AdAd
  
こころはる 第十四話

  「……ここ、だよな」

  世朱町の中心地へ向かう道から、少し外れた路地。そんな目立たない場所に居を構えた喫茶店の前に俺は立っていた。

  扉の横に立てかけられた看板には、「喫茶ときわぎ」の文字が書かれている。手元の端末に表示された、待ち合わせ場所を告げるメッセージと違わぬ店名だ。

  ……本当にここだよな? なんか、見るからに高校生が入るような雰囲気の店じゃないんだが。窓から見える店内は少し薄暗く、いかにも大人の空間って感じがする。

  それでもやはり、何度確認しても待ち合わせ場所はここに違いないようで。意を決した俺は、店内へと繋がる扉をできる限り慎重に開いた。

  「いらっしゃいませ。一名様でしょうか」

  「ああ、いえ。後からもう一人来ます」

  「かしこまりました。右手の方が禁煙席となっておりますので、お好きな席へどうぞ」

  店に入った俺を出迎えたのは山羊獣人の男性だった。その容貌は趣ある店の外観からイメージしていたよりも若く、恐らく三十代かそこらのようだ。

  店の奥の方へ進むとあまり目立たない席があったから、そこに座って辺りを見渡す。俺の他に客はいないのか、話し声や物音なんかはほとんど聞こえない。

  ……やっぱり俺みたいなのは場違いな雰囲気の店内だったけど、それ以上に気になるのは。

  喫煙スペースのある喫茶店だから当然っちゃ当然だけど、店内にはほんのり煙草の匂いが漂っていて。そして俺はこの匂いを嗅いだ覚えがある。

  まさかな、なんて思いながら席に備えられていたメニュー表を捲ると、果たして俺が抱いていた予感というのは的中していた。

  「……マジか」

  メニュー表の中の軽食の写真や値段が載っているページ。そこにひと際大きく載せられたサンドイッチの写真に、俺は見覚えしかなかった。というか、数時間前に食べた覚えがある。

  ……どんな店でバイトしてんだよ、逸花の奴。俺は客としてくるのでさえ尻込みしたってのに。

  そう言えば、逸花は部活の先輩の紹介でバイト始めたって言ってたっけ。だとしたら少なくともあと一人は高校生がここでバイトしてるってことに――。

  「こちら、お冷とおしぼりになります」

  「ああ、どうも」

  まるで俺の思考を読んでたんじゃないかってくらいの絶妙なタイミングで、さっきとは違う狐獣人の店員が俺に声をかける。その風貌からして俺とはさほど歳も離れていないように見えるから、もしかするとこの人が逸花の言う先輩だったり。

  「注文の方はお連れ様が来てからに致しますか?」

  「はい、それでお願いします」

  「では、ごゆっくり」

  狐獣人の店員はそう言いながら俺に微笑みかけると、店の入口の方へと落ち着いた足取りで帰っていく。胸元に付けられた名札を見るに、彼は「月野」という名前らしいが。

  「月野……」

  なんだか聞き覚えがあるような無いような、不思議な感覚。名前だけじゃない。ついさっき初めて会った相手のはずなのに、久しぶりに知り合いと再会したような、そんな気分だ。

  「……気のせいか」

  少しばかり逡巡してみたが、あの店員に関して思い当たる節は特にない。そもそも俺に知り合いなんて数えるほどしかいないしな。

  店内には静かにクラシック音楽なんかが流れていていかにもリラックスできそうな雰囲気が漂っていたが、それとは裏腹に俺の気分はどうにも落ち着かない。

  慣れない店に来てるってのもあるけど、やっぱり俺にとって気がかりなのは。

  ――山南くん、なの……?

  数年ぶりに再会した犬獣人の元同級生。あんな出来事を最後に離別したんだから、今から会って何を話せばいいのやら。さっきから頭の中で思考がずっとぐるぐる渦巻いている。

  ……なんかだいぶ変わってたなあ、丸山。中学の頃は眼鏡かけてたのに裸眼になってたし、言葉を選ばずに言えばこう……可愛く、なってたよな。

  喉が渇いてもないのに水を口に含んだり、頻りに温かいおしぼりで手を拭いてみたり。そうやって気まずさを誤魔化していると、店の入口の方からチリン、と軽快な鈴の音が聞こえた。

  「いらっしゃいませ。一名様でしょうか」

  「いえ、先に一人来てると思うんですが……」

  微かにだが、今入ってきたと思われる客と店員の会話が聞こえる。内容からするときっとその客ってのは。

  「あ、いたいた。ごめんね、委員会の仕事が長引いちゃって」

  「別に。そこまで待ってないしな」

  こちらを見るなり早足で向かってくる丸山。男子用と女子用っていう大きな違いはあるにしろ、彼女は俺と同じ世朱高校の制服を身に纏っていた。

  丸山が席に着くなり、先ほどの狐獣人の店員が俺の時よろしくトレーを持って声をかけてくる。

  「こちらお冷とおしぼりになります。ご注文の方はお決まりですか?」

  「えーと、私はアイスティーで……山南くんは?」

  「俺はミルクティーで」

  「かしこまりました、アイスティーと、ミルクティーですね。少々お待ちください」

  店員が去って俺達の視界から外れると、実質丸山と二人きりみたいな状況になって。結局なんて声をかけるか決めあぐねていた俺は、ただ丸山の出方を待つばかりだった。

  「ごめんね、ちょっと分かりにくい待ち合わせ場所で。迷わなかった?」

  「それは大丈夫だったけど……よくこんな店知ってたな」

  「私の部活の顧問の先生がここの常連でさ。サンドイッチが美味しいお店なんだ、って教えてくれたの」

  「まあ、確かに美味かったな」

  「えっ」

  俺の発言を聞いて、丸山は素っ頓狂な顔をする。まあ、俺の言ってることが相手からしたら不可解だってのも分かるけどさ。

  「山南くん、ここ来たことあるの?」

  「いや、友達がここでバイトしててさ。試作品を食わせてもらったんだ」

  「そうなんだ。もしかして、あの猫獣人の男の子かな」

  「多分そいつだな。依道逸花っていう俺の同級生」

  聞くなり、丸山は驚いてるような不思議がるような微妙な表情を浮かべた。久々に会ったってのに、更に思わぬところで人物関係が繋がってたんだから自然な反応と言えばそうなんだろうけど。

  「その依道くんって子はさ、山南くんの友達なの?」

  「まあ、そうだな」

  「そっか……よかった」

  「……?」

  丸山の「よかった」という発言の真意を図りかねていると、不意に例の店員に話しかけられる。どうやら注文したものが届いたみたいだ。

  「お待たせいたしました。こちらアイスティーとミルクティー、そしてアップルパイになります」

  「……えっと、あの」

  目の前にミルクティーが置かれたところまではよかったんだが……なんだこのアップルパイ。ご丁寧に二人分用意されてるが、俺達こんなの頼んでないぞ。

  「これ、頼んでないんですけど……」

  「ああ、これはボクからのサービスってことで。だって」

  店員はそう言うと、急にグイと俺に顔を近づけて囁く。

  「キミにはボクの後輩がお世話になってるみたいだし、ね」

  「へっ」

  急に俺に近寄ってきた上に、今までよりずっと砕けた口調でそう言ってくるもんだから思わず変な声を上げてしまった。やっぱりこの人が逸花の言ってた先輩……なのか。

  「それじゃ、ごゆっくり」

  俺が驚きで何も言えずにいるうちに、月野というらしい店員は立ち去ってしまった。……なんだったんだ、本当に。

  「今の店員さん、知り合い?」

  「いや……逸花の部活の先輩らしいけど、俺は初対面のはず。どっかで見たような気もするんだけどな……」

  「あの人、[[rb:月野夕貴 > つきのゆうき]]さんね、うちの高校の生徒会長なんだよ。だから見覚えあるんじゃないかな」

  言われ、この高校に入ってからの入学式やら集会やらの記憶を辿ってみる。確かに生徒代表だかなんだかであの人が出てきたことがあったような気がしなくもない。

  ……だけど、やっぱり何か引っかかるような。そういう一方的に俺が知ってただけとかじゃなく、お互いどこかで話したことがあるような、そんな感覚。向こうも俺のこと知ってたみたいだしな。

  俺のことを知ってたのは逸花から話を聞いたからだったりするんだろうか。思い返せば、どことなく雰囲気が逸花に似てたような気がしなくもない。突飛な行動してくるところとか特にな。

  「なんか、ラッキーだね」

  「ラッキーって……ああ」

  考えごとをしてたせいで一瞬なんのことか分からなかったが、数瞬の後に視線をテーブルのアップルパイに落とす。驚きと困惑の方が勝ってたけど、確かに思いがけない幸運ではあった。

  「前から食べてみたかったんだ、これ」

  ――私、昔っから童話とかが好きでさ。

  言いながら嬉しそうにアップルパイを切り分ける丸山の姿が、中学の頃の記憶と重なる。見た目は随分変わったような気もするけど、やっぱり昔と同じところもあるんだって思えて、少し安心した。

  それから少しずつ中学の頃の出来事を逡巡して思い出した、最後に丸山と話した時の記憶。……俺の中では決して良い思い出としては残ってなかったから、思わずティーカップを口元へ運ぶ手が止まってしまう。

  ――私、山南くんのことが――。

  俺の今までの人生の中で唯一の、恋心を告げられた記憶。それに対する俺の返事は本当に酷いものだったと今でも思う。勇気を振り絞ったであろう彼女に対して、ほとんど何も言ってやれず。

  「…………」

  なんだか口にする気分にもなれず見つめていただけのティーカップを、ソーサーへ戻す。カップの中ではミルクティーに反射した天井の照明がゆらゆらと揺れていた。

  ……今更だけど、俺に丸山とこうやって会って話す資格なんて無いんじゃないか。想いを告げてくれた相手にまともな返事もせず、挙句去っていく背中を追いかけようともしなかった俺には。

  「……山南くんさ、あの日のこと覚えてる?」

  「あの日、って……」

  丸山の口から出てきた「あの日」という言葉に、心臓がどきりと脈打つ。覚悟はしてたはずだ、わざわざこうしてゆっくり話せる機会を設けたのはあの日の話をするためだって。それでもやはりその話題に今から踏み込むとなると、怖気づいて惚けた返事をしてしまった。

  「中一の終業式。私が転校する前、最後に山南くんと会った日」

  「あ、ああ……うん。覚えてる」

  覚えてるも何も、さっきまでその日のことを考えていたところだ。あまり思い出したくなくて、胸の奥にしまっていたけど。

  あの日のことを口にする丸山の表情は、明るいとは言えないものだった。やはりお互いにとってあの出来事は苦い思い出になっているみたいだ。

  でも、ここでこうしてまた出逢えたのはきっと、この後悔を払拭するまたとない機会で。何もしなければ、この苦味はずっと続いてしまうだろうから。

  ……謝ろう。それで済むような話じゃないってのは分かってるけど、何も言えないまま苦い記憶として抱えていくよりはきっと。

  「俺、あの日のこと――」

  「本当に、ごめんなさい……っ!」

  意を決して口に出そうとした俺の謝罪の言葉は、丸山が頭を思い切り下げながら放った力強い言葉にかき消された。

  予想してなかった展開、そして普段とはあまりにかけ離れた丸山の様子に頭の整理が追い付かない。どうしたんだいきなり、本当に。

  「お、おい、落ち着けって。どうしたんだよ」

  「……私、ずっと後悔してた。あの日、勝手に自分の想いをぶつけて山南くんを困らせて」

  丸山は、俯いたままぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。今にも泣き出しそうな声で、少しずつ。

  「結局、そのまま何も言わないまま転校して……自分勝手すぎたって、今でも思う」

  「…………」

  ……そうか。一緒だったんだな、俺と丸山。お互いにあの日のことを悔やんで、抱えながら生きてきて。

  だったら、ここでまた会えた意味は。「運命」なんて言葉じゃ大袈裟だけど、気の遠くなるような確率のもとでまた出会えたってのはきっと事実で。

  「……俺も、あの日のこと時々思い出してたんだ」

  未だ俯いたままの丸山につられて、少し伏し目がちになりながら口を切る。視界を落とした先では、口を付けていないままのミルクティーが気まずそうに佇んでいた。

  「最近になってようやく分かった気がするんだ。その……好きだって気持ちを伝えるのに、どれだけ勇気が要るか」

  思っていたよりも口に出すのが恥ずかしくて少し言い淀んでしまう。こんな時にあいつの顔を思い浮かべてしまったことに、ちくりと胸が痛んだ。

  「だから、あの時まともに返事できなかったこと、謝らせてほしいんだ」

  視線を上へ向けると、同じく顔を上げていた丸山と目が合う。緊張で息が詰まりそうになるけど、もう逃げたくないから。

  「……俺も、ごめん」

  なんだか、不思議な感じだ。さっきまで胸の中で渦巻いていた靄が、スッと消え去っていくような感覚。なんとなくだけど、俺の言の葉を使われるのってこういう感覚なのかな、なんて思う。

  「なんか、不思議。あれだけ後悔してたのに、急に肩の荷が下りたみたい」

  「ああ、俺もだ」

  丸山は、さっきよりも随分と晴れやかになった顔でそう言った。あの日俺が曇らせてしまった表情を、数年越しに晴らせたような……達成感というと少し違うかもしれないけど、とにかく悪くない気分だ。

  人の気持ちの曇りを察して、それを晴らす。相手の悩みを解消する手段としては少々狡いやり方だって気がしないでもないけど、やっぱりこの”言の葉”は俺の性に合っている気がした。

  「山南くん、早く飲まないとお茶冷めちゃうよ」

  「……そうだな」

  上機嫌でアイスティーを飲んでいた丸山に促され、ようやくミルクティーを口に含む。時間が経って少し温くなったそれは、逸花が家で淹れるものよりほんのり甘味を帯びているような気がした。

  *

  それからしばらくの間、俺と丸山は中学時代の思い出話やあの日から今日に至るまでの出来事の話に花を咲かせた。丸山はどうやら転校した先の中学校で馬が合う友達と出会ったらしく、急激なイメチェンはその友達の影響とのこと。

  「それにしても、眼鏡外して髪型変えるだけでここまで印象変わるものなんだな」

  「らしいね。私としてはそんなに実感ないんだけど」

  丸山はそう言いながら不思議そうな表情を浮かべた。本人に自覚がないとしても、男子の間で噂になるくらいなんだからよっぽどの変化なんだろうけど。

  「山南くんはあんまり変わってないね」

  「悪かったな、代わり映えのない奴で」

  そりゃお前に比べりゃ変わってないだろうよ、なんて思うけど、多分事実としてあんま変わってないんだろうな。中学の頃の写真なんかを見返しても今と変わらない仏頂面が並んでるし。

  「まあ、外見はあんまり変わってないけどさ。中身は結構変わったんじゃない?」

  「そうか?」

  「うん。だってさ」

  丸山は視線を一瞬手元のグラスに落としたかと思うと、再びこちらを向いて口を開く。

  「山南くん、好きな人できたでしょ」

  「な……っ!?」

  「あ、やっぱり」

  あまりに唐突な発言に、誰かに聞かれちゃいないか辺りを見回してしまったのが仇となった。そんなのほとんど肯定と一緒だろ……我ながらあからさまな反応をしてしまったもんだ。

  「……なんで分かった」

  「ほら、さっき『告白するのにどれだけ勇気が要るか最近分かった』って言ってたから。結構分かりやすかったよ」

  「あー……」

  ――最近になってようやく分かった気がするんだ。その……好きだって気持ちを伝えるのに、どれだけ勇気が要るか。

  丸山に謝るためだったとはいえ、あんなことを口走った過去の自分を殴りたい。そうじゃねえか、こんなん「好きな人ができました」って言ってるようなもんだろ。

  「山南くんに好きな人、かあ……」

  机に肘をつきながら視線を逸らして恥ずかしさを誤魔化している俺に追い打ちをかけるように、丸山がしみじみと呟く。逸花と違って揶揄う意図はなさそうだが、これはこれでタチが悪い。

  ……でも、俺が思い浮かべる人物に「好きな人」って言葉が当てはまるのかはかなり微妙だった。俺は男で、あいつも男。そもそも誰かを好きになったことなんてないんだから、この気持ちの正体なんて分かる訳が。

  「……正確には、好きな人じゃない。まだ、そういうの分かんねえから」

  そうだ、分かんねえんだ。俺があいつに対して何を想ってるのか。その想いには、世間一般ではどんなラベルが貼られるのか。

  いくら一人で考えても、分かる気もしなくて。誰かに頼ろうにも、相手が同性のルームメイトだなんて知れたらどうなることか。「異端者」のレッテルを貼られた奴がどんな道を辿るかは痛いほど知っているつもりだ。

  だから、あいつに対する想いがあやふやなまま靄のようになっているのがどうにも不安で……苦しいんだ。

  「それってさ、分からなくちゃいけないものなのかな」

  さっきから神妙な面持ちをしていた丸山がぽつりと言葉を零す。発言の意図がいまいち掴めずにいると、丸山は口を開いて話を続けた。

  「例えばいくら私が言葉で”好き”って気持ちを定義しても、そんなの結局私にとっての”好き”でしかないし」

  話がなんだか小難しくなってきたような気がして、漫然としていた意識を丸山の話へと向ける。でもなんとなく、言わんとしていることは分かるような。

  「だから、自分が抱いてる気持ちが”好き”なのかどうかは、自分なりにゆっくり見出していくものだと思うの。あれこれ思い悩むのは、『ああ、好きだな』って確信した後にすることだよ」

  「……そういうもの、なのか」

  「少なくとも私にとってはね」

  自分なりの”好き”……か。見つけられるかな、何事も不器用な俺だけど。

  丸山の言葉を反芻している間にも窓から差す日は橙に色付き、もう中身のなくなった食器をほのかに染めている。いつの間にやら太陽はもう沈み始めているようだった。

  「……そろそろ帰ろっか」

  「ああ、そうだな」

  丸山は氷だけが残ったグラスをカラン、と音を立てて揺らしながら解散を促す。そこそこな時間居座ってしまったし、確かにもう頃合いだろう。

  「まあ、さっき私が言ったことが山南くんの助けになるのかは分からないけどさ。応援してるからね」

  「ああ、ありがとな。色々と」

  実際、丸山と話して直接的に何かが変わったってことはないけど。信頼のおける相手に悩みを打ち明けられたってだけでも心が随分軽くなったのを感じる。

  中学の頃に転校した友人と、遠く離れた地で再会する。あまりに出来過ぎているような気がしなくもないけど……お互い抱えていた後悔の念を晴らせて良かったと、心からそう思えた。

  *

  「……ただいま」

  寮の手前で丸山と別れ、俺は家の玄関へと辿り着いていた。心と距離を取り始めてからしばらく経ったが、未だに玄関の扉を開く気分は重い。

  「ただいま」なんて言葉も、誰かに聞かせるにしてはあまりにか細く、初夏の空気に溶けていった。

  足元を見ても心の靴はないから、まだ帰ってきていないようだ。文実もだんだん活動が増えてきているらしいし、集まりでもあるのかな。

  重い足取りで、とぼとぼと自室へ向かう。別に今あいつはいないのに、ここ数週間でできるだけ物音を立てないことに慣れてしまった。

  荷物を机の脇に放り、ベッドへと倒れ込む。思い返せば今日は色々あり過ぎたし、少し疲れたみたいだ。

  ――まだ、そういうの分かんねえから。

  ――それってさ、分からなくちゃいけないものなのかな。

  ふと、ついさっき丸山と交わした会話が頭に浮かぶ。俺が椙山に対して抱いてる気持ちが”好き”なのかどうか分からなくて、俺がそう言ったのがきっかけだったか。

  ――自分が抱いてる気持ちが”好き”なのかどうかは、自分なりにゆっくり見出していくものだと思うの。

  ”好き”という気持ちは誰から教わるでもなく自分なりに少しずつ見つけていくものだって、丸山はそう言いたいんだろう。確かに自分でその答えを見つけられたなら納得感はあるだろうけど。

  やっぱり、普通の友達と好きな相手に対して抱く気持ちは違うんだろうな。俺にとっては……朝来とか逸花とは違って、心にだけ抱く気持ち。それが俺なりの”好き”なんだろうか。

  例えば、話しかけられた時。これに関しては誰から話しかけられても基本的には悪い気しないし、違うな。あまりに日常的なことだから、その時どう思うかなんてピンと来ないし。

  じゃあ、身体が触れ合うのは。基本的にはスキンシップとかは苦手だけど、心に対してはあまり嫌だと思わない。

  それどころか、慣れないことに対するむず痒さの裏に心地良さまで感じ始めている自分も確かにいて。この気持ちはきっと、心にしか抱かないだろうな。

  自分の言葉で相手が笑顔になった時。ふと顔が浮かんだ時。また一つ相手のことを知れた時。

  色々な場面で俺が抱く気持ちを想像して、”好き”に繋がるのはどんな気持ちなのかを考える。我ながら理屈っぽいやり方な気がするけど、多分こういうのが俺の性には合ってるから。

  「…………」

  だけど、そう簡単に答えが見つかる訳もなく。そもそも交友関係があまり広くないせいで、その気持ちが心に対して特別に抱いているものなのか曖昧なままだ。

  ……向き合わなきゃいけないんだろうな。心に対しても、他の奴らに対しても。

  自分が抱いている気持ちすら分からないのだって、きっと今まで人と関わるのを避けてきたことが一つの原因になっているはずで。

  そして今も、得体の知れない感情に怯えて心から目を逸らしている。

  ……こんなんでいい訳がない。いい訳がないんだ。このままじゃ自分の気持ちなんて分かるはずがないし、それに――。

  ――椙山は、待ってるんじゃないか?

  昼休みに、朝来に言われたことを思い出す。俺が心のことを避け始めてから、あいつも一人でいるのを見かけるって。誰かと過ごす時間が好きだと言っていたあいつが……一人で。

  俺が自分勝手な都合であいつを一人にして、寂しい思いをさせてしまっているかもしれない。そう思うだけで、胸が詰まりそうになる。

  会って話がしたい。今までのことを謝って、それであいつが許してくれるのなら。まだ俺を隣に置いてくれるのなら……あいつとちゃんと向き合って、この気持ちの正体を確かめたい。

  考えて考えて、ようやく覚悟が決まったその折だった。ガチャリ、と玄関の扉が開く音がする。考えるまでもなく、あいつが帰って来たんだろう。

  以前なら扉の開く音が聞こえればすぐに「ただいま」と帰りを告げる声が響いてたはずだが、ここ最近はすっかり聞こえなくなった。自分の行動のせいだってのに、無責任にも俺の中に寂しさは募ってしまう。

  こんな寂しい思いはもうしたくない。それに何より……あいつにさせたくない。その為には、俺が動くしかないんだ。

  まだ覚悟を決めたばかりで、何を言おうかなんて考えてないけど。今はただあいつと話したい、話さなきゃいけないから。

  部屋の扉の前に立ち、深く呼吸をつく。頭が痺れるような妙な緊張を噛み締めながら、俺はリビングへと繋がる扉に手をかけた。

AdAd