この国も随分と生きづらくなったものだ。
特定特殊変異生物保護法、通称「特変法」が施行されて40年。
血に飢えた吸血鬼による白昼の殺人事件を機に、国全体に亜人の存在が知られるようになり、紆余曲折を経て彼らは一先ずの人権を獲得するに至った。
とは言っても一般市民の間では未だ根強い差別感情が残っており、亜人側も人間を襲う例が後を絶たなかったことから、政府の監視の目は厳しく行動が制限されている。
このような理由から正体を隠して人間社会に潜む亜人たちも少なくない。
もちろん違法である。
高校へ向かう通学路の途中には、「特変法の改正を!」「亜人に人権を」などと書かれたプラカードが打ち捨てられている。
この辺りは栄えているわりに治安が悪く亜人たちによるデモ活動も後を絶たない。
しかしこうして後片付けもせず散らかしていくあたり詰めが甘いというか、市民から煙たがられるのに文句も言えないだろう。
「なぁ、どう思うよアレ」
斜め後ろあたりを気怠そうに歩いていたクラスメイト、人見恭弥がそれを顎で示す。
「どうも」
感想なら頭の中で言ったばかりだ。
「オレはさぁ、特変法なんかもっと厳しくして亜人ら全員牢屋にぶち込めばいいと思うね」
恭弥は別に答えを求めているわけではなかったのか、こちらに構わずに話を続けた。
「アイツらが存在して良かったことが1ミリでもあったか?お前知らねえだろうけどよ、この前の夜そこの通りに人狼が出たんだ。ヨダレだらだら垂らして、女子供まとめて食っちまおうってツラでさ。流石の俺も死を覚悟したね。でも結局被害者が一人も出なかったから無罪放免。調子乗りやがって。馬鹿でけえだけの獣のくせに」
「おい、もっと声落とせ」
俺はそれとなくたしなめた。
気の荒い獣の亜人に聞かれたら殺されているところだ。
「何、お前もビビってんの?亜人に仕返しされる〜って」
はは、と彼は感情のない笑い声を上げる。
それからも獣耳娘は風俗で働かせろだの、吸血鬼は飢えさせて観察日記を付けろだの、こちらがドン引きするような発言を繰り返していた。
こういう命知らずなところは幼稚園児の頃から変わっていない。
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教室に着くと今度は女子たちが何やら盛り上がっていた。
「ねぇ聞いた?占いの館のミラ様ってさ」
「知ってるー!吸血鬼……あっ、吸血種の亜人って噂でしょ?」
「ミラ様にだったら血ぃ吸われてもいいなぁ」
「でも地下に凶暴な獣飼ってるらしーよ。襲われたらやばいじゃん」
ミラ。
それは数年前からこの街に居を構えている女占い師の名だ。
肝心の占いの技術は微妙だが、妖艶な雰囲気と巧みな話術で老若男女問わず人気を集めている。
この街は自分が霊力で守っているから野蛮な亜人は近寄らない、というのは本人の談だが、実際彼女が訪れる前に比べればここも幾分マシになったらしい。
噂のとおり、彼女は紛うことなき吸血鬼だ。
しかしそこらの人間の血を吸ったりはしない。
彼女の舌は亜人のそれしか好まないのだ。
蓼食う虫も好き好きと言ったところか。
だが教室の女子たちだってそんな話を聞いたら幻滅するに違いない。
亜人というものは、見た目は人間のようでも中身は明らかに人とは異なる。
寓話に代表されるような妖しげながら美しい存在というのは幻想に過ぎない。
彼らが曲がりなりにも人間社会に溶け込んでいるのは『そのほうが都合がいいから』に尽きるのだ。
今朝の恭弥の言うことは差別と偏見に塗れてはいたものの、完全に間違いとも言い切れない。
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放課後。
俺にとって憂鬱な時間が訪れた。
何を隠そう、これから向かうのは件の吸血鬼ミラの根城なのだから。
この前のような過ちは犯してはならない。
俺は無意識に拳に力を入れていた。
(まさか恭弥に見られていたとはな)
この前のような醜態を再び晒すわけにはいかない。
捕まることが恐ろしいのではない、その気になれば切り抜ける方法自体はいくらでもある。
ただ俺はこの、普通の人間としての生活が気に入っているのだ。
「いらっしゃい。早かったわね」
青い屋根にショッキングピンクの壁という何とも奇抜な占い館の扉を開ければ、魔女のようなとんがり帽子に、露出のいささか高すぎる黒のドレスを身に纏った女性が気怠げにパイプを吹かしていた。
彼女こそ女子たちの羨望の的、吸血鬼ミラだ。
「開いてるか?」
「モチのロン。ちゃあんとスイートルーム仕様にしておいたわ」
「いつも通り、鍵は頼む」
「分かってるって」
ピンクに溢れた趣味の悪、華やかな客間に背を向けて、玄関脇の壁に掛かっている月が描かれた絵画に手を掛ける。
……正直、この絵も見ていてあまり気分は良くない。
黒い空に煌々と輝く月は模様まで緻密に再現されており、遠目で見れば本物と見紛うほどだ。
まあこの程度で取り乱すような俺ではないが。
ガタッと大きな音を立てて呆気なく外れたそれを俺は荒々しく退けて、奥に続く暗い階段を降りていく。
次第に湿っぽいカビの生えたような匂いに満たされていくのを感じるが、それは元々この部屋がそうなのか今日は鼻がよく利くせいかわからない。
やっと辿り着いたのはコンクリートの壁で覆われた牢屋だった。
俺は速まっていく鼓動を落ち着けようと何度か息を整えながら鉄格子に手を掛けた。
まだ外は陽が沈んですらいない。
しかしパブロフの犬とはよく言ったもので、光一筋すら入らないこの暗く狭い空間に来ると、もう存分に暴れて構わないと認識した身体が震え始めるのだ。
(しまった、昼の鎮静剤を飲むのを忘れていた)
獣化後の昂りを抑える鎮静剤は満月の3日前から1日3回、3錠ずつ飲むことになっている。
1回でも怠れば効果は激減、理性の8割は吹っ飛ぶ。
先月もやらかしたばかりだと言うのに自分がつくづく嫌になる。
幸いなことにこの牢は頑丈で防音性能もしっかりしている。
館の主人も「薬なんて飲まなくていいのよぉ、本能のまま暴れるほうがセクシーじゃない」などと曰う変態的嗜好の持ち主なのが幸か不幸か。
壁から雑にぶら下げられたチェーンの先の拘束用の鉄の腕輪と足輪をそれぞれ嵌めていく。
人間の状態では比較的ゆとりがあり、指も自由に動かせるため一人で四肢に嵌めることに支障は無い。
しかしこれが獣化後はギチギチの状態で、俺は毎回とてつもない圧迫感と苦痛と戦う羽目になる。
それでもこれを使い続けるのは、今日のように暴走が確定している日に飛び出して他者に迷惑をかけるようなことが絶対に無いようにするためである。
どれくらいの時が経っただろうか。
地下なので勿論月の光は見えないが、どうせ周期で決まった時間に始まるので関係ない。
ただやはり、直接光を浴びながら姿を変える方が気持ち良いし高揚感に満たされる。
先月の俺はまさにそうだった。
学校の行事に向けての下準備で予想以上に長い時間拘束されて、祈る思いでミラの館に走ったが、間に合わなかった。
何十年ぶりかに俺は月を眺めながら獣化した。
正直、物凄い快感だった。
光を身体いっぱいに浴びながら人間という鎖から解き放たれていく。
すべてが終わった俺は全能感に包まれ、幾度となく咆哮し、月を追いかけるように通りへ飛び出した。
幸いミラがすぐに駆けつけてくれたため最悪の事態は免れたが、あの時は本当に肝を冷やした。
翌朝、学校に行くのが心底怖かった。
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そんなことを振り返っているうちに、"それ"は訪れた。
「ッ……はあ、はあ、はアッ」
身体中の血が滾り沸騰し逆流すらしているような感覚。
飢餓感と高揚感とが這い上がってきて、あっという間に脳を侵食していく。
熱い。熱い。痛い。痛い。
無意識のうちに舌を出して犬のように呼吸をすれば、熱い涎が止めどなく伝って地面へと落ちる。
喉の奥でグルルと響くそれは既に獣の色合いを帯びている。
熱に浮かされたような意識の中で、確かに薬など要らないかもしれないなと思った。
ボコボコと音を立てて、煮えたぎるように身体中の筋肉が膨張し、じわじわと体毛が濃く長く変化していく。
耐えきれなくなったシャツとズボンがビリリと派手に破ける音がする。
予め脱いでおけばいいものをいつも敢えて着たままなのは、この人間の殻を内側から食い破るような感覚もまた心地好いからだ。
骨の砕けるような音が連続してはその度に小さな悲鳴とも呻き声ともつかぬ声が上がり、鎖が派手にジャラジャラと揺れる。
一般的な痩せ型の青年のそれだったはずの体躯は今や1.5倍ほどの大きさに膨れ上がっていた。
「あああア、う、おオオオオオッ」
ひと際大きく叫ぶと、顔の変形も始まった。
顔中の筋肉がグシャグシャになって、黒く変色した鼻を中心に前に引き伸ばされると、あっという間にマズルを形成する。
歯はみるみる伸びて全て鋭さを持った犬歯となる。
耳もまた引っ張られるように上に伸びていくと、三角の尖りと奥行きを帯びて定着した。
苦しみの中ぎょろりと開かれた目は血走っていて焦点がまるで定まっていない。
その間にも、髪の毛は長く伸びて全身の毛と一体化しようとしていた。
「ガアアア、ア……」
やがて貧弱だった下半身も筋肉がついて、踵がぐうっと伸びる体勢になると、合わせて背中もゴキゴキと音を立てて前のめりに曲がっていった。
震える手を地面につけると、仕上げと言うように手足の形が変わっていく。
「フーッ、フーッ」
荒々しい呼吸のリズムに合わせるように、親指は後退し、他の四本の指はその長さを保ったまま爪だけが鋭く伸びる。
人間の手足と獣の四肢、その中間のような奇妙な形にそれは落ち着いた。
彼はもう一度のそりと立ち上がると、そこでやっと枷のせいで自由が利かないことに気付いたようで身体をめちゃくちゃに捻り暴れ始める。
無論、びくともしなかった。
「グルルッ、ウウオオオオオーーーーッ!!!」
苛立ちを隠さぬ咆哮が密室にこだまする。
吼えるほどに人間性が、言葉が、思考が、失われていくのが見て取れるようだった。
獣のようであって獣ではない、しかし勿論人間ではあり得ない怪物。
特定特殊変異生物、『人狼』の姿がそこにあった。
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「あらあら、お盛んねぇ」
ミラが様子を覗いた時にはもう、狼は完全に理性を失っていた。
「グオオオオオオオオッ!!!!!」
彼女を見るなり目を爛々と輝かせ唾を飛ばして吠えかかってくる。
「おぉ怖い。お薬飲むの忘れちゃったのね」
言いつつも、その声色には余裕と楽しんでいるような響きが伴っていた。
「そっちの方がセクシーだとアタシは思うけど」
そう言いつつ彼女は古びた錠前に手をかけガチャリと鍵を掛け直す。
「早くこんな事しなくて済む世の中になればいいのにねぇ。日蔭で好き勝手ヤッてたあの頃みたいにさ。フフ、やっぱりその鎖外してあげよっか」
長い睫毛を瞬かせて見つめると、狼は一瞬怯んだように見えた。
そこにミラが初めて彼と出会ったときの荒み切った獰猛な魔物の気配はもはや感じられなかった。
彼は今も吼える、しかしそれは恐れから来るものだ。
たった一度快楽に身を委ねることで、今の生活を失い、本能のまま暴れ回っていたかつての自分へ逆戻りしてしまう恐れ。
「嘘よ。外したりしないっての。あーあ、先月街のなかで吼え猛っていたアナタは本当に素敵だったのに」
溜息ながらに言うと、彼女はやがて踵を返して重い鉄の扉を開けた。
夜は更けていく。
狼の遠吠えは月を揺らし、吸血鬼は街の片隅で快楽を貪る。
人間達はそれでも自分達の優位性を信じ、安穏と日々を送っている。
狭い檻の中。
古びた鎖は切れかかっていた。