Ad
重い。だが、ここで止まるわけには行かないのだ。四つ足に力を込めて私は駆け出す。
いつもよりずっと遅い。そんな速度で私達は森の中を走り回っていた。
あの嫌な臭いから遠ざかるように。人里の臭いに近づくように。
背中に乗っているタケルは私にしっかりとしがみついている。
時々木の枝が私の体とタケルの体を傷つけても、私は止まらない。
脚がガクガクと震え始めた。それでも、それでも。
「ウルウル…」
更に遅くなってしまった私に気がついたのかタケルは心配そうに呟き私の肩を撫でた。
暖かい手が、震える手が。
「ガゥッ!」
私はいつもと同じように吼える。心配ない。きっと、きっと大丈夫だ。
やがて視界が開けて、少し大きな道路に私達は飛び出した。
山の中に出来た道路。通行人は一人も居らず、静かなものだ。
近くには家も無い。…山からは出れた。が、ここは一体何処なんだ。
「ウルウル…ここ…どこだろう…」
「ワフ?」
タケルで分からないのなら私に分かるわけがないな。
とりあえず私はタケルをおろしその場に座り込んだ。
脚が痛い。がくがくと震える。が、なんとか私達は安全そうな位置まで出れたのだ。
座り込むタケルが私の脚をなでた。お返し、ではないが、私もタケルの足首を舐めてやる。
私の耳が、ピクピクと動いた。遠くから聞こえるのは、サイレンの音。
恐らくパトカーだろう。
「アォォォォォン!」
ここに気がついてくれるだろうか。そう願いを込めて私は思い切り吼えた。
それが間違いだったと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
ほんの少し休んでいると、がさがさと音が聞こえてきたのだ。
私達が出てきたところより少し先。そこの茂みから。
嫌な臭いがする。私は立ち上がり全身の毛を逆立て牙をむき出した。
「ウゥゥゥゥゥゥ!」
「ウルウル、どうした…の…」
そこでタケルは息を飲み込んだ。茂みから出てきたのは片手にナイフを持つ男。
整えられていない短髪に薄汚れたタンクトップとジーパンを履いている。
その面構えはとても堅気の人間ではないものだ。
にやにやと汚らしい表情でタケルと私を見下す。
「ようやく追いついたぜ、クソガキ。見られたからには生かしちゃおけねぇ。」
「あ…」
ガクガクと震えるタケル。私はそいつの前に立ちはだかった。
守らなければいけない。私を助けてくれた、少年を。
「グゥゥゥゥゥ!」
喉の奥から唸り私は牙をむき出した。脚はいまだ震えているが、それでも。
そいつは私を一瞥すると、なぎ払うように足を振った。
見える。このまま行けばそいつの足は私の横っ腹に直撃するだろう。しかし。
とっさに脚が動かず、私は数m吹き飛んだ。
「邪魔だ。」
そいつはもう私を見てはいない。ナイフを片手にタケルに一歩、また一歩と近づく。
タケルはずりずりと少しずつ後退りをするが…距離を詰められて。
このままじゃ…タケルも、私も。
全身が痛い。足が痛い。けれど。
突然だ。本当に突然。世界の全てがスローモーションをかけたようになった。
振り下ろされるナイフも。そいつの動きも。タケルが恐怖から目を瞑るところも。
私は?
動ける。嘘みたいだ。さっきまであんなに全身が痛かったのに。
いや、痛いのは痛いが。それ以上に。
「ウォォォォォォン!」
遠吠え。そして私はそいつに飛び掛った。自分の全身をそいつの脇っぱらにぶつけてやる。
「ガッ!?」
振り下ろされたナイフはそいつの手元から離れてカランカラン、と音を立て地面に落ちる。
そいつは脇を抑えながら私を睨みつけ、そして息を呑んだ。
どうしたのだろう。不思議だ。さっきと私は変わっていないはずなのに。
…分からない。そいつは私の中に気がついたのだろうか。
本能が、私の中の何かがこう言っている事に。
狼の狩りを、みせてやろう。
そいつを私は睨みつける。威嚇も何もしない。ただ睨みつける。
それだけでそいつはすくみあがり、そして。
「ぁぁぁぁぁぁぁ!」
半狂乱で、私に襲い掛かってきた。無駄なことだ。今の私に、そんなもの何の意味も無い。
私はがむしゃらに向かってくるそいつをひょい、と避けると後ろに回りこみ足に爪を振るった。
鉄の臭いが私の鼻を突く。生暖かい液体がびしゃびしゃと飛び散った。
そいつは無様にそこに転ぶ。動けないだろうな。筋を断ち切ったのだから。
倒れ伏すそいつに私は前脚でそいつの背中を踏みつけた。
そいつは悲鳴のような声を上げる。怖いか?怖いだろうな。一方的に襲われるというのは。
お前は、タケルにそれをやったんだよ。なら、償わないとな?
私は顔をそいつに近づけてがぱり、と口を開いた。
このまま喉を食いちぎってやろう。
「ウルウル!」
タケルの声が聞こえた。
…?私は、何をしようとしていた?分からない。あいつに横っ腹を蹴られて、それで…
そこで私は気がついた。自分の足元にあいつが倒れている事に。
自分の脚が、血で汚れていることに。
タケルのほうを振り返る。少し、怯えたような、悲しそうな。そんな表情。
私は…私は。
あいつの上に乗っていた私はあいつから降りる。それでもあいつは動こうとはしなかった。
ただ、ガクガクと震えているだけ。
足から血を流しているのが見えた。
そうか。私が。
覚えていないが、きっと私は。
タケルの怯えを隠すような表情が、痛い。
「ォォォォォン」
少し小さく吼えて。
私は道路の脇から森へと駆け出した。
「ウルウル!」
タケルの声が、聞こえた。
Ad