アンドロイドは沼男の夢を見るか

  ────ハードディスク検出……初期化

  ────メモリ読み込み……

  ────メインシステム起動

  ────スタートアッププログラム実行

  ────動作確認……良好

  ────本機は正常に起動しました。

  目が覚めた。

  はて。だが、何だろう。「瞼を開けた」と言うには、何処か違和感のある感覚だった。

  何がどうおかしかったのか、口で説明するのは少し難しい。例えるなら、真っ暗だった部屋に突然照明が点ったような、視界一面を塞いでいたモニターが急に起動したような、そんなイメージ。

  寝ぼけているのだろうか、とも思ったが俺にしては出来過ぎなぐらいに寝覚めがいい。普段ならしつこく後ろ髪を引いてくるハズの睡魔が、名残も未練もなく、最初から存在しなかったかのように立ち消えている。こんなにもスッキリと目が覚めたことが、これまでの人生一度でもあっただろうか。

  それだけ熟睡したということなのか。

  そうなると、今度は時刻が気になってくる。いや、怖くなってくる。

  「Perla、今何時だ?」

  違和感。

  目元を擦りながら、俺は恐々と自宅に搭載しているハウスメイドAIに呼びかけた。

  寮を出てこのアパートに住み始めてからだから、Perlaとの付き合いもかれこれ十年以上になる。俺の寝坊癖は彼女もとっくに学習済みだ。普段なら、毎朝起床時間までしつこい程繰り返しアラームを鳴らしてくれるハズなのだが⋯⋯

  「Perla?」

  違和感が増す。

  やはりというか、返事がない。

  これは、いよいよ故障したか。いや寧ろ、耐用年数から考えても、今まで一度も故障らしい故障もなかったのが奇跡みたいなものだ。今更それは仕方ない。

  修理は後程業者を呼ぶとして、今は時間を確認するのが先決だ。サイドボードに手を伸ばせば、すぐそこに携帯端末がある。

  職場からの通知が殺到していないことを祈りながら左手をさまよわせて、違和感に手を止めた。

  端末が見つからない。どころか、ベッドの縁まで手が届かない。指先をどれだけ伸ばしても、シーツの感触がずっと途切れず続いている。

  おかしい。自宅のベッドが、こんなに広い訳はない。悲しいかな、寝返りでうっかり転落出来る程度のサイズしかないハズだ。

  そこでやっと、ここが自宅ではない可能性に思い至った。それなら、Perlaが反応しないことにも合点がいく。

  スッキリ目覚めたつもりだったが、やはり寝ぼけているのだろう。

  目元を拭っていた腕を下ろし、軽く周囲を見回してみる。

  思った通り、見覚えのない場所だ。

  キングサイズをも超えようかという特大サイズのベッド。それも楕円を描くような特殊な形状に、その縁からピッタリとベッド全面に覆い被さる、半透明のドーム状の天蓋が見えた。

  見覚えはないが、こうした場所には心当たりがある。

  近頃増えてきたという、カプセル型の性風俗店だろう。個室を用意するよりも設備投資が安価に済むことから、違法脱法含めて様々な形態の店が広まってきているという話だ。

  ココも、そんな施設の一つだろう。

  薄い紫のライティングに、微かに甘い花の香り、そしてこの如何にもいかがわしいピンク色のシーツを見れば、どんなに鈍くとも察しがつく。

  だが、そうだとするなら、どうして自分がそんな場所にいるのかが解せない。

  さっきから頻りに昨夜のことを思い出そうとしているのだが、どうしたことかそれがまるで上手くいかない。昨夜どころか、昨日一日何をしていたのかさえ判然としない始末。

  記憶を無くす程深酒をしたのか、とも思ったが、それにしては今全く酒が残っている気配がないのも不可解だ。吐き気も頭痛もないどころか、体調は頗る良好。何なら日頃の疲労も取れて身体が軽いぐらいだ。

  いっそ、夢の中だという方がまだしっくりくる。それぐらい、妙に現実味が薄く思えた。

  「あぁ~⋯⋯くそっ」

  悪態と共に、口からこぼれる違和感。

  何一つ要領を得ない状況に、苛立ちばかり募っていく。

  それで苛立ちが癒える訳じゃないとわかっていながら、ガリガリと乱雑に頭を掻く癖が直らない。

  溜め息一つ。八つ当たりでもするように、勢いをつけて背中を深くベッドへ沈めたところで、ふと見知らぬ誰かと目が合った。

  知らない顔だ。

  見覚えはない。

  年齢は十四、五歳ぐらいだろうか。レッドタビーの、猫の少年だ。

  だが、どうやらただの少年ではないらしい。

  右耳の付け根に、ライン状に発光するLEDマークが見て取れる。これは確か、サイバーメイト社製のアンドロイド全てに共通する特徴だ。

  サイバーメイトのアンドロイドは、他社とは一線を画す高性能なAI人格と精巧な造形故に、外見上人間と全く区別がつかないことで知られている。そのため、自社製品の全ての機体にこのLEDマークを搭載し、一目でアンドロイドと判別出来る仕様になっているのだそうだ。

  こんな所にいることに加え、何も服を着ていない裸の格好からしても、恐らく用途はセクサロイドだろう。

  言わずもがな、セクサロイドとは性行為を目的に製造されたアンドロイドの通称である。

  セクサロイドの製造販売、風俗営業は現在一部の州を除いて合法として扱われている。法律上アンドロイドはあくまでも人工物であり、器物として解釈される。ペットとも扱いが異なり、議論こそされているものの、現状愛護法に相当する法律は存在していない。

  AIに人格権を認めるべきかどうかについての議論は専門家に任せるとして、それよりも俺は俺が直面している問題について考えるべきだろう。

  文字通り、直面している現実に。

  目の前の光景に。

  頭を掻いていた手で、頬をつねる。

  右手で、右の頬をつねった。

  それなりに痛い。痛みを感じる。

  一見バカバカしく思えるその行為だが、今の俺にとって重要な情報を幾つももたらしてくれた。

  まず一つは、これが夢じゃないということ。夢の中でも痛みを錯覚するケースがあり得るという話は、この際脇へ置いておく。

  そしてもう一つ。

  目の前で相対している少年が、左手で自分の左頬をつねっているという事実。

  頭上。ベッドへ仰向けになっている俺にとっては、正面。

  ドーム状の、半透明の天蓋。アクリル製のツルリとした表面に、彼はいた。

  写っていた。

  反射して。

  馬鹿みたいに、目をパチクリと丸くしながら。

  「は⋯⋯?」

  また、違和感がした。

  それが、その違和感が、ずっと俺が声を出す度に感じていたものだということに気づいた。そしてその、正体についても。

  聞こえた声が、まるで俺の声じゃない。

  成人男性のものとはほど遠い、声変わり前の少年のような高い声が、自分の喉から響いてくる。

  「なん、で⋯⋯?」

  頬をつねっていた手で、鼻先へ触れる。

  低い、猫科種族特有のマズルの感触だ。

  俺の、本来そこにあって然るべきハズの、犬科の長いマズルが、存在しない。

  今更のように、慌てて飛び起きた。

  反射した虚像ではなく、自分の目で自分の身体を見回す。

  本能がそうさせるのか、こんな時でも無意識にまず目が行ったのは、己の股間だった。

  ⋯⋯小さい。明らかに。

  何より、見栄でも何でもなく、俺のイチモツは平常時でも根本まだ剥けていたハズだ。こんな、正しくお子さまといった風に、先っぽまで皮に包まれてとんがった形はしていなかった。

  異変は当然そこだけじゃない。

  目を移せば、毛色も、模様も、体つきも、身体的特徴の何もかもが自分の認識と食い違う。

  とにかく何もかもが小さい。短い。細い。

  こんなハズはない。そんなハズがない。

  混乱を押し殺しながら、顔に触れていた手で、ゆっくりと耳元をなぞった。

  見えないが、確かに指に触れる感触がある。耳の付け根。そこへ真っ直ぐに走る、毛皮とも地膚とも違う感触。

  LEDマークの感触。

  決定的だ。

  これは、俺の身体じゃない。

  だが、そんなことがあり得るのか?

  あり得ない。

  俺の中の常識はそう叫んでいる。

  やはり、全部夢だという方がまだ現実的だ。矛盾した表現だが、そうとしか考えられない。

  だって、そうだろう。

  人間の身体がセクサロイドに変化するなんて、そんなことが現実に起こるハズがない。

  俺は人間だ。紛れもなく、間違いなく、人間だ。

  セクサロイドなんかじゃない。

  名前はエリック・エリソン。三十二歳。独身。種族はジャーマンシェパード。職業、ワイドランド州バーリング市警捜査官。市民IDー48892105。

  田舎で暮らす両親の顔も、自分が生まれ育った町のことも全部覚えている。それらは、疑いの余地なく真実だ。これまで三十二年生きてきた人生に、嘘偽りはない。

  だが、わからない。

  昨日のことだけが。昨日の俺が何をしていたのかが。わからない。

  だからこそ、わからない。

  ここで今、こうして目を覚ますことになるまでの間に、自分の身に何が起きたのかが。

  わからない。わからない。わからない。

  頭が重い。耳鳴りがする。

  視界がチラついて、目眩がしてきた。

  額が熱い。

  ダメだ。考えていても埒があかない。

  こういう時は、どうしたら良いんだったか。

  俺は知っていたハズだ。

  考えろ。

  違う。違わないが、今は違う。

  まず動け。

  そうだ。それだ。

  今までだって、そうやってきたハズだ。

  だいたい俺は、デスクに座ってジッとものを考えるようなタイプじゃない。一にも二にも、まずは脚。答えは、自分の脚で探すものだ。

  その方が俺らしい。

  そうと決めたからには、まず────

  と、ベッドに手をついて立ち上がろうとしていた俺の耳に、何やら空気が抜けるような音が聞こえた。

  それから間を置かず、微かな駆動音と共に頭上の天蓋がスライドしていく。

  「え⋯⋯」

  開いた。

  え、開くのか? 中に人がいるのに? 外から?

  こういうのって、普通ロックとか掛かってるもんじゃないのか?

  全く予期していなかった事態に、身体が硬直してしまった。どうすることも出来ず、スライドしていく天井をベッドに座り込んだまま黙って見送る。

  そうして身構えていると、中程まで開いたドームの隙間から、ノッソリと背を屈めるようにして覗き込んできた男と、目が合った。

  「おっ、ラッキー。こりゃ当たりだな」

  弾んだ声音が、狭い空間で僅かに反響する。

  思わず、身震いした。

  咄嗟に股間を隠すことすら忘れた。

  身体に突き刺さる、無遠慮な視線。内心の下品な欲望を隠そうともしない男の表情に、思わず怖気が走る。

  その目を、横から見たことはあった。もしかしたら、自分もそんな目をした瞬間が、過去に一度なりとあったかも知れない。

  だが、正面から直接その目で射竦められることになるなんて予想だにしていなかったし、それがこんなに身の毛もよだつことだとは、想像だにしていなかった。

  「こういう店はピンキリなもんだけど、サイバーメイト製でしかも新品ときた。ツイてるツイてる」

  男の目的は明らかだ。

  ここが風俗店で、男の目からは俺がはセクサロイドに見えているのだから、当然と言えば当然である。

  いや、だが、それは困る。と言うか冗談じゃない。

  俺はセクサロイドじゃないし、ソッチの気もない。

  何より⋯⋯相手が顔見知りともなれば、尚更そんな目で見られるのはまっぴらだ。

  「あ、アッシュ⋯⋯?」

  「あン?」

  膝立ちでベッドに上がり込み、ドームの内側に備え付けられたパネルで天蓋を操作していた男が、眉根を寄せて俺を振り返る。

  立てば二メートルはあろう巨漢。横幅も人並み以上。目の回りを取り囲む特徴的な白黒模様は、この国では珍しいパンダ人種であることを示している。

  そして、種族の印象に反してこの愛嬌の欠片もない仏頂面とくれば、見間違えようもない。

  二年前に退職したきりだった、俺の元同期だ。

  「⋯⋯アッシュ、アッシュだろっ!? アツシ・シムラ!」

  思ってもみなかった再会に、思わず場違いな興奮が込み上げてくる。懐かしさからつい口をついて、当時俺しか呼んでいなかったニックネームが飛び出してしまった程。

  これには、向こうも困惑している様子だ。寄せていた眉を片方持ち上げ、胡乱な目で俺を見返してくる。

  そりゃそうだ。アッシュからは俺がただのセクサロイドにしか見えないんだ。それが突然、誰も知らない昔の徒名で呼んできたとしたら、誰だってこんな顔にもなる。

  だが、好きなだけ困惑させておいてやる暇はない。

  俺自身、状況がわからなくて困惑しきりなんだ。そんな中でこうして顔見知りと対面出来た、この幸運。今を逃せば、きっと二度とは訪れてくれないだろう。

  「俺だよ俺っ、わかるだろ!? エリックだ! バーリングポリスアカデミーで同期だった、エリック・エリスン!」

  「⋯⋯ぁあ?」

  アッシュの眉が、更に複雑な形に歪む。

  俺の名前を忘れてしまったって訳じゃないとは信じたいが、それでもとても理解してくれたって顔じゃない。

  くそ、やはりそう簡単にはいかないか。

  けど、諦めてたまるか。

  とにかく信じてくれるまで、畳みかけるしかない。

  「頼む信じてくれって! ホントなんだよ。目が覚めたらこんな身体になってたけど、中身は俺っ、エリック本人なんだよっ!」

  「あ~⋯⋯なんだ、そういうコンセプトプログラムかなんかなのか? 別に普通のプリセット人格でいいんだけどよ⋯⋯ってか、個人の過去の交友関係なんざどっから情報取ってきやがったんだか⋯⋯」

  駄目だ。話が通じてない。

  俺に向かって話してるってよりは、殆ど独り言といった体だ。俺を人格のある個人だとはまるで認識しておらず、あくまで風俗店の設備としか思ってない、そんな口振りに聞こえる。

  二年越しとは言え、アッシュとは同期としてそれなりに上手くやってたつもりだった。それなのに、相手から友人どころか人間とすら思ってもらえないってのは、些か以上に心にくる。

  だが凹んでいる暇もない。

  このままじゃ、「チェンジ」とでも言いかねない顔をしてる。

  言葉の限りを尽くして、俺がエリック・エリスン本人だと主張する。今はそれしかない。

  「ほら覚えてるだろっ!? 術科訓練で毎回俺がボコボコにしてたの! えぇ~っと他にも、ディサーマーの射撃訓練でいっつも俺とお前だけ教官から居残りさせられてたよなっ!」

  「⋯⋯ムカつく情報ばっか漏洩してやがるなオイ」

  これでも駄目か!

  もっとなんかないかっ、俺とコイツしか知らないハズの話とかなんか⋯⋯っ。

  「えっと⋯⋯そうだっ、確かバーリング署でお前が捜査二係に配属されとき、最初の上司があのシルバー・ワイモンドで、お前影でアイツのこと“スワイン”って呼んでたの知ってんだぞ!」

  「⋯⋯」

  そこで初めて、アッシュの耳がピクリと動いた。

  今までになかった反応だ。

  これは予想してなかったが、僥倖。

  少しでも、こっちの言葉に興味を持った様子だ。

  これを取っかかりに、こっちの話を聞いてもらえれば⋯⋯!

  「そうか⋯⋯まぁいいだろ。そこまで言うなら、こっちからもいくつか訊かせてもらうぞ」

  膝をついて身を乗り出していた俺に向き直り、アッシュはベッドの上で胡座をかいた。

  その目に、さっきまで浮かんでいた色情はもう窺えない。真剣な眼差しだ。

  ならば俺もと、それに真っ向から向かい合う。

  「それじゃあ⋯⋯アカデミー時代の寮、俺とお前は同室だった訳だが、あと二人の名前は?」

  「は? いや何言ってんだ。俺ら同室じゃなかっただろ。俺と同室だったのはケヴィン、アイザック、ジャスにルーサー。そんで向かいがお前とJB、デッカーとトーン⋯⋯だったよな?」

  アッシュの表情は変わらない。

  あれ、間違ってたか⋯⋯?

  いや、大丈夫のハズだ。トーンは随分前に田舎に帰ったって話だったが、ちゃんと覚えてる。

  「なら次だ。法学教官のマイアーズの口癖は?」

  「“いずれにしても”」

  「現警察長のフルネームは?」

  「ハリー・ブライアント」

  「刑事訴訟法における一罪一逮捕一勾留の原則について説明せよ」

  「一つの犯罪事実に対しては、原則一度しか逮捕、勾留が認められない」

  「ただし?」

  「えっと⋯⋯被疑者の逃亡や、入院などの理由による釈放、その後再度の逮捕が必要になった場合など、不当な逮捕、勾留の蒸し返しにならない場合に限り、認められる⋯⋯」

  「スッと言えこのぐらい」

  「うっ、るっせぇなっ」

  「そいじゃあ最後だ」

  最後。その言葉に否応なく緊張が高まる。

  この少ない問答で、アッシュが何を判断してるのかはわからない。たぶん、ここまで間違った返答はしてないハズだ。

  口振りからして、次の質問が恐らくもっとも重要になる。それに答えられるか如何で、アッシュが俺を信じてくれるか否かが決まると考えていいだろう。

  ごくり、と無意識に喉が鳴った。

  「俺が警察を辞めた理由は?」

  「⋯⋯」

  口を噤む。

  飲んだ唾が、この身体には無いハズの胃に落ちる音まで、聞こえた気がした。

  アッシュも、黙って俺を見据えたまま動かない。

  その顔に、どんな感情が隠されているのか、俺にはわからなかった。見てるだけじゃ、何も伝わらない。

  奇妙な沈黙が、互いの隙間を流れていく。

  俺が答えるのを待っているのか。

  当然そうだろう。投げかけられたボールは、今俺が持っているのだから。

  それなら、と。

  俺は口を開いた。

  「こっちが訊きてぇよ⋯⋯」

  率直に、思ったことを口にする。

  俺は、知らない。アッシュが何故その決断をしたのか。当時も、聞かされていないから。

  コイツは、同期の俺にも何の相談もなく、突然警察を去った。係が違ったし、その前後に長期の張り込み調査をしてた所為もあって、退職の挨拶もしていない。それどころか、俺がアッシュの退職を知ったのは、もうデスクが空っぽになった後だった。

  それ以来久しぶりの再会だった訳だが、まさかこんな形になるとは⋯⋯

  「ワリィ、そのことは、また話すわ」

  「⋯⋯おぅ」

  まぁ、いずれ話す気があるってことなら、今はとりあえず良しとしておこう。

  それより今は、もっと大事なのことがある。

  「しっかし、しばらく見ねぇ間に縮んだなお前。歳か?」

  「な訳あるか、てかお前も歳同じだろっ!」

  どうやら、アッシュは俺がエリック・エリスンであるということを信じてくれる気になったらしい。軽口を交わしながらも、それが何より嬉しかった。

  少しだけ、あの頃に戻ったような空気が懐かしく鼻の奥を擽る。

  相変わらず自分を取り巻く状況は飲み込めないが、目覚めてから気が滅入るばかりだった所に、ようやく一つ光明が見えた。

  なにせ、味方についてくれたのは、あのアッシュだ。アカデミー時代から、座学の成績は同期でも常にトップ。図体の割に腕っぷしこそからっきしだったが、それを差し引いても頭の切れは信用出来る。今の俺にとって、間違いなく心強い助っ人になってくれるだろう。

  とにかく、そうとくればまずは現状の整理からだ。

  手始めに、俺達は軽く互いの近況を打ち明け合うことにした。

  と言っても、アッシュの方は今日ここを訪れたのもまったくの偶然らしく、現状把握の役に立ちそうな情報は特に持ち合わせていなかった。

  聞けば、今は民間の調査会社⋯⋯要するに探偵のような仕事をしているらしく、つい先日一件実入りの良い案件を片付けたところで、久しぶりに懐が暖かくなったこともあって奮発して風俗店に立ち寄った、とのことだそうだ。

  いや、まぁ⋯⋯こんな形で元同期の性癖を知ってしまうことになったのは、俺としても複雑だが。

  「っていうか、仮にも元警察官だろお前⋯⋯それが小児性愛者って⋯⋯」

  「おいおい誤解すんなよ。俺は誓って実在青少年に手ぇ出したことなんざねぇし、ストレージにもチャイルドポルノの類は一ビットたりとも入ってねぇ。オカズは全部フィクションポルノ。偶の発散もこうやって寂しくセクサロイドがお相手よ。一つも御法に触れてねぇ以上、非難される謂われはないね」

  ⋯⋯そう言われてしまうと、返す言葉がない。

  内心の自由は万人に認められた権利だ。内に秘めているのがどんなに邪で冒涜的な願望だったとしても、内に秘めている限りはそれが罰せられることがあってはならない。

  アッシュの言葉を信じる限り、俺にアッシュの嗜好をとやかく言う筋合いはない。

  が、

  「けどな⋯⋯そうやって今、まさに、俺の変な所ジロジロ見てくることについては非難されて然るべきだよなぁ⋯⋯オイ?」

  「いやいやいやいや、そりゃお前それこそ勘違いってもんだ。第一、相手と向かい合わずにどうやって話が出来るっていうんだね、うん」

  「お前の話してる相手は“ソコ”じゃねぇっ!」

  アッシュの目線から両手で股間を庇いながら、俺は堪らず声を荒らげた。

  女性は男の視線が胸に行くとすぐにわかるなんて話はよく聞くが、こうまでわかりやすければそりゃあすぐ気づきもするだろう。

  って言うか何だコイツ、前からこんなヤツだったか?

  思えば確かに、十代の頃から数えてそれなりに長い付き合いだったハズだが、コイツと下ネタに類する話をした記憶がない。性癖を知った今となっては、それはそうかと納得するものの、いざ隠す必要がなくなった途端こうまで明け透けにセクハラしてくるものか。

  他に選ぶ余地がないとは言え、頼ったことを早くも後悔し始めた。

  「しょーがねぇだろ、お前がそんな俺の好みドンピシャリな姿になっちまったのが悪い」

  「それこそ非難される謂われがねぇよ。目が覚めたらいきなりこうなってた俺の気持ち考えてもみろ?」

  「最高」

  「お前は後日正式な手続きを踏んでぶッ飛ばすからな」

  現行法と服務規定の許す範囲での暴力ってものを見せてやる。国家権力の傘から抜けたこと、今になって後悔するがいいさ。

  「冗談はさておき」

  「ぶッ飛ばすのは割と本気だからな」

  「それもさておけ。で、さっきお前が言ったことで確認なんだが」

  「ぶッ飛ばすのに必要な手続きについて?」

  「暴力を手放せ。その前のセリフだ。『目が覚めたらいきなりこうなってた』ってとこ。その直前、目が覚める前のことは覚えてないんだな?」

  問われたことを反芻し、改めて肯く。

  何度思い返してみても、結果は変わらない。

  「なら、いつまでの記憶なら思い出せる? 日付でも、直近に見たニュースでも、担当した仕事でもいい」

  「いや⋯⋯どうもそれすら曖昧で⋯⋯因みに、今日って何月何日だ?」

  「九月九日。何かピンとくるか?」

  「⋯⋯ダメだ。さっぱり」

  過去の記憶は明瞭に思い出せるのに、それが最近の記憶になればなる程曖昧になってしまう。いつまでの記憶があって、いつからの記憶がないのか、その境界を把握することが出来ない。

  「素人の所感だが、事故なんかに遭ったときの外的ショック性健忘に近い印象だな」

  「あ~⋯⋯そういう被害者は何人も見てきたな。確かに、そんな感じかも」

  「大抵の場合は一過性で、時間を置けば記憶が戻ってくるもんだが⋯⋯今のお前は状況が特殊過ぎる。人間と同じ自然治癒力を期待していいのかもわからん」

  「病院、は門前払いだよな⋯⋯」

  「そもそも、お前は現状この店の所有財産扱いだ。俺が勝手に連れてく訳にもいかねぇだろ」

  所有、財産⋯⋯

  アッシュの言葉が、鈍い角度で胸に突き刺さる。

  いや、確かに身体がこの店のセクサロイドである以上、登録上そうなってしまうのは理解出来る。理屈の上では、理解出来るんだが⋯⋯納得出来るかは別問題だ。

  何度だって主張するけど、俺はあくまで人間だし、物扱いされていい気分がする訳がない。だが、それをアッシュに抗議するのも筋違いだとわかってる。

  だから、アッシュからは見えない唇の内側を、そっと噛んだ。

  痛みはある。それは、人間の身体でもアンドロイドの身体でも変わらない感覚で、少しだけ俺を安心させてくれた。

  「とにかく、現状じゃまったく情報が足りねぇ。ひとまずは、ここ数日のお前の身辺調査からだな。丸一日もありゃ粗方調べもつくだろうから、それまで大人しくしとけ」

  「大人しく⋯⋯って、まさかココでかっ?」

  「言っただろ、店のもん勝手に連れ出す訳にゃいかねぇって」

  「だからって丸一日も⋯⋯っそ、その間に客来ちまったらどうすんだよっ!」

  「⋯⋯」

  「な、なんとか言えよ」

  「ぎゃふん」

  「『なんとか』って言え!」

  じ、冗談じゃねぇ。

  いつ野郎に抱かれるかもわからないような場所に、丸一日もほったらかしにされてたまるか!

  なんだったら脱走してでも⋯⋯!

  「言っとくが、脱走とかは考えんなよ。所有者にゃアンドロイドの位置情報なんざ筒抜けなんだ。捕まったら、連れ戻されるだけだとは思うなよ」

  「⋯⋯」

  今度は、俺が「ぎゃふん」と言わなくてはならなくなった。

  敢えて明確にしなかったのは、アッシュなりの配慮だろう。もしかしたら、さっきの言葉で俺の顔色が変わったことに気づいたのかも知れない。

  逃亡アンドロイド、なんてものがいるのかは定かじゃない。俺の持ってる常識では、通常アンドロイドが所有者の下から無断で脱走するなんて事態は、そうそうあるものじゃない。と言うか聞いたことがない。

  アンドロイドに搭載されてる人工知能は、どんなに精巧に見えても膨大なデータに基づいて人の情動を模倣するプログラムに過ぎない。それ故、そこに自由意思や自我といったものが発生する余地はない。というのが、大凡の専門家の見解である。らしい。

  つまり、もしも脱走があったとすれば、それは回路やプログラムに余程深刻な損傷を負ったことによる誤作動に他ならず、そこまでの不具合が生じた機体は、回収されても修理に回されることはない。

  行き着く先は、廃棄処分だ。

  プレス機でぺしゃんこにされる自分をリアルに想像してしまい、思わず背筋を怖気が走った。

  「わかったろ。俺もなるべく早く手ぇ尽くすから、それまで大人しく────」

  「だったら⋯⋯!」

  駆け抜けた悪寒は、そのまま蹴飛ばすような勢いで俺の背を押した。

  押された勢いに任せ、ベッドに手を突いて立ち上がろうとしたアッシュの手を、上から押さえる。

  「頼む、一生の頼みだ⋯⋯」

  指が短かくなった所為で、握るのも一苦労だ。限界まで大きく開いた手で、縋るようにアッシュの手を握る。

  「俺を引き取ってくれ。俺のこと、お前の物ってことにしていいから。お前が俺の所有者ってことになれば、俺も一緒について外に出れるだろ?」

  考えた末、俺がココから出るためにはこれしか方法がない。

  この社会に出回るアンドロイドは、全て等しく誰かの所有物である。業腹ながら、俺もまた個人なり法人なりに所有される必要があるのだとするなら、せめてそれは信用出来る相手であって欲しい。

  今の俺にとって、アッシュ以上の人間はいない。

  「⋯⋯いやお前、引き取るったって⋯⋯店から買い取れってことか?」

  「そう、いうことになる⋯⋯けど、金のことならっ、元に戻ったら必ず払うから!」

  「払うって⋯⋯お前相場わかって言ってんのか? 新品で買うよりゃ幾らか安かろうが、それでもサイバーメイト製だぞ。お前、自分の年収⋯⋯」

  「か、借りられるとこ総ざらいしてでも何とかする! だから⋯⋯っ!」

  「あのなぁ、俺だって別に懐余裕あるって訳じゃねぇんだぞ⋯⋯」

  無理は承知だ。無茶苦茶言ってるのもわかってる。しかも、これを空手形で押し切ろうとしてるんだから、アッシュからすればたまったもんじゃないだろう。

  だが、形振り構ってはいられない。

  拝み倒してでも、媚びへつらってでも、足舐めてでも、アッシュに「うん」と言わせなくてはならない。

  そのためなら、なんだってしてやる。

  「頼む⋯⋯お前だけが頼りなんだ」

  握ってる手に力を込めて、真っ直ぐにアッシュを見上げる。誠心誠意、目を見て頼み込む。

  「⋯⋯」

  アッシュは何も言わない。

  ただ少し、喉仏が動くのが見えた。

  この頼み方じゃ駄目か?

  そうだ、確かアッシュの祖国では最大限の謝罪や誠意を示す仕草として、跪いて地面に手をつくポーズを取るんじゃなかっただろうか。

  あまり人から見られたくないポーズではあるが、背に腹は代えられない。どうせ見せるのもアッシュ一人なんだから、ここは恥を忍んでやってみるべきだ。

  そう決断して、早速ベッドに両手をつけようとアッシュの手から手を離したところで、逆にその手を掴まれた。

  「そこまで言うならよ⋯⋯一つ条件がある」

  「条件?」

  よし来た!

  思わず顔が綻んだ。

  「わかった、俺に出来ることなら何だって⋯⋯て、っうぉっ!?」

  手を掴まれたまま逆の手で肩を押されると、俺は呆気なくシーツの上で仰向けに転ばされた。

  今は体重差も体格差もあるとは言え、あのアッシュ相手にこうも簡単にひっくり返されたことに、少なからずショックを受ける。

  この野郎⋯⋯今は立場が立場だから下手に出てやるが、借りを返し終わったら覚えてやがれよ。

  そんな内心を隠しながら見上げた顔に、喉が小さく喘いだ。

  最初と同じ目だ。

  内で躍る欲望を隠そうともしていない、濁った目。かつての同期を見る目では、間違ってもない。

  「あ、アッシュ⋯⋯?」

  喉が震えた。

  冗談だよな?

  たったそれだけの言葉が言えない。

  肩を押さえる手が、握られた手が、言葉もなくそれを否定してくるから。

  「いやそう言えばよ、ココにナニしに来たんだったか思い出してな⋯⋯」

  こっちの呼びかけに反応らしい反応もせず、独り言のように呟くパンダ。

  覆い被さっていた姿勢からゆっくりと上体を起こすと、そいつはおもむろに着ていたシャツに手をかけ始めた。

  もう、肩も手も掴まれていないのに、俺には黙ってそれを見守っていることしか出来ない。

  ボタンを一つ一つ外していく毎に、見知ったハズの友人が、何か知らない別の生物へ変貌していくような、そんな恐ろしい錯覚が意識を蝕む。

  喉が、錆びついたパイプみたいに軋んで、息が詰まる。

  「おっと、条件の話だったな」

  上半身の衣服を脱ぎ去ると、アッシュはそのまま流れるように腰のベルトへと手をかける。脱ぎ捨てられた服はぞんざいにベッドの端へ放り捨てられ、まるでそれが脱皮した理性の抜け殻そのもののように見えた。

  「決して安くねぇ買い物になるんだ、誰だって後悔はしたくねぇもんだろ?」

  ジーンズが下ろされ、その下に穿いていたアンダーウェアが露わになる。白い毛皮に覆われた腹が乗っかり、伸びて捲れたゴムが悲痛に歪むグレーのボクサーブリーフ。

  そしてその中心には、思わず目を見張るような存在感を放つ山が、自らの標高を誇るように大きく聳え立っていた。

  「だからよ、俺に自分の価値を売り込んでみろ」

  その頂が、ズイと差し出される。

  何をしろという意味か、わからない訳じゃない。と言うか、もう随分前から察してはいた。

  ただ、信じたくない。それだけの思いで、渇いた舌で疑問符を押し出す。

  「自分の、価値?」

  唇が引きつったように歪む。

  俺の価値。

  人として、人間の価値なんて、普通は測れるものじゃない。

  でも、じゃあ、俺は? 今の俺は?

  今の俺の価値って、何だ?

  価値。価格。値段?

  体温が下がるのを感じる。唇に当たる吐息が冷たい。心臓の鼓動まで冷ややかだ。

  心臓⋯⋯果たしてこの身体に、心臓があるんだろうか。

  自問しても、答えは見つけられそうにない。

  「おうよ。セクサロイドの価値つったら、そりゃ一つしかねぇだろ?」

  見下ろしてくるその目には、情欲の他にハッキリと悪意が浮かんで見えた。

  「俺に買い取って欲しけりゃ、頑張ってセクサロイドとしての自分の性能を俺にアピールするんだな。どうすりゃいいかは⋯⋯わかんだろ?」

  歪んだ口角の隙間から、ギラついた牙がこっちを覗いている。

  捕らえた獲物を前にして、圧倒的に優位な立場から相手を見下す愉悦。支配欲と嗜虐心。性欲。

  舌なめずりさえしてみせたその顔からは、一目で色々な感情が読み取れる。だがそのどれ一つをとってしても、友人を見据える顔に居座っていい色には思えない。

  だからこそ、それを真正面から目の当たりにしながらも、俺は未だに信じられない思いで、ぎこちなく口を開け閉めした。

  「お、おまえ⋯⋯正気かよっ、俺は、俺なんだぞ⋯⋯っ!? エリック・エリスン、お前の同期の!」

  「そいつはもう聞いたし知ってる。今更もう疑いやしねぇよ」

  「だったら⋯⋯ッ」

  「勘違いすんなって。別に俺は嫌がるお前をムリヤリ抱こうなんてつもりはねぇ。無理強いは趣味じゃねぇしな。お前がどうしても俺に買い取って欲しいっつうから、それなら誠意を見せてもらおうかって話をしてるだけだ」

  誠意。あまりにも聞き馴染んだ、ゴロツキの語彙だ。直截的な要求を避け、あくまで相手側の自由意思で金銭や望むものを差し出させようという、卑劣な言い回し。

  元警察官でありながら平然とそれを口にしたパンダは、股間から突き出たそれがあたかもその“誠意”の示し方そのものであるかのように、縦に揺らして見せつけてくる。

  まだ下着越しとは言え、ソッチの気のない俺からすれば不快以外のなにものでもない。

  そんな汚ぇもの近づけんな、とっととしまえ。今すぐそう怒鳴ってやりたい気持ちは、ずっと喉の下辺りに引っかかっていた。

  だが、理性がそれを押し留める。

  もしもここで感情的に叫んでしまえば、アッシュとはそれまでだ。今目の前に垂らされた細い糸は、確実に途切れてしまう。

  そうなってしまえば⋯⋯

  「ま、繰り返すけど無理強いは趣味じゃねぇんだ。こんな顔見知りの冴えないデブに抱かれんのなんざ御免だってなら、俺はこのまま行く。ああ、お前の身辺調査はちゃんとしてやるから心配すんな。明日また来るけど、それまで見知らぬ変態野郎にヤられずに済むように精々祈ってな」

  何も言えずにいる俺に対して、アッシュはやたらと饒舌にまくし立ててくる。こちらの意思を尊重するかのような口振りだが、実際には口車でこちらの思考を誘導し、選択肢を狭めにきてるのがわかる。

  それがわかっていても、俺にはその袋小路をジリジリと追い詰められていくしかなかった。他の手段を講じようにも、今の俺には先立つものがない。

  元手がなければ手札もない。

  ならそもそも、ゲームの場にすらつけていないのではないか。

  「⋯⋯っ」

  考え違いをしていた。

  最初から、これは俺のゲームなんかじゃない。

  アッシュが、俺という景品を落とせるかどうかの勝負であり、初めから俺に勝ち負けを争う余地なんてなかったんだ。

  俺というボールが、突きつけられた最悪の二択を前にどちらへ転ぶかのゲーム。

  顔見知りに抱かれるか、見ず知らずの、それも不特定多数の他人に抱かれるか。

  まだ信用出来る相手に身を委ねるか、運を天に委ねて丸一日誰も客が来ないことを祈るか。

  選べない。

  判断が揺れ動くのに合わせて、眼球が左右に揺れる。

  視界がブレて酔いそうだ。

  選べない。選べない。選べない。

  そんなもん、選べる訳がない。

  ⋯⋯なんでだよ。

  なんでこんなことに⋯⋯

  なんで、こんなことするんだよ。

  揺らいでいた視界を止め、真っ直ぐに上を向く。俺を見下ろす男の目を見上げる。

  問いかけるために。哀願するために。

  その目を見た。

  薄く、冷たく細められた瞳。それでいて、その奥には陽炎のように暗く揺らめく正体不明の熱が舌を覗かせている。

  その、赤くて黒い色をした激情が何なのか。俺にはわからなかった。

  けれど、知らなくちゃならないような気がした。

  アッシュが俺に向ける悪意の意味を、俺は考えなくてはならない。受け止めなくてはならない。

  根拠もなくそう思った。

  「⋯⋯わかった、よ」

  カサついた口の中を湿らせ、息を吸い込む。吸い込んだ空気は腹の底に溜めて、ともすれば抜け出しそうになる決意を一緒くたに括って、臍の下に結わえつけた。

  「ぁン?」

  思ったからには、応える。

  語尾を上げながらも、心底愉快そうに笑みを深めるその憎たらしい顔を睨み上げ、俺は意を決して口を開いた。

  「ヤりゃあいいんだろ、ヤりゃあっ」

  勢いだけは、胸ぐらを掴むような心持ちだった。しかし、前に伸ばした俺の指が掴むのは、くたびれたパンツのゴムだ。

  抵抗はある。無い訳がない。

  もちろん物理的にではなく、精神的に。

  指に食い込んだ感触が、男の下着に手をかけているという事実を客観的に突きつけてくる。指を入れた隙間から、熱を帯びた男の体温を直に感じる。

  一度掴んだそれを下ろせば、もう引き返すことは出来ない。その選択に後悔はないか。自分はこれから、とんでもない間違いを犯そうとしているのではないか。他にも、探せば道はあるんじゃないか。

  そんな躊躇いも、嫌悪も、苛立ちも何もかもを置き去りにして、俺の両手は回路を流れる信号よりも素早く、握り締めた意地を引きずり下ろした。

  「ッ」

  途端に、思わず飲んだ息が鋭く音をたてる。

  「積極的じゃねぇか」

  くつくつと喉で笑うアッシュの声も、耳に入らない。

  まるで、目の前で金属バットでも振り抜かれたかのように、目が眩んだ。身体が大袈裟に竦んで、無意識に仰け反ってしまう。

  それぐらい、今眼前を過った影は、危機感を抱かせるに充分な重圧を孕んでいたのだ。少なくとも俺には、そう見えた。

  「⋯⋯」

  言葉を失う。

  そこに現れたのは、自分の決断の結果そのものだというのに、言葉が出ない。

  いや、本当のことを言えば、思わず出かかった言葉を舌と一緒に噛み潰しただけだ。

  もしも咄嗟に飲み込んだその感想を聞かれてしまったら、何か決定的な敗北を味わうことになるという予感がした。

  でも、胸の内だけでなら、思い切り言える。

  ⋯⋯デカいっ。

  いやマジでデカい。

  身体が縮んでるっていうのを差し引いても、どう見たってデカい。

  勃起した男のイチモツなんて、悲しいことに日頃変質者の相手で見慣れてるけども⋯⋯そうした記憶の中の比較対象と比べてみても、かなりデカい部類だと思われる。

  たぶんだが、俺自身よりも。

  なんかちょっと腹立つな。

  「そんな見とれんなよ」

  「っ、誰がンなこと⋯⋯」

  「あんま時間ねぇぞ、スんなら早くしろよ」

  スる⋯⋯スるって、ナニを⋯⋯

  鼻先近くまで突き出されたソレを前に、括ったハズの腹が緩んで解けそうになる。

  見慣れてるとは言え、こんな至近距離で見て楽しいようなものじゃない。色も形も、何だってこうもグロテスクなんだ。自分にも付いてるもののハズなのに、ソレに対して感じるこの嫌悪感は、どうにも拭い難い。

  だが、それを押し殺してでも、シなきゃいけない。そう決めたんだから。

  チラリと、最後にもう一度、目の前のソレ越しにアッシュの顔を見上げる。変わらず、何とも下品な表情だ。

  ほんの少しだけ、「冗談だ」と言ってくれることをまだ期待していた。それもこうして敢えなく空振りに終わった今、残された道はもうない。

  吐き気が込み上げてくるのを堪えながら、俺は再び両手を持ち上げた。

  「ぅ⋯⋯っ」

  思わず、呻いた。

  両手で握ったソレの感触は、自分のモノと変わらないハズなのに妙に生々しく、弾力も手触りも生理的に受け付けない。

  まだ触っただけなのに、こんなに早く後悔するなんて思いもしなかった。

  しかし、それで許してくれる訳もない。

  アッシュは何も言わないまま、目を細めてコチラを見下ろしながら、言外に先を促してくる。

  心底気色悪い。が、後には退けない。

  腹の底からせり上がって来そうになる何かを喉の奥へ飲み下し、俺は両手に力を込めた。

  そうだ。吐き気もクソも、そもそもアンドロイドの身体で何を吐くっていうんだ。アンドロイドがどこまで人間の生理反応を模倣してるのかは知らないが、不快感で吐き気を催すなんて機能をわざわざ搭載する道理がない。

  なら、今感じている悪心も怖気も、きっと気の所為だ。

  今だけ、俺は血の通わないアンドロイド。心も感情もない。何も感じない。

  そう呪いのように繰り返しながら、無心に手を動かした。頭の部分にはなるべく触れないようにしながら。竿の部分を撫でるように指を前後させる。

  しかし、自分のなら慣れたもんでも、他人のとなるとだいぶ勝手が違う。やりたくないのはそれとして、単純にやりにくい。

  正直これじゃ、いつまでたってもイかせられる気がしなかった。

  それは、どうやらアッシュの方も同感らしい。

  「おいおい、ちゃんとやる気出せよ。言っとくがココ時間制だからな。ま、せいぜい後三十分ってとこか。こんなんじゃ買い取るどころか延長もしてやれねぇぞ」

  「そ、ンなこと言われたって⋯⋯こっちだってこんなことスんの初めてなんだぞ⋯⋯!」

  「ほぉん⋯⋯ならしかたねぇ。そんなら、いっちょアドバイスでもしてやるか」

  アドバイスだと?

  嫌な予感しかしない。

  俺の渋面を余所に、アッシュはおもむろに俺の手を掴んで柔らかく引き剥がすと、膝を使ってにじり寄ってきた。

  自然、さっきまでよりその、宙にそそり立った肉塊との距離が縮まる。

  もはや、匂いまで漂ってくるほどまで、顔を背けずにはいられないほどまでに、近く。

  「そら」

  予感が確信へと身をやつす。

  差し出されたソレは、今にもこちらへ襲いかからんばかりに涎を垂らしているように見えた。

  「クチ、使ってヤってみろ」

  予想していた言葉だというのに、そのおぞましさたるや。耳にした瞬間、全身の毛皮が一斉に逆立った。どうやら、アンドロイドの生理反応は相当細部までこだわって作り込まれてるらしい。

  それを知ったところで、今の俺には何の意味もないが。

  しつこく込み上げてくる吐き気に抗い、何かもわからないものを喉の奥から腹の底へ押し戻しながら、口の端を引きつらせる。

  俺は今、どんな酷い顔をしていることだろう。

  アッシュはその俺の顔を見ているハズだが、向こうの表情からそれを読みとることは出来そうにない。何せ、コイツの表情は終始一貫して、心からの愉悦を満面に湛えたまま変わっていないのだから。

  固めたハズの決意が、すぐまた緩んで綻びだす。

  手で触るのも躊躇うソレを、今度は口に入れろだと?

  嫌だ。嫌に決まってる。

  想像しただけで、存在しないハズの胃が裏返りそうだ。顔面から血の気が引いていくようなこの感覚は、どこまで現実なのだろうか。

  「そんなに嫌がんなよ。傷つくじゃねぇか」

  「⋯⋯っ俺には愉しんでるようにしか見えねぇけどな」

  「おいおい、愉しませんのが、今のお前の仕事だぜ?」

  コレを使ってな。とばかりに突き出さる異物を前に、堪らず口を噤む。

  さっきより更に距離が縮まったソレは、もう空気を伝ってその温度さえ感じさせてくるようだ。

  その張り詰めた皮の内側で、マグマのように脈打つ欲望が煮え滾っているのかと思うと、首筋の辺りが冷えて胸が焼け付く。

  ダメだ。無理だ。

  自分からそんなモノを咥えるなんて、俺には出来ない。

  目的のために多少の苦痛を堪えるぐらいの気概なら、俺にもある。爪を剥がれようが歯を抜かれようが、骨の一本や二本ぐらいどうってことない。

  だが、それらと比べても、コレは無理だ。そういう、ただ耐えればいい類の責め苦とは訳が違う。

  身も、心も、芯からその行為を拒絶しているのがわかる。

  無理だ。出来ない。

  それ以上ソレを見ていることすら出来なくて、俺は自らギュッと強く目をつむった。

  「⋯⋯ったく、しゃーねぇな。そのままでいいから、ジッとしてろ」

  瞼の向こうから、呆れたようなため息が一つ聞こえた。

  どうするつもりか。何をする気か。

  疑問符を口にするより先に、唇に触れる感触があった。

  っ、まさか⋯⋯!

  「んっむぅ⋯⋯!」

  唇を割って侵入してくるヌルリとした感触に、背筋が凍る。

  嫌な予想に突き動かされ、思わず閉じていた目を見開いた。

  見たくない。そう感じる気持ちも確かにあったが、確かめずにいることの方が恐ろしく思えた。

  そうして、焦点が合わない程間近に接近した何かを、凝視する。

  ボヤケた白黒模様。斑に見える歪んだ黒い島。その中心で、細い三日月が薄く弧を描いているのが見えた。

  ⋯⋯笑ってやがる。

  そこにあったのは、顔だ。

  見慣れた顔が、見るに耐えない表情で、見たことのない距離から俺を見つめて、笑っていた。

  自分の唇に触れているのが相手の唇だと気づくまでに、それからキッカリ二秒かかった。

  「ぅっんンぅっ」

  こっちが気づいたのを見計らってか、口に入り込んできた舌がズルリと俺の舌を舐め取ってくる。

  生臭い、他人の唾液の味。

  殆ど反射で突き飛ばそうとしたが、頭を抱え込むようにして密着されて、動けない。逃げようがない。

  そうこうしてる間にも、アッシュの舌は傍若無人に俺の咥内を這い回る。ワザとらしく、濡れた唇で音まで鳴らして。

  最悪だ。

  泣けてくる。

  何が悲しくて、同じ釜の飯を食った元同期と、それも三十路過ぎの野郎とディープキスなんぞしなくちゃならないんだ。ナニをしゃぶらされるのに比べれば百倍マシとは言え、気分がいいハズもない。

  いっそ、こんな舌噛みちぎってやろうか⋯⋯

  「むっ、ぅンンっ!?」

  半ば本気でそう思った時だった。

  ゾクゾクゾクっ、と背筋を得もいわれぬ感覚が走り抜けた。

  牙を剥こうと、自ら顎を開いたその途端。上顎の裏辺りを舌先で擽られたのだけはわかった。

  だが、それだけだ。それだけでは、今のような刺激が身体を貫いた説明がつかない。

  何だ。何が起きた。何をされた。

  目を白黒させる俺を余所に、目の前の白黒野郎が笑みを深めたのがわかった。唇に触れる感触が、密着したまま妖しく歪んでいくのを感じる。

  「んっんんっぅっ!」

  カッと、突然身体が熱くなった。

  特に頬。まるで中にヒーターでも入ってるみたいに、内側から照りつけるような熱が毛皮を炙る。

  何かのスイッチが入った。そんなことを、漠然と実感した。

  このままじゃマズい。

  この身体に搭載されたものではなく、俺自身の心の何処かに備わった警報が、けたたましく鳴り響いていた。

  だが、結局どうすることも出来ない。

  押し返そうにも、振り払おうにも、アッシュの腕が閂のように固く俺を閉じこめ、離そうとしない。

  顔を背けようが、追いすがってくる。唇を閉じようが、こじ開けてくる。

  その間も、身体はまるで繰り返し電流でも浴びせられたように、ひとりでにシーツの上を飛び跳ねて止まらない。

  本格的に、マズい。

  視界が白くボヤケてきた。

  熱で、処理速度が低下してるのかも知れない。排熱しようにも、鼻だけじゃ到底用を成さない。

  酸欠の可能性もある。いや、ないか。というか、アンドロイドに呼吸って必要なのか?

  俺今してるけど、止めても平気なんだろうか。息してないと、生きてないってことになるんだろうか。

  何でこんなこと考えてるんだっけ?

  「むっ、ふは⋯⋯」

  絡まっていた舌が解けた。

  口から熱が抜ける。

  塞がっていたメインの排気口が開放されたことで、体内に溜まっていた熱が急速に外気と交換されていくのを感じる。

  たとえ活動に支障がなくとも、新鮮な空気は旨いものらしい。

  半開きのまま繰り返し喘いでいた唇に、ふともう一度触れる感触があった。

  一度は離れ離れになった唇と唇が、触れ合いの名残を惜しむように、もう一度控え目に音をたてた。避けようと思えばいくらでも避けられたとは思うが、不思議と身体が動こうとしなかった。

  別にいいかと、頭の何処かが思ったのかも知れない。

  「⋯⋯上手いじゃねぇか、意外だな」

  「は⋯⋯?」

  「テクは自前か、それともボディの性能か? 途中から結構マジになっちまった」

  まだ、頭に昇った熱が下がりきっておらず、アッシュの言葉の意味を咀嚼出来ない。

  ただ、舌に残った余熱と後味が、しつこく頭の奥を痺れさせている気がする。

  「まぁ⋯⋯マジになったのは俺だけじゃないみてぇだけどな」

  その言葉が頭の隅を滑って通り過ぎて行った直後。

  「ひぃッぁッ!!?」

  下半身から火花が散るような鋭い刺激が駆け上ってきた。

  「なっ⋯⋯ぁ、っやめッンんゥッ!!」

  何をされたのかは、すぐにわかった。

  両脚の、股の間。そこにあるモノを、指で摘ままれた。ただそれだけだ。

  いつの間にか、まるで本当に血が通ってそうなったかのように、硬く張り詰めた俺の⋯⋯いや、この身体の擬似性器。

  ソレの、皮越しに指を滑らせられる。

  上下に。ゆっくりと。

  「随分可愛い反応すんなぁおい」

  「あゥッ! ぁッやめろっ、てッくゥんッあ⋯⋯ッ!!」

  「無理な話だ」

  口で言っても無視される。

  ならと、股を閉じて手で守ろうとしても、力の差があり過ぎて抵抗らしい抵抗にならない。

  何より、一度軽くソコを扱かれるだけで、コッチはまな板で跳ねるトラウトみたいに全身が痙攣して、まともに力を入れることも出来ない。

  どうなってんだ、この身体は。

  さっきも、ただキスされただけ。今も、ただ手コキされてるだけで、普通ならこんなに感じる訳がない。

  だがセクサロイドの身体は、与えられた刺激に対して大袈裟なまでに反応してしまう。

  それは、セックスワーカーが客の愛撫に対して演技をするのと同じだ。顧客の満足度を高めるため、気持ちよく料金を支払わせるためのサービス。

  それがセクサロイドに於いては、初めからそのようにプログラムされているに過ぎない。アクションに適応したリアクションを返しているだけ。外部からの入力に対して、決められた出力をしているだけのこと。

  だから、俺自身が本当に感じている訳ではない。

  野郎にキスされて勃たせてるのも、先っぽを指先でこね回される度に裏返った声をあげてるのも、セクサロイドの身体であって俺じゃない。

  そうじゃないと、そうでもないと、気がおかしくなりそうだった。

  「はぁ⋯⋯たまんねぇ」

  アッシュの目が妖しく据わる。

  興奮した息遣いが首筋にかかる。間を置かず、熱く湿った感触が毛皮を越えて地膚に張り付いた。

  「あっ⋯⋯ふッ」

  喉から飛び出した声の甘さに、思わず自分の手の甲を噛む。

  漏れそうになる声を、必死に毛皮で塞いだ。

  「くッゥ⋯⋯ふぐッ」

  それでも、喉が震えるのを堪えられない。

  舌がネットリと首筋の毛皮を逆撫で、鎖骨の上を唇で柔らかく噛まれる。生暖かい、吸い着くような感触に身が竦む。

  「声、我慢するなよ」

  「っ、あ⋯⋯っ!」

  囁く声が毛皮をそよがせる。

  唇に当てていた手を片手で引き剥がされ、同時に一際甲高い声が喉を通り抜けた。

  いつもの自分の声じゃないとしても、自分が出した声だとはとても思えないような、甘えた声だった。それこそ、セックスワーカーが演技で出す媚びた声そのもの。

  それを意識した途端、目頭が沸騰しそうになった。

  「ぁっくッ⋯⋯ゃッ、やめて、くれッ⋯⋯アッシュっ、たのッ⋯⋯ひッ」

  条件のことも忘れて必死にやめるようせがんでも、アッシュの手は止まるどころか寧ろ加速する一方。

  興奮に駆り立てられた指先が身体を這う感触に、息が続かない。

  肩から脇へ、そのまま脇腹を滑って腰をなぞり、太腿で折り返してゆっくりと鼠径部を辿りながら、股間に向かって指が伸びる。

  その道程から、その先に訪れるであろう刺激を予想して、反射的に身構える。衝撃に備えるように、声を出してしまわないように、唇を噛んで息を止める。

  いや、ともすればそれは、期待の裏返しだったのかも知れない。いつの間にか襲い来る快感に期待してしまっていた部分が、なかったとは断言出来ない。

  だからこそ、想定していたのとは違う場所を触れられる感覚に、思わず我慢していたハズの声が飛び出すのを、止められなかった。

  「ァあッ?!」

  一瞬、ソコが何処なのかわからなかった。自分の身体の、触れられたことはもちろん、触れたことすらないような場所。

  そんな、想像もしていなかった場所から走った初めての感覚に、下半身全体がガクガクと痙攣する。

  困惑しながら、恐々としながら、そちらに視線をやる。ソコで何が起きているのか、自分の目で見て確認する。

  そして、少しだけ後悔した。

  それぐらい、ソコにあった光景は俺にとって衝撃的だった。少なくとも、俺にとっては、間違いなく。

  「な、なっ⋯⋯ぉま、なにしっ⋯⋯!」

  「何ってよ、見りゃわかんだろ。ケツのあ────」

  「ぃ、いやっ、やめろッ、やっぱ言うな!」

  あたかもそれが何でもないことのような素振りで宣う大馬鹿野郎に、自然と声が大きくなる。状況が状況じゃなければ、蹴りの一つでもお見舞いしているところだ。

  しかし今、こんな状態で、無理に足を振り上げる気にはなれない。

  何せ、その足の付け根。両足の間。股の中心。回りくどい言い方をやめれば、尻の穴に、指が突き刺さっているのだから。

  「ぬ、抜けっ、抜けよッ! んな汚っ⋯⋯ひぅッ!?」

  「汚かねぇよ。アンドロイドなんだから、出すもんなんかねぇだろが」

  「だ、だからって⋯⋯っぁッ、指なんかっ、ィっいれ⋯⋯ッ!」

  「そもそも、指どころかもっとデケェもん入れるための穴だっつの⋯⋯その証拠に、ちっとも痛くなさそうじゃねぇか?」

  確かに、痛みはない。

  耳につく湿った音が、本来の人体ならあり得ないことだが、既に中が充分に濡れた状態であることを伝えてくる。

  中で指がどんな風に動いてるのかはもちろん見えない。だが、そうしてソコから音が聞こえる度、これまで感じたことのない、例えようもない快感が背骨を伝ってくる。

  グルグルと、中の存在感が主張を繰り返すのに合わせて、背筋がバネのように弾んだ。

  「ぁっあっ、くッ⋯⋯あッ!」

  喉が勝手に喘ぐ。

  それが、セクサロイドの機能として自動で起きている反応なのか、それとも俺自身の無意識の反応なのか、自分じゃ区別がつかない。

  しかし、俺が今感じているこの快感は、間違いなくセクサロイドの機能由来のものだ。でなければ、肛門に指を入れられるのがこんなにキモチイイ訳がない。

  そりゃあ知識として肛門性交については知っているし、ケツに異物を入れて徘徊していた変質者を職質したことだって何度もある。

  だが俺にとっては、あくまで肛門は排泄器官でしかなく、ソコから感じる感覚としては便意以外には想像がつかなかった。

  実感が伴わなくては、感覚を想像するのは難しい。男に生理痛の痛みがわからないのと同じで、女に金的の痛みはわからない。

  それと同じようにと言っていいかはわからないが、俺はこれまで、同性愛者の肛門性交は男役だけが一方的に快感を得ているものだとばかり思っていた。入れられる側は、相手への愛情や擬似的な性交の雰囲気に興奮して、それを愉しんでいるものと、そんな風に考えていた。

  しかしどうだ。

  生身の自分の肉体ではないとは言え、実際に身体感覚として肛門を刺激される快感を実感して、俺は少なくない衝撃を受けていた。それこそ、これまでの常識をひっくり返されるような。俺の中で、取り返しのつかない変化が起こっているような、そんな気さえする。

  これ以上はいけない。危険だ。やめさせなければ。

  本心からそう思っているハズなのに、それとは相反する欲求が邪魔をする。

  もし。もしも。

  この指より太いものをココに入れられたりしたら、俺はどうなってしまうのだろうか。

  想像が止まらない。

  「このぶんなら、もう解さなくて大丈夫そうだな」

  「あっ⋯⋯」

  指を抜かれる感覚の切なさに、淡い声がこぼれた。

  今まで、何かを入れるなんて考えたこともなかったその場所が、今は寂しさを埋めてくれるものを求めて頻りに疼いてしまう。

  身体が熱い。頭を茹だらせていた熱は、既に全身へ広がっていた。

  アンドロイドにも、人間の血管と同じように、エネルギーや熱を体内で循環させるためのチューブ状の通路が張り巡らされているらしい。

  その内部を巡る擬似体液を、全身へ勢いよく送り出す役目を果たしているのは、心臓と同じ位置にあるポンプ状の生体パーツだ。

  つまり、アンドロイドにも鼓動があるということだ。

  今、俺の胸の内側をドクドクと激しく叩いているのが、正にそれだ。

  その鼓動の高鳴りは、期待感に胸が弾むあの感覚と、あまりにも似ていた。

  「⋯⋯っ」

  言葉もなく、息を飲む。

  再び、ソコに触れる感触があった。

  指じゃないのは、見なくてもわかる。

  アッシュの両手は、それぞれ俺の腰と太腿に添えられている。

  体勢から考えても、ソコに当てられているモノの正体は一つだ。

  「⋯⋯」

  アッシュも、何も言わなかった。

  ソレをこれからどうするつもりか、目だけで訴えかけてくる。

  コイツを入れちまうぞ。

  いいのか?

  抵抗したっていいんだぞ?

  そんな声が耳の奥に聞こえてくる気がした。と言うか目がそう言っていた。

  その目を見上げながら、俺はやはり何も言えなかった。

  いいぞ、だなんて口が裂けたって言う訳がない。しかしやめろ、と言葉にするのを、どうしてか口が躊躇ってしまう。

  抵抗しようと思えば出来た。

  両手は自由に動かせる。

  体格差からして大して意味がないことは既にわかっていても、男として最後まで抵抗の意思を見せる。それは無意味なことではないハズだ。

  身体を守れなくとも、自尊心を、尊厳を守るためには重要なことだ。

  だが結局、俺には何も出来なかった。

  両手は今、顔の脇にある。緩く握っていた指の収まりが悪くて、親指が行き場を求めて何度も他の指の上を撫でた。

  もう、することが一つなら、早くしてくれ。

  そんな気持ちで沈黙に耐えられなくなり、俺はついアッシュから視線を逸らした。

  結果的に、それが合図になった。

  「ふっぅ⋯⋯あっ」

  越えてくる。境界を。

  ググッ、と門を押し広げられ、大きな塊が押し入ってくるのを肌で感じる。内側の肌で。

  さっきより、指よりも、大きい。感触も、快感も、大きく、強い。

  口を開けて、息を吸った。

  別に、それで身体に酸素が取り込まれることはない。胸の中にある袋が膨らんで、またそのまま外へ押し出されていくだけ。

  それで身体の緊張が解れることも、異物が侵入してくる苦しさが緩和される訳でもない。

  それでも、無意識に深呼吸を繰り返した。喉からこぼれてしまう喘ぎ声を、少しでも誤魔化したくて。

  「はっ⋯⋯ぁっあっ⋯⋯んっ」

  入ってくる。入ってくる。

  入れられている。

  ずるずると、中へ。奥を目指して。

  ケツに。尻の穴に。

  勃起したイチモツを。男根を。男性器を。

  挿入されていく。

  それを感じる。感じてしまう。

  痛みもなく。苦しさではなく。快さが何より勝る。

  身体が悦んでいる。

  キモチイイと、奥底から身体が叫んでいる。

  紛れもなく。間違いようもなく。誤魔化しようもなく。

  男の欲望を受け入れることを。犯されることを。掘られることを。

  俺は今この瞬間、歓喜していた。

  「辛くねぇか?」

  頭上から声がした。

  今まで聞いたことのないような、優しい声音だった。

  それに少しだけ驚きながら、殆ど反射的に頷いていた。

  辛くなどない。ないから、早く。

  そうして、逸る鼓動の数だけ頷いた。

  すると頭上で、フッと息だけで笑う気配がした。

  同時に、緩く握っていた手の指を、下から滑るように上ってきた手がスルリと開かせ、指の隙間へ太い指が割り込んでくる。そのまま軽い力で握られると、手のひらの熱同士が溶けて混ざり合うような、不思議な一体感に包まれた。

  「ぁっ⋯⋯ぁあっあ⋯⋯っ」

  一時止まっていた侵攻が、再び歩を進める。

  多分もう、一番太い所は門をくぐり抜けている。あとは、根本まで。入りきる所まで辿り着くだけ。

  握られた手を、自分からも握り返す。

  そうすれば、より早く、深く繋がれるような、そんな気がした。

  その甲斐あってなのかはわからないが、到達の瞬間は意外に早く訪れた。

  尻の谷間に、毛皮が触れる感触。

  中を進み続けていた感覚もピタリと止まった。

  入る所まで、行き着く所まで行き着いたようだ。

  頭上に感じていた息づかいも、何処か一息ついたといった様子で長く気を吐き出す音がしている。

  俺も、それに倣うようにして長く息を吐いた。

  吐いて、吸う。

  そうしていると、無意識に動いてしまった括約筋が、中にある異物の存在をありありと俺に感じさせてくる。

  入ってるんだ。中に。

  男の、ナニが。

  見上げると、すぐに目があった。

  興奮した、男の目。同性の、同じ歳の、よく知った相手の目。

  それを意識すると、全身に回っていた熱が再び顔面へ集中してくるようだった。

  同じ男に、それも元同期の顔見知りに、性的に抱かれている今のこの現状。それを再確認してしまう。

  アッシュは、笑っているようだった。

  俺の顔がそんなに可笑しいのか。それとも、俺を組み敷いて抱いてるこの現状が、そんなに愉しいのか。

  忘れかけていた憎々しさが、再び胸にこみ上げてくる。

  しかし、それも束の間。

  顔に影が差し、それが目の前の顔がゆっくりと近づいてきていることによるものだと気づいた途端、見る間に萎んでいった。

  目が泳いだのは、ほんの一瞬。

  顔を逸らす気は、起きなかった。

  握っていた手に力が入る。

  唇に触れる温度の心地よさに、胸がツンと疼いた。

  最初のキスとは違い、何故か自分から舌を入れてこようとしない。窺うように僅かに隙間を開け、口先だけで軽く啄んでくる。

  それに焦れてこちらから追い縋ると、それを待っていたとばかりに舌が迎えにきた。

  それでも、先程より積極的には舌を絡ませてこない。あくまで、俺の意思で、俺の方から動けと、そういうつもりなのだろう。

  だが、それ程苦労はしなかった。

  身体に備わった機能なのか、舌は殆ど無意識で動いてくれる。俺自身の興奮に合わせるように、俺の気持ちを代弁するように、自分で驚く程、滑らかな動きで。

  それに触発されてか、アッシュも次第に舌へ熱を帯びさせていった。

  お互いの鼻息が、まるで蒸気のように熱く互いの顔にぶつかる。口付けの角度が変わる度、それが頬を、額を、鼻を濡らしていく。

  今、顎を伝っていった滴が、汗なのか唾液なのか、もうわからない。俺のものなのか、それともアッシュのものなのかさえも。

  そんなことはどうでもいいぐらい、俺は目の前の行為に没頭していた。そしてそれは、恐らくアッシュも。

  それから先の行為に、理性が差し挟まる余地は微塵もなかった。

  二人とも、特に何も示し合わせることなく、そしてどちらからともなく、腰を動かし始めていた。

  「んっふ⋯⋯ぁっ」

  揺さぶられ、ズレた唇の隙間から喘ぎがこぼれる。始めの内は、そのズレに合わせて角度を変え、なんとか唇を繋げ続けようと試みたものの、興奮が高ぶるにつれ徐々に噛み合わなくなってくる。

  そして、いよいよ舌を噛みかけないところまできて、惜しみながら舌を解いた途端、開放された口から一際高く声が上がった。

  「ぅっあッぁあっ⋯⋯アッ、シュっ⋯⋯!」

  身体を突き抜ける刺激に押し出されるように、思わず口からアッシュの名が飛び出していった。

  アッシュは、目の前にいる。手を繋いでいる。何なら身体の中まで深く繋がって、全身でその存在を感じている。

  それなのに、気づけば俺は、未だそれ以上にアッシュのことを求めるように、名前を呼んでいた。

  アッシュが動く度。繰り返し。繰り返し。

  「⋯⋯っ煽るじゃねぇか」

  アッシュが何か言った気がしたが、自分の声と下半身から響いてくる音に掻き消されて、何も聞こえなかった。

  濡れた服をはたきで叩くような音が、断続的に聞こえてくる。

  それが、自分の尻に男のイチモツを叩き込まれる音なのだと思うと、恥ずかしさで頭が変になりそうだ。

  不思議だったのは、そこに嫌悪感が跡形もないこと。本当に不可解だ。男に抱かれて、犯されてるっていうのに、代わりに募るのは、多幸感と興奮ばかり。

  過去、女を抱いてここまで正体をなくしたことがあっただろうか。或いは、俺が抱いてここまで乱れた女がいただろうか。

  取り繕っている暇もない。喘ぎを抑える余裕も、顔を背ける余地もない。

  あられもなく、声の限りに狂いよがる。

  もうどうなってもいい。

  開き直りに近い心境だったが、今この瞬間は、今だけは、感じるままにこの高揚を謳った。

  「あっぁあッ、あっァああッあっ!」

  もう、アッシュの名を呼ぶ隙もない。

  声を上げれば上げる程、自分が高まっていくのがわかる。いや、高ぶっていくにつれ声が高くなっているのか。当たり前のことのハズが、それすらわからなくなる。

  感じる。あと少しだ。もう一息。

  よく知った感覚が駆け上がってくる。

  馴染みの場所に、知らない道を通って行くような心細さはあったが、それもすぐ、後から背中を急かす追い風にさらわれ、澄んだ高鳴りの中に消えていく。

  最上段へ足をかけた瞬間、眩しさに目が眩んだ。目の前の景色が、真っ白に飛ぶ。

  ────受容刺激レベル……射精可能閾値到達。

  ────射精シークエンスを開始しますか?

  白い世界の中に、文字だけが見えた。

  セクサロイドには、こんな世界が見えてるのか。

  とか。

  射精のタイミングなんて任意で調節出来るんだな。

  なんて。

  そんなことが頭に浮かんだのは後のことで、俺はその他人事のような問いかけに苛立ちすら覚えながら、ただひたすらに頭の中でイエスと叫んでいた。

  きっとそれは、実際の時間ではコンマ以下の秒数だったことだろう。

  一面の白地から反転し、元の色彩を取り戻した世界では、今まさにアッシュの顎を伝ってきた汗の滴が、宙で球を作ったその瞬間だった。

  そこに、横合いから別の飛沫が衝突する。

  「ぁっあッくッあぁああ────ッ!!」

  口から、身体の中に留めておけなくなった快感が声として、形を変えて飛び出していく。

  それと一緒に、叩いて砕いた自分の欠片が、星か火花のように飛び散っていくのが見えた。

  感じる。下半身の、内部で何が起きているのか。

  体内で、尻から股間にかけての人工筋肉と思しき組織が、痙攣を模したような動きで順に収縮していく。その動きが、股間の袋の中に貯蔵されていた液体を搾り上げ、吸い出し、押し出す。

  一点に集め、圧力を高め、そして限界に達したタイミングで、一気に弁が開放される。

  それにより、管を通って出口から迸った液体が、高らかに宙を待っていった。

  それが本当に精液な訳もないが、性器の先から太い糸のように一繋がりで飛び出していくその濁った軌跡は、少なくともテクスチャに限っては本物に迫る再現度を有しているように見えた。

  客に向けたパフォーマンス以外の何ものでもない、無意味で虚しいだけのハズのその機能だが、元の身体と何ら変わらないその感覚に、少しだけ安堵に似たものを感じた。

  感じたのも、束の間。

  「っ⋯⋯あッぁあっ!?」

  息を吐く間もなく、叩きつけられるダメ押しに、背筋が仰け反る。

  目を見開いて見上げた視界が、激しくブレる。

  ブレて定まらない視界の中、アッシュは半ば目を閉じ、歯を食いしばるようにしながら、変わらず腰を振っていた。

  流石に、俺がイったことに気づいていない訳ではないだろうが、気にしている素振りはない。その余裕もないのか、最初から気にするつもりがないのか。

  いずれにしても、俺にとってありがたくない事態なのは変わりなかった。

  「ぁっあッ待っ、あッ、ちょっ⋯⋯あッシュっ⋯⋯!!」

  声で制止しようにも、一突きされる度に外と中、襲い来る衝撃と溢れ出る喘ぎに阻まれて、とても言葉にならない。加えて、下半身の方から一層激しさを増す騒音の波に飲み込まれ、誰に届くこともなく潰えてしまう。

  イった直後、なんならまだイっている最中だ。そこへ容赦なく積み足されていく快感に、処理が追いつかない。こめかみの辺りが、チリチリと音を上げている気がする。

  射精のタイミングを任意で調節出来る機能があるなら、感じる快感のボリュームを絞れる機能があってもいいだろうに。或いはあるのかも知れないが、さっきみたいにわかりやすく文字で表示してくれないと、俺には活用なんて出来っこない。

  そうして無い物ねだりをしてる間にも、アッシュは容赦なく腰の回転数を上げて俺を追い立ててくる。

  ボリュームは落ちるどころか、天井知らずに上がっていく一方。既に絶頂に達していた俺からすれば、ひたすらイキっぱなしの状態から戻ってこられず、地獄に程近い極楽を延々さまよい続けているようなものだ。

  ただ幸いなのは、出口だけは明確に定まっていることだろうか。

  今も、アッシュはその出口に向かって猛烈な勢いで突き進んでいる。それこそ脇目も振らず、がむしゃらに、一心不乱に。

  もう間もなくだ。

  深く身体を繋げたことによる直感か、それともセクサロイドとしての機能か、今の俺には殆ど確信に近いレベルでアッシュが到達するタイミングを把握出来ていた。

  そこに呼吸を合わせ、残った力を振り絞り、強く強くアッシュを抱きしめる。腕ではないけれど、それでもありったけの思いで、強く。

  「⋯⋯ッ」

  アッシュが、喉の端で微かに呻くのがわかった。いい気味だ。笑ってやる余裕はないが、少しは溜飲が下がる気がした。

  いいからお前もサッサとイけ。こっちはとっくに限界なんだよ。

  「ッ⋯⋯ハッ、く⋯⋯ィ、くッ⋯⋯グッ⋯⋯!」

  自分で自分の首を絞めているような、何処か切迫した喘ぎを漏らしながら、アッシュは果てた。

  俺の中で。

  ああ、感じてるさ。

  中に出されてる。

  男に抱かれて、ケツを掘られて、中出しされたんだ。

  なのに、悪い気分じゃない。

  やり切ったと言うか、やってしまったと言うべきか。開き直りに近い心境かも知れない。

  後悔する気持ちがまるでない訳ではないが、それでも何処かスッキリした気分だった。負荷の強いワークアウトを終えた後のような、爽やかさにも似た気怠い解放感。

  乱れた息を整えながら、肺の深くまでどっぷり染み込んでいた快感の名残を、ゆっくり味わって吐き出していく。

  未だに中でビクビクと痙攣してる異物の存在すら、不思議と愛らしく思えた。

  そのまま、痙攣の間隔が長く、穏やかになっていくのを、静かに待つ。

  汗ばんだ手のひらが、少しだけヒリリと腫れぼったく疼いた。

  隙間から入ってきた空気が、そこからゆっくりと熱を奪っていく。それが何か切なくて、脱力していた指をもう一度握り直そうかと、力を入れる。

  しかしそこで、向こうから逃げるように手を離されてしまった。

  ⋯⋯どうやら、あっちの方は“悪くない気分”とはいかないらしい。

  そのまま寝返りを打つように、アッシュはゴロリと俺の傍らに身体を寝かせた。仰向けになって、腕で目元を隠すようにしながら。

  顔をこっちに見せないようにしてるんだろうけど、悪いがどんな表情してるのかは見なくてもわかる。わかるが、犯した側が今していい顔じゃないだろう、それは。

  「⋯⋯さしずめ、一発イって頭が冷えて我に帰ったってとこか」

  「⋯⋯」

  口を開きかけたアッシュは、結局何も言わなかった。

  惜しいな。謝りでもしてきたら、即殴ってやろうと思ったのに。

  謝って済むようなしでかしじゃないことは、本人が一番理解出来てるんだろう。それだけで幾分マシだ。

  少し待ってみたが、アッシュは何も言ってこなかった。

  なら、と。代わりに俺が口を開く。

  「お前⋯⋯俺のこと嫌いだったんだな」

  抱かれてる間、何となく思っていたことを口にした。

  アッシュの言動には、節々に俺に対する悪感情が滲んで見えた。敵意まではいかない、憎悪とまでは呼べない、そんなありふれた負の感情。

  それはきっと、俺が気づいていなかっただけで、あの頃から⋯⋯

  チラリと横目でアッシュの顔を覗き見ると、腕の隙間からこちらを窺う視線とかち合った。

  それから、再び口を開きかけて、不器用に唇をさまよわせては、また閉じる。

  そんなことを何度も繰り返すパンダの顔を、俺は黙って見つめ続けた。

  今度の沈黙は、真剣に言葉を選んでいるのが見てわかったから。余計な邪魔をせず、待つことにした。

  そして、最終的にアッシュの口から出てきたのは、諦めと自嘲を多分に含んだ、短いため息だった。

  「⋯⋯嫌い、なんつぅ言葉で片付けんのは卑怯だな。僻みだよ、これは。惨めでみっともねぇ、男の嫉妬。俺にないもの全部持ってるように見えたお前が、ずっと妬ましかった」

  その告白は、俺からすればあまりにも予想外のものだった。

  僻み。嫉妬。妬み。

  アッシュが、俺に?

  疑問は尽きなかったが、口を挟むことはしなかった。

  「最初に会ったときから思ってたよ。あぁ、俺とは違うって。マトモな家庭で真っ当に育って、本当に正義感から警察官目指してきたんだろうなって」

  アッシュは、そうじゃなかったのだろうか。

  アッシュの生い立ちについては、少しだけ知っている。ポリスアカデミーを卒業してから、一度だけ俺の部屋で朝まで飲んだとき、酔いつぶれて譫言混じりに話してくれたことがある。

  アッシュは移民二世だ。両親の祖国はアッシュが産まれる前に勃発した何度目かの世界大戦で、国名に“旧”と“保護領”がつくことになった。その後、かなりの数の難民がこの国に流れてくることになったというが、それを歓迎した国民は決して多くはなかったそうだ。

  戦争によって一変した世界情勢は、この国の経済にも深刻な影を落としていたからだ。街には失業者が溢れ、治安も急激に悪化していったらしい。

  日毎に悪くなっていく暮らしの中、自分達を“善良な市民”と自認する人々は、やがてその原因を何処に探したか。何を“悪”と定めたか。想像に難くはないだろう。

  差別、迫害、排斥。

  祖国を失い、安住の地を求めて逃れてきた彼らがどのように扱われたのか、俺も知らない訳ではない。

  そしてその次世代たるアッシュが、どれ程過酷な幼少期を過ごしてきたのか。アッシュは「不幸自慢だ」と言ってそれ以上多くを語ろうとしなかったが、幼い日の彼が味わってきた絶望は、その白黒の毛皮の下に幾つも刻まれていることを、俺は知っている。

  そんな彼が自らを守るための力として学力を選び、寸暇を惜しんで磨いてきたその努力も、俺は知っている。

  「何の屈託もなく“正義”を信じられるお前を、幸せな奴だなって見下しながら、本当は羨んでた。俺みたいに、自分に向かって振りかざされる“正義”に怯えて、なら自分もその“正義”の側に立ってやろうなんて卑屈な動機で警察官になった奴とは、根本的に違う生き物だってな」

  少しも、そんな風には見えなかった。

  あの頃、俺の隣ではいつも普通に笑っていたし、見下されてるなんて、まして羨まれてるなんて、そんな素振りは毛ほども感じなかった。

  他人を疑って、他人の隠し事を暴くことを仕事にしていながら、すぐ傍にいたハズの仲間のことを、俺は少しも理解出来ていなかった。

  それを思い知らされたことが寂しくもあり、今それを知れたことが、同時に少し嬉しくもあった。

  「あとまぁ、顔も良くてスタイル良くて性格良くて、オマケに運動神経も署内一となりゃ、頭ぐらい悪くなきゃ釣り合い取れねぇだろとかその他色々」

  「その流れで急に普通に僻むんじゃねぇよ。しかも最後ドサクサで馬鹿にしてんじゃねぇか」

  声の調子が普段通りに戻ったのは、これでこの話は終わりだという合図のつもりなんだろう。

  いつまでも湿っぽい話をしていても仕方がない。

  俺もそのこと自体に異論はない。

  ないが、どうしても一つだけ、付け加えておきたいことがあった。

  「⋯⋯俺の方こそ、あの頃からずっと、お前には何やっても敵わないって思ってた」

  偽らざる本音を、ソッと宙に置いた。

  学力は言うに及ばず。対人能力から実務面での事案処理能力。勝てるところなんて、それこそ体力ぐらいしか思い当たらない。

  俺みたいな万年現場組とは違って、コイツはとっとと出世して上に行ってしまうんだろうと、勝手に思っていた。それを勝手に羨ましく思って、勝手に寂しく思って、同じぐらい勝手に誇らしくも思ってた。

  それだけ勝手に思って、そして勝手に、裏切られたような気になっていた。

  今日ここで、こうして、こんな形で再会することになるまでは。

  アッシュは何も言わなかったし、俺もそれ以上何も言わなかった。

  今の一言が聞こえていたかどうかもわからない。それは別に、どちらでも構わなかった。ただ、口にしておきたかっただけだから。

  沈黙は続く。

  だがそれを、決して気詰まりには感じなかった。遠からず、近からず。二人の間に出来た新しい距離感を、触れずに確かめるようなひととき。

  そんな穏やかな静寂を破ったのは、どちらかの声でもなく、無機質で無神経な電子音だった。

  「⋯⋯あ」

  何の音かと思ったが、すぐに思い至る。

  そうだった。ココって、確か時間制なんだったか。

  耳障りな甲高い音が、しつこい程繰り返し鳴り響く。

  発信源は、頭上の方向にあるコンソールパネルからだ。

  沈黙が、一気に気まずいものになった。

  その音の所為で、否応なくさっきまでの行為のことを意識してしまう上、その行為が何のために行われたのかまで、思い起こされてしまう。

  どうする。俺から切り出すべきなんだろうか。

  だが何て言えばいい。「どうだった?」だなんて、正気でなくとも言える訳がない。

  ついさっきまで。今の今まで見れていたハズのアッシュの顔が、もう見れない。

  思わず顔を伏せ、目を逸らす。

  その間に、ふと電子音が止まった。

  どうやら、アッシュが腕を伸ばしてコンソールに触れたらしい。

  ドキリと、心臓と同じ場所にある何かが内から胸を叩いた。

  「⋯⋯延長で」

  「は?」

  ドキリと、先程とは違う音階で胸が叩かれる。

  頭上に伸ばしていた腕を戻したアッシュは、そのまま寝返りを打つ動きに併せ、再びノソリと俺の上に覆い被さってきた。

  しまった。

  疑問符で頭が固まっている間に、抵抗する隙も抜け出す暇も埋まってしまった。

  「いや、な。人生で一度あるかないかのデカい買い物な訳だし、何も時間制限に急かされて決めるこたぁねぇよなと思ってよ」

  にこやかに語るその言葉の意味を察して、流れてもいない血がサッと引く感覚を覚えた。

  いやいや待て待て。話が違う。

  さっきの一回こっきりで終わると思ってたから、こっちも決死の覚悟で抱かれる決断をしたっていうのに。

  というか、無理だ。あんなの続けざまに、そう何度も耐えられる訳がない。身が保たない。

  そもそも、つい今し方あれだけ盛大にぶっ放した直後なんだ。アッシュだって、碌にインターバルも挟まず連戦なんていくらなんでも⋯⋯

  「っ⋯⋯」

  つん、と尻に当たる感触に息を飲んだ。

  「お前もさ、俺に買い取られることになったら、当然夜は俺のペースに付き合ってもらうことになるんだからよ⋯⋯今の内に、まぁ慣れるとまでいかなくとも、覚悟ぐらいはしといてもらわねぇとな」

  その口振りにたちまち戦慄した。

  どうも、最初から一発二発で終わることを前提にしていないように聞こえる。

  そしてその印象が誤りではないことを、下半身に触れる衰えを知らない感触が、無情に突きつけてくる。

  加えて、よしんばアッシュと共にココを出られたとしても、それで終わりじゃない。いつまでともつかないが、当分の間コイツの性生活に組み込まれることになるという、悪夢のような未来が現実のものとして忍び寄ってくる。

  飲み込んだ唾が、ヒヤリと喉を凍らせた。そのかじかんだ喉を気力で引き絞り、努めて冷静に言葉を繰り出す。

  そう、取り乱してはいけない。冷静に、落ち着いて毅然と声をかけなくては。

  「よせ、落ち着いて話し合おう。君の要求を訊かせてくれ。そのためには、まずその凶器を下ろしてくれないか。それがお互いのためだ」

  「声の抑揚が平坦、場に即した言葉選びになってない、信頼関係が未成立。落第点だな」

  無慈悲なF判定が、俺を絶望に叩き落とした。

  「それにだな⋯⋯」

  「あふっ⋯⋯ぁっ!?」

  それに打ちひしがれている暇なく、中枢回路に直接電極を差し込まれたようなショックが、一瞬で背筋を駆け巡った。

  「お前こそ、まだココこんなにさせてんじゃねぇか⋯⋯」

  「っ、違っ⋯⋯ひッ!」

  アッシュの指に摘ままれた俺の⋯⋯この身体の急所は、確かに言われた通り硬さを保ったままだ。

  だがそれは、断じて俺自身の興奮によるものじゃない。セクサロイドのボディが、機能としてその状態を維持してるだけだ。謂わば、電源が入ったままのホットプレートが、そのまま熱を持ち続けているのと変わらない。

  勘違いも甚だしい。

  「物足りねぇなら、ちゃんと自分から言わねぇとな⋯⋯」

  そんなこともわからないこの大馬鹿野郎は、人の話しも聞かずに鼻息も荒く顔を近づけてくる。

  殴るべきだ。

  即座に判断を下して、拳を握る。

  都合良く、殴るのに丁度いい距離まで来てくれた。利き手から顎へと繋がるラインは、ハッキリ見えている。あとはそれをなぞるだけで、目の前の不埒者をベッドに沈めるのは容易い。

  間抜けにも、相手は目まで瞑っている。コッチが暴力に訴えるなどとは、露ほども思っていないらしい。

  そのニヤついた口元を真っ赤に染めてもんどり打つのも、もう間もなくだ。

  秒読みに入る。

  「仲直りをしようぜ」

  「────」

  カウントが止まった。

  ⋯⋯ああ、くそ。コイツめ。

  憎たらしい。

  そんな一言で拳を解いてしまう自分が、心底恨めしかった。

  舌打ちも出来ない。

  ⋯⋯いいぜ。

  わかったよ。

  これで仲直りにしてやる。

  別に今日の今日まで仲違いしてたつもりもなかったが、これでお互いに遺恨も因縁もチャラだ。そんなもんあったつもりもなかったけど。

  黙って目を瞑って、顎を上げる。

  男同士の、元同僚、友人関係。

  その仲直りの証が唇と唇でのキスっていうのは、よく考えたらおかしな話だ。

  けれど、さっきまでもう散々やってきたその行為に、今更抵抗もなにもない。

  それに、このキスから改めて始まる俺達の関係を何て呼ぶことになるかは、まだわからないのだ。

  ボーイフレンドなんて呼ぶつもりは毛頭ないが、何にせよ、キスで仲直りが出来る間柄というのは、まぁあってもいいんじゃないだろうかと思った。

  唇に触れた感触の甘さに絆されている自覚がありながら、俺は拳を解いた手で、ソッとアッシュの頬に触れた。

  [newpage]

  ざり、と荒い砂粒を踏むような音がした。

  踵の下に、長らく人が足を踏み入れた形跡のない、剥き出しのコンクリートを感じる。

  暗がりに沈んだ足下は次に踏むべき箇所も碌に見えないが、それで踏み出す足が迷うことはない。

  一歩一歩。噛みしめるようにして前へと進んでいく。

  吸い込んだ冷気に、鼻の奥が痛んだ。

  頬を切りつける風は、行く手を阻むように強かだ。

  耳元をつんざいていく度、その感触は何処までも冷ややかで酷薄ながら、「よせ」「考え直せ」と、そんな誰かの声が混じって聞こえる気がした。

  他愛もない幻聴だ。そんなものは、感傷に過ぎない。そんなことで、この足を鈍らせる要因になどなりはしない。

  決意も決断も、既に済ませている。

  残せるものは残してきた。

  託せるものは託してきた。

  胸の中は、吹き荒ぶ風にも波立つことなく、静かに凪いでいた。

  眼下に、光の河が見える。夜空に散らばる星よりも鮮烈に目を焦がす、人の生み出した光。

  正に、これまでの人類の歩みを象徴する、文明という光そのもの。ともすれば自らを灼きかねない程の、強く眩い灯火。

  それは、この先の道行きを明るく照らすためのものだ。後に続く者達が、心安くその先を目指すための道標であるべきだ。

  それが、あるはずの先行きを焼き払うものであっては、断じてならない。

  だから。

  この選択には意味がある。

  意義もある。

  だが、罪悪感はなくならない。

  押しつけたもの。残していくもの。

  その重さは、背負っていくしかない。

  逆に言えば、背負える重さでもある。足枷とまではならない。

  この足を踏み出すのに、何ら障害にはならなかった。

  ああ⋯⋯ただ、一つだけ。

  瞼の裏に白色が浮かぶ。

  最後に一目、その顔を見られなかったことだけが、心残りだった。