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「風呂、上がったぞ」
「んー」
入寮二日目の夜。食堂で夕飯を食べた後、部屋のベッドに寝転げながらスマホを眺めていると、不意に俺の部屋をノックする音が聞こえる。
その音の主は、俺のルームメイトの猫獣人、山南晴。昨日初めて会った時はなんだか不機嫌そうな顔をしてたから、仲良くできるか不安だったけど。今思えば、ただ緊張してただけなのかなって。
晴がお風呂から上がったという報告に我ながら気の抜けた返事をすると、俺はスマホをベッドに抛り投げて寝間着を用意する。
中学で使ってた上下のジャージに、新生活に向けて適当に見繕った肌着とボクサーパンツ。それだけ持って、俺は脱衣所へと向かった。
脱衣所に入るなり、制服の学ランを脱いでベルトを外し、次にズボンを脱ぐ。この二着は明日も着るから水に濡れないところに置いて、他は脱いだら洗濯籠に。毎日しなきゃいけないほど洗濯物は出ないから、洗濯は適宜代わりばんこでするって、晴と決めた。
「よっ……と」
最後に靴下を脱いで素っ裸になれば、浴室の扉を開く。晴が上がったばかりというのもあって、浴室の中は湯気が充満していた。
寮の部屋の浴室は、シャワーと小さなバスタブが備えられた簡素なもの。行こうと思えば寮に大浴場もあるらしいけど、俺と晴はシャワーだけで十分だからここで済ませている。
蛇口を捻れば、温い水が俺に降りかかってきた。そしたらシャワーの温度を調整した後、全身を濡らしてシャンプー……って流れが、いつも通りなんだけど。
……今日の俺は、ちょっとした邪な好奇心に駆られてしまった。
俺の好奇の矛先は、足元に二つ並んだシャンプーボトル。片方は清涼感のある見慣れたパッケージのやつで、もう片方はCMで見たような一般的な石鹸シャンプー。つまり、俺のと晴ので二つ、ってこと。
俺はそのうちの、馴染みのない方のシャンプーをほんのちょっとだけ、手に出して泡立てる。良くないって分かってるけど……一度気になってしまったのだから、どうしようもない。
「……」
すると俺の鼻先に漂ってくる、晴と同じ匂い。今日、俺の部屋で横に並んだ時に感じた晴の匂いの、その一部分。嗅いでいるとなんだか落ち着くような、嬉しくなるような……そんな、ほんのり甘い匂い。
もちろん、これだけが晴の匂いって訳じゃないけど。汗とか服の匂いに紛れても、この匂いは晴の体からしっかり認められていた。俺、結構鼻が利く方みたいだし。
俺は本来の目的も忘れて、手元から香る匂いを嗅ぐのに感けてしまっていた。すると、不意に太ももに冷たさを感じる。
「冷てっ」
どうやら俺が夢中になっている間に、お湯の勢いが弱まってしまったらしい。幸か不幸か、それで俺の頭もなんだか冷静になってしまって。
「……なーにやってんだ、俺」
自嘲気味にそう呟いて、俺は今度こそ自分のシャンプーを手に掬う。自分の犯した変態じみた所業を顧みてこそばゆい気持ちになりながら、俺はそそくさと身体を洗った。
*
「あー、さっぱりした」
お風呂を上がってしっかりと体を乾かしたら、リビングへと向かう。ソファに座ってる晴を見ると、さっき自分の犯した愚行が頭を過ってしまって。俺はばつが悪いのを誤魔化すようにわざとらしくそう呟きながら、晴の隣に座った。
「やけに長かったな。シャワーだけのくせに」
「えっ、いや、まあ……はは」
思いがけず痛いところを突かれて、露骨に狼狽えてしまう。てか、そんなに長いこと嗅いでたのか、俺。
「……共用の風呂場なんだから、変なことするなよ」
「へっ」
「お前まさか……したのか」
「……いや、してない! してないから!」
『変なこと』という言葉にどきりとして、妙な反応をしてしまった。変なことはしたけど、していない。晴の想像してるようなことはしてないから、セーフだ。いやアウトかもしれないけど。
「はは、冗談だって」
「……もー」
恥ずかしいやら後ろめたいやらで、悶々とした気分になる。揶揄われるのってこんな気分なのか、ちょっと反省。
会話も止んで、のんびりとした時間が流れる。そこで一つ、俺は気づきたくないことに気がついてしまった。
少しのスペースを空けて、俺の隣に座る晴。晴はお風呂上がりだから当然、汗の匂いなんかしなくて。そして、その代わりに色濃く香ってくるのは。
「……」
再び頭を過る先程の愚行。さっきの応酬の気恥ずかしさで一時は忘れてたけど、どうやら俺の頭から簡単には離れてくれないらしい。こんな気持ちになるならあんなことしなけりゃよかったって、今更後悔。
「俺、自分の部屋行く……」
「んー」
そう言って俺は立ち上がる。晴はスマホの画面に気を引かれているようで、さして俺のことは気に留めていないみたいだった。
リビングから向かって左側の扉を開き、俺の部屋へと入る。入るなりベッドに倒れ込めば、特に匂いのない空間に移動できたことに少し安堵する。多分、感じないだけで俺の匂いがしてるんだろうけど。
「はあ……」
俺にしては珍しく、深いため息を吐く。別に落ち込んでるとかそういう訳じゃないけど、今日一日だけであまりに色んなことがあったから。振り返ってみると、どっと疲れが押し寄せてくる。
晴のお母さんが来たり、入学式があったり。先生から例の『言の葉』について説明されたのも、今朝方のことで。それに――。
――俺の言の葉が言ってるんだ。『俺ならお前……心を助けられる』って。
つい数時間前、晴に言われた言葉を思い出す。晴にそう言われてから随分気楽になって忘れてたけど……俺、今朝はめちゃくちゃ凹んでたな、そういえば。
「……へへ」
今日の晴とのやり取りを思い出して、思わず顔が綻ぶ。初対面の時の相手の反応が微妙だった故に、今こうして『友達』らしくいられているのが、すごく嬉しい。
晴がいなければ、俺はきっと今も……今朝の夢のことを引きずって、落ち込んだままだったかもしれない。
……俺の『言の葉』を告げる夢と、それに続いた悪夢。暫くは、思い出さないように努めてたけど。今ならきっと、凹まずに振り返れる気がする。
思考を巡らせ、思い返すのは今朝方の夢。とても不思議な夢と酷く悲しい夢を、俺は見ていた。
*
「どこだ、ここ……」
そうだ、最初に見た夢は謎の書斎に居るところから始まって。そしたら急に、後ろから知らない声に呼びかけられたんだ。
「椙山心くん、だね。……おっと」
振り返ろうとしたんだけど、首が思うように動かない。俗に言う金縛りみたいな、そんな奇妙な感覚に襲われた。
「ごめんね。顔見られるとちょっと不味くてさ」
「……」
後ろの何者かは、怪しさ満点の台詞を優しい口調で言ってのける。普通は警戒するべきなんだろうけど、不思議と悪い心地はしなかった。
「……俺に、何か用ですか」
「そう! 物分かりが良くて助かるよ。でも、その前にちょっと世間話」
後ろの人物は、あくまでも軽快な語り口でそう言う。世間話って言っても、俺はあんたのこと全然知らないんだけどな。
「君のルームメイトの晴くん。仲良くやっていけそう?」
「……! もしかして、晴の知り合い、ですか」
「ちょっと違うけど……まあ、そう考えてもいいよ」
なんなんだ、この人。さっきから発言が要領を得ないというか、いまいち話が入ってこない。
「晴は、一緒にいて楽しいですよ。距離感が丁度いいし、反応が面白いっていうか」
実際、晴の俺への距離感は俺にとってかなり心地よかった。俺みたいに胸の内に大きな『秘密』を抱えていると、個人的なことに踏み込んでくる相手は苦手だし。
そうやって晴のことを思い浮かべていると、後ろの相手の口から耳を疑いたくなる発言が飛び出す。
「……そっか。君の好きだった『彼』も、同じ猫獣人だったしね」
一瞬、理解するのに時間がかかった。俺の好きだった猫獣人って……そう聞こえたけど。
その言葉が示す人物が、俺の頭の中で像を結ぶ。中学校で知り合った、一人の猫獣人の男の子。そんな彼のことを思い出した、その瞬間――。
「あんた、どうしてそれを……ッ!」
――俺の中で後ろの何者かに向けられる感情が、一気にどす黒く濁っていった。面と向かって怒鳴りつけようにも、未だ俺の首はぴくりとも動かない。
思い出さないように閉じ込めていた、昔の記憶。最悪の結末を迎えた、俺の初めての恋。それ以来俺がずっと抱えてきた、俺にとってあまりに大きな『秘密』。
その総てを、後ろの何者かは知っている。あまつさえ、それを俺に伝えるなんて。
「……ごめんね。君が怒るのは当然だ。でも、決して君を怒らせるのが目的じゃないって、それだけは信じてほしい」
犬歯を剝き出しにしたまま精一杯相手を睨みつけようとする俺を他所に、相手は優しい口調のまま語りかけてくる。相手のことが疎ましいはずなのに、その声を聞くと気持ちが少し落ち着いていくのが、どうにも奇妙な感覚だった。
「あと一つだけ、お願い。僕の言葉を聞いて、それを覚えてほしいんだ」
相手が俺の背中に手を当てて、そう言う。さっきまでとは打って変わって真剣な語り口で言うもんだから、否が応でも身構えてしまう。
「――言の葉は人に本意を隠されてなほ 知らまほしかば歌ふべきもの されど努々忘るる勿れ あながちなれば過つるのみ」
「う……ぐ」
その言葉を聞くと、忽ちに俺の視界は歪んでいった。強烈な立ち眩みのような、抗い難い睡魔のような、そんな感覚が襲い掛かってきて。
「……だから。今度……そ……きっと」
後ろの誰かが、何事か言っているのが聞こえる。だけど、朦朧とする意識の下では聞き取れそうになくて。
そして、遂に俺が両の足で立っていられなくなって、床に倒れ込みそうになるその瞬間のこと。
――俺の意識は、何かの糸が切れるようにぷつりと途切れた。
*
思い出した、一旦そこで目が覚めたんだ、俺。凄く変な夢だったけど……厭に鮮明に覚えてる。
目が覚めて枕元に置いていたスマホを見てみれば、時刻は午前五時頃を示していて。起きるには早すぎる時間だったから、変な夢のことは頭の隅に追いやって、二度寝したんだった。今思えば、そこで起きてしまえば良かったんだろうけど。
その後見た夢は散々なものだった。前の夢に引きずられたのか、俺の好きだった子が夢に出てくる始末。それも、最悪の形で。
――なんで、行っちまったんだよ、心。
……俺が初めて好きになった、猫獣人の男の子。その子が今にも消え入りそうな声で、そう告げてくる夢。
彼は、中学の時の同級生だった。知り合ったきっかけは覚えてない。好きな漫画が一緒だったとか、たまたま席が近かったとか、そんなだった気がするけど。
そんなこんなで互いの距離が近づいていくうちに、彼に対して『友達』以上の感情が芽生え始めて。最初はそれほどまでに仲がいいんだとか、自分に言い聞かせてたけど。いつか劣情まで催し始めて、俺は気づいたんだ。
……俺、男の子相手に恋しちゃってるんだ、って。
それからの日々は最悪だった。好きだから一緒にいたいって……そう思うのに。彼と話す度に。彼に触れる度に。彼に触れられる度に。日に日に募る罪悪感が、俺を苛んだ。
結局、彼に向ける感情が抱えきれないほど大きく育ってしまった頃――具体的には中二と中三のちょうど間の、春休みのこと。俺は家族に無理を言って、遠くの親戚の家から別の中学に通うために引っ越した。……彼には、そのことを告げないまま。
きっと、怒ってるだろうな。彼からしたら俺だって『友達』だったはずなのに、勝手にいなくなるんだから。
彼とはそれ以来、連絡も取ってない。彼のことが気にならないと言えば噓になるけど、俺にそんな権利はないと思ってる。
転校先の中学は、特に何事もなく卒業できた。既にコミュニティの形成されている環境に入っていくのは少し大変だったけど、その経験はこの高校でも活きてる気がするし。
唯一……進路が悩みの種になってたけど。そんな折にこの高校から推薦が届いたのは、本当に僥倖だった。
だからこそ、もう学校から逃げ出すなんてことはしたくない。大切な『友達』だってできたんだ。大事にしたいって、そう思えるような。
――そっか。君の好きだった『彼』も、同じ猫獣人だったしね。
今朝の夢の中で何者かが告げてきた言葉を思い出して、今更腹が立つ。何が同じなものか、あの子と晴は見た目も性格も違うし、何より、あんな気持ちを繰り返すなんてまっぴら御免だ。
……じゃあ、だとしたら隠さないとな、俺の『秘密』は。俺が所謂……ホモだって知ったら、今の関係のままじゃいられないかもしれないし。
「あ……そうだ」
そういえば、晴は凹んでいる俺の気分を晴らしてくれた時、言の葉を使ったと言っていた。俺が今こうやって、平気で夢のことを思い出せてるのも、晴と、その言の葉のお陰なのだろう。
……俺の言の葉って、どんな力なのかな。言の葉ってのは、最初の夢で告げられたアレだろ、確か。
――言の葉は人に本意を隠されてなほ 知らまほしかば歌ふべきもの されど努々忘るる勿れ あながちなれば過つるのみ
今でもちゃんと、覚えてる。意味は全然分からないけど、不思議とその言葉は俺の脳にしっかりと刻み付けられていた。
「……よし」
時刻は日付がもうすぐ変わる頃。もう遅い時間だけど、俺は自分の言の葉に意味を探るため、スマホとノートを用意して勉強机に向かった。
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