ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活3
「…………もしもし?」
『もしもし?声聞こえる?』
「あぁ聞こえる……だいぶうるせぇけど」
『ごめんねー、今港なんだ!あと二十分で出ないと行けなくて』
「朝早くから大変だな。漁師は慣れたか?」
『全然……毎日父さんに怒られてるよ。潮の流れとか魚の習性とか……あの人全部感覚で教えてくるからさ』
「ハハッ……相変わらずだな」
『そっちはどう?都会の学校楽しい?』
「あ、あぁ……まぁ。人が多すぎて、ちょっと緊張するかな」
『てっちゃん友達できたの?母さんが心配してたよ』
「できたよ。先輩たちもいい人ばっかだし……」
『……なんかウソついてるでしょ』
「っ、なんでわかんだよ……」
『生まれたときからてっちゃんと一緒だったんだよ?声だけで分かるよ。なんか悩みでもあるの?』
「悩み……つーか、まだ都会に馴染めてない不安だ。気にすんな」
『ふーん……お互い大変だね』
「そうだな。GWには一回帰れると思うから、その時まとめて聞かせる。土産は何がいい?」
『なんか東京のお菓子とかでいいよ。島のおじぃおばぁもそれが一番喜ぶと思うし』
「山内さんは元気か?」
『めちゃくちゃ元気だよ。昨日も漁についてきたし』
「今いくつなんだっけ」
『86……か87かな。100歳まで生きるって言ってた』
「すげぇな。まだ都会に来て一週間だけど……帰んのが待ち遠しい」
『もうホームシック?重蔵さんは年末まで帰ってくんな、って言ってたよ?』
「……じぃちゃんも元気そうだな」
『相変わらずだよ。たまに家にご飯食べにきてる。でも多分てっちゃんがいなくて寂しいんだと思うよ』
「あのじぃちゃんが?いやねぇだろう」
『ホントホント。だから頻繁に帰って来た方がいいんじゃない?』
「そんなに気軽に帰れる距離じゃねぇだろ。ところでさゆりちゃんとはどうだ?」
『さゆちゃんとは……ボチボチだよ。さゆちゃんは夏休みに一家で旅行しにくるって。また三人で遊ぼうよ』
「お前らは恋人らしくイチャイチャしてろよ。俺はこっちで彼女作って自慢してやるからな」
『ハハハッ……てっちゃんが彼女?女の子ともまともに喋れないくせに~』
「っ、それはお前もだろ!」
『僕にはさゆちゃんがいるもん。でもてっちゃんの彼女見てみた――――――あ、父さんが呼んでる』
「行かなくていいのか?」
『うん。じゃあまた今度ね。都会は大変だと思うけど、てっちゃん頑張ってね!!』
「あぁ、カイもな。また電話する」
『うん!じゃあバイバイ!!!』
ブツッ。
途切れた受話器からは、虚しい音が鳴り響いている。毎朝この時間にはいつもホームシックになるけど、今は特に寂しく思う。カイと電話が繋がったのは五日ぶりで、前からまだそんなに時間も経っていないんだけど、つい毎回毎回島のみんなの様子が気になってしまうものだ。
カイには少し見透かされてしまったけど、俺は島の人と連絡をとるとき、ウソをつかなきゃならない。それくらい今の俺の現状は複雑だし、そういうのに不馴れな田舎の人には、理解するのも時間がかかるだろう。
言えない。毎日雄に言い寄られ、セクハラされたりセクハラされたりしてるだなんて。挙げ句告白だってされてるんだから。しかも二人にだ。
「…………こっちは不安だらけだよ」
宙を見つめて、数秒間ボーッと考え込む。やはり頭に浮かぶのは、まず島のみんなのこと。カイは元気にやってるのか、じぃちゃんはどんな様子か、おじぃおばぁは、子供たちは。
そしてしばらくして、頭が自分のことに切り替わる。今日はこれから点呼があって、学校に行って……一限目から数学の小テストだ。あと三限目の体育が……確か身体測定って言ってたな。体育服の準備はした。特に提出物もなかったはずだし、点呼までの時間何をして時間を潰そうか。
一階の電話室から出て、ガラス越しの外を見ると、今日は昨日とはうってかわって曇天で、雨でも降りそうな天気だった。その時の心情が、わりと天気に反映されたりするものかもしれない。不思議といつもより外が暗く見える。
「…………雨………………降りそうだな…………」
「そうっすねー、傘持ってかないと」
「あぁ………………っ!!??あぁ???」
めちゃくちゃ驚いて真横を見ると、寝癖をつけた篠崎が立っていて、外を眺めている……かと思いきや、すぐに俺の方に向き直ってにやりと笑みを浮かべる。
「どんだけビビってんすかっ!おはようっすセンパイ!!」
「……いたのかよ」
「センパイがボーッとしてたんで、こっそり近づいてみました。何考えてたんすか?」
尻尾をブンブンうるさく振りながら、ずいっと一歩近寄ってくる篠崎。こいつホントに人との距離詰めるの上手いな。
「実家のことだ。ホームシックだよ」
「あぁ……あるあるっすね。みんなそうだと思いますよ」
俺の肩をポンポンと叩きながらわざとらしく頷く篠崎に少しムカついたが、過剰に反応しないように気をつけながら、そっと篠崎の手を払いのける。
「……お前もか?」
「いや、俺は実家ないんで……別にそういうのないっすね。なんでしたっけアレ……渡り狼みたいな!?」
渡り狼とは長年続いている年寄りに人気の朝のテレビドラマだ。じいちゃんも毎週ちゃんと見てたのを覚えてる。確か壮年の狼獣人が様々な町を放浪して、出会った人の悩みをカッコよく解決していく話だった気がするけど。それと篠崎とは全く関係ないと思う。
「実家ないって……どういうことだよ」
「あー俺両親が死んでて、歳の離れたねーちゃん二人に育てられたんすよ。ずっとアパート暮らしだったんで、実家はないっすね」
ニコニコと笑いながらいつも通りの口調で喋る篠崎。しかし話の内容は暗く、あまり聞くべきじゃないことだった。なんだか申し訳なくなって、少し目を伏せる。
「……無神経な質問して悪かったな」
「いやぁ全然っ!親がいないのなんか俺からしたら当たり前ですし、全然落ち込んでないっすよ。気遣わないでください!」
篠崎はあくまで笑顔だったが、特に無理している様子もなく、本心からそう思っているんだろう。篠崎の明るさに救われた、と思う反面、
「…………似てんな、俺と」
「え?センパイも……その、親がいないんすか?」
「あぁ……まぁ、ウルフドッグだし」
そこまで言うと色々と察したようで、篠崎は小さくすいません、と呟いた。別に謝らなくてもいいし、俺も篠崎と同じで、親がいないことには慣れている。
この国の法律では、異種族結婚は認められているが、異種族で子供を作ることは固く禁じられている。遺伝子の形質が全く異なった種族が交配した結果、どんな異形の生物が産まれてしまうか分からないからだ。倫理的な観点から、ハーフというのは決して産まれてはならないし、万が一妊娠しても、病院では産み落とす前に必ず処置を行うことが義務付けられている。
最近になって、狼の近縁種である犬との交配が認められるようになって、ウルフドッグ……狼犬といった種族が世間にも認知されてきたが、俺が産まれた頃の法律では禁止だったはずだ。俺の親がどうなったのか、じぃちゃんは頑なに教えてくれなかったし、罰せられたのか夜逃げしたのか、全く痕跡も残さずいなくなってしまった。
でも別に、会いたいとも思わない。俺にはじぃちゃんがいたから十分だ。
「……俺も親無しでじぃちゃんに育てられたから、その……分かるぞ。気持ちは」
「産んだくせに無責任だなぁって思うっすけど、まぁ今さらどうでもいいっすよね。親なんて」
「そうだな……」
きっと篠崎の親も、俺の親も、まともに育てることができない事情があっていなくなったんだろう。でもこの歳になってみて、親がいなくてもわりと何とかなるし、会いたくもないなと思う。
すると篠崎は俺のすぐ後ろに立つと、俺が振り返るより先に力強く俺のことを抱き締めてきた。
「それに、俺には最高に大好きなセンパイがいるっすから!!!親なんかに邪魔されたくないっすもん」
「っ、やめろ……気持ち悪い……」
「ごめんなさい。でも、ほっぺちゅーしてくれるくらいには、俺のこと好きになってくれたんすよね!?」
「あれは……っ、約束だったからだ!!」
「あんなの冗談だったのに、本気でしてくれるとこ俺大好きっす!!」
「分かったから……離れろよ!!」
無理やり腕を振りほどこうとするも、意外と力が強くて引き離せなかった。篠崎ってこんな力強かっただろうか?腕相撲したときは互角だったはずだ。
篠崎は俺の頬にマズルを擦り付ける。
「知ってますよ、センパイ。今ちょっと嬉しいんでしょ」
「は!?んなわけ―――――――」
「尻尾。揺れてますよ」
篠崎に指摘されて、初めて自覚した。俺の尻尾はいつからか、左右に緩やかに振れていて、雄に抱き締められて嫌がっている俺の心とは裏腹に、まるで喜んでいるような素振りを見せている。
自覚できていなかったこと、揺れているという事実に羞恥心を覚えて、思わず顔が赤くなる。と同時に、背中に伝わる篠崎の鼓動や、耳元で鳴る低い唸り声……吐息に意識が集中してしまう。さっきまで気づきもしなかった篠崎の一挙動一挙動を、全身で嫌というほど意識させられていた。
……俺は今、嬉しいのか?
「……センパイ可愛い。センパイが喜んでくれてるみたいで、俺も嬉しいっす」
ますます顔に頬擦りしてくる篠崎。俺の灰色の毛に、クリーム色が少し混ざる。
あぁそうか。俺は今嬉しいんだ。
「………………篠崎……………………」
「なんすか?」
「…………ありがとな。なんかお前のお陰で元気でた」
「俺はなんもしてないっすよ?」
……いや、きっとあのまま一人でいたら、寂しさに包まれたまま、暗い気持ちで朝の時間を過ごしていただろう。たまたま現れたのが篠崎で、良かったと思っている自分がいる。
「……あんまさっきの話、人に言わないでくれ」
「あぁもちろんっす。言いふらしたりなんかしませんよ」
まぁ俺がこの年齢でウルフドッグだって時点で、みんなある程度いらぬ予想を立てるんだろうけど。お互いに、親がいないなんて暗い話広めない方が楽に生活できる。それで気を遣われるのも嫌だから。
「ありが――――――」
ゴツッ。
俺が篠崎にお礼を言うために振り向こうとしたとき、篠崎も俺の方を向いていた。
鈍い音と共に、マズルの先と先が触れ合う。
湿った感触に驚きながら、目を見開いて篠崎を見ると、篠崎は心地良さそうに目を瞑って、俺の口元をペロリと舐めた。
「っ、!!!!!?????」
脳が瞬時に状況を整理して、即座にマズルを元の方向に向ける。いち早く、篠崎の顔から離れたくて、正反対に背ける。頭にぐんぐん血が上っていって、心臓もドキドキと鳴り響いていた。そしてそれとは反比例して、背筋はひどく凍りついている。嫌悪感に毛が逆立っているのを感じるし、少し揺れていた尻尾は彫刻のように動かなくなっていた。
顔を見ずともわかる。篠崎は今死ぬほどニヤついているだろう。
「…………センパイ」
「っ…………うるせぇ事故だ調子のんな!!」
「いやまだ何も言ってないんすけど……」
こんなこと現実に起こるとは思っていなかった。不用意に後ろを向いた俺が悪かったのか?いや意地でも篠崎のせいにしないと、腹の虫が収まらない。そもそも篠崎が抱きついてこなかったらこんなことにはならなかったのだ。
心臓のドキドキと、背筋のゾワゾワが留まるところを知らない。
「…………ねぇセンパイ……」
「……っ、なんだよ………………」
「今、何が起こりました?」
「…………………………は?」
篠崎の口から予想外のセリフが聞こえてきて、思わず振り返る。満面の笑みで微笑む篠崎が、幸せそうに激しく尻尾を振っている。
……てっきりまた大好きだなんだと言ってくると思ってたけど。
「今……センパイの方からキスしてくれましたよね?」
「い、いや違う……事故だ!」
「ウソだ。だって俺がセンパイに頬擦りしてたの分かってましたよね?」
「……っ、」
そうだよ分かってたよ。でもあの瞬間だけ愚かにも忘れてしまってて、何も考えずに篠崎の顔を見ようとしたのだ。それを認めると、間違いなく俺が全面的に悪いことになるし……まぁ俺が悪いのは分かってるんだけど、自分への苛立ちがそれを認めたがらないのだ。
「まぁなんにせよ、センパイとキスできてめっちゃ幸せです。もう一回します?」
「……しねぇよ!!」
篠崎からとにかく離れたくて、身をよじったり腕を引き剥がそうとするも、まるで動かない。なんで急にこんなに力が強くなったんだよ……。
必死になっている俺を見て、フフッとこらえるような笑い声が後ろで聞こえて、さらに苛立ちがつのる。
「センパイ、しんそーしんりって知ってます?」
「…………何カッコつけてんだよ……離せ」
「嫌です。無意識に思ってること?とかいう意味で、要は自覚のない感情があったりするんですって」
「……それは分かるけど、それが何だってんだよ」
すると篠崎は、ますます強い力で俺を抱き締めてくる。
「センパイは深層心理じゃ、俺のこと大好きなんじゃないかなって……今思ったんです」
「……んなわけねぇだろ。てかもう離せよ!」
「俺全然力入れてないっすよ。センパイほんとは離れたくないんでしょ?」
「え……?」
自分の口から、思わず溢れ出た。いや、そんなわけないだろうと頭の中の理性が語りかけてくる。出来る限り思いきり力を込めて、篠崎の腕を掴むと、さっきまで石のように固かった拘束が、嘘のように簡単に外れてしまった。
「センパイ俺に抱き締められるのほんとは好きなんすよ。昨日も10分くらい抱き合ってたじゃないすか」
「ぇ…………そ、そんな長くねぇだろ」
「いやだって俺があのあと食堂戻ったら夕飯の片付け終わってたっすよ?下手すりゃ15分くらい……」
篠崎が淡々と語る事実に、嫌な汗が背筋を垂れていた。これだけ毛が逆立っているのはきっと、篠崎とキスをしてしまった嫌悪感…………と、少し自覚があるのを分かっているから。確かに昨日の点呼のあと部屋に戻ると、こーすけに遅かったね、と言われたのだ。
「センパイ。もう気づいてるんでしょ?ほら、こっち向いてください」
篠崎はさっきまでの笑みを消して、真顔のまま俺の体の向きを変えさせる。正面から篠崎と向き合うと、急に自分が子供のように幼くなった感覚に陥った。篠崎は、俺が鈍感なことを分かっているし、俺が気づかないようなことも知っている。年下のくせに、こーすけとケンカしたときはアドバイスもくれた。
すると、篠崎は両手を大きく広げて、にっこりと笑う。
「おいで。大丈夫っすよ……誰も見てません」
「っ、………………………………」
なんでコイツは……普段はただただ無神経でバカな後輩のくせに、たまに俺よりも大人びた顔になって、全てを包み込むような優しい雰囲気を醸し出す。
そして何より腹立たしいのは、勝手に篠崎に一歩近づいた、俺の足だった。
雄と抱き合うなんて気持ち悪い。俺はノンケで、可愛い雌が大好きな健全な雄なんだ。間違っても雄なんか好きにならないし、事故でもキスをしてしまうなんてありえない。気色悪い。
それなのになんで。俺は。
「センパイ嬉しそうっすね。俺も幸せです」
篠崎の首元にマズルを突っ込んで、匂いをしきりに頭に取り込んでいく。回した両腕は、逞しい雄の背中の感触を強く意識させられる。
なんだこれ。誰かに見られたら……まるで恋人同士みたいじゃないか。
そのくせ俺の尻尾は揺れているのだ。
「…………………………………………………………」
「匂い嗅ぎすぎっすよ……ちょっとくすぐったいっす」
「勘違い…………すんなよ。俺は…………ノンケだ……」
「分かってますよ。センパイはただハグが好きなだけっすよね」
「…………………………うん………………ハグ…………好きだ」
少し眠気が押し寄せてきてしまうくらい、俺は安心感を覚えていた。そうだ、俺はハグが好きなんだ……篠崎が好きなわけじゃない。昨日もこーすけと自分からハグしてたし……別に変なことじゃない。悪いことじゃない。
「…………センパイのこと、可愛くてほんと好きです」
「うるせぇ…………なんも喋んな………………」
「ハイハイ…………じゃあ、お互いに喋れないようにします?」
篠崎は俺を抱き締める力を少し弱めると、上半身を少し離して俺の目を見つめる。真顔でじっと見られているのに、逸らすな、と訴えられている気がして、篠崎の黒い瞳を見つめ返すのみで。
篠崎が低い声で囁く。
「…………センパイ、口開けて?」
「……………………………………………………」
何をしようとしているのかは分かっていたはずだ。いくら鈍感の俺でも。しかし分かっていながらも、俺は素直にそれに従っていたのだ。頭は少しボーッとしていた。何か考えようとするよりも、目の前の狼に従っている方が、幸せなんじゃないかと思っていたのだ。
俺が小さく口を開けると、嬉しそうに微笑んだ篠崎の顔がだんだんと近づいてきて。マズルを重ねるために、お互いが斜めに首を傾ける。
篠崎の熱い吐息が鼻先にかかって、それを感じて。
ガチャッ、
「っ、あっ!……なんか……ごめんなさい私…………」
その瞬間、俺たちが立っていた廊下の扉から、寮監の頭がひょっこりと飛び出す。青いジャージに身を包んだ雌の虎獣人が、恐る恐る廊下に出てきた。
「……ごめんなさいね、全然気がつかなくて………」
「…………あ、いや………………」
「いやいいのいいの!そういう寮だし……玄関の前でするのは……あんまり良くないと思うけど」
「いや、ち、違います……そういうんじゃ、」
「ほんとお邪魔してごめんなさい!でももう五分くらいで点呼だから……放送かけなきゃ」
寮監はこっちを全く見ようともせずに放送室へ入っていった。緊張していたのか、尻尾はピンと一直線にたっていた。
寮監がいなくなったことで、頭がやっと冷静に物事を考えられるようになった。
今俺は篠崎に抱きついていて………まだ腕は回したままで…………篠崎のマズルが目の前にあって。
「っ、!!!!!!」
「なんかムード壊されちゃいましたね。さくっと続きします?」
笑顔の篠崎とは裏腹に、俺は背筋を垂れる汗が止まらなかった。今俺は……篠崎のキスを受け入れようとしたんだろうか?寮監が来なかったら今頃……俺は篠崎とキスをしていたかもしれない。しかも舌を入れる……えっちなやつ。
これまでにないほど青ざめた俺は、突き飛ばすように篠崎から離れて、自分の口をごしごしと拭った。
そして篠崎をきつく睨み付けて、
「ホントに違ぇからなっ!!」
「顔真っ赤にして睨んでてセンパイ可愛い……じゃなくて、違うってどういうことすか? 」
「だ、だから…………お前のこと好きになったわけじゃねぇから!!!」
そんなわけない。こいつに恋心を抱くなんてありえない。何故なら俺は雄で、篠崎も雄だからだ。また篠崎が調子にのったことを言わないように、念を押しとかないといけない。
ニタニタ笑う篠崎から、また一歩遠ざかる。
「えーでも一回目はセンパイからキスしてくれたし、さっきはセンパイもノリノリだったじゃないすか!恥ずかしがらなくていいんすよ?」
「違うっ!!……全部冗談だ…………」
全然冗談じゃなかったことなんか篠崎も俺も分かっている。ただ今は……一度頭を整理したかった。とにかく何も聞かずに篠崎が煙のように消えてしまうことを望んでいた。
しかし理想とは正反対に、篠崎は尻尾を激しく振り乱しながら楽しそうに俺のことを見つめている。
「センパイ可愛いなぁ……今俺幸せっす!!」
「……………………っ…………うるせぇ…………………」
「いやぁでもまさかセンパイとキスできるとはなぁー!!今度続きしましょうねっ!!!」
「しねぇ!!!!」
篠崎をキツく睨み付けて、これ以上喋んなと威嚇する。今あったことを無かったことにして忘れたい、という感情と、もう点呼だから降りてきた誰かに聞かれるんじゃないかという不安が、焦りとなって背筋に汗を伝らせる。
すると、
「……なに朝からケンカしてんのーー?」
大きな足音がしたと思えば、ずいっと俺らに顔を近づけて、相田先輩が不機嫌そうに言い放つ。相田先輩はケンカがとにかく嫌いらしく、止めるためなら実力行使も厭わないと久郷田先輩から聞いた。
それが普通に怖いから、俺も逆立っていた毛を寝かしつけて、篠崎から目を逸らす。
「ケンカじゃないです…………」
「むしろイチャイチャしてました!!渡嘉敷センパイツンデレなんで!!!」
余計なことを言うなと、ニコニコ顔の篠崎のつま先をこっそりと踏んづける。今のことは誰にもバレたくないし、俺ですら忘れたいくらいなんだから。
「そうかーーまぁほどほどになぁーー」
「あ、っていうか相田先輩寝相悪すぎっすよ!!寝ながら俺のことぶん殴ってベッドから落としたの気づいてます!?」
「え?あーーそうなの?」
「さすがの俺も相田先輩に殴られたら起きちゃいましたねー」
「あーーじゃあごめんなーーー」
……そういえばあの寝起きの悪い篠崎が朝早くから起きてるのが不思議だった。きっと相田先輩のとこに添い寝しにいって、ぶん殴られて……あの力で殴られたら寝るどころじゃないのは明白だ。瘤とかできないんだろうか。
相田先輩に続いて、他の寮生たちも放送を聞いてゾロゾロと食堂に向かって列をなしている。廊下の真ん中に陣取っているのも邪魔になるし、篠崎も相田先輩と仲良く喋り始めた。……まるでさっきの出来事なんか全然気にしてませんよ、と言ってるかのように。
なんかムカついた俺は、通りがかったこーすけの後ろにそっと加わって、何食わぬ顔で席につくことにした。頭の中は延々と、自問自答を繰り返していたのだけど。
「一限の数学の小テスト、勉強した?」
寮から学園の正門までは徒歩三分くらいで、寮生たちの特権である短い通学路を、こーすけと並んで歩く。だんだんと枯れ始めてきた桜並木は、曇り空の下では全く綺麗に写らない。濁った灰色と濁ったピンク、桜もこんなところに植えられて可哀想だと思う。
いつもより足取り重く歩いている俺を怪訝に思ったのか、こーすけはしきりに話題を振ってきた。
「…………いや、してねぇ」
「まぁほとんど一年の復習みたいなやつだから、大丈夫だと思うけど」
「そうだな………………」
別に数学の小テストで何点をとろうと、今の俺にはどうでもよかった。ていうか仮にゼロ点でも、先生に頑張れと言われる程度だろうし。
今はそれよりも……あの篠崎の顔が頭から離れなくて、ずっと思い返してしまっている。キスする直前の……ホントに目の前だった時の顔。緩く頬を吊り上げながら、目を瞑って首を傾ける。いつも何とも思うことがなかったアイツの顔が、あの瞬間だけ少しカッコいいなと思っていた自分に、嫌悪感と吐き気が絶えずこみ上げてくるのだ。
するとこーすけが、俺の正面に立ち塞がって、じっと見つめてくる。
「…………なんだよ」
「ネクタイ……結び方めちゃくちゃだよ」
指摘されて下を見ると、ネクタイが自分でもどうしてこうなったのか分からないくらい不格好で、ぐちゃっとした固まりになっている。まだ結び慣れていないとはいえ、ここまで酷かったら流石に結び直す。それに自分でも気づいていなかったなんて……はぁ、とため息をつく。
「……結んであげる」
「………………悪いな」
ぐちゃぐちゃのネクタイに手をかけると、手際よくほどいて結び直すこーすけ。流石に一年も通っていれば綺麗に結ぶことなんて造作もないんだろう。黙々とネクタイを締めるこーすけの耳を、ボーッと見つめていた。
「…………なんかあったの?」
「……………………なんだよ……」
「なんだよじゃないでしょ。さっきからずっと上の空じゃん……」
「………………………………………………」
案の定こーすけには気づかれていたらしい。だからといって、こーすけに相談した方が良いことなのかは分からない。あんまり広まってほしくない話だし……篠崎が言いふらしたら終わりなんだけどな。
少し機嫌が悪くなったのか、こーすけはキツめにネクタイを締めると、強く引っ張った。途端に首が閉まって、ウッと気持ち悪くなる。
「……今朝?点呼の前に何かあったんでしょ。教えてよ」
「…………いや、なんでもない」
「その顔でなんでもない、は何かあります話しかけてください、にしか見えないけど?」
「なんもねぇって。遅刻するぞ」
目の前で腕を組むこーすけの脇を、極力無表情で通り抜ける。こーすけは勘が鋭いから、少しでもボロを出したら悟られてしまうかもしれない。
こーすけに知られたくない理由の一つは、嫉妬されるんじゃないかと思ったからだった。篠崎が俺に告白してきたときも、こーすけはイライラを抑えようともせず、険悪な雰囲気になってしまった。こーすけは俺のことが好きなのだから、篠崎とキスしたことがバレたらどんな態度を取ってくるかわからない。少なくとも露骨に不機嫌になるのは間違いないだろう。
今の俺の胸のモヤモヤは、なんとか自分で解決するか……もしくはあやめ先輩にまた相談してみるのもいいだろうか。一昨日も的確なアドバイスをくれたし。
こーすけはまだ不服そうな顔で俺の隣を歩いて、たまに俺の脇腹をつつきながら顔色を伺っていた。
「……絶対なんかあったじゃん。意地でも教えないつもり?」
「…………あぁ。お前に知られたくない」
「ふーん、じゃあ違う人に聞く。真実が湾曲された噂話を俺が信じても、哲也のせいだからね?」
「………………………………………………………………」
脅しのような口調だったけど、本当にそうするつもりはないらしい。今度は俺の尻尾を指で弾きながら、無言で教えろ、と訴えてくる。
それすらもなんとか無視して、遠い曇天を観察しながら歩いていくと、気づけば校門の前まで来ていた。学校でのこーすけは比較的大人しいし、今みたいな追及もクラスメートの前では控えるだろう。その代わり寮に帰ったときに散々聞かれることになるんだけど。
すると、
「あっ!!渡嘉敷と利根川じゃんっ!!!昨日ぶりだなっ!!!!」
必要以上にデカい声で若干周囲の目を集めながら、縞模様の毛をなびかせて、太い尻尾をふてぶてしく揺らす。言わずもがな、高田だった。
昨日は縞縞軒のバイトをしてるとこに出会ったんだった。道路を挟んで向かい側、まだ開店前の縞縞軒をボーッと見やる。
「おはよう高田くん。元気そうだね」
「おうっ!!今朝は良いことあったからな!!!」
ニカニカ笑みを浮かべながら馴れ馴れしく肩を組んでくる高田の腕を、鬱陶しく払いのける。なんでこうもスキンシップが過剰なんだ、こういう人種は。
俺の冷たい目線を気にも留めず、その良いこと、を聞いてほしそうに俺たちを交互に見つめる。
それにしびれを切らしたこーすけが、ため息交じりに質問した。
「…………何があったの?」
「よくぞ聞いてくれたなっ!!!今日珍しく早起きしたらよぅ!!!近所の可愛い子にキスしてもらったんだよっ!!!!」
嬉しそうに語る高田の横で、俺は思わず咳き込んでいた。篠崎みたいなやつが篠崎みたいなこと言ってんじゃねぇよ!!と心の中でキレてから、何事もなかったかのような澄まし顔になんとか軌道修正する。
「へぇ……どういうこと?全くわかんない」
「なんか昔のことわざにもあっただろ!?早起きは……得だ!みたいな?やっぱことわざってその通りになるんだなっ!!俺ことわざ勉強しようかなって思ってさ!!!」
全っ然俺たちの話を聞く気もないようで、一通り自分の話だけ終えると、俺たちの背中を玄関へと押していく。
「早起きは三文の徳じゃないの?それに意味違うし」
「そうだそれそれっ!!いやぁまさかキスしてくれるなんてなぁ~思わないよなぁ~!!」
ネコ科らしい自分勝手な性格と態度だ、ホントに。こういう奴の方が世渡り上手なのだとしたら、俺は獣人不信になりそうだ。
それはともかく、可愛い子にキスされた、って言っていた。……いやどういう経緯でそうなったのかは知らないけど、高田は……バイセクシャルなのか?稲光にいるってことは、少なくともノンケではないと思うんだけど。
「あっ、俺担任に用事あるんだった!!!」
「……う、うんじゃあ……早く行けば?」
「そうするわっ!!お前らまた後でなっ!!!」
うるさいくらいの大声で俺たちに軽く挨拶すると、真後ろに方向転換してのっしのっしと歩いていった。今までろくに喋ったことがなかったから気づかなかったけど、想像以上に変な奴だ。ただの大声バカ、で片付けるにはあまりにも、変人ぶりを見せつけられている。
俺が引いている様子を見てか、こーすけが苦笑いのままフォローをいれる。
「まぁ……変わってるけどいい子だよ」
「全然人の話聞いてねぇじゃねぇか……」
「自分が喋りたいことがあるとそっちが先行しちゃうタイプなの。放っといてあげて」
別にわざわざ本人に文句を言うつもりもないけど、ああいう奴ってクラスで浮いたりしないんだろうか。今のとこみんなと仲良く喋っている様子だったが。
「コミュ力高いし……ほら、篠崎くんみたいなもんじゃん」
「あいつはもうちょっと……空気読むだろ」
それにもっと優しいし、と口から溢れかけて、慌てて飲み込んだ。なんで俺篠崎の肩を持つっていうか……擁護しようとしてるんだ?篠崎も変人っちゃ変人なのに。そして変態でうるさくてバカだ。
とにかく今朝の出来事があるせいで、今はあまり篠崎のことを考えたくなかった。少し篠崎、って単語を聞いただけで、あの顔を思い出してしまうから。なんでこんなに篠崎のことが気になってるのかは知らないけど、不快なことに変わりない。
「……あっそういえば今日身体測定か……」
不意にこーすけが立ち止まって、どこか一点を見つめていた。その視線の先には、何やら大勢の獣人が集まっている、第一体育館があった。その中にはちらほらと、白衣をまとった医者のような姿も見える。
「なんかやたら大掛かりだな……」
「当たり前じゃん。人数も人数だし、種族もたくさんいるし……田舎の学校はそうでもなかったの?」
「……まぁ全校生徒五人しかいなかったからな」
俺は田舎育ちだからあまり意識していなかったけど、確かに都会の学校は人数が多いから、身体測定も大変だろう。身長、体重、座高、聴力、嗅覚、視力……あとはそれぞれの種族に応じて特異な測定があったりする。例えばイヌ科は顎力を計らされるし、クマは握力が強すぎるから専用の握力計を使ったりするらしい。あとシカの雄は角の大きさとか?詳しいことは各種族にしか分からないけど、内容が多岐に渡る分それだけ人員も必要になる。
トラックから機材を運び出している様子が見えて、先生も大変だな、と思った。
「……そういや今日朝礼はどうすんだ?」
月曜日の朝は一番大きな第一体育館で朝礼が行われるが、身体測定用の機材があったら邪魔でできないだろう。
「毎年身体測定の日は朝礼がないの。だから教室に直行でいいよ」
「ふーん……あ、そういやネコはどんな測定すんだよ。猫じゃらしで遊ぶのか?」
冗談交じりにこーすけに質問すると、じとっした目で見つめられる。そんなにバカにしたつもりはないんだけど。
「……綱渡りさせられる。他のネコ科は知らないけど、猫は平衡感覚が優れてるから。逆に渡りきれなかったら体に異常があるんじゃないか、って」
「猫獣人がサーカスに多いのって、そういう理由なんだな」
「猫は体軟らかいから落ちても怪我しないの。空中ブランコとかも得意だよ」
イヌ科には到底真似できないようなしなやかな動きを、生まれながらにできるっていうのは羨ましい。オリンピックでも体操の競技には、常にネコ科の獣人がトップを取っている。
ただきっとこーすけから見たら、他の種族の獣人の能力が羨ましいときもあるんだろう。みんなが無い物ねだりをするのが、この世界では当たり前だから。
「……ほんとに遅刻しちゃうよ。ちょっと急ごう」
「…………そうだな」
のんびりと歩きすぎた。担任は遅刻に厳しいから、さっさと教室へ向かうことにしよう。
「…………あと三十秒で遅刻です。寮生なんですからもう少し早く来るようにしてください」
「す、すいません…………」
教室に入るとギリギリホームルームに間に合ったのか、担任の鷲獣人が腕組みのまま注意を促してきた。他の生徒もほとんど席についていて、視線を感じるのが嫌でさっさとロッカーに荷物を投げ込み、席につく。宿題の提出は後ででいいだろう。
クラスメートは全部で三十人いかないくらいで、出席番号順に座らされている。担任の意向で席替えはしないようだ。ちょっと楽しみにしてたんだけどな。
三十人中男子は十人で、女子の方が割合が多い。俺とこーすけは出席番号七番と八番だから、席も前と後ろだ。
俺たちが着席したのを確認してから、先生はちらりと腕時計を見て、大きく息を吸って喋り始めた。
「おはようございます。本日の連絡ですが、二年生は三限から四限にかけて、身体測定が行われます。場所は主に第一体育館ですが、種族によっては別途の教室を使用する場合がありますので、後で個別に配るカードをちゃんと確認しておいてください。先週出した宿題は五分以内に教卓の上へ提出すること。忘れ物はその間に報告してください。以上です」
途中で噛むこともなく業務連絡のように一瞬で挨拶を終えると、個別に生徒を呼んで個人連絡を淡々と済ませていた。あれくらいキチッとしてたら、かえって生徒からも嫌われないんだろう。なんだか寮監に通じるものを感じる。
先生が話終えた途端生徒も友達と喋り始めて、ガヤガヤと教室がうるさくなる。こーすけもすぐに話しかけてきた。
「ねぇさぁ、世界史の先生が言ってた宿題やった?」
「は?……そんなのあったか?」
「教科書読んでこいってやつ。律儀にやった人なんていんのかなって」
そういえば世界史のおじぃちゃん先生が、漠然と次回の授業までに読んでこいってだけ言ってた気がする。五限目は世界史だけど、そんなことすっかり忘れていた。
「……忘れてた。でも別に怒られねぇよな?」
「…………え?やってないの……?」
不意に空気を震わせる低い声がすぐ傍で聞こえて、驚いて声の方を見ると、体のデカい雄の獅子獣人が立っていた。確か学級委員長の………………
「………………ごめん、名前なんだっけ?」
「秋沢です…………今年からクラス一緒だから仕方ないよね」
「あぁそうだごめん。秋沢くんはやってきたの?」
「うん………………」
少し気が弱そうで、デカい体を軽く縮こませて、恐る恐る喋る様子。とても獅子とは思えない態度に、なんだかこっちまで申し訳なくなる。学級委員長に自ら立候補するくらいだから、自信家なんだろうなと勝手に思っていたけど、見たところ真逆のようだ。
長い尻尾を股の間からちょこんと覗かせている。クラスメート相手に萎縮しすぎだろ。
「一応……暗記までしてきたんだけど…………やらなくてよかったのかな」
「教科書暗記してきたのかよ……すげぇな」
俺が会話に口を挟むと、ビクッと体を震わせる。俺よりも20センチ近く背が高いくせに、子猫みたいな態度だ。何をそんなにビクビクしているんだろう……っていうか、何でそんなやつが俺らに話しかけてきたんだろう。
「全然無駄な努力じゃないと思うよ。それよりそのカード……」
「あっ…………あの、カード配るの……手伝ってほしいなって…………思って…………」
秋沢の手元を見ると、クラスメート全員分の青色のカードを持っていた。恐らく身体測定で使うやつを、学級委員長だからって配るのを任されたんだろう。カードには個人個人の名前が印字されてるから、一人で配るのは時間がかかる。仕方なく暇そうな俺らに話しかけてきたということか。
ちらりとこーすけを見ると、明らかにめんどさそうな表情を浮かべながら、
「いいよ。手伝ってあげる……哲也もやるでしょ?」
「…………あぁ」
あのこーすけの顔は断るときの顔だったけど、流石に学級委員長が可哀想に思ったのかもしれない。配り終える前に一限が始まってしまうかもしれないし。
すると秋沢は顔を嬉しそうな微笑みに変えて、ありがとう、と小さく呟いた。きっと断られると思っていたのだろう。微笑んでる顔は完全に獅子の物だし、かなり強面だけど。
三分の一くらいを適当に受け取って、教卓の前まで歩いていく。席順と名字は教卓の上にある表に書かれてるから、見ながら配ればすぐ終わるだろう。こーすけはある程度覚えているようで、知ってる人の机に配りにいった。
すると、教卓の横に立っている担任に呼び止められる。
「渡嘉敷くん、少しいいですか?」
「あ、はい…………なんですか?」
口調と態度からは怒っている感じではないし、ただの連絡だと思うけど。
「来週から再来週にかけて、三者面談が行われるんですが、二年生は保護者の希望次第で面談をするかしないか、選択制になっています。ですが渡嘉敷くんの場合は二年からの編入ですので、必ず面談をする必要があります」
「…………三者面談、ですか?」
三者面談って当然保護者が必要なんだけど、俺の場合は島から一度も出たことのないじぃちゃんだ。わざわざ都会の学校まで来れるだろうか……?
先生は黄色い嘴をカチカチと鳴らす。
「えぇ。ですがご家庭の事情は聞いています。保護者の方と複数回電話のやり取りをした結果、今回は三者面談ではなく、私との一対一の面談になります。それでよろしいですか?」
「え、あぁ……もちろんです。じぃちゃんが都会に来るのは……しんどいと思うので」
編入試験をしたときも、面接をしたときも、俺はずっと一人で行ってきた。難しい手続きは学校の先生とじぃちゃんがしてくれたし、じぃちゃんが島から出なくて済むように、学校側もだいぶ気を使ってくれた。
……まぁこういうとき親がいたら、こんな面倒なことにならなくて済むんだろうけど。
ふと、また篠崎のことを思い出す。アイツは歳の離れたねーちゃんがいるって言ってたから、三者面談もそうなるのかな……親無し、っていう点での不便は、きっと篠崎も同じなのだろう。
必然的に思い出されるアイツのニヤケ顔。
「わかりました。日程は後日追って連絡します。他の生徒の日付や時間帯に沿って…………大丈夫ですか?」
「あぁぁはい、なんでもないです」
俺が頭を振って篠崎のことをどっかへ追いやろうとしていたら、心配そうに見てくる先生。ごめんなさい、篠崎が悪いんです。
「気分が悪いのなら今のうちに保健室へ行って下さい。もうすぐ一限が始まりますよ」
「……いえ、ほんとに大丈夫です……すいません」
俺が篠崎のことを考えてしまっているとき、ボーッとしてたり頭を振ったり、周囲から見たら異常な行動に見えるんだろう。俺はそんなこと気づかないくらい、篠崎のことを思い出してしまっているんだけど。
なんで考えてしまうんだろうか。親がいない、っていう複雑な家庭環境を、お互いに知ったから?それで仲が良くなって……俺のなかで篠崎に対する気持ちが変わったんだろうか。でもそんな単純な要因じゃない気がする。もっとこう………複雑で、モヤモヤする感覚だ。
先生は話を終えて、教卓の上に並べられた教科書や問題集を開き始めた。一限目は数学で、このまま担任が授業することになる。あとほんの数分で始まってしまうことに気づいて、手の中のカードに慌てて目を通した。カードを配っていたとはいえ、相変わらず遅刻には厳しい先生だ。注意される前に片付けてしまおう。
教卓の上に視線を這わせると、これから行われるであろう小テストのプリントが積み上がっていた。ちらりと中身を見ると、先週やった授業の分の復習だ。内容なんかほとんど覚えてない。
担任がしかめっ面で俺の答案に×を書き込んでいく様が頭に浮かんで、少しだけ憂鬱になった。
[newpage]
大人数での授業は稲光にきてから初体験のものだったけど、意外と大人数の方が楽だということに気がついた。前の高校ではクラスメートが二人しかいなかったから、授業中によく当てられることが多くて、皆の前で苦手な数学に頭を悩ませる機会が多かったんだけど、都会では授業中に一回も当てられないなんてことがざらにあるし、俺の他にも数学が苦手なクラスメートがたくさんいる。それに授業中に大いびきをかいて寝ている不真面目な生徒がいれば、先生もそっちに集中せざるを得なくなる。
例えば今、担任に体を揺らされている高田みたいに。
「高田くん、起きてください」
「…………むにゃむにゃっ!」
あれ本当に寝ているんだろうか。寝ながらむにゃむにゃなんて言うやつマンガでしか聞いたことがないけど。クラスの女子からもクスクス笑いが起こっていて、まぁ授業どころではないのは明白だ。先生の意識が高田に向いているのをいいことに、私語を始める人達もいるし。
ちかみに高田は俺の前の席で、教室の最前列だ。その席でよく居眠りなんてできるよな。
後ろのこーすけにそっと話しかける。
「…………高田って一年の頃からこうなのか?」
「うん。数学は特に。頭いたくなっちゃうんだって」
その気持ちはよく分かる。こーすけは理系だから理解してもらえないだろうけど、数字やxやyなんて文字を見てるうちに、何をどうしたらいいか分かんなくなってしまうのだ。
ちらりと前を見ると、困り顔で体を揺する担任と、気持ち良さそうに寝ている高田。今朝早起きなんてするから眠くなるんだよ。
「……今までどうやって起きてたんだ?」
「去年まで同じクラスだった獅子獣人がいたんだけど、その子が耳元で吠えると流石に起きてたよ。高田係ってのができたくらい」
吠え声の大きさには個人差があるけど、獅子獣人の咆哮は獣人の中でもトップクラスに大きいし、よく響く。耳元で吠えられたら確かに寝てる暇なんてないだろう。
……逆にそうでもしないと起きないなんて、迷惑な奴だほんとに。頭にまた篠崎の顔が浮かぶ。
「……このクラスで雄の獅子獣人っていうと、秋沢くんしかいないけど」
「………………吠えるか?あいつが」
秋沢は出席番号一番で、高田の隣の席だけど、担任と高田の攻防から顔を背けて、関係ありませんという顔で問題集にペンを走らせている。明らかに関わりたくないんだろう、なるべく窓際に椅子を寄せて、体を縮こませる。
そのわりに耳はピンと立っていて、周りの話し声に聞き耳を立てている。俺たちの今の会話も聞こえていたのか、さらに体を小さく丸めていた。
「物は試しじゃない?ちょっと頼んでみる?」
こーすけはニヤニヤと笑いながら少し大きめの声で言う。当然それも秋沢には聞こえているから、小刻みに首を横に振り始めた。きっとこーすけはわざと秋沢にプレッシャーを与えて、気が弱いことをいいことに、秋沢の反応を楽しんでいるんだろう。ほんと意地悪だよな、こいつ。
その声は担任にも届いていたようで、
「秋沢くん、高田くんに吠えてみてもらえますか?このまま起きないと授業が進まないので」
「えっ…………いや…………でも………………あの、」
「一度でいいのでお願いします。それで起きるようなら、今後は高田くんを起こす役割も担っていただきたいのですが」
丁寧な口調で頼んではいるけど、きっと担任もめんどくさいんだろう。また一年間高田係を決めて、全部任せる気だ。
秋沢が少し気の毒だったけど、たまたま獅子獣人なんだから仕方ない。明らかに一番悪いのは高田だし。
見るからに嫌そうな顔で、尻尾をだらりと下げる秋沢。
「ぉ、俺……そんなに吠え声大きくないんですけど…………」
「構いません。起きてくれさえすれば、なんでもいいです」
担任の鋭い眼差しは威圧感があって、気の弱い秋沢には耐えられないものだろう。猛禽類は嘴の鋭さもそうだけど、全体的に存在感がすごい。見るからに嫌がる秋沢に一度吠えさせようとするところが、理系っぽいっていうか合理主義っていうか、猛禽類だなと感じるところだ。
秋沢は目を泳がせながら、何か断るための理由を探しているようだった。まぁ人前で思いっきり吠えるのは……ちょっと恥ずかしいと思うし。
「…………で、ですけど………………」
「秋沢くん、大丈夫。誰も引いたりしないよ……去年もそんな感じだったし」
恥ずかしいことをやらせようとするこーすけの口調や態度は、昨日俺に篠崎を起こさせたときと同じだった。もっともらしい言葉で騙して、やってもいいんじゃないかと錯覚させる。こーすけは本当に口が上手いし、意地悪だ。
しかし今の秋沢の状況は、場所やいる人が違えど昨日の俺とよく似ている。ギャラリーにやれやれ言われて、仕方なく恥ずかしいことをやらされる。俺の場合はこーすけと上柴だけだったけど、秋沢はクラス中の前で吠えなきゃならない。恥ずかしさも段違いだろうに。
ちょっとイジメっぽいよな、って思いながらも、先生も頼んでいる以上俺に止める術はない。こういうときは茶化されないうちにささっとやって、そっと気配を消すのがベストなのかもしれない。
「そ、そうなの……?」
「うん、みんな聞き慣れてるし、恥ずかしくない」
こーすけの巧みな誘導に綺麗に騙されていく秋沢。その様子は被害にあった俺から見れば、結末がなんとなく見えてる分気の毒さが増すのだけど。
それに追い討ちをかけるように、担任が秋沢に頼み込む。
「よろしくお願いします。今予定より授業が五分ほど遅延していますので」
「…………じゃ、じゃぁ……わかりました」
とうとう了承してしまったようだ。後ろを振り向かなくても、こーすけがニヤニヤしているのが雰囲気でわかる。多分こーすけからしたら授業中の暇潰しくらいの感覚なんだろうけど、当人にはずいぶんと心構えが必要な大事な場面だ。
秋沢は決心したように大きく息を吸って、小さくため息を漏らした。その様子に、教室がシーンと静まり返る。
「ぇ…………えっと……………………
グルォォォオオオオオオオアアアアアアアッッッ!!!!!!!!!!」
「うぉおおおおおおおっ!?」
教室中の全員が体をビクッと震わせて、女子の中にはあまりの迫力に悲鳴を上げるものもいた。俺とこーすけも例外なく、尻尾をピンと立てて体が固まった。正直こんなにデカい声で吠えるとは思ってなかった。
そんな中唯一体を大きく動かして、椅子から転げ落ちそうになっている高田。寝起きでビックリしたのか大声で体を揺らし、なんとか椅子の上でバランスを取ろうと尻尾をくねくね動かしている。
「ぅおっ……とっ、とっ……ヤバいっ!落ちる落ちる!!」
焦った高田の声が静かな教室にこだまして数秒後、ドンっ!と大きな音が鳴り響いて、教卓の前で尻餅をついている高田がいた。結局落ちてしまったようだ。
秋沢の迫力でしんとしてしまった教室内に、高田の尻餅を目にしてクスクス笑いが起こった。起き抜けから明らかに間抜けな様子に少し和やかになる雰囲気。高田は未だに驚いていて、きょとんとした表情を浮かべている。
ふと秋沢の方を見ると、これまでで一番体を小さく丸めて机に突っ伏して、ぷるぷると震えていた。笑っているわけではなさそうだ、担任が肩をポンポンと叩いている。
「ん?あぁ!秋沢かっ!!お前あんなデカい声出るんだなっ!!!」
「高田くん、もう寝ないようにしてください。授業を進めますよ……はい、私語はもうやめなさい」
担任は教卓へ戻ると、ガヤガヤと賑わい始めた生徒たちへ厳しく注意をする。ちょっと忘れかけていたが、そういえば授業中なんだった。担任の注意も気にせず、立ち上がって秋沢に話しかける高田……どうやら周りの視線は気になっていないようだ。
「なぁ、おい!ビックリしたぜ秋沢っ!なんで無視すんだ?おい!!」
「高田くん!座りなさい」
「すいませんっ!なーなー秋沢っ!なぁおいって!」
高田が無神経にも顔を伏せる秋沢の肩を揺すってるのを見て、少し可哀想に思った。きっと今この世で一番誰にも話しかけられたくないのが秋沢だ。ちょっとは察しろよ、このバカ虎め。
後ろをちらりと振り向くと、俺関係ありません、という顔でノートに絵を描いているこーすけがいた。ひどい奴だほんとに。
担任も高田のことを二言三言注意すると、そのまま何事もなかったかのように授業を再開させた。ただ言わずもがな、秋沢が高田係になってしまったことは明白なんだろう。
「…………この問題が解けたら、教科書は閉じて問題集の10ページ1番から解いていってくだ――――――」
ガラガラガラ………………
「…………あのぅ…………大丈夫ですか?何かすごい大きな声がしてましたけど」
教室の扉が開いて、隣のクラスの担任がひょっこりと顔を出した。恐る恐る中を覗いて、秋沢のところで視線が止まったのが何となくわかった。
「えぇ大丈夫です、問題ありません。授業の進行の妨げになってしまったのなら、申し訳ありません」
「あーいえいえ全然いいんですけど、生徒たちが気になってしまったものですから…………失礼します」
慌てて扉を閉めて帰っていった隣のクラスの先生は、生徒たちになんて説明するんだろうか。なるべく秋沢が傷つかない方向に転んでくれたら俺も嬉しい。ただでさえ高田のせいで、まともに顔を上げられず教室の隅でこそこそノートを取る学級委員長になってしまったのだから。
三限目から四限目にかけて、二年生は身体測定が行われる。きっと種族が多かったり、そもそもの人数が多かったりで、二時間跨がないと終わらないんだろう。三年生は五限と六限らしく、わざわざ一度休憩をとってからの測定となる。
田舎の学校にいた頃は、人数が極端に少なかったしイヌ科が多かったから、特殊な機材も必要ないし医者だって来なかった。面倒だなと思う反面、学校が一時的な病院になったような感覚があって、少しわくわくしてる自分もいた。
休み時間中に体育服に着替えながら、みんなそれぞれ身体測定への期待や不満を口にする。女子は体重なんかも気にしてるようだったし。
「ちょっとは背伸びたかな。身長伸びてないと困るんだよね」
「なんでだ?」
「アダルトショップ入れないじゃん。18禁の同人誌の売買もめんどくさいし」
「……いやお前18歳じゃねぇだろ」
「いつも嘘ついて入ってるんだけどさ、たまに騙されてくれない人がいるから」
澄まし顔で何言ってんだこいつ。そういう大人の店は俺たちにはまだ早いんだろう。俺は行きたいとも思わないし、仮に嘘ついて入ってもバレるのが怖くて気が気じゃないだろうなと想像する。人に平気で嘘をつけるこーすけの性格が理解できない。
ネクタイをほどいてワイシャツも脱ぐと、よれた肌着一枚になる。するとこーすけからの視線を感じて、そっちを見つめ返す。
「…………なんだよ」
「今のワイシャツ脱ぐ仕草めちゃくちゃエロかったから脳に焼き付けてただけ。肌着一枚ってのもいいし」
「…………いつも寮で裸見てんだろうが」
「外じゃまた違うじゃん。イヌ科はシャツ似合うからいいね」
こーすけは今まであんまり外ではセクハラをしてこなかった。まぁ周囲の目があるんだろうし、もちろん俺もそっちの方がありがたい。たまに尻尾触ってくる程度だったんだけど。こーすけから告白された今、外での行動にどう変化があるのか全く読めない。なんか前と違う空気なのを雰囲気では感じ取っているんだけど。
こーすけを少し観察していると、こーすけが俺の後ろに視線を向けて、また戻したかと思えば、わざとらしく俺に一歩近寄って俺のワイシャツを手に取る。
「あーまたワイシャツくしゃくしゃにしてるじゃん……アイロンかけるの大変なんだから、綺麗にたたんでって前も言ったじゃん」
「は?言ってたか?」
「もう……すぐ忘れちゃうんだから。昨日も約束忘れてすぐ寝ちゃったでしょ?」
「…………約束?いや……そんなのしたか?」
正直こーすけが何を言ってるのか全然わからなかった。そもそも寮ではシャツにいちいちアイロンなんかかけてないし……昨日も寝る前に約束だってしてないはずだ。どうしたんだ急に、頭おかしくなったのか?
すると、
「なぁさぁ、お前らってやっぱ…………そうなの?」
後ろから話しかけられて振り向くと、雄の猿獣人が少し離れたところから興味深けな顔を浮かべていた。
確か佐藤だ。特にちゃんと喋ったことはないけど、名字が覚えやすいから記憶に残っていた。
猿獣人は表情が豊かだ。俺らのことをじっと見つめている。
「そうって……何がだよ?」
「いやだから、付き合ってんのかなって。いつも一緒にいんじゃん?」
あぁそういうことか。元々俺がこーすけとよく一緒にいるのは、こーすけが最初に出来た友達で、寮や学校のことを親切に教えてくれたからだった。そういえば一日中一緒にいるから、恋人なんじゃないかと勘違いする奴も多いだろう。ちゃんと訂正しないと。
「ちげぇよ」
「付き合って"は"ないよ」
俺の言葉に被せるようにこーすけが返答する。なぜかはの部分をやけに強調して言っていたけど……なんか別の意味があるように聞こえる。
するとそれを聞いた佐藤は、あーっと何かを察したような表情になって、分かりやすく黙り込んだ。いや、何を察したんだこいつは。
「……おい、なんか変な勘違いしてねぇよな」
「してないしてない!全然!分かってるから……その、だけど……大人だなぁ、二人とも」
「そう?寮は結構こういうのあるよ。良かったら入ってみたら?」
「いやぁ俺はいいかな……まぁその……お幸せにな」
佐藤は目を合わせないままそっと遠くへ離れていった。あいつと話したのは初めてだったから、もう少し普通の会話を楽しみたかったところではある。やっぱりこーすけとばっかりつるんでるのは良くないだろう。変な誤解を招くし、それを訂正するのもめんどくさいし。ただ都会の人と友達になるのって、数が多い分自分にはけっこう難しい。携帯を持ってないから話題も噛み合わないし。
それはそれとして、こういう俺だけが理解できていない状況のときは、こーすけが何か悪いことを企んでいることがある。
「……お前なんか変な誤解させただろ」
「何が?俺は本当のことしか言ってないよ」
いや、話の内容を聞く限りじゃそうなんだけど、もっとこう……ニュアンス的な部分で変な感じにしたんだろうきっと。
それをこーすけに問い詰めたいと思ったけど、周りのクラスメートはほとんど着替え終わっていて、みんなもう体育館に向かう様子だった。学級委員長の秋沢はとっくに教室から居なくなっている。休み時間も残り少ないし、遅刻したら担任の注意が面倒だ。さっさと着替え終えた方がいいのかもしれない。
「あんまり……俺に意地悪すんなよ」
「ごめんって。だから帰ったらワイシャツ脱ぐとこもっかい見せて」
「嫌だ、変態。ぶっ飛ばすぞ」
俺が適当な暴言を吐くと、こーすけは嬉しそうににこりと微笑んで、俺のワイシャツを勝手にたたみ始めた。まぁたたんでくれる分には文句はないんだけど、そういう変態発言はせめて学校ではやめてほしかった。俺までなんか恥ずかしくなるからだ。
白い体操服の上から新品の青いジャージを着こんで、少し腕を捲る。体育の授業はまだほとんど運動もしていないから大して汚れてない。またこーすけからの熱い視線を感じたので過剰反応せずに、気づかないふりをして教室を出ることにした。
身体測定のカードは個人個人に配られていて、それぞれ受けなければならない検査について明記されている。人によって受ける検査の内容や場所が変わってくるから、二年生の中で種族ごとに別れなければならない。ウルフドッグの俺は狼と同じ検査を受けるらしく、こーすけと別れて指定の場所に向かった。
体育館に着くと白い仕切りが部屋のようにいくつも並べてあって、計測用の機材が各所に並べられている。中には病院でも見たことがないような器具もあって、一つ一つに目を奪われる。
ただ体育館の中に種族ごとの列ができていて、一年生の残りと二年生が入り交じって並んでいる。同じ種族の獣人が列を成している様子は壮観で、かなり珍しく思った。
真ん中の方に狼獣人の列があって、最後尾にそっと並んだ。一、二年生だけでも二十人くらいは狼獣人がいて、前後でぺちゃくちゃ喋っている。どうやらここは体重の列のようで、太ったとか重くなったとか、男子高校生らしい会話を楽しんでいた。
狼獣人は比較的社交性があって、友人を多く作りたがる傾向があると、何かの本で読んだ覚えがある。特に同種族への絆意識が高いのがイヌ科の特徴で、同種族婚の件数もかなり多いそうだ。もちろん個人差はあるんだけど。
それに対して、ウルフドッグの俺はどちらかというと内向的で、一人友達がいる今の現状で満足してる。他人と無理にでも仲良くなろうとは思わないし、イヌ科への愛情も人並みだ。同じ血が半分流れているとはいえ、ウルフドッグと狼は別の種族なんだろうと再認識する。きっと狼獣人の手本は、篠崎みたいなやつのことを言うんだろう。
……そういえば、篠崎はこの列に並んでいるんだろうか。なんとなく会いたくないんだけど。
するとそのとき、後ろから嫌な気配を感じてちらりと振り返る。この匂いは、今朝嗅いだばっかりだ。それが頭から離れないから、困っているというのに。
「センパイおつかれっす!これからすか?」
「…………………………あぁ」
体操服を着た篠崎は、寮で見るよりも少し幼く見えた。体育会系の体つき、高い背のわりに、前を開けている青いジャージは一年生らしく新品のものだ。
さすがに朝つけてた寝癖は無くなっていて、にこにこと笑いながら俺に話しかけてきた。
……本人を目の前にすると、やはり今朝のことが鮮明に思い出される。キスしようとしてた時とはうって変わって、子供のような笑顔を浮かべているけど。
頭にキスする直前に目を瞑った篠崎の表情が浮かんで、少し顔が熱っぽくなるのを自分でも感じた。
「俺去年より身長五センチ伸びてたんすよねー!センパイより高いかもっすよ?」
「……だからなんだよ」
「いや別に。でも高身長って雄のステータスっつーか、久郷田センパイとかいいなって思いません?」
……まぁ確かに身長に差があるだけでなんか負けた気分になるのは分かる。現に今は同じくらいの篠崎に見下ろされる日がくるとしたら、それだけでなんかムカつくだろうな。
篠崎に目を合わせられないまま、まぁな、となんとなくぶっきらぼうに返事をする。
「……じゃあ俺三限あるんで行きますね。また寮で!!」
「ぇ…………あぁ、じゃあな」
軽く手を振りながら背中を向けて、さっさと体育館から出ていく篠崎を数秒間ボーッと見つめる。てっきり授業をサボるついでにしばらく付きまとわれるんだろうと思っていた。下手をすればまた抱きついてきたり、好き好き言ってきたりしたかもしれない。学校でそんなことされたら最悪だ。
……なんだよそれ。何俺篠崎に抱きつかれてるとこ想像してるんだろう。わざわざ気持ち悪いことを自分でイメージするって……わけわかんねぇ。
それにさっきの篠崎が、あまりにも普通の態度だったのに腹が立った。こっちは今朝からずっと篠崎のことが頭に浮かんでて、振り払おうとしてるのに。雄とキスしたんだぞ……もう少し気まずくなったりしないんだろうか。篠崎は、俺のことが好きなんじゃないのか。
「………………いや何考えてんだ俺」
小声で自分自身を叱責する。こうも篠崎のことばっかり考えてしまうのは、俺がキスとかそういうのに不慣れだからだ。間違って事故でキスしてしまったことに過剰反応して、頭から離れないだけだ。相手がたまたま篠崎だっただけで、こーすけでも同じことが起きていただろう。別に篠崎のことが好きな訳じゃない。
…………じゃあ二回目のキスは?
頭の中の意地悪な声が、それを指摘する。二回目の、未遂で終わったキスは……事故でもなんでもなく普通に受け入れようとしていた。篠崎に誘われるがまま、素直に口を開いて。
あの瞬間の感覚がまた甦ってきて、背筋がゾクッと震えた。俺はホントに、どうしてしまったんだろう。これじゃあまるで恋する乙女じゃねぇか。
「…………あのぅ……す、進んでももらっていいですか?」
「えっ……あぁ、すいません……」
一人で悶々と考え込んでいたら、後ろに並んでいた人に注意されてしまった。前が進んでいたことに気づかずに、だいぶスペースを作ってしまったようだ。
早歩きで前の方まで詰めると、ちょうど俺の前の奴が呼ばれてカーテンの中へ入っていった。申し訳なくなって少し俯きながら、床に貼られたビニールテープの白線の前で立ち止まる。篠崎のことばっか考えていてもダメだ。イライラするだけだし、何のためにもならない。
ふと隣の列に目が移った。隣は身長を測っている列のようで、雄の獅子獣人が五、六人ほど並んでいる。その中には秋沢の姿もあって、その手には不釣り合いなほど小さな文庫本を読んで時間を潰していた。
秋沢もそうだけど、獅子獣人は基本的にみんな大柄で、成人になるとほとんどが二メートル近くなる。雌もデカい人が多いから、社会の中でも獅子獣人という種族は存在感があるし、威圧感もすごい。歴代の総理大臣にも獅子獣人がかなり多いと聞いたことがあるし、秋沢も学級委員長だ。きっとリーダーシップのある性格の種族なんだろう。
ただまぁそのわりには、秋沢は尻尾を丸めて猫背ぎみに体を小さく縮めているから、獅子獣人っぽい威圧感はかなり薄い。なんでそんなにびくびくしているのか知らないけど……元々気が弱い性格なのかもしれない。この学園にいるということは、アイツもきっと同性愛者で、雄のことが好きだということだ。たまに忘れそうになるけれど、この学園で普通に過ごしている生徒たちは皆、社会ではイレギュラーなのだ。
「次の方どうぞー」
正面のカーテンの中から女性の声が聞こえてきて、俺の視線を前に向けた。俺も何か本でも買った方がいいかもしれない。一人でいると常になにか考え事をしてしまって、周りに目がいかなくなるからだ。篠崎のことを悶々と考えているより、活字を読んでいた方がよっぽど生産的だ。あまり長いこと集中してられないから、手頃な小説でも探して買ってこよう。
またそんなことを考えながら、目の前の純白のカーテンを開けて、軽くお辞儀をしながら中に入った。
「身長177……体重62……顎の力210キロ。なんか普通のウルフドッグって感じだね」
「……悪いかよ」
「でも俺と12センチしか離れてないんだ。もっと差あると思ってた」
「猫背だからだろ?」
「うん。猫は身長不信ってよく言うもんねー」
四限も終わりかけで昼休みに入る間近の時間、教室に早めに帰って来た二年生たちは互いの検査結果を見せ合いながら駄弁っていた。こーすけもやたらと俺のカードを見たがって、ちらちら実際の俺の体と見比べながら楽しそうに喋っていた。俺は別にこーすけの検査結果なんてどうでもいいんだけど。
「視力2,0……夜行視力も2,0……目めちゃくちゃいいじゃん」
「田舎育ちだからな」
「携帯も持ってないしね……俺なんかそろそろコンタクト買わなきゃいけないのに」
こーすけは暇なときずっと携帯をいじくってるし、日頃パソコンでマンガも描いてる。あれだけ画面を見てたらすぐに目が悪くなるのも頷ける……猫のくせに。
都会の人はみんながみんな携帯を持っていて、授業中や全校集会のときも使っていたりする。持ったことがないから分からないけど、それだけ中毒性があって便利なものなんだろう。俺は機械が苦手だからなんとなくいらない、と思ってしまうけど。
「そういや着替えなくていいのか?」
五限目は世界史だ。体操服で授業を受けると怒られるから、制服に着替えなおさないといけないはずだ。
「掃除の時間で結局汚れるじゃん。五限目の前に着替えればちょっとだけ授業潰せるし」
「…………お前不真面目だよな」
「そう?普通の学生って授業時間がいかに短くなるかのために全力を尽くすもんでしょ」
都会の学生はそういうもんなのか?確かに授業は面白くないしつい考え事をしてしまうけど、一時間くらいどうってことない。みんな遊ぶことしか考えてないんだろうか。
「哲也は真面目すぎるって。なんか趣味見つけたら?昨日とかずっと暇だったでしょ?」
「まぁ……そうだけど」
肩を軽く叩きながら一歩距離をつめてくるこーすけから一歩遠ざかりつつも、趣味について考えてみる。
田舎にいた頃はずっと外で遊んでたし、冬でも海か山で体を動かしていた。自然は常に変化していて、一瞬でも同じ時がない。それを眺めるのも触れるのも、大好きだった。
都会は何も変わらないコンクリートの塊だらけだ。それには全く魅力を感じないし、散歩してたってつまらない。排気ガスと人工物の臭いで溢れてる。
……ていうか、だから本を買おうと思ってたんだっけ。
「……今度の休み本屋にでも行ってくる」
「あーいいんじゃない?学園の周りだと……商店街のとこが一番近いけど。でもあそこ品揃え薄いから、ちょっと遠出してTSUTAYAで買った方がいいかも」
そういえば来週の月曜日は久郷田先輩と出かけることになってるんだった。無理やり約束させられたし、俺は行きたいとは一言も言ってないんだけど。なんで久郷田先輩がわざわざ俺を誘うのかは知らないが、本を買うのはそのときでいいかもしれない。こーすけも連れていきたいと言ったら怒られるだろうか。
「久郷田先輩と出かけるとき……お前もついてきてくれよ」
「なんで?」
「なんか気まずいだろ。ろくに喋ったこともないんだぞ?」
久郷田先輩の下の名前すら知らないのに、二人きりで都会を歩くのは……絶対緊張する。
「だから仲良くなるために出かけるんでしょ?久郷田先輩怖いけどいい人だよ」
「……ていうかなんで俺なんだ?他にもいっぱいいるだろ……」
「哲也が田舎者だからじゃん?都会を案内するって先輩も言ってたし」
「だからって……いきなり二人は気まずい。こーすけも来てくれよ」
俺がそう言うと、こーすけはいつもの呆れ顔になった。この顔をするときは、何かしらバカにされるときだ。
「ホントに分かってないわけ?鈍感ってほんとめんどくさいよね」
「なんだよ。どうせまた俺が何か勘違いしてんだろ?さっさと教えろよ」
こうもいつもバカにされたり嫌味を言われるのは癪だった。半ばヤケクソ気味にこーすけに答えを求める。
こーすけは俺の言葉を聞いてさらに呆れ顔を加速させた。
「開き直らないでよ。なんで久郷田先輩が哲也にあんだけセクハラして遊びにも誘ってるかわかんないの?気になってるからに決まってんじゃん」
「……気になってる?久郷田先輩が?」
「ていうか哲也にセクハラしてる人って、俺と篠崎くんと久郷田先輩でしょ?共通点ってそこしかないじゃん……」
……いや、まさかとは思うが気になってるって、好きってことなのか?こーすけも篠崎も、俺のことが好きだって言って告白までしてきたけど、なら同じように久郷田先輩も俺のことが好きなんだろうか?そんなそぶりは全く感じたことがないけど。
考え込んでる俺を見て、こーすけは面倒そうに欠伸をして、自分の三毛模様の尻尾で遊び始めた。そんなに簡単に断定できるほど、こーすけの目にはあからさまだったのか?
「久郷田先輩は俺のことが好きなのか?」
「……いやまぁ、まだ恋愛感情かは知らないけど。単純にカラダ目当てかもしれないし。あの人性欲には正直なタイプだから」
恐ろしいことを平然と言ってのけるこーすけから視線を外して、教室の天井を見上げる。無機質な白い斑点模様の天井は、ボーッと眺めるには十分で、端から点の数を数え始めている自分がいる。
久郷田先輩が俺に好意を持っていたなんて、俺からしたら衝撃的な話なんだけど。まだちゃんと喋ったこともない相手を、なんで好きになれるんだ?こーすけの言ってることは本当なんだろうか?カラダ目当てにされてるんだろうか?
頭に浮かんだ疑問符を、ひとまとめにしてこーすけに問いかける。
「……なんで俺はこんなにホモに好かれるんだ?」
転入して一週間で二人に告白されて、さらにもう一人増えそうだなんて、明らかに普通じゃない。もしこのペースで増えていくなら、一年たつ頃には学校中の雄に言い寄られることになる。冗談じゃない。
こーすけは数秒ほど考えると、尻尾をいじる手を止めた。
「まぁ要因は色々あると思うけど……ホモから見たノンケって、なんか眩しく映るもんだよ。だって俺ら雄が好きなんだから」
ちょうどそのとき、教室内に鐘の音が鳴り響いた。四限目の終わりを告げる音で、ここから昼休みが始める。教室中がわっと活気づいて、席を立ったり鞄から弁当を取り出す生徒が大半だ。みんな腹が空いてたんだろう。
こーすけも軽くのびをすると立ち上がって、また一つ大きめの欠伸をした。
「ご飯食べ行く?」
「……いや、俺はいい。なんか食欲ねぇから」
「ふーん。購買でなんか買ってこよっか?」
「いらない」
俺がぶっきらぼうに言えば、こーすけはつまらなさそうな顔のまま教室を出ていった。アイツも俺がいないと基本的に一人だ。ほんと友達すくねぇな……俺ら。
寮生は昼ごはんが寮の食堂に置いてあるから、昼に一度寮に帰って食べることになる。他にも購買で適当に済ませることもできるし、選択肢は色々とあって基本的には楽しみなんだけど、今日はなんだか食べる気がしなかった。朝ごはん結構多めに食べたし、体も動かしていない。一食抜いても問題ないだろう。
とはいえずっとこのまま教室にいるのも居心地が悪かった。教室内では既に通学生たちが持参した弁当を食べ始めているし、一人だけボーッと机に座っているのもなんとなく嫌だった。特に前の席の高田がかぶりついている焼きそばパンが少し旨そうに見えて悔しかったから、俺も教室を出て校内を散歩することにした。もし途中で腹が減ったら、結局寮に行くことになるだろうけど。
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学園内には基本的に四つの棟に分かれていて、その周りにちょくちょく小さな教室が建っている感じだ。
まず本棟と呼ばれる職員室や校長室がある一番大きな棟があって、音楽室や調理実習室などの特殊な教室はほとんどここに集まっている。人の出入りも多くて校門の目の前にあるから、普通の生徒もよく行くところだ。講義室もデカいのがここにあって、たまに使うらしい。
そして本棟とは別に、学年ごとに三つの棟が建ってあって、それぞれ一年棟二年棟三年棟って呼ばれている。二階建ての横長の作りで、それぞれの学年の教室がここにまとまっている。他には講義室と自習室、あと文化系の部室が備わっていたりして、自分の学年の棟には毎日通うことになる。三つの棟は横並びになっていて、二年生の教室から三年生の教室前の廊下が見えて、たまに寮の先輩がいるのを発見したりする。
三つの棟それぞれの間には広い中庭があって、芝生の上に園芸部がガーデニングをしている花壇が設けられている。いくつかベンチも置いてあるし、憩いの広場、という印象だけど、二階の教室からその様子が丸見えなので、座っている人は普段から少ない。たまにカップルで昼休みにイチャイチャご飯を食べている人たちがいるけど、俺はちゃんと目を逸らすようにしていた。
中庭に出ると、案の定誰もいなかった。天気のいい日は散歩に来ている人もいるんだけど、今日は雨が降りそうな曇天だ。昼御飯を食べるのも教室内の方が賢明だと考える人が多いんだろう。俺もそう思う。
でも誰もいないのはかえって都合が良かった。誰からの視線も気にせずに、ゆっくり考え事ができる。今日は朝から俺の頭を大きな悩み事が占領していて、それが解決するまではなかなか食欲もわかない。
中庭の端の方のベンチは、二つの棟から死角になっているから、教室からわざわざ覗こうとしない限り座っているとこが見えない。こんな曇りの日に外なんか見ないだろとたかをくくって、端のベンチに一人で座る。ひんやりとした感触が、ジャージ越しに尻に伝わってきた。
一度ため息をついてから、楽な姿勢で篠崎について考えてみる。
まず俺は雌が好きだ。至って普通のノンケで、誤って稲光に転入してきてしまった。これは大前提だ。
だけど今朝、俺は篠崎からのキスを受け入れようとしてしまった。別に篠崎のことが好きな訳じゃない。アイツはどちらかというと性格的に苦手なタイプだし、そもそも雄だから。ならなんで、俺はキスしようとしたのか……その理由を知りたかった。
場の空気に流されたから?親のいない篠崎に情が移ったから?どちらも違う気がする。あのとき俺は何を考えていたのか、何を思っていたのか。今では全く理解できない。過去の自分の行動が信じられない。
篠崎は……雌からしたら魅力的な雄なのかもしれない。当然雄が好きなホモたちにも。筋肉質な体にさっぱりした明るい性格、顔だって悪い方じゃない。背も高いしコミュ力もあって、交友関係も広い。誰とでも仲良くなれる、イヌ科っぽい人柄だ。
でも俺は、社交的すぎる篠崎のことは少し嫌いだった。無神経でうるさいし、周りを考えずにセクハラしてきたりする。先輩に懐いてくる反面、同級生にはよく迷惑をかけている。
……じゃああの、たまに見せる優しい篠崎は?
こーすけとケンカしたとき、今朝俺がホームシックになっていたとき。篠崎は誰よりも優しくて、大人びた表情を見せる。あのときの声はゆったりしていて、別にうるさいとは思わない。普段の篠崎には抱き締められたら不快になるのに、今朝はそれほどでもなかった。それどころか自分から抱き締められに行ったくらいだ。
どっちが本当の篠崎なのかはわからない。どっちも本当なのかもしれないし、両方演技だったりするのかもしれない。でもきっと俺は、あの優しいときの篠崎のことは好きで、うるさいときの篠崎は嫌いなんだ。
じゃあ結局、俺は篠崎のことをどう思っているんだろうか?
「……あ、あの……隣いいですか?」
そのとき不意に話しかけられて、はっと前を見ると、ジャージ姿の雌の縞馬獣人が片手に弁当を持って立っていた。その顔は昨日見たところだった。
「島村さん……ですよね?」
「そうです、縞縞軒の。昨日利根川くんとお店に来てましたよね?私失礼な態度とっちゃって……ほんとごめんなさい」
言葉と共に軽く頭を下げる島村さんに、いやいや、と慌てて否定する。確かこーすけと喋るのに夢中で、俺に気づかなかった、って程度のことだった。
「全然気にしてないから大丈夫です。隣……座りますか?」
「はい……お弁当食べてもいいですか?」
「ど、どうぞ…………」
今の俺は、少し頭が真っ白になっていた。同級生の女の子とちゃんと喋ることなんてかなり久しぶりだし、急に俺に話しかけてきたと思ったら、友達のように隣で弁当を食べるって…………。なんでなんだろうか?という疑問と共に、女の子と喋る緊張で体が強ばっているのを感じた。尻尾がピンと固くなる。
……そして嬉しい。女の子がこんなに近くにいることが。
島村さんは弁当をごそごそと開けながら、明るい口調で話しかけてきた。
「隣のクラスの渡嘉敷くんですよね?二年から転入してきたって聞いてます」
「そ、そうです……だからまだ、あんまり学校のこととかわからなくて」
「すぐ慣れますよ!みんなちょっと性癖が特殊ってだけで、普通の学校ですから」
島村さんはにこにこと俺に笑いかけてくれた。その笑顔を見て、シンプルに可愛いな、と頭に文字が浮かぶ。
「……それと、同級生……だから、タメ口で喋ってもいい?」
「あ、あぁ……全然。俺もそっちの方が楽だし」
正直同級生なのに敬語はなんか距離を感じるし、タメ口でいいならそれが楽だ。あまりぶっきらぼうにならないように気をつけて喋らねぇと。
島村さんはピンクの弁当箱を開けた。中には炒飯や餃子なんかが入っていて、流石ラーメン屋の娘だなと思う。俺の視線に気がついたのか、島村さんは照れ笑いを浮かべながら、そっと弁当箱を差し出してきた。
「お店の残りをお弁当にされちゃうの。お父さんそういうの気にしないから。良かったら食べる?」
「……いいのか?」
「うん。毎日食べてるから飽きちゃったの」
女の子から弁当の具をもらうなんて、俺にしてはスゴい出来事だ。すぐにカイに自慢したくなった。
弁当の端に詰められている餃子を一つ指でつまむと、一口で口に頬張る。冷えているとはいえ、縞縞軒の餃子はめちゃくちゃ旨かった。
俺が味わって食べているのを嬉しそうに見つめる島村さんに、顔が少し赤くなるのを感じた。
「渡嘉敷くんは寮生?利根川くんと仲良いの?」
「あぁ……まぁ。こーすけとはルームメートだから」
「名前で呼びあってるの?」
「あぁ。特に理由はねぇけど」
すると島村さんはまた少し嬉しそうな顔をして、そっか、と呟いた。
「……利根川くんって一年の頃から友達いなかったから、渡嘉敷くんが仲良くて安心した」
「アイツ意地悪だもんな」
「まぁなんていうか、猫って感じの性格よね。つかみどころがないっていうか、気まぐれ屋さんっていうか」
島村さんとこーすけは、確か雄同士の恋愛が好きなオタク友達だとこーすけから聞いた。正直オタクって種族がどんな性格なのか知らないから、特に何も思わないけど…………雄の恋愛が好きっていう時点で、島村さんも普通ではないんだろう。
「その、利根川くんとは……付き合ってるの?」
すると急に直球の質問がきた。やはりこーすけについても気になるんだろう。もう何回も聞かれてきた質問だ。
「いや。アイツとは友達ってだけだ」
「……え、ちょっと意外……利根川くんウルフドッグ大好きなのに」
驚いたような表情で俺を見る島村さんに、告白されたことを言おうかと迷ってやめた。まぁ言ってもしょうがないし、色々と複雑な事情がある。全部説明するのは面倒だ。
島村さんは炒飯を口に運びながら、饒舌に喋り始める。元々おしゃべりな気質なのかもしれない。
「私……利根川くんが描く同人誌のファンなんだけど、その同人誌によくウルフドッグが出てくるの。だから絶対渡嘉敷くんのこと好きだと思ってた……」
島村さんの読みは間違いなく合ってるし、現にセクハラも告白も幾度となくしてきている。あいつがそんなにウルフドッグ好きだったことに少し引いてるけど。
「渡嘉敷くんは……好きな人いるの?この学園に転校してきたってことは、そういうことでしょ?」
……そういうこと。つまり雄好きってことだ。島村さんはほぼ初対面だっていうのにかなり遠慮がない。雄同士の恋愛が好きっていうこーすけの情報に間違いはないようだ。俺に話しかけてきたのも、こーすけと俺が付き合ってるとふんでのことか。
島村さんの思考回路が分かってきて少しテンションが下がるのを感じつつも、真面目に答えることにした。
「好きな人はいねぇよ……それに俺ノンケだし」
そう言いながらも頭には篠崎の顔が浮かんでいて、鬱陶しく思う。篠崎は好きではないけど、今ちょうどなんなのか分からなくなってるところだ。
すると島村さんは目を丸くして驚いていた。まぁそりゃそうだろう。
「えっ?ノンケなのに稲光に転校してきたの?なんで?」
「……ここがそういう学校だってこと知らずに間違えて転校してきたんだよ」
「えーでもパンフレットにも分かりやすく書いてあるし……普通間違える?」
島村さんの声には多少の笑いが含まれていた。俺のあまりにも間抜けな人生最大の失敗を、思わず笑ってしまうのは無理もない。こーすけにも笑われた。
俺が小さくため息をつくと、それに気づいた島村さんは声のトーンを落とした。
「ぁ……いや、なんかごめんなさい。ほとんど初対面なのに失礼よね……私ちょっと、無神経なところがあって…………」
「いやいいよ。俺がバカなだけだし」
少し落ち込んでいる島村さんにフォローを入れつつも、確かに無神経だな、と思った。いくら雄同士の恋愛が好きだからって、初対面の雄に好きな人まで聞くだろうか?オタクってそういう種族なんだろうか。
「……でも、この学校で異性愛者は大変よ?まず相手なんて見つからないし……同性から言い寄られるかもしれないし……」
「まぁ……そうだろうな」
既に居心地の悪さを感じているところだ。学園内は同性カップルで溢れかえってるし、それを間近で見ながらも、俺自身毎日言い寄られているところだ。
「それにこの学校って、普通の学校以上に男女の距離が遠いの。好きな女の子が出来ても、話しかけるだけでも大変よ」
「…………なんでだ?」
「うーん……一言で言うのは難しいけど、普通の学校の女の子が男の子に話しかける理由って、彼氏が欲しいとか、男子から可愛く見られたい、とかその程度なのよ。でもこの学校じゃその相手も雌だから、男子に話しかける理由がないのよね」
島村さんが淡々と説明する度に、俺の心は少しずつ暗くなっていく。いやもう分かってはいたことだけど、俺が彼女を作るのは非現実的なことらしい。そう考えると相田先輩はよく雌の彼女を手に入れたなと思う。話しかけるところからも困難な道のりなのに。
俺が露骨にテンションが下がっている様子を見てか、島村さんはフォローするように慌てて言葉を足す。
「でも別に仲が悪いわけじゃないの。異性愛者の生徒も少ないけど通ってるし、全然普通に学校生活楽しんでるし……」
「いやまぁ厳しいことは分かってる。大丈夫だ」
「なんか……同情するわ。意外と雄もいいかもよ?」
「…………………………………」
いくらこの学校で彼女を作るのが大変だからといって、雄好きになることはないだろう。そこまでして恋人が欲しいわけじゃないし。
「…………島村さんは?レズビアンなのか?」
「ううん。私まだ恋愛感情とかそういうの分かんなくて。この学園に入ったのは、男の子同士のカップルを見るのが好きだから。私腐女子なの」
「なんか堂々としてんな……特殊な趣味なのに」
「……この学校にいると、不思議とアブノーマルな癖を公言することが全然恥ずかしくないの。渡嘉敷くんは特殊な性癖とかないの?」
やはりズケズケと他人の心に踏み込んでくるなこの人……本人も自分をさらけ出すことに抵抗はないようだし、元からさっぱりした無神経な性格なのかもしれない。始め女の子と喋っている事実に喜んでいた俺は、想像とは違う方向へ走っていく会話に、とっくになりを潜めていた。
……特殊な性癖って、そんなの無いとしか言いようがない。そもそも俺は至って普通に女の子が好きな普通の青年なんだから。
「…………強いて言うなら、ハグが好き……なくらいだ」
自覚したのはさっきだし、まだ自分でも認めてはいないけど。雄にも衝動的にハグしてしまうくらいなんだから、多分それが好きなんだろう。本来彼女にしたいことなんだけど。
俺の返事を聞いて、目を丸くする島村さん。
「なにそれかわいい…………てか渡嘉敷くんってわりとオラオラ系の攻めキャラだと思ってたけど案外リバもありな感じ?利根川くんは誘い受けっぽいけど攻めもいけるのかな……えーてか二年ってことは上も下もワンチャンあるじゃん!私利根川くん以外認めないからね!!」
「うるせぇななんだよっ!!」
急にテンションが上がったのか早口でべらべらと訳のわからないことをまくし立てる島村さんに少しうんざりする。オタクってこういうやつのことを言うのか。
……女の子が話しかけてきてくれた、と思って喜んでいたけど、この学園で雄に話しかけるような人には変わり者しかいないんだろう。ラーメン屋で親の手伝いを頑張る素直な少女だと思っていたのに、理想と現実は違うものだ。
「……ていうか渡嘉敷くん告白とかされたことないの?普通にモテると思うんだけど。童貞臭すごいし」
「………雌にはねぇよ」
「え?じゃあ……もう告白されたの?まだ新学期始まって一週間なのに?」
雄に告白されたとわかっただけで露骨に嬉しそうな顔をしないでほしい。そういう趣味だと理解はしたけど、まだその価値観には慣れてないから。
「……あぁ、寮の後輩と……こーすけに」
下手すれば寮の先輩も加わる可能性があることは伏せておいた。なんとなく嫌な予感がするし。
自分で省みても、雄二人に告白されるなんて異常だ。さっきのこーすけとの会話を思い出したけど、俺はやたらと雄にモテるタイプなのかもしれない。
島村さんは飯を食べる手を止めて、しっかりと姿勢を正してこっちに体を向けた。
「……詳しく聞かせて?」
「嫌だ」
「えーーーなんでよ!!三角関係でしょ!?しかも利根川くんでしょ!?めちゃくちゃ気になるもん!!」
「………………………………」
もう文句を言うのも疲れた。こんな面倒なことになるなら素直に答えなければよかった。カイ、俺は想像以上に変な学園に放り込まれてしまったようだ。
「……あ、でも……やっぱり返事は断ったの?」
「あぁ……俺ノンケだから」
島村さんは少し残念そうに俯いて、黙り込んでしまった。きっと雄同士の恋愛が見れないことだけでなく、友達のこーすけが失恋した、ということにも残念に思っているんだろう。実際こーすけ自身は、ショックを受けるどころかますます変態さを増しているくらいなんだけど。
でもそのとき、篠崎のことが頭をよぎった。
「…………だけど後輩の方には、自分でも気持ちが分からなくなってる」
「…………というと?」
「なんか…………普段はうるさくてバカなやつなのに、急に優しくなって、大人びて……そういうときのアイツには、抱き締められても嫌じゃない……っつーか」
声に出してみると、ずいぶんと気恥ずかしいことを悩んでいたんだな、と自覚する。それと共に、ほぼ初対面の相手になんてことを相談してるんだ、という理性もあって。
「それで……今朝間違ってキス……して、それからアイツの顔が頭から離れなくなってる…………」
でも今はその理性を抑え込めるほど、悩みを解決したいという気持ちが強かった。きっと誰かに相談したかったんだろう、俺は。誰かに肯定してほしい、俺は篠崎のことなんか好きじゃないって。
島村さんは頬に手を当てて、なにか考えている様子だった。この話だけ聞いても、パッと答えが出せるわけがない。でもきっと彼女なりに、何かアドバイスをくれるんじゃないだろうか。
「…………嫌なの?彼の顔が浮かんじゃうのは」
「嫌だ……その、顔を思い出すと……キスのことまで考えちまうから……恥ずかしくなる」
「ふーん……じゃあ、彼のことが好きなのかどうか、渡嘉敷くん自身も分からなくなっちゃってるのね?」
「………………まぁ……そうだな」
簡潔に言えばそういうことだ。もし全く好きでもなんでもなかったら、篠崎とキスをしたことなんか最悪な思い出としてすぐに忘れてしまうだろう。でもそれが何度も甦ってくるってことは、俺は少なからず篠崎のことが気になっていた。
「……じゃあ、確かめる方法は一つしかないんじゃない?」
「なんだよ……」
島村さんは、俺の目を見つめながら真面目な顔で言ってのけた。
「彼ともう一回キスするの。そのときの気持ちが、渡嘉敷くんの本心だと思うわ!」
「…………お前キスさせたいだけだろ」
俺は他人の感情には鈍感だけど、このときの島村さんの心情は俺でもわかった。
「えーーなんで分かったの!?てか恋する乙女の顔でそんな相談されたらキスさせたくなるでしょ!!その後輩くんの顔見てみたいなーーでもやっぱ利根川くん推したいし、絶対そっちの方がお似合いだと思う!」
「……………………………………………………」
もうなんだか呆れてしまった。俺で勝手に妄想するな気持ち悪い。百歩譲って考えるのはまだしも、本人に直接言ってこないでほしい。女の子なのもあってこーすけほど邪険にはできないけど。
最初は可愛い普通の女の子だと思っていたけど、稲光の生徒っていうだけあって確かに変人だ。
「あぁ……またなんか……ごめんなさい。目の前で同人誌みたいな恋愛が起こってたから、つい取り乱しちゃって。渡嘉敷くんからしたら、こんなの気持ち悪いだけだもんね……」
「……まぁな。考えんのは勝手だけど」
「……でも私が言うことじゃないけど、この学校の生徒は自分の性癖にオープンな人が結構多いの。慣れておかないと大変だと思うわよ?」
「あぁ、分かってる」
きっとまだあまり、俺は実感が沸いていないんだろう。どこかこの学園の生徒と俺は別の世界の住人で、部外者です、という気分で生活している節がある。だからこの学園の生徒たちの露骨な愛情表現にも、いちいち反応してしまってるんだろう。慣れ、というのは確かに必要なのかもしれない。
「まぁ……その、私腐女子だけど、渡嘉敷くんにいい女の子の恋人ができることを祈ってるわ。なんか可哀想になっちゃって……」
そう言って島村さんは弁当の蓋を閉めて、ベンチから立ち上がった。同情されても仕方ないのだけど、だったらせめて俺で変な妄想をするのはやめてほしい。なんかこーすけとくっ付けたいようだけど、当然そんな気はさらさらない。
「ありがとう、お話できて楽しかった。また三角関係に進展があったら、良ければ教えてね。恋の相談だったらいつでも乗るから」
「しねぇよ。また変な妄想されたら嫌だし」
俺がそう言うと、島村さんは緩く微笑んでじゃあね、と小さく手を振りながら校舎の方へ戻っていった。その外見だけ見ていればとても可愛らしく、至って普通の女の子なんだけど、人は見かけによらないものだ。
……人は見かけによらない、か。考えてみれば、人には外面と内面が全く違う場合だってあるんだ。俺の周りにいる人も、見掛けでは想像もつかないような考えを持ってる可能性もある。こーすけは寂しがり屋かもしれないし、篠崎は陰湿な一面があるかもしれない。
……いや篠崎に限ってはないだろうな。なぜかそこは少し安心しきっている自分がいた。自分でもなんで、篠崎を信用しきっているのかは知らないけど。
ボーッと曇り空の下の中庭を見つめる。晴れていたら綺麗に咲き誇っているように見える草花も、この天気の中じゃふてくされているように見える。
……もう一回キスする……のはどうなんだろう。正直嫌だ、むさ苦しい雄とキスするなんて。島村さんは冗談半分にアドバイスしたに違いない。それかからかっているのか。実際篠崎にキスしようぜなんて絶対言いたくないし、言ったらどんなえっちなことされるか分かったもんじゃない。キスする案は愚策だ、間違いなく。
また悶々としたループに入りかけていたときに、今度は低い雄の声が聞こえた。
「…………渡嘉敷くん、隣……いい?」
声の主の方へ顔を向けると、申し訳なさそうな顔をした獅子獣人……秋沢が立っていた。手には島村さんと同じく弁当箱を持っていて、俺の隣で食べたいようだったけど。
あまりにもビクビクしているので追い払うのも申し訳なくなり、座るのを了承することにした。このベンチ人気なのか?
「いいけど……なんか用か?」
「あっいや……俺……毎日ここで食べてるから…………」
「ふーん。邪魔して悪いな、俺どっか行くから」
嫌味のつもりはなく、単純に退いてやろうと思ったんだけど、俺が立ち上がりかけるとデカイ手で制されて、また座らされた。
「いやいやあの…………と、渡嘉敷くん……とも……話したかった……から」
恥ずかしそうにボソボソと呟く秋沢のために少しスペースを多めに開ける。なんでこんなにおどおどしてるんだろうか。相手はただの同級生だってのに。
秋沢は恐る恐るベンチの端の方に腰かけると、俺の方をチラチラと見ながら弁当箱に手をかける。
「…………すげぇ豪華な弁当だな」
「えっ………や、やっぱり……変かな」
秋沢の弁当箱は黒光りする重箱に、金色で蘭の模様が描かれた高級弁当みたいな見た目をしていた。中身も中身で、黒ごまがふりかけられた白飯の他に、ぎゅうぎゅうに詰められた多種多様なおかずたち。並べる順番も考えられているのだろう、色鮮やかな芸術作品がそこに出来ていた。
……まぁ変だ。男子高校生の昼の弁当にしては、めちゃくちゃ豪華だろう。
ただそれを指摘するのも憚られて、特に何も言わないことにした。本人も気づいているようだし。
「……渡嘉敷くん……は、もう……学校には慣れた?」
「あぁ……まぁ知らないことはたくさんあるけど、こーすけにその都度教えてもらってるから、特に問題ねぇよ」
「利根川くんと……仲良いよね?」
「同じ寮生で、ルームメートだからな」
大抵この後の質問は、二人は付き合ってるの?だ。この学園じゃ雄が仲良くしてるだけでも恋仲を疑われてしまう。秋沢も聞いてくんのかなと思ったけど、そこまでプライベートに首を突っ込む気はないらしい。姿勢よく綺麗な所作で弁当を食べ始めた。
「…………………………………………………………」
「…………………………………………………………」
しばらく無言の時間が続く。そもそも向こうから話しかけてきたんだから、俺が何か話題を見つける必要はないんだけど、初対面の相手と並んで座っているのに無言は気まずい。何なんだコイツ、俺と話したかったんじゃないのか。
「…………数学の授業」
「………ッッッ!!!」
俺がそう呟いただけで秋沢は肩をビクッと跳ねさせた。あの一件は本人のなかでもかなり心にくるものらしい。
「…………退屈だったな。俺数学苦手だからさ」
「そ、そうだね…………」
「秋沢は勉強得意そうだな。いっつも本読んでるし」
「……そうでもないよ。もっと頑張らなきゃ」
言葉と共に秋沢は、弁当を食べる手を止めてまた少し俯いた。目の色は悲しげで、どこか落ち込んでいるようにも見える。
秋沢は常に何かに怯えていたり、虐められているんじゃないかと思うほど気弱で、自信がない。
聞くつもりはなかった。本人に自覚があるなら、不快にさせるだけかもしれなかったから。
「…………お前なんでそんなにビクビクしてんだよ。体も態度もデカいのが獅子獣人だろ?」
聞くつもりはなかったのに、秋沢の態度に少しイライラしていた俺は、疑問のままで終わらせることができなかった。
秋沢はさらに体を縮こませる。どんなに丸めても、俺よりは小さくならないのに。
「…………俺……は、なんにもできないから。父上に比べたら……」
「俺……ってのも似合ってねぇな。なんか無理やり俺って言ってねぇか?」
正直初対面の相手の相談に乗るつもりもなかったし、なんだか面倒くさそうな話だったから文句だけ言ってやろかと思っていた。ただあまりに悲壮感漂う出で立ちに、何が原因なのかを知りたい好奇心も相まって、俺は素直に質問を投じていた。
秋沢は自嘲するように小さく笑う。
「母上に、俺……って言うように言われたんだ。自信家で傲慢な獅子獣人っぽく見えるから」
「…………真逆な性格のくせに?」
「うん…………でも俺はそうならないと」
……ほんと俺は何やってんだろう。きっと都会の高校生の人付き合いなんか、表面上でふわふわと会話をするのが当たり前なはずだ。テレビで見た高校生はみんなそうだった。
なのに現実は大きな悩みを抱えてそうな獅子獣人のカウンセリングをしそうになってる。めんどくせぇと突っぱねればいいのに、何やってるんだか。
「秋沢……って、たまにテレビで見る秋沢財閥のことか?」
「…………うん。よくわかったね」
「見るからに金持ちそうな弁当持ってたからな。当てずっぽうだけど」
初めて聞いたときから秋沢という名前に聞き覚えがあったから、記憶を掘り返してみたら、確か小学校の社会の時間に財閥について勉強したとき、秋沢の名前があったのを思い出した。テレビのcmなんかにもちょくちょく名前が出てるし、普通に生活してれば一度は聞いたことがあるだろう。
……そんな有名な財閥のお坊ちゃんがなんで稲光なんて庶民の学校にいるんだろう。金持ちって専用の学校に通っていそうなイメージがあったんだけど。
「……んで秋沢財閥の跡取りが俺になんの話だよ」
「あっ……いや、そんな大層な話じゃなくて、学級委員長として……転校生が学校に馴染めてるか……気になったから」
「それだけかよ。十分馴染んでるから心配すんな」
本音は全然馴染めてないし居心地も悪いけど、秋沢に愚痴なんて言ったらもっと萎縮して喋りづらくなるだろう。
「分からないことがあったら……なんでも聞いてね」
「…………あぁ」
まだ少ししか話してないけど、とにかく秋沢が真面目な奴だということは分かった。委員長としての義務感からか、気弱で人見知りのくせにクラスメートに気配りをしようとしている。
俺は口調がぶっきらぼうに聞こえるときがあるから、秋沢からしたらそれも怖いんだろう。人の心配をするくせに未だに怯えた態度のままだ。
「…………失礼だとは思うけど、お前友達いんのか?」
こんなに一挙動ずつビクビクしているような秋沢こそ、この学校に馴染めてるようには見えなかった。
俺の質問に数秒間動きを止めて考え込んだあと、秋沢は愛想笑いを浮かべた。
「いない…………かな。みんな俺が秋沢財閥の一人息子って聞くと……なんか気を使っちゃうみたいなんだ」
「……まぁそりゃ他の奴と一緒の扱いをするのは無理だろ」
いい意味でも悪い意味でも、ずば抜けた金持ちっていうのは庶民からしたら距離を置きたくなる存在だろう。話も合わなさそうだし、フランクな友達にはなれそうにない。あくまでイメージなんだけど、それのせいで色々と苦労してそうだ。
「…………ごめんね、なんか………こんな暗い話聞いてても嫌なだけだよね」
「いや、聞いたのは俺だから……そうやって反省される方がやりづれぇよ」
俺も別に人付き合いがいい方じゃないけど、秋沢はもっと酷いかもしれない。友達がいない、という現状も相まって、余計に人見知りを加速させているようだ。
「……どう……したら、友達できるかな」
「……俺に相談されても………俺も友達すくねぇし」
今パッと思い当たる友人は二人しかいない。俺なんかに聞くより、篠崎とか高田とか、社交性にパラメーターが振り切ってる奴に相談した方がいい。大抵バカだからあてにならないかもしれないけど。
……ただまぁ、そんな俺でも言えることは、
「……でも友達って、なろうと思ってなるもんじゃねぇと思うぞ。なんとなく居心地がいい相手を見つけて、気づいたら友達になってる…………つーか」
自分で言ってて段々自信がなくなってきたけど、多分今の若い世代の友情関係なんてそんなものなんだと思う。俺がこーすけと友達になったのだって、たまたまルームメートで長い時間一緒にいたからだし。
秋沢は俯いていた顔を上げて、初めて俺に目を合わせた。秋沢の顔を正面から見てみると、案外端整な顔立ちをしていることに気がついた。年のわりに鬣も立派だし、獅子獣人としてそんなに自信がないことに疑問を覚える。コンプレックスもなさそうだけど。
「…………と、渡嘉敷……く――――――」
「お前…………目がちょっと赤っぽいんだな」
「ぇ…………いや……これは…………生まれつき」
今まで気づかなかったけど、秋沢の目は黒目の周りが少しだけ赤くなっていて、獅子獣人には珍しい瞳の色をしていた。俺がじっと観察していると、気まずそうにそっと顔を逸らされた。もしかしてこれがコンプレックスだったりするのかもしれない。
「へ、変だよね…………気にしないで」
「……………………綺麗だな」
「……………………きれい?」
「あぁ。別に変じゃねぇと思うぞ。なんかかっこいいし」
「そう……かな」
「あぁ」
フォローのつもりでもなんでもなく、単純に赤色の目は綺麗だと思った。金色の鬣、赤い目に黒い瞳。それだけで豪華な印象を受けるし、獅子獣人というのはつくづく派手な生き物だな、と思った。自信家な性格はそういう外見からもきているのかもしれない。
さっきまでピンと張っていた、秋沢の尻尾が少し揺れているのが目に入った。
「…………そういやなんか言いかけてたな。なんだ?」
「……ぁ…………ううん、なんでもないよ…………」
言葉と共に、秋沢は豪勢な弁当箱の蓋を閉めた。まだ半分以上残っていたと思うけど、勿体ないことにどうやら残してしまうらしい。
「……そろそろ、生徒会の集まりがあるから……」
「ふーん…………忙しいな」
「全然だよ……」
秋沢は鞄に弁当箱をしまうと、ベンチから立ち上がって少し伸びをした。体の大きさは違うけど、さすが同じネコ科というか、体の動きは立ち上がったときのこーすけと全く同じだった。きっと俺自身も気づいていないだけで、イヌ科っぽい言動をしてしまっているんだろう。
……種族の壁は越えられない。この世界はいつだって、互いに無い物ねだりをしているんだ。
「……えっと…………喋ってくれてありがとう…………」
「…………んだよそれ。お前誰かと喋る度全員にそんなこと言ってんのか?」
「…………いや、渡嘉敷くんは……普通にしゃべってくれたから」
秋沢は高い目線で俺を見下ろしながら、口元を綻ばせて微笑んだ。その言い方だと、他のみんなは普通に喋ってくれない、という風に聞こえるけど。
……それは多分単純に俺が世間知らずで、秋沢財閥のすごさをあまりよく分かっていないからなんだろう。こーすけにもよく言われるが、俺は情報弱者だ。秋沢がすごいところの金持ちなのはふわふわと知ってるけど、実際どのくらいスゴいのかは分からない。ただ秋沢からしたらそっちの方が接しやすいようだ。
またね、と呟くと秋沢はまた背中を縮こませて廊下の端を歩いていった。恐る恐る歩くのは、もはや癖になってしまっているのかもしれない。
その背中を見ているとなんだかこっちまで不安な気分になってきたので、そっと視線を逸らした。空はまだ曇っていて、中庭も暗いままだった。
放課後になると、部活にも入っていない俺とこーすけはすぐに帰宅することになる。あまり学校に残っている意味もないし、放課後は特にカップルでたむろっている姿を多く見かける。それから目を背けたかったのもあって、なるべく急いで帰ることにしていた。
教室で、帰りの支度をするこーすけを待っていると、急に後ろから肩を組まれて、耳元でデカイ声で叫ばれる。
「渡嘉敷っ!!もう帰んのか?」
「……っ、うるせぇよ…………………」
声の主はわざわざ振り返らなくても高田だと分かった。元から声がデカいくせにこんな至近距離で喋ってくんなよ、バカ。
なんの用事かは知らないけど、こいつに絡んでもあまり良いことがないような気がする。肩に回された太い腕を振り払った。
「昨日遊び行く約束したろっ!?日付決めようぜ!」
「ぇっ…………いや、約束はしてねぇだろ……」
正直なところ忘れていた。こーすけはどうせ高田も忘れているから気にしなくていいと言ってたから、冗談みたいなものだと思ってたけど。
困ってこーすけをチラ見すると、無表情のままじっと俺の顔を見つめていた。何を考えているのかは分からないけど、助けてはくれなさそうだ。
「んでっ!いつなら空いてるんだっ?」
「人の話聞けよ!行くなんて言ってねぇだろ」
相変わらず強引な話の進め方をする奴だ。人の話しなんか聞いちゃいないし、相手に気を遣わない。ある意味秋沢とは真逆の性格をしてるだろう。同じ大型のネコ科だってのに。
高田はどこからか紙を取り出して、俺の前で拡げて見せた。表のようなものが書いてあって、それに名前が印字されてる。どうやらスケジュール表のようだ。
「えっとなーーっ!!……………………俺来週の月曜しか空いてねぇや!来週の月曜遊ぼうぜ!!」
「だから行かねぇって言ってんだろ…………」
それに来週の月曜って久郷田先輩と出かける約束がある日だ。そっちもそっちで強引な約束の仕方だったけど、高田と出かけるよりは久郷田先輩の方がいい。うるさくないし。
「来週の月曜は寮の先輩と出かけるから……無理だ」
「えぇーー!!マジかよっ!!んじゃ今月は無理だなぁーー」
ようやく俺の声が聞こえたようで、あからさまに残念そうな顔でこっちを見ている。予定があると言ったらすぐ引いてくれるあたり、そこまで自分勝手じゃないことに安心する。
……にしてもなんでコイツそんな俺と出かけたがってるんだろう。久郷田先輩以上にお互いのことを全く知らない仲だ。この学園の人は初対面の相手との距離の詰め方が早すぎるような気がする。
高田は本当に残念そうで、まだぶーぶー言っていた。
「くそーーせっかくの休みなのになぁっ!!遊びに行けないなんてなぁー」
「…………別に俺じゃなくても他のやつ誘えばいいだろ」
「えぇーー!!渡嘉敷がいいんだけどな!!」
まだニャーニャーうるさい虎獣人を無視して、またこーすけの方をチラ見する。高田と喋るのはこーすけの方が得意なくせに、助けてくれる様子はない。わざとらしいくらいゆっくりと教科書を鞄に丁寧に入れていき、俺が帰る時間を先伸ばしにしているようだ。俺が高田に絡まれているのを見て面白がっているんだろうか?
「まぁじゃあ別のやつ誘うかーー渡嘉敷がよかったんだけどなっ!!」
「……なんで俺なんだよ。誰でもいいだろ」
「よくねぇよっ!!だって渡嘉敷可愛いからな!」
「…………………………は?」
またしてもデカい声で、何やら馬鹿げたことを言い始めた高田。そういえば昨日会ったときも可愛いと言われたのを思い出す。雄の俺を可愛いと思う歪んだ価値観はさておいて、今はそれよりも多く人の残っている教室で堂々とそれを言い放つことが問題だ。
案の定周囲の喋り声が数秒間止んだし、やたらと視線を感じる。今まわりのクラスメートたちは何を思っているんだろう。俺は恥ずかしさと苛立ちで体中が熱くなってるってのに。
「いやだから、渡嘉敷可愛いだろ?見た目が!」
「……っ、とりあえず黙れよお前!!」
コイツはほんと空気が読めないというか、周りのこととか目に入っていないんだろうか?それとも目に入った上で気にしていないんだろうか?
なんでもいいからこれ以上恥をかかせないでほしい。教室の端から聞こえてくるヒソヒソ声が、今はどんな騒音よりもうるさい。
高田はきょとんとした顔で、なんで俺に黙れと言われたのかも分かっていないようだった。
「……あんまり人が多いとこで可愛いとか言うなよ」
「なんで!?」
「っ、俺まで恥ずかしいからだよ……みんなこっち見てんだろうが」
俺の言葉を受けて、素直にキョロキョロと周りを見渡す高田。もしかして気づいてなかったのか?どういう神経してるんだこいつ。
「んーーー別にいいじゃんっ!!お前可愛いし!!」
「……………………………………………………はぁ…………」
高田の前で露骨に大きなため息をついてみても、きっとコイツには何のダメージも与えられないんだろう。これ以上キレたところで時間の無駄だ。高田が態度を改めるとは到底思えない。
なら今考えるべきは、どうしたらさっさと高田と別れて教室から出れるか、だ。もうクラスの注目を浴びたくないし、羞恥心を感じたくない。
またもやこーすけをチラ見すると、まだ鞄に教科書を詰めていた。こーすけはまだ俺を帰らせたくないようで、何往復めかの数学の教科書をまた机の上に載せた。こーすけを無視して先に帰ってしまおうか、そう思った矢先、こーすけは机の下の足を伸ばして俺の片足を挟み込んだ。がっちりと足をホールドして動かせないようにしてやがる。力ずくなら抜け出せそうだけど、こーすけの執念に少し心が折れる。
……なら、高田をどっかへ追いやるまでだ。
「…………おい高田。月曜日遊ぶ人いねぇんだったら、秋沢を誘えよ」
「ん?あぁっ!!それいいなっ!!!」
ちょうど端の机で学級日誌を書いていた秋沢が、ビクリと肩を跳ね上がらせる。俺たちの話し声に聞き耳を立てていたようで、ぎこちなくこっちに視線を向けた。
まぁ秋沢からしたら嫌だろう。間違いなく苦手なタイプだろうし、秋沢本人もインドアっぽいし。
「秋沢月曜日は暇だって言ってたぞ」
「っ、言ってないよ……!月曜日は忙しい……から」
流石に危険を感じたか、秋沢が会話に口を挟んできた。その口ぶりからすると、月曜日は多分暇だろう。声より先に体が動いていて、小刻みに首を横に振っている。
「えぇーー!?秋沢も忙しいのかよ!!何の用事だよっ!」
「ぉ、俺は…………えっと………………あの……………………」
視線をあちこちに向けながら冷や汗をかいて、必死に言い訳を考えている秋沢。嘘をつくのは苦手らしい、頭を真っ白にしてしどろもどろになっている。
不思議そうに高田が秋沢に顔を近づけると、さらにテンパっている秋沢。
「大丈夫かー?秋沢?」
「ぁ……え…………えっと、月曜日……は…………と、図書館に行く用事があるから!」
必死に絞り出した答えも虚しく、高田はそれを聞いて不満そうな声を上げる。まぁ言い訳にしては下手くそすぎる。
「んだよそれっ!?どっか遊び行こうぜ秋沢っ!!いいよなっ?」
「えっ……ぃ、いやえっと………………………………」
「決まりだなっ!!なぁどこ行きたいっ?」
高田の意識は完全に秋沢の方へ向いてしまって、持ち前の強引さで月曜日の予定を立て始めた。秋沢もなんとか別の言い訳を考えようとしていたけど、もう多分手遅れだろう。
少し悪いことをしてしまっただろうか。でも秋沢は友達が出来ないことに悩んでいたし、高田くらい自分勝手で強引な奴でもないと友達になれないだろう。これで二人が仲良くなれば秋沢の悩みも解決できて一石二鳥だ。
もう一度こーすけをチラ見すると、既に足の拘束は解けていて、教科書が詰まった鞄を手に持ってすぐにでも帰れる状態だった。
「………………帰んぞ」
「うん……だけど意外と哲也も酷なことするんだね」
「別にそんな悪いことしてねぇだろ。秋沢も友達欲しがってたし」
「高田くんとは……あんま相性が良さそうに見えないけど。まぁいいや、面白そうだね」
こーすけは立ち上がって欠伸を一つすると、教室の扉へ向かう俺の横にそっと並んだ。いつもより少し距離が近いような気がしたけど、それも気のせいだったかもしれない。隣を歩くこーすけの尻尾は、いつも通りゆらゆらと揺れている。
教室を出て、二年棟の一階の玄関に差し掛かったくらいで、こーすけが口を開いた。放課後の人混みの中でも、その声はよく聞こえる。
「…………高田くんってさ、一回聞いてみたことあるんだけど……」
「………………なんだよ」
「面食いなんだって。あの性格ならあんまり違和感ないけどさ」
玄関を行き来する人混みが少し治まるのを角っこで待ちながら、ガヤガヤと騒々しい様子をボーッと眺める。
面食い、とは顔が好みのタイプなら中身を見ずに好きになってしまう人のことだ。確かにあまり物事を深く考えていなさそうな、能天気な高田なら頷ける趣味だけど。俺は中身を見たいタイプだから、面食いの奴の心情は理解できない。やはり高田とは気が合わないだろうな、と再三確認する。
「哲也のこと可愛い可愛い言ってたでしょ?顔がタイプなんじゃない?」
「…………お前が昨日言ってた気に入られるってそういうことかよ」
少し老け顔のウルフドッグの雄を可愛いと思うなんて、どういう神経をしてるんだ。俺なんかよりもっとたくさん、可愛いと言える人達はその辺を歩いているのに。
そういや篠崎もよく可愛いって言ってくる。つくづく高田と篠崎は性格が似てるし、雰囲気も同じだ。篠崎の方がまだ空気を読んでくれるし話してて楽だけど。
「でもさ、ネコ科最大種の虎獣人からしてみたら、ほとんどの種族の獣人は小さくて可愛い部類に入るんじゃない?」
「……狼もイヌ科最大種だけど、お前のこと可愛いと思ったことはない」
「哲也はノンケじゃん。高田くんはバイだから、雄も雌も顔が良かったら関係ないんだよ」
こーすけの言いたいことは何となくわかる。虎獣人は特に皆大柄で、雄は二メートル近いやつも多い。高田もそれくらいあるだろうし、その目線から見てみれば、20センチも下のウルフドッグを可愛いと思ってもおかしくない、ということだ。高田の性的嗜好を無視しても、色んな奴に可愛いと平然と言ってのけるのは、庇護欲のような物も含まれてるんじゃないだろうか。
「…………あとホントに俺のこと可愛いと思ったこと一回もない?」
「……ねぇよ。あるわけねぇだろ」
「猫獣人って素でけっこう可愛い見た目してると思うんだけどなぁ。もしかして三毛柄が嫌?」
「雄だからだよ!分かってんだろ」
ニヤニヤ笑うこーすけに呆れつつも、少し人が減ってきた玄関に足を進める。靴箱の位置にもようやく慣れてきて、わざわざ探すこともなくなった。
上履きを脱いで靴箱に突っ込んだときに、玄関にスゴい豪音が鳴り響いた。
ドンッ!!ガラガラガラガッシャンッッ!!!!!
玄関の全員の肩がピクリと跳ねて、皆で音の方を振り返る。
「……っ、何の音だよ」
「演劇部の部室からだね……見に行ってみる?」
言葉と共にこーすけはまた上履きを履くと、部室の方へ歩き出した。二年棟の玄関横の講義室は、普段ほとんど使わないために演劇部の部室になっているらしい。なんだか机が全部倒れたようなけたたましい音が鳴っていたけど、大丈夫なんだろうか。
こーすけの後に続いて、演劇部、と貼り紙がしてある鉄の扉の前まで歩み寄ると、不意に扉が勢いよく開いた。中から山羊獣人が飛び出してきて、走ってどこかへ行ってしまう。危うくこーすけが扉に吹っ飛ばされるところだったけど、それどころじゃないくらい青ざめた顔をしていた。
……なんか緊急事態っぽいけど。
開いた扉から中を覗き込むと、部屋の真ん中に空いたスペースに演劇部の部員が集まっていて、一人の犬獣人を囲んでいる。犬獣人は円の真ん中でうずくまっていて、どうやら立てない様子だ。
「…………なんか事故かな」
「……ただ事じゃなさそうだな」
俺とこーすけの立場は明らかに野次馬だけど、何があったのか気になってしばらく様子を見てしまっていた。部員の何人かが犬獣人に声をかけているけど、犬獣人は呻くばかりで大して反応はない。
俺らも心配になってきたとき、部員の輪のうちの一人がこっちを向いて駆け寄ってきた。ジャージ姿の上柴だった。
「先輩方…………お疲れ様です」
「なんかあったの?スゴい音してたけど」
こーすけが聞くと上柴は少し目を伏せて、悲しそうに耳を垂れさせる。
「練習用のスペースを作るために机の山を動かしてたんです。そしたら一気に倒れてきてしまって……」
「……ケガか。大丈夫なのか?」
「片足が下敷きになってしまって、変な方向に曲がってるんです……今保健室の先生を呼びに行ってます」
上柴はわりと冷静だけど、かなり深刻そうな状況だ。骨折してるとしたらだいぶ痛いと思うし、すぐに病院に運ばないと悪化する可能性もある。俺も小さい頃骨折したことがあるけど、あの時は延々痛みに泣き叫んで地獄だった。
そのとき、また誰かが走る足音が聞こえて、玄関から保健室の先生とさっきの山羊獣人が忙しなく現れた。通り道の邪魔にならないよう、俺とこーすけは壁にびたりとくっつく。
「……えっと……じゃあお大事に。俺らは邪魔になるから先帰るね」
「……お疲れ様です」
上柴は悲しそうな顔のまま犬獣人の方を向くと、そっちへ歩いていった。同級生じゃないっぽいし、恐らく三年生だろう。新学期早々骨折とは、ついてないな。
事態の行方も気になるところだったけど、俺らは部外者でただの野次馬でしかない。邪魔にならないうちに帰るのが、正しい選択なんだろう。
再び靴箱の方へ戻ってから、こーすけが呟く。
「あの人確かあやめ先輩の友達だよ。一緒に買い物行ってるとこ見たことあるし」
「……ふーん…………じゃあ……悲しむだろうな」
「大事にならないといいけど。骨折って治療前が一番痛いらしいから」
俺が折ったときは腕の骨にヒビが入ったくらいだった。そのときはじいちゃんが適当に包帯を巻いて処置をしたけど、間違いなくちゃんと病院に行って診てもらった方がいいんだろう。
部室の方からは相変わらず騒がしい声が聞こえている。救急車を呼んだのかもしれない。
「早く帰ろ。哲也に聞きたいこと山ほどあるし」
「……んだよ」
「今朝からずっと上の空な理由」
「…………言わねぇ」
「いいよ。体に聞くから」
「………………………………………………」
今日は色々あったけれど、意外と平和だったのかもしれない。少なくとも、これからこーすけにされるセクハラのことを考えると、まだ学校の方がマシかもしれないと思うくらいだ。
[newpage]
六時の点呼が終わり、部活動生が帰ってくる前に早めに風呂に入ることにした。サッカー部は確か七時くらいまで部活をしているし、久郷田先輩と篠崎が帰ってくるのもそれ以降だ。二人には今あまり会いたくなかった。それぞれ別の理由でなんだけど。
それはともかく、点呼後わりとすぐに風呂場に行けば、脱衣所には服を脱いでいる途中の上柴の姿があった。 演劇部はそんなに遅くまで残らないらしい。
上柴は耳をピン、と立ててすぐにこっちを向くと、にこりと笑って尻尾を数回振った。
「渡嘉敷先輩、お疲れ様です」
「お疲れ。早いな」
「そうでもないですよ。部活やってない人は点呼前に入ったりしてますし」
そう言って上柴は俺が踏み荒らした脱衣所の床のマットをそっと直した。後で直そうと思ってたのに、つくづく気の回る後輩だ。なんだか申し訳なくなる。
「………演劇部の……あの人は大丈夫だったか?」
「あぁ……青木先輩ですね。完全骨折だったそうです……全治二ヶ月らしいんですけど、すぐに病院に行ったので大丈夫です」
上柴の様子が明るかったのも、その青木先輩が無事だったことに安堵していたのかもしれない。部外者とはいえ実際の状況を目の当たりにした立場としては、良かったな、と思う他ない。
そういえば風呂場で上柴に会うのは初めてだ。というか昨日まで名前すら覚えてなかったんだから当然だけど。
「……渡嘉敷先輩って……公衆浴場に抵抗ない人ですか?」
「……ん?」
自分の棚に脱いだ服をポイポイ投げ込んでいると、まだ上半身しか脱いでいない上柴がボソッと呟く。少し顔を赤らめていた。
「いや、その……誰かとお風呂に入るのって、僕ちょっと恥ずかしくて」
「あぁ……でも雄同士だし別にいいだろ」
「………………そ、そうですか……………………」
上柴が恥ずかしそうに俯いたのを見て、自分の発言のバカさに気がついた。雄同士だからって、そもそもここの寮生は雄が恋愛対象なんだから、そりゃ恥ずかしくなるのも仕方ないだろう。例えば俺が雌と混浴することになったら、確かに今の上柴のようになってもおかしくない気がする。
「……恥ずかしかったらタオルかなんか巻いとけばいいんじゃねぇか?」
「あっ、いや……自分が見られるのはどうでもいいんですけど…………先輩のこと……まともに見れなくて」
「…………………………そうか」
同じ一年生でも篠崎とはえらい違いだな、と思った。アイツは全裸のまま抱きついてくるし、あわよくば俺の体を触ろうとまでしてくるのに。
この学園にいるということは、上柴だって雄好きなんだ。上柴だけ違ったらいいな、と頭のすみに置いていた希望をちゃんと捨てることにする。
「誰かと一緒にお風呂って………生まれて初めての経験だったので…………」
「……小さい頃とか親と一緒に入ったりしなかったのか?」
「物心ついた時には一人でした。お風呂の入り方だけじぃやに教えてもらって…………」
上柴の今の気が回るしっかりした性格は、幼い頃から自立を学んできたからこそなのかもしれない。俺は小学生くらいまでじぃちゃんと入ってた記憶があるけど。
「じゃあ寮はどうすんだよ。慣れとかないとだろ?」
「……今までも、なるべく人がいない時間に入るようにしてたんですけどね。今日は先輩に見つかっちゃいました」
上柴は照れ笑いを浮かべるとようやく自分の服も脱ぎ始めた。狐獣人はイヌ科の中でも小柄な方だ。細やかな黄金色の毛はふわふわしていて綺麗だし、見た目の派手さも相まって、芸能人や役者に多い。そういえば狐獣人はウソが上手いという迷信を聞いたことがあるけど、上柴はどうなんだろう。演劇部にいるということは、演技は上手いのだと思うけど。
世間話をしながら、誰もいない風呂場に並んで入る。シャワーの蛇口を捻れば暖かい湯気と水音がたつ。シャワーを浴びているだけでも、この時間は幸福だ。
「……そういや今日身体測定だったな」
「先輩って、身長いくつあるんですか?」
「177……ウルフドッグは大体こんなもんだ」
「羨ましいです。僕なんか160センチでした……去年から全然伸びてなくて」
「俺もだ。背高い人って羨ましいよな……相田先輩とか」
「でもあんなに高かったらかえって不便そうじゃないですか?先輩くらいがちょうどいいです」
「そうか?180越えたいんだけどな」
「……あんまり高すぎると、恋人とキスしづらいって相田先輩が言ってました」
「相田先輩の彼女小さいらしいしな」
相田先輩はもう二メートル近いし、いっそのことしゃがんでいる方が目線が合うんじゃないだろうか。寮の天井に手が届いてしまうくらいだし、扉に頭をぶつけているところも見たことがある。でかすぎるのも考えものか。
上柴の身長はこーすけと同じくらいで、いつも少し見下ろすことになる。風呂場の椅子に座っていると目線が変わらないから、なんだか新鮮な気分だ。顔を赤らめる上柴の顔を覗き込む。
「…………ぼ、僕は……先輩くらいの身長の恋人がいいです……」
「まぁ、相田先輩大変そうだしな。俺は久郷田先輩くらいが理想かな」
寮で一番背が高いのは相田先輩で、二番目が恐らく久郷田先輩だろう。久郷田先輩は190くらいで、俺より10センチも上だ。成長期がいつまで続くかは分からないけど、今のところ追いつきそうな予感は全くしない。去年から二センチしか伸びてなかったし、きっとこのまま伸びなくなるんだろう。ウルフドッグはこのくらいが限界か。
ふと五センチ伸びてた!と嬉しそうに言っていた篠崎の顔が思い出される。アイツはあのままいけば久郷田先輩くらいになるだろう。近々篠崎に見下ろされる日が来ると思うと、複雑な心境だ。
「相田先輩で大変なら……ゾウとかキリンとかってもっと大変なんですかね」
「……でも超大型はそのサイズの街に住んでるから、そう不便でもないんじゃないか?」
「先輩は会ったことありますか?」
「ねぇな。日本にはいねぇし……上柴はあんのか?」
「一回だけ、アメリカから来た人を見たことがあります…………ほんとにおっきいですよ」
象獣人や麒麟獣人などの超大型は基礎の体があまりにもデカいため、中型の俺たちと同じ街で暮らすことはできない。日本は土地が狭いせいで超大型地区の建築が先進国の中でも遅れていて、今のところは出来る予定がないようだ。アメリカなんかには超大型地区が何個もあるって聞くし、いつか行ってみたい気もするんだけど、なかなか日本人には機会が無いのが現実だ。
「アメリカからの超大型の観光客は、日本でどうやって過ごすんだ?」
「なんか専用のサービスがあるらしいですよ?ホテルから観光まで、超大型用に作ったプランを提供するサービスです」
「へぇ………よくできてんな」
超大型地区がない日本ではそのサービスを使わないとまともに観光できないだろう。日本好きな外人は年々増えてるって聞くし、きっと儲かってそうだ。
ふと上柴の方を見ると、体が水に濡れて全身の毛がぺたりと寝ていた。ふわふわの毛は質量を失って、上柴の細身の体のラインが明らかになる。
「………………………………………………」
「…………な、なんですか……?」
俺がじっと見つめているのが気になったのか、上柴は少し体を縮めて恥ずかしそうに俺を見る。
「………いや、上柴体細っこいな」
「……あぁ……まぁ、そうですね…………」
「濡れるといつもより細かったら驚いた。ちゃんと食ってるか?」
「食べてますよ。狐はみんなこんな感じなんです……ほっといてください」
ちょっとムッとした様子の上柴に、あまり良くないことを言ったのかな、と反省する。本人が気にしてるんなら悪いことをした。背も高くなりたいみたいだし。
「……怒ってんのか?」
「……いえ、細いって言われたことには怒ってないです」
「ん?じゃあ何に怒ってんだよ」
「…………先輩が…………鈍感なことにです…………」
上柴はそっぽを向いて、開けたばかりの新品のシャンプーを手の中で泡立たせ始めた。また上柴に鈍感だと言われてしまった。何に鈍感なのかは相変わらず分からないが、それに気づいてないこと自体が鈍感なんだろう。
上柴のぺたりと寝ている耳を眺めていると、風呂場の扉がガラガラと開いた。
「よーぉ……お前ら早いな」
「あっさんし…………三下先輩……」
「オメェ今サンシタって言おうとしたなァ!!俺はミシタだぶっ飛ばすぞッ!!」
タオルを肩にかけたジャッカルが、大股で闊歩しながら俺の隣の椅子にどっかりと座った。背は俺よりも小さいけど、いつも態度が大きい先輩だ。つい名前をサンシタ、と読んでしまいそうになるけど、本人もそれを気にしているらしく、間違えるとめちゃくちゃキレる。あまり怖くはないけど。
「三下先輩……お疲れ様です」
「なんだその二人だけの時間を邪魔しやがってみてぇな顔は。ここは寮の風呂場だぞ」
「そんなことないです。三下先輩は身体測定どうでしたか?今ちょうどその話してて」
「あ?いや普通だったよ。視力がちょっと落ちてたくらいだな」
俺を挟んで、上柴と三下先輩の他愛のない話がのんびりと交わされる。上柴は篠崎ほど社交的ではないけど、人付き合いは上手なのだろう。少し怒っていた先輩を、関係のない話で気を逸らすなんて技、俺には到底真似できない。三下先輩とはたまに喋る程度の仲だけど、いつも不機嫌そうな顔をしているから苦手な方だった。少なくとも笑っているところは見たことがない。
「ジャッカルはどんな検査を受けるんですか?」
「普通のイヌ科と変わんねぇよ……狐はなんかあんのか?」
「狐は……耳がいいので聴力検診が細かくて長いです。専用のやつを使うんですよ」
「へーーー」
三下先輩は興味なさそうに間延びした声で答える。自分から聞いたわりには、あまり答えが面白くなかったんだろう。後輩に対しては自分勝手な三下先輩は、ある意味一番先輩らしい先輩と言えるかもしれない。
とはいえパシりに使われたこともないし、俺が入寮する前に考えていた寮のイメージとは、やはり違う。稲光学園の特殊さがあってのことなのだろうか。
「……おい渡嘉敷。そういやお前久郷田と出かけんだろ?」
「あぁ……はい。来週の月曜です」
無理やり約束を取り付けられたのは昨日のことだ。なんで三下先輩が知ってるんだろうか。
「お前らが喋ってるとこみたことねぇんだけど。仲良いのか?」
「……いや……正直そんなに……です」
風呂場で数回喋った程度、あとは昨日の朝に無断外出を注意されたのと、久郷田先輩の部屋でアイスを貰っただけ。仲が良いと呼べるほど喋ってないし、だからこそなんで俺を誘ってきたのか疑問だったんだけど。
「へぇ。でもなんか久郷田に気に入られてるみたいだぜ。心当たりはねぇのかよ?」
「心当たり……………セクハラはたまにされますけど」
それが無いから困っていたんだ。こーすけの言うように、俺の体目当てなら分からなくもないけど、この学校に俺よりもホモが好きそうな体型をしてる奴はたくさんいる。わざわざ俺を誘う理由が本当に分からない。シンプルに都会を案内したいという善意であってほしいと切に願う俺がいた。
「……久郷田がお前を選ぶ理由がわかんねぇんだよな。見た目も…………普通だな」
俺の体のあちこちに視線を這わせながら、三下先輩は言う。本当にその通りだ、なんで俺は雄にばっかり言い寄られるんだ。
「渡嘉敷先輩がウルフドッグだからじゃないですか?ハーフって……珍しいですし」
「つっても見た目ほとんど狼じゃねぇか。パッと見わかんねぇよ」
「…………………………………………」
俺を目の前にあれこれ言っている二人を見て、シャワーの音に混ぜたため息をつく。だんだん久郷田先輩が俺を遊びに誘った理由より、三下先輩がそれを知りたい理由の方が気になってきた。俺が久郷田先輩と遊びに行ったら悪くなる都合でもあるのだろうか。
「……あの、なんでそんなに久郷田先輩のこと気になってるんですか?」
「気になってる……つーか、アイツらしくないからだ。男ったらしのくせにお前をデートに誘うなんてな」
「デート?いや……普通に遊びに行くだけです」
俺がそこを訂正すると、三下先輩は呆れ返ったような顔をして、薄く目を細める。
「お前……久郷田が服欲しいなんて言うわけねぇだろ?冬でもタンクトップ着てるような奴だぞ」
「……シベリアンハスキーですしね」
「そうじゃねぇよ……とにかくアイツは服に無頓着なんだよ。あの久郷田が嘘ついてまでデートに誘うなんて、理由が気になっただけだ」
そう言って三下先輩は頭についたシャンプーの泡を適当に落とした。あまりちゃんと洗わずに落としていたみたいだけど、そういうことには雑な性格のようだ。
久郷田先輩が俺を誘う理由……もしこーすけが言うように本当に俺のことが好きなのだとしたら、俺はどうしたらいいんだろうか。もちろん絶対断る気でいるけど……これで三人目だ。真面目に今後の生活をどうするべきか考えなくてはならない。
「久郷田先輩とは仲良いんですか?」
上柴が俺越しに三下先輩に尋ねる。それは俺も少し気になっていたところだ。
「…………ただのクラスメートだよ。一年のとき同室だったけどな。友達ってほど仲良くねぇ」
まぁ確かに三下先輩が久郷田先輩と喋ってるところも見たことがない。三下先輩はよく相田先輩に話しかけていたけど。
……ていうかそもそも風呂場以外での久郷田先輩をそんなに見たことがない。それは向こうも同じはずだ。
「でも……なんか三年生の先輩方って、みんな仲良いですよね。なんていうか、横の繋がりが強いっていうか……」
「……同じ寮で二年も共同生活してりゃ、喧嘩することもなくなるぞ」
三下先輩は最後に顔に温水を当ててから、シャワーの蛇口を捻って水を止めた。そのまま立ち上がって浴槽にも浸からずに、黙って風呂場から出ていってしまった。入浴時間おおよそ三分。ほとんど浴びてないに等しいんじゃないだろうか。
そんなんで本当に綺麗になってるのか、頭に疑問が浮かぶ。それを察したように、上柴が説明をしてくれた。
「……ジャッカルの先祖って、砂漠とか林とか、水の少ないところに住んでいたらしいんです。だからジャッカルは風呂嫌いが多いって、迷信があるくらいなんですよ」
「へぇ………それにしても早いだろ」
「まぁ……ちょっとびっくりしますよね」
上柴は苦笑いを浮かべると、丁寧に体に水流を当てて、全身についた泡を細かく落としていった。そういえば、昨日の上柴からしていたシャンプーとは違う泡の匂いだ。ほとんど無臭で医薬品っぽさが全くしない。
「……上柴、シャンプー変えたのか?」
「昨日買ってきたんです。イヌ科用の、匂いしないやつです…………先輩が、僕の体臭が好きって言うので」
そう言って上柴は手に付着した泡の匂いをスンスン、と嗅いでいた。イヌ科は同種族の体臭が好きな人が多いから、無臭のシャンプーが最近人気だと聞いた覚えがある。わざわざ俺のためにシャンプーを変えるなんて、なんだか少し申し訳ない気持ちにもなった。
「なんか………………わりぃな」
「いえ、僕も前のシャンプーあんまり好きじゃなかったので。あやめ先輩には、シトラスのシャンプーを勧められたんですけどね」
そういえば昨日上柴は点呼のギリギリまで女装させられていて、あやめ先輩とこーすけのオモチャになっていた。今思えば女装した上柴は雌並みに可愛らしかった。最初雌かと勘違いしたくらいだったし。
「上柴は女装好きなのか?」
「い、いや……あやめ先輩が強引に……………僕はそんなに好きじゃないです」
男ですしね、と恥ずかしそうに付け加える上柴の顔を見つめる。狐獣人の顔立ちは比較的凛々しいものだけど、昨日はあやめ先輩のメイクで愛嬌が増していた。けばけばしいメイクは苦手だけど、あやめ先輩のはシンプルであまり違和感がなかった。あの人はつくづく雌を極めてるな、と思うところだ。
「でも可愛らしかったぞ。雌みたいだった」
「……っ、先輩………やっぱり鈍感ですよね。それともわざとなんですか?」
「……なにがだ?」
「なんでもないです………けど、もし先輩が……その、僕の女装を見たいんでしたら…………」
上柴はそこで顔を赤くして言葉を切った。そして俺は今上柴にとんでもない誤解をされていることに気がついて、慌てて訂正する。
「いや、別に女装が見たいわけじゃねぇから……ただ上柴のは完成度高くてスゴいなってだけだ」
「僕っていうか……スゴいのはあやめ先輩です。鏡見て自分でも驚きました」
安心したような微笑みへ表情を移ろわせ、温かいシャワーのお湯に気持ち良さそうに目を細める。狐は微笑んでいる顔が柔らかく、見ていて気持ちが和む。
「……あっ、そうだ。稲光の二年生に、秋沢さんっていらしてますか?雄の獅子獣人なんですけど」
「秋沢?あぁ………同じクラスだ。知り合いか?」
「はい。親同士が仲良いみたいで……小さい頃遊んでもらったことがあるんです。まさか稲光に入ってるだなんて思いませんでしたけど……」
あの内気な秋沢と上柴が知り合いだなんて思わなかった。ていうか、秋沢は確か財閥の跡取りで、相当金持ちの家のお坊ちゃんのはずだ。そんな家族と仲が良いってことは、上柴もそれなりの上流家庭ってことなんだろうか。
「秋沢は友達がいないって言って困ってたぞ。上柴が話しかけたら喜ぶんじゃねぇか?」
「どうでしょう……まだ小学生に入る前くらいでしたし、僕のこと覚えてるかな…………」
「教科書丸一冊暗記するような奴だぞ。覚えてないわけないって」
今日初めてまともに喋った程度のクラスメートだけど、アイツが背中に背負った悲壮感が俺に同情しろと言ってくる。高田のことを押し付けてしまったばかりだし、多少の罪悪感は感じていた。秋沢に友達ができればいいな、と何となく考えていたけど、気遣いの上手い上柴なら秋沢と仲良くなれそうだ。
「機会があったら、会いに行ってみます。あまり失礼がないように気をつけないとですけど」
上柴の言葉に、今日昼に秋沢が言っていたことの意味がようやく分かったような気がした。見た目も強面で、背も高く、学級委員長、生徒会書記、秋沢財閥の一人息子。普通に考えたら誰も気軽に話しかけようなんて思えないだろう。あんなに気の弱い臆病な性格のくせに、肩書きはどれも立派で、ますます人を寄せ付けない。今日の昼休みは、普通に同級生として俺と喋れたことが、秋沢にとって嬉しかったのだろう。
たまたま俺が世間知らずで情弱だっただけなんだけど、秋沢にはプラスに働いたようだ。
上柴はシャンプーを全て洗い流すと、その場に立ち上がってシャワーの蛇口を捻った。上柴も浴槽には浸からないようだ、そのまま桶を抱えて俺に背を向けて、顔だけ俺の方を向く。
「お疲れ様です。やっぱり…………先輩といると居心地が良いです……」
そのまま風呂場を立ち去る上柴の尻尾は嬉しそうに揺れていて、どこか上機嫌なのが見てとれた。居心地がいいのは俺も同じだ。同性愛者だらけの学園内で、普通の先輩後輩のように話ができる上柴の存在は、俺にとってもありがたかった。
誰もいなくなった風呂場を見回すと、シャワーの水流の音がタイルに反響しているのだけが目についた。一人になるとすぐに考え事をしてしまうから、できれば避けたいのだけど。
…………今の俺には、悩み事が多すぎる。島にいた頃、転校先でこんな目にあうなんて思ってもみなかった。島の人は、いじめに合うんじゃないかと心配していたけど、現状は真逆だ。むしろ好かれ過ぎて困っている。そして俺はそれを全く喜んでない。
きっと目を背けてばかりではダメだ。自分でも鈍感だと分かった今、もっと理解しようとしないと。自分の気持ちにも、周りの人の気持ちにも。
とにかく今日は篠崎のことをどうにかしよう。そのあとに久郷田先輩だ。秋沢の心配なんてしてる場合じゃない。
悩み事を片付けないと……このシャワーの水流のように、流されるまま生きることも、スムーズに出来ないような気がしていた。
晩御飯も食べ終わり、九時の点呼が過ぎたあとも、俺はなんとなく食堂に残っていた。ほとんどの寮生は部屋に帰っているし、残っているのは食事の後片付けをしている一年生くらいだ。ガヤガヤ喋りながら鍋を雑に洗っている篠崎の背中を見て、小さくため息をつく。俺が残っているのはアイツと話をするためだ。今朝のことは単なる事故で、俺も一瞬の気の迷いでキスしようとしてしまったけど、俺は篠崎のことが好きじゃない。だからお互いに忘れようと。
昨日みたいに誰もいないところへ引っ張っていっても良かったが、ここ数日篠崎は俺のせいでずっと点呼後の後片付けをしていないから、さすがに今日はやめておいた。他の一年生に迷惑だろう。
篠崎を待つ間に、食事にポツンと置かれたブラウン管のテレビを眺める。だいぶ古そうなテレビで、画面も大きい。いつも六時の点呼後くらいからつけっぱなしになっていて、たまに誰かしらがボーッと眺めている様子を見かける。俺はあんまりテレビに興味ないから、飯を食うときも背を向けていたけど。
今やっているのはニュース番組で、スーツを着た猫獣人の女性キャスターが延々とニュースを読み上げている。俺はよくこーすけに情弱と言われるし、たまにはちゃんと見るのもいいかもしれない。
『――――本日午前六時ごろ、東京都飛鳥市内の建設作業員三名が、羊獣人の女性を殺害した疑いで逮捕されました』
「…………物騒ねぇ。なんでそんなことするのかしら」
俺の背後から声が聞こえたと思ったら、あやめ先輩が机に頬杖をつきながらテレビの画面を見つめていた。相変わらずピシッとした背筋とスラッと組んだ脚。ハートマークの描かれたTシャツを着て、雌っぽくなることに余念がない。
「…………飛鳥市って、どの辺ですか?」
「隣の隣の市よ。ここから自転車で行けちゃうわ」
「結構……近いんですね」
元々都会はなんとなく怖いイメージがあった。人が冷たい、というのはそうだけど、それ以上に日々起こっている陰惨な事件が、生活の真横で行われるということが怖かった。たくさんの人混みを見ると、この中にどれだけ犯罪者がいるのか、ふと考えてしまいそうになる。
「飛鳥市ってわりと治安悪いの。しょっちゅう暴行事件が起こるし、稲光の生徒もあんまり近寄らないわよ。ヤンキーも多いしね」
「………………ヤンキーですか」
まだ出会ったことのない人種だけど、ひどく面倒な人たちなのだと聞いた。目を合わせただけでいちゃもんをつけてきて、やたらと暴力で解決しようとする乱暴者。都会にはヤンキーも多いそうだ。この学校にはいなさそうだけど。
ふとあやめ先輩の匂いを嗅いでみると、いつものラベンダーの香水はつけていないようで、初めてあやめ先輩の体臭を嗅ぎとることができた。この人の匂いは……なんというか、深い青色をイメージさせる匂いだ。これといった例は思い浮かばない。
「……今は香水つけてないんですね」
「流石に寝る前までつけてるわけないじゃない。部活で汗もかくし、お風呂に入ったら落ちちゃうから」
あやめ先輩は耳の根本を、指先でカリカリと掻いた。むず痒かったんだろうけど、その仕草まで徹底的に雌っぽい。この人は……雌になりたいんだろうか。
「あやめ先輩は……なんで香水をつけてるんですか?」
「決まってるじゃない。少しでも美しくありたいからよ」
「…………どうしてですか?」
「どうしてって…………そうしたいから。深い理由なんてないわ。私は欲求のままに生きてるだけ」
少し得意気な顔で俺を見るあやめ先輩。得意気な顔の意味も、あやめ先輩の欲求も、俺にはまだ理解できそうになかった。
ただ直接的に質問するのはあまりに失礼だ。なんで雌っぽくなりたいんですか?だと、なんだかバカにしてるように聞こえてしまう。
どう言葉を変えるべきか悩んでいると、あやめ先輩は自らその答えを教えてくれた。俺の質問の意図までわかっていての行動かもしれない。
「私は性同一性障害なの。体は完全に雄だけど、小さい頃から本当の私は雌なんだって信じきって暮らしてた。だから体が雄だって知ったときは絶望したの」
「………………………………」
「でも私の心は雌よ。私は女の子が好きそうなことが大好きだし、可愛いものも美しいものも好き。できるなら、体を女の子にしたいくらいよ。両親と約束して、それだけはしないことにしたけどね」
……初めて知る価値観だ。自分の心と体の性別が違っているなんて、どんな気分なんだろう。
「誰がなんと言おうと、私は雌なの。体との矛盾は自分が一番よくわかってる。だから私は少しでも雌っぽくありたいの。香水をつけるのも、それが理由よ」
「…………なんか、すいません…………軽はずみでした」
「いいのよ。世間じゃ障害なんて言われてるけど、私は今の私に誇りを持ってるから。それに小学生の頃に散々傷つき慣れたわ。今じゃもう鉄の心よ」
にっこりと微笑むあやめ先輩に、自分が世の中についてあまりに無知なんだと再認識した。常識と違う人なんて、この世にはたくさんいる。
それと同時に、あやめ先輩の包容力はまさしく雌そのもので、本当に心は雌なんだと感じることができた。自分、という生き方がはっきりと確立している先輩に、カッコいいとすら思う。本人はあまり喜ばないかもしれないけど。
「……それより、トーカちゃんの方が悩み事抱えてますって顔してるけど、大丈夫?また相談なら乗るわよ」
「………………っ、あ………………」
あやめ先輩に言われて、篠崎のことを思い出す。流しの方へ目線を向けると、とっくに一年生は片付けを終えていて、食堂にはほとんど誰もいなくなっていた。篠崎も部屋に帰ったのだろう、完全に引き止めるタイミングを逃したようだ。
「…………いえ、あの…………部屋に帰ります」
「あらそう。また何かあったら気軽に相談してね。この寮の雄たちはそういうの全くあてにならないから」
席を立って、あやめ先輩を再び見ると、とっくに視線はテレビの方へ向いていて、釘付けになっているようだった。見ると、新商品の化粧品のCMだ。こういうのには目がないのかもしれない。
視線を遮らないようにテーブルを回り込んで、食堂の出口へ向かう。結局篠崎へのモヤモヤは解消することができないまま、今日が終わることになりそうだ。アイツのことだから今夜も誰か先輩の部屋に遊びに行っているんだろう。………俺のことなんか放っておいて。
この苛立ちはなんだろうか。痒い気持ちとイライラと、少しの寂しさ。それが混ざってぐちゃぐちゃになったような、胸につっかえる感情だ。
複雑な思いのまま、やっぱりあやめ先輩に相談しておけば良かったと、螺旋階段を上りながら少し後悔している自分がいた。
部屋の扉を開けると、あまりに意外な光景が広がっていた。
「違う……もうちょっと起き上がれる?」
「イテテ、いやちょっとしんどいっす。こう……横になるんじゃダメすか?」
「うーん……なんか体勢が変な感じ。尻尾のとこもうちょっと…………」
こーすけのベッドの上で、ロープに特殊な結び方で縛られている篠崎。それを見ながらパソコンに絵を描いているこーすけ。なんなんだこれ。
「……お前ら何やってんだよ」
「あっ!先輩おつかれっす!」
「今篠崎くんに亀甲縛りのモデルやってもらってんの。ネットの画像だけだと難しくて」
そう言いながら真面目な顔でペンを走らせるこーすけに若干の狂気すら感じながらも、俺は自分のベッドに座った。あのロープは、一昨日こーすけが買ってきたやつだ。篠崎も素直に縛られているけど、見た感じわりとキツくて痛そうだった。
……ていうか、まさか俺の部屋にいるとは思わなかった。こーすけがいる以上、今朝の話を切り出すことはできないんだけど。
「センパイもどうすか?案外コーフンしますよ」
「しねぇよ……痛そうだし」
「SMの縛り方だからね。ちょっとくらい痛いのは当然」
「俺も何度か縛られたことはあるっすけど、亀甲は初めてっすわー。よく結び方しってますね」
「前に付き合ってた彼氏が教えてくれたの。自分でも結べるよ」
人の部屋で変態プレイを繰り広げているバカたちは放っておくことにして、俺は一人ベッドに横になった。こーすけは淡々とペンを進めているし、篠崎も心なしか嬉しそうに見える。縛られて喜ぶやつのことをドMって言うらしい。篠崎はドMなんだろうか。
篠崎の尻尾は露骨に揺れていて、明らかに今の状況を楽しんでいる。こーすけと楽しそうに会話をしながら、時々体勢を変えて、こーすけから見えやすいように。
縛られている状況なら尚更、二人きりで話すことなんてできないだろうし、もう諦めて寝ることにした。俺のことが好きな雄が二人、仲良さげに喋っている。ならけっこう、好きなだけ楽しんだらいい。俺は寝る。
「利根川センパイって色々ディープなこと知ってそうっすよねー!」
「うん……まぁ、腐男子の闇は深いよ。知識ばっかり増えちゃうから」
「興味はあるんすけど痛そうなプレイも多いじゃないすかー。初心者はどこから始めんのがいいんすか?」
「蝋燭とかは結構怖いしね……それこそ手錠とか緊縛からオススメかな。目隠しするだけでだいぶ変わるし」
「目隠しいいっすねぇ!なんか感じやすくなるって聞いたことあるし!!」
「タオル一枚でできるからね。俺も初体験は目隠しだったよ」
二人がなにやらとんでもなく変態なことを話しているのはなんとなく分かったけれど、無理やり止める気も起こらなかった。俺に対してのセクハラではないし……きっと反応したらもっと調子に乗るに違いない。放っておくのが一番だ。
「俺渡嘉敷センパイに首輪つけたいんすよねー」
「あーわかる。哲也似合いそう」
「大型犬用のやつで、ちょっと大きいくらいがいいんすよねー!んで上目遣いで睨まれたら俺軽く理性ぶっ飛ぶ自信しかないっす」
「首輪って似合うイヌ科がはっきりしてるよね。狼はイケメン多いから何つけても様になるっていうか」
「犬もわりと種類によりますよねー!久郷田センパイとかあんま似合わなそうっすね」
「あぁいうバリタチは流石にね。寮内では哲也が一番似合うと思う」
「渡嘉敷センパイが一番可愛いっすから当然でしょ!!あーーセンパイに裸エプロンさせたいなー」
「俺は手錠と猿轡かな。喋れなくなっちゃうのはアレだけど……それもそれで興奮するし」
「利根川センパイSっすねぇ!涙目で睨んできたりしないかなぁー!めちゃくちゃ滾るんだけどなぁ!」
「っ、うるせぇんだよ変態どもッ!!俺が聞いてんの分かってて言ってんだろ!!!!」
黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって、コイツら俺がいないときもそんな話してたんだろうか?ほんと最低な変態野郎どもだ。頭をかきむしりたくなる衝動を必死に抑える。
起き上がって二人の顔を見れば、どちらも厭らしいニヤニヤ笑いを浮かべていて、俺が怒っている様子を見て喜んでいるみたいだ。
「なんだセンパイ起きてたんすかー!盗み聞きなんてヒドイっすよ!」
白々しく驚いたような素振りを見せる篠崎に、フツフツと怒りがこみ上げる。今日俺は一日こんな変態のために頭を悩ませていたなんて、ほんと最悪だ。もうハッキリした、俺はコイツのことなんか好きじゃない。
篠崎のことを睨み付けていると、こーすけが俺を宥めるように言葉をかける。
「まぁまぁ。愛故のってやつだから。ホントに縛ったりしないから安心して?」
「当たり前だ!!無理やりえっちなことしてきたらぶん殴るからな!!!」
二人の間接的なセクハラに、脅しの言葉に唸り声が絡む。調子にのったコイツらならやりかねない。二人に変態のスイッチが入ったとき、俺は二人を全く信用する気はなかった。
すると篠崎が、またニヤリと嫌な笑みをこぼす。
「……じゃあ、無理やりじゃなかったらいいんすよね?センパイが拒否しなかったら……いいってことすか?」
その言葉に、必然的に今朝のことが思い出される。未遂で終わったけれど、俺は紛れもなく篠崎のキスを受け入れようとしていて、拒むことすらできなくなっていた。篠崎は体育館で会ったときもそのことを直接的に話してはこないが、うやむやにする気はないようだ。
こーすけの前だからか伏せているけど、篠崎は明らかに今朝のことを言っている。なんて返事をするべきか難しいところだった。
「…………それは、時と場合による」
「なんすかそれ。ハッキリと……答えてくださいよ」
篠崎は自らロープの拘束を解いて、俺のいるベッドに近づいてきた。その顔はもう真顔になっていて、俺に告白したとき、今朝俺にキスしようとしてきたときの顔と同じだった。この顔のときの篠崎は……何を考えているのか分からなくなる。
ギシッとベッドが揺れて、俺の真横に腰かける篠崎が、至近距離で俺の顔を見つめている。今日何度も思い返された顔と同じだ。違うのは、俺の心臓は早鐘を打っていないし、この部屋にはこーすけがいるということだ。
「…………あーそういうことか……」
ポツリ、とこーすけが呟いた。勘のいいこーすけは、もう理解してしまったんだろうか。俺と篠崎の、今何より中途半端で微妙な距離感を。ただの先輩後輩じゃない、友達でも、恋人でもない。ならなんなんだ、どれなら正解なんだろう。
「……利根川センパイ、すいません」
「いやいいよ。邪魔しないって約束したし。俺久郷田先輩に用事思い出したから出ていくね」
こーすけはパッと立ち上がって、素早く扉を開けて部屋から出ていった。前のように怒っている様子はなくて、どちらかと言えば悲しそうに見える背中だった。
篠崎とキスしたことがこーすけに知れたら、きっとこーすけは怒るだろうと思って黙っていたけど、今の反応を見る限りわからない。意外にも普通そうだった。
こーすけがいなくなって、篠崎と二人きりになる。
「…………センパイ、俺ちょっと後悔してるんすよ。今朝寮監のせいで邪魔されちゃいましたけど、あの時キスしとけば良かったなぁって。今日一日センパイの顔が頭から離れなくて……ずっと悶々としてました」
「………………………………………………………………」
篠崎は、俺の右手の甲を包み込むようにそっと握った。高い体温と柔らかい毛並みが、右手の感覚を支配してしまって、とても熱い。指と指が絡まりあって、まるで守られているような安心感を覚える。
「センパイに悟られるのが恥ずかしくて、わざと触れないようにしてたんすけど……今センパイを目の前にしたら、そんなのどーでもよくなりました」
篠崎の尻尾が、俺の尻尾に絡まってくる。逃がさないと言うかのように、鋭い狼の双眸が、真っ直ぐと俺の目を見つめている。対して俺は全く体が動かなくなってしまい、ただ篠崎のことを見つめ返すのみで。
「ねぇセンパイ……正直に教えてくださいよ。センパイがノンケだからとか、雄と雄はおかしいとか……そんなんじゃなくて。正直に、センパイは俺のことどう思ってるんすか?」
篠崎はもう片方の手で俺の頬を優しく撫でた。それが少し心地よくて、唐突な眠気に襲われる。ただ今は寝てはいけない。篠崎の質問に、ちゃんと答えないと。
篠崎からしてみれば、告白してフラれた相手が自分のキスを受け入れようとした、という事実は、きっと混乱する出来事だっただろう。好きなのか嫌いなのか、篠崎ははっきりとした答えが知りたいはずだ。
「…………俺も今日一日ずっと考えてた。なんでお前と……キスしようとしたのか、とか。自分でも……よくわかんなくなってた」
「結局…………どうなんすか?」
篠崎のいつも曇りのない目は少しだけ不安に揺れていた。俺がこの後どんな答えを出すのか、気になって仕方ない様子だ。
この社交性はあるけど、バカで変態で明るい後輩に、ちゃんとした言葉で伝えよう。でもそのためには、まだ分かっていないことがある。
俺の頬を撫でる篠崎の右手を掴んで、一度引き離す。
「…………篠崎、俺に………………キス……してくれ」
最後の方は恥のあまり、消え入るような声になってしまったけど、篠崎にはちゃんと伝わったらしい。不安げだった顔をすぐに嬉しそうな微笑みに変えて、そのまま黙って顔を近づけてきた。
……この顔だ。この顔のときの篠崎は、誰よりも優しくて暖かい。自分の体を差し出しても、まるでそれが幸福に繋がると信じきっているように、俺は抵抗ができなくなる。甘えてもいいんじゃないかと思ってしまう。
恥ずかしさで顔が焼けそうだ。耳まで血が上って、全身が熱くなる。尻尾は相変わらず篠崎のと絡まりあったままで、外れる気配はない。これじゃ恋人みたいじゃないか。そんな声が頭に響いた頃には、篠崎のマズルは俺のマズルの数センチ先にいた。
「………………ッ………………………………」
「センパイ………………可愛い……………………」
篠崎は俺の鼻先でそう呟くと、ゆっくりと目を閉じた。熱い吐息が触れて、湿った空気に温度を与える。
一瞬一瞬がすごく長い時間に感じられるほど、俺は緊張していた。体の筋肉がピンと張り詰めて、強ばっている。それとは対照的に尻尾は緩やかに揺れていて、篠崎の尻尾と一緒に動いている。
だんだんと、篠崎のマズルが近づいてくる。絡まってる指から、篠崎の心臓も早く脈打っていることが伝わってくる。コイツも今……俺と同じように緊張しているのだろうか。篠崎は今まで何人くらいとキスしたことがあるんだろう。俺は……何人目なんだろう。
あぁ…………このままだと、篠崎とキスしてしまう。俺も雄で、篠崎も雄だ。雄同士でキスをするなんて、そんなのおかしい…………おかしいんだろうか。俺はなんで、篠崎に手を握られることに、尻尾を絡ませ合うことに…………キスをされることに、こんなに抵抗がないんだろうか。
………………あぁ、そうか。
「…………っ、センパイ……?」
「………………やっと分かった」
近づいてきた篠崎のマズルを手で押し返して、顔を遠ざける。篠崎は困惑したような顔のまま、素直に引いてくれた。繋いでいた手も絡めていた尻尾も、俺の方からそっと離した。ようやく分かったんだ、ちゃんと篠崎に伝えよう。
「俺は、お前が嫌いだ。うるさくて、バカで無神経で……やたらとセクハラしてくるし、変態だし」
「………………………けっこう傷つくっす」
「…………でも、優しいときのお前は好きだ。抱き締められても……キスされても、嫌な気持ちにはならない…………と思う」
正直、誰かのことを好きか嫌いか、そんな簡単な二択で判断できるようなものではないと思う。誰しもに好きな部分と嫌いな部分があって、その割合でやっと一つに答えを出せる。篠崎の場合は、俺にとってそれが複雑だった。明るい篠崎をうるさく思う反面、後輩として可愛くも見える。だから俺には、ずっと答えが出せなかった。
さっきようやく気づいた。なんで優しい篠崎が好きなのか。
「……俺は寂しかったんだ。島の人と電話する度に、寂しくなって帰りたくなって。きっと優しいお前に……甘えたかったんだ」
「…………ホームシックのせい、ってことすか?」
「……それと、俺は多分ハグが好きだ。だから……」
恥ずかしいのは分かってる。おかしいのも分かってる。情けないのも、誰にも見せられないのも。
でもここには篠崎しかいない。バカで無神経で変態だけど、優しい篠崎しか。
「…………お前に抱き締められるのは、好きだ」
俺は篠崎に抱きついていた。高い体温と柔らかな毛並み、大きな背中。きっとこれから俺よりも大きくなって、力も強くなるんだろう。抱きついてくる力も。
鼻先を篠崎の首元に埋め込んで、しきりに匂いを取り込んでいく。お日様の匂いと、ミントのシャンプー。嗅いでいるだけで、安心できるような……狼の匂い。狼特有の匂いは、よくじいちゃんからもしていた。犬の血が入った俺だからこそ、嗅ぎ分けられる匂いだ。
篠崎は俺が抱きついてから数秒間固まっていたけど、すぐに俺の背中に腕を回して、強い力で俺を抱き締めた。
「………………じゃあ、ずっとこうしてていい……ってことすか?」
「………………あぁ……人前じゃ…………嫌だけど」
自分がハグ好きなんて、稲光に来て初めて知った。少し女々しいとも思うけど、今それを知ってるのは篠崎だけだ。 篠崎だけで、いいかもしれない。
年下の後輩に抱きついて甘えるのが、こんなに落ち着くものだなんて思わなかった。今は、嫌悪感は全くない。あるのは安心感と、幸福感のみだ。
「センパイ、今日は一緒に寝ません?」
「…………ん…………………………」
篠崎は俺の頭をゆっくりと撫で付けながら、俺の肩に力をかけてそのまま押し倒してきた。頭を撫でられるのが思いの外気持ちよくて、なんとなく目を瞑ってしまう。すると、ゴクリと唾を飲む音が聞こえてきた。
「……可愛すぎ…………なんかもう俺色々限界っす……」
「………………ぇ?」
「…………センパイ……口開けて?」
その台詞はちょうど今朝も聞いた。意味は……もちろん分かっている。だから俺は戸惑った。受け入れるべきか、ちゃんと断るべきなのか。
……受け入れたい自分がいる。篠崎にだったら、と思ってしまう自分が。けど、俺は篠崎と恋人になるつもりはない。ただの先輩と、後輩の関係でいたいから、受け入れてはならない。
篠崎と目が合った。真剣な眼差しで、俺のことを食べようとでもしているように、ギラギラした瞳で。
「…………………………………………………………」
「……………………センパイ………………?」
「………………えっちなのは…………嫌だ」
「………………えっちなの?」
「…………舌…………いれるやつ」
「ははは……じゃあ、くっつけるだけのやつにしましょうか」
「…………あぁ……………………」
篠崎の目は相変わらず真っ直ぐだったけど、表情は柔和な微笑みに変わった。さっきまではキスの瞬間までがあまりにも長く、ゆっくりとした時間に感じられたけど、今度はほんの一瞬に、瞬きくらいの儚げな出来事に成り変わる。
篠崎の顔が近づいてきて、一瞬。マズルの先に、湿った何かが触れた。途端、またすぐに離れていって、目を開ければ嬉しそうな篠崎の顔があった。
今……キスしたのか?自覚できないくらいに呆気なくて、本当に大したことないものだった。
「……センパイ可愛い。大好きっす…………」
「………………………………うるせぇ…………」
「……尻尾揺れてますよ」
「……お前もだろ……………」
少し耳をすませるだけで、篠崎の吐息や鼓動が伝わってくるし、俺の尻尾がシーツに擦れて音を出しているのも聞こえてしまうだろう。それを知ってる篠崎の尻尾はもっと激しく空に揺れていて、つくづく主張の強い尻尾だと思った。声がうるさくないときは、尻尾がうるさい。明るくて、優しくて、常にうるさいのが篠崎だ。
篠崎は覆い被さるような今の姿勢から、俺の隣に寝転ぶように姿勢を変えた。相変わらず両腕は俺の首周りをしっかりと固定していて、離すものかと首輪をつけられているような気分だった。
「……ねぇセンパイ…………実は俺、これでも結構悩んでるんすよ?」
「………………………………………………」
篠崎のマズルが、グッと俺の首元に埋まる。少しだけ体がゾクッとして、身をよじる。至近距離で発せられる普段より低めの声が、耳を伝って頭に響く。
「今までこんなに誰かを好きになるってこと……なかったんで。独占欲が……止まらないっつーか…………」
「……………………ッ、おい……………………!」
チクりとした痛みと共に、篠崎に首を噛み付かれたのが分かって、思わず声を上げる。謝罪するかのように、篠崎は噛みついた場所を何度か舐めて、スイマセン、と笑った。
「センパイが誰かと喋ってるだけで、めちゃくちゃ嫉妬しちゃって…………俺、自分がこんなねちっこい奴だなんて思いませんでしたよ」
「………………だからなんだよ」
俺が答えを急かせるように聞くと、篠崎が俺を抱き締める力が急に強くなった。
「………………昼休みに喋ってた、雄の獅子獣人……アイツ誰すか?」
「…………あぁ、秋沢か………………クラスメートだ」
正直篠崎が俺と秋沢が喋っているところを見ていたのに驚いた。せいぜい五分くらいしか喋らなかったし、中庭の一番奥のベンチだったのに。
篠崎は俺に顔を見せようとしない。見られたくないのか単にくっついてきてるのか分からないが、篠崎は今嫉妬心を剥き出しにしているらしい。
「………………そすか」
「お前…………俺がクラスメートと喋ったことに嫉妬してんのか……?」
「…………………………………………」
篠崎は無言だったけど、俺にはそれが肯定だとはっきり分かった。ただ昼休みのほんの一時に、他愛のない話をしていただけでも嫉妬するなんて、コイツはどんだけ俺のことが好きなんだ。
少し静かになった部屋の中。狼の喉が鳴る。
「…………今は、クラスメートかもしれないっすけど……もしセンパイが、誰かのものになったらって考えると………嫌です」
「んだよそれ…………自分勝手だな」
「そうっすね、センパイのことになると……そうなっちゃいます」
低く喉を鳴らしながら頬擦りをしてくる篠崎が、今度はなんだか子供のように思えて、鬱陶しくはねのける気もなくなる。抱き締められてるこの感覚が心地よくて、動きたくない俺がいることも否めないんだけど。
「……センパイに首輪つけて、俺だけのものにしたい……って、つい考えちゃうんすよ」
篠崎は俺の首を指先でそっとなぞった。くすぐったい感触に身をよじると、篠崎の腕の力がさらに強くなった。少し痛いくらいだ。
「……痛ぇよ。力込めすぎだ」
「あ……スイマセン……」
「お前腕相撲のとき……手加減してただろ」
「……バレました?一応気遣ったんすよ」
「そんな気遣いいらねぇよ…………それと、」
言葉と共に少し体を起こして、篠崎の首元に手を這わせる。喉仏の出たよく鳴る喉を、五本の指で軽く締める。苦しくない程度の加減はしているけど。
「…………俺は"もの"じゃねぇ」
「……………………………………………」
篠崎は少しだけ目を丸くさせたあと、仄かに微笑んでゆっくりと瞬きをした。篠崎の尻尾が、何度もシーツを叩く。
「………そうっすね。やっぱり俺センパイのこと大好きです」
「…………なら電気消してこいよ。もう寝るぞ」
「了解っす!」
急に元気な声になったかと思えば、パッとベッドから起き上がる篠崎。抱き締められる感触と、包み込まれるような安心感がふと消えて、物足りなさを覚える。
離れていく背中。揺れている尻尾に、俺は無意識に手を伸ばしていた。
尻尾の先をつままれた篠崎は、首だけこっちを向いてにこりと微笑んだ。
「……俺はどこにも行きませんよ、センパイ」
「…………………………………………あぁ………………………」
顔が熱い。きっと耳まで真っ赤だろう。
篠崎の顔が、だんだんと近づいてきた。まただ。この一瞬が、一分にも一時間にも感じられる。
「……………………………………………………………………」
「…………………………………………ッ………………………」
優しく触れた感触は、俺の熱っぽい頭を溶かしてくれた。
[newpage]
おまけ
「…………あれ、こーすけちゃんどうしたの?」
「部屋に篠崎くん呼んだんですけど……哲也とイチャつき始めちゃって」
「気まずくなって逃げてきたのか?」
「そんなところです。なので今日は久郷田先輩と寝ます」
「誰も許可してねぇぞ」
「でもいいの?トーカちゃん取られちゃうわよ?」
「哲也のことなんで二人が付き合うことはないと思いますよ。体の関係は持つかもだけど」
「嫉妬深いお前が素直に引くなんてな」
「篠崎くんと約束したんです。お互いの邪魔はしないって」
「清々しい関係性ねぇ……ゲイの恋愛なんて結構ドロドロなのに」
「高校生ですし……たまには青春っぽいのもいいかなって」
「ビッチ猫のくせに何いってんだか」
「久郷田先輩のおかげさまです」
「ぃやぁね、不純で……」