澄み渡った空気が透き通るような孤独のしじまに折れ重なるようにして雪とともにビルの谷底へと降り積もる夜、終電前、丸の内。人目から逃れるように片隅を這いずり回っていた少年は、行く当てもなく遂にタクシーに乗り込んだ。携帯のバッテリーが死にかけている。所持金は二万円、それが全財産だ。
「どちらまで」
「近くの、海の見えるところまで」
車が動き出す。丸ビル沿いの通りをテールランプの群れが発光している。残像が目に焼き付く。途中ガンメタのスーパースポーツが一際速く地表を疾走してゆく。普段すれ違うこともない上澄みと澱とが織りなす刹那、車は一路レインボーブリッジを目指してひた走る。
車を降りると、お台場の海岸を目指して、少年は再び歩き始めた。当てなどない。この人生には、幾度となく別れがあった。父、母、妹、憧れの先達、様々に皆眩く煌めく。今以てなお、夢を追っていた。もう、すぐ先はどん詰まりなのに、それでもなお諦め切れなかった。身を投げようか、そう思ってもなお、今生への未練が打ち勝った。少年は賭けに出てみた。一か八か、もう後はない。
父は、代々の津軽の人であった。老舗の商店を営む四代目。勤勉で寡黙で、働き者であった。ただ、商店の東京進出に精と根を使い果たしたのか、少年が小学校へと上がったばかりの春に、夭折した。後を追うようにして半年後、母が乳癌で天に召される。
それ以来、妹と少年は離れ離れで暮らすこととなる。異なる道を歩き出すふたりには、残酷なまでに対照的な運命が待ち受けていた。妹は津軽に残り、遠縁の許嫁との結婚のために尽くすこととなる。平坦で、しかし家のために何もかもを絡め取られてしまう運命をそろそろと歩み出す。この妹と少年には、或る共通点があった。同性ばかりを好きになるのだ。
妹の名は冬海と云った。いけない方へばかり駆け出す心を抑え切れなくて、三度目の報われない恋を自ら押し潰したそののちに、許嫁を置いて天に召される身となった。それは短い命だった。親類は皆一様に、仕方ないと云った風情であった。だってウチには決まり事があるから、逆らおうとするのはいけませんよ、ということ。一家のささやかな運命、何にもなれずに灯火はひとつまたひとつと消え去っていった。
冬海は生前、東京の知己の元に身を寄せる兄に電話でひとこと、こう漏らした。津軽は凍れる、身も心も!兄は生きろよ!そう、それだけ、たったそれだけ。
ひとり取り残された少年には自由があった。誰からも何も期待をされていないということは、実はそれだけでも幸いなことだ。少年はそのような、まさに打ち棄てられた残滓そのものであった。腹違い、前妻の子だった。誰が為にというでもなく、己の欲求の赴くままに生きることのできる、葬られた子供。だからこそ少年は、強くなるしかなかった。
しんしんと、東京に雪が降る。「ねぇ修也君、雪だって悲しいと泣くんだよ、東京の雪は悲しいから、涙で半分溶けかけてるんだーー」電話越しに少年の声と息遣いが伝わる。バッテリーの残りを使い果たして少年は、幼馴染に彼なりのSOSを送っていた。
修也と少年はともに中学二年、今は冬休みにあたる。少年は身を持ち崩さないことや思春期ならではの生活感の欠片もない悩みごとで手一杯で、課題のことも忘れ去っている有り様であった。それでも、担任からも半ば忘れ去られているようなところもあったので、負担ではなかった。修也はその点では昔から優等生を地で行っていたので、却って辛くもあった。
お台場海浜公園の展望デッキのベンチで、少年は夜明けをただ待ち侘びていた。くしゃみをすると、ホロホロと肩に積もった雪が崩れる。もう指先は悴んでろくに動かない。風は冷たく、己の自由な身の上を否が応でも思い知らされた。やがて空は風の内に孕んでいた騒めきを一気になくして静かになり、仰げば雲の切れ間に満点の星々、息を吸うだけで、肺の奥まで凍っているかと思い出した頃、夜空が白々と明けてゆく。雪はまだ溶け残っていて、彼方此方に塊となっていた。そののち、電車を乗り継いで湯島へと向かうと、頼りなさげな相変わらずのシルエットを醸しながら、修也がビルのファサードにもたれていた。
「で、今まで何をしてたのよ、アヒルちゃんよ」
「別に。修也君、暇なら今日一日付き合ってよ」
「あいよ、解ってるよ」
修也が自分のことを好いているのは、少年はよく知っていた。少年の名は飛助。飛助にしてみれば、こんな成り行きでもない限りは、このまま友達のままでもよかった。ただ寂しかったから、縋ってみようかと、気紛れな心が突如疼いた。それだけのことであった。好きだから友達の体で傍に居るというのは修也にとっては負い目となっていたから、そこに付け込もうとしていたわけでもある。
暫く無言で歩いたふたりは、公園のベンチに腰掛けた。ここにも所々に雪が残ってはいたが、空は雲のひとつもなく抜けるように青かった。飛助が、隣の修也の手を握った。鳥が囀る。風の音が微かに耳につく。
「何それ?俺でいいの?ホントにいいの?知らないよ」
飛助はあからさまに戸惑う修也に、黙って抱き付いた。飛助の崩れ落ちそうな心の安穏とした居場所は、もうここ以外にはなかった。実のところそれを知って欲しくて、飛助は離れなかった。歳の割にはじっとりとした修也の目線が雄のそれへと変わるのに、さして時間は掛からなかった。そんなことは承知の飛助、ここはモーションを掛ける。
「多目的トイレでいいよ、抱いてよ修也」
「俺んち来いよ、アヒルちゃん。初めてがトイレだなんて、落ち着かなくて嫌だ」
「別にいいんだ」
結局、人目を気にしながら多目的トイレに入る二人。修也が折れたのだった。
見様見真似で重なる身体、今日も芯から冷える、互いの体温が恋しくて、ひたすらに貪る。飛助は小遣い稼ぎのために鄙びた老人に身体を許したことが幾度かはあったから、その罪悪感を感じないためにも、修也との初めては多目的トイレでと決めていた。
飛助の夢は、好きな人と寄り添い合って、ともに暮らすことだ。それは修也も知っていた。知っていて、よく泊まりに来ないかと飛助を誘っていた。飛助の保護者は放任主義であったから、気にも留めなかった。それは温情で置いているだけなのだが、暮らし向きには余裕があったから、別に何をしようが違法でない限りは構わないということ。何しろ自分達の子供ではないのであるから、それもまた然もありなん。ここで修也は、飛助を肉袋のように扱いながら、こう切り出した。
「な、飛助、ウチの子になっちゃえよ!な!」
その瞬間に、飛助は堪え切れなかった呻き声を微かに上げながら、白濁した精をぶち撒けるのであった。身体中が歓喜に打ち震えたのだ、願ってもないことだったからだ。
その夜、修也が己の両親に切り出すと、父親の方が乗り気で、飛助の保護者を説得してくれた。これには裏があった。修也の父は、飛助の上客だったのだ。飛助は、畏れを抱いた。それはこびり付いた焦げ跡のように心の淵に残っており、忘れ去ろうとしても片隅で主張をしていたこと。修也とともにいるには、今まで以上に修也を裏切ってその父と寝なければならない。仕方ない、そう云い聞かせて新たな父に組み敷かれる飛助、その様を修也は、泣きべそを掻きながら見ているしかなかった。何ができるわけでもなかった。修也にしても、初めて知ったその事実に打ちのめされてはいたが、解決策は持たなかった。何度割って入ろうとしたか解らない修也であったが、そうしたところで何ができようか。あと一年と少し経てば中学は卒業だ。それからなら独り立ちだってできる。その想いは飛助とて同じだった。覚悟はできていた。
そんな或る日、事件が起こる。修也の父が飛助との情事の一部始終を携帯で撮影し始めたのである。そう簡単には逃すまい、それが阿修羅のような大人ならではの強かさであった。誰も居ない台所に駆け出す修也、包丁を持ち出すと、咄嗟に一階居間の襖を開けて、父に馬乗りになる。噴き出す鮮血、紅一色のシーツ、呆然と疼くまる飛助。
修也は逮捕された。またひとつ、飛助は別れを経験することとなった。
遠縁の元に戻った飛助は、中学卒業までの日々を無為に過ごしていた。相変わらず小遣い稼ぎはやめない。ただひとつ、生きていよう、そう思った。修也はいつか自由の身となる。その際に助けを差し伸べられるよう、まだ生きていなければならない、そう思った。この縁を大切にせねばと、心に誓った。だって生まれて初めて心が通い合った相方だもの、待っていなければ、そう思ったのだ。
春夏秋冬が過ぎ行き、一斉に生命が芽吹く三月、飛助はまたひとつ大人への階段を昇った。飛助はまだ少年のままのあどけなさを残してはいたが、身体の方はこの一年で大きく成長した。
四月からは山谷のドヤに住みながら日雇いの仕事に明け暮れるのだ。誰もそれを止めなかった。そうなるべくしてなっているのだと、皆納得していた。
飛助は携帯の電話番号を変えられなかった。元々別に変える必要もないものだが、それだけでなく、SNSのIDもそのままにしておいた。修也が晴れて自由の身となった折にその連絡を受けられるようにと、敢えてそうしておいたのだ。
飛助は逞しくなった。胸筋が付き、太腿はもう子供の腰回りくらいはあった。男にはよくモテたが、相変わらず一本気で、誘いには乗らなかった。元々、自分がしっかりしていればあんなことにはならなかったという、そういう負い目はしっかりと根を生やしていたのだ。小遣い稼ぎも、次第にその頻度を減らしていった。
それから何年経ったろうか。ビルの谷間に切々と雪が降り積もる十二月の末、丸の内。新しい携帯を手に上気した頬を赤らめた飛助は、ビル街をそろそろと歩く内に、あの日のことを思い出す。気紛れで裏道に入ると、辺りが既に夕闇の中であるのに気付く、暗い。強いビル風が体温を急速に奪う、凍れる、ここは津軽でもないのに。そこへ着信があり、明日自由になると、それだけを告げて電話は切られた。それは修也からの連絡であるに違いなく、飛助は哀しいのか嬉しいのかも解らずに、ただ透明な涙を堰を切ったように流し続けた。
翌朝、ふたりは再会を果たした。何故だろう、飛助は何も云えなかった。ただ抱き締めるしかなかった。風が止む。力を込める。その瞬間、修也からの口付けがあって、ふたりの時間がこの時、再び巡り合い繋がった。
修也は叫んだ。
「俺はお前が好きだ!今度こそお前を守るから、だからもう誰にも抱かれないで、俺の傍に居てくれ。今度こそ大切にするから、裏切らないから、だから、頼む!」
さらさらと、飛助の亜麻色の前髪が靡く。ダークネイビーのステンカラーの一張羅のコートの裾が、風ではためく。飛助はただ頷いた。それでよかった。
もう一度、チャンスが降って来た。少し遅いクリスマスプレゼントだったかも知れなかった。何度でも、やり直せたならそれでいい。まだ若い、失敗ならままあろう。それでも、互いを想い合う心がある内は、心が通い合う内は、きっとこのふたりには別れなどない、だってずっと待っていた、この暮らしはこの日のためのもの、ずっと夢に描いた物語そのものだった、だからきっと大丈夫。
ふたりはともに暮らし始めた。修也は嫌われ者だった、それは引き受けねばならない定め、構わなかった。いつでも変わらぬ愛情が傍にあると知った時から、修也は強くなれた。
「な、俺のこと待っててくれたの、何でなん?」
「だってあれは僕のせいじゃないかよ。大体嫌われ者なのは僕も一緒だ!他に行くとこなんてない」
「ありがとな」
季節はまた変わろうとしていた。いつだって若者は夢に挑むもの、このふたりもまた、ささやかな夢を勝ち取ったのだった。
ともに幸あれーー。
了