Ad
「ほら着いた、ここだよ」
世朱町から電車とバスを乗り継ぐこと数時間。入学から一か月ほど経って大型連休を迎えた俺は、なんやかんやで心の帰省についていく運びとなっていた。確か、心が「連休中ずっと寮にいても暇だし、せっかくだからついてきて」と誘ってきたのが発端だったような気がする。
……いや、そうだ。俺は今、心の帰省に同行している。ならば目的地は心の実家のはずなんだが、目の前の景色はどう見ても所謂「旅館」のそれで。なんでこんな所に連れてこられたんだよ、俺は。
「……なんだ、この建物」
「え、俺の実家だけど」
困惑する俺を他所に、心は平然とそう言ってのける。どうやら何かの間違いとかドッキリの類ではないみたいだが、となると眼前に聳えるこれが……。
「この旅館が、お前の家……?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてねーよ! 一言も聞いてねえ!」
「だってほら、『お前の実家、温泉地の方にあるんなら周りに旅館とかも多いんだろ』って言ってたじゃん」
「お前の家そのものが旅館だとは思わねえだろ、普通は」
なんでこう、こいつは重要なことを先に言っておかないんだ。そもそも、今まで心の実家について話を聞くことは何度かあった。なのになんで、旅館についての情報は綺麗に避けてやがったんだよ。
正直、ここまで来るバスの中でもおかしいとは思ってたんだ。辺りの景色がどんどん温泉地に近づいていくもんだから、よほど観光地のど真ん中にあるんだなとは勘づいてたけどさ。
「まあまあ、そんな滅茶苦茶に格式高い宿ってわけじゃないからさ。気楽にどーぞ」
心の奴はそう言うと、状況が呑み込めないのと、初めての旅館への緊張とで棒立ちの俺を置いて、玄関の中へと入っていってしまった。
「お久しぶりです、心です。母さんに俺が帰ってきた、って伝えてもらえますか?」
姿は見えないが、心の声だけが建物の中から聞こえてくる。どうやら旅館の従業員――後から聞いたところによると、仲居と呼ぶらしい――と話しているみたいだ。
正直、友達の家に遊びに行くなんて経験は小学生の頃に数えるほどあったくらいで。ただでさえ多少緊張してたってのに、こんな想定外の状況に放り込まれちゃ迂闊になんて動けねえ。
「晴ー、もうすぐ母さん来るからさ。入っておいでよ」
「おう……」
心が呆れたような表情で玄関から顔を出し、俺のことを呼ぶ。
元はと言えばお前の説明不足のせいだからな、と内心で文句を言いつつも、相手の親に無礼を働くわけにもいかず。俺は小さな歩幅で旅館の中へと足を踏み入れた。
「……お邪魔します」
「へへ、ようこそ椙山家へ」
こんな当たり前の会話も、旅館の玄関で交わされてるもんだから、なんだかおかしく感じてしまう。心が言うにはべらぼうに高級な旅館ってわけじゃないようだが……それでも玄関はやはり丁重に手入れが成されており、俺の表情を強張らせる。
「ほら、せっかく温泉地に来たんだし。もっとリラックスしてよ」
「と言われてもなあ……」
連休の最中だから当たり前っちゃ当たり前だけど、辺りを見渡せばちらほらと他の宿泊客も見受けられて。ただ友達の家に遊びに来たって気分でいるのが、なんだかこの場に相応しくないように思えてしまう。
そうやって未だ解れぬ緊張に落ち着かないで過ごしている、その時のことだった。
「……あ、母さん!」
「おかえりなさい、心。そして貴方が山南君、ですね」
仲居の女性が連れてきた一人の犬獣人の女性が、俺達に話しかける。心との会話とその見た目からすると、この人がきっと。
「はじめまして。私が心の母……そして当館の女将を務めさせていただいております。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「あ、いえ……こちらこそ、お邪魔させていただきます」
「母さん、晴が緊張してるから。接客モードやめてよ」
「……そうね。心が友達連れてくるなんて久々だから、つい」
すると、心の母親は随分と表情を柔らかくした。ああ、良かった。あのノリのまま接してこられ続けたら、とてもじゃないが俺の身が持たない。
「心、案内は任せていいかしら」
「うん、元からそのつもりだし」
「ごめんなさいね、山南君。本当はもう少しゆっくり挨拶したかったんだけど、何せ業務が立て込んでいるものだから」
「ああ、いえ……お構いなく。こちらこそ、こんな忙しい時期にすみません」
やはり、想像と違わず今の時期の旅館はかなり忙しいようだった。招かれた立場とはいえ、どうしても申し訳なさは胸の内にあって。
「いいのよ、そんなに遠慮しなくても。……では、私は業務に戻ります。心、よろしく頼んだわよ」
「はーい、じゃあね」
そう言い残すと、心の母親は足早に去って行ってしまった。急いでいても姿勢や歩き方は一切乱れることもなく、接客に携わる職業柄が犇々と感じられた。
「……真面目な人だよねえ」
「なんか……俺の母さんとは正反対みたいだったな」
「はは、言えてるかも」
遠ざかっていった心の母親の背中が見えなくなった頃、俺達はそんな会話を交わした。俺の母さんが特別軽薄なだけあって、接し方のギャップに圧倒されるばかりだったわ、マジで。
「じゃ、行こっか。客室の上の階に俺の部屋あるから」
時刻は既に夕方。温泉地を巡ってみたい気持ちもあるが、それは明日以降にするのがいいだろうと、心とは話してあった。
……友達の部屋、か。小学生の頃は遠慮なんて知らなかったから、他所の家でも好き勝手できたけど。多分、今はそうもいかないだろう。大丈夫かな、俺。
「晴ー?」
「ん、ああ。今行く」
そうやって、色々と考えてみたけれど。俺が遠慮ばかりして委縮するのなんて……きっと、誰も望んでないんだよな。
目の前で満面の笑みを浮かべる心と。そして、さっき去り際に心の母親が見せた笑顔を見ると、なんだかそう思えるような気がした。
*
「……で、ここがトイレで、ここから先は俺たち家族のリビング。それで、ここが俺の部屋」
多くの人が利用するであろう客室が並ぶ階層を横目に通り抜け、やって来たのは旅館関係者……というか、椙山家の居住スペース。普通の客としては絶対立ち入らないような空間に入ってきたもんだから、なんだか変な気分だ。
「ほら、入って入って」
「分かった、分かったから」
さっき旅館に入るのを散々渋ったからか、心が俺の腕を引っ張って部屋に引きずり込もうとする。そんなことしなくても、さすがにもう観念してるってのに。
「へへ、ようこそ、俺の部屋へ。だいぶ片付いてるはずだし、ゆっくりしてね」
「……まあ、確かに」
心の言う通り、部屋は綺麗に整頓されていた。それに、ただ整頓されてるってだけじゃなくて……なんだか、部屋の物が綺麗に保たれている気がする。新品の物ばかりとかって意味じゃなく、丁寧に使い続けられてるって感じ。
「どしたの、なんか気になるものでもある?」
「……いや、別に」
別に、心がガサツな奴だと思ってた訳じゃないけどさ。それでも、なんだかここまで几帳面な雰囲気が出てると、意外さを感じざるを得ない。
部屋の中にあるのは、部活をやっていた頃の物だろうか。サッカーの道具だったり、何かの表彰だったり。後は普通の勉強道具とか、漫画本とかそのくらいだ。
そうやって部屋中を眺めていると、本棚に入れられた一冊の大きな本にある違和感を覚える。背表紙に中学校の名前が書かれてるから多分卒アルかなんかだと思うけど……この学校名って。
「晴、あんまり見られると恥ずかしいんだけど……」
「ああ、悪い……でも、あの卒アルって」
「あー……ああ、あれね。気づいた? この辺の学校じゃないって」
心が、俺の言葉に若干渋い反応をする。心の言う通り、中学校名にもなっているその地名は、心の実家であるこの地域からかなり離れた地域のものだった。てっきり、中学生の頃はこの辺に住んでたもんだと思ってたけど。
「俺、中三になるタイミングで転校してさ。あの学校、ばあちゃん家の方にあるんだ」
「……そうか」
……なんで、中学校三年間の最後の年だけ、遠方の学校に通ったんだろうか。ここで旅館が続いてるんだから、引っ越しが理由とかではないだろうに。
変な話だと思った。わざわざ遠くの親戚の家に住んでまで転校することにしたんだ、相応の理由があるんだろう。
……気になる。なんでそんなことになったのか、気になりはしたけど。
どうしても……聞けなかった。だって、この話題を持ち出してから心の表情は――。
「……優しいね、晴は」
「……」
あの時と、全く同じだ。世朱町に来て二日目、俺達が”言の葉”を告げられる夢を見た、あの日。
その表情は――あの時ほどじゃないけれど――確かに、曇っていた。その理由が先の転校の話題にあるのは、いっそ明白で。
この前の時は、確か心が落ち込んでいたのは例の夢が原因だったっけか。その夢が転校の件とも関係しているのか、それは分からないけど。
心があの日と同じように、今も何か胸に靄を抱えているのなら。俺ができることだって、前と同じなはずだ。
「心、俺は――」
――コンコン。
俺が口を開くのとほぼ同時に、部屋の扉をノックする音が聞こえた。思わず俺は言葉を発するのをやめ、扉の方を見やる。
「……はーい」
心は俺に一瞥をくれた後、ノックに対して返事をした。返事を部屋へ入る許可と捉えたノックの主は、扉を開けて俺達の前に姿を現す。
……割と、大事な話をしている最中だったような気もするけど。そんな中で心の部屋を訪れた人物とは、果たして。
「ああ、母さんか。どうしたの?」
今度はゆっくりとした所作で部屋に入ってきたのは、先ほど別れた心の母親だった。
……あれ、仕事が忙しいからさっきは急いでたんじゃなかったっけか。ならなんで、こんなタイミングにこの部屋に。
なんて、不思議なタイミングの来訪を疑問に思っていると、心の母親が口を開く。
「心、山南君。今なら、ちょうど家族風呂が空いてるから。入っていらっしゃい」
「えっ」
「えっ」
……さっきまでの重苦しい雰囲気とは打って変わって、部屋には素っ頓狂な声がちょうど二人分こだました。
*
「……一応、ここが家族風呂だけど」
心の母親から、今から一時間ほどなら家族風呂が空いていると言われ、俺は心に連れられて温泉のあるフロアまでやって来ているのだが。
「せっかく来てもらったしこんな機会もあんまりないからなあ……」
……さっきから、心の様子がおかしい。時々何かを考え込むような仕草を見せては、はっきりとは聞こえない何事かを呟いている。
露骨に態度に現れてるって感じでもないけど、こんなにも悩ましげな様子を見せられると……俺の頭はひとつの可能性を導き出してしまうわけで。
「……何か、気が進まない理由でもあんのか」
「えっ、いや、そんなことない……よ?」
脱衣所に入ってから一層動きがぎこちなくなった心を見て、遂に俺は抱いていた疑念を心に投げかけた。心の返事はあまりにたどたどしく、嘘を吐いているってのはいっそ明白で。
「俺と入るのが嫌なら、別に無理しなくても――」
「――ううん、そうじゃない! そうじゃないんだけど、ただ……」
「ただ?」
心は俺から目を逸らして、言葉を選ぶのに迷っているような様子を見せる。
「……初めてなんだよ、誰かとお風呂入るの」
「へっ」
……マジか。あまりに予想外の言葉が飛び出してきたもんだから、一瞬言葉を失ってしまった。
だってこいつ、中学時代はサッカー部だったんだろ。友達だって多そうだし、それこそ家に友達を呼んだ時に……とか、あるんじゃないのか。
「家に友達を呼んで、とかは」
「……外でばっか遊んでたから、そんな機会なくて」
「合宿とか、修学旅行の時はどうしてたんだよ」
「適当に理由つけて時間ずらしてた……」
……想像以上に徹底して他人との入浴を避けてやがる、こいつ。確かに今思えば、寮の大浴場にも全然行こうとしてなかったしな。
「そもそも、なんでそんなに嫌なんだよ」
「絶対嫌ってわけじゃないけど……だって」
心はそこで一度言葉を詰まらせる。
何か言いにくいことでもあるなら別に言わなくても……と、俺は言おうとしたんだけど。それよりも少し早く、心が口を開いた。
「だって……恥ずかしい、じゃん」
「ふっ」
真剣な表情をしていたはずの心が急に照れくさそうにそう言うもんだから、思わず吹き出してしまった。何か深刻な事情でもあるのかと思ってたから、尚更。
「なんだよ、笑うなよ!」
「いや、だって……全然似合わねえ台詞だなって」
「もー……」
心は不服そうな眼差しで、言葉なしに俺に抗議の意を伝えてくる。まあ、相手の悩みを笑っちまったのは反省するけどさ。
「悪かったって。それで、結局風呂はどうすんだよ」
「……入るよ。ここで『やっぱやめる』なんて言ったら、それこそバカみたいじゃん」
そう言うと心は持ってきた荷物を脱衣所の籠に入れ、服を脱ぎ始めた。それに倣って、俺も持ってきた着替えを籠に入れてパーカーの裾に手をかける。
「ていうか、晴の方こそどうなんだよ。恥ずかしくないの?」
俺が服を脱いでいると、残りはパンツと靴下だけになるまで脱ぎ終えた心が問いかけてくる。これ以上脱ぐ素振りがないのを見るに、先に自分だけ裸になるのはやはり嫌みたいだ。
「……ジロジロ見られたりさえしなければ、別に」
「ふーん?」
「おい、言ったそばからやめろって」
俺が最後の一枚のトランクスに手をかけたところで、心はわざとらしく俺の下半身へと視線を向けてくる。さすがにこんな状況じゃ脱ぎたくねえぞ、俺。
「はは、ちょっと仕返し。さ、お風呂入ろ」
心は悪戯っぽくそう笑うと、視線を俺から外し、前をタオルで器用に隠しながらパンツと靴下を脱いだ。それと同時に俺も最後の一枚を脱ぎ去って、心と一緒に浴室に向かう。
……なんか、心にも意外なところってあるんだな。さっきの照れくさそうな顔を思い出すと、なんだかまた笑いが込み上げてきてしまうようで。
「ちょっと晴、何笑ってんの」
「別に。なんでもねえよ」
思わずニヤけてしまうのは、あいつらしくない台詞と表情がやけに可笑しかったってのもあるけど。
……初めて感じた、心の「可愛げ」ってやつ。それが今も、俺の中に沁みついて離れなかった。
「いやあ、久々に入るけどやっぱうちの温泉気持ちいいなあ……」
見知らぬ土地の温泉宿に、見知った友人と二人。もう随分と沈んだ陽の光に照らされる浴室には、日々の喧騒からは切り離された穏やかな時間が流れる。
この旅館の家族風呂は露天風呂ではないものの、大きな窓から景色を一望できる造りになっている。窓の外にはそこそこ流れの急な川が流れているようで、耳を澄ませば浴室のそれとは別の水流の音が聞こえた。
「……すげーな、お前の家」
この温泉に入って……いや、この旅館に来て抱いた思いを、素直に口にする。これも温泉の力なのか、色々な感情がやけに胸に沁みわたるようで。
あまり大きな旅館ではないみたいだが、連休中ということもあり当然のように客室は満室。そんな忙しさの中でも俺を受け入れて、そのうえこうやって温泉にまで浸からせてもらえていて。
「俺も、凄いと思う。父さんも母さんも、すごく仕事熱心でさ」
心も同じように、いつもより幾分か落ち着きのある声色で言葉を紡ぎ始める。その表情を見れば、いつもの茶色い瞳が夕陽で明るさを帯びていた。
「でも……だからこそ、少し怖いんだ。いつか、自分の番が来るのかもって思うと」
一瞬、心が言っていることの意味が分からなかった。「自分の番」ってのは、いったい何を指しているんだ。
……だけど、数秒思考を巡らせると、簡単にその意味は理解できた。
「継ぐ……のか。ここの仕事」
「……まだ、分からない。親は好きにしていいって言ってるけど……俺、今まで我儘ばっかだったからさ」
――俺、中三になるタイミングで転校してさ。
「我儘」という言葉を聞いて、さっき部屋で交わした会話を思い出す。根拠は無いけれど……なんだか、心が指しているのはその時のことのような気がした。
「嫌なことから逃げ出すような、そんな俺がさ。父さんや母さんみたいに上手くやれるのかな……って」
話している間、心はずっと窓の向こうを見つめていた。輝いて見えていたはずの瞳も、いつの間にかいつも通りの様相に戻っている。
「……ごめん。せっかくの時間に、こんな話」
いつになく弱気な様子で、心はそう言う。その様子は、初めて俺が『言の葉』を使った、その時に似ていた。
……だけど、状況は前と同じなんかじゃない。前の時は悩みを打ち明けようとしなかった心が、こうして自分から思いの丈を語ってくれている。
それが、なぜだかすごく。……すごく、俺にとっては嬉しいことで。
「さっき、俺が部屋で言おうとしてたことの続き……なんだけど」
俺が口を開くと、心がきょとんとした顔でこちらを見てくる。これから言う内容が内容なだけに、顔をまじまじと見られるのはなんだか気恥ずかしい。
「俺には、お前がどうやって生きてきたのか、何に悩んできたのか分からない。もしかしたら……お前にとって、俺には知られたくないことかもしれない」
俺には、心の過去に触れる勇気がなかった。それが、俺が一緒に背負うには重すぎるものだったら。それが、俺が触れるのに相応しくないものだったら。
……そして何より、俺には触れられたくないと、その声で拒絶されるのが怖かったから。
「だけど……お前が誰かに頼りたいと思うことがあったら」
心が一人で悩んで、逃げ道を失ってしまったなら。
「何か、一人じゃ抱えきれないものがあったら」
今みたいに、心が抱える何かが、行き着く先を求めるのなら。
「その隣に、きっと俺がいる。それじゃ……駄目か」
俺ならきっと、心の役に立てる。そんな自惚れめいた自信が、どこからか湧き上がっていた。
体が、顔が、熱くなるのを感じる。温泉よりも、今は自分が放った言葉に上せてしまいそうな気分だ。
「……ずるいよ、晴。そんなこと言われると、俺また逃げちゃうじゃん」
「あ、はは……確かに、心の悩みの解決には一つもなってねえな」
勢いで言ってしまっただけに、内容が滅茶苦茶だ、俺の台詞。あー、ヤバい。今更恥ずかしさでどうにかなりそう。てか、なんで俺あんなこと言ったんだ。温泉か、温泉のせいなのか、これも。
恥ずかしさを誤魔化すため、外の景色を見て「あー」だの「うー」だの唸っていると、心がまた口を開く。
「でも……」
心がこちらを見ている。だけど、今はまだ目を合わせるのは恥ずかしい……から、横目でちらりとその顔を見やった。
「でも、ありがとう。晴が本気で言ってるって、俺分かるよ」
「……そりゃ、どーも」
気恥ずかしさに拍車をかけるような心の感謝の言葉に、俺は堪らず顔をお湯まで浸ける。
……さっきから何故だか息が苦しくて、やけに胸が高鳴ってるけど。それも全部、きっとこの温泉のせいだ。そうに決まっている。
初めて味わうこんな気持ちに、俺はそんな言い訳をした。
*
「ここ数日間、本当にお世話になりました」
「じゃあまた、どっかのタイミングで帰ってくるから」
心の実家に来てから二日後の朝、荷物をまとめた俺と心はフロントの前で別れの挨拶をしていた。心との帰省――俺にとっては最早ただの旅行だったが――は、二泊三日を経て今から帰路に就くところである。
俺にとっては、友達の家に泊まるのなんて初めてで。その上、相手の家は温泉地に構えられた旅館なんていう超レアケース。
最初は確かにかなり戸惑ったが……温泉に入ったり、初めて浴衣を着たり、やたら気合の入った心の母親の料理を頂いたり……と、思い返せばかなり貴重な体験をさせてもらったような気がする。
「また、いつでも帰っていらっしゃい。……それと、山南君。少しよろしいですか」
「……? はい」
心の母親は、俺の方を向いて手招きをする。どうやら少し場所を移すようで、俺はとりあえずその背中を追うことしかできなかった。
「どうぞ、おかけください。……どうしても、話しておきたいことがありまして」
心の母親について行くこと数十秒、俺はフロントから少し離れた場所にあるソファに座るように促された。相手が言うには、どうやら俺に話があるらしい。
なんなんだ、俺はいったい何を言われるんだ。心の母親はいつも通りの真剣な表情をしているから、何か大事な話なのかもしれない。だとしたらなんだ……客人としても目に余る粗相でもしちまったか、俺。
そうやって色々な可能性を考える俺の不安とは裏腹に、心の母親は意外な行動に出た。
「今回は、本当に来てくださってありがとうございました」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってください」
突然、俺に対して深く頭を下げる心の母親。そんなに感謝される覚えなんてない俺は、あまりに予想外の事態に狼狽えるばかりだった。
「いや、寧ろ感謝するのは俺の方ですよ。どうしてそんな……」
本当に、全く状況が飲み込めない。俺が戸惑っているのを察したらしい心の母親は、ゆっくりと顔を上げて口を開く。
「……すごく、珍しいんです。心が家に友達を呼ぶのって」
「えっ」
「心が友達を連れてきたのは、山南君が二人目で。本当にそのくらい、珍しくって……」
これまた意外な発言が、心の母親の口から飛び出す。友達の多そうな心のことだから、家で遊ぶのなんて日常茶飯事だと思い込んでいたけど。……俺が二人目、なのか。
「てことは、温泉を用意してくれたのも、あの豪華な食事も……」
「ええ、少し張り切り過ぎてしまいました」
「はは……」
心の母親は、微笑みながらそう答える。あのもてなし方は本当に「少し」なのかと、思わず乾いた笑いが零れてしまった。
そしてなんだか、心の母親に対してのイメージが少し変わった気がする。やけに丁重に接してくるのも、距離感があるとかじゃなく、単に息子の友達への接し方に慣れてなかっただけなのかな、って。
「あの……あの子が中三の頃に転校したって話は」
「ああ、ちょうど一昨日聞きました。……詳しい理由とかは聞いてませんが」
「……やっぱり、そうですか」
俺がそう答えると、心の母親は露骨に心配そうな顔を浮かべた。この反応を見るに、親にも事情を言ってないのか。
「転校する前あたりから、あの子は何か悩み事があったみたいで。恥ずかしながら、親である私もあの子が何に悩んでるのか、全く……」
「……」
「親に言いにくいことでも、友達には打ち明けられてればと思ったんですが」
「俺も……まだ、何も知らないです」
心が何かに思い悩んでいたのは、俺にも分かっていた。だけどその悩みの種は、俺の想像以上に深く心の胸に植わっているようで。
「……だけど」
――その隣に、きっと俺がいる。それじゃ……駄目か。
温泉で、俺が心に言った言葉を思い出す。思い出すと恥ずかしいくらいにクサい台詞だけど、きっと俺が心の母親に伝えられることは。
「だけど俺は、心に何かあった時には、あいつを支えたいと……そう思ってます」
そう言うと、心の母親はきょとんとした表情を見せた。……あれ、この台詞、言ってから気がついたけど、もしかして。
「……あら、私、今『息子さんを僕にください』って言われてるのかしら」
ああ、やっぱりそうやって受け取られてしまった……! さすがにこれは恥ずかしいというか、かなり変なことを言ってしまった。早急に、早急に訂正しなければ……!
「ああ、いや、そういう意味じゃなくって、でも……」
「いいのよ、分かってるから。……ありがとう、山南君」
心の母親は優しく微笑みながら、俺に感謝を述べる。今はそんな対応が逆に恥ずかしい。いっそ笑ってほしいくらいだ、ほんと。
……この旅館に来てからというものの、なんだか変な気分だ。どこにいてもあいつのことが頭に浮かんでしまうようで、どうにも落ち着かない。
正体の分からない、初めて抱く感情。ここ数日の俺を振り回したそれに悶々としていると、心の母親が慌てた様子で口を開いた。
「ああ、いけない、もうこんな時間。バスで帰るんでしょ」
「……本当だ、そうですね。心も待たせちゃってますし」
壁に掛かった時計を見ると、心と離れてから思っていたより長い時間が経っているみたいだ。俺と心の母親はソファから立ち上がり、足早にフロントへ向かう。
「あ、やっと帰ってきた。遅いよー」
「ごめんなさいね、ちょっと話し込んじゃって」
フロントへ着くと、そこには心が不満げな顔で待っていた。バスの時間までもう間もなくだから、その反応も当然だ。
「ほら、晴。急いで」
「ああ、分かったから引っ張るなって」
玄関には、既に心が用意したであろう俺の靴が並べられていた。二人共靴を履き終えれば、振り返って改めてフロントの方へ挨拶をする。
「じゃあ、またね」
「本当に、ありがとうございました。お邪魔しました」
言うと、心の母親や仲居の女性たちもお辞儀で俺達に答える。友達の家を出るのにこの扱われ方は、やはり不思議な感覚がした。
「じゃ、急ぐよ、晴」
「ん」
玄関の扉を開き、バス停へと駆ける。春の日差しを浴びながら重い荷物を持って走るのは、運動不足の俺には応えたけれど。
この数日間、こうやって心と「友達」らしい時間を共有できたのが……汗が滲むのも気にならないほど、何よりも嬉しく思えた。
Ad