AdAd
  
学校にて

  ヤツがふと、足を止める。振り向くと目を閉じてなにかの残り香を追う仕草をとっていた。

  「んー? さっきからすんげー甘いニオイすんだけど……一朔のほうから匂わないか?」

  「あー、それはきっと自分のお昼だと思う。今朝はバナナ・スプレッドを作ってきたんだ」

  「ば、バナナスプレッド……。朝っぱらからよくそんな手間かかりそうなもん作る気になったな」

  三八はすこし驚いたような呆れたみたいな表情で、興味深そうに僕の弁当袋を見つめてくる。

  「昔読んだ小説にレシピが載っていてね、思ったよりこしらえるのは簡単だったよ」

  「ほーん。なんかシャレてていいな、そういう即興料理って」

  僕が自転車を押して再び歩き始めた横を、ヤツはわざとらしい大股でついてくる。見れば口の端にヨダレがあふれ出そうになっていて、ときおりジュルリと音を立てんばかりに唾液を飲み込んでいるらしかった。さてはコイツ、朝ごはん食べていないな。

  「ザッパがよければなんだけど、学校に着いたらすこし分けてあげようか?」

  「えっ、本当か!!? 気持ちはめちゃめちゃ嬉しいんだが……イッサのほうこそいいのか?」

  「大丈夫だよ。食パンを六枚くらい使っちゃったからむしろ余るくらいなんだ」

  実際、三八におすそ分けする可能性を想定した上でちょっと多めに作っていた。拝借したバナナもシュガースポットが黒々として房が立派なものを選んでおいたので、味に関しては自信がある。

  「じゃあオレのほうも昼飯を譲らないとな。あ〜、腹へって今にも背中とくっついちまいそうだ」

  「そんな大げさな。別にいいよ、こうやってわざわざ一時間早い登校に付き合ってもらっちゃっているだけありがたいしさ」

  夏期講習の期間、登校時刻は平時の授業と変わらず八時半となっている。ではなぜ朝練なるものもないような、暇人の僕らがこんなに早く通学しているのかというとそれはおもに黒猫の僕が日中の強烈な日照りをすこしでも避けるために他ならなかった。一たび太陽が上に昇れば気温も湿度もおそろしく高くなってしまう。朝方は一時間でも早いほうが涼しい。加えて遅刻ギリギリに急いで一緒に駆け込むのもなんだか慌ただしくて嫌なので、午前七時前後に駅前でヤツと落ち合って学校に向かうことをあらかじめ提案したのだった。

  三八にとってこの時間差登校はほとんど利点がないように考えられたので当初は断られるのではないかと予想していたものの、そんな憶測とは裏腹にかなり乗り気でうなずいてくれたので今日も二人でいつもと違う通学路を歩いている。

  「んなこと気にするなって、確かにオレは早起きすんの苦手だけど満員電車を避けられるってのは案外悪かぁないもんだ。それにやっぱ、イッサとこうやって登校できんのは気分がいいしな」

  「ならよかった。けど自分がいなくても遅刻はしないようにね?」

  「わかってるっての、ただ朝から嬉しいだけさ」

  照れ隠しのつもりなのか、三八の尻尾がゆらゆら揺れているのがわかって若干ほほ笑んでしまう自分がいた。僕とヤツは幼なじみの親友同士だ。少なくとも幼稚園児の頃には出会い、同じ小学校に入ってからずっと一緒だった。まさか中学まで同じだとは思っていなかったけれど、こうやって今同じ時を過ごせて僕も幸せを感じている。叶うなら、いつまでもこんなふうに二人でいたい。

  「おーし。オンユァマーク、ゲットセッ……」

  ? はて。

  聞いたことのない言葉の羅列。ヤツは妙に発音よく何かを口にした。響きから察するに英語……なんだろうか。気が付けば後ろでクラウチングポーズらしきものを取って伏せている。

  「ゴー! 競争だー!!!」

  ピストルの空砲を思い起こさせる鋭い一匹の[[rb:鬨 > とき]]が発せられ、あたかも弾丸のごとく三八は一直線に走り出した。みるみるうちに距離が離れてヤツの姿は小さくなる。なにがなんだかわからないがとりあえず自転車にまたがってあとを追う。いくらオオカミとはいえど、立ち漕ぎのスピードには敵わない。あっという間に追いつき、僕らは並走した。

  「うわっ、ちょっ——いくらなんでも文明の利器は反則だろぉー!!」

  「そっちこそいきなり走り出してどうしたってのー」

  向かい風の速度で互いの声が間延びする。はたから見たらなんともシュールな光景に違いない。

  「イッサが水臭い顔してっから驚かせようと思ったんだよー!」

  「それは結構だけど足元に注意しないと……」

  「え——うおっ?! がぁああああああー!!!!」

  この手の流れのテンプレをなぞってアホはつまずき、弾みで宙に身を躍らせ、すってんころりん河川敷を派手にすっ転んでいった。ドリフト気味に急ブレーキをかけて、おそるおそる遊歩道の下を覗いてみる。三八はグルグル目に舌を出して、野原の上でものの見事にへばっていた。

  本来ならこんなとき、すぐにでも助けに行くべきだ。それはわかっている……わかりきっているけれど僕はといえばおかしくておかしくってそれどころではなくて、気づけば思うままに大きく腹をよじらせそこら中に吹き散らしていた。こんなに笑えたのは久しぶりだ。夏の朝に、一匹の黒猫の下手っぴな笑い声が響き渡る。それはまさしく、なにかが起こるであろう一日の始まりを告げるものだった。

  「かー、まだ頭がズキズキしてやがる」

  「保健室行かなくても平気?」

  「いいや。これしきの打撲とすり傷なんざなんともねぇ。それに、まだ開いていないだろうし」

  「まあ、それもそっか」

  七時半前の中学棟にはすでに冷房が稼働していて、昇降口からオアシスを思わせる冷風が僕たちを歓迎していた。僕はローファーを、ヤツはスニーカーを上履きにはき替え涼気の支配する地帯へ足を踏み入れる。さながら焦熱地獄から浄土へといきなり引っ張り上げられた罪人のようだ。

  「「あ゛ー、生き返る〜」」

  散々日差しを浴びて毛皮にこもった熱を追い出すために、二人そろってYシャツの第二ボタンをつかんでパタパタさせる動作がシンクロする。僕と三八が授業を受ける教室は二階にあるので階段に行けばすぐそこなのだけれど、もうすこしここで休んでから移動したい気分だった。それはヤツも同じ様子で、一階中心に設けられた集会場の段差に腰かけ一息つく。

  「いやぁ、やっぱたまんねぇな」

  「そうだね。銭湯でサウナと水風呂を行き来するおじさんたちの気持ちがわかる気がするよ」

  「俗にいうところの“ととのう”って感覚か。あれ、考えるとめっちゃ心臓に負担かけているよな。オッサンたちって大丈夫なんだろうか?」

  「どうだろ……寿命を削っているのは確かだと思う」

  登校と変わらない調子でヤツと至極どうでもいい話に花を咲かせる。真面目な中学生なら教室で静かに予習や自習でもしていればいいのだろうけど、あいにくそんな殊勝さなんて僕らに存在しているわけもない。悪童だなんだといわれても知ったこっちゃなかった。

  「へくしゅっ」

  「お、くしゃみか。冷えすぎた感じだな?」

  「うん。流石に気温差があってね」

  これは中学棟に限られた話ではない。学校の空調設備にはおそろしく温度管理がずさんな部分があって、夏は寒すぎるし冬は暖かいを通り越してかったるいくらいに暑くて乾燥するといった声が中高を問わず頻繁に上がるのが恒例だ。

  まず考えられている要因として単純に施設の老朽化が指摘されてはいるものの、迷路状になった校舎においてこれ以上の工事をすることは困難に思われた。

  「ちょっくら身体をあたために先、教室向かうね」

  「いや。ここはオレに任せろ」

  そういって三八は後ろから僕に抱きついてくる。もう慣れたもんだ。特に抵抗する気も起きないので、ヤツに身を任せその体温を背中の全体で感じ取る。

  「へへっ、イッサってあったけーのな」

  「それはこっちのセリフ。ザッパは熱いくらいだよ」

  その言葉に反応してか抱きしめる力がなおさら強まった。心臓の力強い鼓動が伝わってくる。

  「そりゃどーも。どうだ、すこしは寒くなくなったろ?」

  「まあ、暖をとるのにはちょうどいいかもね」

  あの一件以降、三八はしきりに僕とのハグを求めるようになった。公衆の面前でされるのはまだ恥じらいがあって遠慮してもらっているけど、人目のない強く冷房の利いた場所でせがまれたときにはできるだけヤツの要望に応えるようにしている。

  こうして二人きりだと、まったく嫌な感じがしない。心なしか安心している自分すらいるふうにすら思える。

  「そうだ。あれって今できるか?」

  やっこさんは唐突になにかを思いついた素振りで、僕の耳元に話しかけてきた。

  「あれ、っていわれてもわかんないんだけど」

  「イッサの尻尾使ってオレの尻尾をぐるぐる巻きにして欲しいんだ。やってみてくれないか?」

  (なんじゃその提案……)

  ネコの尻尾は細く長い。腰から生えて膝に触れるか否かぐらいが大体の平均なのだけれど、僕のそれは地面に着かないよう注意を払わなければいけないほどあり余る丈があった。その上、手先の不器用さをおぎなうくらいにコントロールが利いてドアノブを軽くひねることもたやすい第三の腕としての機能も持ち合わせている。僕にとって爪に次ぐ特異な部位といっても過言ではなかった。

  「相変わらずムチャ言うじゃんか……、わかった。特別にやるよ」

  「ありがとな、よろしく頼むぜ」

  正直誰かの尻尾に巻きつけるなんて大して難しいことではない。けど尻軽にどうこうすることへ若干の抵抗があるというのもまた事実だ。コンプレックスの筆頭である爪みたいに思い出したくもない記憶はそこまでないけれど、やはり他の獣人と違うということもあって普通なら見せたくない部分であることには変わりない。しかし相手は三八。まずは警戒心を解して、ヤツの尻尾を探る。

  「んっ」

  どうやら三八の尻尾の位置はここのようだ。あえて後ろを見ずに自分のものをアンテナのごとく感覚を張り巡らせ、背骨と地続きである付け根に触れたことを確かめてから一巻き一巻きじっくり[[rb:螺旋 > らせん]]状に変形させてやわらかい真綿を包み込むイメージでゆっくりと締めてゆく。

  「あっ……」

  三周ほど巻き上げたろうか。イヌ科に特有である形状をした真っ白な尾っぽにちょうど幅が均一の黒線が絡みついて、カギのかかった僕の先っちょが空を遊んでいる状態が完成した。ヤツの心拍が跳ね上がってやたらうるさく聞こえる。肩に頭を乗っけたまま身体を小刻みに震わせ、呼吸すらおぼつかない調子ですこし心配になった。

  「ひょっとしてだけど、これって痛い?」

  実際尻尾に触れられるのを嫌がる獣人は多く、中には[[rb:逆鱗 > げきりん]]なのではないかというほど激しく拒絶を示す場合もある。かくいう僕も不用意に尻尾を触られたときには不機嫌にならないほうが難しいもので、不注意にも誰かに踏みつけられでもすれば思わず殴りかかりたい衝動に駆られるケースがしょっちゅうだった。

  しかし今は尻尾を一方的に触られているのではなく、尻尾が尻尾に触れ合っているというあまりお目にかかれない奇妙な状況だ。それでいて向こうからお願いしてきたとなれば、わざわざ自分の弱点をいじくって欲しいだなんてひどく矛盾した要求をしてくるわけもない。

  一体コイツは僕になにをさせたいんだ?

  「はぁ、ハー……すげーイイ。しばらく、このままでいてくれないか?」

  「えぇ、苦しそうだけど大丈夫なの……?」

  「苦しいわけがあるか。オレは、これがいいんだ」

  横にある三八の顔に目を向ければ、ほてった頬に瞳をトロンとさせ、舌をダラリと垂らして興奮していることが見てとれた。ちょっと前にも目にした表情だ。なんというか……『気持ちいい』と感じていることは、僕にも伝わってくる。けど、なにがそこまでヤツを昂らせるのかまでは理解が及ばない。

  チリチリと、心の中でドス黒い感情の火の粉が散りはじめた。尻尾を巻きつけるだけでこのザマだ、もっとメチャクチャにしてやりたい。とっぴで[[rb:邪 > よこしま]]な思いつきは滞ることを知らず、渦を成して徐々に加速してゆく。手始めに、包むように巻いていた尻尾を前触れもなく強引に締めつける。

  「ヒャンッ?!!!」

  巻きつく力をナメてかかっていたのが運の尽きだ。サラサラの夏毛に覆われた美しい流線形の尾がぎちぎちと悲鳴を上げる。凄惨な有り様の自分の一部に同期してか、三八は腰をガクガクさせて聞いたこともないような甘い声を漏らす。

  ヤツはいつの間にか涙目になっていて、勘弁して欲しいのと同時に、これからなにが行われようとしているか期待して待っているかのような面持ちをしていた。

  焦らすのも悪くないと思いつつ、まだ見たことのない表情が気になり僕は次なる行動へ移す。

  しゅりしゅりしゅり

  「っ……、……!!!」

  締める力はそのままに、黒線を前後させて三八の尻尾をもてあそぶ。螺旋が動くたびに根元から搾りとるようにして強い圧をかける。僕の尻尾は絡んだ対象の芯にあるゴツゴツした骨を捉えた。毛皮同士がこすれる音に交ざってヤツの声にならない喘ぎが、ピクピクと悶絶する身体に合わせてときおり弾む。

  実にいい気分だ。あんなに飄々とした三八が、今じゃあられもない姿を臆面もなく晒している。どうしてだろう。こんな目に遭わされてコイツはきっと嫌なはずに違いないのに、僕の背後では心の底から喜びを噛み締めているようにしか思えなかった。なぜだか、突然胸が苦しくなる。

  「い、イッサぁ……」

  気が付けば尻尾はつながったまま、真横に三八の頭が来ていた。僕の首元に右手を回して不安定な体勢で片足だけ立てている。ヤツは赤面を通り越してとろけきった顔で、ゆるんだ口元には唾液にまみれた長い舌が垂れていた。自分の腰に熱いものが当たっているけれど、正体がなんなのかは考えたくもない。なんのついでか鼻ちょうちんまで付いている。

  「なあ。ちゅー、しようぜ」

  「ちょっ……一旦落ち着いてよ。ここじゃマズいって」

  流石にここでキスをすることがよくないのは、冷静に考えればわかるはずだ。でもこのふるまいから察するに、三八は平常時の冴えた脳ミソの回転をしていないらしい。明らかに変なスイッチが入ってしまったというか我を忘れているようで、どう対処すべきかとても悩む。

  「んなこといってもイッサが悪いんだぜぇ〜? オレ、お前のこと好きだからさ」

  「ああもう……我慢してよ、まるで酔っぱらいじゃないか」

  尻尾をほどこうとしても歪曲させられて、今度はヤツがそれを許さない。こりゃ参りましたと、ほとほと仕方がないので肩を担いでとりあえず場所を移そうとする。

  その時だった。

  「……」

  やけに鋭い視線がこちらへと送られていることに気づいた。こんなもの言わぬ感じは初めてだ。まさか先生か? いやでもそれなら真っ先に声をかけてくるはずだ。相手はただおそろしく尖った眼を向けて、こちらをじーっと観察しているように思えた。誰だろうか。なんだか怖くなり、目線の主をあらゆる方向に探す。

  それらしき人物は案外はやく見つかった。集会場を挟んで僕らとほぼ対称となる場所に置かれたピアノの陰に、隠れるようにして立っている。

  夏だというのに学ランをはおり、ここのものとは思われない学帽をかぶり、腹にはサラシらしき包帯が巻かれ、とんでもない目つきでこちらを凝視している、オスのレッサーパンダ獣人。

  ……バンカラ???

  「イッサぁ、好きだ〜!」

  メシャアッ

  「ぐはっ」

  僕は裏拳で三八を黙らせた。死ぬほど痛いだろうが今は耐えてもらいたい。そのレッサーパンダ獣人に僕らへ敵意がないことはすぐに理解した。追ってすら来ないだろう。だがあの目に見られているうちは、生きた心地がしないことが肌でわかった。否、“わからされた”という表現が正しい。

  「……」

  階段に向かってヤツを引きずる僕が視野から漏れないようにか、レッサーパンダ獣人はゆっくり身体を回転させていた。とうとう奴の視界から離れる瞬間もそいつは表情一つ崩さずまばたき一つすらしなかった。あれは……何者なんだ? 自分を見失わないよう必死に頭を整理しながら、僕はコンクリ造りの階段に一歩、足を掛けた。

AdAd