私は放課後の空き教室で、同じクラスの[[rb:三代川 > みよかわ]]さんのグループに囲まれていた。
三代川さんのグループはクラスの中ではカーストが最上位にある女子グループで、私のことが気に食わないらしく、私にたびたび嫌がらせをしてくるのだ。
「ちょっと、[[rb:莉 > り]]子、聞いてんの?」
三代川さんに名前を呼ばれて、私は身体をビクッと震わせる。私は三代川さんに嫌なことをされすぎて、彼女の声を聞くだけで、身体が震えるようになってしまった。
「いいから服を脱いで。ちょっと脱いだら、帰っていいから」
三代川さんは女子にしてはドスの利いた声で私に命令する。
「ええ、でも……」
「ちょっと脱ぐだけだって。いいじゃん。減るもんじゃないでしょ」
このまま拒否し続けると、三代川さんに何をされるかわかったのもではない。
私はブレザーを脱ぎ、震える手で下に着ているシャツのボタンを上から外していく。
すると、三代川はさんはスマホを取り出し、シャツの前を開けた私の姿を写真に撮り始めた。
「え!? ちょっと!?」
私は胸元を押さえる。
三代川さんは勝ち誇ったような顔で、
「この写真をばら撒かれたくなかったら、これからもあたしらに従うことね」
と言い残して、他の女子たちを伴って、教室から去っていった。
私は絶望して、その場に崩れ落ちる。
どうして、私は三代川さんからこんな嫌がらせを受け続けなければいけないのだろう。
きっかけは私の顔のアザだった。私には生まれつき顔にアザがあって、それを三代川さんにいじられたのだ。その時の反応が面白かったのだろう。それから、三代川さんは私に絡んでくるようになったのだ。
そうして私への絡みはいじめへとエスカレートしていった。
クラスのみんなもそれを黙認しているし、担任の教師すらいじめが自分のクラスであることを隠蔽しているのだ。
誰にも頼ることができず、絶望に支配された私は、シャツのボタンを留めて、ブレザーを着る。
恐る恐る教室の扉を開くと、三代川さんたちの姿は既にどこにもなかった。
沈んだ気持ちで家に帰ると、玄関に父親の靴があった。仕事が早く終わったのだろうか。
散らかったリビングへ行くと、父親が既に酒を飲んでいた。テーブルの上には空になったビール瓶が何本も置いてある。
「莉子、帰ったのか! ちょっと来い!」
父親は機嫌が悪そうだ。この人は時たま悪い酔い方をする。今日は悪い酔い方のほうだろう。
私は嫌な予感を覚えつつ、父親に近付いていく。
「なに……? うわ、酒臭っ……! さすがに昼間から飲み過ぎじゃない?」
「俺がいつ酒を飲んでもいいだろ。なんか文句あんのか?」
「いや、別にないけど……」
「別に? なんか腹立つな。莉子、歯を食いしばれ」
「え?」
父親は唐突に私の顔を拳で殴った。
私はバランスを崩し、床に倒れ込む。
父親は激昂し、私の腹に何度も蹴りを入れてくる。
「むかつくんだよ! どいつもこいつも指図して来やがって!!」
父親は気が済むまで私を蹴り続けた。
この人は時々こうなる。仕事で嫌なことがあると、酒を飲み、私をサンドバッグ代わりにするのだ。
これが私の日常だ。学校にも家にも、私の安息の場所はない。
母親は私を生んですぐに死んでしまった。頼れる人など、どこにもいない。
私は既に全てが嫌になっていた。
ああ、なんだこの世界は。私に力があれば、こんな世界は滅ぼしてやるのに。
そんな生活を送っていたある日の学校の帰り道で、私は知らない女性から突然に声をかけられた。
その女性は化粧はやや濃いものの、目鼻立ちのきりっとした美人だった。しかし、ただの美人ではなく、服の上からでもわかるほど[[rb:逞 > たくま]]しい体つきをしており、それでいてやけに大きな胸とお尻に、私は自然と目が行ってしまう。
すごいな、と私は素直に思う。私とは正反対の体格だ。私は華奢で、胸もお尻も小さな、まるで棒のような体格をしている。おまけに私は眼鏡までかけているから、どう見ても大人しいという女子という感じなのだ。
「ねえ、あなた、総合格闘技やらない?」
女性は私を勧誘してくる。
突然、話しかけられた私は、咄嗟に上手く声が出せない。
「ええ? あの、えっと」
「あ、急にごめんね。ダイヤの原石を見つけてしまったから、居ても立ってもいられなくなっちゃって」
「ダイヤの原石? 私がですか?」
「そう、あなたは強くなれる。見学だけでいいから、うちのジムを見ていかない?」
普通ならこんな勧誘は断るだろう。華奢な私がダイヤの原石なわけがない。
だが、私は総合格闘技というものに少し興味が出てきた。
私も目の前の女性のように屈強な体格になれば、私をいじめてくる三代川さんや、暴力を振るう父親に対抗できるんじゃないだろうか。
「じゃあ、ちょっと見学してみようかな」
女性について行くと、ジムは私の通学路からそう離れていないところにあった。看板には強そうな虎の絵が描かれている。
ジムは小規模で、筋トレをしたり、サンドバッグを殴っている人が数人いるだけだ。トレーナーは私を勧誘した女性一人しかいないのだという。
私はジムの小ぢんまりとした感じが気に入った。ムキムキの人がたくさん人がいるのはなんだか怖いし、これぐらい小規模のほうが良い。
「私、入会します!」
私が宣言すると、彼女はとても喜んでいる様子だった。
「一緒に強くなりましょ! あたしは小島美月っていうの」
そう名乗った彼女は私に手を差し出してくる。
私は彼女の手を握り返した。
「私は大賀莉子って言います。小島さん。よろしくお願いします」
「あたしのことは美月で。女同士、仲良くやろうよ」
次の日の放課後から、私は毎日ジムに通うようになり、ウエイトトレーニングやミット打ちをこなす。
ミット打ちは美月さんが相手をしてくれる。トレーナーが美月さんしかいないので、当然といえばそうなのだが。
ジムの生徒の中では私が一番若いからか、美月さんは他の生徒より私を可愛がってくれた。
私に筋肉が付きやすいように、特製ジュースまで作ってくれて、トレーニング後に振る舞ってくれる。色は赤黒くて不気味だし、鉄みたいな味がしてまずいのだが、これを飲み始めてからは、私の身体はみるみるうちに逞しくなっていった。しかも、驚くべきことに、目もよくなり、眼鏡も不要になった。
だが、悪い副作用もあるようで、生まれつきの顔のアザが少し濃くなってしまった気がする。
でも、私は構わなかった。特製ジュースを飲んでから、私は明らかに強くなっている。今の私には、三代川さんや父親に対抗する力を手に入れることのほうが重要だ。
そうして私はトレーニングの末、屈強な肉体を手に入れた。
ある時、放課後に教室で三代川さんが私に意地悪そうな笑みを浮かべて私に話しかけてきた。
「へえ、莉子、髪型変えたんだ。眼鏡もやめたみたいだし、イメチェンってわけ?」
三代川さんは私のポニーテールに触れる。
私は元々、三つ編みだったのだが、ジムのトレーニングで動きやすいようにポニーテールに変えたのだ。
「これから、空き教室に来て」
そう言って、三代川さんはグループの女子を伴って、先に教室を出ていく。
私は大人しく空き教室に行くことにした。
空き教室のドアを開けると、先にいた三代川さんたちはじろっと私の方を見る。
私は後ろ手にドアを閉めて、三代川さんたちに近付いていく。
「今日は何の用?」
「なんか、今日は強気ね……。まあいいや」
三代川さんは怪訝そうな表情を一瞬浮かべたが、ポケットからハサミを取り出して続ける。
「莉子、そのポニーテール、あんまり似合ってないよ。あたしたちがもっと良い髪型にしてあげる。みんな、莉子を抑えて」
三代川さんの指示で、グループの女子が私の両腕を押さえようとする。
だが、私は逆にその子を掴んで、投げ飛ばした。
「きゃあっ!」
悲鳴を上げて、床に転がる三代川さんの取り巻き。
トレーニングの成果で、筋力が向上しているのを感じる。
呆気に取られて固まっていた三代川さんだったが、すぐに激昂し、私にハサミを向けてきた。
「調子に乗るなよ!」
隙だらけの動きだなと思う。美月さんとは大違いだ。
私はハサミを避けて、三代川さんとの距離を詰め、腹に一発、パンチを入れる。
「ぐはぁっ!?」
後ずさる三代川さんに追い打ちをかけるようにもう一発。
「がはっ!?」
三代川さんの手からハサミが落ちて、地面に転がる音がした。
もう一発。
「うぐぅ!?」
もう一発、もう一発、もう一発、もう一発、もう一発、もう一発……
気がつくと、私は三代川さんの取り巻きに馬乗りになり、顔をボコボコに殴っていた。
三代川さんも既にズタボロになり、意識を失っている。
これを私がやったのか。三代川さんたちをボコボコにすることに夢中になり、記憶があやふやだ。気分はやけに高揚している。
三代川さんたちに対して復讐を遂げられたことで、私は達成感を覚えていた。
力は最強だ。いじめはダメだ、話し合えばわかるなんていうのは何の意味もない。力こそが全てを解決するのだ。
私はもっと強くなりたい。強くなって、全ての人間をボコボコにしてやりたいとさえ思う。
私が辛かったときにクラスのみんなは助けてもくれず、父親も私を助けるどころか、暴力を振る始末だった。
結局、人間はクソなのだ。だから、私は全ての人間をボコボコしてやりたい。
いや、美月さんだけは私に優しかった。あの人だけは例外だ。
私は世界への憎悪を新たにし、ボロボロになった三代川さんたちを残して、教室を後にした。
次の日、三代川さんたちのグループは学校に来なかった。
三代川さんたちは前日の夕方に教室で倒れているのを発見されたらしく、本人たちは頭への衝撃で襲われた前後の記憶が無いのだという。
三代川さんたちにはなぜか爪で切り裂かれた傷や獣に噛みつかれたような跡が見つかったようで、大きな動物が学校に迷い込み、三代川さんたちを襲ったのではないかということになっているようだ。
三代川さんたちをボコボコにしたというのがバレず、私は一安心する。
私はその日の夜に、酔っ払った父親をボコボコにした。
ボコボコにされた父親はその日から私に優しくなった。やはり力は全てを解決するのだ。
もう、力を得た私に害をなそうとする者はいなかった。
引っ込み思案だった私は、他人と接するときにもはや[[rb:臆 > おく]]することはなくなり、堂々と意見を主張できるようになっていた。
それでも、私はさらに力を求めた。人間はクソだからである。全ての人間をボコボコにするために、私は最強になりたいのだ。
だが、自分より強い人間はまだまだいる。
例えば、美月さんがそうだった。美月さんは私に優しくしてくれるので、もちろんボコボコにする必要はないのだが、美月さんとスパーリングをしても全く勝てる見込みがないのだ。
ある日のトレーニングの後、私は美月さんに相談する。
「どうして、美月さんはそんなに強いんですか? 私も美月さんみたいに強くなりたいんです」
「多分、莉子ちゃんには生死がかかった経験が足りてないのよね。そうねー。そろそろ頃合いかな? もうすぐ冬休みだし、今度いいところに連れて行ってあげる」
冬休みに入ると、美月さんは車で私をどこかの山奥へと連れて行ってくれた。
道路をそれると、舗装もされていない山道をしばらく走り、車の中は上下に激しく揺れる。
樹木以外何もないところで車は停止し、美月さんは私に車から降りるよう促した。
冬の山は静かで、風の音しか聞こえない。
「一体、こんなところに何があるっていうんですか?」
私の疑問に美月さんはあっさりと答える。
「何もないよ」
「ええ? どういうことですか?」
「ここで、一週間生き延びて。そしたら、また迎えに来るから」
「でも、食べ物も何もないんですよ? そんなの無理ですよ!」
「強くなりたいんじゃないの?」
美月さんは、私には生死がかかった経験が足りないと言っていた。この山でサバイバルをして、生死がかかった経験をしろということだろうか。
「わかりました。一週間ぐらい生き延びてやりますよ!」
「ふふ、その意気ね。じゃあ、健闘を祈ってる」
美月さんは車に乗り込み、颯爽と走り去っていった。
山の中に一人取り残された私は、とりあえず飲めそうな水を探すことにした。
小川を見つけ、上流へと[[rb:遡 > さかのぼ]]っていくと、岩の隙間から清流がこんこんと湧き出ていのを発見した。
水を手ですくって、飲んでみる。
「うん、おいしい!」
飲み水に関してはこれで問題ないだろう。
徐々に日が傾き始め、森の中が暗くなり始めていた。
私は近くの岩場に雨風をしのげそうな窪みを見つけて、そこで寝泊まりをすることにした。
だが、冬山の夜は想像以上に寒い。結局、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
次に問題になったのが食べ物だ。冬の森には木の実もなっていないし、キノコも毒があるのか全く判別がつかず、[[rb:迂闊 > うかつ]]には食べられない。
私は何も食べることもできず、徐々に飢えていった。
夜は寒くてろくに眠れず、食べるものもない状態が続き、四日目には、私は既に限界に達していた。
空腹より寒さのほうがきつい。指先が冷たく、感覚が失くなってきた。絶食していることもあって、エネルギーが足りず、体温が上がらないのだろう。このままでは凍死してしまう。
「さすがに、もう無理……」
私は諦めて、ふらふらとした足取りで山を下っていく。
とりあえず、斜面を[[rb:下 > くだ]]っていけば、人里にたどり着くだろう。
そう甘く考えていたが、進む先には崖が現れ、崖を迂回するとまた別の崖が現れる。
そうしているうちに私はさらに山の奥へと迷い込んでいた。
「ここはどこなの……おなかすいた……」
あまりの空腹に、頭の中が食べ物のことでいっぱいになってきた。
「お肉……お肉が食べたい……」
私はゾンビのように山の中をゆっくりと進んでいく。
パキパキと枝が折れる音がして、私は振り返った。
背後でウサギが枯れ枝を踏みつけたのだ。
普段ならウサギを見てかわいいと思うところだが、今の私に動物を慈しむ余裕は無い。ウサギを見て、私は猛烈な空腹感を覚えた。
「に、肉……!」
私は無我夢中でウサギに飛びかかっていった。
ウサギは私に気付くと森の奥へと走っていく。
私は最後の力を振り絞って、ウサギを追いかける。
低木の枝に厚手の服が引っかかり、私は[[rb:咄嗟 > とっさ]]に服を脱ぎ捨てる。そうすると、身体が軽くなり、動きやすくなった。
これはいいと私は次々と服を脱いでいく。走っているからか、寒さはあまり感じない。
気付けば、私は手を地面につけ、四足でウサギを追いかけていた。これが意外に速く走れる。
急斜面を一気に駆け上がり、私は周りを見回す。付近にウサギの姿はない。見失ってしまった。
私は四足のまま、再び山の中を歩き出すが、強烈な獣臭がどこかからか漂ってくることに気付く。
これは自分の臭いかもしれない。もう何日もお風呂に入っていないのだ。臭くて当然だろう。
そう考えていると、目の前に小さな沼が現れた。沼では鹿が水を飲んでいる。
鹿はこちらに気付き、すぐに逃げようとした。
このチャンスを逃すわけにはいかない。
私は鹿に飛びかかり、鋭い爪で鹿の背をえぐる。すかさず喉元に食らいつくと、鹿の首から鮮血が[[rb:迸 > ほとばし]]り、鹿は絶命した。
私は夢中で鹿の死体を[[rb:貪 > むさぼ]]る。
血の滴る生肉は[[rb:瑞々 > みずみず]]しく、噛みちぎれば濃厚な旨味が染み出してくる。
久しぶりの肉に身体が歓喜しているのがわかる。
そこで私は正気に返った。
どうして、私は四足で走っていたのだろう。それに、服を着ていないのに寒くもない。何かがおかしい。
ふと、自分の手を見ると、皮膚が黄色い獣毛で覆われている。指は短くなっていて、手のひらには肉球が形成されていた。
「グルルル!?」
なにこれ、と言ったはずなのに、喉から出たのは獣のような唸り声だった。
沼を覗き込むと、私の顔は獣毛が生え揃い、黄色と黒の縞模様を描いていた。口周りは鹿肉を食べたときについた血で汚れている。
私は虎になっていたのだ。
口元からは鋭い牙が覗き、頬には猫のような長いひげが生え、頭頂部に丸い耳がピンと立っている。
首を後ろに回して、自分の身体を確認すると、獣毛は全身に広がっていた。骨格が変わっており、二足で立つことはできそうにない。尻からはヒョロリと細長い尻尾が伸び、私の意思で自由に動かせた。
そういえば、ウサギを追いかけ始めた辺りから、何かがおかしかった。
服を脱いでも寒くなかったのは、全身から獣毛が生えていたからで、四足のほうが走りやすかったのも、骨格が変わってしまったせいだったのだろう。
それに今思えば、私が虎化したのは恐らく初めてではない。
私が三代川さんをボコボコにしたとき、三代川さんには獣に噛まれた跡や、爪で切り裂かれた傷が見つかったという。あのときも私は少しだけ虎化していたんじゃないだろうか。
「グルル……」
水面に映っていた私の顔は酷く残虐そうに笑っていた。
そうだ。私は笑っている。
私は普通の人間が得られないような力を得たのだ。
私は強い。これこそが私が望んでいたことだ。
「グルルルルルオオオォォォッッ!!」
私は空に向かって咆哮した。
この山では私が一番強いのだ。
なんて気分が良いんだろう。
訳もなく走り出したい気分になり、木々の隙間を縫うように、冬の山を駆け抜けた。
虎になった私は腹が減っては獣を狩り、冬の山で悠々自適に生活を送っていた。
次第に私は自分が人間であったことも遠い昔のように感じてきた。むしろ、私は元々、虎だったのではないかとすら思える。
山で動物を狩るのにも飽きた私は、人里に降りてみることにした。
私を見た人間の恐れ慄く姿を想像すると、とても愉快な気持ちになる。そのまま人間を食べてしまったっていい。
自分の感覚が普通の人間から、かなり外れてきているという自覚はある。倫理観が虎寄りになってしまったことで、暴力的な思想になっているのか。それとも、私はこういう性格だっただろうか。
元より人間のことはクソだとは思っていた。だから、力を得た私が人間を殺そうと思うのも自然なことなのかもしれない。
ただ、そんなことはどうでもいいのだ。
殺したいから殺す。食べたいから食べる。私は虎なのだ。それでいい。
急峻な山の中も虎の身体ならスムーズに移動できた。
山の向こうに集落が見える。人の身体ではたどり着けなかった人里へと徐々に近付いているのだ。
だが、私は人里にたどり着く前に歩みを止めた。
木々の向こうから何かがやってくる。
黄色と黒の縞模様の大きな獣。私と似たような虎が向こうから近付いてくる。相手の虎のほうが一回り体格が大きい。
虎の私と、謎の虎は森の中で対峙した。
だが、どうしてこんなところに虎がいるのだろう。
そう疑問を抱くが、どうもそんなことに気をかけている余裕はないらしい。
「グルルルル……」
相手の虎は低い唸り声を上げる。一戦やる気のようだ。
これは自分の力を試す良いチャンスだ。私の力を見せつけてやる。
「グルルルルオオオォォォッッ!!」
はち切れそうな緊張感の中、最初に動いたのは私だった。
強靭な後ろ足で地面を蹴り、一気に間合いを詰める。
前足の爪を立てて、相手の顔に爪を振り下ろした。
相手の虎は私の攻撃が来るのがわかっていたように、素早く後ろに身を引く。
だが、私も相手が避けようとすることは読んでいた。
私はさらに一歩踏み込み、爪がもう少しで相手の虎の顔面をとらえようというとき、突然に頭蓋に衝撃が走った。
相手の虎の前足が勢いよく私の側頭部を殴打したのだ。
あまりにも素早い虎のパンチに、私はその一撃だけで地面に倒れ込む。
キレのある鮮やかなパンチだった。私はこのパンチを良く知っている気がする。一体どこで見たのだったか。
それを思い出す前に、パンチの衝撃で私の意識は霞み始めていた。
同時に身体の感覚もぼやけていく。
少しずつ身体が縮んでいるような気がする。
手を見ると、獣毛が抜け落ちていき、肌色の皮膚が現れていく。爪も肉球も吸い込まれるように失くなり、代わりに五本の細長い人間の指が生えてくる。
私はどうやら人間に戻ってしまうようだ。
薄れゆく意識で、私は相手の虎を見上げる。
相手の虎も獣毛が失くなり、尾がお尻に吸い込まれて、骨格が人のものに変わっていく。
頭頂部の耳は側頭部に降りていき、鋭い牙も小さくなって、人の顔になる。
だが、その顔は私がよく見知っていたものだった。
「美月さん……?」
私は小さくつぶやいて、そのまま意識を手放してしまった。
目を覚ますと、そこは美月さんのジムのベッドだった。
窓の外は暗く、夜らしい。ジム内でトレーニングをしている人の姿はない。
「気が付いた?」
ベッドの横に座っていた美月さんが私に微笑みかける。
美月さんは相変わらず整った顔立ちをしているが、その頬には黒い筋状のアザがいくつも広がっている。私の顔のアザとなんだか似ている。
「美月さん、そのアザはどうしたんです?」
美月さんは頬に手を当てる。
「ああ、これね。いつも化粧で隠してたんだけど、私も莉子ちゃんと同じで顔にアザがあるの」
確かに美月さんは出会ったときから化粧が濃いなとは思っていたが、顔のアザを隠すためだったのか。
美月さんは私の頭を優しく撫でてくる。
「ずっと見てたよ。莉子ちゃん、立派な虎になれてたね」
「虎……?」
私はまだぼんやりとしている頭で記憶をたぐる。
そうだ。私は山で飢えて、虎になった。それから、もう一匹の虎と出会い、強烈な一撃を食らわされたのだ。そして、その虎は美月さんへと姿を変えた。
「あれは一体、どういうことなんですか? あの虎は美月さんですよね? どうして、私も美月さんも虎になってたんですか?」
「私も莉子ちゃんも人虎族なの」
「人虎族?」
訳がわからないという反応をする私に、美月さんは語り始めた。
人虎族というのは虎に変身する能力をもつ人々のことで、顔に虎の縞模様にも似たアザがあるのが特徴なのだという。確かに私や美月さんの顔にはアザがある。
人虎族は虎の血を飲むことで、虎に変身することができるようになるらしい。美月さんが私に飲ませてくれていた特製ジュースにも虎の血が入っていたようだ。そういえば、あのジュースは鉄の味がしていた。あれは血の味だったのだ。
特製ジュースを飲んでも、私は人虎族の力に目覚めなかったが、冬山で極限状態に追い込まれることによって、ついに虎に覚醒することができたらしい。
「今、人虎族はね、虎の圧倒的な力で世界を破壊しようと企んでるの。他にも仲間は大勢いる。莉子ちゃんも私たちの仲間になってほしいの。莉子ちゃんも世界を破壊したいと望んでいるはず。人虎族の内なる虎の攻撃性がそうさせるのよ」
そうだ。人間は、この世界はクソなのだ。私は心の奥底でこの世界を破壊したいと望んでいる。
美月さんが差し出した手を、私はしっかりと握った。