Episode:カミタニ〈I’ll Break Up For You〉

  器用なやつがいた。

  器用というのは手先の器用さだけではなく、要領良しや世渡り上手の意味合いが大きい。

  ぼくはそいつのことを昔っからそう評していた。

  全てにおいて器用。生きるのが器用。

  だから夏休み課題の自由研究で最優秀賞も取れるし、教育委員会の作文でも入選できる。

  図工をやらせれば、手先の方だって器用で、やっぱり上手だった。ポスターの賞も全部そいつの物だった。そういうやつは例に漏れず、抜群に運動が得意で頭もよかった。

  ともかく、ぼくがそいつに勝った!――と、胸を張れる要素はほとんどなかったということになる。

  小学校の頃のつまらない競争を引きずっているのはぼくだけだろうな。他のみんなはとうの昔の、それも他人の偉業なんて忘れ去って、今この時に集中して生きているのかもしれない。

  相当悔しかった……のだと思う。

  そいつが学年で一番誕生日が早いから“上手くいく”のだと信じていた。教室の後ろ側の黒板に、名前と誕生日と顔写真が載ったカードが全員分貼ってあって、その先頭、焦茶の狼が君臨していたのを、今でもこうやって思い出す。この先だって、きれいさっぱりに忘却できる日はこない。

  生日ごときで差ができるのはずるいとも真剣に思っていた。

  良くいえばスマートで、悪くいえばずるい。……そうだ。そいつ自身も狡猾だったんだ、昔から。

  でも、そんなのは違った。

  小学生のぼくは、従兄弟のクマキチにも負けないくらい単純な考え方で生きていた。

  幼い頃の間違いは少しだけ時を渡って、中学生と、さらにその後にもなってから判明することとなった。

  [chapter:I'll Break Up For You]

  「ユーミじゃん」

  ゆーみんじゃなくて、ユーミ。そいつはぼくのことをあだ名で呼ばなかったのに、誰に呼ばれたか即わかった。

  いやいや待て待て。判別できなくなっていては困るぞ。最期に会った日から僅か三ヶ月しか経っていないのだから。それに、小中学を共にしてきた友人の声を忘れてしまうほど薄情でありたくもないし。

  「よっ。久しぶり。ここで会うとはな」

  まさに予想外。だから急に声をかけられてドキッとはした、一応。だけどぼくはもう、昔みたいに「わっ」と声をあげたり、試し読みに持っている本を落としてしまうようなことはなく、

  「久しぶり」

  って、ちゃんと目を見て返してあげることができた。

  ここは駅近モール内の書店。その入り口付近にある新刊話題書のコーナーだ。

  ぼくの背後から現れたのは、地元でも高校でも、身辺では他に見かけない焦茶色ベースの狼――[[rb:神谷優樹 > かみたにまさき]]だった。

  骨太で筋骨隆々。ガタイに恵まれたそいつは、ぼくと同じような半袖シャツに黒系のズボンという、いわゆる夏服の格好をしていた。こちらがこのクソでかいボストンバッグ風の指定鞄を持っていないと、同じ高校の制服に見えてしまう。

  それにしたってカミタニのやつ――中学の頃よりもはるかに大人っぽく見えるな。

  あまりにも着こなしが自然で似合っているので、喉から出かかっていた「もうあだ名で呼ばないんだな」とか、「元気してた?」をすり抜けて、

  「制服、似合ってるね」

  ストレートに褒めてしまっていた。

  「へへ。ちゃんと運動して鍛えてるからな」

  カミタニは珍しく、ニコニコと少年らしい顔で応えた。おまけに耳と尻尾でも反応をくれた。隠そうともせず、わざと見せるようでもあった。

  カミタニといえば、だいたいいつも冷静で、たとえさっきみたいなことを他からいわれたとしても、「そうか? ありがとよ」っていうレベルの反応が常だったのに。

  「高校でもサッカーやってんの?」

  「さすが天才ユーミ。よくわかったな」

  「どこが天才だっ」

  そうやってつっこむと、カミタニはさらに上機嫌に、肩に手をばしばしっとやってきた。

  「オレはゴールキーパー続投だぜ。ユーミは? 水泳部か?」

  「うん、一応ね」

  「なんだ一応って。まさか、もうユーレイなのか?」

  「違うよ。ちゃんと行ってるって」

  「ほんとか? ユーレイだから……まだお腹ポヨってんじゃねーかぁ?」

  「わっ!?」

  カミタニは「隙あり!」とばかりに、目にも留まらぬ速さでお腹を揉んできた!

  手には売り物の本、防ぐ手立てがなかったぼくは情けない脂肪の塊をもにっと一発、ヤラれてしまった。

  「はははっ。久しぶりで油断してるんじゃないか、ゆーみんよ!」

  「……!!」

  危うく公衆の面前で「ホモ!」って叫びそうになったのをナントカ堪える一方、先手を取られた感覚と匂いに懐かしみを覚えていた。

  ぼくが褒めたら、そうやっておちょくり返してくるのは今でも変わらないことだった。

  それと――。

  ゆーみん。

  高校だと誰も呼んでくれない、かつてのあだ名。呼ばれた途端、お腹揉みの方よりも急激に懐かしさを駆り立てた。本気で怒ったりしていたカミタニ考案のあだ名も、時間を置いた今ではじんわりと沁みた。

  ふしぎなものだった。

  再会できた喜びも手伝ったのかも。率直にいうと、楽しかったあの頃に連れ戻された気がした。呼ばれなくなって初めて、心の奥では寂しく感じていたことに気づかされるとは。

  「なーんだ。忘れてなかったのか」

  だけど、ぼくはやっぱり、伝えられずにいた。

  「なにが?」

  「ゆーみんって呼ぶやつ」

  「忘れるわけねーだろ」

  「忘れろよ! むーみんとかみんみんって呼ばれだしたとき、ほんとに恨んでたんだからな」

  本当に伝えたいのはそんなことじゃないのに。忘れてほしくも、ないくせに。

  いつも、だいたいそうだ。口では思ってることとズレたことをいってしまう悪い癖。いいたいことはいつだっていえない。わかってはいたけれど、高校に進んだくらいでは変わらなかった。

  「とにかく、おまえが元気そうでよかったよ」

  「カミタニの方こそ。元気よすぎ」

  とりあえず、今伝えられたのはそれだけ。でも、カミタニならわかってくれている。ぼくが言葉に置き換えられない本音だって、たぶん。買い被りかもしれないけど、こいつはバツグンにいいやつで、ずるくて、いろんなことが上手いから。

  なんの変哲もない梅雨の中休み。その放課後。

  ぼくらはそうやって、お互いに変わっていないことを確認し、三ヶ月の期間を埋め合ったのだった。

  その後、本の会計を済ませたぼくはカミタニに付き合うことにした。

  カミタニがここのモールに来た目的は「なんとなく」だそうで、目当てのものは特になかったらしい。いいものがあれば、と書店に寄ってみたところ、見覚えのありすぎるシロクマがいた……という流れでぼくらは再会を果たした。

  平日夕方なのもあって、テナントが立ち並ぶ通路は人がまばらで、並んで歩きやすかった。

  ぼくらはファッションのエリアを歩きながら、示し合わせたわけでもなく本当に「なんとなく」ゲーセンの方へと足を進めていた。

  「本はよかったの」

  さっき買った本を鞄に入れながら訊いてみる。

  「近々続きの巻が出るんだ。そんなら、また今度でいいかなって」

  「そうなんだ」

  「それよりオレ、思い出したわ。去年の服がもう小さいから新しいのが欲しいんだった」

  さっきからしきりにメンズ服の店を気にしていたのはそういう訳だったのか。

  服が小さいってことは、ああそうか。

  確かに、いわれてみれば。横に並ばれると背丈の差が前よりも顕著で、ぼくを差し置いて少し背が伸びているのと、あと――

  「あんまりさ、人のこといえないんじゃ?」

  若干、まあ誤差の範囲ではありそうだけど、同時に肉付きのよさも増している……ように見えた。

  曖昧な指摘をすぐに察したカミタニは機転を利かせてこう反撃してきた。

  「ゆーみんすげえな、おまえ、目“も”肥えたんだな」

  ……って。

  カミタニは認めた。ぼくの目にも狂いはなかった。しかし、ただデブった事実を素直に認めて終わるほどこいつは単純なヤツではなかった。

  (なんだよ。目も、って)

  ホントーに、いちいち余計だ。それが上手いのだから腹が立つやら、感心するやらで、結局ぼくは負けてしまう。

  「うはは。おいっ、オレたち仲間だぜ。なァ?」

  元クラスメートの悪友を想起させるニンマリ顔で、カミタニは得意そうに笑う。確信できる。これだってわざとやってる。

  「わかったよ。もう身体の話はやめとこう」

  「そうそう。夏はこれからだからな。気にすんな気にすんな」

  そういいながら、カミタニはアウトドアブランドの店へと入っていく。

  「襟付きってどう思う? ちょっとオッサンくせぇかな?」

  紺色のポロシャツを胸に当てて、カミタニは訊ねてくる。

  オッサンっぽいかどうかはさておき、悪くはない、とは思ったので、そのまま伝える。ただ、決め手には欠けるといった印象だった。

  「個人的にだけど、カミタニのイメージカラーは青とか紺色な気がする」

  特に深く考えることなく、とりあえず頭に思い浮かんだ感想をいう。その方が、ファッションで大事な第一印象という観点ではアテにできると思ったりもしつつ。

  カミタニはぼくの場当たり的な感想を「助かる」って喜んでくれた。

  「ああでも、ぼくそんなにセンスないからね」

  「そうか? てか、ユーミの私服どんなんだったっけな」

  「淡い色のパーカーが多いかも。逆に黒とか濃い色のものと、あと柄物はあんまり着ないかな」

  「ユーミっぽいな。しっくりくる」

  「カミタニは体格いいからピシッと着れるやつ、似合うと思うよ。制服みたいなシャツとか」

  「それの青系とかか?」

  「合わせやすいしね。持ってないなら一着ありだと思うな」

  「ふーん、なるほど。ゆーみんはオレのこと、よく見てくれてんだな」

  「別にそういうわけじゃないけど……」

  「いやいや、ザッキーとタヌマと来たときなんか、もうすごいぞ? 全部買えー! 直感でッ! ……だぜ?」

  「そいつらがイカれてるだけだって」

  比較対象がソレなのはぼくとしてもちょっとやりきれないというか……。

  「まあ冗談だよ。ゆーみんのアドバイスがよくて驚いてンだよ」

  「そうならいいけど……。あっ、あのラガーシャツみたいなのもいいかも」

  似合って、しかも、本人が気に入る服を探し求めて服屋さんを渡り歩いていく。カミタニに付き合う傍ら、いつの間にかぼくの方も服を選んでもらっていた。

  カミタニのチョイスは思い切りがよく、これがなかなかによかった。

  ぼくは普段から思う。こんなに大量の服の中から、自分に合うものを見つけるなんてとんでもない。組み合わせだって無限大にあるのにって。いつもなら絶対に途中で億劫になっている“選ぶこと”だけど、人と一緒ならば違った。

  一人なら苦痛に感じることが、カミタニとなら宝探しのように思えてきて、なんだか楽しかった。

  揃ってショッピングバッグを手にしたぼくらは店を後にして、フードコートへ向かうことにした。

  そうこうしているうちに、もう七時を過ぎてしまっている。ゲーセンはいったん後回しとなった。

  「今日は夜ご飯食べて帰ります……っと」

  慌ててスマホで家に連絡を済ませ、席を確保する。確保といっても、選びたい放題だったから、四人がけのソファー席をありがたく使わせてもらうことにした。

  それぞれ選んだメニューをカウンターで受け取って席へと運ぶ。

  「やばっ。肉うどんとハンバーガーとチキンにポテト……? なんか、察したわ」

  「は? カミタニこそ? トレーの上茶色すぎだよ」

  「いんだよ、体力のつくウマいものは茶色いぜ。ま、シェアしながらカロリー分散してこうぜ」

  カミタニは調子よくいうや否や、ぼくのポテトをまさに一本先取しやがった。

  「そうやって取るつもりなの、知ってたからな」

  「へへへ。バレてたか」

  「いいよ。普通にあげるつもりだったし」

  「おまえの優しさを信じてたぜ〜!」

  調子いいやつだな、ほんとこの茶色オオカミ! なにも変わってないや。

  お腹を空かしたうえに食欲旺盛な、まさにケダモノ高校生たるぼくたちは一瞬で平らげた。

  「フードコートはいいよな。食後のデザートも最高だし。はー美味かった!」

  カミタニは大きな口でクレープも食べ切り、口周りをべろりと一周。心身ともに満たされた様子だった。お腹が出ていることにはさすがに触れなかったけど。

  「ごちそうさま」

  「そういやさー、ユーミ」

  カミタニはぼくがアイスを食べ終わるのを見計らっていたようだった。

  「なに?」

  「高校入ってからあいつとは会ってんのか?」

  今、わざと――断定はできないけれど、あえて名前を出さなかった。

  確信の域に達していたのにもかかわらず、誰のことかも気づいたのに、ぼくはついとぼけて(というか単に立ち回り方を間違えて)「あいつ?」と聞き返してしまったものだから、

  「フィアンセだよ」

  と、小指を立てて意地の悪い表現で返されてしまったのだ。

  (ついにきたか)

  わかっていた。カミタニがずっと「フィアンセ」を気にかけていたであろうことも、あえて今まで話題に出さなかったことも、その思惑も全部!

  そしてカミタニもわかってる。「あいつ」を「フィアンセ」と呼ぶことについて、ぼくがもう傷つかずに済んで、ぼくが怒れないこと。そう呼ぶことで恋愛絡みのできごとについて今から触れていくぞって暗示できていることも。聡明で狡猾な狼のことだ。もうそろそろ、鈍ちんのぼくにも見抜けるようになってきたぞ。

  自己暗示のため、念には念を入れて自分にいっておくけれど、これは別にやましいことを聞かれているのでもなんでもない。単なる事実確認だ。

  だから、普通の顔で普通に答えればいい。

  「もち。会ってるよ」

  「そうか」

  カミタニは表情を変えずに短くいった。その後はやっぱりというべきか、黙ってしまった。ぼくもなんていえばいいかわからなくなって、おかげさまで沈黙が流れた。二人して同時に水を飲むのも気まずい。

  「ふふっ……」

  もう、色々と耐えきれなかった。

  「カミタニそれ、ふざけてやってる?」

  「笑うとこかよそこはっ!? 心配してんのによぉ」

  「だって……オヤジくさかったんだもん」

  「オヤジ!?」

  ……カミタニのやった一連の聞き方は、あまりにも「彼氏のいる娘を心配してる親父さん」みたいだったから。演技の可能性だって捨てきれなかったんだもん。フィアンセとか、意地悪して変な表現するから余計にそう見えちゃうのもあったし。とにかく色々考えちゃって、耐えきれなくなって、笑ってしまった。

  「本当にもう平気だよ。ぼくとイブキも今までどおり変わんない。卒業式で見たまんまだと思うよ」

  ぼくは自信をもって、カミタニの目を見据えた。

  「イブキと元どおりになれたのはカミタニのおかげ。ほんと、その節は世話になった。ありがとね」

  「あ、ああ……それならオレも安心だ」

  「なんか気になることでもあった?」

  「いんやー……? なんか、おまえの割にはキモいほど素直だし、仲直りのセックスでもしたんかなーって」

  カミタニが突然とんでもないことを口走るので、

  「セッ!? ばばばっ、バッカじゃないっ!?!? するわけないじゃん!」

  かき消すようについ大きな声を出してしまった。

  「その反応はガチのピュア童貞だな」

  「余計なお世話だし。ってか悪い?」

  「まあまあ、そう怒りなさんな。オレも同じ童貞だしさ」

  「あっそ」

  カミタニのことだから春休みの間や高校入ってすぐに捨てている可能性も頭をよぎったが、純潔を守っているのはどうやら嘘ではなさそうだ。意外だった。言葉ではそっけないぼくだけど、先行されていないことに心の片隅では安堵していた。

  「チュウしてる分おまえの方が上だよ。童貞の方はなんなら一緒に卒業してもいいぜ」

  カミタニは左手で輪っかをつくり、そこへ右の人差し指を突っ込む。やらしく目を光らせた下品なそいつに対し、ぼくは粛々とした態度で、

  「ガチでない。絶っ対、しないから」

  と、おふざけを一刀両断してやった。この温度差もまだ健在だった。

  「ぼくはまだカミタニと同じ側だって決めたわけじゃないよ。一緒にされると困る」

  突き放したようないい方になってしまうのも無理はなかった。自認や性的指向の問題はあれからずっとぼくの中で燻っており、答えを急かされるのも生来苦手だからだ。

  一度決定したことはそう簡単に覆らないと知っている。同性を好きな自分を認めることは、いわゆる“普通”である自分を手放すことにほかならない。ぼくにはまだ普通を切り離す覚悟を決めるための度量もなければ、内なる自分を見抜ける慧眼もない。ただ、何かがおかしいことは自分が一番理解している。その上で宙に浮いた状態にしてあるのは可能性を狭めないための口実でもあり、選択から距離を置くためでもある。だからぼくはイブキの恋人にはなれなかったのだ。

  誰かに対してどうありたいか。例えばクマキチにイブキ。大切な相手がいる分、こちらは比較的答えは出しやすかった。ただ、自分に対してどうありたいか。これは永遠の難題だ。

  カミタニは相談に乗ってくれたが、ぼくはまだ決めきれずに自分自身と対話中で、その申し訳なさみたいなものを覆い隠すのにもきつい口調は便利で都合がよかった。

  「ふうん。そうかそうか」

  「なんだよ」

  「いやー、年頃のホモビギナーちゃんは決まってそういうんだよ」

  「カミタニはぼくをホモにしたいの?」

  「仲間が増えると嬉しいのは当然の心理だぜ」

  「残念だけど、ぼくはビギナーでもないからな」

  カミタニはイブキをダシにぼくのことを探ろうとしているのだろうか。そう勘繰ってしまって余計に冷たくあしらってしまう。

  「よっしゃ、それでいい。おまえらしくてオレ、安心したわ」

  「別にぼく、さっきから安心させるためにいってるわけじゃないんだけど」

  「機嫌直してくれよ。オレの勝手な自己満足だしよ。ゆーみん様がご希望であれば追加のアイスも奢るぜ。だから、なっ?」

  カミタニは曇りのない目で笑いかけた。たまに見せるあどけない顔つきに、胸は鼓動をすこし高めてしまう。

  「まあいいけどさ。アイスもういいよ、太っちゃうから」

  人心掌握に長けたカミタニなら、ぼくのどうしようもない矛盾――本心に迫られたくないくせにすべてをわかってもらいたい、逃避と信頼の二律背反――も見抜いてくれている。ずる賢い狼の前では無理に素直になる必要もない。その安心感がよくない態度に出て、ひどく遠回しに、天邪鬼的に甘えてしまう。

  「ブッキーの話も聞かせてくれよ。陸上部復帰したんだって?」

  カミタニは優しいやつだ。

  ぼくとイブキの間に何があって、どうやって寄りを戻したか、その全てを見届けてくれた。一年経った今でも心配してくれているのだから、並大抵の人には真似できっこないよな。

  [newpage]

  かつてぼくは親友のバーニーズ――イブキと色々あって、長期間の不和を起こした過去がある。

  あの頃のイブキとは本当に色々ありすぎて、全てを事細かに振り返っていたらとても長くなる。

  ことの発端は中学三年生の一学期、体験入部の新入生たちを迎えた頃まで遡る。

  イブキの身体のことで相談を持ちかけられ、ぼくらは放課後の部室でエスカレートしてしまった。抑えきれない興奮と、青く未熟な勢いに任せて、純粋な心をあらぬ方向に歪める結果となった。本来なら喜ばしいはずの純真な気持ちを摘んでしまった。

  どういうことかというと、――ぼくはこの表現を使うのにいまだに躊躇するのだけれど――イブキをフる……ことにしたのだ。友だちのまま現状維持に努めようとして、イブキの慕う気持ちを見ないふりした。イブキ対しても「そんなのは本当の好きとはいわない」と、尊ぶべき気持ちの芽を摘んだ。自己保身のつもりが、結果的には自分の本心にも叛くことに繋がり、ぼくの悪癖たる天邪鬼によって大きな矛盾を抱えることになった。

  おれ、やっと気づいた。ユーミのこと、男として好きだ。大好きだ。

  コイビトがダメでも、今までと変わらず友だちだ。

  しかし、現実は甘くなかった。一度イブキの心に大穴を開けてしまった以上、歪みが生まれるのは必然だった。もともと、人の気持ちに矯正なんてかけるべきではない。そんなことをしたとて、自然治癒力が働いておかしいことになってしまうだけだからだ。

  恋愛関係とは別の形で、もっともっと、イブキの心を満たしてあげられたらよかったのに、と思う。心から優しくしてあげるべきだった。

  さすがに虫がよすぎた。自分が傷つくことを回避して、ひどく利己的になってしまった。

  それからというもの、イブキもぼくも、とにかく調子が悪かった。

  ずっと上の空だったり、目を逸らしてしまうことも日に日に増えていって、上部だけで取り繕ってるのが互いにお見通しだった。気まずくて、遠慮し合って、日常の何もかもが空虚に見えた。かろうじて学校には行けてはいたものの、精神的にはかなりマイっていた。

  解決の兆しは一向に見えないままだった。

  イブキと疎遠になっていく未来が確定してしまったように感じて、焦燥感だけで動いていた日々。毎日が怖くて仕方がなかった。何かアクションを起こすべきか考えに考えて、不器用なぼくは見事に空回った。無理した結果、失敗してすり減って、生気を失っていった。

  恋心って本当にしつこくふしぎなもので、そんな状態でもまだイブキのことが好きだったらしい。だから苦しい状態にあってさえも、さらに傷つく選択も辞さなかったのだと思う。

  同時に、イブキのことを諦めた方がラクになれるって、心の最終防衛ラインが告げていた。でも、それだけは譲れなかった……。譲れないくせに、恋仲にはなれない。親友であることを貫こうとすればするほど歪んでしまう。もう矛盾だらけで八方塞がりだった。

  そんなぼくだったから、イブキを避けるようになってしまった。イブキのことなんかよりも自分のことしか考えられなくなったのは、当然といえば当然だった。要するに、切羽詰まっていたのだ、当時のぼくは。

  しまいに一緒に登下校することも、顔を合わせる日もなくなっていった。

  従兄弟で実質の弟たるクマキチにもさすがに勘づかれたけれど、そこはもう素直に「喧嘩した」っていうテイでなるべく自然に貫き通した。

  ぼくたちの不仲は至るところで噂されるようにもなった。幸い、といっていいかわからないけれど、部室でやった行為の内容や、イブキとぼくのホモ疑惑が流れることはなかった。

  デリカシーのないウシザキだって、そこは本能的危機感を働かせたのか、そっとしてくれたくらいだった。もっとも、タヌマが茶化した一件で、ぼくがプツッときて……ちょっとした暴力事件を起こしたからかもしれないけれど。

  そうそう、ちょうどぼくたちの噂が流れ始めたあの頃。五月の体育の着替え時間……だったと記憶している。カミタニが突然「オレホモ宣言」をしたのは。

  ウシザキがいつものように「エーブイ」の話で、「抜きポイントはどこか」みたいな話で一部を巻き込んで盛り上がっていたとき、輪にいたカミタニが突然、

  「オレ、ホモかも」

  といいだして、更衣室中が騒然となったのだ。

  「いやさ、男優のちんぽ見て興奮してるって気づいたからさ、もしかしたらオレ、そうなんじゃね? って、そんだけだよ。あっ、別におまえらみたいな芋臭い同年代なんか興味ねーからそこは安心しろ」

  という、確か、確かそう。そういう類のトンデモ爆弾的内容だった。

  しかし、カミタニは例に漏れず“上手く”やりぬけた。それはカミタニ自身の人望の厚さとか、過去から現在に至るまでの数々の栄光によるところも大いにあったと思う。

  もちろん、女子や他のクラスの男子にも、カミタニの性的指向は知れ渡る結果となったのだけれど、

  「カミタニよぅ、おまえホモだったんだって?」

  そうやって下手に揶揄う男子がいれば、

  「おう、そうだよ。興味持ってくれてんだな」

  清々しいまでの大胆不敵なマインドと、

  「もしかして、ホモだと知っててちんぽでも見せにきてくれたのか?」

  という、カミタニお得意のギャグなのか本気なのかよくわからない文句で撃退し、何をいわれようとも飄々とした態度を貫いたものだから、事態の沈静化は予想外に早かった。

  カミタニがハブられることはなく、これまでとほとんど変わらずに、いや、これまで以上に学年の中心人物として、時にはウシザキの側近役みたいなことも務めたりしていた。

  ……で、カミタニの「オレホモ宣言」があったおかげで(というのは本人に悪いが)、ぼくたちの噂は上書きされる流れになった。イブキとの状況は相変わらず最悪だったけれど。精神的にすこし落ち着けたのは紛れもない事実だった。

  そんなある日のことだった。

  イブキが骨折したという連絡を、事故の次の日になって、担任の先生から聞いた。

  部活中の転倒による事故だった。

  ぼくは最初、その報せを聞いたとき、ひどく心配しながらも、

  (なにやってんだよ……!!)

  頭が割れそうなくらい、憤っていた。それは友だちとして、正しくあるべき感情の形だった。

  けれど、ぼくは酷いやつだった。

  今でも思う。想像してしまう。

  もしも。

  もし、怒り以上の余計な感情を抱かなかったら、これ以上拗れずに済んだかもしれなかったのに……って。

  ぼくは最低なことに、このように考えてしまった。いや、これはチャンスだぞ。看病に行って、イブキに優しくしてやれば、元に戻れるだろうと。

  はなからイブキのケガを利用する魂胆だったのだ。それがいけなかった。甘すぎた。神さまは、イブキは、汚い下心を決して許してはくれない。

  イブキの病室に行く前に練習してしまった。なんて言葉をかけるべきか、卑怯なシミュレーションをして、言葉を作ってしまった。案の定、間違えた言葉選びをする羽目になるのだけど、本当はそんなこと、しなくたっていいのにね。イブキがほしかったもの。それくらい、友だちとして、ユーミとしてわかってあげなきゃいけないのにね。

  しっかりしろよ! お兄ちゃんだろ!!

  そうやってストレートな怒りをぶつけてやる方が、何倍もぼくらしくてよかった……。それに、イブキはそんなのでへこたれるほど弱いやつじゃない。そんなことすらも頭から抜けていた。

  友だちのことも信じてあげられなかったぼくには天罰が下ることになる。巡りめぐってイブキを巻き添えにしてしまうのだから、ぼくの罪状は明白だ。

  イブキの顔を見て話をするのはいつぶりだっただろう。空いた期間以上にぼくらは遠く離れたところに隔たっていた気がした。そう思うと、突然怖くなった。緊張して喉がカラカラになり、手足も震えてきた。予感したとおり、その日も調子がよくなかった。

  病室の前で深呼吸をした。

  吸って、吐いて……吸って……よし。いける。ぼくはノックをしてドアを開けた。

  「イブキ」

  大柄なバーニーズは薄水色の病院着で、じっと横になっていた。今まで見てきた中で一番、弱っていた。いたたまれなかった。イブキの惨状を見るのも、この硬直状態も、一秒でも早く終わらせかった……。

  「ユーミ……来てくれたのか」

  「イブキ、ごめん。ぼくが悪かった」

  描いてきたシナリオの通り、とにかく自分自身を悪者にした。そうすれば、もう終わるはず。

  イブキがケガしたのはぼくのせい。だから「ごめん」って、ぼくが手を打つからって、そういうことにした。

  イブキは目を合わせずに、しばらく黙った。長かった。一分くらい、表情を変えず、じっと考えに考えて、

  「そんなこと、いいに来たの」

  ――知ってるイブキの声じゃない。とても冷たい声でぼくを真上から突き刺すようにいった。

  ぼくはその場で立ち尽くした。

  足と地面がひっついて動けなくなる。間違えた。そう直感し、やがて呼吸も難しくなってくる。

  口だけはまだかろうじて動いた。口はいつものように最後まで愚かだった。

  「ちがう」

  なにひとつ違っていないのに「ちがう」。また、間違えた。

  「ちがうよイブキ。ぼくはただ――」

  満身創痍。震えながら反射的に返した言い訳を、

  「ちがわないよ!!」

  イブキの叫び声が切り裂いた。

  「おれそんなの、聞きたくない! なんで……なんでわかってくれないんだよお……っ! 辛いの! しんどいの! 痛いの! もうこれ以上……無理だ! 帰ってよ!!」

  言葉をたくさん準備してきたはずが、残ってる言葉はもうなにもなかった。イブキの前にいる資格さえも失った。

  そのあとすぐ看護師さんが慌てて飛んできて、入れ替わるように病室を去った。

  皮肉だった。病院の廊下で声をあげて泣いてしまうくらい、とてつもなく情けなかった。ぼくだって辛いよ。しんどいよ。もうボロボロだよ……。わかってほしかった気持ちが、胸を突き破って出てくる。

  だったら、最初からそういえばよかったんだ。

  難しく考える必要はなかった。仲直りの時期に固執するのだってナンセンスだ。別にイブキが回復してからでも全然間に合う。それよりも先に、傷ついていた気持ちを共有するとか、心配したぞって叱ったり、大丈夫か、できることないかって、思ったとおりをいってあげるだけでよかった。どうしてそんな簡単な優先順位すらもつけられないんだ。

  どうして、ぼくはいつも上手くやれないのかな。どこでどう間違えて、天邪鬼で不器用で矛盾だらけな人になってしまったんだろう。こんなことになるくらいなら、クマキチを頼って着いてきてもらえばよかった。

  その次の日、発熱と頭痛が酷くて学校には行けなかった。

  ぼくが学校を休んだとき、連絡やらを届けてくれるのは必然的にクマキチの役割となっていた。

  「具合は大丈夫か?」

  クマキチは部屋まで勝手にあがってきて、今日学校であったことを教えてくれた。給食のメニューだけは完璧で、授業のことは聞いてもまったく要領を得なかったのが、クマキチらしかった。

  イブキは引き続き休みだったらしい。

  「クマキチこそ、部活抜けてきちゃって大丈夫なの」

  「今日木曜だから休み。へーきだよ」

  「あ。そっか、木曜か……」

  「それよりこれ、ユーミの分。今回もすげー争奪戦だったんだぞ」

  クマキチは得意げにいって、みかんゼリーをローテーブルの上に置いてくれた。ぼんやりした頭でも、それが給食のおかわりじゃんけんを勝ち抜いてゲットしたもので、恐らくぼくが余らせた分だとわかった。もしかしたらイブキの分かもしれなかったけれど。

  クマキチは鞄を漁って、もう一個みかんゼリーを取り出した。

  「ユーミと一緒に食うとウマいからな。持って帰ってきた」

  「気にしないで食べてくればよかったのに」

  「おれがそうしたかったんだ」

  クマキチはこっちを見て、にっと笑った。本当にぼくと一緒に食べたかったんだというのが純度百パーセントで伝わってきて、気づけば、ぼくは横になったまま涙が出ていた。

  「ありがとう」

  弱っているところをこれ以上見せたくなくて布団を深く被ったくせに、声はあからさまに震えていて、なにひとつ隠し通せていなかった。

  そっか、そうだったんだ……。イブキだって同じだ。ひとりで寂しいときこそ一緒に過ごしてもらいたい。あたたかい気持ちになりたいよね。

  外から突然やって来たあたたかさで別の風邪をひきそうな感覚になった。寒暖差で体調を崩すのはどうやら精神も同じみたいだった。

  優しくされて初めて、イブキの寂しさと、ぼく自身の寂しさにも気づいてあげられた。イコールだったんだ。でも自分を悪者扱いしたせいでイコールにできなかった。

  クマキチは当たり前のように「おれがそうしたかった」といった。たった一言でわかった。圧倒的に足りないのはそこだった。自分の希望を叶えてやるという恐るべきガッツで運ゲーのじゃんけんを勝ち抜いてみせたのだ。

  ぼくは、ぼくのことを尊重してやれていなかった。つまり、自分の気持ちに不誠実。本音を見誤るから行動がおかしくなる。イブキとのすれ違いの正体も、上手くやれないのも、言葉と行動が矛盾してしまうのだってそうだ。すべては自分の気持ちを第一に直視してあげられていないからだと痛感した。

  ぼく自身が悪者になることなんて、誰も望んでなんかいない。

  いろいろと限界にきていたのが時間差で自覚できて、涙が溢れて止められなくなった。

  「クマキチ。今ちょっと泣いてる」

  もうバレてるだろうと、ついに観念して打ち明けてみた。みっともなくてもその方が楽になれるかもしれなかったから、手段を選んでいられずにやったことだった。見栄が邪魔する中、いざやってみればすがすがしかった。

  泣きたいときは泣けばいい。泣いてることすらもいってしまえばいい。本心に忠実でいることは心がすっとする。この時のぼくは人生史上最も素直だったに違いない。

  クマキチはなにもいわず、ベッドに座ってくれた。

  ごめんね、クマキチ。イブキとのこと、今はまだ全部を見せられない。話せないのは騙してるみたいで辛くなる。それなのに、側にいてくれるだけでどんどん気持ちが和らいでいく。とても居心地がよくて、安心しきって、そのまま眠りに落ちてしまった。

  目を覚ましたのは夕方六時をまわった時間だった。普段うちに自由に出入りするクマキチも流石に帰っていた。

  せっかく来てくれたのに、悪いことしちゃったな。勝ち取ったゼリーだって一緒に食べたがっていたのに。

  寝落ちを後悔しながらふとテーブルを見ると、ゼリーがなくなっていた代わりに紙が置いてあるのに気づく。

  クマキチが残してくれたものだろう。電気もつけないで手に取ってみた。

  「泠ぞうコにいれてあるからゼリーばんご飯のあとで食べてね。ゆうみもいぶきもすぐによくなる。ガンバレ」

  文字がやたらと大きいくせに字の汚さは健在で、漢字もめちゃくちゃだ。「悠海」と「一楓輝」の名前もひらがなだし、合ってる漢字といえば「飯」と「食」だけ。語順も違和感がある。紙を裏返せば、十五点中たった四点しかない英語の小テストじゃないか。

  なんだよ、このメモ。なんだよ、「泠ぞうコ」って。それになんだよ、この情けない点数は……。

  読みにくくて何もかもが心配になるのに、どうしてこんなに優しくて……あったかくて……しんみりと心に入り込んでくるのだろう。何がこんなにぼくを泣かせるのだろう。

  「すぐによくなる。すぐによくなる」

  ひとりぼっちで暗がりの部屋。クマキチの残した言葉を何度も声に出して、大粒の涙を流していた。ひどい点のテストが黒っぽく変色してもなお涙は止まらなかった。

  クマキチはイブキにも同じことをしてやれたに違いない。ぼくと同じくらいに不器用なクマキチは、どうしようもないほど単純で大雑把で、だけれどこうやって“らしく”愛のある気遣いができる子になっていたのだ。いや、昔からずっと……根っこは変わっていないかもしれない……。

  (この差って……。ぼくなにやってんだろ)

  ぼくはクマキチの愛情が嬉しくもあり、また同時にとても切なかったのを覚えている。

  

  体調は一晩で回復した。夕食後に食べたみかんゼリーの効果があったに違いなかった。しかしお母さんが「もう一日様子を見た方が安心」といい、次の日も大事を取って休むことにした。情けないので、休み明けの月曜に顔を出す方がぼくとしても都合が良かった。

  連絡には昨日に引き続きクマキチが来てくれたが、今回はすこし事情が違った。クマキチに加えて、カミタニも来てくれたのだった。

  カミタニはともかく、クマキチが一向に浮かない表情で、悪い予感が強くした。クマキチは良くも悪くもすべてが顔に出る。

  部の要であるゴールキーパーが着いてくるのも、ただ事ではないとの暗示になっていた。

  「今日、イブキ学校に来たんだ。松葉杖つきながら……」

  クマキチが躊躇いがちにいうのに、ぼくは「回復が早くてよかった」とはすぐに喜べなかった。

  「――ブッキーが陸上部、辞めるって」

  カミタニが口火を切った。

  まるでぼくの悪い予感を察知していたかのように、迷いのないもの言いだった。クマキチが「約束が違う」という顔で慌てふためいたので、口裏合わせに関係なくカミタニはこちらの反応次第で本題を先頭に持ってくる心づもりだったのだろう。カミタニの瞳は一見、歴戦の戦士のように冷静沈着でありつつも、どうしようもない切実な色を宿しており、その裏にイブキの強い意志すら感じ取れた気がした。

  ぼくはといえば、言葉の何もかもをなくしてしまった。どんな気持ちだったか、口から出る言語になおしきれなかった。

  「お医者さんの指示でしばらく走ったりはできないそうだ」

  あのイブキが、陸上部を辞める――。

  ぼくの惚れたかっこいいイブキが、走るのを辞める――。

  イブキが負けた。イブキが諦めた。大切な友だちの陸上人生が、よりによってぼくのせいで、こんな形で終わる――。

  一つの事実が少しずつ形を変え、ずしり、ずしりとのしかかってくる。回答を出せない時間に比例して部屋の空気はますます重くなっていく。

  呆然とするぼくにカミタニは、

  「ブッキー泣いてたぜ」

  と、今さら何にもならない事実を述べた。

  イブキの退部を受け止めきれないでいるのに、そんな情報を追加でいってくるカミタニは冷たいやつだと思ってしまった。ぼくの気持ちはどうすればいいんだ、と。おまえはどう思ってるんだ、と。

  「なんとかしてあげられないのかな……」

  そこへクマキチが眉毛をシワシワにしていった。

  しばらく沈黙が続いた後、カミタニも続いて「オレとしても辞めずにいてくれるようにしてやりたい」と、ようやく気持ちを開示した。

  「顧問とか、はやみんとも話つけてみるかな」

  「みんなでなら、なんとかできるかもしれない?」

  「まあ説得の頭数は多い方がいいかもしれんな。ブッキーのことだ。みんなからの期待にはそんなに強くないだろう」

  「おーし。おれもまた説得してみる。なんとかする」

  「なんとかする」とは、ぼくの口癖の一つで、昔からクマキチに対してよくいっていた言葉だ。

  弟の口から聞いた途端、埃を被りながらも兄として染みついていたマインドにようやく火が灯った。

  事実を受け止めきれない一方、徐々に平静を伴った熱を取り戻しつつあった。イブキが骨折したという報せを聞いたとき、あらぬ方向に感情を走らせた結果拗らせてしまった。過去は覆らない。けれど、これからのことはすこしでも変えられる。これ以上、イブキが固く心を閉ざしてしまわないようにどんな努力だってしなければならない。昨日では考えられなかったが、今日のぼくには、そんなふうな強くて熱い気概が生まれつつある。

  今日、二人が来たのには理由がある。

  クマキチとカミタニはぼくを頼りにきたんだ。勘違いでも傲慢でもいい。また空回りする可能性だって捨てきれない。けれども、今、この状況で一番イブキに対して「なんとか」してやれるのは他でもない。ぼくだ。

  クマキチは昨日来てくれた時、意図は別にしてぼくを「なんとか」してくれた。みかんゼリーの奪還とメモ書きは世界でたった一人、クマキチにしかできないことだった。ならば、ぼくにもきっと、イブキにしてあげられるオンリーワンがあるはずだ。

  カミタニはいった。イブキは泣いていた、と。

  ぼくにはその意味がわかる。最小限の“事実”しか話さないカミタニの意図も、イブキの抱えている葛藤もわかってやれる。今ここで、今度こそイブキをわかってやらなければ、ぼくたちは二度と元どおりに戻れない。

  それと、忘れちゃいけない大事なことはもう一つ。二人が来てくれたのは「なんとかしてくれ」と頼みにきただけじゃないということ。当のぼくだって心配をかけている。二人の顔つきを見ればそんなこと、たやすくわかる。

  だったら、ぼくは――!

  閉じこもっている場合なんかじゃない。時間が惜しい。苦しい思いをさせてきたクマキチにも背中を見せてやらなければ。ぼくが、ぼくとイブキをなんとかするんだ。

  「ぼくもなんとかする。イブキがどういう思いで辞めるっていったか、今からイブキに会って確かめてくる。弱いこといってたら、今度こそ叱ってやる。ぼくだってイブキに謝らないといけないこと、たくさんあるから、話してくる」

  本心と言葉が一致してくれた。だからちゃんと胸張って目を見ていえたんだと思う。大丈夫。ぼくたちきっとすぐによくなる。

  それに、イブキの家に直接乗り込むというのは、お互いに冷静でいるための最善策でもある。人の家で、しかも弟くんたちの前ではあまり感情的になれないだろうと踏んだからだ。

  「体調、大丈夫なのかよ」

  カミタニが先ほどにも増して不安げに案じてくれる。気遣いをありがたく感じながら、

  「もう熱ないから平気。昨日ね、クマキチが給食のゼリー持ってきてくれたんだけど、食べて寝たらすぐ回復した」

  ありのままを話した。

  「ああ、クマキチ、じゃんけん必死だったもんな。そうか、ユーミに持っていくためだったのか。おまえ兄貴思いのいいやつだな」

  カミタニはクマキチの頭をがしがしと撫で回した。ぼくも無性に撫でたくなったけど、今はやめておいた。

  「なっ、なんだよう。あれは元々ユーミのゼリーなんだから、取り返すのが当たり前だろ?」

  「そこが健気でかわいい弟くんだっていってんだよ、このヤロ」

  「おれはそんなんじゃねえって!」

  カミタニがさらにわしゃわしゃとする微笑ましいやりとりに、こっちが嬉しくなってくる。カミタニはホモだっていってたけれど、芋臭い同年代は対象外という宣言のとおり、クマキチのことは眼中になさそうだ。だからビビりのクマキチも変に警戒しないんだろう。もっとも、クマキチが単純な性格で、カミタニの方も変に意識させないように“上手く”自制しているのかもしれない。

  ふと、そこまで考えて、

  (ぼくもイブキも、もしかしたらってことがあるかもな)

  と、ぼくは自分の在り方というべきか、自認について内省していたりもした。ぼくとイブキの問題は非常に根深い。もはや「ごめんね、今までどおりでよろしく」なんかで済むような領域ではなく、場合によってはカミタニのような自己決定と開示を経なければならないことも考えられる。イブキと対等に話すというのは、自身としっかり向き合うことにもつながり得る。そのことはくれぐれも念頭に置かなければならない。

  「よし、ぼく行ってこようと思う。ありがとう、二人とも。今日は来てくれて、イブキのことも教えてくれてありがとね。もう大丈夫だから、そろそろ部活戻らないと」

  とは口でいってみたものの、見栄っ張りな部分はそう簡単にはなくならない。率直にいって不安だった。カミタニが付いて来てくれたらどれだけ心強いだろうと、僅かに期待を寄せていたのだった。この件はその道の人――つまり同性愛者のカミタニに仲立ちしてもらう選択肢が有効であるように思えてきたんだ。

  純粋なクマキチに背負わせるわけにはいかなかった。いずれ相応しい時期が来たら腹を割って話そうとは思う。けれど、今のクマキチには重すぎて残酷だ。

  着替えと準備を終えて家を出たとき、クマキチに聞こえないように「助けてほしい」とお願いをすることにした。

  「部活終わってから、イブキの家に来てもらえないかな」

  「なんだよ。さっき大丈夫っていったのに。おまえってやつは内弁慶だよな」

  内弁慶……言い得て妙だ。カミタニは本質を捉えるのが上手だと思った。面と向かっていうべきことはいえるやつだからこそ、信頼に足る。

  「そうかも。ぼくこの頃ずっとカッコ悪いからさ」

  「責めてるんじゃないぞ。わかったよ、ブッキーの家だな」

  カミタニはぼくの耳元でこそっといった。

  「ごめんね」

  「謝んなよ、オレは元々今日その気で来てんだから。てかな、最近のおまえら、匂いすぎ。オレにいわせちゃお仲間の匂いプンプン漂わせてんだよな。ハラハラするから放っておけねえ」

  ……知らなかった。カミタニのもう一つの目的。

  「そうなんだ……」

  「今日だけじゃ話はまとまらないだろうな。何があったか洗いざらい話してもらうから、全部ゲロっちまう覚悟しとけよ」

  歩きながら、カミタニはぼくの肩を小突いてきた。ニヤリと、意地悪くも受容力のある顔。狼らしいのか、らしくないのかよくわからない。カミタニは鼻がいいから、おおよその全体像は掴んでいるのだろう。そう思うと、唐突に、恐ろしく頼りがいのあるやつだと感じた。

  「最終イブキがどう思うかだけど、話せるのカミタニしかいないから、たぶん全部話す。すごい話だと思うけど……」

  「おう、そりゃまたプンプンに臭えや」

  引かれるかも。身構えてしまって鬱屈とした気分が抜けないぼくに、カミタニは芝居くさくおどけてみせる。普段は気に触るような言動が、今は心遣いのように感じられて沁みてしまった。

  「なんとかなるかな」

  つい漏れてしまった不安に対しても、

  「なんとかなるんじゃなくて、なんとかするんだろ?」

  そうやって、言い方ひとつで前を向かせられるカミタニは一枚も二枚も[[rb:上手 > うわて]]だった。解決までの道のりは途方もなく遠いと感じていたけれど、カミタニに懐柔されたぼくならば、あるいはたくさんの優しさに包まれたぼくならば、本当になんとかできるような気がしてくる。

  「うん。ありがと。なんとか頑張ってくる」

  再燃した強気を消さないよう、しっかり前を向いたまま二人と別れた。

  うちから学校に行く道中にイブキの住む団地はある。この頃は三人一緒に登下校できていなかったけれど、団地前の小さな公園がぼくらの集合場所と解散場所だった。

  山城家は一階で目と鼻の先だ。階段の上り下りをしなくていい一階なのはイブキにとっても助かるだろう。そんなことを思いながら、公園から一室を覗き見る。電気はまだ付いていないから、イブキがいるかどうかは確信が持てなかった。

  あれだけクマキチとカミタニに元気づけられておきながら、まだ怖がっている。足を止めていると、また突っぱねられたらどうしようとか、余計な不安が頭を圧迫しだす。ぼくは何も考えまいと、せっせと歩き、ついに山城家の前までやってきた。勢いのままにインターホンを鳴らすと、

  「はーい。なんでしょう?」

  元気な男の子の声がすぐさま返ってきた。山城家は五人兄弟で、全員イブキに似ている声をしているけれど、声の主は三男のミツルくんだとわかった。

  「あ、ミツルくん。ぼくだよ、悠海。今イブキいるかな?」

  「ユーミお兄ちゃん! 待ってて、すぐ出るね!」

  通話が切れた後、ドタドタと大きな足音が近づいてきた。すぐにドアが開けられミツルくんが姿を見せてくれる。

  「ユーミお兄ちゃん久しぶり!」

  「うん、久しぶりだね」

  お母さんやイブキ本人がインターホンの向こうにいなかったことに安堵していた。その一方で、ミツルくんには申し訳なさを感じていた。久しぶりにしてしまった責任の一端はぼくにあるのだから、そうなるのも無理はなかった。

  後ろめたさが伝わってしまったせいも多少なりともあるのか、ミツルくんは顔を曇らせて、

  「兄ちゃん、今日帰ってきてすぐ病院行ったんだ」

  といった。

  「そっか……」

  どうしよう。イブキがいないことには始まらない。困惑するぼくにミツルくんはさらに困り顔になってしまった。

  「あ、でも、夜ごはん作る時間までには戻るっていってたよ」

  ミツルくんのくれた情報でぼくは咄嗟に思いついた。

  「それなら、待たせてもらっていいかな? 宿題の邪魔だったらごめん」

  「いいよ! もう宿題終わってるから大丈夫。一緒に遊ぼ」

  ミツルくんと遊びながらイブキを待つ。我ながら退路を断つ、勇気ある選択だった。出直すよりも待ち構えてやるぐらいの気丈さがないと、ぼくは折れてしまうかもしれなかった。

  一時間ほどミツルくんとすごろくゲームをやっただろうか。待つ目的があるとはいえ、ぼくは目の前のゲームに集中して、その場を目いっぱい楽しんだ。久しぶりに遊ぶと、なかなか思い通りにいかない。しかし、それがかえって良い意味で諦めがついて吹っ切れたのだ。

  ほどなくして、イブキがお母さんと一緒に帰ってきた。

  急いで玄関に向かい、お母さんに「お邪魔してます」と頭を下げ、イブキの方にも「来ちゃった」と短くいって笑いかけた。冷静に、飾らずに、普通に、できた。

  お母さんは疲れた顔に笑顔を貼り付けて「ユーミが来たんなら、部活のこと考え直せってことかな?」と、身体の大きな息子の方を見た。

  イブキは下を向いたまま何もいわなかった。驚きで言葉が見つからないというより、頑なに口を閉ざしてるようだった。

  「ミツルくん、また今度遊ぼうね! イブキとちょっと話してくる」

  ぼくは帰ってきたばかりのイブキを連れて、外の公園に出た。イブキは応ずる気はあるようで、じっと黙って着いてきた。

  日が落ちるまではまだ時間がある。ぼくたちはベンチに座って……たくさん沈黙して、ようやくぼくから切り出した。勢いに乗れたら、あとはもう成り行きだ。方向さえ間違わなければ、伝えたいこと、全部伝えていいんだ。その上でイブキのことを、ちゃんと理解してあげよう。

  「会えてよかった」

  一言目にイブキは返事をしなかった。返事のしようがないので、別に求めていったわけではなかった。

  「足は傷まないのか」

  脈絡のない問いかけに、イブキは僅かに俯いた。

  「……そっちこそ。風邪って、聞いたけど」

  「昨日一日寝たから、ぼくは大丈夫」

  言葉での返答はすれど、回答はもらえない。ということは、具合はまだ良くないのだ。ぼくはまた自分の不器用さを呪いながら、ケガのことは聞くべきじゃなかったと反省した。

  「そう」

  「…………」

  イブキの気持ちがわからない。すれ違っていても、言葉を交わせばわかると思っていた。なのに、イブキのことが読めないでいる。まだぼくたちは遠い。怖くてまたしても黙り込んでしまう。ぎこちないやりとりに、両足が落ち着かずにフワフワとする。

  「怒りに来たんだろ」

  冷たいイブキの声で病室でのやりとりが頭をよぎった。

  このままだとあの日の二の舞になる。ここで取り繕ってはいけないと直感した。そして、従ってみた。

  「そうだよ。怒りにきた。ケガしたことも! 心配なんだよ……!」

  自然と語気が強まる。ぼくの気持ちが自分自身と統合されていくにしがたって、いいたいことが腹の中を駆け巡りはじめる。

  震える息を身体の外へ追いやった。

  「部活辞めるって、クマキチたちから聞いたけど、辞めたくて辞めるわけじゃないんだろ」

  「……」

  イブキは答えない。でもぼくは図星を確信していた。イブキは泣いていたという情報からも、そしてケガの状況に触れたがらないことからも。葛藤があるから苦しいんだ。

  「……今日、そのことも話したいんだけど、それは後でいい。先にイブキと元どおりになりたい。仲直りしたいんだよ、まずは」

  部活の進退は後でもいい。優先順位はもう間違えたりしない。

  ぼくの原点というか、コアは仲直りだった。イブキの側にいる生活に戻りたい。好きのすれ違いも認め合った上で、親友として接したい。

  「また前と一緒に学校行って喋って、いつも通りにしたい。身勝手だってわかってる。やり方もこんな方法しか思いつかなかった。それでも、イブキがいないと嫌だ。嫌で嫌で、訳わかんなくて……もう、こんなのさ、寂しいよ。やめようよ、ぼくもやめる。ぼくたちボロボロだよ……」

  言葉は準備しなくても無限に出てくる。涙とともに溢れてくる。もっと伝えたい。正直な心の声をイブキに届けたい。

  「好きなんだよ! イブキのこと……好きだけど、友だちとしての好きでいさせて。何も特別じゃなくていいから……。コイビトはダメっていったけど、やっぱりぼくも好きで……もう訳わかんないよね。怖い、怖いよう。イブキとの関係が壊れるのが怖いから、変わらない友だちのままがいいんだ……」

  「泣くの早いって」

  「ごめん……変なこといってる」

  「なんでユーミまた謝ってるの」

  太ももにイブキの大きな手が置かれた。ぼくは嗚咽する。受け止めてもらえたこと、そして、あまりに一方的な自分が嫌いで、二重に泣けてくる。これじゃただの癇癪マシーンだ。勝手に押しかけてきてこの様。頼ってくれた二人に何ひとつ示しがつかない。冷静であるために、イブキのところへ来たのになあ。

  すぐに器用になれるわけなんてない。そのことが身に沁みて感じられると、吐き出せなかった言葉の数々が萎れていく。

  今度はぼくがイブキのことを聞く番だろうか。イブキの気持ちと、ある種の答えを。

  そう思って涙を拭ったとき、後ろから足音が聞こえて全身の毛が電気を帯びた。

  「よくやってるみたいだな」

  なんてタイミングだ。全部聞かれた――でも、まあいいかって、全身の緊張が緩む。なんでだ……。あんなに知られてはいけないと思っていたのに。カミタニが来た途端、緊張と安心の狭間を激しく往復しておかしくなりそうだった。

  「好きなんだな。いいじゃん」

  知られたくないと蓋をしていたのは、とにかく傷つかないためだった。

  大事な幼なじみを、かつての幼なじみと同じ目で見られなくなっている。それが他人に知れ渡ったら、この世界でやっていけない気がしていた。

  でも、そんなことはないんだ。カミタニは肯定してくれている。実は前から知っていてくれて……いや、推し量ろうとしていてくれて、今、最終段階にたどり着いただけなのかも。ああ、やっと……知ってくれた。

  ぼくはもう、これ以上傷つかなくていい。

  すとんと腹落ちしたそのとき初めて、必死に隠すために一生懸命覆っていた重たいものたちの存在を知る。気づいてあげられたばかりの鎧が砕けて、ぼろぼろと剥がれていく。いったん役目を終えたんだ……。

  理解のある誰かに知られることを渇望していた。親友に対する制御不能な気持ちは内部で秘匿できるほど小さいものではなく、他と同じように独立して生きていた尊ぶべき存在。ただそこにあっていい気持ちだと、客観的にその存在を認めてほしかったのだ。

  「あーあ。オレの出番いらなさそうだけど、来ちまったものだし、ちょいと交ぜてくれよ」

  カミタニはベンチに座ったぼくたちの後ろから、繋げてくれるように――ぼくたちの肩をぎゅっと寄せた。交じりたいという言葉のとおり、割って入り来るようでもあった。

  「そっかよー。おまえら、ホント仲良いんだな。いいな」

  いつも人を茶化すのが得意な狼は、BLとかホモとか、わかりやすいもので決して括らなかった。それは上部の気遣いなんかじゃなく、純粋な本音だった。

  丸裸になった今のぼくはそれだけで涙してしまうほど脆かった。

  うん……ぼくたち仲が良いんだよ。声が出れば、そうやって、カミタニに自慢げにいってやりたかった。

  「ブッキーは?」

  じっと顰めた顔で戸惑っているイブキ。ぼくがカミタニに助けを求めたこともお見通しで、それについて思うこともあったのかもしれない。

  「ユーミと仲直りしたいのか? って、オレが聞くまでもなさそうだけどな!」

  だけど、ふしぎとぼくもそう思えた。きっとカミタニがいうからかな。うん、信頼できるもん。カミタニも、そしてイブキのことも!

  気持ちが解かれてからは早かった。

  長い間見えなかった親友の腹の中がわかってくる。刻一刻と日は翳ってくるのに、心の内だけは明るく照らされていくみたいで。

  難しく考えなくていい。今ならば、信じてあげられる。イブキに対する自分のありたい姿の正当性と、そして、イブキも元どおりになりたがっていること。

  イブキはぼくのことを好いてくれている。

  勝手な思い込みに近い一方的な信頼を、上空でカラスたちが笑っているようだった。別に構わなかった。カミタニが後ろにいて、イブキが隣にいる。もう何も隠す必要のないぼくのすぐ近くに。

  嬉しかった。嬉しいことが嬉しかった。ぼくはようやく素直になれた優しい自分に、長いことうっとりしていた。

  あの日あの時をもって完全に戻れたわけではないのは想像に難くないと思う。カミタニ予言のとおり、まとまりきらなかった。

  というのも、堪えていたものを一気に吐き出したせいで、揃って泣きじゃくってしまい、建設的な話には結び付かなかった。

  引き止めの説得や同性愛とか、そのあたりの話はまだできなかった。カミタニも無理に引き出そうとはしなかった。だけど、心の奥底を触れ合わせただけで良かったのだと思う。

  カミタニが離れていた肩をひっつけてくれたことで、ぼくたちは再び交叉しはじめた。

  その後、何日か経ってからぼくとイブキの経緯をカミタニに話した。イブキも「いいよ」と許可をくれた。部室で受けた悩み相談の中身、その他、名誉に関わることはシークレットにしたけど。

  イブキはぼくと同じで、理解者が現れたことに心底嬉しそうだった。イブキが同性愛をはっきりと自覚したのもこの時だったと記憶している。

  事の顛末をゲロったとき、カミタニはこちらを注意深く窺いながら、部室での行為について「ぶっ飛んでるな」といったものの、あまり深くは突っ込んでこなかった。そのせいで開示しすぎてしまったというのもあったんだけどね。狼は信用しすぎるのもダメだと思った瞬間だった。

  陸上部の退部事件について、結果から先にいうと、イブキは難攻不落だった。つまり、当初の意思を曲げずに去る選択を貫いた。

  夏の引退試合まで以前と同じようには走れない。そんな中、籍を置き続け、側でみんなの勇姿を見届けるか。何も残されていない自分を受容してきっぱりと区切りをつけるか。どっちの選択をしても、とても辛い。一年が経った今でも、イブキの心境を察すると目に涙が浮かんでしまう。

  当然、在籍したままマネージャーのポジションになる道も考えていた。だけど、イブキはぼくが思う以上に考えを巡らせて頭を悩ませていた。

  陸上部は元々マネージャーがいなくても回っていた。自分がマネージャーになる必要性が薄いことを知っていたにとどまらず、在籍することで却って“遠慮”を生んでしまうのを最も危惧していた。

  部のエースで副部長。走ることに誰よりもひたむきなイブキは、もう走れない自分に遠慮される瞬間が一番辛いのだと胸襟を開いてくれた。

  遠慮とは、なにもイブキの前で全力を出さないことのみを意味しない。部員たちが、誰のためにならない芝居を打つはずはないと信頼もしている。ただ……同列のメンバーとして扱われる中で、配慮される言い回しが出てきたり、疎外感を生まないように気遣われるといった“遠慮”が、どこかで士気の低下に繋がってしまう。イブキが危惧したのはその一点だった。

  「だったら、今のおれにできることをやりたいって思って。やってみたいことがあるんだ」

  葛藤を抱えながらも、イブキは理性的に前を向いていた。挫けていない相手にぼく一人で「なんとかする」のは大変だった。

  しかし、それでも辞めないでほしかったので、カミタニたちと相談しながら説得の手筈を整えたのだった。顧問に頼るのは逆効果かと思い、部長の速水くんと、同期の猫宮くんを連れて。そしてぼくとクマキチとカミタニ五人で。

  なんとかできるって、正直思っていた。

  イブキは説得に耳は傾けてくれたけれど、首を縦に振ることはなかった。

  「そんなにいうなら、体育祭まで待っててくれないか?」

  イブキは頑固で手強いというよりも、ぼくたちよりも飛び抜けて明るかった。

  「体育祭?」

  「うん。毎年、最後に部活対抗リレーやるじゃん。そこでリベンジさせてほしい」

  イブキは尻尾をハタハタと振ってそういった。

  「リベンジなあ……」

  思いもよらぬ回答にカミタニでさえ返答に窮していた。

  イブキらしい情熱的な信念に触れて、強引に説得する気が失われかけていた。

  今は雌伏の時を耐え、秋に返り咲く。その方がイブキにとっても報われるだろうなと、納得してしまった。それになにより、イブキっぽい。

  「辞めるのに出させてくれなんて図々しいけど、待っててほしい。おれ、今は陸上から距離置くって決めた。辞めたいわけじゃない、悔しいんだよ。ホントは走りたい。だから最後、挽回させてほしい。はやみんお願い! みんなも……待っててくれ!」

  イブキの切実な想いに、皆一様に顔を見合わせた。誰一人として反対の表情を浮かべているやつはいない状況にぼくは、

  (よかった……!)

  心底からそう思えたのだった。

  [newpage]

  「おう、やったなー体育祭! 懐かしいなあ。マジでリベンジ果たしてきたからオレも泣きかけてたよ」

  宣言どおりに、イブキは部活対抗リレーにおいて陸上部のアンカーを務めた。怒涛の追い抜きで巻き返しを遂げ、一位まで僅差というところまで走り抜けた勇姿に心打たれ、彼を抱きしめずにはいられなかった。最高にアツくて溶けるように甘い、中学校最大の思い出だ。

  体育祭の後日、イブキは高校で陸上部を継続すると決意を話してくれた。イブキは退部こそすれど、陸上そのものは一度たりとも辞めていなかったのだ。

  現在はアルバイトとの掛け持ちで陸上部に所属しており、高校生活を謳歌している。

  「そっかそっか。あいつ、頑張り屋だからなー。兄弟のこともあるのによくやってんな、ホント」

  安堵する顔を見つめる傍ら、カミタニが本当に知りたがっているのはその先――もっとディープな話だというのに気づいてきた。陸上部復帰の話は、そこに至るための取っ掛かりにすぎない。

  カミタニが打ってきたジャブを素早く打ち返してみる。

  「“仲間”として気にしてるんだろ? イブキがどう動いているか、とか」

  「おお? なかなかに話が早いじゃないか」

  ビンゴか! やはりこの狼、優しいだけじゃ終わらない。

  カミタニがそこまでイブキを気にかけるのは同類だからだ。おそらく自分も含めて、ぼくたちはマイノリティ。上手く立ち回っていくには他の事例から学んでいくのがいい。まあ純粋に気になるんだろう、同じ悩みを抱えている仲間として。

  「カミタニはどうなん? 高校でもまた宣言したの?」

  「んや。そういうのは信頼できるヤツだけにいうことにした」

  「そっか」

  いうことにした……ってことは、まだ誰にも打ち明けていないのか。ぼくは言葉と表情から、そして文脈からも読み取るようにして、そう判断した。

  「イブキもそうだよ。誰にもいっていないって」

  「だよなあ。まだあと三年もあるしよー、スタートは慎重にいくべきだな」

  「中学で知ったやつらが無駄に広めないといいね」

  「実際裏で噂が回ってるかどうか、そこはオレにもわかんねーし、そうなってたらどうしようもない」

  中学校では器用にポジションを確立したカミタニでも、カミングアウトは非常に気を揉むのだ。

  「……中学でみんなにいったこと、後悔してる?」

  「後悔はないな」

  カミタニは歯切れ良く答えた。

  「みんな思ったより自然に受け入れてくれて、オレもオレで隠し事なしでやりやすかったって思ってるよ。そういうおまえは? いえばよかったって逆に後悔してるか?」

  「だからぼくは……」

  「たはは、冗談だよ。でも、もし仮にユーミがそうだとして、おちょくるヤツはいなかったと思うけど」

  「そうかな?」

  「そんなヤツがいたらこのオレがただじゃおかないからな」

  「なんだよ、それ」

  「まあ、ホモバレしてたらブッキーのと一件が痴話喧嘩だったなってのは、みんなにバレただろうけどな!」

  カミタニが過去を明るく照らすようにいったので、ぼくはその世界線について頭の中でパラレルワールドを繰り広げてしまった。いつもの悪い癖だ。

  そして真っ先に浮かんだのは、弟――ではないんだけど、クマキチのことだった。ぼくがホモだったとして、イブキとくっついてしまったら……あいつを取り残すみたいで、それは避けたいなと、重く考えてしまった。

  「……受け入れられるのかな、そんなぼくたちでも」

  「オレだけがいけて、おまえらがダメな理由がわからない」

  芽が出てしまった弱気は速攻で切り捨てられた。

  「だっておまえら、ホモのオレと今まで通りに接してくれてんじゃないか? 修学旅行であんなヤバいことまでやってさ。それと一緒だと思うけどな。周りは案外、誰が誰を好きだとか関心ないよ。いつも自分のことで手一杯だ」

  ……そう、なのかな。でも、ものすごく説得力はある。確かにぼくはカミタニをカミタニのままで受け入れているし、イブキについても同様だ。

  (だけど、もしも、ぼくが本当にそうだったら……)

  不安で揺らぐぼくに、カミタニは――

  「クマキチのことだろ、心配してんのは」

  ものの見事に本心の核を射抜いてくれた。カミタニには隠し通せない。カミタニだけは、いつだってわかってくれる!

  ぼくは不意に涙が出そうになるのを堪えて……堪えようとして……、

  「怖いんだ」

  ……それでもなんとか堪えて、震える声で素直になれた。

  模範的な背中を見せてきたつもりが、その実、同性愛者で親友にあんなことをした……なんてことがバレたら……。

  「怖いよ……」

  過去にクマキチとやった行為の意味まで書き変わってしまう。弟や親友に、汚い性欲を振りかざすモンスターに成りさがる。そんな自分を認めて公に出した後、これからどんな顔で向き合っていけばいいのか、ビジョンが全くといっていいほど描けなかった。

  「それでいい、大丈夫だ。みんな怖いよ。オレだってそうだし、今も怖い。でもな、大丈夫なんだよ」

  どうしてカミタニは自信を持って大丈夫だと言い切れるんだろう。ポジティブなだけじゃ、その領域には辿り着けないはずだ。ぼくは訊いてみた。

  「それだけ関係を大事にしたい気持ちが強いってことだろ。そういうのって、嫌でも伝わるぜ。だからユーミなら大丈夫だよ」

  「気持ちはあるけど……それだけでいいのかな」

  「んー。まだ足りねーかもな。もっと信頼してやったらいいと思うぜ。ホモだとして、それだけでおまえを見限るほどあいつは酷いやつか?」

  ……信頼。ああ、それって……。

  (イブキと仲直りした日のことと繋がってくるのか)

  カミタニと話していると、何もかもが赤裸々にされそうだ。カミタニの声で、かつての天邪鬼だった自分が崩されて、恐るべき速度で再定義されていく。抑圧していた自分の一部が、本体たる自分と統合されていく、とても不思議な感覚。

  実はもう、あとは決めるだけの、勇気が試される段階にいるんじゃないか。優しく一押しされたいと、理由をつけて甘えているだけで……。

  ぼくはいったい、どう在りたいんだろ。

  自分ごとになると極端な鈍感さを発揮してしまい、本心が掴めなくなる。

  「なあ、ちょっと気分転換に外歩こうぜ。腹ごなしの散歩も兼ねて」

  カミタニは、重く沈みかけていたぼくを一気に引き上げるような、ぴったりの提案をしてくれた。

  毛に湿気がまとわりつく夜だけど、身体を動かしているのは無性に気持ちがよかった。

  話題は無限に出てきて、口は普段の何倍よりも饒舌になる。浅い話から深い話まで、カミタニとはどんな話題でも同じ粒度で話せる。

  アテもなく、ただ人通りが少ない道を選んでぼくたちは[[rb:彷徨 > ほうこう]]した。

  「カミタニのタイプの人ってどんな人なの?」

  と、ぼくが訊けば、

  「シュッとしててガッチリした筋肉質なやつとか、いいよなって思う。強そうな男がいいよ」

  カミタニは遠慮なく答えてくれた。

  「そういえば、芋臭いのは興味ないっていってたね。クラスにタイプの人はいる?」

  「んー……正直あんまりだな。全体的にひょろっとしたヤツが多い」

  「進学校は傾向としてそうなのかな」

  「勉強クンが多いのは確か。もっとスポーツ強豪校に行けばよかったぜ」

  てっきりぼくのタイプも聞き返されるかと構えながらに質問してみたが、カミタニは触れてこなかった。気を遣われてるのかな。

  中学を卒業したこの際だし、もうちょっと踏み込んだことまで訊いてみよう。

  「あのさ……中学の話だけど、ウシザキとかは? ああいうのはタイプのうちなの?」

  筋肉質で強そうっちゃ強そうではある。体格はダントツだし、ウシザキの近くにいたのはそういう理由があったのか、ふと気になった。

  「ザッキーなぁ。身体はエロいけど、そういう目で見るのは無理だな! おもしろいヤツで嫌いではないんだけど、タイプにはならんな。うん、絶対無理だな」

  「確かに。色々厳しいか」

  異性にモテないからといって、その逆が保証されるわけではない。あいつの横暴さや仕打ちの数々を思い出すと、失笑してしまった。

  「中学メンバーでいうと、ネコミヤはよかったぞ」

  「あー、わかる。スタイルいいもんね」

  「オレ的にはなよっとした性格とのギャップがポイント高い。もうちょい体ガッシリしてたら危なかったかも。ちんぽも引くほどでけーし」

  「……そこも気にするんだ」

  「ホモだし、そりゃあな?」

  「ふーん……」

  動揺を抑えた声で応じたのは、カミタニの焼きちくわとネコミヤくんの聖剣を思い返して勃ちそうになったからだ……。ぼくにもその気があるんだろうな。いや、でもあれらはきっと例外だ! 目に毒。やらしすぎるもん。

  歩き[[rb:彷徨 > さまよ]]っているうちに、一際大きな運動公園に着いた。時刻は九時を過ぎた頃。散歩やランニングに来ている人が多く、スケボーの練習に来ている高校生もいた。

  自販機で買った炭酸ジュースを手に、街灯が整備された道を歩いていく。もっとカミタニの話を聞いていたくて、向こうもまたぼくの話を聞きたがっているというのが、なんとなしに伝わってくる。その証拠に、揃ってペースダウンする。要するに、帰りたくなかった。

  ぼくは見せられる自分の全てを隣の狼に預けてきた。そんな腹を割って話せる友だちと偶然再会できたのだ。だらだらと引き延ばすような成り行きは必然ともいえた。

  「さっきの話。……カミタニ的にはイブキってどうなの」

  「おいおい。そっちから聞いてくんのかよぉ」

  「だって気になるじゃん。この際だし、教えてよ」

  「わーったよ。じゃあおまえも、ブッキーのどこが好きだったか教えろよな? それができなきゃ、ナシだぜ――」

  「いいよ」

  「えっ、いいのか……」

  話題はもっと深くを求めて、アイデンティティの深淵に向かっていく。

  「今なら平気だってば」

  ぼくとイブキの初恋は完結した。フったから終わったわけではない。そんな単純なものじゃないんだ。

  わだかまりを乗り越えても恋心はしぶとく、鳴りを潜めていた。感情って、一気に解決はしない。きっかけこそあれど、恋とこれっきりの“さよなら”ができたタイミングなんてなかった。ただ、イブキと元どおりに笑って過ごす中で、痛みが引いて、やがて薄れていった。そうなると、自己完結が近くて、純粋にイブキの幸せを願えるようになった。

  悲しい終わり方じゃないから、思い出しても辛くない恋。傷は確かにあった。あの日のぼくたちは一生消えない。今も再生して触れることを知っている。だから、ぼくは今なら平気だよ。

  「なんか調子狂うな。ブッキーのことになったらおまえちょっと、ヘンだぞ」

  「ぼくたち色々あったからな。えへへへ……」

  「そういうところをいってんだ」

  「全部好きなんだもん」

  「は、はあ〜……!? 惚気かよ。ったく、敵わねーよ!」

  いつの間にか、ぼくは浮き足立って、僅かに早足へと戻っていた。心拍数が高い。なんでも喋れる気がする。

  それはたぶん、普段押さえ込んでいる自我がここぞとばかりに主張をするからだ。「認めてくれ、ここに生きているぞ!」……って。

  「ぼくはね、イブキの優しくて強い心が大好き。周りの状況に負けないところ。真っ直ぐな頑張り屋なのに、かわいいところも好き」

  「おー…………」

  「それからね、なんといっても……」

  執着する恋心と決別したら、驚くほどフラットになれた。イブキを想い慕う気持ちは穏やかに生きていて、必要な時に手を取り合える、そんな関係。なんとも喜ばしい形での和解だった。

  「今も変わらず好きなんだな」

  「うん……大好き」

  夜はいい。暗いから顔を赤くし放題だ。夜風だって、顔の熱を早くに取り払ってくれる。

  イブキの魅力を存分に語り終えて、気づいたことと、「アリかも」と思ったことがそれぞれある。全員に対して一律に同じ自分を見せる必要はない。カミタニの前でなら、ぼくは限定的な“ゲイ”でいられる。パーシャルな併存っていうのかな。そういう自分の在り方って、アリかもしれない。

  「カミタニも教えてよ。イブキのいいところっていうか、実際どう見てた?」

  「……オレの負けだよ。正直内面まで深く見てなかった。ガッシリ骨太なのに垂れ耳で顔はかわいいとか、せいぜいそんぐらいだ」

  「へー! カミタニから見てもイブキはかわいいんだ」

  「まあな。っつか、女子もみんないってただろ」

  「そうかあ。そうだよな。でへへへ」

  イブキがみんなから愛されていたことを再確認して、その良いところはぼくが一番よく知っているんだと、さらに悦に浸った。

  「……もう一回聞くけど、やっぱおまえら、定期的にセックスしてるだろ」

  「なんでだよ!! 一回もしてないって!!」

  「したい気持ちは?」

  「……ないわけじゃない、けど……現実的じゃないよ」

  「ま、それぐらい愛が重いなら十分できると思うぜぃ」

  カミタニはさらりとそういって、炭酸をグビグビと一気にあおった。あまりに気持ちいい飲みっぷりにこちらもつられた。まだ冷たい炭酸が喉を潤して、喋りたい気持ちまでを奮わせる。

  カミタニが吐いた大きなゲップに、ぼくは「音でかっ」と笑う。下品なのに不思議とゲップまで気持ちよくて、器用な男は違うなと、ぼくは小さなゲップを隠すように吐いた。

  それにしても、エッチかあ。異性同士でも未知の行為なのに、同性同士だと何倍にも増して幻の行為だ。

  イブキとそういうことするってなったら、どっちかが男役になる。でもそれってどうやって決めるんだろう? 大きい方? でも相性ってあるよな……。あ……これもまた苦手な“決めること”か?

  「……ずっと気になってたことがあってさ。いやまあ、答えづらかったらいいんだけど」

  思考が宇宙に行ってたところ、カミタニが前置きのクッションを使い、聞きにくそうに切り出した。

  「なに?」

  ちょっとだけ身構えつつ、ぼくは何でもすぐに答えてしまいそうな予感がして、

  「ブッキー以外の男は、ゆーみんの対象なんかなって、気になってた」

  しかし、その予感は全く的中せず、

  「どうだろ」

  すこし黙ってしまった。

  全部を預けているカミタニになら、イブキへの気持ちすら見せられる。でも、他の男の人について「対象」となった経験がないため、抱いたことのない気持ちを持てる確証はなかった。

  「あーやっぱ答えづらいか。気にしなくていいよ」

  「いや。いける、と思う。たぶんだけど」

  不意に、カミタニが足を止める。

  「無理にいわせちゃったよな。ごめん」

  「なんでだよ。別に無理して合わせてるわけじゃない」

  ぼくはカミタニを振り返った。

  自分に不誠実な嘘をついてしまった一件があってから、内面と向き合ってきた。正直になる練習を通して、ぼくの意識はようやく変わり始めた。鈍感さはきっと不変だろうけれど、前よりは絶対に見える。それを伝えたかった。

  人を好きになるのに性別はさほど重要ではない。カミタニが暴いてくれた気づきでもあった。

  「カミタニこそ、ちょっとヘンだよ。ズレてる。エッチのこととか聞いてくるのに、そこそんな気を遣うところ?」

  「あー……いわれてみれば確かに。そーでもないな、別に」

  「そうだよ」

  納得したのか、カミタニは再び歩を進めた。

  「やー、繊細なおまえの地雷がどこにあるか、わからんからな」

  「え? そんな取り扱い注意なやつに見えるか?」

  カミタニは「そうだよ」と、ぼくの言葉を繰り返してみせた。そして、「おまえは色々と危なっかしい」と、ケツを叩いてくる。

  もう一度「そうかな」といってみた。

  「そうだよ」

  カミタニはわかってくれた。

  ぼくたちだけの秘密の夜は更けていく。すれ違う人、追い抜いていく人。どちらも減っていく。自分らしくいられる時間はあともう少しだ。

  ちょうど休みたいと思っていた頃にベンチが現れたので休憩した。

  「さっき思ったんだけど、カミタニの前でならホモでいられるかもって」

  きっと、それもぼくらしさの一つ。ぼくがぼくらしくいるために、段階的に認められたら素敵だと思う。

  「そうか」

  甘え……なんだろう。今はカミタニに渡した自分を通してでないと向き合えない。

  「昔じゃ考えられないほど素直になったな。いいと思うぜ」

  それでも。

  こうして優しく認めてくれるから――ぼくは進んで素直になってみようと、心に決められる気がするんだ。

  「明日学校行きたくないな」

  「オレもだ。行きたくねー」

  虚空に放り投げた独り言でもちゃんと返ってくる安心感。

  本当に学校に行きたくないわけではない。核心を突いた表現をするならば、カミタニともっと一緒にいたい、ということになるのだけど、それではあまりに露骨すぎるので、とりあえず学校のせいにした。

  せっかく認められてきた自分の一面が、今日が終わればしばらく封じ込められる。ぼくにはそれがすこし、耐え難いように感じられた。

  虫たちの声と、遠くの車のロードノイズだけが耳に届く間、カミタニはいったいどんなことを考えているのだろう。

  沈黙はまったく気にならない。ただ、もったいないという焦りがあって、

  「カミタニの連絡先、もらっていい?」

  その間をなんとか有意義に埋めようとした。

  高校生になってからスマホを持ったため、カミタニの連絡先を知らなかった。邂逅を思い出だけにしたくなく、触れ合える次を作れようにしておきたかった。

  「ありがとう。急に電話したりはしないから安心して」

  「オレはいつでも構わねーけど。びっくりするからおまえが嫌なんだろ」

  「うーん、当たりかも」

  「だはは、ほら地雷だ。早速発見な?」

  「まあいいけどね、急な電話には慣れっこだし。それより、カミタニのプロフィール写真いけてるね」

  サッカーの公式試合だろうか。キーパーとしてゴールを死守する瞬間を収めた写真だった。決死の表情と、躍動感のある構図がぴたりと噛み合った、まさに奇跡の一枚と呼ぶべきショットだ。

  「これなー! 撮ってくれた観客のおじいさんが、どうしてもオレに見てもらいたかったって、データをくれたんだ」

  すごい。ツイてる話だし、これは確かに本人に渡したくなる素敵な写真だ。

  「ユーミのは手書きの絵……ん、マグネットシールか?」

  「そ。イブキが描いてくれたやつ」

  「あーね……なーんか見覚えあると思ったら、陸部の部室のドアに貼ってあったやつか」

  「そう! ぼくのも描いてもらったんだ」

  十時が迫る。

  高校生丸出しのカッコでいたら、警察による補導もいよいよ現実味を帯びてくる。

  「そろそろかな」

  ぼくたちはベンチから立ち上がった。

  「うん。帰らないと」

  別れ際になり、

  「ユーミ」「あのさ」

  言葉が重なった。

  「どうした?」

  カミタニが譲ってくれる。

  「ちょっと照れ臭いこというけど、聞いてほしい」

  切り出しにくい時にカミタニがよくいうクッションを使ってみた。今、ここだと直感した。今ここで伝えないといけない。いや、義務感じゃなくて、伝えたい。

  「ぼくらのこと、気にかけてくれてありがとう」

  同類だからと相談に乗ってくれて、ぼくたちは寄りを戻せた。そして今日、ぼくのアイデンティティに関わることでも前向きに勇気づけてくれた。

  それだけじゃない。もっとたくさん、もらってきた。返したくても返せないほどの「何か」を受け取っている。

  ……その正体が何で、どのくらいの量か。またそれをどういえば伝えられるのか、考えれば考えるほど、ぼくをすり抜けては薄れてゆく。

  どうしよう。言葉にできない! 素直になるだけじゃまだ足りない。

  「本当にありがとう、カミタニ」

  不器用な自分がもどかしい。空回っているぼくが伝えられるのって、これだけかー。

  「恥ずかしいけど、いっておきたかった。えへへ」

  情けなさを悟らせないように照れを搾り出して、ぼくはすこしの間、精いっぱい気を張って、今自分にできる最高の優しい顔を向けた。カミタニがキャッチしやすくなったらいいな、なんて。

  「ぼくからはそれだけ」

  一気にいったぼくは、自分だってズルいことしてんなって、そっと思った。

  「そう思ってくれてんならよかったよ。どういたしまして」

  「ごめんね、遮って。カミタニは何いおうとしてた?」

  「オレか。オレのはそんな大したことじゃないんだけどな。んー、やっぱやめとこうかな」

  「えー! 気になるよ。気になって余計に帰れないって」

  「や、なんか帰り際にやると変な意味になっちまいそうだから、タイミングしくじったかなって」

  「変な意味? どういうこと?」

  思わず低い声で聞き返すと同時、カミタニは視線をあちこちへ泳がせた。

  「変な意味っつか、なん……なんだろな、あまり友だち同士でやることじゃないからな」

  らしくない動揺に、さすがのぼくも、

  (なんか誤魔化されてる?)

  と、勘ぐってしまう。

  「なになになに! 友だち同士?」

  「すまん、忘れてくれ」

  「それってフリ?」

  「いや、ガチだ」

  「なんだよ、いいじゃん。教えてくれても。ぼくだけ恥ずかしいのも嫌だよ」

  「本当に大したことじゃないんだ」

  「それでもいいよ。お願い、お願い」

  「よーし、わかった。じゃあ……一つだけ約束な?」

  「なに?」

  「結論を先にいうと、悪用厳禁で頼みたい」

  悪用厳禁? どういう意味だろう。右足が半歩前へ出た。

  「……簡単な相性診断だ。同性が対象かどうか、確かめる方法。思い出したんだよ。せっかくならって思ってさ。ただこれ、使い方間違えるとフツーに人間関係ミスるから、あんまり真に受けんなよ? 毒にも薬にもなる……そんなんでもいいのか?」

  カミタニはニヤリと笑った。ぼくの覚悟を試しているみたいに。

  「教えてほしい」

  即答だった。そんなの、知りたいに決まっている。

  「おっしゃ。じゃあ荷物はそこ置いて」

  「なにするの?」

  「やること自体は単純だ。相手の身体に触れるだけ」

  「へ……?」

  「はは、いっちまえば手繋ぐだけだよ。心臓の動きとか感情に意識を向けたまま、三十秒間握りっぱなしにする。それである程度、相性がわかるんだ」

  「どうなったらその人が“対象”ってわかるの?」

  「オレがおまえなら説明できるんだけどな……。そこはフィーリングだから正解はない。反対の方はわかりやすい。嫌だって嫌悪感が湧いたらナシってことだ」

  カミタニは右手を差し出してきた。狼らしく力強さを感じさせる筋骨隆々とした、器用な手。

  「覚悟はいいか?」

  「やってみるよ」

  ぼくも右手を差し出して、カミタニの手をおっかなびっくり握ってみる。

  あったかい……。

  (カミタニの手、汗かいてる。ぼくもだけど……)

  汗と汗が混じり合って、手の内側はさらに湿っていく。

  やり方のとおりに、心臓の動きと感情に意識を向けてみる。

  心臓は……僅かに速い気もするけど、至って正常な動き。

  感情はどうだろう。嫌悪感は全くない。それどころか、手を繋いでいると安心するような。緊張感が解けていけば、汗も気にならない。

  「ユーミの手、大きいな」

  「シロクマだからね」

  カミタニはぼくの手をぎゅっと強く握ってきた。ぼくも負けじと握り返す。

  (いいな、これ……)

  気持ちいい。三十秒はあっという間に過ぎてしまった。

  「どうだ、やってみた感想は?」

  「うん。案外抵抗感もなんともないし、なんならけっこうよかった。手繋ぐのっていいね」

  「ならユーミはちゃんと男もイケるんだと思うぜぃ」

  あっさりとそう結論付けられたが、ぼくは懐疑的だった。毒にも薬にもなるとは到底思えなかったのだ。

  「でもさ、これ、そんなにわかるものなの? 覚悟とか悪用厳禁って……みんな難なくクリアしていきそうだけど」

  小中学校のイベントでは、異性同性問わずに手を繋ぐ機会があったように思う。体育祭の学年別種目では、ぼくも女の子と手を繋いだっけな。当然のように何もなかった。

  「おっ、スルドいな。そうなんだよ、実はな、これまだ一段階目なんだ」

  「ってことは二段階目がある?」

  「おう、もっとその先もあるぞ。二段階目は一気にレベル上がるかもだけど……どうする? やってみるか?」

  狼の目が光る。その挑んでくるような目つきに、見栄っ張りな性格が呼び覚まされる。

  「もちろん」

  これも即答。ここで引いたらシラける。男が廃るというやつだ。

  人目につくのは避けたいとカミタニがいい、ぼくらは暗闇の木々の中に場所を移した。

  「で、二段階目は何――」

  「これだよ」

  カミタニが間合いを一気に詰めてきて、両腕をがばっと開いた!

  (これって……! ハグじゃん!)

  ――そのままぼくはカミタニの腕と胸に上半身を包まれた。

  「次のは一分な? ユーミも腕回して」

  「うん……」

  「平気? 苦しくないか?」

  「だいじょうぶ」

  耳のすぐ横でカミタニの喉の響きと鼻息が聞こえる。ぼくのも聞こえているんだろう。身体を密着させてひっつくのって……確かにレベルが高いな。

  「まさかおまえとこんなことするなんてな」

  「びっくりした……でも、なんか安心する……。落ち着いていく、かも」

  「そっか。……なら、もうちょっとギュッとしていいか?」

  「いいよ」

  カミタニの太い腕がゆっくりと、逃がさないようにぼくの身体を締め付ける。

  感情に聞いてみるまでもなく、心地いい。

  こちらもハグを強めてみると、思った以上に落ち着く。ぼくからも愛撫しにいっていいんだという安心感がある。鍛え抜かれた立派な身体を確かめる。シャツ越しに伝わる柔らかさと、男らしい剛健さを兼ね備えた羨ましい身体。頼り甲斐があって、まだこれからもっと力強さを増していくに違いない。

  甘えるように肩にマズルを乗せ預けてみる。カミタニは黙ってぼくを受け入れる。首筋から汗の酸っぱくて、男っぽい匂いが漂って鼻腔を突く。雄臭くて、暑苦しい。なのに、身体は抗うどころか、全然嫌がらない……。むしろ……。

  互いに生みあった熱によって、ぼくとカミタニの境界があやふやになっていく。もっと、もっと溶けあいたい。

  毒か、薬か。二者択一ではなくて、もっとニュートラルでいて、危うい「何か」がぼくを内側から酔わせて、優しく壊す。

  (え……?)

  壊れかけてきているのはぼくだけじゃなくて――

  ……あ、当たってる……。

  「カミタニ……っ、これ……」

  下腹部に押し付けられた異物感。岩のように硬くなっていく質量が蠢いて、服越しに生命の脈動を刻んでいる……。

  「カミタニってば……」

  「オレのことはいいから……ユーミの心臓と気持ち、確かめててな」

  「そんなのされたら狂っちゃうよ。せっかく安定してたのに」

  「悪いホモ狼でごめん。我慢も“待て”もできなかった」

  カミタニは縋りつくように――暴力的なまでに抱擁を強めたくせに、細く掠れた声でいった。初めて聞いた声のトーンに、心臓の収縮が激しくなる。心臓が高鳴るにつれて、理性がパチパチと弾け飛んでいく。

  剛直が突き刺さる感触と、あからさまに乱れてくる吐息がひどく生々しくて、

  「……んっ、だめ……ぼくも、反応しちゃう……」

  パンツの中で熱が生まれる……ムクムクと膨れ上がってくる。

  「あと十秒だ」

  「……っ!!」

  ――そのまま最後まで、カミタニにありのままの全身を託し続けた。

  「毒にも薬にもなるだろ? だから悪用厳禁なんだ」

  カミタニはワイシャツのボタンを外し、胸元をパタパタと仰いでいった。たったの一分とはいえ、ぼくも相当汗をかいてしまった。

  「なかなかやばい相性診断だね……」

  恐ろしいことに、三段階目以降も用意されているらしい。ビギナーに片足を突っ込んだとしても、十分に過激だった。

  「勃たせちまってすまなかったな」

  カミタニは鼻を擦ってそういった。失態を隠さずに、それでいて恥ずかしそうに、まるで少年のような仕草だった。

  「いいよ。やっぱり男の身体で反応するのは無理もないんだろうなって思った」

  「……悲しい[[rb:運命 > さだめ]]を背負った生き物だよなぁ」

  「そんなに?」

  「いつかそのうちわかるかもな」

  「あんまり楽しみじゃないね、それは」

  「そうだな」

  カミタニの声は微かな夜風にも飛ばされそうで、なんだか遣る瀬なさが漂っていた。

  「ブッキーとさ、何かあったらまたいえよ。オレ、応援してるからな」

  滲んだ弱気を一転させて、カミタニがいってくれた。

  「ありがとう」

  今度はぼくから右手を出した。カミタニはすぐに気づいて力強い握手を返してくれる。

  約束のつもりだった。そんなクサいことは、もちろんいわないし、いえないんだけれど。

  いつか、ぼくも返せるようになるよ。

  いつかは、いつになるだろうか。ぼくがカミタニに何かしてあげられる「いつか」。カミタニにも、イブキと同じように優しくしてあげたい。どうしてそんなふうに胸を締め付けるかはわからない。カミタニがぼくを守ってくれている裏側、抱擁しているときの背中。そこにあるものが、丸くて淡い気持ちを抱かせるんだろうか。

  きっとそう遠くない時期にぼくたちはまた会える。特別じゃないことでなら、少しずつ、少しずつ、キミに返せると思う。そうやってでも、返したいんだ。

  「ありがとう……!」

  さっきと一緒だ、これ。ぼくは今はそれだけしかいえない。空回りでも、回っているだけまだよかった……そう思えた。

  握手を終えたぼくたちはお決まりのように時計を確認して、今ここに焦点を戻した。

  「てか、時間やべえっ! 駐輪場もうすぐ閉まる! すまん、オレ全力で走らないと……先帰るわ」

  カミタニは耳をピンと立てて、はだけたシャツのボタンを慌ただしく掛け始めた。ぼくも荷物を整理する。

  「帰り道、気をつけてね」

  「おう! またな、ゆーみん! 今日おまえに会えてよかった」

  「ぼくもだよ。またね、また遊ぼう。連絡するよ」

  「オレも連絡するよ。……じゃあ、またな」

  「うん。また……」

  カミタニは右手を挙げて、夜の闇を蹴るように駆けて行く。

  遠ざかっていく足音が静寂の中へ吸い込まれ、やがてカミタニの背中が見えなくなっても、ぼくは一歩も動かずに立ち尽くしていた。

  カミタニが走っていった方向は、もうただの夜道だった。

  ひとりに戻ったぼくはようやく、

  (帰ろっか)

  という気になって、モール直結の駅までふわふわとした足取りで歩いて行った。急ぐ気にはなれなかった。それは電車にまだ余裕があるからとか、合理的な理由ではなかった。ただゆっくりと、身体に籠った熱を冷ましながら、思考と感情の断片たちを一つずつ畳んでいくための時間稼ぎが必要で――そうでもしないと、大事なものを取りこぼしてしまったり、あるいは二度と戻らない歪みができてしまうという予感がしたから。

  [newpage]

  現実は非情で残酷だった。

  家に帰るなりぼくはこっぴどく叱られた。親に帰る時間を伝えないまま、悪びれる様子もなく「ただいま」と口に出してしまったものだから、その呑気さを激しく糾弾されてしまった。されてしまった、といったけれど、悪いのは当然ぼくの方だ。夜ご飯食べて帰ります連絡は忘れずにしたのに、詰めが甘かった。それでは夕食後に何かあったんじゃないかと無用な心配を生むのも、自明の理というやつだ。

  「お風呂は今日はなし。入りたいなら明日の朝早起きしてシャワーにしなさい」

  「はい……」

  ぼくは、今後は二度と同じ心配をかけまいと深く反省をして、二階の自室へ上がった。

  電気も、エアコンさえもつけずに、吸い込まれるようにベッドへ倒れ込んだ。

  先に着替えなきゃ。頭では理解しつつ実行できないのは、今日が旧友と再会できた特別な日で、たくさんの刺激をもらったことによるエネルギー切れだからではなくて、単にぼくがズボラなだけだ。叱られたのもちょっとある。けど、こうなるのは日常的。珍しいことではない。

  着替えるよりも先にやっておきたいことがある、というのも後回しの弁の一つだ。

  カミタニのやつ、自転車間に合ったかな。その先、ぼくと同じように叱られていないといいけれど……。同じ目に遭ってたとして、カミタニなら窮地をどう切り抜けただろうか。いやいや、そもそもリスクを事前に察知して回避するのがあいつ流のやり方だよな、とか。そんなふうに、再び、カミタニのことを考えていた。整理が足りないのか、頭がぐるぐるする。堂々巡りはいつだってぼくの側だ。

  (今日はよかったな。最後のも……)

  ……気が昂っているのか、まだ上手く言葉に置きかえられない。そのくせぼくはスマホを手にして、先にやりたいこと――カミタニへお礼の連絡をしようと、真っ白なトーク画面を開いていた。

  なんて書こうか。

  うーん。ありすぎて、必要な要素を抽出していくとロボットの考えた文になりそうだった。

  あまり長くなりすぎるのも良くないな。短くまとめることを意識して、文章を[[rb:認 > したた]]める。

  今日はありがとう!楽しかった!

  服選びもご飯もその後の散歩もよかったよ

  アレだけは悪用厳禁で、僕たちだけの秘密でね笑

  カミタニもタイプでいい男の人、早く見つかるといいね

  近いうちにまた遊ぼう、今日はおやすみ

  短くまとめたつもりが五行……。仕方ない。単発で送りつけるよりもワンブロックの方がいいと判断し、送信マークをタップする。

  メッセージを送った瞬間、背筋を冷たいものが撫でた。走るというほどではなかった。しかし、ひやっと驚いた。というのも、送信と同時に既読マークがついたからだった。

  (今この画面の向こうにカミタニがいる!)

  焦ってトーク画面を閉じてしまった。送る心づもりはできていたけれど、受け取る準備はできていなかった。

  カミタニもぼくに何か伝えようとしてくれて、それで文字を打っている最中か。ぼくが先に送ってしまったことで、書き直しをさせていたとしたら申し訳ない。

  どぎまぎを紛らせるためにも、返信が来る間に着替えを済まそうと身を起こした。

  しかし、着替えを終えてもカミタニからの返信はなかった。

  ぼくは眠たくなる前に、顔を洗って、歯磨きを済ませて、就寝の準備を済ませた。それでもなお、返信がないままに、とうとう日付が変わってしまった。

  (寝落ち? たくさん話して疲れさせちゃったかな)

  スマホをチェックするたびにモヤモヤが増幅するので、諦めて眠ることにした。

  目を瞑ると、嘘みたいな半日が、早速記憶の表層で煌めきを放ち始める。久しぶりに呼んでもらったあだ名の響きや、選んでもらった服の感触や、フードコートで食べた物たちの味や香り。カミタニの優しい目と声で、輪郭が作られていくぼくの一面と、その受容。イブキとの懐かしい思い出もそうだ。相性診断で手を繋いだぬくもりに、抱きしめられて抱きしめ返した時の熱。肩で感じた声帯の振動もよかった。……カミタニの太く硬かったアレの感触も。

  一度に受け止めきれない宝ものたちが、無造作に仕舞った引き出しの中から、わーっと溢れ始める。無理に片付けようとしなくていい――そうやって、自由に頭の中を駆け巡らせているうちにぼくは眠りに落ちていた。