僕は、差別のない世界に立っていたかった。
その一心で、幼い頃からの夢だった
「共生倫理学」の門を叩いた。
第一志望の国立大学には届かなかったけれど、
それでもこの大学の合格通知を掴んだとき、
僕は自分を縛る『種族』と云う
鎖から解き放たれるのだと信じていた。
けれど、夢は所詮、夢でしかなかった。
理想郷なんて、ここにはどこにも無かった。
学生の九割を草食獣が占めるこのキャンパスで、
肝心の「共生倫理」は、
肉食獣の苦悩など一顧だにしない、
草食獣による、草食獣のための防衛ルールに過ぎなかった。
周囲の態度には、もう、うんざりだ。
講義中も、
喧騒に満ちた食堂でも、
僕の隣に座る者は誰もいない。
僕が席に着いた瞬間、目に見えない防壁が築かれ、
周囲から音が消える。
彼らはあからさまに僕を避け、
まるで言葉の通じない怪物を見るような目で僕を値踏みする。
そんな中。
凍りついた僕の隣に、
音もなく腰を下ろした人がいた。
「ねぇ、ここ空いてる?」
不意に上から降ってきた声に、僕は思考を止めた。
「……空いてますけど」
「ならよかった!」
今日も独り、
広く空いたテーブルで味の薄い学食を咀嚼していた僕に、
珍しく声をかける者がいた。
視線を上げると、
そこには艶やかな黒い毛並みを持ったウサギの女性が立っていた。
彼女は僕の返事を聞くや否や、
屈託のない動作で向かいの席に腰を下ろす。
彼女の手元にあるトレーには、
湯気を立てるニンジンのステーキが乗っていた。
「珍しいね? 君……一回生?」
「そうですけど……。やっぱりここだと、『珍しい』ですか」
自嘲気味に問い返すと、
彼女は小さな鼻をひくつかせながら笑った。
「んー、まぁそうだね。
ここに通ってる肉食は他にもいるけど、
わざわざ混んでる食堂を利用しないの。
みんな、外で済ませちゃうから」
彼女はそう言いながら、
ニンジンのステーキを切り分け、
小さな前歯で器用に食べ始めた。
僕は、その規則正しく動く口元に、
知らず知らずのうちに目を奪われていた。
(……細い、喉だ)
彼女が飲み込むたびに、その華奢な喉が上下する。
周囲の学生が僕を怪物として遠ざける中、
彼女だけが、僕の牙が届く距離で、
あまりにも無防備に『生』を謳歌していた。
「……あの、怖くないんですか」
僕の問いに、彼女はニンジンを咀嚼する手を止めず、
不思議そうに首を傾げた。
「何が?」
「僕のことです。……トラですよ、僕は」
「あはは、知ってるよ。見ればわかるって」
彼女はケラケラと笑い、フォークを置くと、
改めて僕を真っ直ぐに見つめた。
「私は穂田咲。
こう見えても君と同じ、共生倫理学の三回生。
一応、先輩だよ」
「……共生倫理の、先輩」
「そう。だからね、
教科書に書いてある『肉食獣への接し方』なんて、
私は信じてないの。
自分の目で見て、話して、
それでいいなって思った人としか一緒にいないだけ」
咲先輩。
この歪な大学で、
彼女だけが僕の種族を『記号』としてではなく、
ただの『個性』として受け流した。
その強さと無知さが、僕の胸の奥をチリリと焼く。
「僕は、前門律です」
「律くんね。いい名前。自分を律する、の『律』?」
「……親が、そう願ったみたいです」
「へぇ。でも、あんまりガチガチに律しすぎてると、
疲れちゃうよ?」
彼女は僕の空になったトレーをチラリと見て、悪戯っぽく微笑んだ。
「ねぇ? 律くんは歌うの好き?
さっきから聞いてたけど、
低くて……凄く良い声だなって思ってさ!」
「歌、ですか」
唐突な誘いに、言葉が詰まる。
僕のこの喉は、獲物を威嚇し、
引き裂いた肉を飲み込むための物だ。
それを「良い声」と評されたのは、
生まれて初めてだった。
ただ、高い声が出ないだけなのに。
「私、ロックバンドやってるんだけど。
今、フロントマンを探してるの。
律くんみたいな響く声、絶対ステージで映えるよ!」
「……先輩は何を?」
「私はドラム! リズムの要だよ」
ドラム。
僕は思わず、彼女の華奢な肩と、
テーブルに乗った小さな手元を凝視した。
あんなに小さな身体で、
あの重厚な楽器を叩き伏せられるのか。
スティックを握る指先は、
僕が少し力を込めるだけで折れてしまいそうなほど細い。
(……その手で、叩けるのか?)
激しく脈打つビートを、
彼女が制御している姿が想像できない。
けれど、彼女の瞳には確かな熱があった。
僕という『猛獣』を前にしても微塵も揺らがない、
奔放な生命の輝き。
「殻をぶち破って叫ぶのって、
最高に気持ちいいよ?
律くん、自分の声、
腐らせとくのはもったいないって」
叫ぶ。
僕の内側に澱みのように溜まった、
この行き場のない感情を音に乗せて吐き出せというのか。
彼女の無垢な誘いは、
僕が必死に守ってきた『律』という規律の壁を、
軽々と飛び越えてくる。
「……見学くらいなら、いいですよ」
僕が折れると、彼女は「やった!」と
子供のように両手を叩いて喜んだ。
その瞬間、彼女の喉元が小さく跳ねる。
僕の喉は、歌うためではなく、
やはり別の目的のために熱を帯び始めていた。
僕は先輩に「ついてきて」と言われるまま、
数歩後ろを歩いた。
目の前に見える、頼りないほど小さな背中。
混濁した学内の空気の中で、
シャンプーよりも甘い先輩自身の匂いが、
わずかな隙間を縫って僕の鼻を鋭く刺す。
(……甘い。吐き気がするほど、純粋な生き物の匂いだ)
その匂いを吸い込むたび、
僕の喉の奥がヒリついた。
無意識に足音を殺し、
獲物を追うような歩調になりかけては、
慌てて「律」としての歩みを取り戻す。
その繰り返しが、僕をじりじりと煽り立てている。
「ここだよ! 遮音性はバッチリだから、
どれだけ叫んでも大丈夫」
先輩が重い鉄扉を開くと、
ひんやりとしたスタジオの空気が流れ込んできた。
積み上げられたアンプ、乱雑に転がるシールド。
そして部屋の中央には、
鈍い銀光を放つドラムセットが鎮座している。
「さあ、律くん。真ん中に立って。マイク、準備するから」
彼女は軽やかな足取りでドラムスツールの前に座り、
スティックを握り直した。
さっきまでの、
食堂でお喋りをしていた「可愛い先輩」の
空気が一変する。
「いくよ。……ワン、ツー!」
次の瞬間、凄まじい衝撃がスタジオの空気を震わせた。
ドォン、と腹の底を突き上げるバスドラムの振動。
あんなに小さな、
折れそうな細い腕から放たれたとは思えない、
暴力的で、かつ正確なビート。
それは音楽というよりも、
剥き出しの「心音」の塊だった。
彼女がスネアを叩くたび、
シンバルを薙ぐたび、
僕の視界には服越しから彼女の躍動する筋肉が焼き付く。
「……っ」
マイクを握る僕の手が、汗で滑った。
ドラムの振動に同調するように、
僕の血が逆流を始める。
彼女が刻むリズムは、僕の中に眠る
『虎』を呼び覚ますための儀式にしか聞こえなかった。
「どうしたの律くん! 腹の底から声出して!」
スティックを振り下ろしながら、彼女が叫ぶ。
僕は、彼女の期待に応えるために口を開いた。
歌うためではない。
この、爆音にかき消されるはずの、
獣のような咆哮を吐き出すために。
心臓を直接掴まれるようなバスドラムの衝撃が、
僕の思考を白く塗りつぶしていく。
視界の端で、スティックを振り下ろす先輩の細い腕が、
しなる鞭のように躍動していた。
その一打一打が、
僕を縛る規律の鎖を叩き切っていく。
僕は、逃げ場のない鉄の檻の中で、
マイクを指がめり込むほど強く握りしめた。
(……ああ、もう、どうにでもなれ)
明日からの講義も、
共生倫理の単位も、
『模範的な肉食獣』という薄っぺらな仮面も。
今、この瞬間だけは、知っちゃこっちゃない。
肺の底に溜まった泥のような澱みを、
一気に喉元までせり上げさせる。
鼓膜を劈くシンバルの残響。
この暴力的なドラムの音なら、
僕の正体がかき消してくれる。
そう確信して、僕は思い切り口を開き、
叫んでみた。
「――――ッ!!」
歌などではなかった。
それは、言葉になる前の、
剥き出しの飢餓と憤りが混ざり合った獣の咆哮だ。
スピーカーが悲鳴を上げ、
ハウリングが空気を切り裂く。
けれど、その音の渦の中で、
僕は生まれて初めて、
肺が軽くなるような解放感を味わっていた。
目の前でドラムを叩く先輩が、
一瞬、驚いたように目を見開く。
その瞳に映る僕は、
果たして『後輩』に見えているだろうか。
それとも、
喉を鳴らす『捕食者』に見えているのだろうか。
咲先輩は、弾かれたようにドラムを叩く手を止めた。
スティックを握りしめたまま、
信じられないものを見たという顔で僕を見つめている。
「……っ! 凄い……凄いよ……!
最高にロックだよ、律くん!!」
彼女は弾んだ声でそう笑い飛ばした。
スタジオの密閉された熱気の中、
彼女の額には細かな汗が浮かんでいる。
けれど、その直後だった。
彼女は不意に、自分の口……いや、
細かくヒクついている鼻を隠すように、両手で顔を覆った。
(……ああ。そうだ。これが、現実だ)
彼女の心は、僕の咆哮に興奮し、楽しんでいる。
けれど、その身体は、生物としての本能は、
僕という捕食者の気配を間近に浴びて、
逃げろと警鐘を鳴らしている。
指の間から覗くその瞳は輝いているのに、
膝の端が微かに、
けれど確かに震えているのを僕は見逃さなかった。
身体は、怖がっている。
そう確信した瞬間、僕の胃の腑が、
熱い泥を流し込まれたように疼き出した。
恐怖の匂い。
それはどんな香水よりも甘く、
どんな料理よりも僕の飢えを正確に刺激する。
「……先輩」
自分の声が、
さっきの叫びの余韻でひどく掠れている。
彼女の「理性」が僕を肯定すればするほど、
彼女の「肉体」が放つ拒絶の信号が、
僕の中の檻を粉々に粉砕していく。
『追いかけてみては?』
脳裏に響く、あの不気味な声。
このスタジオの重い防音扉は、
僕の咆哮を外に漏らさない。
(なら、僕がここで何をしても……。)
なんて思ってしまうほどに、
今の先輩の無防備な姿は、
僕の中の「捕食者」の扉をあまりにも簡単に開けてしまう。
先輩は乱れた息を整えながら、
首にかけたタオルで首筋の汗を拭った。
「……ねっ! やっぱいいよ!
その声! バンドやろうよ! ね!」
彼女が僕の方へと近づいてくる。
言葉は明るく、僕を歓迎している。
けれど、彼女の喉は、
その言葉を紡ぎながらも小刻みに震えていた。
僕という暴力的な個体に対する、
生物としての根源的な恐怖が、
彼女の意思を裏切って表面化している。
(……震えてるじゃないか、先輩)
近づいてくるたびに、彼女の放つ「熱」が、
汗の匂いと共に僕の鼻腔をダイレクトに叩く。
学食のニンジンを食べていた時の穏やかな匂いとは違う。
運動によって活性化した血流の、生々しく、
力強い、鉄の匂いだ。
マイクを握る僕の指に、ぎりぎりと力がこもる。
彼女が差し出してきたその細い手が、
僕の牙の届く圏内に踏み込んでくる。
今、ここでその喉笛を。
この爆音の檻の中で、誰にも気づかれずに。
「……検討、させてください」
僕は、自分の声が獣のような低い唸りに
変わっていることに気づき、慌てて背を向けた。
これ以上、彼女の震える喉を見ていたら、
僕は自分を維持できなくなる。
「あ、律くん!? 待ってよ、
そんなにすぐ帰らなくても……!」
背後から投げかけられる先輩の声を振り切り、
僕は荷物をひっ掴んだ。
一刻も早く、
この甘い匂いが充満した「檻」から脱出しなければならない。
理性が悲鳴を上げ、
喉の奥が獲物を求めて熱く疼き始めている。
出口へと足早に向かったその時、
分厚い防音扉が、静かに、けれど迷いのない力で開いた。
「あれ? お取り込み中だったかな?」
低く、落ち着いた、それでいてどこか愁いを帯びた声。
扉の向こうから現れたのは、
斑点のある茶色の毛並みが特徴的な大型のシェパードだった。
背中には、使い込まれたギグバッグを背負っている。
「あ、眞陸くん! ちょうどいいところに。
見てよ、新入生の律くん。
さっきの咆哮、聴かせてあげたかったなぁ!」
咲先輩が、弾けるような笑顔で彼の方へ駆け寄る。
その無邪気な足音が、
僕の張り詰めた殺意をわずかに削り落とした。
眞陸さんは、僕と先輩の間に漂う、
言葉にできないほど濃厚な「空気」を、
ひと目で読み取ったようだった。
彼は僕の目を真っ直ぐに見据える。
それは責めるような視線ではなく、
まるで同じ深淵を覗き込んでいる同族を案じるような、
静かな眼差しだった。
「……律くん。でいいのかな?」
「……はい」
彼は僕のすぐ隣まで歩み寄ると、
重いギターケースを床に下ろした。
彼から漂ってくるのは、僕と同じ肉食獣の匂いだ。
けれど、それは僕のように剥き出しのものではなく、
長く、苦しい自制の果てに辿り着いた
「凪」のような匂いだった。
「……苦しいな、律くん」
彼だけにしか聞こえない、掠れたような囁き。
図星を指された衝撃よりも、
自分の内側にある地獄を、
この人は既に通り抜けてきたのだという予感が、
僕の胸を締め付けた。
「……何のこと、ですか」
「わかってる。慣れないんだろう?」
「いい店を知ってるんだ。今日はそこで満たそう」
眞陸さんの声は、驚くほど穏やかだった。
けれど「満たす」という言葉の響きだけが、
僕の飢えた胃袋にひどく生々しく突き刺さる。
この人は、僕が今、
何を喉に流し込みたいのかを正確に理解している。
その確信が、
張り詰めていた僕の肩の力をわずかに抜かせた。
「えー? どこ行くって? 私もついてってもいい?」
二人の間に流れる不穏な空気をこれっぽっちも察せず、
咲先輩がひょいと顔を覗かせて割り込んでくる。
彼女の無垢な好奇心は、
いつだって僕の「獣性」を逆撫でする。
「ダメだ」
眞陸さんが、遮るように、けれど優しく断った。
「……今日は、律くんと男の話がしたくてね」
眞陸さんは慎重に、
そして残酷なほど的確に言葉を選んでいた。
『男の話』。
それは咲先輩のような草食獣には立ち入ることのできない、
肉食獣だけが共有する「業」の隠語のように聞こえた。
「ちぇー、仲間外れかぁ。残念。
じゃあ、律くん、また明日ね!
バンドのこと、前向きに考えておいてよ!」
先輩は不満げに頬を膨らませながらも、
あっさりと手を振ってスタジオを後にした。
パタン、と扉が閉まり、
甘いシャンプーの匂いが遮断される。
残されたのは、鉄と脂の匂いが立ち込める密室と、
僕たち二人の肉食獣だけだった。
「……行きましょうか。律くん」
眞陸さんが、重いギターケースを持ち直す。
「大人たちがどうやって、
本能と折り合いをつけていくべきか。
その答えの一つを、君に見せてあげたい」
その背中について歩きながら、
僕は自分の喉が鳴るのを感じていた。
眞陸さんが連れて行こうとしているのは、
救いの場所か、それとも…。
「そう言えば、自己紹介がまだだったね。
私は斑目 眞陸。咲と同じ共生倫理の三回生だよ」
歩調を合わせ、隣を歩く眞陸さんが穏やかに言った。
「……前門 律です。一回生で……」
「知ってる。咲から興奮気味に聞いてるよ。
『凄くいい声の後輩を見つけたんだ』ってね」
彼は前を向いたまま、可笑しそうに目を細めた。
その横顔には、年上の肉食獣らしい落ち着きと、
どこか世捨て人のような達観した空気が漂っている。
「……咲はね、ここにいる肉食たちに声をかけて、
バンドを……サークルを作ろうとしてるんだ。
だから、君も入った方が気が楽になると思うよ」
その言葉の意味を、僕は咀嚼(そしゃく)しようとした。
気が楽になる?
あんな風に、
いつ牙を剥いてもおかしくない距離で草食獣と接することが、
どうして「楽」に繋がるというのか。
僕にはむしろ、
地獄の釜の蓋を素手で押さえつけているような苦行に思えた。
「……先輩は、僕たちの『飢え』を知らない」
僕が絞り出すように言うと、眞陸さんは短く
「そうだね」
と頷いた。
「知らないからこそ、あの子の傍にいる間だけは、
僕らも自分を『獣』だと思わずに済むんだ。
……それがどれほどの救いか、君もそのうち分かる」
「…それに話してると治まってくるだろ?」
「…!?そうですね」
話してるといつのまにか、
さっきまで苦しんでた自分の中の本能が治まっていた。
そうこう話しているうちに、
僕たちは大学の重厚な正門をくぐり抜けた。
夕闇が降り始めた街へと足を踏み入れる。
街灯が灯り、帰路を急ぐ群衆の波が押し寄せてくる。
シカ、ヒツジ、ネコ、イヌ。
多種多様な種族が入り乱れる喧騒の中で、
僕の鼻は、
通り過ぎる者たちの「血の匂い」を否応なしに拾ってしまう。
でも、スタジオの時。先輩の時よりかは薄かった。
「……さあ、着いたよ」
眞陸さんが足を止めたのは、繁華街の路地裏、
ネオンの光も届かないような古びた雑居ビルの前だった。
鉄の階段を上る足音が、やけに重く響く。
扉を開けた瞬間、世界が反転した。
何の変哲もない、塗装の剥げかけた扉の向こう側。
そこには、大学のキャンパスや街では決して見ることの
できない光景が広がっていた。
「……ッ」
喉の奥が、熱い鉄を流し込まれたように焼ける。
店内に満ちているのは、
ライオン、オオカミ、クマ、ハイエナ……
多種多様な「肉食獣」たちの熱気と、
低い地鳴りのような談笑の音。
そして、その喧騒の底に、沈殿するように漂う
「本物」の匂い。
代替肉の大豆の匂いではない。
微かだが、確実に鼻腔を突き抜ける、
野生の血肉が持つ芳醇な香りがそこにはあった。
「二人なんだけど、入れる?」
眞陸先輩が、慣れた様子で店員に声をかける。
店員。大柄なワニの男が、
感情の読めない爬虫類の瞳で僕をじろりと眺めた。
僕の身体が、外敵に対する本能的な警戒で硬直する。
「……新顔か?」
「ああ、可愛い後輩だ。
少し『焦って』いるみたいでね。
落ち着ける席を頼むよ」
眞陸先輩の「焦っている」という言葉に、
ワニの店員はニヤリと裂けた口元を歪めた。
案内されたのは、店の隅にある薄暗いボックス席だった。
周りを見渡すと、
誰もが「怪物」としての牙を隠さず、
皿に乗った赤い塊を貪り食っている。
大学の食堂で、
周囲を気にしながら薄い味のパンを噛んでいた僕にとって、
そこはあまりにも暴力的な、
けれど狂おしいほどに求めていた「聖域」だった。
「驚いたかい。
ここなら、誰も君を指差さないし、
君の牙を恐れもしない」
眞陸さんはギグバッグを足元に置き、深く腰掛けた。
オレンジ色の照明の下で、彼の斑点のある毛並みが、
どこか艶めかしく揺れる。
「さあ、注文しようか。律くん。
……今日は、君のその『乾き』を、
少しだけ誤魔化してあげよう」
差し出されたメニューには、料理名など書かれていなかった。 ただ、部位の名前と、生々しい「鮮度」の
ランクだけが羅列されている。
(……本物だ。本物が、すぐそこにある)
僕の掌は、いつの間にかじっとりと汗ばんでいた。
腹の中が熱い。
胃袋が、内側から僕の肋骨を突き破らんばかりに
脈打っている。
「律くんはこういう所、初めてだよね?」
眞陸先輩は、僕の強張った肩を見透かすように、
低く柔らかな声で尋ねた。
「ええと……はい」
返した声が、自分でも驚くほど震えていた。
視界に入る肉食獣たちの、剥き出しの牙。
咀嚼する音。
そして、鼻腔を狂わせる濃密な血の匂い。
大学の講義室で教わる「共生」という言葉が、
ここでは砂の城のように脆く崩れ去っていく。
「よし。じゃあアレにするか」
眞陸先輩は迷いのない手つきで、
さっきのワニの店員を呼び止めた。
「ウシ、一キロ。鮮度はなんでもいいです。
それをレア焼きで」
――ウシ。
一キロ。
その単語が鼓膜を叩いた瞬間、
僕の喉が「ゴクリ」と、暴力的な音を立てて鳴った。
一キロなんて、普段ではとても食べきれない量だ。
けれど、今この瞬間の僕の胃袋は、
それどころか自分の体躯以上の質量を求めて、
内側から激しく脈打っている。
「……一キロも、ですか」
「足りないくらいかもしれないよ、今の君にはね」
眞陸先輩は、テーブルの下で自分の指を組み、
静かに僕を見つめた。
「鮮度は問わない。つまり、これは死肉さ。
……誰の血も流さず、
法を少しだけ潜り抜けて手に入れた、
僕たちのための妥協点だよ」
店員が去った後、厨房からジューッ、
という重厚な脂の爆ぜる音が聞こえてきた。
石鹸の匂いも、シャンプーの甘い香りもしない。
ただ、ただ、生命の芯を焦がしたような、
強烈な野性の香りが漂ってくる。
(……レア焼き)
一体どんな肉なんだろか。
想像しただけで、口の中に溢れる唾液を抑えきれなくなる。
「律くん。……これを食べたら、
もう大豆の代替肉には戻れなくなるかもしれない。
それでも、食べるかい?」
眞陸先輩の瞳が、オレンジ色の照明を反射して、
怪しく、そして悲しげに光った。
「大人はみんな、死肉で満たす。
……誰かを襲うよりマシだからね」
眞陸先輩の言葉は、静かで、
冷徹なほどに現実を射抜いていた。
「……そうですね」
短く応えた僕の脳裏に、
さっきまでいたスタジオの光景が無理矢理に引き戻される。
咲先輩の、甘いシャンプーの匂い。
恐怖で震えていた、あの細い喉。
あそこで僕が、あと一歩、理性を手放していたら―。
知らなかった。
こんな場所があることも、
大人がこうして裏側で「折り合い」をつけていることも。
大学で学んでいる「共生倫理学」は、
一体何をもって共存と呼んでいるのだろう。
綺麗事の教科書を綴じれば、現れるのはこの血生臭い店だ。
本当の世界は、僕をどこまでも残酷に悩ませる。
けれど。
店の奥から、重い足音と共に運ばれてくる「それ」が、
僕の思考を強制的に停止させた。
ジューッ、と脂が爆ぜる、暴力的なまでの重低音。
立ち上る湯気の中に混じる、
代替肉には決して真似できない、
生命を焼き焦がした芳醇な、
そして鉄のような匂い。
視神経が、皿の上に乗せられた
一キロの赤黒い塊に釘付けになる。
焼かれた表面の、焦げた茶色。
ナイフを入れる前から、
内側に閉じ込められた血潮が溢れ出さんばかりに
脈打って見えた。
(……ああ。もう、何も考えられない)
倫理も、共生も、理想も。
鼻腔を突き抜ける生物の匂いが、
すべての悩みを一瞬で掻き消していく。
僕は、震える手でフォークを握りしめた。
銀色の先端が、まだ温かさを保った「肉」に深く沈み込む。
その感触だけで、僕の「律」としての鎖が、
音を立てて弾け飛んだ。
一切れを口に放り込んだ瞬間、
脳漿が弾けるような衝撃が走った。
「……っ!!」
美味い。
美味いなんて言葉じゃ、到底足りない。
これは野菜じゃない。
大豆で作られた紛い物でもない。
強烈な、剥き出しの「命」の味が、
鋭い棘のように舌の細胞一つひとつに突き刺さる。
咀嚼するたびに溢れ出す、濃厚な脂と鉄の残り香。
奥歯が肉の繊維を断ち切る感触が、
僕の中に眠っていた獣の回路を狂暴に繋ぎ直していく。
もう、丁寧にナイフで切り分けるなんて、
まどろっこしい真似はできなかった。
フォークを深く突き立て、血の滴る塊をそのまま口へ運び、
かぶりつく。
喉を鳴らし、一心不乱に食らいつく僕の姿は、
もはや「共生倫理学」を志す学生のそれではない。
ただの、飢えた一頭の虎だった。
(……これだ。僕が求めていたのは、この重みだ)
一キロあったはずの肉の山が、嘘のように消えていく。
皿にこびりついた赤い汁まで啜りたいという浅ましい本能を、かろうじて理性で抑え込んだ時には、
もう目の前には空っぽの鉄板だけが残されていた。
荒い息を吐きながら、僕は自分の手が、
先ほどよりも激しく震えていることに気づいた。
満たされたはずなのに。
腹の底は、確かに重い塊で満ちているはずなのに。
舌の先に残った「命の味」が、
僕にさらなる強欲を囁きかけてくる。
「……落ち着いたみたいだね」
眞陸先輩が、空になった僕の皿を見て、
ふっと優しく目を細めた。
その表情には、危うい崖っぷちに立っていた後輩を、
こちら側の世界へ引き戻せたことへの安堵が滲んでいる。
その瞳は、どこか遠くを見ているようで、
ひどく冷え切っていた。
「……はい。……凄かったです。こんなの、初めてで」
(……満たされた。今、僕は、生きている)
フォークを置き、椅子の背もたれに深く身体を預ける。
指先の震えはいつの間にか止まり、
世界が驚くほどクリアに見えた。
スタジオで嗅いだあの甘い匂いへの病的な執着も、
今は遠い霧の向こう側の出来事のように思える。
「僕たちはこうして、時々自分を『許して』あげないと、
まともに外を歩けなくなってしまうからね」
眞陸さんはそう言って、伝票を手に取った。
店内に満ちる肉食獣たちの低い唸り声も、
今は心地よい子守唄のように響く。
「……行きようか。明日からはまた、
あの退屈で、綺麗な『共生倫理』の講義が待っている」
店を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
繁華街の雑踏。すれ違う草食獣たちの群れ。
けれど、今の僕には彼らが「獲物」には見えなかった。
ただの、同じ街に住む住人。
胃の中に残る、重く温かな「命」の余韻を噛み締めながら、
僕は静かに夜の街を歩き出す。
これが、僕が見つけた新しい「規律」だと信じて。