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チュンチュン ミーン ミーン
外から鳥の鳴き声とセミの合唱が聞こえてくる。今、何時だろうか。
カチ カチ
規則正しく刻まれる秒針の音に手を伸ばす。朝の薄暗がりの中よく目をこらして目覚まし時計の表示を見ると、時刻は5時28分を指していた。アラームは二分あとの5時半に設定されている。またか。ここ最近は早起きにも慣れて、爆音が鳴らされる数分前に目を覚ますようになっていた。
夏仕様の毛布とせんべい布団にはさまれた上半身を起こし、しばらくぼけーっとして意識が覚醒するのを待つ。昨晩もなにか変な夢を見たような気がする。内容を思い出そうとするも寝ぼけた頭にそれは困難なようで、どんどん夢での記憶は薄れていく。その代わり徐々に意識が鮮明になっていって、朝支度をしなければならないことを思い出す。まだ眠り足りない鉛のように重たい身体を引きずって、まずはジャージから着替えようとあくびをかみ殺しながらおもむろに立ち上がった。
リビングへ向かうと明かりが点いていないことからまだ僕以外の家族の誰も起きていないことがわかって、すこしモヤッとしてしまう自分がいる。よく早起きは三文の徳なんていわれるけど結局は親が自分の子の面倒をみたくないことをそれっぽい言い回しでごまかしているだけなんじゃないかって、なにやら勘繰ってしまう。
それはともあれ朝早くに起きることが健康に悪くはないことは確からしい上、学校の夏期講習の期間だけは自分でお弁当を作ることを約束してしまった手前あとに引けないこともあって、さして苦ではないと自分に言い聞かせて朝の時間を満喫しようとなんとか試み続ける日々を送っていた。正直クソ面倒、という感情は一切合切否定できないのだけども。
冷蔵庫に保存しておいた昨晩の残りの野菜炒めを電子レンジにかけ、温めている間に洗面所で顔を洗って身だしなみを整えようとする。鏡の前に立つと未だぼんやりと冴えない表情を浮かべた僕が映し出された。可も不可もない実にありきたりな黒猫の顔。強いていえばヒゲまで真っ黒なのは結構珍しいらしい。
根っから社交的でない僕は己が他人にどう見られているのか、それほど意識したことがなかったもののどうやらカッコいいというよりはかわいい印象があるとのことだ。健全な男子中学生としてこの評価は致命的な気がしなくもないのだけれど、無理に着飾って今更どうにかなるものではないことはわかっていた。それに学校には校則が存在する以上、めんどくさいことは御免なので無難な格好から抜け出せることもなくそのまま現在に至る。こんなんだからモテる好機のほうから逃げていくのかもしれない。彼女を作るなど夢のまた夢と、今や納得しきっていた。
顔を洗った僕はタオルを首にかけてピーピーと電子音を奏でる電子レンジに足を向ける。湿ったヒゲをちょいちょいっとこすりつつ中の皿に手を伸ばし、米を茶碗によそいダイニングテーブルの椅子に座って寂しい朝食をとることにした。リモコンでテレビの電源を点けて、朝方の情報番組を眺める。ビーバー獣人の気象予報士が今日の天気を伝えるコーナーに差しかかった。
『本日は全国的に高気圧に覆われ、晴れとなるところが多いでしょう。にわか雨の心配もなさそうです。南中を過ぎたあたりで気温は36℃になると予想されます。熱中症には警戒が必要です』
あと六日で八月を迎えるせいか、いよいよ夏本番という最高気温の値にいささかゲンナリとしてしまう。これだから夏は嫌いなんだ。こんな気候じゃ黒毛の獣人を殺しにかかっているんじゃないかって、あらぬことを考えずにはいられない。夏期講習は午前中には終わるので爆速で帰宅すれば暑さに身を焼かれることもないだろう。しかし三八のヤローが例のごとく遊びに誘ってくると推測できるので声をかけられる前に早いとこ退散しなければならない。とはいえ、幼なじみであるヤツは唯一無二の親友といっても過言ではないのもまた事実だ。せっかく誘ってくれている三八を断り続けるのもなんだか引け目を感じてしまって、常に後ろめたい思いに悩まされている自分がいた。
天気予報は快晴、けど心はどこか曇っていて見通しがきかないでいる。今日はどうやって一日を過ごそう? 洗剤を溶かした熱湯を張ったシンクに、空になった食器を浸けておいた。
弁当を作るというのは案外難しいことだ。第一に日ごろ料理をしていないこともあって、レシピが思いつかない。こればっかりは経験がものをいうのだけれど、第二にレシピ本の通りに作っても上手くいかないことが多々ある。さて、なにをこしらえようか……。ピンッ。はたとひらめいた。甘いものが食べたい、となればあれを試してみる他あるまい。いつかとある小説で見た、ある料理を思い起こした。一度はやってみたかったそれに今回は挑戦してみよう。早速材料が揃っているか確認しにかかる。ええっと、バナナを3房と牛乳とバターを一欠片とマシュマロと——。
できた。バナナ・スプレッドの完成だ。あとはこれをトースターにかけた食パンに塗りたくって挟んでカットしてラップして、保冷剤を詰めたバッグに入れて熱を冷ます。さっき朝ご飯を食べたばかりだというのに、かぐわしい匂いにつられてお腹が空いてきた。お昼が楽しみで仕方がない。
ゴキゲンな昼飯を作るのに使った鍋やらミキサーやらを浸けおきしていた食器と一緒に洗って、元に戻しておく。家に帰ってから文句を言われるのは勘弁だ、こういうところに抜かりがあってはならない。これで一通り学校へ行く準備は整った……はずだ。いざ出発する段になると何か忘れているんじゃないかって不安に駆られる。カバンの中身は大丈夫、特にゴミ出しする曜日でもない、あとは——あっ。
そうだ、アレを忘れていた。慌てて自室に引き返して“アレ”を回収する。枕元に転がっている、不思議な形状をしたヘッドフォン。ひとたび肩にかければ自分の身体の一部だったようになじんでくれる、製造元が結局わからずじまいの小さな相棒。数日間コイツで音楽を聴いてみた感想としては、率直に音質はそれほど良くないもののナチュラルに鳴ってくれるのがすごく安心するってことくらいだ。
無論校則でこういった物を学校に持ち込むのは禁止なのだけれど、置いて行くとやけに寂しくていつも携帯していた。せいぜい登校する時に肩にかける程度なら、教師の目なんかに届かなければバチなんて当たりやしないだろう。靴箱からローファーを取り出し、そそくさと家から脱出しようとする僕をある一つの声が引き止める。
「おはよう一朔、もう出るの?」
「あー……母さん、おはよう」
支度前であろうボサボサの毛並みとパジャマ姿で、サバトラ柄の母親が起きてきた。息子としてこういっては酷いかもだけれど、極力こういうときに顔を合わせたくない人物だ。
「台所からすごい甘いにおいがしたんだけど……アンタ何を作ったの?」
ほら。こういうことを平気で聞いてくる。弁当を作ることをあえて子供に任せているのだから、何かを作ったところで文句をいう資格はないだろうに。けど自分が気に食わなければ常識外れだと叱責して平然と作り直させる、母親はそういう猫獣人だ。
つまるところ、子供を自分の操り人形のようにしか見ていないのだと思われる。できれば朝から嫌な思いはしたくはなかった。
「冷蔵庫にバナナが余っていたから、ちょっと使わせてもらっただけだよ」
物言いが曖昧なだけで怒鳴りつけてくるので、一々ご機嫌取りをしなければならないというのがなんとも歯がゆい。こっちは急いでいるというのに、早くご自分の準備に戻ってくれないものか。
「そう。なら使った分のバナナはアンタのお小遣いから出して補充しなさい。中学生の分際でなに小洒落たもの作ったのか知らないけど、今度また変なことしでかしたら蹴りを入れるからね?」
「はいはい、わかりましたよ……」
相変わらずなんでこんなに脅迫じみているのか理解できないし理解したくもない。自分もいつかこんな大人になってしまうのかと考えると、とても胸が苦しくなった。
「あ、それと」
会話も終えたことだし長居もしたくないのでさっさと自転車にまたがろうとする僕にまだ聞かせ足りないことがあるのか、母親はまたなにか言おうとしてくる。今度はなんなんだ。
「学校が終わったらできる限り早く帰ってきなさい。最近はこの辺も物騒だから、心配なのよ」
けっ。なにが“心配”だっての。確かにあんな事件が起こったということもあって、普通の親なら子を心配するのはそりゃ当然だろう。でもあんたが本当にしたいのは神経症気質な父親と夜な夜な口喧嘩するにあたって、世間体を気にして表立って言い争えないから実の子をサンドバッグ代わりにしてストレス発散したいだけだってことくらいわかっているんだよ。ホントもう、ウンザリだ。なんでこんな家に生まれたんだろ。
「ああ、うん……。それじゃ行ってきます」
いくら心の中で毒づいたところで状況は変わりやしない。けどそれを両親の前で口にする度胸もない、ないない尽くしの僕が自転車を漕ぐ。一刻も早くここから逃げたくて、仕方なくって。
午前七時前の道路はまだ車通りも少なく、なにより気温がそこまで高くはないので比較的新鮮な風を受けて涼しいままに移動することができる。もっとも一度学校を通りすぎるのだけれど。このやたら早い登校には別の目的があった。駅前まで着いて、一旦自転車から降りる。そろそろか。
米才駅の出入り口の階段からカツカツ降りてくる、よく見知ったシルエット。それに思わず手を振らずにはいられなかった。三八だ。向こうもこちらに気づいたのか、手を振り返してきた。僕の尻尾はビンビンに伸び、ヤツの尻尾はブンブン揺れ動いている。ここ数日はこれが朝の日常風景と化していた。親しい[[rb:輩 > ともがら]]にはありがちな、言葉を介さない挨拶の符号の一致。
「よっ。待たせたな、イッサ」
「全然大丈夫だよ、ザッパ」
「んじゃ、行こうか!」
「うん。一緒に行こう!」
僕と三八は駅前を抜けて、河川敷沿いの遊歩道に入る。学校への最短経路ではない通学路。でも朝のゆったりとした時間を過ごすにはもってこいの、水辺から吹く風がなんとも心地よい夏の道。太陽もまだカンカン照りではなく、ちょっと眩しいくらいだ。生い茂った草花はあたり一面に日の匂いを漂わせ、鼻腔をくすぐってくる。
僕らは今、わた雲が浮かぶ青空の中を歩いていた。
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