目が開く。
堅い岩の上に横たわる私の背中の筋肉は硬直しており、久方ぶりに身体を動かした瞬間、バキバキと嫌な感覚が広がる。いったいどれくらいの間、私は横になっていたのか、私の身体は薄汚れ、嫌な臭いが辺りに漂う。
臭いはまるで雨に濡れた獣だ。
何日も風呂に入らず、不衛生な環境で過ごしている者が放つ体臭に、私は思わず鼻を摘まむと周囲を見渡した。私の他に人影は見当たらないので、体臭の原因が私にあることは明白だ。
かつてはシャワーとシャンプーで身体を清め、クリーニングに出したシャツを身に纏い仕事に励んでいた私が、野生動物のような臭いを発するまでに落ちぶれた。
天と地の差に私は自身の境遇に悪態をつくと、苛立ち混じりに身体を起こそうとした。
私の視界に黒い四肢が映り込む。
仰向けのまま私は手足を動かすと、思うように起き上がれない事実に苛立ちを覚えた。あの空間で、白いポケモンは私にポケモンとして生きろと宣告した。
そのポケモンがいったい何であるのか、今の私の心情は高額な課金に勤しむ廃人のそれと同じである。
何度か身体を左右に転がすが、なかなか起き上がることができない。私は10回以上身体を左右に振ることで、ようやく起き上がることが叶った。
慣れない肉体、慣れない歩行習慣、私の忍耐力は青天井ではない。
何と使いづらい肉体か。
新しい肉体に対して私は無意識に悪態を漏らすと、どうにか岩盤上を歩き、身体を動かした。全身の筋肉がバキバキと異常な感覚を響かせ、それに私は苦悶の表情を浮かべてしまう。
人間の頃はデスクワークと立ち仕事が連続していたため、私は常に腰痛と戦っていた。アラサー前の私の身体は、彼方此方ガタが来ていた。加齢に苦しめられていた私だが、ポケモンに生まれ変わっても身体の痛みに苦しめられている。
以前の私は勉学ばかりに取り組み、運動は疎かにしていた。
故に三十路を迎えつつある私は当然ながら運動不足に陥っており、腰痛・ぎっくり腰に日々怯える生活を強いられていた。
「...今度はしっかりと運動しよう」
せっかく手に入れた若い肉体である。先の人生の失敗を取り込み、可能な限り健康を意識しなくてはならない。
ふらつく足取りで私は歩くと、周囲を見渡した。
時刻は深夜なのだろうか、頭上に太陽の光は存在せず、星も見当たらない。ただ暗闇のみが広がっている。周りは草の生えない岩場ばかりで、生き物の気配が一切感じられない。
ふと、私は気がついた。
風が吹かない事に、虫の鳴き声が聞こえない事に、岩の合間を流れる水の動きが止まっている事に。まるで撮影された写真を見ているような感覚を抱き、私はつい止まっている水流を凝視する。動かない水流は無機質などガラスのように見え、そこにポケモンとなった私の顔が反射する。
世界一の腕前を持つ美容整形ドクターでも、ここまでのオペは不可能であるはずだ。
現代の美容整形の限界値を踏破する私の整形手術、頭の天辺から爪先まで改造されている私の見かけは、お世辞でも美しいと言える物ではない。
「どうせなら、ミロカロスが良かったかな...」
醜い獣の姿に生まれた私は無意識に欲望を口に出した。私の知る限り最も美しいポケモンの姿を脳裏に描くが、ミロカロスには腕が無いため日常生活ではかなりの負担を強いられるかもしれない。
普段の生活を考えれば、この姿も悪くはないかもしれない。
私はこのポケモンのことは少ししか知らない。それでもどのような特徴があるのか、人間からどのように思われているかは私でも知っている。
罪人に相応しい姿、今の私には最適なポケモンかもしれない。
動かない水流に映るポケモンの姿を見た私は、重たい足を動かして歩いていく。周りの岩盤には草が一本も生えておらず、風も一切吹かない。変化の無い光景は、あの白いポケモンの話していた災厄によるものか。
「...アイツは災厄を防げと言っていたよな」
白いポケモンの言葉を思い出した私は、それと現状が一致していないことに気がついた。眼前の世界は明らかに異常な状況であり、何かしらの災厄が起きたのは明白だ。
早速食い違う話に私は軽い頭痛を覚えたが、それは唐突に終わりを告げた。
『その通りだよ』
突然、脳内に木霊する白いポケモンの声。私は反射的に顔をあげると、周囲を見回しその影を探した。だが、私の周りに他の人影は一切なく、ただ白いポケモンの声が脳内に響き渡る。唐突過ぎる心霊現象に私は思わず取り乱してしまうが、脳内には白いポケモンの笑い声が広がる。
『そんなに慌てることはないよ、ただリンクを構築すると言ったよね』
まるで私の動きをすぐ傍で見ているかのように話白いポケモン。人体改造の次は覗き見と悪趣味な性癖を露わにする白いポケモンに対して、私は怒りと呆れの感覚を同時に抱く。
あの白いポケモンはあの空間で、タブレットの画面を通して私を観察しているに違いない。
人智を超える存在に対して人体改造と覗き見に対する怒りを抱く一方、絶対に敵わない事を悟り、その性癖に呆れてしまう自身がいることに、私は気がついた。
この世界は白いポケモンにとって、タブレットに映る『映像』程度の世界なのかもしれない。そのような世界に送り込まれる私は、さながら操られるマリオネットである。
マリオネットである以上、私は操り手に逆らうことはできない。私は思わず溜め息をこぼすと、小さな声で白いポケモンに話しかけた。
「それで...この世界はいったいどういう事だ?明らかに災厄が起きた後じゃないか?」
『君の言う通りだよ。そこは災厄が起きた世界、もはや救うことすら叶わない哀れで滅びゆく世界だね』
白いポケモンは淡々と語り、その言葉を聞いた私は周囲を見渡した。周りの空気や風、水が一切動かず、まるで撮影した写真の中に放り込まれた錯覚に陥りそうな雰囲気である。
私の心情を理解しているのか、白いポケモンは話し続ける。
『その世界は星の停止という異常現象が起きた後だね』
「星の...停止?」
聞き慣れぬ単語に対して、私はつい鸚鵡返しをしてしまった。私の反応が愉快なのか、白いポケモンは押し殺すような声で笑うと話を続けた。
『その世界には惑星の自転をコントロールして時間の流れを調整する時の歯車と、歯車を管理する時限の塔がある...でも時限の塔が崩壊し歯車も機能しなくなってしまってね...その結果、惑星の時間そのものが停止してしまったよ』
「...」
『まぁ、厳密に言えば時間は停止してないよ。より正しく言えば惑星の自転周期が延長し、時間の概念が崩壊してしまっているね』
白いポケモンの言葉を聞いた私は、それだけでこの世界に起きた異常現象を理解した。惑星の自転が大きく乱れたのだ。海面上昇、陸地の水没、地殻変動や磁場のバリアが無くなることでの紫外線・放射線量の増加、大気の希薄化、これらの言葉からもどれだけの被害が生じるかは想像すらできない。
私のいる岩場に草が一切生えていない理由も、おそらくはそれらに起因する。私は足下に目を向けると、それを指先でなぞった。
『その世界は過去にも災厄により、大打撃を受けている...加えて今回の星の停止と恐怖による暴動が、数少ない生存者を更に減らしている』
「つまり、私にそれを止めろと言いたいのか?」
『そうだね。以前も君と同じく人間を転生させたけど、失敗に終わってね...今度はアレと正反対の性質を持つ人間に依頼しようと思ってね』
以前の災厄、その言葉を聞いた私は顔も知らない人間に対して同情した。
「...それで、私はどう動けばいいの?」
『とりあえずは星の停止が起きるより前の時代にタイムスリップする必要があるから...セレビィというポケモンを捜すしかないね。ただ、僕もセレビィがどこにいるかは知らないから、後はよろしくね』
無茶ぶりにも程がある依頼、鬼畜すぎる発注を受注せねばならぬ状況に私の頬は僅かに震える。胸の内に広がる憤怒と絶望が叫び出したい衝動に繋がるが、私はすんでの所で堪えると白いポケモンに対する怨みの言葉を心の中で呟いた。
そもそもセレビィがどのようなポケモンなのかは私も知らない。仮にセレビィを知っており、出会えたとしても「過去に行きたいのでタイムスリップさせて欲しい」と話したところで無視されるのが関の山である。
つまり、私が取るべき行動はセレビィを捜すと同時に説得する根拠を提示しなければならない。
初めての土地でスマートフォンもインターネットも地図もない現状は、まさしく絶望の二文字が当てはまる。
何が『新しい生を謳歌』だ、早速自殺したい衝動に駆られた。しかし、あの白いポケモンに向かって中指を立てた手前、素直に自殺するのは些か歯痒い事である。
あの白いポケモンはタブレットでオンラインゲームを楽しみ、あまつさえ課金までするような者である。つまりは生粋のゲーム好きである。そのような者がタブレットの画面越しに見える世界を、心の底から案ずるような聖人とも思えない。
突き詰めるところ、あの白いポケモンにとって私の人生は『ゲーム』である。
ゲームは遊びや楽しむ程度で興じるものであり、本気を出すのは試合だ。あの白いポケモンはタブレットの画面越しに私が慌てふためく様子を観察し、今も笑みを浮かべているだろう。
そのような者の横っ面を全力で叩くのはどれほど気持ちの良い事なのか、想像すらできない。
頭の中から白いポケモンの声が聞こえなくなった頃、私は糞みたいな二度目の人生における僅かな楽しみを見つけ、僅かに笑みを浮かべていた。
*
ルカリオのオズワルドは手にした雑巾で花瓶を拭くと、生けられている花を見て目を細めた。彼の嗅覚は美しく生けてある花の放つ香りを捉え、時に嬉しそうに揺れ動く。オズワルドの近くには掃除に使う道具一式が置かれており、彼が古びた洋館内を清掃して回った痕跡である汚れがモップに染み着いている。
オズワルドが意識を取り戻してから一週間ほど経過した。
その間に体力を回復させると、オズワルドはガブリアスのゼーンやマフォクシーのヘレンに礼をすべく、自身の出来ることを行ってきた。最初は料理の作り方、掃除の仕方などに関する知識が一切なく、ゼーンやヘレンを戸惑わせた。だが、日数が経過すると共にオズワルドはゼーンやヘレンから教わった事を瞬く間に吸収し、今では洋館内全てを掃除しゼーンやヘレンの食事も作れる程までになっている。
花瓶の汚れを落とし、中の水を交換したオズワルドは嬉しそうに花弁を触ると、窓の外に目を向けた。
時刻は昼前である。
太陽が頭上に昇り、暖かい空気が彼らを包む。開け放たれた窓から吹き込む風にオズワルドは心地良さそうに目を細めると、バケツの水に反射する自身の姿を見た。
ゼーンに保護されたばかりのオズワルドの身なりは、お世辞にも清潔とは言えない状態であった。全身は汗と垢、客の掛ける体液や精液で汚れ、録に風呂に入れられていない姿は正視するには些か困難なものである。加えて食事や休息も満足に与えられず、売春のための興奮剤として媚薬やアルコールの類が投与されており、衰弱や栄養失調に陥っていた。
だが、この一週間でオズワルドの体力はメキメキと回復し、清潔な風呂で身体を清めることにより、今の彼はバンギラスに捕まる前のように美しいルカリオに戻っている。加えてオズワルドはアルファベットや足形文字を読み書きできるほどの教養を元々持ち合わせているため、彼は様々な知識を本から得ると、あっという間に応用的な事まで行えるようになった。
ベースとしての能力の高さに加え、美しい容姿を持つオズワルドに対して、ゼーンとヘレンは感服せざるを得なかった。
彼らの信頼を見事に得たオズワルドは、今日も洋館内を掃除すると続けて彼らの昼食を作るべく、キッチンへと足を運んだ。
「オズワルド」
バケツとモップを物置に収納したオズワルドの背中にゼーンの声が届いた。物置の扉を閉めてオズワルドは振り向くと、悪人面のドラゴンを見上げた。
「どうかしましたか?」
オズワルドの質問にゼーンは頷くと、口を開いた。
「午後からヘレンがギルドの方に顔を出すから、手伝いを頼むよ。荷物がそれなりの量な上、帰りも遅くなりそうだからね」
ゼーンの依頼にオズワルドは「わかりました」と応えると、物置に背を向けキッチンへと歩いていく。その細い背中を見届けるゼーンは、彼を保護した時に抱いた疑問を再度思い出していた。
オズワルドは今では使われていないアルファベットを解読できる教養の持ち主である。
ゼーンの知る限り、その様な能力を有するポケモンは学者か教会の関係者くらいしかいない。だが、オズワルドは商品として扱われ、バンギラスの下では性奴隷として飼われていた。たいていの場合は人買いや奴隷商人に買われるのは、戦争に敗れた捕虜や密入国者、戸籍の無い者、邪教徒と言われるゼクロム教の信者である。
しかし、オズワルドの知識はそれらのポケモンと一線を画するものである。
明らかに矛盾する状況、それこそがゼーンの抱く疑問である。オズワルドは普通のルカリオではない、だからこそゼーンはオズワルドを保安官やプクリンのヘンデルに渡さず、自身の近くに置いた。オズワルドが何者か、何を知っているのか疑問と好奇心を抱くゼーンは、キッチンに消えるオズワルドの細い背中を見届けると、踵を返して歩いていった。
一方、キッチンに移動したオズワルドは暗所に設置されているオーク材が用いられている家具に手を伸ばした。それは亜鉛やコルク材により構成され、内部に大きな氷を内蔵している冷蔵庫の一種である。
オズワルドは冷蔵庫を開けるとよく冷えている肉の塊を取り出し、調理台の上に置いた。まだ冷気を纏うそれをナイフで薄く切ると、オズワルドは続けて暗所に置いてある箱から複数の調味料や香辛料を取り出し、肉にかけた。
この世界では香辛料や調味料は非常に高価な物である。場所によっては同量の金と取引されることもあるが、オズワルドたちの住む洋館の近くにはトレジャータウンがある。このトレジャータウンは温帯に位置し、加えて海の近くで貿易港の役割も担っている。そうすると、自然に様々な地方の特産品や情報が集まり、交易の場となる。ヘンデルのギルドがあるのも、このためである。
更に言えばゼーンとヘレンの財政状況も関係している。
この世界での医療は地方毎に差があり、ゼーンやヘレンのような専門技能を持つポケモンもいれば、シャーマンによる祈祷や信仰する神々に生贄を差し出して治療しようとするポケモンもいる。つまり、ゼーンやヘレンのようなポケモンは人口比に対して数が非常に少ない。故に彼らの下には日夜治療を求めるポケモンたちが訪れる。加えてギルドを束ねるヘンデルから仕事を紹介される事もあるため、彼らが仕事に困ることはない。
つまり資金繰りに困ることが無い、ということである。
もっとも、ゼーンやヘレンは患者を救うために薬や材料、器具に対する投資を惜しむことがないので、時々お財布の中が寂しくなる事もある。
それも滅多に無いので、基本的に彼らは資産に恵まれている。それ故に香辛料や調味料などの高価な食材も購入する事ができるのだ。
オズワルドは胡椒の実を取り出すと、それをすり潰し先ほどの肉に満遍なくまぶせた。その後、肉を石釜に入れ加熱させる。その間にオズワルドは朝食の前に作っておいたパン生地を取り出すと、香辛料を再度振りかけ、それを別の石釜に入れた。
それらに火が十分に通った頃、キッチン内に食欲を擽る香りが広がり、その匂いにオズワルドは思わず目元を緩める。
「ずいぶん良い匂いね、もう食べられるのかい?」
そこにヘレンが入ってきた。
彼女はギルドに運ぶ薬を入れた鞄を手に持っており、それを机上に置いた。オズワルドはヘレンの問いに頷くと、木製の食器に肉と新鮮な野菜を盛り付け、カップにオレンの実から作った木の実ジュースを注いだ。
「パンも肉も焼きたてなので、とても美味しいと思いますよ」
オズワルドの返事を聞いたヘレンは嬉しそうな笑みを見せると、椅子に腰掛けた。オズワルドは彼女の正面に食事を運ぶと、それを並べた。
豊潤な香りがヘレンの嗅覚を刺激し、彼女は無意識に唾液を飲み込んだ。
「...これは美味しそうだ」
率直なヘレンの感想にオズワルドは嬉しそうに微笑むと、辺りを見渡した。昼食になっても姿を現さないゼーン、その姿をオズワルドは捜す。
「ゼーンが来ないですね...」
心配そうにオズワルドは呟くが、その背中にヘレンは「部屋に行ってみなさい」と声をかけた。既に彼女はオズワルドの手料理に夢中になっており、オズワルドやゼーンの事など眼中にない。その姿にオズワルドは苦笑いを浮かべると、ゼーンの姿を求めて2階に上がった。
この洋館にはオズワルドの知る限り、ゼーンとヘレンしか居ない。時に治療のために他のポケモンが滞在するが、彼らは1階にある治療室の近くにある病室にもっぱら居る。
つまり、洋館の2階にはオズワルドとゼーンしか居ない筈である。オズワルドはそれ故に迷わず廊下を歩き、ゼーンの部屋に近寄った。
扉は僅かに開かれており、隙間から物置が聞こえる。
オズワルドはそれを耳にすると、扉に手をかけ、躊躇なく開いた。
「ゼーン、お昼ができ...」
言葉が途切れた。
狭い室内には人影があるが、それは見慣れたゼーンの物ではない。そこに居たのはドラゴンタイプのポケモンではなく、黒い狐のようなポケモン、ゾロアークである。牝のゾロアークは手にした濡れタオルを思わず落とすと、入り口に立っているオズワルドを見て唖然としていた。
一方、オズワルドは初めて見るゾロアークに動きが止まったが、彼女の身に纏う見慣れた波導と嗅ぎなれた匂いに首を傾げると、不安そうな口調で尋ねた。
「...ゼーン?」
不思議そうに呟くオズワルドの言葉、それを耳にしたゾロアークは苦虫を噛み締めたような表情を浮かべると、微かに舌打ちした。その姿にオズワルドは疑問の目を向けるが、遠くから届くヘレンの呼び声に反応し、踵を返した。
「待って...」
オズワルドの背中にゾロアークの声が届く。
それを耳にしたオズワルドは足を止めると、肩越しに振り向き、ゾロアークを見た。ゾロアークは手にした濡れタオルを机に置き、入り口に立つオズワルドの傍に歩み寄ると、彼を後ろから抱き締めた。
ゾロアークの纏う波導、そして雰囲気と匂いはオズワルドの知るゼーンと瓜二つである。
それを理解しているオズワルドは、背後から伝わるゾロアークの体温を意識した。ゾロアークは悲しそうな雰囲気のまま、オズワルドを抱き締めると、彼の肩に顔を埋めた。
「...騙してゴメンね」
ゾロアークはそう呟くとオズワルドの頬に口付けした。その感触にオズワルドは擽ったそうに目を細めると、離れるゾロアークを見た。
ゾロアークは窓際まで下がると、日光の差し込む窓を背にしてオズワルドを見つめた。彼女の視線を背中で受けたオズワルドは、そのままヘレンの下へと歩いていった。
その姿を見送ると、ゾロアークは頬に手を当て、溜め息を零した。
ヘンデルのギルドに繋がる道を歩くオズワルドは、背嚢の重さを意識し疲れた表情を浮かべる。その姿を見たヘレンは微かに苦笑いを浮かべると、口を開いた。
「もうすぐ到着するけど...少し休憩する?」
ヘレンの質問にオズワルドは首を左右に振ると、ヘンデルのギルドに続く長い階段を昇る。わざわざ崖の上に建てるというヘンデルのチョイスを恨みつつ、オズワルドは重たい背嚢を運ぶと、最上段を昇りきり、深く深呼吸した。
気候は小春日和、時刻は昼下がりであり、高台の上には海からの潮風が満遍なく吹き込んでいる。磯の香りと波音が疲労したオズワルドの心を和ませ、彼は目を細めると正面にあるギルドの建物を見た。
それはプクリンの姿を模した造りになっており、入り口の手前には地面に縦穴が掘られ、木製の格子が載せられている。それはポケモンの足形を見て身分を判断するセキュリティーであるが、同種のポケモンの場合ではセキュリティーとして成立しない。
その事をオズワルドは初見で見抜き、改めてトレジャータウンと呼ばれるこの街やヘンデルのギルドが平和な時を過ごしているのか実感した。
「入るぞ」
ヘレンは木製の格子に足を載せず、代わりに縦穴に向かって声を響かせた。縦穴からポケモンの声と物音が届いた数秒後、ギルドの入り口を封鎖する柵がゆっくりと上がり、オズワルドとヘレンに向かって口を開けた。
まるで自己顕示欲の塊のような建物、それに足を踏み入れることにオズワルドは微かな抵抗感を抱く。だが、ヘレンはオズワルドの心情などお構いなく足を動かすと、ギルド内に入った。オズワルドも遅れてヘレンの後を追い、ギルド内に足を踏み入れた。中には下のフロアに降りる螺旋階段が設置されており、ヘレンは迷いなく階段を降りていく。オズワルドも彼女の背中を追い、足を動かす。
そこは広い空間である。
地下をそのままくり抜いた構造なため、壁は岩壁が剥き出しである。しかし、この岩壁が自然な温度を調整しており、寒くもなく暑くもない最適な気温を維持している。ギルドの建物自体が高台に建てられているため、岩壁の一部はくり抜かれ外界と室内を繋ぐ窓を構成している。窓には高価なガラスがはめ込まれており、ギルドの有する資金力が伺える。一部の窓は開け放たれており、室内を換気している。また、室内の彼方此方に照明である松明が置かれており、地下とは思えない明るさを提供している。
ヘレンはそのまま地下2階まで降りると、広い空間内を歩く。オズワルドも彼女を追うと、横目で室内を見た。
室内にはギルドの構成メンバーであるポケモンたちの姿があり、ビッパやチリーン、キマワリ、ドゴーム、ヘイガニ、グレッグルなど多種多様である。その姿をオズワルドは興味深そうに観察し、ヘレンは迷いなくギルド内を歩く。
やがて、ヘレンは室内の一角にある部屋に入り、オズワルドも続けて入った。
室内には大量のリンゴ、セカイイチに囲まれているヘンデルがいた。ヘンデルは至福の表情のまま、セカイイチを磨いており、時に惚れ惚れとした表情で真っ赤なそれを見つめている。ヘンデルの傍にはギルドの次席でヘンデルの補佐兼スポークスマンでもあるペラップ、ノイズがいる。
「失礼します」
ヘレンは2人に向かって声を掛けるが、セカイイチを磨くことに集中しているヘンデルは気づいておらず、ノイズのみが反応した。
「やっと来たようだね、薬の在庫も切れかかっているから待ち遠しかったよ」
声色の高いノイズはヘレンに向かって言うと、依頼していた薬を渡すように促してきた。ヘレンは彼の要請に頷くと、オズワルドが降ろした背嚢から幾つかの薬を取り出し、机の上に置いた。ノイズはそれらを見比べると、満足そうに笑みをみせ、口を動かした。
「確かに注文の品は全てあるようだね、これでワタシも安心して探検の依頼を受注できるよ」
「探検隊にとって薬は命ですからね」
ノイズから賛美の言葉を頂戴したヘレンは自身の仕事を誉められ、嬉しそうな言葉を漏らした。それにノイズも賛同すると、彼女の肩越しに見えるオズワルドを見た。
「ところで...そこのルカリオは...」
ノイズの質問にヘレンは「あぁ」と短く呟くと、口を開いた。
「この間、ゼーンが連れてきた旅のルカリオだよ。名前はオズワルド...何でも薬学を学びたいとのことでね」
ヘレンは真実に嘘を織り交ぜて紹介した。彼女の紹介にオズワルドはノイズに向かって笑みをみせた。ノイズはヘレンの紹介とオズワルドの笑みを見比べると、「ふぅん...」と声を漏らした。
「...ワタシはノイズ、何か困ったり、仕事を探しているのなら、ワタシたちに声をかけておくれ」
親切なノイズの言葉にオズワルドは「ありがとうございます」と応えた。素直に礼を述べるオズワルドの態度にノイズは笑みで応えると、ヘンデルに目を向けた。最後のセカイイチを磨き終えたヘンデルは、ようやく顔を上げヘレンとオズワルドを見た。
「やぁ!トモダチたち!」
唐突なヘンデルの言葉、それに慣れていないオズワルドは目を丸くさせるが、ヘレンとノイズは努めて冷静なままヘンデルを見ている。ヘンデルはセカイイチを磨いたタオルを机の上に置き、そこに並べてあるヘレンの薬を見つめた。
「...うん、注文通りの数と品だね。やっぱりヘレンの薬が無いと、みんなを安心して送り出せないからね」
ヘンデルはまん丸の目でヘレンを見つめると、満面の笑みをみせた。ヘレンもギルドトップのほめ言葉を素直に受け止め、「ありがとうございます」と応えた。
「さてと、お代はノイズから受け取ってね...それで、キミは?」
急に話を振られたオズワルドは緊張した表情を浮かべると、無意識に背筋に力を込めた。その姿を横目で見たヘレンは助け船を出すべく、口を開いた。
「彼はオズワルド、薬学を学びたいそうなので、私たちの所に滞在しています」
ヘレンの紹介を聞いたヘンデルは無邪気な笑みを浮かべると、オズワルドの目を見て「よろしくね!」と言った。親しげなヘンデルの言葉にオズワルドは若干の戸惑いを覚えたが、素直に差し出された彼の手を握った。
手中に広がるプクリンの柔らかい体毛の感触に、オズワルドは擽ったそうに目を細めた。
一方、ヘレンは様々な薬をノイズに渡すと、代わりに報酬である金貨の入った袋を受け取った。その中身と枚数を確認すると、ヘレンは「どうも」と言い、それを鞄に入れた。
「さてと、私たちもそろそろ戻りますね。また入り用の場合は声をおかけください」
「うん、その時はよろしくね」
さり気なく営業活動すると、ヘレンはオズワルドに声をかけた。彼女の呼び声にオズワルドは頷くと、ヘンデルとノイズを見てお辞儀した。
「それではまた、失礼します」
丁寧なオズワルドの態度にノイズは感心したように頷き、ヘンデルは手を振って見送った。優しく親切なヘンデルとノイズの見送りに、オズワルドは嬉しそうな笑みで応えると部屋を後にした。
扉が閉められ、室内にはヘンデルとノイズのみがいる。
ヘンデルの大きな耳が動き、オズワルドとヘレンが上階に移動した事を確認した。その動きを見たノイズはゆっくりと口を開いた。
「...親方様」
ノイズの声にヘンデルは頷くと、横目で彼を見た。そしてヘンデルは視線を扉に向けると、ノイズに向かって話し出した。
「とりあえずギルド連盟とレシラム教がそれぞれ管理している戸籍記録と、後は保安官事務所が管理している住民記録と最近街を出入りしているポケモンのリスト、それに先日摘発された売春宿と関係のある奴隷商人の商品リストを洗ってみて」
「...やはり、あのオズワルドという青年は...」
ノイズの質問にヘンデルは「うん」と応えると、先ほど見たオズワルドの目を思い出した。
「あれは堅気の目じゃない...何か裏があるよ。それに...ゼーンも気づいている筈だよ」
「だからこそ僕には隠していたんだよね」とヘンデルは呟いた。世界最高峰のギルドを束ねるだけあり、ヘンデルの人を見る目は確かである。そして、そのヘンデルの相棒を長年務めるノイズもまた、優秀なポケモンである。故にノイズはヘンデルの言葉に頷くと、小さな羽を羽ばたかせ窓から外に出た。その姿を見送ったヘンデルは、とりあえず磨き上げたセカイイチを手に取ると、それに口をつけた。
口内に至高の味が広がる。