失くしたくない

  「はぁ…はぁ……」

  俺は今、駅の周辺を歩き回っている。

  千秋さんが仕事だった為、駅前で待ち合わせてのディナーデートだったのだが、昼寝をしていたら時間が迫っていて、必死に駅まで走ってきたのに、肝心の千秋さんの姿が全く見えない。

  どこだ…どこだ。

  もうすぐ時間になってしまう。

  千秋さんは普段から、時間に限らず約束を守ることを大切にしている。

  遅れてしまったら、楽しいデートや美味しい夕食の前にお尻が痛くなってしまう。

  必死に足を動かしていたら、不意に腕を掴まれた。

  千秋さんかと思って振り返った瞬間、胸が冷え、顔から血が引く。

  「君、Subだよね

  綺麗な顔してるねぇ。」

  ベタベタと腰や身体を触られて、息を詰めた。

  「やめ…っ」

  振り払おうとしても力に勝てず、せめてもの抵抗として顔を背ける。

  「もっとよく見せてよ。

  ねぇ、近くにホテルあるんだ、行かない?」

  「ひ…」

  下半身を触られ、ぞっとして瞬時に相手の靴を踏み付けた。

  「ぃ"…!」

  相手が掴んでいた手を離した隙に距離を取る。

  「っこの……“Kneel”!」

  強いGlareとCommandに、身体がびたんと動かなくなる。

  辛うじて息は出来ても、胸さえ圧迫されている感覚に顔を歪めた。

  「くそ、効かねぇのか。

  “Come”」

  Commandに身体が動こうとするのを、理性で抑え付ける。

  「っおい、クソガキ」

  立ち上がった男が、乱暴に俺の髪を掴んだ。

  「っ……っ」

  声も出せない圧力と気分の悪さ。

  俺の身体をまさぐるその手に、涙がこぼれた時……──

  「……貴和、“Come”。」

  一番欲しかった声に、俺は男を振り払って千秋さんの元へ走った。

  胸に飛び込んだ俺を受け止めて、千秋さんは強いDefenseを男に放つ。

  「人のものに、何してる?」

  千秋さんの静かな声に、俺はガタガタと震えるしか無かった。

  それ程に恐ろしい威圧を含んだ声。

  千秋さんは震える俺の背中や腕を擦りつつ、男から目を離さない。

  「聞いてるんだ、答えろよ。」

  滅多に聞かない千秋さんの荒い口調に、強い怒りを感じた。

  視線の先の男は強過ぎるDefenseに吐いて、蹲っている。

  「……何のつもりか知らないが、」

  千秋さんは俺を離してその男に近付いていく。

  男の髪を掴み上げ、千秋さんが何か囁くと、男はもう一度吐いて、フラフラとどこかへ歩いていった。

  「…貴和」

  1度深く深呼吸してから俺を見たその目には、もう怒りは残されていなかった。

  深い心配と僅かな不安に煌めいたその瞳を美しいと思うのは、おかしなことだろうか。

  そっと千秋さんに歩み寄り、その胸の中に収まると、千秋さんは優しく俺を抱き締めた。

  「……ちゃんと場所を教えなくてごめん…

  こんなことになるなら家まで帰ればよかった」

  聞いているこっちが苦しくなるくらい、切なく掠れた声で呟く千秋さんは、震える唇で優しく俺の瞼にキスをした。

  反射で目を閉じた拍子に、溜まっていた涙が頬を滑る。

  「Dropは起こしてない?」

  千秋さんの言葉に静かに頷く。

  「良かった…ごめんね、貴和……

  愛してる」

  付け加えたようにも思えたその言葉は、俺の胸に甘く、苦しく染み渡る。

  それでも同じ言葉を返すのは、互いが依存しているから。

  言葉にすることで、信じたいんだ。

  まだ貴方がここに居てくれていることを。

  まだ離れていないことを。

  願わくば永遠に寄り添ってくれることを…。

  こんなにも気持ちは溢れるのに、どうして不安になってしまうのだろう。

  その答えはきっと、見つからない。

  だからこれからも愛を囁き、そうすることで確かめるしかない。

  それでもいい。

  貴方といられるのなら、貴方の笑顔を見れるなら。

  貴方の隣で笑うことを、まだ許されているのなら。

  「……デート、今日は辞めておく?」

  千秋さんのこちらを伺うような言葉に、俺は少し笑った。

  「俺、結構楽しみにしてたんですけど」

  「貴和が行きたいなら、喜んで案内させてもらうよ。」

  あぁ、そうだ。

  貴方はその顔が似合ってる。

  不安げな顔など、似合わない。

  だけど、その不安な顔こそ、本当の貴方なんだろうな。

  千秋さん、俺の前で素を出してくれてありがとう。

  弱さを抱え込まないでくれてありがとう。

  頼ってくれてありがとう。

  俺もいつか同じように振る舞えたなら。

  貴方に弱さや醜さも見せることが出来たなら。

  少しは対等になれるのかな。

  くぅ〜。

  二人のお腹が同時になる。

  「……フ、、フフフ笑」

  「ははは笑」

  「まずは、ご飯にしようか。

  おいで、貴和。」

  差し伸べられたその手を握った瞬間、頭の中に渦巻いていた不安も心配も描いた未来も、全て消えてなくなった。

  今から未来を描いても、その通りになるとは限らない。

  これから先、何が起こるかなんて誰にも分からない。

  それなら、今を精一杯生きることが、俺達に出来る唯一の事なんじゃないだろうか。

  例え進む道が間違っていたとしても。

  例え躓いて転んだとしても。

  隣に貴方がいてくれるのなら、きっと俺は何度でも立ち上がれる。立ち向かえる。

  だから、千秋さん。

  どうか、俺の隣でずっとずっと、笑っていてください。

  愛してます、心から。

  END