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誓(ウケイ)-創世歴291年 斐磨の谷 夏-

  「カズラ!赤羽用意せぇ!」

  集落に響き渡るほどの大音声。ヤマタヅはそれを繰り返し発しながら、己の穴屋(竪穴住居)に駆け込んだ。道具の中からなめし革を引き抜き、身体へ巻く。腰に短弓、石斧を提げ、手槍を引っ付かんで外へ出た。

  「タヅ兄」

  弟が山鳥の派手な尾羽が覗いた[[rb:空穂 > うつぼ]]を差し出す。ヤマタヅが先程から叫んでいた「赤羽の矢」だった。

  あどけなさの残る瞳が不安に揺らいでいる。ヤマタヅはまだ少年の弟を落ち着かせるように、頭をわさわさとまさぐった。そして空穂を受けとると、弟の後ろにいた父へ顔を向けた。

  「クルミ沢で二人殺られたらしい。ワシすぐに行くで、何人か送ってくれ」

  それだけ言うと、返事を待たず、すぐさま森へ向かって分け入った。獣道を駆ける。およそ人も通らぬ険しい山中を風のように抜けた。

  時が惜しい。

  使いなれた道を通らずクルミ沢へ向かってまっすぐ進んだのは、ただその一心である。

  近隣の部族とやりあって郷の者が殺された。一報を入れた男はすぐに戻っていった。未だ[[rb:爭 > いさか]]いの最中なのであろう。獣に襲われたなら。或いは事故であれば、死んでも諦めはつく。殺しは別だ。一族の暮らしに関わる。ヤマタヅは[[rb:急 > せ]]いた。

  沢へ近づくと、轟々と流れる水の音に混じって男達の声が届く。ヤマタヅはコナラの木にするりと登り、上から戦況を伺った。

  刺青を入れたヤマタヅの部族は四人。敵は十五、六人か。上手の高地を抑えられ、下手の沢へ追いやられている。

  「あかんわ…」

  数に圧され、地の利を失っている。敗色は色濃く、今は気で持たせているが時間の問題だろう。このまま河原に出てしまえば逃げ場もない。

  アレ、アレと…アレやな。

  気勢のいい男に目をつけ、樹上から短弓を構えた。距離は出ないが、速射に優れている。ヤマタヅが近頃、対人用に作った弓だ。

  空穂から矢を引き抜き、続けざまに三人射る。背後から射られた男は声もなく倒れた。

  敵にさっと動揺が拡がる。

  「赤羽じゃ。[[rb:斐磨 > ひま]]の山鳥がでよったぞ!!」

  男が叫ぶ。

  「かたまるな!! 散れ!」

  また、別の男が叫んだ。敵方の塊がバラバラと散る。ヤマタヅは枝から枝の上を走った。トッと枝を蹴り跳ぶと、反応の遅れた一人の上から槍を構えた。一瞬目が合う。少年のようなその瞳は、ヤマタヅの斬撃により虚無へ変わった。

  男の叫ぶ声。ヤマタヅは腰に提げた弓を構え、声のする方へ一矢放つ。声の男が茂みに倒れた。

  「…外した」

  先程の声と、別の声が何かを言い争いながら遠ざかっていく。

  もう当たらへんな…。

  微かに聞こえてくる声の位置はヤマタヅの射程を外れている。ヤマタヅは再び弓を腰の袋へ提げ足元を見た。若い男だった。首もとに深々と傷を負って、すでに絶命している。

  「鹿と[[rb:同 > おんな]]しや。逃げ遅れんのは、経験のない若いもんや…」

  これといった深い感慨もない。ヤマタヅは槍を男の首もとへ垂直に立て、力任せに押し切った。

  「ヤマタヅ…」

  ほうぼうの体をした仲間がゆっくりと寄ってきた。

  「おぉ、無事やったな。すまん、遅かったか…」

  「いや、助かった。もうダメや思ってん…」

  一人がその場にどさりとしりもちをつく。他の三人も腰を下ろした。疲れはてた四人を置いて、ヤマタヅは敵対部族の死体を探し、それぞれの首を落とした。

  遠くから「おーい」と呼ぶ声と共に部族の男が現れる。

  「もう終わったで」

  四つの首を枝に提げたヤマタヅは呆れるように言った。

  彼らは謝りながら仲間の遺体を並べ、座っていた四人も集まり遺体を囲む。ヤマタヅも加わって、遺体を確かめた。

  「あぁ…こいつか」

  眉をしかめて頭を掻く。

  一人は小柄な男だ。こう言ってはなんだが、何をするにも抜けた男だった。ろくな死にかたもできまいと思っていたが、結果がこれだ。年寄りの婆がまだ生きていて、その婆だけはずいぶんと可愛がっていた気がする。

  婆は悲しむだろうなぁ…。

  ヤマタヅは視線を横へ移す。そして嘆息した。

  豊かな黒髪を束ねた、精悍な男だ。均整のとれた骨柄で、美丈夫と言えた。腕っぷしもよく、仲間にも慕われていた。

  惜しい…。

  だが、ため息を漏らしたのにはもうひとつ理由があった。

  「こいつ、女もろたばかりやったろ」

  仲間が呟いた。

  ヤマタヅのいる斐磨族は「流れ」と「留まり」という二つの形に別れる。流れの一族は常に山を移動しながら生活をする。留まりは数年から十数年ほど同じところに滞在し生活をする。ヤマタヅは後者だ。

  斐磨族は数から十数世帯を基礎とするため、増えてくると独立し、新たな一族を立てる。流れと留まりは時に交流し、親睦を深めていた。その一つが嫁取りである。内輪だけの婚姻は血が淀むと斐磨族は嫌った。故に新しい一族に出会うと互いに女を交換した。

  男は先達、流れ者から女をもらい受けたばかりである。日は浅いものの、二人が睦み合う姿をよく見かけた。互いによい相手だったのであろう。

  気の毒やの…。

  ヤマタヅは思った。

  郷に流れ者が滞在していれば返すこともできるが、すでに発ってしまって居所は知れない。

  「ワレ、そいつの女もろたらええんちゃうか? ええ年していつまでも一人者やと、[[rb:長 > おさ]]も気が気でねやんで」

  「中々エエ女やしの。大体が、いつまでも一人で。選り好みするほどワレは上等かって話やで?」

  男がヤマタヅに言い、もう一人が同調して笑った。ヤマタヅはあからさまに手を振って顔をしかめて見せる。

  「やかましい。それに…今話すことでもねやんろ」

  まだ男の[[rb:御霊 > みたま]]もおるかもしれへんのに…。

  [[rb:斃 > たお]]れた男が虚ろな目を向けている。ヤマタヅは男の瞼を伏せてやった。

  に、してもや…。

  ヤマタヅは改めて男を眺めた。決して弱くない男が、一閃で切り捨てられている。それも縦にすっぱりだ。

  どないしたら、こんな瓜割るみたいに人が斬れんねや…。

  切り口が鮮やかすぎる。それが妙に気になった。

  「おい、そろそろ弔ってやらんと…」

  「あぁ…」

  男らが遺体を担ぐ。弔いのため河原へ向かう者、家へ知らせる者と分かれ、ヤマタヅはその場に残った。

  どうにも切り口が気になる。腕の良し悪しだけではないはずだと、勘が告げていた。

  身近に倒れていた二人は己らと、装備にそれほど違いはない。少し離れたところに倒れていた、派手な衣装を着た男の元にひざまずく。隊長と目をつけ、一番に射た男だ。

  これ…なんやろ?

  男の手には見慣れぬ形の得物が握られていた。長さは二尺強。切っ先は尖らせているが、柄までは帯状に同じ幅をしている。本体そのものは薄く、全体的に鈍く光を映している。表面も造形も滑らかで凹凸がなく、ヤマタヅが知るどんな石とも様子が違う。

  試しに持ってみると、ずいぶん重たく感じた。ヤマタヅは得物を振り上げ、男の胸を薙ぐ。肉が割れ、骨が白く覗いた。

  やっぱこれやな…。

  仲間を死に至らせた得物はこれであると確信し、指で弾く。得物は細かく身を震わせ澄んだ音を立てた。

  ええ音や…。こりゃもうけもんやで。

  聴いたこともない音色に心を躍らせ、鞘に納める。己の帯に見慣れぬ得物を差し入れると、首を提げた枝を担いでヤマタヅは南西に向かった。

  流れの者の話によると、敵方、[[rb:柔 > にこし]]族の郷はヤマタヅの集落から南西へ一山越えたところにあるらしい。ヤマタヅは斐磨の狩り場を示威するため、首を柔族の郷近くに立てようと思った。少しでも牽制になればいい。ヤマタヅは考えていた。

  この頃使い始めた毒矢に、一目でわかる山鳥の羽をつけているのも相手に視認させやすくするためだ。出来ることなら、なるべく互いの接触は避けたい。狙いは的を射ていたようで、柔族は致死毒の赤羽を見ると引くようになった。しかし、ヤマタヅは成果を感じつつも、繰り返しやってくる柔族への警戒は怠らないようにしている。

  ヤマタヅは斐磨族が狩りを行っている最西端の尾根に生首の枝を立てた。どちらの沢筋からもよく見えるだろう。

  頼むで…。

  願掛けでもするように首を見る。四つの首は柔の郷の方をぼんやりと見つめていた。

  ヤマタヅが帰ろうと、東へ足を向けた時、少し離れたところから小鳥が一斉に飛び立った。

  「なんや」

  咄嗟に身を屈め、茂みに入る。そのまま音の方へ進んだ。

  コン…コン…

  樹を叩く音。男達の唄。

  茂みから窺うと、数人の柔族が樹を伐っていた。

  「あの斧…」

  ヤマタヅは目を見張る。斧は左右対称、綺麗に形を整えられ全体的に黒光りしている。先程の柔族から男からとってきた得物と同じ材質のようであった。

  柔族は形にこだわりでもあるんやろか…。

  ヤマタヅの石斧を同じ形にしようと思ったら、かなり時間を掛けて磨かなくてはならない。用途以外の部分を整えるというのは、ヤマタヅには無駄のように思える。

  伐り出している木も斐磨族では扱わぬような大木で、ヤマタヅは違和感を感じた。

  あんなおっきいの伐ったって扱いずらいやんか。おかしな奴等やで…。

  [[rb:爭 > いさか]]い以外の柔族の姿を見たヤマタヅは、ふと彼らの事が気になった。男達から離れ、さらに西へ進んだ。林に使い込まれた小道を見つける。ヤマタヅは平行して進んだ。おそらく柔族の集落へ繋がっているだろう。

  途中人を見かけると、都度その身を隠す。蛇が獲物に這い寄るように、静かに林を行く。

  林の先が明るく開けて見えた頃、小道を離れ、尾根を上がっていった。尾根の山頂には、おあつらえ向きとばかりに、[[rb:栃 > トチ]]の古木が大きく枝を広げ佇んでいる。ヤマタヅは栃に登り眼下を見る。

  そして息を飲んだ。

  山肌一面を切り開き、[[rb:均 > なら]]した丘陵にいくつもの穴屋が建てられている。郷の回りは深い溝がぐるりと囲うように掘られていた。そしてさらにヤマタヅを驚かせたのは、櫓であった。

  栗の大木ほどの高さがある柱が立てられ、上には屋根が葺いてある。斐磨族も木の上に見張りの小屋を組むことはあるが、鳥の巣のごとき小さなものだ。とても比べ物にならない。それが、郷見守るように三つも建っていた。

  これが柔族…。

  見たこともない規模の集落を目の当たりにしたヤマタヅは、しばしその場に立ち尽くした。それはヤマタヅが初めて感じた畏れであったかもしれない。

  我にかえったヤマタヅは、斐磨の集落へ駆けていった。

  「おとん、ちぃと、ええか?」

  集落へ戻ったヤマタヅは長である父の元を訪れた。

  「苦労やったな」

  どこか[[rb:翳 > かげり]]のある表情のヤマタヅ。父は眉を寄せて中へ招き入れた。

  「これなんやけどな…」

  ヤマタヅは仔細も後回しに、柔族の得物を差し出した。

  黙って受け取った父は、得物を鞘から抜く。ひとわたり眺めると鞘に納め、ヤマタヅへ戻した。

  「[[rb:鉄 > かね]]の[[rb:剣 > つるぎ]]ゆうやつや」

  「かねのつるぎ…」

  聞きなれぬ言葉に思わず反復する。

  「だいぶ前に来た流れ者が持っとったわ。ずぅっと南のその先のクニから伝わった物らしい。よう切れるんやと、自慢しとったで。そいつのは手のひらくらいの大きさやったが、仔鹿の皮数枚と他にもなんやつけて、やっと交換したらしい」

  手元に戻った剣を眺める。柔族に斬られた仲間の姿が重なった。

  「瓜割るみたいにすっぱりやった。肩口から腹まで…。あいつら…この鉄?の斧も持っとった…」

  それからヤマタヅは己の目で見てきた柔族の集落を事細かに伝えた。

  「ワシらもそろそろ移った方がええかもしれん」

  父は[[rb:幽 > くら]]い目で静かに言った。

  年とったな…。

  二年ほど前、沢で怪我をして以来、父は足がよく利かなくなった。外に出ることも[[rb:厭 > いと]]う様になり、急に老け込んだ。往時の気勢は感じられない。

  「どこへ行く?南も西も柔族でいっぱいや。東は蛇神さんの[[rb:産加美国 > ウカミノクニ]]や。そうそう入れもせんで?北は…」

  遥か西にある[[rb:火神 > ホカミ]]岳の裾が続いている。高地は木々も少なく、当然大型の動物もいない。いくら数世帯とはいえ、住んでいくには乏しすぎる資源だ。

  「ワシらはもうここだけなんとちゃうか?」

  流れるべき先が無い。

  ヤマタヅの言葉に、父は眉間に深いシワを刻んだまま何も言わなかった。

  ∗

  翌日からヤマタヅは[[rb:斐磨 > ひま]]族の狩り場の境目に簡易な小屋をかけ、そこに居座った。男衆には溝を掘らせた。[[rb:柔 > にこし]]族のように周囲を囲うほどの規模はないが、それでも柔族の足を大まかに誘導することはできる。小屋下に導かれた柔族を、ヤマタヅは[[rb:躊躇 > ちゅうちょ]]なく射ぬいた。

  「おぉい、肉差し入れやで」

  下から声がして、ヤマタヅはひょいと顔を出した。

  「おぅ、助かるで」

  仲間も小屋に入り、目の前に干し肉と栃餅を置いた。ヤマタヅは日の落ちかけた夕方になると小屋を出て獲物を探しに出ていたが、それだけではなかなか立ち行かない。こうしてたまに仲間が持ってくる差し入れがありがたかった。

  「そんで、どんなもんやろ?」

  干し肉を吊るしながらヤマタヅは尋ねた。少しは役に立っているだろうか。仲間の事は常に気がかりである。

  「せやなぁ。全然会わんなったで」

  男は空を見ながら呟いた。

  「そらええこっちゃの」

  女子供も安心して出掛けられるだろう。

  この下を通る者もめっきり減っている気がする。この小屋から先は斐磨者の土地だと認識すれば、いずれ入ってこなくなるだろう。

  「そういや、アレ。どうした?…あいつの女」

  嫁いだばかりの女はその後どうしたであろうか。

  「今んトコはそのまま家におるで。弟に…ゆう話もあんねんけど、互いに気のりせぇへんみたいやな」

  互いに深い肉親を無くしたとあれば、そうそう次というわけにもいかないか。ぼんやりと女の姿を思う。

  「前にもゆうたやろ。ワレがもろたらええよ。[[rb:長 > おさ]]はもう年や、早く孫見せてやれ。ここんとこすっかり痩せてしもて、ありゃ長くねやんぞ」

  言われなくても、身近にいる己がよくわかっている。わかってはいるのだが…。

  ハキとした答えを出さないヤマタヅに、仲間は呆れ顔を見せる。

  「ワレ、ええ女でもおんのか」

  「いや…」

  いない。訳ではない。添えない女だった。わかっていても、他の女を前にしてもどうもその気になれないのだ。

  「それよりもな…」

  ヤマタヅは話題を変えた。

  「ちぃと今ココ任されてくれんか?」

  「なんや、クソかいな」

  仲間が意地悪く笑みを浮かべる。

  「ちゃうわ、アホ。赤羽がなくなりそうやってん、頼んでくる」

  仲間を小屋に置いて、ヤマタヅは斐磨の集落から少し沢へ下る小道を進んだ。木々の葉の香りに混ざって、強い芳香がヤマタヅの鼻をついた。日が差さぬ谷間の陰に、ヤマユリが競うように咲き誇っている。ユリ根は食用にできるが、ここらのユリには手を出さないことになっていた。持ち主がこの道の先に住んでいる。ヤマタヅが目当てにしている女だった。

  大樹の根元に隠れるように掛けられた草葺の穴屋。入口は簾が降りていた。

  軽く咳払いをして前に立つ。

  「ミズメー。ミズメおるか?」

  まじないさんと呼んでいる呪術師がいるはずなのだが返事がない。

  留守…?

  簾に手をかける。

  「タヅ坊やろ?待って…ちぃと待ったって…」

  けだるそうな声が聞こえて、ヤマタヅは手を引っ込めた。

  寝てたんやろか…。

  もともとはっきりした声ではないが、何となく甘ったるく感じる声色が、ヤマタヅをムズムズさせた。しかし…

  「タヅ坊はねやんろ。いつまで子ども扱いすんねん」

  穴屋に入ったヤマタヅはムッとした顔を向ける。ミズメは真赤の唇を大きく横に引く。上気した薄紅の頬から首筋へ汗が伝わり、胸元へぽたりと落ちた。あまり外を出歩かないらしいミズメは、集落の女と違って真白な肌をしている。その白い胸は頬と同じくほんのりと紅が差していた。かすかに潤んだ目が、まるで誘っているかのように揺れている。

  ぞわりと身震いがしてヤマタヅは目を伏せた。

  「坊やん。いっつもそうやって人の目見れへんで…」

  頭の上から柔らかな笑い声が聞こえた。

  「関係ないやん…」

  もっちりとした白い肌。濡れ羽色の髪。深い淵のような碧色の目。初めてミズメを見た日、ヤマタヅは自分が男であることを知った。それからヤマタヅの中ではミズメだけが女だった。

  まじないさんは所帯を持たない。斐磨族から子供をもらい受けて育てる。誰のものにもならず、外から斐磨族を支えるのがまじないさんであった。故にヤマタヅは一族の誰にも言わず、ずっと心の内にミズメを住まわせている。今も。恐らくこれからも。

  「ほんで、何か用があるんちゃうん?」

  「あ…せや」

  山鳥の羽が覗いた[[rb:空穂 > うつぼ]]を差し出す。受け取ったミズメはそっと矢を一本引き抜いた。[[rb:鏃 > やじり]]に仕込んだ毒の練り玉が削れて薄くなっている。

  「ちぃと減り早ない?」

  眉根を寄せながら、続けて矢を引き抜く。どの矢も使い減りしていた。

  「柔者が増えよったさかいなぁ」

  ヤマタヅは矢を一本手に取り、矢羽根を撫でた。山鳥の尾羽は柔らかく、決して矢羽根に向いている訳ではない。目立つように使っているだけの矢羽根は、擦り減って短くなっていた。

  気付くとヤマタヅを深淵の瞳が覗いている。

  「…なんや」

  「せやのうてな。使いすぎやない?」

  「いや、だから増えよったって…」

  訳が分からず首を傾げる。ミズメは大きく[[rb:頭 > かぶり]]を振った。

  「殺り過ぎやゆうてんよ?恨み、かうやろ」

  毒矢を一つずつ確かめながら、ミズメは深いため息をつく。ヤマタヅは鼻を鳴らし矢を転がした。

  「殺った、殺られたは互いさまやで。ワシらも殺されとる。大体が…」

  [[rb:住処 > すみか]]から離れたところまで来て、狩りをするのがおかしいのだ。獲物が減ったら住処を移せばいい。一族が増える前に分かれればいい。人に恵みを与えてくれる[[rb:山神 > やまつみ]]の力も、永遠のものではないのだ。いずれは衰える。衰えたらよそへ移る。斐磨の者はそうやって生きてきた。

  身不相応に山を開き、狩場を荒らす柔族が目の裏に浮かぶ。

  「あいつらが…[[rb:退 > の]]けばええんや」

  暗い声で呟く。ミズメがまた大きくひとつ、ため息をついた。

  「なぁ…タヅ坊。互いさまゆうんはな、悪い事だけやねやんで。恩やって情やって互いさまなんよ」

  「柔者に何の恩がある?何の情があんねや」

  「今は[[rb:無 > の]]うても、先は作れる」

  ひんやりとした手がヤマタヅの頬を包んだ。女に触れられている。その感触が、強い拍動を呼んだ。

  「ミズ…メ…」

  矢の事も、柔族の事も頭から消え飛ぶ。ただ目の前の女を[[rb:掻 > か]]き[[rb:抱 > いだ]]きたくなる衝動に、思わず手を伸ばした。

  「まじないさんはワレの心配しとんねやろが…」

  不意にかかった男の声が、ヤマタヅの手を止めた。

  「キ…キスゲっ!?いつからおんねん」

  二人きりだと思っていたヤマタヅは、驚きに跳び跳ねて退いた。

  「[[rb:最初 > はな]]からおったで…」

  キスゲはヤマタヅと同じ年の生まれだ。昔から小柄で細く、仲間内では何をしても一番下の男だった。女はキスゲを優しいと言うが、男から見れば頼りなさが目立った。二十も過ぎるというのに、未だに髭すらまともに生えず、少年のような顔をしている。

  「ワレが柔者と争えば争うほど、みんな危ない目に合うんとちゃうか、言うてんねん」

  キスゲはまっすぐな目でヤマタヅに問う。しかしヤマタヅの心はまだ半分女に[[rb:浸 > つ]]かっていた。己の胸の内を悟られてはいないか。動揺を打ち払うように、腕を組んでわざとらしく咳払いをした。

  「ここんとこ柔者は[[rb:来 > こ]]ななったで。恐れて寄らへんねやろ。ワシは柔者にいくら恨まれてもかまへん。みんながあんじょう暮らせればそれでええ」

  さっき仲間に聞いた事だ。うまく事は運んでいると言いたかった。

  「待っとんのやないか。仕返しの機会をの」

  「そんな…」

  言いかけた口を閉じた。

  キスゲは力が無い分、何するにも慎重だ。目端も利く。目配り、気配りで、己の足りない力を補っている。そのキスゲが危ういと言っている。ヤマタヅの心が僅かに揺れた。

  「それに…まじないさんは毒なんぞ作りたねやんぞ」

  「…え」

  そんなことは聞いたことが無かった。

  振り向くと、ミズメが静かに目を伏せ言う。

  「ウチ、人を助けんのが[[rb:務 > つとめ]]めやってん」

  気が咎めると、物悲しそうな目がこちらを向く。ヤマタヅはなだめるように笑みを作った。

  「助かっとるで。ワレの矢で何人助かったと。気にすることねやんぞ。射とるのはワシやで」

  ミズメが射ているわけではない。

  「あんたの腕だけやったら死なんかったかもしれん。せやけど、ウチの作る毒が柔者を殺しとる。せやったら、ウチが手に掛けたんも同じやろ」

  「ワシらのためや…」

  ヤマタヅは言葉を重ねたが、ミズメにかかった[[rb:靄 > もや]]は拭えなかった。

  「…せやったら、作り方教えぇよ。ワシが作るさかい」

  業を女に背負わせるのは酷だろうか。

  ヤマタヅは言う。しかしミズメはしっかりと首を振った。

  「あかん…あんたに毒は作らせへんよ」

  一度ひろげた矢を空穂にしまった。

  「…」

  三人に沈黙が流れる。近くに留まったアブラゼミの鳴き声がけたたましく入ってきた。

  「そういや…」

  ヤマタヅは足元のキスゲに目をやった。

  「ワレ、何でここにおんねん」

  「ん…あぁ、足くじいてしもてな」

  軽く足をあげる。

  「んなもん、ほっときゃなおるやろ」

  鼻で嗤う。ミズメがヤマタヅを押し退けるようにキスゲの横に座った。

  「あかんよ。そうゆうて長は歩けねなってしもたやん」

  そう言いながらキスゲの足をさすった。さっき己に触れた手が、今はキスゲに触れている。なんとも言えない気がヤマタヅを覆った。気づけばキスゲが己の顔を見ている。

  「なんやねん」

  「いや…ヤマタヅはまじないさんの事好きなん?」

  「…っ」

  ミズメがはっと顔をあげる。四つの瞳がこちらを[[rb:窺 > うかが]]った。

  「や、ミズメはまじないさんやで。女と…ちゃうやんか」

  口をついてでた嘘。ミズメはさっと顔を下ろした。再びキスゲの足をさすり始めたミズメ。その顔はヤマタヅには見えない。

  「…その、そういうんとちゃうで…」

  何がどう違うのか。何の弁解をしているのかもわからず、うわ言のように口走った。

  「ええよ、タヅ坊。うちはおかんに引き取られたときからまじないさんや。女やあらへん…」

  沈んだ声。ヤマタヅは悔やんだ。キスゲが急に朗らかな声をあげる。

  「ワシ、好きやで。まじないさん、好きや。優しゅて、一緒にいるとほわほわすんねん。何で添えへんねやろ。ワシ、まじないさんやったら、横に座ってるだけで幸せやで」

  子供のような高い声でキスゲは笑う。ミズメもそっと肩を揺らすのが見えた。

  「男と女の間は根深いさかいな。誰とも添わん方がみんなの為なんやろな」

  誰に言うとでもなく、独り言のようにミズメが呟く。

  ミズメの手がキスゲから離れた。

  「なぁ、キスゲ。もしワレが柔族やったらどないする?」

  按摩を終えたキスゲを引っ張り出してヤマタヅは聞いた。心残りがあるようにキスゲは草拭き屋根を眺めて答えない。ヤマタヅは頭をひっぱたいた。

  「…」

  キスゲはヤマタヅを悲しげに見上げ、ヤマタヅは答えを催促するように顔をしかめた。

  「まぁ…ワレのおるとこは通らんな。殺られるわかっとるし。ワシやったら、この前会うたクルミ沢の少し上やろな。柔の郷からはずいぶん離れてしまうが、[[rb:来 > こ]]れん距離や無い。それに…」

  川幅はあるが、水深の浅い平瀬が広がっている。斐磨族は川のこちら側で事足りているので、川の向こうへは渡らない。川の南側が柔の狩り場になっているとすれば、そこが容易に渡れる地形にも気づくだろう。

  「あっこか…」

  「もっと上へ行けば川幅は狭くなる。せやけど…」

  「荒瀬や」

  流れが速く、浮き石も多い。足をとられれば一気に流される。まとまった人数で狩りに来ることを思えば、やはり平瀬であろう。

  渓流を思い描いていると、男の声が山に響いた。

  「出よった。柔者や!!」

  怒鳴りながら駆けてくる男。

  「キスゲ、当たりや…」

  思わずキスゲの背を打つ。果たして男の話はキスゲの読み通りであった。だが喜べることではない。ヤマタヅはキスゲを置いてすぐさま発った。

  クソ…詰めが甘ぇわ…。なんで気づかへんねん。

  己の浅慮を恨む。奥歯がギシと音をたてた。山を行くヤマタヅが違和感を覚えたのはクルミ沢を越えた頃だ。

  静かすぎる…。

  最悪の事態が頭をよぎる。雄叫びをあげそうになったヤマタヅの足がグッと取られた。

  「っ…」

  したたかに胸を打つ。

  「ヤマタヅ、待てぇや」

  見れば茂みのあちこちに知った顔が見える。

  「…ワレら何…」

  男の手がヤマタヅの口を塞ぐ。顎を前方にしゃくった。

  白い光を反射させる川の瀬。その向こうを見たヤマタヅは息を飲んだ。

  「でっ…なんやアレ」

  人の背を越える長大な弓。川の向こうで柔族がそれを携え立っている。こちら側に数人の遺体が見えた。

  仲間が腕を水平に伸ばした。

  「こうやで」

  斐磨の弓で対岸を射るには仰角をつけねば届かない。当然威力も落ちる。仲間が伸ばした腕。それは柔族の矢がまっすぐ届くことを示していた。

  これまでに見た柔族の弓はそれほど長くはなかった。ヤマタヅが速射の短弓を作ったように、柔族は距離を優先させた長弓を新しく作ったのだ。

  「あいつら、何とかしてやりてんけど…顔出すと射ってきよんねん」

  転がる遺体に目を向けた。

  「ほんで、あいつらは…」

  対岸にいる柔族はこちらを窺っているが、川には入ってこないと仲間は言った。不可思議だ。ヤマタヅは思った。

  「ワレの赤羽、恐れとんのとちゃうか?」

  仲間が続ける。

  接近戦には持ち込みたくないと言うことだろうか。では、斐磨族がしびれを切らすまで待つということか。随分と気長ではないか。わざわざ遠くまで足を運んで我慢比べか。

  やはりヤマタヅは腑に落ちない。

  何が狙いや…。何を待っとる…。

  キスゲの読みは当たった。斐磨族に感づかれると、柔族は思っただろうか。いや、思っての、あの長弓か。そうであれば…。

  スッと頭が冴えた。

  「あいつら渡ってくる前に盾なるもん用意しとけ。木の皮でも藪でもええ」

  仲間が眉根を寄せ「あ?」と呟いた。

  「ワシは何人かつれて上へ向かう。恐らくあっちから挟むつもりや思うで」

  上は渡れん。そう思うからこその平瀬だ。裏をかいて荒瀬から来るつもりだ。

  「えぇか。ワシらは何も気づいてへん。そう奴らに思わせとき。たまに顔ぐらい見せてやり。こっちが囮に使ったれや」

  残る者に伝え、ヤマタヅは手練れを連れて上流に向かった。対岸の柔族を見るに、数でも装備でも斐磨族は劣っている。先にばれて、川向こうの仲間に伝えられると面倒だ。

  声をあげるなと言い、伏して進んだ。斐磨族は優れた狩人である。音も立てずに迫った。

  川面の少し上に縄が見えた。対岸の木からこちらの木につながれており、今まさに一人が縄伝いに渡っている。柔族はほぼ渡り終え、対岸には一人しか残っていなかった。

  「こりゃ、ええ具合や」

  ここで潰してしまえば、平瀬の柔族を気にしなくて済む。仲間の弓を借り受け、対岸の一人を狙った。

  弦音が響く。男が倒れた。

  一斉に柔族がこちらを向く。

  「おい、戻れ!!下に知らせてこい!!」

  中ほどにいた男が弾かれたように戻りはじめる。ヤマタヅが二本目の矢を放つ。

  「ヤマタヅ!!」

  同時に仲間が叫び、川中の男と仲間が倒れた。

  視界の端で柔族の弓が見えた。

  「行け、行け、行け!!」

  仲間へ怒鳴り声をかけるとともに、柔族の塊に向かって走る。仲間も続いた。

  …すまん。

  ヤマタヅをかばって仲間が[[rb:斃 > たお]]れた。悼んでいる間は無い。仲間の横をすり抜け斬り込んだ。

  足の速い仲間が目の前でのけぞる。

  血しぶきが上がった。ぱっくりと裂かれた仲間の向こうに、剣を構えた男が見えた。ヤマタヅをはるかに越える上背、隆々とした筋骨。松脂のような透き通る目がギョロりとこちらを見据えている。初めて見る男だった。

  「鉄の剣…」

  ヤマタヅは槍を棄て、石斧を構えた。

  大男が目の前で口元を歪める。

  「赤髪…ヌシが斐磨の山鳥か」

  落ち着き払った声が、かえって不気味さを感じさせる。

  「どこにおるかわからんおんびんたれ(臆病者)じゃ。今日は逃げんでええんか?」

  挑発するように男が低く笑い声を立てた。

  「逃げとらんやろが…」

  「似たようなもんじゃろ。陰からしか戦えん、くそったれじゃ」

  声と共に剣が伸びる。石斧で弾く。高い音が山間に木霊した。

  「どない硬うても石は切れへんやろ」

  ヤマタヅも負けじと笑ってみた。返事の代わりに切っ先が迫る。すんでで身をかわす。追従するように刃が追う。刃が草を薙いだ。

  あかん…速すぎるで。

  大男の剣撃は鋭く、避けるだけで精いっぱいだ。じりじりと圧され、息が切れる。

  「おい、ヤマタヅ。そっちあかんで!!」

  仲間の叫ぶ声が耳に入った。ヤマタヅは身を[[rb:翻 > ひるがえ]]す。そのまま走った。

  「逃げんのか!!」

  「やかましいわ、ダボが」

  こいつは帰したらあかん奴や。

  今まで見た、どんな男より屈強である。斐磨の者が束になっても敵わぬだろう。

  止めを…止めを刺さなあかん…。

  草を掻き分け藪へ入る。空を切る音。瞬間、身を屈める。矢が耳を掠めた。

  「ヌシぁ随分仲間殺ってくれたけぇの。そうそう逃がさんぞ」

  「どんだけ殺ったなん覚えてへんわ」

  茂みに身を埋め振り返った。

  「逃げるんはやめか、山鳥よ」

  男が大きく振りかぶる。ヤマタヅは茂みから手を放した。しなっていた枝が跳ね返り、男に向かって飛ぶ。枝を避けるように男が反り返った。ヤマタヅは後ろへ回り込み、勢いよく石斧を振り切った。

  咆哮と共に振り下ろした石斧に固い手応えが伝わった。

  「易々殺られるか、アホたれ」

  石斧の柄を掴んだ男がニヤリと笑みを浮かべる。

  「なっ…」

  っちゅう力しとんねや…

  体重をかけた斧が、男の片腕で押し返される。

  「黙って落ちいや…」

  「落ちる?」

  一瞬気が緩んだ男の腹をめがけて、爪先を蹴り込む。数歩後ずさった男の足元からバキバキと乾いた音が上がる。

  夏場は葉が繁って隠れているそこには、何を落としても音が聞こえない「底なし」と呼んでいる穴があった。

  「とっとと死ね」

  男の片腕に収まっている石斧を押しこくる。男の足元が崩れた。

  ふっと石斧が軽くなる。

  やった…。

  思った瞬間ずるりと地に引き込まれた。

  「ヌシも共じゃ」

  ヤマタヅの脚を抱え込んだ男が闇の中で笑う。

  「何笑てんねんダボが。離さんか…ぃ…」

  ヤマタヅの言葉も体も闇に呑まれていった。

  ∗

  闇の中にポツンと月が見える。

  お月さん…。昨日はもっと痩せとったのに、いきなり太りよったな…。

  ぼんやりと眺めていると、月はいびつに歪んだ。

  月や無いんか。せや…ワシ、底なしに落ちて…。

  背中にじっとりとした冷たさを感じる。

  「底、あるやん!!」

  地面を叩いて跳び上がった。

  「やかましい、男じゃの…」

  暗がりから声が聞こえた。

  「あぁ?」

  底冷えするような湿った地面に、どっしりと胡座をかいて男は座っていた。

  冷たないんかいコイツ…

  ポタリポタリと岩肌からしみでる水が地に落ち、辺りを濡らしている。地表を遠くに見る深い穴は、この夏の最中にも関わらず冷気を帯びていた。秋口のような肌寒さに加えて、体を濡らせば、体力は一気に削がれてしまう。

  鈍感なのか、物を知らないのか…。

  それよりもヤマタヅは気になった。

  「先に起きとるんなら、何で命とらんかった…」

  男はピクリと片眉をあげた。

  「ヌシに価値が無ぇ。死にかけの[[rb:盗人 > ぬすびと]]相手じゃぁ、ワシの名折れじゃ」

  「盗人?」

  怪訝にヤマタヅが声をあげると、男はヤマタヅの腰を指した。

  「ワシの弟の剣じゃ。斐磨の狩り場で首獲られて死んだ。体探しに行った時にのうなとったがの…」

  あれからずっと腰に提げていた鉄の剣が、男の声に応えるようにずしりと重い。確かに男から獲った物だが、盗人と言われると気が悪い。ヤマタヅは腰から抜いて男の膝元へ放った。

  「拾っただけや」

  「苦しい言い訳じゃの。鞘ごと腰を離れるとは思えん」

  男は座ったまま手を伸ばし、剣を拾うと腰に納める。男はその後ヤマタヅに何を問うこともなく目を閉じて鎮座した。

  おかしな奴や…。名折れ?なんやそれ。ワシなら真っ先に首掻いとるで…。

  男を無視して、ヤマタヅは先程月と見間違えた穴を見上げた。

  遠いな…。

  暗がりに慣れてきた目が、朧気に地表を映し出していく。

  足元からおおよそ七尺強ほどは滑らかな岩が続いている。その上はごつごつとした岩肌で、所々に木が生えていた。そこかしこから流れ出る湧き水は地へ落ち、ひとつの流れとなって男の脇にある穴へ吸い込まれている。子供の背ほどの穴に空気が流れ込んでいるのを見れば、いずれかに通じているであろうが、先は杳として知れない。そもそも大人の己が通り抜けできぬ穴では使いようがない。

  あっこまで手ぇが届けばなぁ…。

  横向きに生えた枝を見てため息をついた。他にも使えるものはないかと探すと、古い根か、長い蔦だかがぶら下がっていた。

  「よっ…」

  蔦の端を引き寄せ引っ張る。上の方に引っ掛かりを感じた。

  上がっていけるやろか。

  蔦を頼りに岩肌へ脚をやった。少し登る。

  これは行けるやもしれん。

  ちらりと男を見たが、男は目を閉じたまま微動だにしていない。

  のんきな奴や…。

  夜になって冷え込む前に外へ出たい。ヤマタヅはじりじりと壁を登った。二丈ほども登ったろうか。ヤマタヅは下を見た。男は相変わらず座っている。

  登り終えたら蔦切ってしまお。あいつは斐磨には厄介な男やで…。

  再び蔦の先に手を伸ばす。掴んだ瞬間、蔦がずるりと延びた。

  「…ぁ?」

  ミシミシと音をたてる蔦。

  「あかん、あかん。切れたらあかんぞ!!」

  答える由もない。崩れるように一気にほつれた蔦と共にヤマタヅは穴の底へ落ちた。

  「っぁ…」

  「やかましい男じゃ」

  もんどりうって悶えるヤマタヅに、冷たく声がかかった。

  「なんねや、ワレは。さっきからごうわくで!!」

  かっと唾を吐きながら、しゃがみこむ。頭にミズメの姿がよぎった。

  「ワシ…女も知らんで死にとうねぇの…」

  口からこぼれる。男の低い笑い声が小さく答えた。

  「ええ図体して、ヌシぁ[[rb:童貞 > こども]]か」

  「…っ子供やないわ!! ワレはど、どうやねん」

  なんの反発かヤマタヅは一人で[[rb:喚 > わめ]]く。

  「ワシは女も子供もおる」

  「へぇ…オトンやん」

  今度は年老いた父の顔がよぎった。

  集落にいる弟はまだ幼い。己がいなければ、外へ出た弟を呼ぶしかないだろう。数年前女と数人の若者を連れて出た弟がどこかにと留まったという話は聞かない。人を使って探さねばならぬだろう。

  また老け込んでまうな…。

  「なぁ、ワレの仲間は助けに来るか?」

  当てがあるのだろうか。

  「…斐磨者を挟撃するのは失敗したけぇの。こちら側に渡った者がどうしたかはわからんが、川向こうの男らは帰ったじゃろうよ」

  「ヌシはどうじゃ」

  「底なしは…底なしや。助からん思うで、来ぃへんやろな」

  男の落ち着き払った姿勢は、すでに諦めたのだとヤマタヅは思った。気づけば月のような穴は暗闇に赤い。

  「夜がくるな…」

  はたと視界を黒い影が横切った。影は右往左往と動き回りながら、天上の穴へ抜けていく。ヤマタヅは咄嗟に[[rb:上衣 > うわぎぬ]]を脱いで結ぶ。横穴に向けて構えた。

  チチッ。チチッ。

  小さく声が聞こえる。黒い塊が細かく分かれて蠢いた。ヤマタヅは素早く影に上衣をかぶせ、口を絞る。そのまま数度岩に叩きつけた。上衣の中身が動かなくなったところで、そうと開けると数匹のコウモリが息絶えている。

  「[[rb:山神 > やまつみ]]さんは、まだついとるわ…」

  細かい毛を纏ったコウモリは小鳥のように小さく、軽い。それでも何も食べないよりはマシだ。首元に短刀を差し入れ、流れる血を手に受けて飲んだ。

  「斐磨者が血を飲むっちゅうのは聞いたことあるが、ホンマじゃったの。ホンマに…斐磨者は獣じゃ」

  「獣?…血ぃは命の水やで。飲まへんなんて、柔者は変わっとるな」

  二匹目のコウモリを捌きながらヤマタヅは答える。生き物の血ほど力になるものは無いと、伝えられている。柔族はそうではないのだと、今知った。近くにいても、やはり違う一族なのだと、そう思った。

  すべての血を抜き終えたコウモリの小さな[[rb:腸 > はらわた]]を丁寧に取り出すと、手ごろな石の上に並べた。

  「頂は…あっちかな」

  穴から落ちる影の方向から、おおよそ山のある頂の方を向いた。

  「斐磨の山神さん。獲物をありがとうございます。血、肉、骨、皮に至るまで…コウモリの皮は使えへんけど…ま、ええわ。無駄にはしまへん。誓いに肝を捧げます。今日頂いた獲物が迷わず天に昇り、新しく山神さんに生まれ変われるよう導いてください」

  深々と地に頭を付けて、ヤマタヅは祈った。本来ならば近くの鳥がついばんで天に送るところだが、この地ではそれも望めない。ヤマタヅは祈りの後、腸を掬って口に放り込んだ。

  「無駄にしたらあかんさかいなぁ…」

  疲れた体に血が染み渡るのを感じた。と、同時に男の視線も感じる。

  「なんや、やらへんぞ。欲しけりゃ自分で獲れ」

  「いるか」

  男は小さく答えてまた目を閉じた。

  半日ほど一緒にいるがよくわからない男だった。

  昼間ヤマタヅと一緒に落ちてきた蔦の一部を切って、細く裂いた。ぶら下がっていた蔦は穴の底に落ちている枝と違って乾いている。裂いた枝の上に、火打石と一緒に持っている細かい枯草を載せる。石を打つと枯草に火が移り、小さな火種となった。枝に刺した蝙蝠の細かい体毛もよく燃えた。チリチリと表面を燃え広がる火が、冷えた体を暖めるように感じた。

  コウモリは同じ洞穴内に戻ってくる。朝方待てばまた獲れるだろうと、獲れたコウモリは全て腹に収めた。

  火が落ちると辺りは真っ暗になる。遠くから虫の鳴く音が聞こえた。

  随分と疲れた。身体が濡れぬよう、ヤマタヅは立ったまま目を閉じた。

  「タヅ坊。あんたホンマは優しい子やん。キスゲの事やって、誰より気にかけとるのに、何でキスゲにわかるよう言うてやらへんの」

  百合根を掘りながら、ミズメが言った。

  「キスゲは目端が利くさかい、一緒に狩りすると楽や言うてやれば、キスゲやって自信つくとちゃうん?」

  ミズメは続ける。

  「それだけやったら、キスゲは男として立ち行かんやろ。自分で獲れるようにならへんと…」

  結局は獲物が獲れるかどうかだと、ヤマタヅは思う。

  「それはほら、助け合いやんか。なんでも、互いさまやで…」

  困ったように眉根を寄せる。その顔がまたヤマタヅには美しく映った。

  「恩も情も互いさまやで…」

  凛とした声がヤマタヅの頭に響く。目を開けると、白い穴が見えた。

  せや、ワシ底なしにおんねや…。

  聞き覚えのある小さな声と共に影が横切った。

  「飯!! よう帰ってきたな」

  朦朧とする意識から突然目覚め、ヤマタヅは昨夜のようにコウモリを捕まえた。バタバタとするヤマタヅの横で、男はやはり胡座をかいて目をつぶっている。

  コイツ何やねんな。

  もはや生きる気も失っているのだろうか…。

  よく見れば、男は肩で息をし、大粒の脂汗をかいていた。

  コイツそういや昨日から水も飲んでへんな…。

  「恩も情も互いさま」

  耳元でミズメが囁いた。

  ヤマタヅはコウモリの胸を割く。男の口をこじ開け血を垂らした。

  「命とらんかった礼ぐらいはしとくで…」

  垂らした血をこぼさぬよう、顎を抑え上に傾けた。喉がゴクリと音を鳴らし上下する。それから捕まえたコウモリの血を全て男に流し込んだ。

  「ワレ、死にてんか?」

  薄目を開けた男に問うた。

  「いや」

  枯れたような声を男はあげた。

  「せやったら、少しは動けぇや。何もせんと座りこきよって…」

  「足がの…動かんのじゃ」

  胡座をかいた足をずらすと、少し腫れた片足がのぞいた。男は動かないのではなく、動けなかったのだ。

  「は…しょうもねぇ」

  「ヌシが上に落ちて来よったでの」

  「あ…ワシ?」

  舌打ちする。そして、ミズメがキスゲにしたように、男の足をゆっくり動かした。何度か男は呻いたが、構わず続けた。

  「ワレの為やないで。借り作りたねやん。それだけやさかいな」

  「ほうかよ」

  苦笑を浮かべた男は、何となく昔の父に似ている気がした。

  なんでコイツがおとんと重なんねや…。

  思ったが、いつもの調子で言葉が流れ出る。

  「残してきた子供も心配やろ」

  「ほうじゃの…。じゃが、ヤマブキの方が…」

  「ヤマブキ?」

  「末の妹じゃ。片足がいかん女での。気丈な女じゃ。男に遣ろうとしても、足でまといじゃ思うんじゃろな。首を縦に振らん。ワシもいい加減な男に任せるつもりもねぇんじゃが、なかなか上手くいかんもんじゃ」

  ヤマタヅの調子に誘われたか、男もポツリポツリと口を開く。焼いたコウモリを差し出すと、今日は素直に口をつけた。

  「柔の男も大した事ねぇって事やんな。安心して任せられへんゆう事やろ」

  せせら笑いながら、骨を噛み砕く。そうかもの。男は頼りなさげに呟いた。

  「ワシは帰るで。オトンも年やし、弟もまだ幼い。心配やからの」

  「女が抱きたいの間違いじゃねえんか?」

  「っやかましいわ」

  串を投げつけた。

  「考えがあるか?」

  「まぁの」

  蔦を差し出した。

  「これで縄をなう。ほんでな、石括ってああいうちょっと出た枝に掛けんねや。一気に上までは行かれんけど、少しづつ行けると思うねんで」

  男は上を見上げる。最初の枝が随分高い。

  「掛かるか?」

  「ワシは石打ちも上手えんやで。けど、最初の一投はワレ次第やな」

  男の足を指す。

  「ワレが担いでくれよったら、届くと思う」

  男はしばらく黙っていたが、やがて首を縦に振った。

  「ええじゃろ。ワシがヌシを担いでやる」

  それから二人は数日縄をなった。ヤマタヅが石斧の元で蔦を崩し、男が縄をなう。ヤマタヅは暇を見ては男の足を按摩してやった。飯はコウモリで繋いだ。初めは血を[[rb:躊躇 > ためら]]った男も、次第に何も言わず血を飲んだ。ヤマタヅがする山神への祈りも一緒に祈った。

  縄が完成する頃、男の足は治っていた。

  「やるか」

  「おう」

  男の肩に足を掛け、二人は立ち上がった。六尺ほどもある男の肩は中々の高さだ。ヤマタヅは器用に男の上で身を屈め、スっと石を放り上げた。縄のついた石は木の根元に掛かり、クルクルと巻いた。

  「先、行くで」

  「あぁ。縄、切ってくれるなよ」

  冗談交じりに男が言う。

  「誰に言うとんねん」

  笑って答えた。

  木の根元まで上がると、男を呼んだ。男が登った所で次の木に掛ける。一歩ずつ着実に地表へ向かった。穴が次第に大きくなる。

  「そろそろ縄なしでもええんじゃねぇか?」

  地表の茂みが見えて男は言った。

  「ダメや。茂みは滑りよるし、縁は崩れやすいねん。もう一本。木に掛ける。あの木を伝って降りようや」

  最後と目した木に縄を掛けて、二人は地表に降りた。ヤマタヅは思わず男の肩を抱いた。

  「戻ったで。底なしから戻った!!」

  「そりゃええが、ヌシぁ臭ぇぞ。離れろボケ」

  「互いさまやろ、ダボが」

  二人は転がるように川へ走った。

  「あー気持ちええわ」

  「水、ありがてぇの」

  頭から水を浴びた。日を浴びて温まった水が気持ちいい。

  ヤマタヅの前をヤマメが横切る。抱え込むように捕まえた。

  「ワシはやっぱり山神さんに好かれとるわ!!」

  「ほうじゃの」

  川辺に上がり、ヤマメの腹を割いた。男の用意した平たい石に、[[rb:腸 > はらわた]]を並べる。

  「斐磨の山神さん。獲物をありがとうございます。ワシら血肉、骨に至るまで無駄にしまへん。誓いに腸を捧げます。今日取れた獲物が新たな山神さんになれるよう、導いたって下さい」

  二人は今ハッキリと目の前に見える山の頂きに深々と頭を垂れ祈った。

  祈りが終わって少し離れると、どこからともなく集まったカラスが、ヤマメの腸をついばんで行った。

  「焼いて食べるか」

  腸が天に送られるのを見届けた二人は、火起こしの材料探しのため川原を歩いた。

  林の境に矢が刺さっていた。矢柄が長い。

  コレ、あの長弓の矢や…

  目をこらせば、あちこちに矢が残っている。やがて血糊の跡が見えた。川魚とはまるで大きさが違う。

  それは、斐磨族が人を弔った跡だとヤマタヅには分かった。男にもわかったのであろう。二人は黙ったままヤマメの所へ戻った。

  木のはぜる音。川のせせらぎ。蝉の声。目を閉じていると、己はいないのではないかと、そう思えた。

  「焼けとるぞ」

  男の声に目を開けると、ヤマメがいい具合に焼けていた。岩に乗せ、半分に割る。二人は黙々と魚を頬張った。久しぶりの食事らしい食事なのに、味気なく感じる。

  生死を分かち合い、喜びを分かち合い、今一つの命を分かち合っているその相手は、一族の脅威となる男なのだ。

  あの時確かに殺さなけばと思った男だ。

  今は…どうであろうか。

  「なぁ、山鳥よ…」

  男が口を開いた。

  「ワシは山鳥やない。ヤマタヅいうんや」

  ヤマタヅが男に言う。男は目を丸くし、そして微笑んだ。

  「ワシはサイカチじゃ。名前も聞いとらんかったの…。のお、ヤマタヅ」

  サイカチは再び囁くように口を開く。

  「ワシらで郷の先を変えてみんか…」

  「郷の先?」

  「ほうじゃ。ワシは斐磨族っちゅうんは獲物の生き血を吸う、仲間の遺体は鳥に食わす、言葉も通じん獣じゃと思っとった。数日じゃが、ヌシらの姿が少し見えるようになった気がする」

  サイカチの言わんとしている事が、己の奥にも漂っている。しかしそれを表に出すには、躊躇うものがある。

  「ワシは…殺りすぎたやろ。二つを結ぶんはコレが必要とちゃうか?」

  親指を立て、その指で己の首を掻いた。

  「せやけどな。ワシは死ぬ訳にいかんねや。ワシが…斐磨の者をまとめなあかん」

  サイカチは鷹揚と頷く。

  「ほうじゃ。ヌシにゃ生きてもらわねばならん。なんせ、ワシが知っとる斐磨者はヌシだけじゃからの。ヌシ以外に誰を頼る」

  「せやけど。ワレの弟も…ワシが殺ったんやろ」

  「ほうじゃ。ほんで、そこでヌシの仲間を殺ったのもワシじゃ」

  そうだ。己の盾になって、一人は矢で、一人は剣で殺された。殺ったのはサイカチだ。仲間の死に顔が頭に浮かぶ。その仲間を置いて、目の前の敵と結ぶのか。

  敵か。

  松脂のような透き通った目。つり上がった凛々しい眉。まっすぐ通る鼻柱。鷲を思わせる精悍な顔立ち。改めて見るサイカチの顔は猜疑さの欠片も感じさせないものだった。

  「どうせ狩るなら鹿がええと思わんか。人を狩れば、仲間にゃおだてられるが、それで腹が満ちるわけでもねぇ」

  「せやけど…成ると思うか?」

  「為すんじゃろ。ヌシが穴を這い上がったようにの。先は作れるんじゃろ?」

  「…」

  サイカチが不思議そうに首をかしげた。

  「恩も情も互いさま。今は無うても、先は作れる。穴に落ちた日、ヌシが寝言に言うとったぞ」

  ミズメだ。ミズメの言葉が、己の口を通して柔族の男に通じている。その不思議さをヤマタヅは思わずにいられなかった。

  「…あぁ。せやな」

  サイカチは広く版図を拡げる柔族の全域を説くと約束した。ヤマタヅは留まり、流れの斐磨族を説くと約束し、二人は別れた。

  ∗

  ツクツクボウシが鳴く林を抜け、ヤマタヅはミズメの穴屋へ走った。

  ミズメの言葉がヤマタヅを、サイカチを生かした。そう思った。ミズメはまじないさんだ。何かの術を使って、夢に降りたのかもしれない…。今、ミズメは己を待っているのではないか。そんな気さえした。

  ミズメの穴屋は相変わらず、簾が降りている。すぐにでも会いたい。[[rb:逸 > はや]]る気を抑え、簾を押した。隙間に人影が見える。小柄な男。下に白い肌の女。二人は一糸纏わぬ裸体で、さながら蛇のように絡み合っていた。小さな嬌声。ちらりとかいま見えたそれは、ヤマタヅが見たことの無い、女の顔をしたミズメだった。

  音を立てぬよう、そっと穴屋から離れる。目の端から穴屋が消えたところで、はたと立ち止まり天を仰いだ。

  「アホくさっ…」

  両の手で顔を挟む。パンっと乾いた音が響いた。

  「夢に見たんはワシが見たかっただけやん。ミズメが…そうしとると、ワシが思いたかっただけや……」

  深い溜め息をついた。もう一度パチリと額を叩く。ヤマタヅは集落へ足を向けた。

  「タヅ兄ー!!」

  姿を見て駆けてきたのは末の弟だった。

  「カズラ」

  よっと抱えあげる。小さな目に涙が溢れて、ヤマタヅの顔に落ちてきた。

  「泣くな、泣くな。男やろ」

  「せやって…みんな兄が死んだ言うから…。嬉しやん」

  カズラの声を聞いて家々から皆が出てきた。

  「ホンマのヤマタヅか」

  「偽物のワシとかおるんかい」

  ヤマタヅの軽口につられて、周りに笑みがこぼれる。

  「タヅ兄…」

  懐かしい顔があった。数年前に流れとなった弟だ。

  「よぉ見っかったな」

  他人事のような言いぶりに弟は頭を振った。

  「おとんが方々に人放ったさかいな。みんなたいそうやったと思うで…」

  「アホたれ…」

  父が顔を出した。

  「すまんかった…」

  顔を引き締めたヤマタヅは、広間に皆を集めた。サイカチとの約束を伝えるためだ。

  先の話に望みを膨らませる者。過去を見返り懐疑的な者。反応は様々だった。

  「この子のおとんはあいつらに殺されたんや。うちはどんな顔してそいつらと会うたらええんや」

  腹を押さえ、女が一番に叫んだ。あの、女だった。まるで柔族を見るような目で、ヤマタヅをにらんでいる。

  「子が…」

  出来てたんやな。

  ヤマタヅはなだめるような穏やかな声で女に言う。

  「それなら、なおさら子の為にと思うてはくれんか。いつ襲われるかわからん森に送り出すより、安心できるやろ」

  「ワレ騙されてんのとちゃうか?案外ヤマタヅは人がえぇさかいな」

  「そうや、そもそもこの前やってあいつらから仕掛けてきたやないか」

  次々と溢れ出す不満の声をヤマタヅは一つずつ聞き、答えていく。邨がまとまったあと、流れの弟に外へ話を伝えてもらった。

  ヤマタヅはそれから日に何度となく、邨の周りを回った。時折林で柔族を見かけたが、お互いに見て見ぬふりをした。サイカチの抑えが利いている。そう思ったが、サイカチからの報せはない。ただじっくりと、ヤマタヅは待った。

  山間の空にアキアカネが飛び始めた頃、林を見回っていたヤマタヅが急に呼ばれた。急いで帰れば集落の広場で男達が何かを取り巻いて叫んでいる。

  「なにしてんねや」

  一喝すると、男達の輪が開く。小さい男がいっそう小さく身を屈めているのが見える。袋叩きにあったか、体は土にまみれ、アザがいくつも出来ていた。

  「コイツ子供みたいなナリしてまじないさん、たらしこんでんねん」

  「なんもかも半人前のくせして、女だけは一人前や」

  男が言い、足でキスゲを転がした。

  「やめぇや…」

  男をどける。キスゲのもとにしゃがみこんだ。ぐっと顔をあげたキスゲの頬は涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになっている。

  「なんで、あかんねや…。なんでまじないさんは男と添えへんねん…。ずっと一人やなんて、かわいそうやん。みんなの事想っとるのに、邨にも近寄れへん。いっつも一人や。ワシらは都合のええときだけ、まじないさん頼って、あとは放っとる。居ないみたいにの。…まじないさんやって、人や。さみしい思うで」

  「それが昔からの決まりやって…」

  「誰が決めた。ヤマタヅ。何で守らなあかんねん」

  何で…何でやろ。

  ヤマタヅが知りたいくらいだった。

  「理由は…わからへんけど。昔から…そうやし。決まりゆうんは作っておかねば、皆まとまらへんやないか」

  「わからん…わからへん…」

  駄々をこねる子供のようにキスゲはしゃくりあげた。男達がキスゲをなじるのを制して、ヤマタヅはキスゲの肩に手を置いた。

  「ワレは昔からの一人じゃ何も出来ん半人前や。ワシらがワレを助けてんのは仲間やからやで。そのワレが皆の決まり守れんゆうやったら、ワレはもう仲間やあらへん。どことなりでも出てったらええよ。その代わりワシらはワレの面倒は一切みん。山で行き倒れて死んでもや。このまま邨で生きるか、外で一人死ぬか。よう考えたらええよ」

  男達を散らして、ヤマタヅは己の穴屋に戻った。

  息をつくと、黒石と砥石を置く。無心に黒石を研いだ。

  人も寝静まった夜半、ヤマタヅの穴屋を訪れる者があった。

  「男の夜這いは嬉しくねやんで…」

  影に背を向けながら呟くと、影は小さく笑った。

  「誰もワレを襲ったりせえへん…」

  ヤマタヅは寝たまま、後ろに黒石を放った。

  「出ていくんやろ?ワレにやる。ワシができるのはそこまでや」

  影は鼻をすする。

  「泣くな。男やろ」

  突っぱねるように言うと、影はくぐもった声をあげた。

  「ワシ、前にまじないさんが好きか聞いたやん?そん時な、ワレが違う言うて、ほんまホッとしたねん…。せやんか。だってワレ相手じゃワシ、なに一つ勝てへんもん…」

  「せやな」

  ふんと鼻をならした。

  「とっとといってまえ、アホ…」

  「あ、言伝てあんねん」

  ヤマタヅは思わず舌打ちした。別れというのはさっぱりしたもんがいい。だらだらとしゃべるキスゲが少し鬱陶しい。

  「まだあんのかいな」

  とうとう起き上がってキスゲを見る。キスゲは幼い頃から変わらぬ、頼りない笑顔で肩をすくめた。

  「ミズメがの…ヤマタヅはホンマ優しいねんから、ええ格好しとらんで、全部相手に見せたらええよって」

  「なんやそれ…」

  とっとと行け。キスゲを羽虫のように手で払う。

  ありがとうと、小さく言ったキスゲは月夜の闇に消えていった。

  暗くなった穴屋に横たわる。

  「何が勝てへんや…。ワシはミズメに何一つ出来んかった男や。ホンマしょうもねぇ奴やで…」

  決まりもしがらみもなく女のもとへ走ったキスゲが羨ましかった。

  草の茂みから秋虫の音が響く頃、斐磨の狩り場に待ち焦がれた顔がようやく覗いた。

  「おい、サイカチ!!」

  声をあげると、サイカチも大きく手を振り返した。

  見れば随分と勇壮な装いだ。他族でもそれがわかる出で立ちに、ヤマタヅは大いに期待した。

  「柔の長エニスの子、サイカチじゃ。斐磨の長に改まって話がしたい」

  ヤマタヅの前に立ったサイカチは深々と頭を下げ、供の者もそれに従って頭を下げた。

  「斐磨の長は年で臥せっとる。今はワシ、ヤマタヅが代わりや」

  「あ…ヌシがか」

  「なんや文句…」

  悪態をつきかけたヤマタヅを大きな腕が抱いた。

  「そら、話が早くてええの!!」

  かかと笑い声を立てる。

  ヤマタヅはサイカチを邨へ導いた。入り口から大声で吹聴したものだから次々と人が集まった。

  父の穴屋に招き入れると、父はしゃんと座して待っていた。眼光も平時の老人ではなく、長の気概が溢れている。

  やっぱおとんやで…。

  往時の長の姿を目の当たりにして、ヤマタヅの目頭は熱くなった。

  臥せていると聞いていたサイカチは内心首をかしげたが、表に出さずその前に伏した。

  サイカチは最大の礼を払いながら、斐磨の長と取り決めを成した。それはヤマタヅと以前取り決めた約束と変わりなく、双方は条件を飲んだ。

  「もし…ワレらが守らなんだらどないするつもりや」

  年長の斐磨の長は、サイカチに怯む様子もなく尋ねる。

  「これからやってこいう時に無粋やないか」

  ヤマタヅは横槍を入れたが、父は頑なだ。

  サイカチは小さく頷くと、腰に佩いた剣を前に置いた。

  「これを、斐磨の若き長に預ける。もし柔族が違えたらこれでワシを討て」

  以前見た鉄の剣とは違う。一回りも大きく、装飾もきらびやかだ。

  ヤマタヅは慌てて己の穴屋に戻る。しまいこんでいた短弓と赤羽を出してきた。

  「斐磨族が違えたら、これでワシを射てくれ…」

  そうは言ったが、柔族の剣に比べると随分と見劣りした。

  「すまん…こんなもんしか持ってねやんで」

  「赤羽の毒はよう知っとる。脅かされたわ」

  サイカチがそっと矢羽根を撫でた。

  「これをもって誓とする」

  厳かに父が言う。サイカチとヤマタヅは剣と弓を交換した。

  ∗

  柔族は、誓にもうひとつ色を添えてくれた。

  女である。

  独り身であるヤマタヅに柔族の女を充てると言った。想い人を失ったヤマタヅに断る理由はもう無い。強いて言えば…

  「ワシ、女を幸せに出来んねやろか」

  まだ見ぬ女を夢想しながら秋空を眺めた。

  話が出てから仲間内にそれとなく勧められた女を抱きもしたが、連れ合うと言うのはそういうことではないような気がした。

  すすきが揺れる原に、華やかな駕篭を下げた一団が見える。

  あ、来よった…。

  柔族は夜中にひっそりと女を迎える慣習があるらしいが、斐磨族は邨をあげ皆で迎える。これは譲れぬと、昼間連れてきてもらうことにした。

  「女を駕篭に入れるなんて、柔族は変わっとんなぁ」

  斐磨族以外の女が入るのは初めてだ。話を聞き付けた流れの斐磨族も加わって、人が膨れ上がっている。

  着飾って待ったヤマタヅは大勢に見守られて落ち着かない。

  一団がだんだん大きくなり目の前で止まった。

  駕篭からすっと足が出る。続いて杖が出る。ゆっくりと姿を表したのは五尺ほどの小さな娘だった。[[rb:薄衣 > うすぎぬ]]で覆って顔は見えないが、少女のような瑞々しさを感じた。

  「柔族はワシらに足のいかん女を寄越しよったんか…」

  誰かが声をあげる。女の動きがびくりと止まった。ざわざわと空気がよどむ。

  そのなかでヤマタヅはサイカチの言葉を思い出した。

  「ヤマブキ…ヤマブキやな。サイカチの妹…」

  女は薄衣の下でこくりと頷いた。

  ヤマタヅは大きく、高らかに笑い声をあげた。

  「柔の長はワシを見込んでくれたらしいわ。誰にもやれん大事な[[rb:女 > むすめ]]を、ワシにくれるらしいで!!」

  ヤマタヅはおもむろに薄衣を剥ぐ。女が小さく声をあげて顔を隠した。

  「ワレ、なにしてんねや」

  「家に入れてからにせえよ」

  「怯えとるやないか」

  あっけにとられた皆は、口々にヤマタヅを諌める。ヤマタヅはかまへんやろと笑いとばした。

  「顔見てもエエか?」

  囁くとヤマブキはゆるゆると手をおろす。サイカチと同じ、松脂色の目と、つり上がった眉が目に入った。

  「兄に似とるな。ええ目や。兄が鷲なら、ワレは鷹やな」

  誉めたつもりだったが、ヤマブキは足元に目を落とした。

  「ワシは見ての通りの女じゃ。飛ぶことはおろか、まともに歩くことも出来ん…」

  「別に、かまへんで。ワシ、力はあるさかい」

  小さなヤマブキを肩へ担ぎ上げた。

  「目はええか、ヤマブキ」

  ヤマブキはまたこくりと頷いた。控えめな女らしい。

  「ワレの兄が約束してくれたお陰でな、見えるとこどこでも行けんねや。ワレが行きたい言えば、ワシ、どこでも連れてったる。な、任しとき」

  ヤマブキを下ろし胸に抱いた。

  「それよりもな…ワシ、女の扱いわからへんで…その。捨てんでほしいねん。な?」

  念を押すように拝む。

  ヤマブキは初めて笑みをこぼした。

  女を迎える男が情けないと、皆が笑った。

  その翌年、ヤマブキはヤマタヅによく似た赤髪の男児を産みハリと名付けた。

  その後も二人は何人かの子をもうけたが、育ったのは一子のハリだけであった。二人の唯一の子が斐磨族の命運を背負うことになるが、それはもう少し先の話。

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