲 > オワセ]]の家から、カシワの従者としてつけられたばかりの男だ。年は十五。成人したてである。カシワは今十二で、アユカケは九つであった。

  今日は風も無く、日差しが暖かい。程よく温まった大岩の上に絞った衣を拡げ、カシワとアユカケはごろりと転がった。

  「腹減ったのー…。全然魚獲れんかったもんのぉ」

  「行き当たりばったりはダメじゃの、兄さ…」

  日も出て暖かい今日ならば川へ行けば何とかなると、二人は何も持たずにやってきた。しかし川辺に魚影は全く見えず、何も手にすることはできなかった。岩の下にいるのかと覗き込んで、アユカケは川に落ちたのだ。

  「しっかし、アユカケがおぼれるなんぞ珍しい事もあるもんじゃの」

  「岩の下、渦巻いとった。引っ張られてしもうたわ…」

  父が気まぐれに魚の名など付けたせいだろうか。アユカケは物心ついたころには水と共にいた。今日のようなことは初めてだ。アユカケは小さく項垂れた。

  さて、岩の上にいる二人の腹は続けざまに催促を続けている。目下の心配は腹具合だ。

  「私、もう一度見てきましょうか」

  二人の脇で、きちんと姿勢を正して座っていたカヤが投げかけた。

  「ほうじゃのー…いや、ワシも行くわ。一人で行かせるわけにはいかん。ワシらの遊びじゃったしの…」

  カシワが共に立った。カシワは口は悪いが、気の回る子だ。情も厚い。初めての務め、慣れない土地にあるカヤにもよく声を掛けた。

  「アユカケは動くな。何ぞあったら大声で呼べ。遠くは行かんしの」

  二人は大岩をするりと降りて川岸に寄った。

  「やっぱ魚の影はねぇの…」

  「は…」

  辺りを見回したカヤが少し腰を落とした。

  「なんじゃ…?」

  「あちらの岩陰に人のような影が見えました。随分と大きく感じましたが…」

  離れた岩場を窺う。

  「さすがにクマは勘弁してほしいのぉ…」

  「若はお下がりください…」

  武器は無い。カヤは足元の石を拾った。下がったカシワもやはり石に手を掛ける。

  「おい、いきなしなんねや。んなもん当たったら、ワシ死ぬるわ」

  岩が声を上げた。

  「ハリ叔父!?」

  聞き覚えのある声に、カシワは前に出た。岩から顔が覗く。

  「久々やねんなぁ。よぉこんなとこまで来てんな?ここ、[[rb:斐磨 > ヒマ]]やで」

  岩から出てきた赤髪の大男は肩を揺らしながら笑い声を上げる。

  「この方は?」

  まだ警戒を解かない様子で、カヤがカシワを制する。

  「ワシの母さの従弟じゃ。斐磨の将。ヒマノハリ叔父じゃ」

  あ、と小さい声を上げ、カヤはすぐさま跪いた。

  「失礼いたしました。私は尾鷲の子、カヤと申します」

  尾鷲は深山と同じ早瀬を祖とする。深山家と同時期に[[rb:千原国 > チハラノクニ]]に帰属し、それ以来深山に臣として仕えてきた。家柄故にカヤはハリの名を聞いて即座に反応した。

  ハリは[[rb:新越国 > ニコシノクニ]]に古くからあった、斐磨族という山の者である。[[rb:柔人 > ニコシビト]]が深山に降伏した折、共にその下に降った。今は深山の中に一つの氏として家を立てている。

  家格としては尾鷲が上だが、将として名のあるハリにカヤは慇懃に頭を下げたのである。

  「尾鷲はんとこの子かいな。まだ若ぇやんなぁ。しかも裸て。元気っこやな。ワシでもせえへんで」

  ハリはからからと笑い声を立てたが、将らしからぬ砕けた様子にカヤは戸惑う。は、と身を固くした。

  「ハリ叔父さ!」

  影にいたアユカケがようやく出てきた。

  「お、アユカケも一緒かいな。しかし、なんやそのだぼだぼ」

  ハリはアユカケが羽織ったカヤの衣を笑う。アユカケが答える代わりに腹が鳴った。

  「腹減っとんのかいな。せやったら、ワシが馳走したるで」

  六寸ばかりのウグイを並べて、ハリは白い歯を見せた。

  「魚獲り?今年はちぃとばか寒いさかいなぁ、まだ動かへんかもなぁ…」

  鱗を平たい石でこそぎながらハリは言う。

  「ハリ叔父はどうやって捕まえたんじゃ」

  「ワシは筌仕掛けとるんや。手間ねやんしの」

  腸を取り除き、丹念に塩を揉み込む。下ごしらえを済ませたウグイを串刺しにして、火の前に並べた。ハリの手慣れた様子にカヤは不思議そうな顔をする。

  「ハリ様はいつもこのような[[rb:猟男 > さつお]]のような真似を?」

  一廉の将が山の中で一人、漁をしているというのは、生まれた時から貴人として育てられたカヤには理解が及ばない。

  「猟男の真似ゆうか…猟男やねんけどな。もともと斐磨族は山の民やで。狩りをするのが[[rb:生業 > なりわい]]や。たまに山入らんと勘にぶうて嫌やってん」

  焼きあがったウグイをハリは三人に手渡す。アユカケはもらったウグイをつと見つめた。

  「なんや?みんな同しやで?」

  「うん…同しじゃ…。それがなんとのうな、うらやましいんじゃ…」

  はて、とアユカケを三人が見つめた。

  「ワシ…ワシな。たまに思うんじゃ。ワシは父さの子じゃねぇんじゃねぇかの…。全然似とらんし…」

  魚を持った手をじっと見る。浅黒い肌が光を受けて光っていた。

  「ワレはスズメの子やさかい、似とらんでもしゃぁないやん」

  アユカケはカシワの異母弟である。カシワの母アザミは古くこの地を治めた柔族の女だ。新越と早瀬は西の奥で地続きな事もあり、よく似た外見をしている。アユカケの母は父が戦時に、南の[[rb:萱野国 > カヤノノクニ]]から連れてきたスズメという女であり、褐色の肌に黒い髪、黒い目と、新越では他に見ない外見をしていた。

  「いや、それゆうたらの。ワシじゃって兄さと兄弟かと思う時あるぞ?」

  カシワには同母のクマガシという兄がいる。三歳上の兄は、母に似て骨柄がいい。すでに大人の男と変わらない体躯で、人柄もいい。平時は父のように穏やかであるものの、士卒として練兵に参加すれば、母のような剛毅さも見せた。

  「クマガシの兄さは父さと母さのえぇとこどりじゃ。本当に同じ親から生まれたのかと思うぞ…」

  いつも快活な姿ばかりのカシワが珍しくため息をつく。

  「兄さでも思うか…?」

  二人は改めてウグイを見た。二つのウグイはどちらも全く同じに見える。小さく息をついた。

  「二人とも詮方ねやんなぁ…。そんなん言うたかて、ワレらがクマガシになれる訳でもねやんか」

  ハリが二人の頭をコツコツと小突いた。無言で二人はハリを見上げる。

  「何しけた面しとんねん。卵から蝶は生まれへんねやで?ワレらはよーさん飯食って、ゆっくり蛹になったらえぇわ」

  二人の背を激しく打つ。

  「ま、がんばりや」

  ハリは周りを綺麗に片付けて川にざぶりと入る。

  「せや、淵は気ぃつけぇよ。泳ぎ達者でも出てこられへんさかいなぁ」

  川の向こうから大声が響いた。

  「ハリ叔父は嵐みてぇな人じゃの…」

  「ほうじゃの…」

  小さくなった叔父の背を見て呟く。腹ごなしを終えたアユカケは、まだ少し湿った衣を羽織る。三人は郷へ戻った。

  「ほいじゃぁのぉ」

  手を振る兄と別れ、アユカケは二の城へ向かった。新越の郷は男と女が別れて暮らす。郷をぐるりと囲むように男達が住み、女たちは内側に巡らせた柵の中にいた。幼い子は母親と一緒である。

  実母は郷から離れた集落に暮らしていた為、アユカケは父の正妻で義母であるアザミと共に暮らしていた。

  「母さ…」

  室を覗くと既に飯時で、良い香りが漂っている。

  「おぉ、帰ったか。ずいぶん遠くへ行ったみたいじゃの?帰りが遅いと心配するぞ?」

  クマのような義母は見た目に反して、存外に優しい。甕から粥を掬いながら、アユカケをそばへ呼んだ。

  座り込んだアユカケに義母の膨らんだ腹が当たった。

  「大きくなったの…」

  義母の腹には赤子がいるのだそうだ。秋頃はまだそれほど気にならなかったが、このところずんずんと大きくなっている。

  「次は弟がええか?」

  アユカケの下には同母妹と、義母妹それぞれ一人ずついる。女子同士の二人は仲が良く、アユカケはあまり触れない。義母は心配してくれたのだろうか。

  「…ワシは、女子でええと思う」

  呟くように答えた。

  甘えん坊じゃの…。

  妬心だと思ったのだろうか。アユカケの頭を抱え義母は笑った。

  夜、二人の妹を挟み床につく。何となく寝付けないアユカケはぼんやりと梁を見つめていた。

  ワシは嫌な子じゃ…。

  アユカケが妹を望んだのは、妹が好きだからではない。萱野人は総じて小柄らしい。萱野の血が濃い己は大きくなれない。義母が産むのが男ならば、やがて己を越えていくだろう。そう思うとたまらなく悲しいのだ。

  「眠れんのか、アユカケ?」

  母の小さな声が聞こえた。

  「のぉ、母さ。ワシは強うなれるじゃろうか?」

  ふん…

  義母は少し身を起こしてアユカケを見た。

  「強いっちゅうのは、どういうことじゃ?」

  「そら…クマガシの兄さみたいな…。大きぅて、力もあって…」

  大人たちにも一目置かれるような…

  口に出してみると、どうにもそうなれなさそうで虚しい。

  「…ハリの弟分にの。小せぇ男がいた。斐磨族は西の柔人より、東の産加美人の方が繋がりが強いらしゅうての、柔人に比べると小柄じゃ。ずっと…憧れとったよ、ハリに」

  「大きぅなったか?」

  「ならんよ。なれんかった」

  それは、ワシも無理っちゅうことか…

  打ちひしがれる思いがする。

  「そいつの。足が速ぇんじゃ。一晩で二山抜くほどじゃ。ハリは大きいが、重い。ハリが出来んことをそいつは出来る。そう気づくのにだいぶかかったみてぇじゃの…」

  それだけ言うと、義母は体を横にし目を閉じた。

  ワシは何ができるじゃろ…

  義母の言葉を反芻しながら、アユカケもゆっくり目を閉じた。

  *

  翌日アユカケは一の城へ移った。

  父に呼ばれたカシワがすぐに飛んできて、迷う間もなく男衆の中に連れ込まれた。といっても、成人を迎えた男衆と違って、子供らは割と自由にしているらしい。彼らの人気は大人の真似をすることだ。練兵などは特に少年心をくすぐる。彼らは食いつくように男衆を眺めた。

  「お、クマガシの兄さじゃ」

  アユカケを連れてやってきたカシワが男衆を指さした。

  五尺七寸ほどのクマガシは、大人に紛れても引けを取らない。動作も堂々たるものである。カヤもカシワの隣で食い入るように見ていた。

  「カヤ、兄さと同じ年じゃな。混ざりてぇんと違うんか?」

  カシワが尋ねると、カヤは少し置いて、小さな笑みを浮かべた。

  「私の務めはカシワ様の目付けですので」

  「体、なまるじゃろ?ワシ父さに口利いといたるよ」

  カヤの表情を見て取ったカシワは一人得心して言う。カヤはすまなそうに小さく頭を下げた。

  こういう所がカシワの良さだとアユカケは感じる。目の細かいザルのように、他人が持つ僅かな胸中を掬い上げるのだ。

  「しっかし、やっぱかっこえぇわ…」

  再び男衆に目を戻したカシワは呟いた。視線の先はクマガシである。

  大きく矛を取り回す兄の間合いにはとても入れそうにない。

  「お、ハリ叔父もおるぞ」

  男衆から頭半分ほど飛び出た赤髪の男が見える。

  「斐磨から数名連れてこられているようですよ」

  カヤが補うように言った。

  クマガシの前に少壮の男が立つ。五尺三寸ほどか。新越国では小柄な方である。白い肌に、黒髪がつややかだ。新越人で黒髪は珍しい。斐磨の男なのかもしれない。

  クマガシは他の少年らにとってもあこがれだ。小さなどよめきが広がった。

  男はクマガシに木剣を向ける。クマガシは矛先を向けた。

  「あの得物じゃ近づけんじゃないじゃろか」

  「難しいとは思いますが…」

  注視しながらカシワとカヤが呟いた。

  じりじりと二人は牽制しながら移動する。男が地を蹴った。クマガシが矛を前に突きだす。男は矛を避けながら更に前に出た。

  「届く…」

  男の木剣がクマガシに一閃した。クマガシは身を翻し間合いを取った。

  「あいつ、難なく間合いに入るの…」

  男の速さに警戒したのか、クマガシはいつもより遠くに構えている。

  「少し引いてしまいましたね」

  すでに構えが守りに入っていた。男が動く。クマガシが反応した。矛に阻まれて男は近づけない。男が動いては、クマガシが防ぐ。膠着状態が続いた。

  カンッ。

  クマガシの矛が男の木剣を弾いた。さらに一撃、矛を繰り出す。男は矛をかわし、身をよじった。

  「あっ」

  少年らが声を上げる。

  男の手に短剣が握られていた。短剣は腕を伸ばし切ったクマガシの脇を打った。

  「っ…」

  「よしっ」

  声が掛かり、二人は離れた。

  「得物が一つとは限らんですよって」

  息を切らしたクマガシに対して、男は軽快に言うと木剣を拾い上げた。

  「ずりぃなぁ…」

  少年らは囁き合う。カシワだけはじっとそれを見ていた。

  「兄さ?」

  アユカケが声を掛ける。

  「いや、斐磨者は棘を持っとる聞いたことがあんのじゃ」

  「棘?」

  「隠し武器じゃ。人によって持つもんも色々らしいが、一つや二つは隠しとるゆう話じゃ。今の短剣、ほうじゃろ。少なくとも帯には佩いとらんかったぞ」

  言われてみれば、男が剣を差していた様子は思い出せない。持っていない風を装っていたのだ。そうなるとやはり「ずるい」と思ってしまう。

  「取られてしもうたわ!!」

  クマガシがかかっと笑い声を上げた。少年らに漂っていた陰気が笑い声と共に一掃された。

  「やっぱオギ殿は速ぇわ。防ぐだけでやっとじゃ」

  クマガシは男と顔見知りのようであった。クマガシが手を上げ、カシワとアユカケはそばに駆け寄った。

  「アユカケ、こっち来たんだっての?カシワ、アユカケ。これはオギ殿じゃ。挨拶しとけ」

  クマガシに促され二人は頭を下げる。

  「ワシの弟みてぇなもんや。斐磨族のオギゆうんや。覚えといたってや」

  ハリが言う。オギは丁寧に頭を下げた。遠目は若く見えたものの、三十くらいである。顔の造りが淡白で、女性的にも見える。やはりニコシ人とは違った印象だった。

  「萱野のお嬢さんの子ですかいな?大きくなりよりましたの?」

  オギは腰を落としてアユカケに問うた。

  「母さを知っとぅか?」

  「一時、殿の(アユカケらの父)のお傍近くにおりましたさかいな」

  ハリよりいくらか丁寧な斐磨言葉でオギは言った。

  あ。

  昨日の義母の言葉がよみがえる。

  「足の速い…ハリ叔父の弟。一晩で二山抜くって…」

  「あぁ、誰かに聞きましたかいな。ワシはもう若くねやんで、一山くらいですけどな」

  少年のように笑うオギを、アユカケはまじまじと見つめた。

  足が速いのは戦いにも通じる。でも、ワシは足速くもねぇの…。

  義母に聞いた時は何とも思わなかったが、実際戦う所を見たら有益な力だと思った。そう思うと、また己の小ささを感じる。

  「ワレ、また悩んどんのかいな」

  ハリがアユカケの頭をポンポンと叩く。そして不思議そうにのぞき込んだクマガシに昨日のいきさつを話した。

  「ヌシぁ、泳ぎが得意じゃろ」

  クマガシが言う。アユカケは首を横に振った。

  「泳ぎは為にならん…」

  魚を捕る漁師であれば、有益であろう。だが…己はこの深山の子だ。たとえ側室の子でも家の為に働きたい。だから…二の城を出たのだ。

  「為にならんゆう事も無いで。遠征で他国行ったときとかな、始めに橋渡す前は誰かに向こうに渡ってもらわなあかんし…。大軍が渡河する前は川の深さ見たりせなあかん。泳げんもんは水そのもの怖がったりするさかいな。重宝するで」

  「…ほうかの?」

  具体的に言われると、少し望みを持てる気がした。

  夜半、寝所に父が訪れた。

  「母と離れるのは寂しいかと思ってな」

  「父さ、ワシは大丈夫じゃぁ…」

  弱々しく抗議するアユカケを父とカシワが笑う。

  「強く、なりたいらしいな?」

  昨日の話がすでに父の耳に入ったらしい。返答に窮しているていると、父は袖をまくった腕を突き出した。

  「どう思う?」

  筋張った細い腕だ。義母の半分程度しかないのではないかと思う。とはいえ、父を相手に弱そうとは言えない。

  父さは何が言いたいんじゃろか…。

  「父さは戦の時戦っとんのか?」

  カシワが横から入った。

  「後ろで差配してるよ」

  「かっ…やっぱの。ワシ前から父さは戦えねぇんじゃねぇかと思っとったわ」

  何ちゅうこと言うんじゃ、兄さは…

  はらはらと二人を見たが、わだかまりは無い。

  「アユカケ、私は見ての通り強くはない。国を治むるに値しないと思うか?」

  「…」

  「父さは何が得意なんじゃ」

  父が何を求めているかわからずに黙っていると、またカシワが横から入った。

  「私は、土を見る。水を見て、木を見る。人は…トクサと半々か」

  父が笑った。トクサは父の股肱の臣である。

  「父さはそれでよう治めてきたのー…」

  カシワはとうとう父の前で足まで投げ出す。父も足を崩して座った。

  「亡き父が言うには国は鳥のようなものだそうだ。頭だけでは飛べない。翼だけでは生きられない。獲物を見つける目、引き裂く爪、嘴…。鳥の翼は一枚ではないだろう。風を切る羽根に、身体を暖めるための羽、時にメスを呼ぶための飾りもあるだろう。一枚一枚は小さくとも、その全てが生きていくのに必要だ」

  父は二人の頭を抱えた。

  「クマガシの力は目に映りやすい。皆がわかる。だが強さは一つではない。己の強さを磨け」

  灯りをおとしたあと、アユカケは昨夜のように梁を見た。今日は妹たちの寝息は聞こえない。兄の息遣いが一つだけ聞こえた。

  「のぉ、アユカケ。ワシの強みってなんじゃろうなぁ…」

  カシワが言った。

  「兄さは優しい。人の事よう見とる。こっちが言わんでもわかってくれる。ワシ、兄さが好きじゃ」

  アユカケが言うとカシワは驚きの声を上げた。

  「ほうか?女子には気持ちが読めん奴じゃ言われるけどのー…」

  「女子の事はワシもわからん。兄さ。ワシはどうじゃろ」

  「アユカケは…やっぱ泳ぎじゃねぇじゃろか。ハリ叔父も重宝するゆうとったじゃ」

  ほうか…。

  「己の強みを磨く…じゃと。アユカケ、やってみようか」

  「ほうじゃな…」

  それからしばらくして、カシワはカヤをダシに練兵に混ざるようになった。どうしてもクマガシの背を追いたいらしかった。

  アユカケは水の好きな者と川へ行くようになった。郷の子には仕掛け罠を作る者や、釣りをする者もおり、その子らに習いながら少し器用になった。

  林にヤブデマリが白い花を咲かせた頃、カシワがアユカケを誘った。

  「今日はこの頃にしちゃぁ随分暑い。きっと岩から魚も出て来とるじゃろ」

  水浴びをしたいのもあるのだろう。アユカケもしばらく一緒にいなかったカシワに自分の姿を見せたかった。カヤも連れて三人で沢を登った。

  道中、郷の子らに習った川や魚の事をあれやこれやと説明する。カシワはほうほうと感心した様子で聞き入り「水辺の事はヌシにまかせてえぇの。今度は腹空かせんでええわ」と破顔して言った。

  アユカケは柄にもなく胸を張った。

  「ほうじゃろ?まかしといてくれ」

  前に来た岩場に来ると、ウグイが群れを成して泳いでいた。

  「おぉ、おぉ。いるの、いるの」

  「竿でも釣れるぞ、兄さ」

  手製の竿にミミズを付ける。流れの先に餌を落とした。ゆるゆると下流に流れる。ツイっと竿の先が揺れた。

  「お、引いとるのー」

  水しぶきを上げて一尺ほどのウグイが上がった。

  すっかり小刀も使えるようになったアユカケは、手際よくウグイを捌いた。

  「大きいから、蒸して食べたらええの」

  塩を揉み込み葉に包む。焼石を並べて覆った。

  「アユカケは川の男になったの」

  「まぁのぉ…。これが家の為になるか言われたらわからんけどの…」

  出来ることが増えた喜びはあるが、そこだけは少し引っかかる。

  「ええよ、ええよ。父さはどんなに小さい力も必要じゃゆうとった。それにこれ旨いぞ」

  焼きあがったウグイをつつきながらカシワは笑う。アユカケもつられて笑った。

  腹を満たした三人は、川へ入った。

  じりじりと焼き付ける日差しも水の中では優しい。光を受けた水の影がゆらゆらと揺れる。藻が鮮やかな緑色で川底の石を彩る。脇を魚の群れが通り過ぎてゆく。

  綺麗じゃの…。水は本当に綺麗じゃ…。

  アユカケは三人で来たのも忘れ、水の中の景色にうっとりと魅入った。

  目の前を大きな影が横切った。

  あぁ、ヤマメじゃ…。

  キラリと光る魚影をアユカケは追った。ヤマメは岩の陰から出ることが少ない。まるでアユカケを誘ったようだった。

  こんな美しい魚初めてじゃ。なんと綺麗なんじゃろか…。

  *

  「アユカケー、アユカケー!!」

  姿の見えないアユカケを、カシワが声の限りに叫んだが返事は無い。いたずらに隠れるような子ではない事はよく知っている。そうであれば…。

  カシワはぞっと身震いした。

  「カシワ様…」

  カヤも岩陰のあちこちを探したが、影も形も見えなかった。

  川の水音も、小鳥のさえずりも、木々の葉がこすれる音も、来た時と何一つ変わらない。アユカケだけがそこからさっぱりと消えていた。

  ―淵は気ぃつけぇよ。泳ぎ達者でも出てこられへんさかいなぁ―

  以前ハリが言っていた言葉が頭をよぎった。

  「あいつ、淵に入ってしもうたんじゃなかろうか?」

  「まさか…。水を知る者なら近づかないでしょう」

  「ほうじゃけど…前も岩の下引き込まれた。アユカケは体が小さい。いくら泳ぎが上手いゆうても、子供じゃ…」

  二人は淵を見た。深い緑色をした淵は、まるで暗い穴のように見えた。

  「ワシ…見てくる…」

  引っ張られるように動いたカシワをカヤが引いた。

  「いけません」

  「けど、アユカケあっこにいたら死んでまうじゃ」

  「いるかどうかわかりません。下流に流されたかもしれません」

  「わからんじゃろよ!!少し見るだけじゃ。遠くから見るだけなら…」

  「いけません…」

  肩を強くつかんだカヤは、大きく首を振った。

  「ほんじゃ、アユカケはどうすんじゃ。ほっとくんか!?」

  「…カシワ様。私の願いを聞いていただけませんか」

  固い顔のままカヤが言う。

  「嫌じゃ、ワシはアユカケをほっとけんぞ」

  「はい。ですから…郷に知らせてください。大人に伝えてください。私は走るのが速くありませんから…。このような事を主に頼むのは大変心苦しいのです」

  あぁ…

  カシワの顔が幾分和らぐ。

  「私はこのままアユカケ様を探します。カシワ様はどうか急いで郷へ」

  「わかった!すぐ戻る」

  「申し訳ありません、カシワ様…」

  「えぇ、えぇ!!気にするな。アユカケは任せた!!」

  脱兎のごとく、カシワは山を駆けた。まっすぐ、道なき道を郷へ向かって。

  父は不在であった。知らせを受けた留守居のトクサはすぐに人を集め、加えて斐磨に早駆けを送った。カシワも大人と共に沢を登る。着いた時には既にハリが人を集めて川沿いを探していた。

  「ワレら二人で来たんか?」

  深刻な面持ちでハリは聞いた。

  「カヤと三人じゃ…。カヤはここへ残していった」

  「カヤ…おらんぞ…」

  ハリが郷人に叫ぶ。

  「もう一人や、もう一人おる。上には流されん!!下を当たってくれ!!」

  銘々に探し始める。川だけでなく茂みもつついた。

  急使を受け父が到着した頃には、日が傾き始めていた。

  「カシワ。カヤとはどう、別れた」

  「…ワシが淵探すゆうたら、アカンゆうてとめられた。己がアユカケ探すから、ワシに郷へ伝えてくれゆうて…ワシ、カヤを沢に残した…」

  「淵を…」

  「ほうじゃ。淵はあかん言われての…」

  問われて、カシワは克明に思い出す。

  「アユカケ探すから、郷へ伝えてくれゆうた…。ワシ、カヤに…」

  声が震えた。

  「アユカケは任せた…ゆうた。ワシ、カヤにゆうてしもうた…」

  カヤは冗談も言わぬような率直な男だった。

  「父さ、ワシ…カヤに」

  「わかった。もういい」

  父はカシワから視線を外すと、ハリを呼んだ。

  「ハリ。長く潜れる者連れてきてるか?」

  「おる…おるが。潜らせるか?」

  日が傾いてますます暗くなった淵をハリが差した。

  「綱巻いて、適当な頃合いで陸から引け。アユカケはわからんが、カヤはおそらくそこだ」

  すぐに指図し、大人が動き始める。父の裾をカシワは強く握った。

  一人が綱を巻いて淵に向かう。大勢が綱を持って待った。

  中から浮かんでくる様子はない。ハリの号令と共に男衆は綱を両岸から引いた。

  「上がった…。二人だ!!二人いるぞ!!」

  潜った男は息も絶え絶えで、抱えられていたのはカヤだった。すでに血の気は無く、青白くなっていた。

  何度か人を替え同じように試みたが、淵の中に人影は見当たらない。

  日が山陰に落ち始めていた。

  「…ハリ。水増えてるな?」

  「せやな…」

  父とハリ。二人は山頂を見上げた。暗い雲がかかり山頂が陰って見えない。

  「切り上げだ…」

  「ええんか?」

  「しかたあるまいよ…。どのみちもう淵には光が届かん。潜らせたところで見えぬし…」

  ハリが男衆に切り上げを命じた。

  「父さ。アユカケどうすんじゃ。今も水におるぞ…」

  「これ以上は無理だ」

  「まだ…せめて日が落ちるまであかんか?」

  震える声で訴える。父は感情のない顔で静かに首を振った。

  「上を見てみろ。雨が落ちてる。水嵩も増え始めた。ここにいれば皆が流される。暗くなってからでは遅い」

  「アユカケは…」

  「もう…無理だ」

  父も郷の男衆に切り上げを指示した。

  「嫌じゃ、父さ。アユカケ、今頃寒い思いしとるぞ…。ワシだけ帰るなんて出来ん!!」

  「お前が去らねば、皆が帰れぬ」

  「…アユカケは父さの子じゃろ?なんぞそんな平気な顔しとる…」

  「私はアユカケの父だが…。皆の父でもある」

  「わからん…、父さ。ワシ、わからん…」

  父の細腕がカシワの背を抱いた。

  「カヤを淵に向かわせたのはお前だ。次は皆を淵に追いやるつもりか?」

  耳元で父が囁く。カシワは歯を食いしばった。

  「カヤも…尾鷲の郷に返さねばならん。早く葬ってやらねば…ならんだろう?」

  父の冷たい声が心に刺さる。

  嫌じゃ…、アユカケが…かわいそうじゃ…

  声に出てこなかった。

  兄さ…

  ごめんの

  ワシがヘマしたばっかりに

  ごめんの…

  ワシが悪いんじゃ

  だから、もう泣かんどってくれ

  鮎掛は川底から皆の姿を見ていた。

  兄の姿を見ていた。

  悲しい…。

  悲しいが、涙は流れなかった。

  代わりに大粒の雨が川面を打った―

  *

  333年 同国―

  目を開けると、暗がりに照らされた父の顔があった。

  「ツマベニよ。随分長い昼寝だな。おかげですっかり夜になってしまったよ」

  「父さ…」

  涙で父の顔がぼやけた。

  「父さ…。兄さ…ごめんの。カヤ…カヤもワシのせいで…」

  「ツマベニ?」

  「ワシはアユカケじゃ…」

  父が咄嗟にツマベニを抱いた。

  「ツマベニ…。息をゆっくり吐いて、己の手をよく見てみろ」

  ツマベニは言われて手をじっと見た。

  白い、小さな手が見えた。

  「ツマベニ。己の身体に触れてみろ」

  柔らかい腕の感触が手を伝わった。

  「ツマベニ。己の髪に触れて、見てみろ。お前の髪は何色だ?」

  さらりとした感触。生成りの生糸のような淡黄色の髪が手に触れた。

  「お前は…誰だ?」

  「ワシは…ツマベニじゃ」

  ツマベニは答えた。

  「そうだ、お前はツマベニだ」

  「父さ…」

  ツマベニの目から涙がぼろぼろと零れた。ツマベニが落ち着くまで、父はしっかりとツマベニを抱いていた。

  「不思議な事もあるものだ…。まるでその目で見たようではないか」

  ツマベニの話を聞いた父は暗がりを見つめながら呟いた。

  「じゃからぁ…夢で見たんぞ」

  正気を取り戻したツマベニはいつもの様相で言った。

  「夢とは言え…お前は幼いころのカシワの姿なぞわからぬだろう?アユカケの話も聞いたことがなかろう。それがわかるというのが不思議でならぬよ」

  「ほうじゃけど…」

  目の前の焚火がパチリと爆ぜた。

  「あれはいい子だったよ。いつも人の目を窺うような子でな。なまじ感性がいい分、見ていて憐れだと思ったこともある。…もっと探してやればよかったとも思った」

  「ワシ…いや。アユカケの兄さは謝っとった。ごめんて。カシワの兄さにもう泣かんでくれって、切ながっとったよ…」

  遠くにカジカガエルの鳴く声が聞こえた。

  「カシワの兄さは、昔は優しかったんじゃの」

  「カシワは今でも優しい」

  「ほうか?今日ワシ朝から怒鳴られたじゃ」

  頬をむくれさせる。

  「カシワがお前たちに厳しいのは、下の者らが己らの為に死ぬことを知ってるからさ。アレは優しいから、それが割り切れんのだ。だからそういう事にならない為に、己もお前達も戒める」

  「父さは割り切れるか?」

  ツマベニは聞いたが、父は答えなかった。それが答えなのだろう。

  やっぱ父さは怖ぇの…。

  父は底が知れない。たまにツマベニは思う。

  ふと、籠が目に留まった。寝てしまったために、籠の中は空である。

  「父さ、この花って…」

  ツマベニは髪に挿したイチゲソウを引き抜いた。一日経って、くったりとしている。

  「弔いだよ。あれが死んだ後な、寝所の近くにイチゲソウが咲くようになった。だからそれが咲くと、弔いに来るんだが…。今年は気づかなかった。お前のおかげで来れたよ」

  父がツマベニの頭を撫でる。

  「ワシ、明日は籠、いっぱいに摘む」

  「あぁ…そうしてやってくれ」

  ツマベニは父の膝で眠った。やはり父の膝は居心地が悪い。だがとても暖かかった。

  翌日、ツマベニは沢へ降りると、前言通り籠一杯にイチゲソウを摘んだ。兄、アユカケが死んだという淵に向かってイチゲソウを流した。軽いイチゲの花は沈みもしないで流れていく。

  「そう言えばアザミにはだいぶ長く叱られたな…」

  花を川面に浮かべながら父が呟いた。

  「何ぞ置いてきたかってか?」

  母なら言いそうである。

  「いや。ヌシが戯れに魚の名前なんぞ付けるから、山神に魅入られたんじゃってな…」

  「兄さは山神になったんじゃろか…」

  「さてな…」

  二人は流れていくイチゲの花をみつめた。

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