1
私は耳が聞こえない。生まれつきだ。名は北条瑞希。親を恨んだこともあった。でも、今はもう立ち直っている。いつまでも子供じゃあ居られないもの、障がい者だって頑張らなきゃ!
私は下町のろう学校に通っている。幼稚部からずっと居るのだ、今は高等部に通いながら、就労を目指して頑張っている。
私には想い続けてきた人が居た。同級の笹井獅郎だった。でも、彼は私の前では素っ気ない。黙って見ているより他ない関係。
獅郎はハンサムだったが、よく笑う。その笑顔をもっと見たくて、でもそれは叶わなくて、もどかしい。
ラブレターを書こうかとも思ったが、便箋を置いて頭を悩ませてみても、良い文章が思い付かない。反対する者もいる。担任の寺井省吾には、私の想いは筒抜けになってしまっていて、何かある度に、それとなくやめておくように促されるのだ。
私は自分の感情をコントロールするのが苦手だ。だから悲しい時には、ジタバタすることもある。だって人間だもの、仕方ないでしょう。
その日は雪が積もっていた。東京では珍しい。バスに乗り込むと、サイドウインドウが体温を残した吐息で白く曇る。私はシロウとカタカナで文字を窓に書いた。淡い恋、実らないのだろうと思い始めていた。私はいつか誰かと結婚できるのだろうか。一般の人でも昨今はなかなか難しいと聞く。私のような障がい者の出る幕は、ないかも知れない。
その日は鬱々として、嫌な私だった。生理のせいもあったかも知れない。母はそれくらいでは休ませてはくれない。仕方ない。
私は喋れない。その分、文章を書くのは好きだ。上手いわけではないが、手話よりも筆談の方がやり易いと思う。
その日私は養護教諭と話をした。小さな白いホワイトボードに、獅郎が好きと書く。養護教諭は、それは難しいよね、という風に書いた。頭に来た。でも、たぶんそれはもう自分でも判り切っていたから、私は頑張る、それだけ書いて保健室を後にした。
口酸っぱく母親から云われていることがある。処女は守りなさい、ということ。今時それはなんだ、と云うかも知れない。でもそれが、私を取り巻く現実だ。私は籠の中の小鳥、何ひとつ自分の力では自由にはならない。
女にだって性欲はある、ホルモンの影響もあって男性ほどではないらしいのだが、あるものはある。でも身の回りの人たちは親を含めて誰も、そのことについて教えたり話したり諭したりしてくれない。
私は今姉と同じ寝室で寝ているから、自分の身体を触れるのは、入浴の時だけ。湯船に浸かった折、少しマッサージをするのだ。それだけで罪悪感が凄い。もちろん誰にも知られてはならない。これは秘め事。
2
私は卒業後、家事手伝いをすることになった。これは家の方針だ。獅郎は障がい者枠で大手企業に就職するのだとか。つくづく羨ましい。今まで同じ仲間だと思っていたのに、どんどん置いていかれる、寂しい。
卒業の日、獅郎は珍しく私に指を立ててみせてくれた。私はピースサインでそれに応える。一瞬だけの笑顔、本当は嬉しくない、またひとつ居場所がなくなる日、悲しい。
ある時から知っていた。獅郎は担任だった寺井省吾のことが好きだったのだ。私は獅郎のことはよく見ていたから、解り易かった。男の子って本当に単純だな、なんて生意気なこともつい思ったりもした。省吾先生はそこは奥さんも居る先生らしく、軽くあしらっていた。ただそれにつけても、私の付け入る隙はなかった。
私が唯一得意としたのは料理だ。学校でも家でも調理の仕方はみっちり教わってきたから、私は料理は朝飯前にこなせる。両親は以前より、どうもお見合いをさせたかったらしい。せめてもの親心なのだろうが、手渡される写真を見る度に胸が痛む。私、こんな顔の人と暮らすのは嫌、そう思えてきてしまって、泣けてくるのだ。
それでも、私は我慢した。そういうものだと思ったのだ。巣立ちの日、皆んなが祝福してくれた。その中には獅郎も居た。私は泣いていた。きっと私が喜んでいるのだろうと、獅郎にはそう思われていたようだった。私は悲しかった。でも他に生きる道を知らなかったから、だから仕方なかったーー。
3
旦那さんになってくれた人の名は、笛田兼太。ひと回り歳上で腹回りの大きな、冴えないおじさんだ。彼は手話は使えないので、やはり筆談で話をする。彼は男性同性愛者にはよくモテるらしい。云われてみれば、歳の頃よりは幼い顔立ちだった。私はもっとハンサムがいいのだけれども、こういった可愛い雰囲気の男子にも需要があるところが、今時ならではということなのだろう。
旦那は優しかった。最初は戸惑ったその妙に甘やかで幼い顔立ちも、段々とチャームポイントに思えてくるくらいには、納得できたし優しかった。
初めての夜、旦那はとても優しく、全身を愛撫してくれた。自分の身体にもこんなにも価値があったと知って、旦那を見直した。
その晩、私の中で箍が外れた。寝乱れた。処女だったのでシーツを汚したし、潮も吹いた。それはもうグチャグチャだった。
それから毎晩、妊娠するまで本当に毎日毎日、性交は欠かさなかった。それは私が求めた。貫いて欲しかった。私は自分で予想していたよりも、遥かに淫らな女だった。
旦那はあけすけな人で、射精前には必ず己の両胸の突端を弄らせた。私がそうすると、恥ずかしげもなくその甘やかな容貌を歪める人だった。私としてもそれで満足してもらえるのだから容易かった。
子供は、結婚して半年も経たない内に、ひとり目ができた。産婦人科の帰り道、寧ろ不安に喘いでいた私が居た。報告すると旦那は飛び上がって喜んでくれた。しかし残念なこともあった。お腹が大きくなると性行為はなくなるのだ。正直なところ、悪阻が酷くてそれどころではなかった。そして、嫌な予感が的中することとなる。旦那の帰宅が遅くなったのだ。
休みの日など、旦那が深夜我が家から抜け出すこともままあった。ガードは固かったが、もしかしたら浮気かも知れない、そう思った私はやはり正しかった。結果から云うとそうだった。或る日のこと。見たのだ。物陰から、実家の座敷で旦那が伯父に組み敷かれているところを。
旦那は男なのに、潮を吹いて泣き喚いていた。涎も鼻水も精も垂れ流して、首を左右に振りながら身体を突っ張って痙攣していた。ショックだった。あれは一度や二度の間柄ではない、そう直感した。でも別れたくはない、私にそんな自由などない、他に居場所などない。もう何処にも、帰る場所なんてない。
私は記憶に蓋をすることとした。そして極力、平静を保つこととした。無理だったわけだが、今も頑張ってはいる。
ひとり目は安産だった、無事に生まれた。男の子、健康そのもの。肩の荷がひとつ、降りたーー。
私は産後ひと月で強請るようになった、夜の営みをだ。旦那はあっけらかんとしてこれに応じた。男というのは本当に、何というかそのために生きているかのような生き物だ。目が生き生きと輝くのだ。これは生き甲斐だから奪ってはならないのだと、直感した。旦那はいつも丁寧に責めてくれた。ただ乳首は必ず弄るようにと、念を押された。それは判っているのだ。ただちょっと頼りない、そんな感じはしていた。
4
晴れ間、百合鴎が宙を切る。雲が形を変えてゆく。穏やかな時の流れ。旦那は時々家を空けた。たぶん伯父に抱かれに行くのだ。私は止めなかった。それをしたら、この暮らしは終わってしまうから。私はこれでも大事にされていた、それは解っていた。それには、私が処女だったというのもあった筈だ。もう二度とないかも知れない、そういう暮らしなのだった。旦那だって伯父のあの大きな男根で貫かれてあんなに喜んでいたのだ、それはまた欲しくもなるというもの。案外私と旦那は似たもの同士なのかも知れない、そう思うのだった。
旦那は本当に毎日毎日射精する人だった。そのために生まれてきたのだ。見た目は草食系だったから、そのムッツリとした雰囲気は、独特の雄ならではの残り香も僅かに漂わせて、今となっては魅力的なのだと確かに思う。男は顔の作りだけでモテるわけではないのだ。
或る時、筆談で旦那に聞いた。
「好きな男のタイプってある?」
「うんにゃ。なんで?」
「男とのSEXに興味ある?」
「え?ま、上手ければ誰とでも。お前のことは大好きだよ。ふたり目、頑張ろ!」
メモの字が、思いの外、可愛かった。これで容易く絆されてしまった。要するに旦那は欲求に素直な人なのだ。それだけだった。それにしても、年季の入った伯父の足の指なんざよく舐めるよなぁと思っていると、それを取り入れたと見えて、今宵は私の足の指を舐めやがる。
うわ、これは上手いわ!そう思って、観念した。これは旦那の勝ちだ。私はただ旦那の掌の上で転がされていればいいのだ。
ふたり目はちょいと苦戦をした。二年後、また男の子。帝王切開となったが、あれは術後の痛みが長引くのが残念。
また旦那の帰りが遅くなった。伯父に抱かれているのだ。たまたま覗き見ると、歯を食い縛って涎を垂れ流して痙攣していた。ちょいと胸が痛む、嫉妬だ。これは仕方のないこと。旦那のことは、またその内に誘おう。
5
それから半年経った冬、家族旅行をした。鴨川シーワールドまで遊びに行ったのだ。旦那は、はしゃいでいた。いつも見るギラついた趣とはまた違っていて、ヤンチャな少年のような素振りが、可愛いと思った。
その夜、子供たちの手前もあって行為はなかったのだが、夜は旦那が甘えてきた。案外私にも居場所はあるのかも知れない。
メモに、そっと書いた。
「私のこと、好き?」
「もちろん、愛してる」
よかった、それでこそだ。その旅行の後、私はピルを飲むようになった。三人目は要らないからだ。旦那はゴムは使わない。男ってそういうところ、我儘なのよねーー。
風の噂で聞いた。笹井獅郎がストーカーをしていたのだという、男にだ。微罪で、逮捕されたらしい。あぁ、奴はそんなだったか、そう思って深入りをさせなかった担任に感謝した。
旦那はケラケラと本当によく笑う。八重歯が可愛くて、冴えない童顔で、いつも結婚指輪を付けてくれていて、顎髭を生やしていて、ぽっちゃりとしていて、甘え上手な人たらし。そんなだ。私もいつか追い付こう、そう思った。もうこの人とは家族なんだから、嫉妬しなくてもいい。或る意味では私が一番幸せなのかも知れなかった、だからもう我儘は云わないと決めた。
空が高い。私には旦那の笑い声も鳴き声も、子供の叫び声も聞こえない。でも男だらけの家の中、舵取りしてみて解ったことがあった。男なんて甘ったれで、男なんて我儘だ。でも男だって可愛くて、男にだって意地はある。
私も少しだけ大人になった。
また責められよう、責める方は伯父に任せた。それもいい、私は私なりの気遣いでこの家庭を守るから、それでいい、そう思う冬の宵のこと、子供は別室でスヤスヤと寝息を立てているようだった、今私、幸せの真っ只中だーー。
了