無題

  色違いのゾロアーク、ジーンを引き連れた少女、ティトは白衣のまま研究棟の中を歩くと、少し前にクチナシ博士から渡されたモンスターボールに目を向けた。ティトの手のひらにあるボールの中には雌のヒノアラシが入っており、その細い目がティトの顔を見上げていた。

  一般的に、ヒノアラシの進化系のマグマラシはバクフーンに進化する。しかし、一部の条件が重なった場合にのみ、炎ゴーストタイプのバクフーンに進化する事が、最近になり判明した。ポケモンレンジャー極東本部主導の実験とは、人為的にリージョンフォームの進化を誘発できないか、というものである。現状、リージョンフォームに影響するものとして、生体環境などの外的要因や遺伝子など内的要因が考えられている。

  そこで、遺伝子の専門家でもあるティトに白羽の矢が立ったのだ。

  かといって、気乗りしない研究にティトは苦い表情を浮かべると、ヒノアラシの入ったボールを見ながら歩いていた。やがて足を止めると、それを見ながらポツリと言った。

  「…トランスファー、トランス…あなたはトランスね」

  そう言うとティトはヒノアラシ、トランスの入ったボールを撫でた。研究対象に対して名付けるなど、主観や感情が入り混じりそうな行為であるが、これはティトなりの本部への反骨精神の表れであった。

  反抗期の子供らしく、実験に反対するスタンスを表してしまったティトは自分自身に対して苦笑いをこぼすと、モンスターボールからトランスを出した。トランスは不安そうな顔でティトとジーンを見上げるが、ティトはその小さな身体を抱き上げると、トランスの顔を肩に乗せた。その背中を撫でると、ティトは安心させるかのように話しかけた。

  「私個人としては、本部の実験には微塵も興味がない…かと言って、他の研究員では荷が重すぎる…あなたのことは私が守るわ」

  研究内容や方針をどう進めるか、その決定権を持つティトの言葉を聞いたトランスは、目を細めると嬉しそうに鳴いた。その声を聞いたジーンは溜息を漏らすと、ティトの頭を撫でた。

  『本部やポケモンレンジャーのことが気に食わないのは理解できるが…郷に入れば郷に従えとも言うだろう』

  ポケモンが諺を引用する、という状況であったが、ティトは慣れた雰囲気のままジーンを見上げると、にやりと笑った。

  「失礼ね、表向きは従っているわよ。強かなだけよ」

  そう呟いたティトの言葉にジーンは苦い表情を浮かべると、その細い肩に手を置いた。年相応の少女でしかないティトの身体は、そこらの成人と取っ組み合いでもしたら、即敗北するだろう。ポケモンレンジャーという組織に属している以上、何かしらの身を守る手段が欲しいところだが、今のティトには知識しか武器がなかった。

  か弱い少女の頭を撫でたジーンは息を吐くと、ティトと共に研究棟から管理棟へと移動した。そこにある一室、来客用の客室の前に来たティトはドアをノックすると、室内からの反応を待った。少し間をおいて、室内から「どうぞ」という女性の声が聞こえた。

  ティトがドアを開けると、室内にはアズキナシ一佐の姿があった。もっとも、現在は非番のため、アズキナシ一佐は制服を着ておらず、黒いズボンに白いブラウスとセミフォーマルな格好だった。対するティトも白衣を脱ぐと、その下には黒いズボンと灰色のカッターシャツという少女らしかぬ格好をしており、二人の服装を対比したジーンは苦笑いをこぼした。

  そんなジーンの様子に気づかないティトは、緊張した表情でお辞儀をした。

  「今日はお招きいただき、ありがとうございます」

  堅苦しいティトの挨拶にアズキナシ一佐は目を丸くさせると、すぐに破顔しケラケラと楽しそうに笑った。そしてティトとジーンに椅子を勧めると、自身も机を挟んだ反対側に腰掛けた。彼女の足下にはヘルガーも座っており、主人を守るために周囲を警戒していた。

  ティトは白衣を椅子の背もたれにかけ、太ももにトランスを載せた。

  アズキナシ一佐はティトとジーンの前に紅茶の入ったカップを置くと、楽しそうに話しかけた。

  「そんなに緊張しなくていいのよ、ただお喋りしたいから招待しただけなのよ」

  母親のような雰囲気を纏うアズキナシ一佐の言葉に、ティトは若干緊張した表情で紅茶を飲むと、乾いた喉を潤した。茶葉の豊かな香りがティトとジーンの口内に広がり、それにティトは頬を緩めると小さな声で「美味しい」と呟いた。

  ティトの子供らしい反応を見たアズキナシ一佐はニコニコと笑いながら口を開いた。

  「香りが良いでしょう、ガラル地方で飲まれている茶葉らしいのよ」

  アズキナシ一佐はそう話すと、机上に置いてある焼き菓子をティト達の前に差し出した。甘い香りのする焼き菓子を目の当たりにして、ジーンとトランスの腹が音を鳴らし、続けてティトも恥ずかしそうに「頂きます」と言い、焼き菓子を口に運んだ。サクサクと小動物のよつに音を立てながら食べるティトやジーン、トランスを見たアズキナシ一佐は目尻を下げると、嬉しそうな笑みを浮かべた。

  まるで母親のような雰囲気を纏うアズキナシ一佐は、自身も焼き菓子を食べた。

  「凄く美味しいです…これはアズキナシさんが焼いた物ですか?」

  ティトの質問にアズキナシ一佐は小さく首を振ると、紅茶を一口飲んでから答えた。

  「パルデア地方のお土産よ。出張から戻った部下が買ってきたのよ」

  彼女の説明を聞いたティトは「ガラルとパルデア…」と小声で呟き、それらを眺めた。行ったことのない地方の名前は、ティトの好奇心を刺激するには十二分過ぎる代物であった。幼い子供のように目を輝かせるティトは、ボサボサ髪の頭を振ると、ジーンの顔を見上げた。初めて聞いた地名に、ジーンもまた興味がありそうな表情をしており、焼き菓子を頬張りながら次の菓子に手を伸ばしていた。

  普段は大人びた雰囲気を纏うが、初めて味わう異国の甘味と茶葉を前にして、年相応の少女に戻ったティトの姿に、アズキナシ一佐は目尻を緩めたまま、言葉を続けた。

  「私も子供が1人いるけど、任務のため今は部下の家に預けているわ」

  「今ごろ娘さんの相手をしているでしょうね」と続けて言うと、アズキナシ一佐はカラカラと笑い、紅茶を飲んだ。彼女の話を聞いたティトもまた、嬉しそうに目尻を緩めると、紅茶と焼き菓子を堪能していた。

  「お仕事でお子さんに会えないのは大変ですよね」

  ポツリと漏れ出たティトの言葉に、アズキナシ一佐はニコリと笑うと緊張が解けつつあるティトに向かって言った。

  「息子には寂しい思いをさせているけど、これが私の生き方なのよ。国を守ることは家庭を守ること、息子を守ることに繋がるわ」

  そう話すとアズキナシ一佐は紅茶を飲み干し、カップをソーサーに置いた。直後、ジーンがポットを手に取ると彼女のカップにおかわりを注いだ。アズキナシ一佐はジーンに向かって「ありがとう」と言うと、ティトに向かって話を続けた。

  「ただ、主人とは仕事に対する価値観が相容れないわね。彼は私と違って、世界を飛び回っているわ」

  「家庭を私に任せてね」と言うと、アズキナシ一佐は苦笑いを浮かべた。優しげな彼女の口調と仕事や家族に対する価値観を垣間見たティトは、自立した人間に対する尊敬の眼差しを向けた。そんなティトの視線にいち早く気がついたジーンはチラリとアズキナシ一佐と彼女の足元に居るヘルガーに目を向けると、紅茶を飲んだ。

  「…旦那さんはどんな人なんですか?」

  ティトの口から無意識に飛び出した質問、それにアズキナシ一佐は沈黙で返すと、やがて口を開いた。

  「仕事人間ね、たまに帰ってきてもすぐに仕事に行ってしまう…息子ともなかなか遊べないけど、それがあの人の生き方よ」

  「嫌なところが夫婦そっくりね」と続けると、アズキナシ一佐は苦笑いを浮かべた。そんな彼女の言葉にティトは目を伏せると、遠い記憶の底にいる黒髪の男の子の事を思い出していた。

  会いたい。

  子供時代に共に遊び、結婚の約束をした黒髪の男の子。彼の事を忘れた日は無かった。ティトは無意識にネックレスの先にある玩具の指輪を触ると、それを指先で弄っていた。そんな彼女の動きを見たアズキナシ一佐は、視線でティトに尋ねた。アズキナシ一佐の視線に気がついたティトは、それを指先で触りながら話し出した。

  「…幼馴染の男の子から貰ったものです。大人になったら結婚しよう、と約束したんです」

  「…それは、例の初恋の男の子?」

  その問いにティトは黙ったまま頷いた。その姿を見たアズキナシ一佐は目を細めると、紅茶を飲み、口を開いた。

  「それなら、尚のこと髪型やファッションに気を遣うべきよ。あなたは素でも可愛いけど、おしゃれにしたらもっと素敵になるわよ」

  一佐の言葉を聞いたティトは恥ずかしそうに俯くが、一佐は立ち上がるとティトの背後に回った。そして彼女の肩に手を乗せると、ニコリと笑いながら言った。

  「私に任せなさい」

  テーブル上のカップが僅かに揺れていた。

  *

  クチナシ博士の研究グループの一員、男性研究員のイイジマは二日酔いで痛む頭を抱えながら通路を歩いていた。無精髭を生やし、ヤニのついた目を擦りながらイイジマは研究室へと向かい、午後からの実験の準備をしようとしていた。そんな彼の視界に休憩スペースに腰掛ける1人の女性が写り込んだ。黒髪の女性研究員、コバヤシは黒縁の眼鏡を神経質そうに触りながら手元の資料を見ており、彼女の側のテーブルには複数の睡眠薬と睡眠導入剤の小瓶が置かれていた。小瓶の側には温くなったアイスコーヒーの紙コップが置かれており、テーブルの上に小さな水たまりを作っている。

  イイジマは神経質そうなコバヤシに向かって、慣れた動作で手を振った。コバヤシは身だしなみを整えていないイイジマを見ると、溜息をこぼした。

  「また飲み明かしたの?いい加減にしないと依存症やなるわよ」

  コバヤシの手厳しい指摘にイイジマは苦笑で返すと、自販機でアイスコーヒーを購入し、コバヤシの近くの椅子に腰掛けた。そしてタバコを取り出すと、ライターで火を点けた。

  「そういうコバヤシこそ、薬漬けじゃねえか。睡眠薬の多重接種は肝臓を壊すぞ」

  「生理学で習っただろ」と続けて言うイイジマに対して、コバヤシは鼻で笑うと錠剤とアイスコーヒーを纏めて飲んだ。それらを喉の奥に流し込むと、コバヤシはイイジマを睨みつけた。

  「不眠症の辛さがわからないから、そう言えるのよ」

  睡眠不足による倦怠感と頭痛の怒りをぶつけてくるコバヤシを見ながら、イイジマはタバコの煙を吐き出すとアイスコーヒーに口をつけた。口内に冷たさと苦味が広がり、二日酔いに苦しむイイジマの脳を刺激した。それを胃の奥に流し込むと、コバヤシに向かって話しかけた。

  「俺も飲まなきゃやってられないからな…いい加減、借金から解放された、い…よ?」

  小声でぼやきながらイイジマは視線を通路の奥に向けると、言葉を詰まらせた。彼の言動にコバヤシは訝しげな目を向け、彼に倣い通路の奥に視線を向けると、そこから歩いてくる人影を見て、目を丸くした。

  「…おはようございます」

  人影、アズキナシ一佐の手により化粧と服装を改めたティトの姿に2人は驚いた表情を浮かべていた。ジーンとトランスを引き連れたティトは口紅とアイシャドウ、チークを微かに塗り、首の古傷をファンデーションで隠し、銀髪を整えただけであった。それだけで研究員のティトではなく、年相応の美少女のように見えるティトの姿に2人は驚きを隠せず、ティトもまた着慣れない白のワンピース姿のため、恥ずかしそうにしていた。

  もっとも、清涼感のある白いワンピースとティトの褐色の肌が対比し、健康的かつ儚げな印象を見る人に植え付けていた。ティトはもじもじとしながらも、恥ずかしそうに2人の横を通過して、研究室へと歩いて行った。

  ふと、コバヤシの目に通路の更に奥に立っている人影、ティトに向かってひらひらと手を振るアズキナシ一佐の姿が写り、合点のいったコバヤシは何度か頷いていた。一方、状況を理解できずにいたイイジマは驚きの眼差しをティトの背中に向け続けると、やがてポツリと呟いた。

  「…芍薬、だな」

  そんな彼らの視線から逃れるようにティトは研究室に駆け込むと、自身のデスクに座った。今日の作業は先日の実験データのアセスメントなどデスクワークだけなので、ワンピース姿でも問題はなかった。

  問題はないが、それでも周りの研究員の視線のため、ティトは恥ずかしそうに俯いていた。そんなティトの傍にはジーンとトランスの姿があり、周りを威圧していた。

  ティトの背後にクチナシ博士が立っていた。

  彼は驚きと哀愁の表情を浮かべると、何も言わずにティトの頭を撫でた。銀色の髪に広がる触覚にティトは視線をクチナシ博士に向けると、博士は僅かに涙ぐんだ表情で目頭を抑えていた。

  「…博士?」

  そんなクチナシ博士の姿を見上げたティトの疑問の声に、博士は「すまない」と返すと鼻を鳴らした。そして自身のデスクに置いてある写真立てを手に取ると、そこに写る女の子の顔を撫でた。

  「…ティト君を見ていると、事故で死んだ娘を思い出してね…」

  そう呟いたクチナシ博士は「少し独りになりたい」と呟くと、そのまま歩いて行った。その後ろ姿を見送ったティトは、難しい表情でデスク上のパソコンに目を向けると、そこに映し出された情報を見た。

  ティトの頭をジーンが撫でた。

  彼の手の感覚にティトはくすぐったそうに目を細めたが、パソコンの画面上に表れた文字を見てため息を吐いた。

  「…実験の結果は不十分ね、条件を変えてもう一度テストする必要があるわ」

  ティトの言葉を聞いたジーンは頷き、近くのファイルから別のデータを引っ張り出した。彼の足下にはトランスも続き、小さな身体でジーンの手伝いをしていた。

  ふと、ティトの視界の端にコバヤシの顔が映った。

  神経質そうな表情で眼鏡を拭くと、コバヤシはティトの隣に椅子を持ってきて、小声で言った。

  「…急に雰囲気が変わったけど、まさか自衛隊の女教官の影響なの?」

  勘のいいコバヤシの問いにティトは恥ずかしそうに俯くと、黙って頷いた。その返事を目の当たりにしたコバヤシは、更に声を小さくさせると周りに聞こえないように話した。

  「人生の先輩からの助言だと思って聞いてね。あの女教官は典型的な圧をポケモンレンジャーにかけてくるから、気をつけた方がいいわよ」

  コバヤシの言葉を聞いたティトは不思議そうな表情で「圧?」と聞き返した。コバヤシは彼女の返事に頷くと、続けて言った。

  「ただでさえポケモンレンジャーの隊員の能力や規律が低下していて、レンジャー側の依頼で自衛隊の教官が送り込まれているのよ。その時点で、ここの責任者…コウサカ教官のメンツが丸潰れでしょ」

  「…」

  「そこに加えて、部下である研究員のあなたが女教官と親しくしていたら…コウサカ教官にとっては面白くないわね」

  そう話したコバヤシは社会を知らないティトに対して助言すると、そのまま自分のデスクに戻った。対するティトはコウサカ教官とアズキナシ一佐の対立関係を理解し、複雑な表情を浮かべていた。ジーンとトランスもティトの表情を見ると、安心させるようにティトの頭と手を撫でた。

  同じ頃、客室を後にしたアズキナシ一佐は雌のヘルガー、ピークを引き連れてポイントθの敷地内を歩いていた。喫煙所で一服した一佐は部下を引き連れずに移動していたが、傍にいるピークが常に警戒しており、遠目で監視してくるレンジャー隊員を威嚇していた。そんなピークの頭を撫でると、アズキナシ一佐は施設の壁を触った。

  ティトとお茶会をしていた時、部屋が揺れた。

  後にスマートフォンのニュースサイトを見ると、カントー地方の近郊で地震警報が出ていた。アズキナシ一佐はそれを確認した後に、施設の状況を見て溜息をついた。

  「…あの程度の地震でひび割れするとは」

  そう呟いたアズキナシ一佐は施設の壁にできた亀裂を触ると、ポケモンレンジャー施設の杜撰な設計に頭痛を覚えた。元は別施設をポケモンレンジャーが買い取り、増築する形で今のポイントθとして運用している。そのため、施設内は経年劣化やひび割れなどが数多くあり、ポケモンレンジャー側の体制が垣間見えるものであった。

  「ソフトもハードもこの程度とは…見栄えだけの集団ね」

  アズキナシ一佐はそう評価すると、ピークの頭を撫でながら近くのベンチに腰掛けた。周囲にはレンジャー隊員やポケモンの姿が無く、近づこうとする者はピークが牙を剥き威圧していた。タバコを一本吸ったアズキナシ一佐は通信機を取り出し、それを耳に当てた。

  「私よ、状況は?」

  アズキナシ一佐の問いに対して、通信機から低い男の声が聞こえた。

  【ポケモンレンジャーの資金の流れと購入した物資、協力している政治家やNPO団体、企業のリスト化は完了しました。研究員のデータと研究内容に関しては高度に隠匿されているため、まだ解析できていません】

  三佐の返事を聞いたアズキナシ一佐はピークの頭を撫でると、タバコの煙を吐き出した。一筋の煙が空中を舞い、消えていった。

  「会計上の不適切利用や交友関係の問題は?」

  【ポイントθにおける会計処理において、多額のコンサルティング料という計上が確認できました。支払い先は与野党の複数の国会議員が理事を務めるNPOと企業になっています】

  その報告を聞いたアズキナシ一佐は口角を歪めると、タバコを吸った。その味を堪能すると、目を細めながら三佐に問うた。

  「それは重畳ね。ポケモンレンジャー内部の問題は?」

  【ポイントθの管理責任者の経歴を洗ったところ、過去に暴行事件と性的暴行事件により逮捕された経歴が見つかりました。送検されましたが、ポケモンレンジャーが仲介し被害者と和解した記録も見つかりました】

  三佐の報告を聞いたアズキナシ一佐は愉快そうに笑い声をあげると、「コウサカ教官のことね」と言った。先日の訓練で顔を合わせた青年の過去を知り、アズキナシ一佐はタバコの吸い殻を灰皿に捨てた。そしてピークの頭を再度撫でると、彼女を引き連れて歩き出した。一佐の会話を盗み聞きしようと、レンジャー隊員が後方から歩み寄るが、ピークの唸り声を目の当たりにして、静かに立ち去って行った。

  その姿を横目で見ていたアズキナシ一佐は、ふとティトのことを思い出した。

  部下でも解明できないポイントθにおける生体実験の関係者であり、アズキナシ一佐が個人的にも気にかけている少女のことを。

  これらの情報がティトの手に渡れば、彼女は自身の意思でポケモンレンジャーから離反するかもしれない。そこをアズキナシ達が保護すれば、実験の関係者かつ告発者としてティトの身の安全も確保できる。情報源としての価値が生まれ、新たな生活を支援できるかもしれない。そのためには部下の集めた情報を渡す必要があるが、ただ渡すだけでは機密漏洩に問われるリスクがある。

  その事を理解しているアズキナシ一佐は、声を潜めて三佐に言った。

  「それらの情報だけど、物的証拠と合わせて内容を固める事はできるかしら」

  アズキナシ一佐の質問に対して、三佐は少し間を置いて答えた。

  【工作員が確保した情報と証拠なので、出所を問われるとまずいですが…証拠能力としては有力です】

  その答えを聞いたアズキナシ一佐はにやりと笑った。出所が問題となる情報なら、ティトを告発者にすれば情報源として身柄の確保ができる。あとはティトが自然とこれらの情報に触れる状況を作れば、ポケモンレンジャーに対する思い入れのない彼女が離反する可能性が高い。

  そう考えたアズキナシ一佐は三佐に対して「ご苦労様」と言うと、どのような形でティトに情報を流そうか、思考を巡らせていた。

  *

  カロス地方、ミアレシティ。

  優雅な都市の中心部に国際警察の本部が建てられていた。ガラス張りの建物の中、【組織犯罪対策課】と記されたプレートの貼られた部屋にシドは居た。彼の傍には右耳の付け根に花飾りを付けた雌のルカリオ、エコーの姿もあり、シドのデスクに置いてあるファイルを棚に収納していた。

  シドはエコーの頭を撫でると、椅子の背もたれに身体を預け、天井を見上げた。

  語学を中心に学士課程を終え、シドは国際警察にヘッドハンティングされ、分析官として勤務を始めた。最初は研修からスタートして、いくつかの現場を経験したシドは組織犯罪対策課に配属され、ハンサムの下についた。以降は彼の捜査活動における資金や情報の分析を担当していた。

  本日も朝から資料の山と格闘しており、正午を過ぎたあたりでようやく一息つけそうになった。シドは身体を大きく伸ばすと、エコーの運んできたミネラルウォーターのグラスを口に運んだ。

  「ありがとう」

  シドはそう言いながらエコーの頭を撫でると、彼女は擽ったそうに目を細めた。

  『座りっぱなしは腰に悪いぞ、その歳で痔になりたくないだろう』

  テレパスを介したエコーの言葉に、シドは苦笑いすると椅子から立ち上がり、部屋の中を歩いた。狭い室内にはいくつかのデスクと資料を収納するキャビネットがあり、その合間をすり抜けたシドは窓際に立ち、外を見た。

  窓からは暖かな陽光が室内に差し込み、視界の端にミアレシティのシンボルであるプリズムタワーが見えた。陽の光と共に風が室内に吹き込み、シドは目を細めるとミネラルウォーターのグラスを傾けた。

  氷がカランと音を立て、シドの口内に冷たい液体が広がる。

  それを喉の奥に流し込んだシドは、しばしの間、外を眺めると、隣に歩いてきたエコーに目を向けた。彼女は右耳の付け根に付けた花飾りを揺らすと、シドの顔を見上げながら言った。

  『昼ごはんはどうする?』

  その問いにシドは考え込むと、グラスをエコーに渡しながら言った。

  「息抜きも兼ねて、街で食べないか?新しいカフェができたらしいぞ」

  

  シドの提案にエコーは犬歯を見せながら笑うと、グラスを片手にシンクへと向かった。その後ろ姿を見送ったシドはスマートフォンと財布を手に取ると、部屋のドアを開けて、廊下に出た。続けてエコーも廊下に出ると、シドは部屋のドアをロックしようとした。

  視界の端に人影が映り込んだ。

  それに気がついたシドとエコーが視線を向けると、そこにはラベンダー色の髪を束ねたスーツ姿の女性捜査官、リラの姿があった。彼女の傍には夢幻ポケモンのラティオスの姿もあり、相棒であるリラを守るように佇んでいる。シドは上司の姿に気がつくと敬礼し、続けてエコーもお辞儀をした。

  「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ、私達も休憩から戻るところですからね」

  そう話すとリラは微笑み、ラティオスの頭を撫でた。彼女の手の感覚にラティオスは目を細め、嬉しそうな声をあげた。対するシドは頭ひとつ分は背の小さい年上上司を目の当たりにして、少し緊張した表情を浮かべていた。

  リラは国際警察の誇る凄腕の捜査官である。

  ポケモントレーナーとしても非常に優秀であり、その腕を見込まれて国際警察にスカウトされたリラは特務に配属され、シドとハンサムの上司になった。20代前半で組織犯罪対策課の主任捜査官の上司になる手腕に、シドは尊敬の念を抱いていた。

  故に、シドは緊張した表情のまま、口を開いた。

  「そうですか…依頼されていた密輸組織の資金の流れの解析は終わっていますので、リラさんのデスクに資料を置いておきました」

  シドは敬礼していた右手を下げると、仕事の進捗具合を報告した。彼の言葉にリラは大きなラベンダー色の瞳を細めると、「確認しておきます」と答え、室内に入っていった。その小さな背中をラティオスが追い、彼らの姿が室内に消えた後、シドは小さく息を吐いた。そんなシドを見上げたエコーはニヤリと笑うと、彼の脇腹を肘で小突いた。

  そんなエコーに対してシドは苦笑いをこぼすと、彼女を連れてカフェへと向かった。

  彼らの足音が遠ざかるのを確認したリラは、ラティオスと共にデスクに戻るとパソコンを起動した。デスク上にはシドの纏めた資料が置かれているが、それに目を通したリラは溜息をこぼした。

  シドの解析した内容、それは密輸組織がポケモンや人間、薬物、武器などを売買している記録だ。その取引金額と口座の流れを解析したシドの資料は、組織の規模の大きさを如実に表している。特務機関の捜査官として密輸組織を追っているリラは、組織のアジトや取引先の情報も集めていた。

  そんな矢先、リラは密輸組織の取引先の中にポケモンレンジャーがある事に気がついたのだ。

  「…」

  ポケモンと自然保護を謳うポケモンレンジャーが人身売買や武器、薬物の密輸に関与しているとは信じられない。

  「信じられないけど…資金の流れはポケモンレンジャーに行き着く」

  そう呟いたリラは椅子に座ったまま空を仰ぐと、疲れたように息を吐いた。凄腕のポケモントレーナーにして、国際警察特務機関の捜査官であるリラは年相応の女性であった。あまりの巨悪に嫌悪感と吐き気を覚えたリラは、疲れた表情で資料を閉じた。

  リラの頭をラティオスが撫でる。

  その感覚にリラは疲れた顔で僅かに笑みを浮かべると、ラティオスの頭を撫でた。リラの手の感覚にラティオスは嬉しそうな声を漏らした。

  相棒の顔を見たリラはパチンと自身の頬を叩き、気合を入れた。

  リラの視線がパソコンに向いた。

  モニターには捜査情報と取引記録が記されており、そこにはポイントθと記されていた。

  *

  数日後、ポイントθ実験施設の中にティトとジーンの姿があった。アズキナシ一佐とのお茶会後に着ていたワンピース姿ではなく、今のティトは白衣を身に纏った研究員の姿をしていた。もっとも、薄く化粧を施し髪も整えている。普段と異なるティトの雰囲気に周囲の研究員やレンジャー隊員達は驚きの表情を見せたが、中にはティトを口説こうとする者まで居た。そんな輩はジーンが追い払い、トランスが威嚇していた。

  そして条件を変えた上での再実験を行なっていた。

  試行回数が5回目を超えたあたりで、ティトは大きく仰け反ると、両手を伸ばしながら息を吐いた。目には疲労の色が滲んでいるが、ティトは目薬をさすことで、それを誤魔化していた。

  ティトの膝の上にいるトランスが心配そうに彼女を見上げる。

  そんなトランスの視線に気がついたティトは「大丈夫よ」と返すと、トランスの頭を撫でた。

  実験室内にはティト達の姿しかなく、時刻は深夜1時を過ぎた頃である。他の研究員達はそれぞれの部屋に戻り、夜通し実験する研究員も隣接する仮眠室で眠りについていたりする。故にジーンもテレパス能力を隠す必要がないため、ティトの頭を撫でながら話しかけた。

  『そろそろ寝たらどうだ?夜更かしは美貌の大敵だぞ』

  揶揄うような口調でジーンは言うが、本心ではティトの疲労を心配していた。それを知っているティトは微かに笑うと、ジーンの顔を見返して言った。

  「私のことを小娘扱いしていたのに、急に扱いが丁寧になったね…」

  ティトの指摘にジーンは苦笑すると、彼女の頭を撫でていた。

  『あの一佐の影響だとしても、お前が年相応の女の子のようにオシャレをする事は…俺個人としても嬉しいよ』

  そうジーンは話すと、照れくさそうに顔を背けた。相棒のそんな言葉にティトは笑うと、小声で「ありがとう」と言った。そしてティトは自身の銀色の髪の毛を掻き上げると、ジーンの顔に手を伸ばした。

  ティトの指がジーンの犬歯に触れた。

  刃のように鋭いそれにティトは触れると、不思議そうな目で見下ろしてくるジーンの顔を見た。

  「…私、やっぱり彼に会いたいと思うの」

  ティトが小さな声で呟いた。

  「子供の頃の約束だから忘れていると思うけど、彼と結婚の約束もしたの」

  ティトの首元から下がるネックレスが揺れた。その先端には玩具の指輪があり、デスクの光がキラリと反射した。

  「…こんなところで働く理由もない。彼に会いたいの…」

  泣きそうな声で呟くティトの指が、ジーンの唇を撫でた。その感覚にジーンは目を細めると、ティトの手を取り、手の甲を舐めた。ザラザラとしたジーンの舌の触感が手の甲に広がり、ティトはくすぐったそうに悲鳴をこぼした。

  だが、ジーンはお構いなしにティトの手や指先を舐めると、まるでマーキングするかのようにティトの手を自身の顔に当てた。

  『お前が望むなら、俺はどこまでもついていくよ』

  ジーンは小さな声で呟くと、身を屈めてティトの首にある古傷を舐めた。その感覚にティトは笑い声を漏らすが、ジーンはティトの首や胸元を舐め続けた。

  やがて、ティトの目尻に涙が浮かんだ頃になり、ジーンは舐めるのをやめた。そしてティトの目をじっと見つめると、テレパスで意思を伝えた。

  『ポケモンレンジャーを抜けたいのなら、俺は全力でサポートする。必要ならばお前を守って、あの小僧に会えるように助けるよ』

  ジーンの言葉にティトは笑みを浮かべると、感謝の言葉を口にした。それにジーンは目を細め、トランスは共に頑張ると言わんばかりに鳴き声をあげた。

  ティトが視線をモニターに向けた。画面には実験の数値が表示されているが、どれも有意水準に達していなかった。それを見たティトは溜息をこぼすと、椅子から立ち上がり、白衣を脱ぎながら歩き出した。

  「今日は、寝ることにするよ」

  疲れた表情であったが、どこか安堵したような笑みを浮かべるティトは、ジーンとトランスと共に実験室を後にした。

  室内に置かれている備品が微かに揺れ、いくつかの物品が床に落ちた。

  ジーン『あの小僧と再会したら、結婚するのか?』

  ティト「…向こうが覚えていたらね」

  ジーン『』

  トランス(嫉妬乙)