11話 イチ、歯医者へ行く (1) よせあつめ外伝28

  冒険者になるのならあらゆる苦痛に耐えなければいけない。歯痛以外は。

  これは19世紀前半のバルティゴ連邦で生まれた格言である。

  まだ歯科医療技術が発展途上にあった時代である。

  冒険者にとって虫歯は死活問題であった。

  そしてスウィートバウムの街にも歯痛に悩む少女がいた。

  「_____歯が、痛いんだ」

  我らが主人公。不屈の冒険者イチである。

  「あらあら。イチさん、歯磨きをサボっていましたね」

  女子寮ルーナハイムの居間でイチの悲痛な声を効いたミノタウロス族の女、ミュルガルデ・レーリッヒは苦笑した。

  気の毒に思いながらもいつも気丈なイチが悲痛な顔を浮かべているのにおかしさを感じてしまったのだろう。

  「ちゃんと磨いてる! ミュルガルデ。君の治癒魔法でどうにかできないか?」

  テーブルの上、イチのティーカップに入った紅茶があまり減っていない。

  歯が痛くて啜るのが辛いのだろう。

  「すみませんが治癒魔法では虫歯は直せませんよ。歯医者さんに行きましょう」

  治癒魔法はあくまで対象の回復力を高めるもので、繁殖した虫歯菌を駆除するような魔法はまだ生まれていない。

  「は、歯医者…………」

  イチの顔がわかりやすく暗くなった。

  歯医者を恐れているのだ。

  「なによ。あんた、歯医者が怖いの?」

  ソファで本を読み文字の読み書きを勉強していたハーフエルフのタオ・メイメイがイチたちの会話を耳に入れて意地悪い笑みを浮かべた。

  もうすぐ大烏の階級を目前にしているイチが歯医者を怖がっているのを小馬鹿にしている。

  ちなみにハーフエルフのタオ・メイメイは37歳だが純粋人族にして12歳の彼女はまだ子供の歯のほうが多い。

  歯医者にも行ったことがない。

  「馬鹿にするな! 怖くなんかない!」

  「どうかしらね」

  クスクス笑いながらタオ・メイメイは本に視線を戻す。

  イチは誤魔化すように紅茶を啜ったが、紅茶の熱が歯にしみたのか「いつっ!」と小さな悲鳴を漏らした。

  「イチさん。悪いことは言いません。明日にでも歯医者に行くべきです。虫歯はひどくなればなるほど治療が大変になると聞いてます。虫歯が原因で死んだ人だっているんですから」

  ミュルガルデは治癒魔法使いの道を進んでいるだけあって医療知識も人よりもある。

  虫歯を治すことはできないが、虫歯の怖さはよく知っていた。

  「死…………」

  イチの顔が面白いくらいに引き攣った。

  虫歯で死ぬというのはどういうことだろう?

  わからないが、とんでもなく苦しんで死にそうなのは想像できる。

  「わ、わかった。明日にでも行くよ…………」

  イチは自分の歯を治療する後ろ向きな決心を今固めた。

  「ひとりで行けるかしら? 痛くておしっこ漏らしちゃうんじゃない? あんた、よく漏らしてるし」

  「な、なんだと!!」

  メイメイの意地悪を聞いてイチは顔を真っ赤にして怒った。

  ミュルガルデが「メイメイ!」と語気を強くしたしなめる。

  「自分で言いたくはないが軍の拷問にも耐えたんだ! 歯医者なんか怖くない!」

  イチは強がって紅茶を一気に飲み干し、歯痛に顔を歪めながらもプンプン怒りながら階段をあがり部屋に引っ込んでしまった。

  「メイメイ。あまり意地悪を言ってはダメですよ。あなただっていつ虫歯になるか」

  残されたミュルガルデはタオ・メイメイを諭すように言った。

  「なによ。わたし、毎日2回は歯磨きしてるのよ。虫歯になんてならないもん」

  バルティゴ連邦都市国家歴19年2月8日月の日。

  このような一幕がイチたちの住むルーナハイムであった。

  あらかじめ断っておくが今回の話はただイチが歯医者に行くだけの話で終わる。

  敵との銃撃戦も、冒険のドラマも、興奮を掻き立てるピンチもない。

  ただ虫歯を治すだけの話である。

  しかし、当時の歯科医療の景色を書きながら歯痛と戦うイチの姿を小説にするのも面白かろうと思い、筆をとることにしたのである。

  ◆

  歯痛に悩む者は金や名誉よりも歯医者を求める。

  これも19世紀の格言である。

  後日、イチはスウィートバウムの冒険者通りでミュルガルデと待ち合わせた。

  お互い冒険の為の恰好ではなく、私服である。

  「すまないなぁ、ミュルガルデ。付き添いに来てもらって」

  「いいえ。私も歯科医療を見学できたら治癒魔法に活かせるかもしれませんし」

  そういうミュルガルデの言葉は本心ではあるのだろうが、イチの気を和らげてやりたい気持ちのほうが強いのだろう。

  イチもそれを察している。

  「ミュルガルデは優しいなあ。私はなんだか自分が情けないよ。歯医者が怖くて着いてきてもらうなんて」

  「わたしも少し意外でした。イチさんにも可愛いところ、あるんですね」

  「だって、歯医者ってドリルで歯を削るって言うじゃないか! そんなの拷問だよ! 正気の沙汰じゃないよ!」

  どうやらイチは歯医者の治療を他でどんなものか聞いており、その為恐ろしい想像をしてしまっているようだ。

  地下室のように薄暗い部屋で椅子に縛り付けられ、無理矢理開口具で口を開けられドリルで口内を蹂躙される悪夢のような治療。

  そんな未来を想像しているのかもしれない。

  「安心してください。どうやら最近は麻酔というものが広まりつつあるようです。少しお金はかかりますが、そこまで苦しいものではないはずですよ」

  「麻酔?」

  「痛みを無くす薬です」

  「すごいじゃないか! なんだ、怖がっていた自分がバカバカしいよ」

  イチは麻酔なる化学の賜物を知り顔を明るくさせた。

  痛みがないのならどんな治療でも怖くない。

  それにしても便利なものが生まれたものだと感心している。

  「まったく。医療技術の発達はスゴイですね。そのうち治癒魔法が要らなくなってしまう日も来てしまうかもしれませんね」

  ミュルガルデはそう言って苦笑した。

  この時ミュルガルデは冗談めかして言っているが、事実として我々が知る現代では治癒魔法で医療行為を行う医療機関は殆ど存在していない。

  科学の進歩によって魔法が衰退してゆくのは後の世の我々にとっては常識だが、まさにミュルガルデたち魔法使いが活躍していた19世紀初頭は魔法という力が黄昏に差し掛かっている時代でもあった。

  「さあ、行きましょう。予約の時間に遅れないようにしないと」

  「よし。行こう!」

  歯医者に怖がっていたことなどすっかり忘れたのか、イチは虫歯の痛みから解放される事に喜びむしろ足を軽くさせ足を進めた。

  しかし、その考えが甘いという事を思い知らされるとはこの時のイチは思いもよらなかったのである。