檻の中の灰青

  [chapter:檻の中の灰青 ]

  テツジ・ロックハートは、子供の泣き声が嫌いだった。

  正確に言えば、泣いている子供そのものが嫌いなわけではない。泣いている子供を前にしたとき、自分がどういう顔をすればいいのかわからない。それが嫌だった。

  

  「第三班、突入準備完了」

  「待機。合図まで撃つな」

  

  耳元の通信に短く返し、テツジは倉庫の鉄扉を見上げた。

  港湾第七区画、旧貨物ブロック。表向きは廃棄部品の保管庫。実態は、違法人身売買組織の中継倉庫。統合治安局が三か月追っていた案件の、ようやく尻尾を掴んだ現場だった。

  テツジは四十二歳。統合治安局・強襲執行部隊第三班の班長。突入、制圧、拘束、確認。そういう仕事なら慣れている。

  だが、保護対象の慰め方だけは、何年やっても慣れなかった。

  

  「突入」

  

  短い命令と同時に、鉄扉が内側へ弾けた。

  白い閃光。低い破裂音。床を踏むブーツの音。隊員たちが倉庫内へ散り、武装した見張りを次々と押さえていく。

  テツジは銃口を下げすぎず、上げすぎず、奥へ進んだ。積まれたコンテナ。鉄製の棚。古い冷却装置。番号の振られた檻。

  その一つの中で、小さな影が動いた。

  狼獣人の子供だった。

  [uploadedimage:24778817]

  「獣人か……」

  

  それ自体は珍しくない。大戦以前の遺伝子改造兵をルーツとするらしいが、そんなことはどうでもいい。港湾区の作業員にも、治安局の隊員にも、耳や尻尾を持つ者はいくらでもいる。

  だが、檻の中で番号を振られている子供となれば話は別だった。

  灰色とも、水色ともつかない淡い毛並み。薄汚れた耳が伏せられ、細い尻尾が体に巻きついている。少女は膝を抱え、こちらを見ていた。

  

  「おい! 大丈夫か! 聞こえるか!?」

  

  少女はぼんやりとした虚ろな瞳でこちらを見ている。うなずいたようにも、無反応のようにも見えた。

  檻の横には、白い塗料で雑に番号が書かれていた。

  

  SI-0472。

  

  鍵は何の変哲もない南京錠だった。構成員を締め上げるか、事務所を漁れば鍵も出てくるのだろう。だが、まどろっこしい。

  

  「おい。……お前、鍵を壊す。伏せてろ」

  

  そう言うと、隅で丸まっていた少女は顔を背け、両手で頭を覆った。

  なんだ、ちゃんと聞こえているじゃないか。テツジは少しだけ安堵し、錠前に向けてハンドガンを構えた。

  乾いた銃声が倉庫に響く。何発目かで錠前が跳ね、鈍い金属音を立てて割れ落ちた。

  

  「よし。……大丈夫か」

  

  檻の奥へ入り、少女の近くで腰を落とす。少女は逃げなかった。

  逃げなかった、というより、逃げるという選択肢がどこかに落ちてしまっているようだった。

  灰青色の耳は伏せられたまま、尻尾も膝の下に巻き込まれている。目だけが、ぼんやりとこちらを見ていた。怯えも、怒りも、助けを求める色も薄い。ただ、何かが起きているのを、遠くから眺めているような目だった。

  

  「……歩けるか」

  

  返事はない。

  

  「痛むところは」

  

  やはり返事はない。

  テツジは舌打ちしかけて、やめた。子供相手に舌打ちしてどうする。そう思ったからではない。たぶん、今のこの少女には、舌打ちすら命令か罰の前触れに聞こえる。

  面倒だな、とテツジは思った。子供は面倒だ。怪我人も面倒だ。保護対象はもっと面倒だ。

  だが、面倒だから放っておいていい、という規則はどこにもない。

  

  「よし。聞こえてるなら、そのままでいい」

  

  テツジは銃をホルスターに戻し、自分のコートを脱いだ。裏地に防刃繊維の入った、重くて無骨な局支給品だ。子供にかけるにはいささか物騒な代物だったが、少なくとも少女の着ている布切れよりはましだった。

  

  「動くな。かけるだけだ」

  

  少女の肩にコートをかける。その瞬間、少女の耳が小さく震えた。

  拒まれはしなかった。喜ばれもしなかった。ただ、コートの重みを確かめるように、少女はゆっくりと視線を落とした。

  

  「寒いか」

  

  答えはない。

  

  「腹は減ってるか」

  

  答えはない。

  

  「名前は」

  

  答えはない。

  テツジは檻の外に書かれた番号をもう一度見た。

  

  SI-0472。

  

  「……シオ」

  

  少女の耳が、ぴくりと動いた。

  テツジは眉をひそめる。

  

  「お前のことだ。今だけな」

  

  少女は、ゆっくりと顔を上げた。初めて、こちらを見た、という感じがした。

  

  「シオ。立てるか」

  

  少女はしばらく黙っていた。それから、力の入らない手で床を押した。

  立てなかった。膝が震え、すぐに崩れそうになる。テツジは反射的に腕を伸ばし、少女の肩を支えた。

  

  「無理するな。担ぐ」

  

  少女の体が、わずかにこわばった。

  

  「暴れるな。落とす」

  

  言い方が悪い。自分でもそう思った。だが、他に言葉が出てこない。

  テツジは少女を抱き上げた。

  軽かった。軽すぎた。その軽さに、胸の奥が少しだけざらついた。

  

  「班長、奥の区画クリアです」

  「保護対象一名。医療班を呼べ」

  

  通信に返しながら、テツジは檻を出る。

  その時だった。少女の指が、テツジの戦闘服の胸元をつかんだ。

  ほんの少し。布に爪を引っかける程度の力だった。

  テツジは足を止めた。

  

  「……なんだ」

  

  少女は何も言わない。ただ、放したくないものを見つけたみたいに、弱い力で服を握っている。

  テツジは数秒、黙った。それから短く言った。

  

  「離すな」

  

  少女の指に、ほんの少しだけ力が入った。

  

  「外に出る。眩しいぞ」

  

  返事はなかった。だが、少女は今度は目を閉じなかった。

  テツジの胸元を握ったまま、倉庫の白い照明の下へ連れ出される。隊員たちが道を空けた。誰かが毛布を持ってきた。誰かが「大丈夫だよ」と言った。

  少女は、その声には反応しなかった。

  ただ、テツジの服だけは離さなかった。

  

  「……俺は保護担当じゃないんだがな」

  

  テツジがぼそりと言うと、少女の耳がまた小さく動いた。

  聞こえている。それだけは、わかった。

  [newpage]

  数日後。

  統合治安局・強襲執行部隊第三班のオフィスは、昼下がり特有のだらけた空気に沈んでいた。

  壁一面の大型モニターには、港湾第七区画での押収品リストが並んでいる。机の上には報告書、使用済みの弾薬申請、破損装備の補填申請、医療班からの経過報告。

  そしてテツジ・ロックハートの前には、真新しい局支給コートが一着、きちんと畳まれて置かれていた。

  

  「来たぞ、班長。新品のパパコート」

  

  部下の一人が、書類束を抱えたまま言った。

  

  「誰がパパだ」

  

  テツジは顔を上げずに返した。

  

  「申請理由、見ましたよ」

  「見るな」

  「“保護対象の心身の安定のため、現場用防護コート一着をやむなく譲渡。医療班指示書添付”」

  「読むな」

  「いやあ、堅い文章なのに中身がほっこりしてるの、初めて見ました」

  

  オフィスの奥で誰かが吹き出した。テツジはペンを止め、ゆっくりと顔を上げる。

  

  「仕事しろ」

  「してますよ。班長の父性を観察する仕事を」

  「そんな仕事はない」

  

  強襲執行部隊第三班は、普段なら冗談のひとつで空気が緩むような部署ではない。武装組織の拠点に突入し、密売ルートを潰し、人質を救出し、時には半日以上防弾車の中で待機する。そういう仕事をする連中だ。

  だが今回は、事情が少し違った。

  港湾第七区画の倉庫から保護された狼獣人の少女。檻の番号から、テツジが雑に「シオ」と呼んだ子供。その少女が、現場離脱の際、テツジからまったく離れようとしなかった件で、第三班はここ数日妙に楽しそうだった。

  

  実際、面倒なことになった。

  倉庫の外で医療班と合流したあと、テツジは当然のように少女を引き渡そうとした。負傷確認、栄養状態の検査、保護施設への移送。そのあたりは医療班の仕事だ。

  テツジは戦闘服の胸元を握ったままの少女を見下ろし、なるべく刺激しないように言った。

  

  「シオ。医療班に行け」

  

  少女は動かなかった。

  

  「怪我を診てもらうだけだ」

  

  動かない。

  

  「すぐ終わる」

  

  動かない。それどころか、テツジの首元に回された細い腕に、かすかに力が入った。

  医療班の女性隊員が、できるだけ柔らかい声で話しかけた。

  

  「大丈夫。痛いことはしないから、こっちに来られる?」

  

  少女は返事をしなかった。ただ、テツジの胸に顔を押しつけるようにして、さらに動かなくなった。

  テツジは無言で天を仰いだ。

  

  「班長」

  

  横にいた副班長が、肩を震わせていた。

  

  「笑うな」

  「笑ってません」

  「肩が揺れてる」

  「戦闘後の震えです」

  「撃つぞ」

  「私用の発砲は規則違反です、パパ」

  

  その場にいた隊員の何人かが、同時にむせた。

  結局、テツジは少女を抱えたまま救急搬送車両の前まで行く羽目になった。医療班が担架を用意する。しかし少女は降りない。膝を曲げて座らせようとしても、テツジの服を握った指が離れない。

  

  「シオ」

  

  テツジは低く呼んだ。少女の耳だけが、ぴくりと動く。

  

  「検査を受けろ。飯も出る。毛布もある。ここよりましだ」

  

  反応は薄い。

  

  「俺はこれから報告書だ。お前を抱えたまま書く気はない」

  

  少女は顔を上げた。虚ろだった目に、ほんの少しだけ焦点が戻る。

  

  「……いく?」

  

  かすれた声だった。

  テツジは一瞬、返事に詰まった。周囲の視線が痛い。

  

  「行く。仕事だ」

  

  少女の指が、また弱く服を握った。

  テツジは眉間にしわを寄せる。子供の相手は嫌いだ。正確には、子供が何を恐れて、何を信じているのか読み取れないのが嫌いだ。

  だから、余計なことは言わないことにした。

  

  「後で顔を出す」

  

  少女が、じっとテツジを見た。

  

  「本当?」

  「ああ」

  「後で?」

  「後でだ」

  「来る?」

  「来る」

  

  答えた瞬間、背後の同僚たちが妙に静かになった。テツジは振り返らなかった。振り返れば絶対にろくでもない顔が並んでいるとわかっていた。

  

  「だから、今は医者の言うことを聞け」

  

  しばらくして、少女の腕から力が抜けた。医療班の隊員がそっと受け取る。それでも少女は、テツジのコートだけは離さなかった。

  

  「それは俺のだ」

  

  少女はコートの襟を両手で握りしめた。

  

  「返せと言ってる」

  

  少女は無言で、コートに顔を埋めた。

  医療班の女性隊員が、口元を押さえて笑みを隠した。

  

  「ロックハート班長」

  「なんだ」

  「しばらく貸してあげたほうが、落ち着くと思います」

  「局の備品だぞ」

  「では、医療上の必要ということで」

  「そんな必要があるか」

  「ありますね」

  

  医療班の隊員は、にこにことしたまま言った。

  

  「かなり」

  

  その結果が、今、テツジの机の上にある新品のコートだった。

  補給課は最初、渋った。当然だ。現場用防護コートは安くない。紛失なら始末書。破損なら状況報告。譲渡など、本来なら申請項目にすら存在しない。

  仕方なくテツジは医療班に指示書を書かせた。

  医療班の部屋に行ったときも、ひどかった。

  

  「コートの申請書ですか?」

  「もとはといえばお前らの提案だろ。責任を取れ」

  「まあ」

  「その顔をやめろ」

  「いえ、素敵だなと」

  「やめろと言ってる」

  「指示書の文面はどうします? “父性的接触物品による情緒安定効果を確認”とか」

  「書いたら破る」

  「では、“保護者代替対象の所持品保持により不安軽減”で」

  「俺は保護者じゃない」

  「代替です」

  「なお悪い」

  

  そうして出来上がった指示書は、妙にもっともらしい医療用語で満たされていた。そのせいで補給課は何も言えず、新しいコートを支給した。そして第三班には、その話が余すところなく伝わった。

  

  「で、班長」

  

  副班長が椅子の背にもたれながら言った。

  

  「今日も行くんですか。シオちゃんのところ」

  「経過確認だ」

  「保護対象への面会ですよね」

  「経過確認だ」

  「手土産は?」

  「いらん」

  「医療班から連絡来てましたよ。シオちゃん、昨日より少し食べたそうです。班長が来るって言ったら」

  

  テツジはペンを握る手を止めた。

  

  「……誰がそんな連絡を」

  「医療班全体です」

  「暇なのか、あいつらは」

  「嬉しかったんじゃないですか。あの子、ほとんど反応なかったんでしょう」

  

  その言葉に、オフィスの空気が少しだけ落ち着いた。

  テツジは返事をしなかった。代わりに、新しいコートを手に取る。重さは前と同じだ。色も形も、何も変わらない。

  なのに、妙に落ち着かない。

  

  「古いほうは」

  

  副班長が言った。

  

  「まだ返ってこないそうです」

  「知ってる」

  「抱いて寝てるとか」

  「……」

  「班長の匂いがするから安心するんじゃないですか」

  「黙れ」

  「はいはい、パパ」

  

  テツジは無言でペンを投げた。副班長は慣れた動きで避けた。

  オフィスにまた笑いが起きる。

  テツジは新しいコートを羽織り、襟元を整えた。それから机の上の端末を操作し、今日の面会許可証を表示させる。

  

  「経過確認に行く」

  「はい、経過確認」

  「仕事だ」

  「もちろんです、パパ」

  「次に言ったら減給申請を出す」

  「職権乱用です」

  

  テツジは答えず、オフィスを出た。

  廊下に出る直前、背後からまた声が飛んだ。

  

  「班長」

  「なんだ」

  「ミルクプリン、医療棟の売店にありますよ」

  「……なぜ俺に言う」

  「経過確認に必要かと思いまして」

  

  テツジは数秒だけ黙った。

  

  「甘いものを食える状態か、医療班に確認してからだ」

  

  そう言ってから、自分がすでに買う前提で話していることに気づいた。

  背後で、また笑い声が上がる。

  

  「やっぱりパパじゃないですか」

  「黙れ!」

  

  テツジの声が廊下に響いた。

  だがその足は、医療棟の売店へ向かっていた。

  [newpage]

  [chapter:コートと子守]

  医療棟の病室に顔を出すのは、これで四度目だった。

  最初は経過確認。二度目は追加の事情聴取。三度目は、医療班から「来たほうが食べます」と呼ばれたから。

  そして四度目の今日は、理由を考えるのが面倒になった。

  テツジは片手に小さな紙袋を提げ、もう片方の手で病室の扉を軽く叩いた。

  

  「入るぞ」

  

  返事を待つ前に開ける。

  

  「テツジさん、こんにちは。いいお天気ですね」

  

  ベッドの横に座っていた女医が、にっこりと微笑んだ。

  病室はカーテンが開けられ、穏やかな日差しが入り込んでいる。白い壁も、清潔なシーツも、窓際の観葉植物も、倉庫の薄暗さとはまるで違っていた。

  

  「ああ」

  

  テツジは短く返し、病室の中央へ目を向けた。

  ベッドの上には、シオが座っていた。

  小さな体に病院着。灰色とも水色ともつかない淡い毛並みは、洗われたことで少しだけ柔らかく見える。耳はまだ伏せ気味で、尻尾は毛布の下に隠れている。

  膝の上には、あの黒い防護コートが丸めて置かれていた。

  局支給の備品。現場用の防護繊維入り。本来なら、こんな病室のベッドの上で、狼獣人の少女に抱えられているような代物ではない。

  シオはそれを両手で抱えたまま、じっとテツジを見ていた。

  

  「……何だ」

  

  テツジが言うと、シオは答えなかった。ただ、コートの襟を握る指に、少しだけ力が入る。

  

  「朝からずっと、入り口を見ていましたよ」

  

  女医が楽しそうに言った。

  

  「俺が来るとは言ってない」

  「昨日、帰り際に“また来る”とおっしゃいました」

  「予定が空けば、だ」

  「シオちゃんには、十分な約束だったみたいです」

  

  テツジは眉間にしわを寄せた。

  

  「医者なら、そういう重い言い方をやめろ」

  「医者なので、事実を言っています」

  

  女医は笑顔のまま、カルテ端末を閉じた。

  

  「状態は?」

  「少しずつ安定しています。睡眠は浅いですが、昨日よりは長く眠れました。食事も、量はまだ少ないですけど、あなたが来た日は進みます」

  「俺の管轄じゃない」

  「でも実績があります」

  「実績とか言うな」

  

  テツジはベッド脇の椅子を見た。女医が当然のように席を空ける。

  

  「どうぞ」

  「座るとは言ってない」

  「立ったままだとシオちゃんが見上げることになります」

  

  テツジは数秒だけ黙り、結局椅子に腰を下ろした。シオの視線が、少しだけ下がる。それだけで、張りつめていた空気がわずかにゆるんだように見えた。

  

  「シオ」

  

  耳が動いた。

  

  「飯は食ったか」

  

  シオは黙っている。

  女医がサイドテーブルのトレーを指差した。薄いスープと柔らかいパン、栄養補助のゼリー。どれも半分ほど残っている。

  

  「残ってるじゃないか」

  

  テツジが言うと、シオは視線だけをトレーへ向けた。それから、またテツジを見る。

  

  「食え」

  

  短い命令だった。慰めでも、励ましでもない。

  それでもシオは、ゆっくりとスプーンを手に取った。

  女医が目を細める。

  

  「ほら」

  「ほら、じゃない」

  「すごいですね」

  「俺は何もしてない」

  「今しました」

  

  テツジは黙った。

  シオはスープを少しすくい、口に運ぶ。味わっているというより、言われたから動いているような食べ方だった。

  だが、それでも食べた。

  

  「……よし」

  

  つい、そんな言葉が出た。

  シオの耳が、ほんの少しだけ起きた。

  テツジはそれに気づかないふりをして、紙袋をサイドテーブルに置いた。

  

  「それと」

  

  女医の目が、わかりやすく細くなる。

  

  「まあ」

  「その顔をやめろ」

  「今日は何を?」

  「売店にあった。獣人用のミルクプリンだ。狼系でも問題ないと確認は取ってある」

  「完璧ですね」

  「確認しただけだ」

  「誰のために?」

  「経過確認のためだ」

  

  女医は口元を押さえた。

  

  「チョコは?」

  「狼系にチョコを渡す馬鹿がどこにいる」

  「お詳しいですね」

  「売店の札に書いてあった」

  「読んだんですね」

  「黙れ」

  

  シオは紙袋を見ていた。ぼんやりしていた瞳の奥に、ほんの少しだけ、別の色が混じる。

  

  「……プリン」

  

  かすれた声だった。

  テツジは一瞬だけ動きを止めた。シオのほうから何かを言うのは、まだ珍しい。

  

  「食えるならな」

  

  シオは小さくうなずいた。

  女医が手際よく容器を開け、小さなスプーンを渡す。シオはコートを片腕で抱えたまま、もう片方の手でスプーンを受け取った。

  

  「コートを置けば食いやすいだろ」

  

  テツジが言うと、シオはコートを抱く腕に力を込めた。

  

  「……や」

  「取らん」

  

  シオはじっとテツジを見た。

  

  「返せとは言ってない。食う間くらい、横に置けと言ってる」

  

  シオは少し考えた。それから、コートを自分のすぐ横に置いた。だが、片手はまだ襟を握っている。

  

  「それでいい」

  

  テツジが言うと、シオはプリンをひと口食べた。

  小さな沈黙。次に、もうひと口。

  女医が満足そうにうなずく。

  

  「気に入ったみたいですね」

  「なら食え」

  

  シオはまたひと口食べた。無表情に近い。けれど、耳はさっきより少しだけ起きている。

  テツジは腕を組み、ベッド脇に座ったまま黙ってそれを見ていた。

  

  「テツジさん」

  「なんだ」

  「お父さんみたいですね」

  「違う」

  

  即答だった。

  シオの耳が、ぴくりと動く。

  テツジはその反応に気づかないふりをした。女医は気づいていたが、何も言わなかった。ただ、にこにことしている。

  

  「……その笑顔をやめろ」

  「いえ、いい経過だと思いまして」

  「俺を経過に含めるな」

  「含まれていますよ。かなり重要な要素として」

  

  テツジは深く息を吐いた。

  病室の中は暖かい。窓の外では、医療棟の中庭に植えられた木が風に揺れている。シオはゆっくり、ゆっくりとプリンを食べていた。

  倉庫で見つけたとき、彼女は何も求めなかった。逃げもしなかった。助けてくれとも言わなかった。ただ、そこにいた。

  今も、表情は薄い。声も少ない。けれど、スプーンは動いている。テツジの古いコートを横に置き、時々それを確かめながら、少しずつ食べている。

  それだけで、まあ、来た意味はあったのかもしれない。

  そう思いかけて、テツジは内心で舌打ちした。

  甘い。考え方が甘い。これは経過確認だ。仕事だ。保護対象の状態把握だ。

  

  「全部食えとは言わん」

  

  テツジは言った。

  

  「食える分だけ食え。吐くほど詰め込むな」

  

  シオは小さくうなずいた。

  

  「……うん」

  

  その返事を聞いて、女医がまた笑う。

  

  「何だ」

  「いえ。いい声が出ましたね」

  「俺に言うな」

  「テツジさんが来ると、出るので」

  「だから俺の管轄じゃないと言ってる」

  

  しばらくして、シオはプリンを半分ほど食べた。女医はそれを見て、十分だと判断したらしい。

  

  「今日はここまでにしましょう。無理に食べる必要はありません」

  

  シオはスプーンを置いた。すぐにコートを抱え直す。

  テツジは腕時計を見た。そろそろ戻らなければならない。報告書も残っているし、押収品の確認も終わっていない。

  

  「俺は戻る」

  

  その一言で、シオの指が止まった。

  コートの襟を握る手に力が入る。耳が、また少し伏せた。

  テツジは、しまったと思った。言い方が悪い。だが他にどう言えばいいのかもわからない。

  

  「また来る」

  

  シオが顔を上げる。

  

  「……ほんと?」

  「ああ」

  「後で?」

  「後でだ」

  「明日?」

  「予定を確認してからだ」

  

  シオの耳がさらに伏せる。テツジは眉間を押さえた。

  

  「……来られる日は来る。約束できる時は、約束する」

  

  シオはしばらく考えた。それから、小さくうなずいた。

  

  「シオ、待つ」

  「待ちすぎるな。飯は食え。寝ろ。医者の言うことを聞け」

  「……うん」

  「コートは」

  

  シオの腕に力が入った。

  

  「洗濯くらいはさせろ。返せとは言わん」

  

  シオは女医のほうを見た。女医は優しくうなずく。

  

  「洗ったら、ちゃんと戻しますよ」

  

  シオは少しだけ迷ってから、コートを抱え直した。

  

  「……あとで」

  「はい。あとで」

  

  テツジは立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。シオの目が、その動きを追う。

  

  「シオ」

  

  テツジはベッドの横で一度立ち止まった。

  

  「次に来たとき、今日よりスープが減ってたら、また何か買ってくる」

  

  女医が顔をそらした。笑いをこらえているのが丸わかりだった。

  シオはテツジを見つめたまま、ほんの少しだけ首をかしげる。

  

  「プリン?」

  「毎回プリンとは言ってない」

  「プリン」

  「……考えとく」

  

  シオの尻尾が、毛布の下でかすかに動いた。布が小さく揺れる。

  テツジはそれを見なかったことにした。

  

  「じゃあな」

  

  病室の扉へ向かう。背後から、かすれた声がした。

  

  「……テツジ」

  

  足が止まった。初めて名前を呼ばれた。

  振り返ると、シオはコートを抱えたまま、ベッドの上で小さく座っていた。無気力で、表情は薄い。それでも、その目はまっすぐこちらを見ていた。

  

  「また」

  

  テツジは数秒黙った。

  

  「ああ。まただ」

  

  そう言って、病室を出る。

  廊下に出ると、扉の向こうから女医の柔らかな声が聞こえた。

  

  「よかったですね、シオちゃん」

  

  シオの返事は聞こえなかった。

  テツジは新しい防護コートの襟を直し、医療棟の廊下を歩き出す。

  売店の前を通り過ぎるとき、獣人用ミルクプリンの札が目に入った。

  テツジは足を止めた。

  

  「……経過確認用だ」

  

  誰に言うでもなく呟いて、プリンを二つ追加で買った。

  [newpage]

  [chapter:名前と約束]

  シオを保護してから、数週間が過ぎた。

  シオは目に見えて回復していた。最初は会話もままならなかったが、少しずつ言葉を返すようになった。食事も、今では普通に取れる。

  ただし、テツジの古い防護コートだけは手放さない。洗濯のときですら渋り、戻ってくるまで落ち着かない。

  そんなある日、テツジは医療棟の相談室に呼ばれた。

  白い部屋には、シオの担当医と行政の福祉担当官がいた。

  

  「シオちゃんの今後についてです」

  

  その時点で、テツジにはある程度察しがついていた。いつまでも入院させておくわけにはいかない。

  

  「彼女は身寄りがなく、戸籍もありません。退院後は施設に入るか、誰かに引き取ってもらうかになります」

  「軍の初等教育校はどうだ。全寮制で、実質孤児院みたいなもんだろ。獣人もぼちぼちいるし、友達もできる。将来も安泰だ」

  

  それが当然だと言わんばかりに語るテツジを見て、向かいに座る二人は苦笑した。

  

  「まあ、確かに我々も、通常ならその方向で進めます」

  「なら決まりだ」

  「ですが」

  

  担当医が、少し困った顔をした。

  

  「シオちゃんが拒否しているんです。頑なに」

  「はあ?」

  

  テツジは素っ頓狂な声を上げた。

  

  「子供がそういうのを嫌がるのは、別におかしくないだろ。それを説得するのがあんたらの仕事だし、これまでもそうしてきたんじゃないのか」

  「まあ、そうなんですが。あの子の場合、その……」

  「テツジさんのところに行くことを、強く希望しています」

  「……はあ?」

  

  相談室に、再びテツジの呆れた声が響いた。

  女医と福祉担当官は、困ったように顔を見合わせている。

  ちょうどそこでノックがあり、看護師に連れられてシオが部屋に入ってきた。

  

  「……」

  

  シオはいつものように、テツジの古い防護コートを抱えていた。新品の病衣よりも、その黒いコートのほうが似合うほど馴染んでいる。テツジを見るなり耳がぴくりと動いたが、すぐに女医の顔を見て、緊張したように立ち止まった。

  

  「シオちゃん、いらっしゃい。大丈夫よ」

  

  女医が優しく声をかけると、シオはコートの襟をぎゅっと握ってうなずいた。看護師が「後はお任せします」と言って去っていく。

  

  「さて」

  

  女医が話を切り出した。

  

  「テツジさんは、シオちゃんの里親になってくださるつもりはありますか?」

  「ない」

  

  即答だった。あまりにも早い。

  

  「俺は独り身だ。朝帰りも多いし、休みだって不定期だ。飯を作るのも下手だ。酒も飲む。掃除も得意じゃない。子守りなんかできるわけがないだろう」

  

  できるのはせいぜい戦闘訓練くらいだ、とテツジは吐き捨てるように言った。まるで自己評価の最低点を羅列するかのような勢いだった。

  女医が苦笑いを浮かべる。

  

  「でも実際に保護されてから今まで、一番近くで見てきたのはテツジさんですよ」

  「それは任務だったからだ」

  「ただの任務でプリンを買ってきたりしますか?」

  「……」

  「少なからず、シオちゃんのことが心配だったんじゃないですか?」

  「そこは否定しない」

  

  テツジは腕を組んだ。

  

  「だからこそ言ってんだ。シオ」

  

  突然名前を呼ばれて、シオがびくりとする。女医が目で促すと、シオは恐る恐る口を開いた。

  

  「シオ、テツジといっしょがいい」

  

  か細い声だった。けれど、はっきりと言葉は届いた。

  テツジは額を押さえた。

  

  「じゃあ聞くが、今のお前に何ができる?」

  

  シオは黙っていた。

  

  「お前は俺にくっついていれば安全だと思ってる。だが、それは違う。俺がいなきゃ飯も食えない、眠れない、歩けない。そんな状態のまま、俺のところへ来るな」

  

  相談室が静かになった。

  担当医も、福祉担当官も、口を挟まなかった。

  シオはテツジの袖をつかんだまま、小さく言った。

  

  「シオ、弱い?」

  

  テツジは一瞬だけ黙った。

  ここで優しい言葉をかけるべきだと、頭ではわかっていた。よく頑張っている。もう大丈夫だ。少しずつでいい。医療班なら、そう言うのだろう。

  だが、テツジの口から出たのは、もっと不器用な言葉だった。

  

  「弱い」

  

  シオの耳が、ぺたりと伏せた。

  担当医が何か言いかける。テツジはそれを手で制した。

  

  「今はな」

  

  シオが瞬きをする。

  

  「自分で飯を食え。自分で寝ろ。学校へ行け。自分の荷物くらい自分で持て。誰かにしがみつかなくても立っていられるようになれ」

  

  シオは何も言わない。

  

  「俺は弱い奴を引き取る気はない」

  

  言ってから、ひどい言い方だと思った。だが撤回はしなかった。

  シオは、しばらく黙っていた。それから、ゆっくり口を開く。

  

  「強くなったら?」

  

  テツジは嫌な予感がした。

  

  「何?」

  「シオ、強くなったら。テツジのところ、行ける?」

  「……」

  「一緒に住める?」

  

  テツジは担当医を見た。担当医は何も言わない。福祉担当官も、妙に静かに書類を見ている。

  逃げ場がない。

  

  「考えてやる」

  「住める?」

  「考えてやると言った」

  「強くなったら?」

  「自分で飯を食って、寝て、学校へ行って、まともに生活できるようになったらな」

  「強くなる」

  「話を最後まで聞け」

  「シオ、強くなる」

  

  シオの声は小さかった。だが、今までで一番はっきりしていた。

  テツジは、まずい、と思った。どう考えても、言葉の届き方を間違えた。

  担当医が、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。

  

  「目標ができましたね」

  「笑うところじゃない」

  「笑っていません」

  「笑ってる」

  

  福祉担当官が書類を一枚、テーブルの上へ置いた。

  

  「では、現実的な手続きについてお話しします」

  「まだ何かあるのか」

  「シオちゃんの正式登録名と、後見人の件です」

  

  テツジの眉間のしわが深くなった。

  

  「正式登録名?」

  「現在は仮称として“シオ”を使っています。本人もそれを希望しています」

  「やめろ」

  

  即答だった。

  シオの耳がまた伏せる。

  

  「シオ、だめ?」

  「だめじゃない」

  

  テツジは言ってから、少し困ったように目をそらした。

  

  「だが、それは名前じゃない。檻に書いてあった番号だ。SI-0472。俺が雑に読んだだけだ。そんなものを本名にするな」

  「……パパが呼んだ」

  「パパじゃない」

  

  テツジは反射で否定してから、固まった。

  

  「今、パパって言ったか」

  

  シオは答えない。ただ、コートの襟を握っている。

  担当医は口元を押さえていた。福祉担当官は書類を見るふりをしている。

  

  「テツジが呼んだ」

  「……それはそうだが」

  

  福祉担当官は静かに待っている。担当医は、にこにこしている。シオはまっすぐ見てくる。

  テツジはこめかみを押さえた。

  

  「シエラ」

  

  ほとんど口から勝手に出た。

  シオが首をかしげる。

  

  「シエラ?」

  「正式名だ。シオは愛称にすればいい。シエラなら、シオって呼べるだろ」

  「テツジも?」

  「……必要ならな」

  「シエラ」

  

  シオはゆっくり、その名前を口の中で転がすように言った。

  

  「シエラ・シオ?」

  「増やすな。シエラだ。シオは呼び名」

  「シエラ・ロックハート」

  「待て」

  

  テツジの声が低くなった。

  

  「なぜ姓まで決めた」

  

  福祉担当官が、ここぞとばかりに別の書類を差し出した。

  

  「その件ですが、後見人登録についてご説明します」

  「俺は保護者じゃない」

  「現時点では、ですね」

  「今後もだ」

  「シオちゃんの医療判断、進学手続き、行政上の保護者確認には、安定した後見人が必要です。軍の施設に入るにしても、身元保証があるほうが手続きは円滑です」

  「行政なら行政がやれ」

  「可能です。ただ、本人の心理的安定を考えると、テツジさんの関与を完全に切るのは望ましくありません」

  

  担当医が静かにうなずいた。

  

  「医療班としても同意見です」

  「お前ら、俺を追い込んでる自覚はあるか」

  「あります」

  「あるのか」

  

  シオが袖を引いた。

  

  「テツジ」

  「なんだ」

  「シオ、ロックハート、だめ?」

  

  その聞き方は卑怯だ。少なくともテツジはそう思った。

  断ればまた食べなくなるかもしれない。眠れなくなるかもしれない。そういう医学的な話を抜きにしても、目の前で袖をつかんでいる子供に「だめだ」と言い切れるほど、テツジは冷たい人間ではなかった。

  冷たい人間のつもりではあったが。

  

  「……書類上だけだ」

  

  担当医が笑った。

  

  「今、了承しましたね」

  「してない」

  「しました」

  「後見人だけだ」

  

  福祉担当官が書類をめくる。

  

  「後見人登録と養子登録、どちらも選択可能です。養子登録のほうが、今後の医療・進学・身元保証では安定します」

  「話を大きくするな」

  「制度上は、こちらのほうが自然です」

  「俺に父親をやれと?」

  「書類上は」

  「書類上だけで済むと思ってるのか」

  「済まないでしょうね」

  「言い切るな」

  

  シオは小さく言った。

  

  「シエラ・ロックハート」

  

  テツジはしばらく黙っていた。やがて、深く息を吐く。

  

  「……同居はしない」

  

  シオが顔を上げる。

  

  「今は、だ。お前は軍の施設に入る。飯を食って、寝て、勉強して、体を作る。俺の家には来ない」

  「強くなったら?」

  「考えてやる」

  「一緒に住む」

  「考えると言った」

  「シオ、強くなる」

  「普通に育てと言ってる」

  「強くなる」

  「聞いてたか?」

  

  シオは小さくうなずいた。たぶん聞いていた。ただし、テツジの意図通りには聞いていない。

  福祉担当官がペンを差し出した。

  

  「では、こちらに署名を」

  

  テツジはペンを受け取った。

  書類の上部には、正式登録名の欄がある。

  

  シエラ・ロックハート。

  

  その下に、愛称として小さく、シオ。

  テツジはしばらくその文字を見ていた。

  

  「……本当にいいのか」

  

  誰に聞いたのか、自分でもよくわからなかった。

  シオは、テツジの袖を握ったまま言った。

  

  「いい」

  「軍の施設に行くんだぞ」

  「うん」

  「俺の家じゃない」

  「うん」

  「俺は毎日は行けない」

  「うん」

  「飯は食え」

  「うん」

  「寝ろ」

  「うん」

  「教員と医者の言うことを聞け」

  「うん」

  「無理はするな」

  「強くなる」

  「そこだけ返事が違う」

  

  担当医が、とうとう小さく笑った。

  テツジは諦めたように署名した。ペン先が紙を走る音だけが、しばらく相談室に響いた。

  

  こうして、檻に書かれた番号から呼ばれた少女は、正式に名前を得た。

  

  シエラ・ロックハート。

  愛称、シオ。

  

  そしてテツジ・ロックハートは、書類上だけのつもりで、彼女の父親になった。