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規則正しく立ち並ぶ、黄緑の植物の柱。
前後左右を見渡しても、まるで槍の様に細長く、それでいて遥か天高くまで伸びたそれらが密集している所に、ラーナはぽつんと佇んでいた。
そんな風に見えるのは、ラーナが今は一匹のカエルに過ぎないからだ。ラーナは今、小麦畑の中にいた。
小麦の収穫まで後2~3ヶ月といった所で、これからどんどん黄味がかかり、夏から秋になる事には一面、文字通り小麦色の景色が広がるのだろう。
天を見上げれば、小麦の上へと昇ろうとする、赤いテントウムシが目に入った。
ラーナは後ろ足に力を込め、ぴょんと跳ねると同時、テントウムシに舌を伸ばした。
空中でテントウムシをキャッチして、ムシごと舌を巻き戻してバックン、と、飲み込んで地面に着地した。
……真に不本意ながら、虫を捕らえて食べるのにも慣れてしまった。
インプのジースに訓練と称して散々目の前にエサを糸で垂らされたり、魔女のエレナに使い魔の仕事だと称されて森や沼地の調査に放されたりで、こうしなければ生きていけなかったから。
ガニマタでめいいっぱいジャンプして、これまためいいっぱい舌を伸ばして、生きた虫を捕まえて丸呑みするなんて、ラーナの人間として、女の子としての感性が許さない。…けれど、こうしなければ飢えて苦しんで死ぬ事になるし、エレナの使い魔といて全うして人間に戻る事も出来ない。
ある程度腹を満たしたラーナは、またぴょんぴょんと跳ねて、小麦畑を突っ切ろうとした。
密集して生えている小麦を横切れば、すぐに人が管理するための開けた畑道へと出た。
——ドスン、とラーナのすぐ横に、頑丈な革のブーツが落ちて来た。
『きゃああっ!?』
地面の振動に合わせてラーナは思わず跳ねた。驚きのあまりに思わず反射的に跳ねてしまった。
危うく踏みつぶされて、カエル煎餅になる所だった。
着地したラーナは、そのまま慌ててぴょんぴょんと、道を横切って、道の反対側の密集している畑へと逃げ込んだ。
ラーナの低すぎる視界では、せいぜいがブーツの切れ目のズボンの色が見える程度で、誰が小麦畑に立ち入ったのかすら分からないが、どうせここの農民が畑の様子を見てまわっていただけだろう。
……足元のラーナの事など気付いてすらいない。誤って踏みつけてしまえば気付いたかもしれないが、死の代償としてはあまりに軽い。そうした所で、「気持ち悪い」程度の感情の動きとリアクションしか返って来ないだろう。
『全く、気を付けなさいよね! 危うくこんな所で死ぬ所だったじゃない!!』
ラーナは小麦畑に逃げ込んで、安全を確保した上で、畑道を歩くブーツへと向けて文句を言った。
自分の喉から出る、ゲコゲコというカエルの濁った声が耳に届く。
ラーナの言葉が分かるのは、ラーナを使い魔として魔力パスで繋がっている魔女エレナと、エレナの他の使い魔くらいだ。
同じカエルならば、言葉が通じるかもと試してはみたが、ラーナにとってはカエルのゲコゲコという鳴き声が返ってきたし、向こうに話が通じているのかいないのかも、カエルの表情やリアクションを見るに、望み薄といった所だった。
考えてみればそれも当然で、人間だって赤ん坊の頃から親や周りの言葉を聞いているから言葉を理解できるのであって、カエルになって日の浅いラーナがカエル語を理解できる訳も無かったのだ。――カエル語、なんて物があるかどうかはさておきとして。
こんな所で、ただの一匹のカエルとして地面にへばり付いて死ぬ、それも元人間だとすら気付かれないなんて、ラーナにとってはごめんだ。
けれども、ずっと小麦畑の、小麦が密集している場所に身を潜めている事は出来なかった。
この農村の近状の調査——それが、エレナに言い渡された、ラーナの今回の任務だったから。
[newpage]
エレナが隠れ住む森の小屋の程近い農村。
ラーナがエレナの住処を襲撃した時も、ここで一晩宿を借りて、道中の食料のパンやその他物資の不足を買い足してから、魔女が隠れ住むと噂の地へと向かった。
なんてことのない、面白くもなんともない田舎の農村にしか過ぎない場所だったが、エレナにとっては自分の来客が最後に立ち寄る地であるために、ここで何かがあると警戒するとの事だった。
そのため、今はただのカエルにしか見えないラーナに、こっそりと村の様子を伺ってくる様に言い渡し、転送魔術の魔法陣が目立たぬ様に、小麦畑のど真ん中へと転送したのだ。
低すぎる視界と、立ち入らなかった小麦畑のど真ん中、本当にここが最後に立ち寄ったあの村なのかどうかすら、ラーナは確証が持てなかった。
先程踏みつけられそうになったブーツの主すら、誰だか分からない。辛うじてエレナのブーツより大分大きかったから男だと判別出来たくらいだ。
今はとにかく、小麦畑と小麦畑の中にある畑道を抜けて、見覚えのあるあの村だという事を確かめたかった。
ラーナは懸命にぴょんぴょんと跳ね、小麦畑、畑道、小麦畑、畑道と、畑の中を突っ切っていく。
真っ直ぐ突っ切れば、小麦畑を出れると踏んだが、いい加減小さなカエルのジャンプでは跳び疲れて来た。
『なんで、こんなにバカデカいのよぉ……!』
思わず愚痴を言うが、ラーナが小さいだけなのは百も承知だった。
小麦畑から、畑道へと飛び出して、はぁ、と疲れた顔を上げた。
——目の前に、カエルになってから見た中で一番小さな靴が一揃い見えた。
顔を上げれば、子供の足がしゃがみ込んでいるのが見えた。頑張って更に上を見れば、左右に広がってる両足の膝と、胴体と…7歳くらいの男の子の顔が、こちらを見下ろしているのが見えた。
小麦に視界を遮られて、子供が畑道にいるのに気付かずに出てきてしまった。
「かえるだーっ!」
子供が笑顔ラーナに向けて両手を伸ばした。
左右から迫り来る手に、ラーナは咄嗟に動けなかった。ただジャンプするだけでは正面の子供にぶつかるだけだし、左右にズレてジャンプしても両側に張った膝に当たるだけに見えて、素早くかわせそうに見えない状態で戸惑ってしまったのだ。
ラーナはすっぽりと両手に包まれてしまった。
「やった!! つかまえたーっ!」
暗闇の中、急速に重力がかかる。子供がラーナを捕まえた両手を高々と持ち上げたのだろう。
人肌の暖かさの、狭い闇の中に閉じ込められて、ラーナは咄嗟に後ろ足で闇の壁を蹴ったが、ガッチリと掴まれているのかびくともしない。
もがいている事が伝わったのか、むぎゅっと闇が狭まって、ラーナは人肌の包みに押しつぶされそうになる。
『せま…苦しい……!』
ぎゅーっと包まれれば、動く事すら叶わない、子供の高めの体温に押しつぶされそうになる。
「つーかまえたーつっかまえたー♪」
楽しそうな声と共に、今度は横に引っ張られ、ガクガクと手の包みが揺れた。
軽やかな足音も聞こえて来るあたり、カエルを捕まえたのを誰かに見せにいくか、カゴにでも放り込むために走っているのだろう。
……最も、押しつぶされそうなラーナはそんな事を考える余裕はなかったが……。
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ラーナを両手で捕まえた子供は、程なくして走りから歩きに変わり、揺れは大分マシになった。
狭苦しく圧迫感はあるが、逃げられないと感じれば、多少は考える余裕が出てきた。
あの子供は、前にこの村に立ち寄った時には、魔術師であるラーナに興味津々の好奇心旺盛な子供ではなかったっけか。
どんな魔法が使えるか、どんな魔物を倒してきたか、と聞いてきて、指先に光を灯してみせたら目輝かせ、すっげー、どうやったら魔法が使えるの!? と、目をキラキラさせながら問いかけてきたのを覚えている。
その時は回答に困った物だ。『どうすれば魔法が使えるようになるか?』口で答えを言うのは実は簡単なのだけど、そのための修行を実際に行うのは簡単ではない。長い期間付きっきりで修業するならともかくとして、口で簡単に説明された事を我流で、並大抵の辛抱でやってみた所で、何も使えるようにならないままデタラメを教えられたと判断するのがオチなのだ。そしてラーナには修業をつけてやる気などない。
……ともかく、あの時は真っ直ぐに尊敬で見上げてきた子供が、まるでおもちゃを見つけた様に嬉々としてラーナを見下ろして捕まえて、カエルとして雑に扱ってくる。
カエルなのだから当然と言えば当然ではあるが、手の中で変わり果ててしまった事が改めて実感させられる。
「あ、ソフィアちゃーん、おばさーん!!」
子供が声を上げて、小走りとなる。手の中の揺れが激しくなった。
「カイくん」
「あら、どうしたの?? その手」
幼い女の子の声と、大人の女性の声が進行方向から聞こえた。
カイくんと呼ばれた男の子が減速して、立ち止まった。
「えへへ、じゃーん!!」
ラーナを包む手がぐるんと90度傾いたかと思えば、一気に視界が明るくなった。
「きゃあ!」
「あら、カエルじゃない!」
次いで、ラーナの後ろ足の方から、幼い悲鳴とおばさんの声が聞こえた。
ラーナはそちらへと顔を向ければ、まん丸に目を見開いたおばさんと、ビクッと肩を跳ね上げた、カイと同じ年頃の幼い女の子がいた。
ラーナの現在の体勢はと言えば、元々正面からカイに捕まったせいで、頭は手首側、そして手が開かれる寸前で、カイの左手に乗せようとしたのかぐるんと90度回されたせいで、おばさんとソフィアという女の子に横向きでお尻を向けた様な姿勢だった。
人間に直すと、ほぼ真下から見られているに等しい。しかもラーナは当然ながら裸だ。
ラーナは今でこそカエルの姿はしているが、自意識はあくまで年頃の女の子なのだ。
『ちょっ! 見ないで!! ってきゃっ!?』
ラーナは体勢を整えようとしたが、子供の手のひらの上は狭い。
横向きからカエルらしい体勢になろうとしても、逆に背中を下にして仰向きになろうとしても、手のひらから転げ落ちてしまいそうだった。
結果として、上にあるカエルの後ろ足を伸ばして、転げ落ちない様にバタつかせる様な格好になってしまった。
カエルのよく発達した、伸ばすと長いなめらかな足が、おばさんとソフィアちゃんの方に伸びて、ぶらぶらと揺れる。
「きゃーっ、いやー!」
珍妙なポーズのカエルを見て、ソフィアが後ろへ全力ダッシュして、すぐにくるりと振り向いた。
カエルは気持ち悪いが、気持ち悪いが故に完全に目を離せないといったところか。遠巻きにカイとラーナの様子を伺う。
カイは、自分の小さな手のひらの上ではすぐに落ちてしまいそうだと気付いたのか、もう片方の手でラーナの後ろ足を摘み持ち上げた!
『きゃっ!?!?』
当然、ぶらんと頭が下になる形で吊るされる。いきなり視界が動き、目の前に真下の地面を見せつけられて、ラーナは悲鳴を上げる。
必死で顔を上げれば、カイ、ソフィア、おばさんが、皆ラーナを見ていた。
ソフィアに至っては、明らかに身動きが取れない体勢だと判断したのか、一度逃げたくせに少しだけまた近づいて、ラーナをまじまじと見ている。
『み、見ないでよ!!』
片足で吊り上げられ、もう片方の足は横に伸びている体勢だ。逆立ちして女の子の大事な場所を開けっぴろげにしているに等しい。
必死で重力と揺れに逆らって、前足を股間の前に持っていこうとしたが、ぷらぷら揺れる力が強くって、中々隠せないでいた。
「カイくん、カエルなんか捕まえて、ばっちいからペイしなさい。ペイ!」
「…えぇー……。」
ぺいっと捨てる様に手を振っているおばさんが、揺れる視界の中に映った。
不満そうなカイの声も聞こえる。
『ばっちいって!』
げこげこと抗議の声を上げるが、カエルらしい汚い鳴き声しか出てこないし、何よりも……否定する材料が無かった。
ぬめぬめとしているし、虫を食べているし、先ほど小麦畑を飛び回ったばかりだ。
そんなラーナを無視して、会話は続く。
「いいから捨てなさい。ばっちいし、ソフィアちゃんが怖がってるじゃない」
「…………はぁい」
とても不満げな声が聞こえて、ラーナはほっとした。
こんな体勢で見世物にされるのは一刻も早く脱したいし、カゴにでも入れられたらどうしようもない。
けれど、ほっとしたのもつかの間、ぐいんと大きく後ろ足を引っ張られて、視界が大きく流れる!
『きゃああああっ!?』
カイが、ラーナを持った手を思いっきり振りかぶったのだ。
そのまま引っ張られた方向とはまた逆方向に引っ張られ——。振りかぶって投げた!
投げられた方向には、ソフィアがいた。ラーナの視界のソフィアがどんどん大きくなる。
『ああああああっ!?』
「えっ。いやぁああああっ」
ソフィアも悲鳴を上げて、ぎゅっと目をつむって身を縮こまらせた。
ラーナは吸い込まれる様にソフィアの胸の辺りに当たり、すとんとソフィアの足元あたりに落ちていく。
小さなカエルにしてみれば、かなりの高度から落ちたが、何とか前足から着地し、ソフィアの足元で、彼女を見上げる恰好になった。
「——ひ、やっ!」
ラーナの視界には、ソフィアは背が高すぎる上に近すぎて、恐らく目を開けた彼女がどんな顔をしていたのかは分からない。
けれども、明確に拒絶と嫌悪の言葉が上から振ってきて、すぐ傍のソフィアの足が動いた。
足を目で追えば、大人の靴とスカートの裾の後ろに、ソフィアの足が回った。おばさんの背に隠れたのだろう。
「こらーっ! なんて事すんだいっ!」
おばあんの怒声と、逃げる子供の足音が聞こえる。
視界には映らないが、涙目の幼い女の子が、こちらを見下ろしている気がする。
これ以上ここにいてもいい事は無いと、ラーナはぴょんぴょんと出来るだけ素早く跳ねて駆け出した。
[newpage]
ラーナは一生懸命跳ねて、粗末な民家の縁っこ、身を隠すに丁度いいサイズの雑草が生い茂っているのを見つけて、その中に身を潜めた。
ここまで縁っこならば、人の足はわざわざ歩かないだろう。
『……ばっちいって……』
ラーナは小さく鳴く。先ほど言われた言葉。
年頃の少女として、そんな評価を臆面も無く下されるのは衝撃が大きかった。
とはいえ、見た目も何もかも、ただのカエルにしか見えない相手にしてみれば、正当な評価でしかない。
その上——ラーナ自身、それを否定できないのだ。
ぬめぬめと粘液に包まれた体。裸で四つん這いになって、小麦畑でも、森でも沼地でも跳ねまわった四肢に、虫を食べる口。
視界に映る自分の、カエルの前足を見つめて、自分で気持ち悪いとさえ思う。この姿になるまで、こんな近く、こんな大きく自分の目にカエルの足を映した事なんて無い。
『エレナにジースって……これでも、私として扱ってくれてたのね……。』
魔女とインプ。扱いとしては使い魔の後輩兼おもちゃといった所だけど、少なくとも『ラーナ』として認識して接しては来ていた。
もちろん、カエルの姿にしてきて、カエルとして動く事を求めたり、からかったり、オモチャにしたりと散々な扱いだったが……。魔力パスで繋がっている影響で、言葉も通じて意思疎通も出来るのもあるだろう。
それでも、『ただのカエル』として、気付かれなかったり、ばっちい物や子供が嬉々として、容赦なくもてあそぶ様な扱いと比較にならないくらいには、優しかったのだと思いなおす。
(それでも許せる事じゃないけどね!!!)
評価を改めはしたが、結局はこうである。
ラーナは自分の中の怒りを思い出した。ぷくーっと、カエルの頬袋が膨らんだ。
(……やめやめ)
ラーナは切り替える。思わずぷくーっと膨らんだ頬袋を縮める。
落ち込んでいても、より深く落ち込むだけだ。
今はエレナに与えられた任務を出来るだけこなし、このカエルの使い魔をやる刑罰の日数を少しでも減らす事だ。
より優れた魔術師にならんとする精力的なラーナには、落ち込んでいる時間も、こうしてカエルになっている時間も惜しいのだ。
(けど、どうした物かしらね)
心を持ち直せば、次は行動をどうするかだ。
エレナに与えられた任務は、この村の近状の調査。
だが会話は出来ない、となれば盗み聞きか、こっそり忍び込んで何か物を漁るか。
物を漁ると言ったって、建物内には入れそうにない。今のラーナにとっては、古い木製の民家ですら、今まで見て来たどの城壁よりも高く、巨大で、壊せそうに無い物で、扉を開ける事も出来やしない。何らかの方法で入ったとしても、出る方法が無ければすさまじいリスクだ。
となれば、盗み聞ぎ。とはいえ見つかったらまたひどい扱いを受けてしまうかもしれない。
(……小麦畑に戻る? でもなぁ)
一つの案として浮かんだのは、小麦畑の中に潜む事。
畑である以上は、農民たちが中に入って手入れをするであろうから、雑談を拾い上げる事が出来るだろう。
けれども、今まで散々出ようとして、子供に捕まった結果とはいえ村の民家や店がある所まで出て来れたというのに、また必死こいてぴょんぴょんと飛び跳ねながら帰るのも気が重かった。
(あ、酒場)
そう考えていたら、もう一つ、思い立った。
この村には、一件だけ宿屋兼酒場がある。大きいだけのおんぼろな建物だが、ラーナもかつて一晩やっかいになった。
旅人の他にも、村人たちが日々の疲れをいやすために酒場や食堂として利用しているはずだ。
もちろん、カエルのラーナが入るのは難しいし、踏みつぶされるリスクもあるが、こんな村のぼろい壁の酒場ならば、酒が入って声の大きくなった人たちの声が聞こえるかもしれない。
空を見上げれば、ちょうど夕暮れ時だった。
ラーナは摘ままれて投げられた後ろ足の具合を確かめれば、目的地を決めてぴょんと、雑草から跳ねだした。
[newpage]
ぴょんぴょんと、ラーナは村の中を跳ねまわる。
目的地は一度訪れ、一晩泊まった宿屋兼酒場とはいえ、あの時とは視界の高さが段違いで、あの時目印にしていたものが軒並み視界が低すぎて映らない。10㎝のカエルの視界に映る様な、低い位置の目印なんてものに心当たりも無い。
その上近づきすぎると、建物の壁が視界一面に広がるだけで、それが何の建物なのかが全く分からなくなる。
精一杯距離を取れば、何とか分かりそうだったのは幸いだった。
かわりに建物を確認する手間が大きくて、建物が立ち並んでいれば右の建物を確認するために左に、左を確認するために右に……とジグザグに移動する手間があったが。
ぴょんぴょんと、嫌になる程繰り返し跳ねるのも、もうすっかり慣れた物になってしまっていた。
当初は跳ねるたびに、斜め上へと思いっきり跳ね上がる視界と、頭からぶつかるんじゃいかって迫る地面という独特の視界の動き方と、濡れた裸の全員を風が切る感触にどうにも慣れず、かといって四つん這いで這いずるのも、ロクに移動出来ないし、何よりもガニマタで人間ならば絶対にしない様な屈辱的な動きで、動き回る事すら嫌だったというのに。
ともあれ、農村故にロクに舗装もされていない、踏み固められただけの埃っぽい土の地面の上を、ラーナは跳ねまわり、ようやく、扉の横にエールジョッキの絵の看板が掲げられた建物を見つけた。
扉の前では、長い箒を持って入り口付近を掃除している給仕の村娘の姿が見えた。
ラーナは遠目から足を止め、じ、とそれを見つめた。
うかつに近寄ろう物なら、掃除の邪魔だと箒で追い払われてしまいそうだ。ただ追い払われるだけならともかく、悲鳴を上げて箒で物理攻撃でもされたら、心と体に大きなダメージを負ってしまう。
ラーナは少し考えた後に、少しだけ体の向きを変えて跳ねた。
どうせ入り口からは入れないし、入る気も無いのだ。
ならば、正面ではなく建物の側面、酒場の建物のすぐ縁にいた方が、この酒場が賑わった時の中の様子も聞こえてくるだろう。
箒で地面をはく音に恐怖を覚えながら、ラーナは入り口に近い、酒場の角に身を潜めた。
がちゃり、と酒場の扉が開く音が聞こえた。
「精が出るねェ」
男の声が聞こえた。確か、この店の主人の声だったと思う。
箒で吐く音が止まり、女性の声が返ってきた。
「いつも通りよ。なーんにも無い日だし、いつも通りの準備をするだけ」
「そうだなぁ。何にも無いのは良い頼り…だけどなぁ」
「平和ならいつもどーりやって、お客さんお迎えするだけ」
「そうだなぁ。行商人が来る予定も無いし、旅人も滅多な事じゃ来ないしなぁ」
少なくとも今日は、村の外からの来訪者はいないらしい。
ある程度大きな町ならば、入ってくる人も出て行く人も把握しきれないだろうが、こんなへんぴな小さな村なら、すぐに情報が広まる事だろう。
「——そういえば、この間来た魔法使いの女の子が最後だっけ?」
「一月くらい前だったっけなぁ?」
ラーナはぴくりとその言葉に反応して、耳をそば建てた。
多分、自分の事だろう。
自分の事でなくとも、ここからエレナの住処まで一月もかからない以上、任務としては聞く価値は無かったが、自分の事だと思うと気になってしまった。
「都会的で、髪もお洋服も綺麗でお人形さんみたいだったなぁ」
「しゃらーん、って感じだったなぁ。髪も綺麗な金髪でさらさらで……。
まだちょっと若い感じはしたけど、えらくちゃんとして見えたもんなぁ」
「綺麗だしカッコ良かったわよね。都会の魔法使いって皆あぁなのかしら? 憧れるなぁ」
えへへ、とラーナは身を潜めた状態で、口元が緩んだ。
「んなわけなかんべ? 都会だろうが魔法使いだろうが、ぶっさいくもデブもいるだろうか」
「だったら、余計にあの子が凄いって事じゃない。いいなぁ」
「んでもよ。事情は分かんないけんど、わざわざ旅してはるばるこんな所まで来るってこたぁ、何かえれー事情でもあったんじゃないか?
俺らは住む所と仕事があって、毎日過ごせる。それでいいでねぇか」
「……おじさんくさーい。分かってるけどさ」
娘の方が、呆れた様な声を出した。
実際、魔物や魔女と戦いながら、冒険者、魔術師としての実践と修練を繰り返していた当時のラーナよりも、村の暮らしは遥かに安定しているだろう。
継ぐべき土地や仕事がある者で、それらを手放してまで『憧れ』を追う者は少ない。
娘は息を吐いて、言葉を続けた。
「今頃どこで何してるんだろーねぇ。あの子」
「さてなぁ。旅の魔法使いってゆーなら、案外どこかのでっかい魔物をどかーんって倒して、
褒美で得たお金やら何やらで魔法の宝石とか、本とかをた~っぷり仕入れてたりしてんじゃないか?」
景気のいい想像話に、ラーナは思わず自分の『前足』に視線を降ろし、身を屈めた。
今、ここに、ただの一匹の使い魔になり果てたカエルが、その魔法使いだなんて誰が思うだろう?
「あ~……それカッコいいわねぇ。」
「けんどま、憧れるのは分かるけど、俺らには関係の無い事だ。ほれ、そろそろ準備しねーと間に合わねぇぞぉ」
「あ、っと、そうね。それじゃ、もう少ししたら仕込み手伝うわ!」
ガチャリと、店の扉が閉まる音が聞こえる音と、中断されていた箒で地面をはく音が再開された。
ラーナはけろっ、と喉を鳴らし、酒場の店の縁にそって跳ね始めた。
夜に賑わうだろう店の店内の声が、よく聞こえそうな場所を探して。
[newpage]
太陽が完全に沈み切り、空に月が浮かぶ頃、何組かの農夫やらが、雑談しながら連れたって酒場に入り込んで、どんどん中が賑やかになって来た。
「——のヤツは今日も家か?」
「新婚さんだからなぁ。今はおうちで二人よろしくの方が楽しいんだろう?」
「お熱いこって」
「いっそ美人のねーちゃんでも引っ越してこねーかなぁ?」
「引っ越して来たっておめーは選ばないだろーよ」
「何だとっ!?」
たわいの無い、男同士の雑談。
「おめーんトコの畑はどうよ?」
「今年は虫にやられて大分ダメになっちまった」
「だーからもうちょい手入れしろって言ったろ? 隣の畑だって被害にあうんだからよぉ!」
「手入れったってよー。あんな沢山いる小さな虫なんてどーしろってんだよ…」
「それはだな……」
農民特有の、農耕技術の仕事の話。
「かーっ!? また負けた!」
「かっかっかっ。このまま続けっと身包みまで剝いじまうぞ」
「んだとぉ、こっから逆転すっから見てよな! 掛け金上げるぞ」
「——さん。酒飲みながらの遊びなんだから、そんなムキになるなって。
どーしてもレート上げるんなら、二人だけにしてくれよ」
「か~。シケてんな」
酒を入れて盛り上がるギャンブル。
その他、お尻でも触られたのか、悲鳴とお盆で叩く音。
子供連れで来たのか、子供同士がわいわい喋る声なんかも入り混じり、聞き取れない言葉も多かった。
情報としては、正直いらないとしか言いようの無い会話が……たまらなく、ラーナから見て楽しそうに聞こえた。
正直ラーナから見て、つまらない、取るに足らない田舎の農村にしか見えなかったし、ロクな娯楽も無さそうに見えた。
無いなら無いなりに、無理矢理酒の力で盛り上げているだけかもしれないが、それでも、沢山の賑やかな人の声は、ただ一匹のカエルとして、酒場にも入れず壁際で盗み聞いているラーナの心に、暗い影を落とした。
一人、寒空の中盗み聞くには、あまり他愛が無くて残酷だった。
自然と、目が下を向いた。
あまりに近い土の地面に、べったりと緑の前足がくっついている。
夜風が寒い。
『——くじけてたまるもんか!』
ケロッ! とラーナは、自分に一喝し、空を見上げた。
これも一日でも早く元に戻るため。
自分には目的と目指すべき所がある。村の小さな幸せを羨んでいる暇も、カエルとしてみじめに過ごしている暇もない!
今日の所は、別段必要なニュースも無さそうだと、ラーナは酒場の壁からぴょんぴょんと離れた。
跳ねて移動する事には、まだ実は少し抵抗があったが、賑やかな酒場から離れて、今日の所は静かな小麦畑で身を休めよう。
昼は小麦畑、夜は酒場の外での盗み聞き。
何も無ければ使い魔としての魔力パスを用いて、定期的にエレナへの念話。
やるべき事がはっきりして、それが出来る。ならば後はやるだけだ。と心を奮い立たせて、ラーナは跳ねていく。今日も明日も、次の仕事を振られるまで。
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