ケモホモ男子寮(公認)に放り込まれた俺の受難な高校生活4

  「水曜日ってさぁ…………一週間のうちで一番憂鬱だよね」

  「…………………………なんでだ?」

  「まだ折り返し地点だなって思うとさぁ……なんのやる気も起こらないっていうか」

  そう言いながら朝食のソーセージパンにかぶりつくこーすけ。机の上に肘をついて、眠そうな顔のまま気だるげに食事をとっている。三毛模様の尻尾もだらりと下げて、確かに見るからに憂鬱そうだけど。

  水曜日が面倒くさいと思ったことはない。というかそれを言うならどの曜日も大して変わらないと思う。今日はそういえば国語の授業がある。こーすけは国語の先生が嫌いらしいから、それのせいもあるんだろうか。

  「…………あんまピンときてない?」

  「あぁ。別にどの日も一緒だろ」

  「哲也は真面目すぎるんだって。もっと気ままに生きないと疲れるよ?」

  「……お前は気まま過ぎるんだよ」

  ソーセージパンを半分まで食べたこーすけは、俺の顔をじっと見つめてからため息をついた。たまに人から言われる真面目、っていう言葉は、俺にはあまり自覚がない。そんなにきっちり生きているつもりもないし、だらしないところもあるのは分かってる。俺なんかより、上柴とか秋沢の方がよっぽど真面目だと思う。それとも、俺が考えている真面目とは違う意味なんだろうか。また少し考え込んでしまう。

  すると、

  「センパイおはよーーっす!今日も可愛いっすね!」

  調子に乗った声と共に、椅子に座っている俺を背後から抱き締める感触。ここ数日で格段に回数が増えたこの感触は、振り返らずとも間違いなく篠崎だ。

  と同時に、

  「っ、離れろ!!」

  背中にくっついている狼の脇腹に肘鉄を入れて、硬い腹筋を横から攻撃する。こうでもして抵抗しないとますます調子に乗るから。

  案の定、イテッ!!という声の後に背中から離れた篠崎。振り返って寝癖だらけの狼の姿を見ると、少し不満そうな顔をしていた。

  「センパイ、ツンデレにしては痛いっすよ……」

  「ツンデレじゃねぇ。くっついてくんなって何回言ったら分かんだよ!!」

  「だって愛しの天使が目の前にいたら思わず抱き締めちゃうっすよ!!おはようのキスします?」

  「しねぇっ!!!!!!」

  ニヤニヤ顔の篠崎に吐きかけるようにため息をつくと、わざとらしく大きく息を吸うバカに背を向ける。

  一昨日の夜、一緒に寝たあの晩から、篠崎のスキンシップはどんどん頻繁になっていた。前みたいにいきなりケツ触ってきたりはしないものの、他の人がいるところで露骨に抱きついてきたり、二人きりでもやたらとキスをねだってきたりとエスカレートしている。きっと一度流されてキスしてしまったのがいけなかったんだ。

  すると、俺とこーすけの座るテーブルに三年の先輩がぞろぞろと集まってきた。

  「朝からラブラブねぇ。羨ましいわ」

  「ラ……そんなんじゃないです…………」

  「お前らいっつも一緒にいるなぁー。付き合ってんのーー?」

  「違います!!!」

  面白がるような顔のあやめ先輩と相田先輩が茶化してくるのを必死に否定しながら、篠崎が余計なことを言わないように気を配る。穏やかな水曜日の朝だったはずなのに、すぐにこうなるのは篠崎のせいだ。

  「渡嘉敷センパイがツンデレ過ぎるんでぇ、まだ付き合ってはないんすよー!!」

  「一生ねぇよ!!!」

  「あら、でもシノちゃんならきっといい旦那さんになるわよ。浮気もしなさそうだし」

  「仕事はできなそうだけどなぁーー」

  「ヒドイっすよ相田先輩っ!!」

  口をとがらせる篠崎にまた笑いが起こって、場の空気が和む。こういうところが篠崎のスゴいところだと思う。お調子者でうるさいやつだけど、周りを明るくするのは誰よりも上手だ。

  俺には絶対真似できないだろうな、とソーセージパンを一かじりすると、また背後から抱き締められる感触が俺を包む。今日はしつこいな、と思いながら振り返ると、

  「しの――――――久郷……田先輩…………?」

  「おう」

  顔の真横に久郷田先輩の強面があって、めちゃくちゃ驚いた。なんで俺は久郷田先輩に抱き締められてるんだろう。さっきまで気が付かなかった久郷田先輩の匂いや腕の感触に意識が集中する。思えば篠崎より力強かったしなんとなくゴツい印象を持った。シャンプーだけは借りたのか、篠崎と同じミントの匂いだったけど。

  俺の驚いている顔を見て、ニヤリと笑う久郷田先輩。

  「…………いや………………あの、」

  「腹減ってんだよ。一口くれ」

  久郷田先輩は俺が手に持ったままのソーセージパンに少し首を伸ばした。俺の食べかけのやつだけど、本人はそれでもいいみたいだ。久郷田先輩の口元までパンを持っていくと、大きな口でバクリと食べられてしまった。自分の分の一個じゃ足りなかったんだろうか。まぁ久郷田先輩体でかいし大食いそうだけど。

  ごくり、と飲み込んだ音がしたと同時に、久郷田先輩の拘束が外れた。

  「おし。いい子だ」

  「…………………………………………………………」

  久郷田先輩は俺の頭をガシガシと乱雑に撫でると、そのまま歩いて食堂を出ていってしまった。久郷田先輩の行動はたまによく分からないときがあるけど、今のは特に意味が分からなかった。ただソーセージパンが食べたかっただけなんだろうか?

  呆然としているのは俺だけではないようで、あやめ先輩と相田先輩もその場に立ち尽くしたままお互いに顔を見合わせていた。

  「センパイ?おーい大丈夫すか?」

  篠崎に肩を揺らされて、ようやく思考が現実に戻ってきた。ふと視線を落とせば、鋭くて大きな牙の歯形がついた食べかけのソーセージパン。あまり食べる気にはならないけど。

  「…………なんだったんだ…………?」

  「久郷田ってイマイチ何考えてるかわかんないのよねぇ…………」

  「嫉妬深いタイプでもないんだけどなぁーー」

  そのままあやめ先輩と相田先輩は何やら小声で話し始めてしまった。今の久郷田先輩の行動がなんなのか、二人には分かっているんだろうか。

  こーすけの方を向いてみると、とっくにソーセージパンは食べ終わっていて、机の上で組んだ両腕に頭を乗せてじっと真顔で俺のことを見つめていた。

  「……………………なぁ、」

  「教えてあげない。ちょっと考えたら分かるでしょ」

  ぶっきらぼうにそう言ってのけると、面倒くさそうに欠伸をして目を閉じるこーすけ。何か不満そうな顔をしているし、それを教える気もないようだ。

  ちょっと考えたら分かるって………それが分からないからこーすけに聞こうと思ってたのに。俺が鈍感なのは十分自覚してるから、教えてくれなきゃ困る。

  こーすけが石像のように固まってしまったので、今度は篠崎の方を向いてみる。篠崎も何か考えている様子だったけど、俺の視線に気づいて苦笑いを浮かべていた。

  「……まぁ、センパイはモテモテってことっすよ!」

  「…………はぁ?どういうことだよ」

  「そのまんまの意味です。あーあ、恋のライバル増えちゃうなーー!」

  篠崎もそう言い残して一年生のテーブルの方へ歩いていってしまう。恋のライバル…………篠崎の恋のライバルってことは、俺のことが好きな人って意味だろう。

  ……久郷田先輩は、俺のことが好きなんだろうか。

  頭にその疑問が浮かんだ途端、こーすけのぶっきらぼうな態度の理由とか、篠崎の苦笑いの原因が全て分かったような気がした。そしてそれと同時に、背筋を悪寒が走る。あの強引な久郷田先輩が本気で俺のことを好きなんだとしたら、俺は断りきれるだろうか。さっきだってソーセージパンを一口あげちゃったし。

  いや、まだそうと決まったわけじゃない。久郷田先輩本人から告白でもされない限り、断定するのは早すぎる。セクハラされることがあったらさすがに全力で抵抗しないといけないけど。

  そのとき、誰かからの強い視線を感じて、ハッとそっちの方を見る。

  俺が見たときには目を逸らされてしまったけど、間違いなく三年生のテーブルからで、しかも複数人だった。俺が喋ったことのないような先輩にも、見つめられていたような気がする。

  なんとなく後味が悪いなか、ふと頭に疑問が浮かんだ。

  「…………あやめ先輩、久郷田先輩って………男ったらしなんですか?」

  一昨日だったか、三下先輩と風呂で一緒になったとき、三下先輩がそう言っていたのが頭の片隅に引っ掛かっていた。男ったらしというのがどういうことなのかもよく分からなかったし、久郷田先輩が本当にそうなのかも聞けなかった。あとで三年生の先輩に聞こうと思っていたのだけど。

  あやめ先輩は俺の疑問に、苦笑いのまま答えた。

  「そうねぇ……まぁ、久郷田は一年のころからモテてたわねぇ……相田の方が詳しいんじゃない?」

  「久郷田はイケメンだから人気だったぞーー。バレンタインのチョコも山ほど貰ってたしなーーー」

  「ファンクラブがあるって噂もあったわよねぇ?」

  「しょっちゅう告白されてたなぁーー。全部断ってたけど」

  聞けば聞くほど、この学園では久郷田先輩にアイドル的人気があったようだ。俺が知らないだけで、今もそうなのかもしれないけれど。

  あやめ先輩と相田先輩は、何やら段々と楽しそうに話を続ける。

  「他校の女子からも人気なくらいよねぇ」

  「イヌ科は全員抱いたって都市伝説もあるなぁ」

  「サッカーの試合の応援席が半分ファンで埋まったとか」

  「久郷田の出待ちで寮の前が大渋滞になったとか」

  「いや……あの、もういいです」

  久郷田先輩のモテモテぶりは十分わかったし、後半は多分嘘だろう。話を盛るのに楽しくなった二人は置いといて、改めてさっきの三年生のテーブルからの視線について考えてみる。

  もし久郷田先輩が学校中の雄からモテモテなんだとしたら、久郷田先輩のことが好きな人達は俺のことを快く思わないだろう。この前のこーすけのように、嫉妬心が生まれるはずだ。ということは、俺は久郷田先輩に抱き締められたりするだけで、知らない誰かに嫉妬される可能性があるということだ。なんてとばっちりなんだ。

  するとあやめ先輩に、軽く肩を叩かれる。

  「そういえば、トーカちゃん転入生だったわね。だからまだ知らないのよねぇ……」

  「……何をですか?」

  あやめ先輩はもったいぶるかのように数秒言葉をためて、冷静に言い放つ。

  「久郷田の雄としての魅力。たらしって言われるのも無理ないくらい、アイツは雄をたぶらかすのが得意なの。そりゃモテるわよってくらいね」

  「……………………………………………………」

  正直あまり信じてはいなかった。いくら久郷田先輩がモテるといったって、あくまで雄好きな人達の話だろう。そもそもノンケな俺が急に久郷田先輩を魅力的に思うだろうか。あやめ先輩も、少しオーバーに話しているようだし。

  「久郷田が誰かをデートに誘うのは、俺が知る限り初めてなんだぞーー」

  「……いや……デートじゃないです……」

  「デートでしょ。久郷田が服欲しいなんて言うわけないじゃない」

  「………三下先輩と同じこと言わないでください」

  三年生の中でも、久郷田先輩が洋服に無頓着なのは周知の事実だったようだ。じゃあ久郷田先輩が服が買いたいと言ったのは、俺を遊びに誘うための口実というか、嘘ということになる。

  「あら……やっぱり三下も気になってたのね。そりゃそうか、久郷田のことだもんねぇ……」

  「…………どういうことですか?」

  「私の口からは言えないわ……でも、ひとつだけハッキリしてることは…………」

  あやめ先輩は一度そこで言葉を切って、少しの間何か考えていた様子だった。そしてそのままにこりと微笑む。

  「久郷田は高校に入ってから一回も恋人を作ったことがないの。だから他の三年生たちも、あなたのことがちょっと気になってるのよ」

  「……………………はぁ……………………」

  モテモテなのに恋人を作ってこなかった久郷田先輩が好意を向けている後輩。それがどんなやつなのか、野次馬精神で気になってるってことか。三下先輩がやたらと嗅ぎ回ってきたのもそれが理由だ。さっきの三年生のテーブルからの視線も。

  体にドッと疲れがのし掛かってきたような気がして、自然と肩が重くなる。ずいぶん厄介な人に好かれてしまったのかもしれない。まぁまだ好きなのかどうかは分からないんだけど。

  「トーカちゃん、大変だと思うけど頑張ってね」

  「久郷田は強引なとこあるからなぁーー」

  他人事だと思って無責任な言葉を浴びせてくる先輩たち。三年のテーブルに戻っていく二人の背中を睨みながら、俺も他人事だったらいいのにな、と願望が頭に浮かぶ。なんでこうも次から次へと、雄からの好意をぶつけられて悩まされなきゃいけないんだ。もう三人目だし、今度は先輩だ。この学園での身の振り方を、もう少し考えなくてはならないかもしれない。

  再びこーすけの方を見ると、もうそこにこーすけはいなかった。いつの間にか席を立っていて、食堂には影も形もない。まるで忍者のような俊敏さに驚きつつ、一人取り残されたような気分になって、少し寂しく食べかけのソーセージパンをかじった。

  こうやっていつも、俺は置いていかれている。自嘲気味に笑ったあと、ため息をついた。

  「……渡嘉敷くん、おはよう…………なんかあったの?」

  朝のホームルーム前、机に突っ伏して考え事をしていた俺に頭上から声が降りかかる。顔を上げると案の定、困り顔の獅子獣人が俺を見下ろしていた。手に持った学生鞄が小さく見えるくらい、本人の体はデカいけど、相変わらず少し猫背になって縮こまっている。

  月曜日の昼休みに自己紹介めいた会話をしてから、秋沢は俺に挨拶をするようになった。おはよう、とかバイバイ、とかその程度なんだけど、挨拶をしているときの秋沢は心なしか嬉しそうに見えて、俺も普通に返すようにはしていた。

  秋沢に心配されるくらい、俺は何か重大に悩んでいるように見えたんだろうか。老け顔でしかめっ面なだけで、実際は大したことないことの方が多いんだが。

  ……いや、大したことあるか。久郷田先輩に抱き締められたんだから。

  篠崎のことが解決して、改めて自分の気持ちが分かってスッキリしていた矢先、また新たに久郷田先輩からの好意を感じとって、どうしようかと考えていた。いくら鈍感な俺でも、好きでもない相手を急に抱き締めたりしないことなんて分かってる。

  「…………なんもねぇよ」

  「じゃあ……眠いだけ?」

  「あぁ。昨日夜更かししたから」

  昨日の夜はベッドに潜り込もうとしてくる篠崎を追い出すのに一時間くらい格闘していた。結局こーすけがしびれを切らして、篠崎を部屋から蹴り出した。睡眠を妨害された猫獣人は、たまにどんな肉食獣より怖くなる。

  ……いやそんなことはどうでもいい。今は久郷田先輩のことの方が重要だ。

  「そっか…………ほどほどにね」

  「あぁ」

  苦笑したまま秋沢は、ゆっくりと尻尾をふって席についた。最近こーすけと一緒にいるせいで学んだけど、ネコ科がああいう尻尾の振り方をしているときは大体上機嫌なときだ。きっと何かいいことでもあったんだろう。

  すると、今度は違うネコ科が話しかけてきた。

  「なぁなぁ渡嘉敷!!さっき校門の前で拾った百円!!今年のだぜ!?スゴくね?」

  「……あースゴいな……」

  俺の机の前にドンと仁王立ちして、縞模様の手のひらの上に載せた小さな百円玉を見せびらかしてくる高田。おはようも言わずにいきなり話しかけてくるとは、いかにも虎獣人らしい。話の内容は下らないし小学生かと言いたくなったけど。

  高田の尻尾もゆらゆら揺れている。これはテンションが高いときのネコ科だ。

  「めっちゃ綺麗なんだけどなー!!誰が落としたんだろうな!!!」

  「……交番に届けてこいよ」

  「いいだろ百円くらい!!ジュース買ってこよっかなー!!!」

  こいつネコババする気か。ほんとネコ科だな。

  都会では落とし物をしたら絶対帰ってこない、ってじいちゃんが言っていたのを思い出す。都会の人は冷たいし、気をつけねぇと。

  「あ、おい秋沢!!ジュース買いに行こうぜ!!喉乾いてるだろ!?」

  「ぇ…………いや、別に――――――」

  「行こうぜー!!」

  高田の興味は秋沢の方に移ったらしく、明らかに嫌がっている秋沢の腕を無理やり引っ張って教室から出ていった。あれが虎とライオンじゃなければ誰かが止めるのかもしれないけど、きっと道を開けるだけだろう。ホームルーム前の五分をジュースを買いに行くために走らされるなんて、秋沢が少し気の毒だった。

  ……でも、秋沢の尻尾は揺れてたし案外嫌でもなかったのかもしれない。

  「哲也のせいであの二人仲良くなったみたいだね」

  「……せいってなんだよ。悪いことみたいじゃねぇか」

  「秋沢くんからしたら災難じゃない?高田くんみたいなタイプ苦手そうだけど」

  今度は後ろから違うネコに話しかけられる。こーすけは眠そうに鞄の上に顎を乗せて、上目遣いで俺を見つめていた。細い尻尾をだらりと下げて、微動だにする気もないようだ。これは気だるいときのネコ科の尻尾だ。

  高田と秋沢が週末に出かけることになったのは、確かに俺のせいなんだけど、二人が仲良くなって秋沢に友達ができるなら、結果的に良かったことになるはずだ。迷惑じゃなければいいんだけど。

  「……まぁ同人誌とかだとあぁいう意外性のあるカップルの方が付き合うんだけどね」

  「マンガと一緒にすんなよ……」

  「マンガみたいな三角関係してるくせに何言ってんの。あっ、四角形か」

  明らかに久郷田先輩のことを言ってるんだろう、意地悪く微笑むこーすけにため息が漏れる。そういえばここ数日、こーすけがセクハラをしてくる機会は減っていたけど、その分やたらと不機嫌になったり、意地悪になることが増えた気がする。好意の押し付けもあんまりしてこないし。

  「…………お前、なんか最近いじわるだよな」

  「そう?ストレスのせいかもね。あー禿げそう」

  「真面目に言ってんだよ」

  こーすけの顔を正面から覗き込むと、そっと顔を逸らされた。以前ならマズルを近づけただけでキスしようとしてきたりしたものだけど、今のこーすけには全くそんな素振りがない。

  本人に何かしら心境の変化があったんだろうか。もしかしたら、と頭に何気なく願望が浮かび上がる。

  「もしかして、俺のこと好きじゃなくなったのか?」

  「…………………………………………はぁ」

  俺の疑問にこーすけは大きなため息で答えた。きっと間違っているのは態度で分かる。

  「それ誰かが聞いてたら間違いなく誤解されるよ」

  「…………違ぇのか?」

  「うん。むしろ逆……好きすぎてストレスなの」

  こーすけは呆れたような口調のまま、鞄に顔を突っ伏してしまった。動かなくなった体とは対照的に、耳は忙しなくピクピク動いていて、少しだけ可愛らしいと思った。

  「……どういうことだよ」

  「…………説明しなきゃわかんない?」

  「あぁ」

  くぐもった声のため息が聞こえてきて、きっと俺はまた鈍感って言われるんだろうなと、心の中で準備した。

  「みーんな哲也のこと大好きすぎて………正直しんどい。総受けって見てる分にはいいけど、実際なったら大変だなって……」

  「…………ごめんわかんねぇ」

  「哲也のこと好きな人が多ければ多いほど、俺に振り向いてくれる可能性は減るでしょ?恥ずかしいから言わせないでよ……こんなこと」

  最後のこーすけの言葉で、最近不機嫌な理由がようやく理解できた。こーすけからしてみれば恋のライバルが増えるってことだから、確かに嫌な気持ちになるのは分かる。思えば今朝の篠崎も、久郷田先輩が俺を抱き締めたあと嫌そうな顔をしていたし。

  ……そうか、俺のことが好きな人が増えると、嫌に思うのは俺だけじゃないのか。

  「……んじゃどうしたら人に嫌われるんだ?」

  「なにその天然イヤミ発言……そういうこと言い続けてたらそのうち嫌われるよ」

  「はぁ?」

  またこーすけの言ってることがよく分からなくなってきた。雄に好意を向けられない方法を、俺は多分学ばなきゃならない。稲光で普通の男子高校生として過ごすためには、今後必須になるだろうから。

  詳しく今の話を聞こうとしたとき、教室の扉が開いて担任がせかせかと教卓の前まで歩いてきた。いつもきっちりホームルームが始まる三分前に現れて、鋭い眼光で遅刻者の確認をしている。

  そういえば、秋沢と高田はまだ戻ってきていない。どこまで買いに行ったんだか。

  「……宿題出してきて。おねがい」

  「…………………………ったく………………」

  ぐったりした様子のこーすけの鞄から、勝手にノートを引っ張り出して、重い腰を上げる。俺だって今は久郷田先輩のことが気がかりで、ぐったりしたい気分だってのに。

  教卓の前に歩いていって、積み上げられたノートの一番上にこーすけのを重ねたとき、担任の低い声が響いた。

  「渡嘉敷くん、おはようございます」

  「……おはようございます」

  「二者面談の日程が決まりました。来週の火曜日の放課後にしましょう。よろしいですか?」

  「あぁ……はい、いつでもいいです」

  担任の鋭い嘴と眼光に見つめられると、目を合わせるのが少し怖くなる。猛禽類の目は金色で、綺麗な真ん丸だ。担任と一対一の面談は息が詰まりそうで、今から想像してテンションが下がった。

  「場所は第二自習室です。ホームルームの後すぐに来て下さい」

  そこまで事務的な早口で言い終えると、担任は手に持っている書類に目を通し始めた。機械みたいに正確に動いてる人だ。鳥類ってみんなこんな感じなんだろうか。

  すると、急に何かが走ってくるかのような足音が、ドンドンドン、と廊下から鳴り響く。クラス中が肩や耳をピクリと反応させて、教室の扉に注目していた。

  「ぅっしゃあああーー!!俺の勝ちだなっ!!」

  「高田くん……!廊下は……走っちゃだめだって……」

  勢いよく教室に飛び込んできた虎獣人と、少し息を切らしながらそれを追いかける獅子獣人。まるで子供のようにはしゃぎながら笑い声をあげる高田に担任の冷徹な視線が向けられているのを感じる。たぶんこの後高田は怒られるだろうし……秋沢も巻き添えを食うことになるだろう。

  「はぁーあ!!秋沢意外と足速いんだなっ!!びっくりしたぜ!!」

  「やっぱり…………走らなくても…………全然間に合ったじゃん………!」

  どのぐらい走ってきたのか、二人は疲れた様子でそのままドカッと席についた。高田が手に持っているペットボトルの蓋を開ける。

  プシュッ!!!

  「あっ!!やべぇ炭酸爆発したっ!!!!秋沢タオル持ってるか?」

  「えっ?…………あぁ………………もう……………………」

  ペットボトルの口から暴れ出るシュワシュワのサイダーが、徐々に学校の机を汚していく。それはきっと秋沢がポケットから取り出したハンカチでは吸いきれないくらいの量だった。秋沢と高田の焦った声がしんとした教室に響き渡ったあと、担任の不機嫌そうなため息が、俺の耳に入ってきた。

  ちらりと秋沢が俺のことを見た。そしてそのまま視線を担任の方へと移ろわせ、体をすくめて縮こまる。

  担任の岩のような怒声が二人にぶつけられるまで、そう時間はかからなかった。

  少し時間は飛んで、昼休み。生徒たちが購買へ向かう波に逆らって、俺はまた中庭へ向かっていた。朝食はソーセージパン一個だったけどあまり食欲も湧かなくて、何より昼飯を食べに寮に帰ると久郷田先輩に会うんじゃないか、という懸念があった。今朝のように急に抱き締めてきたりはしないと思うけど、なんとなく顔を合わせたくない。それにきっと久郷田先輩と俺が何か喋っているだけで、あらぬ噂が立ったりするんだろうから。

  久郷田先輩が俺のことを好きなのか、その是非は俺だけじゃなく他の三年生の先輩たちも気になっているようだ。ただ後輩を遊びに誘ったってだけなのに、みんなかなり大げさだと思う。ていうか久郷田先輩自身も、そんなにいちいち注目されてたら生活しづらくないんだろうか。色んな思いが頭を巡ってしまう。

  ダメだ。また一人で悶々と悩んでしまっている。島にいた頃は悩み事なんて全くなかったのに、都会に来てから毎日のように何かに悩まされている。色恋沙汰には不慣れなのもあるけど、それ以上に稲光学園の特殊さが、全ての悩みの根源のような気がして。つくづく普通の学校に行かなかったことを後悔した。なんでじぃちゃんと前の学校の担任は、稲光を選んでしまったんだろう。

  ……まぁ今さら環境を責めたって仕方ない。そもそも面倒くさくてパンフレットすらまともに読まなかった俺が悪いんだから。今は悩み事を解決するために、どう行動するのがベストか考えないと。

  「…………ねぇ君……二年生?」

  不意に声をかけられて、少し驚いたのと同時に素早く振り返ると、茶色の毛の犬獣人が立っていた。胸のネームプレートを見ると、三年一組と書いてある。

  もちろん面識もないし、絶対初対面だ。寮の先輩でもないはずだけど。

  「……はい、そうですけど」

  「聞きたいことがあって……二年生から転校してきた渡嘉敷くん、って知ってる?」

  犬獣人の尻尾は忙しなく動いている……けど、これは喜んでるんじゃない。何か警戒していたり、気が張っているときの興奮の仕方だ。

  それはそうと、渡嘉敷くんは間違いなく俺だ。こんな名字なかなか見かけないし。

  「……俺ですけど」

  「あっ……君…………なんだ…………ふーん…………」

  犬獣人は半ば睨み付けるような視線で俺のことをじろじろと観察し始めた。頭からつま先まで舐めるように見られるのはなんとなく居心地が悪い。それにこの犬獣人は俺に対して何故か敵意を剥き出しにしていて、明らかに嫌われているのが分かった。

  「……どんな手を使ったの?」

  しばらく睨まれていたと思いきや、犬獣人は腕組みをしてふてぶてしく俺に尋ねてくる。質問が漠然とし過ぎてて、全く意味がわからないけど。

  「…………………………………はい?」

  「どんな手を使ったんだよ………久郷田くんが君ごときをデートに誘うなんて、なんか汚い手を使ったんだろ!」

  「…………………………………………えっと………」

  なんかよくわからないけど、とにかく俺はものすごく面倒くさいことに巻き込まれたんだと思った。たぶんこの人は久郷田先輩の知り合いで、誰かから月曜日の件を聞いて…………俺にキレている。ダメだ意味がわからない。

  「…………まずデートじゃないです」

  「ふん!そうやって純情ぶってるのも今のうちだからね!化けの皮なんかすぐに剥がれるんだ!」

  「……………………………は?」

  少々の唸り声と共に威嚇の姿勢を見せる犬獣人。ケンカをする気はないみたいだけど、何故か初対面の俺に怒っている。言ってることも頓珍漢だし、人違いを疑いたくなるほど意味不明だった。

  「とにかく!!久郷田くんは渡さないから!!!」

  「……いや俺に言われても―――――――」

  「さっさと手を引くんだな!このビッチめ!!」

  「……いや、あの――――――――」

  「可哀想な久郷田くん……こんなやつに騙されてるなんて」

  「いや人の話聞けよ!!!誰なんですかあなた!?」

  自分勝手に文句だけ言ってくる犬獣人に、先輩だということも一瞬忘れてちょっとキレた。俺はビッチでも久郷田先輩を騙してもないし、なんの言いがかりなんだこれは。そもそもお前誰だよ!って言いたくなるところをなんとか敬語にしたけど。

  犬獣人は威嚇の姿勢を崩さないまま、得意気に鼻を鳴らした。

  「初めまして、三年一組の新谷です。君とはライバルってことになるけど、絶対僕が勝つからね」

  「…………いや、なんのライバルですか?」

  「恋のに決まってるじゃん!!バカなの?」

  「……………………………………………………」

  まだこの人に出会って五分も経っていないけど、俺はこの人が嫌いになりかけていた。よくわからないことで怒ったり威嚇してきたり。俺が久郷田先輩と遊びに出かけるってことが気に食わない様子だったけど。

  ……待て、そもそもその話は誰から聞いたんだ?

  「……あの、久郷田先輩と出かけるって話……誰から聞いたんですか?」

  「え?誰ってわけじゃないけど……三年生中の噂になってる」

  三年生の噂……久郷田先輩が俺を誘ったとき、部屋にいたのは上柴とこーすけと……あやめ先輩だ。多分最初に口外したのはあやめ先輩で、それが人伝に噂になってしまったんだろう。ていうかその程度のことが噂になってしまうくらい、久郷田先輩って有名人なんだろうか。

  そしてそれと同時に、深く考えるにつれだんだんとこの人の意図がわかってきた。

  「……久郷田先輩のこと好きなんですか?」

  「っ、好きに決まってるだろ!!めちゃくちゃ男らしくて、カッコよくて、優しくて、ユーモアがあって、頭も良くて……好きにならない方がおかしい!!!」

  「…………はぁ………………」

  つまりこの人は久郷田先輩のことが好きで、遊びに誘われた俺が羨ましくて嫉妬してる、ってことか。わざわざ本人にぶつけてくるなんて、大胆な人だと思うけど。

  ただそれなら話は早い。俺は別に久郷田先輩が好きなわけじゃないから。

  「あの、俺はただ遊びに誘われただけなので………久郷田先輩のことは好きじゃないので安心してください」

  「は?なんで好きじゃないの?あんなにカッコいいのに…………」

  犬獣人は考え込むような仕草をしながら、訝しげな視線を送っていた。何かを探るような目つきに居心地が悪く、不快な印象を受ける。かと思えば、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて、俺の眼前に人差し指を突き出す。忙しい人だ。

  「僕のことも騙そうとしてるのかもしれないけど、君の魂胆はとっくにお見通しだよっ!!」

  「…………魂胆?」

  「そうやっていい子ちゃんぶって久郷田くんに好かれようとしてるんだろ!バレバレなんだよ!!」

  「……………………………………はい?」

  またわけが分からなくなってきた。そもそも俺は久郷田先輩のことが好きなわけじゃないから、この人が言ってる魂胆なんてあるはずがない。どうも俺について面倒な誤解をしているようで、さっきから随分な悪者扱いをされている。それを解消するには……どうしたらいいんだろうか。

  ……いや、というか誤解を解く必要があるのか?この人にどう思われてようが、久郷田先輩への恋心を邪魔するつもりはないし。でも誤解されたまま、またこうやって定期的に絡まれるのも面倒だ。

  どうしたらいいのか、少しの間頭を悩ませていると、

  「…………あの………渡嘉敷くん借りていいですか?」

  低い声が背後から聞こえて、思わず振り返るとのっそりと秋沢が立っていた。その立ち姿にどこか違和感を覚えて少し観察してみると、いつもより背筋が伸びていて胸を張っていることに気づく。猫背じゃない分かなり背が高く見えるし、胸を張っているせいで威圧的だ。一口で言うなら、獅子獣人らしいというか。

  「え?あぁ…………でも、」

  「生徒会の話があるので。お引き取り願います」

  そう言い放った秋沢の声には、春の空気をも震わせる野太い唸り声が絡んでいて、いつもの弱々しく自信のない口調は見る影もない。高い目線から俺たちを見下ろす赤い眼は、その立派な鬣と共に十分な迫力があった。

  ……まるで別人のようだ。どういうことなんだ?

  「…………………………はい…………………………」

  犬獣人は耳と尻尾を垂らしたまま、少し悔しそうな表情をしてさっさと歩いていってしまった。俺には散々好き勝手言ってきたくせに、秋沢が二言発しただけで背を向けて帰っていく。だけどそれが不自然に思わないくらい、秋沢には威厳のようなものを感じた。

  犬獣人の背中をぼーっと眺めたあと、改めて振り返って秋沢のことを見る。

  「…………なんか……大変そうだったから追い払っちゃったけど………………余計なお世話だったかな」

  そう言って苦笑いを浮かべる秋沢の姿はもういつも通りの弱々しいライオンだ。少し前屈みで恐る恐る話しかけてくる様子は、威圧感のかけらもない。

  「…………いや、困ってたから助かった。ありがとな」

  「………ぁ…………じゃあ、よかった…………」

  ホッとした顔で胸を撫で下ろす秋沢。もしかすると、本人も緊張していたのかもしれない。あんな顔で獅子獣人にすごまれたら、大抵の人は萎縮するし引いてしまう。秋沢自身もそれを分かって威圧していたはずだ。一昨日の吠え声といい、たまに見せる獅子獣人の威厳と雄壮さを身をもって知らされたような気がした。

  「渡嘉敷くん……良かったら、昼ごはん食べない?お弁当……たくさんあるから…………」

  「あ?いや…………いいよ、悪いし」

  「あっ、えっと、お、多すぎるから……食べるの手伝ってほしいんだ。お箸も……二膳持ってきたし」

  「…………あ、あぁ…………わかった」

  ずいぶん用意がいいなと思いつつも、秋沢の圧に押されて食べることにした。本当はあまり食欲も無かったし、少し一人でいたいと思っていたんだけど。まぁ秋沢には助けてもらったので、それくらい協力すべきかもしれない。

  連れられるように中庭の一番奥のベンチに座ると、せかせかと嬉しそうに尻尾をくねらせながら弁当を取り出す秋沢を眺める。

  島に一人もいなかったからか、もともと獅子獣人には偏見を持っていて、態度がデカくて他の種族のことを見下しているような印象があった。特に学級委員長なんて統率をとる役職に進んで立候補するような奴は、典型的なタイプだと思っていたけど、秋沢は全然違う性格だった。とても気弱で自信がなくて、統率をとるどころか周りとまともに喋ることすら不安そうだ。人と喋ることに怯えていて、頼まれたら断れない、そんな性格。とても俺が思っていた獅子獣人とはかけ離れている。

  「…………さっきの人、知り合い?」

  重箱のような弁当を一段こちらに差し出しながら、秋沢が聞いてきた。弁当の蓋を開けると、彩り豊かな多品目のおかずがぎゅうぎゅうに敷き詰められていた。

  「…………いや、初対面だ」

  「…………そうなんだ。結構………その、失礼な人だったね」

  秋沢から漆塗りの箸を受け取りながら、あの犬獣人について考え込む。久郷田先輩に恐らく片想いしてるだろうあの犬獣人は、俺が久郷田先輩と遊びに出かけるというだけで敵意を剥き出しにしていたし、あまつさえ俺が久郷田先輩に好かれるためにいい人ぶっているとまで言ってきた。全く聞く耳を持ってくれなかったし、きっとまだ誤解されたままなんだろう。面倒なことにならなきゃいいけど。

  「…………稲光は変わった人が多いな」

  「まぁ……………仕方ないよ。世間から見たら俺らは…………特殊な人種なんだし…………」

  異性愛が当たり前の世の中じゃ、同性愛は特殊だ。結局世間は多数決で、多い方が正しくて、少ない方は間違っていると言われてしまう。この学園の中でもそうで、異性愛者の俺は圧倒的に少数派だ。だからこそ少数派なりに、少しでも過ごしやすいように振る舞い方を考えなきゃならない。さっきの犬獣人には、どう対応するのが正解だったんだろうか。

  「あの…………ちょっとだけ、聞こえちゃったんだけど…………」

  秋沢は気まずそうな顔で尋ねてきた。普段からそんな感じの顔で話しかけてくるけど。

  「渡嘉敷くん……久郷田さんのこと好きなの?」

  「は!?いや…………全然。ていうか知ってんのか?」

  秋沢の口から久郷田先輩の名前が出たことに驚いたが、学園の人気者なら知っていてもおかしくないことに気づく。

  「一年の頃から、色んな噂が飛び交ってるような人だから…………でも、久郷田さんのこと好きな人多いらしいから、渡嘉敷くん大変だなって…………」

  「いや……寮の先輩ってだけでちゃんと喋ったことすらねぇよ。むしろ……………………」

  そこで思わず言葉が止まってしまった。好かれてるかもしれない、なんて言っても、秋沢を混乱させるだけだろう。悩み事を相談し合うような仲でもないし。

  おかずの卵焼きを一口かじる。

  「…………強引で何考えてるかわかんねぇし、ちょっと嫌いだよ」

  現に久郷田先輩のせいで、あの犬獣人に絡まれることになったんだから。今朝からの悩みの種を、恨めしく思うくらいだ。

  秋沢は何も言わなかった。かける言葉が思い付かなかったのかもしれないし、口出しする気もなかったのかもしれない。

  「……………………………………この卵焼き旨いな」

  「あっそれ……うちの料理人の得意料理なんだ……」

  「家に料理人がいんのかよ」

  「いや…………ひ、一人だけだよ…………」

  一人でもいるだけおかしいってことを指摘しようかと思ったけど、本人が気にしそうだからやめておいた。秋沢と、イメージしていた金持ちのお坊ちゃんとは印象がだいぶ違う。意外と食べてるものも同じなのかもしれない。

  俯きながら少量の白飯を大きな口に放り込む秋沢を見て、あることを思い出す。

  「………………お前よく本読んでるよな」

  「え………………うん。結構好きだけど…………」

  「今度買いに行こうと思って………なんかオススメの本あるか?」

  俺がそう尋ねると、秋沢は分かりやすく顔を輝かせた。ピンと張った尻尾からも、秋沢が本好きだということがよく分かる。

  「えっと、ど、どんなジャンルが好き?ミステリーとか、サスペンスとか、恋愛とか……」

  「特にねぇよ。あんまり長くないやつがいい」

  「じゃあえっと……谷川先生のは……風刺的すぎるかな………でも池田先生のだと純文学的すぎるし………夏目義子先生は入りたての人にオススメだけど、ちょっと長いかも…………」

  嬉しそうに知らない小説作家の名前を列挙していく秋沢に、だんだんと呆れ始める。植物好きなじぃちゃん然り、マンガ好きなこーすけ然り、特定のジャンルに愛が深い人は喋り出すと止まらなくなる。聞いてるこっちが疲れるだけだから、別にいいんだけど。

  「漆原先生は比喩表現が詩的で………何回も読み返すとまた味が変わるっていうか…………」

  「…………なら秋沢が最近読んだやつ教えてくれ。それ買ってみるから」

  面倒くさくなってしまったので、適当に提案してみた。俺としては暇つぶし程度に読めればいいから、何でもよかった、ってのが実情だ。

  俺の提案に秋沢は少し残念そうだったけど、冷静さを取り戻したのか落ち着いた口調で話す。

  「最近読んだのは………『兎とナツメグ』ってやつ」

  「…………どんな本なんだ?」

  「恋愛小説だよ。二種類の三角関係が複雑に絡み合って………今度映画化されるって聞いて、買ったやつなんだけど……」

  恋愛小説か。全く読んだことがないジャンルだけど、俺は色恋沙汰に疎いから、勉強がてら読むのもいいかもしれない。映画化されるくらいの有名な作品なら、本屋でもすぐに見つかるだろう。

  「新人作家の二作目なんだ。恋愛小説だけどコメディ要素もあるから、気軽に読めると思うよ」

  「わかった。探してみる……ありがとな」

  俺が軽く礼を言うと、秋沢は尻尾をくねらせて柔らかく微笑んだ。春の風が中庭を吹き抜けて、金色の鬣を撫でるように揺らす。

  ……学級委員長で、金持ちのお坊ちゃんで、獅子獣人の秋沢も、普通に誰かと好きなものの話をしたかったんだろう。誰だってそうか。好きなものの話をしてるときが一番楽しいから。

  俺の好きなもの…………群青色に輝く海、そこでゆったりと泳ぐ魚、水面に映る太陽の光。その話を、島の海を知らない誰かにしてみたくなった。秋沢でもいいかもしれない。

  昼休みはそうやってゆっくり飯を食いながら、秋沢と他愛のない話をどちらともなく話して過ごした。その間だけ悩み事は頭の片隅へ追いやられて、出てくることは一度もなかった。

  [newpage]

  放課後。

  ホームルームはいつものように一瞬で終わった。担任が三十秒足らずで諸連絡だけを済ませると、さようなら、という挨拶と共に足早に教室を出ていってしまうからだ。初めの頃は素っ気ない先生だと思ったけど、すぐに慣れてしまった。担任の合理的な思考回路は、何が起こっても揺るぎないものだと分かっている。

  さっさと退出する担任とは反対に、生徒たちはけっこう教室でだらだらと帰り支度をしていることが多い。ホームルームがあまりに早く終わるから、部活動がある人ですら、他の教室が終わるまでの時間分ゆっくりと過ごせるんだろう。

  体を半分捻って後ろを振り返ると、机に向かってせっせと落書きをしているこーすけがいた。

  「………………何描いてんだ?」

  「人間の女。最近練習してんの」

  「ニンゲン?なんだそれ」

  俺がそう尋ねただけで、こーすけは見るからに呆れたような表情になった。たぶんまたなんか言われる。

  「知らないの?映画とか漫画とか……たまに出てくるじゃん」

  「…………俺どっちも見ねぇし」

  「まぁオタク界隈でもマイナーな部類だけどさ。哲也ってほんと二次元に疎いよね」

  そう言いながらこーすけは鞄から徐にノートを取り出すと、パラパラと適当に捲ってこっちに見せてきた。今日の分の国語のノートの端に、何やら絵が描いてある。

  「……………………なんだこれ」

  「人間は頭にしか体毛がないの。肌がぷにぷにしてて柔らかいって設定」

  「……気持ち悪い。これ耳か?」

  「頭の真横に耳が付いてるの。あとマズルがなくて、顔がのっぺりしてる」

  「化け物じゃねぇか……」

  「実際にいたら怖いけど、空想だからいいじゃん。最近流行り出してるんだよねー」

  こーすけから見せられたノートには、ニンゲンという生物がセーラー服を着ている絵が描かれていた。女子高生という設定なんだろう。体毛がないってことは、常に毛が剥かれている状態ってことだ。少しグロテスクに思うけど、これが流行ってるなんて変わった趣味の人が多いなとつくづく思う。

  ふと、笑い声が聞こえてそっちの方向を見ると、高田が楽しそうに笑いながら秋沢の背中を叩いているのが目に映った。秋沢も苦笑していて、まんざらでもなさそうだ。

  元はと言えば、俺が高田を無理やり秋沢に押し付けてしまったせいで、高田がよく絡みに行くようになったんだけど。今朝もそのせいで秋沢まで担任に怒られてしまっていた。しかし結果的に少しずつ二人が仲良くなっているような気がするし、これで良かったのかもしれない。少なくとも、俺が罪悪感を感じる必要はないだろう。

  「…………ほら。意外性のあるカップルの方が付き合ったりするんだって」

  こーすけが後ろから身を乗り出して、俺の耳元でボソボソと喋る。そういえば今朝そんな話をしたような気がする。

  「…………普通に友達だろ。すぐくっつけようとすんじゃねぇよ」

  「いや。俺の予想だとあのまま恋愛に発展すると思う。秋沢くんけっこう美形だし」

  「………………………………………………………」

  いくら雄同士の恋愛が普通である稲光とはいえ、あの二人が恋人になる想像はつかない。というか想像したくない。気持ち悪い。お互いデカい猫科の雄だ、普通にいい友人関係になることを祈る。

  「あの二人だったらわりと推せるんだけど」

  「押せる?何を?」

  するとそのとき、

  「渡嘉敷センパーイ!!!いますかー!?」

  聞き覚えのある声が教室に響き渡って、ぎょっとして振り返った俺だけじゃなくほとんどのクラスメートが声の方を確認した。教室の後ろの方の入り口に、中をキョロキョロ見渡している篠崎と、その横に気まずそうに立っている上柴がいた。

  クラスメートたちの視線は、始め声の出所である篠崎に集まっていたが、すぐに名前を呼ばれた俺の方を向いていた。二年棟に二人がいる理由はともかくとして、ひとまず俺がするべきことは。

  そっと立ち上がって足早に篠崎に近づく。俺を見つけてにこりと笑った篠崎の目の前に立って、右手を高く振り上げ、毛並みのいい狼の頭をパンッとひっぱたく。

  「イテッ」

  「うるせぇよ!デケェ声出すな!」

  「……いやセンパイもなかなかっすよ」

  不服そうな顔の篠崎を無視して、隣で苦笑している上柴を見る。部活動の前だからか、制服からジャージに着替えていて、学生鞄も手に持っている。

  「お疲れ様です。お呼び立てしてすみません」

  「……いやいいけど。何の用だ?」

  「渡嘉敷先輩に用事があって………ちょっと付いてきてもらえますか?」

  五分くらいで終わります、と上柴は微笑んだ。用事の具体的な内容はまだ言いたくないようだ。少し怪しく感じたけど、断る理由もないからついていくことにした。

  「篠崎くんはなんでいるの?」

  いつの間にか隣に来ていたようで、こーすけが脇から質問する。

  「俺は上柴がセンパイたちに会いに行くって聞いて、付いてきただけっす」

  「じゃあ俺も行っていいの?」

  「多分いいと思いますよ」

  上柴が用事があるのは俺だけなのに、なんだか大人数でぞろぞろ付いていくのは申し訳ない。篠崎とこーすけは単純に野次馬精神だろうし。

  四人で二列になって二年棟の廊下を歩きながら、ぺちゃくちゃと他愛もない話をする。

  「そういえば二人とも部活は?」

  「サッカー部はなんか知らないけど休みっすね」

  「なんで知らねぇんだよ」

  「朝練のときなんか言ってたんすけどねー、忘れました」

  「……お前ほんとだらしねぇな」

  「上柴くんは?」

  「僕はこれからです」

  

  部活動は元から入りたいとは思っていた。楽しそうなイメージがあるし、転校先の学校にいち早く馴染むためにも必要だと感じていた。ただこーすけが入っていないのもあって、ちゃんと部活動探しをしてなかったせいで、先送りにしていたのが現状だ。

  5月になる前には、入っておいた方がいいだろう。遅れるとそれだけ入部しづらくなる。

  「センパイたちのクラスの担任って、あの怖そうな鷲獣人っすよね?」

  「あんまり怖くはないよ。厳しいけど」

  「大宮先生……でしたっけ。将棋部の顧問やってますよね」

  「…………なんかイメージ通りだな」

  「二人のクラスの担任は?」

  「うちは萌ちゃんっすよ。あの可愛い羊の」

  「あーあのビッチか。学長と寝てるって噂知ってる?」

  「えマジすかっ!?どこ情報すかそれ」

  「去年新聞部の三年がホテルまで尾行したらしいよ。どこまでホントかわかんないけど」

  「うわー気になる!!萌ちゃんけっこう女子生徒に人気っすよねー」

  「ぶりっ子だけどね。アイツ色んな教師に色目使うじゃん」

  「あの……誰が聞いてるか分からないのでその辺にしてください…………」

  下世話な話をそっと上柴が止める。こーすけと篠崎はほんとそういうデリカシーとかが全くない。誰かに聞かれたら、とか気にならないのだろうかこいつらは。

  上柴に付いていくまま、二年棟の階段を下りきって玄関の前に到着した。てっきりそのまま玄関を出て一年棟まで行くんだろうと思っていたけど、上柴は急カーブしてそのまま廊下を奥まで突き進む。

  「…………上柴、用事って何なんだ?」

  「詳しくは先輩方がお話しますよ。僕は呼びに来ただけなので」

  「先輩方?寮の?」

  「………いえ、」

  上柴はある扉の前で静止した。後ろを着いてきていた俺たちも、恐る恐る立ち止まる。冷たい無機質な扉には演劇部とマジックで書かれた貼り紙がしてあって、なんとなく近寄りがたい印象を受ける。

  上柴は演劇部だから、放課後に部室に用があるのは頷けるけど、俺を連れてきた理由がわからない。扉を数回ノックする上柴を、不安げに見つめる。

  「失礼します………」

  声と共にゆっくりと扉が開いて、徐々に中の様子が視界に入ってくる。照明器具のせいか、廊下と違って部室はやたらと明るく、眩しいくらいだった。

  長方形の縦に長い部室は、普通の教室の壁とは違い防音加工がなされている特殊な壁に囲まれていた。元々講義室だったところを改装したらしく、壁際に積まれた机はその名残だろう。奥側の壁にある大きな黒板には様々な落書きが見えるし、ソファやら椅子やらがあちこちに置かれていて、だいぶ自由なスペースとして使われているらしい。

  部屋の中自体は昨日も覗いたけど、昨日はそれどころじゃなかったし、改めて部屋を見渡すと、案外広かったことに気がつく。ただ物が多いせいか、ごちゃっとした感じがするだけだ。

  部室の中央に、見覚えのある黒豹人が立っていて、扉の音に反応してくるりと雌らしく振り返った。

  「あらシーバちゃんありがと!入って入って!」

  心なしか嬉しそうな顔をしたあやめ先輩は、手招きをして俺たちを中へ迎え入れる。今は他の部員は来ていないのか、中にはあやめ先輩しかいなかった。

  恐る恐る部室に入る俺たちを他所に、上柴はさっさと部屋の奥の扉に消えていった。

  パン!と手拍子をしてにっこりと微笑むあやめ先輩。

  「適当に座っていいわよ!くつろいでって」

  あちこちにある椅子や段ボール箱に腰かけながら、こーすけが質問をする。

  「……あやめ先輩って演劇部でしたっけ?」

  「一応、ね。ダンス部との掛け持ちってことになってるの。メインはどっちかっていうとダンスの方だけど」

  部活動の掛け持ちか。都市伝説程度に聞いたことはあるけど、そんな大変そうなこと実際にやってる人がいるなんて思わなかった。

  篠崎がぐらぐらと揺れる椅子に慌てているのを尻目に、俺も質問をする。

  「あの…………俺はなんで呼ばれたんすか?」

  「そうよね、早速本題に行きたいところなんだけど………こーすけちゃんとシノちゃんは何しにきたの?」

  あやめ先輩の不思議そうな視線が二人に向けられる。嫌がっているわけじゃなさそうだけど。

  「面白そうなので着いてきました」

  「渡嘉敷センパイの彼氏なんで!!」

  ほぼ同時くらいに返事をするこーすけと篠崎の答えに、俺が呆れるのとあやめ先輩が笑うのは同時だった。

  「……お前らは関係ないんだから帰れよ」

  「いいわよ別にいても。ただあんまり二人には関係ない話だから、退屈だとは思うけど」

  するとその時、上柴が消えていった扉から、雌の兎獣人がひょっこりと現れて、俺の視線を奪う。兎獣人は総じて背が低いけど、雌ともなるとさらに小さくなる。多分座っている俺と同じくらいの背丈だろう。先が少し折れた耳、真っ白な毛。明るい部室の中ではよけいに白く光っているように見えた。

  「あやめちゃん、入部希望の子……あ、その子?」

  「そうよ、紹介するわ。寮の後輩の渡嘉敷くん。トーカちゃんって呼んでるの」

  兎獣人は軽やかな足取りでこっちまで歩いてくると、見下ろすような目線で俺に向かって小さな手を差し出した。……いや、実際は見下ろすことすらできていないんだけど。

  「渡嘉敷くん、私は演劇部部長の椎名ゆき。よろしくね!」

  差し出された手をおずおずと握ると、椎名先輩は可愛らしい笑顔で黒い瞳を閉じた。女子と手を握るなんて俺からしたら滅多にないことだし、微笑まれたのも相まって、心臓がドキドキと鼓動した。緊張して尻尾がピンと張る。

  「よ、よろしくお願いします…………」

  「じゃあ、入部ってことでいいわね!」

  嬉しそうな声で俺の手を上下に振る椎名先輩の言葉に、一瞬流されそうになりつつも、ん?と頭が冷静に回り始める。

  「にゅ、入部って…………なんのことすか?」

  きょとんとした俺の間抜けな質問に、あやめ先輩は少し悔しそうな顔をする。

  「……やっぱり一筋縄じゃいかないわね」

  「……そりゃそうよ。誰だって引っかかるわ……」

  椎名先輩は俺の手を離すと、あやめ先輩の座っているソファの横に深々と座った。あやめ先輩の黒い体毛とは対照的で、並んでみるとそれだけで一つの絵画の題材になりそうなものだ。

  ……いやそんな芸術家めいたことを考えてる場合じゃない。さっきあやめ先輩は俺のことを入部希望者として紹介しなかったか?

  「哲也帰ろ。多分壺とか買わされるよ」

  横からこーすけがごちゃごちゃと囁いてくる。今はあやめ先輩の話が聞きたいから、が余計に邪魔くさく思えた。

  あやめ先輩はこそこそと椎名先輩と何やら相談したあと、軽く咳払いをしてから俺ににっこりと微笑みかけた。

  「トーカちゃん。お願い!!演劇部に入って?」

  「っ、はい?」

  落ち着いた態度から急に目の前で両手を合わせて頼み込んでくるあやめ先輩と、その横で可愛らしくその真似をする椎名先輩。少し驚いてしまったけど、あやめ先輩は気にせず話を続ける。

  「今年の演劇部は部員が圧倒的に少ないのよ……。今年入った一年生はシーバちゃんだけなの。前いた三年生が大量に卒業しちゃったから、部員が半分くらいになっちゃってて…………」

  まるで練習していたかのように、その続きを椎名先輩が喋り出す。

  「今のところ掛け持ちなら、って子ばっかりで、特に雄の部員がめちゃくちゃ少ないの。それに昨日青木くんが事故っちゃって、しばらく帰ってこれないのよ。このままだと文化祭の講演に間に合わなくなっちゃう…………」

  長い兎の耳を下に垂らして、見るからに落ち込んだ様子の椎名先輩。少し同情しそうになったけど、かといって俺が演劇部に入るかどうかはまた別の話だ。

  ……そもそも俺は演技なんてしたこともないし、出来るとも思えない。不器用だし計算も苦手だ。何かしら部活には入ろうかと思ってたけど、演劇部はあまり気が進まない。

  「………あの、俺演技とか出来ないんで…………」

  「大丈夫よ!入ってから覚えればいいし、何だったら寮で付きっきりで教えてあげるわ!」

  「…………いや、あの…………大丈夫です」

  「裏方だけでもいいのよ?大道具作りとか、音響とか照明とか……手伝ってくれるだけでいいの」

  「いえ…………ええっと……………………」

  先輩二人に頭を下げられながらお願いされると、とても断る理由を見つけるのが難しかった。何故なら本当の理由は単に乗り気じゃないから、で、それをどう伝えれば失礼じゃないか考えることに奮闘する。

  ふと助けを求めるようにこーすけの方を見ると、何かを考え込んでいる様子で、とても助け船を出してくれそうにない。篠崎の方はというと、なんだか挙動不審で落ち着きがない。まともに前が見えていないし、尻尾も不安そうに揺れている。同じ犬科だからわかるけど、こういう揺れ方のときは大抵体調不良だ。

  「…………?篠崎大丈夫か?」

  「……あら、シノちゃん顔色悪いわね」

  篠崎は俺らの声にビクッと反応すると、慌てて取り繕うかのようにニコニコと不自然に笑う。

  「いやぁ、あぁあの大丈夫っすよ!!ちょっと外の空気吸ってきます!」

  その声と顔色からしてどう見ても具合が悪そうだ。食あたりでもしたんだろうか。

  そのときちょうど、卑怯な俺が一つのアイデアを提案してきた。篠崎が体調不良なのを良いことに。

  「いや篠崎具合悪いだろ。俺ちょっと保健室に連れてきますね」

  そしてそれに乗じて部活動勧誘から逃げよう、と内心篠崎に申し訳なくなりながらも、そっと席を立とうとする。

  しかし立ち上がろうとしかけた俺の膝に手を置いて、こーすけが俺よりも先に立ち上がった。

  「俺が連れてくよ。哲也は演劇部の話が途中でしょ」

  意外な人物に作戦を阻止されて少し驚く。なぜこーすけが俺を逃がすまいとするのだろうか。察しのいいこーすけなら絶対に俺の作戦に気がついているはずだ。

  その言葉に何も言い返せないまま、こーすけは篠崎の背中を擦りながら足早に部室を出ていこうとしてしまう。引き止める正当な理由が思いつかず、鉄扉に消えていく二人の背中を、少しの間ボーッと眺める。

  バタン、と扉が閉まる音で我に帰り、改めてあやめ先輩たちの方を向き直った。

  「…………まぁ、シノちゃんは心配だけど………」

  「きっと部室が埃っぽいせいよ。そろそろ掃除しなきゃって思ってるんだけどね…………」

  そう言いつつも、椎名先輩はどこからともなく何かのプリントを取り出した。ハイ、と俺に手渡すと、小さくて柔らかそうな指で、プリントをなぞりながら説明する。

  「今の部員名簿よ。名前と性別と種族だけ簡単に表にしてあるんだけど……見てもらったらわかる通り、女の子の部員ばっかりでしょ?」

  プリントにはざっと10人ほどの名前が書いてあった。部長である椎名先輩、昨日怪我した青木先輩、先日入った上柴。残り7人のうち、6人が雌の部員だ。まぁでも確かに、あまり雄が進んで演劇部に入るイメージはない。偏るのは仕方のないことなんじゃないだろうか。

  「あやめちゃん含めた掛け持ちの子はリストには入れてないんだけど……キャストから裏方まで大体20人前後の規模で作る劇を想定してるの。結構ショボいでしょ?」

  「えっと…………いえ…………まぁ…………」

  淡々と説明されてはいるが、そもそも俺は上柴もといあやめ先輩に呼び出されたから来たんであって、演劇部に入るつもりは全くなかった。断る理由を探すうちに、椎名先輩の説明という名の勧誘は続く。

  「舞台公演は新入生歓迎会と、文化祭と、卒業生を送る会の三回ね。新入生歓迎会と卒業生を送る会は同じ舞台をやるんだけど、毎年文化祭はオリジナルの脚本で新しいのをやるって決まってるの。だけど今年は人手不足だから、間に合うか不安で不安で…………」

  「トーカちゃん、可哀想だと思うでしょ?」

  椎名先輩は自分の耳を軽く握りながら、うーん、と悩み始めてしまった。その様子に可愛らしいなと思いつつも、このまま流されるわけにはいかないと冷静な自分が声をあげる。

  「……大変なのはわかりましたけど、俺がいても役立たずだと思うので…………」

  「そんなことないって!!簡単な作業ばっかりよ!あとちょっとした力仕事とか!」

  椎名先輩からの身体の大きさに見合わない圧に思わず負けそうになるけど、ここはちゃんと断るべきだ。流されてばっかりじゃいられない。

  「……あの、やっぱりちょっと………て、ていうか、なんで俺なんですか?」

  断ろうとする雰囲気を出す度に、悲壮感溢れる顔をする椎名先輩にさっきしたばかりの決意が揺らぐ。

  俺の質問に、あやめ先輩は脚を組み直しながら答えた。

  「トーカちゃんが適任かなって思ったからよ。まだどこの部活にも入ってないし、青木が怪我して男手が不足してるみたいだったからねぇ」

  「でも俺………演技とかそういうのは…………」

  「分かってるわよ、ダメ元でお願いしてみただけ。ごめんなさいね、強引に勧誘しちゃって」

  「……………………………………………………」

  椎名先輩は黙りこくってしまい、見るからにショボくれた様子で耳を垂れさせていた。兎の耳は犬科の尻尾並みにその時の感情を表しているらしい。俯いて悲しそうな表情の椎名先輩に、なんだかこっちが申し訳なくなる。

  …………いや、俺なにも悪くないよな?

  「…………ほらシイナ、ショボくれてる場合じゃないわよ。早く脚本作らなきゃいけないんでしょ?」

  「…………………………………………………………」

  あやめ先輩は慰めるように肩に手を置いて、椎名先輩はあやめ先輩の手の上にそっと手を重ねた。

  「……………やっぱり…………私が部長じゃダメなのかな」

  椎名先輩がか細い声でポツリと呟いた。今にも泣き出しそうな、深い悲しみを背負ったような声。俯いてるから表情は見えないけど、どんな顔をしてるかなんて察しがつく。

  先輩とはいえ女の子が目の前で泣きそうになっている状況に、俺の心が居心地の悪さにゾワゾワと蠢いた。

  「………私みたいなドジな兎じゃ………演劇部の部長なんか務まらないよね…………」

  「そんなことないわよ………シイナは頑張ってるじゃない…………」

  「ううん………きっと新入生歓迎会のとき、魅力的な舞台を作れなかった私のせいよ………」

  椎名先輩の声がだんだんと涙声を孕んでいく。新入生歓迎会の舞台は、俺もちゃんと見てなかったから何とも言えないけど……そんなことないよ、と言ってあげないといけない気がしてきた。

  「ダメな部長で…………ごめんなさい…………あやめちゃんも…………せっかく手伝ってくれてるのに…………」

  「私のことはいいのよ……親友として当然だわ。シイナは立派にやってるって………………」

  「…………あ、あの……………………………………」

  ひどく気まずい雰囲気になってしまった。まさか椎名先輩が泣き出してしまうとは思わずに、まるで俺が泣かせてしまったかのような罪悪感が芽生える。もし仮に、俺が演劇部に入ると言っていたら………泣かせずに済んだんだろうか。

  ふと、じぃちゃんの声が頭をよぎる。どんな状況であれ、雌を泣かせるのは最低な野郎がやることだと。

  「……………………俺……………………入りましょうか?」

  「……………………………………え………………?」

  正直乗り気ではないけれど、泣かせてしまったことの一因は俺にあるわけだし……何より目の前で女の子が泣いてるというのに、さようならと立ち去るのは良心が痛む。簡単な作業と力仕事だけ、というならボランティア感覚で手伝ってもいいかもしれない。

  「いやあの………………俺が入部して、何かできるんであれば………………手伝います」

  「………………いいの?」

  「はい…………なので、泣き止んで―――――――」

  すると椎名先輩はバッと顔を上げてにっこりと微笑んで見せた。清々しいくらいの笑顔だ、黒くて小さな丸い瞳には一滴の涙も浮かんでいない。

  「ありがとう!!じゃあ入部決定ね!私入部届け取ってくるっ!!」

  「………………っ、え?」

  俺が戸惑いを見せている間に、まるで逃げるようにスッとソファから立ち上がって奥の部屋へと駆けていく椎名先輩。てっきり泣いてるもんだと思っていたから、ティッシュかなんか貸さないととかぼんやり浮かんでいた考えが蹴散らされた。ピンと元気に立っている耳を見て、少しゾッとする。

  あやめ先輩の方を見ると、何事もなかったかのような平気な顔をして、どこからか取り出した櫛で自分の尻尾をブラッシングしていた。

  ……………いや、もしかしたら。

  「………………あやめ先輩………………………………」

  「ズルい子でしょ?シイナって………………」

  全て予定調和でした、とでも言うようなあやめ先輩の言葉に、疑いが確信に変わった。

  騙された。

  「え、演技だったんですか!?あれ………………」

  「演劇部部長だものねぇ……やり手よあの子は」

  「いや、そんな……………………………」

  ひどい、と言おうとして言葉を飲み込んだ。仮に全部演技で始めから計画通りだったんだとしても、勝手に同情して安易に入部すると言ってしまったのは俺の方だ。この場合は、ひどいというよりむしろ、ズルいの方が確かに的を射ている。

  女の涙には気をつけろ。昔じぃちゃんが言っていたことをまたもや思い出してしまった。

  「…………あやめ先輩も乗ってましたよね」

  「いい子を騙してまで入部させるくらい、今の演劇部には余裕がないのよ。悪く思わないで」

  「…………………………………………………………」

  別に騙された!と騒ぎ立てるつもりもないけれど、あまり気分が良くないのは確かだ。少なくともノリノリで入部届けに名前を書くことはできそうにない。

  そんななんとも言えない感情に少し気分が沈んでいる俺とは裏腹に、椎名先輩は奥の部屋からルンルン気分で入部届けのプリントを持って歩いてきた。耳をピンと立てて、計画通りといったところなんだろうか。

  「はい、ここにクラスと名前書くだけでいいから!」

  「……………………はい…………」

  突きつけられたプリントに、もやもやした何かを抱えつつボールペンをカチッと鳴らす。少し乱雑な字で名前を書いていると、その様子を椎名先輩が横から覗き込んでいた。

  「…………渡嘉敷って難しい字書くのね」

  「まぁ………画数が多くて面倒ですね」

  「うん、めちゃくちゃ珍しい名字だし…………っ、」

  俺が長ったらしい名字を書く横で、椎名先輩は何かに気づいたようにピクリと身体を反応させた。背丈が小さい兎獣人は、ちょっとの身体の動きでもやや大げさに見える。椎名先輩はヒクヒクと鼻を動かして、耳と尻尾を忙しなく動かしていた。

  「渡嘉敷くんって………………あの噂の子?」

  「噂……?」

  俺が聞き返すも、そもそも椎名先輩の質問はあやめ先輩に向けられたものだった。俺がプリントから目線を移ろわせると、あやめ先輩は少しだけ体を縮こませながら組んでいた脚をそっと戻す。

  「…………えぇ、そうよ。でも―――――――」

  「えぇっ!!?久郷田くんの彼女でしょ!?えっ、色々聞きたーい!!!聞いていい!?」

  椎名先輩は急に興奮した口調になると、跳び跳ねるように喜びながら俺の真隣に座った。一つの椅子……というか段ボールに女子と二人で座るのに一瞬ドキッとしたけど、椎名先輩はテンションがあがってそれどころじゃないようだ。

  「久郷田くんから告白したってホントなの?何て言われた??」

  「ぇ…………はい?」

  「シイナ、ちょっと落ち着きなさいよ……」

  興味津々といった様子で顔を近づけてくる椎名先輩を、あやめ先輩が気まずそうに注意した。でも俺はそれよりも、椎名先輩が言ったことが気になって仕方なかった。久郷田先輩の彼女?何の話をしてるんだ。

  混乱している俺と、興奮している椎名先輩を見て、あやめ先輩はため息を一つついてから喋り始める。

  「トーカちゃんごめんなさい……久郷田があなたをデートに誘った、って話を友達にしたら、思いの外広まって結構な噂になっちゃったのよ…………」

  「えっ、まだ付き合ってないの??」

  「………これからも付き合わないですよ」

  何かを勘違いしていそうな椎名先輩の言葉を訂正しながら、自分の中で昼休みでの出来事に納得がいった。新谷さんとかいう知らない三年生からいちゃもんをつけられて、久郷田先輩を渡さないとかうんたらかんたら。三年生中の噂になっている原因はやはりあやめ先輩にあるらしく、申し訳なさそうにうつむくあやめ先輩を少しだけ睨む。

  「こんなにも三年生中が久郷田のこと気になってるなんて思わなかったわ…………ちょっとどころじゃなかったわね、ごめんなさい……」

  「え?どうゆうこと?結局彼女じゃないの?」

  あやめ先輩の口ぶりからすると、きっと今の椎名先輩のように、勘違いしてる人もたくさんいるんだろう。ただの噂話が広まっていくうちにどんどん尾ひれがついて、遊びに誘われた話が彼女にまでなってしまった。三年生に会うたびにいちいち誤解を解くのは大変そうだし、久郷田先輩のことが気になってる人から絡まれることになるんだろう。偽名でも使って生活しようか。

  少しあやめ先輩と久郷田先輩が恨めしくなって、ちゃんと被害報告もすることにする。

  「……昼休みに、新谷さんって人から宣戦布告みたいなことされたんですけど」

  「あぁ……あの久郷田のストーカーね。ファンの中でも結構過激派なの。行動が早いわね」

  「新谷くんちょっと気持ち悪いよね……私も久郷田くんと喋っただけなのにビッチ呼ばわりされたことあるわ」

  確かに噂になってまだすぐなのに、直接いちゃもんをつけにくるとは、面倒な人がいるもんだ。勝手な噂で誰かに嫌われるのは、気持ちいいもんじゃない。

  「あと気をつけた方がいいのが三人くらいいるわね」

  「あーー前田くんとか?」

  「勘弁してくださいよ……」

  あんな人があと三人もいるんだとしたら、生活しづらくて仕方ない。ただでさえ三年生からぼんやりと注目されてるってのに。

  俺が軽く頭を抱えると、あやめ先輩は同情するように俺の肩に手を置いた。元はといえばあやめ先輩が噂を流したのが悪いんだけど。

  「私からも他の勘違いしてる三年生には言っておくわ。特にファンの奴らがトーカちゃんに絡みにいかないように」

  「聞く耳持ってくれるかしらねぇ……あの人たちあんまりいい印象ないわ」

  「最悪久郷田に言ってどうにかさせるわ。久郷田の言うことなら聞くでしょうし」

  あやめ先輩と椎名先輩の表情から察するに、久郷田先輩のファンの人たちは他の三年生の中でも厄介な存在なんだろう。芸能人でもないのに大した人気だ。

  ……ていうか何なら始めから久郷田先輩に解決してもらう方が圧倒的に早いんじゃないだろうか。久郷田先輩が好きだから俺に嫉妬してるんだし。

  ただだからといって久郷田先輩に何と頼めばいいかもわからない。俺に嫉妬してるあなたのファンを黙らせてくれって?なんだかひどく傲慢に聞こえる。

  そもそも俺は、久郷田先輩は俺のことが好きなのかどうかで悩んでいたはずだ。先に解決しなきゃならないのはそっちの問題なわけで。

  「…………あの、久郷田先輩は俺のことが恋愛感情として好きなんだと思いますか?」

  悩みを解決するために、あやめ先輩にストレートな質問をぶつける。俺としては、あやめ先輩の方が久郷田先輩には詳しいから、的確な答えをくれるんだろうとばかり思っていたけど。

  思いの外あやめ先輩は少し呆れたような顔をして返事をする。

  「……知らないわ。デートに誘う程度には好きなんじゃないかしらね、少なくとも」

  意外とどっちつかずの答えに、俺も黙りこくってしまう。実際には、また考え事が頭を支配して喋れなくなってしまっただけなんだけど。

  二年間一緒に生活してきたあやめ先輩ですらよく分からないなら、誰に聞けばわかるというんだ。

  ……答えは明確だった。

  すると、椎名先輩がピンと耳を立てながら清々しく言い放った。

  「じゃあ久郷田くんに直接聞いたらいいじゃない。僕のこと好きですか?って。それではいって言われたらそのままつき合っちゃえばいいのよ」

  「っ、そんな適当に言わないで下さいよ……!」

  俺の中で自と浮かんだ考えは、椎名先輩と同じだった。もちろん久郷田先輩と付き合うつもりなんて全くないけど、前の質問はあやめ先輩じゃなくて久郷田先輩にした方が、的確な答えが返ってくるだろう。

  けどいくら恋愛経験が無い俺からしても、自分のことを好きなのかどうか直接本人に聞くのがいかに難しいことかは分かっている。篠崎みたいに冗談めかして言うこともできないし、大真面目に聞くほど気恥ずかしいものだろう。

  「……でもまぁ、案外直球の方がいいんじゃないかしら。相手はあの久郷田だし、ちょっとくらい意表をつくことをしてもいいと思うわ」

  「そうよそうよ!恋愛は戦争よ!!」

  腕を組みながら少し口許を綻ばせるあやめ先輩と、励ますように俺の背中を叩く椎名先輩に、二人はまた野次馬精神で面白がっているだけなんだろうとわかる。俺の苦労も知らないで。

  結局そのあとは椎名先輩から一方的に演劇部についての説明をされて、三十分くらいであやめ先輩が止めてくれたおかげでようやく解放された。

  下駄箱を開けば、まだ買ってまもない白のスニーカーが草臥れた様子を見せる。じぃちゃんから貰った小遣いで、カイと二人で靴屋まで買いにいったやつだ。どれがおしゃれだとか全くわからなくて、結局いつも通りの運動靴を買ったんだ。まだ1ヶ月も経っていないだろうに、もうずいぶん前のことのように感じる。

  都会に来て思うのは、田舎と都会では流れている時間の早さが違うような気がする。人の量が多いせいか、都会ではあっという間に一日が流れていって、そしてその中にたくさんの出来事が起こる。島じゃ海をただ眺めているだけの時間が、永遠にも感じられたのに。

  靴を履き替えて、爪先でトントンと地面を叩く。少しサイズが大きいのを買ってしまったせいで、こうしないとピッタリと合ってくれない。誰もいない放課後の玄関には土臭さと多種族の獣人の残り香。遠くの方で部活動生が賑やかな声を発している。

  「……………………………………はぁ」

  そっと吐いた息のように、誰もいない玄関にため息が漏れる。島にいた頃はため息なんて吐いたことなかったのに。

  少し前にこーすけに告白されて、一昨日は篠崎とキスをして、今日は久郷田先輩のことで悩んでいる。たかたが数日の間に、こんなに多くの出来事を詰め込まれて、気疲れしてしまったようだ。やはり俺は、都会には向いてないんじゃないだろうか。

  「………………早く帰って宿題して寝るか」

  飯食って風呂入って寝て。そうしたら今抱えている悩みも少しは楽になるんじゃないかと、ぼんやりと思ったその時。

  「…………久郷田先輩とエッチする、が抜けてんぞ」

  「ッッツっつっ!!!???」

  いきなり尻尾をぎゅっと掴まれて、体が驚きでビクリと跳ね上がる。急な出来事に思わず大声を出しそうになったけど、その口をそっと大きな手が塞いでいた。

  「いい反応すんな、渡嘉敷」

  「っ、久郷田先輩…………やめてくださいよ」

  振り返るとそこには、強面のままニヤニヤと笑みを浮かべるシベリアンハスキーの姿があった。少しシワのあるワイシャツをカッコよく着崩していて、さすが都会の人だと変な感心をした。

  そんな呑気な思考を切り替えて、久郷田先輩を半ば睨み付けながら見上げる。

  「そう可愛い顔で睨むんじゃねぇよ。キスするか?」

  「しませんよっ!何しにきたんすか………」

  俺が怒鳴るように反抗すると、ますます嬉しそうな顔でニヤついている久郷田先輩が、まるで子供のように見えてきた。次にどんなことをしてくるかわかったもんじゃない。

  そもそも犬科同士なら、いきなり尻尾を握ったりするのがどれだけの信頼関係を表しているか分かっているはずだ。たまに風呂でしか合わないような仲なのに、よくこんなに距離を詰められるものだ。

  久郷田先輩は手に持ったカバンを下駄箱の上に置くと、片手を俺の顔の真横に突き出して下駄箱に寄りかかると、俺が外に逃げられないようにしてきた。

  「あやめからLINEが来たんだよ、お前が俺に聞きたいことがあるらしいってな。暇だから来てやったってだけだ」

  「ライン………………」

  「……知らねぇのかよ。ホントに田舎もんだな」

  呆れた顔をしている久郷田先輩はさておき、あやめ先輩が俺の疑問を無理やり久郷田先輩に伝えた、という解釈で間違ってないだろう。そして俺の疑問とは、久郷田先輩は俺のことが好きなのかどうか。

  つまり、あやめ先輩はあのハードルの高い疑問を本人に聞く機会を強引に作った、ということだ。

  何のためにそんなことをしたのかは分からないけど、今本人を目の前にして余計なお世話だと強く思ったところだった。

  久郷田先輩の尻尾が少し大袈裟に振れる。

  「で、何が聞きてぇんだ?連絡先じゃなさそうだな」

  言葉と共に顔をズイッと近づけられて、思わず一歩引くと背中が下駄箱にぶつかったことに気づく。

  「…………いや、あの…………………………」

  「んだよ……………………………………………」

  久郷田先輩が低く喉を鳴らす。きっと機嫌が良いんだろう。何かいいことでもあったんだろうか。

  そしてそれとは真反対に、俺は久郷田先輩に例の質問をぶつけていいものだろうか非常に悩んでいた。

  もちろんサッと聞いてしまえば楽になれることも分かっていた。ファンがつくほどの人気者である久郷田先輩が俺個人を簡単に好きになるはずがないし、遊びに誘ったのだって単なる好意だろう。たまに過剰にも見えるセクハラやらスキンシップも、転校してきた後輩と距離を縮めるための久郷田先輩なりのコミュニケーションだろうと。

  ただ万が一、好きだと言われてしまった場合どうなるのかが怖かった。今俺は、こーすけと篠崎にも好きだと言われていて、それだけで既にストレスだというのに、ここに久郷田先輩まで入ってきたらわけの分からないことになる。おまけに久郷田先輩のファン達がこぞって俺に絡みにくるだろう。

  聞くべきか、有耶無耶にするべきか。俺はとてつもなく重大な決断を迫られているような気がして体が固まってしまっていた。

  「……………………おい、大丈夫か?」

  久郷田先輩の大きな手が、そっと俺の頭を撫で付けた。そういえばこの人はやたらと俺の頭を撫でたがるような気がする。ガシガシと強めに撫でるのもどこか心地よくて、少し目を細める。

  久郷田先輩の喉仏がゴクリと蠢いた。

  「………聞きてぇことあんならさっさと言え」

  「…………ぁ、いや………………その……………………」

  「なんだ?口ごもるような内容なのか?」

  「……………………………………………………………………」

  時間が流れれば流れるほど、聞きづらくなって仕方ない。どんな言い方で、どんな喋り方をすればいいのかすら忘れてしまう。もっとフランクに、冗談めかして聞けたらよかったのに。

  久郷田先輩の鋭い眼光が、俺の瞳の奥まで突き刺すように向けられて、金縛りにあったかのように動けなくなった。目を外すことすらできなくなって、左手でズボンの裾をぎゅっと握る。

  「……………………………………………………」

  「……………………………………………………」

  痛いくらいの沈黙が、誰もいない玄関に張り詰める。遠くに聞こえる放課後の喧騒が、まるで異界のものかのように感じる。無限に思うくらいの長い沈黙の中で、俺と久郷田先輩はただ見つめあっていて。それを滑稽に感じるくらいの正常な思考は持ち合わせていながらも、ただただ体は動かないままだ。

  意識しないうちに、無機質な玄関や下駄箱の臭いでいっぱいだった嗅覚が、久郷田先輩の体臭や汗、制服の安っぽい洗剤の匂いなんかを気にし始めていた。

  「………………………………………………………」

  「………………………………………………っ、」

  そんな現状を打開したかったのか、確かに俺は先に口を開いた。何を伝えようとしたわけでもない、その場しのぎの感動詞。でも間違いなく俺は沈黙を破りたかったし、目を逸らしてしまいたかった。

  けれど俺が何かをする前に、久郷田先輩の方が圧倒的に素早く、より確実に。

  「……………………………………………………………」

  「…………っ!!??……ッん……………ぅ」

  突然のことに頭がパニックになりそうだった。もともと空っぽだった脳に急激に送られてきたのは、柔らかく湿っぽい感触と、限界まで近づいた、斜めになった久郷田先輩の顔。

  俺のバカみたいに開いた口に滑り込んでいるのは、紛れもなく久郷田先輩の舌だった。

  「……………………………………………………………」

  「………ッッ……………ぅ…………む…………っ」

  肉厚で長い久郷田先輩の舌が、俺の口内を侵食しつくすまでそんなに時間はかからなかった。どちらのものとも分からない唾液が舌と共に絡まりあって、同一空間と化した二人の口をまんべんなく汚していく。犬科の鋭い歯をなぞってみたり、俺の舌を引っ張ってみたりと自由に動き回る久郷田先輩の舌とは対照的に、俺の体は冷凍されたように硬直してしまっていて。ただ口の中の異物と背筋を這い回るゾワゾワした感触に、尻尾をピンと立てる他なかった。

  少し時間が流れれば、永遠に思えた長いキスにも変化が訪れて、口内を侵食する舌よりも、口呼吸できない息苦しさに意識が向くようになる。

  久郷田先輩の太い腕をガシッと掴んで、なんとかそれを伝えようと努力してみるも、ますます侵食が激しくなるばかりで。口の端から零れ落ちる唾液やら吐息がぐちゃぐちゃになって、もうわけが分からなくなってくる。

  「………………………………………………………………」

  「…………ッツ、……ぁ………ん………………ぅ」

  マズルの鼻先から抜けるような甲高い自分じゃないかのような声が漏れて、今起きていることの異常性を再確認する。そして分かっていながらも、久郷田先輩からのエッチなキスを甘受している自分がいることに信じられない。重なりあったマズルと舌、交互して循環する吐息、俺の腰を厭らしく撫で付ける先輩の掌さえひどく官能的に思える。

  「っ、…………ふ…………せ、せぇ……んぱ……ぃ…………」

  ようやく息継ぎの合間に声が出せるようになったのは、キスが始まってから五分後のことだった。視界の端に映っていた壁掛け時計がそう言っていたんだから確実だ。

  俺の呼びかけに応えるかのように、久郷田先輩は唐突に口を離して、満足そうにペロリと口元を舐めた。こっちが今どれだけの嫌悪感やら不信感やら疑問を抱えているとも知らないで。

  「…………………………んだよ…………………」

  「………………はぁ…………………はぁ……」

  久郷田先輩の口調は乱暴だったけど、怒っているような感じは一切しない。嬉しそうに揺れる尻尾を見ずとも、それは伝わってきた。

  息も絶え絶えで、顎の下もぐっしょり濡らして、なんなら立っているのもやっとなくらい、体の力が抜けていて。そんな身も心もボロボロな俺の頭を、また大きな掌が優しく撫でた。

  「………………………………………………………………」

  「………………………………………………………………」

  またしても訪れる沈黙。けどさっきとは違って、気まずさから起こる沈黙じゃない。一度会話に休憩を入れるような、自然な沈黙。久郷田先輩も同じように感じているのか、毛先を撫で付けながら俺の次の言葉を待っていた。

  久郷田先輩にキスされた。

  最悪だ。篠崎のときとは違って、なんなら無理やりだった。最低限の抵抗もできなかった俺がいることも事実だが、そんなのキスしていい理由にならない。さらに舌を入れる、エッチなやつ。

  例えば今から怒り狂って久郷田先輩を殴ることもできたかもしれない。もしくは涙を流して罪悪感を植え付けさせたり、股間を蹴りあげてもよかっただろう。それくらい感情に流されても許されそうな状況のなか、バカな俺の頭は冷静に、じっと考えていた。

  そして、

  「…………先輩は………俺のこと好きなんですか?」

  まだ収まらない呼吸で、間抜けな質問をしてしまった。最低だと罵って立ち去ればいいものを、今こそ疑問を解消するチャンスだと思っていた。もはや分かりきっている疑問の答えを、本人の口から答え合わせするために。

  そんなの分かりきっている。度重なるセクハラ、デートに誘って、挙げ句キスまでして。

  久郷田先輩は少しの間黙りこくると、何かを考えるかのように視線を俺から逸らした。しかしすぐにまた目を合わせると、頭を撫でていた手を退けて、静かに口を開いた。

  「…………………………いや、違う」

  「っ、ぇ…………………………??」

  またもや俺の口から飛び出たのは、間抜けな言葉だった。てっきりこのまま告白されたり、篠崎やこーすけの時のような流れを予想していた。無理やりキスまでしてきて、まさか否定されるなんて微塵も思っていなかったから。

  俺のきょとんとした顔を見て、久郷田先輩はニヤリと笑った。その意地の悪い笑みに一種の腹立たしさを覚えつつも、久郷田先輩の言葉の意味を反芻しては混乱するばかりで。

  「……………………月曜日、食堂に朝10時集合だ」

  「……………………ぇ………………っ、はい………………」

  ひょいとカバンを下駄箱から降ろすと、緩く尻尾を振りながら何事もなかったかのように立ち去ってしまうシベリアンハスキー。

  それを呆けながら見送った俺は、そのまま三分間玄関に立ち尽くしてしまった。

  時計がそう言っていたから、確実だ。