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八月朔日

  夏休みが与えられた平凡な男子中学生がやることといえば、まず夜更かしである。

  学校という社会の縮図から解き放たれ登校の義務もなく面倒な行事もなく、ただただ膨大に錯覚される時間に横たわり秒針が刻まれる音に漫然と耳をすませて脈絡のない思考をもてあそぶことがどれほど[[rb:贅沢 > ぜいたく]]な経験なのかをこの歳の僕は知らない。否、知りたくもない。なぜなら昼夜を問わずあくせく働いている大人たちの背中に、失われて久しい過去への後悔の念が重くのしかかっているのが垣間見えるからだ。『あの時こうしていれば』 『若い間になにか行動しないと』、といった文言はとうに聞き飽きた。実は皆わかっているはずだ。淡く[[rb:儚 > はかな]]い幸福を得るため莫大な苦痛や苦悩をこうむり、されど幸せになる道が他にあったかもしれないと後ろを振り返ってしまう己の愚かさを。みずぼらしくせせこましい、しかし結局は世界で一番[[rb:愛 > いと]]おしい自我を受け入れることのできた魂の持ち主はこの世に数えられるほどいるのだろうか。そして僕はそれを達成できるのだろうか?

  ミーンミーン ジジジ

  ——というのが、昨夜なんとなく手に取った新書の内容の受け売りだ。明らかに中学生向けではなかったものの読んだこと自体はあまり後悔していない。圧倒的にインドアな僕にとって本と音楽はここではないあらゆる場所へ導いてくれるある種の交通手段といっても過言ではなかった。問題の本質は、この手の書籍を寝る前に読んでしまうと大抵の場合ロクに眠れなくなってしまうことにある。世間では太陽系の不思議や無人島の謎、[[rb:巷 > ちまた]]の都市伝説や獣人発生以前の文明などがいわゆる面白くて眠れなくなる話題として鉄板ネタらしい。けど僕からしたらそういった類のお話は毒にも薬にもならない雑学だと個人的に思っている。逆に作家の人生観や有名な思考実験みたいに、答えが各々に委ねられた哲学のニオイがする文章は大好物なのと同時に睡眠を妨害する悩ましいテーマでもあった。実際、布団に入ったのが深夜4時過ぎなのに一睡もできず朝を迎えている。外は既にだいぶ明るくなって庭先で鳴く[[rb:蟬 > せみ]]の声がひどくやかましい。まったく、これじゃ絵に描いたような昼夜逆転そのものではないか。いっそ寝ることを諦めて、ほぼ手つかずのまま積み上げられた宿題にあえて取りかかったほうが有意義かもしれない。そうすれば恐ろしく退屈な中身に嫌気が差して隠れていた眠気を直々に引きずり出すことも可能であろう。

  ♬♬♬♬♬♬♬♬〜

  それは、僕がせんべい布団を抜け出したのと同じタイミングで起こった。

  充電器に挿しっぱなしにしていた枕元のスマホが前触れなく振動を始め、耳元へ軽快な着信音を運ぶ。ミュージカルの先駆けになったとされる黒猫オペラの冒頭にして難所からの抜粋。[[rb:三幕九場 > さんまくきゅうば]]の物語は、海に面した“いわし横丁”に朝日が昇る場面を映してスタートする。

  一向に鳴り止む気配を見せない[[rb:木琴 > シロフォン]]の十六分音符におそるおそる画面を覗き込む。アナログ時計は8時3分を差しており、着信相手は三八の名前を表示していた。なんだろう。実質的に徹夜した回らない頭で正常な判断なんてあったものじゃないけれど、無視して寝るに越したことはない気がする。でも、もしこれで三八になにか悪いことがあったのだとしたら……。ええいままよとスマホを取った。

  「もしもし」

  『イッサ、今すぐ[[rb:米才 > よねざえ]]駅に集合な!』

  電話口から聞き慣れた幼なじみの声が発せられて安心する間もなく、早くも電話に出たことへの後悔は瞬間最大風速を記録する。あーあ。できれば今のは聞かなかったことにしたい。

  「オカケニナッタ電話番号ハ、現在使ワレテオリマセン。モウ一度番号ヲオ確カメノ上——」

  『おいおい。ずっと着信取るのを放置しておいてそりゃなくないか?』

  「……すみません」

  どうやらヤツにはこちらが出渋っていたことは筒抜けだったみたいだ。お約束の展開にウンザリしながらも、どういった用件なのかとりあえず尋ねる。

  「で、八月早々なにするつもりなの?」

  『理由なんて別で追々話せばいいだろ。とにかく、8時50分までに合流してくれ』

  「はぁ」

  もはやため息しか出てこない。去年の夏もこんなだった。訳も教えることもなく急に呼び出したかと思えば色んなところへ行き当たりばったりで、日が暮れればそれはもうヘトヘトになって家路を急いだ記憶が脳裏に浮かぶ。唯一マシになった点としてはあの一件以来、廃墟探検に駆り出されなくなったことが挙げられるけれど根本的な部分はなんら改善されてはいなかったのだった。

  (そういえばオオカミ獣人の変死体についてなにかしら進展はあったのだろうか)

  ところで“合流”という言葉が妙に引っかかる。三八が一人待つ駅に僕が向かうだけならば、普段通り“落ち合う”という表現を使う。とするともしや向こうは一人ではないのか? 共通の知り合いとして思い当たる人物はそう多くいない。直近でいえば[[rb:余市 > よいち]]、[[rb:陸斗 > りくと]]の二人だ。[[rb:那仂 > なりき]]は別学年なのと出会った経緯が経緯なだけあってたぶん対象外だ。

  『んじゃ、なるべく急いで来いよ』

  「ちょっと、そっちには誰かいるの?」

  『お。中々勘がいいじゃねぇか。それも含めてまたあとでなー』

  やっこさんの景気が良い声が突然プツッと音を立てて途絶える。

  ツー ツー

  「えっ——ああ、もう」

  通話は一方的に切られ、電子音だけが[[rb:虚 > むな]]しく響いた。ただでさえ寝不足なのにもかかわらず[[rb:無茶 > むちゃ]]を要求されてイライラがピークに達している。本来であればふて寝してやりたい気分なのだけれど三八の他に誰かいるとなれば話は別だ。余市と一緒だったらおそらく[[rb:喧嘩 > けんか]]になるだろうし、陸斗は十中八九都合のいいように扱われてしまうだろう。那仂に至ってはなにが起こるかまだ未知数だ。幼なじみである自分の使命として、ヤツのペースに巻き込まれる犠牲者をこれ以上出すことは可能な限り避けておきたかった。[[rb:支度 > したく]]をしなくては。

  よろけを[[rb:堪 > こら]]えつつやおら立ち上がる。まず洗面所に向かうため自室を出ると廊下に置かれた姿見が僕の影をとらえた。すこしやつれているふうに見える、黒ジャージを着た黒猫の少年。……このヘロヘロな状態で間際に差し迫るハードな一日を乗り越えられればいいのだけど。若さを言い訳に無理などするものではない、なんて聞きかじりの知識がひそかに耳打ちしてきたような気がした。

  「ぜぇ……、ぜぇ……」

  信号機の前で呼吸を整える。それを試みるたび頭がぐらぐらとうずいて意識が飛びそうになる。息をしなければいいのではと思い至って数秒の間我慢する。自分の内側にあるものが破裂しそうになって空気を吐き出し激しく吸い込む。以下、信号が青になるまでずっと続く。

  薄々予期していたことではあるものの睡眠不足に伴うグロッキーな感覚、長ったらしい急勾配の坂道、照りつける日差しとむせ返りそうな外気、約束の時刻に間に合うのか怪しい不安、これらが組み合わさるといとも簡単に追い詰められてしまう。なんで家から駅まで5キロもあるんだ。

  現在、身支度を済ませた僕は米才市の中央へ自転車を[[rb:漕 > こ]]いでいた。とてもじゃないけど途中休憩を挟まねばやっていられないので、自動販売機の前に路駐して飲み物を買い時間を確認する。8時26分……登り坂は越えたし、これなら十分に余裕を持って到着できる範囲だ。荷物をあらかじめ急用に備えてまとめていたことが功を奏した。

  再び自転車に乗って役所通りを過ぎ[[rb:東 > ひがし]][[rb:米才 > よねざえ]]方面を通過して、やっとのことで米才駅北口にたどり着く。ぐっしょりかいた大汗が目に[[rb:沁 > し]]みてかすむ視界に、なにか白い獣人が動いている。——三八だ。家を出たときはそのツラを見たらぶん殴ってやろうかと計画していたけど、体力も気力も底をついた今となっては怒りを抱くことすら[[rb:億劫 > おっくう]]だった。せめてもの抵抗でこちらへ尻尾と手を振っている姿を無視して、いつものごとく駐輪場代わりのスーパーに停める。

  「よっ」

  自転車を施錠し終えるなり、先ほど電話で話したムカつく野郎の声が背後からコッソリ投げかけられる。三八はぶかぶかの白Tシャツに夏デニムとサンダルと、実に季節らしい装いをしていた。ただし、“[[rb:梵 > ぼん]]”と“[[rb:我 > が]]”なる漢字が[[rb:表 > おもて]]面と裏面にデカデカと印刷されていることを除いては。

  「……おはよう」

  いや梵ってなんだ、梵って。そんな私服どういうセンスしていたら着るんだ。イントネーションには表れないよう心がけていたはずがいつもより鋭めであろう目線が災いして、あからさまに本音がだだ漏れになってしまっているのがわかる。

  「間に合って安心したぜ、ってイッサ……なんか今日はやたらやさぐれていないか?」

  「別に」

  半ばグレているのはそっちじゃないかというツッコミを飲み込みつつここはヤツの案内に従う。北口をくぐって駅構内を通り、南口の階段を降りる。てっきり内部に隣接するボウリング場に寄るのではないかと安易な予想を立てていた。しかし、どうやら違うらしい。確か南口はロータリーが敷かれてあって、各鉄道会社のバスが巡行していたはずだ。……まさかどれかに乗るのか?

  「二人とも、だいぶお待たせした。バスはまだ来ていないよな?」

  ある行き先のバス停に僕や三八と同じくらい小さな背丈をした人影二体が待ち構えている。両方が逆光から抜け出したとき、思わずあっと息を呑んでしまう。

  「ああ問題ない。一朔、よくぞ三八の無茶に応えてくれた」

  「一朔さん、おはようございます。無事に来て下さってなによりです!」

  相変わらずバンカラ姿の余市となぜかアロハシャツを着た陸斗、見知った二人が僕らを出迎えてくれたのだった。

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